周書
卷三十九 列傳第三十一 韋瑱 梁昕 皇甫璠 辛慶之 王子直 杜杲
韋瑱
韋瑱は字を世珍といい、京兆杜陵の人である。代々三輔の名族であった。曾祖父の恵度は、姚泓の 尚 書郎であった。劉義真に従って長江を渡り、宋に仕えて鎮西府司馬・順陽太守となり、南雍州の事務を代行した。後に襄陽において魏に帰順し、中書侍郎に任ぜられ、安西将軍・洛州刺史を追贈された。祖父の千雄は、略陽郡守であった。父の英は、代郡守となり、兗州刺史を追贈された。
瑱は幼くして聡明で機敏であり、早熟の器量があり、郷里の人々は皆これを敬い異としていた。志を篤くして学問を好み、騎射にも長じていた。魏の孝昌三年、初めて官に就き太尉府法曹参軍となった。やがて直後に転じ、明威将軍・雍州治中に任ぜられ、鎮遠将軍・防城州将を仮となった。累進して諫議大夫・冠軍将軍となった。
太祖が丞相となると、前将軍・太中大夫を加えられ、長安県男に封ぜられ、食邑三百戸を与えられた。行台左丞に転じ、撫軍将軍・銀青光禄大夫を加えられ、使持節・ 都督 南 郢州 諸軍事・南郢州刺史に昇進した。再び入朝して行台左丞となった。瑱は明察で実務の才幹があり、二度左轄 (行台左丞) の職に就き、当時の論評はこれを栄誉とした。弘農奪還に従い、沙苑の戦いに加わり、衛大将軍・左光禄大夫を加えられた。また河橋の戦いに従い、爵位を子に進められ、食邑二百戸を増やされた。大統八年、斉の神武帝が汾州・絳州に侵攻すると、瑱は太祖に従ってこれを防いだ。軍が帰還すると、瑱に本官のまま蒲津関を鎮守させ、中潬城主を兼ねさせた。まもなく蒲州総管府長史に任ぜられた。ほどなくして召されて鴻臚卿に任ぜられた。名族であることから、郷兵を兼ねて統率し、帥 都督 を加えられた。大 都督 ・通直 散騎常侍 に昇進し、京兆郡の事務を代行し、車騎大将軍・儀同三司・ 散騎常侍 に進んだ。
魏の恭帝二年、宇文氏の姓を賜った。三年、瓜州諸軍事・瓜州刺史に任ぜられた。州は西域に通じ、蕃夷が往来し、前後の刺史は多く賄 賂 を受け取っていた。胡の賊が辺境を侵犯しても、防ぐことができなかった。瑱は生来清廉で倹約であり、武略も兼ね備えていた。蕃夷からの贈り物は、一切受け取らなかった。胡人はその威を畏れ、敢えて寇と為らなかった。公私ともに平穏であり、夷夏ともにこれを慕った。
孝閔帝が即位すると、爵位を平斉県伯に進められ、食邑五百戸を増やされた。任期が満ちて京に帰還する際、官吏や民衆は慕い惜しみ、老若が追い送り、十数日間引き留められて、ようやく州境を出ることができた。世宗はこれを嘉し、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に進めて授けた。武成三年、卒去した。時に六十一歳であった。岐州・宜州の二州刺史を追贈された。諡は恵といった。天和二年、さらに公に追封され、食邑を増やして以前と合わせて三千戸とした。そして詔してその子の峻に襲封させた。
峻は後に車騎大将軍・儀同三司の位に至った。峻の弟の師は、初めて官に就き中外府記室となり、兵部小府下大夫を歴任した。建徳末年、蒲州総管府中郎となり、河東郡の事務を代行した。
梁昕
梁昕は字を元明といい、安定烏氏の人である。代々関中の名族であった。その祖先は官職のため、京兆の盩厔に移り住んだ。祖父の重耳は、漳県令であった。父の勧儒は、州主簿・冠軍将軍・中散大夫となり、涇州刺史を追贈された。
昕は若い頃から温和で恭しく、州里で称えられた。正光五年、秦隴で乱が起こり、蕭宝夤が大 都督 となり、兵を統率して討伐に出ると、昕を行台参軍とした。孝昌初年、蕩寇将軍に任ぜられ、やがて驤威将軍・給事中に昇進した。引き続き宝夤に従って万俟醜奴を征討した。二年間相持し、前後数十回の戦いがあり、功績により征西将軍に進んだ。爾朱天光が関中に入ると、再び召し出して外兵参軍とした。天光に従って征討し、右将軍・太中大夫に任ぜられた。
太祖が魏の孝武帝を迎えた時、軍は雍州に駐屯した。昕は三輔の名族として謁見した。太祖は昕の容貌が立派で堂々としているのを見て、深く賞賛し異とした。すぐに右府長流参軍に任じた。大統初年、鎮南将軍・金紫光禄大夫を加えられ、丞相府戸曹参軍に転じた。弘農奪還に従い、沙苑の戦いに加わり、いずれも功績があった。車騎将軍・丞相府主簿に任ぜられた。出向して洛安郡守となり、召されて大将軍行台兵部郎中に任ぜられ、帥 都督 を加えられた。十二年、河南郡守に任ぜられ、大塢を鎮守した。まもなく閻韓に移って鎮守した。辺境の堡塁を防備し、誠信を大いに顕著にした。東荊州刺史に昇進した。昕は仁恵をもって撫育し、蛮夷はこれを喜び、流民で帰順する者が相次いでやって来た。安定県子に封ぜられ、食邑三百戸を与えられた。累進して大 都督 ・車騎大将軍・ 散騎常侍 ・儀同三司となった。
孝閔帝が即位すると、位を驃騎大将軍・開府儀同三司に進めた。世宗の初年、爵位を胡城県伯に進め、食邑五百戸を与えた。三年、九曲城主に任ぜられた。保定元年、中州刺史に転じ、食邑八百戸を増やし、邵州刺史に転じた。二年、母の喪のため官を去った。まもなく元の官職に復帰した。天和初年、召されて工部中大夫に任ぜられた。出向して陝州総管府長史となった。昕の性質は温和で寛大であり、実務の才能があった。内外の官職を歴任し、いずれも名声があった。まもなく在官のまま卒去した。大将軍を追贈され、諡は貞といった。
昕の弟の栄は、匠師下大夫、中外府中郎、蕃部・郡伯・司倉・計部下大夫、開府儀同三司、朝那県伯の位を歴任し、涇州・寧州・豳州の三州刺史を追贈され、諡は靜といった。
皇甫璠
皇甫璠は字を景瑜といい、安定三水の人である。代々西州の名族であったが、後に京兆に移り住んだ。父の和は、本州の治中であった。大統末年、 散騎常侍 ・儀同三司・涇州刺史を追贈された。
辛璠は若くして忠実で慎み深く、才幹と謀略を備えていた。永安年間 (528-530) に州 都督 に辟召された。太祖 (宇文泰) が州牧となると、主簿に補任された。勤務ぶりが認められ、しばしば褒賞を受けた。大統四年 (538) 、丞相府行参軍に抜擢された。まもなく田曹参軍・東閤祭酒に転じ、散騎侍郎を加えられた。次第に兼太常少卿・都水使者に昇進し、蕃部・兵部・虞部・民部・吏部などの諸曹郎中を歴任した。六官が建てられると、計部下大夫に任じられた。
孝閔帝が即位すると、守廟下大夫に転じた。選ばれて東道大使となり、州や防備の巡察・慰撫に当たった。まもなく車騎大将軍・儀同三司を加えられ、長楽県子に封ぜられ、邑五百戸を賜った。玉壁総管府長史として出向した。保定年間 (561-565) に鴻州刺史に昇進し、中央に召還されて小納言となった。ほどなく隴右総管府司馬に任ぜられ、さらに陝州総管府長史に転じた。召還されて蕃部中大夫に任ぜられ、驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。再び隴右総管府長史として出向した。辛璠は性質が温和で、小心に法を奉じ、分を守り志を保ち、常に清廉潔白を以て自ら処した。当時、善人と称された。
建徳元年 (572) 、民部中大夫に任ぜられた。三年 (574) 、随州刺史を授けられた。政務は簡素で慈恵を旨とし、民衆は安んじた。その年、邑が加増され、以前の分と合わせて二千戸となった。六年 (577) 、在官のまま卒去した。交州・渭州の二州刺史を追贈された。諡は恭といった。子の辛諒は、若くして名を知られた。大象年間 (579-580) 、吏部下大夫の位に至った。
辛慶之
辛慶之、字は慶之、隴西狄道の人である。代々隴右の名族であった。父の辛顕崇は、 馮翊郡 太守となり、雍州刺史を追贈された。
辛慶之は若くして文才により洛陽に召され、策試で第一となり、秘書郎に任ぜられた。ちょうど爾朱氏が乱を起こし、魏の孝荘帝が 司空 楊津を北道行臺とし、山東の諸軍を統率させて討伐させた。楊津は辛慶之を行臺左丞に起用し、参謀・謀議を司らせた。鄴に至った時、孝荘帝が急に崩御したと聞き、そこで兗州・冀州の間に出て、義兵を結集し、国の難に赴こうと図った。ほどなく節閔帝が立つと、洛陽に帰還した。普泰二年 (532) 、平北将軍・太中大夫に昇進した。賀抜岳が行臺となると、再び辛慶之を行臺吏部郎中・開府掾に起用した。まもなく雍州別駕に任ぜられた。
大統初年 (535) 、車騎将軍を加えられ、ほどなく衛大将軍・左光禄大夫に昇進した。後に太祖が東征した際、行臺左丞となった。当時、河東を回復したばかりで、本官のまま塩池都将を兼ねた。四年 (538) 、東魏が正平郡を攻め落とし、ついで塩池を攻略しようとしたが、辛慶之は守備が整っていたため、軍を退却させた。河橋の戦いでは、大軍が不利となり、河北の守令は城を捨てて逃げたが、辛慶之はただ一人塩池に拠り、強敵に抵抗した。当時の論評は彼の仁勇を称えた。六年 (540) 、河東郡の事務を代行した。九年 (543) 、中央に入り丞相府右長史となり、給事黄門侍郎を兼ね、度支尚書に任ぜられた。再び河東郡の事務を代行した。通直 散騎常侍 ・南荊州刺史に転じ、儀同三司を加えられた。
辛慶之は地位と待遇は高かったが、質素な生活を貫き、車馬や衣服も華美を求めなかった。志操と度量は穏やかで、儒者の風度があった。特に当時に重んじられた。また、経学に明るく品行を修めた者として、盧誕らと共に諸王の教授を命ぜられた。魏の廃帝二年 (553) 、秘書監に任ぜられた。ほどなく在官のまま卒去した。子の辛加陵は、主寝上士となった。辛慶之の族子に辛昂がいる。
族子 辛昂
辛昂、字は進君。数歳の時から、すでに成人したような志操と行いがあった。人相見の上手な者が、その父の辛仲略に言った。「貴方の家は代々高官を出していますが、名声・徳望・富貴、いずれもこの子に及ぶ者はおりません。」辛仲略もまた辛昂の志気を重んじ、深くその言葉に同意した。十八歳の時、侯景に辟召されて行臺郎中となり、鎮遠将軍を加えられた。侯景が後に帰順すると、辛昂は朝廷に入った。丞相府行参軍に任ぜられた。大統十四年 (548) 、朝廷に帰順した功績を追論され、襄城県男に封ぜられ、邑二百戸を賜り、丞相府田曹参軍に転じた。
尉遅迥が蜀を征伐した時、辛昂は兵を募って従軍した。蜀が平定されると、功により輔国将軍、魏 都督 を授けられた。尉遅迥は引き続き辛昂を龍州長史に推挙し、龍安郡の事務を管轄させた。州は山谷を帯び、旧来の風俗は頑なであった。辛昂は威厳と慈恵をよく行き渡らせ、官吏や民衆は畏敬しつつも彼を慕った。成都は一方の中心地で、風俗が入り乱れていた。尉遅迥は辛昂が政務に通じているとして、再び辛昂を行成都令に推挙した。辛昂は県に着くと、すぐに諸生と共に文翁の学堂を祭り、一緒に歓宴を開いた。諸生に言った。「子は孝行し、臣は忠義を尽くし、師は厳格に、友は信義を守る。身を立てる要諦は、これだけである。もしこの言葉に従わなければ、どうして名を成せようか。各自努めて、立派な名声を成し遂げるがよい。」辛昂の言葉は切実で道理に適い、諸生らは皆深く感銘を受け、帰って父老に告げて言った。「辛君がこのように教え戒めているのだから、これに背くことはできない。」そこで町中は粛然とし、皆その教化に従った。梓潼郡太守に転じ、帥 都督 に進み、通直 散騎常侍 を加えられた。六官が建てられると、中央に入り司隷上士となり、繁昌県公の爵位を襲封した。
世宗 (明帝) の初め、天官府上士を授けられ、大 都督 を加えられた。武成二年 (560) 、小職方下大夫を授けられ、小兵部を管轄した。保定二年 (562) 、車騎大将軍・儀同三司に進み、小吏部に転じた。四年 (564) 、大軍が東征した際、辛昂は大将軍権景宣と共に 豫 州を攻略し、功により布帛二百匹を賞賜された。
当時、益州は豊かで、軍国が必要とする物資を供給していた。経路は険しく、しばしば盗賊に苦しめられていた。詔により辛昂は梁州・益州に派遣され、軍務・民政の一切を委ねられた。辛昂は荒廃した頑なな地を慰撫・指導し、城鎮を整備し、数年の中で、かなり平穏を得た。天和初年 (566) 、陸騰が信州の諸蛮を討伐したが、時を経ても平定できなかった。高祖 (武帝) は詔を下し、辛昂に通州・渠州などの諸州で食糧を輸送させて補給させた。当時、臨州・信州・楚州・合州などの諸州の民衆も多く反乱に加わっていた。辛昂は禍福を説き明かすと、赴く者が帰郷するかのようであった。そこで老弱者に食糧を運ばせ、壮丁に戦わせ、皆が使われることを望み、怨む者はなかった。使いを終えて帰還する途中、巴州万栄郡の民が反乱し、郡城を包囲攻撃し、山路を遮断していることに遭遇した。辛昂は同行者に言った。「凶悪な奴らが狂逆にも、ここまでするとは!もし上聞を待っていれば、あるいは十日も一月もかかり、孤立した城は援軍なく、必ず賊の手に落ちよう。近くで溺れる者を救おうとするのに、どうして遠く越人の助けを求める暇があろうか。もし百姓のためになるならば、専断してもよい。」そこで開州・通州の二州で募兵し、三千人を得て、倍の速度で行軍し、不意を突いた。また配下の者たちに皆、中国 (中原) の歌を歌わせ、まっすぐ賊の陣営に向かわせた。賊はもはや警戒しておらず、大軍が救援に赴いたと思い、そこで風の便りに瓦解し、郡内は平穏を得た。朝廷は彼が臨機応変に事を成し遂げたことを賞賛し、梁州総管・杞国公宇文亮に詔して、軍中で辛昂に奴婢二十人・繒綵四百匹を賞賜させた。宇文亮はまた辛昂の威信が宕渠に広まっているとして、彼を渠州刺史に推挙した。まもなく通州刺史に転じた。辛昂は誠意と信義を示し、夷獠の歓心を大いに得た。任期を満了して帰京すると、首領らは皆辛昂に従って宮廷に参朝した。辛昂が夷と華をよく教化したとして、驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。
当時、晋公宇文護が政権を執っており、辛昂は次第に宇文護に親しく遇されたため、高祖はこのことをかなり恨みに思っていた。宇文護が誅殺されると、辛昂は鞭打ちの刑に処せられ、それがもとで死去した。
辛昂の同族の辛仲景は、学問を好み、雅量があった。その高祖父の辛欽は、後趙の吏部尚書・雍州刺史となり、子孫はそこで家を構えた。父の辛歓は、魏の隴州刺史・宋陽公となった。辛仲景は十八歳で文学に挙げられ、策試で高い成績を得た。 司空 府主簿に任ぜられ、員外散騎侍郎に昇進した。建徳年間 (572-578) 、内史下大夫・開府儀同三司の位に至った。在官のまま卒去した。子の辛衡。
王子直
王子直、字は孝正、京兆杜陵の人である。代々郡の右族であった。父の琳は、州主簿・東雍州長史を務めた。
子直は性質が節倹で、幹才能力があった。魏の正光年間、州から主簿に辟召され、奉朝請を初官とした。太尉府水曹行参軍に任じられ、明威将軍を加えられた。時に梁の軍が寿春を包囲したので、臨淮王元彧が軍を率いて救援に赴き、子直は本官のまま元彧の軍事に参じた。梁軍と戦い、その軍主夏侯景超を斬り、梁軍は退いた。淮南の民衆は兵乱の後もなお集まって盗賊となっていた。元彧は子直にこれを招撫させると、十日ほどの間に皆が来て旧業に復し、合肥以北は以前のように安堵した。永安初年、員外 散騎常侍 ・鴻臚少卿に任じられた。普泰初年、後軍将軍・太中大夫に進んだ。賀抜岳が関中に入ると、子直を開府主簿とし、行臺郎中に遷した。魏の孝武帝が西遷すると、山北県男に封じられ、邑二百戸を賜った。
大統初年、漢熾屠各が南山で兵を擁して抵抗し、隴東屠各と共に脣歯の関係となった。太祖 (宇文泰) は子直に涇州の歩騎五千を率いて討伐させてこれを破り、南山は平定された。太祖はこれを嘉し、書を賜って労問した。尚書左外兵郎中に任じられた。三年、車騎将軍に進み、中書舎人を兼ねた。四年、太祖に従って洛陽の包囲を解き、河橋の戦いを経て、尚書左丞を兼ね、出て秦州総管府司馬となった。時に涼州刺史宇文仲和が州を拠てて命に逆らったので、子直は隴右大 都督 独狐信に従ってこれを討平した。再び入朝して大行臺郎中となり、丞相府記室を兼ねた。吐谷渾が西平を寇すと、子直に尚書兵部郎中を兼ねさせ、隴右に出てこれを経略させ、長寧川で渾の軍勢を大破し、渾賊は遁走した。十五年、車騎将軍・左光禄大夫に進み、太子中庶子に任じられ、斉王友を領した。まもなく 馮翊郡 の事を行った。十六年、魏の斉王元廓が秦隴に出牧すると、再び子直を秦州別駕とし、引き続き王友を領させた。随・陸が初めて平定されると、安州長史を授かり、別駕を領し、帥 都督 を加えられた。幷州長史に転じた。
魏の廃帝元年、使持節・大 都督 に任じられ、瓜州の事を行った。子直は性質が清静で、徳政をもって民を教化することを務め、西方の地は喜んで帰附した。魏の恭帝初年、召されて黄門侍郎に任じられた。任中で卒した。子の宣礼は、柱国府参軍事となった。
杜杲
杜杲、字は子暉、京兆杜陵の人である。祖父の建は、魏の輔国将軍、 豫 州刺史を追贈された。父の皎は、儀同三司・武都郡守であった。
杲は経史に学識を広め、当世の幹略があった。その族父の瓚は、清廉貞潔で識見があり、深く彼を器重した。常に「我が家の千里駒なり」と言った。瓚は当時魏に仕えて黄門侍郎、度支尚書・衛大将軍・西道行臺を兼ね、孝武帝の妹新豊公主を尚り、これによって朝廷に推薦した。永熙三年、奉朝請を初官とし、累遷して輔国将軍・成州長史・漢陽郡守となった。世宗 (宇文毓) の初年、脩城郡守に転じた。時に鳳州の仇周貢らが乱を構え、脩城を攻め逼ったが、杲は民に信義が通じていたので、管内には遂に叛く者はなかった。まもなく開府趙昶ら諸軍が進討し、杲は郡兵を率いて趙昶と合流し、遂にこれを破って平定した。入朝して司会上士となった。
初め、陳の文帝の弟安成王陳頊が梁に人質となっていたが、江陵平定の際、陳頊は例に従って長安に遷された。陳人がその返還を請うたので、太祖は許したが未だ送り返さなかった。この時、帝 (宇文毓) は彼を帰そうとし、杜杲を使者として派遣した。陳の文帝は大いに喜び、直ちに使者を派遣して聘問に報い、併せて黔中の数州の地を賂らせた。さらに境界を画定して分け、永く隣好を厚くすることを請うた。杜杲が使命を旨に叶えて果たしたので、 都督 に進めて授け、小御伯を治めさせ、さらに派遣して境界を分けさせた。陳人はこれによって魯山を我が朝に帰属させた。帝はそこで陳頊を柱国大将軍に拝し、詔して杜杲に送って帰国させた。陳の文帝は杜杲に言った。「家弟が今礼を以て送り返されるのは、実に周朝の恩恵である。しかし、あの魯山を返さなければ、恐らくここまでには至らなかったであろう。」杜杲は答えて言った。「安成王が関中にいるのは、咸陽の一布衣に過ぎません。しかしそれは陳の介弟であり、その価値は豈に一城に止まりましょうか。本朝は九族を親睦にし、己を恕して物に及ぼし、上は太祖の遺旨を遵奉し、下は継好の義を思う。徳音を発する所以は、蓋しこの為です。もし魯山と同等であると知るならば、固より一鎮を貪ることはないでしょう。況んや魯山は梁の旧地であり、梁は即ち本朝の蕃臣です。始末を以て言うならば、魯山は自ら国に帰すべきものです。尋常の土地を以て、己が骨肉の親を易えるなどと、使臣と雖もなお不可と謂うのに、どうして朝廷に聞かせることができましょうか。」陳の文帝は久しく慚恧し、乃ち言った。「先の言葉は戯れに言っただけだ。」これより接遇は常礼に増した。杜杲が帰還する際、殿に昇らせ、自ら御座を降り、手を執って別れた。朝廷はこれを嘉し、大 都督 ・小載師下大夫を授け、小納言を治めさせ、再び陳に聘問させた。中山公宇文訓が蒲州総管となると、杜杲を府司馬・州治中とし、州府の事を知らせた。使持節・車騎大将軍・儀同三司を加えられた。
華皎が来附すると、詔して衛公宇文直に元定らを督してこれを救援させた。陳軍と交戦し、我が軍は利あらず、元定らは共に没した。これより、兵を連ねて止まず、東南は騒動した。高祖 (宇文邕) はこれを憂い、乃ち杜杲を御正中大夫に任じ、〔陳に使いし、保境息民の意を論ぜしめた。陳の宣〕〔帝はその黄門侍郎徐陵を遣わして杜杲に謂いて曰く、「両国が通好するは、本より患いを救い災いを分かたんと欲するに在り。彼の朝、我が叛人を受くるは、何ぞや。」杲答えて曰く、「陳主、昔本朝に在りし時、義を慕いて至れるに非ず。上、柱国を授け、位人臣を極め、子女玉帛、礼を備えて将に送らんとす。遂に社稷を主とす。孰れか恩に非ずと謂わんや。郝烈の徒は、辺民の狂狡にして、未だ徳に報いずして先ず之を納る。今華氏を受くるは、正に相報ゆるなり。過ちは彼より始まる。豈に本朝に在らんや。」陵曰く、「彼華皎を納るるは、志は吞 噬 を図るに在り。此れ郝烈を受くるは、容るるのみ。且つ華皎は方州の列将にして、邑を窃み叛亡す。郝烈は一百許戸、身を脱して逃竄す。大小異なる有り。豈に同年にして語るべきや。」杲曰く、「大小は殊なるも、降を受くるは一なり。若し先後を論ずれば、本朝に失無し。」陵曰く、「周朝、主上を送りて国に還すは、既に以て恩と為す。衛公、元定を共に渡江せしむるは、孰れか怨に非ずと云わん。恩と怨とを計るに、亦た足りて相埒す。」杲曰く、「元定ら兵敗れて身囚われ、其の怨は已に滅ぶ。陳主負扆して玉に馮る、其の恩は猶在り。且つ怨は彼の国に由り、恩は本朝に起こる。怨を以て恩に酬ゆるは、未だ之を聞かず。」陵乃ち笑って答えず。杲因り之に謂いて曰く、「今三方鼎立し、各進取を図る。苟くも釁隙有らば、実に敵心を啓く。本朝と陳とは、日に隣睦を敦くし、輶軒往返し、歳年を積む。比来疆埸の事に為り、遂に仇敵と為り、怨を構え兵を連ね、略々寧歳無し。鷸蚌狗兎、勢い倶に全からず。若し斉寇之に乗ずれば、則ち彼此危うし。孰れか心忿み禍を悔い、慮を遷し図を改め、陳国は争桑の心を息め、本朝は灌瓜の義を弘め、 旃 を張り玉を拭い、好を修めて初めの如くし、共に掎角と為り、以て斉氏を取らんに若かんや。唯に両主の慶のみに非ず、実に亦た兆庶之に頼らん。」陵具に以て聞かす。陳の宣帝之を許す。遂に使いを遣わして来聘せしむ。〕
武帝の建德初年 (572年) 、司城中大夫となり、陳に使した。陳の宣帝が杲に言うには、「長湖公 (元定) の軍人らは館を築いて処遇しているが、北風を恋しがらぬとも限らぬ。王褒・庾信の徒もまた関中に旅寓しており、南枝を思う心もあろう」と。杲は陳宣帝の意を推し量り、元定軍の将士を以て王褒らと交換せんと欲するものと知る。乃ち答えて曰く、「長湖公は軍を総べて律を失い、難に臨んで苟くも免るるのみ。既に節に死せず、何を用いんや。且つ猶ほ牛の一毛の如く、何ぞ損益を為さん。本朝の議、初めより此に及ばず」と。陳宣帝は乃ち止む。杲、石頭に還り至る。又た遣わして之に謂いて曰く、「若し合従して共に齊氏を図らんと欲せば、樊・鄧を以て見与し、以て信を表すべし」と。杲答えて曰く、「合従して齊を図るは、豈に唯だ弊邑の利のみならんや。須らく城鎮を要すべく、宜しく之を齊に待つべし。先ず漢南を索むるは、使者敢へて命を聞かず」と。還りて、司倉中大夫を除く。
後四年、溫州刺史に遷り、義興縣伯の爵を賜う。大象元年、御正中大夫に徴拜され、復た陳に使す。二年、申州刺史を除き、開府儀同大將軍を加えられ、侯に進爵し、邑一千三百戶。同州司会を除く。隋の開皇元年、杲を以て同州総監と為し、公に進爵す。俄かに工部尚書に遷る。二年、西南道行臺兵部尚書を除く。尋いで疾を以て卒す。子の運、大象の末、宣納上士。杲の兄の長暉、位は儀同三司に至る。
【史評】
史臣曰く、韋・辛・皇甫の徒は、並びに関右の旧族なり。或いは組を 紆 らして朝に登り、官に当たるの誉れを獲、或いは旃を張りて境を出で、専対の才有り。既に 国猷 を 茂 くし、能く家業を 克 くす。美しいかな。