周書
卷四十七 列傳第三十九 藝術
太祖が天命を受けた初め、天下の分崩に属し、時に戎馬交馳し、而して学術の士蓋し寡く、故に曲芸末技、咸く引納を見る。冀儁・蔣昇・趙文深の徒に至りては、才は昔人に愧ずと雖も、而して名は当世に著し。鄢・郢を剋定するに及び、俊異畢集す。楽茂雅・蕭吉は陰陽を以て顕れ、庾季才は天官を以て称せられ、史元華は相術に奇を擅にし、許奭・姚僧垣は方薬特に妙なり、斯れ皆一時の美なり。茂雅・元華・許奭は、史その伝を失う。季才・蕭吉は、官隋に成る。自余此の篇に紀し、以て遺闕を備うるのみ。
冀儁、字は僧儁、太原陽邑の人なり。性沈謹にして、隷書を善くし、特に模写に工なり。魏の太昌初め、賀抜岳の墨曹参軍と為る。岳の害せらるるに及び、太祖記室に引く。時に侯莫陳悦、兵を隴右に阻み、太祖之を平らげんことを志す。乃ち儁に魏帝の勅書を費也頭に与うるを偽らしめ、兵を将いて太祖を助け悦を討たしむ。儁旧勅に依り模写し、及び舍人・主書等の署を代え、真と異なること無し。太祖大いに悦ぶ。費也頭は已に曾て魏帝の勅書を得たり、此の勅を見るに及び、疑いと為さず。遂に歩騎一千を遣わし、太祖の節度を受く。
大統初め、丞相府城局参軍を除かれ、長安県男を封ぜられ、邑二百戸。弘農を復するに従い、沙苑に戦い、爵を進めて子と為り、華州中正に出づ。十三年、襄楽郡守に遷る。尋いで世宗及び宋献公等の隷書を教うるを徴す。時に俗に書学に入る者、亦た束脩の礼を行い、之を謝章と謂う。儁書字の興る所、蒼頡より起これりとし、若し常俗に同じくせば、未だ礼に合わずと為す。遂に太祖に啓し、蒼頡及び先聖・先師に釈奠す。黄門侍郎・本州大中正を除く。累遷して撫軍将軍・右金紫光禄大夫・ 都督 ・通直 散騎常侍 ・車騎大将軍・儀同三司。
世宗二年、本官を以て大使と為り、州郡を巡歴し、風俗を察し、冤滞を理む。還り、小御正を拝す。尋いで湖州刺史に出づ。性退静にして、毎に清約を以て自ら処し、前後に歴る所、頗る声称有り。尋いで驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、昌楽県伯に改封せらる。又爵を進めて侯と為り、邑を増し 并 せて前一千六百戸。後に疾を以て卒す。
蔣昇、字は鳳起、楚国平河の人なり。父儁、魏の南平王府従事中郎・趙興郡守。
昇、性恬静にして、少くより天文玄象の学を好む。太祖雅く信じて之を待ち、常に左右に侍し、以て顧問に備う。大統三年、東魏の将竇泰寇し入り、風陵より済い、軍を潼関に頓す。太祖師を馬牧沢に出づ。時に西南に黄紫の気日を抱き、未より酉に至る。太祖昇に謂ひて曰く「此れ何の祥ぞや」と。昇曰く「西南未の地は、土を主る。土は四季に王し、秦の分なり。今大軍既に出づ、喜気下り臨む、必ず大慶有らん」と。是に於いて進軍して竇泰と戦ひ、之を擒る。此れより後遂に河東を降し、弘農を剋し、沙苑を破る。此れに由り愈々親礼せらる。
九年、高仲密北 豫 州を以て来附す。太祖兵を遣わし之を援けんと欲し、又昇に問う。昇対えて曰く「春王東に在り、熒惑又井・鬼の分に在り、行軍便ならず」と。太祖従わず、軍遂に東行す。邙山に至り、利あらずして還る。太師賀抜勝怒り、太祖に白して曰く「蔣昇の罪万死に合う」と。太祖曰く「蔣昇固より諫め、出師利あらずと云えり。此の敗は、孤自ら之を取る、昇の過に非ず」と。
魏恭帝元年、前後の功を以て、車騎大将軍・儀同三司を授けられ、高城県子を封ぜられ、邑五百戸。保定二年、邑三百戸を増し、河東郡守を除く。尋いで入りて太史中大夫と為る。老を以て致仕を請う、詔して之を許す。定州刺史を加う。家に卒す。
姚僧垣、字は法 衞 、呉興武康の人、呉の太常信の八世の孫なり。曾祖郢、宋の員外 散騎常侍 ・五城侯。父菩提、梁の高平令。嘗て疾を嬰ること歴年、乃ち医薬に心を留む。梁武帝性又之を好み、毎に菩提を召して方術を討論せしむ、言多く意に会す、是に由りて頗る之を礼す。
僧垣幼より通洽し、喪に居りて礼を尽くす。年二十四、即ち家業を伝う。梁武帝禁中に召し入れ、面して討試を加う。僧垣酬対滞ること無し。梁武帝甚だ之を奇とす。大通六年、解褐して臨川嗣王国左常侍。大同五年、驃騎廬陵王府田曹参軍を除く。九年、還りて殿中医师を領す。時に武陵王の生みし葛修華、宿患積時、方術効莫し。梁武帝乃ち僧垣に之を視しむ。還り、具に其の状を説き、 并 せて増損の時候を記す。梁武帝歎じて曰く「卿の用意綿密、乃ち此に至る、此を以て疾を候う、何の疾か逃る可き。朕常に前代の名人、多く此の術を好むを以て、是を以て毎に恒に情を留め、頗る治体を識る。今卿の説を聞く、益々人の意を開く」と。十一年、転じて太医正を領し、文德主帥・直閤将軍を加う。梁武帝嘗て発熱に因り、大黃を服せんと欲す。僧垣曰く「大黃は是れ快薬なり。然れども至尊年高し、軽く用うるに宜しからず」と。帝従わず、遂に危篤に至る。梁簡文帝東宮に在り、甚だ之を礼す。四時伏臘、毎に賞賜有り。太清元年、転じて鎮西湘東王府中記室参軍。僧垣少くより文史を好み、章句に留意せず。時に今古を商略すれば、則ち学者の称する所と為る。
侯景の建業を囲むに及び、僧垣乃ち妻子を棄てて難に赴く。梁武帝之を嘉し、戎昭将軍・湘東王府記室参軍を授く。宮城の陥つるに及び、百官逃散す。僧垣仮道して帰り、呉興に至り、郡守張嵊に謁す。嵊僧垣を見て流涕して曰く「吾過分に朝恩を荷い、今之に死を以て報いん。君は此の邦の大族、又朝廷の旧臣なり。今日君を得、吾が事弁ず」と。俄にして景兵大いに至り、攻戦累日、郡城遂に陥つ。僧垣竄避すること久しく、乃ち拘執せらる。景の将侯子鑒素より其の名を聞き、深く相器遇し、此に因りて免るることを獲。梁簡文位を嗣ぐに及び、僧垣建業に還り、本官を以て兼ねて中書舎人と為る。子鑒尋いで広陵を鎮め、僧垣又江北に随いて至る。
梁元帝侯景を平ぐるに及び、僧垣を召して荊州に赴かしめ、改めて晋安王府諮議を授く。其の時に雖ち大乱を剋平すと雖も、而して任用才に非ず、朝政混淆し、復た綱紀無し。僧垣毎に深く之を憂う。故人に謂ひて曰く「吾此の形勢を観るに、禍敗久しからず。今時の上策は、関に近きに若かず」と。聞く者皆口を掩ひ窃に笑ふ。梁元帝嘗て心腹の疾有り、乃ち諸医を召して治療の方を議す。咸に至尊至貴は、軽く脱す可からずと謂ひ、平薬を用うるに宜しく、漸く宣通す可しとす。僧垣曰く「脉洪にして実なり、此れ宿食有り。大黃を用いずんば、必ず差の理無からん」と。梁元帝之に従ひ、湯を進むること訖り、果たして宿食を下し、因りて疾愈ゆ。梁元帝大いに喜ぶ。時に初めて銭を鋳る、一は十に当る、乃ち銭十万を賜ふ、実に百万なり。
大軍が荊州を攻略した際、僧垣はなおも梁の元帝に侍して、左右を離れなかった。兵士に制止され、ようやく涙を流して去った。まもなく中山公宇文護が人を遣わして僧垣を求めた。僧垣はその陣営に至った。また燕公于謹に召され、大いに礼遇された。太祖 (宇文泰) もまた使者を駅馬で走らせて僧垣を召し寄せたが、謹は固く留めて遣わさなかった。使者に謂いて曰く、「吾は年老いて衰え、病が重く沈んでいる。今この人を得た。彼と偕老することを望む」と。太祖は謹の勲功と徳望が重いことを以て、遂に止めた。翌年、謹に従って長安に至った。武成元年 (559年) 、小畿伯下大夫を授けられた。
金州刺史伊婁穆が病により京師に帰還し、僧垣に病を診てくれるよう請うた。乃ち云う、「腰より臍に至るまで、三つの縛りの如きものがあり、両脚は緩み弛み、もはや自ら支えることができない」と。僧垣が脈を診て、湯薬三剤を処方した。穆が初め一剤を服すると、上の縛りは即時に解け、次に一剤を服すると、中の縛りもまた解け、さらに一剤を服すると、三つの縛り悉く除かれた。しかし両脚の疼痺は、なおも攣弱のままである。更に散薬一剤を合わせると、稍々屈伸できるようになった。僧垣曰く、「終に霜降を待てば、この患いは癒えるであろう」と。九月に至ると、遂に起ち歩行できるようになった。
大将軍、襄楽公賀蘭隆は先に気疾を患い、これに水腫が加わり、喘息が奔急で、坐臥安からず。或る者が決命大散を服用するよう勧めたが、その家は疑って決しがたく、乃ち僧垣に問うた。僧垣曰く、「私の考えではこの患いは大散に相当せず。もし自ら服用したいのであれば、わざわざ問うには及ばない」と。因って辞去しようとした。その子が殷勤に拝礼して請うて曰く、「長らく抑屈しておられましたが、今日ようやく来られました。もしも治せないというのであれば、実に本意を尽くしたとは言えません」と。僧垣はその病が治癒可能であると知り、即ち処方を為し、急いで服用するよう勧めた。たちまち気が通じ、更に一剤を服すると、諸々の患い悉く癒えた。
天和元年 (566年) 、車騎大将軍・儀同三司を加授された。大将軍、楽平公竇集が突然風疾を感じ、精神錯乱し、何も覚知しなくなった。先に診た諸医は皆、最早救えないと云った。僧垣が後から至り、曰く、「困憊ではあるが、終には死なないであろう。もし専ら私に任せてくださるなら、治してみせましょう」と。その家は喜んで、方術を受けることを請うた。僧垣が湯散を合わせると、患っていた病は即時に癒えた。大将軍、永世公叱伏列椿は下痢を長く苦しんでいたが、朝謁を廃さなかった。燕公于謹が嘗て僧垣に問うて曰く、「楽平公と永世公は共に痼疾を有するが、私の考えでは、永世公の方が軽いようだ」と。対えて曰く、「患いには深浅があり、時には相剋するものがあります。楽平公は困憊ではありますが、終には保全されるでしょう。永世公は軽いようですが、必ず死を免れません」と。謹曰く、「君が必ず死ぬと言うなら、いつ頃か」と。対えて曰く、「四月を出ません」と。果たしてその言の如くであった。謹は歎異した。六年 (571年) 、遂伯中大夫に遷った。
建徳三年 (574年) 、文宣太后が病臥され、医者と巫が雑説し、それぞれ異同があった。高祖 (武帝宇文邕) は内殿に出御し、僧垣を引いて同座させ、曰く、「太后の患いの勢いは軽からず、諸医は皆心配ないと云う。朕は人子の情として、その意を得ることができる。君臣の義として、言うべきことは隠さぬ。公はどう思うか」と。対えて曰く、「臣には聴声視色の妙はありませんが、ただ経歴した事柄が既に多く、常人を基準とすれば、窃かに憂懼を抱いております」と。帝は泣いて曰く、「公が既に決断したのであれば、また何を言おうか」と。まもなく太后は崩御された。その後また召見の機会があり、帝は僧垣に問うて曰く、「姚公が儀同となって幾年か」と。対えて曰く、「臣が朝恩を忝くするのも、今や九歳になります」と。帝曰く、「勤労の日も久しい、朝命も宜しく隆くすべきである」と。乃ち驃騎大将軍・開府儀同三司を授けた。また勅して曰く、「公は県車 (七十歳) を過ぎた年齢である。朝謁を停めてもよい。別勅がなければ、労わって入見するには及ばない」と。
四年 (575年) 、高祖が自ら軍を率いて東征し、河陰に至って病に罹った。口は言うことができず、瞼は目を覆って垂れ、もはや物を見ることができず、一方の足は短縮し、また歩行もできなくなった。僧垣は諸臓が皆病んでいるので、併せて治すことはできないと考えた。軍中で重要なのは、まず言葉に先んずるものはない。乃ち処方をして薬を進めると、帝は遂に言葉を発することができた。次に目を治すと、目の病は直ちに癒えた。最後に足を治すと、足の病もまた癒えた。華州に到着する頃には、帝は既に全快されていた。即ち華州刺史に除され、なお詔して京師に入るに随うことを命じ、州鎮に留め置かなかった。宣政元年 (578年) 、致仕を上表し、優詔をもって許された。この年、高祖が雲陽に行幸し、遂に病臥された。乃ち僧垣を行在所に赴かせる詔を下した。内史柳昂が私かに問うて曰く、「至尊が御膳を減らされて久しいが、脈候は如何ですか」と。対えて曰く、「天子は天心に応じられるお方ですから、或いは凡愚の私の及ぶところではないでしょう。もし凡庶がこのようであれば、万に一つも全うすることはありません」と。まもなく帝は崩御された。
宣帝 (宇文贇) が初め東宮に在った時、常に心痛に苦しんでいた。乃ち僧垣にこれを治させると、その疾は即時に癒えた。帝は甚だ悦んだ。即位すると、恩礼は弥々隆厚になった。常に従容として僧垣に謂って曰く、「常に先帝が公を姚公と呼んでおられたと聞くが、あるか」と。対えて曰く、「臣が曲く殊私を荷うのは、実に聖旨の如くでございます」と。帝曰く、「これは尚歯 (年長者を敬う) の言葉であって、貴爵の号ではない。朕は公のために国を建て家を開き、子孫の永業とすべきである」と。乃ち長寿県公に封じ、邑一千戸を賜う。冊命の日、また金帯及び衣服等を賜った。
大象二年 (580年) 、太醫下大夫に除かれた。帝はまもなく病に罹り、大漸に至った。僧垣は宿直して侍った。帝は随公 (楊堅) に謂って曰く、「今日の朕の性命は、ただこの人に委ねる」と。僧垣は帝の診候が危殆であり、必ず全うできないと知った。乃ち対えて曰く、「臣が恩を受けること既に重く、効力を尽くすことを思います。ただ恐らくは庸短にして及ばず、敢えて心を尽くさないことがありましょうか」と。帝は頷かれた。静帝が嗣位すると、上開府儀同大将軍に遷った。隋の開皇初年、爵を進めて北絳郡公とした。三年 (583年) に卒去、時に八十五歳。遺誡として白帢を着せて棺に入れ、朝服で斂めるなと命じた。霊上にはただ香奩を置き、毎日清水を設けるのみとした。本官を贈られ、荊・湖二州刺史を加えられた。
僧垣の医術は高妙で、当世に推重された。前後の効験は、記し尽くせないほどである。声譽が盛んになると、遠く辺境にまで聞こえた。諸蕃や外域に至るまで、皆彼に請託した。僧垣は乃ち奇異なものを捜採し、効果を検証したものを参校して、『集験方』十二巻を撰し、また『行記』三巻を著して、世に行われた。長子の姚察は江南に在った。
次子の姚最、字は士会、幼くして聡敏であり、長ずるに及んで経史に博通し、特に著述を好んだ。十九歳の時、僧垣に従って関中に入った。世宗 (明帝宇文毓) が盛んに学徒を聚め、麟趾殿で校書を行ったが、最もまた学士として参与した。俄かに斉王宇文憲の府の水曹参軍に授けられ、記室の事を掌った。特に憲に礼遇され、賞賜は隆厚であった。宣帝が嗣位すると、憲は嫌疑を以て誅殺された。隋文帝が宰相となると、官爵を追復した。最は陪遊の歳月を積み、恩顧が過度に隆かったので、乃ち憲の功績を録して伝と為し、史局に送った。
最は幼少時は江左に在り、関中に入るに至るまで、医術を習わなかった。天和年間 (566-572年) 、斉王憲が高祖に奏上し、最に医術を習わせるよう遣わした。憲はまた最に謂って曰く、「爾は博学高才であるが、王襃や庾信と比べてどうか。王・庾は両国に名が重いが、吾は彼らを蔑如として見る。接待や資給は、爾の家の比ではない。爾は深くこの意を識り、心に留めないことがあってはならない。且つ天子に勅がある以上、弥々勉励すべきである」と。最はここに於いて初めて家業を受けた。十年余りの間に、その妙を略尽くした。人が往って請うことがあれば、効験甚だ多かった。隋文帝が践祚すると、太子門大夫に除かれた。父の喪に服して官を去り、哀毀して骨立した。喪が免れると、爵を襲い北絳郡公となり、再び太子門大夫となった。
まもなく蜀王秀の友 (友は官職名) に転じた。秀が益州を鎮守すると、秀の府司馬に遷った。陳が平定された時、察 (蕭察) が到着した。最は自ら嫡子でないことを以て、封を察に譲ろうとしたが、隋の文帝はこれを許した。秀が後に陰に異謀を抱いた時、隋の文帝は公卿に命じてその事を窮めて治めさせた。開府の慶整・郝偉らは皆、過ちを秀に推し及ぼした。ただ最のみが言うには、「凡そ不法の事は、皆、最の為す所であり、王は実に知らぬことなり」と。数百回も拷問を受けたが、終に異なる供述はなかった。最はついに誅殺に坐した。時に六十七歳。世論は彼を義士と評した。『梁後略』十巻を撰し、世に行われた。
黎景熙は字を季明といい、河間郡鄚県の人である。若い頃から字をもって世に知られた。曾祖父の嶷は、魏の太武帝の時、平涼を破るのに従い、功があり、容城県男の爵を賜り、鷹揚将軍を加えられた。後に燕郡太守となった。祖父の鎮は爵を襲い、員外散騎侍郎となった。父の瓊は、太和年間に爵を襲い、員外郎・魏県令を歴任し、後に鄜城郡太守に至った。
季明は若い頃から読書を好み、記憶力が強く黙識していたが、応対の才はなかった。その従祖父の広は、太武帝の時に尚書郎となり、古学に通じていた。かつて吏部尚書の清河の崔玄伯に字義を学び、また 司徒 の崔浩に楷書・篆書を学び、これより家でその法を伝えた。季明もまたこれを伝習し、許慎の説とかなり異なるところがあった。また玄象を占うことを好み、術数をよく知っていた。しかし落魄として生業に従わず、千余巻の書物を持っていた。貧窮して独居しても、飢え寒さによって節操を変えることはなかった。范陽の盧道源と莫逆の友であった。
永安年間、道源が仕官するよう勧めたので、初めて威烈将軍となった。魏の孝武帝の初め、鎮遠将軍に遷り、まもなく歩兵 校尉 に任じられた。孝武帝が西遷すると、季明は伊水・洛水の地に寓居した。侯景が河外の地を巡行した時、季明を召して軍に従わせた。まもなく銀青光禄大夫を授けられ、中軍将軍を加えられ、行臺郎中に拝され、黎陽郡太守に任じられた。季明は懸瓠まで従ったが、侯景が結局頼りにならぬと察し、遂に去った。潁川に客居し、世の道がまだ清まらぬことを以て、悠々と歳月を過ごそうとした。時に王思政が潁川を鎮守し、しばしば使者を遣わして召した。季明はやむを得ず出て会見し、内館に一月余り留まった。太祖 (宇文泰) もまた彼を召したので、遂に関中に入った。そこで季明に命じて、東閣で古今の文字を正定させた。
大統末年、安西将軍に任じられ、まもなく著作佐郎に拝された。当時、同輩たちは皆、常伯 (侍中・ 散騎常侍 など) の位を兼ね、車服は華やかで盛んであった。ただ季明のみが貧素のままでその職にあり、恥じる色がなかった。また職務に勤勉で、著述を怠らなかった。しかし性格は特に頑固で、時流に合わなかった。このため、一度史官となると、遂に十年間も転任がなかった。魏の恭帝元年、平南将軍・右銀青光禄大夫の号を進めた。六官が建てられると、外史上士となった。孝閔帝が即位すると、征南将軍・右金紫光禄大夫を加えられた。時に大司馬の賀蘭祥が吐谷渾を討つと、詔により季明は軍に従った。帰還後、驃騎将軍・右光禄大夫に任じられた。武成末年、外史下大夫に遷った。
保定三年、宮室の営造が盛んに行われた。春夏に大旱があり、詔して公卿百官に得失を極言させた。季明が上書して言うには:
時に豪富の家は、競って奢侈華麗を極めた。季明がまた上書して言うには:
帝はこれを見て賞賛した。
時に外史の官舎はたびたび移転し、定まった場所がなかった。季明がまた上言して言うには、「外史の職は、漢の東観に当たり、その儀礼は石渠閣に等しく、その職掌は天禄閣と同じである。これは広内の秘府、言 (文書) を蔵する奥深き所である。帝王の宝とする所、ここに在り。魏より周に至るまで、公館が建てられていない。臣は愚かで目が見えぬ者ではあるが、なおその非を知っている。ゆえに去年十一月中、敢えて陳奏を冒した。中旨が降りて、すぐに修営を遣わされるはずであったが、うつろうこと一年、まだ工事が加えられていない。臣は職を思ってその憂いを抱き、敢えて重ねて請わざるを得ない」。帝はこれを容れた。ここにおいて官舎がようやく建てられた。
天和三年、車騎大将軍・儀同三司に進んだ。後に病気で卒した。
趙文深は字を徳本といい、南陽郡宛県の人である。父の遐は、医術をもって進み、魏に仕えて尚薬典御となった。
文深は若い頃から楷書・隷書を学び、十一歳の時、魏の皇帝に書を献じた。義を立てて朝廷に帰順し、大丞相府法曹参軍に任じられた。文深は風雅に鍾繇・王羲之の法を持ち、筆勢は見るべきものがあった。当時の碑や扁額の書は、文深と冀儁だけが書いていた。大統十年、義を立てた功を追論し、白石県男に封ぜられ、邑二百戸を賜った。太祖は隷書に誤りが多いのを以て、文深と黎季明・沈遐らに命じて『説文』及び『字林』に依拠して六体を刊定させ、一万余言を成し、世に行われた。
江陵を平定した後、王褒が関中に入ると、貴遊らはこぞって王褒の書を学んだ。文深の書は、遂に遠く棄てられるようになった。文深は慙愧し悔しみ、言葉や顔色に表れた。後に好尚が変え難いことを知り、また王褒の書を研究習得しようとしたが、結局何も成し遂げられず、かえって譏りと議論を受け、邯鄲の歩みを学ぶものと謂われた。碑や扁額に至っては、他の者はまだ彼に及ばなかった。王褒もまた常に彼を推して先んじた。宮殿楼閣の扁額は、皆その筆跡である。県伯下大夫に遷り、儀同三司を加えられた。世宗 (明帝) は命じて江陵に行き景福寺碑を書かせたが、漢南の人士もまた巧みであるとした。梁主の蕭詧はこれを見て美しいとし、賞与の贈り物は甚だ厚かった。天和元年、露寝などが初めて完成し、文深は扁額を題する功により、邑二百戸を増やされ、趙興郡太守に任じられた。文深は外任していても、扁額を題する必要がある度に、いつもまた追い召し戻された。後に病気で卒した。
褚該は字を孝通といい、河南郡陽翟県の人である。晋の末年に、江左に移り住んだ。祖父の長楽は、斉の竟陵王の録事参軍であった。父の義昌は、梁の鄱陽王の中記室であった。
該は幼い頃から謹厳で篤実であり、郷里で誉れがあった。特に医術に優れ、当時に称えられた。梁に仕え、武陵王府参軍を歴任した。王府に随従して西上した。後に蕭撝とともに国 (北周) に帰順し、平東将軍・左銀青光禄大夫を授けられ、驃騎将軍・右光禄大夫に転じた。武成元年、医正上士に任じられた。許奭が死んでから後、該は次第に時人に重んじられるようになり、賓客の迎えや訪問は、姚僧垣に次ぐものであった。天和初年、県伯下大夫に遷った。五年、車騎大将軍・儀同三司を進めて授けられた。該の性格は穏やかで和やかであり、自ら誇ることもなく、ただ請う者がいれば、皆その芸術を尽くした。当時の論は彼を長者と称えた。後に病気で卒した。子の士則もまたその家業を伝えた。
時に強練という者がいた。何処の者か知らず、またその名も知られていない。魏の時代に李順興という者がおり、言葉を発するか黙するか定まらず、未然の事を好んで言い、当時は李練と号された。世の人は強が練に類するとして、故に練とも呼んだのである。容貌は長大で壮健、人と異なるところがあった。精神は恍惚として、測り知ることはできなかった。意に論説せんと欲すれば、人に逢えばすぐに語った。もしその言わんとせざる時に値すれば、たとえ苦しんで祈請を加えても、応酬返答することはなかった。初めその言を聞けば、およそ理解しがたい。事が過ぎた後、往々にして験があった。常に諸仏寺に寄住し、民家を遊行することを好み、兼ねて歴訪して王公の邸第に造った。至る所、人皆敬い信じた。
晋公宇文護が誅殺される前、強練は曾て手に大瓢を持ち、護の邸門外に至り、押し当ててこれを破った。乃ち大声に言うには、「瓢破れて子苦し」と。時に柱国・平高公侯伏侯龍恩は早くより護に依随し、深く任委された。強練が龍恩の宅に至り、その妻元氏及び妾媵並びに婢僕らを呼び、皆に連席して坐るよう命じた。諸人は夫人に逼ることを苦にして、辞して肯わなかった。強練は言う、「汝らは一例の人である。何ぞ貴賤あらんや」と。遂に逼って坐に就かせた。未だ幾ばくもせずして護は誅され、諸子は皆死んだ。龍恩もまた法に伏し、仍ってその家は籍没された。
建德年間、強練は毎夜街衢の辺りの樹に上り、釈迦牟尼仏を大声で泣き、あるいは夜明けに至るまで、このようにすること数日に及び、声は甚だ哀れであった。俄かに仏・道二教が廃された。
大象末年、強練はまた底無しの囊一つを持ち、長安市の肆を歴訪して告げ乞い、市人は争って米麦をこれに遺した。強練は囊を張ってこれを投げ入れ、隨即ちこれを地に漏らした。ある人がこれに問うて言うには、「汝は何を為すのか」と。強練は言う、「これもまた余り無し。ただ諸人に盛る空しきを見せんと欲するのみ」と。隋の開皇初年に至り、果たして都を龍首山に移し、長安城は遂に空しく廃された。後、またその終わりを知る者はなかった。
また蜀郡の衛元嵩という者あり、これも将来の事を好んで言い、蓋し江左の宝誌の流れである。天和年間、詩を著して周・隋の廃興及び皇家の受命を預め論じ、並びに徴験があった。性は特に釈教を信ぜず、嘗て上疏して極論した。史はその事を失い、故に伝を為さない。
史臣曰く、仁義の教に対するは大なり、術芸の用に対するは博し。是に狥う者は、非無き能わず、利に厚き者は、必ず其の害有り。詩・書・礼・楽の失う所は浅し、故に先王は其の徳を重んず。方術技巧の失う所は深し、故に往哲は其の芸を軽んず。夫れ方術を通じて俗に詭せず、技巧を習いて必ず礼に蹈む者は、豈に大雅の君子ならずや。姚僧垣は診候精審にして、名は一代に冠たり、其の全済する所、固より亦多し。而して此の義方を弘めて、皆令器と為り、故に能く眉寿を享け、好爵に縻る。老聃云う「天道親無く、常に善人に与す」と、是に於いて信ずる矣。