韋瑱
韋瑱は字を世珍といい、京兆杜陵の人である。代々三輔の名族であった。曾祖父の恵度は、姚泓の尚書郎であった。劉義真に従って長江を渡り、宋に仕えて鎮西府司馬・順陽太守となり、南雍州の事務を代行した。後に襄陽において魏に帰順し、中書侍郎に任ぜられ、安西将軍・洛州刺史を追贈された。祖父の千雄は、略陽郡守であった。父の英は、代郡守となり、兗州刺史を追贈された。
太祖が丞相となると、前将軍・太中大夫を加えられ、長安県男に封ぜられ、食邑三百戸を与えられた。行台左丞に転じ、撫軍将軍・銀青光禄大夫を加えられ、使持節・都督南郢州諸軍事・南郢州刺史に昇進した。再び入朝して行台左丞となった。瑱は明察で実務の才幹があり、二度左轄(行台左丞)の職に就き、当時の論評はこれを栄誉とした。弘農奪還に従い、沙苑の戦いに加わり、衛大将軍・左光禄大夫を加えられた。また河橋の戦いに従い、爵位を子に進められ、食邑二百戸を増やされた。大統八年、斉の神武帝が汾州・絳州に侵攻すると、瑱は太祖に従ってこれを防いだ。軍が帰還すると、瑱に本官のまま蒲津関を鎮守させ、中潬城主を兼ねさせた。まもなく蒲州総管府長史に任ぜられた。ほどなくして召されて鴻臚卿に任ぜられた。名族であることから、郷兵を兼ねて統率し、帥都督を加えられた。大都督・通直散騎常侍に昇進し、京兆郡の事務を代行し、車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍に進んだ。
峻は後に車騎大将軍・儀同三司の位に至った。峻の弟の師は、初めて官に就き中外府記室となり、兵部小府下大夫を歴任した。建徳末年、蒲州総管府中郎となり、河東郡の事務を代行した。
梁昕
梁昕は字を元明といい、安定烏氏の人である。代々関中の名族であった。その祖先は官職のため、京兆の盩厔に移り住んだ。祖父の重耳は、漳県令であった。父の勧儒は、州主簿・冠軍将軍・中散大夫となり、涇州刺史を追贈された。
昕の弟の栄は、匠師下大夫、中外府中郎、蕃部・郡伯・司倉・計部下大夫、開府儀同三司、朝那県伯の位を歴任し、涇州・寧州・豳州の三州刺史を追贈され、諡は靜といった。
皇甫璠
皇甫璠は字を景瑜といい、安定三水の人である。代々西州の名族であったが、後に京兆に移り住んだ。父の和は、本州の治中であった。大統末年、散騎常侍・儀同三司・涇州刺史を追贈された。
辛璠は若くして忠実で慎み深く、才幹と謀略を備えていた。永安年間(528-530)に州都督に辟召された。太祖(宇文泰)が州牧となると、主簿に補任された。勤務ぶりが認められ、しばしば褒賞を受けた。大統四年(538)、丞相府行参軍に抜擢された。まもなく田曹参軍・東閤祭酒に転じ、散騎侍郎を加えられた。次第に兼太常少卿・都水使者に昇進し、蕃部・兵部・虞部・民部・吏部などの諸曹郎中を歴任した。六官が建てられると、計部下大夫に任じられた。
孝閔帝が即位すると、守廟下大夫に転じた。選ばれて東道大使となり、州や防備の巡察・慰撫に当たった。まもなく車騎大将軍・儀同三司を加えられ、長楽県子に封ぜられ、邑五百戸を賜った。玉壁総管府長史として出向した。保定年間(561-565)に鴻州刺史に昇進し、中央に召還されて小納言となった。ほどなく隴右総管府司馬に任ぜられ、さらに陝州総管府長史に転じた。召還されて蕃部中大夫に任ぜられ、驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。再び隴右総管府長史として出向した。辛璠は性質が温和で、小心に法を奉じ、分を守り志を保ち、常に清廉潔白を以て自ら処した。当時、善人と称された。
辛慶之
辛慶之、字は慶之、隴西狄道の人である。代々隴右の名族であった。父の辛顕崇は、馮翊郡太守となり、雍州刺史を追贈された。
大統初年(535)、車騎将軍を加えられ、ほどなく衛大将軍・左光禄大夫に昇進した。後に太祖が東征した際、行臺左丞となった。当時、河東を回復したばかりで、本官のまま塩池都将を兼ねた。四年(538)、東魏が正平郡を攻め落とし、ついで塩池を攻略しようとしたが、辛慶之は守備が整っていたため、軍を退却させた。河橋の戦いでは、大軍が不利となり、河北の守令は城を捨てて逃げたが、辛慶之はただ一人塩池に拠り、強敵に抵抗した。当時の論評は彼の仁勇を称えた。六年(540)、河東郡の事務を代行した。九年(543)、中央に入り丞相府右長史となり、給事黄門侍郎を兼ね、度支尚書に任ぜられた。再び河東郡の事務を代行した。通直散騎常侍・南荊州刺史に転じ、儀同三司を加えられた。
族子 辛昂
辛昂、字は進君。数歳の時から、すでに成人したような志操と行いがあった。人相見の上手な者が、その父の辛仲略に言った。「貴方の家は代々高官を出していますが、名声・徳望・富貴、いずれもこの子に及ぶ者はおりません。」辛仲略もまた辛昂の志気を重んじ、深くその言葉に同意した。十八歳の時、侯景に辟召されて行臺郎中となり、鎮遠将軍を加えられた。侯景が後に帰順すると、辛昂は朝廷に入った。丞相府行参軍に任ぜられた。大統十四年(548)、朝廷に帰順した功績を追論され、襄城県男に封ぜられ、邑二百戸を賜り、丞相府田曹参軍に転じた。
尉遅迥が蜀を征伐した時、辛昂は兵を募って従軍した。蜀が平定されると、功により輔国将軍、魏都督を授けられた。尉遅迥は引き続き辛昂を龍州長史に推挙し、龍安郡の事務を管轄させた。州は山谷を帯び、旧来の風俗は頑なであった。辛昂は威厳と慈恵をよく行き渡らせ、官吏や民衆は畏敬しつつも彼を慕った。成都は一方の中心地で、風俗が入り乱れていた。尉遅迥は辛昂が政務に通じているとして、再び辛昂を行成都令に推挙した。辛昂は県に着くと、すぐに諸生と共に文翁の学堂を祭り、一緒に歓宴を開いた。諸生に言った。「子は孝行し、臣は忠義を尽くし、師は厳格に、友は信義を守る。身を立てる要諦は、これだけである。もしこの言葉に従わなければ、どうして名を成せようか。各自努めて、立派な名声を成し遂げるがよい。」辛昂の言葉は切実で道理に適い、諸生らは皆深く感銘を受け、帰って父老に告げて言った。「辛君がこのように教え戒めているのだから、これに背くことはできない。」そこで町中は粛然とし、皆その教化に従った。梓潼郡太守に転じ、帥都督に進み、通直散騎常侍を加えられた。六官が建てられると、中央に入り司隷上士となり、繁昌県公の爵位を襲封した。
当時、益州は豊かで、軍国が必要とする物資を供給していた。経路は険しく、しばしば盗賊に苦しめられていた。詔により辛昂は梁州・益州に派遣され、軍務・民政の一切を委ねられた。辛昂は荒廃した頑なな地を慰撫・指導し、城鎮を整備し、数年の中で、かなり平穏を得た。天和初年(566)、陸騰が信州の諸蛮を討伐したが、時を経ても平定できなかった。高祖(武帝)は詔を下し、辛昂に通州・渠州などの諸州で食糧を輸送させて補給させた。当時、臨州・信州・楚州・合州などの諸州の民衆も多く反乱に加わっていた。辛昂は禍福を説き明かすと、赴く者が帰郷するかのようであった。そこで老弱者に食糧を運ばせ、壮丁に戦わせ、皆が使われることを望み、怨む者はなかった。使いを終えて帰還する途中、巴州万栄郡の民が反乱し、郡城を包囲攻撃し、山路を遮断していることに遭遇した。辛昂は同行者に言った。「凶悪な奴らが狂逆にも、ここまでするとは!もし上聞を待っていれば、あるいは十日も一月もかかり、孤立した城は援軍なく、必ず賊の手に落ちよう。近くで溺れる者を救おうとするのに、どうして遠く越人の助けを求める暇があろうか。もし百姓のためになるならば、専断してもよい。」そこで開州・通州の二州で募兵し、三千人を得て、倍の速度で行軍し、不意を突いた。また配下の者たちに皆、中国(中原)の歌を歌わせ、まっすぐ賊の陣営に向かわせた。賊はもはや警戒しておらず、大軍が救援に赴いたと思い、そこで風の便りに瓦解し、郡内は平穏を得た。朝廷は彼が臨機応変に事を成し遂げたことを賞賛し、梁州総管・杞国公宇文亮に詔して、軍中で辛昂に奴婢二十人・繒綵四百匹を賞賜させた。宇文亮はまた辛昂の威信が宕渠に広まっているとして、彼を渠州刺史に推挙した。まもなく通州刺史に転じた。辛昂は誠意と信義を示し、夷獠の歓心を大いに得た。任期を満了して帰京すると、首領らは皆辛昂に従って宮廷に参朝した。辛昂が夷と華をよく教化したとして、驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。
当時、晋公宇文護が政権を執っており、辛昂は次第に宇文護に親しく遇されたため、高祖はこのことをかなり恨みに思っていた。宇文護が誅殺されると、辛昂は鞭打ちの刑に処せられ、それがもとで死去した。
辛昂の同族の辛仲景は、学問を好み、雅量があった。その高祖父の辛欽は、後趙の吏部尚書・雍州刺史となり、子孫はそこで家を構えた。父の辛歓は、魏の隴州刺史・宋陽公となった。辛仲景は十八歳で文学に挙げられ、策試で高い成績を得た。司空府主簿に任ぜられ、員外散騎侍郎に昇進した。建徳年間(572-578)、内史下大夫・開府儀同三司の位に至った。在官のまま卒去した。子の辛衡。
王子直
王子直、字は孝正、京兆杜陵の人である。代々郡の右族であった。父の琳は、州主簿・東雍州長史を務めた。
子直は性質が節倹で、幹才能力があった。魏の正光年間、州から主簿に辟召され、奉朝請を初官とした。太尉府水曹行参軍に任じられ、明威将軍を加えられた。時に梁の軍が寿春を包囲したので、臨淮王元彧が軍を率いて救援に赴き、子直は本官のまま元彧の軍事に参じた。梁軍と戦い、その軍主夏侯景超を斬り、梁軍は退いた。淮南の民衆は兵乱の後もなお集まって盗賊となっていた。元彧は子直にこれを招撫させると、十日ほどの間に皆が来て旧業に復し、合肥以北は以前のように安堵した。永安初年、員外散騎常侍・鴻臚少卿に任じられた。普泰初年、後軍将軍・太中大夫に進んだ。賀抜岳が関中に入ると、子直を開府主簿とし、行臺郎中に遷した。魏の孝武帝が西遷すると、山北県男に封じられ、邑二百戸を賜った。
杜杲
杜杲、字は子暉、京兆杜陵の人である。祖父の建は、魏の輔国将軍、豫州刺史を追贈された。父の皎は、儀同三司・武都郡守であった。
初め、陳の文帝の弟安成王陳頊が梁に人質となっていたが、江陵平定の際、陳頊は例に従って長安に遷された。陳人がその返還を請うたので、太祖は許したが未だ送り返さなかった。この時、帝(宇文毓)は彼を帰そうとし、杜杲を使者として派遣した。陳の文帝は大いに喜び、直ちに使者を派遣して聘問に報い、併せて黔中の数州の地を賂らせた。さらに境界を画定して分け、永く隣好を厚くすることを請うた。杜杲が使命を旨に叶えて果たしたので、都督に進めて授け、小御伯を治めさせ、さらに派遣して境界を分けさせた。陳人はこれによって魯山を我が朝に帰属させた。帝はそこで陳頊を柱国大将軍に拝し、詔して杜杲に送って帰国させた。陳の文帝は杜杲に言った。「家弟が今礼を以て送り返されるのは、実に周朝の恩恵である。しかし、あの魯山を返さなければ、恐らくここまでには至らなかったであろう。」杜杲は答えて言った。「安成王が関中にいるのは、咸陽の一布衣に過ぎません。しかしそれは陳の介弟であり、その価値は豈に一城に止まりましょうか。本朝は九族を親睦にし、己を恕して物に及ぼし、上は太祖の遺旨を遵奉し、下は継好の義を思う。徳音を発する所以は、蓋しこの為です。もし魯山と同等であると知るならば、固より一鎮を貪ることはないでしょう。況んや魯山は梁の旧地であり、梁は即ち本朝の蕃臣です。始末を以て言うならば、魯山は自ら国に帰すべきものです。尋常の土地を以て、己が骨肉の親を易えるなどと、使臣と雖もなお不可と謂うのに、どうして朝廷に聞かせることができましょうか。」陳の文帝は久しく慚恧し、乃ち言った。「先の言葉は戯れに言っただけだ。」これより接遇は常礼に増した。杜杲が帰還する際、殿に昇らせ、自ら御座を降り、手を執って別れた。朝廷はこれを嘉し、大都督・小載師下大夫を授け、小納言を治めさせ、再び陳に聘問させた。中山公宇文訓が蒲州総管となると、杜杲を府司馬・州治中とし、州府の事を知らせた。使持節・車騎大将軍・儀同三司を加えられた。
華皎が来附すると、詔して衛公宇文直に元定らを督してこれを救援させた。陳軍と交戦し、我が軍は利あらず、元定らは共に没した。これより、兵を連ねて止まず、東南は騒動した。高祖(宇文邕)はこれを憂い、乃ち杜杲を御正中大夫に任じ、〔陳に使いし、保境息民の意を論ぜしめた。陳の宣〕〔帝はその黄門侍郎徐陵を遣わして杜杲に謂いて曰く、「両国が通好するは、本より患いを救い災いを分かたんと欲するに在り。彼の朝、我が叛人を受くるは、何ぞや。」杲答えて曰く、「陳主、昔本朝に在りし時、義を慕いて至れるに非ず。上、柱国を授け、位人臣を極め、子女玉帛、礼を備えて将に送らんとす。遂に社稷を主とす。孰れか恩に非ずと謂わんや。郝烈の徒は、辺民の狂狡にして、未だ徳に報いずして先ず之を納る。今華氏を受くるは、正に相報ゆるなり。過ちは彼より始まる。豈に本朝に在らんや。」陵曰く、「彼華皎を納るるは、志は吞噬を図るに在り。此れ郝烈を受くるは、容るるのみ。且つ華皎は方州の列将にして、邑を窃み叛亡す。郝烈は一百許戸、身を脱して逃竄す。大小異なる有り。豈に同年にして語るべきや。」杲曰く、「大小は殊なるも、降を受くるは一なり。若し先後を論ずれば、本朝に失無し。」陵曰く、「周朝、主上を送りて国に還すは、既に以て恩と為す。衛公、元定を共に渡江せしむるは、孰れか怨に非ずと云わん。恩と怨とを計るに、亦た足りて相埒す。」杲曰く、「元定ら兵敗れて身囚われ、其の怨は已に滅ぶ。陳主負扆して玉に馮る、其の恩は猶在り。且つ怨は彼の国に由り、恩は本朝に起こる。怨を以て恩に酬ゆるは、未だ之を聞かず。」陵乃ち笑って答えず。杲因り之に謂いて曰く、「今三方鼎立し、各進取を図る。苟くも釁隙有らば、実に敵心を啓く。本朝と陳とは、日に隣睦を敦くし、輶軒往返し、歳年を積む。比来疆埸の事に為り、遂に仇敵と為り、怨を構え兵を連ね、略々寧歳無し。鷸蚌狗兎、勢い倶に全からず。若し斉寇之に乗ずれば、則ち彼此危うし。孰れか心忿み禍を悔い、慮を遷し図を改め、陳国は争桑の心を息め、本朝は灌瓜の義を弘め、旃を張り玉を拭い、好を修めて初めの如くし、共に掎角と為り、以て斉氏を取らんに若かんや。唯に両主の慶のみに非ず、実に亦た兆庶之に頼らん。」陵具に以て聞かす。陳の宣帝之を許す。遂に使いを遣わして来聘せしむ。〕
武帝の建德初年(572年)、司城中大夫となり、陳に使した。陳の宣帝が杲に言うには、「長湖公(元定)の軍人らは館を築いて処遇しているが、北風を恋しがらぬとも限らぬ。王褒・庾信の徒もまた関中に旅寓しており、南枝を思う心もあろう」と。杲は陳宣帝の意を推し量り、元定軍の将士を以て王褒らと交換せんと欲するものと知る。乃ち答えて曰く、「長湖公は軍を総べて律を失い、難に臨んで苟くも免るるのみ。既に節に死せず、何を用いんや。且つ猶ほ牛の一毛の如く、何ぞ損益を為さん。本朝の議、初めより此に及ばず」と。陳宣帝は乃ち止む。杲、石頭に還り至る。又た遣わして之に謂いて曰く、「若し合従して共に齊氏を図らんと欲せば、樊・鄧を以て見与し、以て信を表すべし」と。杲答えて曰く、「合従して齊を図るは、豈に唯だ弊邑の利のみならんや。須らく城鎮を要すべく、宜しく之を齊に待つべし。先ず漢南を索むるは、使者敢へて命を聞かず」と。還りて、司倉中大夫を除く。
【史評】
史臣曰く、韋・辛・皇甫の徒は、並びに関右の旧族なり。或いは組を紆らして朝に登り、官に当たるの誉れを獲、或いは旃を張りて境を出で、専対の才有り。既に国猷を茂くし、能く家業を克くす。美しいかな。