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宋史
志第十八 五行三
曲直は木の性なり。木その性を失えば、則ち妖祥と為る。旧説に狂咎・木冰・恒雨・服妖・亀孽・鶏禍・青眚・青祥の類を以て、皆木に属すとす。今これに従う。
太平興国六年正月、瑞安県の民張度、木五片を解くに、皆「天下太平」の字有り。
至道六年、昭応宮を修す。木有りて之を断つに、文点漆の如く、上下を貫徹し、体梵書の若し。十一月、襄州の民劉士の家に木生ず。文有りて龍・魚・鳳・鶴の状の如し。七年五月、撫州天慶観を修す。木を解くに文有りて墨画の雲気・峰巒・人物・衣冠の状の如し。七月、彰明県崇仙観の柱に文有りて道士の形及び北斗七星の象と為る。
大中祥符八年、晋州慶唐観の古柏の中に別に槐を生じ、長さ丈余。
天聖元年二月、河陽の柳二本連理す。六月、河陽の甗・棗各連理す。五年正月、綿谷県の松柏同本異幹す。九年十月、公井県の冬青木連理す。
明道元年八月、黄州の橘木及び柿木連枝す。
康定元年十月、始興県の柑両本連理す。
慶暦三年十二月、澧州瑞木を献ず。文有りて曰く「太平之道」。六年九月甲辰、登州に巨木海より浮び出づる者三千余有り。
治平四年六月、汀州桐木板二を進む。文有りて曰く「天下太平」。
熙寧元年三月、簡州木連理す。是の歳、英州雷震に因り、一山の梓樹尽く枯れて龍脳と為り、価之が為に賤し。京師に至り、一両纔に銭一千四百に値す。二年、建州の民楊緯言う、「元年三月、大雷雨有り。居る所の西に黄龍見ゆ。下りて一木を獲ること龍の如くして、形未だ具はらず。七月、大雷雨有り。復た龍其の下に飛ぶ。及び霽るるや、木龍の尾・翼・足皆具はり、旧木に帰り合して、宛然一体を成す」と。図象を以て進む。十年八月乙巳、惠州の柚木に文有りて曰く「王帝万年、天下太平」。
元豊元年五月、剣州木連理す。三年六月己未、饒州長山木子を雨ふること数畝。状山芋子に類し、味香にして辛し。土人桂子と為し、又曰く「菩提子」と。明道中嘗に之有り。是の歳大稔す。十二月、泌陽県の甘棠木連理す。六年五月、衛真県洞霄宮の枯槐枝葉を生ず。
元祐元年八月己丑、杭州の民俞挙慶七世同居す。家園の木連理す。五年四月、德州木連理す。
元符元年八月、施州李木連理す。二年九月、眉山県の桤木二株、異根同幹し、木枝相附す。
崇寧四年正月、襄城県の李・梨の木が連理を成す。
大観元年三月、湟州の欄木に葉が生ず。八月、瑞州・永興軍に並び木連理あり。二年十二月、岢嵐軍の園池に瑞木生ず。
政和三年七月、玉華殿の万年枝木連理す。南雄州の楓木連理す。十月、武義県の木根に「万宋年歳」の四字あり。四年、建州に木連理あり。六月、沅陵県の江漲し、楠木二十七本を流出す。明堂の梁柱と為すべし。蔡京等表を奉りて賀す。九月丙申、彭城県の柏開華す。十二月辛丑、元氏県の民王寘の屋柱の槐木、再び枝葉を生じ、高さ四十余尺。是の歳、邵州の海棠木連理す。沢州・台州の槐木連理す。荊門軍の紫薇木連理す。六年、坊・兗・洪・明・夔・徐・新・全・隰・太平州に並び木連理あり。梅州の枯木枝を生ず。
宣和二年四月、永州の民劉思薪を析つに、「天下太平」の字あり。
紹興十四年四月、虔州の民傾いたる屋を毀ち柱を析つに、木裏に文ありて曰く「天下太平」。時に守臣薛弼これを上る。方に大乱に在り、木妖に近し。二十年八月、福州沖虚観の皂莢木、翠葉再び実を結ぶ。二十一年、建徳県定林寺の桑李実を生じ、栗桃実を生ず。占に曰く「木異実を生ずれば、国主殃あり」。二十五年十月、贛州太平木を献ず。時に秦檜朝を擅にし、太平を飾るを喜び、郡国多く草木の妖を上りて以て瑞と為す。紹興の間、漢陽
軍、石の罅に榴枝を挿し、秀茂して陰を成し、歳に花実ある者有り。初め、郡獄に誣服の孝婦姑を殺す有り。婦自ら明らかにする能わず、行刑者に属して髻上の華を石隙に挿し、曰く「生ずれば則ち以て吾が冤を験すべし」。行刑者其の言の如くす。後果たして生ず。
淳熙十六年三月、揚州の桑瓜を生じ、桜桃茄を生ず。此れ草木互いに妖を為すなり。七月、晋陵県の民薪を析つに、中に木字有りて「紹熙五年」と曰う。是の如き者二つ。是の時、紹熙未だ改元せず。其の後果たして五年に止まる。此れ木妖に近し。
紹熙四年、富陽県の栗来禽の実を生ず。五年、行都に木を雨う。『唐志』貞元の陳留木を雨うと占を同じくす。木下に生じて上より隕るは、将に上下易位の象有らんとす。
嘉定六年五月己巳、厳州淳安・遂安・桐廬の三県大木自ら抜く。占に曰く「木自ら抜くれば、国将に乱れん」。
景定四年五月、成都の太祖廟側の大木仆る。忽ち起ち立ち、三芽を生ず。
徳祐二年正月戊辰、宝応県の民薪を析つに、中に「天太下趙」の四字あり。これを献ず。制置使李庭芝嘗て銭五千を以てす。
咸平六年十一月庚戌、木氷を雨う。
大中祥符五年正月戊寅、京師木氷を雨う。
天禧五年正月戊寅、京師木氷を雨う。
慶暦三年十二月丁巳、雪木氷す。占に曰く「兵の象なり」。
嘉祐元年正月、雨木氷(雨氷)あり。
治平二年十月乙巳、木氷が降る。
熙寧三年十月、八年正月、九年正月、京師に雨木冰す。
元祐八年二月、京師は大いに寒く、霰・雪が降り、樹木に氷雨が付着した。
宣和五年十月乙酉の日、木氷が降る。
靖康元年十月乙卯、木氷が降る。二年正月丁酉、木氷が降る。
紹熙五年十一月辛亥、木氷が降る。
宣和六年、御楼にて灯を観る。時に開封尹は次を設けて西観の下にて弾圧す。帝は六宮を従へ其上に在り、以て天府の断決する者を観る。簾幕深密にして、下より由て知る無し。衆中忽ち有人躍出づ、黒色の布衣、寺僧童行の状の若く、手を以て簾を画き、指斥の語を出す。観下に執へられ、帝甚だ怒り、中使をして旨を伝へて之を治めしむ。箠掠乱下し、又た炮烙を加ふ。其の誰何たるかを詢ふるに、略一語もせず、亦た痛楚の状無し。又た其の足の筋を断ち、俄に刀脔を施す。血肉狼籍たり。帝大いに不悦す。
悦は、一夕の歓を罷めて、竟に其の何人なるかを得ず、獄に付して尽くす。七年八月、都城の東門外に菜を鬻ぐ夫、宣徳門下に至り、忽ち迷罔の若く、荷担を釈きて門に向かい戟手し、悖罵の語を出だす。且つ曰く、「太祖皇帝、神宗皇帝使
我が来たる道は、なお速やかに改むべきなり。」邏卒之を捕へ、開封の獄に下す。一夕にして方に省るれば、則ち向の為す所を知らず、乃ち獄中に之を尽くす。
建炎二年十一月、高宗は揚州に在り、郊祀の後数日、狂人衣冠を具へ、香炉を執り、絳囊を携へ、行宮の門外に拝す。自ら言ふ、「天我を遣はして官家の児と為す」と。囊の紙に書き、右臂に刻む、皆是れ語なり。之を鞫く。
姓名を得ず、高宗其の狂を以てし、釈して問わず。明年二月、金人維揚を犯す。三月、明受の変有り。
紹興元年四月庚辰の日、閬州に狂僧あり、衰绖を着て郡の譙門に哭きて曰く、「今日仏下世す」と。且に言ひ且に哭く、実に隆祐太后上仙の日なりと云ふ。閬は行都より万里を距つ、月を踰えて遺詔至る。
淳熙十四年の正月、紹興府に狂人あり、恩平郡王の邸に突入し、堂に昇りて王の座を践みて曰く、「我は太上皇の孫なり、来りて赴く」と。郡にて鞫訊すれども、終に語らず、亦た狂咎なり。是の冬、高宗崩ず。明年八月、王薨ず。
紹熙二年十二月庚辰の昧爽、成都府にて、ある者が衰服を着て帳門に入り、閫帥京鏜の姓名を大呼し、これ亦た狂咎なり。
建隆元年十月、蔡州に大霖雨あり、道路に舟を行く。
開宝二年八月、帝潞州に駐蹕す、雨累日積もりて未だ止まず。九月、京師大雨霖す。五年、京師雨す、連旬止まず。河南・河北諸州皆大霖雨す。九年秋、大霖雨す。
太平興国二年、道州春夏霖雨止まず、平地二丈余。五年五月、京師連旬雨止まず。七年六月、斉州臨邑尉王坦等六人を逮捕す。獄に繋がり未だ具せざるに、一夕、大風雨獄戸を壊し、王坦等
六人並びに圧死す。
雍熙二年八月、京师大霖雨す。
淳化元年六月、隴城県大雨、官私の廬舍を壊し殆ど尽き、溺死者百三十七人。三年九月、京師霖雨す。四年七月、京師大雨、十昼夜止まず、朱雀・崇明門外の積水尤も甚だしく、兵営、
廬舍多く壊る。是の秋、陳・潁・宋・亳・許・蔡・徐・濮・澶・博諸州霖雨す、秋稼多く敗る。五年秋、開封府・宋・亳・陳・潁・泗・寿・鄧・蔡・潤諸州雨水稼を害す。
咸平元年五月、昭州大霖雨す、民田を害し、溺死者百五十七人。
景德三年八月、青州大雨、鼓角楼門を壊し、圧死者四人。
大中祥符二年八月、無為軍大風雨、木を折り、城門・兵営・民舎を壊し、圧溺千余人。十月、兗州霖雨稼を害す。三年四月、升州霖雨す。五月辛丑、京師大雨、平地数尺、兵営、
民舎を壊し、圧する者多く、近畿積潦す。五年九月、建安軍大霖雨す、農事を害す。
天禧四年七月、京師連雨弥月す。甲子の夜、大雨、流潦泛溢し、民舎・兵営壊れ大半、圧死者多し。是より頻りに雨し、冬に及びて方に止む。
乾興元年二月、蘇・湖・秀州雨す、民田を壊す。
天聖四年六月戊寅、莫州大雨、城壁を壊す。七年、春より夏に渉り、雨止まず。
明道二年六月癸丑、京師雨す、兵営・府庫を壊す。
景祐三年七月庚子、大雨が降り雷電が鳴った。
慶暦六年七月丁亥、河東で大雨が降り、忻州・代州等の州城の城壁を破壊した。
皇祐二年八月、深州で大雨が降り、民家の屋舎を破壊した。四年八月癸未、京城で大風雨があり、民家が倒壊し、圧死者が出るに至った。
嘉祐二年八月、河北沿辺で長雨が続き、河辺の民は多くが流亡移住した。五月丁未、昼夜を通して大雨が降った。六月乙亥、雨により太社・太稷の壇が破損した。三年八月、長雨が農作物を害した。六年七月、河北・京西・淮南・両浙・江南東西で淫雨が災害となった。閏八月、京師で長雨が続いた。この年は雨が頻繁で、冬になってようやく止んだ。
治平元年、京師は夏から秋にかけて、長雨が止まず、真宗及び穆・献・懿三后の陵台を破壊した。
熙寧元年八月、冀州で大雨が降り、官私の屋舎・城壁を破壊した。七年六月、陝州で大雨が降り、陝・平陸の二県を漂流溺死させた。
元豊四年七月、泰州で海風が大雨を伴い、州城を漂流浸水させ、公私の家屋数千棟を破壊した。
元祐二年七月丁卯、雨のため集英殿の宴を罷めた。
元符二年九月、長雨のため秋宴を罷めた。三年七月、長雨が続き、哲宗の大升輿が道中で泥中に陥った。
建中靖国元年二月、長雨が続き、この時欽聖憲粛皇后・欽慈皇后の二陵がちょうど工事中であったため、詔を下して京西に晴天を祈らせた。
崇寧元年七月、長雨が続き、京城の屋舎を破壊し、民で圧死・溺死する者が多かった。三年六月、長雨が続いた。四年五月、京師で長雨が続いた。また七月から九月にかけて、各地で霖雨が農作物を傷つけ、十月になってようやく晴れた。
靖康元年四月、京師で大雨が降り、天気は清寒であった。また五月甲申から六月にかけて、暴雨が麦を傷つけ、夏に秋の時令が行われるようであった。
建炎二年春、淫雨が降った。三年二月癸亥、高宗が初めて杭州に至った時、長雨が続き、占いでは「陰気が盛んで、下に陰謀あり」と言った。この時苗傅・劉正彦が乱を起こした。五月、霖雨が降り、夏なのに寒かった。
紹興元年、行都で雨が降り、城壁三百八十丈を破壊した。この年、婺州で雨が降り、城を破壊した。三年、雨が正月朔日から二月まで降り続いた。七月、四川で霖雨が降り、翌年正月まで続いた。四年六月、淫雨が農作物を害し、蘇・湖の二州が特に甚だしかった。九月、長雨が続き、この時劉豫が金人と連合して侵入した。十月、高宗が親征すると晴れた。五年三月、霖雨が降り、蚕と麦を傷つけ、行都の雨は特に甚だしかった。九月、雨が降り、翌年正月まで続いた。六年五月、長雨が止まなかった。七年十月、
高宗が建康に行幸した時、長雨が続いた。八年三月、雨が積もり、四月まで続き、蚕と麦を傷つけ、農作物を害した。二十一年夏、襄陽府で十余日間大雨が降った。二十三年六月、大雨が降り、軍営・民田を破壊した。三十年五月、長雨が続き、蚕を傷つけた。
麦に害あり。八月、施州に大風雨あり。三十二年六月、浙西に大霖雨あり。
隆興元年三月、霖雨あり、行都の城三百三十余丈を壊す。二年六月、陰雨あり。七月、浙西・江東に大雨ありて稼を害す。八月、風雨月を踰ゆ。
乾道元年二月、行都及び越・湖・常・潤・温・台・明・処の九郡寒く、首種を敗り、蚕麦を損ず。二年正月、淫雨ありて四月に至る。夏寒し。江・浙諸郡に稼を損じ、蚕麦登らず。三年五月丙午、泉州に大雨あり、昼夜止まずして旬日に及ぶ。八月、淫雨あり、江・浙・淮・閩の禾・麻・菽・麦・粟多く腐る。四年四月、陰雨月を彌く。六年五月、連雨六十余日。十一月、連雨あり。辛巳、郊祀を行ふに、
雲圜丘に開け、百歩外に澍雨あり。八年四月、四川に陰雨七十余日。六月壬寅、大雨昼夜を徹し、己酉に至る。九年閏正月、淫雨あり。
淳熙二年夏、建康府に霖雨あり、城郭を壊す。三年五月、淮・浙に積雨ありて禾麦を損ず。八月、浙東西・江東に連雨あり。癸未・甲申、行都に大風雨あり。九月、久雨あり。十月癸酉、孝宗手詔を出して獄を決し、筆を援ぐるに風起こりて開霽す。四年九月丁酉・戊戌、紹興府余姚・上虞の二県に大風雨あり。五年閏六月己亥、階州に暴雨ありて戊申に至る。乙巳、興化軍・福州福清県に暴風雨夜作す。六年四月、衢州に霖雨あり。九月、連雨あり。己巳、将に郊せんとして霽る。八年四月、雨禾麦を腐らす。五月、久雨ありて首種を敗る。十年五月、信州に霖雨あり、甲戌より辛巳に至る。八月、福州に大霖雨あり、己未より九月乙丑に至り、吉州も亦之の如し。十一年四月、淫雨あり。戊寅、建康府・太平州に大霖雨あり。六月甲申、処州竜泉県に暴雨あり。十二年五月・六月、皆霖雨あり。十三年秋、利州路に霖あり、禾稼穜稑を敗り、金・洋・階・成・岷・鳳の六州も亦之の如し。十五年五月、荊・淮の郡国連雨あり。戊午、祁門県に霖雨あり。十六年四月、西和州に霖雨ありて禾麦を害す。五月、浙西・湖北・福建・淮東・利西の諸道に霖雨あり。
紹熙元年春、久陰連雨ありて三月に至る。夏、階・成・岷・鳳の四州に霖雨ありて麦を傷つく。二年二月、贛州に霖雨あり、春夏を連ねて止まず、城四百九十丈を壊し、城楼・敵楼凡そ十五所を圮つ。四月、福建路に霖雨ありて五月に至る。七月、利路に久雨ありて種麦を傷つく。癸亥、興州に暴雨連日あり。八月、行都に久雨あり。三年五月、江東・湖北路に連雨あり。常徳府に大雨昼夜を徹し、壬辰より庚子に至る。寧国府・池州・広徳軍は己亥より六月辛丑朔に至り、雨甚だしく、祁門県は庚戌に至る。七月壬申、天台・仙居の二県に大雨旬を連ぬ。淮西路・鎮江・襄陽府皆禾麦を害す。八月、普州に雨ありて稼を害す。四年四月、霖雨ありて五月に至り、浙東西・江東・湖北の郡県圩田を壊し、蚕・麦・蔬・稑を害し、紹興・寧国府尤も甚だし。鎮江府に大雨あり、辛未より丙子に至り、淮西郡県は丙子より戊寅に至る。五年八月、霖雨あり、畿県・浙東西皆稼を害す。九月、雨ありて十月癸巳に至り、大雨三昼夜止まず、江東西・福建の郡県皆雨に苦しむ。
慶元元年正月、霖雨あり。甲辰、帝蔬食して露祷し、丙午霽る。二月、又雨ありて三月に至り、麦を傷つく。五月、霖雨あり。七月、雨ありて八月に至る。二年六月壬申、台州に焱風暴雨連夕あり。八月、行都に霖雨五十余日あり。三年七月、雨月を連ぬ。四年八月、久雨あり。五年五月、行都に雨ありて城を壊し、夜附城の民廬を圧し、死する者多し。六月、浙東・西に霖雨ありて八月に至る。六年五月庚午、厳州に霖雨あり、五昼夜を連ねて止まず。
嘉泰二年六月、福建路に連雨ありて七月丁未に至り、大風雨災を為す。三年八月、久雨あり。
開禧元年七月、利路の郡県に霖雨ありて稼を害す。閏月、盱眙軍に陰雨ありて九月に至り、禾稑を敗る。十月、行都に淫雨ありて明年の春に至る。二年春、淫雨ありて三月に至る。
嘉定二年五月戊戌、連州に大雨昼夜を連ぬ。六月、利・閆・成・西和の四州に霖雨あり。七月壬辰、台州に大風雨夜作す。三年三月、陰雨六十余日。五月、淫雨ありて六月に至り、首種多く敗れ、蚕麦登らず。四年八月、霖雨ありて九月に至る。五年春、淫雨ありて三月に至り、蚕麦を傷つく。十一月、雨雪陰を積みて明年の春に至る。六年春、淫雨ありて二月に至る。丁亥、雨雪集霰す。五月、陰雨日を経る。辛酉、厳州に霖雨あり。月戊子、紹興府に大風雨あり、浙東・西に雨ありて七月に至る。七年九月、陰雨ありて十月に至り、禾麦を害す。九年四月・六月、大霖雨あり、浙東・西の郡
県尤も甚だし。十年三月、連雨ありて四月に至る。十月、霖雨ありて稼を害す。十一年六月、霖雨あり、浙西の郡県尤も甚だし。十二年六月、霖雨月を彌く。十五年七月、浙東・西に霖雨ありて災を為す。十六年五月、霖雨あり、浙西・湖北・江東・淮東尤も甚だし。八月、大風雨ありて稼を害す。十七年八月、霖雨あり。
乾徳四年二月長春節、甘露江寧府報恩院に降る。五年二月、甘露江陵府玉泉寺の松樹に降る。
開宝元年十二月、甘露蔡州の僧院柏樹に降る。
太平興国三年正月、甘露寿州の廨に降る。四年五月、甘露河東県の廨の叢竹に降ること凡そ三日。七年四月丙戌、漢州知事安守亮柏葉上の甘露一器を献ず。九年三月丙子、甘露西京南太一宮の新城に降る。
雍熙三年四月庚子、甘露後院の草木に降る。四年十二月、甘露興化軍羅漢峰前の五松に降る。
端拱二年(989年)二月、甘露が寿州の官舎の庭園の柏および資聖寺の檜に降る。
淳化二年(991年)十二月、資州の官舎および延寿観・徳純寺に甘露が松柏に降り、凡そ六日間続く。三年(992年)正月、舒州、二月、衢州、四月、舒州、四年(993年)六月、舒州、いずれも甘露降る。
至道三年(997年)四月、蕲州、同年五月、泉州、六月、蘇州、甘露降る。
咸平元年(998年)四月、甘露が平戎軍の官舎の果樹に降り、凡そ九十余本。十一月、甘露が亳州の真観の霊宝柏樹に降る。二年(999年)五月、太平州・潯州、三年(1000年)二月、泉州、十一月、潯州、四年(1001年)二月、
龔州、五年(1002年)正月、桂州、十一月、許州、いずれも甘露降る。
景德元年(1004年)、義寧県、二年(1005年)正月、鬱林州、二月、晋州及び神山県、三年(1006年)正月、梓州、四月、遂州、十二月、栄州・懐安軍、甘露降る。
大中祥符元年(1008年)十二月、上饒県・信陽軍、二年(1009年)正月、信陽軍・陳・鄂二州、三月、陵・升・梓三州、三年(1010年)二月、柳州・懐安軍、閏二月、富順監、五月、沢・耀・晋・益四州、四年(1011年)正月、梓州、三月、沢州、四月、常州、五年(1012年)四月、遂州、五月、無為軍、六月、梓州、七月、真定府、十一月、栄州開元寺、六年(1013年)三月、梓州、六月、鄜州、八月、遂州、九月、信州、十月、亳州太清宮、十一月、潯州、十二月、栄州・南儀州、七年(1014年)二月、鳳翔府天慶観、五月、鄆州、十月、亳州太清宮、十一月、彭州天慶観、八年(1015年)正月、中江県、二月、果州、十月、衢州、九年(1016年)十一月、玉清昭応宮、いずれも甘露降る。
天禧元年(1017年)正月、貴州天慶観、二月、玉清昭応宮、三月、後苑、四月、会霊観、五月、廬州通判庁及び后土祠、十二月、昭州天慶観、二年(1018年)十二月、栄州開元寺・懐安軍天慶観、三年(1019年)四月、舒州、五月、益州、四年(1020年)三月、邵武軍、十二月、平泉県、五年(1021年)三月、泉州、十一月、韶州、いずれも甘露降る。
天聖元年(1023年)正月、柳州、十一月、河南府、二年(1024年)五月、鳳州、十月、涇州、四年(1026年)、栄州・懐安軍、六年(1028年)、太平州、七年(1029年)正月、益州、九年(1031年)正月、栄州、いずれも甘露降る。
明道元年(1032年)十一月、韶州・梓州に甘露降る。
景祐四年(1037年)十一月、成徳軍、慶暦四年(1044年)正月、桂州、皇祐三年(1051年)十二月、吉州、嘉祐七年(1062年)三月、眉州・蓬州、九月、陵州、いずれも甘露降る。
熙寧元年(1068年)より元豊八年(1085年)に至るまで、甘露降る所凡そ二十余箇所。
元祐元年(1086年)より元符三年(1100年)に至るまで、これに同じ。
大観初年(1107年)、甘露が九成宮の帝鼐室に降る。三年(1109年)冬、尚書省及び六曹に降り、御製七言四韻の詩を執政以下に賜う。その後、内は禁中及び宣和殿・延福宮・神霄宮より、下は三学・開封府・大理寺・宰臣の私第に至るまで、皆これ有り、毎年毎年上表して賀す。
建隆初年(960年頃)、蜀の孟昶の末年、婦女競って髪を高く結い上げて髻と為し、「朝天髻」と号す。間もなく、昶は京師に入朝す。江南の李煜の末年、衛士の秦友が寿昌堂の榻に登り、その鞋を覆して坐す。訊ねるに、風狂にして覚めず。識者の云く、「鞋は履なり、李氏将に此の地に覆されて秦の所有と為らんか。『履』と『李』、『友』と『有』は同音、趙と秦は同祖なり」と。又、煜の宮中に雨水を盛り浅碧に染めて衣と為し、「天水碧」と号す。間もなく、王
師の征伐した地で、男女が京師に至ってもなおこれを着用する者があった。天水は、国の姓望である。
淳化三年、京師の里巷の婦人が競って黒光紙の団靨を切り、また魚の鰓の中の骨を装飾し、「魚媚子」と号して顔を飾った。黒は北方の色、魚は水族、皆陰類である。顔は六陽の首であり、陰が陽を侵すは、水災の起こる兆しである。
翌年、京師は秋冬に雨が積もり、衢路の水深は数尺に及んだ。
景德四年春、京城の小児が裳を裂いて小児旗とし、竿の先に結び付け、相対して振り動かした。これは兵乱の象である。この年、宜州の卒陳進が乱を起こし、出師してこれを討ち平らげた。
紹興二十一年、行都の豪貴が競って小青蓋を作り、蓋の頂に赤油の火珠を飾り、都門外に出て、道で伝呼した。珠は、乗輿の服御に昇龍を飾るのに用いるもので、臣庶が小蓋に加えるのは、服妖に近く、また僭上の咎である。二十三年、士庶の家が競って胎鹿の皮で婦人の冠を作り、山民が胎鹿を採捕して遺すところがなかった。当時は宣和から遠くなく、婦人の服飾はなお翠羽を集めてこれを作り、服妖に近い。二十七年、交阯が翠羽数百を貢ぎ、命じて通衢でこれを焼き、法を立てて禁じた。
紹熙元年、里巷の婦女が琉璃を首飾りとした。『唐志』に琉璃の釵鈿は流離の兆しとあり、これも服妖である。後に連年流徙の厄があった。
理宗の朝、宮妃が前後に掩う裙を長く地に引きずり、「赶上裙」と名付けた。頂に高髻を梳き、「不走落」と言った。足を束ねて細く直くし、「快上馬」と名付けた。粉で眼角に点を付け、「泪妝」と名付けた。童の髪を剃削し、必ず大銭ほどのものを頂の左に残し、「偏頂」と名付け、あるいは頂の前にこれを留め、彩繒で束ねて、あたかも博焦の状のごとくし、あるいは「鵓角」と言った。
咸淳五年、都人が碾玉を首飾りとした。詩に云う、「京師珠翠を禁ず、天下尽く琉璃」と。
太平興国三年三月、金明池を穿鑿し、地を掘ると、亀が出て、ほぼ万数を超えた。
大中祥符二年四月、黒亀が甚だ多く、汴水に沿って下った。
至和元年二月、信州が緑毛亀を貢いだ。
大観元年閏十月丙戌、都水使者趙霆が河を行き、両首の亀を得て瑞と為した。蔡京はこれを信じ、「これ斉の小白の所謂象罔これを見て而して覇する者なり」と言った。鄭居中は言った、「首豈に二つを容れんや、而して京これを主とす、意殆んど測るべからず」と。帝は命じて亀を金明池に棄てさせた。
政和四年、瑞州が六目亀を進めた。五年、博州が白亀を進めた。
紹興八年五月、汴京太康県に大雷雨があり、氷亀を数十里に下した。大小に随って皆亀の形を具え、首足卦
文を備えていた。
乾道五年、舒州の民が亀を献上した。二つの首が並んで生じ、伸縮することができなかった。郡守の張棟がこれを灊山に放した。亀の孽に近い。
嘉定十四年春、楚州の境において、大小の亀の死骸が野を覆った。
咸平三年八月、黄州の群鶏が夜に鳴き、冬に至るまで止まなかった。
紹興初年、陳州の民家の鶏が突然人の言葉を話した。鶏禍に近い。松陽県の民家の鶏が三本足で生まれた。県庁舎で鶏が卵を抱いていたが、
毛が殻の外に生じた。鶏禍に近く、また毛孽でもある。
乾道六年、西安県の官塘に、鶏の頭に人の体を持つ、丈余の高さのものが、昼間に野原に現れた。
慶元三年、饒州の軍営で鶏卵から蛇が出た。鶏孽に近く、また蛇孽でもある。婺源県張村の民家の雌鶏が雄に化した。これを調理すると、形は冠と距がありながら腹には卵を孕んでいた。同里の洪氏の家の雄鶏が雛を抱いていたが、その中に一羽、三本足の雛がいた。
咸淳五年、常州の鶏の羽に距が生じた。
建隆元年夏、相・金・均・房・商の五州で鼠が苗を食った。二年五月、商州で鼠が苗を食った。
乾徳五年九月、金州で鼠が苗を食った。
太平興国七年十月、岳州で鼠が作物を害した。
紹興十六年、清遠・翁源・真陽の三県で鼠が作物を食い、千万の群れをなした。当時広東は久しく旱魃が続き、凡そ羽鱗の類は皆鼠に化した。田で鼠を捕獲した者があり、腹にはなお蛇の文様があった。漁師が夜に網を仕掛けると、朝見ると皆鼠であった。夏から秋にかけて、数ヶ月にわたり患いとなり、ようやく収まった。その年は飢饉となった。鼠妖に近い。
乾道九年、隆興府で鼠が千万の群れをなし、作物を害した。
淳熙五年八月、淮東の通・泰・楚・高郵で黒鼠が禾を食い尽くし、大飢饉となった。時に江陵府の城外では、群鼠が多くして道路を塞ぐほどに至り、その色は黒・白・青・黄それぞれ異なり、車馬に踏み殺されたものは数え切れず、三ヶ月を過ぎてようやく収まった。
紹熙四年、饒州の民家で二匹の小さい鼠が牛の角を食い、三度牛小屋を移しても免れず、角は穿たれ肉は痩せて死んだ。鼠妖に近い。
慶元元年(1195年)六月、番陽県の民家に一匹の猫が数十匹の鼠を連れ、歩き止まり食い休むこと皆同じく、母と子が互いに哺育するが如くであった。民が猫を殺すと、鼠はその血を舐めた。鼠は盗賊の象徴、猫は捕らえる職務であるのに、反って互いに同じ処に居るのは、盗賊を取り締まる職務が廃れる象徴であり、唐の龍朔年間の洛州における猫鼠の占いと同じである。
紹興三年(1133年)八月辛亥の日、尚書省の後楼が故なくして自ら壊れた。
慶元元年(1195年)夏、建昌軍の民家の木柱に牛の鳴くような音がする事があり、三日してやんだ。
咸淳九年(1273年)、丞相賈似道が起復(官職に復帰)した日、越の私邸において、丁度家廟を拝礼しようとした時、忽ち内から裂帛の音が聞こえ、賓客は皆愕然とした。左右に密かに尋ねると、家廟の棟が裂けたことを知り、皆逡巡して退いた。