周書

巻043

卷四十三 列傳第三十五 李延孫 韋祐 韓雄 陳忻 魏玄

李延孫は伊川の人である。祖父の伯扶は、魏の太和の末年に懸瓠征討に従軍して功績があり、汝南郡守となった。父の長壽は性質雄豪にして武藝を有した。若くして蠻酋と結託し、しばしば相招き引き、関南を侵滅した。孝昌年間、朝廷はその乱を恐れ、長壽を防蠻都督ととくとし、鼓節を与えてその意を慰めた。長壽はこれにより任用を得んことを冀い、またその智力を尽くして群蠻を防遏した。伊川の左右では寇盜がこれにより稍々止んだ。永安の後、盗賊蜂起す。長壽は叛亡を招集し、徒侶日々に盛んとなる。魏帝はその力を用い、これにより撫でた。乃ち持節・大都督を授け、転じて張白塢を鎮す。後に河北郡守となり、転じて河内郡守となった。歴任した所では、皆猛烈を以て聞こえた。諸賊を討捕し、頻りに功あり。衛大将軍・北華州刺史を授け、清河郡公の爵を賜う。魏の孝武帝が西遷するに及んで、長壽は義士を率い励まして東魏を拒いだ。孝武帝はこれを嘉し、また潁川郡守を授け、広州刺史に遷した。東魏は行臺侯景に兵を率いさせてこれを攻め、長壽は衆少にして城陥落し、遂に害に遇う。大統元年、太尉・使持節・侍中・驃騎大将軍・冀定等十二州諸軍事・定州刺史を追贈された。

原文 李延孫,伊川人也。祖伯扶,魏太和末,從征懸瓠有功,為汝南郡守。父長壽,性雄豪,有武藝。少與蠻酋結託,屢相招引,侵滅關南。孝昌中,朝議恐其為亂,乃以長壽為防蠻都督,給其鼓節,以慰其意。長壽冀因此遂得任用,亦盡其智力,防遏羣蠻。伊川左右,寇盜為之稍息。永安之後,盜賊蜂起,長壽乃招集叛亡,徒侶日盛。魏帝藉其力用,因而撫之。乃授持節、大都督,轉鎮張白塢。後為河北郡守,轉河內郡守。所歷之處,咸以猛烈聞。討捕諸賊,頻有功。授衞大將軍、北華州刺史,賜爵清河郡公。及魏孝武西遷,長壽率勵義士拒東魏。孝武嘉之,復授潁川郡守,遷廣州刺史。東魏遣行臺侯景率兵攻之,長壽眾少,城陷,遂遇害。大統元年,追贈太尉、使持節、侍中、驃騎大將軍、冀定等十二州諸軍事、定州刺史。

延孫もまた雄武にして将帥の才略あり。若くして長壽に従い征討し、勇敢を以て聞こえた。初め直閤将軍となった。賀拔勝が荊州刺史となった時、延孫を都督に表した。鵶路を肅清し、頗る功力あり。長壽が害されたに及んで、延孫は乃ち還り、その父の衆を収集した。

原文 延孫亦雄武有將帥才略。少從長壽征討,以勇敢聞。初為直閤將軍。賀拔勝為荊州刺史,表延孫為都督。肅清鵶路,頗有功力焉。及長壽被害,延孫乃還,收集其父之眾。

魏の孝武帝が西遷した後より、朝士流亡す。広陵王欣・録尚書長孫稚・潁川王斌之・安昌王子均及び建寧・江夏・隴東諸王并へいびに百官等、妻子を携えて延孫に投ずる者あり。延孫は即ち衆を率いて衞えい送し、併せて珍玩を贈り、皆関中に達せしめた。齊の神武はこれを深く患い、行臺慕容紹宗等を遣わし数道よりこれを攻めしめた。延孫は所部を奬励して出戦し、遂にこれを大破し、陣においてその揚州刺史薛喜を斬った。ここにおいて義軍更に振う。乃ち延孫に京南行臺・河南諸軍事を節度する広州刺史を授けた。尋いで車騎大将軍・儀同三司・大都督に進み、華山郡公の爵を賜う。延孫は重委を荷うに及び、常に伊・洛を剋清することを己が任とす。頻りに少を以て衆を撃ち、威敵境に振う。

原文 自魏孝武西遷之後,朝士流亡。廣陵王欣、錄尚書長孫稚、潁川王斌之、安昌王子均及建寧、江夏、隴東諸王并百官等携持妻子來投延孫者,延孫即率眾衞送,并贈以珍玩,咸達關中。齊神武深患之,遣行臺慕容紹宗等數道攻之。延孫奬勵所部出戰,遂大破之,臨陣斬其揚州刺史薛喜。於是義軍更振。乃授延孫京南行臺、節度河南諸軍事、廣州刺史。尋進車騎大將軍、儀同三司、大都督,賜爵華山郡公。延孫既荷重委,每以剋清伊、洛為己任。頻以少擊眾,威振敵境。

大統四年、その長史楊伯蘭に害された。後に司空しくう・冀定等六州刺史を追贈された。子の人傑は祖・父の風あり。官は開府儀同三司・和州刺史に至り、潁川郡公に改封された。延孫の弟義孫もまた官は開府儀同三司に至った。

原文 大統四年,為其長史楊伯蘭所害。後贈司空、冀定等六州刺史。子人傑,有祖、父風。官至開府儀同三司、和州刺史,改封潁川郡公。延孫弟義孫,亦官至開府儀同三司。

韋祐、字は法保、京兆山北の人である。若くして字を以て世に行わる。世々州郡の著姓たり。祖父の駢は雍州主簿。秀才に挙げられ、中書博士に拝された。父の義は前将軍・上洛郡守。魏の大統の時、法保の著勳により、秦州刺史を追贈された。

原文 韋祐字法保,京兆山北人也。少以字行於世。世為州郡著姓。祖駢,雍州主簿。舉秀才,拜中書博士。父義,前將軍、上洛郡守。魏大統時,以法保著勳,追贈秦州刺史。

法保は若くして遊俠を好み、質直にして言葉少なし。交遊する所の者は皆軽猾の亡命者なり。急難を投ずる者あれば、多くこれを保存した。屡々追捕されても、終にその操を改めず。父没し、母兄に事えて孝敬を以て聞こえた。李長壽の為人を慕い、遂に長壽の女を娶り、因って関南に寓居す。正光の末、四方雲擾す。王公難に被る者或いはこれに依り、多く全済を得、これをもって貴遊に徳せらる。乃ち員外散騎侍郎に拝し、軽車将軍を加えらる。魏の孝武帝が西遷するに及び、法保は山南より行在所に赴く。右将軍・太中大夫に除され、固安県男に封ぜられ、邑二百戸。

原文 法保少好遊俠,而質直少言。所與交遊,皆輕猾亡命。人有急難投之者,多保存之。雖屢被追捕,終不改其操,父沒,事母兄以孝敬聞。慕李長壽之為人,遂娶長壽女,因寓居關南。正光末,四方雲擾。王公被難者或依之,多得全濟,以此為貴遊所德。乃拜員外散騎侍郎,加輕車將軍。及魏孝武西遷,法保從山南赴行在所。除右將軍、太中大夫,封固安縣男,邑二百戶。

長壽が害されたに及び、その子延孫は長壽の余衆を収め、東境を守禦す。朝廷は延孫の兵少にして自ら固められぬことを恐れ、乃ち法保を東洛州刺史に除し、兵数百人を配し、以て延孫を援けしむ。法保は潼関に至り、弘農郡守韋孝寬、法保に謂いて曰く、「子の此の役、吉く還るは難からんことを恐る」と。法保曰く、「古人は虎穴に入らずんば虎子を得ずと称す。安危の事、未だ預め量るべからず。縦え国に身を殞すとも、亦恨む所に非ず」と。遂に倍道兼行す。東魏の陝州刺史劉貴、歩騎千余を以てこれを邀う。法保は命じて所部に円陣を為らしめ、且つ戦い且つ前進す。数日にして、延孫の兵と接するを得、乃ち勢を併せて伏流に柵を置く。未だ幾ばくもせず、太祖は法保と延孫に衆を率いて還朝せしめ、賞労甚だ厚し。乃ち法保に大都督を授く。四年、河南尹に除す。延孫が害されたに及び、法保は乃ち所部を率い、延孫の旧柵を拠る。頻りに敵と交兵し、毎に身士卒に先立ち、単馬陣に陷り、ここを以て戦えば必ず傷を被る。嘗て関南に至り、東魏の人と戦い、流矢頸に中り、口より出で、当時に気絶す。輿にて営に至り、久しくして乃ち蘇る。九年、車騎大将軍・儀同三司に拝し、九曲城を鎮す。

原文 及長壽被害,其子延孫收長壽餘眾,守禦東境。朝廷恐延孫兵少不能自固,乃除法保東洛州刺史,配兵數百人,以援延孫。法保至潼關,弘農郡守韋孝寬謂法保曰:「恐子此役,難以吉還也。」法保曰:「古人稱不入虎穴,不得虎子。安危之事,未可預量。縱為國殞身,亦非所恨。」遂倍道兼行。東魏陝州刺史劉貴以步騎千餘邀之。法保命所部為圓陣,且戰且前。數日,得與延孫兵接,乃并勢置柵於伏流。未幾,太祖追法保與延孫率眾還朝,賞勞甚厚。乃授法保大都督。四年,除河南尹。及延孫被害,法保乃率所部,據延孫舊柵。頻與敵人交兵,每身先士卒,單馬陷陣,是以戰必被傷。嘗至關南,與東魏人戰,流矢中頸,從口中出,當時氣絕。輿至營,久之乃蘇。九年,拜車騎大將軍、儀同三司,鎮九曲城。

侯景が豫よ州を以て来附するに及び、法保は兵を率いて景に赴く。景は留めんと欲す。法保はその貳心有るを疑い、乃ち固く辞して還り所鎮す。十五年、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、尋いで公に進爵す。時に東魏は軍を遣わし糧饋を宜陽に送る。法保は潜かにこれを邀う。転戦すること数十里、兵少にして敵せず、流矢に中り、陣に卒す。諡して莊と曰う。子の初、嗣ぐ。建德の末、位は開府儀同大将軍・閻韓防主に至る。

原文 及侯景以豫州來附,法保率兵赴景。景欲留之,法保疑其有貳心,乃固辭還所鎮。十五年,加驃騎大將軍、開府儀同三司,尋進爵為公。會東魏遣軍送糧饋宜陽,法保潛邀之。轉戰數十里,兵少不敵,為流矢所中,卒於陣。諡曰莊。子初嗣。建德末,位至開府儀同大將軍、閻韓防主。

韓雄、字は木蘭、河南東垣の人である。祖父の景は、魏の孝文帝の時に赭陽郡守となった。

原文 韓雄字木蘭,河南東垣人也。祖景,魏孝文時為赭陽郡守。

雄は若くして敢勇、膂力人に絶え、騎射に巧みで、将率の材略あり。魏の孝武帝が西遷するに及び、雄は便ち慷慨して立功の志あり。大統初、遂にその属六十余人と洛西に於いて挙兵し、数日の間に、衆千人に至る。河南行臺楊琚と共に掎角を為す。毎に東魏を抄掠し、向かう所克獲す。徒衆日々に盛んとなり、州県これを禦ぐ能わず。東魏の洛州刺史韓賢、状を以て聞く。鄴は乃ちその軍司慕容紹宗に兵を率いさせ賢と合勢して雄を討たしむ。戦うこと数十合、雄の兵略尽き、兄及び妻子皆賢に獲られ、将に戮せんとす。乃ち人を遣わし雄に告げて曰く、「若し雄至らば、皆これを免す」と。雄はその親しむ所の者と謀りて曰く、「身を顧みず奮って功名を立てんとする者は、本より上は忠義を申べ、下は親戚を栄えんことを望む。今若し忍びて赴かざれば、人我を何と謂わん。既に免れたる後、更にその計を思うも、未だ晩しとせず」と。ここにおいて、遂に賢の軍に詣で、即ち賢に随って洛に還る。乃ち潜かに賢の党を引き、謀りてこれを襲わんと欲す。事泄れ、遁れて免る。

原文 雄少敢勇,膂力絕人,工騎射,有將率材略。及魏孝武西遷,雄便慷慨有立功之志。大統初,遂與其屬六十餘人於洛西舉兵,數日間,眾至千人。與河南行臺楊琚共為掎角。每抄掠東魏,所向剋獲。徒眾日盛,州縣不能禦之。東魏洛州刺史韓賢以狀聞,鄴乃遣其軍司慕容紹宗率兵與賢合勢討雄。戰數十合,雄兵略盡,兄及妻子皆為賢所獲,將以為戮。乃遣人告雄曰:「若雄至,皆免之。」雄與其所親謀曰:「奮不顧身以立功名者,本望上申忠義,下榮親戚。今若忍而不赴,人謂我何。既免之後,更思其計,未為晚也。」於是,遂詣賢軍,即隨賢還洛。乃潛引賢黨,謀欲襲之。事泄,遁免。

時に太祖は弘農に在り。雄は至上して謁す。太祖はこれを嘉し、武陽県侯に封じ、邑八百戸。雄を遣わして郷里に還らしめ、更に進取を図らしむ。雄は乃ち義衆を招集し、進んで洛州を逼る。東魏の洛州刺史元湛は州を委ねて河陽に奔る。その長史孟彦は城を挙げて款附す。俄かに領軍獨孤信の大軍継いて至る。雄は遂に信に従い洛陽らくように入る。時に東魏の将侯景等は蓼塢を囲む。雄はこれを撃ち走らす。また太祖に従い河橋に戦う。軍還り、仍って洛西を鎮す。仮の平東将軍・東郡守に拝され、北中郎将に遷る。邙山の役、太祖は雄に命じて衆を率い斉の神武を隘道に邀えしむ。神武怒り、三軍に命じて力を併せて雄を取らしむ。雄は突囲して免る。東徐州刺史に除す。太祖は雄の劬労積年なるを以て、乃ち徵して朝に入らしめ、屡々賞労を加う。復た州に還し遣わす。

原文 時太祖在弘農,雄至上謁。太祖嘉之,封武陽縣侯,邑八百戶。遣雄還鄉里,更圖進取。雄乃招集義眾,進逼洛州。東魏洛州刺史元湛委州奔河陽,其長史孟彥舉城款附。俄而領軍獨孤信大軍繼至,雄遂從信入洛陽。時東魏將侯景等圍蓼塢,雄擊走之。又從太祖戰於河橋。軍還,仍鎮洛西。拜假平東將軍、東郡守,遷北中郎將。邙山之役,太祖命雄率眾邀齊神武於隘道。神武怒,命三軍併力取雄。雄突圍得免。除東徐州刺史。太祖以雄劬勞積年,乃徵入朝,屢加賞勞。復遣還州。

東魏の東雍州刺史郭叔略は韓雄と境を接し、しばしば辺境の患いとなった。韓雄は密かにこれを謀り、軽騎十騎を率いて夜間にその境内に入り、道傍に伏せた。都督韓仕を略の城の東に遣わし、東魏人の衣服を着せ、あたかも河陽から関西に叛いて投じた者の如く偽らせた。郭叔略が出てこれを追い、韓雄は後方よりこれを射て、二発ともに命中し、遂に郭叔略の首を斬った。河南尹に任ぜられ、爵位は公に進み、車騎大將軍・儀同三司・大都督・散騎常侍さんきじょうじを加えられた。まもなく驃騎大將軍・開府儀同三司・侍中・河南邑中正に進んだ。孝閔帝が践祚すると、爵位は新義郡公に進み、封邑を増やして通算三千八百戸とし、宇文の姓を賜った。世宗二年、使持節・都督・中徐虞洛四州諸軍事・中州刺史に任ぜられた。

原文 東魏東雍州刺史郭叔略與雄接境,頗為邊患。雄密圖之,乃輕將十騎,夜入其境,伏於道側。遣都督韓仕於略城東,服東魏人衣服,詐若自河陽叛投關西者。略出馳之,雄自後射之,再發咸中,遂斬略首。除河南尹,進爵為公,加車騎大將軍、儀同三司、大都督、散騎常侍。尋進驃騎大將軍、開府儀同三司、侍中、河南邑中正。孝閔帝踐阼,進爵新義郡公,增邑通前三千八百戶,賜姓宇文氏。世宗二年,除使持節、都督、中徐虞洛四州諸軍事、中州刺史。

韓雄は長く辺境に在り、敵の虚実を詳しく知っていた。しばしば衆を率いて深く侵入し、艱難を避けなかった。前後四十五回の戦闘を経て、時に勝敗はあったが、韓雄の志気はますます壮であった。東魏はこれを深く畏れた。天和三年、鎮所で卒去した。大將軍・中華宜義和五州諸軍事・中州刺史を追贈された。諡して威といった。子の韓禽が嗣いだ。

原文 雄久在邊,具知敵人虛實。每率眾深入,不避艱難。前後經四十五戰,雖時有勝負,而雄志氣益壯。東魏深憚之。天和三年,卒于鎮。贈大將軍、中華宜義和五州諸軍事、中州刺史。諡曰威。子禽嗣。

陳忻は字を永怡といい、宜陽の人である。若い頃より驍ぎょう勇で気概と侠気があり、姿形は魁偉で、同輩は皆これを敬い畏れた。魏の孝武帝が西遷した後、陳忻は辟悪山において勇敢な少年数十人を招集し、東魏を寇掠し、密かに使者を遣わして帰附した。大統元年、持節・伏波將軍・羽林監・立義大都督を授けられ、爵位は霸は城県男を賜った。三年、太祖(宇文泰)が再び弘農を奪回すると、東魏の揚州刺史段琛は城を抜けて遁走した。陳忻は義徒を率いて九曲道でこれを邀撃し、殺傷甚だ多く、その新安令張祗を生け捕りにした。太祖はその忠誠を嘉し、新安県事を行わせた。独孤信が洛陽に入ると、陳忻は李延孫を先鋒として推挙し、信に従って金墉城を守った。河橋の戦いで不利となると、軍に従って西還し、再び新安県事を行った。東魏は土人牛道恆を陽州刺史として遣わしたが、陳忻は兵を率いてこれを撃破し、爵位は子に進んだ。常に崤東の諸将に従って伊・洛の間を鎮遏し、毎度功績を挙げた。九年、李遠と共に高仲密を迎え、引き続き邙山の戦いに従軍した。大軍が西還すると、再び韓雄らと山に依って勢いを合わせ、東魏の三城を破り、その金門郡守方臺洛を斬った。封邑六百戸を増やされた。まもなく宜陽郡事を行った。東魏は再び劉盆生を金門郡守として遣わしたが、陳忻はまたこれを斬った。鎮遠將軍・魏郡守に任ぜられた。ほどなく使持節・平東將軍・顯州刺史を授けられた。太祖は陳忻の威名が敵境に著しいことを以て、引き続き静辺に留め、赴任させなかった。十年、侯景が九曲城を築くと、陳忻は衆を率いてこれを邀撃し、その宜陽郡守趙嵩・金門郡守楽敬賓を生け捕りにした。十三年、李遠に従って九曲城を平定し、帥都督を授けられた。東魏の将爾朱渾願が精騎三千を率いて宜陽に向かうと、陳忻は諸将と軽兵でこれを邀撃し、願は遂に退走した。十五年、宜陽郡守に任ぜられ、大都督・撫軍將軍を加えられた。十六年、車騎大將軍・儀同三司・散騎常侍に進んだ。斉の将東方老と石泉で戦い、これを破り、捕虜と鹵獲は甚だ多かった。当時、東魏は毎年兵を遣わして米を宜陽に送っていたが、陳忻はしばしば諸軍と共にこれを邀撃し、毎度多くを撃破し鹵獲した。

原文 陳忻字永怡,宜陽人也。少驍勇,有氣俠,姿貌魁岸,同類咸敬憚之。魏孝武西遷之後,忻乃於辟惡山招集勇敢少年數十人,寇掠東魏,仍密遣使歸附。大統元年,授持節、伏波將軍、羽林監、立義大都督,賜爵霸城縣男。三年,太祖復弘農,東魏揚州刺史段琛拔城遁走。忻率義徒於九曲道邀之,殺傷甚眾,擒其新安令張祗。太祖嘉其忠款,使行新安縣事。及獨孤信入洛,忻舉李延孫為前鋒,仍從信守金墉城。及河橋戰不利,隨軍西還,復行新安縣事。東魏遣土人牛道恆為〈(揚)〉〔陽〕州刺史,忻率兵擊破之,進爵為子。常隨崤東諸將鎮遏伊、洛間,每有功効。九年,與李遠迎高仲密,仍從戰邙山。及大軍西還,復與韓雄等依山合勢,破東魏三城,斬其金門郡守方臺洛。增邑六百戶。尋行宜陽郡事。東魏復遣劉盆生為金門郡守,忻又斬之。除鎮遠將軍、魏郡守。俄授使持節、平東將軍、顯州刺史。太祖以忻威著敵境,仍留靜邊,弗令之任。十年,侯景築九曲城,忻率眾邀之,擒其宜陽郡守趙嵩、金門郡守樂敬賓。十三年,從李遠平九曲城,授帥都督。東魏將爾朱渾願率精騎三千來向宜〈(城)〉〔陽〕,忻與諸將輕兵邀之,願遂退走。十五年,除宜陽郡守,加大都督、撫軍將軍。十六年,進車騎大將軍、儀同三司、散騎常侍。與齊將東方老戰於石泉,破之,俘獲甚眾。時東魏每歲遣兵送米饋宜陽,忻輒與諸軍邀擊之,每多剋獲。

魏恭帝元年、また開府斛斯璉らと共に、斉の将段孝先と九曲で戦い、これを大破した。二年、位は驃騎大將軍・開府儀同三司に進み、侍中を加えられた。その年、宜陽邑大中正を授けられ、尉遅の姓を賜った。太祖は陳忻が累年にわたり功績を著したことを以て、その祖父の陳昆と父の陳興孫にともに儀同三司を追贈し、陳昆には斉州刺史、陳興孫には徐州刺史を追贈した。東魏の洛州刺史独孤永業は智謀ありと称され、境上を往来し、その動静は測り難かった。陳忻と韓雄らは常に間諜を遣わしてその動静を窺わせ、斉兵が来る度に、これを撃破した。故に永業は陳忻らを深く畏れ、寇とすることができなかった。

原文 魏恭帝元年,又與開府斛斯璉等,共齊將段孝先戰于九曲,大破之。二年,進位驃騎大將軍、開府儀同三司,加侍中。其年,授宜陽邑大中正,賜姓尉遲氏。太祖以忻著績累載,贈其祖昆及父興孫俱為儀同三司,昆齊州刺史,興孫徐州刺史。東魏洛州刺史獨孤永業號有智謀,往來境上,倚伏難測。忻與韓雄等恆令間諜覘其動靜,齊兵每至,輒擊破之。故永業深憚忻等,不敢為寇。

孝閔帝が践祚すると、陳忻を召し入朝させ、爵位は伯に進み、まもなくまた許昌県公に進爵し、封邑一千戸を増やされた。武成元年、熊州刺史に任ぜられ、封邑を増やして通算二千六百戸とした。また開府敕勒慶と共に斉の将王鸞嵩を破った。引き続き柱国陸通に従って石泉城を奪回した。天和元年、任上で卒去した。

原文 孝閔帝踐阼,徵忻入朝,進爵為伯,尋又進爵許昌〈(郡)〉〔縣〕公,增邑一千戶。武成元年,除熊州刺史,增邑通前二千六百戶。又與開府敕勒慶破齊將王鸞嵩。仍從柱國陸通復石泉城。天和元年,卒於位。

陳忻と韓雄は同郷で姻戚関係にあり、若い頃より親しくしていた。ともに三十余年にわたり境上で兵を総べ、防禦の度に、二人は互いに赴き合い、常に影と響きの如くであった。故に数度強敵に対し、常に功名を保つことができた。ともに武力はあったが、強弓を引き射て命中させることでは、陳忻は韓雄に及ばず、財を散じ恵みを施して士衆の心を得ることでは、韓雄は陳忻に及ばなかった。身死の日、将吏はその恩徳を蒙り、感慟しない者はなかった。子の陳万敵が嗣いだ。朝廷は陳忻がよく士心を得ていたことを以て、万敵にその部曲を統率させた。

原文 忻與韓雄里閈姻婭,少相親昵。俱總兵境上三十餘載,每有禦扞,二人相赴,常若影響。故得數對勍敵,而常保功名。雖竝有武力,至於挽彊射中,忻不如雄;散財施惠,得士眾心,則雄不如忻。身死之日,將吏荷其恩德,莫不感慟焉。子萬敵嗣。朝廷以忻雅得士心,還令萬敵領其部曲。

魏玄は字を僧智といい、任城の人である。六世の祖の魏休は、晋に仕えて魯郡守となった。永嘉の際に南遷し、遂に江左に居住した。父の魏承祖は、魏の景明年中に、梁より魏に帰順し、新安に家を構えた。

原文 魏玄字僧智,任城人也。六世祖休,仕晉為魯郡守。永嘉南遷,遂居江左。父承祖,魏景明中,自梁歸魏,家於新安。

魏玄は若い頃より慷慨として胆略があった。普泰年中、奉朝請に任ぜられた。頻りに軍に従って梁人と交戦した。永安初年、功により征虜將軍・中散大夫を授けられた。魏の孝武帝が西遷し、東魏が北に移ると、人情は騒動し、各々去就を懐いた。魏玄は遂に郷里の者を募集し、関南において義兵を挙げ、直ちに韋法保に従って東魏の司徒しと高敖曹と関口で戦った。独孤信が洛陽に入ると、行臺楊琚に属して馬渚を防いだ。再び高敖曹と接戦した。これより毎度郷兵を率いて、東魏に抵抗した。前後十余戦、いずれも功績があった。

原文 玄少慷慨,有膽略。普泰中,除奉朝請。頻從軍與梁人交戰。永安初,以功授征虜將軍、中散大夫。及魏孝武西遷,東魏北徙,人情騷動,各懷去就。玄遂率募鄉曲,立義於關南,即從韋法保與東魏司徒高敖曹戰於關口。及獨孤信入洛陽,隸行臺楊琚防馬渚。復與高敖曹接戰。自是每率鄉兵,抗拒東魏。前後十餘戰,皆有功。

邙山の役、大軍は不利となり、宜陽・洛州はともに東魏の守るところとなった。崤東で義兵を挙げた者は、皆異心を懐いた。しかし魏玄の母と弟はともに宜陽に在った。魏玄は忠孝両立せずと以為い、義徒を率いて関南に還り鎮撫した。太祖は自ら手書をしてこれを労い、洛陽令に任じ、広宗県子に封じ、封邑四百戸を与えた。十三年、開府李義孫と共に伏流城を攻め落とし、また孔城を攻略し、直ちに義孫とともにこれを鎮守した。まもなく伏流に移鎮した。十四年、帥都督・東平郡守を授けられ、河南郡守に転じ、大都督を加えられた。十六年、洛安の民雍方雋が郡外に拠って叛き、歩騎一千を率い、自ら行臺と号し、郡県を攻め破り、守令を囚え捕らえた。魏玄は弘農・九曲・孔城・伏流の四城の兵馬を率いてこれを討平した。魏恭帝二年、車騎大將軍・儀同三司に拝された。

原文 邙山之役,大軍不利,宜陽、洛州皆為東魏守。崤東立義者,咸懷異望。而玄母及弟竝在宜陽。玄以為忠孝不兩立,及率義徒還關南鎮撫。太祖手書勞之,除洛陽令,封廣宗縣子,邑四百戶。十三年,與開府李義孫攻拔伏流城,又剋孔城,即與義孫鎮之。尋移鎮伏流。十四年,授帥都督、東平郡守,轉河南郡守,加大都督。十六年,洛安民雍方雋據郡外叛,率步騎一千,自號行臺,攻破郡縣,囚執守令。玄率弘農、九曲、孔城、伏流四城士馬討平之。魏恭帝二年,拜車騎大將軍、儀同三司。

孝閔帝が践祚すると、爵位を伯に進め、封邑を増やして以前と合わせて九百戸とした。保定元年、蛮谷に鎮守を移す。四年、位を驃騎大将軍・開府儀同三司に進め、閻韓に鎮守を移す。引き続き尉遅迥に従って洛陽を包囲した。天和元年、陝州総管尉遅綱は玄に命じ、儀同宇文能・趙乾らを率いて歩騎五百を鹿盧交の南に進め、東魏の洛州刺史独孤永業を邀撃させた。永業は二万余人の兵を有していたが、玄は軽く五騎を率いて先行して偵察したところ、突然これと遭遇し、直ちに交戦し、数十人を殺傷し、馬と甲冑・矛などを鹵獲したので、永業は遂に退却した。二年、爵位を侯に進める。白超防主に任ぜられる。三年、熊州刺史に転ずる。政務は簡素で慈恵を旨とし、百姓はこれを喜んだ。四年、和州刺史・伏流防主に転じ、爵位を公に進める。五年、斉の将軍斛律明月が兵を率いて宜陽に向かい、兵威は甚だ盛んであったが、玄は兵を率いてこれを防ぎ、戦うごとに必ず勝利した。後に病により任上で卒した。

原文 孝閔帝踐阼,進爵為伯,增邑通前九百戶。保定元年,移鎮蠻谷。四年,進位驃騎大將軍、開府儀同三司,徙鎮閻韓。仍從尉遲迥圍洛陽。天和元年,陝〈(西)〉〔州〕總管尉遲綱遣玄率儀同宇文能、趙乾等步騎五百於鹿盧交南,邀擊東魏洛州刺史獨孤永業。永業有眾二萬餘人,玄輕將五騎行前覘之,卒與之遇,便即交戰,殺傷數十人,獲馬并甲矟等,永業遂退。二年,進爵為侯。除白超防主。三年,遷熊州刺史。政存簡惠,百姓悅之。四年,轉和州刺史、伏流防主,進爵為公。五年,齊將斛律明月率眾向宜陽,兵威甚盛,玄率兵禦之,每戰輒剋。後以疾卒於位。

史臣が曰く、二国が強を争い、四郊に多くの塁を築く中、要害を鎮守することは、義として武臣に属する。李延孫らは勇略の資質をもって、城を守る任を担った。瓜を灌ぎ薬を贈ることは、昔の賢人には及ばぬところもあるが、侮を禦ぎ衝を折ることは、前の功烈に並び駕するに足る。これをもって伊・洛に兵を観し、崤・函を保拠し、斉人は西略の謀を沮み、周朝は東顧の慮を緩めることができたのは、皆この数将の力によるものである。

原文 史臣曰:二國爭彊,四郊多壘,鎮守要害,義屬武臣。李延孫等以勇略之姿,受扞城之寄。灌瓜贈藥,雖有愧於昔賢;禦侮折衝,足方駕於前烈。用能觀兵伊、洛,保據崤、函,齊人沮西略之謀,周朝緩東顧之慮,皆數將之力也。