宋史

本紀第四十七 瀛國公 益王 えい

瀛國公

瀛國公の名は㬎、度宗皇帝の子なり、母は全皇后と曰う。咸淳七年九月己丑、臨安府の大内に生まる。九年十一月、左衛上將軍を授けられ、嘉國公に封ぜらる。

咸淳十年

十年七月癸未、度宗崩ず、遺詔を奉じて柩前において皇帝の位に即く、年四歳、謝太后朝に臨みて詔を称す。甲申、兄昰は保康軍節度使・開府儀同三司、吉王に進封せられ、食邑一千戸を加う。弟昺は保寧軍節度使・開府儀同三司、信王に進封せられ、食邑一千戸を加う。平章賈似道に命じて文彦博の故事に依り、独り班を立てて起居せしむ。丙戌、皇太后の尊号を上りて寿和聖福太皇太后と曰い、皇后を皇太后と曰う。また詔して生日を以て天瑞節と為す。戊子、臨安府に命じて細民を振贍せしむ。辛卯、朱禩孫を以て京湖・四川宣撫使兼江陵府知事と為す。壬寅、詔して三辺の将士を撫す。州郡に命じて遺逸を挙げしむ。浙西安撫司・両浙転運司・臨安府の見追贓賞銭を除く。言を求むる詔を下す。

八月甲辰、詔して老臣江萬里・葉夢鼎・馬廷鸞・留夢炎・趙順孫・王爚に言を乞う。李庭芝、清河城を築き、図を以て来上す。詔して庭芝に一秩を進め、将士を宣労し、名を具して推賞せしむ。鄂州知事李雷応を守軍器監に加え、太平州知事孟之縉を尚書兵部員外郎に加え、江州知事錢真孫を直宝章閣に加え、鎮江軍知事洪起畏を直敷文閣に加う。癸丑、大いに霖雨し、天目山崩れ、水湧き流れ、安吉・臨安・余杭の民溺死する者算無し。甲寅、太皇太后、老いて正衙に御する能わず、命じて暫く慈元殿を以て後殿と為す。辛酉、度宗廟を作る。戊辰、全清夫を以て昭信軍節度使と為し、謝堂を検校少保と為し、謝垕を保康軍節度使と為す。馬廷鸞、骸骨を乞うて田里に帰らんとす。詔してその任に趣かしむ。

九月丁丑、資政殿大学士・光禄大夫王爚、致仕を乞う。詔して允さず。戊寅、米を発して余杭・臨安両県の水災を振る。余杭の災甚だし、再び米二千石を給す。己卯、似道、答拝を免ぜんことを乞う。従う。辛巳、文武挙士人を覆試す。壬午、文武挙士人を覆試す。癸未、大元の兵、襄陽に大会す。丙戌、丞相伯顏、一軍を将いて郢州に趣き、元帥唆都、一軍を将いて淮に入り、翟招討、一軍を将いて荊南を徇う。丁亥、大元軍、郢州に迫る。戊子、水害を受けたる州県の今年の田租を免ず。甲午、初めて経筵を開く。丁酉、天瑞節、臨安府の公私房賃銭を十日間徴収せず。金符十三・銀符百を以て夏貴に給し、奇功を激賞せしむ。己亥、正奏名進士を試み、王龍澤以下に出身を賜うこと差等有り。壬寅、星西方に見え、委曲として蚓の如し。復州副将翟国栄、大元兵に遇い、爛泥湖に戦い、之に死す。閩中旱す。

冬十月丙午、達州知事趙章、洋州を復す。右ぎょう騎尉中郎将を加う。大元兵、渠州礼義城を破る。知州張資自殺す。丁未、饒州布衣董声応、『諸史纂約』『兵鑒』『刑鑒』を進む。詔して声応を史館編校文字に充つ。癸丑、度宗の諡を上る。広西経略司権参議官邢友龍、潮州・漳州の寇を撃ち、之を破る。乙卯、州県に令して義田・義役を行わしむ。丁巳、友龍以下諸将、各転官すること差等有り。大元兵、郢州を攻む。都統制張世傑、力戦して之を御す。遂に去り、藤湖より漢に入る。戊午、郢州副都統趙文義、全子湖に追戦して死す。其の家を恤う。庚申、翟国栄に復州団練使を贈り、其の二子に官し、廟を復州に立つ。壬戌、銭百万を以て郢城屯戍の将士に給す。甲子、詔して明年を以て徳祐元年と為す。乙丑、章鑑を以て同知枢密院事兼権参知政事と為し、陳宜中を以て簽書枢密院事兼権参知政事と為す。大元兵、沙洋城を徇う。京湖宣撫司、総管王虎臣を遣わして之を援く。丙寅、城破る。虎臣と守隘の官王大用、皆捕らえらる。熒惑、鎮星を犯す。大元兵、新城に至る。戊辰、総制黄順、出でて降る。己巳、副総制仁寧、出でて降る。都統制辺居誼、力戦す。城破り、火に赴きて死す。復州知事翟貴、城を以て降る。閩中地震す。

十一月癸酉、朱禩孫を以て京湖・四川宣撫使と為す。丁丑、沿江制置使趙溍に命じて江を巡り策応せしめ、銭百万を賜いて戦功を激賞せしむ。戊寅、馬廷鸞、力めて浙東安撫使・紹興府知事を辞す。詔して旧に依り観文殿大学士・洞霄宮提挙と為す。趙文義に清遠軍節度使を贈り、其の兄威武軍節度使文亮と共に廟を揚州に立て、名を伝忠と賜う。庚辰、陸秀夫を以て淮東安撫制置司参議官と為す。壬午、諸班直の溢額の人を削る。癸未より乙酉に至るまで、特奏名士人を覆試す。丙戌、王爚を左丞相と為し、章鑑を右丞相と為し、並びに枢密使を兼ぬ。似道、九月より左右丞相を命ぜんことを乞い、是に至りて之に従う。張晏然を以て京湖・四川宣撫司参議官を兼ぬ。己丑より庚寅に至るまで、特奏名士人を覆試す。壬辰より癸巳に至るまで、上に如く覆試す。甲午、邸第戚畹及び御前寺観の田を括り、租を輸せしむ。丁酉、安南国王陳日煚に寧遠功臣を加え、其の子威晃に奉正功臣を加う。

十二月癸卯朔(一日)、建康府・太平州・池州に命じて兵を避けて淮に逃れた民を救済せしむ。厳寒のため、京湖及び沿江の戍守将士を労い賜う。甲辰(二日)、詔して淮西四郡の水旱により、去年の屯田で未納の租はこれを徴収せざるべしとす。丁未(五日)、提挙興国宮呂師夔が江州に兵を募ることを請う、詔して知州銭真孫に同募せしめ、尚書省に銭米を給してこれを支弁せしむ。癸丑(十一日)、大元の兵が陽邏堡を攻む、夏貴兵力をもって守るも、武定軍都統制王達戦死す。乙卯(十三日)、大元の兵、夜に偏師を以て雪に乗じて青山磯を渡る。丙辰(十四日)、都統程鵬飛奮戦すも重傷を被り、鄂州に帰る。都統高邦憲は馬家渡に屯すも舟を棄てて走り、捕らえらる。大元の兵、再び陽邏堡において夏貴を攻む、都統制劉成、定海水軍を率いて戦死す。貴敗れ、沿江に沿って兵を縦し大いに掠め、廬州に帰る。朱禩孫、兵を将いて鄂州に至るも、鄂兵の敗北を聞き、夜に江陵府に奔る。己未(十七日)、権知漢陽軍王儀、城を以て降る。呂文煥、北兵を率いて鄂州を攻む。庚申(十八日)、程鵬飛及び権守張晏然、城を以て降る。幕僚張山翁屈せず、諸将これを殺さんとす、丞相伯顔曰く「義士なり」と、これを釈す。詔して銭塘・仁和両県の民で年七十より九十以上なる者に、帛及び酒米を賜う。癸亥(二十一日)、詔して似道に諸路軍馬を都督ととくせしめ、歩軍指揮使孫虎臣を以て諸軍を総統せしめ、辟く官属は皆先に命じて後に奏す。詔して天下に勤王を促す。甲子(二十二日)、李芾を起用して湖南提刑と為す。乙丑(二十三日)、高達を以て湖北制置使兼安撫・知江陵府と為す。詔して「辺費浩繁にして、吾が民重く困す。貴戚・釈道は田連阡陌にして、安んじて暇に食す。有司その租税を核してこれを収めよ」と。王達に清遠軍承宣使を贈る。庚午(二十八日)、度宗の梓宮、発引して浙江上に至り、潮の漲りて江を絶つを待つ。潮期を失い、日晡に至らず。程鵬飛、北兵を率いて黄州を徇る。知州陳奕、人を遣わして寿昌軍に降を請う。李庭芝、兵を以て勤王す。辛未(二十九日)、州郡に命じて駐戍の経由兵を節制せしむ。

德祐元年

德祐元年春正月癸酉朔(一日)、大元の兵、黄州に入る。甲戌(二日)、陳奕、人を遣わして蘄州を下し、併せて其の子岩を安東州に招く。丁丑(五日)、知蘄州管景模、人を遣わして黄州に降を請う。戊寅(六日)、詔して浙東の邸第に出米せしめ、価を減じて民に糶す。壬午(十日)、度宗を永紹陵に葬る。大元の兵、蘄州に入る。癸未(十一日)、似道、呂師夔を権刑部尚書・都督府参賛軍事と為し、中流の調遣に任ず。乙酉(十三日)、陳宜中を同知枢密院事兼参知政事と為す。呂師夔・銭真孫、人を遣わして蘄州に降を請う。丙戌(十四日)、大元の兵、江州を徇る。知安東州陳岩、夜遁す。邳州降る。知寿昌軍胡夢麟、治所を江州に寓す。丁亥(十五日)、自殺す。戊子(十六日)、知南康軍葉閶、人を遣わして江州に降を請う。似道出師す。知徳安府来興国、城を以て降る。夔路安撫張起岩、其の将弋徳と共に開州を攻め、これを復取す。己丑(十七日)、知安慶府范文虎、人を遣わして酒饌を携え江州に如き師を迎う。乙未(二十三日)、度宗の神主を新宮に附す。孫虎臣を寧武軍節度使と為す。戊戌(二十六日)、京畿の罪を赦す。池州都統張林、人を遣わして江州に降を請う。大元の兵、安慶に入る。范文虎降り、通判夏椅、薬を仰いで死す。是の月、知達州鮮汝忠、城を以て降る。

二月癸卯(二日)、似道、宋京を都督府計議官と為し、大元軍中に使わす。甲辰(三日)、黄万石を江南西路制置使と為し、湖北制置副使高達に検校少保を加う。庚戌(九日)、大元の兵、池州に入る。権守趙卯発、自経して死す。宋京軍中に如き、称臣・歳幣奉納を請うも、請い得ずして還る。辛亥(十日)、劉成に清遠軍承宣使を贈る。乙卯(十四日)、五郡鎮撫呂文福、其の部する淮兵を遣わして入衛せしめ、詔を降してこれを褒む。丙辰(十五日)、詔して賈似道を労い、都督府に歳挙改官を史嵩之の故事の如く行わしむ。己未(十八日)、張起岩に福州観察使を加え、弋徳以下各五官を転ず。庚申(十九日)、虎臣、大元の兵と丁家洲に戦い、敗績し、魯港に奔る。夏貴、戦わずして去る。似道・虎臣、単舸を以て揚州に奔り、諸軍尽く潰く。翁応龍、都督府の印を以て臨安に奔る。壬戌(二十一日)、大元の兵、饒州を徇る。知州唐震、これに死す。故相江万里、水に赴いて死す。通判万道同、城を以て降る。沿江制置大使趙溍・知鎮江府洪起畏・知寧国府趙与可・知隆興府呉益、皆城を棄てて遁る。知和州王喜、城を以て降る。建康都統翁福、出でて大元の兵を迎う。甲子(二十三日)、大元の兵、臨江軍に至る。民尽く去り、知軍鮑廉、これに死す。似道上書して遷都を請う。乙丑(二十四日)、公卿を下して雑議せしむ。王爚、己が大計に与る能わずと言い、遂に去る。張世傑、兵を将いて臨安に入衛せんとし、道すがら饒州を過ぎ、これを復取す。其の将謝元・王海・李旺・袁恩・呂再興、皆戦死す。江西提刑文天祥、兵を起して勤王す。丙寅(二十五日)、天祥を江西安撫副使・知贛州と為し、入衛を促す。詔して兵を募る。謝堂を両浙鎮撫使と為し、謝至を保寧軍節度使と為し、全永堅・謝垕に並びに検校少保を加う。戊辰(二十七日)、両浙・福建諸郡の廂禁兵の半ばを徴発して入衛せしむ。湖南提刑李芾、兵を以て勤王す。知江陰軍鄭䇕、城を棄てて遁る。知無為軍劉権・知太平州孟之縉、皆城を以て降る。己巳(二十八日)、大元の兵、嘉定九頂山を攻む。都統侯興、戦死す。陳宜中を知枢密院事兼参知政事と為し、曾淵子を同知枢密院事・両浙安撫制置大使兼知臨安府と為し、文及翁を簽書枢密院事と為し、倪普を同簽書枢密院事と為す。王爚を召して浙西・江東宣撫招撫大使と為し、京師に居らしめ、以て諮訪に備えしむ。大元国信使郝経等を遣わして帰らしむ。庚午(二十九日)、夏貴に開府儀同三司を加え、以て其の部する兵を率いて入衛せしむ。長吏に命じて経過する兵民に銭米を給し、一切税を徴収せざるべし。編配・拘鎖の人に応じ、関会偽造・強劫盗放火の者を除き、余は悉くこれを放つ。浙西公田の逋米及び諸文武官で謫籍にある者を放免し、並びに自便と叙復改正を放ち、親民に参するを放つ。張珏に寧遠軍節度使を加え、昝万寿に保康軍節度使を加え、張世傑に和州防禦使を加え、兵を将いて入衛せしむ。陳宜中、似道の誅殺を乞う。詔して似道の平章・都督を罷め、祠を予う。趙与可を除名し、臨安府に命じてこれを捕らえ案ず。似道の潰兵を招く。辛未(三十日)、右丞相章鑒遁る。

三月壬申朔(一日)、詔して茶塩市舶の法を復す。似道の民を恤れざる諸政は、次第にこれを除き、公田を佃主に給し、その租戸を率いて兵と為すことを令す。殿前指揮使韓震、遷都を請う。陳宜中、これを殺す。震の所部の兵叛き、嘉会門を攻め、火箭を大内に至らしむ。急ぎ兵を発してこれを捕え、皆散走す。癸酉(二日)、都統徐旺栄、大元の兵を迎えて建康府に入る。鎮江統制石祖忠、建康に請降す。命じて浙西提刑司準備差遣劉経に呉江を戍らしめ、両浙転運司準備差遣羅林・浙西安撫司参議官張濡に独松関を戍らしめ、山陰県丞徐垓・正将鬱天興に四安鎮を戍らしめ、趙淮を起用して太府寺丞と為し、銀樹東壩を戍らしむ。湖北安撫司計議官呉継明、通城県を攻め、これを取り返し、県令を執えて帰る。使者を遣わして章鑑を召し還朝せしむ。甲戌(三日)、似道を以て醴泉観使と為す。大元の兵、無錫県に至る。知県阮応得、出戦す。一軍皆没し、応得は水に赴きて死す。詔して兵を発し呉江を戍らしむ。乙亥(四日)、兵を発し独松嶺・銅嶺を戍らしむ。詔して呂文煥・陳奕・范文虎に諭し、和議を通じ兵を息ましむるを命ず。王爚を以て左丞相兼枢密使と為す。閩中の地、復た大いに震う。丙子(五日)、詔を下して己を罪す。陳宜中を以て特進・右丞相兼枢密使と為す。章鑑の官を罷め、祠を予う。侍御史陳過、賈似道を竄し並びにその党人翁応龍等を治むるを請い、報を俟たずして去る。監察御史潘文卿・季可、過の請いに従わんことを乞う。乃ち応龍を捕え臨安府の獄に下すことを命ず。廖瑩中・王庭・劉良貴・游汶・朱浚・陳伯大・董樸を罷む。洪起畏を責めて鎮江に自効せしむ。丁丑(六日)、知滁州王応龍、城を以て降る。己卯(八日)、翁応龍に杖し、吉陽軍に刺配す。王爚・陳宜中に命じて並びに諸路軍馬を都督せしむ。呂文福に福州観察使を加う。庚申(九日)、唐震に華文閣待制を贈る。万道同の三官を削り、これを罷む。壬午(十一日)、呉潜・向士璧の官を復す。知常州趙与鑑、兵の至るを聞きて遁ぐ。常民の錢訔、城を以て降る。甲申(十三日)、大元の兵、西海州に至る。安撫丁順、降る。乙酉(十四日)、知東海州施居文、西海州に乞降す。知平江府潜説友・通判胡玉・林鏜、城を以て降る。張世傑に保康軍承宣使を加え、総都督府諸軍を総べしむ。丙戌(十五日)、知広徳軍令狐概、城を以て降る。浙西提点刑獄司を平江府に徙す。張世傑、その将閻順・李存を遣わして広徳に進軍せしめ、謝洪永をして平江に進軍せしめ、李山をして常州に進軍せしむ。丁亥(十六日)、張德以下各々転官差等有り。謝元等に十官を贈る。星二つ中天に斗い、頃くして、一星隕つ。己丑(十八日)、滁人、王応龍を執えて揚州に帰し、これを殺す。呂文福に保康軍承宣使を加え、入衛を趣す。文福、饒州に至り、使者を殺し、江州に入り大元に降る。庚寅(十九日)、左司諫潘文卿・右正言季可・同知枢密院曾淵子・両浙転運副使許自・浙東安撫王霖龍、相継ぎ皆遁ぐ。簽書枢密院文及翁・同簽書枢密院倪普、台臣に諷して己を劾せしむ。章未だ上らず、亟に関を出て遁ぐ。知安東州孫嗣武、城を以て降る。土を雨う。辛卯(二十日)、在京の文武官に命じて並びに両官を転ぜしめ、その畔官して遁ぐる者は、御史台に覚察して以て聞かしむ。閻順、安吉県に戦い、鳳平を取り返す。張濡の部曲、大元の行人厳忠范を独松関に害し、廉希賢を執えて臨安に至らしめ、重創して死す。壬辰(二十一日)、岳州安撫高世傑、軍を洞庭中にす。大元の兵これを攻め、世傑降る。癸巳(二十二日)、岳州を攻む。総制孟之紹、城を以て降る。甲午(二十三日)、詔して張世傑・閻順を褒諭し、諸将各々転官差等有り。乙未(二十四日)、安吉県の今年の夏

田租を免じ、戦没する者有らば、県令・丞これを恤む。丙申(二十五日)、顧順、広徳軍を攻め、これを取り返す。陳合を以て同簽書枢密院事と為す。丁酉(二十六日)、辺居誼に利州観察使を贈る。戊戌(二十七日)、辺城の降将の罪を赦し、能く自ら抜けて帰る者はこれを録し、一州を取り返す者には知州を予え、一県を取り返す者には知県を予え、所部の僚吏将卒及び土豪の功を立てる者は同じく賞す。章鑑の祠官を罷め並びに宰輔の恩数を奪い、曾淵子の両官を削り執政の恩数を奪い、陳過・陳堅・徐卿孫各々両官を削り侍従の恩数を奪う。趙与鑑の両官を追奪しこれを罷め、赦に遇うも永く収叙せず。許自・王霖龍を罷む。淮東制置司に標由を用いしむ。庚子(二十九日)、淮東総領所を江陰軍に徙す。呉継明に閣門宣贊舎人を加う。

四月壬寅朔(一日)、趙卯發に華文閣待制を追贈す。陳過を平江府に貶す。雄江軍統制洪福、衆を率いて鎮巢軍を復す。甲辰(三日)、江萬里に太師を追贈し、諡して文忠とし、視朝を二日間輟む。乙巳(四日)、大元の兵、廣德縣に入る。知縣王汝翼と寓居官趙時晦、義兵を率いて戰鬥山に戦い、路分孟唐老とその二子皆死す。汝翼は捕らえられ、建康に至りて死す。王大用に三官を追贈し、王虎臣に兩官を追贈し、その二子に官す。丙午(五日)、大元の兵、沙市城を破る。都統孟紀死す。監鎮司馬夢求、自ら縊死す。戊申(七日)、京湖宣撫朱禩孫・湖北制置副使高達、江陵を以て降る。京湖北路、相継いで皆下る。張起岩、兵を提げて飛山を保つ。己酉(八日)、劉師勇に平江府を戍らしむ。辛亥(十日)、顧順ら諸将、各々三官を転ず。孟唐老に三官を追贈す。壬子(十一日)、高斯得を以て簽書樞密院事権参知政事とす。總統張敏、大元の兵と豐城に戦い、死す。癸丑(十二日)、五官を追贈し、その一子に官す。阮應得に十官を追贈す。乙卯(十四日)、福王與芮を以て武康・寧江軍節度使・判紹興府とす。丙辰(十五日)、王爚来朝す。文彥博の故事の如く、朝参起居の外は並びに拝を免ずることを令す。樞密副使を以て夏貴を召し、兵を提げて入衛せしむ。丁巳(十六日)、總制霍祖勝、溧陽縣を攻め、これを復取す。戊午(十七日)、張資に眉州防禦使を、侯興に復州團練使を追贈す。乙未(誤記か。四月に乙未なし)、文及翁・倪普、並びに一官を削り、執政の恩数を奪う。潛說友は三官を削り、侍従の恩数を奪う。庚申(十九日)、令狐概を除名し、郁林州牢城に配し、その家を籍没す。知金壇縣李成大、義局官含山縣尉胡傳心・陽春主簿潘大同・濠梁主簿潘大㮺・進士潘文孫潘應奎を率いて金壇縣を攻め、これを取る。鎮江統制侯岩・縣尉趙嗣濱、復た大元の兵を助けて来戦す。成大の二子及び大同等皆死す。成大を執いて帰る。壬戌(二十一日)、大元の兵、真州を攻む。知州苗再成・宗子趙孟錦、兵を率いて老鸛觜に大戦す。癸亥(二十二日)、知思州田謹賢・知播州楊邦憲に並びに復州團練使を加え、兵を趣して入衛せしむ。大星有り、心より東北に流れて濁に没す。乙丑(二十四日)、熒惑、天江を犯す。提挙太平興國宮常楙、濟王の後を立てんことを請う。丁卯(二十六日)、李庭芝に参知政事を加う。戊辰(二十七日)、詔して宜興・溧陽の民兵、戦を助けて功有るを以て、特今年の田租を免ず。江陰の民、兵に被る。その租も亦収責せず。庚午(二十九日)、大元の兵、揚子橋に至る。揚州都撥發官雷大震、出戦して死す。是の月、常德・鼎・澧皆降る。

五月辛未朔(一日)、宰執に命じて日ごとに朝堂に赴き事を治めしむ。旌德縣の城守に功有るを旌ぎ、その民の今年の田租を免ず。癸酉(三日)、大元の兵、寧國縣に至る。知縣趙與䅯、出戦して死す。甲戌(四日)、淮安總制李宗榮・知慶遠府仇子真、兵を将いて来りて勤王す。乙亥(五日)、苗再成に濠州團練使を、趙孟錦に揚州都統司計議官を加う。洪福を以て鎮巢軍を知らしむ。丁丑(七日)、詔して趙溍に軍民船を統べさせて江陰に屯せしむ。劉師勇、常州を攻め、これを復取し、安撫戴之泰を執る。司戸趙必佮・總管陸春、戦死す。戊寅(八日)、淮東兵馬鈐轄阮克己、兵を将いて来りて勤王す。左驍騎中郎将を加う。己卯(九日)、婺州の處士何基に諡して文定を賜い、王柏に承事郎を賜う。張珏に檢校少保・四川制置副使・知重慶府を加う。庚辰(十日)、雷大震に保康軍節度使を追贈す。辛巳(十一日)、劉師勇に濠州團練使を加う。その将劉圭以下、各々官を転ずること差有り。戊子(十八日)、潘大同等に官を追贈す。余の功有る人、並びに兩官を転ず。辛卯(二十一日)、潛說友を南安軍に、吳益を汀州に貶し、並びにその家を籍没す。李珏を罷め、婺州に送る。呂文煥・孟之縉・陳奕・范文虎の家を籍没す。甲午(二十四日)、饒・信州饑饉す。民に命じて粟を入れて官を補わしむ。市舶分司を罷め、通判に舶事を任せしむ。淮東・西の官民兵、各々一官を転ず。丙申(二十六日)、詔して張世傑・張彥・阮克己・仇子真の四道に出兵せしめ、使を遣わして天地・宗廟・社稷諸陵・宮観に告げしむ。己亥(二十九日)、軍を労う。吳繼明、蒲圻・通城・崇陽の三縣を復す。帶行帶御器械・権知鄂州を加え、険を択びて寓治と為さんことを令す。鮑廉に直華文閣を追贈し、その一子に官す。趙與䅯に直華文閣を追贈す。

六月庚子朔(一日)、日食有り、既にす。晝晦して夜の如し。昝萬壽、嘉定及び三龜・九頂・紫雲城を以て降る。知敘州李演、兵を将いて嘉定府を援け、遂に解きて帰る。羊雅江に戦い、兵敗れて捕らえらる。辛丑(二日)、太皇太后詔して尊号「聖福」の字を削り以て天戒に応ず。魏克愚の官を復す。太學生蕭規・唐棣、並びに承信郎に補す。知嘉興府余安裕、兵を聞きて去らんと求めたるに坐し、朝中に書を貽し、語不道に渉る。一官を削り徽州に送る。徐卿孫、一官を削り吉州に貶す。侍従官已上の者に命じ、各々才文武に堪うる者五人を挙げしむ。余の廷臣は各々三人を挙ぐ。謫籍に在るも、亦挙ぐるを聴す。丙午(七日)、王應麟言う、「開慶の禍は、丁大全に始まる。請う、凡そ大全の党、謫籍に在る者は皆宥す勿からんことを」。これに従う。己酉(十日)、廣徳軍の今年の田租及び諸郡縣未納の綱解を免ず。王應麟、章鑒・曾淵子の錄黄を繳還し、韓震の逆を為すに、二人実にこれをかばえりと言う。且つ淵子は翁應龍を芘い、以て逸罰を致す有り。又嘗て府庫の金を窃み以て遁れり。庚戌(十一日)、命じて鑒の一官を削り、帰田里に放つ。淵子は再び一官を削り、吉州に徙す。翁應龍を誅し、その家を籍没す。辛亥(十二日)、銓試す。甲寅(十五日)、留夢炎入朝す。王爚、夢炎を相とせんことを請い、経筵を以て顧問に備えんことを乞う。陳宜中、夢炎を相とせんことを請い、祠を乞う。詔して二相、此を藉りて閑を求むる毋からしむ。爚を以て平章軍國重事と為し、一月に兩度経筵に赴き、五日に一朝す。宜中を左丞相兼樞密使とし、諸路の兵を都督す。夢炎を右丞相兼樞密使とし、諸路の兵を都督す。乙卯(十六日)、詔して言を求む。知敘州郭漢傑、城を以て降る。丙辰(十七日)、在京の罪人を疏決す。引見を免ず。戊午(十九日)、知瀘州梅應春、城を以て降る。己未(二十日)、李庭芝を以て知樞密院事兼参知政事とす。庚申(二十一日)、知富順監王宗義、城を以て降る。王應麟、復た曾淵子の吉州に貶する錄黄を繳還す。癸亥(二十四日)、韶州に貶す。丙寅(二十七日)、吳繼明ら諸将、各々官を転ずること差有り。丁卯(二十八日)、朱禩孫を除名し、その家を籍没す。

秋七月庚午朔、江西制置使黄萬石が治所を撫州に移し、詔して隆興府に還るを命ず。辛未、張世傑諸軍が焦山下に戦い、敗績す。甲戌、賈似道を婺州に移し、廖瑩中は除名して昭州に貶し、王庭は除名して梅州に貶し、曾淵子を雷州に移す。寧国の吏楊義忠が義兵を率いて出戦し死す、乙亥、武功大夫を贈る。丁丑、賈似道を建寧府に移す。太白星東井に入る。庚申、高郵軍知事褚一正に五閣門宣贊舍人を加え、懷遠軍知事金之才に帯御器械を帯びさせ、安淮軍知事高福に閣門祗候を加え、泗州知事譚與に閣門宣贊舍人を加え、濠州知事孫立に右衛大將軍を加え、辺境守備の功を賞す。壬午、太白星昼に見ゆ。詔して饒州が兵禍に遭いしを以て、今年の田租を免ず。路鈐劉用が兵を調発して靖州に入る、知州康玉之を刼し、通判張起岩入りて玉を殺し、靖州を復す。癸未、内司局の銭を拘りて兵に餉す。丙戌、公田の今年の租を権に糴するを令し、毎石銭十貫を以て佃主に給し、十貫を種戸に給し、其の鎮江・常州・江陰の兵禍に遭いし者は糴せず。庚寅、賈似道を謫して高州団練副使と為し、循州に貶し、其の家を籍没す。浙西の邸第・寺観の田米の十の三を糴す。皮龍榮の官を追復す。監司・郡守にして事を避けて即時に官に到らざる者は、御史臺に令して覚察して以て聞かしむ。辛卯、王爚の子が京学生劉九臯等を嗾きて闕に伏し上書して言ふ、陳宜中が権を擅にし、賈似道に党し、趙溍・潛說友を芘ひ、門客子弟をして関節を通交せしめ、其の国を誤ること将に賈似道より甚だしからんと。陳宜中去る、使者四輩を遣して之を召す、皆至らず。謝堂が両浙鎮撫司を罷むるを乞ふ、従はず。張世傑が師を済するを乞ふ、報せず。壬辰、劉九臯等を臨安の獄に下し、王爚を罷めて醴泉観使と為す。癸巳、夏貴を以て揚州知事と為し、朱煥を以て廬州知事と為す。甲午、使者を遣して陳宜中を還朝せしむ。乙未、陳文龍を以て同簽書樞密院事兼権参知政事と為す。婺州通判張鎮孫が兵を聞きて遁ぐ、其の官を罷む。胡玉を連州に貶し、林鏜を韶州に貶し、並びに除名す。沿江招討大使汪立信卒す。丙申、李珏の両官を削り、潮州に貶す。開慶の兵禍を以て、史嵩之を追罪して其の諡を奪ふ。戊戌、使者を遣して陳宜中を還朝せしむ。

八月己亥朔、総制毛獻忠が衢州の兵を将いて入衛す。辛丑、臨安府の罪人を疏決す。壬寅、右正言徐直方遁ぐ。夏貴に樞密副使・両淮宣撫大使を加え、李芾に湖南鎮撫大使を加ふ。総制戴虎が大南砦を破り、三官を転ず。張起岩に太府寺丞・靖州知事を加え、劉用以下の立功人各官を転ずるに差有り。大元の兵巴陵県黄沙に駐す。乙巳、吳繼明が平江県を復す。戊申、太学上舎生を試す。己酉、閻貴妃の集慶寺・賈貴妃の演福寺の田を拘りて安辺所に還す。庚戌、劉師勇が呂城を攻め、之を破る。癸丑、嘉定七司法を復す。丁巳、使者を遣して陳宜中を還朝せしむ。張世傑に神龍衛四廂都指揮使を加え、総都督府諸兵を総べしむ。戊午、劉師勇に和州防禦使を加ふ。熒惑星南斗を犯す。趙淇を除して大理少卿と為す、王應麟が録黄を封還し、言ふ昔内外寶玉を以て賈似道に献ずるに、淇兄弟最も甚だしと、己未、遂に之を罷む。甲子、文天祥を以て浙西・江東制置使兼平江府知事と為す。乙丑、揚州の文武官両官を転ず。吳繼明に湖北招討使を加え、朱旺諸将各三官を転ず。

九月己巳、陳宜中に観文殿大学士・醴泉観使兼侍読を授く。左司諫陳景行が講官に坐講して宿直に陪せしむるを令するを請ふ、之に従ふ。辛未、田謹賢に福州観察使を加え、楊邦憲に利州観察使を加え、入衛を趣す。己卯、陳宜中海防を任ぜんことを乞ふ、允さず。辛巳、明堂に事有り、赦す。李成大捕へられ、屈せずして死す、壬午、五官を贈る。丙戌、文天祥を命じて都督府参贊官と為し、三路の兵を総べしむ。会稽県尉鄭虎臣が部して賈似道を其の貶所に送る、漳州に至り、之を殺す。大元の兵泰州に至る、知州孫虎臣自殺す、庚寅、太尉を贈る。靖州の今年の田租を免ず。辛卯、李珏を梧州に移す。乙未、劉良貴再び両官を削り、信州に貶す。張彥が大兵と戦ひ敗れて捕へられ、城を以て降る。

冬十月己亥、張世傑を沿江招討使に加え、劉師勇を福州觀察使とし、出戍兵を総統せしむ。壬寅、宜中來る。癸卯、玉牒殿災う。丁未、夢炎を左丞相とし、宜中を右丞相と為し、並びに樞密使・都督を兼ねしむ。臨安を城す。辛亥、張世傑を沿江制置副使兼知江陰軍兼浙西策應使と為す。丁巳、太白填星に會す。戊午、戸部財用を領す常懋・中書舍人王應麟、濟王の後を立てんことを請う。夏椅に直秘閣を贈る。紹興府の處士陸應月を徴して史館編校文字と為す。壬戌、大元の兵建康を發し、參政阿刺罕・四萬戶總管奧魯赤右軍を將ひて四安鎮より出で、獨松關に趣く。參政董文炳・范文虎左軍を將ひて江より出で、江陰軍に入る。丞相伯顏中軍を將ひて常州に入る。熒惑壘壁陣を犯す。癸亥、張全・尹玉・麻士龍常州を援く。士龍虞橋に戰ひて死し、全五牧に奔る。朱煥廬州に至るも、貴内せず。煥歸り、復た之を以て淮東制置副使と為す。陳合廖瑩中の家資を匿するに坐し、執政の恩數を奪わる。甲子、尹玉五牧に戰ひて之に死し、張全戰はずして遁る。丙寅、趙溍・趙與可・鄭の募兵を趣く。詔して中外の官に兵略を習ふ者あれば、各書を以て來上せしむ。是の月、李世修江陰を以て降る。

十一月丁卯朔、銅關の將貝寶・胡巖起溧水を攻めて死す。寶に武翼郎を、岩起に朝奉郎を贈る。庚午、陳文龍を以て同知樞密院事兼權參知政事と為し、黃鏞を同簽書樞密院と為す。諸制司に命じ、各才將帥に堪ふる者十人を舉げしむ。偏裨士卒を限らず、軍中に隷せざる者は、匱に投じて自薦するを許す。辛未、起居舍人曾唯官を辭し、允されず、去る。癸酉、尹玉に濠州團練使を、麻士龍に高州刺史を贈り、張全・朱華の臨陳退師の罪を免ず。丁丑、詔して俘はれし將士、衆を率ひ來歸する能ふ者は、人數を以て官を補ひ、功を立つる能ふ者は節鉞を予ふ。諸閫以下の官は、招く人の多寡に従ひ賞を行ふ。戊寅、大元の兵廣德軍を破る。己卯、四安鎮を破り、正將胡明等之に死す。文天祥を召して入衛せしむ。辛巳、曾唯一官を削り免ず。太白房を犯す。壬午、大元の兵隆興府に至る。黃萬石撫州を棄てて遁れ、轉運判官劉槃隆興を以て降る。癸未、大元の兵興化縣を破り、知縣胡拱辰自殺す。甲申、中書舍人王應麟兼給事中を辭免す。允されず。大元の兵常州に至り、降を招くも聽かず。二日攻めて之を破り、其の城を屠る。知州姚訔・通判陳炤・都統王安節皆死し、劉師勇圍を潰して平江に奔る。乙酉、宜興縣を改めて南興軍と為す。禮部侍郎陳景行官を辭し、允されず、去る。丙戌、濟王に太師・尚書令しょうしょれいを贈り、鎮王に進封し、諡して昭肅と曰ひ、福王與芮に命じて後を擇ばしめ祀を奉ぜしめ、田萬畝を賜ふ。丁亥、獨松關急を告ぐ。文天祥を趣けて入衛せしむ。戊子、民兵を調ひて余杭・錢塘を出守せしむ。己丑、獨松關破れ、馮驥之に死し、張濡遁れ、鄰邑風望みて皆遁る。平江府通判鄭疇遁る。庚寅、通判王矩之・都統制王邦傑人を遣はして常州に迎降す。辛卯、大元の兵撫州に趨く。都統密佑璧邪に逆戰す。兵敗れ、之に死す。癸巳、張世傑を以て浙西制置副使兼知平江府と為す。甲午、權禮部尚書王應麟遁る。黃萬石兵を提げて建昌軍に走る。乙未、左丞相夢炎遁る。丙申、使を遣はして夢炎を召し還朝せしむ。余杭・武康・長興縣の民に錢を賜ひ、並びに今年の田租を免ず。鄭疇一官を降し、通判を罷む。撫州施至道城を以て降る。

十二月丁酉朔、詔して似道の歸葬を許し、其の祖の田廬を以て之に還す。戊戌、趙與可を復た都督府參議官と為し、李珏を放ちて自便せしむ。己亥、王汝翼に朝奉郎を贈る。庚子、吳堅を以て簽書樞密院事と為し、黃鏞を兼ねて權參知政事と為す。柳嶽を遣はし書を奉りて大元の軍中に詣り、盜廉尚書を殺すと稱し、師を班し好を修めんことを乞ふ。癸卯、陳文龍を以て參知政事兼權知樞密院事と為し、謝堂に同進士出身を賜ひ、同知樞密院事と為す。甲辰、姚訔に龍圖閣待制を贈り、其の父希得に太師を贈り、陳炤に直寶章閣を、馮驥に集英殿修撰を贈る。嘉興府急を告ぐ。封樁庫の錢を給して兵備と為す。趙與侲に命じて縉雲縣を戍らしむ。季可の官を復し、龍泉縣に如きて兵を募らしむ。乙巳、陳景行を以て浙東安撫副使と為し、處州を戍らしむ。方逢辰を起して淳安縣を戍らしむ。丙午、呂文德を追封して和義郡王と為す。丁未、安邊封樁庫の金を出だして浙東諸郡に付し兵備と為す。大元の兵平江府に入る。吳君擢を起して太府少卿と為し、臨平民兵を提點せしむ。使を遣はして夢炎・應麟を召すも、皆至らず。戊申、張世傑入衛し、檢校少保を加へ、詔を降して獎諭す。王爚薨ず。視朝を二日輟む。乙酉、臨安府州縣の馬を括る。庚戌、柳嶽還る。癸丑、宗正少卿陸秀夫・刑部尚書夏士林・兵部侍郎呂師孟を遣はして軍前に使はしむ。詔して呂文煥・趙孟桂を通好せしむ。己未、方興・丁廣・趙文禮の兵皆敗れて歸る。庚申、柳嶽を以て工部侍郎と為し、洪雷震を以て右正言と為し、燕に使はして祈請せしむ。大元の兵大洪山を破り、知隨州朱端履降る。權吏部尚書丁應奎・左侍郎徐宗仁遁る。癸亥、使を遣はして夢炎を召すも、至らず。

德祐二年

德祐二年(1276年)春正月丁卯朔(1月1日)、大元の兵は元年十月より潭州を包囲し、湖南安撫兼知州李芾は三月にわたり防戦し、大小数十合の戦闘を交え、力尽きて陥落せんとした。芾は一族を挙げて死に、郡人の知衡州尹穀もまた全家を挙げて自焚し、帥司参議楊霆及び幕属の陳億孫、顔応焱らは皆芾に従って死んだ。守将の呉継明、劉孝忠は城を以て降伏した。宝慶が降り、通判曾如驥はこれに殉死した。陸秀夫らが大元軍中に至り、称姪(伯父・叔父に対する礼)と幣帛の献納を求めたが、聞き入れられず;称姪孫(伯祖父・叔祖父に対する礼)を求めたが、聞き入れられなかった。戊辰(2日)、帰還した。太皇太后は臣下の礼を用いるよう命じた。己巳(3日)、嘉興守の劉漢傑が城を以て降伏した。庚午(4日)、同簽書樞密院事黄鏞、参知政事陳文龍が逃亡した。謝堂を両浙鎮撫大使とし、文天祥を臨安府知事とし、全永堅を浙東撫諭使とした。辛未(5日)、呉堅を左丞相兼樞密使とし、常楙を参知政事とすることを命じた。日中の刻、慈元殿において詔書を宣布したが、文官の列は僅か六人であった。諸関の兵は悉く潰走した。監察御史劉岊を遣わし、表を奉って称臣し、大元皇帝に仁明神武皇帝の尊号を上り、毎年銀絹二十五万を奉り、境土を存して祭祀を奉ずることを乞うた。癸酉(7日)、左司諫陳孟虎、監察御史孔応得が逃亡した。熒惑(火星)が木星を犯した。甲戌(8日)、大元の兵が瑞州に至り、知州姚岩は城を棄てて去った。乙亥(9日)、賈余慶を臨安府知事とした。丙子(10日)、吉王昰、信王昺を出鎮させることを命じた。丁丑(11日)、夏士林を簽書樞密院事とした。己卯(13日)、全永堅に太尉を加えた。参知政事常懋が逃亡した。三学の学生は死を誓って去らず、特に放ち、釈褐の出身を与えた。楊亮節を福州観察使、吉王府行事提挙とし;俞如珪を環衛官、信王府行事提挙とした。大元の兵が安吉州に入り、知州趙良淳は自縊死した。月が東井(井宿)に暈を生じた。庚辰(14日)、簽書樞密院夏士林が逃亡した。辛巳(15日)、太乙宮を祀った。癸未(17日)、吉王昰を益王に封じ、福州判官・福建安撫大使とし;信王昺を広王に封じ、泉州判官兼南外宗正事判官とした。留夢炎を江東西・湖南北宣撫大使とした。甲申(18日)、大元の兵が皋亭山に至り、監察御史楊応奎を遣わし、伝国璽を奉って降伏を上申した。その表文に曰く、「宋国主臣㬎謹んで百拝し表を奉りて言う。臣は眇然たる幼沖にして、家に多難に遭い、権奸の似道が盟に背き国を誤り、遂に師を興して罪を問うに至らしむ。臣は遷避して苟全を求めざるに非ず、今天命帰する所あり、臣将に何れの往くところかあらん。謹んで太皇太后の命を奉じ、帝号を削去し、以て両浙・福建・江東西・湖南・二広・両淮・四川の現存する州郡を悉く聖朝に上り、宗社と生霊の為に哀れみを請い命を乞う。伏して聖慈の垂念せられんことを望む。臣が三百余年を経る宗社の遽かに隕絶に至るを忍びず、曲げて存全を賜わば、則ち趙氏の子孫、世々頼る所あり、敢えて忘れざるべし。」是夜、丞相陳宜中が逃亡し、張世傑、蘇劉義、劉師勇は各々その部兵を率いて去った。乙酉(19日)、文天祥を右丞相兼樞密使・都督とした。丙戌(20日)、天祥に呉堅と共に大元軍に使わすことを命じた。家鉉翁に進士出身・簽書樞密院事を賜い、賈余慶を同簽書樞密院事・臨安府知事とした。戊子(22日)、知建徳軍方回、知婺州劉怡、知処州梁椅、知台州楊必大は皆降伏した。是月、知臨江軍滕岩瞻が逃亡した。

二月丁酉朔(1日)、日中に黒子が互いに揺らめき、鵞卵の如し。辛丑(5日)、百官を率いて祥曦殿にて表を拝し、郡県に詔を諭して降伏せしむ。大元の使者が臨安府に入り、府庫を封じ、史館・礼寺の図書及び百司の符印・告敕を収め、官府及び侍衛軍を罷めた。壬寅(6日)、なお賈余慶、呉堅、謝堂、劉岊、家鉉翁を祈請使に充てた。是日、大元軍は銭塘江の砂洲に駐屯し、潮が三日間至らなかった。

三月丁丑(12日)、朝見した。

五月丙申(2日)、上都にて朝見した。開府儀同三司・瀛国公に降封された。是月、陳宜中らが福州にて昰を擁立した。後二年(1278年)四月、昰は碙洲にて崩じ、陸秀夫らが再び衛王昺を擁立した。後三年(1279年)にして始めて平定された。

贊に曰く、司馬遷は秦・趙の世系を論じて、共に伯益より出づとす。夫れ稷・契・伯益、その子孫皆天下を有つ。運祚の短長に至っては、亦その功德の厚薄に係るなり。趙宋は武を用いて起これりと雖も、功成り治定まった後、仁を以て家を伝え、秦を見るに宜しく間有るべし。然れども仁の弊は弱に失い、即ち文の弊は僿(薄っぺら)に失う。中世に自ら強からんと欲し、以てその弊を革めんとする者あり、用いる方に乖き、馴致して棼擾(混乱)に至る。建炎(南宋初年)而後、土宇分裂すと雖も、猶よく六主百五十年にして而して後亡ぶ。豈に礼義以て君子の志を維持するに足り、恩恵以て黎庶の心を固結するに足らざるや。瀛国公四歳にして即位し、而して天兵江を渡り、六歳にして群臣これを奉じて入朝す。漢の劉向の言う、「孔子『詩』を論ずるに『殷の士膚敏(美しく敏速)にして、裸将(灌鬯の礼)を京に於いてす』に至り、喟然として歎じて曰く、大なるかな天命、善は不可不く後嗣に伝う、是を以て富貴常無し。」言なるかな至れるかな。我が皇元の宋を平ぐるや、呉越の民、市は易えずして肆(店舗)を開く。世祖皇帝は征南の帥を命ずるに、輒ち宋祖の曹彬に殺す勿れと戒めたるの言を以てこれを訓う。『書』に曰く、「大なるかな王の言、一なるかな王の心。」我が元の一天下の本、其れ茲に在り。

二王 附

二王とは、度宗の庶子である。長は建國公昰、母は淑妃楊氏。末子は永國公昺、母は修容俞氏。度宗が崩じると、謝太后は賈似道らを召し入れて宮中で擁立を議し、衆は昰が年長であるから立つべきとし、似道は嫡子を立てることを主張し、そこで㬎を立てて昰を吉王に、昺を信王に封じた。德祐二年正月、文天祥が臨安府尹となり、二王を閩・廣に鎮守させんことを請うたが、聞き入れられず、初めて二王に出閣を命じた。大元の兵が臨安に迫ると、宗室親族が再び請うたので、ついに昰を益王に徙封し福州に判を加え福建安撫大使とし、昺を廣王に徙封し泉州に判を加え兼ねて南外宗正を判じ、駙馬都尉楊鎮及び楊亮節・俞如珪を提挙とした。大元の兵が皋亭山に至ると、楊鎮らは二王を奉じて婺州に奔った。丞相伯顏が臨安に入り、范文虎に兵を率いさせて婺州に向かわせ、楊鎮を召して王を還らせようとした。楊鎮は報せを得ると即座に去り、「我は彼の地に赴いて死し、追兵を緩めん」と言った。楊亮節らはそこで王を背負って徒歩で山中に匿まること七日、その将張全が兵数十人でようやく追いつき、ともに温州に奔った。陸秀夫・蘇劉義が続いて道中で追いついた。清澳にて陳宜中を召し遣わすと、宜中は来て謁し、また定海にて張世傑を召すと、世傑もまた配下の兵を率いて温州の江心寺に来た。高宗が南奔した時にかつてここに至り、御座が寺中にあるのを、衆は相率いて座下で泣き、昰を奉じて天下兵馬都元帥とし、昺をその副とした。そこで兵を発し吏を除授し、秀王與睪を福建察訪使兼安撫・知西外宗正とし、趙吉甫を知南外宗正兼福建同提刑として、先に閩中に入り吏民を撫し、同姓に諭した。太皇太后はまもなく二名の宦官に兵八人を付けて温州に王を召そうとしたが、宜中らはその兵を江中に沈め、ついに閩に入った。時に汀州・建州などの諸州はちょうど黄萬石に従って降ろうとしていたが、昰が将に至らんと聞くと、即座に城門を閉めて使者を退け、萬石の将劉俊・宋彰・周文英らも多く来帰した。

帝昰

景炎元年

五月乙未朔、陳宜中らはついに福州において昰を立て、宋主とし、元号を景炎と改め、楊淑妃を冊立して太后とし、ともに政務を聴かせた。信王昺を衛王に封じた。宜中を左丞相兼都督とし、李庭芝を右丞相とし、陳文龍・劉黻を参知政事とし、張世傑を樞密副使とし、陸秀夫を簽書樞密院事とした。呉浚・趙溍・傅卓・李珏・翟國秀らに命じて分道出兵させた。福州を福安府と改め、温州を里安府と改めた。郊祀の赦を行った。この日黎明、府中より大きな音響が起こり、衆は皆驚いて倒れた。文天祥が鎮江より亡命して帰り、庚辰、右丞相兼知樞密院事とした。その将呂武を江・淮に遣わして豪傑を招き、杜滸を温州に遣わして兵を募らせた。廣東経略使徐直諒が梁雄飛を遣わして隆興帥府に降伏を請うたので、雄飛を招討使に仮任し、広州を巡行させた。やがて直諒は昰が立ったと聞き、権通判李性道・摧鋒軍将黄俊らに命じて石門において雄飛を防がせたが、性道は戦わず、俊は戦いに敗れて広州に奔り、直諒は城を棄てて遁走した。

六月丙子、梁雄飛が広州に入り、諸降将は皆官を授けられたが、黄俊のみは受けず、ついに衆に殺された。呉浚は広昌に兵を集め、南豊・宜黄・寧都の三県を取った。翟國秀は秀山を取り、傅卓は衢州・信州の諸県に至り、民多くこれに応じた。文天祥を同都督に命じた。

七月丁酉、兵を進めて南劍州に入り、江西を取らんとした。この月、呉浚の兵は南豊にて敗れ、翟國秀は大軍の至るを聞くと、ついに引き還った。傅卓の兵は敗れ、江西元帥府に詣でて降った。平章阿里海牙が厳関を破り、馬暨は静江府に退いて守った。

八月、漳州に乱があり、陳文龍を閩廣宣撫使に命じてこれを討たせた。甲戌、秀王與睪が婺州を包囲した。丙子、大軍の至るを聞くと、ついに包囲を解いて帰った。王積翁を福建提刑・招捕使・知南劍州とし、上三郡の備御に当たらせ、黄佺を同提刑・招捕使・知漳州とし、下三郡の備御に当たらせた。張世傑が兵を遣わして呉浚を助け、元帥李恒と兜零で戦ったが、兵敗れて寧都に奔った。興化の石手軍が乱を起こした。

九月、再び陳文龍を興化軍知軍とした。東莞の人熊飛は黄世傑に従って潮・恵二州を守っていたが、趙溍の至るを聞くと、即座に兵をもってこれに応じ、広州において梁雄飛を攻めた。壬寅、雄飛は遁走し、熊飛はついに韶州を回復した。新会県令曾逢龍もまた兵を率いて広州に至り、李性道が出迎えて謁したが、熊飛と逢龍は彼を捕らえて殺した。衢州守将魏福興は福星橋に出て戦い、死んだ。壬子、趙溍が広州に入った。この月、招討也的迷失が福州において東省の兵と会した。元帥呂師夔・張榮実が兵を率いて梅嶺に入った。

十月壬戌朔、文天祥が汀州に入った。趙溍が曾逢龍を遣わして熊飛とともに南雄において大軍を防がせたが、逢龍は戦死し、熊飛は韶州に奔った。大軍が韶州を包囲すると、守将劉自立は城を以て降り、熊飛は兵を率いて巷戦したが、兵敗れて水に赴き死んだ。

十有一月、参政阿刺罕・董文炳が兵を率いて処州に至ると、李珏は城を以て降った。甲辰、秀王與睪が里安において迎え撃って戦い、観察使李世達はこれに死した。與睪およびその弟與慮・子孟備・監軍趙由𤩲・察訪使林温は捕らえられ、皆死んだ。阿刺罕の兵が建寧府に至り、守臣趙崇釠を捕らえ、邵武軍知軍趙時賞・南劍州知州王積翁は皆城を棄てて去った。乙巳、昰は海に入った。癸丑、大軍が福安府に至ると、知府王剛中は城を以て降った。昰は泉州に入らんとしたが、招撫蒲寿庚に異心があった。初め、寿庚は泉州舶司を提挙し、蕃舶の利を擅にすること三十年であった。昰の舟が泉州に至ると、寿庚は来て謁し、駐蹕を請うたが、張世傑は許さなかった。ある者が世傑に寿庚を留めるよう勧めれば、すべての海舶を自ら随行させぬようにすべしと言ったが、世傑は従わず、彼を帰らせた。やがて舟が足りなくなると、ついにその舟を掠め、その財貨を没収したので、寿庚は怒って泉州にいる諸宗室及び士大夫と淮兵を殺した。昰は潮州に移った。この月、福州・興化は皆降った。英徳守臣淩弥堅・徐夢得らもまた降った。

十二月辛酉朔、趙溍は広州を棄てて遁走した。乙丑、制置方興もまた遁走し、呉浚は退いて瑞金に走り入った。戊辰、蒲寿庚および泉州知州田真子は城を以て降った。興化軍知軍陳文龍は城を嬰して下らず、乙酉、通判曹澄孫が城を以て降り、文龍は捕らえられ、屈せずして死んだ。昰は甲子門に駐った。

帝昺

景炎二年

至元十四年正月、大軍が汀関を破った。癸巳、循州知州劉興が降った。壬寅、呉浚は瑞金を棄てて遁走し、鎮撫孔遵が瑞金に入り、文天祥は漳州に走り、呉浚はまもなく汀州に還り、降った。戊申、潮州知州馬發およびその通判戚継祖が降り、癸丑、再び来帰した。丁巳、権知梅州錢榮之が城を以て降った。

二月、大軍が広州に至ると、県人趙若岡が城を以て降った。広東の諸郡は皆降った。

三月、文天祥は梅州を取る。陳文龍の從子瓚は兵を挙げて守將林華を殺し、興化軍を據ふ。

四月、文天祥は興國縣を取る。廣東制置使張鎮孫は廣州を襲ひて之を取り、梁雄飛等は城を棄てて韶州に走る。

五月、張世傑は兵を將ひて潮州を取り、文天祥は兵を提げて梅州より出で江西に入り、會昌縣に入る。淮民張德興も亦兵を起して太湖縣丞王德顒を殺し、司空しくう山を據へ、黃州・壽昌軍を攻め下す。丁巳、宣慰鄭鼎に遇ひ、樊口に戰ひ、鼎は水に墜ちて死す。

六月辛酉、文天祥は雩都を取る。己卯、興國縣に入る。

七月、兵を遣はして吉・贛諸縣を取り、贛州を圍む。衡山人趙璠・撫州人何時皆兵を起して之に應ず。乙巳、張世傑は泉州を圍み、將高日新を遣はして邵武を復す。福州に在る淮兵は、王積翁を殺して世傑に應ぜんと欲し、皆積翁に爲りて戮せらる。江西宣慰李恒は兵を遣はして贛州を援け、而して自ら兵を將ひて興國に入る。

八月、文天祥の諸將の兵皆敗れ、乃ち兵を引いて鄒洬に即くこと永豐に於てす。洬の兵も亦潰く。己巳、熒惑月を掩ひ、天色赤し。壬申、文天祥の兵興國に於て敗る。己卯、大軍司空山を破り、張德興敗れ、亡走す。甲申、天祥空坑に至り、兵盡く潰き、遂に身を挺して循州に走り、諸將皆執はる。

九月、元帥唆都泉州を援く。戊申、張世傑淺灣に歸る。左丞塔出は兵を將ひて大庾嶺に入り、參政也的迷失は兵を將ひて復た邵武を取り、福州に入る。

十月甲辰、唆都興化軍を破り、陳瓚之に死す。潮州を攻め進み、馬發之を拒ぐ、乃ち去りて惠州を攻む。

十一月、塔出廣州を圍む。庚寅、張鎮孫城を以て降る。元帥劉深は舟師を以て淺灣に於て昰を攻め、昰は秀山に走る。陳宜中は占城に入り、遂に反らざる。

十二月丙子、昰井澳に至り、颶風舟を壞し、幾くにか溺死せんとす、遂に疾を成す。旬余、諸兵士始めて稍稍來集す、死者十の四。丁丑、劉深昰を追ひて七州洋に至り、俞如珪を執へて歸る。

祥興元年

十五年正月、大軍廣州城を夷ぶ。張世傑は兵を遣はして雷州を攻むるも克たず。己に大軍涪州を克ち、守將王明を執ふ。

二月、大軍潮州を破り、馬發之に死す。

三月、文天祥は惠州を取り、廣州都統淩震・轉運判官王道夫は廣州を取る。昰は占城に往き居らんと欲するも果たさず、遂に碙洲に駐り、兵を遣はして雷州を取る。曾淵子雷州より來り、之を參知政事・廣西宣諭使と爲す。

四月戊辰、昰碙洲に於て殂す。其の臣之を號して端宗と曰ふ。庚午、衆又衛王昺を立てて主と爲し、陸秀夫を以て左丞相と爲す。是の月、黃龍海中に見ゆ。

五月癸未朔、元号を祥興と改める。乙酉、碙洲を翔龍県に昇格させる。張応科と王用を派遣して雷州を攻め取らせるが、応科は三度戦い皆利あらず、王用はこれにより降伏す。

六月丁巳、応科再び雷州に戦い、遂に之に死す。高州知事李象祖降伏す。己未、昺崖山に移り住み、広州を翔龍府に昇格させる。己巳、大星東南に流れ、海中に墜つ、小星千余之に従い、声雷の如く、数刻にして乃ち已む。己卯、都元帥張弘範・李恒崖山を征す。

十月、趙与珞は謝明・謝富と共に瓊州を守る。阿里海牙は馬成旺を遣わして之を招く。与珞は兵を率いて白沙口に於いて拒む。

十一月癸巳、州民与珞を執りて以て降る。

閏月庚戌、王道夫広州を棄てて遁走す。壬戌、凌震遁走す。癸亥、大軍広州に入る。

十二月壬午、王道夫広州を攻むるも、兵敗れて執らる。凌震の兵続いて至るも、亦敗る。文天祥海豊に走る。壬寅、五坡嶺に於いて執らる。震の兵又芰塘に於いて敗る。大軍南安県を破り、守将李梓発之に死す。

祥興二年

十六年正月壬戌、張弘範の兵崖山に至る。庚午、李恒の兵亦来会す。世傑は舟師を以て海中に碇し、巨艦千余艘を棋の如く結び、中は艫、外は舳とし、大索を以て貫き、四周に楼棚を起こして城堞の如くし、昺を其の中に居らしむ。大軍之を攻むるも、艦堅くして動かず。又舟に茅を載せ、膏脂を以て沃し、風に乗じて火を放ちて之を焚く。艦は皆泥を塗り、長木を縛りて以て火舟を拒ぐ。火爇く能わず。

二月戊寅朔、世傑の部将陳宝降伏す。己卯、都統張達夜を以て大軍の営を襲うも、亡失甚だ衆し。癸未、黒気山より出づ。李恒早潮の退くに乗じて其の北を攻む。世傑は淮兵を以て殊死に戦う。午に至り潮上り、張弘範其の南を攻む。南北敵を受け、兵士皆疲れて戦う能わず。俄かに一舟の檣旗仆る。諸舟の檣旗遂に皆仆る。世傑事去れるを知り、乃ち精兵を抽んで中軍に入る。諸軍潰え、翟国秀及び団練使劉俊等甲を解きて降る。大軍中軍に至る。暮に会し、且つ風雨、昏霧四方に塞がり、咫尺も相辨ぜず。世傑乃ち蘇劉義と維を断ち、十余舟を以て港を奪いて去る。陸秀夫衛王の舟に走る。王の舟大にして、且つ諸舟環結す。度るに走り出づるを得ざるを、乃ち昺を負いて海中に投ず。後宮及び諸臣多く従いて死する者あり。七日、浮屍海中に出づること十余万人。楊太后昺の死を聞き、膺を撫でて大いに慟哭して曰く、「我が死を忍び艱関此に至るは、正に趙氏の一塊の肉の為のみ。今望み無し」と。遂に海に赴きて死す。世傑之を海浜に葬る。已にして世傑亦自ら溺死す。宋遂に亡ぶ。

贊に曰く、宋の亡ぶ徴は、已に一日に非ず。歴数帰する有り、真主世を御す。而して宋の遺臣、区区二王を奉じて海上の謀りを為す、天命を知らざる者と謂う可きのみ。然れども人臣其の事に忠にして斯くの如きに至るは、其れ亦悲しむべきかな。