宋史

本紀第三十三 孝宗一

孝宗紹統同道冠徳昭功哲文神武明聖成孝皇帝、諱は昚、字は元永、太祖の七世の孫なり。初め、太祖の少子秦王徳芳は英國公惟憲を生み、惟憲は新興侯従郁を生み、従郁は華陰侯世将を生み、世将は慶國公令譮を生み、令譮は子偁を生み、これが秀王なり。王夫人張氏は人が一頭の羊を抱いてこれを遺す夢を見て曰く、「これを以て識とせよ」と。既にして娠あり、建炎元年十月戊寅に帝を秀州青杉閘の官舎に生む、紅光室に満ち、日の正中の如し。少長して、伯琮と命名す。

元懿太子薨じるに及び、高宗に後嗣なく、而して昭慈聖献皇后も亦た江西より行在に還る。后嘗て異夢を感ず、密かに高宗に之を言う、高宗大いに悟る。会に右僕射范宗尹も亦た造膝して以て請う、高宗曰く、「太祖神武を以て天下を定む、子孫之を享くるを得ず、時に遭いて多艱、零落憫むべし。朕若し仁宗に法らざれば、天下の為に計らん、何を以て在天の霊を慰めんや」と。ここに於て詔して太祖の後を選ばしむ。同知枢密院事李回曰く、「藝祖大位を以て其の子に私せず、至誠より発す。陛下天下の為に遠慮し、藝祖に合す、以て天命を昭格すべし」と。参知政事張守曰く、「藝祖諸子、失徳を聞かず、而して位を太宗に伝う、堯・舜を過ぐること遠し」と。高宗曰く、「此の事行う難からず、朕『伯』の字行の中に選択し、庶幾くは昭穆順序ならん」と。而して上虞丞婁寅亮も亦た上書して言う、「昌陵の後、寂寥として聞こえず、僅かに民庶に同じ。藝祖上に在りて、肯て顧歆せず、此れ金人の未だ禍を悔いざる所以なり。願わくは陛下『伯』の字行内に太祖諸孫の賢徳有る者を選ばんことを」と。高宗之を読み、大いに感歎す。紹興二年五月、帝を選びて禁中に育つ。

三年二月、和州防御使を除し、名を瑗と賜う。壬寅、貴州に改む。五年五月、左僕射趙鼎の議を用い、書院を宮中に立てて之を教う、既に成り、遂に以て資善堂と為す。帝書を読みて強記、天資特異なり。己亥、制して保慶軍節度使を授け、建国公に封ず。六月己酉、資善堂に聴読し、徽猷閣待制範沖を以て詡善を兼ね、起居郎朱震を以て賛読を兼ねしむ、高宗命じて帝に沖・震に見ゆるに皆拝せしむ。十二年正月丁酉、検校少保を加え、普安郡王に封ず。三月壬寅、閣を出でて外第に就く。十三年九月、秀王秀州に歿す。十四年正月庚辰、廷臣の議を用い、官を解き服を行うを聴す。十六年四月乙巳、喪を免じ、旧官に還る。十七年六月戊午、常徳軍節度使に改む。二十四年、衢州に盗起こる、秦檜殿前司将官辛立を遣わし千人を将いて之を捕え、以て聞かず。帝入侍して之を言う、高宗大いに驚く。明日、以て檜に問う、檜足らずして聖慮を煩わすと謂い、故に敢えて聞かず、朝夕盗平らげば則ち奏すべしと。檜退き、帝の言う所と知り、之を忌む。檜疾篤しに及び、其の家秘して以て聞かせず、子熺を以て相に代えんと謀る、帝又密かに高宗に啓して其の奸を破る。

紹興三十二年

三十年二月癸酉、皇子と立て、名を瑋と更む。甲戌、詔下る。丙子、制して甯国軍節度使・開府儀同三司を授け、進めて建王に封ず。制出で、中外大いに悦ぶ。四月、字を元瑰と賜う。三十一年十月壬子、明堂の恩を以て、鎮南軍節度使に改む。先んず、金人辺を犯し、高宗詔を下し親征し、而して両淮守を失い、朝臣多く退避の計を陳ぶ、帝其の憤りに勝えず、師を率いて前駆たらんことを請う。直講史浩疾を以て告に在り、之を聞きて亟に入り、帝に為に言う、太子将兵すべからずと、乃ち奏を草し、因り中宮を以て進め、衛従して以て子職を共にせんことを請う。高宗因り亦た諸将を遍く識らしめんと欲し、十二月、遂に蹕に扈して金陵に如く。三十二年五月甲子、皇太子と立て、名を昚と改む。

初め、高宗久しく禅位の意有り、嘗て以て帝に諭す、帝流涕固く辞し、会に辺事有りて果たさず。金陵より帰るに及び、陳康伯去らんことを求む、高宗復た倦勤を以て之に諭す。中書舎人唐文若聞きて対を請い、急遽すべからざるを言う、故に先ず建儲の詔を下し、名を燁と賜う。監察御史周必大密かに康伯と言い、唐昭宗の名と音同じく、不可と。詔して別に擬して進めしむ、乃ち今の名を定む。既にして又命じて学士承旨洪遵に太子の為に字を択ばしむ、遵四字を擬して以て進む、皆旨に称せず。六月甲戌、御筆を以て字を元永と賜う。

乙亥、内に御劄を降す、「皇太子即ち皇帝位に即くべし。朕太上皇帝と称し、徳寿宮に退処す。皇后太上皇后と称す」と。丙子、中使を遣わし帝を召して禁中に入れ、面して之を諭す、帝又推遜して受けず、即ち側殿の門に趨り、東宮に還らんと欲す、高宗再三勉諭し、乃ち止む。ここに於て高宗出でて紫宸殿に御し、輔臣事を奏し畢り、高宗宮に還る。百官班を殿門外に移し、詔を拝し畢り、復た班を殿庭に入る。頃くの内、内侍帝を掖きて御榻の前に至らしむ、側立ちて坐せず、内侍扶掖すること七八に至り、乃ち略く坐に就く。宰相百僚を率いて賀を称す、帝遽かに興る。輔臣殿に升り固く請う、帝愀然として曰く、「君父の命は、独断より出づ。然れども此の大位は、克く当たらざるを懼る」と。班退き、太上皇帝即ち駕して之を徳寿宮にす、帝袍履を服し、歩み出でて祥曦殿門、雨を冒して輦を掖きて以て行き、宮門に及びて止まず。上皇麾して再三謝し、且つ左右を令して扶掖して以て還らしめ、顧みて曰く、「吾託するに人を得たり、吾憾み無し」と。左右皆万歳を呼ぶ。是の日、詔して有司に議して太上皇帝・太上皇后の尊号を以て聞かしめ、内の諸司は日輪の官吏を以て徳寿宮に応奉し、増置し、朝徳寿宮提点・幹辦等の官を置き、徳寿宮の宿衛は皇城及び宮門の法に依る。戊寅、大赦す。詔して宰相に百官を率い月に両度徳寿宮に朝せしむ。己卯、即位を以て天地・宗廟・社稷に告ぐ。庚辰、詔して五日に一度徳寿宮に朝す。左武大夫龍大淵を以て枢密副都承旨と為し、武翼郎曾覿に帯禦器械を帯せしむ。癸未、始めて後殿に御す。甲申、詔して中外の士庶に時政の闕失を陳べしむ。丙戌、詔して宰執の官を二等進む。丁亥、詔して太上皇五日一朝を許さずと、今より月に四朝す。復た名を除き勒停の人胡銓の官をし、饒州を知らしむ。己丑、詔して有司に月に徳寿宮に緡銭十万を奉ぜしむ。辛卯、詔して四川の市馬を罷む。壬辰、詔して百官日に一人入対せしむ。癸巳、蝗あり。甲午、太上皇帝の尊号を上りて光堯寿聖太上皇帝と曰い、太上皇后を寿聖太上皇后と曰う。乙未晦、金人原州を屠る。

秋七月戊戌、興州中軍統制の吳挺、鞏州を復す。庚子、判建康府の張浚、入見す。雨水・飛蝗のため、侍従・台諫に命じ民間の利害を条上せしむ。壬寅、詔して諸郡の守臣を戒飭す。癸卯、張浚を以て少傅・江淮宣撫使と為し、魏国公に封ず。甲辰、参知政事の汪澈を以て湖北・京西を視師せしむ。劉珙等を遣わし金に使いし即位を告ぐ。戊申、四川宣撫使の吳璘を以て陝西河東路宣撫・招討使を兼ねしむ。岳飛の元の官を追復し、礼を以て改葬す。是の夜、地震し、大風木を抜く。己酉、太廟・別廟に事有り。癸丑、馬軍司中軍統制の趙撙・忠義軍統領の皇甫倜、光州を復す。甲寅、景霊宮に朝献す。詔して淮南諸州に淮北より来帰の民を存恤せしめ、権に税役を免ず。丙辰、少保・保康軍節度使の吳益を以て少傅と為し、太尉・寧武軍節度使の吳蓋を以て開府儀同三司と為す。丁巳、李宝の海道措置を罷む。戊午、恩平郡王の璩、入見す。庚申、御前軍器所を以て仍び工部に隷せしむ。辛酉、詔して後省に中外の上書を看詳せしめ、採るべきもの有らば以て聞かしむ。壬戌、黄祖舜を以て権参知政事を兼ねしむ。諸路の聖節進奉を罷む。詔して李顕忠の軍馬を張浚の節制を聴かしむ。癸亥、将士の戦傷死者に推恩する格を増す。詔して四川の積年の逋負を蠲免す。

八月乙丑朔、四川馬軍統制の高師中、金人と摧沙にて戦い、敗死す。丙寅、吳璘、金人と徳順軍にて戦う。己巳、翰林学士の史浩を以て参知政事と為す。戊寅、群臣を率い徳寿宮に詣で、太上皇帝・太上皇后の尊号冊宝を奉上す。于亥、寛恤事十八条を班す。起居舎人の洪邁・知閣門事の張掄、奉使辱命の坐にて罷む。甲申、吳璘、金人を北山にて破る。戊子、李光の資政殿学士を追復し、趙鼎・范沖並びに合得の恩数を還す。庚寅、生日を以て会慶節と為す。故妃の郭氏を追冊して皇后と為す。

九月甲午、子の愭を以て少保・永興軍節度使と為し、鄧王に進封す。愷を雄武軍節度使・開府儀同三司と為し、慶王に進封す。惇を鎮洮軍節度使・開府儀同三司と為し、恭王に進封す。甲午、金人、徳順軍の東山堡を攻め、中軍将の李庠戦死す。丁酉、詔して開講の日に輔臣を召し講を観せしむ。川・陝宣諭使の虞允文、辺事を論ずるに合わざるを以て罷む。己亥、詔して侍従・台諫に四川の利害を知り都転運使と為すべき者を挙げしむ。庚子、金人の旧礼を索むるに因り、詔して宰執・侍従・台諭に各々応敵の定論を陳べて以て聞かしむ。辛丑、詔して吳璘に審度措置し、川しょくを保全せしむ。乙巳、詔して勲臣の名次を纂録せしむ。丙午、朱震・范衝の子孫の官を転補す。庚戌、皇后の郭氏に諡して恭懷と曰う。辛亥、淮東の義兵及び帰正人を振恤す。総領四川財賦軍馬銭糧の王之望を以て戸部侍郎・川陝宣諭使と為し、仍び兵を将いて調兵し同しく興州川口を防守せしむ。乙卯、詔して虞允文を吳璘の軍に赴かしめ事を議わしむ。辛酉、吳璘を以て少師と為す。

冬十月丙寅、詔して朝臣に監司・郡守に堪うる者を挙げしむ。戊辰、岳陽軍節度使の居広を以て開府儀同三司と為し、史浩に権知枢密院事を兼ねしむ。己巳、葉義問罷む。詔して登聞鼓院に進状を沮抑せざらしむ。庚午、恩平郡王の璩を以て少保と為す。詔して会慶節に権に上寿を免ず。戊寅、詔して張浚・陳俊卿に諸将の陳ぶる所の功賞を覆実せしむ。皇后の郭氏の諡を改めて安穆と曰う。壬午、岳飛の孫六人に官す。甲申、契丹の招討の蕭鷓巴来奔す。金人、徳順城を攻む。吳璘之を撃ち走らしむ。復た兵を遣わし追襲せしむるも、遂に其の為す所の敗と為る。乙酉、建州を建寧府に升す。戊子、資政殿学士の張燾を以て同知枢密院事と為す。己丑、安南都護・南平王の李天祚、闍婆国王の悉里地茶蘭固野、占城国王の鄒時巴蘭並びに食邑実封を加う。

十一月庚子、蕭鷓巴を以て忠州団練使と為す。乙巳、金人、水洛城を攻む。丙午、忠義軍統制の皇甫倜の軍に帛五千匹・綿万両を賜う。戊申、詔して明年を改めて隆興元年と為す。辛亥、楊存中の献ずる所の酒坊の逋負銭四十万緡を免ず。甲寅、内侍の官額を定む。辛酉、史浩の権知枢密院事を免ず。文武臣の宮観・嶽廟の員数を裁定す。措置京西営田司を立つ。

十二月乙丑、詔して宰臣に復た枢密使を兼ねしむ。金人、隴城県を攻む。官軍拒ぎ之を却く。丙寅、詔して帥臣・監司に部内の知州の治行の臧否を具して以て聞かしむ。詔して徳順城を棄て、兵民を秦州以里に徙して屯住せしむ。丁卯、陳康伯に枢密使を兼ねしむ。江・淮宣撫司に令して武勇效用軍を増招せしむ。戊辰、詔して侍従・台諫に当今の弊事を集議せしめ、仍び其の属を尽く率い、言を極めて隠さざらしむ。辛未、劉珙・張説、盱眙より還る。戊寅、四川の登極赦前の帯びる白契税銭を蠲免す。丙戌、詔して観察使已上に各々知る所の者三人を挙げしめ、三省・枢密院に詳議して格を立て以て聞かしむ。庚寅、建康・鎮江の営田官兵を罷む。辛卯、広西の賊の王宣、藤州を破り、守臣の廖顒城を棄てて遁る。

是の歳、諸路大辟を断ずること四十一人。

隆興元年

隆興元年春正月壬辰朔、群臣、文徳殿に朝す。帝、徳寿宮に朝す。武臣の薦挙格を立つ。甲午、四川宣撫司、詔を奉じて班師す。庚子、史浩を以て尚書右僕射・同中書門下平章事兼枢密使と為し、張浚を枢密使・都督ととく江淮東西路軍馬に進む。丙午、殿前司後軍の謀変する者を誅す。戊申、詔して礼部貢院の試額を一百人増す。丁巳、詔して吳璘の軍の進退は便宜に従うべし。璘已に徳順を棄て、道にて金人の邀うる所と為り、将士の死者数万を計る。

二月壬戌朔、史浩の策を用い、布衣の李信を以て兵部員外郎と為し、蠟書を齎し間道より中原に往き、州郡を拠有する豪傑を招き、封王世襲を以て許す。安慶軍節度使の士篯、奉賜の半減を乞い、以て軍用を助く。是より、諸宗室の請有るも、悉く之に従う。戊辰、宰執の陳康伯等、再び奉の減を乞い、旧格の半に止むるを、之を許す。己卯、両淮の流民及び山東の帰正忠義軍を振恤す。癸未、黄祖舜罷む。庚寅、秦檜の党人を逐い、仍び輒に行在に至るを禁ず。

三月壬辰朔(一日)、金の左副元帥紇石烈志寧が書を以て侵した地の返還を求む。癸巳(二日)、張燾を参知政事と為し、御史中丞辛次膺を同知枢密院事と為し、葉義問は端明殿学士を落とされ、饒州居住と為す。丙申(五日)、雹降る。丁酉(六日)、詔して戸部に局を置き、浮費を節することを議せしむ。己亥(八日)、楊存中等、宰執の例に倣い半減した俸給を請う、これを許す。庚子(九日)、龍大淵を閤門事を知らしめ、曾覿を同知閤門事と為す。壬寅(十一日)、陳康伯、欽宗の陵名を永獻と上る。乙巳(十四日)、詔して遺逸を求む。丁未(十六日)、詔して『太上皇帝聖政』を修せしむ。龍大淵を罷め、別に差遣を与う。曾覿は再び御器械を帯びる。張浚を召す。己酉(十八日)、張燾罷む。選人の挙主を減ずる法を立てる。甲寅(二十三日)、龍大淵を復た閤門事を知らしむ。曾覿を同閤門事と為す、給事中・中書舎人、留黄して行わず。乙卯(二十四日)、詔して郡県の吏を飭す。庚申(二十九日)、久雨を以て、命じて有司に災傷を振恤せしめ、刑禁を察せしむ。

夏四月乙丑(四日)、選人の改官の歳額を定む。戊辰(七日)、張浚入見し、師を出して淮を渡ることを議す、三省・枢密院は預かり聞かず。壬申(十一日)、礼部進士木待問以下五百三十八人に及第・出身を賜う。乙亥(十四日)、王之望罷む。壬午(二十一日)、詔して戸部・台諫に浮費を節することを議せしむ。癸未(二十二日)、詔して白金二十五万両を以て江・淮都督府の軍費に給す。戊子(二十七日)、張浚、邵宏淵に命じて師を帥い盱眙に次がしむ。己丑(二十八日)、また李顯忠に命じて師を帥い定遠に次がしむ。是の月、金人環州を抜く、守臣強霓及びその弟震これに死す。

五月壬辰(二日)、鋪翠・銷金及び神祠の僭擬の禁を厳しくす。丁酉(七日)、李顯忠、霊壁県を復す。邵宏淵、虹県に次ぐ、金人これに拒む。戊戌(八日)、顯忠、東に趨り虹県に向かう。庚子(十日)、虹県を復す、金の泗州知事蒲察徒穆及び泗州同知大周仁降る。辛丑(十一日)、左右史に命じ日を更えて前殿に立たしむ。壬寅(十二日)、張浚、江を渡り師を視る。癸卯(十三日)、金の右翼軍都統蕭琦、李顯忠に降る。甲辰(十四日)、顯忠及び宏淵、金人を宿州にて破る。乙巳(十五日)、史浩罷む。司馬康を追復して右諫議大夫と為す。丙午(十六日)、宿州を復し、金兵数千人を戮す。建康前軍統領官王珙、巷戦してこれに死す。丁未(十七日)、辛次膺を参知政事と為し、翰林学士承旨洪遵を同知枢密院事と為す。諸路を督して営田を開かしむ。辛亥(二十一日)、徳寿宮に詣で天申節を賀す。金の紇石烈志寧、睢陽より兵を引き宿州に至る、李顯忠これを撃ち却く。壬子(二十二日)、欽宗の大祥、帝衰服を服して几筵に詣で、祥服に易えて祥祭の礼を行ふ。顯忠、金人と宿州にて戦ふ、邵宏淵援けず、顯忠利を得ず。是の夜、建康中軍統制周宏及び邵宏淵の子世雄・殿前司統制官左士淵逃げ帰る。癸丑(二十三日)、李顯忠を進めて開府儀同三司・淮南京畿京東河北招討使と為し、邵宏淵を検校少保・寧遠軍節度使・招討副使と為す。金人宿州城を攻む、顯忠これを大いに破る。殿前司統制官張訓通等七人・統領官十二人、二将和せざるを以て遁走す。甲寅(二十四日)、李顯忠・邵宏淵の軍、符離にて大潰す。乙卯(二十五日)、親征の詔を下す。丙辰(二十六日)、汪澈を召す。張浚を以て都督荆襄軍馬を兼ねしむ。李顯忠・邵宏淵、濠州に至る。張浚、劉宝を以て鎮江諸軍都統制と為す。丁巳(二十七日)、蒲察徒穆・大周仁・蕭琦を並びに節度使と為し、徒穆は大同軍、周仁は彰国軍、琦は威塞軍に任ず。御前忠勇軍を遣わし都督府に赴かしむ。是の月、成都三たび地震す。

六月庚申朔(一日)、日食あり。内侍を遣わし淮東の将士の功賞を上ることを促す。癸亥(四日)、汪澈罷む。張浚致仕を乞い、且つ通好を請う、皆許さず。丁卯(八日)、観文殿大学士湯思退を醴泉観使兼侍読と為す。戊辰(九日)、虞允文を召す。兵部侍郎周葵を参知政事と為す。汪澈は資政殿学士を落とされ、台州居住と為す。庚午(十一日)、張浚、盱眙より揚州に還る。辛未(十二日)、李顯忠軍職を罷む。壬申(十三日)、太傅・同安郡王楊存中を以て御営使・殿前司軍馬を節制せしむ。癸酉(十四日)、罪己の詔を下す。張浚を降授して特進と為し、仍って前の枢密使・江淮東西路宣撫使と為し、官属は各二官を奪わる。邵宏淵を降授して武義大夫と為し、職は仍って旧の如し。詔して楊存中に先ず建康に詣で営砦を措置し、沿江の守備を検視せしむ。戊寅(十九日)、詔して巡幸の期を展ぶ。辛次膺罷む。己卯(二十日)、李顯忠を責授して清遠軍節度副使・筠州安置と為す。辛巳(二十二日)、浙西副都総管李宝に命じ御営統制官・浙西海道措置を兼ねしむ。甲申(二十五日)、右諫議大夫王大宝入対し、移蹕を論ず。敷文閣学士虞允文を以て兵部尚書兼湖北京西宣諭使と為す。戊子(二十九日)、宮人三十人を放つ。蕭琦を以て検校少保・河北招撫使と為す。

秋七月庚寅朔(一日)、虞允文を湖北京西制置使と為す。癸巳(四日)、湯思退を尚書右僕射・同中書門下平章事兼枢密使と為す。李顯忠を再び責授して果州団練副使・潭州安置と為す。乙未(六日)、詔して宿州にて軍を棄てた将佐は官を奪い、貶竄に差等あり。丙申(七日)、太白昼に見え、天を経る。江・淮宣撫司の便宜行事を罷む。乙巳(十六日)、旱蝗・星変を以て、詔して侍従・台諫・両省の官に時政の闕失を条上せしむ。丁未(十八日)、詔して李顯忠の侵欺した官銭金銀を徴収し、その家を籍することを免ず。乙卯(二十六日)、省・部・寺・監の官吏を裁減す。戊午(二十九日)、岳飛の田宅を給還す。

八月丙寅(七日)、張浚を復た都督江淮軍馬と為す。庚午(十一日)、劉宝を以て淮東招撫使を兼ねしむ。丙子(十七日)、飛蝗・風水災を為すを以て、殿を避け膳を減ず。諸路の職田を借るの令を罷む。戊寅(十九日)、金の紇石烈志寧また書を以て海・泗・唐・鄧の四州の地及び歳幣を求む。癸未(二十四日)、復た龍大淵を以て閤門事を知らしめ、曾覿を同知閤門事と為す。丙戌(二十七日)、淮西安撫司幹弁公事盧仲賢等を遣わし書を齎して金の帥府に至らしめ、四州を許さず、歳幣を差減することを戒む。仍って諸将に命じ兵人を遣わして境を出でしめざるを命ず。

九月己酉(二十一日)、楊存中罷む。

冬十月戊午朔(一日)、大臣、金帥の書に言う四事を奏す、帝曰く「四州の地・歳幣は与うべし、名分・帰正人は従うべからず」。辛酉(四日)、殿に御し復た膳す。己巳(十二日)、護聖軍を遣わし江南を戍らしむ。丙子(十九日)、詔して皇后の教旨を上って聖旨と改称す。賢妃夏氏を立てて皇后と為す。丁丑(二十日)、地震す。辛巳(二十四日)、洪州を升めて隆興府と為す。詔す「江・淮の軍馬の調発応援は、都督府の旨を取るに従い、余の事は悉く以て聞すべし」。

十一月己丑、盧仲賢が宿州より金の都元帥僕散忠義が三省・枢密院に送った書状を持ち帰る。庚子、王子望らを金国通問使として派遣す。辛丑、侍従・台諫に命じ後省に集議させ、講和・遣使・礼数・土貢の四事を議せしめ、併せて各々小使に備え得る者を推薦せしむ。丙午、盧仲賢が四州を擅に許した罪により、大理寺に下し、三官を奪う。張浚を召還す。癸丑、胡昉・楊由義を使金通問国信所審議官とす。

十二月己未、陳康伯罷免さる。乙丑、張浚入朝し謁見す。丁丑、湯思退を尚書左僕射とし、張浚を右僕射とす。共に同中書門下平章事兼枢密使たり。浚はなお江・淮東西路軍馬を都督す。壬午、西南方に白気あり。

是歳、両浙の大水・旱蝗、江東の大水により、その租を悉く蠲免す。

隆興二年

二年春正月辛卯、徳寿宮の車輦儀衛を増すことを詔す。壬辰、文徳殿に御し、皇后を冊立す。癸巳、三省の法を修す。乙未、皇后と共に徳寿宮に朝す。丙申、虞允文に命じ兵を調発し広西の諸盗を討たしむ。庚子、諸州の招軍を罷む。丙午、金の僕散忠義また書状を送る。庚戌、卿監・郎官の更出迭入の制を厳に申す。壬子、帰正人を賑恤す。甲寅、白気天に亙る。是月、福建諸州地震す。

二月辛未、秀州の貧民の逋租を蠲免す。壬申、容州の妖賊李雲乱を為す。癸酉、王権を武義大夫に復し、権広西路都鈐轄に命じ、専ら盗賊措置に当たらしむ。丙子、将帥に詔して文武官及び百司の吏の郊賜を半減せしむ。両浙・福建・江西・湖南・夔州路の参議官を罷む。丁丑、雹及び雪降る。李雲を捕獲し、その党悉く平ず。乙酉、胡昉宿州より帰還す。初め、金の帥は昉らが四郡を許さざるを以て、械に系し拘禁す。昉ら屈せず、金主命して帰す。

三月丙戌朔、張浚に詔して淮に於いて師を視察せしむ。また王之望らに詔して幣を還さしむ。丁亥、荆襄・川陝の帥臣に詔して辺備を厳にし、先んじて事を妄りに挙げざらしむ。盧仲賢を除名し、械にて郴州に送り編管す。壬寅、光州知事皇甫倜に詔して帰正人を招納せざらしむ。丙午、王宣ら降る。詔して三衙の戍兵を司に帰し、建康・鎮江の大軍を更番に砦に帰さしむ。庚戌、芝徳寿宮に生ず。戸部侍郎錢端礼を淮東宣諭使とし、吏部侍郎王之望を淮西宣諭使とす。両淮の軍民を撫諭することを詔す。壬子、広西の賊平定を以て、詔して高・藤・雷・容の四州の雑犯死罪囚を減じ、杖以下を釈放し、夏秋の税賦を蠲免す。忠勇軍を歩軍司に隷属せしめ、神勁右軍を鎮江都統司に隷属せしむ。癸丑、王彥を建康諸軍都統制兼淮西招撫使とす。

夏四月庚申、張浚を召還し朝に還らしむ。甲子、李顕忠が官銭を侵欺したものを以て諸軍に給還す。丁卯、建康の帰正人を以て忠毅軍とし、鎮江のを忠順軍とし、蕭琦・蕭鷓巴に分領せしむ。戊辰、江・淮都督府を罷む。高麗貢を入る。丁丑、張浚罷免さる。癸未、言者が宰相・執政の徇欺の弊を論ずるを以て、政事堂に書を置くことを命ず。

五月壬辰、環衛官を復置す。丙申、呉璘に詔して帰正人を招納せざらしむ。辛丑、劉宝に詔して泗州の軽重取捨の事宜を量度して聞かしむ。江西総管邵宏淵を責授して靖州団練副使・南安軍安置とし、なおその盗用した庫銭を徴収す。乙巳、群臣を率い徳寿宮に詣で天申節を賀し、始めて楽を用う。丁未、蝗あり。内外の贓私不法官吏に対し、尚書省に籍を置き検勘することを詔す。庚戌、神勁效用軍の招集を罷む。辛亥、両淮の招いた戸馬を売却す。

六月甲寅朔、日食あり。辛酉、淫雨を以て、州県に滞囚を理することを詔す。戊辰、太白昼に見ゆ。壬申、虞允文に命じ唐・鄧を棄てしむ。允文詔に奉ぜず。丁丑、江東・両淮の水害を受けた貧民を賑恤す。

秋七月乙酉、虞允文を召還す。戸部尚書韓仲通を湖北・京西制置使とす。丁亥、洪遵罷免さる。己丑、周葵に兼権知枢密院事を命ず。主管馬軍司公事張守忠を遣わし兵を以て淮西に詣で、辺備を措置せしむ。庚子、太白天を経る。内外の文武官で年七十にして致仕を請わざる者は、郊祀の際に蔭補を得ざらしむることを詔す。乙巳、海・泗州の戍を徹することを命ず。丁未、雹降る。戊申、淮東の内庫坊場銭を一年蠲免す。庚戌、洪遵の端明殿学士を落とす。癸丑、江東・浙西の大水を以て、侍従・台諫・卿監・郎官・館職に対し闕失及び当今の急務を陳述せしむることを詔す。是月、内侍押班梁珂を罷めて在外宮観とし、広西提刑司を容州に移す。

八月甲寅朔、災異を以て、殿を避け膳を減ず。戊午、南丹州の莫延廩、諸蛮に逐われ来帰す。修武郎に補することを詔す。江東・浙西の守臣に命じ囲田の開決を措置せしむ。甲子、秦国大長公主薨ず。久雨を以て、繫囚を決す。庚辰、資政殿大学士賀允中を知枢密院事兼参知政事とす。辛巳、淮東の水害を受けた州県を賑恤することを詔す。張浚薨ず。壬午、魏杞らを金国通問使として派遣す。

九月甲申、内侍李珂の賜諡を罷む。甲午、江東・浙西の監司・守臣に命じ田事の措置を講明せしむることを詔す。乙未、交阯貢を入る。丁酉、贓吏の法を厳にす。辛丑、王之望を参知政事とし、権刑部侍郎呉芾を給事中兼淮西宣諭使とす。金人辺を犯す。久雨を以て、内庫の白金四十万両を出し、米を糴って貧民を賑う。壬寅、王彥師を帥いて江を渡り、昭関に軍す。癸卯、湯思退に江・淮東西路軍馬を都督せしむ。辞して行かず。乙巳、再び楊存中を同都督とし、錢端礼・呉芾を併せて都督府参賛軍事とす。宣諭司を罷む。なお国書を易えて魏杞に付す。少保・崇信軍節度使趙密の致仕を落とし、権りに殿前司職事を領せしむ。

冬十月甲寅、魏杞盱眙に至る。金の帥は国書が式の如くならざるを以て受けず、商・秦の地及び俘獲人を得んと欲し、かつ歳幣三十万を邀う。杞進むを得ず。丁卯、賀允中を罷めて資政殿大学士致仕とす。己巳、周葵に兼権知枢密院事を命じ、王之望に兼同知枢密院事を命ず。庚午、輔臣に夕べ便殿に対せしむることを詔す。丙子、大風。庚辰、京西・湖北の運糧が経由する州県の秋税を半減することを詔す。靖海軍節度使李宝を沿海駐紮御前水軍都統制とす。辛巳、金人分道して淮を渡り、劉宝楚州を棄て遁走す。

十一月乙酉、楚州知州魏勝が金軍と戦い、戦死し、州は陥落し、濠州も陥落した。王彦は昭関を放棄して逃走し、滁州もまた陥落した。丙戌、詔を下して辺境の将士を諭した。丁亥、詔を下して魏祀らに持参した礼幣をもって軍を犒労させた。魏祀は従わず、鎮江に留まって旨を待つよう命じた。再び王之望に江・淮の軍馬を督視させた。戊子、金軍の侵攻により、詔を下して郊祀を来年に改めることとした。また帰正の官民軍士を諭す詔を下した。王之望に江・淮軍馬の同都督を命じた。湯思退の都督を罷免した。陳康伯を召還した。己丑、王之望の同都督を罷免した。庚寅、楊存中に江・淮軍馬の都督を命じた。辛卯、湯思退を罷免し、まもなく尹穡・晁公武の弾劾により、観文殿大学士を落とし永州居住とし、到着前に死去した。甲午、黄榜を掲げて太学生の宮門前での伏闕を禁じた。この日、太学生張観ら七十二人が上書し、湯思退・王之望・尹穡を斬り、その党の洪適・晁公武を流罪とし、陳康伯・胡銓らを任用して大計を成すよう請願した。丙申、国信所大通事王抃を使者として周葵の書状を持たせ金軍の帥府に赴かせ、皇帝の称号を正し、叔姪の国とすること、歳貢を歳幣と改め十万を減額すること、商・秦の地を割譲すること、捕虜を返還すること(ただし反逆逃亡者は除く)を請い、誓約の条項はおおむね紹興の時と同じとした。金軍が淮南に侵攻したため、詔を下して殿を避け膳を減らした。丁酉、詔を下して日を選んで親征することとした。戊戌、少保・観文殿大学士陳康伯を尚書左僕射・同中書門下平章事兼枢密使とした。庚子、兵部侍郎胡銓・右諫議大夫尹穡を派遣して両浙に分かれ海道の措置を講じさせた。魏勝に寧国軍節度使を追贈し、諡を忠壮とした。辛丑、兵部尚書錢端禮に出身を賜い、枢密院事簽書兼徳寿宮提領とした。壬寅、詔を下して侍従・両省官は一日一度都堂に至り議事し、台諫に関わる者も会議に参加することを許した。顕謨閣学士虞允文を同簽書枢密院事とした。癸卯、王之望を派遣して江上の軍を慰労させた。甲辰、金軍が六合県を侵攻し、歩軍司統制崔皋がこれを撃退した。乙巳、錢端禮を兼権参知政事とした。丁未、顕謨閣直学士沈介を沿江制置使とした。沿江の諸州に命じて保甲を動員し渡し場を分守させた。己酉、劉宝の節鉞を剥奪し武泰軍承宣使とし、王彦の龍神衛四廂都指揮使を剥奪した。

閏月甲寅、陳康伯が入朝し、詔を下して康伯に隔日ごとの朝参を許し、肩輿で殿門まで行き、扶持を受けて殿上に昇ることを許した。丙辰、周葵を罷免した。王抃が金の二帥に会い、いずれも返書を得て帰還した。戊午、蕭琦が死去した。壬戌、詔を下して胡銓・尹穡を罷免した。丙寅、韓仲通を召還した。沈介を兵部尚書・湖北京西制置使とした。戊辰、金軍が撤退しようとしているとして、詔を下して督府に有利な機会を選んで攻撃するよう命じたが、王之望は強く反対した。乙亥、王之望を罷免した。丙子、王抃を奉使金国通問国信所参議官とし、陳康伯の返書を持たせて出発させた。丁丑、金が張恭愈を派遣して使者を迎えさせた。詔を下して台諫・侍従・両省官に楚・廬・滁・濠の四州の守臣を推挙させた。

十二月甲申、陝西路転運司を廃止した。戊子、魏杞が初めて淮河を渡った。詔を下して郊祀の大礼は至道の典故に従い、来年正月一日の上辛に改めて行うこととした。辛卯、錢端禮を参知政事兼知枢密院事とし、虞允文を同知枢密院事兼権参知政事とし、礼部尚書王剛中を枢密院事簽書とした。丙申、制書を下して言う、「先に王抃を派遣し、遠く潁濱に至り、その要約を得た。澶淵の盟誓の信義を尋ね、大遼の書題の儀礼に倣い、皇帝の称号を正し、叔姪の国とし、歳幣を十万減額し、地界は紹興の時と同じとする。互いの無辜を憐れみ、反逆逃亡者の引き渡しを行わないことを約し、帰正の士をして皆安住の心を起こさせる。重ねて数州の民がこの一時の難に遭い、老幼には離散の災いがあり、壮丁には捕縛の苦しみがあることを思い、広く赦免の恩赦を推し及ぼし、凋残の心情を少しでも慰める。辺境で兵災を受けた州軍において、逃亡した官吏を赦免しないほかは、雑犯死罪で情状軽き者は一等を減じ、その他は全て釈放せよ。」洪適らを派遣して金主の生辰を祝賀した。詔を下して呉挺に馬を買い行在に送らせた。己亥、雹が降った。壬寅、三衙・江上・荊襄諸軍の招軍を廃止した。甲辰、沿海水軍を帰還させて駐屯させた。己酉、景霊宮で朝献を行った。庚戌、太廟で朝饗を行った。

乾道元年

乾道元年春正月辛亥朔、圜丘で天地を合祀し、大赦を行い、元号を改めた。丁巳、淮西安撫韓璡を勒停・賀州編管の処分とした。庚申、錢端禮に徳寿宮使を兼ねさせた。辛酉、楊存中を召還した。通問使魏杞が燕山に到着した。丁卯、王抃が金に使いして功労があったため、五階を進めた。庚午、西北方に白気が現れた。詔を下して館職の者を順番に地方官に補任することとした。辛未、両淮の守令に民に桑を植えさせることを奨励する賞を定めた。壬申、詔を下して両浙で流民を救済した。紹興の流民が多く死亡したため、守臣徐嚞及び両県令を罷免した。癸酉、辺境の被害を受けた州軍の一年分の租税を免除した。甲戌、劉宝を果州団練副使に左遷し瓊州に安置した。乙亥、両淮招撫司及び陝西・河東宣撫・招討司を廃止した。丙子、淮西守将孔福が敵に遭遇して城を放棄した罪で誅殺され、頓遇は官を剥奪され、顔に刺青をして吉陽軍牢城に配流された。

二月庚辰朔、徳寿宮に朝見し、太上皇・太上皇后に従って四聖観に行幸した。乙酉、江・淮都督府を廃止した。官吏を派遣して両淮の州県を検査し、飢民を救済した。庚寅、雹が降った。癸巳、濠州の戍兵を藕塘に移した。庚子、楊存中を寧遠・昭慶軍節度使とした。甲辰、長雨のため、殿を避け膳を減らし、両淮の被害を受けた州県の身丁銭絹を免除し、未決囚を処断した。丁未、陳康伯が薨去し、諡を文恭とした。

三月甲寅、太白星が昼間に現れた。己未、殿に出御し通常の食事に戻した。庚申、虞允文を参知政事兼同知枢密院事とし、王剛中を同知枢密院事とした。淮西・湖北・荊襄の帥臣に命じて屯田を措置し、また榷場を再設置した。癸亥、黄祖舜が薨去した。戊辰、白気が天を横切った。己巳、諸軍の定員外の制領将佐を廃止した。乙亥、太白星が天を経過した。この春、湖南で盗賊が起こり、広東に入って州県を焼き掠めたが、官軍が討伐平定した。

夏四月庚子、金の報問使完顔仲らが入朝した。乙巳、呉璘が入朝した。

五月庚戌、呉璘を太傅とし、新安郡王に封じた。丙辰、詔を下して有司に皇后の家廟を造営させた。壬戌、詔を下して監司・帥守に弊事を研究して上奏させた。広南東・西路の監司を一つの官署に統合した。癸亥、詔を下して総領・帥・漕臣・諸軍都統制に屯田措置の提領を兼ねさせ、辺境の守臣に屯田事務を管掌させた。丁卯、詔を下して呉璘に馬綱・水路の措置を講じさせた。壬申、四川の州県の虚額銭を免除した。呉璘を改めて興元府の判官とした。乙亥、詔を下して未だ銓試を受けていない者は堂除を受けることができないこととした。丙子、李若川らを派遣して金に使いし、上尊号を祝賀した。諸路の鈐轄・都監を増設した。郴州の盗賊李金らが再び乱を起こしたため、兵を派遣して討伐捕縛した。

六月癸未の日、王剛中が薨去した。乙酉の日、詔して恭王府直講の王淮は傾邪不正にして礼経に違うあり、外任に付すべしとす。丙戌の日、翰林学士の洪適を以て簽書枢密院事と為す。戊子の日、歩軍司統制官の崔皋は奏功の冒濫を坐し、遷したる所の観察使を奪い、ただ横行三官を進め、本軍に自効せしむ。辛卯の日、武経郎の令徳を以て安定郡王と為す。壬辰の日、淮南転運判官の姚岳が境内の飛蝗自死を言上したるを以て、一官を奪い之を罷む。丙申の日、両淮の守令の労徠安集効無きを以て、詔を下して戒飭し、仍て詔を守令の治所に置く。壬寅の日、広東の残破郡県の税賦を蠲免す。甲辰の日、湖北・京西制置司を罷む。

秋七月辛亥の日、詔して知州年七十以上なる者は宮観を与ふ。癸丑の日。輔臣、選徳殿に晩対し、御坐の後に大屏あり、諸道の監司・郡守の姓名を記注す。因りて都堂に此れを視て之を書かしむ。甲寅の日、職田の租を二年間借り、以て経費を裨益す。己未の日、当二銭を鋳造す。己巳の日、関外四州の民の今年の租税及び湖南の賊蹂躙せし郡県の夏税を蠲免す。

八月己卯の日、永豊圩の田を以て建康都統司に賜う。癸未の日、李金を捕獲す。乙酉の日、詔して子の愭を立てて皇太子と為す。丁亥の日、虞允文を罷む。戊子の日、大赦を行ふ。己丑の日、洪適を以て参知政事兼権知枢密院事と為し、吏部侍郎の葉顒を簽書枢密院事兼権参知政事と為す。庚寅の日、知州軍・諸路総管鈐轄都監の辞見の法を立てる。癸巳の日、銭端礼は東宮親嫌を避くるを以て、罷めて資政殿大学士・提挙万寿観と為す。戊戌の日、吏部侍郎の章服は虞允文の阿附を論ずるを以て罷め、汀州に謫居せしむ。

九月乙卯の日、広国夫人の銭氏を立てて皇太子妃と為す。丁巳の日、百司官の出入局の制を厳しく申す。丁卯の日、鼎州を常徳府に昇格す。甲戌の日、端明殿学士の汪澈を以て知枢密院事と為し、洪適を兼ねて同知枢密院事と為す。乙亥の日、沿淮諸州都巡検を置く。

冬十月己卯の日、方滋等を遣わして金に使いせしめ、正旦を賀す。戊子の日、頭子銭を増す。帰正人の右通直郎の劉蘊古は軍器の法式を北境に送るを坐し、誅に伏す。壬辰の日、大慶殿に御し、皇太子を冊立す。癸巳の日、徳寿宮に詣でて称謝す。乙未の日、詔して侍従各々知る所の宗室一二人を挙げしむ。丁酉の日、金は高衎等を遣わして来たり会慶節を賀す。乙巳の日、淮北の紅巾賊、淮を逾えて劫掠す。賞を立てて之を討捕せしむ。已にして楚州知州の胡明が巡尉を遣わして其の首の蕭栄を撃殺せしむを知る。

十一月辛亥の日、両淮の流散忠義人を招收す。丙寅の日、白気天に亙る。辛未の日、龍大淵を遣わして両淮を撫諭し、屯田を措置し、盗賊の督捕を為さしむ。

十二月戊寅の日、洪适を以て尚書右僕射・同中書門下平章事兼枢密使と為し、汪澈を枢密使と為す。命じて広東提刑司に李金の余党を招安せしむ。癸未の日、王曮等を遣わして金主の生辰を賀す。康寅の日、葉顒を以て参知政事兼同知枢密院事と為す。辛卯の日、詔して侍従・台諫・両省に監司・郡守に堪ふる者各一人を挙げしめ、三衙・知閣に材武辺を守るに可き者一人を挙げしむ。庚子の日、両淮諸州の権摂官を罷む。壬寅の日、金は烏古論忠弼等を遣わして来たり明年の正旦を賀す。癸卯の日。詔して枢密院の文書は三省の式に依り、中書門下を経て画黄書読せしむ。

乾道二年

二年春正月辛酉の日、六合の戍兵を省き、以て墾きたる田を復業の民に給還す。辛未の日、命じて湖南の監司に寇盗残破の郡県を存恤せしむ。

二月丁丑の日、盱眙の屯田を罷む。両浙・江東の饑饉を振恤す。戊寅の日、玉津園に幸して宴射し、遂に龍井に幸す。

三月乙巳の日、京西・利州路の保勝義士への科役を禁ず。壬子の日、詔して刑獄官を戒飭す。戊午の日、殿中侍御史の王伯庠、奏薦の裁定を請う。詔して三省・台諫に集議せしめ、条式を具えて以て聞かしむ。詔して曰く「県令非ずして両任せざれば、監察御史を除くこと毋れ。守臣を任ぜざれば、郎官を除くこと毋れ。令と為して著す」と。丁卯の日、礼部進士の蕭国梁以下四百九十三人に及第・出身を賜ふ。戊辰の日、再び諸州軍の離軍添差員闕を増す。辛未の日、洪适の右僕射を罷む。癸酉の日、給事中・権吏部尚書の魏𣏌を以て同知枢密院事兼権参知政事と為す。丁丑の日、和糴を罷む。

夏四月戊寅の日、久雨を以て、命じて侍従・台諫に刑政の宜き所を議して以て聞かしむ。大理・三衙・臨安府及び浙西州県の雑犯死罪以下の囚を一等減じ、杖以下の者を釈放す。庚辰の日、詔して両浙漕臣の王炎に平江・湖・秀の囲田を開かしむ。辛巳の日、殿を避け膳を減ず。甲申の日、太白昼に見ゆ。癸巳の日、殿に御し膳を復す。乙未の日、汪澈を罷む。丁酉の日、知荆南府の李道が戚里を憑恃し妄作するを以て、之を罷む。

五月戊申の日、張燾薨ず。己酉の日、権借職田を罷む。庚戌の日、葉顒を罷む。魏𣏌を以て参知政事と為し、右諫議大夫の林安宅を同知枢密院事兼権参知政事と為し、中書舎人の蔣芾を簽書枢密院事と為す。癸丑の日、太白昼に見え、天を経る。浙西の囲田修築を禁ず。建康行宮の修建を罷む。丁卯の日、命じて監司・守臣に水旱を預備せしむ。

六月甲戌の日、両浙路提挙市舶司を罷む。詔して諸路の監司・帥臣各々守令の臧否を察して以て聞かしむ。丙子の日、刑部、『乾道新編特旨断例』を上る。戊寅の日、詔して制科は権て注疏の出題を罷め、守臣・監司も亦た解送を許す。庚辰の日、孫の挺を封じて福州観察使・栄国公と為し、攄を左千牛衛大将軍と為す。癸未の日、詔して使相は文資を奏補すること毋れ。七色の補官人は任子すること毋れ。堂吏の朝議大夫への遷転は五員を以て額と為す。乙酉の日、内外の牒式法を厳しく申し、其の額を裁減す。丙戌の日、永豊圩を廃す。戊戌の日、詔して改官人は実歴知県一任を経て、方に許して関升す。定式と為して著す。

秋七月己酉の日、泉州左翼軍二千人を調発して許浦鎮に屯せしむ。甲寅の日、鎮江都統制の戚方を以て武当軍節度使と為す。

八月辛未朔(一日)、詔して両淮に鉄銭を行い、銅銭は江北を過ぐることなからしむ。癸酉(三日)、武鋒軍を歩軍司に隷せしむ。甲戌(四日)、任子年三十にして免試参選を得るの令を罷む。丁丑(七日)、淮南の放帰せしむる万弩手の差役を二年間蠲免す。壬午(十二日)、詔して諸州の守臣に禁軍の訓練を兼ねしむ。癸未(十三日)、会子・交子を鎮江・建康の務場に降し、江・淮の人に令して対換せしむ。丙戌(十六日)、林安宅、葉顒の子の金を受くること失実なるを劾し、之を罷む。丁亥(十七日)、詔して安宅を筠州居住とす、温州に大水有り。戊子(十八日)、魏杞を以て同知樞密院事を兼ねしめ、蔣芾を権参知政事とす。葉顒を召す。庚寅(二十日)、少保・新興郡王吳蓋薨ず。甲午(二十四日)、中興以来十三箇所の戦功格目を立てる。乙未(二十五日)、詔して吳璘をして復た興州を判せしむ。丙申(二十六日)、宣州を升して甯國府と為す。戸部諸路の歳糴を一年間罷む。

九月甲辰(四日)、上元県知事李允升、贓を犯し死を貸さる、杖脊刺面し、惠州牢城に配し、其の資を籍没す。丙午(六日)、建康守臣王佐、允升を縱して去官するに坐し、三官を奪ひ勒停・建昌軍居住とす。余の按ずるを失ひし官吏及び薦挙官、官を奪ふこと差有り。辛亥(十一日)、官を遣はして温州の水災を按視せしめ、貧民を振ひ、繫囚を決す。乙卯(十五日)、詔して大曆を改造す。辛酉(二十一日)、子恪を追封して邵王と為し、諡して悼肅と曰ふ。甲子(二十四日)、詔して監司は各其の部内の知県・県令二三人を挙げ、守臣は各其の属県の一二人を挙げしむ。己巳(二十九日)、魏𣏌等、神宗・哲宗・徽宗三朝の『帝紀』及び『太上皇聖政』を上る。太白昼に見ゆ。是の月、詔して将帥を挙げしめ、章奏簿を置く。

冬十月癸酉(三日)、『太上皇聖政』を徳壽宮に上る。乙亥(五日)、薛良朋等を遣はして金に使し正旦を賀せしむ。己卯(九日)、饒州の歳貢金を三分の一減じ、諸路の酒坊の逋賦を蠲免す。戊子(十八日)、峡州知事呂令問、贓吏夷陵県知事韓贄胄を縱して去官するに坐し、二官を奪ひ、鄂州居住とす。辛卯(二十一日)、雹を雨らす。金、魏子平等を遣はして来たり会慶節を賀す。

十一月丙午(七日)、楊存中薨ず。己酉(十日)、内蔵及び南庫の銀を尽く出して以て会子を易へ、官司並びに銭銀を以て支遣し、民間は便に従はしむ。両淮総領所に許して自ら会子を造らしむ。諸路の営田を鬻ぐ。壬子(十三日)、詔して祥曦殿記注を修せしむ。乙卯(十六日)、密詔を四川制置使汪應辰に下す:吳璘起たざるに如くは、其の宣撫使牌印を収め、権に行ひ職事を主管せしむ。甲子(二十五日)、大いに閲す。戊辰(二十九日)、郢州の城を築く。是の月、詔して冗兵を汰ふ。

十二月庚午朔(一日)、白気天に亙る。癸酉(四日)、詔して三省・侍従・台諫・両淮漕臣・郡守に、両淮の鉄銭・交子の利害を条具して以て聞かしむ。乙亥(六日)、梁克家等を遣はして金主の生辰を賀せしむ。己卯(十日)、資政殿学士葉顒を以て知樞密院事と為す。辛巳(十二日)、詔して『欽宗日曆』の進呈を免じ、国史院に送り実録を修纂せしむ。壬午(十三日)、楊存中を追封して和王と為す。甲申(十五日)、葉顒を尚書左僕射と為し、魏杞を右僕射と為し、並びに同中書門下平章事兼樞密使とす。蔣芾を参知政事とし、吏部尚書陳俊卿を同知樞密院事兼権参知政事とす。庚寅(二十一日)、詔して宰相に兼ねて国用使を領せしめ、参知政事に国用事を同知せしむ。癸巳(二十四日)、詔して監司・守臣に廉吏を挙げしむ。丙申(二十七日)、金、烏古論元忠等を遣はして来たり明年正旦を賀す。江東兵馬鈐轄王抃を以て帯禦器械と為す。

是の歳、内外の軍額を裁定す。