周書

巻039

卷三十九 列傳第三十一 韋瑱 梁昕 皇甫璠 辛慶之 王子直 杜杲

韋瑱

原文 韋瑱

韋瑱は字を世珍といい、京兆杜陵の人である。代々三輔の名族であった。曾祖父の恵度は、姚泓の尚書郎であった。劉義真に従って長江を渡り、宋に仕えて鎮西府司馬・順陽太守となり、南雍州の事務を代行した。後に襄陽において魏に帰順し、中書侍郎に任ぜられ、安西将軍・洛州刺史を追贈された。祖父の千雄は、略陽郡守であった。父の英は、代郡守となり、兗州刺史を追贈された。

原文 韋瑱字世珍,京兆杜陵人也。世為三輔著姓。曾祖惠度,姚泓尚書郎。隨劉義真過江,仕宋為鎮西府司馬、順陽太守,行南雍州事。後於襄陽歸魏,拜中書侍郎,贈安西將軍、洛州刺史。祖千雄,略陽郡守。父英,代郡守,贈兗州刺史。

瑱は幼くして聡明で機敏であり、早熟の器量があり、郷里の人々は皆これを敬い異としていた。志を篤くして学問を好み、騎射にも長じていた。魏の孝昌三年、初めて官に就き太尉府法曹参そうしん軍となった。やがて直後に転じ、明威将軍・雍州治中に任ぜられ、鎮遠将軍・防城州将を仮となった。累進して諫議大夫・冠軍将軍となった。

原文 瑱幼聰敏,有夙成之量,閭里咸敬異之。篤志好學,兼善騎射。魏孝昌三年,起家太尉府法曹參軍。稍遷直後,除明威將軍、雍州治中,假鎮遠將軍、防城州將。累遷諫議大夫、冠軍將軍。

太祖が丞相となると、前将軍・太中大夫を加えられ、長安ちょうあん県男に封ぜられ、食邑三百戸を与えられた。行台左丞に転じ、撫軍将軍・銀青光禄大夫を加えられ、使持節・都督ととく南郢州諸軍事・南郢州刺史に昇進した。再び入朝して行台左丞となった。瑱は明察で実務の才幹があり、二度左轄(行台左丞)の職に就き、当時の論評はこれを栄誉とした。弘農奪還に従い、沙苑の戦いに加わり、衛大将軍・左光禄大夫を加えられた。また河橋の戦いに従い、爵位を子に進められ、食邑二百戸を増やされた。大統八年、斉の神武帝が汾州・絳州に侵攻すると、瑱は太祖に従ってこれを防いだ。軍が帰還すると、瑱に本官のまま蒲津関を鎮守させ、中潬城主を兼ねさせた。まもなく蒲州総管府長史に任ぜられた。ほどなくして召されて鴻臚卿に任ぜられた。名族であることから、郷兵を兼ねて統率し、帥都督を加えられた。大都督・通直散騎常侍さんきじょうじに昇進し、京兆郡の事務を代行し、車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍に進んだ。

原文 太祖為丞相,加前將軍、太中大夫,封長安縣男,食邑三百戶。轉行臺左丞,加撫軍將軍、銀青光祿大夫,遷使持節、都督南郢州諸軍事、南郢州刺史。復入為行臺左丞。瑱明察有幹局,再居左轄,時論榮之。從復弘農,戰沙苑,加衞大將軍、左光祿大夫。又從戰河橋,進爵為子,增邑二百戶。大統八年,齊神武侵汾、絳,瑱從太祖禦之。軍還,令瑱以本官鎮蒲津關,帶中潬城主。尋除蒲州總管府長史。頃之,徵拜鴻臚卿。以望族,兼領鄉兵,加帥都督。遷大都督、通直散騎常侍,行京兆郡事,進車騎大將軍、儀同三司、散騎常侍。

魏の恭帝二年、宇文氏の姓を賜った。三年、瓜州諸軍事・瓜州刺史に任ぜられた。州は西域に通じ、蕃夷が往来し、前後の刺史は多く賄賂を受け取っていた。胡の賊が辺境を侵犯しても、防ぐことができなかった。瑱は生来清廉で倹約であり、武略も兼ね備えていた。蕃夷からの贈り物は、一切受け取らなかった。胡人はその威を畏れ、敢えて寇と為らなかった。公私ともに平穏であり、夷夏ともにこれを慕った。

原文 魏恭帝二年,賜姓宇文氏。三年,除瓜州諸軍事、瓜州刺史。州通西域,蕃夷往來,前後刺史,多受賂遺。胡寇犯邊,又莫能禦。瑱雅性清儉,兼有武略。蕃夷贈遺,一無所受。胡人畏威,不敢為寇。公私安靜,夷夏懷之。

孝閔帝が即位すると、爵位を平斉県伯に進められ、食邑五百戸を増やされた。任期が満ちて京に帰還する際、官吏や民衆は慕い惜しみ、老若が追い送り、十数日間引き留められて、ようやく州境を出ることができた。世宗はこれを嘉し、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に進めて授けた。武成三年、卒去した。時に六十一歳であった。岐州・宜州の二州刺史を追贈された。諡は恵といった。天和二年、さらに公に追封され、食邑を増やして以前と合わせて三千戸とした。そして詔してその子の峻に襲封させた。

原文 孝閔帝踐阼,進爵平齊縣伯,增邑五百戶。秩滿還京,吏民戀慕,老幼追送,留連十數日,方得出境。世宗嘉之,進授侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司。武成三年,卒,時年六十一。贈岐宜二州刺史。諡曰惠。天和二年,又追封為公,增邑通前三千戶。仍詔其子峻襲。

峻は後に車騎大将軍・儀同三司の位に至った。峻の弟の師は、初めて官に就き中外府記室となり、兵部小府下大夫を歴任した。建徳末年、蒲州総管府中郎となり、河東郡の事務を代行した。

原文 峻後位至車騎大將軍、儀同三司。峻弟師,起家中外府記室,歷兵部小府下大夫。建德末,蒲州總管府中郎,行河東郡事。

梁昕

原文 梁昕

梁昕は字を元明といい、安定烏氏の人である。代々関中の名族であった。その祖先は官職のため、京兆の盩厔に移り住んだ。祖父の重耳は、漳県令であった。父の勧儒は、州主簿・冠軍将軍・中散大夫となり、涇州刺史を追贈された。

原文 梁昕字元明,安定烏氏人也。世為關中著姓。其先因官,徙居京兆之盩厔焉。祖重耳,漳縣令。父勸儒,州主薄、冠軍將軍、中散大夫,贈涇州刺史。

昕は若い頃から温和で恭しく、州里で称えられた。正光五年、秦隴で乱が起こり、蕭宝夤が大都督となり、兵を統率して討伐に出ると、昕を行台参軍とした。孝昌初年、蕩寇将軍に任ぜられ、やがて驤威将軍・給事中に昇進した。引き続き宝夤に従って万俟醜奴を征討した。二年間相持し、前後数十回の戦いがあり、功績により征西将軍に進んだ。爾朱天光が関中に入ると、再び召し出して外兵参軍とした。天光に従って征討し、右将軍・太中大夫に任ぜられた。

原文 昕少溫恭,見稱州里。正光五年,秦隴搆亂,蕭寶夤為大都督,統兵出討,以昕為行臺參軍。孝昌初,拜盪寇將軍,稍遷驤威將軍、給事中。仍從寶夤征万俟醜奴。相持二年,前後數十戰,以功〈(封)〉〔進〕征西將軍。爾朱天光入關,復引為外兵參軍。從天光征討,拜右將軍、太中大夫。

太祖が魏の孝武帝を迎えた時、軍は雍州に駐屯した。昕は三輔の名族として謁見した。太祖は昕の容貌が立派で堂々としているのを見て、深く賞賛し異とした。すぐに右府長流参軍に任じた。大統初年、鎮南将軍・金紫光禄大夫を加えられ、丞相府戸曹参軍に転じた。弘農奪還に従い、沙苑の戦いに加わり、いずれも功績があった。車騎将軍・丞相府主簿に任ぜられた。出向して洛安郡守となり、召されて大将軍行台兵部郎中に任ぜられ、帥都督を加えられた。十二年、河南郡守に任ぜられ、大塢を鎮守した。まもなく閻韓に移って鎮守した。辺境の堡塁を防備し、誠信を大いに顕著にした。東荊州刺史に昇進した。昕は仁恵をもって撫育し、蛮夷はこれを喜び、流民で帰順する者が相次いでやって来た。安定県子に封ぜられ、食邑三百戸を与えられた。累進して大都督・車騎大将軍・散騎常侍・儀同三司となった。

原文 太祖迎魏孝武,軍次雍州。昕以三輔望族上謁。太祖見昕容貌瓌偉,深賞異之。即授右府長流參軍。大統初,加鎮南將軍、金紫光祿大夫,轉丞相府戶曹參軍。從復弘農,戰沙苑,皆有功。除車騎將軍、丞相府主簿。出為洛安郡守,徵拜大將軍行臺兵部郎中,加帥都督。十二年,除河南郡守,鎮大塢。尋又移鎮閻韓。式遏邊壘,甚著誠信。遷東荊州刺史。昕撫以仁惠,蠻夷悅之,流民歸附者,相繼而至。封安定縣子,邑三百戶。累遷大都督、車騎大將軍、散騎常侍、儀同三司。

孝閔帝が即位すると、位を驃騎大将軍・開府儀同三司に進めた。世宗の初年、爵位を胡城県伯に進め、食邑五百戸を与えた。三年、九曲城主に任ぜられた。保定元年、中州刺史に転じ、食邑八百戸を増やし、邵州刺史に転じた。二年、母の喪のため官を去った。まもなく元の官職に復帰した。天和初年、召されて工部中大夫に任ぜられた。出向して陝州総管府長史となった。昕の性質は温和で寛大であり、実務の才能があった。内外の官職を歴任し、いずれも名声があった。まもなく在官のまま卒去した。大将軍を追贈され、諡は貞といった。

原文 孝閔帝踐阼,進位驃騎大將軍、開府儀同三司。世宗初,進爵胡城縣伯,邑五百戶。三年,除九曲城主。保定元年,遷中州刺史,增邑八百戶,轉邵州刺史。二年,以母喪去職。尋起復本任。天和初,徵拜工部中大夫。出為陝〈(西)〉〔州〕總管府長史。昕性溫裕,有幹能。歷官內外,咸著聲稱。尋卒於位。贈大將軍,諡曰貞。

昕の弟の栄は、匠師下大夫、中外府中郎、蕃部・郡伯・司倉・計部下大夫、開府儀同三司、朝那県伯の位を歴任し、涇州・寧州・豳州の三州刺史を追贈され、諡は靜といった。

原文 昕弟榮,歷位匠師下大夫,中外府中郎,蕃部、郡伯、司倉、計部下大夫,開府儀同三司,朝那縣伯,贈涇寧豳三州刺史,諡曰靜。

皇甫璠

原文 皇甫璠

皇甫璠は字を景瑜といい、安定三水の人である。代々西州の名族であったが、後に京兆に移り住んだ。父の和は、本州の治中であった。大統末年、散騎常侍・儀同三司・涇州刺史を追贈された。

原文 皇甫璠字景瑜,安定三水人也。世為西州著姓,後徙居京兆焉。父和,本州治中。大統末,追贈散騎常侍、儀同三司、涇州刺史。

辛璠は若くして忠実で慎み深く、才幹と謀略を備えていた。永安年間(528-530)に州都督に辟召された。太祖(宇文泰)が州牧となると、主簿に補任された。勤務ぶりが認められ、しばしば褒賞を受けた。大統四年(538)、丞相府行参軍に抜擢された。まもなく田曹参軍・東閤祭酒に転じ、散騎侍郎を加えられた。次第に兼太常少卿・都水使者に昇進し、蕃部・兵部・虞部・民部・吏部などの諸曹郎中を歴任した。六官が建てられると、計部下大夫に任じられた。

原文 璠少忠謹,有幹略。永安中,辟州都督。太祖為牧,補主薄。以勤事被知,每蒙襃賞。大統四年,引為丞相府行參軍。尋轉田曹參軍、東閤祭酒,加散騎侍郎。稍遷兼太常少卿、都水使者,歷蕃部、兵部、虞部、民部、吏部等諸曹郎中。六官建,拜計部下大夫。

孝閔帝が即位すると、守廟下大夫に転じた。選ばれて東道大使となり、州や防備の巡察・慰撫に当たった。まもなく車騎大将軍・儀同三司を加えられ、長楽県子に封ぜられ、邑五百戸を賜った。玉壁総管府長史として出向した。保定年間(561-565)に鴻州刺史に昇進し、中央に召還されて小納言となった。ほどなく隴右総管府司馬に任ぜられ、さらに陝州総管府長史に転じた。召還されて蕃部中大夫に任ぜられ、驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。再び隴右総管府長史として出向した。辛璠は性質が温和で、小心に法を奉じ、分を守り志を保ち、常に清廉潔白を以て自ら処した。当時、善人と称された。

原文 孝閔帝踐阼,轉守廟下大夫。以選為東道大使,撫巡州防。尋加車騎大將軍、儀同三司,封長樂縣子,邑五百戶。出為玉壁總管府長史。保定中,遷鴻州刺史,入為小納言。俄除隴右總管府司馬,轉陝州總管府長史。徵拜蕃部中大夫,進驃騎大將軍、開府儀同三司。復出為隴右總管府長史。璠性平和,小心奉法,安分守志,恆以清白自處。當時號為善人。

建徳元年(572)、民部中大夫に任ぜられた。三年(574)、随州刺史を授けられた。政務は簡素で慈恵を旨とし、民衆は安んじた。その年、邑が加増され、以前の分と合わせて二千戸となった。六年(577)、在官のまま卒去した。交州・渭州の二州刺史を追贈された。諡は恭といった。子の辛諒は、若くして名を知られた。大象年間(579-580)、吏部下大夫の位に至った。

原文 建德元年,除民部中大夫。三年,授隨州刺史。政存簡惠,百姓安之。其年,增邑并前二千戶。六年,卒於位。贈交渭二州刺史。諡曰恭。子諒,少知名。大象中,位至吏部下大夫。

辛慶之

原文 辛慶之

辛慶之、字は慶之、隴西狄道の人である。代々隴右の名族であった。父の辛顕崇は、馮翊郡ひょうよくぐん太守となり、雍州刺史を追贈された。

原文 辛慶之字慶之,隴西狄道人也。世為隴右著姓。父顯崇,馮翊郡守,贈雍州刺史。

辛慶之は若くして文才により洛陽らくように召され、策試で第一となり、秘書郎に任ぜられた。ちょうど爾朱氏が乱を起こし、魏の孝荘帝が司空しくう楊津を北道行臺とし、山東の諸軍を統率させて討伐させた。楊津は辛慶之を行臺左丞に起用し、参謀・謀議を司らせた。鄴に至った時、孝荘帝が急に崩御したと聞き、そこで兗州・冀州の間に出て、義兵を結集し、国の難に赴こうと図った。ほどなく節閔帝が立つと、洛陽に帰還した。普泰二年(532)、平北将軍・太中大夫に昇進した。賀抜岳が行臺となると、再び辛慶之を行臺吏部郎中・開府掾に起用した。まもなく雍州別駕に任ぜられた。

原文 慶之少以文學徵詣洛陽,對策第一,除祕書郎。屬爾朱氏作亂,魏孝莊帝令司空楊津為北道行臺,節度山東諸軍以討之。津啟慶之為行臺左丞,典參謀議。至鄴,聞孝莊帝暴崩,遂出兗、冀間,謀結義徒,以赴國難。尋而節閔帝立,乃還洛陽。普泰二年,遷平北將軍、太中大夫。及賀拔岳為行臺,復啟慶之為行臺吏部郎中、開府掾。尋除雍州別駕。

大統初年(535)、車騎将軍を加えられ、ほどなく衛大将軍・左光禄大夫に昇進した。後に太祖が東征した際、行臺左丞となった。当時、河東を回復したばかりで、本官のまま塩池都将を兼ねた。四年(538)、東魏が正平郡を攻め落とし、ついで塩池を攻略しようとしたが、辛慶之は守備が整っていたため、軍を退却させた。河橋の戦いでは、大軍が不利となり、河北の守令は城を捨てて逃げたが、辛慶之はただ一人塩池に拠り、強敵に抵抗した。当時の論評は彼の仁勇を称えた。六年(540)、河東郡の事務を代行した。九年(543)、中央に入り丞相府右長史となり、給事黄門侍郎を兼ね、度支尚書に任ぜられた。再び河東郡の事務を代行した。通直散騎常侍・南荊州刺史に転じ、儀同三司を加えられた。

原文 大統初,加車騎將軍,俄遷衞大將軍、左光祿大夫。後太祖東討,為行臺左丞。時初復河東,以本官兼鹽池都將。四年,東魏攻正平郡,陷之,遂欲經略鹽池,慶之守禦有備,乃引軍退。河橋之役,大軍不利,河北守令棄城走,慶之獨因鹽池,抗拒彊敵。時論稱其仁勇。六年,行河東郡事。九年,入為丞相府右長史,兼給事黃門侍郎,除度支尚書。復行河東郡事。遷通直散騎常侍、南荊州刺史,加儀同三司。

辛慶之は地位と待遇は高かったが、質素な生活を貫き、車馬や衣服も華美を求めなかった。志操と度量は穏やかで、儒者の風度があった。特に当時に重んじられた。また、経学に明るく品行を修めた者として、盧誕らと共に諸王の教授を命ぜられた。魏の廃帝二年(553)、秘書監に任ぜられた。ほどなく在官のまま卒去した。子の辛加陵は、主寝上士となった。辛慶之の族子に辛昂がいる。

原文 慶之位遇雖隆,而率性儉素,車馬衣服,亦不尚華侈。志量淹和,有儒者風度。特為當時所重。又以其經明行修,令與盧誕等教授諸王。魏廢帝二年,拜祕書監。尋卒於位。子加陵,主寢上士。慶之族子昂。

族子 辛昂

原文 族子 昂

辛昂、字は進君。数歳の時から、すでに成人したような志操と行いがあった。人相見の上手な者が、その父の辛仲略に言った。「貴方の家は代々高官を出していますが、名声・徳望・富貴、いずれもこの子に及ぶ者はおりません。」辛仲略もまた辛昂の志気を重んじ、深くその言葉に同意した。十八歳の時、侯景に辟召されて行臺郎中となり、鎮遠将軍を加えられた。侯景が後に帰順すると、辛昂は朝廷に入った。丞相府行参軍に任ぜられた。大統十四年(548)、朝廷に帰順した功績を追論され、襄城県男に封ぜられ、邑二百戸を賜り、丞相府田曹参軍に転じた。

原文 昂字進君。年數歲,便有成人志行。有善相人者,謂其父仲略曰:「公家雖世載冠冕,然名德富貴,莫有及此兒者。」仲略亦重昂志氣,深以為然。年十八,侯景辟為行臺郎中,加鎮遠將軍。景後來附,昂遂入朝。除丞相府行參軍。大統十四年,追論歸朝之勳,封襄城縣男,邑二百戶,轉丞相府田曹參軍。

尉遅迥が蜀しょくを征伐した時、辛昂は兵を募って従軍した。蜀が平定されると、功により輔国将軍、魏都督を授けられた。尉遅迥は引き続き辛昂を龍州長史に推挙し、龍安郡の事務を管轄させた。州は山谷を帯び、旧来の風俗は頑なであった。辛昂は威厳と慈恵をよく行き渡らせ、官吏や民衆は畏敬しつつも彼を慕った。成都は一方の中心地で、風俗が入り乱れていた。尉遅迥は辛昂が政務に通じているとして、再び辛昂を行成都令に推挙した。辛昂は県に着くと、すぐに諸生と共に文翁の学堂を祭り、一緒に歓宴を開いた。諸生に言った。「子は孝行し、臣は忠義を尽くし、師は厳格に、友は信義を守る。身を立てる要諦は、これだけである。もしこの言葉に従わなければ、どうして名を成せようか。各自努めて、立派な名声を成し遂げるがよい。」辛昂の言葉は切実で道理に適い、諸生らは皆深く感銘を受け、帰って父老に告げて言った。「辛君がこのように教え戒めているのだから、これに背くことはできない。」そこで町中は粛然とし、皆その教化に従った。梓潼郡太守に転じ、帥都督に進み、通直散騎常侍を加えられた。六官が建てられると、中央に入り司隷上士となり、繁昌県公の爵位を襲封した。

原文 及尉遲迥伐蜀,昂召募從軍。蜀平,以功授輔國將軍,魏都督。迥仍表昂為龍州長史,領龍安郡事。州帶山谷,舊俗生梗。昂威惠洽著,吏民畏而愛之。成都一方之會,風俗舛雜。迥以昂達於從政,復表昂行成都令。昂到縣,即與諸生祭文翁學堂,因共歡宴。謂諸生曰:「子孝臣忠,師嚴友信,立身之要,如斯而已。若不事斯語,何以成名。各宜自勉,克成令譽。」昂言切理至,諸生等並深感悟,歸而告其父老曰:「辛君教誡如此,不可違之。」於是井邑肅然,咸從其化。遷梓潼郡守,進位帥都督,加通直散騎常侍。六官建,入為司隸上士,襲爵繁昌縣公。

世宗(明帝)の初め、天官府上士を授けられ、大都督を加えられた。武成二年(560)、小職方下大夫を授けられ、小兵部を管轄した。保定二年(562)、車騎大将軍・儀同三司に進み、小吏部に転じた。四年(564)、大軍が東征した際、辛昂は大将軍権景宣と共に豫よ州を攻略し、功により布帛二百匹を賞賜された。

原文 世宗初,授天官府上士,加大都督。武成二年,授小職方下大夫,治小兵部。保定二年,進車騎大將軍、儀同三司,轉小吏部。四年,大軍東討,昂與大將軍權景宣下豫州,以功賞布帛二百匹。

当時、益州は豊かで、軍国が必要とする物資を供給していた。経路は険しく、しばしば盗賊に苦しめられていた。詔により辛昂は梁州・益州に派遣され、軍務・民政の一切を委ねられた。辛昂は荒廃した頑なな地を慰撫・指導し、城鎮を整備し、数年の中で、かなり平穏を得た。天和初年(566)、陸騰が信州の諸蛮を討伐したが、時を経ても平定できなかった。高祖こうそ(武帝)は詔を下し、辛昂に通州・渠州などの諸州で食糧を輸送させて補給させた。当時、臨州・信州・楚州・合州などの諸州の民衆も多く反乱に加わっていた。辛昂は禍福を説き明かすと、赴く者が帰郷するかのようであった。そこで老弱者に食糧を運ばせ、壮丁に戦わせ、皆が使われることを望み、怨む者はなかった。使いを終えて帰還する途中、巴州万栄郡の民が反乱し、郡城を包囲攻撃し、山路を遮断していることに遭遇した。辛昂は同行者に言った。「凶悪な奴らが狂逆にも、ここまでするとは!もし上聞を待っていれば、あるいは十日も一月もかかり、孤立した城は援軍なく、必ず賊の手に落ちよう。近くで溺れる者を救おうとするのに、どうして遠く越人の助けを求める暇があろうか。もし百姓のためになるならば、専断してもよい。」そこで開州・通州の二州で募兵し、三千人を得て、倍の速度で行軍し、不意を突いた。また配下の者たちに皆、中国(中原)の歌を歌わせ、まっすぐ賊の陣営に向かわせた。賊はもはや警戒しておらず、大軍が救援に赴いたと思い、そこで風の便りに瓦解し、郡内は平穏を得た。朝廷は彼が臨機応変に事を成し遂げたことを賞賛し、梁州総管・杞国公宇文亮に詔して、軍中で辛昂に奴婢二十人・繒綵四百匹を賞賜させた。宇文亮はまた辛昂の威信が宕渠に広まっているとして、彼を渠州刺史に推挙した。まもなく通州刺史に転じた。辛昂は誠意と信義を示し、夷獠の歓心を大いに得た。任期を満了して帰京すると、首領らは皆辛昂に従って宮廷に参朝した。辛昂が夷と華をよく教化したとして、驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。

原文 時益州殷阜,軍國所資。經塗艱險,每苦劫盜。詔昂使於梁、益,軍民之務,皆委決焉。昂撫導荒梗,安置城鎮,數年之中,頗得寧靜。天和初,陸騰討信州羣蠻,歷時未克。高祖詔昂便於通、渠等諸州運糧饋之。時臨、信、楚、合等諸州民庶,亦多從逆。昂諭以禍福,赴者如歸。乃令老弱負糧,壯夫拒戰,咸願為用,莫有怨者。使還,屬巴州萬榮郡民反叛,攻圍郡城,遏絕山路。昂謂其同侶曰:「凶奴狂悖,一至於此!若待上聞,或淹旬月,孤城無援,必淪寇黨。欲救近溺,寧暇遠求越人。苟利百姓,專之可也。」於是遂募開、通二州,得三千人,倍道兼行,出其不意。又令其眾皆作中國歌,直趣賊壘。賊既不以為虞,謂有大軍赴救,於是望風瓦解,郡境獲寧。朝廷嘉其權以濟事,詔梁州總管、杞國公亮即於軍中賞昂奴婢二十口、繒綵四百匹。亮又以昂威信布於宕渠,遂表為渠州刺史。俄轉通州刺史。昂推誠布信,甚得夷獠歡心。秩滿還京,首領皆隨昂詣闕朝覲。以昂化洽夷華,進位驃騎大將軍、開府儀同三司。

当時、晋公宇文護が政権を執っており、辛昂は次第に宇文護に親しく遇されたため、高祖はこのことをかなり恨みに思っていた。宇文護が誅殺されると、辛昂は鞭打ちの刑に処せられ、それがもとで死去した。

原文 時晉公護執政,昂稍被護親待,高祖以是頗銜之。及護誅,加之捶楚,因此遂卒。

辛昂の同族の辛仲景は、学問を好み、雅量があった。その高祖父の辛欽は、後趙の吏部尚書・雍州刺史となり、子孫はそこで家を構えた。父の辛歓は、魏の隴州刺史・宋陽公となった。辛仲景は十八歳で文学に挙げられ、策試で高い成績を得た。司空府主簿に任ぜられ、員外散騎侍郎に昇進した。建徳年間(572-578)、内史下大夫・開府儀同三司の位に至った。在官のまま卒去した。子の辛衡。

原文 昂族人仲景,好學,有雅量。其高祖欽,後趙吏部尚書、雍州刺史,子孫因家焉。父歡,魏隴州刺史、宋陽公。仲景年十八,舉文學,對策高第。拜司空府主簿,遷員外散騎侍郎。建德中,位至內史下大夫、開府儀同三司。卒於官。子衡。

王子直

原文 王子直

王子直、字は孝正、京兆杜陵の人である。代々郡の右族であった。父の琳は、州主簿・東雍州長史を務めた。

原文 王子直字孝正,京兆杜陵人也。世為郡右族。父琳,州主簿、東雍州長史。

子直は性質が節倹で、幹才能力があった。魏の正光年間、州から主簿に辟召され、奉朝請を初官とした。太尉府水曹行参軍に任じられ、明威将軍を加えられた。時に梁の軍が寿春を包囲したので、臨淮王元彧が軍を率いて救援に赴き、子直は本官のまま元彧の軍事に参じた。梁軍と戦い、その軍主夏侯景超を斬り、梁軍は退いた。淮南の民衆は兵乱の後もなお集まって盗賊となっていた。元彧は子直にこれを招撫させると、十日ほどの間に皆が来て旧業に復し、合肥以北は以前のように安堵した。永安初年、員外散騎常侍・鴻臚少卿に任じられた。普泰初年、後軍将軍・太中大夫に進んだ。賀抜岳が関中に入ると、子直を開府主簿とし、行臺郎中に遷した。魏の孝武帝が西遷すると、山北県男に封じられ、邑二百戸を賜った。

原文 子直性節儉,有幹能。魏正光中,州辟主簿,起家奉朝請。除太尉府水曹行參軍,加明威將軍。時梁人圍壽春,臨淮王元彧率軍赴援,子直以本官參彧軍事。與梁人戰,斬其軍主夏侯景超,梁人乃退。淮南民庶因兵寇之後,猶聚為盜。彧令子直招撫之,旬日之間,咸來復業,自合肥以北,安堵如舊。永安初,拜員外散騎常侍、鴻臚少卿。普泰初,進後軍將軍、太中大夫。賀拔岳入關,以子直為開府主簿,遷行臺郎中。魏孝武西遷,封山北縣男,邑二百戶。

大統初年、漢熾屠各が南山で兵を擁して抵抗し、隴東屠各と共に脣歯の関係となった。太祖(宇文泰)は子直に涇州の歩騎五千を率いて討伐させてこれを破り、南山は平定された。太祖はこれを嘉し、書を賜って労問した。尚書左外兵郎中に任じられた。三年、車騎将軍に進み、中書舎人を兼ねた。四年、太祖に従って洛陽の包囲を解き、河橋の戦いを経て、尚書左丞を兼ね、出て秦州総管府司馬となった。時に涼州刺史宇文仲和が州を拠てて命に逆らったので、子直は隴右大都督独狐信に従ってこれを討平した。再び入朝して大行臺郎中となり、丞相府記室を兼ねた。吐谷渾が西平を寇すと、子直に尚書兵部郎中を兼ねさせ、隴右に出てこれを経略させ、長寧川で渾の軍勢を大破し、渾賊は遁走した。十五年、車騎将軍・左光禄大夫に進み、太子中庶子に任じられ、斉王友を領した。まもなく馮翊郡の事を行った。十六年、魏の斉王元廓が秦隴に出牧すると、再び子直を秦州別駕とし、引き続き王友を領させた。随・陸が初めて平定されると、安州長史を授かり、別駕を領し、帥都督を加えられた。幷州長史に転じた。

原文 大統初,漢熾屠各阻兵於南山,與隴東屠各共為脣齒。太祖令子直率涇州步騎五千討破之,南山平。太祖嘉之,賜書勞問。除尚書左外兵郎中。三年,進車騎將軍,兼中書舍人。四年,從太祖解洛陽圍,經河橋戰,兼尚書左丞,出為秦州總管府司馬。時涼州刺史宇文仲和據州逆命,子直從隴右大都督獨孤信討平之。復入為大行臺郎中,兼丞相府記室。吐谷渾寇西平,以子直兼尚書兵部郎中,出隴右經略之,大破渾眾於長寧川,渾賊遁走。十五年,進車騎將軍、左光祿大夫,除太子中庶子,領齊王友。尋行馮翊郡事。十六年,魏齊王廓出牧秦隴,復以子直為秦州別駕,仍領王友。隨、陸初平,授安州長史,領別駕,加帥都督。轉幷州長史。

魏の廃帝元年、使持節・大都督に任じられ、瓜州の事を行った。子直は性質が清静で、徳政をもって民を教化することを務め、西方の地は喜んで帰附した。魏の恭帝初年、召されて黄門侍郎に任じられた。任中で卒した。子の宣礼は、柱国府参軍事となった。

原文 魏廢帝元年,拜使持節、大都督,行瓜州事。子直性清靜,務以德政化民,西土悅附。魏恭帝初,徵拜黃門侍郎。卒於位。子宣禮,柱國府參軍事。

杜杲

原文 杜杲

杜杲、字は子暉、京兆杜陵の人である。祖父の建は、魏の輔国将軍、豫州刺史を追贈された。父の皎は、儀同三司・武都郡守であった。

原文 杜杲字子暉,京兆杜陵人也。祖建,魏輔國將軍,贈豫州刺史。父皎,儀同三司、武都郡守。

杲は経史に学識を広め、当世の幹略があった。その族父の瓚は、清廉貞潔で識見があり、深く彼を器重した。常に「我が家の千里駒なり」と言った。瓚は当時魏に仕えて黄門侍郎、度支尚書・衛大将軍・西道行臺を兼ね、孝武帝の妹新豊公主を尚めとり、これによって朝廷に推薦した。永熙三年、奉朝請を初官とし、累遷して輔国将軍・成州長史・漢陽郡守となった。世宗(宇文毓)の初年、脩城郡守に転じた。時に鳳州の仇周貢らが乱を構え、脩城を攻め逼ったが、杲は民に信義が通じていたので、管内には遂に叛く者はなかった。まもなく開府趙昶ら諸軍が進討し、杲は郡兵を率いて趙昶と合流し、遂にこれを破って平定した。入朝して司会上士となった。

原文 杲學涉經史,有當世幹略。其族父瓚,清貞有識鑒,深器重之。常曰:「吾家千里駒也。」瓚時仕魏為黃門侍郎,兼度支尚書、衞大將軍、西道行臺,尚孝武妹新豐公主,因薦之於朝廷。永熙三年,起家奉朝請,累遷輔國將軍、成州長史、漢陽郡守。世宗初,轉脩城郡守。屬鳳州人仇周貢等搆亂,攻逼脩城,杲信洽於民,部內遂無叛者。尋而開府趙昶諸軍進討,杲率郡兵與昶合勢,遂破平之。入為司〈(命)〉〔會〕上士。

初め、陳の文帝の弟安成王陳頊が梁に人質となっていたが、江陵平定の際、陳頊は例に従って長安に遷された。陳人がその返還を請うたので、太祖は許したが未だ送り返さなかった。この時、帝(宇文毓)は彼を帰そうとし、杜杲を使者として派遣した。陳の文帝は大いに喜び、直ちに使者を派遣して聘問に報い、併せて黔中の数州の地を賂まいらせた。さらに境界を画定して分け、永く隣好を厚くすることを請うた。杜杲が使命を旨に叶えて果たしたので、都督に進めて授け、小御伯を治めさせ、さらに派遣して境界を分けさせた。陳人はこれによって魯山を我が朝に帰属させた。帝はそこで陳頊を柱国大将軍に拝し、詔して杜杲に送って帰国させた。陳の文帝は杜杲に言った。「家弟が今礼を以て送り返されるのは、実に周朝の恩恵である。しかし、あの魯山を返さなければ、恐らくここまでには至らなかったであろう。」杜杲は答えて言った。「安成王が関中にいるのは、咸陽の一布衣に過ぎません。しかしそれは陳の介弟であり、その価値は豈に一城に止まりましょうか。本朝は九族を親睦にし、己を恕して物に及ぼし、上は太祖の遺旨を遵奉し、下は継好の義を思う。徳音を発する所以は、蓋しこの為です。もし魯山と同等であると知るならば、固より一鎮を貪ることはないでしょう。況んや魯山は梁の旧地であり、梁は即ち本朝の蕃臣です。始末を以て言うならば、魯山は自ら国に帰すべきものです。尋常の土地を以て、己が骨肉の親を易えるなどと、使臣と雖もなお不可と謂うのに、どうして朝廷に聞かせることができましょうか。」陳の文帝は久しく慚恧し、乃ち言った。「先の言葉は戯れに言っただけだ。」これより接遇は常礼に増した。杜杲が帰還する際、殿に昇らせ、自ら御座を降り、手を執って別れた。朝廷はこれを嘉し、大都督・小載師下大夫を授け、小納言を治めさせ、再び陳に聘問させた。中山公宇文訓が蒲州総管となると、杜杲を府司馬・州治中とし、州府の事を知らせた。使持節・車騎大将軍・儀同三司を加えられた。

原文 初,陳文帝弟安成王頊為質於梁,及江陵平,頊隨例遷長安。陳人請之,太祖許而未遣。至是,帝欲歸之,命杲使焉。陳文帝大悅,即遣使報聘,并賂黔中數州之地。仍請畫野分疆,永敦隣好。以杲奉使稱旨,進授都督,治小御伯,更往分界焉。陳人於是以魯山歸我。帝乃拜頊柱國大將軍,詔杲送之還國。陳文帝謂杲曰:「家弟今蒙禮遣,實是周朝之惠。然不還彼魯山,亦恐未能及此。」杲答曰:「安成之在關中,乃咸陽一布衣耳。然是陳之介弟,其價豈止一城。本朝親睦九族,恕己及物,上遵太祖遺旨,下思繼好之義。所以發德音者,蓋為此也。若知止侔魯山,固當不貪一鎮。況魯山梁之舊地,梁即本朝蕃臣,若以始末言之,魯山自合歸國。云以尋常之土,易己骨肉之親,使臣猶謂不可,何以聞諸朝廷。」陳文帝慚恧久之,乃曰:「前言戲之耳。」自是接遇有加常禮。及杲還,命引升殿,親降御座,執手以別。朝廷嘉之,授大都督、小載師下大夫,治小納言,復聘於陳。中山公訓為蒲州總管,以杲為府司馬、州治中,兼知州府事。加使持節、車騎大將軍、儀同三司。

華皎が来附すると、詔して衛公宇文直に元定らを督してこれを救援させた。陳軍と交戦し、我が軍は利あらず、元定らは共に没した。これより、兵を連ねて止まず、東南は騒動した。高祖(宇文邕)はこれを憂い、乃ち杜杲を御正中大夫に任じ、〔陳に使いし、保境息民の意を論ぜしめた。陳の宣〕〔帝はその黄門侍郎徐陵を遣わして杜杲に謂いて曰く、「両国が通好するは、本より患いを救い災いを分かたんと欲するに在り。彼の朝、我が叛人を受くるは、何ぞや。」杲答えて曰く、「陳主、昔本朝に在りし時、義を慕いて至れるに非ず。上、柱国を授け、位人臣を極め、子女玉帛、礼を備えて将に送らんとす。遂に社稷を主とす。孰れか恩に非ずと謂わんや。郝烈の徒は、辺民の狂狡にして、未だ徳に報いずして先ず之を納る。今華氏を受くるは、正に相報ゆるなり。過ちは彼より始まる。豈に本朝に在らんや。」陵曰く、「彼華皎を納るるは、志は吞噬ぜいを図るに在り。此れ郝烈を受くるは、容るるのみ。且つ華皎は方州の列将にして、邑を窃み叛亡す。郝烈は一百許戸、身を脱して逃竄す。大小異なる有り。豈に同年にして語るべきや。」杲曰く、「大小は殊なるも、降を受くるは一なり。若し先後を論ずれば、本朝に失無し。」陵曰く、「周朝、主上を送りて国に還すは、既に以て恩と為す。衛公、元定を共に渡江せしむるは、孰れか怨に非ずと云わん。恩と怨とを計るに、亦た足りて相埒す。」杲曰く、「元定ら兵敗れて身囚われ、其の怨は已に滅ぶ。陳主負扆して玉に馮る、其の恩は猶在り。且つ怨は彼の国に由り、恩は本朝に起こる。怨を以て恩に酬ゆるは、未だ之を聞かず。」陵乃ち笑って答えず。杲因り之に謂いて曰く、「今三方鼎立し、各進取を図る。苟くも釁隙有らば、実に敵心を啓く。本朝と陳とは、日に隣睦を敦くし、輶軒往返し、歳年を積む。比来疆埸の事に為り、遂に仇敵と為り、怨を構え兵を連ね、略々寧歳無し。鷸蚌狗兎、勢い倶に全からず。若し斉寇之に乗ずれば、則ち彼此危うし。孰れか心忿み禍を悔い、慮を遷し図を改め、陳国は争桑の心を息め、本朝は灌瓜の義を弘め、旃を張り玉を拭い、好を修めて初めの如くし、共に掎角と為り、以て斉氏を取らんに若かんや。唯に両主の慶のみに非ず、実に亦た兆庶之に頼らん。」陵具に以て聞かす。陳の宣帝之を許す。遂に使いを遣わして来聘せしむ。〕

原文 及華皎來附,詔令衞公直督元定等援之。與陳人交戰,我師不利,元定等竝沒。自是,連兵不息,東南騷動。高祖患之,乃授杲御正中大夫,〔使於陳,論保境息民之意。陳宣〕〔帝遣其黃門侍郎徐陵謂杲曰:「兩國通好,本欲救患分災,彼朝受我叛人,何也?」杲答曰:「陳主昔在本朝,非慕義而至,上授以柱國,位極人臣,子女玉帛,備禮將送,遂主社稷,孰謂非恩。郝烈之徒,邊民狂狡,曾未報德,而先納之。今受華氏,正是相報。過自彼始,豈在本朝。」陵曰:「彼納華皎,志圖吞噬。此受郝烈,容之而已。且華皎方州列將,竊邑叛亡。郝烈一百許戶,脫身逃竄。大小有異,豈得同年而語乎?」杲曰:「大小雖殊,受降一也。若論先後,本朝無失。」陵曰:「周朝送主上還國,既以為恩;衞公共元定渡江,敦云非怨。計恩之與怨,亦足相埒。」杲曰:「元定等兵敗身囚,其怨已滅。陳主負扆馮玉,其恩猶在。且怨繇彼國,恩起本朝,以怨酬恩,未之聞也。」陵乃笑而不答。杲因謂之曰:「今三方鼎立,各圖進取,苟有釁隙,實啟敵心。本朝與陳,日敦鄰睦,輶軒往返,積有歲年。比為疆埸之事,遂為仇敵,構怨連兵,略無寧歲,鷸蚌狗兔,勢不俱全。若使齊寇乘之,則彼此危矣。孰與心忿悔禍,遷慮改圖,陳國息爭桑之心,本朝弘灌瓜之義,張旃拭玉,脩好如初,共為掎角,以取齊氏。非唯兩主之慶,實亦兆庶賴之。」陵具以聞,陳宣帝許之。遂遣使來聘。〕

武帝の建德初年(572年)、司城中大夫となり、陳に使した。陳の宣帝が杲に言うには、「長湖公(元定)の軍人らは館を築いて処遇しているが、北風を恋しがらぬとも限らぬ。王褒・庾信の徒もまた関中に旅寓しており、南枝を思う心もあろう」と。杲は陳宣帝の意を推し量り、元定軍の将士を以て王褒らと交換せんと欲するものと知る。乃ち答えて曰く、「長湖公は軍を総べて律を失い、難に臨んで苟くも免るるのみ。既に節に死せず、何を用いんや。且つ猶ほ牛の一毛の如く、何ぞ損益を為さん。本朝の議、初めより此に及ばず」と。陳宣帝は乃ち止む。杲、石頭に還り至る。又た遣わして之に謂いて曰く、「若し合従して共に齊氏を図らんと欲せば、樊・鄧を以て見与し、以て信を表すべし」と。杲答えて曰く、「合従して齊を図るは、豈に唯だ弊邑の利のみならんや。須らく城鎮を要すべく、宜しく之を齊に待つべし。先ず漢南を索むるは、使者敢へて命を聞かず」と。還りて、司倉中大夫を除く。

原文 〔武帝建德初,為司城中大夫,使於陳。陳宣帝謂杲曰:「長湖公軍人等雖築舘處之,然恐不能無北風之戀。王褒、庾信之徒既羈旅關中,亦當有南枝之思耳。」杲揣陳宣意,欲以元定軍將士易王褒等。乃答之曰:「長湖總戎失律,臨難苟免,既不死節,安用以為。〕〔且猶牛之一毛,何能損益。本朝之議,初未及此。」陳宣帝乃止,杲還至石頭,又遣謂之曰:「若欲合從,共圖齊氏,能以樊、鄧見與,方可表信。」杲答曰:「合從圖齊,豈唯弊邑之利。必須城鎮,宜待之於齊。先索漢南,使者不敢聞命。」還,除司倉中大夫。〕

後四年、溫州刺史に遷り、義興縣伯の爵を賜う。大象元年、御正中大夫に徴拜され、復た陳に使す。二年、申州刺史を除き、開府儀同大將軍を加えられ、侯に進爵し、邑一千三百戶。同州司会を除く。隋の開皇元年、杲を以て同州総監と為し、公に進爵す。俄かに工部尚書に遷る。二年、西南道行臺兵部尚書を除く。尋いで疾を以て卒す。子の運、大象の末、宣納上士。杲の兄の長暉、位は儀同三司に至る。

原文 後四年,遷溫州刺史,賜爵義興縣伯。大象元年,徵拜御正中大夫,復使於陳。二年,除申州刺史,加開府儀同大將軍,進爵為侯,邑一千三百戶。除同州司會。隋開皇元年,以杲為同州總〈(管)〉〔監〕,進爵為公。俄遷工部尚書。二年,除西南道行臺兵部尚書。尋以疾卒。子運,大象末,宣納上士。杲兄長暉,位至儀同三司。

【史評】

原文 【史評】

史臣曰く、韋・辛・皇甫の徒は、並びに関右の旧族なり。或いは組を紆めぐらして朝に登り、官に当たるの誉れを獲、或いは旃はたを張りて境を出で、専対の才有り。既に国猷こくゆうを茂しげくし、能く家業を克よくす。美しいかな。

原文 史臣曰:韋、辛、皇甫之徒,並關右之舊族也。或紆組登朝,獲當官之譽;或張旃出境,有專對之才。既茂國猷,克隆家業。美矣夫!