理宗三
淳祐四年
四年春正月壬寅朔、詔して辺将に暴掠を擅に興し、無辜を虐殺するなからしめ、以て中原遺黎の望を慰む。帝《訓廉》《謹刑》の二銘を制し、中外を戒飭す。李鳴復を以て参知政事とし、杜範を以て同知樞密院事とし、劉伯正を以て簽書樞密院事とし、余玠を華文閣待制・旧に依り四川安撫制置使・知重慶府兼四川總領財賦とし、李曾伯を寶章閣直學士・旧に依り淮東安撫制置使・知揚州兼淮西制置使とす。戊午、樞密院言く、「四川帥臣余玠、大小三十六戦、多く労効有り、宜しく功を第し賞を行ふべし」と。詔して玠に趣し立功将士の姓名等第を上せしめ、即ち推恩す。庚申、余玠を以て兼四川屯田使とす。
二月癸酉、封樁庫緡錢各十萬を出し、両淮・京湖・四川制司に命じ頻年交兵の遺骸を収瘞し、義塚を立つ。
夏四月丁丑、流星有り太白の如く大にして、尾より出づ。癸未、填星太微垣を守る。乙未、雨を祈る。
五月庚戌、余玠言く、「利閬城大獲山・蓬州城營山・渠州城大良平・嘉定城旧治・瀘州城神臂山、諸城の工役、次第に就緒す。神臂山城成り、知瀘州曹致大厥功嘉す可し、賞を推し以て其の餘を勵すを乞ふ」と。詔して致大に遙郡刺史を行はしむ。丁巳、武功大夫・雄威軍都統制楊價世南邊を守り、連年播州に戍を調し、捍禦勤瘁す。詔して價を右武大夫・文州刺史に轉ず。戊午、大元兵壽春府を圍む。呂文德水陸諸軍を節制し圍を解くに功有り。詔して樞密院に赴き稟議せしめ、緡錢百萬を發し、両淮制司に詣り師を犒ふ。庚申、守闕進勇副尉桂虎・進義副尉楚富・吐渾將虞候鄭蔡、壽春を捍禦し、俱に勞效有り。詔して各官資兩轉を賜ひ、緡錢千を給す。乙丑、前簽書樞密院事鄒應龍薨ず。少保・監察御史を贈る。胡清獻淮西提刑徐敏子の三罪を劾す。詔して兩秩を削り、江州に送り居住せしむ。
六月庚午朔、呂文德旧に依り侍衛馬軍副都指揮使兼淮西招撫使・知濠州とす。乙亥、禮部進士留夢炎以下四百二十四人に及第・出身を賜ひ差有り。壬午、詔して安豐軍策應壽春圍を解く将士に官資を補轉し差有らしむ。詔す、壽春一軍先づ大海に渉り、山東膠・密諸州を搗き功有り。今大元兵城を圍み、能く城を守りて隳さず。其の立功将士皆補轉に差有りと。乙未、流星有り太白の如く大にして、畢より出づ。丙申、吳潛隆興府玉隆萬壽宮を提舉し、任便に居住す。
秋七月己亥朔、雨を祈る。乙卯、沿淮失業の壯丁を招收し武勝軍と爲し、五千人を以て額とす。辛酉、盜永州東安縣に發す。飛虎軍正將吳龍・統制鄭存等討捕に功有り。詔して官資を補轉し差有らしむ。甲子、詔す、「故直龍圖閣項安世正學直節、先朝の名儒、可に特に集英殿修撰を贈るべし」と。
八月壬辰、太白晝に見ゆ。
九月癸卯、右丞相史嵩之父の病を以て謁告す。之を許す。范鐘・劉伯正に暫く相事を領せしむるを詔す。甲辰、史彌忠卒す。少師を贈り、鄭國公に封じ、諡して文靖を賜ふ。詔して史嵩之を起復し右丞相兼樞密使とす。癸丑、熒惑・填星軫に合す。甲寅、京湖制司言く、諸將李福等申州・蔡州西平縣城壁及び馬家等砦を破る。詔して将士各官を補し賞を推し差有らしむ。己未、將作監徐元傑上疏し史嵩之の起復を論じ、宜しく其の執政を挙げ自ら代るを許すべしとす。帝允さず、遂に去らんと求む。帝曰く、「經筵卿に頼り規益す、何事をか去るを引くや」と。癸亥、太白鬥宿の距星を犯す。乙丑、雷す。丁卯、雷す。台臣嚴州及び紹興・蕭山等縣の征商煩苛なるを言ふ。詔して亟に之を罷む。
冬十月甲戌、詔して慶元府守臣に敦諭し史嵩之を闕に赴かしむ。嵩之控辭す。允さず。壬辰、杜範・游似萬壽觀を提舉し兼侍講とす。
十一月辛丑、詔して游似・杜範を闕に赴かしむるを趣す。戊申、雷す。庚戌、詔して陳韡・李性傳を闕に赴かしむ。
十二月庚午、范鐘を以て左丞相兼樞密使とし、杜範を以て右丞相兼樞密使とし、游似を以て知樞密院事とし、劉伯正を以て参知政事兼簽書樞密院事とす。詔して百官を戒飭す。右丞相史嵩之の喪を終ふるを許す。甲戌、趙葵を以て同知樞密院事とす。乙亥、鄭清之に少保を授け、旧に依り觀文殿大學士・醴泉觀使兼侍讀とし、仍奉朝請し、進みて衛國公に封ず。
淳祐五年
五年春正月丁酉朔、詔して庶政を更新し、中原の遺民を綏撫す。丙午、杜範右丞相を辞免す、允さず。己酉、雷す。乙卯、李性傳を以て簽書樞密院事兼權參知政事とす。
二月丙寅朔、雨土す。甲戌、五河を復す、詔して呂文德に三秩を進め、羊洪に二秩を進め、余に戦功ある者は賞を推し、其の陣沒したる人、姓名を具して贈恤す。丁丑、范鐘等『玉牒』、『日曆』及び孝宗、光宗『御集』、『經武要略』、『寧宗實錄』を上る。壬辰、太白晝見し、天を經る。
三月庚子、詔して贓吏の法を厳にし、仍て有司に命じ彭大雅、程以升、吳淇、徐敏子の納賄の罪を行はしむ。淳熙の故事に准じ、吏の貪虐、預借、抑配、重催、取贏を戒む。緡錢百万を以て淮東の師を犒う。
夏四月甲申、填星上相星を犯す。丙戌、杜範薨ず、少傅を贈り、諡して清獻とす。戊子、余玠言う、權巴州何震之の城を守り兵に死するを、詔して進めて官三秩を贈り、一子に下州文学を与ふ。京湖制司言う、「鈐轄王雲等鄧州鎮平縣の霊山を襲ひ、順陽鉄撅峪に戦ひ、皆労効有り、野戦数十合、雲等六人重創を受け死し、路鈐于江一軍力戦す。」詔して王雲に三秩を贈り、仍て其の二子を承信郎とす。王寛、王立、田秀、董亮、董玉各加へて贈恤し、于江等各一官資を転ず。詔す、李曾伯、余玠、董槐、孟珙、王鑒職事修挙す、曾伯、玠閣職を升め、槐、珙、鑒官を転じ、並びに其の任に因る。
五月丁酉、呂文福、夏貴戦功を上る、詔して貴官両転、文福帯行閣職を授く。丁未、詔す、「沿江、湖南、江西、湖広、両浙の制帥漕司及び許浦水軍司、共に軽捷なる戦船千艘を造り、遊撃軍壮士三万人を置き、分ち備へて捍禦せしむ。」戊申、日赤黄の背気を生ず。辛亥、詔して董槐を闕に赴かしむ。丁巳、淮東制置使李曾伯煥章閣学士を辞免す、之に従ふ。
六月甲申、雨を祈る。丙戌、工部侍郎徐元傑卒す、四秩を贈る。詔獄を置く。
秋七月癸巳朔、日食有り。旱す。辛丑、鎮江、常州亢旱す、詔して監司、守臣及び沿江諸郡に流民を安集せしむ。甲辰、雨を祈る。乙卯、詔して徐元傑、劉漢弼に官田五百畝、緡錢五千を給し其の家を恤ふ。丁巳、京湖制司言う、総制亢國用師衆を率ひ裕州拐河に戦ひ、黒山に戦ひ、大神山に戦ひ、皆労効有り。詔して國用に官両転、李山等四十七人に官一転を賜ふ。呂文德言う、大元兵と五河隘口に戦ひ、又濠州に於て戦ひ、大元兵還る。詔して文德に屯駐諸軍戦守の将士を推恩し差有らしむ。
八月庚辰、范鐘再び田に帰らんことを乞ふ、允さず。
九月甲辰、京湖制置司言う、「劉整等精鋭を率ひ、雲梯を以て四面より鎮平県城に登り、城に入り巷戦し、城中の倉庫、糗糧、器甲を焚き、路将武勝等四人之に死す。広陽を略し、列屯、砦柵、廬舍凡そ二十余所を焚く。還りて霊山に抵り、又力戦して功有り。」詔して整に官両転、同行蔡貴等二百二十人各官一転を賜ふ。辛亥、明堂に祀り、太祖、太宗、寧宗を奉り並びに侑す。大赦す。
冬十一月乙未、鄭清之田に帰らんことを乞ふ、允さず。丙申、詔す、師彌属籍を典伺し、職事修挙す、太傅を授け、食邑を加へ、前に依り判大宗正事、嗣秀王とす。壬子、詔す、大元兵蜀に入り、權成都府馮有碩、權漢州王驤、權成都県楊兌、權資州劉永、權潼川府魏靄官守に死す、其の各官三転を贈り、仍て其の一子に官す。癸丑、詔す、将領関貴、統制白傅才衆を率ひ洋州を復し、還りて大元兵に遇ひ交戦し、将士百五十三人皆陣沒す、已に閔忠廟に祔饗し、其の家を贍恤す。関貴、白傅才各承節郎を贈り、其の一子に進勇副尉を授く。
十二月甲戌、詔す、寿春守臣劉雄飛等大元兵の城を囲み捍禦するに功有り、雄飛及び呂文福、林子崈等十一人各官三転、劉用等官資を補転すること差有り。己卯、遊似を以て右丞相兼樞密使とし、鄭清之を少師、奉国軍節度使とし、前に依り醴泉観使兼侍読、仍て朝請を奉じ、玉帯を賜ひ及び第を行在に賜ふ。兄与歓を換授して安德軍節度使、開府儀同三司、万寿観使とし、仍て朝請を奉ず。弟嗣沂王貴謙、嗣栄王与芮並びに少保を加授す。趙葵を以て知樞密院事兼參知政事とし、李性傳を同知樞密院事とし、陳韡を兼參知政事とす。壬午、太史奏す来歳正旦日に当に食すべしと、詔して是月二十一日に殿を避け膳を減じ、百司に命じ闕政を行ひ講じ、凡そ以て災変を消弭し得る者は、直言して隠す毋からしむ。
淳祐六年
六年春正月辛卯朔、日食有り。国用所を置き、趙与𥲅を提領官とす。
二月戊辰、范鐘再び田裏に帰らんことを乞ふ、詔して官三転、観文殿大学士、醴泉観使兼侍読を授く。己巳、范鐘再び辞す、詔して洞霄宮を提挙し、住居を便に任す。庚午、劉雄飛を以て知寿春府、節制屯田軍馬とす。
三月癸巳の日、日暈が周囲を囲み、珥気が現れた。
夏四月辛酉の日、太白が昼間に見えた。壬戌の日、太陰が太白を犯した。甲戌の日、丘嶽を両淮屯田副使を兼ねさせ、賈似道を蘄州・黄州屯田副使を兼ねさせた。丁丑の日、日暈が周囲を囲んだ。戊寅の日、詔して朱熹の門人胡安之・呂燾・蔡模を並びに迪功郎・本州州学教授とした。劄を与えてその著述を記録させ、併せて言いたいことを条書きにして上聞するよう命じた。
閏四月辛卯の日、李曾伯は台諫の論劾により、詔して職を落とし祠官に任じられ、まもなく祠祿を罷免された。戊戌の日、呂文德が言上した。「今春、北兵が両淮を攻め、統制汪懷忠らが趙家園で迎撃し、捕虜となった人民を奪還した。路鈐夏貴、知州王成・倪政らが舟師を率いて安豊軍を救援し、至る所で数度戦い、将兵で陣没した者は多かった。」詔して倪政に官三転を追贈し、一子を承信郎に任官する。許通・夏珪・孫才・江徳仙には各々官二転を追贈し、その一子を下班祗應に任官し、緡銭を与えてその家を撫恤する。その他の立功将士には恩賞を差等を付けて与える。辛丑の日、月暈が五重になった。癸卯の日、余玠が言上した。北兵が四道に分かれて蜀に入り、将兵が防禦して功績のある者を、便宜的に推挙賞与し、立功の等級を具して官資を補任転任させたことを上聞する。詔してこれに従った。
五月庚申の日、詔して賈似道に淮西山砦の城築を措置させた。壬戌の日、太白が権星を犯した。己卯の日、詔して諸鎮に兵を募り、舟を造り、馬を置かせ、帥臣は務めて将士を奨励激励し、辺防を厳重にするよう命じた。
六月甲午の日、保信軍節度使希丞が薨去した。丙午の日、雨を祈った。壬子の日、陳韡を参知政事兼同知枢密院事とした。乙卯の日、台臣が李鳴復・劉伯正は進めば善類を害し、退けば州裏を蝕むと論じた。詔して鳴復は職を落とし宮観を罷免し、伯正は一秩を削った。
秋七月壬戌の日、泉州は凶年にて飢饉あり、その民謝応瑞は役所の勧分によらず、自ら私銭四十余万を出し、米を買い入れて郷里を賑済し、全活した者は甚だ多かった。詔して進義校尉に補任した。丁卯の日、太陰が斗を犯した。己巳の日、呂文徳が言上した。「北兵が寿春城を包囲し、州の軍は黄家穴に至り、総管孫琦・呂文信・夏貴らが龍堽で戦って功績があった。」詔して文徳に官一転を賜い、その他は等級に従って転補する。陣没した董先ら二十二人、負傷者四百三十七人には、追贈・撫恤・恩賞を差等を付けて与える。癸酉の日、流星が室より出で、太白の如く大であった。
九月甲子の日、流星が斗より出で、太白の如く大であった。戊辰の日、賈似道を敷文閣直学士・京湖制置使・江陵府知府兼夔路策応使とした。太白が昼間に見えた。癸酉の日、孟珙が薨去し、少師を追贈した。
冬十月己丑の日、少保・嗣栄王与芮の子に孟啓と名を賜い、貴州刺史に任じた。乙未の日、填星・歳星・熒惑が亢で合した。己酉の日、太白が氐に入った。
十一月癸亥の日、歳星が氐に入った。甲戌の日、右丞相游似が五度にわたり帰田を請うたが、詔して許さなかった。辛巳の日、詔した。「北兵が蜀に入り、前四川制置使陳隆之は全家数百口が害に遭い、死して節を変えなかった。特に徽猷閣待制を追贈し、その二子を任官し、諡を賜い廟を立てる。死事した史季儉・楊戡の子には各々官二転を賜い、一子を任官する。」
十二月乙未の日、詔して史嵩之の請いに従い、金紫光禄大夫・観文殿大学士・永国公のまま致仕させる。台諫が史嵩之は父なく君なく、醜声穢行あり、無将の法に照らせば、誅するに余罪あり、宮祠を取りやめ、官を削って遠方に流すよう求めた。
淳祐七年
七年春正月乙卯朔の日、詔した。「近頃、非才を退け追放し、衆正を召し収めた。史嵩之は既に致仕させ、再び用いないことを示した。汝ら二三大臣、その心を一つにして、務めて実政を挙げ、我が邦家を安寧ならしめよ。もし言葉が実を浮かび、歳月を怠れば、朕は何を頼みとしようか。」資善堂を建て、孟啓に宜州観察使を授け、内小学に入らせた。
二月庚寅の日、詔した。「淮安主簿周子鎔は、久しく北に囚われ、数度にわたり蠟書を遣わして辺事を諜報し、今ついに生還した。朝奉郎に改め、優遇して昇擢すべし。」己亥の日、貴妃賈氏が薨去した。戊申の日、日暈が周囲を囲んだ。壬子の日、詔して潜邸を龍翔宮と改めた。
三月庚午の日、雨を祈った。
夏四月丁亥、鎮星(土星)が亢宿を犯す。庚子、王伯大を簽書樞密院事とし、呉潛を同簽書樞密院事とする。辛丑、鄭清之を太傅・右丞相兼樞密使とし、越国公に封じる。游似を罷免して観文殿大学士・醴泉観使兼侍読とする。趙葵を樞密使兼参知政事とし、江淮・京西・湖北の軍馬を督視させる。陳韡を知樞密院事・湖南安撫大使・知潭州とする。甲辰、趙葵に建康府知事・行宮留守・江東安撫使を兼ねさせ、軍行の調度に関する一切を便宜処分に委ねる。趙希塈を礼部尚書・督視行府参賛軍事とする。庚戌、緡銭千万・銀十五万両・祠牒千・絹万、並びに戸部の銀五千万両を出し、督視行府の趙葵に付して調用させる。
五月甲寅、寧淮軍統制張忠が浮山を戍守し、北将と格闘して共に水死す。武略大夫を追贈し、一子に承信郎の官を授け、緡銭五千を其の家に給す。雨を祈る。壬申、呉潛に参知政事の職務を兼ねて代行させる。乙亥、集英殿に御して士を策試し、直言を求めて旱魃を消す詔を下す。
六月癸巳、礼部進士張淵微以下五百二十七人に及第・出身を差等を以て賜う。丙申、旱魃のため、殿を避け膳を減ず。内外の臣僚・士民に対し過失を直陳し、憚ることなきを詔す。戊申、詔す:「旱勢未だ解けず。両淮・襄・蜀及び江・閩の内地、兵乱を経た州県に、遺骸暴露し、和気を傷つけ感ず。所属の有司は之を収め瘞めよ。」
秋七月己未、太陰(月)が心宿を犯す。乙丑、呉潛罷免。丁卯、別之傑を参知政事とし、鄭寀を同簽書樞密院事とする。己卯、呉潛を旧に復して端明殿学士・知福州・福建安撫使とする。
八月甲申、鄭寀罷免。辛卯、雨降る。辛丑、前彭州守臣宇文景訥が王事に死す。詔して官を追贈し三階進め、一子に下州文学の官を授く。壬寅、詔して監司・守臣に荒政を議して乏絶を賑わしめ、租税で蠲減すべきものは実状を具して上らしむ。甲辰、高定子薨去。少保を追贈。丙午、蔡抗が其の父沈の『尚書解』を進上す。
九月丙辰、流星が室宿より出づ。癸酉、雷鳴る。
冬十月辛巳、太白(金星)が昼に見ゆ。己酉、台臣、添差・抽差・摂局・須入・奏辟・改任・薦挙・借補・曠職・匿過の十弊を言上す。
十一月丁巳、詔す:「茶陵知県事黄端卿が郴寇に害せらる。官を三階進め、一子に将仕郎の官を授け、衡州に廟を立てよ。」
十二月辛巳、李鳴復卒す。壬辰、詔す:「太学生程九萬、北より脱身して来帰し、且つ辺事を条上す。迪功郎を賜う。」
淳祐八年
八年春二月丁亥、趙葵、呂文德及び諸将が泗州の囲みを解いた功有りと上言す。詔して補転推賞を差等を以て行う。戊子、太陰に黄白の暈生ず。癸巳、雹降る。乙未、福州福安県の民羅母、年百歳を過ぐ。特に孺人に封じ、其の家の賦役を免ず。有司に命じて歳時に存問せしめ、以て風化を厚くす。辛丑、趙葵上表す:「招・泗にて橋を断ち、将士命を用い、兵退く。陳奕・譚涓玉・王成等、渦河・亀山に戦いて労有り。其の歩兵多く山東の人なるを聞き、遂に史用政等を調して膠州を襲わしめ、復た高密県を襲わし、以て淮を侵す師を牽制す。」詔して立功の将士の等第・姓名を急ぎ上らしめ推賞せしむ。乙丑、雹降る。甲戌、詔す:「先鋒軍統制田智潤、泗州潮河壩の戦いに父子共に兵に死す。智潤に修武郎を追贈し、子に承節郎を贈り、更に其の一子に承信郎の官を授け、緡銭五千を給して其の家を恤む。」
夏四月庚辰、詔して淮東制置司に泗州に廟を立てしめ、夏皋及び張忠・田智潤父子を祠り、額を賜いて忠節を旌む。丁亥、朝奉郎程克己の妻王氏、同じく王事に没す。進めて安人を追贈す。
五月癸丑、趙葵の官階を三階進む。
六月乙酉、日に赤黄の暈周匝る。戊戌、徐鹿卿を樞密使兼参知政事兼侍講とする。甲辰、流星が河鼓より出づ。大きさ太白の如し。
秋七月戊申、太白、井宿に入る。辛亥、王伯大を参知政事とし、応𢖟を同知樞密院事とし、謝方叔を簽書樞密院事とし、史宅之を同簽書樞密院事とし、趙與𥲅を資政殿学士とし、旧に依り知臨安府・浙西安撫使を務めしむ。癸酉、王伯大を罷免して資政殿学士・知建寧府とする。
九月辛酉、明堂を祀り、大赦を行ふ。雷鳴す。
冬十月甲戌朔、別之傑三度上疏して帰田を乞ふ、詔して資政殿大学士として紹興府を治めしむ。乙亥、応𢖟・謝方叔並びに参知政事を兼ぬ。己卯、余玠言ふ「都統制張實等は戦功により、制を承り便宜に官三転を与へ、刺史の象符・金銀器二百両・銀三百両・緡銭一万を給し、其の余の将士は等第に依り転官し、金銀符・銭帛を差等有りて給す」と。詔して命詞を命じ、告身を給して之に付す。
淳祐九年
九年春正月乙巳、孟啓に慶遠軍節度使を授け、益国公に進封す。庚申、詔して周世宗八世の孫柴彦穎に承務郎を補し、崇義公を襲封せしむ。辛酉、詔す「両淮・京湖・沿江の曠土は、軍民便に従ひ耕作し、秋成の日官は収穫を分かたず、制帥厳に諭し覚察せよ」と。癸亥、詔して官田五百畝を給し、臨安府に命じて慈幼局を創め、道路に遺棄された初生の嬰児を収養し、仍て薬局を置き貧民の疾病を療せしむ。乙丑、雹ふる。丁卯、許応龍薨ず。己巳、范鐘薨ず、少保を贈り、諡して文肅とす。辛未、詔して官田三百畝を表忠観に給し、銭氏の功德を旌し、仍て樵采を禁ず。
閏二月甲辰、鄭清之を太師・左丞相兼枢密使と為し、魏国公に進封す。趙葵を右丞相兼枢密使と為す。応𢖟・謝方叔並びに参知政事とす。史宅之を同知枢密院事とす。乙卯、鄭清之五たび太師を辞免す、許す。
三月癸未、賈似道を宝文閣学士・京湖安撫制置大使と為す。乙酉、程元鳳を江・淮等路都大提点坑冶鑄銭公事兼ねて饒州を治めしむ。丁亥、詔す「四月朔日に日食有るを以て、二十一日より殿を避け、膳を減じ、楽を徹す」と。
夏四月壬寅朔、日に食有り。庚戌、趙葵四たび右丞相兼枢密使を辞免す、詔して允さず。
五月己丑、趙葵帰田を乞ふ、又允さず。甲午、鄭寀薨ず。
六月壬戌昼、南方に星有り、急流して濁に至りて没す、太白の如く大なり。丙寅、詔す「辺郡各々廟一を立て、額を賜ひて『褒忠』と曰ふ、凡そ王事に没して忠節顕著なる者並びに之を祠ふ、守臣春秋に祀を致せ」と。
秋七月壬辰、詔して吉州を治むる李義山を更に三秩を削り、贓銭銀を監して安辺所に納めしむ。癸酉、太白進賢星を犯す。
八月己酉、呉潜を資政殿学士・知紹興府・浙東安撫使と為す。辛亥、詔して趙葵に事を治むるを促し、呉淵に命じて宣諭し闕に赴かしむ。
九月丙子、詔して趙与𥲅に戸部財用を提領せしめ、新倉を置き、百二十万を積貯し、名づけて淳祐倉とす、官四人を辟くを許す。乙未、婉容閻氏を冊命して貴妃と為す。
冬十月辛丑、太白氐に入る。丁卯、諫臣周坦言ふ「建寧府を治むる楊棟、成都制幕に任ずる時、激賞庫の珍宝を尽く載せて先づ遁れ、丁黼を死に陷れ、全蜀の生霊を塗炭に致せり」と。詔して棟の閣職を褫ひ、新任を罷む。
十一月辛未、太白氐に入る。壬申、流星織女星より出づ。丙子、趙与𥲅を資政殿学士・提領国用・浙西安撫使と為す。癸未、応𢖟帰田を乞ふ、詔して資政殿学士として平江府を治めしむ。
十二月己亥、董槐を兼ねて侍読と為す。乙巳、呉潜を同知枢密院事兼参知政事と為し、徐清叟を簽書枢密院事と為す。戊申、太白昼に見ゆ。戊午、史宅之薨ず、少師を贈る。
淳祐十年
十年春正月甲午、応𢖟が三度帰郷を請うたので、祠祿を与える。
二月乙卯、雨土(土が降る)。
三月癸未、趙葵が辞任し、観文殿大学士・醴泉観使兼侍読・奉朝請とする。庚寅、賈似道を端明殿学士・両淮制置大使・淮東安撫使・揚州知事とす。余玠は龍図閣学士、職任は従前のまま。李曾伯は徽猷閣学士・京湖安撫制置使・江陵府知事。丙申、流星が夕方に隕落す。
夏四月己酉、龍翔宮に幸す。
五月丙寅朔、福州観察使・提挙佑神観善珘を保康軍節度使・提挙万寿観・嗣濮王とす。呉淵は資政殿学士、従前の職任のまま、執政の恩数を与う。癸未、賈似道が王登が江陵城の濠を浚渫・修築した功労ありと上言す。詔して、登の初官選人を挙主三員減ず。
八月甲寅、台州に大水。
冬十月丁酉、詔す。郡邑に水害ある間、その被災の細民は、随処に義倉を発してこれを賑済せよ。辛酉、詔す。諸主兵官は今後刑罰を行うに、人命を傷つけるため脊杖を用いることなかれ。
十一月壬申、趙葵に特進を授け、従前のまま観文殿大学士・潭州判・湖南安撫大使とす。壬午、雷。癸未、雷震が時ならざるを以て、二十四日より殿を避け膳を減ず。詔す。「公卿大夫百執事、各々乃ち職を揚げ、朕の及ばざるを補え。」参知政事の謝方叔・呉潜・簽書枢密院事の徐清叟、並びに機政の解除を乞う。詔して允さず。
十二月壬辰朔、鄭清之が帰郷を乞う。詔して允さず。戊戌、太白星と歳星が危宿に合す。丁巳、虹現る。
淳祐十一年
十一年春正月丁卯、詔して孟啓を改めて孜と賜名し、前のまま慶遠軍節度使とし、進めて建安郡王に封ず。己丑、詔す。沿海沿江の州郡は、水軍の制を厳しく申し行え。監察御史の程元鳳が言う。資善堂は重厚篤実の士を選用すべし。上嘉納す。
二月乙未、左丞相の鄭清之らが『玉牒』・『日暦』・『会要』及び『光宗寧宗宝訓』・『寧宗経武要略』を上進す。丁酉、詔して清之らに各々進秩差等を賜う。庚子、遊似が致仕を乞う。詔して従前のまま観文殿大学士とし、二秩を進む。甲寅、太白星が昴宿を犯す。乙卯、太白星が昼に見ゆ。
三月丁卯、少保・保寧軍節度使・嗣濮王の不擅薨ず。少師を贈り、新興郡王を追封す。乙亥、雨土。戊寅、謝方叔を枢密院知事・参知政事とし、呉潜を参知政事とし、徐清叟を枢密院同知事とす。辛巳、宝応を城す。詔して一軍を移して戍守せしむ。李庭芝は一秩を進め、将士は推恩差等あり。俞興は成都安撫副使・嘉定府知事に昇り、威・茂・黎・雅の辺防を任責す。
夏四月戊戌、潭州の民林符は三世孝行にして、一門義居す。福州の陳氏は笄年にして志を守り、寿九袠を逾ゆ。詔して皆その門を旌表す。丁未、『淳祐條法事類』凡そ四百三十篇を進む。鄭清之等各二秩を進む。
六月甲午、四川の余玠、北馬五百を奏進す。詔して功を立てたる将士の姓名を上らしめ、推恩を促す。丙申、高達、遙郡刺史を帯行し、権知襄陽府・管內安撫・節制屯戍軍馬を兼ねる。乙巳、詔して遺書及び山林に隠れ著述ある士を求め、上進を許す。
秋七月癸亥、太白昼に見ゆ。丙寅、太陰氐に入る。壬申、太白井に入る。丁丑、流星畢より出で、太白の如く大なり。庚辰、前簽書樞密院事陳卓薨す。少師を贈る。
八月己丑朔、流星夕に隕つ。癸巳、太陰氐に入る。丁酉、熒惑井に入る。丁未、呂文福を命じて廬州駐紮御前諸軍都統制とす。庚戌、詔して故直龍圖閣樓昉の著す所の『中興小傳』百篇及び『宋十朝綱目』並びに『撮要』の二書を以て、史館に付して謄写せしめ、昉に龍圖閣待制を追贈す。辛亥、詔す、「比に林光世の『易範』を覧るに、『易』を明らかにし星を推し象を配して演義す。有司其れ礼を以て津遣し闕に赴かしめよ。」
九月辛未、明堂に祀り、大赦す。
閏十月癸丑、太白氐に入る。癸酉、吳潛五疏を上し機政を罷めんことを乞う。允さず。
十一月丙申、京湖制司、都統高達等の襄・樊を復すを表す。詔して功を立てたる将士三万二千七百二人に各官一転を賜い、緡銭三百五十万を以て師を犒う。甲辰、鄭清之機政を解かんことを乞う。詔して前太傅・保寧軍節度使の如く醴泉観使を充て、齊國公に封じ、仍て朝請を奉ず。己酉、詔す、承信郎陳思書籍を献ず。官一転を賜う。庚戌、太師鄭清之薨す。尚書令を贈り、魏郡王を追封し、諡して忠定と曰う。甲寅、謝方叔を以て左丞相とし、吳潛を以て右丞相とす。乙卯、徐清叟を以て參知政事兼同知樞密院事とし、董槐を端明殿學士・簽書樞密院事とす。
十二月戊辰、詔して八事を以て在廷を訓飭す。曰く、紀綱を肅にし、正人を用い、楮幣を救い、邊陲を固くし、吏道を清くし、士気を淑くし、軍制を定め、人心を結ぶ。己卯、遊似薨す。少師を贈り、諡して清獻と曰う。
三月丁亥、又た子陵大脊山に戦う。詔す、榮の兵千に満たざるも、能く大難を禦ぐ。賞として官両転を賜い、州鈐に進め、閣門祗候を帯行し、金帯を賜う。諸将王成・楊進各官両転を賜い升遷す。余は推恩差等あり。丁未、三𣿭口を守る諸将、北屯の積蓄を焚き、その浮梁を断つ。
夏四月庚申、流星角・亢より出で、太白の如く大なり。戊辰、詔す、襄・郢の新たに復したる州郡は、耕屯を急務とす。緡銭百万を以て京閫に措置せしめ、種と牛を与う。壬申、熒惑権星を犯す。乙亥、葵抗、侍立修注官を兼ぬ。丙子、池州遊撃水軍を置く。
五月甲申朔、雨を祈る。壬辰、詔して江防を申儆し、毎歳戦艦を葺い、舟師を練るの勤惰を以て殿最賞罰とす。乙巳、盗信州玉山県に起こる。諸郡の経界を罷む。戊申、太陰畢を犯す。
六月癸亥、米三万石を発して衢・信の饑を振い、玉山の寇平らぐ。丙寅、嚴・衢・婺・台・處・上饒・建寧・南劍・邵武大水す。使いを遣わし分行して振恤存問し、今年の田租を除く。
秋七月庚寅、太白星と熒惑星が軫宿において合した。
九月丁亥、少師・保康軍節度使・嗣沂王貴謙薨ず。太傅を贈り、申王を追封す。戊戌、太白星と填星が箕宿において合す。丙午、太白星、斗宿を犯す。
冬十月癸丑、徐清叟を以て参知政事と為し、董槐を同知枢密院事と為す。嗣濮王善珘薨ず。少師を贈り、咸寧郡王を追封す。戊午、濮安懿王の長孫善奐を福州観察使・提挙佑神観・嗣濮王と為す。壬申、詔して襄・樊は既に回復せり、其れ屯田を措置し、渠堰を修するを務めよ。
十一月庚寅、呉潜罷免さる。丙申の夜、臨安に火災あり。丁酉の夜、火災やうやく熄む。戊戌、詔して殿を避け膳を減ず。壬寅、詔して直言を求む。
十二月乙卯、呉潜を観文殿大学士・提挙江州太平興国宮と為す。己未、詔して彭大雅の渝州に城を創る功を追録し、承議郎を復し、其の子に官す。癸亥、詔して海神を大祀と為し、春秋に従臣を遣はし命を奉じて祠に往かしむ。奉常其れ典礼を条具して上らしむ。壬申、太陰、氐宿に入る。丁丑、立春、雷鳴る。
二月己酉朔、日食あり。戊辰、陳垓貪贓不法、潮州に竄す。辛未、尚書省を罷め、呈白房を創置す。
三月戊子、与芮に少師を授け、食邑七百戸を加ふ。希邐に検校少傅を加へ、食邑五百戸を加ふ。与歓に少保を授け、食邑七百戸を加ふ。乃裕に保康軍節度使を加へ、食邑五百戸を加ふ。丙申、別之傑薨ず。少師を贈る。
夏四月丁巳、流星あり、太白星の如く大なり。
五月甲午、詔して余玠を闕に赴かしむ。乙未、詔して侍従・台諫・給舎・制司各帥才二人を挙げしむ。丁酉、熒惑星・歳星昴宿において合す。己亥、礼部進士姚勉以下に及第・出身を賜ひ差等あり。
六月戊申朔、江・湖・閩・広旱魃す。庚戌、四川制司余玠疾革むと言ふ。詔して余玠に資政殿学士を授け、執政の恩数を与ふ。辛亥、賈似道を資政殿大学士と為し、李曾伯を端明殿学士と為し、職任は旧に依る。庚申、余晦を司農卿・四川宣諭使と為す。雨を祈る。
秋七月壬午、王伯大薨ず。丙戌、蔡抗を兼ねて資善堂翊善と為し、施退翁を兼ねて資善堂直講と為す。庚寅、温・台・処の三郡大水す。詔して豊儲倉米を発し並びに各州の義廩を以て之を振す。癸巳、詔して余玠に興元帰附の兵を以て本路諸州都統に分隷せしめ、務めて之を撫存し、仍て各良田を与へ、制司銭粟を以て之を済はしむ。甲午、余玠卒す。官五転を贈る。庚子、董槐を以て兼参知政事と為す。癸卯、詔して四川の官吏軍民を撫諭す。
八月丁未朔、馬光祖を司農卿・淮西総領財賦と為す。甲寅、起居郎蕭泰来を出して隆興府を治ましむ。是に先立ち、起居舎人牟子才と泰来並びに除せらる。子才四疏を上りて辞し、泰来の奸険汚穢を極めて陳べ、之と伍を為すを恥づ。泰来已むを得ず、祠を請ふ。遂に郡を予ふ。丙辰、余晦を権刑部侍郎・四川安撫制置使・知重慶府兼四川総領財賦と為す。乙丑、皇宋元宝銭を行ふ。
九月壬午の日、程元鳳は兼侍讀に昇進し、牟子才は兼侍講に昇進した。壬辰の日、夔門に城を築いた。太陰(月)が畢宿に入った。
冬十月丙午朔の日、詔を下して緡錢二百萬を出し、京城の軍民を振恤した。
十一月丙子朔の日、詔を下して襄陽守臣の高達を獎諭した。己丑の日、賈似道が獲た良馬を献上し、詔を賜って褒め称え、その將士には秩を増し、賞賚に差等を付けた。
十二月乙卯の日、瑞國公主を冊立した。庚申の日、劉伯正が薨じ、五秩を追贈された。