周書
卷四十八 列傳第四十 蕭詧
蕭詧は字を理孫といい、蘭陵の人である。梁の武帝の孫であり、昭明太子蕭統の第三子である。幼少より学問を好み、文章を綴ることに長じ、特に仏教の義理に通じていた。特に梁の武帝に賞賛された。梁の普通六年 (525年) 、曲江県公に封ぜられる。中大通三年 (531年) 、岳陽郡王に進封された。宣恵将軍、石頭戍事を管轄し、琅邪・彭城二郡太守、東揚州刺史を歴任した。初め、昭明太子が薨去すると、梁の武帝は蕭詧兄弟を退けて簡文帝を立てたが、内心常にこれを恥じ、諸子に次ぐ寵愛を与え、会稽は人物が豊かで一大都会であることから、この任を与えてその心を慰めたのである。蕭詧は兄弟が後継者となれなかったことを不満に思い、また梁の武帝が老衰し、朝廷に悪政が多いことから、敗亡の兆しがあると見て、ひそかに財貨を蓄え、賓客と交わり、軽侠の徒を募り、身分を低くしてこれに接した。勇敢な者たちは多く帰順し、側近は数千人に及び、皆手厚く資金を与えた。
中大同元年 (546年) 、持節、 都督 雍梁東益南北秦五州・ 郢州 の竟陵・司州の随郡諸軍事、西中郎将を拝命し、寧蛮 校尉 を兼任し、雍州刺史となった。蕭詧は襄陽が要害の地であり、また梁の武帝が創業の地とした所であることから、平時には基盤を築くに足り、乱世には覇業を図ることができると考え、自らを律して節操を励まし、百姓に恩恵を施し、刑政を整えることに務め、民を安んじ養うことを志した。そこで教令を下して言うには、
これにより管内は治まると称された。
太清二年 (548年) 、梁の武帝は蕭詧の兄の河東王蕭譽を湘州刺史とし、湘州刺史の張纘を雍州に移して蕭詧の後任とした。張纘はその才能と声望を恃み、志気が傲慢で、蕭譽を若輩と軽んじ、州府の出迎えにも手落ちがあった。蕭譽は深くこれを恨んだ。任地に着くと、病気と称して張纘と会おうとしなかった。後に侯景の乱が起こると、張纘をしばしば迫害した。張纘は捕らえられることを恐れ、小船で夜中に逃げ出し、雍州へ向かおうとしたが、また蕭詧に拒まれることを懸念した。梁の元帝 (蕭繹) は当時江陵に鎮しており、張纘とは旧知の仲であったので、張纘はこれに頼って蕭詧兄弟を滅ぼそうとした。折しも梁の元帝と蕭誉、および信州刺史・桂陽王蕭慥がそれぞれ軍勢を率いて金陵救援に向かっていた。蕭慥は三峡を下って江津に至り、蕭誉は江口に駐屯し、梁の元帝は郢州の武成に到着した。ちょうど侯景が和を請うたため、梁の武帝は援軍の派遣停止を命じた。蕭誉は江口から湘州の任地に戻ろうとしたが、蕭慥は梁の元帝が到着するのを待ち、 都督 府に謁見してから帰州しようとした。張纘は当時江陵におり、梁の元帝に書を送って言うには、「河東王 (蕭誉) は帆を上げて上流に向かい、江陵を襲おうとしています。岳陽王 (蕭詧) は雍州におり、共に不逞の謀を巡らしています」と。江陵の遊軍主の朱栄もまた使者を遣わして、「桂陽王 (蕭慥) がここに留まっているのは、蕭誉と蕭詧に呼応するためです」と報告した。梁の元帝はこれを信じ、船を沈め米を捨て、船の纜を断って帰還した。江陵に着くと、蕭慥を捕らえて殺害した。その子の蕭方等や王僧辯らに命じて相次いで湘州の蕭誉を攻撃させた。蕭誉はまた蕭詧に危急を告げた。蕭詧はこれを聞いて大いに怒った。
初め、梁の元帝が建業救援に向かう際、管轄する諸州に命じて、一斉に兵を発して国難に赴かせた。蕭詧は府司馬の劉方貴に兵を率いさせて前軍とし、漢口から出撃させた。出発しようとした時、元帝はまた諮議参軍の劉瑴を遣わして蕭詧を諭し、自ら出陣するよう命じた。蕭詧の返答は甚だ不遜であり、元帝もまた怒った。一方、劉方貴は以前から蕭詧と不仲であり、密かに元帝と通じ、期日を定めて蕭詧を襲撃しようとしていた。発する前に、蕭詧が別件で劉方貴を召し出したため、劉方貴は謀が露見したかと疑い、樊城を占拠して命令に従わなかった。蕭詧は使者の魏益徳・杜岸らに諸軍を率いてこれを攻撃させた。劉方貴は窮地に陥り、その子の劉遷超を江陵に遣わして援軍を請わせた。元帝は張纘に多額の資金を与えて派遣し、あたかも職務報告をするかのように装わせつつ、密かに劉方貴を支援した。張纘が大堤に到着した時、樊城は既に陥落していた。蕭詧は劉方貴兄弟とその一味を捕らえ、ことごとく斬殺した。
張纘はそこで (雍州の) 州治に進んだ。蕭詧は引き延ばして交替を受けず、西城に張纘を住まわせ、礼をもって遇した。軍政・民政は依然として蕭詧に帰属した。蕭詧は兄弟の不和が張纘から始まったと考え、密かに彼を除こうと図った。張纘は恐れ、元帝に召還を請うた。元帝は蕭詧に対して張纘の召還を命じたが、蕭詧は留めて送り返さなかった。杜岸兄弟は張纘を欺いて言うには、「民 (私) の見るところ、岳陽王殿下はあなたを容れる気はありません。西山に暫く身を寄せて、この禍を避けられたら如何でしょう。あなたは既に人心を得ておられますから、遠近の者が必ず帰参し集まるでしょう。この義挙をもってすれば、事は成らぬことはありません」と。張纘は大いに尤もと思い、そこで杜岸らと盟誓を結んだ。張纘はまた雍州人の席引らを西山で集結させた。張纘はそこで婦人の衣を着て、青い布の輿に乗り、親信十余人とともに出奔した。席引らと杜岸は急いで蕭詧に報告した。蕭詧は中兵参軍の尹正に命じ、杜岸らと共に兵を率いて追討させ、ことごとく捕らえた。張纘は死を免れぬと恐れ、僧侶になることを請うた。
蕭詧は当時、蕭誉の危急を慮り、諮議参軍の蔡大寶に襄陽を守らせ、二万の兵と千騎を率いて江陵を討ち、蕭誉を救援した。この時、江陵には柵が築かれ、城郭を周囲に巡らせていたが、北面は未完成であった。蕭詧はこれを攻撃した。元帝は大いに恐れ、参軍の庾㚟を遣わして蕭詧に言わせた。「正徳 (蕭正徳) が乱を起こし、天下は離散している。汝までがその悪を真似て、何をしようというのか。我は先帝 (宮とあるが帝の誤りか) の寵愛を受け、汝兄弟を託された。今、甥が叔父を討つとは、逆と順はどこにあるのか」と。蕭詧は庾㚟に言った。「家兄に罪はなく、累ねて攻囲されています。兄弟の情として、どうして成敗を傍観できましょうか。七父 (蕭繹) が先帝の恩を顧みるなら、どうしてこのようなことをなさるのでしょう。もし湘水まで兵を退かれるなら、私は直ちに軍旗を返して襄陽に帰りましょう」と。
蕭詧は柵を攻め落とせず、退いて城を築いた。また精鋭を尽くして攻撃した。折しも大雨が激しく降り、平地に四尺の水が溜まり、蕭詧軍はびしょ濡れとなり、兵士の心はかなり離反した。その将の杜岸、岸の弟の杜幼安、およびその兄の子の杜龕は、蕭詧が振るわないのを恐れ、配下を率いて江陵に降伏した。蕭詧軍は大いに驚き、その夜のうちに襄陽へ逃げ帰り、武器や輜重の多くは湕水に沈んだ。初め、蕭詧は張纘を軍中に囚えていたが、この時、まず張纘を殺してから退却した。
杜岸が降伏した際、五百騎を率いて襄陽を襲撃することを請うた。城から三十里の地点で、城中に気付かれた。蔡大宝は蕭詧の母の保林龔氏を補佐し、城壁に登って門を閉ざし防戦した。折しも蕭詧が夜中に到着し、龔氏はその敗北を知らず、賊と思い、夜明けに蕭詧を見て、ようやく城内に入れた。杜岸らは蕭詧が到着したと知り、その兄の杜巘を頼って広平に逃げた。蕭詧は将の尹正・薛暉らを遣わしてこれを攻め落とし、杜巘・杜岸らを捕らえ、その母・妻子・娘とともに、ことごとく襄陽の北門で殺害した。杜氏の宗族で親しい者は全て誅殺し、幼い者や疎遠な親族は去勢した。また彼らの墳墓を発掘し、骸骨を焼き、灰にして撒き散らした。
蕭詧は江陵 (梁の元帝) と不和を生じた後、自らを保てぬことを恐れ、西魏の大統十五年 (549年) 、使者を遣わして藩属を称し、附庸となることを請うた。太祖 (宇文泰) は丞相府東閣祭酒の栄権を使者として派遣した。蕭詧は大いに喜んだ。この年、梁の元帝は柳仲礼に命じて軍勢を率いさせ、襄陽攻略を図らせた。蕭詧は恐れ、その妻の王氏と世子の蕭嶚を人質として送り、救援を請うた。太祖はまた栄権に返答の使命を与え、さらに開府の楊忠に兵を率いて救援させた。十六年 (550年) 、楊忠は柳仲礼を捕らえ、漢東を平定したので、蕭詧はようやく安泰を得た。当時、朝廷の議論では蕭詧に喪を発して (梁の武帝の後を継ぎ) 即位させることを望んだが、蕭詧は正式な詔命がないとして、辞退して敢えて受けなかった。栄権は当時蕭詧の下にいたので、馳せ戻って詳しく状況を報告した。太祖はそこで 散騎常侍 の鄭穆と栄権に仮の節を持たせ、策命して蕭詧を梁王に封じた。蕭詧はそこで襄陽に百官を置き、制を承って封爵・任官を行った。十七年 (551年) 、蕭詧は蔡大宝に留守を任せ、自ら襄陽から来朝した。太祖は蕭詧に言った。「王がここに来られたのは、栄権による所が大きい。王は彼に会いたいか」と。蕭詧は言った。「誠に幸いです」と。太祖はそこで栄権を召し出して蕭詧と会わせた。そして蕭詧に言った。「栄権は善士である。寡人が彼と事を共にして以来、一度もその信を失うところを見たことがない」と。蕭詧は言った。「栄常侍は二国の間を公平に通訳し私心がなかったからこそ、蕭詧は今、魏の朝廷に誠を帰すことができたのです」と。
魏の恭帝元年 (554年) 、太祖 (宇文泰) は柱国于謹に命じて江陵を討伐させ、蕭詧は兵を率いてこれに合流した。江陵が平定されると、太祖は蕭詧を梁主として立て、江陵の東城に居住させ、江陵一州の地を資材として与えた。その襄陽の統治区域は、すべて我が方に帰属した。蕭詧はそこで自国において皇帝を称し、年号を大定と定めた。父の蕭統を追尊して昭明皇帝とし、廟号を高宗とし、蕭統の妃蔡氏を昭徳皇后とした。また、生母の龔氏を尊んで皇太后とし、妻の王氏を皇后に立て、子の蕭巋を皇太子とした。その慶賞と刑罰の権威、官制と制度は、すべて王者と同様であった。ただ上疏する際には臣と称し、朝廷の正朔 (暦) を奉じた。その臣下への爵位授与については、やはり梁氏の旧制に依拠した。その軍功の等級については、さらに柱国などの官を兼用した。また、叔父の邵陵王蕭綸を追贈して太宰とし、諡を壮武とした。兄の河東王蕭譽を追贈して丞相とし、諡を武桓とした。太祖はそこで江陵防主を置き、兵を統率して西城に駐屯させ、名目上は助防と称した。外見上は蕭詧の防備を助けると示しながら、内実は兼ねて蕭詧を防備するものであった。
初め、江陵が滅亡した時、梁の元帝の将軍王琳が湘州を占拠し、復興を志していた。蕭詧が立つと、王琳はその将軍潘純陁・侯方児を派遣して侵攻させた。蕭詧は軍を出してこれを防ぎ、純陁らは退いて夏口に帰った。蕭詧の四年 (558年) 、蕭詧はその大将軍王操に命じて兵を率い、王琳の長沙・武陵・南平等の郡を攻略させた。五年 (559年) 、王琳はまたその将軍雷又柔を派遣して監利郡を襲撃陥落させ、太守蔡大有はこれに戦死した。まもなく王琳は陳と対峙し、蕭詧に藩属を称して援軍を請うた。蕭詧はこれを許諾した。軍が未だ出発しないうちに王琳の軍は敗北し、斉に帰順した。この年、その太子蕭巋が京師に来朝した。蕭詧の六年 (560年) 夏、雷鳴があり、その前殿が崩壊し、二百余人が圧死した。
初め、江陵が平定された時、蕭詧の将軍尹徳毅が蕭詧を説いて言った。「臣は聞く、君主の行いは、匹夫とは異なると。匹夫とは、小さな行いを飾り、小さな廉潔を競い、名誉を取るものである。君主とは、天下を定め、社稷を安んじ、大功を成すものである。今、魏の虜 (于謹らの軍) は貪婪で、民を憐れみ罪を討つ大義を顧みず、必ずやその残忍をほしいままにし、多くを誅殺し、士人や庶民を捕虜とし、すべて軍の実 (戦利品) としようとしている。しかし、このような者たちの親族は、皆江東にいる。彼らが豺狼の餌食となることを思い、異域に囚われるのを見るのは、痛心疾首、何日かこれを忘れられようか。殿下はまさに宇宙を清め、この大業を継承されようとしている。悠悠たる人々には、戸毎に説いて回ることはできない。彼らが塗炭の苦しみに至ったのは、皆、殿下がなされたものと思っている。殿下はすでに人の父兄を殺し、人の子弟を孤児にした。人は皆仇敵であり、誰が国に尽くそうか。ただ、魏の精鋭は、すべてここに集結している。軍を労う礼は、先例がないわけではない。もし殿下が宴会を設け、それに乗じて于謹らを招いて歓待を請う。彼らは我々を疑わず、相率いて来るであろう。あらかじめ武士を伏せておき、その機に乗じて彼らを斃す。果毅の将に命じて分進し、その営塁を襲い、逃亡する醜虜を斬り、一人も生き残らせぬようにする。江陵の百姓は、慰撫して安んじ、文武の官僚は、ただちに選任して官職を授ける。すでに更生の恵みを蒙れば、誰が欣んで聖明を戴かぬことがあろうか。魏人は息をひそめ、敢えて死を送ることはできまい。王僧辯の徒は、書簡一通で招くことができる。その後、朝服を着て江を渡り、入って皇極に践み、堯の業を継ぎ禹の跡を復するは、万世に一度の時である。わずかな時間のうちに、大功を立てることができる。古人が云う、『天が与えて取らねば、かえって咎を受ける。時が至って行わねば、かえって禍いを受ける』と。願わくは殿下、遠大な謀略を広げられ、匹夫の行いを懐かれることなかれ」。蕭詧は従わず、徳毅に言った。「卿のこの策は、善くないわけではない。しかし魏人は我を厚く遇しており、その徳に背くことはできない。もし急に卿の計略を用いれば、かつて鄧祁侯が言ったように、人は我が余り物すら食わなくなるであろう」。
その後、城の老若すべてが捕虜として関中に入れられ、さらに襄陽の地も失った。蕭詧はそこで後悔して言った。「尹徳毅の言葉を用いなかったことを恨む。このような事態に至ったのは」。また、邑の住居が破壊され、戦乱が日常的に用いられるのを見て、その威略が振るわないことを恥じ、常に憂い憤りを抱いた。そこで『愍時賦』を著してその意を表した。その詞は次のようである。
蕭詧は在位八年、年四十四にして、保定二年 (562年) 二月に薨去した。その群臣らは彼を平陵に葬り、諡を宣皇帝、廟号を中宗とした。
蕭詧は若い時から大志を持ち、小さな節義に拘らなかった。猜疑心は多かったが、人を知り善く任用し、将士を慰撫して恩恵を与え、その死力を得ることができた。性来酒を飲まず、倹素に安んじ、母に仕えることは孝行として知られた。また、声色を好まず、特に婦人を見ることを嫌い、たとえ数歩離れていても、遠くからその臭いを嗅ぎつけた。婦人が着用した衣服は、二度と再び着用しなかった。また、人の髪を見ることを嫌い、報告する者は必ず便宜を図ってこれを避けた。東揚州にいた時はかなり放誕で、簿領 (文書) を省みる際、戯れた議論を好み、このため世に嘲笑された。文義を篤く好み、著した文集十五巻、内典 (仏典) の『華厳』『般若』『法華』『金光明』の義疏四十六巻が、ともに世に行われた。蕭詧は疆土が既に狭く、常に怏怏として不満であった。しばしば「老いたる馬は櫪に伏すとも、志は千里に在り。烈士暮年、壮心已まず」と誦し、その度に眉を上げて腕を扼み、嘆息し憤慨すること久しかった。ついに憂憤のため背中に腫物ができて死去した。高祖 (宇文邕) はまたその太子蕭巋に命じて位を継がせ、年号を天保とした。
蕭巋は字を仁遠といい、蕭詧の第三子である。機知に富み弁舌に優れ、文学があった。撫御に長け、その部下の歓心を得ることができた。位を継いだ元年 (562年) 、祖母の龔太后を尊んで太皇太后とし、嫡母の王皇后を尊んで皇太后とし、生母の曹貴嬪を尊んで皇太妃とした。その年の五月、その太皇太后が薨去し、諡を元太后とした。九月、その太妃がまた薨去し、諡を孝皇太妃とした。二年 (563年) 、皇太后が薨去し、諡を宣静皇后とした。
五年 (566年) 、陳の湘州刺史華皎と巴州刺史戴僧朔がともに来て帰順した。華皎はその子の玄響を蕭巋のもとに人質として送り、兵を請うて陳を討伐しようとした。蕭巋はその状況を上奏した。高祖は詔を下し、衛公宇文直に荊州総管権景宣・大将軍元定らを督させて赴かせた。蕭巋もまたその柱国王操に水軍二万を率いさせ、巴陵で華皎と合流させた。まもなく陳の将軍呉明徹らと沌口で戦い、宇文直の軍は不利となり、元定はついに戦没した。蕭巋の大将軍李広らもまた陳人に捕虜とされ、長沙・巴陵はともに陳に陥落した。衛公宇文直はそこで罪を蕭巋の柱国殷亮に帰した。蕭巋は、敗退の原因が殷亮一人にあるとは思わなかったが、命令に背くことはできず、ついに彼を誅殺した。呉明徹は勝ちに乗じて蕭巋の河東郡を攻め落とし、その守将許孝敬を捕らえた。翌年、明徹は進軍して江陵を侵し、江水を引いて城を灌漑した。蕭巋は出て紀南に駐屯し、その鋭鋒を避けた。江陵副総管高琳とその尚書僕射王操が防戦した。蕭巋の馬軍主馬武・吉徹らが明徹を撃ち、これを破った。明徹は退いて公安を守った。蕭巋はそこで江陵に帰還した。
蕭巋の八年 (569年) 、陳はまたその 司空 章昭達を派遣して侵攻させた。江陵総管陸騰および蕭巋の将士がこれを撃退した。昭達はまた章陵の青泥を侵した。蕭巋はその大将軍許世武に命じて救援に赴かせたが、大いに昭達に撃破された。
初め、華皎・戴僧朔は衛公宇文直に従って陳人と戦って敗れ、その麾下数百人を率いて蕭巋に帰順した。蕭巋は華皎を 司空 とし、江夏郡公に封じた。僧朔を車騎将軍とし、呉興県侯に封じた。蕭巋の十年 (571年) 、華皎が来朝した。襄陽に至り、衛公宇文直に請うて言った。「梁主はすでに江南の諸郡を失い、民は少なく国は貧しい。朝廷が亡国を興し絶えた家を継ぐにあたり、理として資助すべきであり、どうして斉の桓公や楚の荘王だけが、衛を救い陳を復興させる美事を独占させようか。数州をお借りして、梁国を補いたい」。宇文直はこれを認め、使者を遣わして状況を高祖に上奏した。高祖はこれを許し、詔を下して基・平・鄀の三州を蕭巋に帰属させた。
高祖が北斉を平定した時、蕭巋は鄴に朝見した。高祖は礼をもって接したが、未だ彼を重んじなかった。巋はこれを知り、後に宴席の機会を捉え、その父が太祖 (宇文泰) の救済の恩を受けたこと、および両国の艱難と唇歯輔車の関係について述べた。言葉と道理は明晰で流暢であり、涙を流して泣いた。高祖もまたこれに感嘆した。これ以降、大いに賞賛し待遇は日増しに厚くなった。後に高祖が再び彼と宴を催した時、北斉の旧臣吒列長义も同席していた。高祖は指さして巋に言った、「これは城壁の上で朕を罵った者である」と。巋は言った、「長义は桀を補佐できず、翻って敢えて堯に吠えるとは」と。高祖は大笑した。酒が酣になった時、高祖はまた琵琶を自ら弾いた。そして巋に言った、「梁主のために心ゆくまで楽しもう」と。巋は立ち上がり、舞を請うた。高祖は言った、「梁主は朕のために舞うことができるのか」と。巋は言った、「陛下が既に自ら五絃を撫でられるのであれば、臣どうして百獣と同じくせぬことがありましょうか」と。高祖は大いに喜び、雑色の絹織物一万段、良馬数十匹を賜り、さらに北斉後主の妓妾、および常に乗っていた五百里を走る駿馬を贈った。
隋の文帝が政権を執った時、尉遅迥、王謙、司馬消難らがそれぞれ兵を起こした。当時、巋の将帥は皆密かに出兵を請い、迥らと連衡の勢いをなし、進んでは周氏に節を尽くし、退いては山南を席卷できると説いた。巋は固く不可であるとした。間もなく消難は陳に奔り、迥らは相次いで滅ぼされた。
隋の文帝が即位すると、恩礼はますます厚くなった。使者を遣わして金三百両、銀一千両、布帛一万段、馬五百匹を賜った。開皇二年、隋の文帝は礼を整えて巋の娘を晋王 (楊広) の妃として迎え入れた。またその子蕭瑒に蘭陵公主を娶らせようとした。これにより江陵総管を廃し、巋がその国を専制するようになった。四年、巋は長安に来朝し、隋の文帝は大いに敬意をもって遇した。詔して巋の位を王公の上とし、縑一万匹を賜い、珍玩もこれに相当するものを与えた。帰還する際、自らその手を執って言った、「梁主は長く荊・楚の地に滞在し、旧都を回復せず、故郷を思う念は、誠に胸に痛む。朕は長江に軍を振るい、君が帰還するのを見送ろう」と。
巋は在位二十三年、年四十四にして、五年五月に薨去した。その群臣は彼を顕陵に葬り、諡して孝明皇帝とし、廟号を世宗とした。
巋は孝悌慈仁であり、君主としての度量があった。四季の祭祀には必ず悲しみ慕って涙を流した。性質は特に倹約を旨とし、臣下を統御する方法に長け、境内は治まっていると称された。著した文集および『孝経』『周易』の義記、ならびに大小乗の幽微に関する書は、ともに世に行われた。隋の文帝はまたその太子蕭琮に位を嗣がせ、年号を広運とした。
蕭琮は字を温文という。性質は倜儻として羈絆されず、博学で文義に通じ、弓馬をも兼ねて善くした。初め東陽王に封ぜられ、まもなく皇太子に立てられた。位を嗣いだ時、隋の文帝は琮の叔父蕭岑を朝に召し、そのまま留めて帰さなかった。再び江陵総管を置いてこれを監視させた。
琮の二年、隋の文帝はまた琮を召して入朝させた。琮はその臣下二百余人を率いて長安に朝見した。隋の文帝は武郷公崔弘度に兵を率いさせて江陵を戍守させた。軍が鄀州に至ると、琮の叔父蕭巌および弟蕭瓛らは弘度が不意に襲撃することを恐れ、住民を虜にして陳に奔った。隋の文帝はここにおいて梁国を廃し、江陵の死罪を特別に赦し、民に十年の租税免除を与えた。梁の二主 (蕭詧、蕭巋) にはそれぞれ墓守十戸を与えた。まもなく琮を柱国に拝し、莒国公に封じた。
蕭詧が初め即位した年は乙亥の年であり、ここに至る年は丁未の年、合わせて三十三年であった。
蕭詧の子、蕭嶚は孝恵太子と追諡された。蕭巌は安平王に封ぜられた。蕭岌は東平王に封ぜられた。蕭岑は河間王に封ぜられ、後に改めて呉郡王に封ぜられた。蕭巋の子、蕭瓛は義興王、蕭瑑は晋陵王、蕭璟は臨海王、蕭珣は南海王、蕭瑒は義安王、蕭瑀は新安王である。
蕭詧が藩王であった時および帝位にあった時、蔡大寶を股肱とし、王操を腹心とし、魏益徳、尹正、薛暉、許孝敬、薛宣を爪牙とし、甄玄成、劉盈、岑善方、傅準、褚珪、蔡大業に衆務を司らせた。張綰は旧臣として顕位にあり、沈重は儒学をもって厚礼を受けた。その他多くを奨励抜擢し、皆その器能を尽くさせた。蕭巋が業を継ぐと、親族と賢人を併用し、将相には華皎、殷亮、劉忠義を、宗室には蕭欣、蕭翼を、民望には蕭確、謝温、柳洋、王湜、徐岳を、外戚には王凝、王誦、殷璉を、文章には劉孝勝、范迪、沈君游、沈君公、柳信言を、政事には袁敞、柳庄、蔡延寿、甄詡、皇甫茲を用いた。故にその疆土を保ち、その民人を和することができたのである。
ここに蕭詧の子蕭嶚らおよび蔡大宝以下特に著名な者を記載し、左に附す。梁・陳・隋に既に伝がある者、および蕭巋の諸子で未だ職に就いていない者は、兼ねて記録しない。
蕭嶚は字を道遠といい、蕭詧の長子である。母は宣静皇后という。幼くして聡明で敏速、成人の度量があった。蕭詧が梁主となった時、世子に立てられた。まもなく病没した。蕭詧が帝を称すると、追諡された。
蕭巌は字を義遠といい、蕭詧の第五子である。性質は仁厚で、人を撫で接することを善くした。侍中・荊州刺史・ 尚書令 ・太尉・太傅を歴任した。陳に入り、平東将軍・東揚州刺史を授けられた。陳が滅亡した時、百姓が巌を推して主とし、隋軍を防がせた。総管宇文述に撃破され、長安で処刑された。
蕭岌は蕭詧の第六子である。性質は淳朴で温和、幼くして学を好んだ。位は侍中・中衛将軍に至った。蕭巋の五年に卒し、侍中・ 司空 を追贈された。諡は孝という。
蕭岑は字を智遠といい、蕭詧の第八子である。位は太尉に至った。性質は簡素で尊大、部下を統御するに厳格であった。蕭琮が位を嗣ぐと、自ら声望高く尊属であることを恃み、頗る法に背くことがあったため、隋の文帝が朝に召し入れたのである。大将軍に拝し、懐義郡公に封ぜられた。
蕭瓛は字を欽文といい、蕭巋の第三子である。幼少より美しい評判があり、文章を綴ることができ、特に蕭巋に寵愛された。位は荊州刺史に至った。初め、隋の軍が鄀州に至ると、梁の百官は皆恐れおののき、どうすべきか方策がなかった。ただ蕭瓛のみが南へ奔ることを建議した。陳に入り、侍中・安東将軍・呉州刺史を授けられた。陳が滅亡すると、呉の人々が彼を主に推戴して隋軍を防ごうとした。戦って敗れ、蕭巌と同時に刑に伏した。
蔡大寶は字を敬位といい、済陽郡考城県の人である。祖父の蔡履は、斉の尚書祠部郎であった。父の蔡点は、梁の尚書儀曹郎・南兗州別駕であった。
大寶は幼くして孤児となったが、篤学で倦まず、文章を綴ることを得意とした。初め明経の科挙で対策第一となり、武陵王国左常侍として官途に就いた。かつて書簡を以て僕射徐勉に干謁し、大いに徐勉に賞賛され、その子と交遊させることを命じ、所有する典籍を全て与えた。そこで群書を博覧し、学んで綜らざるものはなかった。蕭詧が初めて邸を出た時、徐勉は大寶を侍読として推薦し、記室を兼ねて掌らせた。まもなく尚書儀曹郎に任じられた。蕭詧が会稽に出鎮すると、大寶は記室となり、長流を領した。蕭詧が襄陽に莅むと、諮議参軍に遷った。梁の元帝が河東王蕭譽と不和になると、蕭詧は大寶を使者として江陵に遣わし様子を観察させた。梁元帝は平素より大寶を知っており、彼に会って大いに喜んだ。そこで自ら作った『玄覧賦』を示し、注釈を命じた。三日で完成した。元帝は大いに嘆賞し、贈り物を厚くした。大寶は帰って蕭詧に報告して言うには、「湘東王 (元帝) には必ず異なる企てがあり、禍乱が起こらんとしています。台城 (朝廷) を援けるべきではありません」と。蕭詧はこれを容れた。梁主となると、中書侍郎に任じ、吏部を兼ねて大選事を掌り、襄陽太守を領し、員外 散騎常侍 ・吏部郎に遷り、まもなく吏部尚書に転じた。軍国のこと、皆その決裁に委ねられた。大将軍を加授され、尚書僕射に遷り、輔国将軍の号を進めた。また使持節・宣恵将軍・雍州刺史に任じられた。
蕭詧が江陵で帝を称すると、侍中・ 尚書令 に徴され、選事に参掌し、さらに雲麾将軍・荊州刺史を加えられた。位を柱国・軍師将軍に進め、太子少傅を領し、安前将軍に転じ、安豊県侯に封ぜられ、邑一千戸を賜った。蕭巋に従って朝に入り、太子少傅を領した。蕭巋が位を嗣ぐと、 司空 ・ 中書監 ・中権大将軍を冊授され、吏部尚書を領した。 司空 を固辞したので、許された。特進を加えられた。蕭巋の三年に卒去した。蕭巋は慟哭し、卒去から葬儀に至るまで三度その喪に臨んだ。 司徒 を追贈され、爵位を公に進められた。諡して文凱といった。蕭詧の廟に配食された。
大寶は性質厳粛で、智謀があり、政事に通暁し、文詞は豊かで速かった。蕭詧の章表・書記・教令・詔冊は、全て大寶が専ら掌った。蕭詧は心を推して委任し、謀主とした。当時の人は、蕭詧が大寶を有するは劉先主が孔明を有するが如しと評した。著した文集三十巻及び『尚書義疏』は共に世に行われた。四人の子があった。
次子の延壽は、器量と識見があり、経籍に広く渉猟し、特に当世の事務に優れていた。蕭詧の娘宣成公主を娶った。中書郎・尚書右丞・吏部郎・御史中丞を歴任した。蕭琮に従って隋に入り、開府儀同三司・秘書丞を授けられた。成州刺史の任で終わった。大寶の弟に大業がいる。
大業は字を敬道という。至行があり、父が没すると、喪に服するに礼を過ぎた。性質は寛恕で、学問は経史に渉猟し、使命を果たす才能があり、たびたび使者として朝廷に赴いた。初め西中郎府参軍として蕭詧に従って出鎮した。蕭詧が帝を称すると、尚書左丞・開遠将軍・監利郡守・ 散騎常侍 ・衛尉卿を歴任した。蕭巋が位を嗣ぐと、都官尚書に遷り、貞毅将軍・漳川太守に任じられた。朝に入り左民尚書・太常卿となった。蕭巋の七年に卒去し、金紫光禄大夫を追贈された。諡して簡といった。五人の子があり、允恭が最も知名である。著作佐郎・太子舎人として起家した。梁滅亡後陳に入り、尚書庫部郎に拝された。陳滅亡後隋に入り、起居舎人を授けられた。
王操は字を子高という。その先祖は、太原郡 晉 陽県の人である。蕭詧の母龔氏の従弟である。祖父の王霊慶は、海塩県令であった。父の王景休は、臨川内史であった。
王操は性質敦厚で、籌略があり、経史に広く渉猟し、公務に忠実勤勉であった。初め蕭詧の外兵参軍となり、親任は蔡大寶に次いだ。蕭詧が制を承けると、尚書左丞に任じられた。帝を称すると、五兵尚書・大将軍・郢州刺史に遷った。まもなく位を柱国に進め、新康県侯に封ぜられた。蕭巋が位を嗣ぐと、鎮右将軍・尚書僕射を授けられた。
呉明徹が侵寇してきた時、蕭巋は紀南に出て駐屯し、王操は将士を慰撫したので、命を用いざる者はなかった。明徹が退くと、江陵は全きを得たが、これは王操の力によるものであった。侍中・中衛将軍・ 尚書令 ・開府儀同三司に遷り、選事に参掌し、荊州刺史を領した。王操は朝の上位に位置したが、常に自らを謙退し、深く当時の称賛を得た。蕭巋の十四年に卒去した。蕭巋は朝堂で哀悼の礼を挙げ、涙を流して群臣に言うには、「天は我に江表を平蕩させず、何ぞ我が賢相を奪うことの速きや」と。葬儀の際には、自ら瓦官門で祖送の礼を行った。 司空 を追贈され、爵位を公に進められた。諡して康節といった。七人の子があった。次子の王衡が最も知名である。才学があり、秘書郎として起家した。太子洗馬・中書侍郎・黄門侍郎を歴任した。
魏益德 〈附〉
魏益德は、襄陽の人である。才幹があり、胆勇人に過ぎた。たびたび軍に従って征討し、功により累進して郡守に至った。蕭詧が襄陽に莅むと、益德をその府司馬とした。蕭詧が制を承けると、将軍に拝された。まもなく大将軍を加えられた。蕭詧が帝を称すると、位を柱国に進め、上黄県侯に封ぜられ、邑千戸を賜り、車騎将軍を加えられた。蕭詧の二年に卒去し、 司空 を追贈された。諡して忠壮といった。爵位を公に進められた。蕭巋の五年、益德を蕭詧の廟に配食した。
尹正 〈附〉
尹正は、その先祖は天水の人である。蕭詧が雍州に莅むと、尹正はその府中兵参軍となった。張纘を擒え、杜岸を獲たのは、皆尹正の力によるものであった。蕭詧が制を承けると、将軍とした。まもなく大将軍に拝された。帝を称すると、護軍将軍に任じ、位を柱国に進め、新野県侯に封ぜられ、邑千戸を賜った。蕭詧の三年に卒去し、開府儀同三司を追贈された。諡して剛といった。蕭巋の五年、尹正を蕭詧の廟に配食した。子の徳毅は、権略多く、位は大将軍に至った。後に疑いを受けて賜死した。
薛暉 〈附〉
薛暉は河東の人である。才略あり。身長八尺、体貌甚だ偉岸なり。嘗て禁旅を督し、詧の爪牙となり、禦侮の任に当たる。尹正と共に杜岸を南陽に攻め獲たり。詧、承制して将軍に拝す。尋ねて大将軍を加えられ、位を柱国に進め、領軍将軍を除せらる。巋の二年、卒す。開府儀同三司を贈らる。六子あり、子建・子尚知名なり。
許孝敬 〈附〉
許孝敬は呉の人、小名は嗣児。勁勇人に過ぎ、詧の 驍 将となる。大将軍として河東を守る。既に救援無く、呉明徹に擒えられ、遂に建康市に戮せらる。車騎大将軍を贈らる。子の世武嗣ぐ。少にして父の大将軍を襲い、勇を好み行檢に拘わらず。賓客を重んじ、施與に節無し。資産既に尽き、鬱鬱として志を得ず、遂に陳に奔らんと謀る。事覚え、誅せらる。
又た大将軍李廣あり、会稽の人。早く詧に事え、敢勇を以て聞こゆ。沌口の役に、先登力戦す。華皎の軍敗るるに及び、呉明徹に擒えらる。将に之を降さんとす。広、辞色屈せず、遂に害せらる。太尉を贈られ、建興県公を追封せらる。諡して忠武と曰う。
甄玄成 〈附〉
甄玄成、字は敬平、中山の人。経史に博達し、属文を善くす。少にして簡文に知らる。録事参軍として詧に随い襄陽に鎮す。中記室参軍に転じ、書記を掌り、頗る政事に参ず。江陵の甲兵殷盛なるを以て、遂に貳心を懐く。密書を梁元帝に与え、其の誠款を申ぶ。遂に其の書を得る者有り、之を進めて詧に上る。詧は深く佛法を信じ、常に法華経を誦する人を殺さざらんことを願う。玄成は素より法華経を誦す、遂に此を以て免るることを獲たり。詧後に之を見て、常に曰く「甄公は法華経の力を得ることを好む」と。歴位して中書侍郎・御史中丞・祠部尚書・吏部尚書。詧の六年、卒す。侍中・護軍将軍を贈らる。文集二十巻あり。子の詡、少にして沈敏、政事に閑習す。歴て中書舎人・尚書右丞。琮に従い隋に入り、開府儀同三司を授けられ、終に太府少卿に至る。
劉盈 〈附〉
劉盈は彭城の人、西中郎府録事参軍として詧に随い鎮す。器度有り、公に在りて勤む。詧の軍国経謀、頗る参預を得たり。歴て黄門郎・ 中書監 ・雍州刺史・尚書僕射。巋の七年、卒す。本官を贈らる。第三子の然、時に頗る知名なり。隋の鷹撃郎将。
岑善方 〈附〉
岑善方、字は思義、南陽棘陽の人、漢の征南大将軍岑彭の後なり。祖は惠甫、給事中。父は昶、散騎侍郎。
善方は器局有り、経史を博綜し、辞令に善し。刑獄参軍として詧に随い襄陽に至る。詧初めて内附を請うに当たり、善方を以て記室を兼ね、使を充てて闕に詣らしむ。応對閑敏、深く太祖に嘉せらる。此より往来、凡そ数十反す。魏恭帝二年、驃騎大将軍・開府儀同三司を授けられ、長寧県公に封ぜらる。詧の承制するや、中書舎人を授け、襄陽郡守に遷る。帝と称するに及び、太舟卿に徴され、中書舎人を領し、太府に転じ、舎人を領すること故の如し。尋ねて 散騎常侍 ・起部尚書に遷る。善方の性清慎、当世の幹能有り、故に詧機密を委ぬ。詧の七年、卒す。太常卿を贈らる。諡して敬と曰う。著する所の文集十巻。
七子有り、竝びに操行有り。之元・之利・之象最も知名なり。之元は太子舎人、早卒す。高祖、善方の使を充つる功を録し、之利・之象を追いて朝に入らしむ。之利に帥 都督 ・代王記室参軍を授く。後に隋に仕え、歴て安固令・郴義江三州司馬・零陵郡丞。之象は掌式中士、隋文帝の相府参軍事。後に隋に仕え、歴て尚書虞部員外郎・邵陵上宜渭南邯鄲四県令。
傅准は北地の人。祖は照、金紫光禄大夫。父は諝、湘東王外兵参軍。准は文才有り、詞賦を善くす。西中郎参軍として詧に随い鎮す。官は度支尚書に至る。巋の七年、卒す。太常卿を贈らる。諡して敬康と曰う。著する所の文集二十巻。二子有り、曰く秉曰く執、竝びに材文史を兼ぬ。秉は尚書右丞。執は中書舎人・尚書左丞。
宗如周は南陽の人。才学有り、容止詳雅なり。府僚として詧に随い、歴て黄門・散騎・列卿、後に度支尚書に至る。巋の九年、卒す。如周は面狭長なり。法華経に「経を聞き随喜すれば、面狭長ならず」と云うを以て、嘗て之に戯れて曰く「卿何ぞ経を謗る」と。如周踧踖し、自ら陳べて謗らざるを言う。詧又た之に初めの如く謂う。如周懼れ、出でて蔡大寶に告ぐ。大宝其の旨を知り、笑いて之に謂いて曰く「君は餘経を謗らざるべく、政に法華を信ぜざるに応ずるのみ」と。如周乃ち悟る。又た嘗て人如周に事を訴うる有り、経に如州官と作るを謂うなり。乃ち曰く「某に屈滞有り、故に来たりて如州官に訴う」と。如周曰く「爾何の小人、敢えて我が名を呼ぶ」と。其の人慙謝して曰く「只だ如州官を如州と作すと言う、知らず如州官の名は如周なるを。早く知らば如州官の名は如周なるを、敢えて喚ばざらん如州官を如周と作すことを」と。如周乃ち笑いて曰く「卿に自責せしむるを命ず、侮られ反って深し」と。衆咸く其の寛雅に服す。七子有り。希顔・希華知名なり。希顔は文学有り、仕えて中書舎人に至る。希華は経術に博通し、荊楚の儒宗となる。
蕭欣は梁武帝の弟安成康王蕭秀の孫、煬王蕭機の子なり。幼くして聰警、墳籍を博綜し、属文を善くす。詧位に践り、欣を以て機の封を襲わしむ。歴て侍中・中書令・尚書僕射・ 尚書令 。巋の二十三年、卒す。 司空 を贈らる。欣は柳信言と、巋の世に当たり、倶に一時の文宗となる。集三十巻有り。又た梁史百巻を著す、乱に遭い本を失う。
柳洋 (附載)
柳洋は河東郡解県の人である。祖父の柳惔は尚書左僕射、父の柳昭は中書侍郎であった。柳洋は若くして文才があり、礼儀と節度をもって自らを律し、王湜とともに風範方正をもって当時に重んぜられた。位は吏部尚書に至り、出て上黄郡太守となった。梁国が廃されると、郡を率いて隋に帰順し、開府儀同三司を授けられた。まもなく卒した。
徐岳 (附載)
徐岳は東海郡の人で、尚書左僕射・開府儀同三司・簡肅公徐勉の末子である。若くして方正であり、経史に広く通じた。初め東陽王蕭琮の師となった。蕭琮が皇太子となると、詹事を授けられた。蕭琮が位を嗣ぐと、侍中・左民尚書に任じられ、まもなく尚書僕射に遷った。蕭琮に従って隋に入り、上開府儀同三司を授けられた。陳州刺史の任で終わった。子の徐凱は秘書郎となった。徐岳の兄の徐矩は文才があり、吏事に巧みであった。しかし貨賄にやや汚れた。位は度支尚書に至った。子の徐敬は鴻臚卿となった。
王㳬 (附載)
王㳬は琅邪郡臨沂県の人である。祖父の王琳は侍中・太府卿、父の王錫は侍中であった。王㳬は若くして美誉があり、蕭詧の妹の廬陵長公主を娶った。秘書郎・太子舎人・宣成王友・廬陵内史を歴任した。蕭詧が帝位に即くと、侍中・吏部尚書を授けられた。蕭巋の四年、使節として朝廷に赴き、賓館において卒した。侍中・右光禄大夫を追贈された。子の王瓘は文詞があり、黄門侍郎となった。王㳬の弟の王湜は方正高雅で器識があった。位は都官尚書に至った。蕭巋の二十年に卒した。子の王懷は秘書郎、隋の沔陽県令となった。
范迪 (附載)
范迪は順陽郡の人である。祖父の范縝は尚書左丞、父の范胥は鄱陽内史であった。范迪は若くして機知と弁舌に富み、文章をよくした。中書黄門侍郎・尚書右丞・ 散騎常侍 を歴任した。蕭巋の十七年に卒した。文集十巻がある。子は范裒である。范迪の弟の范遹は、文采は范迪に劣るが、経術においては勝っていた。位は中衛・東平王長史に至った。
沈君游 (附載)
沈君游は呉興郡の人である。祖父の沈僧畟は左民尚書、父の沈巡は東陽太守であった。沈君游は博学で詞采に富み、位は 散騎常侍 に至った。蕭巋の十二年に卒した。文集十巻がある。
弟の沈君公は、幹局があり、風儀が美しく、文章は典雅端正で、特に蕭巋に重んぜられた。中書黄門侍郎・御史中丞を歴任した。都官尚書から義興王蕭瓛の師となった。蕭瓛に従って陳に奔り、侍中・太子詹事を授けられた。隋が陳を平定した際、蕭瓛とともに江を渡ることを謀った罪により誅殺された。
袁敞 (附載)
袁敞は陳郡の人である。祖父の袁昂は 司空 、父の袁士俊は安成内史であった。袁敞は若くして器量があり、文史に広く渉猟した。吏部郎として使節となり朝廷に赴いた。当時、主事の者が袁敞の班次を陳の使者の後ろにしようとしたが、袁敞は固く命に従わなかった。主事の者が詰問すると、袁敞は答えて言った。「昔、陳の祖父 (陳霸先) は梁の諸侯の下吏に過ぎず、忠義を棄てて江東を盗んだ。今、大周は万国を朝宗させ、礼をもって遠近を招き携えている。もし梁の行人が陳人の後ろに置かれるならば、恐らく人倫の秩序を失うことになろう。これは臣の望むところではない。」主事の者は彼を屈服させることができず、ついにその状況を上奏した。高祖 (宇文邕) はこれを善しとし、詔して袁敞と陳の使者とを別の日に進謁させた。帰還後、上意に適ったとして、侍中に遷り、左民尚書に転じた。蕭琮に従って隋に入り、開府儀同三司を授けられた。譙州刺史の任で終わった。子は袁謐・袁謙である。
史臣が曰く、梁主 (蕭詧) は術策を好み謀略に長け、賢者を知り士を養い、まさに英雄の志、霸王の略があった。淮海が乱れ、骨肉が猜疑し合うに至り、衆を擁して自らを固め、藩臣として内に款服し、ついに全楚を拠有し、衰えた運命を中興した。その領土は旧邦とは異なるが、その位号は昔と同様である。その遺業は遠くに伝わり、数世にわたって国を享けた。これを賢明と言わずして何と言おうか。嗣子 (蕭巋) は旧業を継承し、遺構を増修し、賞罰は中正を得、挙措は方策があった。寇讐に密邇しながらも威略を具挙し、上国に朝宗しては声猷を遠く振るわせた。これこそ継世の令主ではなかったか。