周書
卷四十九 列傳第四十一 異域上 (高句麗・百濟・蠻・獠・宕昌・鄧至・白蘭・氐・稽胡・庫莫奚)
蓋し天地の覆載する所は、至って大なり。日月の臨照する所は、至って広し。然れども萬物の内、民人は寡なくして禽獣多く、両儀の間、中土は局促にして庶俗は曠遠なり。これを鄒衍の説に求めれば、詭怪の迹実に繁く、これを『山海経』に考うれば、奇譎の詞一ならず。周公・孔子はこれを存して論ぜず、是非紛然として弁ずる莫し。秦の始皇帝は天下を鞭撻し、遐方に黷武し、漢の武帝は人馬強盛にして、遠略に志を肆にす。匈奴既に却き、その国已に虚しく、犬馬既に来たり、その民亦困す。これを知る、雁海龍堆は、天の以て夷夏を絶つ所以なり。炎方朔漠は、地の以て内外を限る所以なり。況んや時に秦・漢に非ず、志は甚だ嬴・劉に違いて、天道を違えてその功を求め、民力を殫くして欲に従わんとす。顛墜の釁は、固より踵を旋らさず。是の故に先王は教えを設け、内は諸夏にして外は夷狄とし、往哲は範を垂れて、樹徳を美とし広地を鄙しむ。禹の迹の東漸西被するも、海及び流沙を過ぎず、王制の北より南に徂くも、裁り穴居交趾と称す。豈に道は三古に貫き、義は百代に高き者に非ずや。
周は喪乱の後に承け、戦争の日に属し、四表を武功を以て定め、三辺を権道を以て安んず。趙・魏尚お梗みあれば、則ち北狄に姻を結び、厩庫未だ実せざれば、則ち西戎に好を通ず。ここによりて徳刑倶に挙がり、声名遐く洎ぶ。卉服氈裘、輻湊して属国に属し、商胡販客、填委して旗亭に満つ。東略は三呉の地に漏れ、南巡は百越の境に阻まるれども、国威の肅服する所、風化の覃被する所、亦た弘大たるに足る。その四夷来朝聘する者、今竝びにこれを後に紀す。道路の遠近、物産風俗に至りては、前史に詳らかなり、或いは同じからず。これ皆その当時に記す所を録し、以て遺闕を備うるのみ。
高麗
高麗は、その先は夫余より出づ。自ら始祖を朱蒙と曰い、河伯の女が日影を感じて孕む所なりと云う。朱蒙は長じて材略有り、夫余人これを悪みて逐う。紇斗骨城に土し、自ら高句麗と号し、仍って高を以て氏とす。その孫莫来は漸く盛んとなり、夫余を撃ちてこれを臣とす。莫来の裔孫璉、始めて後魏に使を通ず。
その地は、東は新羅に至り、西は遼水を渡ること二千里、南は百済に接し、北は靺鞨に隣ること千余里。平壤城を治む。その城は、東西六里、南は浿水に臨む。城内には唯だ倉儲器備を積み、寇賊の至る日に方りて固守に入る。王は則ち別に宅をその側に為し、常には居せず。その外に国内城及び漢城有り、亦た別都なり。また遼東・玄菟等数十城有り、皆官司を置き、以て相統摂す。
大官に大対盧有り、次に太大兄・大兄・小兄・意俟奢・烏拙・太大使者・大使者・小使者・褥奢・翳属・仙人 并 びに褥薩凡そ十三等有り、内外の事を分掌す。その大対盧は、則ち強弱を以て相陵ぎ、奪いて自らこれを為し、王の署置に由らず。その刑法は、謀反及び叛者は、先ず火を以て焚爇し、然る後に斬首し、その家を籍没す。盗者は、十余倍贓を徴す。若し貧しくして備え能わず、及び公私の債を負う者は、皆その子女を評して奴婢と為し以てこれに償うことを聴す。
丈夫は衣は同袖衫・大口袴・白韋帯・黄革履を同じくす。その冠を骨蘇と曰い、多くは紫羅を以てこれを為し、雑に金銀を以て飾りとす。官品有る者は、又その上に二鳥羽を插し、以て異を顕わす。婦人は裙襦を服し、裾袖皆な襈と為す。書籍に五経・三史・三国志・晋陽秋有り。兵器に甲弩弓箭戟矟矛鋋有り。賦税は則ち絹布及び粟、その所有に随い、貧富を量り差等してこれを輸す。土田は塉薄にして、居処は節儉なり。然れども尚お容止を尚ぶ。多く詐偽有り、言辞は鄙穢にして、親疏を簡ばず、乃ち同川に浴し、共室に寝るに至る。風俗は淫を好み、愧じと為さず。遊女有り、夫は常人無し。婚娶の礼は、財幣に略無く、若し財を受くる者は、これを婢を売ると謂い、俗は甚だこれを恥ず。父母及び夫の喪は、その服制は華夏に同じ。兄弟は則ち三月に限る。佛法を敬信し、尤も淫祀を好む。又神廟二所有り、一は夫余神と曰い、木を刻んで婦人の象を作り、一は登高神と曰い、これその始祖夫余神の子なりと云う。竝びに官司を置き、人を遣わして守護せしむ。蓋し河伯女と朱蒙と云う。
璉の五世孫成、大統十二年、使いを遣わしてその方物を献ず。成死し、子湯立つ。建徳六年、湯また使いを遣わして来貢す。高祖、湯を上開府儀同大将軍・遼東郡開国公・遼東王に拝す。
百済
百済は、その先は蓋し馬韓の属国、夫余の別種なり。仇台という者有り、始めて帯方に国す。故にその地界は、東は極めて新羅、北は高句麗に接し、西南は倶に大海を限りとす。東西四百五十里、南北九百余里。固麻城を治む。その外更に五方有り、中方を古沙城と曰い、東方を得安城と曰い、南方を久知下城と曰い、西方を刀先城と曰い、北方を熊津城と曰う。
王は夫余氏を姓とし、号を於羅瑕とす。民はこれを鞬吉支と呼び、夏言は竝びに王なり。妻は号を於陸とす、夏言は妃なり。官に十六品有り。左平五人、一品。達率三十人、二品。恩率三品。徳率四品。扞率五品。柰率六品。六品已上は、冠に銀華を飾る。将徳七品は紫帯、施徳八品は皂帯、固徳九品は赤帯、季徳十品は青帯、対徳十一品、文督十二品は皆黄帯、武督十三品、佐軍十四品、振武十五品、克虞十六品は皆白帯。恩率以下より、官に常員無く、各々部司有り、衆務を分掌す。内官に前内部・穀部・肉部・内掠部・外掠部・馬部・刀部・功徳部・薬部・木部・法部・後官部有り。外官に司軍部・ 司徒 部・ 司空 部・司寇部・点口部・客部・外舎部・綢部・日官部・都市部有り。都下に万家有り、五部に分かち、上部・前部・中部・下部・後部と曰い、兵五百人を統ぶ。五方各々方領一人有り、達率を以てこれに当て、郡将三人有り、徳率を以てこれに当てる。方は兵一千二百人以下、七百人以上を統ぶ。城の内外の民庶及び余の小城は、咸くこれに隷属す。
その衣服は、男子は高麗とほぼ同じである。朝拝や祭祀の際には、冠の両側に羽根を加えるが、軍事の際には用いない。拝謁の礼は、両手を地に据えることを敬意とする。婦人の衣服は袍に似て、袖がやや大きい。未婚の者は髪を編んで頭に盤め、後ろに一筋垂らして飾りとする。嫁いだ者は、これを二筋に分ける。兵器には弓箭・刀・矟がある。風俗は騎射を重んじ、また経史を愛好する。その秀才異才の者は、文章を綴ることをよく理解する。また陰陽五行をも理解する。宋の元嘉暦を用い、建寅の月を歳首とする。また医薬・卜筮・占相の術も理解する。投壺・樗蒲などの雑戯があり、特に囲碁を尚ぶ。僧尼の寺塔は甚だ多いが、道士はいない。賦税は布・絹・絲・麻および米などで、年の豊凶を量り、等級を差して納める。その刑罰は、反叛・退軍および人を殺した者は斬り、盗みを働いた者は流刑とし、その贓物の二倍を徴収する。婦人が姦淫を犯した者は、夫の家に没入して婢とする。婚娶の礼は、中華の風俗とほぼ同じである。父母および夫が死んだときは、三年喪に服し、その他の親族は、葬り終わって除喪する。土地は低湿で、気候は温暖である。五穀・雑果・菜蔬および酒醴・肴饌・薬品の類は、多く内地と同じである。ただ駱駝・驢・騾・羊・鵝・鴨などはいない。その王は四仲の月に、天および五帝の神を祭る。また毎年四度、その始祖仇台の廟を祠る。
晋・宋・齊・梁が江左を占拠し、後魏が中原に都を置くに及んで、皆使者を遣わして藩を称し、兼ねて封拜を受けた。齊氏が東夏を擅にすると、その王の隆もまた使者を通じた。隆が死に、子の昌が立つ。建徳六年、齊が滅び、昌は初めて使者を遣わして方物を献じた。宣政元年、また使者を遣わして来朝し献上した。
蠻
蠻は、盤瓠の後裔である。族類は繁殖し、江・淮の間に散在し、汝・ 豫 の郡に及ぶ。険阻に憑って梗を作し、代々寇乱となる。魏人が統御を失うに至り、その暴虐はますます甚だしくなった。冉氏・向氏・田氏という者がおり、村落が特に盛んである。その他は大きいものは一万家、小さいものは一千戸である。互いに崇め立て、僭って王侯を称し、三峡に屯拠し、水路を断ち遮り、荊・蜀の行人には、わざわざ迂回する者さえあった。太祖が伊・瀍をほぼ平定し、声教が南に及ぶと、諸蠻は威を畏れ、靡然として風に従った。
大統五年、蔡陽蠻の王魯超明が内属し、南雍州刺史とし、なお世襲させた。十一年、蠻の首長梅勒特が来朝してその方物を貢いだ。まもなく蠻の帥田杜清および沔・漢の諸蠻が騒動し、大将軍楊忠がこれを撃破した。その後、蠻の帥杜青和が自ら巴州刺史と称し、州を以て内附した。朝廷はその称する所に因ってこれを授けた。青和は後に遂に反逆し、東梁州を攻囲した。その唐州蠻の田魯嘉もまた叛き、自ら 豫 州伯と号した。王雄・権景宣らが前後して討ち平定した。語は泉仲遵および景宣の伝にある。
魏の廃帝の初め、蠻の酋長樊舍が落部を挙げて内附し、淮北三州諸軍事・淮州刺史・淮安郡公とした。于謹らが江陵を平定すると、諸蠻が騒動し、詔して豆盧寧・蔡祐らに討ち破らせた。
魏の恭帝二年、蠻の酋長宜民王田興彦・北荊州刺史梅季昌らが相次いで帰順し内附した。興彦・季昌をともに開府儀同三司とし、季昌に洛州刺史を加え、石臺県公の爵を賜った。その後、巴西の人譙淹が群蠻を扇動し、梁に附かせた。蠻の帥向鎮侯・向白彪らがこれに応じた。向五子王はまた信州を攻め陥とした。田烏度・田都唐らは江路を遮断して掠奪した。文子榮はまた荊州の汶陽郡を占拠し、自ら仁州刺史と称した。 并 隣州刺史の蒲微もまた兵を挙げて命に逆らった。詔して田弘・賀若敦・潘招・李遷哲に討ち破らせた。語は敦および遷哲・陽雄らの伝にある。
武成の初め、文州蠻が叛き、州は軍を選んで討ち平定した。まもなく冉令賢・向五子王らがまた白帝を攻め陥とし、開府楊長華を殺害し、遂に相率いて乱を起こした。前後して開府元契・趙剛らに総兵して出討させたが、その族類をかなり剪除したものの、元悪は除かれなかった。
天和元年、詔して開府陸騰に王亮・司馬裔らを督してこれを討たせた。騰は水陸ともに進軍し、湯口に駐屯し、先ず諭しを遣わした。しかし令賢はちょうど城池を増築し浚渫し、厳重に防禦を設けていた。その長子西黎・次子南王にその支族を率いさせ、江南の険要の地に十城を置き、遠く涔陽蠻と結んでその声援とした。令賢はその精卒を率い、水邏城を固守した。騰はそこで将帥を総集し、その進撃を謀った。皆まず水邏を取ることを望み、それから江南を経略しようとした。騰は衆に言うには、「令賢は内には水邏の金湯の険に恃み、外には涔陽の輔車の援けを託し、兼ねてまた資糧充実し、器械精新である。我が懸軍を以てその厳壘を攻め、もし一戦して勝たなければ、かえってその気勢を成すことになろう。湯口に軍を頓して、まず江南を取り、その羽毛を剪り、それから水邏に進軍するに如くはない。これが制勝の計である」と。衆は皆これを然りとした。そこで開府王亮に衆を率いさせて江を渡らせ、十日でその八城を攻め落とし、凶党は奔散した。賊帥冉承公を捕らえ、また生口三千人を得、その部衆一千戸を降した。そこで 驍 勇を簡募し、数道から水邏を攻め入った。路は石壁城を経由する。この城は峻嶮で、四面が壁のように立ち、故にこの名がある。ただ一つの小路があり、梯を縁って上る。蠻蜑はこれを峭絶として、兵衆の行く所ではないと考えていた。騰は甲を着て先に登り、衆軍が続いて進み、危険な阻害を経ること累月、ようやく旧路を得た。かつ騰は先に隆州総管を任じられ、蠻帥の冉伯犁・冉安西が令賢と不和であることをよく知っていた。騰はそこで伯犁らを招誘し、父子の契りを結び、また多く金帛を贈った。伯犁らは喜び、遂に郷導となった。水邏の側にまた石勝城というものがあり、これも険要である。令賢は兄の子龍真にこれを守らせた。騰はまた密かに龍真を誘い、もし水邏を平定したなら、彼に令賢の地位を代わらせると言った。龍真は大いに喜び、密かにその子を騰のもとに遣わした。騰はそこで厚く礼遇し、金帛を賜った。蠻は利に貪る心が既に深く、なお功を立てることを請うた。そこで騰に言うには、「拠る城を翻そうと思うが、人力が寡少であることを恐れる」と。騰は三百の兵を助けることを許した。既にして二千人を遣わし、枚を銜ませて夜に進んだ。龍真は力及ばず防ぐことができず、遂に石勝城を平定した。朝に水邏に至ると、蠻衆は大いに潰え、斬首一万余級、虜獲一万口を得た。令賢は遁走したが、追って捕らえ、その子弟らとともに皆斬った。司馬裔はまた別にその二十余城を下し、蠻帥冉三公らを捕らえた。騰はそこでその骸骨を水邏城の側に積み上げ、京観とした。後々、蠻蜑がこれを見ると、いつも大声で号哭した。ここにおいて狼戾の心は止んだ。
時に向五子王は石默城を拠り、その子宝勝に双城を守らせた。水邏平定後、頻りに諭しを遣わしたが、五子王はなお従命しなかった。騰はまた王亮を牢坪に屯させ、司馬裔を双城に屯させてこれを図った。騰は双城が孤峭であることを慮り、攻め易くは抜けないと考えた。賊がもし城を棄てて奔散すれば、また追討が難しい。そこで諸軍に周囲に柵を立てさせ、その逃走路を遮断した。賊はそこで大いに驚いた。ここにおいて兵を放ってこれを撃破し、五子王を石默で、宝勝を双城で生け捕りにし、諸向の首領を悉く斬り、生擒一万余口を得た。信州の旧治は白帝であった。騰はさらに劉備の故宮城南、八陣の北、臨江の岸に城を築き、信州を移置した。また巫県・信陵・秭帰はいずれも硤中の要険であるため、ここに城を築き防備を置き、襟帯とした。
天和六年、蛮族の渠帥冉祖喜・冉龍驤がまた反逆した。詔により大将軍趙誾がこれを討伐平定した。これより後、群蛮は畏れて静まり、再び寇掠することはなかった。
獠
獠とは、南蛮の別種であり、漢中から邛・笮に至るまで、川や洞窟の間に、その在所にみな存在する。習俗として多くは姓氏を弁えず、また名字もなく、生まれた男女は、ただ長幼の順序によって呼ぶのみである。その男子は阿謩・阿段と称し、婦人は阿夷・阿第の類であり、いずれもその言葉における順序の称謂である。喜べば群れ集まり、怒れば互いに殺し合い、父子兄弟といえども、また手ずから刃にかける。互いに掠め売りし、親戚を避けない。売られた者は号叫して服従せず、逃げ隠れするので、買い手が指図して捕らえ追い、逃亡した反逆者を追うが如くし、捕らえればただちに縛る。一旦縛られた者は、すなわち賤隷として服従し、再び良民と称することは敢えてしない。習俗として鬼神を畏れ、特に淫祀巫祝を尚び、兄弟妻子を売り尽くす者があり、ついには自らを売って祭祀に供するに至る。しばしば一人の酋帥を推して王と為すが、遠くまで統率することはできない。
江左および中州より巴・蜀に至るまで、多くは険阻を恃んで賓服しない。太祖が梁・益を平定した後、所在の地に命じて撫慰させた。華民と雑居する者は、また賦役に従うことも少なくない。しかし天性暴乱であり、間もなく擾乱に至る。毎年、近隣の州鎮に命じて出兵してこれを討ち、その人口を捕らえて賤隷に充て、これを圧獠と称した。後に商旅の往来する者も、これを貨財と為す資とし、公卿から民庶の家に至るまで、獠口を持つ者は多かった。
魏の恭帝三年、陵州の木籠獠が反逆した。詔により開府陸騰がこれを討ち破り、俘虜斬首一万五千人を得た。保定二年、鉄山獠がまた反逆し、江路を遮断して掠めた。陸騰が再びその三城を攻め落とし、虜獲三千人を得、その種族三万落を降伏させた。詳細は陸騰伝にある。
天和三年、梁州の恆稜獠が叛いた。総管長史趙文表がこれを討伐した。軍は巴州に駐屯し、文表は衆を率いて直ちに進軍しようとした。軍吏らが言うには、「この獠は長らく抵抗し、部衆は甚だ強い。これを討つ者は皆四方から攻めて、その勢力を分かつ。今もし大軍を直進させ、奇兵を遣わさなければ、恐らく我が方に力を合わせて向かい、勝利を制することはできないであろう」。文表は言った、「以前はこれを制することができなかったので、今は別に進軍の方法を為すべきである。もし四方に兵を遣わせば、獠は降伏する道も逃げる道も絶え、道理として相率いて死を以て抗戦するであろう。一つの道から進めば、我は威と恩を示すことができ、使者を分遣して道理を以て諭し知らせることができる。悪を為す者を討ち、善に帰する者を撫でる。善悪が既に分かれれば、経略しやすい。事には変通があり、どうして以前の轍に従おうとするのか」。文表は遂にこの意を以て軍中に遍く命じた。時に従軍した熟獠がおり、多くは恆稜と親しく知り合いであり、直ちに実情を報告した。恆稜獠は互いに集まって議し、躊躇している間に、文表の軍は既にその境界に至った。獠の中には元々二つの道があり、一つの道はやや平らかで、一つの道は極めて険しい。間もなく生獠の酋帥数人が来て文表に会い、言うには、「我々は官軍が山川に詳しくないことを恐れ、郷導と為ることを請う」。文表は彼らに言った、「この道は広く平らかであり、導きは要らない。卿らはただ先に行き、よく子弟を慰諭せよ」。そして彼らを遣わした。文表はその衆に言った、「先ほど、獠の帥が我に広い道を行くように言ったのは、必ず伏兵を設けて我を遮ろうとするからである。もし険しい道から行き、その不意を衝けば、獠衆は自ら離散するであろう」。そこで兵を統率して険道より進み、その通じない所があれば、随時にこれを整備した。高みに乗って望むと、果たしてその伏兵を見た。獠は既に計略を失い、争って妻子を携え、険要な地に退いて守った。文表は軍を大蓬山下に頓し、禍福を示したので、遂に相率いて来降した。文表は皆これを慰撫し、なおその税租を徴収したが、敢えて動く者はなかった。後に文表を蓬州刺史に任じると、また大いに獠の和を得た。
建德初年、李暉が梁州総管となると、諸獠もまた従い附いた。しかしその種類は蔓延り、巌壑を保ち拠り、林に依り険を走り、平地を歩むが如く、たとえ屡々兵を加えても、窮め討つことはできない。性質また無知であり、殆ど禽獣に同じく、諸夷の中では、最も道義を以て招き懐けることが難しい者である。
宕昌羌
宕昌羌とは、その祖先は三苗の後裔である。周の時に庸・蜀・微・盧など八国と共に武王に従って商を滅ぼした。漢には先零・焼当などがあり、代々辺境の患いとなった。その地は、東は中華に接し、西は西域に通じ、南北数千里である。姓別に自ら部落を為し、各々酋帥を立て、皆それぞれの地域を持ち、互いに統率しない。宕昌はその一つである。習俗は皆土着し、住居には棟宇がある。その屋は犛牛の尾及び羖羊の毛を織って覆う。国に法令はなく、また徭役賦税もない。ただ征伐の時のみ、相い屯聚する。そうでなければ、各々生業に事とし、互いに往来しない。皆裘褐を衣、犛牛・羊・豕を牧養して、その食を供える。父子伯叔兄弟が死ねば、その継母・世叔母及び嫂 (弟婦) 等を妻とする。習俗として文字はなく、ただ草木の栄枯を候って、歳時を記す。三年に一度相聚い、牛羊を殺して天を祭る。
梁勤という者がおり、代々酋帥となり、羌の豪族の心を得て、自ら王と称した。その境界は仇池以西より、東西千里、席水以南、南北八百里である。地は多く山阜であり、部衆二万余落。勤の孫の弥忽が、初めて後魏に使節を通じた。太武帝はその称する所に因ってこれを授けた。
弥忽から仚定まで九世、毎に職貢を修めて絶えなかった。後に両魏が分かたれるのを見て、遂に背き誕ぶ心を抱いた。永熙末年、仚定は吐谷渾を引き入れて金城を寇した。大統初年、またその種人を率いて入寇した。詔により行臺趙貴が儀同侯莫陳順等を督してこれを撃破した。仚定は恐れ、藩を称して罪を請うた。太祖はこれを赦し、撫軍将軍に拝した。四年、仚定を南洮州刺史・要安蕃王とした。後に洮州を岷州と改め、なお仚定を刺史とした。この年、秦州の濁水羌が反逆し、州軍がこれを討ち平定した。七年、仚定がまた挙兵して入寇した。独孤信が当時隴右を鎮守しており、詔により信が衆を率いて直ちにこれを討った。軍の未だ至らぬうちに仚定はその部下に殺された。信は進軍してその余党を破った。朝廷はまさに異俗を招き懐けようとしていたので、さらにその弟の弥定を宕昌王とした。
十六年、弥定の宗人である獠甘がその位を襲い奪い、弥定は来奔した。これに先立ち、羌の酋帥の傍乞鉄怱等が仚定の反叛の機に乗じて、衆を擁して渠林川を占拠し、渭州の民鄭五醜と共に諸羌を扇動し、兵を阻んで命に逆らった。ここに至り、詔により大将軍宇文貴・豆盧寧・涼州刺史史寧等が兵を率いて獠甘等を討ち、共にこれを擒え斬り、弥定を納れて還った。詳細は宇文貴等の伝にある。その後、羌の酋帥の東念姐・鞏廉俱和等が反逆し、大将軍豆盧寧・王勇等が前後してこれを討ち平定した。
保定初年、弥定は使いを遣わして方物を献じた。三年、また使いを遣わして生きた猛獣を献じた。四年、弥定が洮州を寇し、総管李賢がこれを撃ち走らせた。この年、弥定がまた吐谷渾を引き入れて石門戍を寇し、賢が再びこれを破った。高祖は怒り、詔により大将軍田弘がこれを討ち滅ぼし、その地を宕州とした。
鄧至羌
鄧至羌とは、羌の別種である。像舒治という者がおり、代々白水の酋帥となり、自ら王と称した。その地は北は宕昌に接し、風俗物産もまた宕昌と略同である。舒治から檐桁まで十一世。魏の恭帝元年、檐桁が国を失って来奔した。太祖は章武公宇文導に命じて兵を率いて送り、これを復位させた。
白蘭
白蘭は、羌の別種である。その地は東北は吐谷渾に接し、西北は利模徒に至り、南は那鄂を境界とし、風俗と物産は宕昌とほぼ同じである。保定元年 (561年) 、使者を遣わして犀甲と鉄鎧を献上した。
氐
氐は、西夷の別種である。三代 (夏・殷・周) の頃には、おそらく独自の君長を持ち、代々一度は朝見した。故に詩経に「彼の氐・羌より、敢えて来王せざるは莫し」と称される。漢の武帝がこれを滅ぼし、その地を武都郡とした。汧水・渭水から巴・蜀に至るまで、その種類は実に繁雑であった。漢末、氐の帥 (首長) 楊駒が初めて仇池の百頃を占拠し、最も強大な族となった。その後次第に盛んとなり、遂に自ら王を称した。末裔の孫の楊纂の代に至り、苻堅に滅ぼされた。苻堅が敗れると、その族人の楊定がまた自ら王を称した。楊定は乞伏乾帰に殺された。楊定の従弟の楊盛が代わってその国を有した。代々魏氏 (北魏) から封爵・官位を受け、また江左 (南朝) にも使者を通じた。しかしその種族・部落は分散し、叛服常ならず、隴・漢の間は、しばしばその害を受けた。
楊盛の子孫に楊集始という者がおり、魏 (北魏) は彼を武興王に封じた。楊集始が死ぬと、子の楊紹先が立ち、遂に大号を僭称した。魏の将軍傅豎眼がこれを滅ぼし、楊紹先を捕らえて京師に帰し、その地を武興鎮とした。魏氏の洛陽遷都が未だ定まらず、天下が乱れると、楊紹先は武興に奔還し、再び自立して王となった。太祖 (宇文泰) が秦・隴を平定すると、楊紹先は藩属を称し、妻子を人質として送った。大統元年 (535年) 、楊紹先がその妻女の返還を請うたので、太祖は魏帝に奏上してこれを還した。楊紹先が死ぬと、子の楊辟邪が立った。四年 (538年) 、南岐州の氐人苻安寿が反乱を起こし、武都を攻め落とし、自ら太白王と号した。詔により大 都督 侯莫陳順と渭州刺史長孫澄がこれを討ち破った。苻安寿はその衆を率いて降伏した。九年 (543年) 、清水の氐酋李鼠仁が険阻な地に拠って乱を起こし、氐帥梁道顕が叛いて南由を攻めた。太祖は典籤趙昶を遣わして慰撫・諭告させると、李鼠仁らは相次いで帰順した。詳細は趙昶伝にある。十一年 (545年) 、武興に東益州を置き、楊辟邪を刺史とした。十五年 (549年) 、安夷の氐が再び叛き、趙昶が当時郡守であったので、その首謀者二十余人を捕らえて斬り、残りの衆はようやく平定した。ここにおいて趙昶に行南秦州事をさせた。氐帥蓋闇らが相率いて乱を起こし、蓋闇は北谷に拠り、その徒党の覃洛は洮中に集結し、楊興徳・苻双は平氐城を包囲し、姜樊噲は武階で乱を起こし、西は宕昌の羌獠甘と結び、共に蓋闇を主として推戴した。趙昶は道を分けて使者を遣わし禍福を宣示した後、兵を出してこれを討ち、蓋闇を生け捕りにし、その余党を散じた。興州の叛氐が再び南岐州を侵逼したので、刺史叱羅協が使者を遣わして危急を告げると、趙昶は兵を率いて救援に赴き、またこれを大破した。
先に、氐の首長楊法深が陰平に拠って自ら王を称していたが、これも楊盛の子孫である。魏の孝昌年間 (525-527年) 中、衆を挙げて内附した。これより以後、職貢は絶えなかった。廃帝元年 (552年) 、楊法深を黎州刺史とした。二年 (553年) 、楊辟邪が州に拠って反逆し、諸氐もまたこれと同調して叛いた。詔により叱羅協と趙昶がこれを討ち平らげた。太祖はここにおいて大将軍宇文貴を大 都督 ・六州諸軍事・興州刺史とした。宇文貴の威名は以前から著しく、諸氐は大いに畏服した。この年、楊法深は尉遅迥に従って蜀を平定し、軍が帰還すると、楊法深は直ちに鎮守に戻った。まもなくその種族の楊崇集・楊陳侳らとそれぞれその衆を擁し、互いに攻撃し合った。趙昶が当時成武沙三州諸軍事・成州刺史を督していたので、使者を遣わして和解させた。楊法深らはこれに従った。そこでその部落を分け、改めて州郡を置いてこれらを居住させた。
魏の恭帝の末 (556年頃) 、武興の氐が反乱を起こし、利州を包囲した。鳳州固道の氐魏天王らもまた衆を集めて呼応した。大将軍豆盧寧らがこれを討ち平らげた。
世宗 (明帝宇文毓) の時、興州の民段吒および下弁・栢樹の二県の民が反乱を起こし、相率いて蘭臯戍を破った。氐酋姜多がまた厨中の氐・蜀を率いて落叢郡を陥落させ、これに応じた。趙昶が衆を率いて二県を討ち平らげ、併せて段吒を斬った。しかし陰平・盧北の二郡の氐がまたしばしば屯聚し、厨中の者と相応じた。趙昶はそこで精鋭の騎兵を選び、不意を突いて、まっすぐ厨中に攻め入った。大竹坪に至り、連続して七つの柵を破り、その渠帥を誅し、二郡はともに降伏した。趙昶が帰還すると、厨中の主たる氐がまた寇掠を行った。趙昶はまた儀同劉崇義・宇文琦に命じて兵を率いて厨中に入りこれを討たせ、氐衆を大破し、姜多および苻肆王らを斬った。ここにおいて諸氐はともに平定された。王謙が挙兵すると、沙州の氐帥開府楊永安がまた州に拠って王謙に応じたが、大将軍達奚儒がこれを討ち平らげた。
稽胡
稽胡は、一に歩落稽といい、匈奴の別種、劉元海 (劉淵) の五部の子孫である。あるいは山戎・赤狄の後裔ともいう。離石以西、安定以東、方七、八百里の範囲に、山谷の間に居住し、種族・部落は繁栄していた。その習俗は土着で、また農耕も知っていた。土地は桑蚕が少なく、麻布が多い。その男子の衣服および死亡・殯葬は、中華とほぼ同じである。婦人は多く蜃貝を貫いて耳飾りや首飾りとした。また華民 (漢人) と雑居し、その渠帥はかなり文字を知っていた。しかし言葉は夷狄に類し、通訳によって初めて通じた。蹲踞して礼がなく、貪欲で残忍である。習俗は淫穢を好み、処女は特に甚だしかった。嫁ぐ前夜になって、ようやく情夫と別れを述べ、夫の家はこれを聞いて、多いことを貴んだ。嫁いだ後は、かなり防閑を厳しくし、姦通を犯した者は、その事に応じて罰した。また兄弟が死ぬと、皆その妻を娶った。郡県に分属され、編戸に列せられていたが、その徭役・賦税は軽く、一般の斉民 (平民) とは異なっていた。山谷が険阻で深い所の者は、また未だ全てが役属していなかった。そして凶悍で険阻を頼み、しばしば寇乱を起こした。
魏の孝昌年間 (525-527年) 中、劉蠡升という者がおり、雲陽谷に居住し、自ら天子を称し、年号を立て、百官を置いた。魏氏の政情が乱れ、討伐する力がなかったため、劉蠡升は部衆を分遣して、住民を掠奪し、汾・晋の間は、ほとんど安寧な歳がなかった。斉の神武帝 (高歓) が鄴に遷都した後、初めて密かにこれを討つ計画を立てた。偽って娘を劉蠡升の太子に娶わせると約束し、劉蠡升はこれを信じ、遂にその子を鄴に遣わした。斉の神武帝は手厚く礼遇し、婚期を引き延ばした。劉蠡升は和親を恃んで、備えをしなかった。大統元年 (535年) 三月、斉の神武帝が密かに軍を率いて襲撃した。劉蠡升が軽騎を率いて外に出て徴兵している時、その北部王に殺され、首を斬られて斉の神武帝に送られた。その衆は再び劉蠡升の第三子の南海王を立てて主とし、兵を率いて抵抗した。斉の神武帝がこれを撃滅し、その偽主およびその弟の西海王、ならびに皇后・夫人・王公以下四百余人を捕らえ、鄴に帰した。
河西に居住する者は、多く険阻を恃んで服従しなかった。当時はちょうど斉の神武帝と覇権を争っている最中で、経略する暇がなかった。太祖はそこで黄門郎楊𢷋を遣わしてこれを安撫させた。五年 (539年) 、黒水部の衆が先に叛いた。七年 (541年) 、別帥の夏州刺史劉平伏がまた上郡に拠って反乱を起こした。これより以後、北山の諸部は、連年にわたって寇暴を働いた。太祖は前後して李遠・于謹・侯莫陳崇・李弼らを相次いで遣わしてこれを討ち平らげた。武成初年 (559年) 、延州の稽胡郝阿保・郝狼皮がその種族を率いて斉氏 (北斉) に附いた。郝阿保は自ら丞相を称し、郝狼皮は自ら柱国を称し、その別部の劉桑徳と共に呼応した。柱国豆盧寧が諸軍を督し、延州刺史高琳と共にこれを撃破した。二年 (560年) 、郝狼皮らの余党が再び叛いた。詔により大将軍韓果がこれを討ち、捕虜と斬首は甚だ多かった。
保定年間 (561–565) 、離石の生胡がしばしば汾水の北を寇掠し、勳州刺史韋孝寬は険要の地に城を築き、兵糧を置いてその通路を遮断した。楊忠が突厥とともに北齊を討伐した際、稽胡らはまたもや抵抗を企て、糧秣を供給しなかった。楊忠はその酋帥を欺き、突厥とともに軍を返して彼らを討とうとしていると偽った。酋帥らは恐れ、相次いで供給を行った。詳細は楊忠伝にある。その後、丹州・綏州・銀州などの管内の諸胡は、蒲川の別帥郝三郎らとともにまた頻繁に命令に背いた。再び詔により達奚震・辛威・于寔らが前後して徹底的に討伐し、その種族を散亡させた。天和二年 (567) 、延州総管宇文盛が軍を率いて銀州に城を築くと、稽胡の白郁久同・喬是羅らが宇文盛の軍を邀撃しようとし、宇文盛はこれを討ち斬った。またその別帥喬三勿同らを撃破した。五年 (570) 、開府劉雄が綏州から出て北辺を巡検したところ、川路の稽胡帥喬白郎・喬素勿同らが河を渡って逆戦し、劉雄は再びこれを撃破した。
建德五年 (576) 、高祖 (武帝) が 晉 州で齊軍を破り、勝ちに乗って敗軍を追撃した。齊人が棄てた甲冑兵器は、まだ収拾する暇もなく、稽胡が隙に乗じて密かに出て、これをことごとく盗み取った。そこで蠡升の孫の沒鐸を立てて主とし、聖武皇帝と号し、年号を石平と称した。六年 (577) 、高祖が東夏を平定し、これを討とうとし、その巣穴を窮めることを議した。齊王憲は、種類がすでに多く、また山谷が阻絶しているため、王師が一挙に出動しても、尽く除くことはできまい。まずその魁首を剪り、残りは慰撫を加えるべきであると論じた。高祖はこれをよしとし、憲を行軍元帥とし、行軍総管趙王招・譙王儉・滕王逌らを督して討伐させた。憲の軍は馬邑に駐屯し、分道してともに進んだ。沒鐸はその党の天柱に河東を守らせ、またその大帥穆支に河西を占拠させ、険要を分かち守り、憲の軍を掎角しようと図った。憲は譙王儉に天柱を攻めさせ、滕王逌に穆支を撃たせ、ともにこれを破り、首級一万余を斬った。趙王招はまた沒鐸を生け捕りにし、残りの衆はことごとく降伏した。
宣政元年 (578) 、汾州の稽胡帥劉受羅千がまた反逆し、越王盛が諸軍を督してこれを討ち擒らえた。これより寇盗はようやく息んだ。
庫莫奚
庫莫奚は、鮮卑の別種である。その祖先は慕容晃に撃破され、松漠の間に逃げ込んだ。後に種類が次第に増え、五部に分かれた。第一を辱紇主、第二を莫賀弗、第三を契箇、第四を木昆、第五を室得という。各部ごとに俟斤一人を置いた。阿會氏という者がおり、最も豪族の帥であり、五部はみなその節度を受けた。突厥に隷属し、しばしば契丹と攻め合った。虜獲した財畜によって賞を行った。死者は葦の薄で屍を包み、樹上に懸けた。大統五年 (539) 、使いを遣わしてその地方の産物を献上した。
史臣が曰く、およそ民は天地に形を 肖 り、陰陽に霊を 稟 くる。愚智は自然に本づき、剛柔は水土に係る。故に雨露の会する所、風流の通ずる所、九川を紀とし、五嶽を鎮とす、これを諸夏と謂う。その地に生まれる者は、則ち仁義ここより出ず。昧谷・嵎夷・孤竹・北戸は、丹徼紫塞を限りとし、滄海交河を隔てとす、これを荒裔と謂う。その気に感ずる者は、則ち凶徳ここに成る。若し夫れ九夷八狄、 種落繁熾 く、七戎六蠻、辺鄙に 充牣 つ。風土殊俗、嗜欲同じからずと雖も、貪にして厭くことなく、 狠 にして乱を好み、強ければ旅拒し、弱ければ稽服するに至っては、その 揆 一なり。これ蓋し天の命ずる所、これを然らしむるか。