周書

巻041

卷四十一 列傳第三十三 王襃 庾信

王褒

原文 王褒

王襃は字を子淵といい、琅邪郡臨沂県の人である。曾祖父の儉は、斉の侍中・太尉・南昌文憲公であった。祖父の騫は、梁の侍中・金紫光禄大夫・南昌安侯であった。父の規は、梁の侍中・左民尚書・南昌章侯であった。いずれも江左において重い名声があった。

原文 王襃字子淵,琅邪臨沂人也。曾祖儉,齊侍中、太尉、南昌文憲公。祖騫,梁侍中、金紫光祿大夫、南昌安侯。父規,梁侍中、左民尚書、南昌章侯。竝有重名於江左。

王襃は識見と度量が深く通達し、志は沈着静穏を抱いていた。風采は美しく、談笑をよくし、史伝を博覧し、特に文章を綴ることに巧みであった。梁の国子祭酒蕭子雲は、王襃の姑の夫であり、特に草書と隷書に優れていた。王襃は若くして姻戚として、その家に出入りし、ついに彼を手本として模倣した。やがてその名声は子雲に次ぎ、ともに世に重んじられた。梁の武帝はその才芸を喜び、弟の鄱陽王蕭恢の娘を妻として与えた。初め秘書郎に起用され、太子舎人に転じ、南昌県侯の爵位を襲封した。やがて秘書丞に昇進した。宣成王蕭大器は、簡文帝の嫡子であり、すなわち王襃の従兄弟(姑の子)であった。当時、盛んに官僚を選んでいたが、王襃を文学(官職)とした。まもなく安成郡太守に転じた。侯景が長江を渡り、建業が混乱すると、王襃は管轄区域を鎮撫平定し、当時に称賛された。

原文 襃識量淵通,志懷沉靜。美風儀,善談笑,博覽史傳,尤工屬文。梁國子祭酒蕭子雲,襃之姑夫也,特善草隸。襃少以姻戚,去來其家,遂相模範。俄而名亞子雲,竝見重於世。梁武帝喜其才藝,遂以弟鄱陽王恢之女妻之。起家祕書郎,轉太子舍人,襲爵南昌縣侯。稍遷祕書丞。宣成王大器,簡文帝之冢嫡,即襃之姑子也。于時盛選僚佐,乃以襃為文學。尋遷安成郡守。及侯景渡江,建業擾亂,襃輯寧所部,見稱於時。

梁の元帝が政務を代行すると、智武将軍・南平内史に転じた。江陵において帝位を継承すると、王襃を破格の地位で遇そうとした。王襃は当時まだ郡にいたが、王僧辯に礼をもって送り出すよう命じた。王襃はついに家族を率いて西上した。元帝は王襃と旧知の間柄であり、互いに意気投合して喜んだ。侍中に任じられ、累進して吏部尚書・左僕射となった。王襃はすでに名門の家柄であり、文学に優れていたので、当時の人々は皆推挙し、故に一ヶ月ほどの間に、高位の要職に昇った。寵遇は日増しに厚くなったが、王襃はますます謙虚に振る舞い、地位を鼻にかけず、当時の論評はこれを称えた。

原文 梁元帝承制,轉智武將軍、南平內史。及嗣位於江陵,欲待襃以不次之位。襃時猶在郡,敕王僧辯以禮發遣。襃乃將家西上。元帝與襃有舊,相得甚歡。拜侍中,累遷吏部尚書、左僕射。襃既世冑名家,文學優贍,當時咸相推挹,故旬月之間,位升端右。寵遇日隆,而襃愈自謙虛,不以位地矜人,時論稱之。

初め、元帝が侯景を平定し、武陵王蕭紀を捕らえた後、建業が荒廃しているため、修復が必要であり、江陵が繁盛しているので、ここに安住しようと考えた。また、かつての府の臣下や官僚は皆楚の出身であり、荊州の郢(江陵)に都を置くことを望んでいた。かつて群臣を召してこれを議論した。領軍将軍胡僧祐・吏部尚書宗懍・太府卿黄羅漢・御史中丞劉瑴らは言った。「建業は旧都ではあるが、王気はすでに尽きている。しかも北の敵国と隣接し、ただ一江を隔てるのみである。もし不測の事態があれば、後悔しても及ばない。臣らはまたかつて聞いたことがある。荊南の地には天子の気があると。今、陛下が龍のように飛翔して大業を継がれたのは、その応兆ではなかろうか。天時と人事、兆しはこのようである。臣らの見るところ、遷都は適切ではない。」元帝は深くもっともだと思った。当時、王襃と尚書周弘正がともに侍座していた。そこで王襃らを顧みて言った。「卿らの意見はどうか。」王襃は性格が謹慎であり、元帝が猜疑心が強いことを知っていたので、公然とその非を言うことを敢えてしなかった。当時は唯々としていただけである。後に暇な時に密かに諫言し、言葉は非常に切実であった。元帝はかなりこれを聞き入れた。しかしその本心は荊・楚を好み、すでに僧祐らの策に従っていた。翌日、ついに大勢の中で王襃に言った。「卿は昨日、建業に戻るよう勧めたが、道理がないわけではない。」王襃は、宮中の密室での言葉を、どうして公然と大勢の前で明らかにすべきであろうか。その計略が用いられないことを知り、そこでやめて再び言わなかった。

原文 初,元帝平侯景及擒武陵王紀之後,以建業彫殘,方須修復;江陵殷盛,便欲安之。又其故府臣寮,皆楚人也,竝願即都荊郢。嘗召羣臣議之。領軍將軍胡僧祐、吏部尚書宗懍、太府卿黃羅漢、御史中丞劉瑴等曰:「建業雖是舊都,王氣已盡。且與北寇鄰接,止隔一江。若有不虞,悔無及矣。臣等又嘗聞之,荊南之地,有天子氣。今陛下龍飛纘業,其應斯乎。天時人事,徵祥如此。臣等所見,遷徙非宜。」元帝深以為然。時襃及尚書周弘正咸侍座。乃顧謂襃等曰:「卿意以為何如?」襃性謹慎,知元帝多猜忌,弗敢公言其非。當時唯唯而已。後因清閒密諫,言辭甚切。元帝頗納之。然其意好荊、楚,已從僧祐等策。明日,乃於眾中謂襃曰:「卿昨日勸還建業,不為無理。」襃以宣室之言,豈宜顯之於眾。知其計之不用也,於是止不復言。

大軍が江陵を征討した時、元帝は王襃に都督ととく城西諸軍事を授けた。王襃は本来、文雅をもって知られていたが、一旦、軍務の総指揮を委ねられると、深く自らを励まし、忠勤の節を尽くした。包囲された後、上下猜疑と恐れが生じたが、元帝はただ王襃に対して深く信頼を寄せた。朱買臣が兵を率いて宣陽門の西門から出撃し、王師(西魏軍)と戦い、買臣は大敗した。王襃は督戦してこれを制止できず、ついに護軍将軍に降格された。王師が外柵を攻撃し、城が陥落すると、王襃は元帝に従って子城に入り、なお固守しようとした。やがて元帝が出降すると、王襃はついに衆とともに出た。柱国于謹に会うと、謹は非常に礼を尽くした。王襃はかつて『燕歌行』を作り、関塞の寒苦の様子を絶妙に描き尽くしていた。元帝および諸文士がともにこれに和し、競って悲切な詞を作ったが、この時に至って初めてそれが現実となったのである。

原文 及大軍征江陵,元帝授襃都督城西諸軍事。襃本以文雅見知,一旦委以總戎,深自勉勵,盡忠勤之節。被圍之後,上下猜懼,元帝唯於襃深相委信。朱買臣率眾出宣陽之西門,與王師戰,買臣大敗。襃督進不能禁,乃貶為護軍將軍。王師攻其外柵,城陷,襃從元帝入子城,猶欲固守。俄而元帝出降,襃遂與眾俱出。見柱國于謹,謹甚禮之。襃曾作燕歌行,妙盡關塞寒苦之狀,元帝及諸文士竝和之,而競為淒切之詞。至此方驗焉。

王襃は王克・劉瑴・宗懍・殷不害ら数十人とともに、長安ちょうあんに至った。太祖(宇文泰)は喜んで言った。「昔、呉を平定した時の利益は、二陸(陸機・陸雲)だけだった。今、楚を平定した功績では、多くの賢人がことごとく来た。これはそれを超えていると言えよう。」また王襃と王克に言った。「私は王氏の甥である。卿らはともに私の舅にあたる。親戚としての情をもって接し、故郷を離れたことを気にかけないでほしい。」そこで王襃と王克・殷不害らに車騎大将軍・儀同三司を授けた。常にゆったりと上席に侍らせ、供給は非常に手厚かった。王襃らもともに恩顧を受け、旅人の身であることを忘れた。

原文 襃與王克、劉瑴、宗懍、殷不害等數十人,俱至長安。太祖喜曰:「昔平吳之利,二陸而已。今定楚之功,羣賢畢至。可謂過之矣。」又謂襃及王克曰:「吾即王氏甥也,卿等竝吾之舅氏。當以親戚為情,勿以去鄉介意。」於是授襃及克、殷不害等車騎大將軍、儀同三司。常從容上席,資餼甚厚。襃等亦竝荷恩眄,忘其羈旅焉。

孝閔帝が即位すると、石泉県子に封ぜられ、邑三百戸を賜った。世宗(明帝)が即位すると、文学を深く愛好した。当時、王襃と庾信の才名が最も高く、特に親しく遇された。帝は遊宴のたびに、王襃らに詩を賦させ議論させ、常に側近に侍らせた。まもなく開府儀同三司を加えられた。保定年間、内史中大夫に任じられた。高祖こうそ(武帝)が『象経』を作ると、王襃に命じてこれに注釈をつけさせた。引証は詳密で、非常に称賛された。王襃は器量と見識があり、政治の根本をよく理解していた。累世にわたり江東で宰相を務めてきた家柄であり、高祖もこのことで彼を重んじた。建徳年間以後、しばしば朝廷の議論に参与した。凡そ大詔や冊書は、すべて王襃に起草させた。東宮が建てられると、太子少保を授けられ、小司空しくうに転じ、引き続き詔勅の起草を掌った。天子が行幸する時、王襃は常に侍従した。

原文 孝閔帝踐阼,封石泉縣子,邑三百戶。世宗即位,篤好文學。時襃與庾信才名最高,特加親待。帝每遊宴,命襃等賦詩談論,常在左右。尋加開府儀同三司。保定中,除內史中大夫。高祖作象經,令襃注之。引據該洽,甚見稱賞。襃有器局,雅識治體。既累世在江東為宰輔,高祖亦以此重之。建德以後,頗參朝議。凡大詔冊,皆令襃具草。東宮既建,授太子少保,遷小司空,仍掌綸誥。乘輿行幸,襃常侍從。

初め、王襃は梁の処士、汝南の周弘讓と親しくしていた。弘讓の兄の弘正が陳から来朝した時、高祖は王襃らが親しい者と音信を通じることを許した。王襃は弘讓に詩を贈り、併せて手紙を送った。

原文 初,襃與梁處士汝南周弘讓相善。及弘讓兄弘正自陳來聘,高祖許襃等通親知音問。襃贈弘讓詩,并致書曰:

弘讓が返書をしたためた。

原文 弘讓復書曰:

まもなく宜州刺史として出向し、任地で卒去した。時に六十四歳。子の鼒が後を継いだ。

原文 尋出為〈(宣)〉〔宜〕州刺史。卒於位,時年六十四。子鼒嗣。

庾信

原文 庾信

庾信は字を子山といい、南陽郡新野県の人である。祖父の易は、斉の徴士であった。父の肩吾は、梁の散騎常侍さんきじょうじ・中書令であった。

原文 庾信字子山,南陽新野人也。祖易,齊徵士。父肩吾,梁散騎常侍、中書令。

庾信は幼い頃から俊秀で卓越し、聡明で比類がなかった。群書を博覧し、特に『春秋左氏伝』に長じていた。身長八尺、腰帯十圍(太い体格)、容貌と立ち居振る舞いは悠然として、人並み外れたところがあった。初め湘東王国常侍に起用され、安南府参軍に転じた。当時、肩吾は梁の太子中庶子であり、記録を管掌していた。東海の徐摛は左衛率であった。徐摛の子の陵と庾信は、ともに抄撰学士となった。父子が東宮に仕え、禁中に出入りし、恩寵と礼遇は比類するものがないほどであった。すでに優れた才能があり、文章はともに華麗で美しかったので、世に徐庾体と称された。当時の後進は競ってこれを模範とした。一文を作るごとに、都ではこれを伝誦しない者はなかった。累進して尚書度支郎中・通直正員郎となった。郢州別駕として出向した。まもなく通直散騎常侍を兼ね、東魏に聘使として赴いた。文章と辞令は、盛んに鄴下で称賛された。帰還して東宮学士となり、建康令を領した。

原文 信幼而俊邁,聰敏絕倫。博覽羣書,尤善春秋左氏傳。身長八尺,腰帶十圍,容止頹然,有過人者。起家湘東國常侍,轉安南府參軍。時肩吾為梁太子中庶子,掌管記。東海徐摛為左衞率。摛子陵及信,竝為抄撰學士。父子在東宮,出入禁闥,恩禮莫與比隆。既有盛才,文竝綺豔,故世號為徐、庾體焉。當時後進,競相模範。每有一文,京都莫不傳誦。累遷尚書度支郎中、通直正員郎。出為郢州別駕。尋兼通直散騎常侍,聘于東魏。文章辭令,盛為鄴下所稱。還為東宮學士,領建康令。

侯景の乱が起こると、梁の簡文帝は庾信に命じて宮中の文武千余人を率い、朱雀航に陣営を構えさせた。侯景が到着すると、庾信は兵を率いて先に退却した。臺城が陥落した後、庾信は江陵に奔った。梁の元帝が政務を代行すると、御史中丞に任じられた。即位すると、右衛将軍に転じ、武康県侯に封ぜられ、散騎常侍を加えられ、我が国(西魏)に聘使として来た。大軍の南征に遭遇し、ついに長安に留まった。江陵が平定されると、使持節・撫軍将軍・右金紫光禄大夫・大都督に任ぜられ、まもなく車騎大将軍・儀同三司に進んだ。

原文 侯景作亂,梁簡文帝命信率宮中文武千餘人,營於朱雀航。及景至,信以眾先退。臺城陷後,信奔于江陵。梁元帝承制,除御史中丞。及即位,轉右衞將軍,封武康縣侯,加散騎常侍,來聘于我。屬大軍南討,遂留長安。江陵平,拜使持節、撫軍將軍、右金紫光祿大夫、大都督,尋進車騎大將軍、儀同三司。

孝閔帝が即位すると、臨清県子に封ぜられ、邑五百戸を賜り、司水下大夫に任ぜられた。弘農郡守として出向し、驃騎大將軍・開府儀同三司・司憲中大夫に遷り、爵位は義城県侯に進んだ。まもなく洛州刺史を拝命した。信は旧来の典章に通暁し、政務は簡素で静粛であり、官吏と民衆は安んじた。時に陳氏が朝廷と友好を通じ、南北に流寓していた人士は、それぞれ旧国に帰ることを許された。陳氏は王襃と信ら十数名を請うた。高祖は王克・殷不害らだけを帰し、信と王襃は留めて遣わさなかった。まもなく司宗中大夫に召し出された。

原文 孝閔帝踐阼,封臨清縣子,邑五百戶,除司水下大夫。出為弘農郡守,遷驃騎大將軍、開府儀同三司、司憲中大夫,進爵義城縣侯。俄拜洛州刺史。信多識舊章,為政簡靜,吏民安之。時陳氏與朝廷通好,南北流寓之士,各許還其舊國。陳氏乃請王襃及信等十數人。高祖唯放王克、殷不害等,信及襃䘓留而不遣。尋徵為司宗中大夫。

世宗と高祖はともに文学を好み、信は特に恩礼を蒙った。趙王・滕王ら諸王に対しても、交際は懇ろで、まるで布衣の交わりのようであった。諸公の碑文や墓誌は、多く彼に依頼した。ただ王襃のみがほぼ信と肩を並べ、その他の文人は及ぶ者がなかった。

原文 世宗、高祖竝雅好文學,信特蒙恩禮。至於趙、滕諸王,周旋款至,有若布衣之交。羣公碑誌,多相請託。唯王襃頗與信相埒,自餘文人,莫有逮者。

信は位も声望も高く通顕であったが、常に故郷を思う心があった。そこで『哀江南賦』を作り、その思いを表した。その文は次のとおりである。

原文 信雖位望通顯,常有鄉關之思。乃作哀江南賦以致其意云。其辭曰:

大象の初め、病により職を去り、死去した。隋の文帝は深く悼み、本官を追贈し、荊州・淮州の二州刺史を加えた。子の立が後を嗣いだ。

原文 大象初,以疾去職,卒。隋文帝深悼之,贈本官,加荊淮二州刺史。子立嗣。

評論

原文 評論

史臣が言う。両儀が位置を定め、日月が輝きを揚げれば、天文は明らかとなる。八卦が陳べられ、書契が作られれば、人文は詳らかとなる。もしも墳典・八索に記されたものは、語るを得ず、典謨以来の遺風は述べることができる。それゆえ曲阜(周公)は多才多藝で、二代(夏・殷)を鑑としてその根本を正し、闕里(孔子)は性と天道を修め、六経によってその末端を維つないだ。故に天地を範囲し、人倫を綱紀することができた。神を窮め化を知り、千古においてその首と称され、国を経め俗を緯おさめ、百代に用いを蔵した。至極であるかな。これはまさに聖人の述作である。

原文 史臣曰:兩儀定位,日月揚暉,天文彰矣;八卦以陳,書契有作,人文詳矣。若乃墳索所紀,莫得而云,典謩以降,遺風可述。是以曲阜多才多藝,鑒二代以正其本;闕里性與天道,修六經以維其末。故能範圍天地,綱紀人倫。窮神知化,稱首於千古;經邦緯俗,藏用於百代。至矣哉!斯固聖人之述作也。

周の両代に至って道が喪われ、七十子の義が乖れると、淹中・稷下において、八儒・三墨の弁博の論が蜂起し、漆園・黍谷において、名・法・兵・農の宏放の詞が霧のごとく集まった。雅誥の奥義には及ばないとしても、その長所を考察すれば、賢達の源流と言えよう。

原文 逮乎兩周道喪,七十義乖。淹中、稷下,八儒三墨,辯博之論蜂起;漆園、黍谷,名法兵農,宏放之詞霧集。雖雅誥奧義,或未盡善,考其所長,蓋賢達之源流也。

その後、逐臣の屈平は『離騷』を作って志を叙し、宏才が艶やかに発揮され、惻隠の美がある。宋玉は南国の詞人で、逸駿の轡を追ってその跡に次ぐ。大儒の荀況は礼と智を賦にしてその情を陳べ、文采を内包して鬱然と起こり、諷論の意義がある。賈生は洛陽らくようの才子で、清景を継いでその輝きを奮い起こした。ともに性霊を陶冶し、風雅を組織し、詞賦の作においては、まさにその冠たるものである。

原文 其後逐臣屈平,作離騷以敘志,宏才豔發,有惻隱之美。宋玉,南國詞人,追逸轡而亞其迹。大儒荀況,賦禮智以陳其情,含章鬱起,有諷論之義。賈生,洛陽才子,繼清景而奮其暉。竝陶鑄性靈,組織風雅,詞賦之作,實為其冠。

これより著述はますます繁くなり、体制は一様ではなかった。孝武帝の後、文雅を尚び、葩を揚げ藻を振るう者は林のごとく、司馬遷・司馬相如・王襃・揚雄がその傑であった。東京(後漢)の朝には、この道はますます盛んとなり、徴・商を咀含する者は市を成し、班固・傅毅・張衡・蔡邕がその雄であった。当塗(魏)が天命を受けると、特に蟲篆(篆書)を好み、金行(晋)が勃興しても、前代の功業を廃さなかった。曹植・王粲・陳琳・阮瑀は宏衍の思を負い、鄧林に棟幹を挺ぬきんでて、潘岳・陸機・張協・左思は侈麗の才を擅ほしいままにし、鳳穴に羽儀を飾った。これらはともに当世を高視し、孔門に連衡した。時運が推移し、質と文がたびたび変わっても、譬えば六代の楽が並び湊あつまっても、俗を易える用に誤りなく、九流が競い逐っても、一致の理は同じく帰する。歴代の前英を選ぶに、ここにおいて最も盛んである。

原文 自是著述滋繁,體制匪一。孝武之後,雅尚斯文,揚葩振藻者如林,而二馬、王、楊為之傑;東京之朝,茲道愈扇,咀徵含商者成市,而班、傅、張、蔡為之雄。當塗受命,尤好蟲篆;金行勃興,無替前烈。曹、王、陳、阮,負宏衍之思,挺棟幹於鄧林;潘、陸、張、左,擅侈麗之才,飾羽儀於鳳穴。斯竝高視當世,連衡孔門。雖時運推移,質文屢變,譬猶六代竝凑,易俗之用無爽;九流競逐,一致之理同歸。歷選前英,於茲為盛。

やがて中州が動乱し、戎狄が交侵し、僭偽の政権が相継ぎ、士民は塗炭の苦しみにあうと、文章は廃れた。戦争の間に潜思し、鋒鏑の下に翰を揮う者も、しばしば間々に出た。魯徽・杜広・徐光・尹弼の類は二趙に名を知られ、宋諺・封奕・朱彤・梁讜の類は燕・秦に重んぜられた。しかし皆、倉卒に迫られ、戦争に牽かれていた。符檄を競って奏上するのは、燦然として見るべきものがあったが、物に体し情に縁る作は、世に寂寥としていた。その才に優劣があるのではなく、時運がそうさせたのである。朔漠の地、蕞爾たる夷俗においても、胡義周の国都を頌するは、宏麗と称するに足り、区区たる河右において、学者が中原に並び、劉延明の酒泉を銘するは、清典と言うべきである。子曰く「十室の邑にも、必ず忠信あり」、豈にただ言うのみならんや。

原文 既而中州版蕩,戎狄交侵,僭偽相屬,士民塗炭,故文章黜焉。其潛思於戰爭之間,揮翰於鋒鏑之下,亦往往而間出矣。若乃魯徽、杜廣、徐光、尹弼之疇,知名於二趙;宋諺、封奕、朱彤、梁讜之屬,見重於燕、秦。然皆迫於倉卒,牽於戰爭。競奏符檄,則粲然可觀;體物緣情,則寂寥於世。非其才有優劣,時運然也。至朔漠之地,蕞爾夷俗,胡義周之頌國都,足稱宏麗;區區河右,而學者埒於中原,劉延明之銘酒泉,可謂清典。子曰「十室之邑,必有忠信」,豈徒言哉。

魏に至って、沙朔に鼎を定め、南は河・淮を包み、西は関・隴を呑むと、当時の士人、許謙・崔宏・崔浩・高允・高閭・游雅らは、先後の間に、名声と実質ともに茂り、詞義は典正で、永嘉の遺烈があった。太和の時代になると、再び文雅を崇尚したが、方驂並路でありながら、往轍に乖くことが多く、海に渉り山に登っても、良宝に値することは稀であった。その後、袁翻は澹雅と称される才があり、常景は沈鬱たる思を標榜し、彬彬として、まさに一時の俊秀であった。

原文 洎乎有魏,定鼎沙朔,南包河、淮,西吞關、隴。當時之士,有許謙、崔宏、崔浩、高允、高閭、游雅等,先後之間,聲實俱茂,詞義典正,有永嘉之遺烈焉。及太和之辰,雖復崇尚文雅,方驂竝路,多乖往轍,涉海登山,罕值良寶。其後袁翻才稱澹雅,常景思摽沉鬱,彬彬焉,蓋一時之俊秀也。

周氏が創業した時、運は陵夷に属していた。既に喪われた遺文を纂輯し、奇士を聘へいすることを及ばざるがごとくに行った。それゆえ蘇亮・蘇綽・盧柔・唐瑾・元偉・李昶の徒は、皆、鱗翼を奮い、自ら青紫に至った。しかし蘇綽は建言して質朴を存することを務め、ついに魏・晋を糠粃とし、虞・夏を憲章とした。詞を属するに師古の美はあったが、枉まがりを矯ただすことが時に適う用ではなかったので、常に行われることはできなかった。

原文 周氏創業,運屬陵夷。纂遺文於既喪,聘奇士如弗及。是以蘇亮、蘇綽、盧柔、唐瑾、元偉、李昶之徒,咸奮鱗翼,自致青紫。然綽建言務存質朴,遂糠粃魏、晉,憲章虞、夏。雖屬詞有師古之美,矯枉非適時之用,故莫能常行焉。

やがて革車は電のごとく邁進し、渚宮は雲のごとく撤去された。その荊・衡の杞梓、東南の竹箭、廟堂に器用を備える者は衆多であった。ただ王襃・庾信のみが奇才秀出し、一代を牢籠した。この時、世宗の雅詞は雲のごとく委おおく、滕王・趙王の二王は雕章を間々に発した。皆、宮を築き館を虚うつろにして、布衣の交わりのごとくあった。これにより朝廷の人も、閭閻の士も、遺韻に味を忘れず、末光に精を眩くらますものはなかった。あたかも丘陵が嵩・岱を仰ぎ、川流が溟・渤を宗むねとするがごとくである。

原文 既而革車電邁,渚宮雲撤。爾其荊、衡杞梓,東南竹箭,備器用於廟堂者眾矣。唯王襃、庾信奇才秀出,牢籠於一代。是時,世宗雅詞雲委,滕、趙二王雕章間發。咸築宮虛館,有如布衣之交。由是朝廷之人,閭閻之士,莫不忘味於遺韻,眩精於末光。猶丘陵之仰嵩、岱,川流之宗溟、渤也。

されど子山(庾信)の文は、宋末に発源し、梁の末に盛行した。その体は淫放を本とし、その詞は軽険を宗とする。故に目を誇って紅紫よりも侈おごり、心を蕩とろかして鄭・衞えいの音よりも逾こえることができた。昔、揚子雲が言う、「詩人の賦は、麗にして則のりあり、詞人の賦は、麗にして淫なり」。もし庾氏をこれに比するならば、これまた詞賦の罪人である。

原文 然則子山之文,發源於宋末,盛行於梁季。其體以淫放為本,其詞以輕險為宗。故能誇目侈於紅紫,蕩心逾於鄭、衞。昔楊子雲有言:「詩人之賦,麗以則;詞人之賦,麗以淫。」若以庾氏方之,斯又詞賦之罪人也。

そもそも文章の作は、情性に本づく。思を覃ふかくすれば変化方無く、言に形すれば条流遂に広し。詩賦と奏議とは軌を異にし、銘誄と書論とは途を殊にするが、その指要を撮り、その大抵を挙ぐるには、気を主とし、文を以て意を伝えるに若くはない。その殿最を考へ、その区域を定め、六経百氏の英華を摭とり、屈・宋・卿・雲の秘奥を探る。その調は遠きを尚び、その旨は深きに在り、その理は当たるを貴び、その辞は巧みならんことを欲す。然る後に金璧を瑩みがき、芝蘭を播まき、文質その宜しきに因り、繁約その変に適い、軽重を権衡し、古今を斟酌し、和して能く壮ならしめ、麗にして能く典ならしめ、煥乎として五色の章を成すが若く、紛乎として八音の繁会するに猶たとえん。それ然らば、則ち魏文(曹丕)の所謂る通才は以て体を備うるに足り、士衡(陸機)の所謂る難能は以て意に逮およぶに足る。

原文 原夫文章之作,本乎情性。覃思則變化無方,形言則條流遂廣。雖詩賦與奏議異軫,銘誄與書論殊塗,而撮其指要,舉其大抵,莫若以氣為主,以文傳意。考其殿最,定其區域,摭六經百氏之英華,探屈、宋、卿、雲之祕奧。其調也尚遠,其旨也在深,其理也貴當,其辭也欲巧。然後瑩金璧,播芝蘭,文質因其宜,繁約適其變,權衡輕重,斟酌古今,和而能壯,麗而能典,煥乎若五色之成章,紛乎猶八音之繁會。夫然,則魏文所謂通才足以備體矣,士衡所謂難能足以逮意矣。