周書 卷四十 列傳第三十二 尉遲運 王軌 宇文神舉 宇文孝伯 顏之儀

周書

卷四十 列傳第三十二 尉遲運 王軌 宇文神舉 宇文孝伯 顏之儀

尉遅運

尉遅運は、大 司空 しくう ・呉国公尉遅綱の子である。若くして才幹に優れ、志は功を立てることにあった。西魏の大統十六年 (550年) 、父の勲功により安喜県侯に封ぜられ、邑一千戸を賜った。孝閔帝が即位すると、使持節・車騎大将軍・儀同三司を授けられた。まもなく帝が廃されると、朝廷の議論は世宗 (宇文毓) を尊立しようとし、尉遅運をして岐州に赴かせ奉迎させた。策定に参与した功により、周城県公に爵位を進め、邑五百戸を加増された。北周の保定元年 (561年) 、驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。三年 (563年) 、楊忠に従って北斉の へい 州を攻め、功により別に第二子の尉遅端を保城県侯に封じ、邑一千戸を賜った。四年 (564年) 、隴州刺史として出向した。その地は汧水・渭水に沿い、民俗は治め難かった。尉遅運は誠意をもって撫育し、当時の称賛を大いに得た。天和五年 (570年) 、中央に入って小右武伯となった。六年 (571年) 、左武伯中大夫に遷った。まもなく軍司馬を加えられ、武伯の職はもとのままとした。尉遅運は文武の職を兼ね、大いに信任された。北斉の将軍斛律明月が汾北に侵寇すると、尉遅運は斉公宇文憲に従ってこれを防ぎ、その伏竜城を攻め落とした。広業郡公に爵位を進め、邑八百戸を加増された。

建徳元年 (572年) 、右侍伯を授かり、右司衛に転じた。当時、宣帝 (宇文贇) は東宮にあって、諂佞の者に親しみ、しばしば罪過や失態があった。高祖 (武帝宇文邕) は朝臣のうちから忠誠で剛直な者を選び、これを補佐させようとした。そこで尉遅運を右宮正とした。三年 (574年) 、帝が雲陽宮に行幸すると、また尉遅運に本官のまま司武を兼ねさせ、長孫覧とともに皇太子を補佐して居守させた。まもなく衛刺王宇文直が乱を起こし、その徒党を率いて肅章門を襲撃した。長孫覧は恐れて行在所に逃げた。尉遅運はたまたま門の中におり、宇文直の兵が急に至ったため、左右に命ずる暇もなく、自ら手ずから門を閉じた。宇文直の徒党は尉遅運と門を争い、その手指を斬り傷つけたが、辛うじて閉門することができた。宇文直は門内に入ることができず、門に火を放って焼いた。尉遅運は火が消えれば宇文直の徒党が進入してくることを恐れ、宮中の材木や寝台などを取って火勢を強め、さらに膏油を注いだので、火勢はますます盛んになった。しばらくして、宇文直は進入できず、ついに退いた。尉遅運は留守の兵を率い、その退くに乗じてこれを撃ち、宇文直は大敗して逃走した。この日、尉遅運がいなければ、宮中はすでに守られなかったであろう。高祖はこれを賞賛し、大将軍を授け、宇文直の田宅・妓楽・金帛・車馬および什物などを賜ったが、その数は数えきれなかった。

四年 (575年) 、同州・蒲津・潼関など六防諸軍事・同州刺史として出向した。高祖が北斉を討伐しようとすると、尉遅運を召して参議させた。東夏 (北斉) が平定されるのに、大いに力を尽くした。五年 (576年) 、柱国に拝され、盧国公に爵位を進め、邑五千戸を賜った。宣政元年 (578年) 、司武上大夫に転じ、宿衛軍事を総管した。高祖が雲陽宮で崩御すると、喪を発せず秘し、尉遅運が侍衛兵を総率して京師に還った。

宣帝が即位すると、上柱国を授けられた。尉遅運が宮正であった時、しばしば帝に諫言を進めた。帝はこれを受け入れず、かえって疎んじ忌むようになった。当時、尉遅運はまた王軌・宇文孝伯らとともに高祖に親しく遇せられており、王軌はたびたび帝の過失を高祖に言上していた。帝は尉遅運もこの事に関与していると思い、ますます恨みを抱いた。王軌が誅殺されると、尉遅運は禍が及ぶことを恐れ、宇文孝伯に策を問うた。その言葉は孝伯伝にある。まもなく秦州総管・秦渭等六州諸軍事・秦州刺史として出向することができた。しかし尉遅運は州に至っても、なお禍を免れぬことを恐れた。大象元年 (579年) 二月、ついに憂いのうちに州で薨じた。時に四十一歳であった。大後丞・秦渭河鄯成洮文等七州諸軍事・秦州刺史を追贈された。諡は中といった。子の尉遅靖が嗣いだ。大象の末、儀同大将軍であった。

王軌

王軌は、太原郡祁県の人である。小名は沙門といい、後漢の 司徒 しと 王允の後裔である。代々州郡の名族であった。累代にわたり北魏に仕え、烏丸氏の姓を賜った。父の王光は、若くして雄武で、将帥の才略があった。征討に従うごとに、たびたび戦功を立てた。太祖 (宇文泰) はその勇決を知り、厚く遇した。位は驃騎大将軍・開府儀同三司・平原県公に至った。

王軌の性質は質直で、慷慨として遠大な度量があった。事に臨んでは強直で、人は干渉することができなかった。初め輔城公 (宇文邕) に仕えた。高祖が即位すると、前侍下士を授けられた。まもなく左侍上士に転じ、大いに識別と顧遇を受けた。累遷して内史上士・内史下大夫となり、儀同三司を加授された。この時より親遇はますます重く、ついに腹心の任に処せられた。当時、晋公宇文護が専権を握っており、高祖は密かにこれを除こうと図った。王軌が沈毅で識度があることを以て、大事を託すに堪えると考え、遂に可否を問うた。王軌はこれを賛成した。

建徳初年 (572年) 、内史中大夫に転じ、開府儀同三司を加授され、さらに上開府儀同大将軍に拝され、上黄県公に封ぜられ、邑一千戸を賜った。軍国の政務は、すべて参与した。五年 (576年) 、高祖が総戎して東伐し、六軍が晋州を包囲した。刺史の崔景嵩が城の北面を守り、夜中に密かに降伏の意を伝えてきた。詔により王軌に衆を率いてこれに応ずることを命じた。夜明け前、兵士は皆城に登り鬨の声を上げた。北斉人は驚き恐れ、ただちに退走した。こうして晋州を攻克し、その城主である特進・海昌王尉相貴を生け捕りにし、甲士八千人を捕虜とした。ここにおいて平陽・鄴都平定に従った。功により上大将軍に位を進め、郯国公に爵位を進め、邑三千戸を賜った。

陳の将軍呉明徹が呂梁に侵入して寇すると、徐州総管梁士彦はたびたび戦って利あらず、ついに州城に退いて守り、再び出撃しようとしなかった。呉明徹は清水を堰き止めてこれを灌漑し、船艦を城下に並べて攻め取ろうと図った。詔により王軌を行軍総管とし、諸軍を率いて救援に赴かせた。王軌は密かに清水が淮水に入る河口に、多くの大木を立て、鉄鎖で車輪を貫き、水流を横断して遮り、その船の通路を断った。ちょうど密かにその堰を決壊させて敵を斃そうとしていたところ、呉明徹はこれを知り、恐れて堰を破り急ぎ退き、決壊した水勢に乗じて淮水に入ろうと望んだ。清口に至る頃には、川の流れはすでに広く、水勢も衰えており、船艦はすべて車輪に妨げられ、再び通過することができなかった。王軌はこれにより兵を率いて包囲し追い詰めた。ただ騎将の蕭摩訶が二千騎を率いて先に逃走し、免れることができた。呉明徹および将士三万余人、ならびに器械輜重は、すべて捕虜・鹵獲された。陳の精鋭の兵卒は、ここにおいて殲滅されたのである。高祖はこれを賞賛し、柱国に位を進め、そのまま徐州総管・七州十五鎮諸軍事に拝した。王軌の性質は厳重で、謀略に富み、さらに呂梁の勝利を収めたため、威は敵境に振るった。陳人は大いにこれを畏れた。

宣帝が吐谷渾を征討した際、高祖 (武帝) は王軌と宇文孝伯をともに従軍させ、軍中の進退取捨はすべて王軌らに委ね、帝はただその成り行きに任せたのみであった。当時、宮尹の鄭訳・王端らはともに帝の寵愛を得ていた。帝は軍中において、しばしば徳を失う行いがあり、鄭訳らも皆それに関与していた。軍が帰還すると、王軌らはこのことを高祖に申し上げた。高祖は大いに怒り、帝を鞭打ち、鄭訳らの官職名を削除し、さらに彼らを杖打ちに処した。帝はこのことで王軌を深く恨むようになった。王軌はまたかつて小内史の賀若弼とこの事について話し、かつ皇太子 (後の宣帝) は必ずや重任を担えないであろうと言った。賀若弼は大いにその通りだと思い、王軌にこれを上奏するよう勧めた。王軌は後に侍坐の機会を得て、高祖に言った。「皇太子には仁孝の聞こえがなく、また涼徳 (薄徳) が多い。陛下の家事 (後継ぎの問題) をよく処理できないのではないかと恐れます。愚臣は見識が短く暗く、是非を論ずるに足りません。陛下は常に賀若弼が文武の奇才を持ち、識見度量が広大遠大であるとお考えですが、賀若弼は近ごろ臣に対面するたびに、深くこの事を憂慮しております。」高祖は賀若弼を召して問いただした。賀若弼は偽って答えて言った。「皇太子は春宮 (東宮) で徳を養っておられ、過ちを聞いたことはありません。陛下はどこからこのようなお言葉をお聞きになったのでしょうか。」退出した後、王軌は賀若弼を責めて言った。「平生の言論では、何でも話していたではないか。今日の応対では、どうしてそのように前言を翻すのか。」賀若弼は言った。「これは貴公の過ちである。皇太子は国の儲副 (後継ぎ) である。どうして軽々しく言えるものか。事に蹉跌があれば、たちまち滅門の禍に至る。本来、貴公が密かに善悪を陳述するものと思っていたのに、どうして遂に公然と発言するに至ったのか。」王軌はしばらく黙っていたが、やがて言った。「私は一心に国家のために考え、私的な打算を全く持たなかった。先ほど衆人の前で言ったことは、確かに適切ではなかった。」後に王軌は内宴で寿を祝う機会に、また高祖の鬚を撫でて言った。「愛すべき立派な御老公ですが、ただ後嗣が弱いのが残念です。」高祖は深くその通りだと思った。しかし漢王 (宇文贊) が次男であり、また才能がなく、このほかの諸子は皆幼かったので、彼の意見を用いることはできなかった。

宣帝が即位すると、鄭訳らを追って再び近侍の職に復させた。王軌は自分が必ず禍に及ぶことを悟り、親しい者に言った。「私は昔、先朝 (武帝の朝廷) において、実に社稷の最も重要な計略を申し上げた。今日の事態は、断じて知ることができる。この州 (徐州) は淮南を控え、強敵に隣接している。身のための計らいをしようと思えば、反掌のごとく容易い。しかし忠義の節操は、損なってはならない。ましてや先帝の厚恩を蒙り、常に死をもって自らを尽くすことを考えていたのに、どうして嗣主 (宣帝) に罪を得たからといて、先朝に背いて徳に背くことができようか。ただここで死を待つのみである。義として他の計らいはしない。千年の後、私のこの心を知ってもらいたいと願う。」

大象元年、帝は内史の杜虔信に命じて徐州に赴き王軌を殺させた。御正中大夫の顏之儀が激しく諫めたが、帝は聞き入れず、遂に王軌を誅殺した。王軌は朝廷に立って忠恕を尽くし、かつ大功があり、無罪のまま突然殺戮されたので、天下の知る者も知らぬ者も、傷み惜しまない者はなかった。

宇文神挙

宇文神挙は、太祖 (宇文泰) の族子 (同族の子) である。高祖の しん 陵、曾祖の求男は、魏に仕え、位はいずれも顕達した。祖父の金殿は、魏の鎮遠将軍・兗州刺史・安吉県侯であった。

父の顯和は、幼くして爵位を襲い、性格は厳格で自尊心が強く、経史に広く通じ、膂力は人に絶し、数百斤の弓を引き、左右に馬を走らせながら射ることができた。魏の孝武帝が藩王であった時、顯和は早くから寵遇を受けた。時に多難に属し、孝武帝は嘗て顯和に計略を問うた。顯和は、門を閉ざし跡を晦まし、時機を見て動くべきであると詳しく陳述した。孝武帝は深くこれを採用した。即位すると、冠軍将軍・閤内 都督 ととく に抜擢し、城陽県公に封じ、邑五百戸を与えた。孝武帝は顯和が藩邸時代からの旧臣であるため、彼を非常に厚く遇した。当時、顯和の住む邸宅が狭く粗末であったので、殿省 (宮中の建物) を取り壊して、寝室として賜った。そのように重んじられたのである。

斉の神武帝 (高歓) が専政するに及んで、帝 (孝武帝) は常に不安を感じていた。顯和に言った。「天下が騒然としているが、どうしたらよいか。」對えて言った。「当今の計は、善きに従ってこれを選ぶに如くはありません。」因って詩を誦して云う、「彼美人兮、西方之人兮 (あの美しい人は、西方の人である) 。」帝は言った。「これこそ我が心である。」遂に関中に入る策を定めた。帝は顯和の母が老いており、家族の負担も多いので、あらかじめ計らいをするよう命じた。對えて言った。「今日の事態は、忠と孝を両立させることはできません。しかし臣が秘密を守らなければ身を失います。どうしてあらかじめ私的な計らいをすることができましょうか。」帝は悲しみの色を浮かべて顔色を変え、言った。「卿は即ち我が王陵である。」朱衣直閤・閤内大 都督 ととく に遷し、長広県公に改封し、邑一千五百戸を与えた。

帝に従って関中に入った。溱水に至った時、太祖 (宇文泰) はかねてより彼が弓射に優れていると聞いていたが、まだ見たことがなかった。間もなく水辺に一羽の小鳥がいたので、顯和が射てこれを命中させた。太祖は笑って言った。「卿の巧みさを知った。」その後、帳内大 都督 ととく に引き抜いた。間もなく持節・ えい 将軍・東夏州刺史として出向した。病気のため職を去ったが、官吏や民衆に深く慕われた。まもなく車騎大将軍・儀同三司に進位し、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。魏の恭帝元年、死去した。時に五十七歳。太祖は自ら臨んで哀悼し、側近たちも哀しみに動かされた。建徳二年、使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・延丹綏三州諸軍事・延州刺史を追贈された。

神挙は幼くして孤児となり、早熟の器量があった。族兄の安化公 (宇文深) は彼を特に器重し、異才と認めた。成長すると、神情は倜儻 (洒脱で才気煥発) として、志略は英邁で豊か、眉目は疏朗 (晴れやか) 、儀容相貌は魁偉であった。識者は彼を敬服し、遠大な将来を約束しない者はなかった。世宗 (明帝) の初年、中侍上士として起家した。世宗は翰林 (文芸) に留意し、神挙は風雅に詩文を好んだ。帝が遊幸するたびに、神挙は常に侍従することができた。保定元年、長広県公の爵位を襲い、邑二千三百戸を与えられた。まもなく帥 都督 ととく に任じられ、大 都督 ととく ・使持節・車騎大将軍・儀同三司に遷り、右大夫に拝された。四年、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、小宮伯を治めた。天和元年、右宮伯中大夫に遷り、清河郡公に爵位を進め、邑一千戸を増加された。高祖 (武帝) しん (宇文護) を誅殺しようとした時、神挙はその謀議に参与することができた。建徳元年、京兆尹に遷った。三年、熊州刺史として出向した。神挙の威名は平素から重く、斉人は非常に恐れた。五年、斉の陸渾など五城を攻め落とした。

高祖が東方を討伐した時、詔により神挙は従軍した。幷州が平定されると、即座に幷州刺史に任じられ、上開府儀同大将軍を加えられた。州はかつて斉氏の別都であり、要害の地を控えていた。平定されたばかりで、民俗は浮薄で偽りが多く、豪族の家は多く姦猾であった。神挙は精神を奮い立たせて政治に励み、威と恩を示したので、十日一ヶ月の間に、遠近の者が喜んで服した。まもなく上大将軍を加えられ、武徳郡公に改封され、邑二千戸を増加された。間もなく柱国大将軍に進み、東平郡公に改封され、邑は前の分と合わせて六千九百戸となった。管轄下の東寿陽県の土着の民が、集まって盗賊となり、その徒党五千人を率いて州城を襲撃しようとした。神挙は州兵をもって討伐平定した。

宣政元年、司武上大夫に転じた。高祖が自ら北伐の軍を起こすと、神挙に原国公の姬願らとともに兵を率いて五道からともに進軍するよう命じた。高祖が雲陽に至った時、病が重くなったので、軍を返した。幽州の盧昌期・祖英伯らが徒党を集めて范陽を占拠して反乱を起こしたので、詔により神挙が兵を率いてこれを捕らえた。斉の黄門侍郎の盧思道も反乱の中にいて、賊が平定された後捕らえられ、衣を解いて処刑されようとした。神挙は平素より彼の才名を敬服していたので、釈放して礼遇し、即座に露布 (勝利の報告文) を起草させた。そのように士を待遇し賢者を礼遇したのである。折しも稽胡が反乱を起こし、西河に侵入した。神挙はまた衆を率いて越王 (宇文盛) とともに討伐平定した。時に突厥が稽胡と連合し、騎兵を派遣して救援に向かわせた。神挙は奇兵をもってこれを撃ち、突厥は敗走し、稽胡はそこで帰服した。即座に へい 潞肆石等四州十二鎮諸軍事・幷州総管に任じられた。

初め、神挙は高祖に厚遇され、遂に心腹の任に処せられた。王軌・宇文孝伯らがしばしば皇太子の短所を言上すると、神挙もまた大いにこれに与した。宣帝が即位すると、荒淫無度であり、神挙は禍が及ぶことを恐れ、自ら安んじることができなかった。かつて范陽を平定した後、その威声は甚だ振るっていた。帝もまたその名望を忌み、かつての遺恨も兼ねて、遂に人を遣わして鴆酒を賜い、馬邑において薨じた。時に年四十八。

神挙は風儀に優れ、辞令に巧みで、経史に広く渉猟し、性来篇章を愛し、特に騎射に長じていた。軍陣に臨み寇賊に対するに、勇猛にして謀略あり。職に莅み官に当たっては、常に名声と実績を顕著にした。また施しを好み士を愛し、雄豪を以て自ら任じた。故に文武を兼ねる任を得て、その名声は中外に彰れた。百官、その風範を仰がざるはなく、先輩旧臣も今に至るまでこれを称えている。子の同が嗣いだ。位は儀同大將軍に至った。

神挙の弟の神慶は、若くして壮志あり、武藝は群を抜いていた。大象の末、位は柱國・汝南郡公に至った。

宇文孝伯

宇文孝伯、字は胡三、吏部安化公宇文深の子である。その生まれは高祖と同じ日であり、太祖は甚だこれを愛し、邸内で養育した。成長すると、また高祖と共に学んだ。武成元年、宗師上士に拝された。時に年十六。孝伯は性質、沈着で正直、諤諤として直言を好んだ。高祖が即位すると、左右に引き入れようとした。当時、政権は冢臣 (宇文護) にあり、専制することができなかったので、かつて孝伯と共に学び経を受けたことを口実にし、互いに啓発し合いたいと述べた。これにより しん 公宇文護は彼を猜疑せず、右侍上士として入内し、常に侍読を務めることができた。

天和元年、小宗師に遷り、右侍儀同を領した。父の喪に遭うと、詔により喪服中に爵を襲ぐことを命じられた。高祖はかつて穏やかに彼に言った。「公と我とは、漢の高祖と盧綰のようである。」乃ち十三環の金帯を賜った。この時より常に左右に侍し、臥内に出入りし、朝廷の機密事務に皆参与することができた。孝伯もまた心を尽くし力を尽くし、何ら避けるところがなかった。時政の得失から、外間の細事に至るまで、皆奏上して聞かせた。高祖は深く彼を信任し、当時、比肩する者はいなかった。高祖が しん 公宇文護を誅殺しようとした時、密かに えい 王宇文直とこれを謀り、ただ孝伯及び王軌・宇文神挙らが大いに参与することができた。宇文護誅殺後、開府儀同三司を授かり、司會中大夫・左右小宮伯・東宮左宮正を歴任した。

建德の後、皇太子が少し成長すると、既に美徳はなく、ただ小人に昵び近づいた。孝伯は高祖に申し上げた。「皇太子は四海の属望するところですが、その徳の名声は未だ聞こえません。臣、宮官の任に忝くし、まさにその責を負うべきです。且つ春秋 (年齢) なお少なく、志業未だ成らず。どうか正人を妙選し、その師友と為し、聖質を調護され、日就月将の望みを持たれますよう。もしそうでなければ、後悔しても及ばないでしょう。」帝は顔色を正して言った。「卿の家は代々鯁直を載せ、誠を尽くして事に仕える。卿のこの言葉を観るに、家風がある。」孝伯は拝礼して謝し言った。「言うことは難しくありません、受け入れることが難しいのです。深く願わくは陛下にこれを考えていただきたい。」帝は言った。「正人はどうしてまた君を過ぎることがあろうか。」ここにおいて尉遲運を右宮正とし、孝伯はなお左宮正とした。まもなく宗師中大夫に拝された。吐谷渾が侵入した時、詔して皇太子にこれを征伐させた。軍中の事柄は、多く孝伯が決断した。ほどなく京兆尹を授かり、入朝して左宮伯となり、転じて右宮伯となった。かつて侍坐の際、帝が彼に問うて言った。「我が子は近ごろ次第に進歩しているか。」答えて言った。「皇太子は近ごろ天威を畏れ、さらに罪過はありません。」王軌が内宴の席で帝の鬚を撫で、太子の不善を言った時、帝は酒宴を止め、孝伯を責めて言った。「公は常々私に、太子に過ちはないと言っていた。今、軌がこのようなことを言う。公は私を欺いたのだ。」孝伯は再拝して言った。「臣は聞く、父子の間柄は、人が言い難いところです。臣は陛下が情を断ち愛を忍ぶことができないと知りましたので、こうして口を閉ざしたのです。」帝はその意を知り、しばらく黙っていたが、乃ち言った。「朕は既に公に委ねた。公は努めよ。」

五年、大軍が東征した時、内史下大夫に拝され、留臺の事を掌ることを命じられた。軍が帰還すると、帝は言った。「居守の重責を、戦功に恥じないように務めた。」ここにおいて大將軍を加授され、広陵郡公に爵を進められ、邑三千戸を賜り、併せて金帛及び女妓などを賜った。六年、再び宗師となった。車駕が巡幸する度に、常に居守を命じられた。その後、高祖が北討し、雲陽宮に至り、遂に病臥した。駅伝で孝伯を行在所に召し寄せた。帝はその手を執って言った。「我は自ら量るに必ず治る見込みはない。以後の事を君に託す。」この夜、司 えい 上大夫を授け、宿 えい 兵馬の事を総管させた。また駅伝で馳せて京に入り鎮守し、非常に備えることを命じた。

宣帝が即位すると、小冢宰を授かった。帝は齊王宇文憲を忌み、除こうと考えた。孝伯に言った。「公が朕のために齊王を謀ることができるなら、その官位を以て公に授けよう。」孝伯は頭を叩きつけて言った。「先帝の遺詔には、骨肉を濫りに誅することを許さずとあります。齊王は陛下の叔父、親戚にして功高く、社稷の重臣、棟梁の寄るところです。陛下もし妄りに刑戮を加えられ、微臣がまた旨に順い曲げて従うならば、臣は不忠の臣となり、陛下は不孝の子となります。」帝は快く思わず、次第に彼を疎んじた。乃ち于智・王端・鄭訳らと密かにこの事を謀った。後に智に命じて憲の謀逆を告げさせ、孝伯を遣わして憲を召し入れ、遂にこれを誅殺した。

帝が西征した時、軍中に過ちある行いがあり、鄭訳もまた当時これに参与していた。軍が帰還すると、孝伯及び王軌はことごとくこれを白状し、高祖は怒り、帝を数十回鞭打ち、仍って訳の名を除いた。この時、訳はまた帝に親昵された。帝は杖を受けたことを後々まで恨み、乃ち訳に問うて言った。「我が脚上の杖痕は、誰が為したことか。」訳は答えて言った。「事は宇文孝伯及び王軌によるものです。」訳はまた王軌が鬚を撫でた事を説いた。帝は乃ち軌を誅殺した。尉遲運は恐れ、ひそかに孝伯に言った。「我らは必ず禍を免れないだろう。どうしたらよいか。」孝伯は答えて言った。「今、堂上には老母がおり、地下には武帝がおられる。臣として子として、どこへ行こうというのか。且つ、身を委ねて人に事えるのは、本来名義に殉じるためであり、諫めて入れられなければ、どうして死を逃れられよう。足下もし身のためを計るならば、宜しく暫く遠ざかるべきです。」ここにおいて各々その志を行った。運はまもなく出向して秦州總管となった。然るに帝の荒淫は日増しに甚だしく、誅戮は度を失い、朝章は弛緩紊乱し、再び綱紀がなくなった。孝伯はまた頻りに切諫したが、皆従われなかった。これにより益々疎んじ斥けられた。後に稽胡が反乱し、孝伯を行軍總管とし、越王宇文盛に従って討ち平らげた。軍が帰還すると、帝は彼を殺そうとし、乃ち齊王の事を口実にし、譏って言った。「公は齊王が謀反することを知っていたのに、どうして言わなかったのか。」孝伯は答えて言った。「臣は齊王が社稷に忠であることを知っており、群小が醸し出した罪を、彼に加えようとしているのを知りました。臣は言っても必ず用いられないと知りましたので、言わなかったのです。且つ先帝は微臣に付託され、ただ陛下を輔導することを命じられました。今、諫めて従われず、まことに顧託に背いています。これを以て罪とされるのは、甘んじて受けるところです。」帝は大いに慚じ、頭を垂れて語らなかった。乃ち命じて引き出させ、家において死を賜った。時に年三十六。

隋文帝が帝位に即くと、孝伯及び王軌が忠でありながら罪を得たことを以て、併せて収葬を命じ、その官爵を復した。またかつて高熲に言った。「宇文孝伯はまことに周の良臣である。もしこの人が朝廷にいたならば、我々に手の下しようがなかったであろう。」子の歆が嗣いだ。

顏之儀

顏之儀は字を子升といい、琅邪郡臨沂県の人であり、 しん の侍中顏含の九世の孫である。祖父の見遠は、齊の御史治書であった。朝廷に立ちて顔色を正し、官職にふさわしいと称された。梁の武帝が政権を執ると、病を理由に辞職した。ほどなく齊の和帝が急に崩御すると、見遠は慟哭して絶命した。梁武帝はこれを深く恨み、朝臣に言った。「朕は天に応じ人に従ったまでで、天下の人事に関与したわけではないのに、顏見遠がかくまでに至ったとは。」当時、その忠烈を賞賛し、皆が称歎した。父の協は、見遠が義に殉じて時勢に逆らったため、ついに仕官を進めなかった。梁元帝が湘東王であったとき、協を召し出してその府の記室参軍とした。協はやむを得ず、命に応じた。梁元帝は後に『懐旧志』と詩を著し、ともにその美点を称賛した。

之儀は幼少より聡明で、三歳にして『孝経』を読むことができた。成長すると、広く群書に渉猟し、詞賦を好んで作った。かつて『神州頌』を献上したところ、文辞が典雅で豊かであった。梁元帝は手勅で答えて言った。「枚乗の二代はともに梁に遊び、応貞の両世はともに文学と称された。朕が才子を求める思いは、深く慰められた。」

江陵が平定されると、之儀は例に従って長安に移った。世宗 (周の明帝) は彼を麟趾学士とし、やがて司書上士に昇進させた。高祖 (周の武帝) が初めて皇太子を立てるとき、師傅を厳選し、之儀を侍読とした。太子が後に吐谷渾を征伐した際、軍中で過ちを行ったが、鄭訳らはともにこれを匡弼できなかったとして罪に問われた。ただ之儀のみは、たびたび諫めたことで賞された。すぐに小宮尹に任じられ、平陽県男に封ぜられ、邑二百戸を与えられた。宣帝が即位すると、上儀同大将軍・御正中大夫に昇進し、爵位は公に進み、邑一千戸を加増された。帝の後に刑政が道理に外れ、昏乱と放縦が日増しに甚だしくなると、之儀は顔色を犯してしばしば諫めた。採用されないながらも、ついにやめることはなかった。帝に深く忌み嫌われた。しかし旧恩により、常に寛大に扱われた。帝が王軌を殺害しようとしたとき、之儀は強く諫めた。帝は怒り、彼をも法に処そうとしたが、後にその誠実で私心のないことを考慮して、許した。

宣帝が崩御すると、劉昉・鄭訳らが遺詔を偽造し、隋の文帝 (楊堅) を丞相として幼い皇帝を補佐させることにした。之儀はそれが帝の真意でないことを知り、拒否して従わなかった。昉らが詔書の草案に署名捺印し、之儀に連署を迫った。之儀は声を はげ して昉らに言った。「主上が昇遐され、嗣子は幼少である。阿衡 (補佐) の任は、宗室の英傑にあるべきである。今、賢明な皇族・外戚のうちでは、趙王 (宇文招) が最も年長であり、親疎と徳行からして、重責を担うにふさわしい。公らは朝恩を多く受けているのだから、忠を尽くして国に報いることを考えるべきである。どうして一朝にして神器を他人に渡そうとするのか。之儀は死ぬまでであり、先帝を欺くことはできない。」ここにおいて昉らは屈服させられないと悟り、之儀に代わって署名して詔書を発行した。隋文帝が後に皇帝の璽を要求すると、之儀はまた顔色を正して言った。「これは天子の物であり、当然の管理者がいる。宰相がどうしてこれを求めるのか。」ここにおいて隋文帝は大いに怒り、引き出して斬ろうと命じたが、彼が民衆の声望を得ているため、やめた。西疆郡守として出された。

隋の文帝が帝位に即くと、詔を下して都に召還し、爵位を新野郡公に進めた。開皇五年、集州刺史に任じられた。州にあっては清静な政治を行い、漢人・異民族ともに喜んだ。翌年、任期を終えて帰還すると、悠々自適として仕官しなかった。十年正月、之儀は例に従って朝廷に参内した。隋文帝は彼を見て見覚えがあり、御座の前に引き寄せるよう命じ、彼に言った。「危難を見て命を捧げ、大節に臨んで志を奪われないとは、古人も難しいとしたところである。卿にどうしてこれ以上を加えられようか。」そこで銭十万・米一百石を賜った。十一年冬、死去した。享年六十九。文集十巻が世に行われた。

当時、京兆郡丞の樂運もまた直言をもってしばしば帝に諫めた。

樂運

運は字を承業といい、南陽郡淯陽県の人であり、 しん 尚書令 しょうしょれい 樂廣の八世の孫である。祖父の文素は、齊の南郡太守であった。父の均は、梁の義陽郡太守であった。

運は若くして学問を好み、経書史書に渉猟したが、章句の学に拘らなかった。十五歳の時に江陵が滅亡し、運は例に従って長安に移った。その親族らの多くは奴婢に没収されたが、運は長年にわたり人に雇われて働き、皆を贖い出して自由にした。また母と寡婦となった兄嫁に仕えること甚だ謹直であった。これにより孝義をもって知られた。梁の故都官郎であった琅邪の王澄はこれを称美し、その行いを順に記して『孝義伝』を作った。性質は方正で率直であり、かつて人に媚びを求めたことはなかった。

天和の初年、夏州総管府倉曹参軍として初任官し、柱国府記室参軍に転じた。ほどなく臨淄公唐瑾に推薦されて露門学士となった。前後して高祖 (武帝) の顔色を犯してたびたび諫言し、多くは採用された。建徳二年、万年県丞に任じられた。豪族・権勢家を抑え挫き、強直と称された。高祖はこれを賞賛し、特に通籍 (宮門への出入許可) を許し、時宜に不便な事があれば、大小を問わず上奏して聞かせるよう命じた。高祖がかつて同州に行幸したとき、運を行在所に召し出した。到着すると、高祖は運に言った。「卿は近いうちに太子に会ったか。」運は言った。「臣は近いうちに別れを告げました。」高祖は言った。「卿は太子をどのような人と言うか。」運は言った。「中人 (普通の人) です。」この時、齊王宇文憲以下が、みな帝の側にいた。高祖は憲らを顧みて言った。「百官は朕におもねり、皆、太子は聡明で知恵深いと言うが、ただ運だけが中人と言う。まさに運の忠直が証明された。」そこで運に中人の様子を問うた。運は答えて言った。「班固は齊の桓公を中人とし、管仲がこれを補佐すれば覇者となり、豎貂がこれを補佐すれば乱れると言いました。善を行うこともでき、悪を行うこともできる者であるということです。」高祖は言った。「朕は分かった。」そこで宮官を厳選して、太子を匡弼させることにした。そして運を超擢して京兆郡丞に任じた。太子はこれを聞き、心中甚だ快く思わなかった。

高祖が崩御し、宣帝が嗣位すると、葬儀が終わると、詔を下して天下に公除 (喪服を脱ぐ) させた。帝と六宮は、すぐに吉服に戻ることを議した。運は上疏して言った。「三年の喪は、天子より庶人に至るまでである。先王が礼を制定した以上、どうしてこれを欺くことができようか。礼によれば、天子は七月後に葬り、天下の者が皆到着するのを待つ。今、葬期はすでに短縮され、事が終わるとすぐに喪服を脱ぐ。国内においても、駆けつけ終わっていない者がいる。隣国から遠く聞きつけ、使者がまだ到着していない。もし喪服のまま弔問を受けるならば、吉服に戻った後に再び凶服に戻すことはできない。もし黒い冠 (吉服) で使者に対面するならば、これがどの礼に基づくのか分からない。進退ともに拠るところがなく、愚臣はひそかに不安に思う。」上疏文が奏上されたが、帝は採用しなかった。

この後、徳政は行われず、たびたび赦宥が行われた。運はまた上疏して言った。「臣が謹んで案ずるに、周官に言う。『国君が市に過つときは、刑人を赦す。』これは、市が利益が交わる場所であり、君子は理由なく遊覧しないという意味である。もし遊覧するならば、恵みを施して民を喜ばせるのである。尚書に言う。『眚災肆赦 (過失や災害による罪は赦す) 。』これは、過失や誤りによる害であり、罪は大きくとも、緩やかに赦すべきであるという意味である。呂刑に言う。『五刑に疑いあれば、赦しがある。』これは、刑罰に疑いあれば罰金に従い、罰金に疑いあれば免除に従うという意味である。論語に言う。『小過を赦し、賢才を挙ぐ。』謹んで経典を尋ねるに、罪の軽重を問わず、天下を覆う大赦の文言はない。この末世に至り、古の始めに師法せず、治世に益なく、則るべきではない。故に管仲は言った。『赦しがあるのは、奔馬が手綱を捨てるようなもの。赦しがないのは、腫れ物に砥石を当てるようなもの。』また言った。『恵みは民の仇敵。法は民の父母。』呉漢の遺言でも、なお『ただ赦しなきことを願う』と言っている。王符が論を著しても、また『赦しは明世のなすべきことではない』と言っている。どうしてたびたび非常の恵みを施して、奸宄の悪をほしいままにさせることができようか。」帝もまた採用せず、昏暴はますます甚だしくなった。

運はついに棺を車に載せて朝堂に赴き、帝の八つの過失を陳述した。

帝は大いに怒り、彼を殺そうとした。内史元巖が帝を欺いて言うには、「楽運は上書すれば必ず死ぬことを知りながら、身命を顧みないのは、後世の名を取らんとするためでございます。陛下がもし彼を殺せば、かえってその名を成すことになります」と。帝はこれを然りとし、それによって免れることができた。翌日、帝はやや悟りを感じた。楽運を召して言うには、「朕は昨夜、卿の上奏したことを考えたが、まことに忠臣である。先帝は明聖であったが、卿はたびたび規諫した。朕はすでに昏暗であるのに、卿はまたこのようにできる」と。そこで御食を賜ってこれを賞した。朝廷の公卿たちは、初め帝の激怒を見て、楽運のために寒心しない者はなかった。後に赦免されたのを見て、皆互いに賀し、虎口を免れたことを幸いとした。

内史鄭訳はかつて私事を楽運に依頼したが、許されなかったため、このことを恨んだ。隋文帝が丞相となったとき、鄭訳は長史となり、ついに楽運を左遷して広州滍陽県令とした。開皇五年、毛州高唐県令に転じた。二県を歴任し、ともに名声と実績があった。楽運は常に一つの諫官に処し、ゆったりと諷諫議論することを願った。しかし性が率直で他人の過ちを暴くため、人に排斥され、ついに任用されなかった。そこで憤りを発し、夏殷以来の諫諍の事柄を記録し、集めて部類分けし、凡そ六百三十九条、四十一巻にまとめ、名づけて『諫苑』とした。これを上奏した。隋文帝はこれを見て賞賛した。

評論

史臣が曰く、学芸によらずして重んぜられ、爵禄を待たずして貴ばれる士があるのは何故か。これまた忠孝のみというべきである。力を尽くしてその親に仕えるは、人子の行いであり、身を致してその君に事えるは、人臣の節操である。これはまさに三極 (天地人) を包み込み、百代を包括するものである。宣帝が東宮にあられたとき、凶徳がまさに兆し始め、王軌・宇文孝伯・神挙は志すところ隠すことなく、父子の間において言葉を尽くした。淫刑がすでに逞しくなり、相次いで滅ぼされた。隋文がまさに登庸せんとするとき、人は去就を懐いた。顔之儀の風烈は凛然としており、正しい言葉をもって節操を明らかにし、雷電の下を崎嶇として、かろうじて救われた。この数子は、まさに社稷の臣と言うべきではないか。ある人が不忠と為すも、天下これを信じる者はない。古より外戚として重任に居る者は、多く一時の恩寵を藉りるが、尉遅運に至っては、位は才によって昇り、爵は功によって進むと言えよう。美しいことである。

原本を確認する(ウィキソース):周書 巻040