紹熙五年
五年六月戊戌、孝宗崩ず、光宗疾を以て出づる能わず。壬寅、宰臣太皇太后の垂簾聴政を請う、許さず。祭奠の礼に代わり行わんことを請う、之に従う。丁未、宰臣奏して云う、「皇子嘉王、仁孝夙に成る。宜しく儲位を正し、以て人心を安んずべし」と。六日を越え、奏三たび上る、之に従う。明日、遂に旨を擬して進む。是の夕、御批を丞相に付して云う、「歳久しく事に歴り、退閑せんと欲するを念う」と。
七月辛酉、留正疾を以て辞して去る。知樞密院事趙汝愚正の去るを見て、乃ち韓侂胄を遣わし、内侍張宗尹に因りて禅位嘉王の意を以て太皇太后に請わしむ、獲ず。提舉重華宮關禮に遇う、侂胄其の問いに因りて之に告ぐ。禮継いで内に入り、泣いて太皇太后に請う、太皇太后乃ち悟り、侂胄に諭して曰く、「よく之を為せ」と。侂胄出で、汝愚に告ぐ、殿帥郭杲に命じて夜分兵をして南北内を衛わしむ。翌日禫祭、汝愚百官を率いて大行の柩前に詣る、太皇太后簾を垂れ、汝愚同列を率いて再拝し、奏す、「皇帝疾有り、喪を執る能わず、臣等皇子嘉王を立てて太子と為し、以て人心を安んぜんことを乞う」と。乃ち御批八字を奉じて以て奏す。太皇太后曰く、「既に御筆有り、卿当に奉行すべし」と。汝愚曰く、「内禅の事重し、須らく一指揮を議すべし」と。太皇太后允諾す。汝愚袖中より擬する所を出して進め、云う、「皇帝疾を以て、未だ喪を執る能わず、曾て御筆有り、自ら退閑せんと欲す、皇子嘉王擴即ち皇帝位に即くべし。皇帝を尊びて太上皇と為し、皇后を太上皇后と為す」と。太皇太后覧み畢りて曰く、「甚だ善し」と。汝愚出で、旨を以て帝に諭す、帝固より辞して曰く、「不孝の名を負わんことを恐る」と。汝愚曰く、「天子は当に社稷を安んじ、国家を定むるを以て孝と為すべし、今中外憂乱し、万一変生ぜば、太上皇を何れの地に置かんや」と。衆扶いて素幄に入り、黄袍を披き、方に却り立ちて未だ坐せざるに、汝愚同列を率いて再拝す。帝几筵殿に詣る。哭して哀を尽くす。須臾立仗畢り、百官の班を催し、帝衰服して出で、重華殿東廡の素幄に立ち、内侍扶掖し、乃ち坐す。百官起居畢り、乃ち入りて禫祭の礼を行う。詔して泰安宮を建て、以て太上皇・太上皇后に奉ぜしむ。汝愚即ち喪次にて留正を召還せんことを請う。乙丑、太皇太后命じて崇國夫人韓氏を立てて皇后と為す。丙寅、大赦す。百官進秩一級、諸軍を賞す。詔して車駕五日に一朝泰安宮し、百官月に両朝せしむ。即位を以て天地・宗廟・社稷に告ぐ。丁卯、侍御史張叔椿留正の擅に相位を去るを劾す、詔して叔椿を吏部侍郎と為す。戊辰、詔して直言を求む。鄭湜を遣わし金に使して禅位を告げしむ。己巳、趙汝愚を兼ねて參知政事と為す。庚午、秘閣修撰・知潭州朱熹を行在に詣らしむるを召す。壬申、泰安宮を建つ。乙亥、趙汝愚を右丞相と為し、參知政事陳騤を知樞密院事と為し、餘端禮を參知政事と為し、仍兼ねて同知樞密院事と為す。汝愚拝せずして辞す。前宰執・侍従に詔を賜い、得失を訪う。丙子、大風。戊寅、詔す、秋暑、太上皇帝未だ須らく御を移すに及ばず、即ち寢殿を以て泰安宮と為す。殿前都指揮使郭杲を武康軍節度使と為す。庚辰、群臣を率いて泰安宮に於て表を拝す。辛巳、趙汝愚を樞密使と為し、保大軍節度使郭師禹を攢宮總護使と為す。壬午、侍御史章穎等内侍林億年・陳源・楊舜卿を劾す、詔して億年・源を在外宮観と為し、舜卿を在京宮観と為す。韓侂胄階官を落とし、汝州防禦使と為す。癸未、餘端禮兼同知樞密院事を辞す。甲申、兵部尚書羅點を簽書樞密院事と為す。詔して両省官に応詔封事を詳定せしめ、要切なる者を具して以て聞かしむ。戊子、詔して百官輪対せしむ。楊舜卿の在京宮観を罷め、林億年を常州居住と為し、陳源を撫州居住と為す。
八月己丑朔(一日)、安定郡王子濤薨去す。辛卯(三日)、初めて行宮の便殿に御して政を聴く。癸巳(五日)、朱熹を以て煥章閣待制兼侍講と為す。甲午(六日)、講読官を増置し、給事中黄裳、中書舎人陳傅良、彭龜年等を以て之に充つ。丁酉(九日)、生日を以て天祐節と為す。己亥(十一日)、群臣を率いて泰安宮に朝す。辛丑(十三日)、詔して諸道に廉吏を挙げ、汚吏を糾せしむ。壬寅(十四日)、詔して経筵官に経旨を開陳し、闕失を救正せしむ。弟許国公抦を進封して徐国公と為す。癸卯(十五日)、嗣濮王士歆に少師を加え、郭師禹に少傅を加え、夏執中に少保を加ふ。乙巳(十七日)、詔して晩講官に会講せしむ。丁未(十九日)、復た経筵の坐講を罷め、三省に命じて諸路郡県の水旱を振恤することを議せしむ。乙卯(二十七日)、安南国王李龍𣉙に思忠功臣を加ふ。詔して歳に広西の塩額十万緡を減ず。丙辰(二十八日)、留正罷免し、観文殿大学士を以て建康府を判せしむ。趙汝愚を以て右丞相と為す。丁巳(二十九日)、詔して侍従、両省、台諫に各々通亮公清にして党与を植えず、かつ県知事を曾任する者二人を挙げしむ。
九月己巳(二日)、趙汝愚に命じて景霊宮に朝献せしむ。庚子(誤記か、九月に庚子なし。前後の干支より、庚午(三日)か)、嗣秀王伯圭に命じて太廟に朝饗せしむ。是の日、羅点薨ず。辛未(四日)、明堂に於いて天地を合祭し、大赦す。壬申(五日)、刑部尚書京鏜を以て枢密院事を簽書す。甲戌(七日)、詔を下して諸将を撫諭す。天祐節を改めて瑞慶節と為す。
冬十月己丑(二十二日)、右諫議大夫張叔椿再び留正が相職を擅に去ったことを劾す。詔して留正の観文殿大学士を落とす。庚寅(二十三日)、泰安宮を改めて寿康宮と為す。辛卯(二十四日)、四川制置司に命じて諸州の守臣を銓量せしむ。癸巳(二十六日)、雷鳴る。乙未(二十八日)、詔して陰陽謬盭し、雷電時ならざるを以て、台諫、侍従に各々朝政の闕失を疏して以て聞かしむ。戊戌(誤記か、十月に戊戌なし。前後の干支より、己亥(二日)か)。復た武挙人の試換文資を許す。庚子(四日)、久雨を以て、大理、三衙、臨安府、両浙州県に命じて繫囚を決し、杖刑以下の者を釈放せしむ。辛丑(五日)、両浙、江東西路の和市折帛銭を減じ、両浙路の丁塩銭、身丁銭を一年間免除す。雅州の蛮辺境を寇し、土丁之を拒退し、尋いで出降す。甲辰(八日)、朱熹の言に依り、後省に応詔封事を看詳することを促す。乙巳(九日)、大行至尊寿皇聖帝の諡を上りて哲文神武成孝皇帝と曰い、廟号を孝宗とす。丙午(十日)、復た朱熹の奏請に依り、瑞慶節の賀表を却す。庚戌(十四日)、安穆皇后の諡を改めて成穆皇后と上り、安恭皇后の諡を成恭皇后と上る。壬子(十六日)、曾三復を遣わして金に使いせしめ、正旦を賀せしむ。丙辰(二十日)、孝宗皇帝の冊宝を重華殿に上り、成穆皇后、成恭皇后の冊宝を本室に上る。是の月、福寧殿を建つ。
十二月丁巳朔(一日)、民間の宮禁の事を妄りに言うを禁ず。乙丑(九日)、吏部侍郎彭龜年上疏して韓侂冑が声勢を仮託し、威福を窃弄するを言い、之を黜して以て天下の疑いを解くを乞う。詔して龜年を罷め、侂冑に一官を進め、在京宮観を与ふ。趙汝愚龜年を留むるを請うも聴かず。御史中丞謝深甫陳傅良を劾し、之を罷む。戊辰(十二日)、陳康伯を以て孝宗廟庭に配饗す。己巳(十三日)、陳騤罷免す。庚午(十四日)、餘端禮を以て枢密院事を知らしめ、京鏜を参知政事と為し、鄭僑を同知枢密院事と為す。辛未(十五日)、監察御史劉德秀起居舎人劉光祖を劾し、之を罷む。癸酉(十七日)、金使いを遣わして来たり登位を賀す。孝宗廟の楽を上りて『大倫之舞』と曰う。甲戌(十八日)、孝宗の神主を太廟に祔す。丁丑(二十一日)、臨安、紹興二府の死罪以下の囚を減じ、杖刑以下の者を釈放す。民の欑宮の役に縁る賦を蠲す。戊寅(二十二日)、郭師禹に少師を加え、進封して永寧郡王と為す。癸未(二十七日)、金使いを遣わして来たり明年の正旦を賀す。
是の歳、両浙、淮南、江東西路水旱あり、之を振恤し、仍て其の賦を蠲す。
二月丁巳朔(一日)、詔して両淮諸州に民を勧めて荒田を墾辟せしむ。壬戌(六日)、詔して嗣秀王伯圭の賛拝に名を称えざらしむ。癸亥(七日)、久雨を以て、大理、三衙、臨安府、両浙路の杖刑以下の囚を釈放す。丁卯(十一日)、詔して帥臣、監司に歳終に郡守の臧否を考察して以て聞かしむ。戊寅(二十二日)、右正言李沐の言に依り、趙汝愚を罷めて観文殿大学士、福州知事と為す。己卯(二十三日)、雨土す。餘端禮を以て参知政事を兼ねしむ。庚辰(二十四日)、兵部侍郎章穎、趙汝愚に党すを以て罷免さる。甲申(二十八日)、謝深甫等再び汝愚を劾す。詔して宮観を与ふ。
三月丙戌朔(一日)、日食有り。庚寅(五日)、太白天を経る。辛亥(二十六日)、詔して四川歳に西兵を行在に発することを、旧制の如くす。癸丑(二十八日)、侍従、台諫、両省に命じて江南沿江諸州の鉄錢を行ふ利害を集議せしむ。甲寅(二十九日)、国子祭酒李祥、博士楊簡、趙汝愚に党すを以て罷免さる。
夏四月丁巳、太府寺丞呂祖儉が上疏して趙汝愚を留任させ、朱熹・彭龜年等を罷黜すべきでないと論じた罪により、韓侂冑の意に逆らい、韶州に送られ安置された。己未、餘端禮を右丞相とし、京鏜を枢密院事知事とし、鄭僑を参知政事とし、謝深甫を枢密院事簽書とした。庚申、太学生楊宏中ら六人が上書して趙汝愚・章穎・李祥・楊簡を留任させ、李沐を罷免するよう請い、詔して宏中らを各々五百里外に送って編管させた。中書舎人鄧馹が上疏して彼らを救ったが、聞き入れられなかった。戊辰、臨安に大疫が発生し、内帑の銭を出して貧民の医薬・棺収斂の費用とし、諸軍で疫病で死んだ者の家に賜った。
五月戊子、呂祖儉は吉州に送られ安置するよう改めた。戊戌、詔して百官の朋比を戒めた。丙午、詔して諸路の提挙司に広恵倉を置き、胎養令を修めた。辛亥、大理寺・三衙・臨安府の雑犯死罪以下の囚人を減刑し、杖刑以下の者は釈放した。
六月丁巳、留正を観文殿大学士に復し、醴泉観使を充てた。右正言劉徳秀が真偽を考核して邪正を弁別するよう請うた。己未、汪義端を派遣して金主の生辰を賀した。庚午、詔して三衙・江上諸軍の主帥・将佐は、初めて除任された際に自ら代わる者一人を挙げ、毎年知る者二人を推薦せよとした。癸酉、韓侂冑を保寧軍節度使・万寿観提挙とした。
秋七月壬辰、周必大に少傅を加えた。丁酉、趙汝愚の観文殿大学士を落とし、宮観を罷免した。己亥、太白星が昼間に現れた。
八月己巳、詔して内外諸軍の主帥に武備・辺防の策を条奏して聞かせるよう命じた。
九月壬午朔、臨安府の水害に遭った貧民の賦を免除した。乙酉、長雨のため、繫囚を決した。丙戌、災惑(火星)が太微垣に入った。甲辰、黄艾を派遣して金に賀正旦使とした。己酉、台州・厳州・湖州の三州で被害を受けた民の丁絹を免除した。
冬十月己卯、詔して三省・枢密院に合教諸軍の例を条上させた。乙丑、秀州を嘉興府に、舒州を安慶府に、嘉州を嘉定府に、英州を英徳府に昇格させた。戊辰、金が呉鼎枢を派遣して瑞慶節を賀した。壬申、子恭を安定郡王に封じた。
十一月己丑、雨土(土が降る)。庚寅、弟の徐国公抦を昭慶軍節度使とした。戊戌、寿聖隆慈備福太皇太后の尊号に「光佑」を加えて寿聖隆慈備福光佑太皇太后とし、寿成皇太后を寿成恵慈皇太后とし、太上皇を聖安寿仁太上皇とし、太上皇后を寿仁太上皇后とした。丙午、監察御史胡紘の上言により、趙汝愚を責授して寧遠軍節度副使とし、永州に安置した。丁未、宰執に大閲を命じた。
十二月癸亥、楚州に弩手效用軍を置いた。丙子、朱熹を煥章閣待制に任じようとしたが、辞退した。丁丑、金が紇石烈正を派遣して明年の正旦を賀した。
三月丙申、諸軍に鉄簾を射ることを命じた。己亥、弟抦を呉興郡王に進封した。丙午、有司が『慶元会計録』を上った。
夏四月甲子、餘端禮が罷免された。壬申、何澹を参知政事とし、吏部尚書葉翥を枢密院事簽書とした。乙亥、監察御史を一員増置した。
六月庚戌、呉宗旦を遣わして金主の生辰を賀す。乙丑、監司・帥守に命じて県令の臧否を三等に分かつ。丙子、子埈生まる。
秋七月癸未、太廟に饗す。丙戌、諸路の死罪囚を減じ、流以下を釈す。戊子、流人呂祖儉等を量りて内郡に徙す。詔して檢正・都司に命じ、諸路守臣の便民五事を考核して以て聞かしむ。戊戌、韓侂胄を以て開府儀同三司・萬壽觀使と為す。
八月癸丑、孝宗皇帝・成穆皇后・成恭皇后の神御を景靈宮に奉安す。丙辰、太常少卿胡紘の請に依り、偽學の黨の進擬を権めて住む。壬戌、子埈薨ず。兗王を追封し、諡して沖惠と曰う。
九月丁亥、復た利州を東西路に分つ。癸巳、嗣濮王士歆薨ず。韶王を追封す。甲午、流星晝に隕つ。丁酉、張貴謨を遣わし金に使して正旦を賀す。
冬十月戊申、群臣を率いて壽聖隆慈備福光佑太皇太后・壽成惠慈皇太后・聖安壽仁太上皇・壽仁太上皇后の冊寶を慈福宮・壽康宮に奉上す。辛亥、皇后を冊す。壬戌、金、張嗣を遣わし来たりて瑞慶節を賀す。甲戌、大閲す。
十一月庚寅、壽康宮に詣りて『太上皇帝寬恤詔令』を上る。壬辰、京鏜等、『孝宗皇帝寬恤詔令』を上る。癸卯、宜州の峒寇を捕降したる功を賞す。
十二月辛未、金、完顏崇道を遣わし来たりて明年の正旦を賀す。是の月、監察御史沈繼祖、朱熹を劾す。詔して熹の秘閣修撰を落とし、宮観を罷む。處士蔡元定を道州に竄す。
二月己酉、京鏜等、『神宗玉牒』・『高宗實錄』を上る。丁巳、大理司直邵褎然の請に依り、詔して大臣に命ず、今より權臣・偽學の黨は、内の差遣に除すること勿れと。詔して其の章を下す。
三月乙未、東華門を建つ。庚子、浙西州軍の圍田を禁ず。壬寅、詔す、今より有司死罪を奏讞して當らざる者は、律の如く論ずべしと。
夏四月丙午、土雨ふ。不𥞋を命じて嗣濮王と為す。壬子、旱に因りて天地・宗廟・社稷に禱る。乙丑、雹ふる。
六月戊辰、『淳熙寬恤詔令』を頒つ。
閏月甲戌、内より銅器を出だして尚書省に付し之を毀ち、私に銅器を鑄するの禁を申嚴せしむ。乙亥、衛涇を遣わし金主の生辰を賀す。甲午、詔して留正に西京に分司し、邵州に居住せしむ。是の夏、廣東提舉茶鹽徐安國、人を遣わして大奚山に於いて私鹽を捕らしむ。島民遂に亂を作す。
秋七月庚午、監察御史沈繼祖、淹囚四百餘條を録して来たり上る。詔して二官を進む。
八月戊子の日、厳州神泉監を再び設置す。辛卯の日、広州知州銭之望が兵を遣わして大奚山に入り、島民をことごとく殺す。甲午の日、諸路の職田を均す。
九月壬寅の日、四川の旱魃により、詔して民の賦を蠲免す。辛酉の日、曾炎を遣わして金に使いせしめ、正旦を賀す。乙丑の日、帥臣・監司が郡守を臧否する制度を厳しく申し行う。是の月、詔して監司・帥守に改官を薦挙せしむるも、偽学の人を用いるなからしむ。
冬十月癸酉の日、雷鳴す。丙戌の日、金が完顔愈を遣わして来たり、瑞慶節を賀す。丙申の日、太皇太后の違豫により、赦を行ふ。
十一月辛丑の日、孝宗皇帝の諡を加えて紹統同道冠徳昭功哲文神武明聖成孝皇帝と曰す。太皇太后呉氏崩ず。壬寅の日、景霊宮に朝献す。癸卯の日、太廟に朝饗す。甲辰の日、天地を圜丘に祀り、大赦を行ふ。乙巳の日、詔して大行太皇太后の服期と為す。丁未の日、趙介を遣わして金に使いせしめ、哀を告ぐ。
十二月丙子の日、始めて正殿に御す。丁丑の日、大行太皇太后の欑宮により、紹興府貧民の明年の身丁・折帛綿絹を蠲免す。庚辰の日、文武官の官告綾紙銭の納入を罷む。甲申の日、雷鳴し、土を雨ふ。乙未の日、金が奥屯忠孝を遣わして来たり、明年の正旦を賀す。丁酉の日、綿州知州王沇の請いに依り、詔して省部に偽学の姓名を籍せしむ。
慶元四年
四年正月己卯の日、欽宗皇后の諡を上りて仁懐皇后と曰す。丙寅の日、葉翥を以て同知枢密院事と為す。丁卯の日、詔して有司に両浙・江淮・荊湖・四川の流民を寛恤せしむ。
二月辛未の日、詔して両省・侍従・台諫に各々知る所の者一二人を挙げしむるも、宰執の親党を薦ぐることなからしむ。丙子の日、大行太皇太后の諡を上りて憲聖慈烈皇后と曰す。
三月甲子の日、憲聖慈烈皇后を永思陵に権欑す。乙丑の日、金が烏林答天益を遣わして来たり、弔祭す。
夏四月丙戌の日、仁懐皇后・憲聖慈烈皇后の神主を太廟に祔す。己丑の日、臨安・紹興二府の租税を差等ありて蠲免す。丙申の日、始めて正殿に御す。是の月、右諫議大夫張釜、詔を下して偽学を禁ずるを請ふ。湯碩を遣わして金に使いせしめ、報謝す。
五月己亥の日、韓侂冑に少傅を加へ、玉帯を賜ふ。己酉の日、詔して偽学を禁ず。
六月己巳の日、楊王休を遣わして金主の生辰を賀す。癸酉の日、弟吳興郡王抦を以て開府儀同三司と為す。
秋七月辛酉の日、葉翥罷む。
八月丁卯の朔日、久雨により、繫囚を決す。丙子の日、謝深甫を以て知枢密院事兼参知政事と為し、吏部尚書許及之を以て同知枢密院事と為す。庚辰の日、白気天に亙る。丙戌の日、詔して太上皇の聖躬清復を以て、群臣を率いて寿を上らんとす。尋いで行ふこと克はざるに至る。
九月壬寅の日、太白昼に見ゆ。癸卯の日、太白天を経る。丁未の日、『慶元重修敕令格式』を頒つ。庚申の日、馬覚を遣わして金に使いせしめ、正旦を賀す。是の月、詔して新暦を造らしむ。
冬十月戊子、金が孫鐸を遣わして瑞慶節を賀せしむ。
慶元五年
五年春正月庚子、枢密院直省官蔡璉が趙汝愚が策を定めし時に異謀有りと訴う。詔して大理に下し彭亀年・曾三聘等を捕らえて鞫問し、以て其事を実とせしむ。中書舎人范仲藝、韓侂冑に力争し、事遂に止む。張釜等復た窮治を請う。詔して亀年・三聘の官を停む。壬戌、玉堂を建つ。
二月癸酉、白気天に亘る。乙酉、張釜、劉光祖が偽学に附和すと劾す。詔して房州に居住せしむ。
三月甲午、監司の郡守を臧否するの制を罷む。
夏五月壬辰朔、新暦成る。名を賜ひて『統天』と曰ふ。戊戌、礼部進士曾従龍以下四百十一人に及第・出身を賜ふ。戊申、久雨を以て、民多く疫に罹るにより、命じて臨安府に振恤せしむ。壬子、詔して諸路州学に武士斎を置き、官を選び其の武芸を按ず。
六月癸亥、李大性を遣わして金主の生辰を賀す。
秋七月甲寅、高麗・日本商人の銅錢を博易するを禁ず。
八月乙亥、白気天に亘る。辛巳、太祖廟の楹に芝生ふ。群臣を率ひて寿康宮に詣で寿を上ぐ。始めて太上皇に拝謁し、礼成りて還る。甲申、宮を過ぎ寿を上ぐるの礼成るを以て、中外表を奉りて賀す。丙戌、詔して諸路の流囚を減じ、杖以下の者を釈放し、慶寿の故事の如く恩を推す。丁亥、京鏜等の官を一級進む。戊子、沿辺諸州の武挙取士の法を立てる。
九月庚寅朔、韓侂冑に少師を加へ、平原郡王に封ず。丙辰、朱致知を遣わして金に使いし、正旦を賀す。
冬十月庚申朔、郭師禹を広陵郡王に封ず。丙子、金が僕散琦を遣わして瑞慶節を賀せしむ。
十一月己丑朔、詔して右司一員を復す。
十二月辛酉、嗣濮王不𥞋薨ず。庚午、命じて広東水土悪弱の諸州に安仁宅・恵済倉庫を建て、士大夫にして死して帰ること能はざる者に給す。己亥、仁懐皇后・憲聖慈烈皇后の神御を景霊宮に奉安す。甲申、金が范楫を遣わして来年の正旦を賀せしむ。
是歳、饒・信・江・撫・厳・衢・台の七州、及び建昌・興国軍、広東諸州皆水害有り。之を振恤す。
慶元六年
六年春正月己亥、子坦生まる。
二月戊辰、諸路の雑犯死罪囚を減じ、徒以下の者を釈放す。己巳、雨土す。己卯、群臣を率いて『聖安壽仁太上皇玉牒』・『聖政』・『日曆』・『會要』を壽康宮に奉上す。甲申、婕妤楊氏を貴妃に封ず。
閏月庚寅、京鏜を左丞相とし、謝深甫を右丞相とし、何澹に樞密院事を知らしめ參知政事を兼ねしむ。乙巳、留正を復して少保・觀文殿大學士とし致仕せしむ。丁未、雨土す。辛亥、殿前副都指揮使吳曦を昭信軍節度使とす。
三月甲子、朱熹卒す。辛未、壽成惠慈皇太后に從ひ聚景園に幸す。己卯、安定郡王子恭薨ず。
夏四月己酉、不璺をして嗣濮王たらしむ。
五月丙辰、旱魃により、中外の繫囚を決す。茶鹽賞錢を除く。有司、『慶元寬恤詔令』・『役法撮要』を上る。癸亥、正殿を避け、膳を減ず。丙寅、大理・三衙・臨安府及び諸路の雨の闕けたる州縣に杖以下の囚を釈せしむるを詔す。戊辰、侍從・台諫・兩省・卿監・郎官・館職に闕失及び當今の急務を疏陳せしむるを詔す。辛未、久しく雨なきにより、中外に朝廷の過失及び時政の利害を陳せしむるを詔す。壬申、雨ふる。丁丑、三省・樞密院に臣僚の封事の行ふべき者を択びて聞せしむるを詔す。
六月乙酉朔、日食あり。丁亥、太上皇后の違豫により、赦す。戊子、太上皇后李氏崩ず。壬辰、趙善義を遣はして金主の生辰を賀し、吳旴を遣はして金に告哀す。戊申、許及之、母憂により去位す。
秋七月己未、初めて後殿に御す。丁卯、御史中丞陳自強を以て樞密院事を簽書せしむ。
八月庚寅、太上皇の違豫により、赦す。辛卯、太上皇崩ず。甲午、李寅仲を遣はして金に告哀す。乙未、日中に黑子あり。丙申、大行太上皇后の諡を慈懿皇后と上る。丁酉、京鏜薨ず。壬寅、子坦薨ず、邠王を追封し、諡して沖溫と曰ふ。癸卯、慈懿皇后を臨安府南山の修吉寺に權攢す。
九月乙卯、慈懿皇后の神主を太廟に祔す。甲子、婺州の布衣呂祖泰上書し、韓侂胄・蘇師旦を誅し、陳自強等を逐ひ、周必大を以て之に代ふるを請ふ。祖泰を杖し、欽州牢城に配するを詔す。己巳、謝深甫に命じて景靈宮に朝獻せしむ。庚午、嗣濮王不璺に命じて太廟に朝饗せしむ。辛未、明堂にて天地を合祭す。大赦す。丙子、丁常任を遣はして金國遺留國信使とす。
冬十月丙戌、韓侂胄に太傅を加ふ。戊子、林桷を遣はして金に賀正旦す。庚子、復た安南國王李龍𣉙に保節功臣を加ふ。辛丑、雨土す。
十一月癸丑朔、宗子與愿を更めて名を曮とし、福州觀察使と爲すを詔す。己未、皇后韓氏崩ず。癸亥、子增生まる。丙寅、東北地震す。大行太上皇の諡を憲仁聖哲慈孝皇帝と上り、廟號を光宗とす。乙亥、大行皇后の諡を恭淑皇后と上る。
是歲、建寧府及び徽・嚴・衢・婺・饒・信・南劍の七州水害あり、建康府及び常・潤・楊・楚・通・泰和の七州・江陰軍旱害あり、之を振恤す。