宋史

本紀第四十六 度宗

度宗端文明武景孝皇帝、諱は禥、太祖の十一世孫なり。父は嗣榮王與芮、理宗の母弟なり。嘉熙四年四月九日、紹興府の榮邸に生まる。初め、榮文恭王夫人全氏、神の言ふを夢み、「帝汝が孫に命ず、然れども汝が家の有する所に非ず」と。嗣榮王夫人錢氏、日の光東室を照すを夢み、是の夕、齊國夫人黃氏も亦た神人采衣を着て一龍を擁し懐中に納るるを夢み、已にして娠あり。及び生まるるに、室に赤光あり。資識内慧にして、七歳にして始めて言ひ、言ふ必ず度に合ひ、理宗之を奇とす。及び位に在ること歳久しく、子無く、乃ち意を属して神器を托せんとす。淳祐六年十月己丑、名を孟啓と賜ひ、皇侄を以て貴州刺史に授け、内小學に入る。七年正月乙卯、宜州觀察使を授け、王邸に就きて訓習す。九年正月乙巳、慶遠軍節度使を授け、益國公に封ず。十一年正月壬戌、改めて孜と名を賜ひ、建安郡王に進封す。

寶祐元年正月庚辰、詔して皇子と立つるを賜ひ、今の名に改めて賜ふ。癸未、崇慶軍節度使・開府儀同三司を授け、永嘉郡王に進封す。二年七月、宗正少卿蔡抗を以て翊善を兼ねしむ。時に資善堂初めて建ち、理宗《堂記》を制し、書して王に賜ふ。十月癸酉、忠王に進封す。十一月壬寅、元服を加へ、字を邦壽と賜ふ。五年十月庚子、鎮南・遂安軍節度使を授く。景定元年六月壬寅、皇太子と立つ、字を長源と賜ひ、楊棟・葉夢鼎を命じて太子詹事とす。七月丁卯、太子東宮に入る。癸未、冊禮を行ふ。時に理宗家敎甚だ嚴しく、雞初鳴に問安し、再鳴に宮に回り、三鳴に會議所に往きて庶事を參決す。退きて講堂に入り、講官經を講じ、次に史を講じ、終日手卷を釋かず。將に晡ならんとし、復た榻前に至り起居し、率ね常と爲す。理宗今日何の經を講ずるかと問ひ、之に答ふる是なれば、則ち坐を賜ひ茶を賜ひ、否なれば、則ち爲に之を反覆剖析し、又通ぜざれば、則ち怒を以て繼ぎ、明日須らく更に覆講すべし。二年正月丁丑、太學に於いて孔子に謁し、張栻・呂祖謙を以て從祀に列するを請ふ。十二月癸卯、永嘉郡夫人全氏を冊して皇太子妃とす。

景定五年

五年十月丁卯、理宗崩ず。遺詔を受け、太子即皇帝位す。戊辰、皇后謝氏を尊びて皇太后と曰ひ、生日を壽崇節とす。庚午、宰執・文武百官祥曦殿に詣り表を上りて聽政を請ふ、允さず。辛未、大赦す。

十一月壬申、宰執以下日表を上りて視朝を請ふ、允さず。丁丑、凡そ七表、始めて從ふ。丙戌、帝初めて聽政し、後殿に御し、馬廷鸞・留夢炎を命じて侍讀を兼ねしめ、李伯玉・陳宗禮・範東叟を侍講を兼ねしめ、何基・徐幾を崇政殿說書を兼ねしむ。詔して直言を求む。又詔して先朝の舊臣趙葵・謝方叔・程元鳳・馬光祖・李曾伯各上言して以て逮はざるを匡へしむ。江萬里・王爚・洪天錫・湯漢等を召して闕に赴かしむ。詔して躬ら三年の喪を行ふ。濟王竑の元贈少師・節度使を復し、鎮王を追封し、諡して昭肅と曰ひ、有司に墳制を討論して之を增修せしむ。嗣榮王與芮に武康・寧江軍節度使を加封し、前の如く太師・判宗正事に依る。詔して邊防の將士を撫勞す。監察御史宦官李忠輔・何舜卿等の贓罪を劾し、並びに遠方に竄す。戊戌、詔して儒臣日に經筵に侍し、輔臣講を觀せしむ。乙未、洪天錫を命じて侍御史を以て侍讀を兼ねしむ。

十二月辛丑、詔して明年を改めて咸淳元年と爲し、銅錢關子を行ひ、率貫を七百七十文足を以てす。壬寅、贓吏を戒め貢羨餘を絕つ。甲辰、詔して生日を以て乾會節とす。初めて經筵を開き、講殿を熙明と名づく。禮部尚書馬廷鸞《大學衍義序》を進讀し、心法の要を陳ぶ。

是歲、兩浙・江東西・湖南北・廣東西・福建・成都・京西・潼川・夔・利路の戶五百六十九萬六千九百八十九、口一千三百二萬六千五百三十二。大理寺大辟三十三人を奏す。

咸淳元年

咸淳元年春正月辛未朔、日食あり。丞相賈似道總護山陵使たらんことを請ふ、允さず、尋いで詔を下して獎諭す。癸酉、直學士院留夢炎疏を上りて似道を留む。甲戌、諫議大夫朱貔孫等も亦た改命を請ふ、報ぜず。詔して臨安商を征することを免ずること三月。丙子、京湖制置使呂文德辭免す、允さず。

二月庚申、籍を中書に置き、諫官・御史の事を言ふを記し、歳終を以て成績を考ふ。

三月癸酉、似道機政を解かんことを乞ふ、允さず。壬午、京湖制司鎮邊軍を創め招く。甲申、理宗を永穆陵に葬る。

夏四月壬寅、四川都統昝萬壽の雲頂山・金堂峽の功を賞し、其の將士に及ぶ。丁未、壽崇節、臨安の官私房僦地錢を征することを免ず。戊申、乾會節、上の如く征を免じ、再び在京の商を征することを免ずること三月。是より祥慶・災異・寒暑皆免ず。戊午、賈似道特に太師を授く。己未、景靈宮に幸し、米八萬石を發して京城の民を贍ふ。夔路都統王勝李市・沙平の戰に功を獲たるを以て、官を轉ずること兩資、將士效力する者は、其の名を上りて賞を推す。

五月己巳、史彌遠を追命して公忠翊運定策元勳とす。

閏月乙巳、長雨により、京城において直を減じて米三万石を糶く。これより米価高き時は即ち廩を発して平糶し、以て常と為す。丁未、銭二十万を発して在京の小民を贍し、銭二十万を殿・歩・馬司の軍人に賜い、銭二万三千を宿衛に賜う。これより慶を行い、災を恤うるか、或いは霪雨雪寒に遇う時は、咸く上数に依りて賜う。江萬里を以て参知政事と為し、王爚を同知枢密院事・権参知政事と為し、馬廷鸞を端明殿学士・簽書枢密院事と為す。丁巳、銭三十万を以て臨安府に命じ、物賈を通変平らげしむ。丁卯、故成都馬歩軍総管張順、王事に歿す。詔して特に官五転を贈り、其の子に八官の恩沢を与う。

六月乙酉、理宗の御制の閣を名づけて顕文と曰い、学士・直学士・待制・直閣等の官を置く。戊子、沿海制置使葉夢鼎、三たび免を辞す。允さず。己丑、理宗の原廟殿を名づけて章熙と曰う。

秋七月丁酉、太白昼に見ゆ。初めて迪功郎鄧道を韶州相江書院の山長と為し、先儒周惇頤の祀を主らしむ。壬寅、参知政事江萬里、帰田裏を乞う。允さず。戊申、夔路安撫徐宗武、開・達の石城を城く。推恩を乞う。之に従う。壬戌、州県を督めて銭法を厳にし、民間の牌帖を用いるを禁ず。癸亥、諒陰を以て、宰執に命じて類試を行わしめ、阮登炳以下、廷試の例に依りて出身せしむ。在京に窠柵を置き、私に囚を系するを禁ず。

八月庚辰、陳奕に命じて江に沿い軍防を按閲せしめ、銭二十万を賜いて用に給す。丁亥、詔して有司に民田の租を収むるに、或いは掊克して藝無きこと有らば、監司其れ厳に禁戢せよと。違う者は刑有り。甲午、大元の元帥阿術、大軍を帥いて廬州及び安慶に至る。諸路統制範勝・統領張林・正将高興・副将孟興、逆戦し、陣に没す。詔して勝等各其の一子に進勇副尉の官を授く。

九月己酉、洪天錫を工部侍郎兼侍読と為す。壬子、宰執に命じて司馬光・蘇軾・朱熹の後人を訪わしめ、賢者能者、各其の名を上らしめて録用せしむ。癸丑、呂文德言う、京湖制・帥・策応の三司官属、推恩を乞う。詔して各一秩を進む。庚申、吏部侍郎李常、七事を上る。曰く廉恥を崇くし、郷挙を厳にし、守令を択び、貪污を黜し、疑獄を讞し、儒師を任じ、役法を修すと。

冬十月壬申、四川州県の塩酒課を減ず。始めて景定四年正月一日よりし、再び三年を征むることを免ず。乙亥、田契税銭を什四減ず。庚辰、江安州・潼川安撫司、攻めて懐・簡の小富砦を戦うる図を以て来上す。詔して優に答えて賞す。

十一月乙未、兄少保・保寧軍節度使致仕乃裕薨ず。少傅を贈り、臨川郡王を追封す。

咸淳二年

二年春正月癸丑、江萬里四たび帰田を請い、祠禄を乞う。允さず。湖南安撫使兼知潭州と為す。

二月乙巳、侍講範東叟、正心の要に三有りを奏す。曰く徳を進め、政を立て、天に事うと。上嘉納す。戊寅、詔して湖南漕司の積年運上する峽米の耗折逋直を免ず。辛卯、詔して左・右史、旧制に循い御坐前に侍立せしむ。

三月庚子、夔路総管張喜等の開・達を防護する軍功を賞し、将士進官差有り。乙巳、詔して郡守は両年を以て任と為し、方て別に官を授く。戊申、敕書を賜いて呂文德を奨諭す。

夏四月乙丑、洪天錫三たび祠を請う。允さず。顕文閣待制知潭州兼湖南安撫使と為す。甲申、侍御史程元岳上言す。「帝王の寿を致すの道は徳を修むるに在り。後世は邪説に怵て以て之を求め、往轍鑑と為す可し。徳を修むるの目に三有り。曰く心を清くし、欲を寡くし、倹を崇む。皆な寿を致すの原なり。」上嘉納す。丁亥、信州布衣徐直方に史館編校を授く。

五月癸丑、詔して諸節制将帥は軍実を討め、浮費を節し、兵士を占役する毋く、以て訓練を妨げしむるなからしむ。

六月丁丑、羅鬼国に化州の印を給す。壬午、衢州饑を以て、守・令に命じて諸藩邸に分を勧め、廩を発して之を助けしむ。

秋七月壬辰、雨を祈る。詔して来年正月一日に郊せんとす。壬寅、礼部侍郎李伯玉言う。「人材は善く養うを貴び、速成を貴ばず。童子科を罷め、奔競を息め、以て幼稚の良心を保たんことを請う。」詔して咸淳三年を始めと為して之を罷む。

八月甲申、安南国は使者を遣わして即位を賀し、方物を献ず。

九月丙辰、浙西安撫使李芾は台臣黄万石等の言により、両秩を削られて免ぜらる。

冬十一月辛丑、両淮制置使李庭芝は城を築き、武鋭一軍を屯駐せしめ、工役の費用及び図を以て来上す。詔してこれを労う。乙卯、少師致仕趙葵薨ず。太傅を贈り、諡して忠靖と賜う。丁巳、利東安撫使・知合州張玨は統制史炤・監軍王世昌等を調遣し、広安大梁城を復す。詔して爵賞を推し差等有り。

十二月丁丑、貪を戢めるの令を厳にす。甲申、先帝の諡を請うて天地・宗廟・社稷に祭告す。丙戌、冊宝を奉じて南郊に請い、上諡して建道備徳大功復興烈文仁武聖明安孝皇帝と曰い、廟号を理宗とす。大理寺、歳終の大辟十五人を奏す。

咸淳三年

三年春正月己丑朔、郊祀を行い、大赦す。丁酉、皇太后の宝を奉じ、尊号を寿和と上る。辛丑、寿和太后の冊・宝の礼成る。謝堂等二十七人各一秩を進め、高平郡夫人謝氏等二十二人各進封・特封差等有り。癸卯、妃全氏を冊命して皇后とす。戊申、帝太学に詣で孔子を謁し、釈菜の礼を行い、顔淵・曾参・孔伋・孟軻を以て配享し、顓孫師を十哲に昇し、邵雍・司馬光を列して従祀に昇し、雍に新安伯を封ず。礼部尚書陳宗礼・国子祭酒陳宜中進みて『中庸』を読む。己酉、執経官宗礼・講経官宜中各一秩を進め、宜中に紫章服を賜う。太学・武学・宗学・国子学・宗正寺の官及び医官・監書庫・門・庖等、各一秩を進め、諸斎の長諭及び起居学生に推恩差等有り。乙卯、寿和太后の親族謝奕修・郭自中・黄興在等二十八人各升補一秩。

二月己未、広安軍を克復し、詔して寧西軍と改む。庚申、馬光祖再び致仕を乞うも、允さず。乙丑、詔す、賈似道を太師・平章軍国重事とし、一月に三たび経筵に赴き、三日に一朝し、事を都堂に治めしむ。丙子、枢密院言う、知夔州・夔路安撫徐宗武、臥龍山堡囲を創立す。詔して宗武に行遙郡団練使を帯せしめ、以てその労を旌す。

三月癸卯、知房州李鑒及び将校杜汝隆・夏喜、龍光寨に戦いて功有るにより、優に旌賞を与う。

夏四月庚申、寿和太后の両次冊・宝に際し、族兄弟謝奕実等十五人・族侄謝在達等四十七人・族侄孫謝鏞等十四人各銀十両・帛十匹を錫う。詔す、太中大夫全清夫は儒科より身を発し、懇に換班を陳じ、靖退尚ぶ可し、特く清遠軍承宣使・提挙佑神観を授け、仍って朝請を奉ぜしむ。乙酉、張玨は合州の春耕を護り、款龍渓に戦い、状を以て功を言う。詔して立功の将士の姓名を上るを促す。

五月丁亥朔、日食有り。戊申、詔して曰く、「比来常に有司に命じて按月に百官の俸を給す。惟だ官愈いよ卑く、民に去る愈いよ親しきを思うに、仍って期を過ぎて予えざるを聞く。是れ吏の吾が命を奉ずる虔ならざるなり。諸路の監司其れ厳に糾劾せよ」。

六月壬戌、呂文徳に少傅を加授し、馬光祖を参知政事とし、李庭芝を兵部尚書とし、並びに職任仍って旧の如し。皇后冊を受けて推恩し、弟全清夫以下十五人官一転、全必槱以下十七人承信郎に補す。癸酉、美人楊氏進みて淑妃に封ぜらる。戊寅、詔す、栄王の族姻与萊等三十四人各転官差等有り。

秋七月丁亥、張玨に正任団練使・行左領軍衛大将軍を帯するを授け、金帯を賜う。壬辰、枢密院言う、「右武大夫・権鄂州都統汪政、鄂城に戦い防禦し、又光化城外の積聚を焚き、及び真陽城を攻むるに、皆功有り。該って十二官を転ず」。詔して横行遙郡に転ず。甲午、四川都統昝万寿は統制趙宝・楊立等を調遣し、舟師を率いて糧を護り渠城に達せしめ、功を以て賞を推す。己酉、権黎州張午、大青羌の主帰義を招諭す。両林西蕃瑜林の例を用い、賜予を加えて優にせんことを乞う。之に従う。

八月辛酉、歩帥陳奕を遣わし、馬軍舟師を率いて江防を巡邏せしむ。壬戌、辺報警急。詔して呂文徳等に諭し、防遏を厳にすべしと申す。乙丑、太師・武康寧江軍節度使・判大宗正事嗣栄王与芮、進みて福王に封ぜられ、栄王の祀事を主る。壬申、久雨。在京の三獄・赤県・直司・簽廳に命じ、官を択びて獄訟を審決し滞ること無からしむ。

九月乙未、詔す、郡県民田租を折収するに、厚き直を以て贏を取ること無からしめ、違う者は罪を論ず。癸卯、知邕州総統譚淵・李旺・周勝等、特磨より行きて大理界に至り、兵を率いて建水州を攻め、其の知州阿孱以下三百余人を禽え、馬二百余を獲、穀米・器甲・廬舎を焚く。師還りて功を論じ、各官三資を転じ、軍校補転差等有り。

冬十月庚申、開州を復す。四川策応司に銭百万を賜い軍を労う。甲戌、大いに雷電す。

十一月丙申、故左丞相呉潜を追復して光禄大夫とす。壬寅、房州知事李鑒が路将夏喜・統領馮興等を調遣して均州武陽壩で戦功を挙げたことを賞す。

十二月丙辰、呂文煥は旧に依り行御器械を帯び、改めて襄陽府知事兼京西安撫副使とす。丁卯、台臣が言上す、叙復して元官観文殿学士・提挙洞霄宮の皮龍栄は貪私にして傾険、嘗て丁大全に朋附せり、新命を寝かすを乞う。詔して祠禄を予う。

咸淳四年

四年春正月癸未、呂師夔に紫章服・金帯を賜う。己丑、呂文德言上す、襄陽府知事兼京西安撫副使呂文煥・荊鄂都統制唐永堅が蠟書をもって白河口・万山・鹿門山の北帥が城堡を興築するを報ず、郢州知事翟貴・両淮都統張世傑に檄を飛ばして備禦を厳に申す。癸巳、故守合州王堅に廟額を賜いて「報忠」と曰す。癸卯、沔州駐紮・潼川安撫副使昝万寿を特旨にて右武大夫に昇進せしめ、行左ぎょう衛大将軍を帯び、金帯を賜う。己酉、印応雷を改めて慶元府知事兼沿海制置使とす。庚戌、詔して曰く、「近年近臣謂れ無く引去して以て高と為し、再三留め勉むるも、近からずして益々遠ざかり、往々相尚ひ、其の非義なるを知らざるなり。亦た一二の大臣嘗て勇んで去りて以て衆望と為し、相踵ぎて今に至る。孟子は斉王に遇はざるを以て、故に去る、是れ未だ嘗て君臣の情有らざるなり、然れども猶ほ三宿して晝を出づ、庶幾くは之を改めんとす。儒者の家法、亦た此れを取らざるか。朕諸賢に於いて、允に負ふこと無しと謂ふ、其れ高尚に弗ずして、人をして朕に負ふを疑はしむること無かれ」。

閏月庚午、夏貴に金帯を賜う。

夏四月壬午、湯漢三たび刑部侍郎・福建安撫使を免ぜんことを辞す。庚寅、乾会節、帝紫宸殿に御し、群臣賀す。上曰く、「謝方叔名を託して進香し、擅に金器諸物を進め、且つ先帝の手沢を以て、毎に跋を系ぐ、率多く包蔵し、至っては先帝の行事を以て己が功と為す、殊に大臣の体を失ふ、宜しく一秩を鐫すべし」。ここにおいて盧鉞等相継ぎて方叔の昨しょく・広の敗事、国を誤り民を殄ふし、今又制に違ひて擅に進むを論列す、一秩を削るは罰軽し。詔して四秩を削り、観文殿大学士・恵国公を奪ひ、宰臣の恩数を罷め、仍って《宝奎録》並びに跋を系げたる真本を追ひて来上せしむ。丙申、右正言黄鏞言上す、「今辺を守る急務、兵農合一に非ざれば不可なり。一に曰く屯田、二に曰く民兵。川蜀は屯田を先とし、民兵之に次ぐ、淮・襄は民兵を先とし、屯田之に次ぐ、此れ足食足兵の良策なり」。報へず。丁酉、詔して故修武郎姚済は節に死す、廟を立て、額を賜いて「忠壮」と曰す。

五月辛酉、枢密都承旨高達再び侍衛都虞候を辞し、田裏に帰らんことを乞ふ、命して孫虎臣を以て之に代ふ。壬申、陳文龍以下六百六十四人に進士及第・出身を賜う。丙子、賈似道骸骨を乞ふ、允さず。

六月辛巳、葉夢鼎再び田裏に帰らんことを乞ふ、允さず。詔して浙西諸州の公田庄官を罷め、民を募りて自ら耕し租を輸せしむ、租は什三を減じ、私に相易田する毋れ、制に違ひては官田を盗売するを以て論ず。

秋七月戊午、星氐宿より出で、西北に急流して騎官星に入りて没す。己未、淑妃楊氏の親属楊幼節以下百三十四人に推恩して進秩す。

八月壬寅、《寧宗実録》・《理宗実録》・《御集》・《日暦》・《会要》・《玉牒》・《経武要略》・《咸淳日暦》・《玉牒》を奉安す、賈似道・葉夢鼎・馬廷鸞各々補転して両官、諸局の官若しくは吏は推恩差等有り。

九月癸未、太白昼見す。大元兵白河城を築き、始めて襄・樊を囲む。

冬十月戊寅朔、日食有り。子憲生まる。参知政事常挺六たび田裏に帰らんことを乞ふ、詔して郡を予う。己亥、已に四川州県の塩酒課を減ず、詔して咸淳四年より始め、再び三年を征せず。

十一月癸丑、枢密院言上す、「南平・紹慶六郡鎮撫使韓宣、渝・嘉・開・達・常・武諸州に城し労有り、峽州より江陵に至る水陸の措置に尽瘁して死す、宜しく王事に没するに視て恩を加ふべし」。詔して宣をして本官を守りて致仕せしめ、一子を任じて承節郎とし、仍って正任承宣使を贈る。丁巳、詔す、江陵府知事陳奕、裨将周全・王德等が西山・南谷口・田家山に戦ひ功有り、各々等第を以て推賞す。戊午、子鍠生まる。丙寅、福建安撫使湯漢再び免ぜんことを辞し、祠禄を乞ふ、詔して別に職を授く。辛未、文武の官選に在りて、部吏に困しめられ、隆寒の旅瑣憫むべし。詔して吏部の長貳・郎官日に趣きて銓注せしめ、小に未備有るも、特と放行し、違ふ者は刑有り。是より隆寒盛暑、厳に誡飭を申す。常挺卒す、少保を贈る。壬申、義役法を行ふ。

十二月辛卯、夏貴を以て沿江制置副使兼黄州知事とす。癸巳、史館状す《理宗実録》接続して起修す。張九成・孫象先は力学して行ひを飭み、家声を墜さず、其の一解を免じて表厲を示す。建康府に命じて南軒書院を建て、先儒張栻を祠る。戊戌、汪立信を潭州知事兼湖南安撫使とし、職任は旧に依る。乙巳、詔して京湖総管張喜・趙万等の石門阪堰の戦功を賞す。

咸淳五年

五年春正月丁未、李庭芝を以て両淮安撫制置大使と為し、揚州知事を兼ねる。壬子、京湖策応司参謀呼延徳、諸将張喜等を率いて北兵に遇い、蛮河に於いて戦う。癸亥、葉夢鼎累章を上して老を請う、之を留むるも固く辞し、前の如く少保・福州判官・福建安撫使と為し、信国公に封ぜらる。馬廷鸞を以て参知政事と為し、同知枢密院事を兼ねる。甲戌、江万里を以て参知政事と為す。

二月戊子、江万里参知政事を辞免す、允さず。

三月丙午、北帥阿術白河より兵を以て樊城を囲む。甲寅、葉夢鼎福州判官・福建安撫使を辞免す、詔して允さず。乙卯、皇后帰寧し、族姻に推恩し、保信軍節度使全清夫以下五十六人各一秩を進め、咸安郡夫人全氏以下三十二人各特封有差。大元兵鹿門に城す。己未、詔す、浙西六郡公田官を設け租を督すること有差。辛酉、京湖都統張世傑馬歩舟師を率いて襄・樊を援け、赤灘圃に於いて戦う。戊辰、江万里を以て左丞相と為し、馬廷鸞を以て右丞相と為し枢密使を兼ねる。己巳、馬光祖を以て枢密院事を知り参知政事を兼ね、呉革を沿江制置使と為す。

夏四月丙子、張世傑の戦功を賞す。辛巳、江万里・馬廷鸞辞免す、詔して允さず。壬午、渠州知事張資、蓬州界白土・神山・蒲渡等の処の今年春の戦功を上す。丙戌、安西都統張朝宝・利東路安撫張玨を以て兵を領し銭粟を護り寧西軍に餉り、還りて水磑頭に至り、戦いて功有り、詔して推賞を下す。己丑、劉雄飛旧に依り枢密都承旨・沅州知事兼常徳・澧・辰・沅・靖五郡鎮撫使。癸巳、李庭芝特進一秩。高郵県夏世賢七世義居す、詔して其の門を署す。

五月己酉、馬光祖旧に依り観文殿学士・洞霄宮提挙。乙卯、程元鳳薨ず、少師を贈る。庚申、星有り、斗宿距星より東北に急流し牛宿に向かい、濁に至りて没す。壬戌、詔す、信陽諸将婁安邦・朱興千石畈に戦い、呂文煥・呼延徳福山に戦い、楊青・李忠石湫に戦い、俱に労効有り、推賞有差。壬申、京湖制司言う、故夔路安撫徐宗武王事に没す、優に贈恤を加へんことを乞う。詔す、致仕恩の外、特に其の一子を承節郎に官す。

六月庚辰、呂文福を以て復州団練使・濠州知事兼淮西安撫副使と為す。甲申、皇子昰生まる。辛卯、家鉉翁新命を辞免す、詔して別に職を授く。庚子、李庭芝淮東提挙を兼ねるを辞免す、允さず。

秋七月己酉、観文殿学士馬光祖本官を守りて致仕せんことを乞う、詔して請を允す。庚申、雨を祈る。壬戌、東南に星有り、河鼓距星より西北に急流し、濁に至りて没す。

八月戊寅、詔す、郡県民田租を収むるに、巧計を以て贏を取ること無く、厚直を以て折納すること無く、転運司厳に按劾を申すべし。詔す、襄・樊の将士戦禦に宣力す、銭二百万を以て師を犒い、其の立功姓名を上して官資を補転せしむるを趣す。

九月丙午、晴を祈る。辛酉、明堂に祀り、大赦す。丙寅、明堂の礼成り、寿和聖福皇太后の尊号冊・宝を上し、太師・大宗正事判官・福王・栄王祀事与芮に食邑一千戸を加ふ。

冬十月甲申、子憲検校太尉・武安軍節度使を授けられ、益国公に封ぜらる。己丑、呂文徳崇国公に進封せられ、食邑七百戸を加ふ。湯漢を以て顕文閣直学士・玉隆万寿宮提挙兼象山書院山長と為す。

十一月戊辰、少傅文徳致仕を乞う、詔して特授少師、衛国公に進封し、請に依りて致仕す。

十二月癸酉、文徳卒す、太傅を贈り、諡して武忠と賜う。己卯、範文虎を以て殿前副都指揮使と為す。寿和聖福皇太后尊号冊宝の礼成り、侄謝堂・侄孫光孫等二十八人各一官を転じ、余の姻に推恩有差。甲申、銭二百万を以て京湖帥臣に命じ襄・郢等の処の水陸戍士に給犒せしむ。戊子、詔す、安南国王父陳日煚・国王陳威晃に並びに食邑一千戸を加ふ。大元兵南新城を築く。

咸淳六年

六年春正月壬寅、李庭芝を以て京湖安撫制置使兼夔路策応使と為し、印応雷を両淮安撫制置使と為す。己酉、銭二百万を以て夔路策応司に賜い備禦賞給に備ふ。庚戌、高達を以て湖北安撫使・鄂州知事と為し、孫虎臣を起復して淮東安撫副使・淮安州知事と為す。辛酉、『成天暦』を行ふ。丁卯、上『字民』・『牧民』の二訓を制し、以て百官を戒む。戊辰、江万里を以て福建安撫使と為す。

二月辛未、検校少保・安德軍節度使与萊に食邑五百戸を加ふ。丁亥、陳宜中経筵に於いて『春秋』を進講し終篇す、象簡・金御仙花帯・鞍馬を賜う。丁酉、呂文福を以て淮西安撫副使兼廬州知事と為す。己亥、朱禩孫権めて兵部尚書と為し、仍って四川安撫制置・夔路転運総領・重慶府知事。

三月庚子朔、日に食あり。癸丑、詔して曰く、「吏の廉を以て称せらるるは、古よりこれ有り、今絶えて聞かず、豈に自ら章顕せずして上聞にふさがるるに非ずや。其れ侍従・卿監・郎官に令し、各廉吏を挙げ、将に顕擢せんとす」と。癸亥、詔す、「贛・吉・南安の境数たび寇におかさる。砦卒有りと雖も、寇出没時に無く、能く相救うこと莫し。宜しく即ち要衝に四砦を立て、砦ごとに兵百を屯し、地勢をして連絡せしめ、寇をふせぐに便ならしむべし。三郡より将官を択びて之を領せしむ」と。

夏四月戊寅、文天祥を以て崇政殿説書を兼ねしむ。

五月辛丑、呉革を以て沿江制置宣撫使とす。

六月庚午、詔す、『太極図説』・『西銘』・『易伝序』・『春秋伝序』は、天下の士子宜しく其の文をならうべしと。戊寅、賈似道疾を托して退辞し、疏十数上る。上留めて益々堅く、礼を異にし、師相と称して名を呼ばず。馬廷鸞及び省・部・台諫・学館・諸司、連章して似道を留むるを請う。庚辰、子憲薨ず。庚寅、詔す、襄・郢の水陸屯戍の将士、隆暑に露処するに、錢二百萬を出し、京湖制司に命じて給賜せしむ。

秋七月、開州を復す。己亥、印を更に鑄して之に給す。

八月甲申、里安府樂清縣に嘉禾生ず。詔して薦士の数を四名増す。壬辰、詔す、郡縣推排法を行い、寡弱戶の田租に虚しく加え、民を害すること甚だし。其れ諸路の監司に令し詢訪し、亟に其の弊を除かしむ。詔して監司・守令を精選し、監司は郡守を察し、郡守は縣令を察し、籍を置きて考核し、歳終に其の治状を第して上らしむ。癸巳、夏貴能く職事を挙ぐるを以て、一秩を進む。詔して似道十日一朝せしむ。

九月庚戌、黄萬石を以て沿海制置使とす。壬子、台州大水。

冬十月丁丑、範文虎を遣わし殿司・両淮諸軍を総統し、襄・樊に往き会合して備御せしめ、錢百五十萬を賜って師を犒う。己卯、詔す、台州に義倉米四千石を発し、併せて豊儲倉米三萬石を発し、水に遭える家を振恤す。甲申、陳宗禮・趙順孫を以て兼権参知政事とし、旧に依り同提挙編修敕令・『経武要略』とす。

閏十月己酉、安吉州水、公田租四萬四千八十石を免ず。戊午、詔す、殿・歩・馬諸軍に貧乏にして陣没の孤遺者多し、方に此の隆寒に当たる、其れ錢二十萬・米萬石を賜って之を振恤す。

十一月丁丑、嘉興・華亭両縣水、公田租五萬一千石、民田租四千八百一十石を免ず。庚辰、詔す、襄・郢の屯戍将士、隆寒にあわれむべし、其れ錢二百萬を賜って師を犒う。己丑、都統張世傑兵を領して江防す。乙未、詔す、陳宗禮一秩を進め、資政殿学士と為し、請う所に依り守兼参知政事を以て致仕せしむ。

十二月戊戌、陳宗禮卒す。七秩を贈る。己亥、詔す、唐全・張興祖等蠟書をもたらして襄陽に入り、往復甚だ艱し、各三官を補転し、錢二千緡を賜う。大元兵萬山城を築く。

咸淳七年

七年春正月乙丑、子昰左衛上将軍を授け、建國公に進封す。詔して湯漢・洪天賜を闕に赴かしむ。詔して貪吏を戒む。辛未、紹興府諸暨縣の湖田水、租二千八百石有餘を免ず。

三月戊寅、屯田租谷十萬石を発し、和州・無為・鎮巣・安慶諸州の饑を振恤す。辛巳、日暈し、赤黄周匝す。乙酉、平江府饑、官倉米六萬石を発す。吉州饑、和糴米十萬石を発し、皆直を減じて振糶す。丙戌、詔して内外百司の吏額を減ず。戊子、米一萬石を発し、建德府に往きて済糶せしむ。詔す、臨江軍の宣聖四十七代孫延之の子孫、国子監試に放つことを与う。

夏四月辛亥、広東提挙司の鹽籮銀三萬両を免ず。甲寅、礼部侍郎陳宜中再び外補を乞う。顯文閣待制を以て福州を出知し、福建路安撫使を兼ぬ。

五月乙酉、礼部進士張鎮孫以下五百二人に及第・出身を賜う。壬辰、米二万石を発し、衢州に詣でて振糶す。

六月癸巳、銭百万・銀五千両を以て嘉定府知事昝萬壽に命じ城を修め壕を浚い、甲兵を繕い、備禦を厳にせしむ。韓震に帯行御器械・江安州知事兼潼川東路安撫副使を、馬堃に帯行御器械・咸淳府知事・涪・萬州節制を任ず。台臣、朱善孫が綱運を督め贓四万五千を受けたことを劾す。詔して特に関死を貸し、三千里に配流し、禁錮して赦さず。乙未、詔して蜀閫の調度浩繁なるを以て、銭二百万を賜い用に給す。丙申、諸暨県に大雨・暴風・雷電あり、米を発して水害に遭える家を振恤す。瑞州の民及び流徙する者飢え、食を欠く。義倉米一万八千石を発し、価を減じて振糶す。己亥、詔して陸九淵の孫溥を上州文学に補す。己酉、鎮江府、転輸米十万石を五河新城に積貯す。癸丑、隆暑を以て、銭二百万を給し襄・郢の屯戍将士に賜う。丙辰、撫州の黄震言う、「本州、荒を振い分を勧む。前穀城県尉饒立、米二百万を積み、吝んで廩を発せず。嘗て監貸せしむと雖も、宜しく遏糴の罪を正すべし」。詔して饒立を両秩削り、武岡軍に居住せしむ。洪天錫、三たび召命を辞す。詔して守臣に赴闕を勉諭せしむ。戊午、紹興府飢う。糧万石を振恤す。己未、両淮の五河に城を築くこと具に完うす。安淮軍と名を賜う。大元、兵を会して襄陽を囲む。

秋七月辛未、枢密院言う、呉信・周旺、蠟書を齎して襄城に入り、往復して労を效せり。詔して各官三転を補す。丁丑、湖南転運司、先儒張栻の後人義倫を訪求して聞す。詔して将仕郎を補す。壬午、四川制置使朱禩孫言う、「夏五月以来、江水凡そ三たび泛溢し、嘉より渝に至り、城壁を漂蕩し、楼櫓圮壊す。又嘉定に地震再びあり、災害を被ること甚だし。賜いて黜罷を乞い、以て天譴に答う」。詔して允さず。癸未、詔す、五河を城すに、淮東制置印応雷、具に労績あり。一秩を進め、宣労の官属将士皆推恩す。

八月壬辰朔、日食あり。甲午、銭三百万を以て、京湖制置李庭芝を遣わし郢州に詣でて調遣し師を犒う。丁未、沿江制置副使夏貴に命じ会合策応せしめ、銭二百万を以て軍に随い用に給す。

九月乙亥、顕文閣直学士湯漢・顕文閣直学士洪天錫、各五たび召命を辞す。詔して並びに華文閣学士に昇げ、仍て祠祿を予う。己丑、子㬎生まる。

冬十月丙申、少傅・嗣秀王與澤薨ず。詔して少師を贈り、臨海郡王を追封す。癸丑、従政郎朱鑒孫、『群経要略』を進む。己未、詔す、殿・歩・馬諸軍の貧乏にして陣没の孤遺なる者、此の隆寒に方り、其れ銭二十万・米万石を賜いて之を振恤せよ。

十一月癸亥、詔す、民に郷に孝弟を以て聞ゆる者有らば、守・令其の名を具して上聞せしめ、将に旌異し労賜せん。己巳、詔して湯漢に官一転、端明殿学士を授け、請う所に依り致仕せしむ。

十二月甲午、詔す、諸路の監司、刑獄を循按するに、傔従民を擾す。御史台に申し厳に覚察せしむ。丙午、銭三十万を以て四川制司に命じ、渠・洋・開州・寧西鎮撫使張朝宝の下に司を創して師を犒わしむ。己亥、淮東統領兼知鎮江府趙溍、祠祿を乞う。允さず。謝方叔、特に関元官職を叙復し、恵国公致仕す。辛亥、初めて士籍を置く。戊午、詔す、廉能にして材県令に堪うる者を挙げよ。侍従・台諫・給舎各十人を挙げ、卿監・郎官各五人を挙げ、制帥・監司各六人を挙げ、知州・軍・監各二人を挙げよ。

咸淳八年

八年春正月庚申、詔す、「朕惟うに儉を崇むるは必ず宮禁より始む。今より宮禁、敢えて珠翠銷金を以て首飾服用と為す者は、必ず罰し貸さず。臣庶の家、咸宜しく体悉すべし。工匠犯す者は、亦景祐の制の如く、必ず重典に従う」。又詔す、「有虞の世、三載考績し、三考幽明を黜陟す。漢の吏と為る者子孫を長ずるは、則ち其の遺意なり。比年吏習偷薄、人一切を懐い、日を計りて遷を待ち、事未だ克く究めず、又望みて他の之く。吏胥狎玩し、窃に官政を弄ぶ。吾民何に頼らんや。今より継ぎて内の郎曹、外の牧守以上、更に数易せず。其れ治状昭著なる有らば、自ら宜しく獎異すべし」。辛未、子昺生まる。己丑、湯漢卒す。文清と諡を賜う。

二月癸巳、謝方叔卒す。少師を贈る。前知台州趙子寅歿し、帰する所無し。特に関直秘閣を贈り、没官宅一区・田三百畝を給し、其の孤遺を養い、以て廉吏を旌す。丙午、銭二百万を以て襄・郢の水陸戦戍将士を犒うに給す。

三月丙子、同知枢密院事兼権参知政事趙順孫、中大夫を授かる。

夏四月戊子、合州知事・利路安撫張玨、宜勝山城を創築す。

五月己巳、王爚、観文殿学士・万寿観提挙兼侍読を除す。大元の兵、久しく襄・樊を囲み、援兵関険に厄せられ、進むことを克くせず。詔して荊・襄の将帥に新郢に移駐せしめ、部轄張順・張貴を遣わし死士三千人を将い、上流より夜半軽舟を以て転戦せしむ。比明けて襄城に達し、軍を収め視るに、張順を失う。

六月丙申、皮龍栄、衡州に徙す。丁酉、章鑒を端明殿学士・同簽書枢密院事・同提挙『経武要略』と為す。銭千万を以て京湖制司に命じ米百万石を糴し、転輸して襄陽府に積貯せしむ。乙巳、家鉉翁を以て兼権知紹興府・浙東安撫・提挙司事と為し、唐震を浙西提点刑獄と為す。王爚、新命を寝むるを乞う。允さず、赴闕を勉諭す。辛亥、台臣言う、江西の推排田結局已久しく、旧設の都官・団長等の虚名尚在り、常役を占吝し、害を為すこと窮まり無し。又言う、広東運司の銀場民を病ます。詔して俱に之を罷む。癸丑、銭五百万を以て四川制司に命じ湖北に詣でて糴運し、上峡より夔に入る米五十万石を運ばしむ。

秋七月辛未、静江府知事・広西経略安撫使兼計度転運使胡穎が祠祿を乞う。詔して勲一転を授け、乞うところの宮観に依らしむ。

八月丙戌朔、日食あり。辛丑、家鉉翁を闕に赴かしむるを詔す。丁未、紹興府六邑水害あり、米を発して水害に遭える家を振恤す。壬子、王爚明堂大礼陪祠を辞免す。乙卯、福建安撫陳宜中よくその職を挙ぐるにより、宝謨閣待制に昇進せしむるを詔す。

九月丁卯、洪天錫を端明殿学士に転じ、致仕を請うを許す。辛未、明堂の礼成り、景霊宮に祀る。還幸の途大雨に遇い、逍遙輦に改乗して和寧門に入り、赦を肆う。庚辰、朱禩孫を以て四川屯田使を兼ねしむるを詔す。乙酉、洪天錫卒す。五官を贈り、文毅と諡す。

冬十月己亥、紹興府、八月一日に会稽・余姚・上虞・諸曁・蕭山の五県大水ありと言上す。詔して田租を差等を以て減ず。丁未、章鑑を以て権参知政事を兼ねしむ。右丞相馬廷鸞十たび上疏して骸骨を乞う。詔して允さず。庚戌、秋雨により水溢れしを以て、詔して銭塘・仁和両県の民田租を什二減じ、会稽の湖田租を什三減じ、諸曁の湖田租は尽くこれを除く。辛亥、陳宜中給事中を兼ぬ。

十一月乙卯、右丞相馬廷鸞累疏して骸骨を乞う。観文殿学士・饒州知事を授く。詔して隆寒を以て、殿・歩・馬司諸軍の貧窮なる者及び陣没者の孤遺を、銭粟を以て振恤す。丙辰、陳奕を以て殿前都指揮使として侍衛歩軍司・馬軍司を摂せしむ。己未、馬廷鸞饒州知事を辞免し、祠祿を乞う。詔して請うところに依り、観文殿大学士・鄱陽郡公として洞霄宮を提挙せしむ。壬戌、阮思聰を枢密院に赴かしめ廩議せしむ。己巳、詔して明堂の礼成りしにより、安南国王陳日煚・陳威晃に各々食邑一千戸を加え、鞭・鞍・馬等の物を賜う。

十二月甲寅、葉夢鼎を以て少傅・右丞相兼枢密使とす。

咸淳九年

九年春正月乙丑、樊城陥落す。範天順・牛富これに死す。癸未、詔して安豊統制金文彪・朱文廣・王文顯・盛全の𣴛河・古河・泉河・瑉河等の処における戦功を定め賞を行わしむ。

二月甲申、詔して鄂州左水軍統制張順は身を戦陣に没す。寧遠軍承宣使を贈り、その二子を承信郎に官し、京湖に廟を立て、額を忠顕と賜う。甲午、朱禩孫は撫綏備禦に努め、難を辞せざるの義あり。勅書を下してこれを奨諭す。丁未、夏貴を検校少保とす。庚戌、呂文煥襄陽府を以て大元に帰す。癸丑、朱澗寺の戦功を以て、来帰の人馬宣・沿江都統王喜等の将士千五百七十余人に賞を推す。

三月庚申、賈似道、辺境の急報日々に聞ゆと言上し、師を督いて将帥を励ますを請う。詔して允さず。四川制司言上す、「近く成都に出師せしに、劉整の故吏羅鑒北より復た還り、劉整の書稿一帙を上る。江南を取るの二策あり。其一は先ず全蜀を取る。蜀平らば江南定まるべし。其二は清口・桃源は河・淮の要衝なり。宜しく先ずその地に城を築き、山東の軍を屯して進取を図るべし」。帝奏を覧て、急ぎ詔して淮東制司をして清口に往き、利に択び城を築きてこれを備えしむ。葉夢鼎右丞相を辞免す。詔して允さず。庚午、金吾衛上将軍阮思聰を遣わし、平江・鎮江及び黄州より行きて城池を視察せしむ。凡そ修繕増改に合うものは急ぎ条奏せしむ。丙子、来帰の人方徳秀を成忠郎に補し、栗勇・楊林・胡巨川を保義郎に補し、劉全を承信郎に補す。戊寅、賈似道初めて李庭芝の表を奏す。襄帥呂文煥城を以て大元に降ると言う。己卯、昝萬壽に寧遠軍承宣使を加え、職任は旧に依らしむ。庚辰、夏貴検校少保を辞免す。允さず。壬午、詔して機速房を建て、枢密院の兵事漏泄・辺報稽違の弊を革さんとす。賈似道累疏して自ら師を督するを請う。詔して留めんことを勉む。

夏四月、詔して襄城の死節を褒む。右領衛将軍範天順に静江軍承宣使を贈り、右武大夫・馬司統制牛富に金州観察使を贈り、各々その二子を承信郎に官し、土田・金幣を賜いその家を恤う。甲申、汪立信を権兵部尚書・京湖安撫制置使・江陵府知事・夔路策応使・湖広総領とす。辞免を許さず。銭二百万を以て立信に閫を開き師を犒うに給す。葉夢鼎致仕を乞う。官を遣わし勉諭して都堂に赴き事を治めしむ。辛卯、趙溍を以て淮西総領兼沿江制置・建康留守とす。詔して黄萬石を闕に赴かしむ。壬辰、詔す、「襄陽六年の守り、一旦にして失う。軍民離散、朕が心を痛切す。今年の乾会節、その集英殿の宴を免じ、銭六十万を以て沿江制置趙溍の江防捍禦に給す」。癸巳、招信軍知事陳岩祠祿を乞う。詔して曰く、「乃ち辺吏戒めず、襄難を致す。将士は頻年に暴露し、辺民は蕩析離居す。朕が心を衋傷す。爾閫臣は方面を征するに専り、宜しく身を以て諸将を率い、国威を宣揚し、命を用いる者と用いざる者を賞戮すべし。爾守臣は土と民と有り、宜しく国人に申儆し、封守を保固すべし。爾諸将は尚迪に果毅を尚び、心力を一にし、各々その兵を以て、王の愾る所に敵すべし。今朕多く誥す。爾其れ悉く明訓を聴き、懈ること毋く、愞ること毋く、故常に習うこと毋かれ。功多きは厚賞有り、爾用いて勧めずんば、罰固より私すべからず。また中外の大小臣僚に、材識超卓にして控禦の宜を明らかにし、攻守の略を懐く者有らば、密かに具して以て聞かしめよ。一に端拱二年の制書の如く、朕当に虚心を以て聴かん」。李庭芝解罷を乞う。詔して闕に赴かしむ。壬寅、詔して枢密院都統制・副都統制各一員を復置す。丁未、高達を以て寧江軍節度使・湖北安撫使・峡州知事とす。詔して忠州は既に咸淳府に昇りしにより、刺史王達を改めて高州刺史に授く。李庭芝召されて闕に赴くを辞す。詔して祠を与う。巳酉、詔す、「南帰の人に復た戦功有る者は優賞を与う。楊春・薛聚成・陳君謨・周海・周興を各々成忠郎に補し、蕭成・侯喜・丁甫・劉鑄・鄭帰を各々承信郎に補す」。夏貴を以て侍衛馬軍都指揮使を兼ぬ。庚戌、詔して汪立信の賞罰調用は悉く便宜行事を聴かしむ。辛亥、呂師夔言上す、「比来賈似道李庭芝の書を得、臣が叔父文煥襄城を以て降ると報ず。臣これを聞き隕越して地無く、頃刻も自ら安んずること能わず。請う、経略安撫・転運・静江府の印を次官に委ねてこれを護らしめ、席槁して命を俟たしめ、臣をして偏親を帰省せしめんことを。誓って当に事に趨き功に赴き、家を毀ち難を紓い、以て門戸の愆を贖い、以て君父の造に報ぜん」。詔して允さず。

五月乙卯、黄萬石を権戸部尚書兼知臨安府・浙西安撫使に任ず。四川制司の朱禩孫言う、「管轄下の諸県は正規の辟召による文臣を除き、諸郡の属邑においては、本司に外県と同様に文臣を選抜辟召することを許し、蜀の士民を恵み給わんことを」と。奏聞を許可す。丙辰、知廬州の呂文福言う、「従兄の文煥が襄陽を降して、その汚辱を蒙り、何の面目をもって辺境の任に当たらんや、乞う放罷して田里に帰らしめんことを」と。詔して允さず。呂師夔五度上疏して罷任を乞う。詔して闕に赴かしむ。丁卯、奸民の妄りに経会を立て、私に庵舎を創り、以て征徭を避くることを厳禁し、保伍が容庇して不覚察の罪に坐す。辛未、劉雄飛致仕を乞う。戊寅、孝感県丞の関応庚上書して辺防二十事を言う。詔して武当軍節度推官兼司法を授け、京湖制司に量材任使せしむ。庚辰、馬軍司統制の王仙、昔襄・樊において戦いに縁り陣に陷り、今また来帰す。特に関五転を授け、殿前司正額統制に充て、銭一万を賜う。布衣の林椿年等上書して辺防十数事を言う。詔して諸人の上書、凡そ丞相の賈似道に督視を請う者は允さず、余は機速房に付す。

六月、刑部尚書兼給事中の陳宜中言う、樊城の潰滅に、牛富の死節特に著しく、職卑なるを以て、贈恤が範天順より一階下なるは、未だ輿情に愜わずと。詔して富に寧遠軍承宣使を加贈し、仍て土田・金幣を賜いその家を恤う。前四川宣撫司参議官の張夢発、賈似道に詣で、上書して危急の三策を陳ぶ。曰く漢江の口岸を鎮め、曰く荊門軍当陽界の玉泉山に城し、曰く峡州宜都以降に堡砦を聯置し、以て流民を保聚し、且つ守り且つ耕し、併せて城を築く形勢を図すと。賈似道上聞に上せず、京湖制司に下して審度の可否を問う。事竟に行われず。成都安撫使の昝萬壽、去冬将士を調発して成都の大城を攻毀し、今春碉門に戦い、五月統制の楊国宝を遣わして兵を率い雅州に至らしめ、統領の趙忠を遣わして兵を率い眉州に至らしむ。両路の捍禦に労あり。詔して将士の宣力の等第・姓名を具して以て聞かしむ。呂文福言う、文煥は人に扶擁され、以て襄陽を降すは己が心に由るに非ずと。詔して李庭芝の元に陳ぶる異同とせしめ、その審核を以て聞かしむ。庭芝表す、「向に京湖に在りし時、来帰人の呉旺等備言す文煥父子の降状を、先ず莞鑰を納め、旋って襄城を献じ、且つ策を陳べて郢州を攻め、自ら先鋒たらんことを請うと。言うこと人人同じ。制司の案辞徴すべし。敢えて誣いて人に罪を加うるに非ず」と。詔して文福に勉めて捍禦せしめ、家声を墜とすことなからしむ。京湖制司言う、「去年冬の間、探司総管の劉儀・盛聡、総制の趙鐸、精鋭を率いて均州の文龍崖に至り砦を立つ。呂文煥既に降り、均城敵を受く。知郡の劉懋、劉儀等とともに扞禦し宣労す」と。詔して懋を右武大夫に昇らせ、左衛大将軍を行い帯び、仍って旧職とし、儀を荊湖北路兵馬鈐轄に添差し、聡を鄂州兵馬鈐轄に添差し、各官三転、将士官二転を賜う。左蔵東庫の蹇材望上書して辺事の大いに憂うべき者七、急に為すべき者五を言う。報いず。丙戌、劉雄飛卒す。特に関一官を贈る。戊子、京湖制司器械の給付を請う。詔して内軍器庫に犀利なるものを選びて之を賜い、仍って銭百万を贈り修繕に備えしむ。四川制置の朱禩孫言う、月俸銀計万両、願わくは以て師を犒い、向後月請うことを免ぜんと。詔して常禄は辞するなからしむ。己丑、給事中の陳宜中言う、範文虎の襄陽を力援せざるの罰を正さんことを乞う。詔して文虎を一官降し、旧に依り安慶府を知らしむ。安南国方物を進む。特に金五百両・帛百匹を賜う。癸卯、汪立信言う、「臣命を奉じて閫を分ち、吏民に延見す。皆痛哭流涕して言う、襄・樊の禍は皆範文虎及び俞興父子に由ると。文虎は三衙の長として難を聞き怯戦し、僅かに薄罰に従う。猶子の天順は守節して屈せず、猶或いは以て少しくその愆を贖うべし。興は奴僕の庸材、器量褊浅にして、務めて私仇を復し、劉整の禍を激成し、流毒今に至る。その子の大忠、多資を挟みて父の為に行賄し、且つ自ら栄進を希う。今寸斬すと雖も、未だ以て天下の忿を快くするに足らず。重典に置かんことを乞う。然らば人心興起し、事功図るべし」と。詔して俞大忠の出身文字を追毀し、除名し、循州に拘管す。又言う、守闕進義副尉の童明、襄陽破れ、身を抜き来帰し、且つ嘗て開州に功を立てたり。四官を補転せんことを乞う。詔して特に関二転を授く。

閏月辛亥、殿前指揮使の陳奕に命じ舟師を総統して鄂州・黄州の江防に備えしむ。癸丑、来帰人の郭珍を成忠郎に補し、張進・張春・張徳林・向徳成・王全・婁徳・王興を各々承信郎に補す。丙辰、朝散郎の師顕行『皇朝文鑑』を注して進む。前臨安府司法の梁炎午、攻守の要五事を陳ぶ。報いず。大理寺丞の鐘蜚英に命じ沿江の堡隘兵船を点視せしむ。戊辰、知叙州の郭漢傑言う、馬湖蛮の王汝作・鹿巫蛮の王沐丘、蛮兵五百余を帥い官軍民義を助け険を馬湖に阻み、捍禦に功ありと。詔して汝作・沐丘に金帛を賞し、その部兵に差等を以て賜う。叙州総管の曹順一軍、凡そ戦陣に在る者は、趣に立功の等第を具して来上せしむ。

秋七月丁亥、権紹興府節制紫城軍義の文栄鼎及び将校の趙居敬・丁福・孟青・蒲祥・白貴・史用・羅宜・王繁等九人、成都の役に兵に没す。各々官秩を追贈し、仍ってその子を官す。癸巳、知達州の趙章・知開州の鮮汝忠・知渠州の張資等、洋州を復す。戊戌、張玨等、馬騣山を復す。

八月癸丑、権知均州の徐鼎・総管の盛聡、房州の胡師峪・板倉に戦う。乙卯、知房州の李鑒、権竹山県の王国材・統制の熊権・総轄の馬宗明を調発し、落馬坪・白羊山に戦う。詔して有司に各々労効を以て論賞せしむ。

九月辛巳、章鑒を以て簽書枢密院事兼参知政事とし、陳宜中を同簽書枢密院事とす。成都安撫使の昝萬壽、嘉定の烏尤山に城す。乙未、洪燾を以て浙東安撫使とす。丙申、黄萬石を以て湖南安撫使とす。

冬十月己酉、来帰人の汪福・許文政に各々官五転を賜う。癸丑、鎮巣軍・和州・太平州の諸将の査文・李文用・孟浩等十一人、射湖岡・万歳嶺・後港及び焦湖北岸の戦功を以て、咸に爵賞を賜う。癸亥、雷鳴る。四川制司言う、何炎向に洋州を失い、知達州の趙章等を調発し諸部の軍義を率いて之を復す。七月また洋州・呉勝堡の両城を復す。権に檄して統轄の謝益に洋州を知らしめ、総制の趙桂楫に巴州を知らしめ、以て呉勝堡の戦守の事を責に任ぜしむ。今に至り功を以て来上し、且つ二州の摂事守臣を以て朝に命を請う。詔して正授を与う。丁丑、両淮制置使の印応雷老を告げ、二秩を進めて致仕す。李庭芝を両淮安撫制置使とし、銭二百万を賜い激犒備禦に備えしむ。

十一月壬午、子㬎を左衛上將軍に授け、嘉國公に封ず。戊子、泰州知事龔準、其の將王大顯等を遣わして水砦を捍禦し功有り、又俘民を獲て以て還る。詔して水歩兩軍の將校、凡そ命を用いる者に賞激有差とす。甲午、夏貴を以て淮西制置使兼廬州知事と爲し、陳奕を沿江制置使兼黃州知事と爲し、呂文福を閣門事知事と爲す。詔して李庭芝の請に從い、淮東・西制置を分ちて兩司と爲し、就て命じて庭芝に淮東を交割せしめ、仍て淮西策應使を兼ねしむ。乙未、夏貴を以て淮西安撫制置使と爲し、錢百萬を賜ひ激犒し備禦せしむ。李庭芝、淮西策應使を辭免す、允さず。安豐軍知事陳萬、舟師を以て城西の大澗口より正陽城に抵り、北兵に遇ひ力戰す。詔して其の勞を旌ぐ。

十二月甲子、馬廷鸞を以て浙東安撫使・紹興府知事と爲す。丙寅、權參知政事章鑒、再び機政を解くを乞ふ、允さず。丁丑、沿江制置使の轄する四郡、夏秋旱澇有り、屯田租二十五萬石を免ず。

咸淳十年

十年春正月壬午、鄂州漢口堡を城す。權總制施忠・部將熊伯明・泰州知事龔準、天長縣東の橫山・秦潼湖・青蒲口等の處の戰功を以て賞を推す。戊子、江萬里、疾を以て職任を辭す。詔して舊に依り觀文殿大學士・洞霄宮提舉と爲す。乙丑、留夢炎を以て潭州知事兼湖南安撫使と爲す。庚寅、鄂州沌口西岸堡を城す。京湖制司言ふ、襄陽勇信中軍鈐轄吳信、呂文煥に隨ひ北往す、今妻子を並べて險を冒して來歸すと。詔して吳信を闕に赴かしめ、制司仍て其の家を存恤せしむ。丙申、江東沙圩の租米、咸淳九年の水災を以て、詔して什四を減ず。乙巳、土を雨ふ。

二月己酉、趙順孫を以て福建安撫使と爲す。辛酉、詔す、諸制閫の就任升除の恩數、其の告命・衣帶・鞍馬は、閣門人を差して給賜することを要せず、往きて厚賂を要し、以て制臣を優寵するの意を失ふ、違ふ者は刑有りと。

三月己卯、郡縣の侵負する義倉米七十四萬八千余石を免ず。

夏四月乙卯、子昺を左衛上將軍に授け、進めて永國公に封ず。詔して沿江都統王達・黃俁の黃連寺に戰ふの功を賞す。戊午、呂文福を以て常德・辰・沅・澧・靖五郡鎮撫使・沅州知事と爲す。辛酉、詔して光州守陳岩・路分李全・許彥德・總管何成・路鈐仰子虎等の牛市畈・丁家莊の戰功を賞す。烏蘇蠻王、雲南軍前に詣り大元に款を納む。

五月丁亥、高世傑を以て湖北安撫副使兼岳州知事と爲し、出戍軍馬を總統せしむ。辛丑、馬廷鸞、觀文殿大學士・紹興府知事・浙東安撫使を辭免す、詔して允さず。壬寅、張玨表を上りて馬騣・虎頭兩山を城するを請ふ、或は其の一を先づ築き、以て險要を據らんと。

六月戊午、銀二萬兩を以て壽春府に命じ邊防を措置せしむ。

秋七月壬午、汪立信致仕を乞ふ、允さず。癸未、帝福寧殿に崩ず。遺詔して太子㬎即皇帝位せしむ。甲申、台臣內醫蔡幼習を劾す。詔して五秩を奪ひ、五百里州軍に送り居住せしめ、二子並びに閣門職を罷む。

八月己酉、大行皇帝の諡を上りて端文明武景孝皇帝と曰ひ、廟號を度宗とす。德祐元年正月壬午、永紹陵に葬る。

紀讚

贊して曰く、宋理宗に至り、疆宇日蹙し、賈似道國命を執る。度宗統を繼ぎ、大なる失德無きと雖も、權奸に拱手し、衰敝寢甚だし。其の當時の事勢を考ふるに、雄才睿略の主有らざれば、豈に其の墜緒を振起することを得んや!歷數歸する有り、宋祚尋いで訖る。亡國其の身に於てせず、幸ひなり。