周書

巻047

卷四十七 列傳第三十九 藝術

太祖が天命を受けた初め、天下の分崩に属し、時に戎馬交馳し、而して学術の士蓋し寡く、故に曲芸末技、咸く引納を見る。冀儁・蔣昇・趙文深の徒に至りては、才は昔人に愧ずと雖も、而して名は当世に著し。鄢・郢を剋定するに及び、俊異畢集す。楽茂雅・蕭吉は陰陽を以て顕れ、庾季才は天官を以て称せられ、史元華は相術に奇を擅にし、許奭・姚僧垣は方薬特に妙なり、斯れ皆一時の美なり。茂雅・元華・許奭は、史その伝を失う。季才・蕭吉は、官隋に成る。自余此の篇に紀し、以て遺闕を備うるのみ。

原文 太祖受命之始,屬天下分崩,于時戎馬交馳,而學術之士蓋寡,故曲藝末技,咸見引納。至若冀儁、蔣昇、趙文深之徒,雖才愧昔人,而名著當世。及剋定鄢、郢,俊異畢集。樂茂雅、蕭吉以陰陽顯,庾季才以天官稱,史元華相術擅奇,許奭、姚僧垣方藥特妙,斯皆一時之美也。茂雅、元華、許奭,史失其傳。季才、蕭吉,官成於隋。自餘紀於此篇,以備遺闕云爾。

冀儁、字は僧儁、太原陽邑の人なり。性沈謹にして、隷書を善くし、特に模写に工なり。魏の太昌初め、賀抜岳の墨曹参そうしん軍と為る。岳の害せらるるに及び、太祖記室に引く。時に侯莫陳悦、兵を隴右に阻み、太祖之を平らげんことを志す。乃ち儁に魏帝の勅書を費也頭に与うるを偽らしめ、兵を将いて太祖を助け悦を討たしむ。儁旧勅に依り模写し、及び舍人・主書等の署を代え、真と異なること無し。太祖大いに悦ぶ。費也頭は已に曾て魏帝の勅書を得たり、此の勅を見るに及び、疑いと為さず。遂に歩騎一千を遣わし、太祖の節度を受く。

原文 冀儁字僧儁,太原陽邑人也。性沉謹,善隸書,特工模寫。魏太昌初,為賀拔岳墨曹參軍。及岳被害,太祖引為記室。時侯莫陳悅阻兵隴右,太祖志在平之。乃令儁偽為魏帝勅書與費也頭,令將兵助太祖討悅。儁依舊勅模寫,及代舍人、主書等署,與真無異。太祖大悅。費也頭已曾得魏帝勅書,及見此勅,不以為疑。遂遣步騎一千,受太祖節度。

大統初め、丞相府城局参軍を除かれ、長安ちょうあん県男を封ぜられ、邑二百戸。弘農を復するに従い、沙苑に戦い、爵を進めて子と為り、華州中正に出づ。十三年、襄楽郡守に遷る。尋いで世宗及び宋献公等の隷書を教うるを徴す。時に俗に書学に入る者、亦た束脩の礼を行い、之を謝章と謂う。儁書字の興る所、蒼頡より起これりとし、若し常俗に同じくせば、未だ礼に合わずと為す。遂に太祖に啓し、蒼頡及び先聖・先師に釈奠す。黄門侍郎・本州大中正を除く。累遷して撫軍将軍・右金紫光禄大夫・都督ととく・通直散騎常侍さんきじょうじ・車騎大将軍・儀同三司。

原文 大統初,除丞相府城局參軍,封長安縣男,邑二百戶。從復弘農,戰沙苑,進爵為子,出為華州中正。十三年,遷襄樂郡守。尋徵教世宗及宋獻公等隸書。時俗入書學者,亦行束脩之禮,謂之謝章。儁以書字所興,起自蒼頡,若同常俗,未為合禮。遂啟太祖,釋奠蒼頡及先聖、先師。除黃門侍郎、本州大中正。累遷撫軍將軍、右金紫光祿大夫、都督、通直散騎常侍、車騎大將軍、儀同三司。

世宗二年、本官を以て大使と為り、州郡を巡歴し、風俗を察し、冤滞を理む。還り、小御正を拝す。尋いで湖州刺史に出づ。性退静にして、毎に清約を以て自ら処し、前後に歴る所、頗る声称有り。尋いで驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、昌楽県伯に改封せらる。又爵を進めて侯と為り、邑を増し并へいせて前一千六百戸。後に疾を以て卒す。

原文 世宗二年,以本官為大使,巡歷州郡,察風俗,理冤滯。還,拜小御正。尋出為湖州刺史。性退靜,每以清約自處,前後所歷,頗有聲稱。尋加驃騎大將軍、開府儀同三司,改封昌樂縣伯。又進爵為侯,增邑并前一千六百戶。後以疾卒。

蔣昇、字は鳳起、楚国平河の人なり。父儁、魏の南平王府従事中郎・趙興郡守。

原文 蔣昇字鳳起,楚國平河人也。父儁,魏南平王府從事中郎、趙興郡守。

昇、性恬静にして、少くより天文玄象の学を好む。太祖雅く信じて之を待ち、常に左右に侍し、以て顧問に備う。大統三年、東魏の将竇泰寇し入り、風陵より済い、軍を潼関に頓す。太祖師を馬牧沢に出づ。時に西南に黄紫の気日を抱き、未より酉に至る。太祖昇に謂ひて曰く「此れ何の祥ぞや」と。昇曰く「西南未の地は、土を主る。土は四季に王し、秦の分なり。今大軍既に出づ、喜気下り臨む、必ず大慶有らん」と。是に於いて進軍して竇泰と戦ひ、之を擒る。此れより後遂に河東を降し、弘農を剋し、沙苑を破る。此れに由り愈々親礼せらる。

原文 昇性恬靜,少好天文玄象之學。太祖雅信待之,常侍左右,以備顧問。大統三年,東魏將竇泰入寇,濟自風陵,頓軍潼關。太祖出師馬牧澤。時西南有黃紫氣抱日,從未至酉。太祖謂昇曰:「此何祥也?」昇曰:「西南未地,主土。土王四季,秦之分也。今大軍既出,喜氣下臨,必有大慶。」於是進軍與竇泰戰,擒之。自後遂降河東,剋弘農,破沙苑。由此愈被親禮。

九年、高仲密北豫よ州を以て来附す。太祖兵を遣わし之を援けんと欲し、又昇に問う。昇対えて曰く「春王東に在り、熒惑又井・鬼の分に在り、行軍便ならず」と。太祖従わず、軍遂に東行す。邙山に至り、利あらずして還る。太師賀抜勝怒り、太祖に白して曰く「蔣昇の罪万死に合う」と。太祖曰く「蔣昇固より諫め、出師利あらずと云えり。此の敗は、孤自ら之を取る、昇の過に非ず」と。

原文 九年,高仲密以北豫州來附。太祖欲遣兵援之,又以問昇。昇對曰:「春王在東,熒惑又在井、鬼之分,行軍非便。」太祖不從,軍遂東行。至邙山,不利而還。太師賀拔勝怒,白太祖曰:「蔣昇罪合萬死。」太祖曰:「蔣昇固諫,云出師不利。此敗也,孤自取之,非昇過也。」

魏恭帝元年、前後の功を以て、車騎大将軍・儀同三司を授けられ、高城県子を封ぜられ、邑五百戸。保定二年、邑三百戸を増し、河東郡守を除く。尋いで入りて太史中大夫と為る。老を以て致仕を請う、詔して之を許す。定州刺史を加う。家に卒す。

原文 魏恭帝元年,以前後功,授車騎大將軍、儀同三司,封高城縣子,邑五百戶。保定二年,增邑三百戶,除河東郡守。尋入為太史中大夫。以老請致仕,詔許之。加定州刺史。卒於家。

姚僧垣、字は法衞えい、呉興武康の人、呉の太常信の八世の孫なり。曾祖郢、宋の員外散騎常侍・五城侯。父菩提、梁の高平令。嘗て疾を嬰ること歴年、乃ち医薬に心を留む。梁武帝性又之を好み、毎に菩提を召して方術を討論せしむ、言多く意に会す、是に由りて頗る之を礼す。

原文 姚僧垣字法衞,吳興武康人,吳太常信之八世孫也。曾祖郢,宋員外散騎常侍、五城侯。父菩提,梁高平令。嘗嬰疾歷年,乃留心醫藥。梁武帝性又好之,每召菩提討論方術,言多會意,由是頗禮之。

僧垣幼より通洽し、喪に居りて礼を尽くす。年二十四、即ち家業を伝う。梁武帝禁中に召し入れ、面して討試を加う。僧垣酬対滞ること無し。梁武帝甚だ之を奇とす。大通六年、解褐して臨川嗣王国左常侍。大同五年、驃騎廬陵王府田曹参軍を除く。九年、還りて殿中医师を領す。時に武陵王の生みし葛修華、宿患積時、方術効莫し。梁武帝乃ち僧垣に之を視しむ。還り、具に其の状を説き、并せて増損の時候を記す。梁武帝歎じて曰く「卿の用意綿密、乃ち此に至る、此を以て疾を候う、何の疾か逃る可き。朕常に前代の名人、多く此の術を好むを以て、是を以て毎に恒に情を留め、頗る治体を識る。今卿の説を聞く、益々人の意を開く」と。十一年、転じて太医正を領し、文德主帥・直閤将軍を加う。梁武帝嘗て発熱に因り、大黃を服せんと欲す。僧垣曰く「大黃は是れ快薬なり。然れども至尊年高し、軽く用うるに宜しからず」と。帝従わず、遂に危篤に至る。梁簡文帝東宮に在り、甚だ之を礼す。四時伏臘、毎に賞賜有り。太清元年、転じて鎮西湘東王府中記室参軍。僧垣少くより文史を好み、章句に留意せず。時に今古を商略すれば、則ち学者の称する所と為る。

原文 僧垣幼通洽,居喪盡禮。年二十四,即傳家業。梁武帝召入禁中,面加討試。僧垣酬對無滯。梁武帝甚奇之。大通六年,解褐臨川嗣王國左常侍。大同五年,除驃騎廬陵王府田曹參軍。九年,還領殿中醫師。時武陵王所生葛修華,宿患積時,方術莫効。梁武帝乃令僧垣視之。還,具說其狀,并記增損時候。梁武帝歎曰:「卿用意綿密,乃至於此,以此候疾,何疾可逃。朕常以前代名人,多好此術,是以每恆留情,頗識治體。今聞卿說,益開人意。」十一年,轉領太醫正,加文德主帥、直閤將軍。梁武帝嘗因發熱,欲服大黃。僧垣曰:「大黃乃是快藥。然至尊年高,不宜輕用。」帝弗從,遂至危篤。梁簡文帝在東宮,甚禮之。四時伏臘,每有賞賜。太清元年,轉鎮西湘東王府中記室參軍。僧垣少好文史,不留意於章句。時商略今古,則為學者所稱。

侯景の建業を囲むに及び、僧垣乃ち妻子を棄てて難に赴く。梁武帝之を嘉し、戎昭将軍・湘東王府記室参軍を授く。宮城の陥つるに及び、百官逃散す。僧垣仮道して帰り、呉興に至り、郡守張嵊に謁す。嵊僧垣を見て流涕して曰く「吾過分に朝恩を荷い、今之に死を以て報いん。君は此の邦の大族、又朝廷の旧臣なり。今日君を得、吾が事弁ず」と。俄にして景兵大いに至り、攻戦累日、郡城遂に陥つ。僧垣竄避すること久しく、乃ち拘執せらる。景の将侯子鑒素より其の名を聞き、深く相器遇し、此に因りて免るることを獲。梁簡文位を嗣ぐに及び、僧垣建業に還り、本官を以て兼ねて中書舎人と為る。子鑒尋いで広陵を鎮め、僧垣又江北に随いて至る。

原文 及侯景圍建業,僧垣乃棄妻子赴難。梁武帝嘉之,授戎昭將軍、湘東王府記室參軍。及宮城陷,百官逃散。僧垣假道歸,至吳興,謁郡守張〈(嶸)〉〔嵊〕。嵊見僧垣流涕曰:「吾過荷朝恩,今報之以死。君是此邦大族,又朝廷舊臣。今日得君,吾事辦矣。」俄而景兵大至,攻戰累日,郡城遂陷。僧垣竄避久之,乃被拘執。景將侯子鑒素聞其名,深相器遇,因此獲免。及梁簡文嗣位,僧垣還建業,以本官兼中書舍人。子鑒尋鎮廣陵,僧垣又隨至江北。

梁元帝侯景を平ぐるに及び、僧垣を召して荊州に赴かしめ、改めて晋安王府諮議を授く。其の時に雖ち大乱を剋平すと雖も、而して任用才に非ず、朝政混淆し、復た綱紀無し。僧垣毎に深く之を憂う。故人に謂ひて曰く「吾此の形勢を観るに、禍敗久しからず。今時の上策は、関に近きに若かず」と。聞く者皆口を掩ひ窃に笑ふ。梁元帝嘗て心腹の疾有り、乃ち諸医を召して治療の方を議す。咸に至尊至貴は、軽く脱す可からずと謂ひ、平薬を用うるに宜しく、漸く宣通す可しとす。僧垣曰く「脉洪にして実なり、此れ宿食有り。大黃を用いずんば、必ず差の理無からん」と。梁元帝之に従ひ、湯を進むること訖り、果たして宿食を下し、因りて疾愈ゆ。梁元帝大いに喜ぶ。時に初めて銭を鋳る、一は十に当る、乃ち銭十万を賜ふ、実に百万なり。

原文 梁元帝平侯景,召僧垣赴荊州,改授晉安王府諮議。其時雖剋平大亂,而任用非才,朝政混淆,無復綱紀。僧垣每深憂之。謂故人曰:「吾觀此形勢,禍敗不久。今時上策,莫若近關。」聞者皆掩口竊笑。梁元帝嘗有心腹疾,乃召諸醫議治療之方。咸謂至尊至貴,不可輕脫,宜用平藥,可漸宣通。僧垣曰:「脉洪而實,此有宿食。非用大黃,必無差理。」梁元帝從之,進湯訖,果下宿食,因而疾愈。梁元帝大喜。時初鑄錢,一當十,乃賜錢十萬,實百萬也。

大軍が荊州を攻略した際、僧垣はなおも梁の元帝に侍して、左右を離れなかった。兵士に制止され、ようやく涙を流して去った。まもなく中山公宇文護が人を遣わして僧垣を求めた。僧垣はその陣営に至った。また燕公于謹に召され、大いに礼遇された。太祖(宇文泰)もまた使者を駅馬で走らせて僧垣を召し寄せたが、謹は固く留めて遣わさなかった。使者に謂いて曰く、「吾は年老いて衰え、病が重く沈んでいる。今この人を得た。彼と偕老することを望む」と。太祖は謹の勲功と徳望が重いことを以て、遂に止めた。翌年、謹に従って長安に至った。武成元年(559年)、小畿伯下大夫を授けられた。

原文 及大軍剋荊州,僧垣猶侍梁元帝,不離左右。為軍人所止,方泣涕而去。尋而中山公護使人求僧垣。僧垣至其營。復為燕公于謹所召,大相禮接。太祖又遣使馳驛徵僧垣,謹〈(故)〉〔固〕留不遣。謂使人曰:「吾年時衰暮,疹疾嬰沉。今得此人,望與之偕老。」太祖以謹勳德隆重,乃止焉。明年,隨謹至長安。武成元年,授小畿伯下大夫。

金州刺史伊婁穆が病により京師に帰還し、僧垣に病を診てくれるよう請うた。乃ち云う、「腰より臍に至るまで、三つの縛りの如きものがあり、両脚は緩み弛み、もはや自ら支えることができない」と。僧垣が脈を診て、湯薬三剤を処方した。穆が初め一剤を服すると、上の縛りは即時に解け、次に一剤を服すると、中の縛りもまた解け、さらに一剤を服すると、三つの縛り悉く除かれた。しかし両脚の疼痺は、なおも攣弱のままである。更に散薬一剤を合わせると、稍々屈伸できるようになった。僧垣曰く、「終に霜降を待てば、この患いは癒えるであろう」と。九月に至ると、遂に起ち歩行できるようになった。

原文 金州刺史伊婁穆以疾還京,請僧垣省疾。乃云:「自腰至臍,似有三縛,兩脚緩縱,不復自持。」僧垣為診脉,處湯三劑。穆初服一劑,上縛即解;次服一劑,中縛復解;又服一劑,三縛悉除。而兩脚疼痺,猶自攣弱。更為合散一劑,稍得屈申。僧垣曰:「終待霜降,此患當愈。」及至九月,遂能起行。

大将軍、襄楽公賀蘭隆は先に気疾を患い、これに水腫が加わり、喘息が奔急で、坐臥安からず。或る者が決命大散を服用するよう勧めたが、その家は疑って決しがたく、乃ち僧垣に問うた。僧垣曰く、「私の考えではこの患いは大散に相当せず。もし自ら服用したいのであれば、わざわざ問うには及ばない」と。因って辞去しようとした。その子が殷勤に拝礼して請うて曰く、「長らく抑屈しておられましたが、今日ようやく来られました。もしも治せないというのであれば、実に本意を尽くしたとは言えません」と。僧垣はその病が治癒可能であると知り、即ち処方を為し、急いで服用するよう勧めた。たちまち気が通じ、更に一剤を服すると、諸々の患い悉く癒えた。

原文 大將軍、襄樂公賀蘭隆先有氣疾,加以水腫,喘息奔急,坐臥不安。或有勸其服決命大散者,其家疑未能決,乃問僧垣。僧垣曰:「意謂此患不與大散相當。若欲自服,不煩賜問。」因而委去。其子殷勤拜請曰:「多時抑屈,今日始來。竟不可治,意實未盡。」僧垣知其可差,即為處方,勸使急服。便即氣通,更服一劑,諸患悉愈。

天和元年(566年)、車騎大将軍・儀同三司を加授された。大将軍、楽平公竇集が突然風疾を感じ、精神錯乱し、何も覚知しなくなった。先に診た諸医は皆、最早救えないと云った。僧垣が後から至り、曰く、「困憊ではあるが、終には死なないであろう。もし専ら私に任せてくださるなら、治してみせましょう」と。その家は喜んで、方術を受けることを請うた。僧垣が湯散を合わせると、患っていた病は即時に癒えた。大将軍、永世公叱伏列椿は下痢を長く苦しんでいたが、朝謁を廃さなかった。燕公于謹が嘗て僧垣に問うて曰く、「楽平公と永世公は共に痼疾を有するが、私の考えでは、永世公の方が軽いようだ」と。対えて曰く、「患いには深浅があり、時には相剋するものがあります。楽平公は困憊ではありますが、終には保全されるでしょう。永世公は軽いようですが、必ず死を免れません」と。謹曰く、「君が必ず死ぬと言うなら、いつ頃か」と。対えて曰く、「四月を出ません」と。果たしてその言の如くであった。謹は歎異した。六年(571年)、遂伯中大夫に遷った。

原文 天和元年,加授車騎大將軍、儀同三司。大將軍、樂平公竇集暴感風疾,精神瞀亂,無所覺知。諸醫先視者,皆云已不可救。僧垣後至,曰:「困則困矣,終當不死。若專以見付,相為治之。」其家忻然,請受方術。僧垣為合湯散,所患即瘳。大將軍、永世公叱伏列椿苦利積時,而不廢朝謁。燕公謹嘗問僧垣曰:「樂平、永世俱有痼疾,若如僕意,永世差輕。」對曰:「夫患有深淺,時有剋殺。樂平雖困,終當保全。永世雖輕,必不免死。」謹曰:「君言必死,當在何時?」對曰:「不出四月。」果如其言。謹歎異之。六年,遷遂伯中大夫。

建徳三年(574年)、文宣太后が病臥され、医者と巫が雑説し、それぞれ異同があった。高祖こうそ(武帝宇文邕)は内殿に出御し、僧垣を引いて同座させ、曰く、「太后の患いの勢いは軽からず、諸医は皆心配ないと云う。朕は人子の情として、その意を得ることができる。君臣の義として、言うべきことは隠さぬ。公はどう思うか」と。対えて曰く、「臣には聴声視色の妙はありませんが、ただ経歴した事柄が既に多く、常人を基準とすれば、窃かに憂懼を抱いております」と。帝は泣いて曰く、「公が既に決断したのであれば、また何を言おうか」と。まもなく太后は崩御された。その後また召見の機会があり、帝は僧垣に問うて曰く、「姚公が儀同となって幾年か」と。対えて曰く、「臣が朝恩を忝くするのも、今や九歳になります」と。帝曰く、「勤労の日も久しい、朝命も宜しく隆くすべきである」と。乃ち驃騎大将軍・開府儀同三司を授けた。また勅して曰く、「公は県車(七十歳)を過ぎた年齢である。朝謁を停めてもよい。別勅がなければ、労わって入見するには及ばない」と。

原文 建德三年,文宣太后寢疾,醫巫雜說,各有異同。高祖御內殿,引僧垣同坐,曰:「太后患勢不輕,諸醫並云無慮。朕人子之情,可以意得。君臣之義,言在無隱。公為何如?」對曰:「臣無聽聲視色之妙,特以經事已多,准之常人,竊以憂懼。」帝泣曰:「公既決之矣,知復何言!」尋而太后崩。其後復因召見,帝問僧垣曰:「姚公為儀同幾年?」對曰:「臣忝荷朝恩,於茲九載。」帝曰:「勤勞有日,朝命宜隆。」乃授驃騎大將軍、開府儀同三司。又勅曰:「公年過縣車,可停朝謁。若非別勅,不勞入見。」

四年(575年)、高祖が自ら軍を率いて東征し、河陰に至って病に罹った。口は言うことができず、瞼は目を覆って垂れ、もはや物を見ることができず、一方の足は短縮し、また歩行もできなくなった。僧垣は諸臓が皆病んでいるので、併せて治すことはできないと考えた。軍中で重要なのは、まず言葉に先んずるものはない。乃ち処方をして薬を進めると、帝は遂に言葉を発することができた。次に目を治すと、目の病は直ちに癒えた。最後に足を治すと、足の病もまた癒えた。華州に到着する頃には、帝は既に全快されていた。即ち華州刺史に除され、なお詔して京師に入るに随うことを命じ、州鎮に留め置かなかった。宣政元年(578年)、致仕を上表し、優詔をもって許された。この年、高祖が雲陽に行幸し、遂に病臥された。乃ち僧垣を行在所に赴かせる詔を下した。内史柳昂が私かに問うて曰く、「至尊が御膳を減らされて久しいが、脈候は如何ですか」と。対えて曰く、「天子は天心に応じられるお方ですから、或いは凡愚の私の及ぶところではないでしょう。もし凡庶がこのようであれば、万に一つも全うすることはありません」と。まもなく帝は崩御された。

原文 四年,高祖親戎東討,至河陰遇疾。口不能言;〈(臉)〉〔瞼〕垂覆目,不復瞻視;一足短縮,又不得行。僧垣以為諸藏俱病,不可並治。軍中之要,莫先於語。乃處方進藥,帝遂得言。次又治目,目疾便愈。末乃治足,足疾亦瘳。比至華州,帝已痊復。即除華州刺史,仍詔隨入京,不令在鎮。宣政元年,表請致仕,優詔許之。是歲,高祖行幸雲陽,遂寢疾。乃詔僧垣赴行在所。內史柳〈(昇)〉〔昂〕私問曰:「至尊貶膳日久,脉候何如?」對曰:「天子上應天心,或當非愚所及。若凡庶如此,萬無一全。」尋而帝崩。

宣帝(宇文贇)が初め東宮に在った時、常に心痛に苦しんでいた。乃ち僧垣にこれを治させると、その疾は即時に癒えた。帝は甚だ悦んだ。即位すると、恩礼は弥々隆厚になった。常に従容として僧垣に謂って曰く、「常に先帝が公を姚公と呼んでおられたと聞くが、あるか」と。対えて曰く、「臣が曲く殊私を荷うのは、実に聖旨の如くでございます」と。帝曰く、「これは尚歯(年長者を敬う)の言葉であって、貴爵の号ではない。朕は公のために国を建て家を開き、子孫の永業とすべきである」と。乃ち長寿県公に封じ、邑一千戸を賜う。冊命の日、また金帯及び衣服等を賜った。

原文 宣帝初在東宮,常苦心痛。乃令僧垣治之,其疾即愈。帝甚悅。及即位,恩禮彌隆。常從容謂僧垣曰:「常聞先帝呼公為姚公,有之乎?」對曰:「臣曲荷殊私,實如聖旨。」帝曰:「此是尚齒之辭,非為貴爵之號。朕當為公建國開家,為子孫永業。」乃封長壽縣公,邑一千戶。冊命之日,又賜以金帶及衣服等。

大象二年(580年)、太醫下大夫に除かれた。帝はまもなく病に罹り、大漸に至った。僧垣は宿直して侍った。帝は随公(楊堅)に謂って曰く、「今日の朕の性命は、ただこの人に委ねる」と。僧垣は帝の診候が危殆であり、必ず全うできないと知った。乃ち対えて曰く、「臣が恩を受けること既に重く、効力を尽くすことを思います。ただ恐らくは庸短にして及ばず、敢えて心を尽くさないことがありましょうか」と。帝は頷かれた。静帝が嗣位すると、上開府儀同大将軍に遷った。隋の開皇初年、爵を進めて北絳郡公とした。三年(583年)に卒去、時に八十五歳。遺誡として白帢を着せて棺に入れ、朝服で斂めるなと命じた。霊上にはただ香奩を置き、毎日清水を設けるのみとした。本官を贈られ、荊・湖二州刺史を加えられた。

原文 大象二年,除太醫下大夫。帝尋有疾,至于大漸。僧垣宿直侍。帝謂隨公曰:「今日性命,唯委此人。」僧垣知帝診候危殆,必不全濟。乃對曰:「臣荷恩既重,思在效力。但恐庸短不逮,敢不盡心。」帝頷之。及靜帝嗣位,遷上開府儀同大將軍。隋開皇初,進爵北絳郡公。三年卒,時年八十五。遺誡衣白帢入棺,朝服勿斂。靈上唯置香奩,每日設清水而已。贈本官,加荊、湖二州刺史。

僧垣の医術は高妙で、当世に推重された。前後の効験は、記し尽くせないほどである。声譽が盛んになると、遠く辺境にまで聞こえた。諸蕃や外域に至るまで、皆彼に請託した。僧垣は乃ち奇異なものを捜採し、効果を検証したものを参校して、『集験方』十二巻を撰し、また『行記』三巻を著して、世に行われた。長子の姚察は江南に在った。

原文 僧垣醫術高妙,為當世所推。前後効驗,不可勝記。聲譽既盛,遠聞邊服。至於諸蕃外域,咸請託之。僧垣乃搜採奇異,參校徵効者,為集驗方十二卷,又撰行記三卷,行於世。長子察在江南。

次子の姚最、字は士会、幼くして聡敏であり、長ずるに及んで経史に博通し、特に著述を好んだ。十九歳の時、僧垣に従って関中に入った。世宗(明帝宇文毓)が盛んに学徒を聚め、麟趾殿で校書を行ったが、最もまた学士として参与した。俄かに斉王宇文憲の府の水曹参軍に授けられ、記室の事を掌った。特に憲に礼遇され、賞賜は隆厚であった。宣帝が嗣位すると、憲は嫌疑を以て誅殺された。隋文帝が宰相となると、官爵を追復した。最は陪遊の歳月を積み、恩顧が過度に隆かったので、乃ち憲の功績を録して伝と為し、史局に送った。

原文 次子最,字士會,幼而聰敏,及長,博通經史,尤好著述。年十九,隨僧垣入關。世宗盛聚學徒,校書於麟趾殿,最亦預為學士。俄授齊王憲府水曹參軍,掌記室事。特為憲所禮接,賞賜隆厚。宣帝嗣位,憲以嫌疑被誅。隋文帝作相,追復官爵。最以陪遊積歲,恩顧過隆,乃錄憲功績為傳,送上史局。

最は幼少時は江左に在り、関中に入るに至るまで、医術を習わなかった。天和年間(566-572年)、斉王憲が高祖に奏上し、最に医術を習わせるよう遣わした。憲はまた最に謂って曰く、「爾は博学高才であるが、王襃や庾信と比べてどうか。王・庾は両国に名が重いが、吾は彼らを蔑如として見る。接待や資給は、爾の家の比ではない。爾は深くこの意を識り、心に留めないことがあってはならない。且つ天子に勅がある以上、弥々勉励すべきである」と。最はここに於いて初めて家業を受けた。十年余りの間に、その妙を略尽くした。人が往って請うことがあれば、効験甚だ多かった。隋文帝が践祚すると、太子門大夫に除かれた。父の喪に服して官を去り、哀毀して骨立した。喪が免れると、爵を襲い北絳郡公となり、再び太子門大夫となった。

原文 最幼在江左,迄于入關,未習醫術。天和中,齊王憲奏高祖,遣最習之。憲又謂最曰:「爾博學高才,何如王襃、庾信。王、庾名重兩國,吾視之蔑如。接待資給,非爾家比也。爾宜深識此意,勿不存心。且天子有敕,彌須勉勵。」最於是始受家業。十許年中,略盡其妙。每有人造請,効驗甚多。隋文帝踐極,除太子門大夫。以父憂去官,哀毀骨立。既免喪,襲爵北絳郡公,復為太子門大夫。

まもなく蜀しょく王秀の友(友は官職名)に転じた。秀が益州を鎮守すると、秀の府司馬に遷った。陳が平定された時、察(蕭察)が到着した。最は自ら嫡子でないことを以て、封を察に譲ろうとしたが、隋の文帝はこれを許した。秀が後に陰に異謀を抱いた時、隋の文帝は公卿に命じてその事を窮めて治めさせた。開府の慶整・郝偉らは皆、過ちを秀に推し及ぼした。ただ最のみが言うには、「凡そ不法の事は、皆、最の為す所であり、王は実に知らぬことなり」と。数百回も拷問を受けたが、終に異なる供述はなかった。最はついに誅殺に坐した。時に六十七歳。世論は彼を義士と評した。『梁後略』十巻を撰し、世に行われた。

原文 俄轉蜀王秀友。秀鎮益州,遷秀府司馬。及平陳,察至。最自以非嫡,讓封於察,隋文帝許之。秀後陰有異謀,隋文帝令公卿窮治其事。開府慶整、郝偉等並推過於秀。最獨曰:「凡有不法,皆最所為,王實不知也。」搒訊數百,卒無異辭。最竟坐誅。時年六十七。論者義之。撰梁後略十卷,行於世。

黎景熙は字を季明といい、河間郡鄚県の人である。若い頃から字をもって世に知られた。曾祖父の嶷は、魏の太武帝の時、平涼を破るのに従い、功があり、容城県男の爵を賜り、鷹揚将軍を加えられた。後に燕郡太守となった。祖父の鎮は爵を襲い、員外散騎侍郎となった。父の瓊は、太和年間に爵を襲い、員外郎・魏県令を歴任し、後に鄜城郡太守に至った。

原文 黎景熙字季明,河間〈(鄭)〉〔鄚〕人也,少以字行於世。曾祖嶷,魏太武時,從破平涼,有功,賜爵容城縣男,加鷹揚將軍。後為燕郡守。祖鎮,襲爵,為員外散騎侍郎。父瓊,太和中,襲爵,歷員外郎、魏縣令,後至鄜城郡守。

季明は若い頃から読書を好み、記憶力が強く黙識していたが、応対の才はなかった。その従祖父の広は、太武帝の時に尚書郎となり、古学に通じていた。かつて吏部尚書の清河の崔玄伯に字義を学び、また司徒しとの崔浩に楷書・篆書を学び、これより家でその法を伝えた。季明もまたこれを伝習し、許慎の説とかなり異なるところがあった。また玄象を占うことを好み、術数をよく知っていた。しかし落魄として生業に従わず、千余巻の書物を持っていた。貧窮して独居しても、飢え寒さによって節操を変えることはなかった。范陽の盧道源と莫逆の友であった。

原文 季明少好讀書,性強記默識,而無應對之能。其從祖廣,太武時為尚書郎,善古學。嘗從吏部尚書清河崔玄伯受字義,又從司徒崔浩學楷篆,自是家傳其法。季明亦傳習之,頗與許氏有異。又好占玄象,頗知術數。而落魄不事生業。有書千餘卷。雖窮居獨處,不以飢寒易操。與范陽盧道源為莫逆之友。

永安年間、道源が仕官するよう勧めたので、初めて威烈将軍となった。魏の孝武帝の初め、鎮遠将軍に遷り、まもなく歩兵校尉こういに任じられた。孝武帝が西遷すると、季明は伊水・洛水の地に寓居した。侯景が河外の地を巡行した時、季明を召して軍に従わせた。まもなく銀青光禄大夫を授けられ、中軍将軍を加えられ、行臺郎中に拝され、黎陽郡太守に任じられた。季明は懸瓠まで従ったが、侯景が結局頼りにならぬと察し、遂に去った。潁川に客居し、世の道がまだ清まらぬことを以て、悠々と歳月を過ごそうとした。時に王思政が潁川を鎮守し、しばしば使者を遣わして召した。季明はやむを得ず出て会見し、内館に一月余り留まった。太祖(宇文泰)もまた彼を召したので、遂に関中に入った。そこで季明に命じて、東閣で古今の文字を正定させた。

原文 永安中,道源勸令入仕,始為威烈將軍。魏孝武初,遷鎮遠將軍,尋除步兵校尉。及孝武西遷,季明乃寓居伊、洛。侯景徇地河外,召季明從軍。尋授銀青光祿大夫,加中軍將軍,拜行臺郎中,除黎陽郡守。季明從至懸瓠,察景終不足恃,遂去之。客於潁川,以世路未清,欲優遊卒歲。時王思政鎮潁川,累使召。季明不得已,出與相見。留於內館月餘。太祖又徵之,遂入關。乃令季明正定古今文字於東閣。

大統末年、安西将軍に任じられ、まもなく著作佐郎に拝された。当時、同輩たちは皆、常伯(侍中・散騎常侍など)の位を兼ね、車服は華やかで盛んであった。ただ季明のみが貧素のままでその職にあり、恥じる色がなかった。また職務に勤勉で、著述を怠らなかった。しかし性格は特に頑固で、時流に合わなかった。このため、一度史官となると、遂に十年間も転任がなかった。魏の恭帝元年、平南将軍・右銀青光禄大夫の号を進めた。六官が建てられると、外史上士となった。孝閔帝が即位すると、征南将軍・右金紫光禄大夫を加えられた。時に大司馬の賀蘭祥が吐谷渾を討つと、詔により季明は軍に従った。帰還後、驃騎将軍・右光禄大夫に任じられた。武成末年、外史下大夫に遷った。

原文 大統末,除安西將軍,尋拜著作佐郎。於時倫輩,皆位兼常伯,車服華盛。唯季明獨以貧素居之,而無愧色。又勤於所職,著述不怠。然性尤專固,不合於時。是以一為史官,遂十年不調。魏恭帝元年,進號平南將軍、右銀青光祿大夫。六官建,為外史上士。孝閔帝踐阼,加征南將軍、右金紫光祿大夫。時大司馬賀蘭祥討吐谷渾,詔季明從軍。還,除驃騎將軍、右光祿大夫。武成末,遷外史下大夫。

保定三年、宮室の営造が盛んに行われた。春夏に大旱があり、詔して公卿百官に得失を極言させた。季明が上書して言うには:

原文 保定三年,盛營宮室。春夏大旱,詔公卿百寮,極言得失。季明上書曰:

時に豪富の家は、競って奢侈華麗を極めた。季明がまた上書して言うには:

原文 時豪富之家,競為奢麗。季明又上書曰:

帝はこれを見て賞賛した。

原文 帝覽而嘉之。

時に外史の官舎はたびたび移転し、定まった場所がなかった。季明がまた上言して言うには、「外史の職は、漢の東観に当たり、その儀礼は石渠閣に等しく、その職掌は天禄閣と同じである。これは広内の秘府、言(文書)を蔵する奥深き所である。帝王の宝とする所、ここに在り。魏より周に至るまで、公館が建てられていない。臣は愚かで目が見えぬ者ではあるが、なおその非を知っている。ゆえに去年十一月中、敢えて陳奏を冒した。中旨が降りて、すぐに修営を遣わされるはずであったが、うつろうこと一年、まだ工事が加えられていない。臣は職を思ってその憂いを抱き、敢えて重ねて請わざるを得ない」。帝はこれを容れた。ここにおいて官舎がようやく建てられた。

原文 時外史廨宇屢移,未有定所。季明又上言曰:「外史之職,漢之東觀,儀等石渠,司同天祿。是乃廣內祕府,藏言之奧。帝王所寶,此焉攸在。自魏及周,公館不立。臣雖愚瞽,猶知其非,是以去年十一月中,敢冒陳奏。將降中旨,即遣修營。荏苒一周,未加功力。臣職思其憂,敢不重請。」帝納焉。於是廨宇方立。

天和三年、車騎大将軍・儀同三司に進んだ。後に病気で卒した。

原文 天和三年,進車騎大將軍、儀同三司。後以疾卒。

趙文深は字を徳本といい、南陽郡宛県の人である。父の遐は、医術をもって進み、魏に仕えて尚薬典御となった。

原文 趙文深字德本,南陽宛人也。父遐,以醫術進,仕魏為尚藥典御。

文深は若い頃から楷書・隷書を学び、十一歳の時、魏の皇帝に書を献じた。義を立てて朝廷に帰順し、大丞相府法曹参軍に任じられた。文深は風雅に鍾繇・王羲之の法を持ち、筆勢は見るべきものがあった。当時の碑や扁額の書は、文深と冀儁だけが書いていた。大統十年、義を立てた功を追論し、白石県男に封ぜられ、邑二百戸を賜った。太祖は隷書に誤りが多いのを以て、文深と黎季明・沈遐らに命じて『説文』及び『字林』に依拠して六体を刊定させ、一万余言を成し、世に行われた。

原文 文深少學楷隸,年十一,獻書於魏帝。立義歸朝,除大丞相府法曹參軍。文深雅有鍾、王之則,筆勢可觀。當時碑牓,唯文深及冀儁而已。大統十年,追論立義功,封白石縣男,邑二百戶。太祖以隸書紕繆,命文深與黎季明、沈遐等依說文及字林刊定六體,成一萬餘言,行於世。

江陵を平定した後、王褒が関中に入ると、貴遊らはこぞって王褒の書を学んだ。文深の書は、遂に遠く棄てられるようになった。文深は慙愧し悔しみ、言葉や顔色に表れた。後に好尚が変え難いことを知り、また王褒の書を研究習得しようとしたが、結局何も成し遂げられず、かえって譏りと議論を受け、邯鄲の歩みを学ぶものと謂われた。碑や扁額に至っては、他の者はまだ彼に及ばなかった。王褒もまた常に彼を推して先んじた。宮殿楼閣の扁額は、皆その筆跡である。県伯下大夫に遷り、儀同三司を加えられた。世宗(明帝)は命じて江陵に行き景福寺碑を書かせたが、漢南の人士もまた巧みであるとした。梁主の蕭詧はこれを見て美しいとし、賞与の贈り物は甚だ厚かった。天和元年、露寝などが初めて完成し、文深は扁額を題する功により、邑二百戸を増やされ、趙興郡太守に任じられた。文深は外任していても、扁額を題する必要がある度に、いつもまた追い召し戻された。後に病気で卒した。

原文 及平江陵之後,王褒入關,貴遊等翕然並學褒書。文深之書,遂被遐棄。文深慙恨,形於言色。後知好尚難反,亦攻習褒書,然竟無所成,轉被譏議,謂之學步邯鄲焉。至於碑牓,餘人猶莫之逮。王褒亦每推先之。宮殿樓閣,皆其迹也。遷縣伯下大夫,加儀同三司。世宗令至江陵書景福寺碑,漢南人士,亦以為工。梁主蕭詧觀而美之,賞遺甚厚。天和元年,露寢等初成,文深以題牓之功,增邑二百戶,除趙興郡守。文深雖外任,每須題牓,輒復追之。後以疾卒。

褚該は字を孝通といい、河南郡陽翟県の人である。晋の末年に、江左に移り住んだ。祖父の長楽は、斉の竟陵王の録事参軍であった。父の義昌は、梁の鄱陽王の中記室であった。

原文 褚該字孝通,河南陽翟人也。晉末,遷居江左。祖長樂,齊竟陵王錄事參軍。父義昌,梁鄱陽王中記室。

該は幼い頃から謹厳で篤実であり、郷里で誉れがあった。特に医術に優れ、当時に称えられた。梁に仕え、武陵王府参軍を歴任した。王府に随従して西上した。後に蕭撝とともに国(北周)に帰順し、平東将軍・左銀青光禄大夫を授けられ、驃騎将軍・右光禄大夫に転じた。武成元年、医正上士に任じられた。許奭が死んでから後、該は次第に時人に重んじられるようになり、賓客の迎えや訪問は、姚僧垣に次ぐものであった。天和初年、県伯下大夫に遷った。五年、車騎大将軍・儀同三司を進めて授けられた。該の性格は穏やかで和やかであり、自ら誇ることもなく、ただ請う者がいれば、皆その芸術を尽くした。当時の論は彼を長者と称えた。後に病気で卒した。子の士則もまたその家業を伝えた。

原文 該幼而謹厚,有譽鄉曲。尤善醫術,見稱於時。仕梁,歷武陵王府參軍。隨府西上。後與蕭撝同歸國,授平東將軍、左銀青光祿大夫,轉驃騎將軍、右光祿大夫。武成元年,除醫正上士。自許奭死後,該稍為時人所重,賓客迎候,亞於姚僧垣。天和初,遷縣伯下大夫。五年,進授車騎大將軍、儀同三司。該性淹和,不自矜尚,但有請之者,皆為盡其藝術。時論稱其長者焉。後以疾卒。子士則,亦傳其家業。

時に強練という者がいた。何処の者か知らず、またその名も知られていない。魏の時代に李順興という者がおり、言葉を発するか黙するか定まらず、未然の事を好んで言い、当時は李練と号された。世の人は強が練に類するとして、故に練とも呼んだのである。容貌は長大で壮健、人と異なるところがあった。精神は恍惚として、測り知ることはできなかった。意に論説せんと欲すれば、人に逢えばすぐに語った。もしその言わんとせざる時に値すれば、たとえ苦しんで祈請を加えても、応酬返答することはなかった。初めその言を聞けば、およそ理解しがたい。事が過ぎた後、往々にして験があった。常に諸仏寺に寄住し、民家を遊行することを好み、兼ねて歴訪して王公の邸第に造った。至る所、人皆敬い信じた。

原文 時有強練,不知何許人,亦不知其名字。魏時有李順興者,語默不恆,好言未然之事,當時號為李練。世人以強類練,故亦呼為練焉。容貌長壯,有異於人。神精𢠵兄,莫之能測。意欲有所論說,逢人輒言。若值其不欲言,縱苦加祈請,亦不相酬答。初聞其言,略不可解。事過之後,往往有驗。恆寄住諸佛寺,好遊行民家,兼歷造王公邸第。所至之處,人皆敬而信之。

晋公宇文護が誅殺される前、強練は曾て手に大瓢を持ち、護の邸門外に至り、押し当ててこれを破った。乃ち大声に言うには、「瓢破れて子苦し」と。時に柱国・平高公侯伏侯龍恩は早くより護に依随し、深く任委された。強練が龍恩の宅に至り、その妻元氏及び妾媵並びに婢僕らを呼び、皆に連席して坐るよう命じた。諸人は夫人に逼ることを苦にして、辞して肯わなかった。強練は言う、「汝らは一例の人である。何ぞ貴賤あらんや」と。遂に逼って坐に就かせた。未だ幾ばくもせずして護は誅され、諸子は皆死んだ。龍恩もまた法に伏し、仍ってその家は籍没された。

原文 晉公護未誅之前,曾手持一大瓠,到護第門外,抵而破之。乃大言曰:「瓠破子苦。」時柱國、平高公侯伏侯龍恩早依隨護,深被任委。強練至龍恩宅,呼其妻元氏及其妾媵并婢僕等,並令連席而坐。諸人以逼夫人,苦辭不肯。強練曰:「汝等一例人耳,何有貴賤。」遂逼就坐。未幾而護誅,諸子並死。龍恩亦伏法,仍籍沒其家。

建德年間、強練は毎夜街衢の辺りの樹に上り、釈迦牟尼仏を大声で泣き、あるいは夜明けに至るまで、このようにすること数日に及び、声は甚だ哀れであった。俄かに仏・道二教が廃された。

原文 建德中,每夜上街衢邊樹,大哭釋迦牟尼佛,或至申旦,如此者累日,聲甚哀怜。俄而廢佛、道二教。

大象末年、強練はまた底無しの囊一つを持ち、長安市の肆を歴訪して告げ乞い、市人は争って米麦をこれに遺した。強練は囊を張ってこれを投げ入れ、隨即ちこれを地に漏らした。ある人がこれに問うて言うには、「汝は何を為すのか」と。強練は言う、「これもまた余り無し。ただ諸人に盛る空しきを見せんと欲するのみ」と。隋の開皇初年に至り、果たして都を龍首山に移し、長安城は遂に空しく廃された。後、またその終わりを知る者はなかった。

原文 大象末,又以一無底囊,歷長安市肆告乞,市人爭以米麥遺之。強練張囊投之,隨即漏之於地。人或問之曰:「汝何為也?」強練曰:「此亦無餘,但欲使諸人見盛空耳。」至隋開皇初,果移都於龍首山,長安城遂空廢。後亦莫知其所終。

また蜀郡の衛元嵩という者あり、これも将来の事を好んで言い、蓋し江左の宝誌の流れである。天和年間、詩を著して周・隋の廃興及び皇家の受命を預め論じ、並びに徴験があった。性は特に釈教を信ぜず、嘗て上疏して極論した。史はその事を失い、故に伝を為さない。

原文 又有蜀郡衞元嵩者,亦好言將來之事,蓋江左寶誌之流。天和中,著詩預論周、隋廢興及皇家受命,並有徵驗。性尤不信釋教,嘗上疏極論之。史失其事,故不為傳。

史臣曰く、仁義の教に対するは大なり、術芸の用に対するは博し。是に狥う者は、非無き能わず、利に厚き者は、必ず其の害有り。詩・書・礼・楽の失う所は浅し、故に先王は其の徳を重んず。方術技巧の失う所は深し、故に往哲は其の芸を軽んず。夫れ方術を通じて俗に詭せず、技巧を習いて必ず礼に蹈む者は、豈に大雅の君子ならずや。姚僧垣は診候精審にして、名は一代に冠たり、其の全済する所、固より亦多し。而して此の義方を弘めて、皆令器と為り、故に能く眉寿を享け、好爵に縻る。老聃云う「天道親無く、常に善人に与す」と、是に於いて信ずる矣。

原文 史臣曰:仁義之於教,大矣,術藝之於用,博矣。狥於是者,不能無非,厚於利者,必有其害。詩、書、禮、樂所失也淺,故先王重其德。方術技巧,所失也深,故往哲輕其藝。夫能通方術而不詭於俗,習技巧而必蹈於禮者,豈非大雅君子乎。姚僧垣診候精審,名冠於一代,其所全濟,固亦多焉。而弘茲義方,皆為令器,故能享眉壽,縻好爵。老聃云「天道無親,常與善人」,於是信矣。