宋史

本紀第三十六 光宗

光宗循道憲仁明功茂德溫文順武聖哲慈孝皇帝、諱は惇、孝宗の第三子なり。母は成穆皇后郭氏と曰う。紹興十七年九月乙丑、藩邸に生まる。二十年、今の名を賜い、右監門衛率府副率を授かり、栄州刺史に転ず。孝宗即位し、鎮洮軍節度使・開府儀同三司に拝し、恭王に封ぜらる。

及び莊文太子薨じ、孝宗、帝の英武己に類するを以て、立つて太子と爲さんと欲すれども、其の次に非ざるを以て、之を遅らす。乾道六年七月、太史奏す:木・火宿を合す、太子を冊するを主り、赦有るべしと。是の時、虞允文相たり、因りて早く儲貳を建つるを請う。孝宗曰く、「朕久しく此の意有り、事亦素より定まれり。但だ儲位既に正しければ、人の性驕り易く、即ち自ら縦逸し、学に勤めず、浸くに失徳有らんことを恐る。朕の未だ建てざる所以は、更に其の庶務を練歴し、古今に通暁せしめ、庶幾くは後悔無からしめんと欲するなり」と。七年正月丙子朔、孝宗、両宮の尊号冊・宝を上る。礼成る。丞相允文復た以て請う。孝宗曰く、「朕太子を立てば、即ち親王をして外藩に出鎮せしめん。卿宜しく前代の典礼を討論すべし」と。允文尋いで以て聞かしむ。二月癸丑、乃ち帝を立てて皇太子と爲し、慶王愷を雄武・保寧軍節度使・判寧国府と爲し、魏王に進封す。三月丁酉、皇太子冊を受けしむ。四月甲子、判臨安府を命じ、尋いで尹事を領せしむ。帝の恭王たる時、講官と前代を商較し、時に意表に出で、講官自ら以て及ばずと爲す。臨安を尹するに逮び、民政に心を究め、情偽に周知す。孝宗数え之を称し、且つ丞相趙雄に語りて曰く、「太子の資質甚だ美なり。毎に人を遣わして安否を問わしむるに、朕必ず留意して学問せよと戒む」と。淳熙十四年十月乙亥、高宗崩ず。十一月己亥、百官大祥畢る。孝宗手詔して曰く、「皇太子に庶務を参決せしむべし。内東門司を以て議事堂と爲す」と。十五年二月戊戌、帝始めて議事堂に赴く。是れより、間日に輔臣と公裳・系鞋を以て相見え、内外の除擢は、館職・部刺史以上より乃ち以て聞かしむ。九月乙巳、又詔して曰く、「毎に朝殿に遇うに、皇太子をして侍立せしめよ」と。十一月、丞相周必大去らんことを乞う。孝宗諭して曰く、「朕比年病倦し、位を太子に伝えんと欲す。卿須らく少しく留まるべし」と。会に陳康伯の家、紹興の伝位御札を以て来たり上る。十二月壬申、孝宗中使を遣わし密かに持して必大に賜い、因りて典礼を討論せしめ、既にして又た密かに禅位の意を参知政事留正に諭す。十六年正月辛亥、両府事を奏す。孝宗倦勤を以て諭し、皇太子に禅位し、退きて休養に就き、以て高宗三年の制を畢えんと欲す。因りて必大に詔草を進呈せしむ。

淳熙十六年

二月壬戌、孝宗吉服を以て紫宸殿に御し、内禅の礼を行ふ。応奉官次を以て賀を称す。内侍固より帝の坐を請う。帝固より辞す。内侍扶掖すること七八に至り、乃ち微かに坐し、復た興つ。次いで丞相百僚を率いて賀を称す。礼畢る。枢密院官殿に升り事を奏す。帝立ちて聴く。班退く。孝宗喪服に反り、後殿に御す。帝侍立す。尋いで輦に登り、同く重華宮に詣る。帝内に還り、即ち上尊号して至尊寿皇聖帝と曰い、皇后を寿成皇后と曰う。寿皇聖帝詔して帝の元妃李氏を立てて皇后と爲す。甲子、帝群臣を率いて重華宮に朝す。大赦し、百官秩一級を進め、諸軍を優賞し、公私の逋負及び郡県の淳熙十四年以前の税役を蠲す。丙寅、帝群臣を率いて重華宮に詣り、尊号冊・宝を上る。閣門舎人譙熙載・姜特立を以て並びに知閣門事と爲す。庚午、詔して五日毎に一朝重華宮す。辛未、皇太后を尊んで寿聖皇太后と曰う。壬申、詔して内外の臣僚に時政の闕失を陳べしめ、四方歌頌を献ずる者は受くる勿れ。羅点等を遣わし金に使いし即位を告げしむ。癸酉、詔して将帥を戒敕す。前宰執・従官に詔を賜い、得失を訪う。乙亥、詔して両省官に内外の封章を詳定せしめ、要切なる者を具して以て聞かしむ。諸葛廷瑞等を遣わし金に使いし弔祭せしむ。丙子、詔して官吏を戒敕す。己卯、詔して官吏の贓罪著しき者は、重く罰し貸す毋れ。辛巳、生日を以て重明節と爲す。丁亥、詔して百官輪対せしむ。己丑、詔して『寿皇聖政』を編せしむ。庚寅、詔して中書舎人羅点に台諫と爲す可き者を挙げしむ。点、葉適・呉鎰・孫逢吉・張体仁・馮震武・鄭湜・劉崇之・沈清臣の八人を以て之を上る。

三月壬辰、周必大を以て少保と爲す。留正正奉大夫に転ず。丙申、沈揆等を遣わし金に使いし即位を賀せしむ。詔して侍従・両省・台諫に、各湖広及び四川総領に任ず可き者一人を挙げしむ。己亥、子拡嘉王に進封す。癸卯、金王元德等を遣わし来たり哀を告ぐ。戊申、寿皇五日毎の朝を却くるを以て、詔して今より月四朝重華宮す。甲寅、史浩を以て太師と爲し、伯圭を少師と爲し、少保士歆を少傅と爲し、昭慶軍節度使士峴を少保と爲す。戊午、金張万公等を遣わし来たり遺留物を致す。己未、左補闕薛叔似を以て将作監と爲し、右拾遺許及之を軍器監と爲す。拾遺・補闕官此より罷む。詔して東宮の書籍並びに嘉王に賜う。

夏四月丙寅、太廟に事有り。丁卯、四川応起の経・総制銭を三年存留し、塩酒の重額を代輸す。癸酉、侄抦許国公に進封す。乙亥、両浙の犒賞酒庫を諸州に隷せしめ、歳入六十五万、尋いで三十万を減ず。戊寅、金徒単鎰等を遣わし来たり即位を告ぐ。権兵部侍郎何澹を以て右諫議大夫と爲す。丙戌、景霊宮に事有り。

五月甲午、王藺を以て知枢密院事兼参知政事と爲す。丙申、周必大罷められ観文殿大学士・判潭州と爲る。常徳府・辰・沅・靖州大水其の郛に入る。丁酉、詔して丞相以下月毎に一朝重華宮す。戊戌、周必大判潭州の命を罷め、旧官を以て醴泉観使と爲るを許す。戊申、和義郡夫人黄氏を以て貴妃と爲す。右丞相留正知閣門事姜特立を論じ、之を罷む。

閏月庚申朔、詔して内侍陳源に外に在りて便に居住するを許す。郡県の淳熙十四年以前の私負を免じ、十五年以後の息及び本を輸する者も亦之を蠲す。壬戌、趙雄を以て寧武軍節度使・開府儀同三司と爲し、衛国公に進封し、仍判江陵府す。庚午、詔して浙西常平官田を売るを罷む。癸酉、詔して季秋明堂に事有り、高宗を以て配す。丙子、趙雄疾甚だしく、資州に改判す。戊寅、郡県第五等戸の身丁銭及び臨安第五等戸の和買絹を各一年蠲し、仍二十三万緡を出だし臨安の貧民を振す。己卯、階州大水其の郛に入る。壬午、大理獄空し。乙酉、後殿に御し囚を慮す。

六月庚寅、鎮江大水其の郛に入る。癸卯、詔して今より臣僚の奏請事改法に渉る者は、三省・枢密院詳しく具して以て聞かしむ。

秋七月辛酉、儒林郎倪恕らは封事が採用に値するとして、官を遷し、文解を免ずること等差あり。戊辰、謝深甫らを遣わして金主の生辰を賀す。庚辰、詔を下して刑を恤しむ。

八月甲午、恭州を重慶府に升格す。丙申、両浙の月樁等銭を減ずること歳二十五万五千緡。己亥、王淮薨ず。癸丑、金、温迪罕肅らを遣わして来朝し即位を賀す。

九月癸亥、金、完顔守真らを遣わして来朝し重明節を賀す。紹興の和買絹の歳額四万四千余匹を減ず。乙丑、執政・侍従・台諫に戒めて、書を移して薦挙・請托するなからしむ。南剣州火災あり、その守臣の官を一等降し、なお優に振済を加うることを令す。戊辰、詔して侍従に各公正強敏の士で、嘗て守令及び職事官に任じ、材御史に堪うる者一人を挙げしむ。甲戌、詔して監司・帥守に、秩満して闕に到るに、所部の廉吏一二人を薦めしむ。郭徳麟らを遣わして金に使いし正旦を賀す。

冬十月庚子、枢密院の諸軍を審察するの制を罷む。壬寅、楚州・高郵盱眙軍の民が常平米を負うる一万四千余石を蠲免す。甲寅、大いに閲す。

十一月庚午、詔して明年を改めて紹熙元年と為す。嘉王府翊善を復置し、秘書郎黄裳を以てこれに充つ。乙亥、詔して陳源に国門に輒ち入ることを得ざらしむ。丁丑、江・浙の月樁銭額十六万五千余緡を減ず。

十二月壬子、金、裴満余慶らを遣わして来朝し明年正旦を賀す。

紹熙元年

紹熙元年春正月丙辰朔、帝群臣を率いて重華宮に詣で、寿聖皇太后・至尊寿皇聖帝・寿成皇后の冊宝を奉上す。壬申、再び臨安府民の身丁銭を三年間蠲免す。壬午、何澹、『紹熙会計録』を置くことを請う。詔して何澹に戸部長貳・検正・都司とともに財賦出入の数を稽考して聞かしむ。

二月丁酉、雹降る。辛亥、殿中侍御史劉光祖言う、道学は程氏の私言に非ず、是非を定め、邪正を別つことを乞う。之に従う。

三月丁卯、詔して秀王の襲封し、園廟を置く。安僖王の諱を班す。趙普の後一人を録す。庚午、久雨を以て、杖以下の囚を釈す。

夏四月乙酉、詔して両淮に流民を措置せしむ。己丑、伯圭を太保・嗣秀王と為す。丁未、殿中侍御史劉光祖、帯御器械呉端を論ずるを以て罷む。戊申、礼部進士余復以下五百三十七人に及第・出身を賜う。

五月乙卯、趙雄、挙ぐる所の者賄賂に敗るるに坐し、益川郡公に降封し、食邑一千戸を削る。己未、呉端を出して浙西馬歩軍副総管と為す。丙寅、楚州城を修す。丙子、太白昼に見ゆ。

六月丁亥、丘崈らを遣わして金主の生辰を賀す。丙申、上供等銭を以て広州の放免したる身丁銭の数を償う。甲午、後殿に御して囚を慮す。

秋七月癸丑、詔して秀王の諸孫に並びに南班を授く。甲寅、葛邲を参知政事と為し、給事中胡晋臣を簽書枢密院事と為す。乙卯、留正を左丞相と為し、王藺を枢密院使と為す。癸酉、秀王の祠堂を行在に建つ。

八月辛卯、任子中銓人の吏部簾試法を立つ。己亥、帝君臣を率いて『寿皇聖帝玉牒』・『日暦』を重華宮に上る。己酉、詔して新暦を造らしむ。

九月丁巳の日、金が王修らを派遣して重明節を賀し来たる。己未の日、剣州を隆慶府に昇格す。辛酉の日、雷鳴す。庚午の日、蘇山らを派遣して金に使いせしめ、正旦を賀せしむ。

冬十月丁酉の日、詔して内外諸軍に、今より額外の制・領以下の官を置くことなからしむ。丙午の日、詔して内外の軍帥に、各々その部内に将才ある者を推薦せしむ。庚戌の日、詔して郡県の吏に諭し、法を奉じ民を愛することを命ず。

十一月甲寅の日、安南が貢を入る。壬戌の日、潼川転運判官王溉が漕計を撙節し、井戸の重額銭十六万緡を代わって輸納す。詔してこれを奨励す。

十二月辛巳の朔、左千牛衛大将軍趙挺を贈りて保寧軍節度使とす。壬午の日、王倫に諡して節湣と曰うことを賜う。丙戌の日、王藺の枢密使を罷む。戊子の日、葛邲をもって知枢密院事とし、胡晉臣をもって参知政事兼同知枢密院事とす。癸卯の日、詔して広東の官売塩を毎年減ずることを命ず。丙午の日、金が把徳固らを派遣して来年の正旦を賀す。戊申の日、浦城の盗賊張海乱を起こす。詔して提点刑獄豊誼にこれを捕えしむ。

紹熙二年

二年春正月庚戌の朔、両淮に義倉法を行わしむ。壬子の日、詔して高宗を尊びて万世不祧の廟となす。庚申の日、六合城を修築す。辛酉の日、金主の母徒単氏殂す。戊寅の日、雷電し、雹を降らす。

二月庚辰の朔、大雪を降らす。壬午の日、宋之瑞らを派遣して金に使いせしめ、弔祭せしむ。癸未の日、新暦を名づけて『会元』と曰う。甲申の日、福建安撫使趙汝愚ら、盗賊がその管轄区域に発生したことを以て、守臣・監司とともに各々官秩一等を降とされ、県令は追って停職せらる。乙酉の日、詔して陰陽時を失い、雷雪交作するにより、侍従・台諫・両省・卿監・郎官・館職に命じ、各々時政の闕失を具して上聞せしむ。米五万石を出して京城の貧民を賑済す。皇后の家廟修築を権(暫)く罷む。辛卯の日、布衣余古上書して極諫す。帝怒り、詔して筠州学に送り聴読せしむ。丁未の日、金が完顔回らを派遣して来り、哀を告ぐ。

三月丙辰の日、詔して監司・郡守が互いに送り物をすれば贓罪に論ず。丁巳の日、詔して今より辺境の事は宰相に枢密院と議せしめ、なお同書を簽すべし。丙寅の日、詔して福建提点刑獄陳公亮・知漳州朱熹に、漳・泉・汀の三州の経界を同措置せしむ。丁卯の日、広州の摧鋒軍を三百人増やす。癸酉の日、建寧府に雹を降らし、大きさ桃李の如く、民居五千余家を壊す。温州に大風雨あり、雷電し、田苗桑果蕩尽す。丙子の日、右司諫鄧馹を出だす(外任に出す)。

夏四月乙酉の日、寿皇聖帝・寿成皇后に従い聚景園に幸す。丙申の日、詔して侍従・両省・台諫及び在外の侍従の臣に、各々知る所を挙げ、嘗て監司・郡守を任じ郎官・卿監に充つべき者及び資歴未だ深からずして諸職事官に充つべき者各三人を挙げしむ。辛丑の日、徽州に火災あり、二日にして乃ち滅す。

五月己酉の朔、福州に水害あり。辛亥の日、詔して六院の官に輪対を許し、なお雑圧に入らしむ。庚申の日、詔して侍従・経筵・翰苑の官に、今より並びに時を定めず宣対せしめ、広く諮詢して以て治道を補わしむ。戊長(戊辰の誤か)の日、金州に大火あり。己巳の日、潼川・崇慶の二府、大安・石泉・淮安の三軍、興・利・果・合・綿・漢の六州に大水あり。

六月戊寅の日、詔して監司は到任より半年にして、裕民の事を条上せしむ、郡守の如くせよ。庚辰の日、趙廱らを派遣して金主の生辰を賀せしむ。丁亥の日、伯圭をもって判大宗正事とす。癸巳の日、詔して宰臣・執政に、今より時を定めず内殿に宣引し奏事せしむ。

秋七月丁未の朔、詔して故容州編管人高登を追復して元の官とし、なお承務郎を贈る。己未の日、会子百万緡を出して両淮の私鋳鉄銭を収む。乙丑の日、太醫局を復置す。己巳の日、興州に大水あり、数千家を漂没す。

八月戊寅の日、何澹、本生の継母の喪に服し官を去る。甲申の日、両浙の榷鉄の禁を寛む。

九月壬子の日、金が完顔兗らを派遣して重明節を賀し来たる。知福州趙汝愚を召して吏部尚書とす。壬戌の日、職田の折変を禁ず。癸亥の日、黄申らを派遣して金に使いせしめ、正旦を賀せしむ。乙丑の日、久雨を以て、大理・三衙・臨安府及び両浙に命じ、繫囚を決し、杖罪以下を釈放せしむ。己巳の日、詔して侍従に、嘗て卿監・郎官を任じたる内より、刑獄の長貳に堪えうる者一二人を選び上聞せしむ。

冬十月丙子の朔、詔して経界を罷む。丁丑の日、福州の外城を築く。庚辰の日、百官の大礼賜物を三分の一減ず。甲申の日、呉端の帯御器械を復す。辛卯の日、詔して守令に病民の征斂をなさしめざるべし。庚子の日、詔を下し四川の水害を受けたる州軍を撫諭す。

十一月戊申、安定郡王の子肜薨ず。己巳、冊を加えて高宗の徽號を、受命中興全功至德聖神武文昭仁憲孝皇帝と曰う。辛未、太廟に事有り。皇后李氏、黄貴妃を殺し、暴卒を以て聞こゆ。壬申、天地を圜丘に合祭し、太祖・太宗を以て配す。大風雨有り、禮を成さずして罷む。帝、貴妃の薨ずるを聞き、又此の變に値ひ、震懼して疾を感ず。稱賀を罷め、赦を肆ふも樓に御せず。壽皇聖帝及び壽成皇后、來りて疾を視る。帝、是より朝を視せず。

十二月庚辰、荊門軍の城を築く。丁亥、帝始めて輔臣を内殿に対す。乙未、楚州の更戍兵一千五百人を増す。庚子、復た會子百萬緡を出し、兩淮の鐵錢を収む。辛丑、金、完顏宗璧等を遣はして來年正旦を賀す。壬寅、資・簡・普・榮の四州及び富順監旱す。甲辰、詔して慶遠軍承宣使・内侍省都知楊皓、奸を懷き凶に恣にすと、面を刺し脊を杖ち、吉州に配す。和州防禦使・内侍省押班黄邁、私に相朋附すと、杖を決し、撫州に編管す。尋で皓を撫州に、邁を常州に送り居住せしむ。

是歲、建寧府・汀州水有り、階・成・西和・鳳の四州及び淮東旱す。之を振ふ。

紹熙三年

三年春正月乙巳朔、帝疾有り、朝を視せず。庚戌、秀州の上供米四萬四千石を蠲す。歲に四川の鹽酒重額錢九十萬緡を蠲す。度僧牒二百を出し、淮東の鐵錢を収む。丁巳、夔路轉運使に命じ漕計を通融して米を糴き、以て凶荒に備へしむ。壬戌、文州の民の雜役を罷む。詔して輔臣に代はりて恭謝の禮を行はしむ。

二月甲戌朔、復た兩浙の犒賞酒庫を戶部に隷す。丁酉、錢銀の淮を過ぐるの禁を嚴にす。

閏月丙午、郡縣の新たに寺觀を作るを禁ず。甲寅、王藺を以て端明殿學士・四川安撫制置使と爲す。藺辭して行かず。壬戌、詔して州縣未斷の訟は、監司獄を移すこと毋からしむ。違ふ者は執奏を許す。甲子、成都府路轉運判官王溉、民に代はりて激賞等の絹錢三十三萬緡を輸すを以て、詔して一官を進め、仍て再任を令す。詔して郡縣の沒官田屋及び營田を賣る。

三月甲戌、天長縣の城を修む。辛巳、帝の疾稍や愈ゆ。始めて延和殿に御し政を聽く。子濤を以て安定郡王と爲す。甲申、雅州の稅場五を罷む。峽州の城を築く。乙酉、留正位を去らんことを乞ふ。許さず。庚寅、宜州蠻邊を寇す。郁林州を知る沙世堅を改めて宜州を知らしめ、之を討たしむ。辛卯、監司列薦の法を復す。丁酉、廣東の增收鹽斤錢を罷む。己亥、詔して技藝補授の人は奏補すること毋からしむ。令と爲して著す。庚子、監察御史郭德麟、事を察するに體を失ふを以て、出でて湖北提舉常平茶鹽と爲す。

夏四月癸卯、童子吳鋼の官を補ふ。甲寅、四川旱傷の郡縣を振ふ。乙卯、戶部侍郎丘崈を以て煥章閣直學士・四川安撫制置使と爲す。戊午、帝重華宮に朝す。丁卯、臨安の民の元年二年の逋賦を蠲す。

五月、帝疾有り、朝を視せず。乙未、漢陽・荊門軍・復州に命じて鐵錢を行はしむ。己亥、四川水旱の郡縣の租賦を蠲す。仍て兩浙の犒賞酒庫を諸州に隷し、戶部郎官に提領せしめ、歲に四十五萬緡を以て額と爲す。庚子晦、常德府大水其の郛に入る。

六月辛丑朔、詔を下し風俗を戒飭し、民の奢侈と士の文を爲すの浮靡、吏の苟且に飾偽する者を禁ず。權禮部尚書陳騤を以て同知樞密院事と爲す。甲辰、錢之望等を遣はし金主の生辰を賀す。丁未、四川諸軍の歲に西兵を起すを罷む。光州定城監を廢す。壬子、囚を慮ふ。戊午、伯圭を以て太師と爲す。甲子、私鑄銅錢を捕獲するの賞格を増す。丙寅、太尉郭師禹を以て少保と爲す。

秋七月己巳、沿邊の盜萬人を刺して諸州の禁軍と爲す。壬申、文思院を監す常良孫贓に坐し、海外に配す。益國公周必大、繆りて良孫を舉ぐるに坐し、滎陽けいよう郡公に降す。廣西の郡縣官を省く。甲戌、台州水有り。壬午、瀘州の騎射卒張信等亂を作し、其の帥臣張孝芳を殺す。甲申、軍士卞進・張昌、信を撃ち殺す。嘉王府の講讀官二員を増す。壬辰、揚州の城を修む。

八月甲寅、詔して兩淮に鐵錢交子を行はしむ。戊午、總領四川財賦楊輔奏す:已に東・西兩川の畸零絹錢四十七萬緡・激賞絹六萬六千匹を蠲すと。詔して之を獎す。是より歲を以て例と爲す。

九月甲戌、德安府の外城を修む。乙亥、金、僕散端等を遣はして來り重明節を賀す。戊子、鄭汝諧等を遣はし金に使し正旦を賀す。丙申、兩淮の民に桑を種くことを勸む。

冬十月壬寅、大禹の陵廟を修む。丙午、潭州の城を修む。辛亥、帝重華宮に詣り香を進む。庚申、會慶節、丞相百官を率ひ重華宮に詣り表を拜し賀を稱す。

十一月壬申、襄陽府の水害に遭った貧民を救済した。癸酉、蘄州の歳鋳銭を二十万緡減らした。丙戌、冬至の日、丞相が百官を率いて重華宮に赴き、上表して賀した。兵部尚書羅點・給事中尤袤・中書舎人黄裳はいずれも上疏して帝に重華宮への朝謁を請い、吏部尚書趙汝愚もまた対面の機会に因ってこれを請うた。帝は聞き入れた。辛卯、帝は重華宮に朝謁し、皇后も続いて至った。都人は大いに喜んだ。癸巳、湖南北・京西・江西の郡県の月樁銭・経総制銭、歳二十三万余緡を免除した。戊戌、詔して李純は皇后の親姪であるから、特に閣門宣賛舎人に任ずべしとした。

十二月癸卯、帝は群臣を率いて『寿皇聖帝玉牒』・『聖政』・『会要』を重華宮に奉った。丙午、帰正人の賦役を三年間免除した。辛亥、留正を少保とした。乙丑、金が温敦忠らを遣わして来年の正旦を賀した。

この年、江東・京西・湖北で水害があった。

紹熙四年

四年春正月己巳朔、帝は重華宮に朝謁した。辛卯、臨安府の民の身丁銭を三年間免除した。

二月戊戌朔、詔して陳源に特に在京宮観を与えた。丙寅、淮西の民に牛を買う銭を貸し与えた。米七万石を出して江陵の飢民を救済した。甲戌、皇孫が生まれた。

三月丙子、帝は重華宮に朝謁し、皇后が従った。辛巳、葛邲を右丞相とし、胡晉臣を枢密院事知らしめ、陳騤を参知政事とし、趙汝愚を同知枢密院事とした。甲申、監察御史汪義端が上奏した。汝愚が執政となるのは祖宗の故事に非ず、罷免を請う。疏を三度上ったが、回答がなかった。辛卯、義端を罷免した。癸巳、帝は寿皇聖帝・寿成皇后に従って聚景園に行幸した。乙未、巣県の城を修築した。

夏四月己酉、四川沿辺郡県の官田の売却を停止した。

五月丙寅朔、永州の義保を復活させた。己巳、礼部進士陳亮以下三百九十六人に及第・出身を賜った。進士李僑は年五十四、成都司戸参軍に任じられたが、自ら禄が父母を養うに及ばずとして、一官を回して父母に贈ることを乞うた。帝はその志を嘉し、特に詔して本官のまま致仕とし、父母ともに初品の官封を与えた。丙子、淮西で大水があった。丙戌、紹興で大水があった。浙東総管姜特立を召還した。丞相留正は特立について論じて用いられず、宰相を罷めることを乞うたが、回答がなかった。壬辰、太尉・利州安撫使呉挺が卒去した。四川制置使丘崈は制を承けて総領財賦楊輔に安撫使を権任させ、統制官李世広にその軍を権管するよう命じた。

六月丙申朔、留正は城を出て待罪した。江浙・両淮・荊湖の水害に遭った貧民を救済した。戊戌、秘書省著作郎沈有開・著作佐郎李唐卿・秘書郎范黼・彭亀年・校書郎王奭・正字蔡幼學・顔棫・呉獵・項安世が上疏し、姜特立召還の命を止めるよう請うた。己亥、許及之らを遣わして金主の生辰を賀した。壬寅、詔して淮馬を買い求め、沿江諸軍の戦騎に充てた。戊申、胡晉臣が薨去した。己酉、後殿に臨んで囚徒を慮した。癸丑、臨安の増税銭八万余緡を免除した。甲寅、太白星が昼間に現れた。甲子、雹が降った。

秋七月乙丑朔、太白星が昼間に現れた。丙寅、大雨雹があった。己巳、留正は再び姜特立について論じ、出身以来の文書を納め、范村で待罪した。丙子、雨が降らないため、諸路の提刑に滞獄の審断を命じた。戊寅、臨安府及び三衙に命じて繫囚を決し、杖刑以下の者を釈放した。壬午、趙汝愚を枢密院事知らしめ、吏部尚書余端禮を同知枢密院事とし、陳源を内侍省押班とした。癸未、邕州左・右両江での生口の販売を禁じた。乙酉、叙州の夷賊没該落無らが辺境を寇し、兵を遣わして討ち平らげた。

八月丙申、紹興の丁塩銭・茶租銭八万二千余緡を免除した。丁酉、郡県による没官田の売却を停止した。癸丑、詔して三省に郡県の水旱被害の救済・撫恤を議させた。丁巳、呉挺に少保を追贈した。その子曦は階官を落とし、起復して濠州団練使・帯御器械とした。戊午、江東・浙西・淮西の旱害に遭った貧民を救済した。

九月己巳、金が董師中らを遣わして重明節を賀した。庚午、重明節、百官が寿を賀した。侍従・両省が帝に重華宮への朝謁を請うたが、聞き入れられなかった。己卯、寿聖皇太后に尊号を奉り、寿聖隆慈備福皇太后とした。壬午、倪思らを遣わして金に使いし、正旦を賀した。甲申、帝が重華宮に朝謁しようとしたところ、皇后が帝を止めた。中書舎人陳傅良が衣の裾を引いて強く諫めたが、聞き入れられなかった。戊子、著作郎沈有開・秘書郎彭亀年・礼部侍郎倪思らがみな上疏し、重華宮への朝謁を請うた。

冬十月丙午、内教で三衙諸軍を訓練した。己酉、景霊宮で朝献した。夜、地震があった。庚戌、景霊宮で朝献した。夜、再び地震があった。壬子、秘書省の官が重華宮への朝謁を請い、疏を三度上ったが、回答がなかった。甲寅、土が降った。工部尚書趙彦逾らが重華宮に上疏し、会慶聖節に朝謁免除の旨を下さないよう請うた。寿皇は言った、「朕は秋涼以来、皇帝と相見えんと思っている。卿らの奏疏は既に御前に進めるよう命じた。」翌日の会慶節、帝は病のため果たして朝謁せず、丞相葛邲が百官を率いて重華宮で賀した。侍従が上章し、家に居て待罪したが、詔して許さなかった。嘉王府翊善黄裳が上疏し、内侍楊舜卿の誅殺を請うた。台諫の張叔椿・章穎が上疏し、罷免・貶黜を請うた。戊午、太学生汪安仁ら二百十八人が上書し、重華宮への朝謁を請うたが、いずれも回答がなかった。己未、丞相以下が重華宮で奏事した。庚申、帝が重華宮に朝謁しようとしたが、再び病のため果たせなかった。丞相以下が上疏して自らを劾し、政務からの罷免を請い、彭亀年は天下に謝すべく陳源を追放するよう請うたが、いずれも回答がなかった。

十一月辛未、日中に黒子があった。壬申、侍従・両省の趙彦逾ら十一人が同班で奏事した。癸酉、太白星が昼間に現れ、地に毛が生え、夜に赤雲白気があった。戊寅、帝は重華宮に朝謁し、都人は大いに喜んだ。右司郎官徐誼を遣わして城外の留正を召還した。庚辰、正はようやく入朝し、再び都堂に赴いて政務を視た。姜特立に命じて元の官に戻らせた。日中黒子が消えた。癸未、帝は群臣を率いて皇太后の冊・宝を慈福宮に奉った。

十二月戊戌、帝は重華宮に朝見す。壬寅、右司諫章穎、地震を以て葛邲の罷免を請い、疏を十餘上るも、報いず。甲辰、辺境の守臣を三年を任期とすと命ず。己酉、監司・帥守に独りで士を推薦せしめざるを詔す。庚戌、趙雄薨ず。甲寅、四川の塩合同場の旧法を復す。丁巳、江・浙の流民を賑恤す。己未、金、完顔弼等を遣わして来年正旦を賀せしむ。

紹熙五年

五年春正月癸亥朔、帝は大慶殿に御し、群臣の朝賀を受け、遂に重華宮に朝見し、次いで慈福宮に詣で、慶寿の礼を行ふ。推恩は淳熙十年の故事の如し。癸酉、寿皇聖帝、御不。丙子、大理の獄空し。癸未、葛邲罷免さる。丙戌、紹興の民の租税を寛む。

二月乙未、趙汝愚・余端禮、西帥の除奏が行われざるを以て奏し、家に居て罪を待つ。戊戌、荊鄂諸軍都統制張詔を成州団練使・興州諸軍都統制と為す。庚戌、湖南・江西の糴を遏ぐを禁ず。

三月癸亥、利州東・西を合わせて一路と為す。己巳、寿成皇后の生辰に、過宮して上寿するを免ず。

夏四月甲午、帝は玉津園に幸し、皇后及び後宮皆従ふ。乙未、寿皇聖帝は東園に幸す。丙申、史浩薨ず。己亥、景霊宮に朝献す。壬寅、雨降らざるを以て、大理・三衙・臨安府及び両浙に使い、繫囚を決し、杖以下を釈放せしむ。癸卯、土雨降る。甲辰、侍従入対し、重華宮に朝見するを請ふ。己酉、太学生程肖説等、帝の未だ朝見せざるを以て、大臣に書を移す。事聞こえ、帝は癸丑の日に朝見せんとす。期に至り、丞相以下宮門に入りて俟つも、日昃るも、帝復た疾を以て果たして出でず。侍従・館学官、疏を上し、罷黜を乞ひ、家に居て罪を待つ。職事官、去りて罪を待たんと請ふ者百餘人、詔して許さず。丙辰、侍講黄裳・秘書少監孫逢吉等、再び疏を上して請ふ。丁巳、起居郎兼権中書舎人陳傅良、親王・執政或は近上の宗戚一人を以て重華宮使を充てんことを請ふ。台諫、章を交えて内侍陳源・楊舜卿・林億年が両宮を離間するを劾し、その罷逐を請ふ。

五月辛酉朔、辰州の徭賊、辺境を寇す。甲子、侍従入対すも、見えず。宰執、重華宮に詣で疾を問ふも、引見に及ばず。陳傅良、告敕を繳上し、城を出でて罪を待つ。丁卯、寿皇聖帝の疾棘しきを以て、丞相以下に命じ天地・宗廟・社稷に分祷せしむ。戊辰、丞相留正等、帝の侍疾を請ひ、正は裾を引きて帝に随ひ福寧殿に至り、久しくして、乃ち泣いて出づ。辛未、丞相以下、請ふところ従はれざるを以て、退去を求め、帝は皆退けと命じ、ここに於て丞相以下遂に城を出でて罪を待つ。知閣門事韓侂冑、宣押して城に入らしむるを請ひ、之を許す。史浩を追封して会稽郡王と為す。乙亥、帝、重華宮に朝見せんとす、復た果たさず。戊寅、寿皇聖帝の疾を以て、赦す。権刑部尚書京鏜入対し、重華宮に朝見するを請ふ。庚辰、丞相以下、重華宮に詣で疾を問ふ。癸未、起居舎人彭亀年、頭を叩きて奏事を請ひ、詔して上殿せしむ、乃ち重華宮に朝見するを請ふ。甲申、従官列奏して以て請ふ、嘉王府翊善黄裳・講読官沈有開・彭亀年奏し、嘉王をして重華宮に詣で疾を問はしむるを乞ひ、之を許す。王、重華宮に至る、寿皇之が為に感動せらる。丙戌、権戸部侍郎袁説友入対し、重華宮に朝見するを請ふ。

六月、梁総等を遣わして金主の生辰を賀す。戊戌の夜、寿皇聖帝崩ず、遺誥して重華宮を慈福宮と改め、寿成皇后殿を宮の後に建て、以て定省に便ならしむ。重華宮の銭銀一百万緡を以て内外の軍に賜ふ。是に先立ち、丞相留正・知枢密院事趙汝愚・参知政事陳騤・同知枢密院事余端禮、寿皇聖帝の大漸を聞き、帝に後殿に見え、力を尽くして帝の重華宮朝見を請ひ、皇子嘉王も亦泣いて以て請ふも、聴かず。是に至り、丞相正等、寿皇聖帝の崩ずるを聞き、乃ち百官を率ひて重華宮に遺誥を聴く。己亥、丞相以下疏を上し、重華に詣で礼を成さんことを請ふ。庚子、薛叔似等を遣わして金に使い哀を告げしむ。辛丑、丞相、百官を率ひて表を拝し、喪次に就きて成服するを請ふ。壬寅、寿皇大殮す。皇子嘉王、復た入りて奏事し、詔して疾癒えて後、過宮して礼を行はんことを俟つ。丞相以下、皇太后の垂簾聴政を請ふも、許さず。代わって祭奠の礼を行はんことを請ふ、之を許す。仍て旨有り:皇帝疾有り、内中に就きて成服するを聴す。夜、白気天に亙る。乙巳、寿聖隆慈備福皇太后を太皇太后と尊び、寿成皇后を皇太后と尊ぶ。己酉、白気天に亙る。乙卯、林湜等を遣わして金に使い遺留物を致さしむ。

秋七月辛酉、丞相留正、疾と称し、政を罷めんことを乞ひ、遂に逃れて帰る。初め、正等屡ひ嘉王を立て皇太子と為さんことを請ひ、帝之を許す。正は指揮を擬して以て進むるに、御筆を奉ず:「歳久しく事に歴り、退閑せんと念ふ。」正之を得て、大いに懼れ、乃ち退くを謀る。甲子、太皇太后、皇帝の疾執喪に能はざるを以て、皇子嘉王に命じ皇帝の位に即かしむるを重華宮の素幄に於てす。皇帝を太上皇帝と尊び、皇后を寿仁太上皇后と尊び、御を泰安宮に移す。

慶元元年

慶元元年十一月戊戌、尊号を上りて聖安寿仁太上皇帝と曰す。六年八月庚寅、太上皇帝御不豫。辛卯、寿康宮に崩ず、年五十四。十一月丙寅、諡して憲仁聖哲慈孝皇帝と曰し、廟号を光宗とす。嘉泰三年十一月壬申、諡を加へて循道憲仁明功茂德温文順武聖哲慈孝皇帝と曰す。

紀讚

贊に曰く、光宗幼より令聞有り、儒雅を用ひんと向ふ。其の即位に逮び、権綱を総べ、嬖幸を屏け、賦を薄くし刑を緩くす、紹熙の初政に見ゆるは、取るに宜しきが若し。夫れ宮闈の妒悍に及び、内に制する能はず、驚憂して疾を致す。是より政治日く昏く、孝養日く怠り、而して乾・淳の業衰ふ。