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宋史
志第十六 五行二上
炎上は火の性なり。火その性を失えば、則ち災眚と為る。旧説に恒燠・草妖・羽蟲の孽、羊禍・赤眚・赤祥の類は皆火に属すとす。今これに従う。
建隆元年、宿州火災あり、民舎万余区を燔く。二年三月、内酒坊火災あり、舎百八十区を燔き、酒工死者三十余人。三年正月、滑州甲仗庫火災あり。儀門及び軍資庫一百九十区を燔き、兵器・銭帛並びに尽くす。開封府通許鎮民家火災あり。廬舎三百四十余区を燔く。二月、安州牙吏施延業家火災あり。民舎並びに顕義軍営六百余区を燔く。五月、京師相国寺火災あり、舎数百区を燔く。海州火災あり、数百家を燔き、死者十八人。
乾徳四年二月、岳州衙署・稟庫火災あり、市肆・民舎殆ど尽く燔かる。官吏城を逾えて僅かに免る。三月、陳州火災あり、民舎数十区を燔く。潭州火災あり、民舎五百余区を燔く。月を逾え、民周沢家火災あり、又倉稟・民舎数百区を燔き、死者三十六人。是の春、諸州火災を言う者甚だ衆し。八月、衡州火災あり、公署・倉庫・民舎僅かに千余区を燔く。五年、京師建隆観火災あり。
開宝三年八月、辰州廨火災あり、軍資庫を燔く。五年七月、忠州火災あり、倉庫殆ど尽くす。七年九月、永城県火災あり、民舎一千八百余区を燔く。八年四月、洋州火災あり、州廨・民舎千七百区を燔く。永城県火災あり、軍営・民舎千九百八十区を燔き、死者九人。
太平興国七年八月、益州西倉災あり。
雍熙元年五月丁丑、乾元・文明二殿災あり。初夕、陰雲雷震し、火月華門より起こり、翌日辰・巳の方に止む。二年九月庚寅夜、楚王元佐宮火災あり、舎数百区を燔き、王是より以て疾を以て家に廃す。三年、光化軍民卻勲家火災あり、延焼して軍廨・舎・庫を燔く。
端拱元年二月、雲安軍威棹営火災あり。二年三月、衡州火災あり、州県官舎・倉庫・軍営三百余区を燔く。又崇賢坊に鳥燔数十処あり、七日滅せず。
淳化三年十月、蔡州懐慶軍営火災あり、汝河橋民居・官舎三千余区を燔き、死者数人。十二月、建安軍城西火災あり、民舎・官廨等殆ど尽く燔かる。四年二月、永州保安津舎火災あり、飛焰江を過ぎ、州門及び民屋三百余家を焼く。
咸平二年四月、池州倉火災あり、米八万七千斛を燔く。
景德元年正月、平虜軍営火災あり、民居廬舎を焚くこと甚だ衆し。四年十一月、郢州火災あり、倉庫並びに尽く燔く。
大中祥符元年正月、桂州甲仗庫災あり。二年四月、升州火災あり、軍営・民舎殆ど尽く燔かる。四年八月、徐州草場火災あり。十月、鎮州城楼・戦棚火災あり。七月、雄州甲仗庫火災あり。八年二月甲寅、宗正寺火災あり。四月壬申夜、栄王元儼宮火災あり、三鼓より北風甚だしく、癸酉亭午に乃ち止み、延焼して左承天祥符門・内蔵庫・朝元殿・乾元門・崇文院・祕閣・天書法物内香蔵庫を燔く。九年五月甲子、左天廄坊草場火災あり。
天禧二年二月戊寅、北宅蔡州団練使徳雍院火災あり、数百区に延焼す。三年春、京師火災多し。六月、永州軍営火災あり、民舎数百余区に延焼す。五年四月丁巳、事材場火災あり。
天聖三年二月丁卯、蘄州榷貨務火災あり。五年四月壬辰、寿寧観火災あり。七年六月丁未、玉清昭応宮災あり。初め、大中祥符元年、詔して宮を建て天書を蔵す。七年、宮始めて成る。凡そ二千六百十楹。是に至り、火夜中に発し、大雷雨あり、暁に至りて尽くす。
明道元年八月壬戌、文德殿の修築が成る。是の夜、禁中に火災あり、崇徳・長春・滋福・会慶・延慶・崇徽・天和・承明の八殿に延焼す。
景祐三年七月庚子、太平興国寺にて楼閣中より火災起こり、開先殿及び寺舎数百楹に延焼す。是の夕、大雨雹あり。十月巳酉、澶州横龍水口西岸の料物場に火災あり、薪芻一百九十余万を焚く。
宝元二年六月丁丑、益州に火災あり、民の廬舎二千余区を焚く。
康定元年六月乙未、南京鴻慶宮の神御殿に火災あり。
慶暦元年五月癸亥、慶州の草場に火災あり、州城の楼櫓に延焼す。三年十一月丙寅、上清宮に火災あり。四年三月丙戌の夜、代州五台山寺に火災あり。六月丁未、開宝寺の霊感塔に災あり。七月甲子、燕王宮に火災あり。六年七月辛丑、洪福禅院に火災あり。八年正月壬午、江寧府に火災あり。初め、李景江南に大いに宮室・府寺を建つ、其の制多く帝室に倣ふ、至るに一夕にして焚け、唯だ玉燭殿のみ独り存す。
皇祐五年正月丁巳、会霊観に火災あり。
至和元年四月辛丑、祥元観に火災あり。二年、并州の太宗神御殿に火災あり。
嘉祐三年正月、温州に火災あり、屋舎一万四千間を焚き、死者五十人。
治平四年十二月壬子の夜、睦親宮に火災あり、九百余間を焚く。甲寅、広親宮また火災あり。
熙寧六年二月丙申、永昌陵の上宮に火災あり、東城門を焚く。七年九月壬子、三司に火災あり、巳より戌に至り、屋舎千八百楹を焚き、案牘殆ど尽く。十一月、洞真宮に火災あり。九年十月、魯王・濮王宮に火災あり。十年正月、仙韶院に火災あり。屋舎二百五十楹を撤す。三月丙子、開封府に火災あり。
元豊元年八月、邕州に火災あり、官舎一千三百四十六区、諸軍の衣一万余襲、穀帛軍器一百五十万を焚く。四年六月、衡州に火災あり、官舎・民居七千二百楹を焼く。欽州に大雷震あり、火災城屋を焚く。五年二月、洞真宮に火災あり。八年二月辛巳、開宝寺に火災あり。時に礼部貢院を寺に寓し、点校試巻官の翟曼・陳之方・馬希孟焚死し、吏卒の死者十四人。
元祐元年三月、宗室宮院に火災あり。六年十二月、開封府に火災あり。
紹聖三年三月七日、内尚書省に火災あり、尋いで撲滅す。上、執政に諭す:禁中屡火、方に醮禳を行ひ、已に春宴を罷め、仍て垂拱殿に三日御せず。四年七月甲子、禁中に火災あり。
元符元年四月、宗室宮院に火災あり。
建中靖国元年六月壬寅、集禧観に火災あり、大雨の中久しくして後滅す。
崇寧二年(1103年)六月、中太乙宮が火災に遭う。三年(1104年)三月辛丑の日、大内が火災に遭う。
政和三年(1113年)四月、蘇州が火災に遭い、公私の家屋一百七十余間が延焼する。五月、封州が火災に遭い、公私の家屋六百八十二間が延焼する。五月辛丑の日、京師の大盈倉が火災に遭う。この年、成都府の大慈寺、温州、絳州が皆火災に遭う。
重和元年(1118年)九月、掖庭で大火が起こり、甲夜から暁に至るまで、大雨が傾くように降るも火勢はますます盛んとなり、凡そ五千余間を焼き、後苑の広聖宮及び宮人の住居はほとんど焼き尽くされ、焼死者は甚だ多かった。
靖康元年(1126年)十二月丙子の夜、尚書省が火災に遭い、礼部、祠部、工部、刑部、吏部に延焼し、尚書省の牌を引き倒して火中に投げ込み、禳いを行ってようやく鎮火する。二年(1127年)三月戊戌の日、天漢橋が火災に遭い、百余家を焼く。間もなく、都亭驛もまた火災に遭う。己酉の日、保康門が火災に遭う。
紹興元年(1131年)十月乙酉の日、臨安府、越州で大火が起こり、民衆は多く露宿する。十二月辛未の日、越州が火災に遭い、吏部の文書を焼く。乙酉の日、行在所を銭塘に移す。二年(1132年)正月丁巳の日、宣州が火災に遭い、民家のほぼ半数を焼く。五月庚辰の日、臨安府で大火が起こり、六七里に亘り、一万数千家を焼く。十二月甲午の日、行都で大火が起こる。吏部、刑部、工部、御史台、官府、民家、軍営を焼き尽くし、乙未の日の朝になってようやく鎮火する。三年(1133年)九月庚申の日、行都の闕門外が火災に遭い、多くの民家を焼く。四年(1134年)正月戊寅の日、行都が火災に遭い、数千家を焼く。六年(1136年)二月、行都でたびたび火災が起こり、千余家を焼く。十二月、行都で大火が起こり、一万余家を焼き、死者も出る。時に高宗は劉豫を親征しており、都民で露宿する者は多く凍死した。七年(1137年)正月辛未の日、平江府が火災に遭う。二月辛丑の日、鎮江府、楚州、真州、揚州、太平州が火災に遭う。この年、臨安府が火災に遭う。八年(1138年)二月丁酉の日、太平府で大火が起こり、宣撫司及び官舎、民家、倉庫、文書が皆焼き尽くされ、死者は甚だ多く、録事参軍の呂応中、当塗県丞の李致虚がこれにより死す。九年(1139年)二月己卯の日、行都が火災に遭う。七月壬寅の日、また火災に遭う。十年(1140年)十月、行都が火災に遭い、民家を焼き、省部に延焼する。十一月丁巳の日、温州で大火が起こり、州学、酒税・市舶等の役所、永嘉県庁及び民家千余を焼く。十一年(1141年)七月癸亥の日、婺州で大火が起こり、州の監獄、倉庫、寺観及び民家のほぼ半数を焼く。九月甲寅の日、建康府が火災に遭い、府庁舎三十余区、民家三千余家を焼く。十二年(1142年)二月辛巳の日、鎮江府が火災に遭い、倉米数万石、秣六万束を焼き、民家は特に多く焼ける。この月、太平州、池州及び蕪湖県が皆火災に遭う。三月丙申の日、行都が火災に遭う。四月、行都がまた火災に遭う。十四年(1144年)正月甲子の日、行都が火災に遭う。十五年(1145年)、大寧監が火災に遭い、官舎、倉庫、文書を焼く。九月丙子の日、行都が火災に遭い、一晩中燃え、太室に近づいて消える。十七年(1147年)八月、建康府が火災に遭う。十二月辛亥の日、静江府が火災に遭い、多くの民家を焼く。二十年(1150年)正月壬午の日、行都が火災に遭い、吏部の文書を全て焼き尽くす。二十五年(1155年)、汴京の宮室が悉く焼失する。二十六年(1156年)、潭州の南嶽廟が火災に遭う。二十九年(1159年)四月、鎮江府が火災に遭い、軍営、民家を焼く。十二月丙子の日、夔州で大火が起こり、官舎、民家、寺観を焼き、死者が出る。
乾道元年(1165年)正月、泰州が火災に遭い、民家をほぼ焼き尽くす。この年春、徳安府応城県の駅舎が火災に遭う。二年(1166年)冬、真州六合県の武鋒軍の兵営が火災に遭う。十二月、婺州が火災に遭う。これより火災の患いが止まず、人為的な放火によるものである。三年(1167年)五月、泉州が火災に遭う。五年(1169年)十二月壬申の日、太室の東北の垣の外の民家が火災に遭う。七年(1171年)十一月丁亥の日、禁垣の外の宦官の私宅が火災に遭い、民家に延焼する。九年(1173年)九月、台州が火災に遭い、一晩中燃え、翌日の昼の刻の半ばに至り、州の監獄、県庁、酒務及び居民七千余家を焼く。
淳熙元年(1174年)十二月丁巳の日、泉州が火災に遭い、城楼及び五十余家を焼く。二年(1175年)六月戊午の日、潭州の南嶽廟が火災に遭う。八月、厳州が火災に遭う。十一月癸亥の日、麗正門内の東廡が火災に遭う。この年、瀘州が火災に遭い、民家の焼失数を虚偽報告した罪により、守臣が官位を降格される。三年(1176年)九月、大内の射殿が火災に遭い、東宮の門に延焼する。四年(1177年)十一月辛酉の日、鄂州の南市が火災に遭い、暴風が一晩中吹き、千余家を焼く。五年(1178年)四月庚寅の日、興州の沙市が火災に遭い、三百四十余家を焼き、死者が出る。十一月、和州の牧営が火災に遭い、一百六十区を焼く。七年(1180年)二月、江陵府の沙市で大火が起こり、数千家を焼き、船艦に延焼し、死者は甚だ多い。八月、温州で科挙の試験が行われ、貢院で火災が起こる。八年(1181年)正月、揚州が火災に遭う。九月乙亥の日、行都が火災に遭う。九年(1182年)九月、合州で大火が起こる。民家をほぼ焼き尽くし、官舎は僅かに残るのみである。十一年(1184年)二月辛酉の日、興元府の義勝軍の兵舎が火災に遭う。十二年(1185年)八月、温州が火災に遭い、城楼及び四百余家を焼く。十月、鄂州で大火が起こり、一万余家を焼く。江風が暴風となり、堤上に仮小屋を建てた者、岸下に船を泊めた者は、焼死溺死して残る者なし。十四年(1187年)五月、大内の武庫が火災に遭うが、兵器は損害を受けず。六月庚寅の日、行都の宝蓮山の民家が火災に遭い、七百余家に延焼し、消火にあたった将校に死者が出る。五月、成都府の市街が火災に遭い、一万余家を焼く。十六年(1189年)九月、南剣州で大火が起こり、残った民家はほとんど無い。
紹熙元年(1190年)八月壬寅の日、処州が火災に遭い、数百家を焼く。十二月戊申の日、建寧府浦城県が火災に遭う。時に查洞の賊寇張海が乱を起こし、五百余家を焼く。二年(1191年)四月、行都の伝法寺が火災に遭い、民家に延焼する。言論者は、外戚の邸宅の土木工事が災いの原因であり、火災が頻発するのはその応報であるとする。この月、徽州で大火が起こり、夜間に州庁、鼓楼、官舎、監獄、金銭・物資の倉庫など凡そ十九箇所、五百二十余区を焼き、千五百家に延焼し、庚子の日から壬寅の日にかけてようやく鎮火する。五月己巳の日、金州が火災に遭い、州庁、官舎、倉庫、保勝軍の兵器庫、城内城外の民家を多く焼く。三年(1192年)正月己巳の日、行都が火災に遭い、一晩中燃え、翌日に至り、市街の半分が焼失する。十一月、また火災に遭い、五百余家を焼く。十二月甲辰の日、鄂州が火災に遭い、翌日に至り、八百家を焼く。
慶元二年(1196年)八月己酉の日、永州が火災に遭い、三百家を焼く。三年(1197年)閏月甲申の日、金州都統司の中軍の兵舎が火災に遭い、千三百余区を焼く。六月を経て乙酉の日、また火災に遭う。二千余区を焼く。この冬、紹興府の僧寺が火災に遭い、数百家に延焼する。六年(1200年)八月戊戌の日、徽州が火災に遭う。州の監獄、官舎を焼き、八百余家に延焼する。
嘉定元年(1208年)三月戊寅の日、行都(臨安)に大火あり、四月辛巳の日に至るまで燃え続け、御史台・司農寺・将作軍器監・進奏文思御輦院・太史局・軍頭皇城司・法物庫・御厨・班直諸軍の兵営を焼き、延焼五万八千九十七家に及んだ。城内外十余里に亘り、死者五十九人、踏み殺された者は数えきれず。城中の家屋は九分の七を焼失し、百官は多く舟を借りて居住した。火は宝蓮山の御史台の胥吏楊浩の家から起こり、諫議大夫程松が楊浩を誅殺して都民に謝罪すべしと請うた。上疏が再び上り、ようやく楊浩は顔に刺青を施して万安軍に流罪となったが、なお杖刑は免れた。これより民は噂を伝えあって驚き、無頼の徒が火を放って私利を図るようになった。二年六月己卯、臨安府で火災。三年正月丁酉、襄陽府で火災が起こり暴風が吹き、選鋒軍の軍校于友直が消火中に死亡し、延焼は六十余家で止まった。帥臣・漕臣がその功績を上奏し、二階級を追贈し、その子二人に官職を与えた。十一月甲午、福州で火災。四百余家を焼く。四年三月丁卯、行都に大火あり、尚書中書省・枢密院・六部・右丞相府・制敕糧料院・親兵営・修内司を焼き、学士院・内酒庫・内宮門の廡舎に延焼し、夜間に禁軍を召集して消火に当たらせた。太室(太廟の正殿)の廟の廡舎を取り払い、神主及び冊・宝を寿慈宮に遷した。翌日戊辰の朝、火が和寧門の鴟吻に及び、禁卒の張隆が飛び道具の梯子で斧を振るい、門は焼失を免れた。火災発生時、数道に分かれて燃え広がり、二千七十余家を焼いた。また翌日己巳、神主は太室に還された。この時、省部は皆駅舎や寺院に仮の役所を置いていた。四月丙申、臨安府の梵天寺で火災。六月、盱眙軍天長県の禁軍兵営で火災、鎧や武器がことごとく焼失した。八月壬辰、鄂州の外南市で火災、五百余家を焼く。
開禧二年(1206年)二月癸丑、寿慈宮に災害(火災)あり。四月壬子、行都で火災、数百家を焼く。
嘉定二年(1209年)八月己巳、信州で火災、二百家を焼く。九月丁酉、吉州で火災、五百余家を焼く。この年、瀘州で火災、千余家を焼く。十一月丁亥、建寧府政和県で火災、百余家を焼く。四年閏二月己卯、紹興府嵊県の浦橋で火災、百余家を焼く。三月、滁州で火災、民家を多く焼く。十月、撫州で火災。辛卯、福州で一夜のうちに二度の火災、城門・僧寺を焼き、千余家に延焼し、死者数人。五年五月己未、和州で火災。二千家を焼く。八年八月辛丑、湖州で火災、寺観を焼き、三百家に延焼。九年七月甲戌、南剣州沙県で火災、県門・官舎及び千百余家を焼き、民に死者あり。十一年二月、行都で火災。数百家を焼く。九月己巳、禁垣外の万松嶺の民家で火災、四百八十余家を焼く。十三年二月庚寅、安豊軍故歩鎮で火災、千余家を焼き、死者五十余人。八月庚午、慶元府で火災、官舎・邸宅・寺観・民家を多く焼く。十一月壬子、行都で火災、城内外数万家・禁軍兵営百二十区を焼く。十七年四月丁卯、西和州で軍営及び民家二千余家が焼失、人為的な放火によるものである。守臣の尚震午は誤って金軍が来襲したと思い逃げた。六月丁亥、岳州で火災、岳陽楼・州の監獄・倉庫を焼き、八十家に延焼。己丑の日また火災、百余家を焼く。
紹定元年(1228年)三月、行都で火災、六百余家を焼く。
嘉熙元年(1237年)六月、臨安府で火災、三万家を焼く。
淳祐元年(1241年)、徽州で火災。十二年十一月丙申、行都で火災、丁酉の夜になってようやく鎮火した。
景定四年(1263年)、紹興で火災。五年、臨安府に大火あり。
徳祐元年(1275年)、玉牒所に災害(火災)あり。
乾徳二年(964年)冬、雪なし。五年冬、雪なし。
開宝元年(968年)冬、京師に雪なし。二年冬、雪なし。
淳化二年(991年)冬、京師に氷なし。
至道元年(995年)冬、雪なし。二年冬、雪なし。
大中祥符二年(1009年)、京師は冬暖かく、氷なし。
天聖五年(1027年)、夏秋に大暑あり、毒気人を中す。
嘉祐六年(1061年)冬、京師に氷なし。
治平四年(1067年)の冬、雪が降らなかった。
元豊八年(1085年)の冬、雪が降らなかった。
元祐元年(1086年)の冬、雪が降らなかった。同四年の冬、京師に雪が降らなかった。同五年の冬、雪も氷もなかった。
紹興五年(1135年)五月、大いに暑く四十余日続き、草木は焦げ枯れ、山石は人を灼き、暍死する者が甚だ多かった。同三十一年の冬、雪が降らなかった。
乾道三年(1167年)、冬に温暖で、雪は少なく氷もなかった。同五年、冬に温暖で、雪が降らなかった。同六年、冬に温暖で、雪も氷もなかった。
紹熙三年(1192年)冬、潼川路は雨が降らず、気候は仲夏のように暑く、日月は皆赤く、栄州が特に甚しかった。
慶元元年(1195年)冬、雪が降らなかった。同二年冬、雪が降らなかった。同四年冬、雪が降らなかった。翌年、春に暑く雷が鳴った。同六年、冬に暑く雪が降らず、桃李が花を咲かせ、虫が蟄居しなかった。
開禧三年(1207年)冬、雪が少なかった。
嘉定元年(1208年)、春が夏のように暑かった。同六年冬、暑く雷が鳴り、氷がなく、虫が蟄居しなかった。同八年夏五月、大いに暑く、草木は枯れ、百泉は皆涸れ、行都では水一斛が百銭、江・淮では杯の水が数十銭となり、暍死する者が甚だ多かった。同九年冬、雪が降らなかった。同十三年冬、雪も氷もなかった。翌年、春に急に暑くなり、土は乾燥し泉は涸れた。
建隆二年(961年)九月、亳州が芝一株を献上した。
乾徳四年(966年)閏八月、黄岡県の民段贊の家の屋柱に紫芝一本二茎が生じ、知州鄭守忠がこれを献上した。十二月、登州が芝五茎を献上した。
開宝四年(971年)、成都府の民羅達の家に芝が生じた。同六年正月、知梓州趙延通が芝一本を献上した。河中府大明観の殿に芝草が生じ、節度使陳思讓がこれを奏聞した。同七年七月、陳州節度党進が控鶴営の兵卒孫洪の家の芝二本を献上した。八月、また芝一本、四十九茎を献上した。九月、麻城県の官舎の柱に芝が生じ、刺史王明がこれを献上した。十月、梓州が芝草を献上した。
太平興国二年(977年)八月、青城県の民家の竹一本が、上で双茎に分かれた。同三年六月、項城県令王元正が芝草を献上した。七月、広州が芝草を献上した。八月、功臣堂の柱に芝二本が生じ、知州範旻が図を描いて献上した。同四年八月、広州が芝草を献上した。九月、華山の道士丁少微が白芝・黝芝を各一器献上した。同五年五月、眉山県の竹一茎十四節が、上で二枝に分かれ、長さ一丈四尺あった。九月、真定府行宮の殿梁に芝が生じた。荷花のようであり、知府趙賢進が図を描いて来上した。十月、龍水県華厳寺で、旧来竹を截って筒とし水を引いていたものが、忽然として枝葉を生じ、長さ二丈余りになった。知州姜宣がこれを奏聞した。同六年三月、広州が黄芝一本九茎を献上した。七月、新津県趙豊村の竹一茎十二節が、上で両岐に分かれ、知州崔憲がこれを奏聞した。同七年六月、知黄州裴仁鳳が芝草を献上した。七月、知羅江県陳覃が羅璝山で芝四本を獲て献上した。湘陰県万寿寺の松根に、芝草二本が生じ、転運副使趙昌がこれを献上した。八月、再び四本が生じ、趙昌がまた献上した。潭州の民欧陽進・夏侯敏の園中に芝三本が生じた。宜興県の民長孫裕の家に芝が生じ、紫茎黄蓋であった。十月、雄州実信院の竹の葉の叢に芝草が生じ、僧致仁がこれを採るとまた生じ、悉くを上献した。同八年二月、知福州何允昭が芝二本を献上した。五月、漢州が芝を献上した。十月乙酉、蜀州が瑞竹一本十六節、上で両枝に分かれたものを献上した。知連州史昭文が芝二茎を献上した。十一月、婺源県の民王化が王陵山の石上に紫芝一本、叢生して五茎のものを得た。金州監軍の官舎に芝三本が生じた。同九年十月、金州が芝三本を、永康軍が芝九茎を献上し、同日に闕下に至った。十一月、知梓州沈護が芝三茎を獲た。
雍熙二年(985年)七月、霊州に芝草が生じ、知州侯贇が木にその形状を刻んで来献した。同三年三月、殿前承旨張思能が楚・泗に出使し、得た芝草五本を献上した。四月、眉山県が『異竹図』を献上した。八月、刑部尚書宋琪の家の牡丹が三度花を開いた。
端拱元年(988年)五月、知襄州郝正が芝五本を献上した。八月、広州で鳳が合歓樹の下に集まり、芝三本を得た。同二年七月、彭山県の民家に異竹が生じた。舒州に芝草が生じ、知州趙孚がこれを献上した。十月、密州が芝草を献上した。
淳化元年四月、永州監軍の官舎に芝草が生じ、知州の克憲がこれを奏聞した。八月、黄州刺史の魏丕が芝草を献上した。二年二月、射洪県の安国寺に竹二茎が同じ根から生じた。六月、舒州に連理の竹が生じ、知州の楽史がこれを奏聞した。十一月、陵州の民趙崇の家の慈竹二茎が長さ六尺余りで、その上に別に根柢があり、茎が十枝に分かれ、長さ一丈余りであった。また一本で三茎が並び聳えていた。三年十月、朗州に異なる竹が生じた。京師の太平興国寺の牡丹が花を生じ、占いでは「喪有り」と言った。今月、恭孝太子が薨去した。四年正月、知興化軍の馮亮が芝草を献上した。十月、彭門に芝草が生じた。十二月、栄州が『異竹図』を献上した。五年正月、密州が芝草四本を献上し、枝葉が繁茂していた。二月、知溫州の何士宗が芝草五本を献上した。十月、また十本を献上した。
至道元年十一月、潭州監軍の官舎に竹一本が生じ、長さ二尺余りで、枝葉が万余りあり、特に異様であった。二年六月、虔州龍泉県の合龍院で一竿が二枝に分かれた。河南県の民張知遠の家に芝草が生じ、判府の呂蒙正が表を上奏してこれを報告した。閏七月、密州が芝二本を献上した。三年二月、広東転運使の康戩が紫芝を献上した。
咸平元年十二月、宣化県の保聖山に瑞竹が一本二枝で生じた。二年閏二月、宣・池・歙・杭・越・睦・衢・婺の諸州で箭竹が米を生じ、稲のようであった。時に民は飢えており、これを採って食とした。九月、剣州の駅舎の梁上に芝草が生じ、一枝に三つの花房があり、その色は黄白で、知州の李仁衡が図を描いて献上した。四年正月、灘州が芝草一本を献上し、仏像のようであった。十二月、知淮陽軍の王礪が芝草三本を献上した。六年五月、導江県の民潘矩の田に芝が生じ、三層で、黄紫色、高さ五寸余りであった。九月、相州の牧龍坊に芝が一茎生じ、色は紫黄で、長さ一尺余り、七枝に分かれ、枝は手の五指のようであった。その最上の枝が鳳凰に似ていたので、知州の張鑒がこれを献上した。
景德三年八月、蔡州が芝草を献上した。四年十月、知広安軍の王奇が『芝草図』を上奏した。十二月、蓬州が『瑞竹図』を上奏した。
大中祥符元年四月、温州が『瑞竹図』を献上した。五月辛未、東封のため、経度制置使の王欽若を派遣して文宣王廟を祭らせたところ、孔林で芝五株を得た。色は黄紫で雲の色のようであり、また人が冠冕を戴いた形状であった。詔して内侍の楊懐玉に祭謝させた。さらに芝四本を得た。軽く黄色く、雲気の形状のようであった。癸未、内侍の江徳明が白龍潭の石上に紫黄芝一本を得て献上した。六月、瑕丘県の民宋固が堯祠の前で黄紫芝九本を得た。連理のものは四本であった。また県民の蔡珍が芝一本を得、王欽若がこれを献上した。欽若はまた岱嶽及び堯祠の前で、再び芝二十二本を得た。連理のものは二本、また草石を貫くものがあった。七月、欽若自ら芝十一本を獲、また州の長官及び民が得たもの二十六本があり、重台連理及び外白内紫の形状があり、かつ言うには「泰山には日に芝草が生じ、軍民が競って採るので、緡帛を与えることを請う」と。これに従った。兗州で獄が空になり、司理参軍の郭保譲がその間を掃除したところ、芝四本を得た。八月、須城県の民家に芝草が生じた。乾封県の民家の屋柱に芝が生じた。滋長して連なり広がり、色は鮮潔で絵画のようであった。欽若が芝草八千百三十九本を献上した。草木を貫くもの、石に附くもの、連理のもの及び宝山に飾ったものがあった。黄州が異竹一本で双茎のものを献上した。九月、趙安仁が来て五色金玉丹紫芝八千七百十一本を献上した。鞏県の柴務で牡丹が開花した。十月、泰山の芝草が再生したものは甚だ多かった。辛丑、車駕が鄆州に駐在し、知州の馬元方が芝草五本を献上した。甲辰、欽若らがまた泰山の芝草三万八千五十本を献上した。五連・三連理のものがあり、五色の重暈が宝蓋のようで、下が相連帯し、草木五穀が宝山・霊禽・瑞獣の象をなすものは六百四十二あった。詔して封禅の日に天書輦の前に列ねさせ、また諸路の名山勝景に送り、宰相に賜うこととした。今月、復州が芝草を献上し、神仙仏像に類していた。河中府の酒厨の梁上に芝が生じ、一本十二葉で、その色は玉のようであった。安陽県の段賛の家に紫芝が連理し、長さ一尺余り、また民の李釗の屋柱に芝三本が生じた。霍丘県の河亭及び聖恵坊に並び紫芝が生じた。十二月、福州懐安県の龍眼樹上に紫芝が連理した。温州が『霊芝図』を献上した。二年正月、福州の荔枝樹に連理芝二本が生じた。二月、饒州が芝草四本を献上した。七月、遂州の皇沢寺に芝草が生じ、凡そ五十本であった。九月、栄州の官舎の庭中に芝二本が生じた。十月、果州の青居山が金暈連理芝草を献上した。十一月、華山の張超谷の石上に紫芝二本が生じた。嵩嶽に芝草五十本が生じた。石首県の文宣王廟の殿柱に芝草が生じた。また龍蓋山の万福裏の民宗永昌の園の藤上に芝草が生じ、一本双茎であった。十二月、漢州に芝草が生じた。黔州に芝草一茎十二枝が生じ、山峰のようであった。三年正月、井研県の三恵寺に芝草十本が生じた。二月、昌州の官庁の柱に芝が四本生じた。閏二月、饒州に芝草が生じた。三月、西充県の青蓮塔院・太平観に並び芝草が生じた。四月、京師の竹に花が咲き、占いでは「歳豊ならず」と言った。六月、綿・邵・鄂州に並び芝草が生じた。七月、虢州の聖女観に芝草三本が生じた。八月、潁県の民が田芝十二本を得た。蜀州に芝草が生じ、一茎九葉であった。江陵県の民張仲の家の竹が根元から幹が分かれ、その一幹がまた三茎に分かれた。九月、江陵府の永泰寺の竹が地から七節出て、二茎に分かれ、長さ一丈余り、知府の陳堯咨がこれを奏聞した。華州敷水の民侯元則が華陽川の石の裂け目に入り、芝一本を得、知州の顧端がこれを献上した。十月、内侍の任文慶が茅山に詣で、洞中で醮を設けたところ、芝草二十八本を得た。
人手の如きものあり。十一月、安郷県謝山にて芝二十二本を獲、その七は珊瑚の状にして色紫。十二月、神泉県にて芝四本を獲。四年正月、華州知事崔端芝草を献ず、状は仙人掌の如し。須城県民李道安、黄仙公洞台上にて芝草一本を得て以て献ず。二月、崔端また芝草十本を献ず。益州知事任中正芝草二十二本を献ず。遂州知事毋賓古芝草を献ず。四月、古田県僧舎の竹一本、上に分かれて三茎となる。端昌県民李讓家の筀竹一本、地を去ること五尺許り、分かれて二茎となり、知州范応辰以て聞す。六月、夔州芝草稟舎の中に生ず。七月、亳州知事徐泌・江州知事王文震並びに芝草を献ず。郴州知事袁延慶芝草十本を献ず。八月、邕州雲封寺の柏樹に芝五本生じ、知州劉知詰以て献ず。西充県広川王廟に芝十本生じ、その三連理。八月、信州知事李放『瑞竹図』三本を献ず。十一月、河中府芝草を献ず。真源県民王順慈・司徒捷家に芝各一本生ず。岳州・道州並びに芝草を献ず。南嶽奉冊使薛映・副使銭惟演、荊門軍神林の石上を過ぎ、芝草を獲て以て献ず。十二月、鉛山県仁寿僧舎に芝草一本生じ、双枝、長さ尺八寸。五年六月、潯州六祖院法堂に紫芝双秀、知州高志寧以て聞す。八月、亳州芝草を献ず。十月、沢州庁事の梁上に、白茎紫蓋の芝二十四本生ず。閏十月、常州芝草生ず。また蕭山県芝李樹上に十一本生ず。十一月、広州芝草二百三十七本を献ず。晋原県僧舎芝草一本。十二月、随州芝草生ず。亳州鹿邑県民の獲たる芝草四本を献ず。候官県山上に芝草五十四本生ず。閩県望泉寺に芝草十本生ず。寧徳県支提山の石上に芝草十五本生ず。六年二月、江州廬山崇聖院に芝九本生じ、知州王文震以て献ず。四月、饒州承天院東山に芝四本生じ、葉を連ぬ。六月、寿丘県紫茎金芝一本を獲。景陵県管陽山の林中に芝三十本を獲。七月、内侍石延福、兗州寿丘に登り、芝一本を獲、草を貫きて生じ、また旁に三十本を得。亳州団練使高漢英芝八本を献ず。鼎州城門の柱下に芝一本生ず。八月、継照堂に芝一本生じ、紫茎黄蓋。奉祀経度制置使丁謂、真源県に至り、太清宮道士・瀬陽郷民継いで芝八十本を獲て以て献ず。乙丑、また二百五十本を獲、一本三茎、一茎雲気仏像の如きものあり。九月、また宋城県民の獲たる芝五十本を得て之を献ず。十月、丁謂来朝し、芝草三万七千百八本を献じ、仙人・宝禽・異獣の状を以て飾る。十一月、また九万五千百本を献ず。明年、車駕真源に至り、民に行闕に詣りて献ずる者あり、また一万八千本。是の冬、兗州景霊宮芝草生ず。慶成軍大寧廟聖制碑閣に金芝二本生ず。昭州龍岳山資寿寺芝草生ず。潯州庁舎の柱に芝一本生じ、上に分かれて二となり、その上また二本生じ、凡そ三重。無錫県民曹詵家の食案に芝生じ、赤黄にして光あり、長さ尺許り。また南安軍知事章得一芝草を献ず。七年正月、明州茹侯山の石上に芝草一本四茎を献ず。二月、信州知事欧陽陟芝草七本を献ず、忠州芝五本を献ず。四月、福州芝草二本を献ず。五月、郪県西上石崖に紫芝十五本生ず。七月、華州民華山に入り、白
石の上に芝草が生え、双茎で蓋を連ねる。八月、均州・献州が芝を千二百二十七本献上す。十月、慶成軍大寧廟の石に双茎の芝生じ、其の上に幹を合わす。明州・英州に芝草生ず。十一月、蜀州に芝草二本、竹の根に生ず。八年二月、青州武成王廟の柱に芝一本生じ、知州張知白図を以て献ず。三月、栄州応霊県弥陀仏舎に紫芝三本生じ、其の一は双幹、上は蓋の如し。四月、昌州に芝有りて石上に生じ、一本四茎、其の色黄白。四月、彰明県民家の竹一根、上に分かれて二本・十三節。又開元寺の桃竹一茎、上に分かれて十八節、皆相対す。五月、道州舜祠の傍に芝二十一本生ず。六月、盩啡県民家に芝草三茎、共に一葉を成し、又石芝一本。十月、晋原県民柏扆の家に芝三根生じ、合して一本と為る。九年七月、信州知事董温芝十二本を献ず。八月、廬州知事余献卿芝二本を献ず。九月、涪城県の石壁に芝一本生ず。十一月、武岡県民何文化の園竹に両株同本に生じ、上に分かれて四茎。十二月、晋原県民李彦滔の家の竹一本、双茎で節を対し、知州王世昌図を以て献ず。
天禧元年三月、新津県平蓋下の玉皇案の下に芝草が生じた。鄂州天慶観の聖祖殿に芝草が生じた。四月、邵陽等県の竹が米の如き穂を生じ、民は飢えて之を食した。又、浮梁県の竹が米の如き穂を生じた。七月、漢陽軍太平興国寺に異竹一本あり、二莖を生じ、節皆相対す。十二月庚午、内より芝草を出だすこと眞武像の如し。二年正月庚子、内より眞遊・崇徽二殿の『梁上芝草図』を出だして宰相に示す。五月、兗州景霊宮昭慶殿に金芝二本生ず。三年六月、漢陽軍に芝草一百五十余本生ず。七月、嵩山崇福宮に芝草一百本を獲たり、重台連理・草を貫く者有り、河南府知事馮拯之を献ず。四年四月、梁山軍の民王崇扆の竹園に金暈紫芝五本生ず。十一月、上饒県の民王寿の園中に芝草三本生ず、皆金暈なり、其の二は連理なり。
乾興元年六月、蘇・秀二州の湖田に聖米が生じ、住民はこれを取って食す。興州の竹に実が生じ、大麦の如く、民はこれを取って食す。占いに曰く、「大饑饉あり」と。八月、洋州の民李永、土を負って母の墳を成し、芝が墳上に生ず。
天聖元年五月、興州の竹に大麦の如き実を結び、民之を取って食す。占いに曰く、「竹に実有れば、大饑饉有り」と。八月甲寅、芝天安殿の柱に生じ、輔臣を召して之を観せしむ。九月戊午、城西下木場に芝草生ず。三年七月、梓州の城門に芝二本生ず。四年正月、梓州の民家に芝四本生ず。九月、榮州に芝生ず。
明道元年七月、榮州及び連州に並びに芝草生ず。
景祐二年九月、嘉州に芝草生ず。四年五月丙寅、芝化成殿の楹に生ず。
慶曆元年二月丙午、京師に薬の雨が降る。二年八月、梓州に芝草生ず。五年八月、洪州章江禅院の堂柱に芝草生ず、高さ一尺三寸、葉二十一層、色は白黄にして紫暈あり、旁らに小芝を生じ、葉九層、上に気有りて煙の如し。
皇祐元年七月、福州に芝が十二本生ず。十月、湖州に芝草生ず。三年六月丁亥、無爲軍が芝草を献ず、凡そ三百五十本。上曰く、「朕は豊年を上瑞とし、賢臣を宝とす。草木・魚蟲の異に至りては、焉ぞ尚ぶに足らんや」と。
五年閏七月、榮州に芝草生ず。
嘉祐三年十一月、河南府に芝草生ず。六年正月、清川縣の漢光武祠に芝草生ず、一本にして三岐なり。八月、施州歌羅砦に芝四本生ず。十月、汝州新砦巡檢の廨舎に芝五本生ず。
熙寧元年、益陽縣に雷震山裂け、米を出だすこと数十萬斛に可く、京師に齎すも、信米なり。但だ色黒く炭の如し。八年七月、鼎州に芝三本を産す。其の一は珊瑚に類し、枝葉摎結す。鹽官縣は三月より地物を産す珠の如く、食す可し。水菜を産す菌の如く、菹と為す可し。饑民之に頼る。九年五月、流江縣に芝二十一本を産す。
元豐二年四月、眉州に瑞竹生ず。六月、忠州に豆を雨ふる。七月甲午、南賓縣に豆を雨ふる。十一月、全州に芝十二本生ず。三年六月、安州に芝二十九本生ず。其の一は連理なり。臨江軍に芝四十三本生ず。四年十月、郪縣天慶觀に瑞竹一本生ず、第九節より分莖し雙起す。五年七月、永康縣に紫芝九本生ず。十一月、閬中縣に紫芝六・金芝七生ず。永康縣に紫芝九生ず。六年八月、吉州に芝三十三本生ず。十二月、滕縣の官舎に異草生じ、月を経て腐らず。七年四月、景靈宮に芝六本天元殿門に生ず。五月、開化縣に芝九本生ず、黄白紫色なり。八月、永安陵下宮に芝一本生ず。十月、青州に芝二十一本生ず。
元祐元年七月、武安軍言う、「前秘書省正字鄭忠臣が母の墳前に芝草一本生ず、紫莖黄蓋なり」と。三年六月、臨江縣塗井鎮に白黍を雨ふる。七月、又た黒黍を雨ふる。四年九月、江津縣の石上に芝草二本六莖生ず。五年二月、晉原縣に芝草四十二本生ず。七年十一月、滁州に芝二百餘本生ず。
紹聖三年九月、淄川縣に芝草生ず。穀十科有りて芝草を穿ち二枝生ず。十月、河南府大内の地に芝草生ず。
元符二年正月、處州の民田に瑞竹生ず。二月、瀘州に芝草一本生ず。同根にして駢幹し、蓋に至りて復た一に合す。又た衡州郡廳に紫芝一根十六葉生ず。
崇寧元年八月、磐石縣に芝草連理す。三年十月、復州・澤州に芝草生ず。四年正月、戎州・宿州に芝草生ず。七月、瀘州に芝草・瑞竹生ず。五年冬、澶州・安州に芝草生ず。
大觀元年三月、宣・鄆・湖・潤州皆芝草生ず。廬州に大豆を雨ふる。九月、崇天臺及び兗州孔林に芝草生ず。二年、陳・兗・筠州・廣德軍に芝草生ず。三年秋、西京・湖・海・普・渠州・南安軍に芝草生ず。
政和元年正月、萊州に芝草生ず。十一月、虔州聖祖殿に芝草生ず。二年二月戊子、河南府新安縣の蟾蜍の背に芝草生ず。是より後、祥瑞日々に聞こゆ。玉芝禁中に産す、殆ど虚歳無し。凡そ殿宇・園苑及び妃嬪の位に之れ有り。外には中書尚書二省・太學・醫學も亦た紫芝を産す。四年八月、建州境内の竹に米を生ず、数千萬石。五年十一月癸酉、越州承天寺に瑞竹一竿七枝、幹相似、其の葉圓細にして、花を生じ実を結ぶ。詔して秘書省に送り、仍た表を拝して賀す。五年五月、禁中の芭蕉連理す。八月甲子、蘄州が芝草一万一千六百枝を進む。内一枝紫色、九幹。十二月己未、汝州が六萬本を進む。其の間連理・雙枝するもの一千八百八十、有司其の紀に勝えず。初めは猶表賀す、後は常と為し、皆賀せず。時に朱勝非京東提舉學事と為り、部を行きて密州界に至る。県令の数百夫を部して山に入り芝を采るを見る。山谷に彌漫し、皆芝菌なり。或いは木石に附き、或いは平地に出づ。一本数十葉有り、層疊高大、衆色咸く備わる。郡守李文仲采ること三十萬本に及び、毎萬本を一綱と作って入貢す。文仲尋いで職を進められ、本道轉運使を授かる。
建炎二年九月癸卯、権知密州杜彥が芝草を献ず。五葉、人の指掌の如く、色赤くして沢有り。宰臣黃潛善奏す、「色は火徳に符し、形は股肱の瑞を像る」と。高宗啓視せず、之を却く。
紹興元年七月乙未、浙西安撫大使劉光世、枯秸の穂を生ずるを以て瑞を奏す。高宗曰く、「朕潜邸に在りし時、梁間に芝草生ず。官僚皆上聞せんと欲す。朕手を以て之を砕き、此の奇怪を宝とせんと欲せず」と。乃ち之を却く。十六年正月辛未、瀘州に天豆を雨ふる。草妖に近し。十六年、梅州孔子廟に芝生ず。二十一年、紹興府學の御書の下に芝生ず。番陽縣石門の民家の籬竹に重萼の牡丹を生ず。又た民家の灶鼎に金色の蓮華を生ず。房州治所の彩山の下に萱を生ず。萬州・虔州の放生池に蓮を生ず。皆同蒂異萼なり。二十三年六月、汀州に蓮を生ず。同蒂異萼なるもの十有二。二十五年五月、太室の楹に芝九莖生ず。秦檜百官を帥いて之を観、賀を称す。勾龍廉・沈中立頌を献ずるを以て遷擢され、周麟之之を鹵簿の行旗に繪すことを請う。檜の孫禮部侍郎塤、黎州の甘露草木に降り、道州の連理木、鎮江府の瑞瓜、南安軍の瑞蓮、嚴・信州の瑞芝を悉く旗に圖すことを請う。是の冬、檜薨ず。高宗曰く、「比年四方瑞を奏す。文飾して悦びを取る。信州林機の秦檜父祠堂に芝生ずと奏するが如きは、佞諛尤も甚だし」と。明年四月甲午、詔して郡國に瑞を献する無からしむ。
乾道元年七月、池州の竹に穂を生じ、実米の如し。饑民之を采りて以て食す。守臣魯詧《野穀生竹圖》を作りて以て献ず。御史詧を劾す、民の草木を食するを病と為さざるを以て。佞に坐して官を免ぜらる。
慶元五年八月、太室西北夾室の楹に白芝生ず。四葉。前史は白芝を喪祥と為す。明年八月、国連ねて大喪有り。
嘉泰二年十一月、秘書省右文殿の柱に芝が二茎生えた。