宋史

本紀第二十四 高宗一

高宗受命中興全功至徳聖神武文昭仁憲孝皇帝、諱は構、字は徳基、徽宗の第九子、母は顕仁皇后韋氏という。大観元年五月乙巳、東京の大内に生まれる、赤光室を照らす。八月丁丑、名を賜い、定武軍節度使・検校太尉を授けられ、しょく国公に封ぜられる。二年正月庚申、広平郡王に封ぜられる。宣和三年十二月壬子、康王に進封される。資性朗悟にして、博学強記、読書日に千余言を誦し、挽弓一石五斗に至る。宣和四年、始めて冠し、外第に出る。

靖康元年

靖康元年春正月、金人京師を犯し、軍を城西北に於いて、使を遣わし城に入り、親王・宰臣を邀えて軍中に和を議せしむ。朝廷方に同知枢密院事李棁等を遣わし金に使し、太原・中山・河間の三鎮を割き、宰臣を遣わして地を授け、親王をして大軍を送りて河を渡らしめんと議す。欽宗帝を召して旨を諭す、帝慷慨として行くを請う。遂に少宰張邦昌を計議使と為し、帝と俱にす。金帥斡離不之を軍中に留むること旬日、帝意気閑暇なり。

二月、会に京畿宣撫司都統制姚平仲夜襲して金人の砦を克たず、金人責を見る、邦昌恐懼涕泣す、帝動かず、斡離不之を異とし、更に粛王を請う。癸卯、粛王軍中に至り、三鎮の地を割くことを許す。邦昌を太宰に進め、質として軍中に留め、帝始めて還るを得。金兵退き、復た給事中王雲を遣わし金に使し、租賦を以て三鎮の地を贖わしむ。又蠟書を以て遼の降将耶律余睹を結ぶ、金人の得る所と為る。

八月、金帥粘罕復た兵を引きて深入し、太原を陥とす。斡離不真定を破る。

冬十月、王雲の従吏金より先に還り、言う金人須らく帝の再び至るを以て乃ち和を議すと。雲帰り、言う金人堅く地を得んと欲し、然らずんば、兵を進めて汴都を取らんと。

十一月、詔して帝をして河北に使せしめ、袞冕・玉輅を奉じ、金主を伯と尊び、上尊号十八字す。命を受け、即ち京師を発つ。門下侍郎耿南仲を以て和議を主と為し、俱にするを請う、乃ち其の子中書舎人延禧を参議官と為し偕に行かしむ。帝滑・浚より磁州に至る、守臣宗澤請うて曰く「粛王去りて返らず、金兵已に迫る、復た去ること何の益かあらん。磁に留まるを請う」と。磁の人雲の将に帝を挟みて金に入らんとするを以て、遂に雲を殺す。時に粘罕・斡離不已に兵を率いて河を渡り、相継いで京師を囲む。従者磁に留まるべからずと以てし、相州知州汪伯彦も亦蠟書を以て帝の相州に還るを請う。

閏月、耿南仲馳せて相に至り、帝を見て辞を致し、面して欽宗の旨を受け、尽く河北の兵を起こして入衛せしむ、帝乃ち南仲と同しく兵を募りて王に勤む。初め、朝廷金兵の河を渡るを聞き、帝を拜して元帥と為さんと欲す。是に至り、殿中侍御史胡唐老復た元帥の議を申し、尚書右僕射何㮚詔書を擬して以て進む、欽宗閣門祗候秦仔を遣わし蠟詔を以て相に至らしめ、帝を拜して河北兵馬大元帥と為し、中山府知事陳亨伯を元帥と為し、汪伯彦・宗澤を副元帥と為す。仔頂髪の中より詔を出だす、帝之を読んで嗚咽す、兵民感動す。

十二月壬戌朔、帝大元帥府を開く、兵万人有り、五軍に分かち、武顕大夫陳淬を命じて都統制軍馬と為す。閣門祗候侯章蠟書を齎して京師より至る、詔して帝に尽く河北の兵を発せしめ、守臣をして自ら将とせしむ。帝乃ち諸郡守と諸将に下令し、兵を引きて河を渡るを議す。乙亥、帝兵を率いて相州を離る。丙子、氷を履いて河を渡る。丁丑、大名府に次ぐ。宗澤二千人を以て諸軍に先んじて至り、信徳府知事梁揚祖三千人を以て継いで至り、張俊・苗傅・楊沂中・田師中皆麾下に在り、兵威稍く振るう。会に簽書枢密院事曹輔蠟詔を齎して至り、云う金人城に登りて下らず、方に和好を議し、兵を近甸に屯し、軽く動く毋れと。汪伯彦等皆和議を信じ、惟だ宗澤澶淵に直趨して壁と為し、次第に京城の囲みを解かんことを請う。伯彦・南仲軍を東平に移すを請う。帝遂に澤を遣わし万人を以て進み澶淵に屯し、揚言して帝軍中に在りとす。是より澤復た府中の謀議に預からず。帝決意して東平に趨く。庚寅、帝大名を発つ。

建炎元年

建炎元年春正月癸巳、帝東平に至る。初め、帝軍相州に在り、京城囲まるること久しく、中外帝の処を知る莫し。是に及び、陳請四より集まり、決するに帥府を取る。壬寅、高陽関路安撫使黄潜善・総管楊惟忠も亦兵数千を部し東平に至る。潜善を命じて進み興仁に屯し、惟忠を留めて元帥都統制と為す。金人帝の澶淵に在るを聞き、甲士及び中書舎人張澂を遣わし来たりて召す。宗澤壮士を命じて之を射しめ、澂乃ち遁る。伯彦等帝の濟州に如くを請う。

二月庚辰、東平を発つ。癸未、濟州に次ぐ。時に帥府の官軍及び群盗来帰する者百万と号し、濟・濮諸州府に分屯し、而して諸路の勤王兵進むを得ず。二帝已に金人の軍中に在り。

三月丁酉、金人張邦昌を立てて帝と為し、大楚と称す。黄潜善以て告ぐ、帝慟哭す、僚属帝を奉じて軍を宿州に駐め、江左に渡らんと謀る、帝三軍籍籍たるを聞き、遂に輒す。制を承けて宗澤を徽猷閣待制と為す。丁巳、斡離不師を退く、徽宗北遷す。戊午、制を承けて汪伯彦を顕謨閣待制と為し、元帥を充て、潜善を徽猷閣待制と為し、副元帥を充つ。

夏四月、粘罕(ニエンハン)は軍を退き、欽宗は北へ遷された。癸亥の日、邦昌は元祐皇后を宋太后と尊称し、人を済州に遣わして帝を訪ねさせ、また吏部尚書謝克家を派遣して迎えさせた。耿南仲は幕僚を率いて即位を勧め、帝は座を避けて涙を流し、辞退して受けなかった。伯彦らは天命と人心を引き合いに出して請願し、かつ靖康という紀元が、十二月に康王を立てる兆しであると述べた。帝は言った、「改めて考えるべきである」と。淮寧府知事趙子崧を宝文閣学士・元帥府参議官・東南道総管とし、東南の勤王兵を統率させた。邦昌は閣門宣賛舎人蔣師愈らを派遣して書を持たせ帝のもとに赴かせ、自ら権宜に従って事を成し、やがて宝器を帰し位を避ける意向を述べた。帝もまた諸将帥に書を送り、京に至るを得ず、既に至った者は軽々に入城しないよう命じた。資政殿大学士・開封府事を兼ねる李綱が湖北にいることを聞き、劉默を派遣して書を持たせ訪ねさせた。また宗澤らに諭し、偽りの命令を受けた者は義として誅討すべきであるが、事が権宜から出たことを考慮し、軽々しく動くべきではないとした。澤は返書で、邦昌のさんさんだつと乱行の跡はもはや疑う余地がなく、早く天子の位を正し、社稷を興復すべきであり、断行しないわけにはいかないと述べた。門下侍郎呂好問もまた蠟書を持って来て、帝が自ら立たなければ、立つべからざる者が立つ恐れがあると述べた。丁卯の日、謝克家が「大宋受命之宝」を持って済州に到着し、帝は慟哭して跪いて受け取り、克家に命じて京師に戻り、儀式の器物の準備を急がせた。戊辰の日、済州の父老が軍門に詣で、州の四方から城中に天に連なる火光が見えたと言い、帝に済州で即位するよう請願した。ちょうど宗澤が来て言うには、南京は藝祖(太祖)が王業を興した地であり、四方の中心を取る地で、漕運も特に容易であると。そこで応天府に向かうことを決意した。この夜、邦昌は手書をしたためて延福宮の太后の尊号を元祐皇后とし、禁中に入居させ、尚書左丞馮澥を奉迎使とした。皇后もまた兄の子である衛尉少卿孟忠厚に手書を持たせて帝に送らせた。皇后は簾を垂れて政務を聴いた。邦昌は権尚書左僕射となり、在京の百官を率いて上表して即位を勧めたが、許されなかった。甲戌の日、皇后は手書を中外に告げ、帝に統を嗣がしめた。乙亥の日、百官が再び上表したが、また許されなかった。丁丑の日、馮澥らが済州に到着し、百官が三度上表し、権をもって国事を聴くことを許された。戊寅の日、宗澤に命じて先に兵を率いさせ長垣・韋城などの県に分駐させ、非常事態に備えさせた。東道副総管朱勝非が済州に到着し、宣撫司統制官韓世忠が兵を率いて来て合流した。庚辰の日、帝は済州を出発し、鄜延副総管劉光世が陝州から来て合流し、光世を五軍都提挙とした。辛巳の日、単州に宿営した。壬午の日、虞城県に宿営した。西道都総管王襄が襄陽から来て合流した。癸未の日、応天府に到着した。皇后は有司に詔して法駕と儀仗を準備させた。乙酉の日、張邦昌が到着し、地に伏して慟哭し死を請うたが、帝は慰め労った。制を承けて汪伯彦を顕謨閣直学士とし、黄潜善を徽猷閣直学士とした。権吏部尚書王時雍らが乗輿と服御の品々を奉じて到着し、群臣の即位勧誘がますます多くなり、有司に命じて府門の左に壇を築かせた。

五月庚寅朔(一日)、帝は壇に登り天命を受け、礼儀が終わると慟哭し、遥かに二帝に謝し、府治において即位した。元号を建炎と改める。大赦を行い、常赦で赦されない者もすべて赦免した。張邦昌および金国に供奉した者については、一切問わない。西京留守司に命じて祖宗の陵寢を修復奉祀させる。天下の神霄宮を廃止する。青苗銭の貸付を停止する。節を守って死した者および王事に殉じた者にはすべて恩典を推し及ぼす。使節として未だ帰還せざる者は、その家に一年分の俸禄を与える。選人たる者はすべて資格に従い、すでに承直郎に属する者は次等の京官に改める。臣僚で乱により官を去った者は、一か月の期限で任に戻る。潰兵・群盗はすべて自新を許す。官に属する負債を免除し、南京および元帥府常駐軍が一月以上駐留した州県の夏税を免除する。応天府の特奏名挙人はすべて同進士出身とし、免解人は省試免除とする。諸路の特奏名で三回以上挙げられた者および宗室でかつて貢挙に預かった者は、すべて恩典を推し及ぼす。勤王のために募兵した者は兵を州県の主兵官に付し、行在に赴くことを聴す。中外の臣庶は民間の疾苦を言うことを許し、たとえ誹謗中傷でも罪に問わない。命官の犯罪については、もはや特旨を取って裁断しない。蔡京・童貫・朱勔・李彦・孟昌齢・梁師成・譚稹およびその子孫は、もはや任用しない。内外の大臣は十日を期限に、それぞれ布衣で材略ある者一人を推挙せよ。その他は故事の通り。黄潜善を中書侍郎とし、汪伯彦を同知枢密院事とする。元祐皇后は東京におり、この日簾を撤す。辛卯(二日)、遥かに乾龍皇帝を孝慈淵聖皇帝と尊び、元祐皇后を元祐太后と尊ぶ。詔して史官に宣仁聖烈皇后の誣謗を弁明させる。景霊宮を江寧府に築く。壬辰(三日)、張邦昌を太保・奉国軍節度使・同安郡王とし、五日ごとに都堂に赴き大事を参決させる。河東・北宣撫使范訥を京城留守とする。癸巳(四日)、遥かに帝の母韋賢妃を宣和皇后と尊び、遥かに嘉国夫人邢氏を皇后に立てる。耿南仲を罷免する。甲午(五日)、李綱を尚書右僕射兼中書侍郎とし、行在に急ぎ赴かせ、楊惟忠を建武軍節度使とし、殿前司公事を主管させる。諸盗および民兵で統制となった者を罷め、その士馬を選んで五軍に隷属させる。乙未(六日)、誕生日を天申節とする。馮澥を罷め、兵部尚書呂好問を尚書右丞とする。中軍統制馬忠・後軍統制張昪に命じ、兵一万人を率いて河間府に急行し金人を追襲させる。丙申(七日)、呂好問を門下侍郎を兼ねさせる。丁酉(八日)、黄潜善を御営使を兼ねさせ、汪伯彦をその副とし、真定府路副総管王淵を都統制とし、鄜延路副総管劉光世を行一行事務提挙とする。王時雍を黄州に安置する。統制官薛広・張瓊に命じ、兵六千人を率いて河北の山水寨義兵と会し、共に磁・相を回復させる。戊戌(九日)、資政殿学士路允迪を京城撫諭使とし、龍図閣学士耿延禧をその副とする。吏部侍郎李若水に観文殿学士を贈り、諡を忠湣とする。己亥(十日)、太学生陳東を行在に召す。李綱は江寧に至り、叛卒周徳らを誅す。庚子(十一日)、詔す:靖康の大臣が主和して国を誤ったことを以て、李邦彦を責めて建寧軍節度副使とし、潯州に安置し、呉敏を柳州に移し、蔡懋を英州に移す。李棁・宇文虚中・鄭望之・李鄴は皆金に使いして割地を請うたことを以て、広南諸州を責めて並びに安置する。辛丑(十二日)、詔して張邦昌は機を知り変に達し、勲は社稷にあり、文彦博の例の如く、月に二度都堂に赴かしむ。壬寅(十三日)、後宮潘氏を賢妃に封ずる。江・淮発運使梁揚祖を以て東南茶塩事を提領せしむ。癸卯(十四日)、天申節、百官の上寿を罷む。乙巳(十六日)、諸路の勤王兵で営に還る者に銭を賜い、人三千。丙午(十七日)、宣仁聖烈皇后を誣謗したことを以て、蔡確・蔡卞・邢怒・蔡懋の官を追貶する。保静軍節度使姚古を以て河南府知府とす。金人、河中府を陥とす、権府事郝仲連死す。丁未(十八日)、徽宗、燕山府に至る。庚戌(二十一日)、宗沢を龍図閣学士・襄陽府知府とす。壬子(二十三日)、張邦昌を太傅に進む。丙辰(二十七日)、監察御史張所を罷め、尋いで江州に責めて安置す。丁巳(二十八日)、詔して成都・京兆・襄陽・荊南・江寧府・鄧・揚の二州に資糧を儲え、城塁を修め、以て巡幸に備えしむ。簽書枢密院事張叔夜はかつて京城を援け力戦し、徽宗に従って北行したことを以て、遥かに観文殿大学士・醴泉観使に命ず。戊午(二十九日)、右諫議大夫范宗尹を罷む。太常少卿周望を使いとして河北軍前に遣わし二帝に通問せしむ。西道総管王襄・北道総管趙野、勤王に稽緩した罪に坐し、並びに分司とし、襄陽府・青州に居住す。尋いで王襄を永州に、趙野を邵州に責め、並びに安置す。

六月己未朔、李綱が入朝して謁見し、十の議を上奏した。国是・巡幸・赦令・僭逆・偽命・戦・守・本政・責成・修徳である。以前の殿前副都指揮使王宗濋が衛兵を率いて遁走し、都城の失守を招いた罪により、官を責められ邵州に安置された。徽猷閣直学士徐秉哲に資政殿学士を仮授し、大金通問使としたが、秉哲は辞退した。庚申、靖康軍節度使仲湜を封じて嗣濮王とした。粘罕は雲中に還って駐屯した。辛酉、新任の郎官で未だ上殿していない者を全て引見して対面させることを命じた。御史中丞顔岐を罷免した。徐秉哲は官を責められ梅州に安置された。詔して河北・京・陝・淮・湖・江・浙の州軍県鎮に人を募り城壁を修築させた。壬戌、登聞検鼓院を設置した。癸亥、黄潜善を門下侍郎兼権中書侍郎とした。張邦昌は僭逆の罪に坐し、責められて昭化軍節度副使に降格、潭州に安置された。及び偽命を受けた臣僚:王時雍は高州、呉開は永州、莫儔は全州、李擢は柳州、孫覿は帰州に、それぞれ安置された。顔博文・王紹以下は罪に応じて処罰の差があった。懐州知州霍安国・河東宣撫使劉韐が節を守って死んだことを以て、安国に延康殿学士を、韐に資政殿大学士を追贈した。甲子、李綱に兼ねて御営使を命じた。乙丑、龍神衛四廂都指揮使馬忠を河北経制使とし、民兵を措置させた。洪芻を左諫議大夫から罷免し、台獄に下した。丁卯、祠部員外郎喻汝礪を四川撫諭とし、漕運の余剰銭及び常平銭物を監督させた。開封・諸州・軍・府の司録曹掾官を廃止した。州・軍の通判が二員の場合はその一員を省いた。宰執の俸禄賜与を一時的に三分の一減らした。諸路の提挙常平司、両浙・福建の提挙市舶司を省いた。賊の李孝忠が襄陽を寇し、守臣の黄叔敖は城を棄てて遁走した。馬を買う基準を定めた。辛未、子の旉が生まれたことを以て、大赦を行った。天下の神霄宮の銭穀を籍没して経費に充てた。天下の職田銭を没収して提刑司に隷属させた。元祐党籍及び上書人の恩典を回復した。癸酉、詔して陝西・山東諸路の帥臣に軍民を団結させ、互いに応援させる。乙亥、諸県の弓手を増員し、武尉を置いてこれを統率させた。宗室の叔向が募った勤王兵を京師に駐屯させたが、変を為すとの言があり、劉光世に命じて捕らえ誅殺させた。戊寅、汪伯彦を知枢密院事とした。宣義郎傅雱を河東軍前に派遣し、二帝に通問させた。己卯、沿河・沿淮・沿江に帥府十九、要郡三十九、次要郡三十八を設置し、帥守は兼ねて都総管とし、守臣は兼ねて鈐轄・都監とし、総計で軍九十六万七千五百人を置いた。別に水軍七十七将を置き、江・淮諸路で舟を造らせた。三省・枢密院に賞功司を設置した。東京留守范訥は節鉞を落とされ、淄州に居住させられた。庚辰、二帝が未だ還らぬことを以て、州県に楽を用いることを禁じた。辛巳、沿河に巡察六使を設置した。壬午、戸部尚書張愨を同知枢密院事兼提挙措置戸部財用とした。癸未、呂好問を罷免した。甲申、尚書戸部右曹の管掌する事を左曹に併せ、尚書に総領させた。乙酉、宗沢を東京留守、杜充を北京留守とし、監司州郡の職田を廃止した。丙戌、詔して陝西・河北・京東西路に兵十万を募り、交代で行在に入衛させる。京東・西路に戦車を造らせることを命じた。丁亥、張所を河北西路招撫使とした。官民の馬を買い上げ、財を出して国を助けるよう勧めた。戊子、銭蓋を陝西経制使とし、趙懷恩を封じて安化郡王とし、これにより五路の兵を行在に赴かせるよう召し寄せた。

秋七月己丑朔、枢密副都承旨王𤫉を河東経制使とした。庚寅、詔して王淵・劉光世・統制官張俊・喬仲福・韓世忠に分かれて陳州の軍賊杜用・京東の賊李昱及び黎驛・魚台の潰兵を討伐させ、皆これを平定した。辛卯、東南諸州の神霄宮及び贍学銭を籍没して国用を助けた。叔父の右監門衛大将軍・貴州団練使士珸が磁・洺の義兵を率いて洺州を回復した。乙未、温州観察使范瓊を定武軍承宣使・御営司同都統制とした。丙申、諸路の強壮巡社に「忠義巡社」の名を賜い、専ら安撫司に隷属させた。戊戌、欽宗が燕山府に至った。忻州観察使張昪を河北制置使とした。東都の宣武卒杜林が成都を占拠して叛こうと謀り、誅殺された。己亥、詔して台省・寺監は繁簡を兼ね合わせ、学官・館職は旧制の半分に減らす。辛丑、呉開・莫儔等十一人の罪を再議し、共に広南・江・湖諸州に安置し、その他は差等を以て順次貶した。壬寅、詔して「元祐太后を奉じて東南に赴かせ、六宮及び衛士の家属は従って行く。朕は独り中原に留まり、金人と決戦する」と。延康殿学士許翰を尚書右丞とした。甲辰、右諫議大夫宋齊愈は金人が異姓を立てようと謀った際に張邦昌の姓名を書いた罪により、都市で斬刑に処せられた。乙巳、手詔して「京師には未だ往くべからず、東南に巡幸すべし」と。丙午、詔して南陽への巡幸を定議する。観文殿学士范致虚を鄧州知州とし、城池を修め、宮室を繕い、銭穀を輸送してこれを充実させた。丁未、官を派遣して京師に詣で太廟の神主を迎え奉じ行在に赴かせた。己酉、四道都総管を廃止した。尚書虞部員外郎張浚を殿中侍御史とした。庚戌、諸道の兵を徴発し、八月に行在に会するよう期した。丙辰、徽宗が燕山より密かに閣門宣賛舎人曹勳を派遣して至らせ、帝に半臂の絹を賜い、その襟に「便ち真に即くべし、来りて父母を援けよ」と書いた。帝は泣いて輔臣に示した。張所・傅亮の軍は行在を出発した。是月、関中の賊史斌が興州を犯し、僭号して帝を称した。

八月戊午朔(一日)、洪芻らが都城包囲の日に金銀を徴発し自ら盗み、及び宮人を私かに納れた罪に坐し、洪芻及び余大均・陳沖は死刑を減じ、沙門島に流罪とし、残る五人の罪は差等あり。勝捷軍の軍校陳通が杭州にて乱を起こし、帥臣葉夢得を捕らえ、漕臣吳昉を殺す。己未(二日)、元祐太后が京師を発つ。庚申(三日)、劉光世を奉国軍節度使とし、韓世忠・張俊は皆一官を進む。辛酉(四日)、右司諫潘良貴罷免。壬戌(五日)、李綱を尚書左僕射兼門下侍郎とし、黄潛善を右僕射兼中書侍郎とし、張愨を兼ねて御営副使とす。癸亥(六日)、御営使・副に命じ五軍を大閲せしむ。庚午(十三日)、元祐太后の号を改めて隆祐太后とす。辛未(十四日)、傅亮の経制副使を罷め、行在に召し赴かしむ。壬申(十五日)、布衣譙定を行在に召し赴かしむ。御営統制辛道宗に命じ陳通を討たしむ。この夕、東北方に赤気あり。癸酉(十六日)、耿南仲が主和して国を誤ったため、南雄州に安置す。乙亥(十八日)、張浚の言を用い、李綱の左僕射を罷む。丙子(十九日)、隆祐太后が南京を発ち、侍衛馬軍都指揮使郭仲荀に命じ江寧に護衛せしめ、兼ねて江・淮・荊・浙・閩・広諸州を節制し、東南の盗賊を制置せしむ。丁丑(二十日)、龍図閣直学士錢伯言を以て杭州を知らしめ、両浙・淮東の将兵及び福建の槍杖手を節制し、陳通を討たしむ。庚辰(二十三日)、榜を降して杭州の乱兵を招諭す。壬午(二十五日)、黄潛善の議を用い、上書した太学生陳東・崇仁の布衣歐陽澈を殺す。乙酉(二十八日)、兵部員外郎江端友らを遣わし閩・浙・湖・広・江・淮・京東西諸路を撫諭せしめ、及び官吏の貪廉・軍民の利病を体訪せしむ。許翰罷免。丁亥(三十日)、博州の卒宮儀が乱を起こし、萊州を犯す。

九月己丑(二日)、建州の軍校張員らが乱を起こし、守臣張動を捕らえ、転運副使毛奎・判官曹仔は殺され、城に拠って自ら守る。范瓊が復州にて李孝忠を捕らえ斬る。壬辰(五日)、金人が河陽・汜水を犯したため、詔して日を選び淮甸に巡幸することを命ず。建炎通宝銭を鋳造す。淮・浙の沿海諸州に命じ城壁を増修し、民兵を招訓し、以て海道に備えしむ。甲午(七日)、揚州守臣呂頤浩に命じ城池を繕修せしむ。宗澤が河北に往き師を視、七日にして還る。この夜、辛道宗の兵が嘉興県にて潰える。丁酉(十日)、詔して荊襄・関陝・江淮は皆巡幸に備えしむ。戊戌(十一日)、買馬を罷む。己亥(十二日)、子の旉を検校少保・集慶軍節度使とし、魏国公に封ず。詔して内外の官司に嘉祐・元豊の敕を参用せしめ、以て新書を俟つ。庚子(十三日)、二帝が霫郡に徙居す。辛丑(十四日)、陳通が提点刑獄周格の営を劫い、格を殺し、提点刑獄高士曈を捕らう。壬寅(十五日)、徽猷閣待制孟忠厚を遣わし太廟の神主を迎え奉り揚州に赴かしむ。直秘閣王圭を以て招撫判官とし、張所に代え、尋いで所を責め広南に安置す。乙巳(十八日)、宗澤が表を上し車駕の還闕を請う。戊申(二十一日)、河北招撫司都統制王彥が河を渡り金人を撃ち、これを破り、新郷県を復す。己酉(二十二日)、諜報により金人が江・浙を犯さんと欲すと聞き、詔して暫く淮甸に駐蹕し捍禦し、稍や定まり次第京闕に還らんとす。民に貲を入れて官を授くることを募る。軍賊趙萬が常州に入り、守臣何袞を捕らう。諸路の経制招撫使を罷む。庚戌(二十三日)、始めて当三大銭を淮・浙・荊湖諸路に通ず。壬子(二十五日)、湖南撫諭官馬伸に命じ詔を持ち張邦昌を潭州にて賜死せしめ、並びに王時雍を誅す。癸丑(二十六日)、詔して敢えて妄りに議し衆を惑わし巡幸を沮む者あれば、告げることを許しこれを罪し、告げざる者は斬るとす。乙卯(二十八日)、王彥が金人と戦い、敗績し、太行山に奔り衆を聚め、その裨将岳飛はその部曲を引き自ら一軍と為す。趙萬が鎮江府を陥とし、守臣趙子崧は城を棄て江を渡り、瓜洲を保つ。この秋、金人が兵を分けて両河の州県を占拠し、惟だ中山・慶源府・保・莫・邢洺・冀・磁・絳・相州は久しくして乃ち陥つ。

冬十月丁巳朔(一日)、帝舟に登り淮甸に幸す。戊午(二日)、太后揚州に至る。己未(三日)、諸路の勧誘献納銭物を罷む。庚申(四日)、諸路の潰兵忠義等人を召募すること、及び寄居官が擅に勤王兵を集めることを罷む。癸亥(七日)、群盗で能く賊衆を併せ滅ぼす者を官とすることを募る。甲子(八日)、張浚が李綱を論じ止まざるを以て、綱の観文殿大学士を落とし、只だ宮祠を奉ずるに止む。秀州知州兼権浙西提点刑獄趙叔近が杭州に入り陳通を招撫す。乙丑(九日)、帥府・要郡・次要郡の新軍及び水軍を罷む。丁卯(十一日)、王淵を杭州制置盗賊使とし、統制官張俊これに従う。庚午(十四日)、泗州に次ぎ、普照寺に幸す。甲戌(十八日)、太白昼に見ゆ。己卯(二十三日)、楚州寶應県に次ぐ。後軍の将孫琦らが乱を起こし、左正言盧臣中を逼り水に堕ちて死せしむ。庚辰(二十四日)、劉光世に命じ鎮江の叛兵を討たしむ。辛巳(二十五日)、光世を以て滁和濠州・江寧府界招捉盗賊制置使とし、御営統制官苗傅を使司都統制とす。朝請郎李棫を提挙広西左・右両江峒丁公事とす。癸未(二十七日)、揚州に至り、内侍と統兵官の相見を禁ず。丙戌(三十日)、王淵・張俊が趙萬らを誘い、悉くこれを誅す。

十一月戊子(二日)、李綱を鄂州居住とす。真定の軍賊張遇が池州に入り、守臣滕祐は城を棄て遁る。己丑(三日)、詔して雑犯死罪に疑いあるもの及び情理憫むべきものは、撫諭官が提刑司と共に情状を酌み減降し、先ず断じて後ち聞かしむ。壬辰(六日)、王倫らを金国通問使として遣わす。乙未(九日)、張愨を尚書左丞とし、工部尚書顏岐を同知枢密院事とす。丙申(十日)、応天府・毫・宿・揚・泗・楚州・高郵軍を曲赦す。丙午(二十日)、張愨を中書侍郎とす。戊申(二十二日)、顏岐を尚書左丞兼権門下侍郎とし、御史中丞許景衡を右丞とし、刑部尚書郭三益を同知枢密院事とす。権密州趙野が城を棄て遁り、軍校杜彥が州を占拠し、野を追い、これを殺す。辛亥(二十五日)、福建路に命じ弓手を増招せしむ。金人が河間府を陥とす。この月、軍賊丁進が寿春府を囲み、守臣康允之がこれを拒み卻す。

十二月丙辰朔、従臣四員を命じて講読官を充て、内殿において講読せしむ。丁巳、諸路提刑司に詔して官を選び、即ち転運司の所在する州において類省試の進士を試み、以て親策を待たしむ。辛酉、王淵、杭州に入り、陳通等を執いて誅す。壬戌、青州の敗将王定、兵を以て乱を為し、帥臣曾孝序を殺す。癸亥、粘罕、汜水関を犯し、西京留守孫昭遠、将を遣わして之を拒がしむも、戦歿す。昭遠、兵を将いて南に遁れ、尋いで部将王仔に命じて啓運宮の神禦を行在に赴かしむ。甲子、後父徽猷閣待制邢煥を改めて光州観察使に授く。乙丑、凡そ刑賞の大政は並びに三省を経るべし、其の幹請墨敕を行下する者は之を罪すと詔す。丙寅、張遇、江州を犯す。戊辰、金人、棣州を囲むも、守臣薑剛之固く守り、金兵解きて去る。甲戌、金人、同州を陥とし、守臣鄭驤之に死す。張遇、黄州を犯す。己卯、金人、汝州を陥とし、西京に入る。庚辰、金人、華州を陥とす。辛巳、潼関を破る。河東経制使王𤫉、同州より兵を引いて遁れ蜀に入る。丁進、宗澤に詣りて降る。乙酉、広西の弓手を増置して以て辺に備う。戸部尚書黄潜厚を以て延康殿学士・同提挙措置財用と為す。