泉企は字を思道といい、上洛郡豊陽県の人である。代々商洛の地に勢力を有した。曾祖父の景言は、北魏の建節将軍となり、宜陽郡守を仮任され、本県の県令を世襲し、丹水侯に封ぜられた。父の安志は、また建節将軍・宜陽郡守となり、本県令を兼ね、爵位を降格されて伯となった。
企は九歳で父を喪い、悲嘆のあまり成人のように憔悴した。喪が明けると爵位を襲った。十二歳の時、郷里の人々である皇平・陳合ら三百余人が州に赴き、企を県令とするよう請願した。州はこれを上申したが、当時の吏部尚書郭祚は企が年少で民を宰治するに堪えぬとして、別に選んで派遣し、この一任期を終えた後に企に代えさせるよう請うた。魏の宣武帝は詔して言った、「企はすでに成人に近く、かつ本郷の喜ぶところである。どうしてこの世襲を捨て、さらに一任期を求めることがあろうか」と。そこで請願通りにした。企は幼少ながらも学問を好み恬静であり、百姓は安んじた。まもなく母の喪により職を去った。県中の父老が再び表を奉って懇願したので、詔してこれを許した。喪中に本任に復帰させ、討寇将軍を加えられた。
孝昌の初め、また龍驤将軍・仮節・防洛州別将を加えられ、まもなく上洛郡守に任ぜられた。蕭宝夤が反乱を起こすと、その党の郭子恢を遣わして潼関を襲撃占拠させた。企は郷兵三千人を率いてこれを防ぎ、数日にわたり連戦し、子弟の戦死者は二十人ほどであったが、ついに子恢を大破した。功により征虜将軍に任ぜられた。宝夤はまた兵一万を青泥に向かわせ、巴人を誘い動かし、上洛を奪取しようと図った。上洛の豪族である泉・杜の二姓が密かにこれに応じた。企は刺史の董紹宗とともに潜かに兵を進めて襲撃し、二姓は散り散りに逃げ、宝夤の軍も退いた。左将軍・淅州刺史に転じ、別に涇陽県伯に封ぜられ、邑五百戸を与えられた。
永安年間、梁の将軍王玄真が荊州に侵入した。企に持節・都督を加え、衆を率いてこれを救援させた。順陽で玄真と遭遇し、戦ってこれを大破した。撫軍将軍・使持節に任ぜられ、鎮南将軍・東雍州刺史を仮任され、爵位を侯に進めた。部民の楊羊皮は、太保楊椿の従弟であり、椿の勢力を恃み、百姓を侵害した。地方官は多くその凌侮を受け、皆畏れて敢えて言わなかった。企はこれを捕らえて処罰し、極刑に処そうとしたので、楊氏は慚懼し、宗族が官門に赴いて恩赦を請うた。これより豪族は跡を潜め、敢えて犯す者はいなくなった。性質はまた清廉倹約で、微細なことでも民を煩わさなかった。州に在ること五年、常に郷里から米を運んで自給した。梁の魏興郡は洛州と接壤しており、帰属を請うてきた。詔して企を行台尚書とし、これを慰撫受け入れさせた。大行台の賀抜岳は、企がかつて東雍を治め、吏民に懐かれていたことから、企を再び刺史とするよう上表し、詔してこれを許した。蜀の民の張国雋が徒党を集めて略奪を働き、州郡はこれを制することができなかったが、企は命じてこれを捕らえて誅し、全境が清粛となった。魏の孝武帝の初め、車騎大将軍・左光禄大夫を加えられた。
斉の神武帝が政権を専断するに及んで、魏帝は西顧の志を持ち、山南の事を企に委ねようとし、そこで洛州刺史・当州都督に任ぜられた。間もなく、帝は西遷し、斉の神武帝が衆を率いて潼関に至ると、企はその子の元礼に郷里の五千人を督させ、北の大谷から出撃してこれを防がせた。斉の神武帝は進むことができなかった。上洛郡人都督の泉岳とその弟の猛略、それに拒陽県人の杜窋らが洛州を覆して東軍に応じようと謀った。企はこれを知り、岳と猛略らを殺し、首を都に伝送したが、窋は逃亡して東魏に投じた。前後の功績を記録し、車騎大将軍・儀同三司を授けられた。大統の初め、開府儀同三司を加えられ、尚書右僕射を兼ね、爵位を上洛郡公に進め、邑を増やして以前と合わせて千戸とした。企は志尚廉慎であり、官に任ぜられるごとに、憂いの色を見せた。この時も頻りに辞譲したが、魏帝は手詔して許さなかった。
元礼は若くして志気があり、弓馬を好み、やや草書・隷書に通じ、士君子の風があった。奉朝請・本州別駕として官途に就いた。累進して員外散騎侍郎・洛州大中正・員外散騎常侍・安東将軍・持節・都督となり、臨洮県伯の爵位を賜り、征東将軍・金紫光禄大夫に進み、散騎常侍を加えられた。洛州陥落の時、企とともに捕らえられて東へ行ったが、元礼は途中で逃れて帰還した。当時、杜窋は刺史であったが、巴人はもとより杜氏を軽んじ泉氏を重んじていた。元礼が到着し、仲遵と相見えて、父の臨別の言葉に感じ、密かに豪族と結託した。二晩のうちに、郷人を率いて州城を襲撃し、窋を斬り、首を長安に伝送した。朝廷はこれを嘉し、衛将軍・車騎大将軍に任じ、洛州刺史を世襲させた。太祖に従って沙苑で戦い、流れ矢に当たって遂に卒去した。子の貞が嗣ぎ、儀同三司に至った。
仲遵は若くして謹実であり、経史に広く通じた。十三歳で州より主簿に辟召され、十四歳で本県の県令となった。成長すると武芸を備えた。世の離乱に遭い、常に父や兄に従って征討し、勇決をもって知られた。高敖曹が洛州を攻めた時、企は仲遵に五百人を率いて出戦させた。当時、衆寡敵せず、退いて城に入り、再び企と力を合わせて防戦した。矢が尽きると、杖や棒で防ぎ、遂に流れ矢が目に当たり、再び戦うに堪えなくなった。城が陥落した時、士卒は嘆いて言った、「もし二郎(仲遵)が傷ついていなければ、ここまでにはならなかっただろうに」と。企が東へ行く時、仲遵は傷ついていたため同行しなかった。後に元礼とともに窋を斬り、功により豊陽県伯に封ぜられ、邑五百戸を与えられた。征東将軍・豫州刺史を加授された。元礼が沙苑で戦死すると、再び仲遵を洛州刺史とした。仲遵はかねてより幹略を称えられ、郷里の帰するところであった。本州の刺史となってからは、多くの嘉誉を得た。
梁の司州刺史柳仲禮がたびたび辺境を侵すと、太祖(宇文泰)は仲遵に郷兵を率いて開府楊忠に従いこれを討たせた。梁の随郡太守桓和は守りを固めて降らなかった。楊忠は諸将に言うには、「本来の計画は仲礼を討つことであり、随郡ではない。もし今すぐに攻め立てれば、日を引き延ばし軍を疲弊させる恐れがある。今もし先に仲礼を捕らえれば、桓和は攻めずとも自ら降伏するであろう。諸君はどう思うか」と。仲遵は答えて言うには、「蜂や蠍にも毒がある、どうして軽視できようか。もし桓和を捨てて深く入り込み、仲礼を捕らえたとしても、桓和が降伏するかどうかは、まだ分からない。もし仲礼を捕らえられず、桓和が彼の援軍となれば、我々は前後から敵を受けることになり、これは危険な道である。もし先に桓和を攻めれば、指揮するだけで打ち破ることができる。桓和を破ってから進軍すれば、後顧の憂いはなくなる」と。楊忠はこれに従った。仲遵は計略が自分から出たものであるとして、自ら率先して城に登り、ついに桓和を捕らえた。引き続き楊忠に従って仲礼を撃ち、これもまた捕らえた。驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、本州の大中正を兼ね、再び三荊・二広・南雍・平信・江・随・二郢・淅など十三州諸軍事を管轄し、荊州刺史を代行した。まもなく母の喪に遭い、喪に服する期間を全うすることを請うたが、許されなかった。
大将軍王雄が上津・魏興を南征したとき、仲遵は配下の兵を率いて王雄に従い、これを討ち平げた。そこで上津に南洛州を設置し、仲遵をその刺史とした。仲遵は心を留めて民を慰撫し接遇したので、百姓は安心し、流民で帰順する者が相次いでやって来た。初め、蛮の首長杜清和が自ら巴州刺史と称し、その州をもって帰順した。朝廷は彼の占拠する地に基づいてこれを授け、引き続き東梁州都督の管轄とした。清和は仲遵が撫育統御に優れているとして、仲遵の管轄下に入ることを請うた。朝廷の議論では山川の地理が便利でないとして、これを許さなかった。清和はそこで安康の酋長黄衆宝らと結び、兵を挙げて共に東梁州を包囲した。再び王雄が派遣されてこれを討ち平げた。巴州を洵州と改め、仲遵の管轄とした。これより先、東梁州刺史劉孟良は職務において貪欲で、民の多くが背き離反していた。仲遵は清廉簡素をもってこれに臨んだので、諸蛮はおおむね服従した。
仲遵は巴の夷族の出身ではあったが、方正で風雅な節操を持ち、官に歴任した地では、いずれも清廉潔白をもって称えられた。朝廷はまたその父が危難に臨んで節義を守ったことを考慮し、上洛郡公の爵位を継承することを命じ、旧来の封邑は一子に授けることを認めた。魏の恭帝の初め、召されて左衛将軍に任じられた。まもなく出向して都督金興等六州諸軍事・金州刺史となった。武成(北周明帝の年号)の初め、在官のまま死去した。時に四十五歳。大将軍・華洛等三州刺史を追贈された。諡は莊という。
子の暅が後を継いだ。初めは本県の県令に任じられ、朝廷に入って左侍上士となった。保定年間(561-565年)に帥都督に任じられ、累進して儀同三司となり、出向して純州防主となった。建德末年(578年)までに、開府儀同大将軍の位に至った。
李遷哲は字を孝彦といい、安康の人である。代々山南の豪族として、江左(南朝)に仕えた。祖父の方は、斉の末年に本州の治中となった。父の元真は梁に仕え、東宮左衛率・東梁衡二州刺史・散騎常侍・沌陽侯を歴任した。
大統十七年(551年)、太祖(宇文泰)が達奚武・王雄らを派遣して山南の地を攻略させると、遷哲は配下の兵を率いて防戦したが、軍は敗れ、ついに達奚武に降った。しかしなお意気盛んで自然な様子であった。達奚武は彼を捕らえて京師に送った。太祖は彼に言うには、「どうして早く国家(西魏)に帰順せず、軍旅を煩わせたのか。今や俘虜となったことは、恥ずかしくないか」と。答えて言うには、「代々梁の恩を受け、報いることができず、また死をもって節を全うすることもできなかった。実にこれを恥じているのです」と。太祖は深くこれを賞賛し、すぐに使持節・車騎大将軍・散騎常侍に任じ、沌陽県伯に封じ、邑千戸を与えた。
魏の恭帝の初め、直州の楽熾・洋州の田越・金州の黄国らが結託して乱を起こした。太祖は鴈門公田弘を派遣して梁漢の地に出撃させ、開府賀若敦を直谷に向かわせた。楽熾は官軍が来ると聞き、桟道を焼き切り、直谷を占拠して守ったので、賀若敦の軍は前進できなかった。太祖は遷哲の信義が山南に顕著であるとして、賀若敦と共に赴き経略することを命じた。楽熾らは降伏する者、捕らえられる者があり、まもなく全て平定された。引き続き賀若敦と共に南に出て土地を巡行した。遷哲は先に巴州に至り、その外城に入った。梁の巴州刺史牟安民は恐れ慌て、城門を開いて降伏を請うた。安民の子の宗徹らはなお琵琶城を占拠し、招諭しても降らなかった。遷哲は攻撃してこれを打ち破り、九百余人を斬り捕らえた。軍が鹿城に駐屯すると、城主が使者を遣わして降伏を請うた。遷哲は配下の者たちに言うには、「降伏を受け入れることは敵を受けることと同じである。我々はその使者の視線がなお高いのを見る。偽りはないか」と。そこでこれを許さなかった。梁の兵は果たして道の傍らに伏兵を設けて遷哲を迎え撃とうとした。遷哲は進撃してこれを破り、ついにその城を屠り、千余りを捕虜とした。これより巴・濮の民は、降伏の申し出が相次いだ。軍が帰還すると、太祖はこれを賞賛し、自ら着用していた紫袍と玉帯、および乗っていた馬を賜い、併せて奴婢三十人を与えた。侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司を加授され、直州刺史に任じられた。これは本州(安康郡のある州)である。引き続き軍儀の鼓と節を与えられ、田弘と共に信州を討つことを命じられた。
遷哲は累世雄豪にして、郷里の率服する所と為る。性また華侈にして、能く厚く自らを奉養す。妾媵は百数に至り、男女六十九人あり。漢水に沿う千余里の間に、第宅相次ぐ。姬人で子ある者は、その中に分かれて処り、各々僮僕・侍婢・奄閽を有してこれを守る。遷哲は毎に笳を鳴らし導従し、その間を往来す。酒を縦に飲み宴を張り、生来の楽しみを尽くす。子孫参見するも、或いはその年名を忘るる者は、簿を披いてこれを審らかにす。
楊乾運は字を玄邈といい、儻城興勢の人である。方隅の豪族と為る。父は天興、斉の安康郡守。
達奚武が南鄭を囲むに及び、武陵王蕭紀は乾運に兵を率いてこれを援けしむるも、武に敗れられる。紀は時にすでに尊号を称し、乾運が巴・渝を威服するをもって、方面の任を委ねんと欲し、乃ち車騎将軍・十三州諸軍事・梁州刺史を拝し、潼州に鎮し、万春県公に封じ、邑四千戸を賜う。
時に紀はその兄湘東王繹と帝位を争い、遂に兵を連ねて止まず。乾運の兄の子楊畧が乾運に説いて曰く、「侯景の逆乱より以来、江左沸騰す。今大賊初めて平らぎ、生民離散す。理は宜しく同心戮力し、国を保ち民を寧んずべし。今乃ち兄弟親しく尋ね討つ。敗を取るの道なり。朽木は雕らず、世衰えて佐け難しと謂うべし。古人に言う『危邦に入らず、乱邦に居らず』と。また云う『機を見て作し、終日を俟たず』と。今もしかの楽土に適き、款を関中に送らば、必ずや功名両全し、慶を後に貽すべし」と。乾運は深くこれを然りとし、乃ち畧に二千人を将いて剣閣を鎮守せしむ。またその婿の楽広に安州を鎮守せしむ。なお畧等に誡めて曰く、「我は関中に帰附せんと欲するも、ただ由る所なきのみ。もし使来たらば、即ち宜しく礼を尽くして迎接すべし」と。時に太祖(宇文泰)が乾運の孫の法洛及び使人の牛伯友等をして至らしむるに会い、畧は即ち夜にこれを送る。乾運は乃ち使人の李若等をして関に入り款を送らしむ。太祖は乃ち密かに乾運に鉄券を賜い、使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中・梁州刺史・安康郡公を授く。尉遅迥が開府の侯呂陵始を前軍と為して剣南に至るに及び、畧は即ち退きて楽広に就き、城を翻さんと謀る。その軍将の任電等が同じからざるを恐れ、先ずこれを執り、然る後に出城して始に見ゆ。始は乃ち入りて安州を拠り、広・畧等をして往きて乾運に報ぜしむ。乾運は遂に迥に降る。迥はこれにより進軍して成都を攻め、数旬にしてこれを尅つ。
子の端が嗣ぐ。朝廷は乾運の帰附の功により、即ち端を梁州刺史・車騎大将軍・儀同三司に拝す。
畧もまた帰附の功により、車騎大将軍・儀同三司に拝せらる。頻りに征討に従う。建徳末、位は開府儀同大将軍に至り、上庸県伯に封ぜらる。楽広もまた車騎大将軍・儀同三司・安州刺史を授けられ、安康県公に封ぜられ、邑一千戸を賜う。
扶猛は字を宗畧といい、上甲黄土の人である。その種落は号して白獣蛮と曰い、世々渠帥と為る。猛は、梁の大同年間に直後として出で、持節・厲鋒将軍・青州刺史と為り、上庸新城二郡守・南洛北司二州刺史に転じ、宕渠県男に封ぜらる。侯景が乱を作るに及び、猛は乃ち衆を擁して自ら守り、従う所未だ有らず。
陽雄は字を元略といい、上洛郡の邑陽の人である。代々豪族であった。祖父の斌は上庸太守であった。父の猛は、北魏の正光年間、万俟醜奴が関右で乱を起こすと、朝廷は猛が商洛地方の名望家であることから、襄威将軍・大谷鎮将に抜擢し、胡城令を兼ねさせて醜奴を防がせた。元顥が洛陽に入り、北魏の孝荘帝が黄河を渡ると、范陽王元誨が身一つで猛のもとに逃げ込み、猛は彼を匿って保護した。孝荘帝が復位すると、これによって猛は名を知られるようになった。まもなく広陵王元恭が仮病を装い、再び猛のもとに身を寄せると、猛も深く保護した。北魏の孝武帝が即位すると、大いにこれを賞賛し、征虜将軍・行河北郡守を授け、間もなく安西将軍・華山郡守に転じた。二郡を相次いで治め、名声と実績を大いに挙げた。
陽雄は奉朝請から出仕し、累進して都督・直後・明威将軍・積射将軍となった。于謹に従って盤豆柵を攻め、また李遠に従って沙苑の戦陣を経て、共に力戦して功績を挙げた。安平県侯に封ぜられ、封邑八百戸を与えられ、冠軍将軍・中散大夫を加えられ、賞賜は甚だ厚かった。後に洛陽に入り、河橋で戦い、玉壁の包囲を解き、高仲密を迎え、侯景を救援し、いずれも戦功に与った。前後して封邑四百五十戸を増やされ、世襲で邑陽郡守となった。大将軍宇文虬に従って上津を攻め落とし、通直散騎常侍・大都督に遷り、儀同三司に進んだ。陳の将軍侯方児・潘純陁が江陵を侵すと、陽雄は豆盧寧に従ってこれを撃退した。洵州刺史に任じられた。その地の風俗は賨族と渝族が混じり、民は多く軽薄で狡猾であった。陽雄は威厳と恩恵を併せ用い、夷族と華夏の民を安んじた。蛮の帥文子栄が荊州の汶陽郡を窃拠し、さらに南郡の当陽・臨沮など数県を侵攻占領した。詔により開府賀若敦・潘招らが派遣され討伐平定した。その地に平州を設置し、陽雄を刺史とした。玉城県公に爵位を進め、封邑を以前と合わせて一千六百戸とし、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられた。当時は賊の乱の後で、戸籍から逃散する者が多かったが、陽雄は任地で慰撫を行い、民は皆安んじ集まった。載師中大夫に召され、西寧州総管に遷ったが、病気のため拝命せず、通洛防主に任じられた。
席固は字を子堅といい、その先祖は安定の人である。高祖の衡は、後秦の乱に際し、襄陽に寓居した。晋に仕えて建威将軍となり、そのため襄陽の名族となった。
席固は若い頃から遠大な志を持ち、内面は聡明で外面は質朴であった。梁の大同年間、斉興郡守となった。侯景が長江を渡り、梁の朝廷が大混乱に陥ると、席固は長く郡の職にあり、多くの士人が彼に付き従ったため、遂に親兵千余人を擁するようになった。
梁の元帝が江陵で即位すると、席固は興州刺史に遷った。この時、軍民で慕って従う者は五千余人に至った。席固は遂に自ら一州を占拠して、時勢の変遷を見ようと考えた。後に朝廷の軍が討伐に進むことを恐れ、内属を図るようになった。腹心に密かに言った。「今、梁氏は政を失い、揚都(建康)は陥落し、湘東王(元帝)は復讐して恥を雪ぐことができず、かえって身内で争っている。宇文丞相(宇文泰)は覇業の基を開き、礼をもって人々を招き寄せている。私は思い切って彼に帰順し、卿らと共に富貴を図りたい。」側近たちは席固の言葉を聞いても、応じる者はなかった。席固がさらに禍福を説くと、人々はようやくこれに同意した。
西魏の大統十六年、領地を携えて帰順した。この時、太祖(宇文泰)はまさに江陵を南取し、蜀・漢を西定しようとしていたところであり、席固の到来を聞くと、大いに礼遇した。使者を派遣してその場で使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・大都督・侍中・豊州刺史に任じ、新豊県公に封じ、封邑二千戸を与えた。後に湖州刺史に転じた。席固は朝廷に参内したこともないのに、栄誉ある官爵を授かったことを心配し、入朝して拝謁することを願い出た。太祖はこれを許した。席固が到着すると、太祖は彼と歓談し宴を催し、賞賜は甚だ厚かった。静安郡公に爵位を進め、封邑を以前と合わせて三千三百戸とした。間もなく昌・帰・憲の三州諸軍事・昌州刺史に任じられた。席固は家にあっては孝行で友愛であり、州里で称賛され、官に在るところでは、名声と実績を大いに挙げた。保定四年、任地で卒去した。享年六十一。大将軍・襄・唐・豊・郢・復の五州刺史を追贈され、諡は粛といった。なお詔勅により襄州にその墓田が賜られた。子の世雅が後を嗣いだ。
世雅は字を彦文という。性質は方正で、若い頃から孝行で知られた。初め父の席固の功績により、車騎大将軍・儀同三司を授けられ、賛城郡守に任じられた。累進して開府儀同三司・順州・直州の二州刺史となった。大象末年、大将軍の位に至った。世雅の弟の世英も、席固の功績により儀同三司を授けられた。後に上開府儀同大将軍に至った。
任果は字を静鸞といい、南安の人である。代々辺境の豪族として、江左に仕えた。祖父の安東は、梁の益州別駕・新巴郡守・閬中伯であった。父の褒は、龍驤将軍・新巴・南安・広漢の三郡太守・沙州刺史・新巴県公であった。
尉遅迥が蜀を伐つに及び、果は時に京師に在り、乃ち其の弟の岱及び子の悛を遣わして軍に従わしむ。太祖は益州未だ下らざるを以て、復た果に命じて伝車に乗り南安に帰らしめ、郷兵二千人を率い、迥に従いて蜀を征せしむ。尋いで驃騎大将軍・開府儀同三司に進めて授く。蕭紀は趙抜扈等を遣わし衆三万を率いて来たり成都を援けんとす、果は大軍に従いて之を撃ち破る。成都平らぎしに及び、始州刺史に除す。任に在ること未だ久しからず、果は入朝を請う、太祖之を許す。其の方隅の首望たりしを以て、早く忠節を立てしにより、乃ち安楽郡公に爵を進め、鉄券を賜い、世々相伝襲するを聴す。並びに路車・駟馬及び儀衛等を賜いて以て之を光寵す。尋いで刺客の害する所と為り、時に年五十六。
史臣曰く、古人称す、仁義豈に常ならんや、之を蹈めば則ち君子と為り、之に背けば則ち小人と為ると、信なるかな。泉企は山谷に長じ、素より月旦の誉れ無かりしも、難に臨み慷慨として、人臣の節有り、豈に仁義を蹈まざらんや。元礼・仲遵は聿て其の志を遵い、卒に功業を成し、庶幾くは克く負荷するか。李遷哲・楊乾運・席固の徒は、方隅擾攘に属し、咸飜然として質を委ね、遂に爵位を享け、以て終始を保つ。遷哲の太祖に対するを見るに、尚義の辞有り。乾運の武陵に任を受くるは、事人の道に乖けり。若し乃ち長短を校長じ、優劣を比ぶれば、故に同年に語るべからざるなり。陽雄は文武を兼ね任じ、声中外に著わり、抑亦志能の士か。