周書
卷五十 列傳第四十二 異域下 (突厥・吐谷渾・高昌・鄯善・焉耆・龜茲・于闐・囐噠・粟特・安息・波斯)
突厥
突厥は、匈奴の別種であり、姓は阿史那氏である。別に部落をなす。後に隣国に滅ぼされ、その一族はことごとく滅亡した。一人の児童あり、年齢およそ十歳、兵士はその幼さを見て殺すに忍びず、その足を刖り、草沢の中に棄てた。牝狼が肉を与えて養い、成長すると、狼と交わり、ついに孕んだ。かの国の王はこの児がなお生きていると聞き、重ねて殺すよう遣わした。使者が狼が側にいるのを見て、狼をも殺そうとした。狼は高昌国の北山に逃れた。山に洞穴があり、穴内には平らな土地と茂った草があり、周囲数百里、四面ともに山である。狼はその中に隠れ、ついに十人の男子を生んだ。十人の男子が成長し、外から妻を娶って孕ませ、その後それぞれ一つの姓を有し、阿史那はその一つである。子孫は繁殖し、次第に数百の家に至った。数世を経て、ともに穴を出て、茹茹に臣従した。金山の南に居住し、茹茹の鉄工となった。金山の形は兜鍪に似ており、その俗に兜鍪を「突厥」というので、ついにこれによって号とした。
あるいは云う、突厥の先祖は索国より出で、匈奴の北に在り。その部落の大人を阿謗歩といい、兄弟十七人。その一人を伊質泥師都といい、狼の生んだ者である。謗歩らは性質ともに愚癡であり、国はついに滅ぼされた。泥師都はすでに別に異気を感じ、風雨を徴召することができた。二人の妻を娶り、これは夏の神、冬の神の娘であるという。一度の孕みで四男を生んだ。その一人は白鴻に変じ、その一人は阿輔水と剣水の間に国を建て、契骨と号し、その一人は処折水に国を建て、その一人は践斯処折施山に居住し、これがその長男である。山上にはなお阿謗歩の種類があり、ともに寒露が多い。長男は火を出して温め養い、皆が全うすることができた。ついに共に長男を主として奉じ、突厥と号し、すなわち訥都六設である。訥都六には十人の妻があり、生んだ子は皆母方の族を以て姓とし、阿史那はその小妻の子である。訥都六が死ぬと、十人の母と子の内から一人を選んで立てようとし、ついに相率いて大樹の下に至り、共に約束して言うには、樹に向かって跳躍し、最も高く跳べる者を、すなわち推して立てようと。阿史那の子は年齢が幼いながら跳躍が最も高く、諸子はついに主として奉じ、阿賢設と号した。この説は異なるが、しかし終には狼の種である。
その後、土門という者あり、部落は次第に盛んとなり、初めて塞上に至り繒絮を市い、中国と通じることを願った。大統十一年、太祖は酒泉の胡人安諾槃陁を遣わして使わしめた。その国は皆慶賀して言う、「今、大国の使者が至った。我が国は将に興るであろう」と。十二年、土門はついに使者を遣わして方物を献じた。時に鉄勒が茹茹を伐たんとし、土門は率いる所の部を率いて邀撃し、これを破り、その衆五万余落をことごとく降した。その強盛を恃み、ついに茹茹に求婚した。茹茹の主阿那瓌は大いに怒り、人を遣わして罵り辱めて言うには、「お前は我が鍛冶の奴隷である。どうしてこのような言葉を発することができようか」と。土門もまた怒り、その使者を殺した。ついにこれと絶ち、我が国に求婚した。太祖はこれを許した。十七年六月、魏の長楽公主を以てその妻とした。この年、魏の文帝が崩御し、土門は使者を遣わして弔問し、馬二百匹を贈った。
魏の廃帝元年正月、土門は兵を発して茹茹を撃ち、これを懐荒の北において大破した。阿那瓌は自殺し、その子菴羅辰は斉に奔り、余衆は再び阿那瓌の叔父鄧叔子を立てて主とした。土門はついに自ら伊利可汗と号し、古の単于のごとし。その妻を可賀敦と号し、また古の閼氏のごとし。土門が死ぬと、子の科羅が立った。
科羅は乙息記可汗と号した。また叔子を沃野の北の木頼山において破った。二年三月、科羅は使者を遣わして馬五万匹を献じた。科羅が死ぬと、弟の俟斤が立ち、木汗可汗と号した。
俟斤は一名を燕都といい、状貌は多く奇異であり、顔の幅は一尺余り、その色は甚だ赤く、眼は瑠璃のようである。性質は剛暴で、征伐に務めた。ついに兵を率いて鄧叔子を撃ち、これを滅ぼした。叔子はその余燼を率いて来奔した。俟斤はまた西に囐噠を破り、東に契丹を走らせ、北に契骨を併せ、塞外の諸国を威服させた。その地は東は遼海より以西、西は西海に至る万里、南は沙漠より以北、北は北海に至る五六千里、皆これに属した。
その俗は髪を被り、衣を左に衽い、穹廬の氈帳に住み、水草に随って遷徙し、畜牧と射猟を務めとする。老を賤しみ壮を貴び、廉恥に乏しく、礼義なく、古の匈奴のごとし。その主が初めて立つとき、近侍の重臣らは氈を以てこれを輿し、日に随って九回転ず。每一回、臣下は皆拝す。拝し終わりて、すなわち扶けて馬に乗せ、帛を以てその頸を絞め、かろうじて絶えざる程度にし、然る後に放ち急いでこれに問うて言う、「汝は幾年か可汗を為すことができるか」と。その主はすでに神情瞀乱し、詳らかに多少を定めることができない。臣下らはその言う所に随い、以て修短の数を験す。大官に葉護あり、次に設、次に特勤、次に俟利発、次に吐屯発、及びその余の小官凡二十八等あり、皆世襲である。兵器には弓矢・鳴鏑・甲・矟・刀・劍あり、その佩飾には則ち兼ねて伏突あり。旗纛の上に、金の狼頭を施す。侍 衞 の士を、附離といい、夏の言葉でもまた狼という。蓋し元来狼より生まれ、志に旧を忘れざるによる。その兵馬を徴発し、雑畜を課税するには、輒ち木を刻んで数とし、併せて一つの金鏃の箭を、蠟で封印し、以て信契とする。その刑法は、反叛・人を殺すこと及び人の婦を姦し、馬絆を盗む者は、皆死罪。人の女を姦す者は、財物を重く責め、すなわちその女を以て妻とす。鬭いで人を傷つける者は、軽重に随って物を輸す。馬及び雑物を盗む者は、各々十余倍にこれを徴す。死者は、屍を帳の中に停め、子孫及び諸親属の男女は、各々羊馬を殺し、帳の前に陳べて、これを祭る。帳を繞って走馬すること七匝、一度帳門に詣り、刀を以て面を𠢐し、かつ哭き、血と涙ともに流る。このようにすること七度にして、すなわち止む。日を択び、亡者の乗った馬及び経用服用の物を取り、屍とともにこれを焚き、その余灰を収め、時を待って葬る。春夏に死した者は、草木の黄落するを候い、秋冬に死した者は、華葉の栄茂するを候い、然る後に始めて坎を掘ってこれを瘞う。葬の日、親属は祭を設け、及び走馬・𠢐面すること、初めて死したときの儀のごとし。葬り終わりて、墓所に石を立て標を建つ。その石の多少は、平生に殺した人数に依る。また祭った羊馬の頭を、ことごとく標の上に懸け掛く。この日、男女は皆盛んに服飾し、葬所に会す。男に女を悦愛する者あれば、帰りてすなわち人を遣わして娉問し、その父母は多く違わない。父・兄・伯叔が死すれば、子弟及び姪らはその後母・世叔母及び嫂を妻とす。ただ尊者は下を淫することを得ず。移徙無常といえども、而も各々地分あり。可汗は常に都斤山に処り、牙帳は東に開く。蓋し日の出づる所を敬うによる。毎年、諸貴人を率いて、その先祖の窟を祭る。また五月中旬に、他人水に集まり、天神を拝祭す。都斤より四五百里に、高山ありて迥かに出で、上に草樹なく、これを勃登凝黎といい、夏の言葉で地神という。その書く字は胡に類し、年暦を知らず、ただ草の青きを以て記す。
俟斤の部衆はすでに盛んとなり、ついに使者を遣わして鄧叔子らを誅することを請うた。太祖はこれを許した。叔子以下三千人を収め、その使者に付し、青門外においてこれを殺した。三年、俟斤は吐谷渾を襲撃し、これを破った。語は吐谷渾伝にある。明帝二年、俟斤は使者を遣わして来たり方物を献じた。保定元年、また三輩の使者を遣わしてその方物を貢いだ。
時に齊人と交爭し、戎車歳に動くが故に、毎に之を連結して、以て外援と為す。初め、魏の恭帝の世、俟斤は女を太祖に進めんことを許すも、契未だ定まらずして太祖崩ず。尋いで俟斤又た他女を以て高祖に許すも、未だ結納に及ばず、齊人も亦た婚を求めて遣わす。俟斤其の幣厚きを貪り、将に之を悔いんとす。是に至り、詔して涼州刺史楊薦・武伯王慶等を遣わして往きて之を結ばしむ。慶等至り、信義を以て諭す。俟斤遂に齊使を絶ちて婚を定む。仍て挙国東伐を請う。語は薦等の傳に在り。
三年、詔して随公楊忠に率眾一萬を以て、突厥と齊を伐たしむ。忠軍陘嶺を度る。俟斤騎十萬を率いて来会す。明年正月、 晉 陽に於いて齊主を攻むるも、克たず。俟斤遂に兵を縦して大掠して還る。忠高祖に言う、「突厥の甲兵は悪く、爵賞は軽く、首領多くして法令無し、何ぞ難く制馭すべきやと謂わん。正に比者使人其の彊盛を妄りに道うに由り、国家をして其の使者を厚くせしめ、身往きて重く其の報を取らんと欲するなり。朝廷其の虚言を受け、将士風望して畏慴す。但だ虜の態は詐りて健なりと雖も、而して実に与え易きのみ。今臣を以て之を観るに、前後の使人皆斬るべし」と。高祖納れず。是歳、俟斤復た使を遣わして来献し、更に東伐を請う。詔して楊忠に兵を率いて沃野より出で、 晉 公護洛陽に趣きて之に応ぜしむ。会に護戦利あらず、俟斤引きて還る。五年、詔して陳公純・大 司徒 宇文貴・神武公竇毅・南安公楊薦等をして往きて女を逆わしむ。天和二年、俟斤又た使を遣わして来献す。陳公純等至る。俟斤復た齊に貳す。会に風雷の変有り、乃ち純等に后の帰るを許す。語は皇后傳に在り。四年、俟斤又た使を遣わして馬を献ず。
俟斤死す。弟他鉢可汗立つ。俟斤以来、其の国富彊にして、中夏を凌轢せんとする志有り。朝廷既に和親し、歳に繒絮錦綵十万段を給す。突厥京師に在る者、又た優礼を以て待ち、錦を衣て肉を食う者、常に千数を以てす。齊人其の寇掠を懼れ、亦た府藏を傾けて以て之を給す。 他鉢弥 驕傲に復し、至り乃ち其の徒属に率いて曰く、「但だ我が南に在る両箇の児の孝順なる有らば、何ぞ物無きを憂えんや」と。建德二年、他鉢使を遣わして馬を献ず。
及び齊滅ぶ。齊の定州刺史・范陽王高紹義馬邑より奔りて之に至る。他鉢紹義を立てて齊帝と為し、召集して所部に云く、之が為に復讐せんと。宣政元年四月、他鉢遂に寇して幽州に入り、居民を殺略す。柱国劉雄兵を率いて拒戦すも、兵敗れ、之に死す。高祖親しく六軍を総べ、将に北伐せんとす。会に帝崩ず、乃ち師を班す。是の冬、他鉢復た辺を寇し、酒泉を囲み、大掠して去る。大象元年、他鉢復た和親を請う。帝趙王招の女を冊して千金公主と為し、以て之に嫁し、並びに紹義を執りて送闕せしむ。他鉢詔を奉ぜず、仍て幷州を寇す。大象二年、始めて使を遣わして奉献し、且つ公主を逆う。而して紹義尚ほ留まりて遣わさず。帝又た賀若誼をして往きて之を諭さしむ。始めて紹義を送る云う。
吐谷渾
吐谷渾は、本は遼東の鮮卑慕容廆の庶兄なり。初め、吐谷渾の馬と廆の馬鬭いて廆の馬傷つく。廆遣わして之を譲る。吐谷渾怒り、其の部落を率いて之を去り、 枹罕 に止まり、自ら君長と為る。孫葉延に及び、頗る書傳を視る。古に王父の字を以て氏と為す有りと以て、遂に吐谷渾を以て氏と為す。
吐谷渾より伏連籌に至るまで一十四世。伏連籌死し、子夸呂立つ。始めて自ら号して可汗と為す。伏俟城に治め、青海の西十五里に在り。城郭有りと雖も、而して之に居らず、恒に穹廬に処り、水草に随いて畜牧す。其の地東西三千里、南北千余里。官に王公・僕射・尚書及び郎中・將軍の号有り。夸呂は椎髻・毦・珠をなし、皂を以て帽と為し、金師子床に坐す。其の妻を号して恪尊と為し、織成の裙を衣、錦の大袍を披き、辮髮を後にし、首に金花を戴く。
其の俗、丈夫の衣服は華夏に略同じく、多く羃䍦を以て冠と為し、亦た繒を以て帽と為す。婦人は皆珠を貫きて髮を束ね、多くを以て貴しと為す。兵器に弓刀甲矟有り。国に常賦無く、須うれば則ち富室商人に税して以て用に充つ。其の刑罰、人を殺し及び馬を盗む者は死し、余は則ち物を徴し、事を量りて杖を決す。人を刑するには必ず氈を以て頭を蒙り、石を持ちて高きより従い撃ちて殺す。父兄亡びたる後、後母及び嫂等を妻とす。突厥の俗と同じ。婚姻に至りては、貧しくして財物を備うること能わざる者は、輒ち女を盗みて将ち去る。死者も亦た皆埋殯す。其の服制、葬ること訖れば則ち之を除く。性貪婪にして、殺害に忍ぶ。射獵を好み、肉酪を以て糧と為す。亦た田を種うるを知る。然れども其の北界は、気候多く寒く、唯だ蕪菁・大麦を得るのみ。故に其の俗は貧多くして富少なし。青海は周回千余里、海内に小山有り。毎冬冰合したる後、良牝馬を此の山に置き、来冬に至りて之を収むれば、馬皆孕み有り、生むところの駒は、号して龍種と為し、必ず多く駿異なり。世に青海驄と傳うる者これなり。土は犛牛を出し、鳥は多く鸚鵡なり。
大統中、夸呂再び使を遣わして馬及び羊牛等を献ず。然れども猶寇抄止まず、縁辺多く其の害を被る。魏の廃帝二年、太祖大兵を勒して姑臧に至る。夸呂震懼し、使を遣わして方物を貢す。是歳、夸呂又た齊氏に通使す。涼州刺史史寧其の還るを覘い、軽騎を率いて之を州西赤泉に襲い、其の僕射乞伏觸扳・將軍翟潘密・商胡二百四十人を獲、駞騾六百頭、雑綵絲絹万計を獲る。魏の恭帝二年、史寧又た突厥の木汗可汗と共に夸呂を襲撃し、之を破り、其の妻子を虜い、珍物及び雑畜を大いに獲る。語は史寧傳に在り。武成初、夸呂復た涼州を寇し、刺史是云寶戦没す。詔して賀蘭祥・宇文貴に兵を率いて之を討たしむ。夸呂其の廣定王・鐘留王を遣わして拒戦せしむ。祥等之を破り、廣定等遁走す。又た其の洮陽・洪和二城を攻め抜き、洮州を置きて還る。保定中、夸呂前後三輩使を遣わして方物を献ず。天和初、其の龍涸王莫昌眾を率いて降り、其の地を以て扶州と為す。二年五月、復た使を遣わして来献す。
建德五年、其の国大いに乱る。高祖詔して皇太子に之を征せしむ。軍青海を渡り、伏俟城に至る。夸呂遁走し、其の余眾を虜いて還る。明年、又た再び奉献を遣わす。宣政初、其の趙王他婁屯来降す。是より朝献遂に絶ゆ。
高昌
高昌は、車師前王の故地なり。東は長安を去ること四千九百里、漢の西域長史及び戊己 校尉 は、竝びに此に治む。 晉 其の地を以て高昌郡と為す。張軌・呂光・沮渠蒙遜河西に据え、皆太守を置きて以て之を統ぶ。其の後闞爽及び沮渠無諱有り、竝びに自ら署して太守と為す。無諱死し、茹茹其の弟安周を殺し、闞伯周を以て高昌王と為す。高昌の王と称するは、此より始まる。伯周の從子首帰は、高車に滅ぼさる。次に張孟明・馬儒有り、相継ぎて之を王し、竝びに国人に害せらる。乃ち更に推立てて麴嘉を王と為す。嘉は字は霊鳳、金城榆中の人、本は儒の右長史なり。魏の太和末に立つ。嘉死し、子堅立つ。
その地は東西三百里、南北五百里である。国内には総じて城が十六ある。官には令尹一人あり、中夏の相国に比す。次に公二人あり、皆その王子なり。一は交河公と為し、一は田地公と為す。次に左右衛あり。次に八長史あり、吏部・祠部・庫部・倉部・主客・礼部・民部・兵部等の長史なり。次に建武・威遠・陵江・殿中・伏波等の将軍あり。次に八司馬あり、長史の副なり。次に侍郎・校書郎・主簿・從事あり、階位相次ぎ、諸事を分掌す。次に省事あり、専ら導引を掌る。その大事は王に於いて決し、小事は則ち世子及び二公が状に随って断決す。平章録記し、事訖れば即ち除く。籍書の外、久しく掌る文案無し。官人には列位有りと雖も、並びに曹府無く、唯毎旦牙門に集まりて衆事を評議す。諸城各々戸曹・水曹・田曹有り。毎城司馬・侍郎を遣わして相監検校せしめ、名づけて城令と為す。服飾は、丈夫は胡法に従い、婦人は略々華夏に同じ。兵器には弓箭刀楯甲矟有り。文字も亦華夏に同じ、兼ねて胡書を用う。毛詩・論語・孝経有り、学官弟子を置き、以て相教授す。習読すと雖も、皆胡語と為す。賦税は則ち計りて銀錢を輸し、無き者は麻布を輸す。その刑法・風俗・婚姻・喪葬は、華夏と小異にして大同なり。地は多く石磧、気候温暖、穀麦再熟し、蚕に宜しく、五果多し。草有り羊刺と曰い、その上に蜜を生ず。
嘉 (麴嘉) 以来、世々蕃職を魏に修む。大統十四年、詔してその世子玄喜を以て王と為す。恭帝二年、又その田地公茂を以て位を嗣がしむ。武成元年、その王使いを遣わし方物を献ず。保定初、又使いを遣わして来貢す。
燉煌よりその国に向かうに、多く沙磧有り、道里は准記すべからず、唯人畜の骸骨及び駱駝馬の糞を以て験と為し、又魍魎怪異有り。故に商旅来往するは、多く伊吾路を取る云う。
鄯善
鄯善は、古の楼蘭国なり。東は長安を去ること五千里。治むる城は方一里。地は多く沙鹵、水草少なし。北は即ち白龍堆の路なり。魏の太武の時、沮渠安周に攻められ、その王西に奔りて且末に至る。西北に流沙数百里有り、夏日に熱風有り、行旅の患と為る。風の将に至らんとするや、唯老駱駝これを知り、即ち鳴きて聚い立ち、その口鼻を沙中に埋む。人は毎に以て候と為し、即ちまた氈を将いて鼻口を擁蔽す。その風迅駛にして、斯須にして過ぎ尽くす。若し防がざる者は、必ず危斃に至る。
大統八年、その〔王の〕兄鄯米、衆を率いて内附す。
焉耆国
焉耆国は白山の南七十里に在り、東は長安を去ること五千八百里。その王は姓は龍、即ち前涼の張軌の〈 (封) 〉〔討〕たる龍熙の胤なり。治むる城は方二里。部内凡そ九城有り。国小さく民貧しく、綱紀法令無し。兵には弓刀甲矟有り。婚姻は略々華夏に同じ。死亡する者は皆焚きて後に葬り、その服制は満七日なれば則ちこれを除く。丈夫は並びに髪を剪りて以て首飾と為す。文字は婆羅門と同じ。俗は天神を事とし、並びに佛法を崇信す。尤も二月八日・四月八日を重んず。是の日なり、その国咸く釈教に依り、斎戒行道す。気候寒く、土田良沃なり。穀には稻粟菽麦有り。畜には駱駝馬牛羊有り。蚕を養うも以て絲と為さず、唯綿纊に充つ。俗は蒲桃酒を尚び、兼ねて音楽を愛す。南は海を去ること十余里、魚塩蒲葦の饒有り。
保定四年、その王使いを遣わし名馬を献ず。
亀茲国
亀茲国は白山の南一百七十里に在り、東は長安を去ること六千七百里。その王は姓は白、即ち後涼の呂光の立てし白震の後なり。治むる城は方五六里。その刑法は、人を殺す者は死し、賊を刼うる者は則ちその一臂を断ち、並びに一足を刖つ。賦税は、地に准じて租を徴し、田無き者は則ち銀錢を税す。婚姻・喪葬・風俗・物産は焉耆と略々同じ。唯気候少しく温なるを異とす。又細氈・麖皮・𣰽毺・鐃〈 (多) 〉〔沙〕・塩緑・雌黄・胡粉及び良馬・封牛等を出す。東に輪台有り、即ち漢の貮師将軍李広利の屠るところなり。その南三百里に大水有り東に流れ、号して計戍水と曰い、即ち黄河なり。
保定元年、その王使いを遣わして来献す。
于闐国
于闐国は葱嶺の北二百余里に在り、東は長安を去ること七千七百里。治むる城は方八九里。部内に大城五、小城数十有り。その刑法は、人を殺す者は死し、余の罪は各々軽重に随ってこれを懲罰す。外は自ら風俗物産は亀茲と略々同じ。俗は佛法を重んじ、寺塔僧尼甚だ衆し。王は特に信向し、毎に斎日を設くれば、必ず自ら洒掃饋食す。城南五十里に贊摩寺有り、即ち昔羅漢比丘比盧旃其の王の為に覆盆浮図を造りし所なり。石上に辟支仏の趺坐せし処有り、双跡猶存す。高昌以西より、諸国の人多く深目高鼻、唯此の一国のみ、貌甚だ胡ならず、頗る華夏に類す。城東二十里に大水有り北に流れ、号して樹枝水と曰い、即ち黄河なり。城西十五里も亦大水有り、名づけて達利水と曰い、樹枝水と俱に北流し、同じく計戍に会す。
建德三年、その王使いを遣わし名馬を献ず。
嚈噠國
囐噠國は大月氏の種類にして、于闐の西に在り、東は長安より一萬百里を去る。その王は拔底延城に治め、蓋し王舍城なり。その城は方十餘里。刑法・風俗は突厥と略同じ。その俗はまた兄弟共に一妻を娶る。夫に兄弟なき者は、その妻は一角の帽を戴き、もし兄弟ある者は、その多少の数に依り、更に帽角を加う。その人は兇悍にして、よく戦鬭す。于闐・安息等大小二十餘國は、皆これに役屬せり。
大統十二年、使いを遣わしてその方物を献ず。魏の廢帝二年、明帝二年、並びに使いを遣わして来たりて献ず。後に突厥に破られ、部落分散し、職貢遂に絶ゆ。
粟特國
粟特國は葱嶺の西に在り、蓋し古の庵蔡にして、一名を溫那沙と曰う。大澤に治め、康居の西北に在り。
保定四年、その王使いを遣わして方物を献ず。
安息國
安息國は葱嶺の西に在り、蔚搜城に治む。北は康居と、西は波斯と相接し、東は長安より一萬七百五十里を去る。
天和二年、その王使いを遣わして来たりて献ず。
波斯國
波斯國は大月氏の別種にして、蘇利城に治め、古の條支國なり。東は長安より一萬五千三百里を去る。城は方十餘里、戸十餘萬。王は波斯氏を姓とす。金羊の床に坐し、金花の冠を戴き、錦袍・織成の帔を衣り、皆珍珠寶物を以て飾る。その俗、丈夫は髪を剪り、白皮の帽を戴き、貫頭の衫を着し、兩廂近く下にこれを開き、並びに巾帔有り、織成を以て縁どる。婦女は大衫を服し、大帔を披ぎ、その髪は前に髻と為し、後にこれを被り、金銀の華を以て飾り、仍て五色の珠を貫き、これを膊に絡ぐ。
王はその國內に別に小牙十餘所有り、猶中國の離宮の如し。每年四月に出遊してこれに処り、十月に乃ち還る。王即位の後、諸子の内賢者を択び、密かにその名を書き、これを庫に封ず。諸子及び大臣皆これを知らず。王死すに及び、乃ち衆共に書を発してこれを視、その封内に名有る者を、即ち立てて以て王と為し、餘子は各出でて辺任に就く。兄弟更に相見ること無し。國人は王を號して翳囋と曰い、妃を防歩率と曰い、王の諸子を殺野と曰う。大官に摸胡壇有り、國內の獄訟を掌る。泥忽汗有り、庫藏關禁を掌る。地卑勃有り、文書及び衆務を掌る。次に遏羅訶地有り、王の内事を掌る。薩波勃有り、四方の兵馬を掌る。その下皆屬官有り、分かちその事を統ぶ。兵器に甲・矟・圓排・劍・弩・弓箭有り。戦には並び象に乗り、毎象百人これに随う。その刑法、重罪は諸竿に懸けて、射てこれを殺す。次は則ち獄に繫ぎ、新王立つに及びて乃ちこれを釈す。軽罪は則ち劓・刖若くは髠し、或いは半鬚を翦り、及び排を項上に繫ぎ、以て恥辱と為す。彊盜を犯す者は、これを終身禁ず。貴人の妻を姦する者は、男子は流し、婦人はその耳鼻を割く。賦稅は則ち地に准じて銀錢を輸す。
俗は火祆神を事う。婚合も亦尊卑を択ばず、諸夷の中にて最も醜穢なり。民女年十歳以上姿貌有る者は、王これを収養し、功勳有る人に、即ち以て分かち賜う。死者は多く屍を山に棄て、一月服を治む。城外に人別に居り、唯だ喪葬の事を知るのみ、號して不淨人と為す。もし城市に入れば、鈴を搖がして自ら別つ。六月を以て歳首と為し、尤も七月七日・十二月一日を重んず。その日、民庶以上、各相命召し、会を設け楽を作し、以て歓娛を極む。又每年正月二十日を以て、各その先に死する者を祭る。
気候は暑熱にして、家自ら冰を蔵す。地は多く沙磧にして、水を引きて溉灌す。その五穀及び禽獣等は、中夏と略同じく、唯だ稻及び黍秫無し。土は名馬及び駞を出し、富室は数千頭に至る者有り。又白象・師子・大鳥の卵・珍珠・離珠・頗黎・珊瑚・琥珀・瑠璃・馬瑙・水晶・瑟瑟・金・銀・鍮石・金剛・火齊・鑌鐵・銅・錫・朱沙・水銀・綾・錦・白疊・毼・氍毹・𣰅㲪・赤麞皮、及び薰六・鬱金・蘇合・青木等の香、胡椒・蓽撥・石蜜・千年棗・香附子・訶棃勒・無食子・鹽綠・雌黃等の物を出す。
魏の廢帝二年、その王使いを遣わして来たりて方物を献ず。
史臣曰く。
史臣曰く、四夷の中国を患ふること久し、而して北狄は特に甚だし。昔、厳尤・班固は皆、周及び秦漢には其の上策を得たる者なしと為す。通賢の宏議と雖も、史臣嘗て疑ひを為す。
夫れ歩驟の来たるは、今古より綿り、澆淳の変は、華戎を隔てず。是を以て道德に反し、仁義を棄て、凌朁の風は歳に広く、涇陽に至り、北地に入り、充斥の釁は日に深し。爰に金行より、水運に逮るまで、戎夏離錯し、風俗混 并 す。夷裔の情偽は、中国畢く之を知り、中国の得失は、夷裔備く之を聞く。若し乃ち約誓に与せず、攻伐に就かず、来れば之を禦ぎ、去れば之を守らば、夫れ然らば敵は余力有り、我は寧歳無く、将士は奔命に疲れ、疆埸は其の交侵を苦しむ。偃伯霊臺し、敺世仁寿せしめんと欲するも、其れ得可けんや。是を知る、秩宗の雅旨、護軍の誠説は、実に当時に会する有りて、未だ後代に允ならざるなり。
然らば則ち易に「幾を見て作す」と称し、伝に「時に相ひて動く」と云ふ。夫れ時は、得失の繫る所、幾は、吉凶の由る所なり。況んや諸夏の朝は、治乱の運代へて有り、戎狄の地は、彊弱の勢恒ならず。若し臣畜と羈縻と、和親と征伐とを、其の時に因りて変を制し、其の幾を観て権を立てば、則ち挙げて遺策無く、謀多く上算たり、獣心の虜は、面を革むること難からず、沙幕の北は、雲撤すること何ぞ遠からん。安んぞ周・秦・漢・魏の優劣其の間に在らんや。