宋史

本紀第二十三 欽宗

欽宗恭文順徳仁孝皇帝、諱は桓、徽宗皇帝の長子、母は恭顕皇后王氏と曰う。元符三年四月乙酉、坤寧殿に生まる。初め名は亶、韓國公に封ぜられ、明年六月、京兆郡王に進封さる。崇寧元年二月甲午、名を烜と改め、十一月丁亥、また今の名に改む。大観二年正月、定王に進封さる。政和元年三月、資善堂にて講学す。三年正月、太保を加えらる。四年二月癸酉、文徳殿にて冠す。五年二月乙巳、皇太子に立てられ、天下に大赦す。丁巳、太廟を謁す。詔して金輅に乗り、鹵簿を設け、至道・天禧の故事の如くすべしとし、及び宮僚の参謁並びに臣と称することを、皆辞す。六年六月癸未、妃朱氏を納る。

宣和七年

宣和七年十二月戊午、開封牧を除く。庚申、徽宗、皇太子に位を嗣がしむることを詔し、自ら「道君皇帝」と称し、太子を禁中に入らしめ、御服を以て被す。泣涕して固く辞し、因りて疾を得。また固く辞すも、許さず。辛酉、即ち皇帝の位に即き、垂拱殿に御して群臣を見る。是の日、日に五色の暈有り、赤黄の珥を挟み、重日相蕩摩すること久し。乃ち道君皇帝を引き出して龍徳宮に出居せしめ、皇后を擷景園に出居せしむ。少宰李邦彦を以て龍徳宮使と為し、太保・領樞密院事蔡攸・門下侍郎吳敏之を副とす。是の時、金人已に分道して境を犯す。壬戌、大逆・反叛以下の罪を赦し、百官の秩一等を進め、諸軍を賞し、妃朱氏を立てて皇后と為し、太子詹事耿南仲を以て簽書樞密院事と為す。癸亥、詔して太傅燕王・越王の朝に入るに趨せず、拝を賛するに名を称せざらしむ。詔して三省・樞密院の得たる旨に非ざれば、有司行うこと勿れと。甲子、斡離不、信徳府を陥とし、粘罕、太原を囲む。詔して京東・淮西・浙に兵を募りて入衛せしむ。太学生陳東等上書し、蔡京・童貫・王黼・梁師成・李彦・朱勔の罪を数え、之を「六賊」と謂い、誅するを請う。丙寅、上、道君皇帝の尊号を教主道君太上皇帝と曰い、皇后を道君太上皇后と曰う。詔して元を改む。

靖康元年

靖康元年春正月丁卯朔、群臣の朝賀を受け、退きて龍徳宮に詣で、道君皇帝を賀す。詔して中外の臣庶に実封を以て得失を言わしむ。金人、相州を破る。戊辰、濬州を破る。威武軍節度使梁方平、師潰え、河北・河東路制置副使何灌、滑州に退きて保つ。己巳、灌奔還し、金人河を済す。詔して親征す。道君皇帝東巡し、領樞密院事蔡攸を以て行宮使と為し、尚書右丞宇文粹中之を副とす。詔して今より除授・黜陟及び恩数等の事は、並びに祖宗の旧制を参酌すべし。内外の官司・局・所一百五処を罷め、後苑を留めて止め、以て龍徳宮に奉ぜしむ。門下侍郎吳敏を以て知樞密院事と為し、吏部尚書李棁を同知樞密院事と為す。太傅致仕王黼を貶して崇信軍節度副使と為し、永州に安置す。翊衛大夫・安德軍承宣使李彦に死を賜い、並びに其の家を籍す。甯遠軍節度使朱勔を放ちて田裏に帰らしむ。帝親征せんと欲し、李綱を留守と為し、李棁を副と為す。給事中王寓、親征を諫め、之を罷む。庚午、道君皇帝亳州に如く、百官多く潜遁す。宰相、帝を奉じて襄・鄧に出さんと欲すも、李綱諫めて之を止む。綱を以て尚書右丞と為す。辛未、李綱を以て親征行営使と為し、侍衛親軍馬軍都指揮使曹曚之を副とす。太宰兼門下侍郎白時中罷む。李邦彦を太宰兼門下侍郎と為し、守中書侍郎張邦昌を少宰兼中書侍郎と為し、尚書左丞趙野を門下侍郎と為し、翰林学士承旨王孝迪を中書侍郎と為し、同知樞密院事蔡懋を尚書左丞と為す。壬申、金人河を渡り、使を遣わして諸道の兵を督し入援せしむ。癸酉、詔して両省・樞密院の官制は一に元豊の故事に遵う。金人京師を犯す。命じて尚書駕部員外郎鄭望之・親衛大夫康州防禦使高世則をして其の軍に使わしむ。詔して従官に文武臣僚に将帥に堪え胆勇有る者を挙げしむ。是の夜、金人宣沢門を攻む。李綱之を禦ぎ、百余を斬獲し、旦に至りて始めて退く。甲戌、金人呉孝民を遣わして来たり和を議す。命じて李棁をして金軍に使わしむ。金人また蕭三宝奴・耶律忠・張願恭を使わす。吏部尚書唐恪を以て同知樞密院事と為す。乙亥、金人通津・景陽等の門を攻む。李綱戦を督し、卯より酉に至り、数千級を斬首し、何灌戦死す。李棁と蕭三宝奴・耶律忠・王汭来たりて金帛数千万を索め、且つ太原・中山・河間の三鎮を割き、並びに宰相・親王を質と求む。乃ち師を退く。丙子、正殿を避け、常膳を減ず。金銀を括借し、倡優の家財を籍す。庚辰、命じて張邦昌を副とし康王構をして金軍に使わしむ。詔して金国に「大」の字を加えて称す。辛巳、道君皇帝鎮江に幸す。兵部尚書路允迪を以て簽書樞密院事と為す。金人陽武を陥とし、知県事蔣興祖之に死す。壬午、大風石を走らし、竟日にして乃ち止む。子諶を封じて大寧郡王と為す。甲申、廉訪使者の官を省き、鈔旁定貼錢及び諸州の免行錢を罷め、諸路の贍学戸絶田産を以て常平司に帰す。統制官馬忠、京西に募りたる兵を以て至り、金人を順天門外に撃ち、之を敗る。乙酉、路允迪をして粘罕の軍に河東に使わしむ。平陽府の将劉嗣初、城を以て叛く。丁亥、靖難軍節度使・河北河東路制置使种師道、涇原・秦鳳の兵を督して入援す。師道を以て同知樞密院事と為し、京畿・河北・河東宣撫使と為し、四方の勤王兵及び前後の軍を統べしむ。庚寅、盗、王黼を雍丘に殺す。癸巳、大霧四塞す。乙未、少保・淮南節度使梁師成を貶して彰化軍節度副使と為す。行きて八角鎮に及び、

死を賜う。

二月丁酉朔(一日)、都統制姚平仲に命じて兵を率い夜襲して金人の軍を襲わしむるも、克たずして奔る。戊戌(二日)、李綱を罷免して金人に謝し、親征行営司を廃す。金人復た来たりて和を議す。庚子(四日)、駙馬都尉曹晟を命じて金軍に使わしむ。辛丑(五日)、また資政殿大學士宇文虛中・知東上閣門事王球を命じて之を使わしめ、三鎮の地を割くことを許す。太學の諸生陳東等及び都民数万人、闕に伏して上書し、李綱及び种師道を復用することを請い、且つ李邦彦等が綱を疾み、其の成功を恐れ、綱を罷むるは正に金人の計に堕つとを言う。会に邦彦朝に入るや、衆其の罪を数えて罵る。吳敏宣を伝うるも、衆退かず、遂に登聞鼓を撾き、山呼地を動かす。殿帥王宗濋変の生ずるを恐れ、上に奏して勉めて之に従わしむ。耿南仲を遣わして衆に号して曰く「既に旨を得て綱を宣す」と。内侍朱拱之綱を宣する後期す、衆之を臠にして磔にし、並びに内侍数十人を殺す。乃ち綱を復して右丞と為し、京城防禦使を充てしむ。壬寅(六日)、范仲淹を追封して魏国公と為し、司馬光に太師を贈り、張商英に太保を贈り、元祐党籍学術の禁を除く。詔して士民の内侍を殺すを首と為す者を誅し、闕に伏して上書するを禁じ、苑囿宮観の民に与うべきを廃す。金人王汭を使わして来らしむ。癸卯(七日)、肅王樞を命じて金軍に使わしむ。観文殿學士・大名尹徐處仁を以て中書侍郎と為し、宇文虛中簽書樞密院事と為す。蔡懋罷む。乙巳(九日)、宇文虛中・王球復た金軍に使わしむ。康王金軍より至る。金人韓光裔を遣わして来たり辞を告げ、遂に師を退き、京師厳を解く。丙午(十日)、康王構を太傅・静江奉寧軍節度使と為す。明堂班朔布政官を省く。丁未(十一日)、日に両珥有り。戊申(十二日)、天下に赦す。詔して士民に諭し、自今庶事並びに祖宗の旧制を用いるに遵い、凡そ国を蠹し民を害するの事は一切罷め寝す。己酉(十三日)、宰執の神霄玉清萬壽宮使及び殿中監・符宝郎を兼ぬるを罷む。詔して祖宗の故事を用い、武臣の軍心を得る者を択びて同知・簽書樞密院と為し、辺将に威望有る者を三衙と為す。金人の和を請うを以て、詔して官民の昔嘗て金に附きて復た本朝に帰する者、各其の郷国に還らしむ。庚戌(十四日)、李邦彦罷む。張邦昌を以て太宰兼門下侍郎と為し、吳敏を少宰兼中書侍郎と為し、李綱を知樞密院事と為し、耿南仲を尚書左丞と為し、李棁を尚書右丞と為す。辛亥(十五日)、詔して監察御史事を言うは祖宗の法の如くす。宇文粹中罷めて江寧府を知る。癸丑(十七日)、种師道罷めて中太一宮使と為す。右正言陳瓘に右諫議大夫を贈る。甲寅(十八日)、太師致仕蔡京を貶して秘書監・分局南京と為し、太師・広陽郡王童貫を左衛上将軍と為し、太保・領樞密院事蔡攸を太中大夫・提挙亳州明道宮と為す。是に先立ち、粘罕人を遣わして来たり賂を求む。大臣勤王の兵大いに集まるを以て、其の使人を拘え、且つ余睹に約を結びて以て之を図る。是に至り、粘罕怒り、及び太原を攻めて克たず、兵を分かちて京師に趣き、南・北関を過るに、権威勝軍李植城を以て降る。乙卯(十九日)、隆徳府を陥し、知府張確・通判趙伯臻・司録張彦遹之に死す。丙辰(二十日)、二つの流星有り、一つは張宿に出でて濁に入りて没し、一つは北河に出でて軫に入る。己未(二十三日)、詔して遙郡承宣使功有りて正任を除くべき者は、自今正任刺史を除く。辛酉(二十五日)、梁方平河津を棄つるに坐し、誅に伏す。王孝迪罷む。給事中王雲・侍衛親軍馬軍都指揮使曹曚を命じて金国に使わしめ、鎮洮軍節度使・中太乙宮使种師道を河北・河東路宣撫使と為し、保静軍節度使・殿前副都指揮使姚古を制置使と為す。乙丑(二十九日)、殿に御し復た膳す。丙寅(三十日)、哀痛の詔を陝西・河東に下す。是月、金人沢州の高平を犯す。知州高世由往きて之を犒い、乃ち去る。

三月丁卯朔(一日)、徽猷閣待制宋煥を遣わして表を奉り道君皇帝の行宮に詣らしむ。詔して侍従事を言わしむ。詔して三省・樞密院の奉ぜざる所の旨に非ざれば、諸司奉行することを許さず。川路の歳に遣わす所の使を罷む。人を募りて軍民の遺骸を掩い、使を遣わし分かちて就き四郊に致祭せしむ。戊辰(二日)、李棁罷めて鴻慶宮使と為す。己巳(三日)、張邦昌罷めて中太一宮使と為す。徐處仁を太宰兼門下侍郎と為し、唐恪を中書侍郎と為し、翰林学士何㮚を尚書右丞と為し、御史中丞許翰を同知樞密院事と為す。庚午(四日)、宇文虛中罷めて青州を知る。癸酉(七日)、景霊東宮に詣りて恭謝の礼を行ふ。趙野を命じて道君皇帝行宮奉迎使と為す。甲戌(八日)、景霊西宮及び建隆観に恭謝す。乙亥(九日)、陽徳観・凝祥池・中太一宮・佑神観・相国寺に詣る。丙子(十日)、擷景園を改めて寧徳宮と為す。司馬光の後を録す。己卯(十三日)、燕王俁・越王偲を太師と為す。壬午(十六日)、詔して金人の盟に叛き深入するを以て、其の元主和議の李邦彦・奉使して地を許す李棁・李鄴・鄭望之を悉く行い罷黜す。又詔して种師道・姚古・种師中をして往きて三鎮を援けしめ、塞を保ち陵寢の所在を守り、誓って固く守らんとす。癸未(十七日)、李綱を遣わして道君皇帝を南京に迎えしめ、徐處仁を以て礼儀使と為す。殿中侍御史李擢・左司諫李会罷む。乙酉(十九日)、道君皇帝を宜春苑に迎え、太后寧徳宮に入り居す。丙戌(二十日)、中山府知事詹度を資政殿大学士と為し、太原府知事張孝純・河間府知事陳遘並びに資政殿学士と為し、沢州知事高世由を直龍図閣と為す。城守の労を賞するなり。丁亥(二十一日)、寧徳宮に朝し、詔して行宮に扈従する官吏、京に還るの日を候いて優に賞典を加え、罪有るの人の公議に迫られ已に行遣せられたるを除く外、余は台諫に令して復た前事を以て糾言せしめず。庚寅(二十四日)、肅王樞を太傅と為す。姚古隆徳府を復す。辛卯(二十五日)、威勝軍を復す。壬辰(二十六日)、太保景王杞・済王栩を太傅と為す。流星紫微垣に出づ。甲午(二十八日)、康王構を集慶・建雄軍節度使と為し、尚書戸部侍郎銭蓋を陝西制置使と為す。陳東に初品官を命じ、同進士出身を賜う。辞して拝せず。朱勔の家を籍す。乙未(二十九日)、詔して金より帰朝の官民未だ発遣せざる者は、之を止む。丙申(三十日)、蔡京を貶して崇信軍節度副使と為す。是の春、夏人天徳・雲内・武州及び河東八館を取る。

三月丁卯朔(一日)、徽猷閣待制宋煥を遣わして表を奉り道君皇帝の行宮に詣らしむ。詔して侍従事を言わしむ。詔して三省・樞密院の奉ぜざる所の旨に非ざれば、諸司奉行することを許さず。川路の歳に遣わす所の使を罷む。人を募りて軍民の遺骸を掩い、使を遣わし分かちて就き四郊に致祭せしむ。戊辰(二日)、李棁罷めて鴻慶宮使と為す。己巳(三日)、張邦昌罷めて中太一宮使と為す。徐處仁を太宰兼門下侍郎と為し、唐恪を中書侍郎と為し、翰林学士何㮚を尚書右丞と為し、御史中丞許翰を同知樞密院事と為す。庚午(四日)、宇文虛中罷めて青州を知る。癸酉(七日)、景霊東宮に詣りて恭謝の礼を行ふ。趙野を命じて道君皇帝行宮奉迎使と為す。甲戌(八日)、景霊西宮及び建隆観に恭謝す。乙亥(九日)、陽徳観・凝祥池・中太一宮・佑神観・相国寺に詣る。丙子(十日)、擷景園を改めて寧徳宮と為す。司馬光の後を録す。己卯(十三日)、燕王俁・越王偲を太師と為す。壬午(十六日)、詔して金人の盟に叛き深入するを以て、其の元主和議の李邦彦・奉使して地を許す李棁・李鄴・鄭望之を悉く行い罷黜す。又詔して种師道・姚古・种師中をして往きて三鎮を援けしめ、塞を保ち陵寢の所在を守り、誓って固く守らんとす。癸未(十七日)、李綱を遣わして道君皇帝を南京に迎えしめ、徐處仁を以て礼儀使と為す。殿中侍御史李擢・左司諫李会罷む。乙酉(十九日)、道君皇帝を宜春苑に迎え、太后寧徳宮に入り居す。丙戌(二十日)、中山府知事詹度を資政殿大学士と為し、太原府知事張孝純・河間府知事陳遘並びに資政殿学士と為し、沢州知事高世由を直龍図閣と為す。城守の労を賞するなり。丁亥(二十一日)、寧徳宮に朝し、詔して行宮に扈従する官吏、京に還るの日を候いて優に賞典を加え、罪有るの人の公議に迫られ已に行遣せられたるを除く外、余は台諫に令して復た前事を以て糾言せしめず。庚寅(二十四日)、肅王樞を太傅と為す。姚古隆徳府を復す。辛卯(二十五日)、威勝軍を復す。壬辰(二十六日)、太保景王杞・済王栩を太傅と為す。流星紫微垣に出づ。甲午(二十八日)、康王構を集慶・建雄軍節度使と為し、尚書戸部侍郎銭蓋を陝西制置使と為す。陳東に初品官を命じ、同進士出身を賜う。辞して拝せず。朱勔の家を籍す。乙未(二十九日)、詔して金より帰朝の官民未だ発遣せざる者は、之を止む。丙申(三十日)、蔡京を貶して崇信軍節度副使と為す。是の春、夏人天徳・雲内・武州及び河東八館を取る。

夏四月戊戌、夏人が震威城を陥落させ、摂知城事の朱昭がこれに死す。己亥、太上皇帝を都門に迎え入れる。壬寅、龍徳宮にて朝見す。癸卯、子の諶を立てて皇太子となす。耿南仲を門下侍郎となす。乙巳、『春秋』博士を置く。戊申、尚書省に詳議司を置き、祖宗の法を討論す。己酉、乾龍節、群臣紫宸殿にて寿を上ぐ。庚戌、趙野罷免さる。壬子、金人の使い賈霆・冉企弓来る。癸丑、太師・沂国公鄭紳を封じて楽平郡王となす。童貫を貶して昭化軍節度副使とし、郴州に安置す。宰執の俸給を三分の一減じ、支賜を半減す。詔して経筵を開くことを命ず。吏部に令して庶官を稽考せしめ、凡そ楊戩・李彦の公田、王黼・朱勔の応奉、童貫西北の師、孟昌齢の河防の役、夔しょく・湖南の開疆、関陝・河東の改幣、及び近習の引き立て、献頌が採択され、特旨により殿試に赴いたるの流、授けられた爵賞を悉く奪う。甲寅、种師道に太尉・同知枢密院事・河北河東路宣撫使を加う。乙卯、詔して今後は假日に特旨で坐朝するときも、百司は休務してはならず。平涼軍節度使范訥を以て右金吾衛上将軍となす。丙辰、詔す、奸人が妄りに金人がまた至ると言って居民を恐れ動かす者を告げる者あれば、これを賞す。戊午、南康郡王栻を進封して和王とし、平陽郡王榛を信王となす。己未、再び詩賦を以て士を取ることを復し、『荘子』『老子』及び王安石の『字説』の使用を禁ず。壬戌、詔して台諫官を親擢し、宰執は薦挙してはならず、令として定む。政和以来の道官・処士・先生に対する封贈奏補等の敕書を追う。甲子、在京の監察御史、在外の監司・郡守及び路分鈐轄已上の者に令し、かつて辺任を経たり、或いは武勇ありて衆を統べ出戦し得る者を挙げしめ、各二名。東兵正将の占沆、金人と交城県にて戦い、これに死す。乙丑、詔して三衙並びに諸路の帥司に各々辺事に諳練し、智勇人に過ぎ、並びに豪俊奇傑、衆の推服する所、統制将領に堪え得る者を各五名挙げしむ。蔡攸を貶して節度副使とし、朱勔を循州に安置す。

五月丙寅朔、龍徳宮にて朝見す。提挙官に命じ、日ごとに太上皇帝の起居平安を具して奏聞せしむ。丁卯、詔して天下に財穀を以て軍を助くる能ある者あれば、有司はその名を聞け、推恩に差等あらしむ。少傅・鎮西軍節度使余深を以て特進・観文殿大学士となす。戊辰、王安石の孔子廟庭への配享を罷む。庚午、少傅・安武軍節度使錢景臻、鎮安軍節度使・開府儀同三司劉宗元、並びに左金吾衛上将軍となす。保信軍節度使劉敷、武成軍節度使劉敏、向徳軍節度使張楙、岳陽軍節度使王舜臣、応道軍節度使朱孝孫、瀘川軍節度使錢忱、並びに右金吾衛上将軍となす。この日、寒し。辛未、銅禁を申し厳にす。詔す、出身なき待制已上の者、年三十に及び、かつ歴任実に十年を通ずる者にして初めて任子を得ることを得。監察御史余応求、言事をもって大臣に迎合するに坐し、罷めて衛州知州となす。甲戌、河北路に曲赦を施す。乙亥、銷金の禁を申し厳にす。丁丑、詔して倹約を以て天下に先んじ、冗を澄まし貪を汰ぎ、民のために害を除き、監司・郡県に授けて奉行して未だ及ばざる所、凡そ十六事。姚古、兵を将いて威勝に至るも、粘罕将に至らんとするを聞き、衆驚き潰え、河東大いに振るう。河北・河東路制置副使种師中、金人と榆次にて戦い、これに死す。己卯、外任官の職田を一年間借り上げる。開府儀同三司高俅卒す。辛巳、太官の日進の膳を減ず。高俅の官を追削す。甲申、詳議司を罷む。己丑、河東経略安撫使張孝純を以て検校少保・武当軍節度使となす。壬辰、詔して天下に武芸・兵書を習う者を挙げしむ。乙未、詔して姚古に太原を救援せしむ。

六月丙申朔、道君皇帝の還朝に因り、紫宸殿に御し、群臣の朝賀を受く。詔して諫官に闕失を極論せしむ。戊戌、中外に令して文武官で将帥に堪える才ある者を挙げしむ。時に太原囲み急なり、群臣三鎮の地を割かんと欲すも、李綱これを沮む。乃ち李綱を以て种師道に代わり宣撫使とし、太原を救援せしむ。辛丑、資政殿学士劉韐を以て宣撫副使とし、陝西制置司都統制解潛を制置副使となす。太白、歳星を犯す。壬寅、鄆国公楃を封じて安康郡王とし、韓国公楗を封じて広平郡王とし、並びに開府儀同三司となす。詔す、「今日の政令は、ただ上皇の詔書を遵奉し、祖宗の故事を修復するに在り。群臣庶士もまた孔・孟の正道を講じ、安石の旧説の当らざる所を察し、朕が志を羽翼し、以て中興を済わしむべし」。癸卯、侍衛親軍馬軍副都指揮使・鎮西軍承宣使王稟を以て建武軍節度使となす。太原を堅守したる功を録するなり。甲辰、路允迪罷めて醴泉観使となす。乙巳、左司諫陳公輔、言事をもって責められ、合州酒務を監す。壬子、天狗地に墜つ。声雷の如し。癸丑、囚を慮う。丙辰、太白・熒惑・歳星・鎮星の四星、張宿に合す。辛酉、都水・将作監の承受内侍官を罷む。熙河都統制焦安節、不法に坐し、李綱これを斬る。壬戌、姚古、兵を擁して逗遛するに坐し、貶されて節度副使とされ、広州に安置さる。彗星、紫微垣に出づ。

秋七月乙丑朔、元符上書邪等の禁を除く。宋昭、政和中に上書して遼を攻むるを諫め、連州に貶せらる。庚午、詔して都堂に赴かしむ。乙亥、蔡京を儋州に、蔡攸を雷州に、童貫を吉陽軍に安置す。己卯、河北・河東・陝西路の職田の借り上げを免ず。乙酉、詔す、蔡京の子孫二十三人既に遠地に分竄せり、赦に遇うも量移を許さず。この日、京、潭州にて死す。丁亥、侍従官に令して共に議し、宣仁聖烈皇后の謗史を改修せしむ。辛卯、監察御史張澂を遣わして童貫を誅し、広西転運副使李升之を遣わして趙良嗣を誅し、並びにその子孫を海南に竄す。壬辰、侍御史李光、言事をもって坐し、監当に貶せらる。是月、解潛、金人と南関にて戦い、敗績す。劉韐、遼州より兵を引きて金人と戦い、敗績す。

八月甲午朔(一日)、陳瓘の後裔を登用す。丙申(三日)、再び種師道を宣撫使として辺境を巡視せしめ、李綱を召還す。庚子(七日)、詔して彗星の故に、殿を避け膳を減じ、従臣に命じて民間の疾苦を具して奏聞せしむ。河東察訪使張灝、金人と文水にて戦い、敗績す。辛丑(八日)、詔して民の疾苦たる十七事を求め、悉くこれを除く。丁未(十四日)、斡離不(完顔宗望)再び広信軍・保州を攻め、克たず、遂に真定を犯す。戊申(十五日)、都統制張思正等、夜に金人を文水県に襲い、これを破る。己酉(十六日)、再び戦い、軍潰え、死者数万人、思正は汾州に奔る。都統制折可求、軍を子夏山にて潰えしむ。威勝・隆徳・汾・晋・沢・絳の民皆河を渡り南に奔り、州県皆空し。金人勝に乗じて太原を攻む。張庭堅の後裔を登用す。乙卯(二十二日)、徽猷閣待制王雲・閣門宣賛舎人馬識遠を遣わし金国に使せしめ、秘書著作佐郎劉岑・太常博士李若水を分遣してその軍に使せしめ和を議せしむ。戊午(二十五日)、許翰罷められて亳州知州となる。己未(二十六日)、太宰徐処仁罷められて東平知州となり、少宰呉敏罷められて揚州知州となる。唐恪を少宰兼中書侍郎と為し、何㮚を中書侍郎と為し、礼部尚書陳過庭を尚書右丞と為し、開封尹聶昌を同知枢密院事と為し、御史中丞李回を簽書枢密院事と為す。庚申(二十七日)、王雲を遣わし金軍に使せしめ、三鎮の賦税を許す。是の月、福州軍乱し、その知州事柳庭俊を殺す。

九月丙寅(三日)、金人太原を陥とし、安撫使張孝純を執り、副都総管王稟・通判方笈皆これに死す。辛未(八日)、呉敏を貶して崇信軍節度副使と為し、涪州に安置す。蔡攸を万安軍に移し、尋いで弟の翛及び朱勔と皆賜死す。乙亥(十二日)、詔して編修勅令所に靖康以前の蔡京の乞うたる御筆手詔を取り、祖宗の法及び今行わるるものに参酌し、書を刪修して成すを命ず。丁丑(十四日)、礼部尚書王宇を尚書左丞と為す。戊寅(十五日)、赤気日出ずるに随う。李綱罷められて揚州知州となる。壬午(十九日)、童貫の首を都市に梟す。癸未(二十日)、布衣尹焞に和靖処士を賜う。甲申(二十一日)、日に両珥・背気有り。丙戌(二十三日)、三京及び鄧州を建てて都総管府と為し、四道の兵を分総せしむ。庚寅(二十七日)、大名府知事趙野を以て北道都総管と為し、河南府知事王襄を西道都総管と為し、鄧州知事張叔夜を南道都総管と為し、応天府知事胡直孺を東道都総管と為す。又た李綱を罷めて洞霄宮提挙と為す。辛卯(二十八日)、給事中黄鍔を遣わし海路より金国に使せしめ和を議せしむ。是の月、夏人西安州を陥とす。

冬十月癸巳朔(一日)、殿に御し膳を復す。李綱を貶して保静軍節度副使と為し、建昌軍に安置す。丁酉(五日)、金人真定を陥とし、都鈐轄劉竧これに死す。流星杯の如し。戊戌(六日)、金人楊天吉・王汭を使わして来らしむ。庚子(八日)、日に青・赤・黄の暈気有り。金人汾州を陥とし、知州張克戩・兵馬都監賈亶これに死す。又た平定軍を攻む。辛丑(九日)、哀痛の詔を下し、河北・河東諸路の帥臣に命じて檄を所部に伝え、便宜を行うを得しむ。壬寅(十日)、天寧節、群臣を率いて龍徳宮に詣で寿を上ず。甲辰(十二日)、詔して蔡京・王黼・童貫の薦むる人を用う。丙午(十四日)、従官を尚書省に集め、三鎮割譲を議す。種師道を召還す。丁未(十五日)、礼部尚書馮澥を以て枢密院事知らしむ。己酉(十七日)、砲飛山営を閲す。庚戌(十八日)、范訥を以て寧武軍節度使・河北河東路宣撫使と為す。遼の故将小䩴䩮、麟州建寧砦を攻め陥とし、知砦楊震これに死す。壬子(二十日)、詔して太常礼官に集議して金主の尊号を定めしむ。尚書左丞王宇に命じ康王を副いて斡離不軍に使せしむ、宇辞す。乙卯(二十三日)、木氷(雨氷)降る。丙辰(二十四日)、金人平陽府を陥とし、又た威勝・隆徳・沢州を陥とす。丁巳(二十五日)、高麗貢を入る、明州に令して表を遞送して進めしめ、その使を遣わし還らしむ。戊午(二十六日)、王宇を貶して単州団練副使と為し、馮澥に命じて代行せしむ。庚申(二十八日)、日に両珥及び背気有り。侍御史胡舜陟、中山を援けんことを請う、省みず。辛酉(二十九日)、種師道薨ず。

十一月丙寅(三日)、夏人懐徳軍を陥とし、知軍事劉銓・通判杜翊世これに死す。譚稹の家を籍没す。戊辰(五日)、康王、未だ金軍に至らずして還る。馮澥罷む。己巳(六日)、百官を集めて三鎮の棄守を議す。庚午(七日)、詔して河北・河東・京畿に清野を命じ、流民に官舎寺観を占めて居るを得しむ。辛未(八日)、流星杯の如し。壬申(九日)、京師の民の浮言を以て相動かすを禁ず。癸酉(十日)、右諫議大夫范宗尹、首めて地を棄つるを議するを以て罷む。金人河外に至る、宣撫副使折彦質師十二万を領いてこれを拒ぐ。甲戌(十一日)、師潰ゆ。金人河を渡る、河陽知事燕瑛・西京留守王襄城を棄て遁る。乙亥(十二日)、刑部尚書王雲に命じ康王を副いて斡離不軍に使せしむ。三鎮を割くを許し、袞冕・車輅を奉り、その主を皇叔と尊め、且つ尊号を上ず。丙子(十三日)、金人河を渡り、折彦質の兵尽く潰え、提刑許高の兵洛口に潰ゆ。金人来たりて言う、河北の地を尽く得んと欲すと。京師戒厳す。資政殿学士馮澥及び李若水を遣わし粘罕(完顔宗翰)軍に使せしむ。丁丑(十四日)、何㮚罷む。尚書左丞陳過庭を以て中書侍郎と為し、兵部尚書孫傅を尚書右丞と為す。成忠郎郭京に命じて六甲正兵所を選び領せしむ。簽書枢密院事李回、万騎を以て河を防がしむ、衆潰えて帰る。是の日、京城の門を塞ぐ。戊寅(十五日)、龍徳宮婉容韋氏を進めて賢妃と為し、康王構を安国・安武軍節度使と為す。清野を罷む。辛巳(十八日)、懐州知事霍安国を以て徽猷閣待制と為し、通判林淵を直徽猷閣と為し、守禦の功を賞す。壬午(十九日)、斡離不、楊天吉・王汭・勃堇撒離栂を使わして来らしむ。耿南仲に命じて斡離不軍に使せしめ、聶昌に命じて粘罕軍に使せしめ、河を画して界と為すを許す。康王、磁州に至る、州人王雲を殺し、王を止めて行かず、王復た相州に還る。甲申(二十一日)、尚書右丞孫傅を以て同知枢密院事と為し、御史中丞曹輔を簽書枢密院事と為す。京兆府路安撫使范致虚を以て陝西五路宣撫使と為し、勤王兵を督して入援せしむ。乙酉(二十二日)、斡離不軍城下に至る。蠟書を遣わし間行して関を出で兵を召し、又た康王及び河北の守将に約して来援せしむ。多く邏兵の獲る所と為る。丁亥(二十四日)、大風屋を発し木を折る。李回罷む。戊子(二十五日)、金人通津門を攻む、范瓊兵を出してその砦を焚く。己丑(二十六日)、南道総管張叔夜兵を将いて勤王し、玉津園に至る、叔夜を以て延康殿学士と為す。斡離不、劉晏を遣わして来らしむ。庚寅(二十七日)、東壁に幸して軍を労う。詔して三省長官の名を悉く元豊の旧制に依らしむ。開封府を領むる何㮚を門下侍郎と為す。

閏月壬辰朔、金人が善利門を攻め、統制の姚仲友がこれを防ぐ。奇兵が乱を起こし、使臣を殺害し、王宗濋が数十人を斬ってようやく鎮定した。唐恪が都を出ると、人々は彼を撃たんとし、これにより去職を求め、中太一宮使に左遷された。門下侍郎の何㮚を尚書右僕射兼中書侍郎とする。劉韐は軍を棄てた罪に坐し、五官を降格され祠官に任ぜられる。癸巳、京師は寒さに苦しみ、日者の言を用い、土牛を借りて春を迎える。朱伯友は鄭州を棄てた罪に坐し、三官を降格され罷免される。西道総管の王襄は西京を棄てて去る。知沢州の高世由は城を以て金に降る。燕瑛は河陽を棄てんとし、乱兵に殺される。河東の諸郡は、或いは降り或いは破られ、殆ど尽きる。都民が東壁統制官の辛亢宗を殺害する。民の城乗りを罷め、保甲をもって代える。粘罕の軍が城下に至る。甲午、時に雨雪交作し、帝は甲冑を着て城に登り、御膳を以て士卒に賜い、火飯を易えて進め、人皆感激して涙を流す。金人が通津門を攻め、数百人が城を縋り下りてこれを防ぎ、その砲架五、鵞車二を焼く。駅伝をもって李綱を召し、資政殿大学士・開封府知事とする。金人が懐州を陥とし、霍安国・林淵及びその鈐轄の張彭年・都監の趙士詝・張諶皆これに死す。乙未、金人が青城に入り、朝陽門を攻める。馮澥が金人の蕭慶・楊真誥と来る。丙申、帝は宣化門に幸し、障泥を以て馬に乗り、泥濘の中を行く、民皆感泣す。張叔夜は数戦して功有り、帝は安上門に如きて召見し、資政殿学士に拝す。金人が胡直孺を執り、また拱州を陥とす。丁酉、赤気天に亙る。馮澥を尚書左丞とする。戊戌、殿前副都指揮使の王宗濋が金人と城下に戦い、統制官の高師旦これに死す。庚子、資政殿学士の張叔夜を簽書枢密院事とする。金人が宣化門を攻め、姚仲友がこれを防ぐ。辛丑、金人が南壁を攻め、殺傷相応す。壬寅、詔して河北の守臣に尽く軍民兵を起こし、倍道して入援せしむ。癸卯、金人が南壁を攻め、張叔夜・范瓊が兵を分けてこれを襲うも、遥かに金兵を見て奔還し、自ら相蹈藉し、濠に溺れて死する者千数を数う。甲辰、大雨雪。金人が亳州を陥とす。間使を遣わして諸道の兵を召し、勤王せしむ。乙巳、大寒、士卒は戦慄して兵を執ること能わず、僵仆する者有り。帝は禁中に在りて徒跣して晴れを祈る。時に勤王兵至らず、城中の兵用いるべき者は惟だ衛士三万のみ、然れども亦十に五、六を失う。金人城を攻めて急なり。丙午、雨木冰。丁未、始めて正殿を避く。己酉、馮澥・曹輔を遣わし、宗室の仲温・士𧦞とともに金軍に使いし和を請わしむ。康王を天下兵馬大元帥と為し、速やかに兵を領して入衛せしむ。辛亥、金人来たりて和を議し、親王の出盟を要す。壬子、金人が通津・宣化門を攻め、范瓊が千人を以て出戦し、河を渡るも、氷裂け、没する者五百余人、是より士気益々挫く。甲寅、大風北より起こり、俄かに大雨雪、連日夜止まず。乙卯、金人復た劉晏を使わし来たり、親王・宰相の出盟を促す。丙辰、妖人郭京が六甲法を用い、尽く守禦人に城を下らしめ、大いに宣化門を開いて出で金人を攻むるも、兵大いに敗る。京は下城して法を為すと托言し、余兵を引きて遁去す。金兵城に登り、衆皆披靡す。金人は南薰諸門を焚く。姚仲友は乱兵に死し、宦者の黄経国は火に赴いて死し、統制官の何慶言・陳克禮・中書舎人の高振は力戦し、その家人とともに害せらる。秦元は保甲を領いて関を斬りて遁れ、京城陥つ。衛士が都亭駅に入り、劉晏を執り、これを殺す。丁巳、道君皇帝・寧徳皇后を奉じて延福宮に入居せしむ。何㮚及び済王栩を命じて金軍に使いせしむ。戊午、何㮚入りて言う、金人が上皇の出郊を邀うと。帝曰く「上皇驚憂して疾有り、必ず之を出ださんと欲せば、朕当に親しく往かん」と。乙卯より雪止まず、是日晴る。夜に白気太微より出で、彗星見ゆ。庚申、日赤く火の如く、光無し。辛酉、帝は青城に如く。

十二月壬戌朔、帝は青城に在り。蕭慶が尚書省に入居す。是日、康王は相州に大元帥府を開く。癸亥、帝は青城より至る。甲子、金帛を大いに索む。丙寅、陳過庭・劉韐を遣わし両河の地を割かしむ。辛未、京師の米価を定め、糶を勧めて民を振恤す。癸酉、行門指揮使の蔣宣・李福を斬る。乙亥、康王は北京に如く。丙子、尚書省火災。庚辰、雹降る。癸未、大雪、寒し。民に紫筠館の花木を伐ちて薪と為すを縦す。庚寅、康王は東平に如く。

靖康二年

二年春正月辛卯朔、済王栩・景王杞を命じて金軍に出で賀せしめ、金人も亦使を遣わし入賀す。壬辰、金人が康王の還るを促して召す。聶昌・耿南仲・陳過庭を遣わし出で両河の地を割かしむ、民堅守して詔を奉ぜず、凡そ累月、止だ石州を得るのみ。甲午、両河の民に詔し門を開き出降せしむ。乙未、大星有り建星より出で、西南に流れて濁に没す。丁酉、雨木冰。己亥、陰曀し、風迅発す。夜、西北の陰雲中に火光の如き有り。庚子、金人金銀を索めて急なり。何㮚・李若水、帝の軍中に親しく至るを勧め、之に従い、太子を以て国を監せしめて行く。乙巳、梁師成の家を籍没す。丙午、劉韐は金軍に於いて自経す。太学生の徐揆が上書し、門を守りて帝の還闕を請わんことを乞う。金人が取り至り軍中に至らしめ、揆抗論し、為に殺さる。夜に至り、金人が神衛営を劫す。丁未、大霧四塞す。金人が含輝門を下りて剽掠し、五嶽観を焚く。

二月辛酉朔、帝は青城に在り、自ら金軍に如く、都人は出で迎賀す。丙寅、金人が南薰門の路を塹り、人心大いに恐る。已にして金人が異姓を推立するを令す、孫傅方に号慟し、趙氏の立つを乞うも、允されず。丁卯、金人が上皇の青城に如くことを要す。内侍の鄧述の具えたる諸王孫の名を以て、尽く取りて軍中に入る。辛未、金人が上皇を逼り皇后・皇太子を召して青城に入らしむ。庚辰、康王は済州に如く。癸未、観文殿大学士の唐恪が仰薬して自殺す。乙酉、金人は括金未だ足らざるを以て、戸部尚書の梅執礼・侍郎の陳知質・刑部侍郎の程振・給事中の安扶を殺す。

三月辛卯朔、帝は青城に在り。丁酉、金人が張邦昌を立てて楚帝と為す。庚子、金人来たりて宗室を取る、開封尹の徐秉哲は民に結保を令し、蔵匿すること無からしむ。丁巳、金人が上皇を脅して北行せしむ。

夏四月庚申朔、大風石を吹き木を折る。金人が帝及び皇后・皇太子を以て北に帰す。凡そ法駕・鹵簿、皇后以下の車輅・鹵簿、冠服・礼器・法物、大楽・教坊の楽器、祭器・八宝・九鼎・圭璧、渾天儀・銅人・刻漏、古器・景霊宮の供器、太清楼秘閣三館の書・天下州府の図及び官吏・内人・内侍・技芸・工匠・娼優、府庫の蓄積、之が為に一空と為る。辛酉、北風大いに起こり、寒さに苦しむ。

五月庚寅朔(一日)、康王が南京において即位し、遠く尊号を上って孝慈淵聖皇帝と曰う。紹興三十一年五月辛卯、帝の崩御の報が至る。七月己丑、尊諡を上って恭文順德仁孝皇帝と曰い、廟号を欽宗とす。三十二年閏二月戊寅、太廟に祔す。

紀讚

贊して曰く、帝、東宮に在りしとき、失徳を見ず。其の践阼するに及び、声技音楽一つとして好む所無し。靖康初政、能く王黼・朱勔等の罪を正して之を竄殛す。故に金人、帝の内禅を聞き、将に甲を巻きて北に旆せんとするの意有り。惜しむらくは其の乱勢既に成り、救うべからざるに至り、君臣相視るも、又能く力を同じうし謀を協けて以て此の難を済すこと能わず、惴惴然として講和するに暇あらず。卒に父子淪胥し、社稷蕪茀するに致る。帝の此に至るは、蓋し亦巽懦にして義を知らざる者か。享国日浅くして、禍を受くる至深し。其の自る所を考うるに、真に悼むべきなり夫。真に悼むべきなり夫。