周書 卷四十二 列傳第三十四 蕭撝 蕭世怡 蕭圓肅 蕭大圜 宗懍 劉璠 柳霞

周書

卷四十二 列傳第三十四 蕭撝 蕭世怡 蕭圓肅 蕭大圜 宗懍 劉璠 柳霞

蕭撝

蕭撝は字を智遐といい、蘭陵の人である。梁の武帝の弟、安成王蕭秀の子である。性質は温和で寛大、風采は堂々としていた。十二歳の時、国学に入り、経書や史書を広く読み、特に文章を綴ることを好んだ。梁において、永豊県侯に封ぜられ、邑一千戸を賜った。初め給事中となり、太子洗馬・中舍人を歴任した。東魏が李諧・盧元明を梁に使わした時、梁の武帝は蕭撝の応対が立派であるとして、兼中書侍郎とし、賓館において幣を受け取らせた。まもなく黄門侍郎に遷った。出て寧遠将軍・宋寧・宋興二郡太守となり、転じて軽車将軍・巴西・梓潼二郡太守となった。

侯景が乱を起こすと、武陵王蕭紀が制を承けて蕭撝を使持節・忠武将軍に任じた。さらに平北将軍・ 散騎常侍 さんきじょうじ に遷り、益州刺史の軍防事を領した。蕭紀が成都で尊号を称すると、侍中・中書令に任じ、秦郡王に封ぜられ、邑三千戸を賜り、鼓吹一部を与えられた。蕭紀が軍勢を率いて東下するに当たり、蕭撝を 尚書令 しょうしょれい ・征西大将軍・ 都督 ととく 益梁秦潼安瀘青戎寧華信渠万江新邑楚義十八州諸軍事・益州刺史とし、成都を守らせた。また梁州刺史の楊乾運に潼州を守らせた。

太祖 (宇文泰) は蜀の兵が寡弱であることを知り、大将軍尉遅迥に総べての軍勢を率いて討伐させた。尉遅迥が剣閣に入ると、楊乾運は州を挙げて降伏した。蜀中はこれにより大いに驚き、もはや抵抗する意志はなかった。尉遅迥が長駆して成都に至ると、蕭撝は兵が万人に満たず、倉庫は空しく尽き、軍の資するところがないのを見て、遂に城を守る計略を立てた。尉遅迥が五十日間包囲すると、蕭撝はたびたび配下の将を遣わして城外に挑戦させたが、多くは殺傷された。外からの援軍が来たが、また尉遅迥に撃破された。詳細は尉遅迥伝にある。蕭撝は遂に降伏を請い、尉遅迥はこれを許した。蕭撝はそこで文武の官を率いて益州城北に至り、尉遅迥と共に壇に登り、血をすすって盟を立て、城を以て国 (西魏) に帰順した。

魏の恭帝元年 (554年) 、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に任じられ、帰善県公に封ぜられ、邑一千戸を賜った。孝閔帝が践祚すると、爵位を進めて黄臺郡公とし、邑一千戸を増やした。武成年間 (559-560年) 、世宗 (明帝宇文毓) は諸文儒に命じて麟趾殿で経史を校定させ、さらに世譜を撰述させたが、蕭撝もこれに参与した。まもなく母が老齢で、かつ病気を患っているため、五日ごとの出仕では朝夕の問安ができないとして、外で著書することを請うた。詔があり、これを許した。保定元年 (561年) 、礼部中大夫に任じられた。また蕭撝に帰順の功績があるとして、別に多陵県五百戸の食邑を賜り、その租賦を収めることとした。

三年 (563年) 、出て上州刺史となった。政治は仁恕を旨とし、礼譲を根本とした。かつて元日に、獄中にいる囚人を全て家に帰し、三日間の猶予を与えてから獄に戻ることを許そうとした。担当官は固執して不可とした。蕭撝は言った、「昔、王長・虞延が前史で称えられた。我は徳こそ少ないが、ひそかにその高行を慕う。信をもって民を導くことは、まさにここから始めるのだ。これによって罪を得ても、いっそう甘んじて受ける。どうか心配しないでほしい」。諸囚は恩を感じ、皆期限通りに戻ってきた。吏民はその恵み深い教化を称えた。任期が満ちて帰還する時、部民の李漆ら三百余人が上表し、さらに二年間留まることを請うた。詔は許さなかったが、大いにその善政を称えた。

蕭撝が朝廷に入ると、露門学が設置されることとなった。高祖 (武帝宇文邕) は蕭撝と唐瑾・元偉・王褒ら四人をともに文学博士とした。蕭撝は母が老齢であることを理由に、上表して私邸に帰り養うことを請い、言った、「臣は聞く、外では忠を尽くし、内では孝を尽くすことは、道理として人倫の根本に深く関わり、夕べには寝床を整え、朝には問安することは、事として天の経 (不変の道理) に切実であると。伏して惟うに、陛下は朝を鎮め臨み、衣を垂れて天下を治め、孝をもって天下を治め、仁を草木にまで及ぼしておられます。ここに微臣が至願を冒して申し上げます。臣の母妾褚は養老の礼を過ぎる年齢です。どうか今の職を解き、私庭で侍奉させてください。伏して願わくは、天の慈しみをもって、特に哀れみをお許しください。臣が誠意を披いて朝廷に帰ってより、十六年が経ちました。恩は海岳よりも深く、報いは 涓埃 わずか にも及びません。肆師として礼を掌っても、ついに職に称するものはなく、淅隈を督察しても、空しく能官の妨げとなるばかりです。今まさに朝廷を辞し、閭里に身を潜め、低佪して慕い、恋慕と恐れの情を深くいたします」。高祖は許さず、詔して言った、「開府 (蕭撝) は梁の宗室の英傑であり、今や三事 (三公) に等しい任にある。いわゆる、楚に材あれども、周これを用いる、というものだ。まさに謀猷を借りて、朕の及ばざるを補わんとしている。しかし、進んでは忠を尽くすことを思い、退いては侍養を安んずることは、義において公私ともに兼ねるべきである。どうして全く己の欲に従い、この至公を損ない、期待に背くことがあろうか」。まもなく母の喪により職を去った。

天和六年 (571年) 、少保に任じられた。建徳元年 (572年) 、少傅に転じた。後に蔡陽郡公に改封され、邑を増やして通算三千四百戸となった。二年 (573年) に卒去した。時に五十九歳。高祖は正武殿で哀悼の礼を挙げ、穀麦三百石・布帛三百匹を賜り、使持節・大将軍・大 都督 ととく ・少傅・益新始信四州諸軍事・益州刺史を追贈し、諡を襄といった。

蕭撝は草書・隷書に優れ、その名声は王褒に次いだ。算数や医方にも留意した。著した詩賦雑文数万言は、世に広く行われた。子の蕭済が後を嗣いだ。

蕭済は字を徳成といい、若い頃から仁厚で、文章を綴ることを好んだ。蕭紀が制を承けると、貞威将軍・蜀郡太守に任じられ、東中郎将に遷った。蕭紀に従って東下した。巴東に至り、尉遅迥が成都を包囲したと聞くと、蕭紀は蕭済に命じて配下の軍勢を率いて救援に向かわせた。到着する頃には、蕭撝は既に降伏していた。そこで蕭撝に従って朝廷に入った。孝閔帝が践祚すると、中外府記室参軍に任じられた。後に蒲陽郡太守・車騎大将軍・儀同三司に至った。

蕭世怡 (蕭泰)

蕭世怡は、梁の武帝の弟、鄱陽王蕭恢の子である。名が太祖 (宇文泰) の諱に犯すため、字で称した。幼い頃から聡明で慧く、経史に広く通じた。梁の大同元年 (535年) 、豊城県侯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。給事中に任じられ、太子洗馬に転じた。まもなく殿省に入って直し、太子中舎人に転じた。出て持節・仁威将軍・譙州刺史となった。侯景が乱を起こすと、その軍が城下を通り過ぎる際に襲撃して城を陥落させ、蕭世怡は捕らえられた。まもなく逃げ出して難を免れ、江陵に至った。

梁の元帝が制を承けると、侍中に任じられた。侯景を平定すると、蕭世怡を兼太宰・太常卿とし、中衛長史の楽子雲と共に山陵を拝謁させた。承聖二年 (553年) 、使持節・平西将軍・臨川内史に任じられた。既に陸納が湘川を占拠し、道路が塞がれていたため、平南将軍・桂陽内史に改任された。郡に至らないうちに、于謹が江陵を平定したため、兄の蕭修がいる 郢州 えいしゅう に従った。蕭修が卒去すると、直ちに蕭世怡を刺史とした。湘州刺史の王琳が舟師を率いて蕭世怡を襲撃すると、蕭世怡は州を挙げて王琳に降った。時に陳の武帝 (陳霸先) が政を執ると、侍中として召し出した。蕭世怡は疑って就かず、斉に奔った。車騎大将軍・ 散騎常侍 さんきじょうじ に任じられた。まもなく出て永州刺史となった。

保定四年 (564年) しん 公宇文護が東伐し、大将軍権景宣が河南の地を攻略した。蕭世怡は 州刺史王士良が既に降伏したと聞き、遂に帰順してきた。五年 (565年) 、使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司に任じられ、義興郡公に封ぜられ、邑一千三百戸を賜った。天和二年 (567年) 、蔡州刺史に任じられた。政治は簡素で恵みを施すことを旨とし、苛酷な監察を好まず、吏民に深く安んじられた。三年 (568年) 、州において卒去した。本官に加えて へい ・洛・永の三州刺史を追贈された。子の蕭子宝が後を嗣いだ。

子宝は風采が美しく、談笑を善くし、弱冠に至らない年齢で、名声は一時に重んじられた。隋の文帝が政を輔けると、丞相府典籤に抜擢され、深く識遇された。開皇年間 (581-600年) 、官は吏部侍郎に至った。後に事に坐して誅殺された。

蕭圓肅

蕭圓肅、字は明恭、梁の武帝の孫、武陵王蕭紀の子である。風度は淹雅にして、聡敏で学を好む。蕭紀が尊号を称すると、宜都郡王に封ぜられ、邑三千戸を賜り、侍中・寧遠将軍に任ぜられた。蕭紀が兵を率いて峡を下るとき、蕭撝に成都を守らせ、圓肅をその副とした。尉遅迥が到着すると、圓肅は蕭撝とともに降伏した。驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中を授けられ、安化県公に封ぜられ、邑一千戸を賜った。

世宗の初め、棘城郡公に進封され、邑一千戸を加増された。圓肅に帰順の功勲ありとして、別に思君県五百戸の食邑を賜り、その租賦を収めた。保定三年、畿伯中大夫に任ぜられる。五年、咸陽郡守に拝された。圓肅は寛猛相済い、政績甚だあった。天和四年、陵州刺史に遷り、まもなく詔により衛国公宇文直に従って襄陽を鎮守すべく命ぜられ、ついに任地に赴かなかった。

建徳三年、太子少傅を授かり、邑九百戸を加増された。圓肅は師傅の任に当たり、調護を職務とする。そこで少傅箴を作って曰く、

太子はこれを見て喜び、書を致して労い問うた。

六年、豊州刺史を授かり、邑は前と合わせて三千七百戸となった。まもなく上開府儀同大将軍に進位する。宣政元年、入朝して司宗中大夫となり、ほどなく洛州刺史を授かる。大象の末、大将軍に進位した。隋の開皇初め、貝州刺史を授かる。母の老齢を理由に帰郷して養うことを請うと、隋の文帝はこれを許した。四年、卒去、時に年四十六。文集十巻あり、また時人の詩筆を撰して文海四十巻、広堪十巻、淮海乱離志四巻を著し、世に行われる。

蕭大圜

蕭大圜、字は仁顕、梁の簡文帝の子である。幼くして聡敏、神情俊悟なり。四歳にして三都賦及び孝経・論語を誦することができた。七歳で母の喪に服し、すでに成人の性質があった。梁の大寶元年、樂梁郡王に封ぜられ、邑二千戸を賜り、宣恵将軍・丹陽尹に任ぜられた。侯景が暴虐をほしいままにするに属し、簡文帝が しい せられると、大圜は潜遁して免れた。翌年、侯景が平定され、大圜は建康に帰った。時に喪乱の後で、依託する所なく、善覚仏寺に寓居した。これを王僧辯に告げる者あり。僧辯は船と食糧を与え、江陵に往くことを得た。梁の元帝はこれを見て甚だ悦び、越衫・胡帯等を賜った。 しん 熙郡王に改封され、邑二千戸を賜り、寧遠将軍・琅邪彭城二郡太守に任ぜられた。

時に梁の元帝はすでに克復の功があったが、大圜の兄の汝南王蕭大封らはまだ謁見を通じていなかった。梁の元帝の性格は猜忌心が強く、これを甚だ恨み望んだ。そこで大圜に謂って曰く、「汝の両兄は久しく出でず、汝は意をもって彼らを召すがよい。」大圜は即日に両兄に諭し、相継いで出て謁見し、元帝はようやく安心した。大圜は世に事変多く、讒訴の生ずることを恐れ、人事を屏絶した。門客左右は三両人を過ぎず、妄りに遊び親しむことはしなかった。兄姉の間では、ただ書簡を交わすのみであった。常に詩・礼・書・易を読むことを事とした。元帝はかつて自ら五経の要事数十条を問うたが、大圜の言辞は簡約にして要領を得、応答に滞るところがなかった。元帝は甚だこれを歎美した。そこで曰く、「昔、河間王は学を好み、爾はすでにこれを持ち、臨淄王は文を好み、爾もまたこれを兼ねる。然るに東平王が善を為すは、前代をいっそう高くし、吾はこれを重んじ愛す、爾はこれに倣うべし。」于謹の軍が到着すると、元帝は大封を使者として和を請わせ、大圜をその副とし、実は人質とした。出でて軍営に至り、二宿して、元帝は降伏した。

魏の恭帝二年、長安に客居し、太祖は客礼をもってこれを遇した。保定二年、詔して曰く、「梁の汝南王蕭大封・ しん 熙王蕭大圜らは、梁国の子孫、優礼を存すべく、茅土を遺わすは、まさに旧章に允かなり。大封は しん 陵県公に封ぜられ、大圜は始寧県公に封ぜられ、邑各一千戸。」まもなく大圜に車騎大将軍・儀同三司を加える。併せて田宅・奴婢・牛馬・粟帛等を賜った。ほどなく麟趾殿を開き、学士を招集した。大圜はこれに参与した。梁武帝集四十巻、簡文集九十巻、各々一本のみあり、江陵平定後、ともに秘閣に蔵されていた。大圜は麟趾殿に入って、初めてこれを見ることができた。そこで手ずから二つの文集を書き写し、一年でともに完成した。識者はこれを称歎した。

大圜は因果を深く信じ、心は閑かで放逸であった。嘗て言うことには、

建徳四年、滕王宇文逌の友に任ぜられる。宇文逌は嘗て大圜に問うて曰く、「吾は聞く、湘東王が梁史を作ったと、あるか?その他の列傳はなお褒貶しうるが、帝紀はどうか?隠せば実にあらず、記せば攘羊 (父の過ちを告げる) となる。」対えて曰く、「言う者の妄りであります。もしあったとしても、怪しむに足りません。昔、漢の明帝が世祖紀を書き、章帝が顕宗紀を書きました。殷の鑑遠からず、十分に成例となります。かつ君子の過ちは、日月の蝕の如く、四海に顕われます、どうしてこれを隠しえましょうか?もし顕われなければ、またどうして隠さずにおられましょう?そもそも子は父の過ちを隠し、直きはその中にあり、国の悪を諱むは、また礼でもあります。」宇文逌は大笑した。

その後、大軍が東征し、 しん 州を攻め落とした。ある者が大圜に問うて曰く、「齊は遂に克服されるか?」対えて曰く、「高歡が昔、 しん 州をもって偽りの基跡を肇き、今その本拠が抜かれました。亡びずにおられましょうか。いわゆるこれをもって始まる者は必ずこれをもって終わる、というものです。」数日居るうちに、齊は果たして滅亡した。聞く者はこれを知言と為した。宣政元年、邑を加増され、前と合わせて二千二百戸となった。隋の開皇初め、内史侍郎に拝され、出て西河郡守となる。まもなく卒去。

大圜は性、学を好み、著述に務めた。梁旧事三十巻、寓記三巻、士喪儀注五巻、要決二巻を撰し、併せて文集二十巻がある。大封は位は開府儀同三司に至った。大象の末、陳州刺史となった。

宗懍

宗懍は字を元懍といい、南陽郡𣵀陽県の人である。八世の祖の承は、永嘉の乱の際に陳敏を討って功績があり、柴桑県侯に封ぜられ、宜都郡守に任ぜられた。まもなく官のまま死去し、子孫はこれにより江陵に居住した。父の高之は、梁山県の県令であった。

宗懍は幼少より聡明で、読書を好み、昼夜倦むことがなかった。話すときは必ず古事を引き合いに出すので、郷里の人々は彼を小児学士と呼んだ。梁の普通六年 (525年) 、秀才に挙げられたが、二宮 (皇帝と皇太子) の元会に間に合わなかったため、例によって策問に対応しなかった。梁の元帝が荊州を鎮守したとき、長史の劉之遴に言った。「貴郷には多くの士人がいる。一人の志ある少年を推挙せよ。」之遴は宗懍を命に応じた。即日に引見され、記室を兼ねることを命ぜられた。かつて夕方に召されて省中に宿直し、龍川廟碑の制作を命ぜられると、一夜で完成させ、翌朝に上呈した。梁元帝はこれを賞賛した。江州に移鎮したとき、宗懍を刑獄参軍とし、書記を兼掌させた。臨汝・建成・広晋の三県の県令を歴任した。母の喪に遭い職を去った。泣くたびに血を吐き、二十日のうちに、気絶してまた蘇生することが三度あった。毎回数千の烏の群れが、彼の喪屋に集まり、泣くのを待って来て、泣き止むと去った。当時の論評はこれを称え、孝行の感動によるものとした。

梁元帝が再び荊州を治めることになると、宗懍を別駕・江陵令とした。帝が即位すると、尚書侍郎に抜擢した。また手詔を下して言った。「昔、扶柳が国を開いたときは、ただ故人と言い、西郷が土地を賜ったのは、もとより賓客によるものであった。ましてや事が勲功に関わるのに、爵禄の賞賜がないことがあろうか。尚書侍郎の宗懍は、しばしば帷幄の謀議に与り、誠に股肱の任に深く寄与している。我に従って出征し、多くの歳月を経てきた。信安県侯に封じ、邑一千戸を与えるべし。」累進して吏部郎中・五兵尚書・吏部尚書となった。かつて侯景が平定された後、梁元帝が建業に還都することを議したが、宗懍だけが渚宮に都すべきと勧めた。それは彼の郷里が荊州にあったためである。

江陵が平定されると、王襃らとともに関中に入った。太祖 (宇文泰) は宗懍が南方で名声が高いことを聞き、非常に礼遇した。孝閔帝が即位すると、車騎大将軍・儀同三司に任ぜられた。世宗 (明帝) が即位すると、また王襃らと麟趾殿で群書の校定に当たった。たびたび宴席と賜物を賜った。保定年間 (561-565年) に死去した。六十四歳。文集二十巻があり、世に行われた。

劉璠

劉璠は字を宝義といい、沛国沛県の人である。六世の祖の敏は、永嘉の喪乱により、広陵に移り住んだ。父の臧は、性質が方正で、志を篤くして学問を好み、家にあっては孝行で知られた。梁の天監初年 (502年頃) 、著作郎となった。

劉璠は九歳で孤児となり、喪に服するのに礼に合っていた。若くして読書を好み、文筆にも長じていた。十七歳の時、上黄侯蕭曄に重んじられた。范陽の張綰は、梁の外戚で、才が高く弁舌に優れ、世に推賞されていた。蕭曄の貴重な身分ゆえに、張綰もまた彼を頼りにしていた。劉璠は年少で未だ仕官しておらず、才能を恃んで気性を振るい、張綰に屈しなかった。張綰はかつて新渝侯の座で、酒の後に京兆の杜騫を罵って言った。「寒門の士人に無礼な。」劉璠は厳しい顔色で言った。「この座にいる者で、寒士でない者は誰か。」劉璠の本意は張綰にあったが、蕭曄は自分に向けられたと思い、言葉と表情に不平を示した。劉璠は言った。「どの王の門であろうと、長裾を曳いて入ることができぬということはない。」そして衣を払って立ち去ろうとした。蕭曄が謝罪して、やっと止めた。後に蕭曄に従って淮南にいたとき、劉璠の母が建康で病気にかかったが、劉璠はそれを知らなかった。ある日突然全身に激痛が走り、まもなく家からの手紙が届き、母が病んだと知った。劉璠はすぐに号泣して道を急ぎ、気絶してまた蘇生した。彼自身が痛んだ時が、まさに母の死んだ日であった。喪に服して身をやつすと、風気 (中風) にかかった。喪が明けて一年後も、なお杖をついてやっと立ち上がるほどであった。蕭曄が毗陵で亡くなると、かつての官吏の多くは離散したが、劉璠だけが蕭曄の遺体を都に送り返し、墳墓が完成してから退いた。梁の簡文帝が当時東宮にいて、蕭曄を平素から重んじていたので、送らなかった者たちは皆弾劾・叱責されたが、劉璠だけは特に賞賜を受けた。初官として王国常侍となったが、彼の好むところではなかった。

劉璠は若い頃から慷慨として、功名を好み、志は辺境の城で事を立てることにあり、通常の手続きで平穏に昇進することを好まなかった。ちょうど宜豊侯蕭循が北徐州刺史として出向することになり、すぐにその軽車府主簿を請い、記室参軍を兼ね、さらに刑獄を管轄した。蕭循が梁州刺史となると、信武府記室参軍に任ぜられ、南鄭県令を兼ねた。また板授 (臨時の任命) で中記室となり、華陽太守を補任された。侯景が長江を渡り、梁王室が大混乱に陥ると、蕭循は劉璠に才略があるとして、非常に親しく重任した。当時は賊寇の難が頻発し、安定することがなかった。劉璠はそこで慨然として詩を賦して志を示した。その末章に言う。「随会は王室を平らげ、夷吾は覇功を ただ した。虚薄にして用いられる時なく、徒然に昔の風を慕うのみ。」蕭循が開府し、佐史を置くと、劉璠を諮議参軍とし、依然として記室を兼掌させた。梁元帝が制を承けると、樹功将軍・鎮西府諮議参軍を授けた。賜書に言う。「鄧禹は文学の士でありながら、なお戈を執り、葛洪は一書生でありながら、かつて賊を破ると言った。前賢は遠くない。期待するところは誠に深い。」梁元帝はまもなくまた蕭循に鄱陽王の封を継がせ、かつ雍州刺史とし、さらに劉璠を蕭循の平北府司馬とした。

武陵王蕭紀が蜀で制を称すると、劉璠を中書侍郎とし、たびたび劉璠を召し寄せようとし、使者を八度往復させて、ようやく蜀に至らせた。また黄門侍郎とし、長史の劉孝勝に深く腹心を布かせた。工人に命じて陳平が黄河を渡って漢に帰順した図を描かせて、劉璠に贈った。劉璠は苦しんで帰還を求めた。中記室の韋登がひそかに言った。「殿下は忍耐して恨みを蓄えている。足下が留まらなければ、大禍を招くであろう。もし盗賊が葭萌で待ち伏せすれば、卿は危うい。どうして共に大廈を構築し、身も名も共に美しくせぬのか。」劉璠は厳しい顔色で言った。「卿は私に弁舌を弄して説得しようというのか。私は府侯 (蕭循) との間で、分と義は既に定まっている。どうして寵辱や安危によって、その心を変えようか。丈夫が志を立てるならば、死生をもってこれに当たるべきである。殿下は今まさに天下に大義を布こうとしておられる。一人に対して私憤を遂げられることはない。」蕭紀は必ずや己のために用いられないと知り、厚く贈り物をして送り返した。別れに臨み、蕭紀はまた自分の佩刀を解いて劉璠に贈り言った。「この物を見て人を思ってほしい。」劉璠は答えて言った。「敢えて威霊を奉揚し、姦宄を らざらんや。」蕭紀はそこで使者を遣わして、蕭循を益州刺史に拝し、随郡王に封じ、劉璠を蕭循の府長史とし、蜀郡太守を加えた。

白馬の西まで戻ったとき、達奚武の軍が既に南鄭に到達していたため、劉璠は城に入ることができず、やむなく達奚武に降った。太祖 (宇文泰) は平素から彼の名を聞いており、あらかじめ達奚武に戒めて言った。「劉璠を死なせるな。」故に達奚武はまず劉璠を朝廷に赴かせた。劉璠が到着すると、太祖は旧知のように接した。僕射の申徽に言った。「劉璠は佳士である。古人もどうしてこれを超えられようか。」申徽は言った。「昔、晋の主が呉を滅ぼしたとき、利は二陸 (陸機・陸雲) にあった。明公が今梁漢を平定され、一人の劉璠を得られたのである。」当時、南鄭はなお抵抗して守っており陥落していなかった。達奚武はその屠殺を請うた。太祖はこれを許そうとしたが、ただ劉璠の一家だけを全うさせることを命じた。劉璠は朝廷に請願した。太祖は怒って許さなかった。劉璠は泣いて固く請願し、長時間退かなかった。柳仲礼が側に侍して言った。「これは烈士です。」太祖は言った。「人に仕えるとはこのようであるべきだ。」遂にこれを許した。城はついに全うされ、これは劉璠の力によるものであった。

太祖が蕭循の降伏を受け入れた後、また彼が国に帰ることを許した。蕭循が長安に到着して数ヶ月経ったが、まだ遣わされなかった。劉璠が宴席に侍したとき、太祖が言った。「私は古の誰に比せられようか。」劉璠は答えて言った。「常に公を命世の英主とし、湯王・武王にも及ばないと思っておりました。今日見るところ、かつての斉の桓公・晋の文公にも及ばないようです。」太祖は言った。「私は湯・武に比べられぬとしても、伊尹・周公と並ぶことを望む。どうして桓公・文公に及ばぬというのか。」劉璠は答えて言った。「斉の桓公は三つの亡国を存続させ、晋の文公は原を伐つにあたり信を失いませんでした。」言葉が終わらないうちに、太祖は手を打って言った。「私はお前の意を解した。私を激しくさせようというのだな。」そこで即座に蕭循を遣わすことを命じた。蕭循は劉璠とともに帰還することを請うたが、太祖は許さなかった。劉璠を中外府記室とし、まもなく黄門侍郎・儀同三司に遷した。

かつて病臥して家に居た時、雪を見て感興を催し、雪賦を作って志を遂げたという。その詞に曰く。

初め、蕭循が漢中に在って蕭紀に送った牋や国家 (北周) への返書、襄陽への移文などは、皆、劉璠の文辞であった。

世宗 (明帝) の初め、内史中大夫に任じられ、詔勅の起草を掌った。まもなく平陽県子に封ぜられ、邑九百戸を賜う。在職中は清廉で簡潔明瞭であったが、時流に合わず、左遷されて同和郡守となった。劉璠は撫民統治に長け、着任して一年も経たぬうちに、生羌の降伏帰附する者が五百余家に及んだ。前後の郡守は多く財産を蓄えるために経営したが、劉璠だけは秋毫も取らず、妻子も共に羌の風俗に従い、麦を食い皮を衣とし、終始改めなかった。洮陽・洪和二郡の羌民は、常に境界を越えて劉璠のもとに赴き訴訟を裁いてもらった。その徳化が他界からも帰依仰慕される様はこのようであった。蔡公広 (宇文広) が当時隴右を鎮守し、劉璠の善政を称えた。そして陝州に転鎮する際、劉璠を引き連れようとしたところ、従いたいと喜ぶ羌人が七百人もいた。聞く者は皆、嘆き驚いた。陳公純 (宇文純) が隴右に鎮すると、彼を召して総管府司録とし、甚だ礼敬した。天和三年に卒去。時に五十九歳。『梁典』三十巻を著し、文集二十巻あり、世に行われる。子の祥が嗣いだ。

祥は字を休徴という。幼くして聡明で、応対は優れて弁舌さわやか、賓客で会う者は皆、神童と称した。嫡母に仕えること至孝をもって知られた。その伯父の黄門郎劉璆は江左に名があり、嶺南にいてこれを聞き奇とし、名を祥、字を休徴とさせた。後に字をもって世に行われる。十歳で文を綴ることができ、十二歳で五経に通じた。初めて官に就き、梁の宜豊侯の主簿となり、記室参軍に転じた。

江陵が平定されると、例に従って北周に入国した。斉公憲 (宇文憲) はその言葉遣いの巧みさを以て、記室に召した。府中の書記は皆、彼に掌らせた。まもなく 都督 ととく に任じ、漢安県子に封ぜられ、食邑七百戸を賜い、転じて従事中郎となった。宇文憲が王に進爵されると、休徴を王友とした。ほどなく内史上士に任ぜられる。高祖 (武帝) が東征した時、休徴は帷幄に陪侍した。北斉平定の露布は、即ち休徴の文である。累遷して車騎大将軍・儀同大将軍となった。まもなく官を去り、万年令を領したが、一ヶ月も経たぬうちに長安令に転じた。二県を相次いで治め、時に誉れを得た。大象二年、官にて卒去。時に四十七歳。

初め、劉璠の撰した『梁典』が完成したが、刊定するに及ばずして卒去した。臨終に休徴に謂いて曰く、「我が志を成し得るは、この書にあるであろうか」。休徴が (始め) 〔治〕定繕写し、一家の書としてまとめ、世に行われる。

柳霞

柳霞は字を子昇といい、河東郡解県の人である。曾祖父の柳卓は、晋の汝南太守であり、初めて本郡より襄陽に移り住んだ。祖父の柳叔珍は、宋の員外 散騎常侍 さんきじょうじ ・義陽内史である。父の柳季遠は、梁の臨川王諮議参軍・宜都太守である。

柳霞は幼くして爽やかで超邁、神彩は高く聳え、幼少の頃より既に成人の器量があった。文学を篤く好み、行動は規矩に合致した。その伯父の柳慶遠は特に彼を器異した。柳霞に謂って曰く、「我れ昔、伯父の太尉公 (柳元景) に仕えた時、嘗て我に語って云った、『我れ昨夜、汝が一つの楼に登る夢を見た。楼は甚だ峻麗で、我れは座席を以て汝に与えた。汝の後の名声と官途は必ず達するであろうが、我れがそれを見届けられぬのが恨みである』と。我れ先ほど暫し昼寝をしたが、また夢に昔の座席を還って汝に賜うのを見た。汝の官位は、また我れに及ぶであろう。特に勉励して、嘉祥に応ずべし」。

梁の西昌侯蕭深藻が雍州を鎮守した時、柳霞は時に十二歳、民礼を以て謁見し、風儀は端粛、進退は詳雅であった。深藻はこれを美とし、試みに左右の者に柳霞の衣裾を踏ませ、その挙措を見ようとした。柳霞は徐歩して少し前に進み、顧みることすらなかった。廬陵王蕭続が雍州刺史となると、柳霞を召して主簿とした。初めて官に就き、平西将軍邵陵王蕭綸の府の法曹参軍となり、やがて外兵参軍に転じ、尚書工部郎に任ぜられた。謝挙が当時僕射であり、柳霞を引いて語り、甚だこれを嘉した。人を顧みて曰く、「江漢の英霊、ここに見る」。

岳陽王蕭詧が雍州に臨むと、治中に選ばれ、まもなく別駕に遷った。そして蕭詧が襄陽において制を承けると、柳霞を吏部郎・員外 散騎常侍 さんきじょうじ に任じた。ほどなく車騎大将軍・儀同三司・大 都督 ととく に遷り、聞喜県公の爵を賜う。まもなく持節・侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に進位した。そして蕭詧が江陵において帝位に即くと、襄陽を以て我が朝 (北周) に帰した。柳霞はそこで蕭詧に辞して曰く、「陛下は中興の鼎運を起こされ、旧楚の地に龍飛されました。臣は昔、幸いな機会により、早くより名節を奉じ、理においては身を以て国に許し、終始を期すべきでありました。しかし晋氏が南遷して以来、臣の宗族は少なくなりました。従祖の太尉 (柳元景) 、伯父の儀同 (柳慶遠) 、従父の 司空 しくう (柳世隆) らは、皆、位望が隆重であったため、遂に金陵に家を構えました。ただ先臣 (父柳季遠) だけが、独り墳墓と柏を守りました。常に臣らを戒め、この志に背かぬようさせました。今、襄陽が既に北朝に入りました。臣がもし鑾蹕に陪従すれば、進んでは塵露の益なく、退けば先人の旨に虧くことになります。伏して曲りて照鑒を垂れ、臣がこの心を諒とされたく」。蕭詧はその志に重ねて違うことを忍びず、遂にこれを許した。そこで郷里に留まり、経籍を以て自らを楽しませた。

太祖 (宇文泰) ・世宗 (明帝) が頻りに徴命を下したが、柳霞は病を以て固辞した。そして蕭詧が崩ずると、柳霞は哀悼の礼を行い、旧君に対する喪服を着けた。保定年間にまた徴されたが、柳霞は初めて入朝した。使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・霍州諸軍事・霍州刺史に任ぜられる。柳霞は民を導くに先ず徳を以て務め、再三命に従わぬ者があれば、微かに貶異を加え、恥を示すのみであった。その下の者は感化され、再び過ちを犯さなかった。皆曰く、「我が君の仁恵この如し、どうして欺くことができようか」。天和年間に卒去。時に七十二歳。宣政初年、金州・安州の二州刺史を追贈された。

柳霞は志操と行いがあった。初めて州の主簿となった時、その父が揚州で卒去した。柳霞は襄陽より駆けつけ、六日で到着した。哀感は行路の人をも動かし、憔悴してほとんど識別できぬほどであった。後に喪を奉じて江を遡り西帰する途中、中流で風が起こり、舟中の人は相顧みて色を失った。柳霞は棺を抱き号慟し、天に訴えて哀れみを求めると、俄かの間に風浪が止んだ。その母がかつて乳房の間に疽を発した時、医者が云うには、「この病は救う道理なし。ただ人の膿を吸うを得れば、或いは痛みを微かに止める望みがある」。柳霞は声に応じて即ち吸い、十日にして癒えた。皆、孝の感応によるものと為した。性質はまた温かく寛大で、少しも喜怒の色を見せなかった。名教を弘奨し、人の短を論じたことはなかった。特に施与を好み、家に余財無し。臨終に薄葬を遺誡し、その子らは皆、これを奉行した。十人の子があり、柳靖・柳庄が最も知名である。

柳靖は字を思休という。少より方正雅量で、広く墳籍を博覧した。梁の大同の末、初めて官に就き武陵王国左常侍となり、法曹行参軍に転じた。大定初年、尚書度支郎に任ぜられ、正員郎に遷った。柳霞に従って入朝し、大 都督 ととく に任ぜられ、河南・徳広の二郡守を歴任した。柳靖は政事に雅達し、居る所には皆、治術があり、吏民は畏れてこれを愛した。しかし性質は閑素を愛し、名利に対しては淡白であった。そして任期が満ちて帰ると、早くも終焉の志があった。

隋の文帝が帝位に即くと、特詔を以てこれを徴したが、柳靖は遂に病を以て固辞した。優游として仕えず、門を閉じて自らを守り、対するものは琴書のみであった。足を園庭に踏み入れることなく、殆ど十年に及んだ。子弟らはこれを奉じて、厳君の如くであった。過ちのある者がいれば、柳靖は必ず帷を下ろして自らを責め、そこで長幼相率いて庭に拝謝し、柳靖はその後でこれに会い、礼法を以て勗めた。郷里もまた慕って化された。或いは不善を行う者があれば、皆曰く、「ただ柳徳広 (柳靖) に知られるのを恐れるのみ」。時の論はこれを王烈に方えた。前後の総管が着任すると、皆、親しく柳靖の家に至って病を問い、遂に故事となった。秦王楊俊が州に臨むと、几杖を賜い、併せて衣物を贈った。柳靖は唯几杖のみを受け、余は皆固辞した。その当時に重んぜられること、この如しであった。開皇年間、寿を全うして終わった。

蕭荘は字を思敬という。器量は堅固にして、経世の才あり。初め梁に仕え、中書舍人・尚書右丞・給事黃門侍郎・尚書吏部郎中・鴻臚太府卿を歴任す。隋に入り、位は開府儀同三司・給事黃門侍郎・饒州刺史に至る。

史評

史臣曰く、蕭撝・蕭世怡・蕭圓肅・蕭大圜は皆、梁の良き声望ある者なり。羈旅の身で異国にあれども、終に栄名を享く。この基なく、夙に文質を懐かざれば、何ぞ能くここに至らんや。武陵王が衆を擁して東下する時、蕭撝に蕭何の任を委ね、君臣の道既に篤く、家国の情亦隆し。金石もその心に比ぶるに足らず、河山もその誓いを盟するに足らず。魏安の城下に至るや、旬日にして智力ともに竭き、金湯を委ねて守らず、庸蜀を挙げて来王す。若し機を見て作す有りとすれば、誠に之れ有り。節を守りて没歯するは、則ち未だ可ならず。

宗懍は幹局の才辞、梁元帝の世に称せらる。楚甸に俘囚せられ、秦中に播越するに及び、太祖の治を思う辰に属し、世宗の士を好む日に遇い、朝に在りて政事に預からず、列に就きて纔かに戎章を忝うす。豈に道を懐いて全きを図り、優遊して歳を卒うるか、将た用いらるると用いられざると、当年に留滞するか。

梁氏は江東を拠有すること五十余載。策を挟み事を紀し、不朽を勒するは、一家に非ず。劉璠は学思通博にして、著述の誉れ有り。疑を伝え信を伝うるに、頗る詳略有れども、辞を属し事を比するは、足りて清典と為す。蓋し近代の佳史か。

柳霞の身を立つる道は、進退に節有り。その墳隴を眷恋するを観れば、その孝は朝廷に移す可し。旧主に礼を尽くせば、その忠は新君に事うる可し。夫れ能くこの類を推して賢を求めば、則ち人を知ること幾くんば易きに近からん。

原本を確認する(ウィキソース):周書 巻042