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宋史
志第十九 五行四
従革は、金の性なり。金その性を失えば、則ち変怪となる。旧説は僭咎・恒旸・詩妖・民訛・毛虫の孽、白眚・白祥の類を以て皆これ金に属すとす。今これに従う。
建隆二年七月、晋州神山県の北谷に鉄有り、水に随いて流出す。方二丈三尺、その重さ七千斤。
太平興国四年九月、夾江県の民王誼、黒石二を得る。皆丹文有り、その一は「君王万歳」と云い、その二は「趙二十一帝」と云う。その石を緘して来献す。
至道二年二月、桂陽監の熔銀自ら湧き出でて山峰の状を成す。
咸平四年十二月、亳州太清宮の鐘自ら鳴る。
乾興元年四月甲戌、修奉山陵総管言う:皇堂隧道に銅鍋を穿ち得たり。両耳有り。又寝宮三門の下に銅盂一・鉄瓮一・鉄甲葉三を穿ち得たり。
天聖元年三月庚辰、涪陵県相軋寺の夜に光有り、阿育王塔の旧址より出づ。これを発するに、金銅像三百二十七を得たり。五年七月壬寅、遼山県の旧河凌地に塔を摧き、古銭一百四十六千五百四十三文を獲たり。
明道元年五月壬午、漢州の江岸に古鐘一を獲たり。
慶暦四年五月乙亥、金渓県に生金山を得たり。重さ三百二十四両。
皇祐四年、乾寧軍の漁人、小鐘二を河浜に得たり。五年二月己亥、乾寧軍また古鐘一を進む。
至和二年四月甲午、瀏陽県に古鐘一を得たり。
熙寧元年より元豊元年に至るまで、横州にて合わせて古銅鼓一十七を獲たり。
元豊三年八月、岳州永慶寺に銅鐘一・銅磬二を獲たり。六年、南渓県に土を穿ちて銅銭五万四千有奇を得たり。七年三月、筠州に古銅鐘一を獲たり。十一月、賓州に銅鼓一を獲たり。八年、昌元県にて塩井を通じて銅鍋九・銅盆一・銅盤一を得たり。
崇寧五年十月、荊南にて古銅鼎を獲たり。
政和二年、玄圭始めて出づ。晋州より一石を上る、緑色、方三尺余、中に文有りて「堯天正」と曰ふ、其の字は掌の如く大にして端楷手画に類す、「堯」の字は右に居り、「天正」の字は左に行を綴る。都堂之を験視し、石を三分に砻きて字画愈明らかなり、又「堯」の字の下に隠約に一「瑞」の字を出だし、位置始めて均し、蓋し「天正堯瑞」と曰ふなり。或いは謂ふ、晋陽は堯の都なり、方に玄圭出づるに、乃ち此の瑞有りと。四年、府畿・汝・蔡の間、連山の大小石皆瑪瑙に変じ、尚方之を取て宝帯・器玩と為すこと甚だ富めり。五年正月、湖南提挙常平劉欽言ふ:芦荻沖に生金を産出し、重さ九斤八両、状は霊芝祥雲に類す;又碎金四百七両有奇を淘得す。十一月、越州の民生金を拾ふ。湟州丁羊谷の金坑僅かに千余眼にて鉱を得、金を成すこと凡そ四等、計一百三十四両有奇。
重和元年十二月、孝感県楚の令尹子文廟に周鼎六を獲たり。
宣和四年の後、御府の蔵する所、往々復た石に変じ、而して色は白骨に類す、此れ周の宝圭の占と略同じ。五年、滎陽県賈谷山麒麟谷に石を採りて明堂を修むるに、一石を得て文有りて「明」と曰ふ、百官表して賀す。五年四月、又甗鼎三を獲たり。
崇寧四年三月、九鼎を鋳る、金を用ふること甚だ厚く、九州の水土を取て鼎の中に内む。既に九成宮に奉安し、車駕臨幸し、遍く礼す、北方の宝鼎に至り、忽ち漏水外に溢る。劉炳謬りて曰く:「正北は燕山に在り、今宝鼎は但だ水土を雄州の境に取る、宜しく用ふべからず。」其の後竟に北方に因りて乱を致す。
建炎元年、南京留守朱勝非夜に城を防ぎ、南門外に火光地を燭するを見て、之を掘るに、銅印を得、文有りて「朱勝私印」と曰ふ。火は金を鑠く、金の畏るる所なり。後に相を拝し、明受の変有り、卒に坐して眨さる。三年、吉州城を修むるに、役夫髑髏を得て水中に棄つ、俄に一鐘浮ぶ、銘五十六字有り、大略云く:「唐興元年、吾子没し、廬陵西壘に瘞す、後に当に火徳五九の際、世衰え道敗れ、浙・梁相継いで喪乱し、章貢康昌の日、吾亦復た是の邦に出で、東平鳩工し、復た吾子をして河伯と水官に命を聴かしむ。」郡守其の辞を録せしむ、録畢りて鐘自ら碎く。
紹興十一年三月庚申、長安の兵刃皆火光を生ず。二十六年、郫県地に銅馬を出だす、高さ三尺、制作精好、風雨の夜嘶く。紹興中、耕者金瓮を秦檜の別業に得る、重さ二十四鈞。
乾道二年三月丙午の夜、福清県石竹山の大石自ら移る、声雷の如し。石方九丈、過ぐる所蹊を成す、纔かに四尺、而して山の木石故の如し。
慶元二年十二月、呉県金鵞郷の銅銭百万自ら飛ぶ。
建隆二年、京師夏旱、冬又旱す。三年、京師春夏旱す。河北大旱、覇州の苗皆焦げ仆す。又河南・河中府・孟・沢・濮・鄆・斉・済・滑・延・隰・宿等州並びに春夏雨降らず。四年、京師夏秋旱す。又懐州旱す。
乾徳元年冬、京師旱す。二年正月、京師旱す。夏、雨降らず。是の歳、河南府・陝・虢・麟・博・霊州旱す、河中府旱甚だし。四年春、京師雨降らず。江陵府・華州・漣水軍旱す。五年正月、京師旱す;秋、復た旱す。
開宝二年夏より七月に至るまで、京師雨降らず。三年春夏、京師旱す。邠州夏旱す。五年春、京師旱す;冬、又旱す。六年冬、京師旱す。七年、京師春夏旱す;冬又旱す。河南府・晋・解州夏旱す。滑州秋旱す。八年春、京師旱す。是の歳、関中飢え、旱甚だし。
太平興国二年正月、京師旱す。三年春夏、京師旱す。四年冬、京師旱す。五年夏、京師旱す;秋又旱す。六年春夏、京師旱す。七年春、京師旱す。孟・虢・絳・密・瀛・衛・曹・淄州旱す。九年夏、京師旱す。秋、江南大旱す。
雍熙二年冬、京師旱す。三年冬、京師旱す。四年冬、京師旱す。
端拱二年五月、京師旱す、秋七月より十一月に至り、旱す、上憂ひ色に形はる、蔬食して祷る。是の歳、河南・萊・登・深・冀、旱甚だしく、民多く飢死す、詔して倉粟を発して之に貸す。
淳化元年正月より四月に至るまで、雨なく、帝は蔬食して雨を祈る。河南・鳳翔・大名・京兆府・許・滄・単・汝・乾・鄭・同等州旱魃す。
二年春、京師大いに旱つ。
三年春、京師大いに旱つ。冬、また大いに旱つ。是の歳、河南府・京東西河北河東陝西及び亳建淮陽等三十六州軍旱魃す。
四年夏、京師雨なく、河南府・許汝亳滑商州旱つ。
五年六月、京師旱つ。
至道元年、京師春旱す。
二年春夏、京師旱つ。
咸平元年春夏、京畿旱つ。また江浙・淮南・荆湖四十六軍州旱つ。
二年春、京師旱甚だし。また広南西路・江・浙・荆湖及び曹・単・嵐州・淮陽軍旱つ。
三年春、京師旱つ。江南頻年に旱つ。
四年、京畿正月より四月に至るまで雨なく。
景德元年、京師夏旱し、人多く暍死す。
三年夏、京師旱つ。
大中祥符二年春夏、京師旱つ。河南府及び陝西路・潭・邢州旱つ。
三年夏、京師旱つ。江南諸路・宿州・潤州旱つ。
元祐元年春、諸路旱魃す。正月、帝及び太皇太后の車駕、日を分かちて寺観に詣でて雨を祷る。是の冬、復た旱魃す。二年春、旱魃す。三年秋、諸路旱魃し、京西・陝西尤も甚だし。四年春、京師及び東北旱魃し、春燕を罷む。八年秋、旱魃す。
紹聖元年春、旱魃し、四京畿県の囚を疏決す。三年、江東大旱し、溪河涸竭す。四年夏、両浙旱魃す。
元符元年、東南旱魃す。二年春、京畿旱魃す。
建中靖国元年、衢州・信州等の州旱魃す。
大観二年、淮南・江東・江西諸路大旱し、六月より雨なく、十月に至る。
政和元年、淮南旱魃す。三年、江東旱魃す。四年旱魃し、詔して德州の流民を振恤す。
宣和元年二月、詔して汝州・潁州・陳州・蔡州の飢民流移するを、常平官を勒停す。秋、淮南旱魃す。四年、東平府旱魃す。五年夏、秦鳳路旱魃す。是の歳、燕山府路旱魃す。
建炎二年夏、旱魃す。
紹興二年、常州大旱す。帝旱魃の由を問う、中書舎人胡交修、守臣周祀の残酷による所なりと奏す、尋いで属吏に以て贓に坐し及び不辜を殺すを以て、嶺南に竄す。三年四月、旱魃し、七月に至り、帝蔬食し露祷し、乃ち雨ふる。五年五月、浙東・浙西旱魃すること五十余日。六月、江東・湖南旱魃す。秋、四川の郡国旱魃甚だし。六年、夔州・潼川府・成都の郡県及び湖南衡州皆旱魃す。七年春、旱魃すること七十余日、時に帝将に建業に如かんとし、随う所に分かちて従臣を遣わし、名山大川に事有り。六月、又た旱魃し、江南尤も甚だし。八年冬、雨降らず。九年六月、旱魃すること六十余日、山川に事有り。十一年七月、旱魃す。戊申、岳・瀆に事有り。乙卯、圜丘・方沢・宗廟に雨を祷る。十二年三月、旱魃すること六十余日。秋、京西・淮東旱魃す。十二月、陝西旱魃す。十八年、浙東・浙西旱魃し、紹興府大旱す。十九年、常州・鎮江府旱魃す。二十四年、浙東・浙西旱魃す。二十九年二月、旱魃すること七十余日。秋、江・浙の郡国旱魃す。三十年春、階州・成州・鳳州・西和州旱魃す。秋、江・浙の郡国旱魃し、浙東尤も甚だし。
隆興元年、江・浙の郡国旱魃し、京西大旱す。二年、台州春旱す。興化軍・漳州・福州大旱し、首種(五穀)入らず、春より八月に至る。
乾道三年春、四川の郡県旱魃し、秋七月に至り、綿州・剣州・漢州・石泉軍尤も甚だし。四年夏六月、旱魃し、帝将に蓋を撤き親しく太乙宮に祷らんとして雨ふる。時に襄陽府・隆興府・建寧府も亦た旱魃す。八月、詔して皇祐の祀龍法を郡県に頒つ。五年夏秋、淮東旱魃し、盱眙軍・淮陰軍を甚だしとす。六年夏、浙東・福建路旱魃し、温州・台州・福州・漳州・建寧府を甚だしとす。七年春、江西東路・湖南北路・淮南路・浙東路・婺州秀州皆旱魃す;夏秋、江州・洪州・筠州・潭州・饒州・南康軍・興国軍・臨江軍尤も甚だし、首種入らず。冬、雨降らず。九年、婺州・処州・温州・台州・吉州・贛州・臨江軍・南安軍諸軍・江陵府皆久しく旱魃し、麦苗無し。
淳熙元年、浙東・湖南の郡国旱魃し、台州・処州・郴州・桂陽軍を甚だしとす。蜀の関外四州旱魃す。二年秋、江・淮・浙皆旱魃し、紹興府・鎮江府・寧国府・建康府・常州・和州・滁州・真州・揚州・盱眙軍・広徳軍を甚だしとす。三年夏、常徳府・峡州・復州・随州・郢州・金州・洋州・江陵府・徳安府・興元府・荊門軍・漢陽軍皆旱魃す。四年春、襄陽府旱魃し、首種入らず。五年、常徳府・綿州・鎮江府及び淮南・江東・江西の郡国旱魃し、山川群望に事有り。六年、衡州・永州・楚州・高郵軍旱魃す。七年、湖南春旱し、諸道四月より雨降らず、行都七月より雨降らず、皆九月に至る。紹興府・隆興府・建康府・江陵府・台州・婺州・常州・潤州・江州・筠州・撫州・吉州・饒州・信州・徽州・池州・舒州・蕲州・黄州・和州・浔州・衡州・永州・興国軍・臨江軍・南康軍・無為軍皆大旱し、江州・筠州・徽州・婺州・広徳軍・無錫県尤も甚だし、天地・宗廟・社稷・山川群望に雨を祷る。八年正月甲戌、積旱して始めて雨ふる。七月、雨降らず、十一月に至る:臨安府・鎮江府・建康府・江陵府・徳安府・越州・婺州・衢州・厳州・湖州・常州・饒州・信州・徽州・楚州・鄂州・復州・昌州・江陰軍・南康軍・広徳軍・興国軍・漢陽軍・信陽軍・荊門軍・長寧軍及び京西・淮の郡皆旱魃す。九年夏五月、雨降らず、秋七月に至り、江陵府・徳安府・襄陽府・潤州・婺州・温州・処州・洪州・吉州・撫州・筠州・袁州・潭州・鄂州・復州・恭州・合州・昌州・普州・資州・渠州・利州・閬州・忠州・涪州・万州・臨江軍・建昌軍・漢陽軍・荊門軍・信陽軍・南平軍・広安軍・梁山軍・江山県・定海県・象山県・上虞県・嵊県皆旱魃す。十年六月旱魃し、七月に至り、江淮・建康府・和州・興国軍・恭州・涪州・瀘州・合州・金州・南平軍旱魃す。十一年四月、雨降らず、八月に至り、興元府・吉州・贛州・福州・泉州・汀州・漳州・潮州・梅州・循州・邕州・賓州・象州・金州・洋州・西和州・建昌軍皆旱魃し、興元府・吉州尤も甚だし。冬、雨降らず、明年二月に至る。十四年五月、旱魃す。六月戊寅、山川群望に事有り。甲申、帝親しく太乙宮に祷る。七月己酉、大雩を圜丘に挙げ、北郊に望み、岳・瀆・海凡そ山川の神に事有り。時に臨安府・鎮江府・紹興府・隆興府・厳州・常州・湖州・秀州・衢州・婺州・処州・明州・台州・饒州・信州・江州・吉州・撫州・筠州・袁州・臨江軍・興国軍・建昌軍皆旱魃し、越州・婺州・台州・処州・江州・興国軍尤も甚だし、九月に至り、乃ち雨ふる。十五年、舒州旱魃す。
紹熙元年、重慶府・蕲州・池州旱魃す。二年五月、真州・揚州・通州・泰州・楚州・滁州・和州・普州・隆州・涪州・渝州・遂州・高郵軍・盱眙軍・富順監皆旱魃し、簡州・資州・栄州大旱す。三年夏、郢州・揚州・和州大旱す;秋、簡州・資州・普州・栄州・叙州・隆州・富順監も亦た大旱す。四年、綿州大旱し、麦を亡う。簡州・資州・普州・渠州・合州・広安軍旱魃す。江・浙六月より雨降らず、八月に至り、鎮江府・江陵府・婺州・台州・信州・江西・淮東旱魃す。五年春、浙東・浙西去冬より雨降らず、夏秋に至り、鎮江府・常州・秀州・江陰軍大旱し、廬州・和州・濠州・楚州を甚だしとす、江西七郡も亦た旱魃す。
慶元二年五月、雨降らず。三年、潼・利・夔路の十五郡旱魃、四月より九月に至るまで、金・蓬・普州大旱す。四月壬子、天地・宗廟・社稷に祈る。六年四月、旱魃す。五月辛未、郊丘・宗社に祈る。鎮江府・常州大旱し、水竭き、淮郡は春より雨なく、首種(早稲)入らず、及び京・襄皆旱魃す。
嘉泰元年五月、旱魃す。丙辰、郊丘・宗社に祈る。戊辰、圜丘に大雩(雨乞いの大祭)を行う。浙西郡県及び蜀の十五郡皆大旱す。二年春、旱魃し、夏秋に至る。七月庚午、圜丘に大雩し、宗社に祈る。浙西・湖南・江東旱魃し、鎮江・建康府、常・秀・潭・永州甚だし。四年五月、雨降らず、七月に至る。浙東・西、江西の郡国旱魃す。
開禧元年夏、浙東・西雨降らず百余日、衢・婺・厳・越・鼎・沣・忠・涪州大旱す。二年、南康軍、江西、湖南北の郡県旱魃す。三年二月、雨降らず。五月己丑、郊丘・宗社に祈る。
嘉定元年夏、旱魃す。閏月辛卯、郊丘・宗社に祈る。二年夏四月、旱魃し、首種入らず。庚申、郊丘・宗社に祈る。六月乙酉、また祈り、七月に至って乃ち雨降る。浙西大旱し、常・潤甚だし。淮東西・江東・湖北皆旱魃す。四年、資・普・昌・合州旱魃す。六年五月、雨降らず、七月に至る。江陵・徳安・漢陽軍旱魃す。八年春、旱魃し、首種入らず。四月乙未、太乙宮に祈る。庚子、輔臣に命じて分かちて郊丘・宗社に祈らしむ。五月庚申、園丘に大雩し、岳・渎・海に事(祭祀)あり、八月に至って乃ち雨降る。江・浙・淮・閩皆旱魃し、建康・寧国府、衢・婺・温・台・明・徽・池・真・太平州、広徳・興国・南康・盱眙・安豊軍甚だしく、行都(臨安)の百泉皆竭き、淮甸もまた然り。十年七月、雨降らず、帝日午に曝立し、宮中に祈る。十一年秋、雨降らず、冬に至る。淮郡及び鎮江・建寧府、常州、江陰、広徳軍旱魃す。十四年、浙・閩・広・江西旱魃し、明・台・衢・婺・温・福・贛・吉州、建昌軍甚だし。十五年五月、雨降らず、岳州旱魃す。
嘉熙元年夏、建康府旱魃す。三年、旱魃す。四年、江・浙・福建旱魃す。
淳祐七年、旱魃す。十一年、閩・広及び饒州旱魃す。
咸淳六年、江南大旱す。十年、廬州旱魃し、長楽・福清の二県大旱す。
建隆年中、京師の士庶及び楽工・少年競いて歌を唱う、曰く『五来子』。建隆・開宝より、凡そ荊・湖・川・広・江南を平らげ、五国皆来朝す。時に西川の孟昶賦斂度無く、射利の家は配率尤も甚だしく、既に緡銭乏しく、唯だ質物に在るを仰ぐ。乃ち競いて簡札を書いて門に掲げて曰く「今主を召して収贖せしむ」と。又毎歳除日、翰林に命じて詞を為さしめ桃符に題し、正旦に寝門の左右に置く。末年、学士幸寅遜詞を撰す。昶其の工ならざるを以て、自ら筆を命じて題して云く「新年余慶を納れ、嘉節長春と号す」と。昶其の年の正月に王師に降り、即ち呂余慶を命じて成都府を知らしむ。而して「長春」は乃ち太祖の誕聖節の名なり。「召」は「趙」と、「贖」は「蜀」と同音なり。
開宝初、広南の劉鋹民家に貯水桶を置かしむ、号して「防火大桶」とす。又鋹の末年、童謡有りて曰く「羊頭二四、白天雨至る」と。後に王師辛未年の二月四日を以て鋹を擒う。識者は以て国家は火徳を以て王たり、房宿は宋の分野なり。羊は未の神なり。雨は王師時雨の如きの義なりとす。「防」は「房」と、「桶」は「宋」と同音なり。
周の広順初、江南の伏亀山崩れ、石函を得、長二尺、広八寸、中に鉄銘有り、云く「維れ天監十四年秋八月、宝公を是に葬る」と。銘に引有りて曰く「宝公嘗て偈を為し、大事を版に書き、帛を以てこれを冪う。之を読まんと欲する者は、必ず数銭を施して乃ち得、読み終われば即ちこれを冪う。是の時、名士陸倕・王筠・姚察以下皆其の旨を知らず。或いは之を問うに、云く五百年後に在りと。卒するに至り、乃ち其の銘を帰して同じく葬る」と。銘に曰く「江南の事を問う莫れ、江南自ら馮有り。鶏に乗りて宝位に登り、犬に跨って金陵を出づ。子建南位を司り、安仁夜灯を秉る。東隣家道闕け、虎に随いて明興に遇う」と。其の字皆小篆、体勢完具し、徐鉉・徐鍇・韓熙載皆解すること能わず。及び煜朝に帰すに及び、好事者云く、煜丁酉年に位を襲うは、即ち鶏に乗るなり。開宝八年甲戌、江南国滅ぶは、是れ犬に跨るなり。王師其の城を囲みて曹彬其の南に営すは、是れ子建南位を司るなり。潘美其の北に営すは、是れ安仁夜灯を秉るなり。其の後太平興国三年、淮海王銭俶国を挙げて入覲すは、即ち東隣なり。家道闕くは、意銭無きなり。虎に随いて遇うは、戊寅年なり。
皇祐五年正月戊午、狄青侬智高を帰仁鋪に破る。初め、謡言有り「農家種き、籴家収む」と。是に至り、智高果たして青の為す所に破られぬ。
建炎三年四月、鼎州桃源洞大水、巨石流れに随いて下り、文有りて曰く「無為の大道、天人情を知る。無為の窈冥、神人形を見る。心言意語、鬼人声を聞く。禁を犯し満盈すれば、地人魂を収む」と。金石同類、類金は変怪を為す者なり。
紹興二年、李綱長沙に帥し、道建寧を過ぐ。僧宗本邑治の壁に題して曰く「東焼け西焼け、日月七七」と。後数日、江西の盗李敦仁境に入り、其の邑を焚く、七月七日なり。
淳熙中、淮西競いて汪秀才の曲を歌う、曰く「驢に騎りて江を渡る、江を過ぐるを得ず」と。又𭸗舞を為して以てこれに和す。後舒城の狂生汪格軌を謀らず、州兵其の家に入り、之を縛す。其の子拒みて殺し、悪少数千を聚めて乱を為し、声言して江を渡らんとす。事平ぎ、格も亦た誅せらる。七年正月、余杭門外の墙壁に詩有り、其の言頗る怪に渉る。後廉(探り)て主名を得、杖して之を遣わす。城北厢を主管する劉君暨は以て異言を失察せしにより、坐して秩を削らる。其の詩は録せず。十四年、都城市井歌いて曰く「汝も亦た来たらず我が家に、我も亦た来たらず汝が家に」と。紹熙二三年に至り、其の事始めて両宮に応ず。
嘉定三年、都城市井歌詞を作り、末句皆曰く「東君去りて後は花主無し」と。朝廷これを悪みて禁ず。未だ幾ばくもせず、太子詢薨ず。
慶元四年三月甲辰、郵筩に詩を置きて御前に達する者あり、詔して宰臣にその詩を究めしむ、録せず。
嘉泰四年、越の人盛んに『鉄弾子白塔湖曲』を歌う。俄かに金十一を盗む者あり自ら「鉄弾子」と号し、謬りにその白塔湖中に闘死せしを伝え、後に諸曁県にて獲らる。
漢の乾祐中、荊南の高従誨山亭の下に池を穿つ、石匣を得、長さ尺余、扃鐍甚だ固し。従誨これを神とし、左右を屏ひ、香を焚きて匣を啓く、中に石を得、文ありて云く「此を去りて龍に遇へば即ち歇む」と。建隆中に及び、従誨の孫継沖朝に入り、鎮を徐州に改む。「龍」「隆」音相近し。
太平興国中、京師の児童木を彫りて合子と為し、中に竅あり、腋下に蔵すれば声あり、「腋底鬧」と号す。後に盧多遜荒に投ぜらる、人これを讖と為す、その肘腋に在りて国典を司るなり。
天禧二年五月、西京に訛言あり、物烏帽の如く、夜人家に飛び入り、又犬狼の状に変ず。人民多く恐駭し、毎夕重く閉ざして深く処り、兵器を把りて駆逐する者に至る。六月乙巳、京師に伝はり、人を食ふ能ふと云ふ。里巷族を聚めて環坐し、叫噪暁に達す、軍営中特に甚だし、而して実に状無し、其の妖人の為す所なるを意ふ。詔を下し厳しく捕へしむ、数輩を得、之を訊く、皆非なり。
政和七年、詔して神保観を修せしむ、俗に所謂「二郎神」なる者。京師の人素よりこれを畏る、春より夏に及び、城を傾けて男女土を負ひて献じ、榜を通衢に掲げ、云く某人土を献ずと;又形を飾りて鬼使と作り、門を巡りて土の納むるを催す者あり。或いは不祥と為し、之を禁絶す。後に金人の斡離不京師を囲み、其の国これを「二郎君」と謂ふと云ふ。
紹興元年十二月、越州連火す、民訛言相驚き、月幾望に当り再び火すべしと。枢密院軍法を以て之を禁じ、乃ち定まる。
嘉泰二年六月、故循王張俊の家火す。後旬日、市井訛言相驚き、絳衣の婦人火殃の下墜する有りと。都民徙避し、昼夜寧からず、之を禁じ、後亦火せず。
慶元六年十月、瓊州に訛言あり、妖星流堕して民郭七の家に至り、声雷の如しと。通判曾豊及び瓊山県令移文して驚擾す、後皆坐して絀せらる。
宋初、陳摶に紙銭使ひ行はれずとの説あり、時に天下惟だ銅銭を用ひ、此の旨を諭する莫し。其の後交子・会子を用ひ、其の后会価愈低く、故に「使ひて十八九に到れば、紙銭天に飛ぶ」の謡有り。似道十九界の名を悪み、乃ち関子と名づく、然れども終に十九界たり、而して関子の価益低く、是れ紙銭使ひ行はれざるなり。
宋は周の顕徳七年庚申を以て天下を得。図讖に「唐を過ぎて漢に及ばず、一汴・二杭・三閩・四広」と謂ひ、又「寒は五更頭に在り」の謡有り、故に宮漏六更あり。按ずるに漢四百二十余年、唐二百八十九年。開慶元年、宋の祚唐を過ぐること十一年、五庚申の数を満つ;徳祐二年正月降附に至り、三百一十七年を得、而して六庚申を見る、宮漏の数の如し。
建隆三年、象黄陂県に至り林中に匿れ、民の苗稼を食ひ、又安・復・襄・唐州に至り民田を践み、使を遣はして之を捕へしむ。明年十二月、南陽県に於て之を獲、其の歯革を献ず。乾徳二年五月、象澧陽・安郷等県に至り、又象江を渉り華容県に入り、直ちに閛闠門を過ぐ;又象澧州澧陽県城北に至る。
乾徳四年八月、普州にて兎禾を食ふ。五年、象自ら京師に至る。
雍熙四年、犀黔南より万州に入る、民之を捕殺し、其の皮角を獲る。
開宝八年四月、平陸県に鸷獣人を傷つく、使を遣はして之を捕へしむ、生けながら十頭を献ず。十月、江陵府白昼虎市に入り、二人を傷つく。
太平興国三年、果州・閬州・蓬州・集州の諸州において虎が害をなす。殿直の張延鈞を派遣してこれを捕らえしめ、百頭の獣を獲たり。まもなく七盤県にて虎が人を傷つけ、延鈞また虎七頭を殺して献ず。七年、虎が蕭山県の民趙馴の家に入り、八口を害す。
淳化元年十月、桂州にて虎が人を傷つく。詔して使者を遣わしてこれを捕らえしむ。
至道元年六月、梁泉県にて虎が人を傷つく。二年九月、蘇州にて虎が夜に福山砦に入り、卒四人を食らう。
咸平二年十二月、黄州長析村にて二頭の虎が夜に闘い、一頭死に、その半ばを食らい尽くす。占いに曰く「守臣に災いあり」と。明年、知州の王禹偁卒す。咸平六年十月乙酉、狐が皇城の東北角楼より出で、軍器庫を経て夾道に至り、これを獲たり。
大中祥符九年三月、杭州浙江の側にて、昼間に虎が税場に入る。巡検の俞仁祐が戈を揮ってこれを殺す。
天聖九年五月、宿州にて白兔を獲たり。六月、廬州にて白兔を獲たり。
明道二年六月、唐州にて白兔を獲たり。
皇祐三年十二月、泰州にて白兔を獲たり。
嘉祐三年六月丁卯、交阯より異獣二頭を貢ぐ。初め、本国は騏驎を貢ぐと称す。状は牛身の如く、肉甲を被り、鼻端に角あり、生の芻果を食らう。必ず先ず杖を以てその角を撃ち、然る後に食らう。既に至りて、枢密使の田況その麟に非ざるを弁じ、詔してただ異獣と称するに止む。
熙寧元年九月、撫州にて白兔を獲たり。十二月、嵐州にて白鹿を獲たり。四年九月、廬州にて白兔を獲たり。
政和五年十二月、安化軍にて白兔を獲たり。六月、泰州軍にて白兔を獲たり。七年十月、達州にて白兔を獲たり。
宣和元年十月、淄州にて黒兔を獲たり。宣和七年秋、狐が艮岳より直ちに禁中に入り、御榻に拠りて坐す。詔して狐王廟を毀つ。
紹興十一年、海州は金に属し、その民を悉く安江に空しうす。後二十年、二頭の虎が城に入り、人がこれを射殺す。虎もまた人を搏つ。明年、魏勝州を挙げて来帰す。またその民を空しうす。漢の龔遂曰く「野獣宮室に入れば、宮室将に空しからん」と。虎豕は皆毛孽なり。十三年、南康県に雷雨あり、群狸岩穴の中に震死し、岩石皆な碎かる。二十二年、劉彭老の家の猫数子を産み、皆な三足なり。
乾道七年、潮州にて野象数百頭が禾稼を食らう。農夫が田間に穽を設く。象は食を得ず、その群れを率いて行道の車馬を囲み、穀を斂めてこれを食らい、乃ち去る。
淳熙二年、江州馬当山にて群狐人を掠む。十年、滁州にて熊と虎と樵民の舎に同入し、夜、自ら相搏ちて死す。
紹熙元年(1190年)三月、臨安府の民家の猫が子を産み、八足二尾であった。四年、鄂州武昌県に虎が人を害した。五年八月、揚州が白兎を献上した。侍御史章穎が守臣の錢之望を弾劾し、妖異を瑞祥と偽ったと糾弾した。占いでは「国に憂いあり」という。白は喪の兆しである。この年、光宗が崩御した。
慶元三年(1197年)、德興県に群狐が民家に入った。
咸淳九年(1273年)十一月辛卯の黎明、揚州市に虎が現れ、毛色は微かに黒く、都撥發官曹安國が良家の子数十人を率いてこれを射た。制置使李庭芝が占って言うには「千日の内に、大将一人を殺す」と。そこでその肉を城外で細かく切り、厭勝のまじないを行った。
紹興六年(1136年)四月、中京に大雪が降り、雷が鳴り、犬数十頭が争って土河に赴き死に、救うことができたのはわずか二三頭であった。
淳熙元年(1174年)六月、饒州で大雷が市の旅舎の犬を震わせた。
慶元二年(1196年)、撫州に人のような犬がおり、郡守の座席に座った。間もなく、郡守林廷彦が官舎で死去した。
德祐元年(1275年)五月壬申、揚州は軍民に犬を飼うことを禁じ、城中で数万匹の犬を殺し、皮を納めて官に収めた。
乾德三年(965年)七月己卯の夜、西方に蒼白の気が起こり、長さ五十尺、天船・五車を貫き、井宿に亘った。占いでは「兵動を主る」という。六年十月己未の明け方、西北に蒼白の気三道が起こり、長さ二十尺、東に向かって散じた。占いでは「遊兵の象」という。
太平興国四年(979年)四月己未の夜、西北に白気ありて北斗を圧した。
雍熙四年(987年)正月癸酉、白気が角・亢より起こり、太微垣を経て、軒轅の大星を歴り、月の傍らに至って散じた。
至道二年(996年)二月丙子の夜、西方に蒼白の気あり、長短八道、彗星が帚を掃うが如く、天漢を経て、参錯して交蛇の如し。占いでは「見ゆる方、兵勝を主る」という。
咸平四年(1001年)三月丙申、白気二条天に亘る。五年正月、白気虹の如く日を貫き、久しくして散ず。七月戊戌、白気陣の如く東井を貫く。六年四月己巳、白気東西に天に亘る。丁丑、白気日を貫く。五月辛亥、白気昴より出で壁に至りて没す。六月丙子、白気河鼓左右の旗より出で、数道に分かれて没す。七月癸卯、白気彗星の如く、西南方より起こる。占いでは「兵喪あり」という。
景德元年(1004年)五月、白気軒轅を貫き、蒼白の気十余条布の如く天に亘る。二年二月丁亥、白気五道北斗を貫く。占いは大風・幸臣の憂いとする。十月丙子、白気閣道の西より出で、孛孛として光あり。占いでは「宮中に憂いあり」という。三年三月、白気月を貫く。四年三月己未、白気東西に天に亘る。庚申、白気南方より出で、長さ二丈許、久しくして散ぜず。四月庚午、白気北斗を貫き、長さ十丈。占いは大風とする。庚寅、白気布の如く月を襲い、三丈許。
大中祥符元年(1008年)正月丁丑、白気二条、東西に天に亘る。五年二月壬寅、白気長さ五丈、東井より出で、北斗魁及び軒轅を貫く。占いは兵・雷雨とする。
明道元年(1032年)十二月壬戌、西北に蒼白の気天に亘る。
慶暦元年八月庚辰の夜、東方に白気あり、長さ十尺余、星宿の度中に在り、十日に至りて、長さ丈余、天を衝き、九十余日にして没す。
二年八月甲申、白気北斗を貫く。三年正月戊戌、中天に白気あり長さ二十尺、西南に向かって行き日を貫く、占に曰く「辺兵憂う」と。四月癸卯、白気二つ西北隅に生じ、上りて中天に至り、首尾濁に至り、東南に行き、良久にして散ず、占に曰く「其の下に兵寇有り」と。八月壬子の夜、白気北斗の魁を貫く。九月辛巳の夜、中天に白気あり長さ二丈余、巻舌・南河を貫き、東北に行き、少頃にして散ず、占に曰く「風雨の候」と。
皇祐四年十一月辛酉の夜、白気北方近くの濁より起こり、長さ五丈余、北斗を歴て、久しくして散ず、占に曰く「多大風」と。
嘉祐元年三月、彭城県白鶴郷に地、麺を生ず、占に曰く「地麺を生ずれば、民将に飢えん」と。五月、鍾離県に地、麺を生ず。
治平二年四月丙午の夜、西北方に白気あり、漸く東南に行き、首尾濁に至り、角宿を貫き、西北に移り、久しくして方に散ず。占に曰く「兵戦疾疫の事有り」と。
熙寧九年四月庚寅の夜、白気長さ一丈、東北方天市垣より起こる。
元祐三年七月戊辰の夜、西北に白気あり天を経る、兵を主り、西・北の二鄙を防ぐべし。
元符二年九月戊辰の夜、白気十道有り、各長さ五尺、兵及び大臣の黜を主る。
崇寧二年五月戊子の夜、蒼白気東南方より起こり、長さ三丈、尾・箕・斗を貫く、蛮夷の入貢、旧臣の来帰を主る。
宣和三年九月壬午の夜、蒼白気長さ三丈、月を貫く、其の下に乱する者有るを主る。
靖康元年十二月丙辰、白気太微垣に出づ。二年二月壬午の夜、白気虹の如く、南より北に亘り、須臾にして、西南に移り、東北に至り、天明けて没す。三月戊子、白気斗を貫く。
建炎二年、杜充北京留守と為る、天、紙銭を営中に雨ふらしむ、厚さ寸を盈つ。明日、金人と城下に戦い、敗績す。紙は白祥なり。三年三月、白気日を貫く。四年五月壬子の夜、北方に白気十余道有り練の如し。二十六年七月辛酉の夜、天、水銀を雨ふらしむ。
紹興元年、潭州、白玉を州城の蓮花池中に得、孔彦舟以て献ず、詔してこれを却く。前史以て玉変は白祥に近しと為す、後に彦舟劇盗と為る。二月己巳の夜、東南に白気有り。十一年三月庚申、金人長安に居し、油・酒皆白色に変ず。三十年十一月甲午の夜、西南に白気危より出で、昴に入る。十二月戊申、白気尾より出で、軫に入り、天市垣を貫く。三十一年十二月辛丑、白気帯の如く、東西天に亘り、斗より出で、牛を歴る。
隆興元年十二月壬午の夜、白気西南方に見え、危より出で、昴に入る。二年正月甲寅の夜、西南に白気有り、天に亘りて帯の如し。
乾道元年正月庚午、白気西北方に見え、奎より出で、参に入る。三月戊辰、白気帯の如く、参より角に及び、東西天に亘る。四月丁酉の夜、白気西北方に見え、天市垣に入る。辛丑の夜、白気北斗に入る。乙巳の夜、白気紫微垣に入る。十月己丑の夜、蒼白気東南方に見え、翼に入る。十一月丙寅、白気帯の如く、女より出で、昴に入り、東西天に亘る。三年十二月庚午の夜、白気帯の如く、東西天に亘り、女より出で、昴に入る。
淳熙十年正月戊子の夜、西南に白気あり、天漢の如くにして明るく、南北の広さ六丈ばかり、東西天を亘り、壁宿より畢宿に至る。
紹熙五年六月壬寅の夜、白気天を亘る、紫微より亢宿・角宿に至る。己酉、日入の後、白気天を亘る、たちまちにして散ず。
慶元四年八月庚辰、白気天を亘る。五年二月癸酉の夜、東北方に白気あり帯の如く、角宿より参宿に至る。八月癸亥、東北方に白気あり帯の如く、天を亘る。
嘉泰四年十一月辛未、昼に白気あり数道に分かれ、天を亘る。
嘉熙四年二月丙辰、白気天を亘る。
淳祐二年二月甲寅、白気天を亘る。
景定三年七月甲申、白気匹布の如く、天を亘る。
咸淳九年、襄陽城中に白気西より出づ。
紹興二年、宣州に鉄仏象あり、坐高丈余、自ら動き前後に迭り、人に就かんと佝むが如きこと数日、既にして郡に火あり。火気盛んなれば、金その性を失いて変怪をなすなり。七月、天より銭を雨らす、或いは石甃の中より流出し、輪郭あり、肉好分明ならず、之を穿つに、碎けて沙土の若し。二月、温州戒福寺の銅仏象頂珠自ら動き、光彩激射し、日に経て少しも停まらず、数日にして火起こり、寺焚く。
淳熙九年春、徳興県の民家の鏡自ら飛び舞い、日光と相射す。
慶元二年正月、泰寧県の耕夫鏡を得たり、厚さ三寸、径尺二寸、水底を照らし見え、日と輝を争い、熱病の者之に対すれば、心骨寒を生ず、後に雷震して碎く。