延孫もまた雄武にして将帥の才略あり。若くして長壽に従い征討し、勇敢を以て聞こえた。初め直閤将軍となった。賀拔勝が荊州刺史となった時、延孫を都督に表した。鵶路を肅清し、頗る功力あり。長壽が害されたに及んで、延孫は乃ち還り、その父の衆を収集した。
魏の孝武帝が西遷した後より、朝士流亡す。広陵王欣・録尚書長孫稚・潁川王斌之・安昌王子均及び建寧・江夏・隴東諸王并びに百官等、妻子を携えて延孫に投ずる者あり。延孫は即ち衆を率いて衞送し、併せて珍玩を贈り、皆関中に達せしめた。齊の神武はこれを深く患い、行臺慕容紹宗等を遣わし数道よりこれを攻めしめた。延孫は所部を奬励して出戦し、遂にこれを大破し、陣においてその揚州刺史薛喜を斬った。ここにおいて義軍更に振う。乃ち延孫に京南行臺・河南諸軍事を節度する広州刺史を授けた。尋いで車騎大将軍・儀同三司・大都督に進み、華山郡公の爵を賜う。延孫は重委を荷うに及び、常に伊・洛を剋清することを己が任とす。頻りに少を以て衆を撃ち、威敵境に振う。
大統四年、その長史楊伯蘭に害された。後に司空・冀定等六州刺史を追贈された。子の人傑は祖・父の風あり。官は開府儀同三司・和州刺史に至り、潁川郡公に改封された。延孫の弟義孫もまた官は開府儀同三司に至った。
韋祐、字は法保、京兆山北の人である。若くして字を以て世に行わる。世々州郡の著姓たり。祖父の駢は雍州主簿。秀才に挙げられ、中書博士に拝された。父の義は前将軍・上洛郡守。魏の大統の時、法保の著勳により、秦州刺史を追贈された。
法保は若くして遊俠を好み、質直にして言葉少なし。交遊する所の者は皆軽猾の亡命者なり。急難を投ずる者あれば、多くこれを保存した。屡々追捕されても、終にその操を改めず。父没し、母兄に事えて孝敬を以て聞こえた。李長壽の為人を慕い、遂に長壽の女を娶り、因って関南に寓居す。正光の末、四方雲擾す。王公難に被る者或いはこれに依り、多く全済を得、これをもって貴遊に徳せらる。乃ち員外散騎侍郎に拝し、軽車将軍を加えらる。魏の孝武帝が西遷するに及び、法保は山南より行在所に赴く。右将軍・太中大夫に除され、固安県男に封ぜられ、邑二百戸。
長壽が害されたに及び、その子延孫は長壽の余衆を収め、東境を守禦す。朝廷は延孫の兵少にして自ら固められぬことを恐れ、乃ち法保を東洛州刺史に除し、兵数百人を配し、以て延孫を援けしむ。法保は潼関に至り、弘農郡守韋孝寬、法保に謂いて曰く、「子の此の役、吉く還るは難からんことを恐る」と。法保曰く、「古人は虎穴に入らずんば虎子を得ずと称す。安危の事、未だ預め量るべからず。縦え国に身を殞すとも、亦恨む所に非ず」と。遂に倍道兼行す。東魏の陝州刺史劉貴、歩騎千余を以てこれを邀う。法保は命じて所部に円陣を為らしめ、且つ戦い且つ前進す。数日にして、延孫の兵と接するを得、乃ち勢を併せて伏流に柵を置く。未だ幾ばくもせず、太祖は法保と延孫に衆を率いて還朝せしめ、賞労甚だ厚し。乃ち法保に大都督を授く。四年、河南尹に除す。延孫が害されたに及び、法保は乃ち所部を率い、延孫の旧柵を拠る。頻りに敵と交兵し、毎に身士卒に先立ち、単馬陣に陷り、ここを以て戦えば必ず傷を被る。嘗て関南に至り、東魏の人と戦い、流矢頸に中り、口より出で、当時に気絶す。輿にて営に至り、久しくして乃ち蘇る。九年、車騎大将軍・儀同三司に拝し、九曲城を鎮す。
侯景が豫州を以て来附するに及び、法保は兵を率いて景に赴く。景は留めんと欲す。法保はその貳心有るを疑い、乃ち固く辞して還り所鎮す。十五年、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、尋いで公に進爵す。時に東魏は軍を遣わし糧饋を宜陽に送る。法保は潜かにこれを邀う。転戦すること数十里、兵少にして敵せず、流矢に中り、陣に卒す。諡して莊と曰う。子の初、嗣ぐ。建德の末、位は開府儀同大将軍・閻韓防主に至る。
韓雄、字は木蘭、河南東垣の人である。祖父の景は、魏の孝文帝の時に赭陽郡守となった。
雄は若くして敢勇、膂力人に絶え、騎射に巧みで、将率の材略あり。魏の孝武帝が西遷するに及び、雄は便ち慷慨して立功の志あり。大統初、遂にその属六十余人と洛西に於いて挙兵し、数日の間に、衆千人に至る。河南行臺楊琚と共に掎角を為す。毎に東魏を抄掠し、向かう所克獲す。徒衆日々に盛んとなり、州県これを禦ぐ能わず。東魏の洛州刺史韓賢、状を以て聞く。鄴は乃ちその軍司慕容紹宗に兵を率いさせ賢と合勢して雄を討たしむ。戦うこと数十合、雄の兵略尽き、兄及び妻子皆賢に獲られ、将に戮せんとす。乃ち人を遣わし雄に告げて曰く、「若し雄至らば、皆これを免す」と。雄はその親しむ所の者と謀りて曰く、「身を顧みず奮って功名を立てんとする者は、本より上は忠義を申べ、下は親戚を栄えんことを望む。今若し忍びて赴かざれば、人我を何と謂わん。既に免れたる後、更にその計を思うも、未だ晩しとせず」と。ここにおいて、遂に賢の軍に詣で、即ち賢に随って洛に還る。乃ち潜かに賢の党を引き、謀りてこれを襲わんと欲す。事泄れ、遁れて免る。
時に太祖は弘農に在り。雄は至上して謁す。太祖はこれを嘉し、武陽県侯に封じ、邑八百戸。雄を遣わして郷里に還らしめ、更に進取を図らしむ。雄は乃ち義衆を招集し、進んで洛州を逼る。東魏の洛州刺史元湛は州を委ねて河陽に奔る。その長史孟彦は城を挙げて款附す。俄かに領軍獨孤信の大軍継いて至る。雄は遂に信に従い洛陽に入る。時に東魏の将侯景等は蓼塢を囲む。雄はこれを撃ち走らす。また太祖に従い河橋に戦う。軍還り、仍って洛西を鎮す。仮の平東将軍・東郡守に拝され、北中郎将に遷る。邙山の役、太祖は雄に命じて衆を率い斉の神武を隘道に邀えしむ。神武怒り、三軍に命じて力を併せて雄を取らしむ。雄は突囲して免る。東徐州刺史に除す。太祖は雄の劬労積年なるを以て、乃ち徵して朝に入らしめ、屡々賞労を加う。復た州に還し遣わす。
陳忻と韓雄は同郷で姻戚関係にあり、若い頃より親しくしていた。ともに三十余年にわたり境上で兵を総べ、防禦の度に、二人は互いに赴き合い、常に影と響きの如くであった。故に数度強敵に対し、常に功名を保つことができた。ともに武力はあったが、強弓を引き射て命中させることでは、陳忻は韓雄に及ばず、財を散じ恵みを施して士衆の心を得ることでは、韓雄は陳忻に及ばなかった。身死の日、将吏はその恩徳を蒙り、感慟しない者はなかった。子の陳万敵が嗣いだ。朝廷は陳忻がよく士心を得ていたことを以て、万敵にその部曲を統率させた。
魏玄は字を僧智といい、任城の人である。六世の祖の魏休は、晋に仕えて魯郡守となった。永嘉の際に南遷し、遂に江左に居住した。父の魏承祖は、魏の景明年中に、梁より魏に帰順し、新安に家を構えた。
魏玄は若い頃より慷慨として胆略があった。普泰年中、奉朝請に任ぜられた。頻りに軍に従って梁人と交戦した。永安初年、功により征虜將軍・中散大夫を授けられた。魏の孝武帝が西遷し、東魏が北に移ると、人情は騒動し、各々去就を懐いた。魏玄は遂に郷里の者を募集し、関南において義兵を挙げ、直ちに韋法保に従って東魏の司徒高敖曹と関口で戦った。独孤信が洛陽に入ると、行臺楊琚に属して馬渚を防いだ。再び高敖曹と接戦した。これより毎度郷兵を率いて、東魏に抵抗した。前後十余戦、いずれも功績があった。
史臣が曰く、二国が強を争い、四郊に多くの塁を築く中、要害を鎮守することは、義として武臣に属する。李延孫らは勇略の資質をもって、城を守る任を担った。瓜を灌ぎ薬を贈ることは、昔の賢人には及ばぬところもあるが、侮を禦ぎ衝を折ることは、前の功烈に並び駕するに足る。これをもって伊・洛に兵を観し、崤・函を保拠し、斉人は西略の謀を沮み、周朝は東顧の慮を緩めることができたのは、皆この数将の力によるものである。