周書

卷三十八 列傳第三十 蘇亮 柳虯 呂思禮 薛憕 薛寘 李昶 元偉

蘇亮

蘇亮は字を景順といい、武功の人である。祖父の権は、魏の中書侍郎・玉門郡守であった。父の祐は、泰山郡守であった。

亮は若くして聡明で、博学であり、文章を綴ることを好み、章奏をよくした。初め秀才に挙げられ、洛陽らくように至り、河内の常景に出会った。景は深く彼を器とし、退いて人に謂いて曰く、「秦中の才学で山東に抗しうる者は、この人であろうか」と。魏の斉王蕭寶夤は彼を参軍に引き立てた。後に寶夤が開府すると、またその府の主簿となった。寶夤に従って西征し、記室参軍に転じた。寶夤が大将軍に遷ると、なおその掾となった。寶夤は亮を重んじることをよく知り、文檄や謀議のあるごとに、皆これを彼に委ねた。まもなく武功郡の事を行い、名声と実績を大いに著した。寶夤が乱を起こすと、亮を黄門侍郎とした。亮は人間関係をよく処し、物事と対立することがなかった。寶夤が敗れると、従った者は禍に遇ったが、ただ亮だけが全きを得た。長孫稚・爾朱天光らが西討するに及び、ともに亮を郎中とし、専ら文翰を司らせた。累遷して鎮軍将軍・光禄大夫・散騎常侍さんきじょうじ・岐州大中正となった。賀拔岳が関西行臺となると、亮を左丞に引き立て、機密を司らせた。

魏の孝武帝が西遷すると、吏部郎中に除され、衛将軍・右光禄大夫を加えられた。大統二年、給事黄門侍郎に拝され、中書舎人を領した。魏文帝の子宜都王式が秦州刺史となると、亮を司馬とした。帝は亮に謂いて曰く、「黄門侍郎をどうして秦州司馬とすることができようか、ただ朕の愛子が藩に出るゆえに、心腹として委ねるのであり、恨みとするな」と。辞去に臨み、御馬を賜った。七年、また黄門郎となり、驃騎将軍を加えられた。八年、都官尚書・使持節・行北華州刺史に遷り、臨涇県子に封ぜられ、邑三百戸を賜った。中書監ちゅうしょかんに除され、著作を領し、国史を修めた。亮は機転と弁舌に富み、談笑をよくした。太祖は大いに彼を重んじた。籌議することあるごとに、多くは上意に合った。人の善を記し、人の過を忘れた。後進を推薦し、常に及ばないかのようにした。故に当世の人々は敬慕したのである。十四年、秘書監・車騎大将軍・儀同三司に除され、まもなく大行臺尚書に拝され、岐州刺史として出向した。朝廷は彼が本州の牧となることを以て、特に路車・鼓吹を与え、先にその宅に還り、併せて騎士三千を与えた。羽儀を列ね、郷党を遊歴し、故人を経過し、十日間歓飲し、その後州に入った。世はこれを栄えとした。十七年、侍中に徴されて拝された。位において卒した。本官を追贈された。

亮は若い頃、従弟の綽とともに知名であった。しかし綽の文章は少し亮に及ばず、経画進趣については、亮はまたこれに劣った。故に世は二蘇と称したのである。亮は大統以来、官を転じない年はなく、一年に三遷に至ることもあった。皆が才の至るところと言い、その速さを怪しまなかった。著した文筆数十篇は、頗る世に行われた。子の師が嗣いだ。亮の名が時に重んじられたため、初めから黄門侍郎に起家した。

弟の湛

亮の弟の湛は、字を景儁という。若くして志操と行いがあり、亮とともに西土に著名であった。二十余歳で秀才に挙げられ、奉朝請に除され、侍御史を領し、員外散騎侍郎を加えられた。蕭寶夤が西討するに当たり、湛を行臺郎中とし、深く委任された。寶夤が叛逆を謀ろうとした時、湛は病臥して家にいた。寶夤は湛の従母弟である天水の姜儉に命じて湛に謂わしめて曰く、「私は坐して死亡を受けることはできない。今や身のための計らいをし、もはや魏の臣とはならない。卿と死生栄辱を、まさに共にすべきである。故に以て報いる」と。湛はこれを聞き、声を挙げて大哭した。儉は急いでこれを止めて曰く、「どうしてすぐにそうするのか」と。湛は曰く、「家門百口は、即時に屠滅されるであろう。どうして哭さないことがあろうか」と。数十声哭した後、ゆっくりと儉に謂って曰く、「私のために斉王に申し上げよ。王はもと窮して人に帰し、朝廷が王に羽翼を仮したことにより、かくのごとき栄寵を得たのである。既に国歩多虞に属し、誠を尽くして徳に報いることができないのに、どうして人の間隙に乗じ、すぐに問鼎の心を持つことができようか。今、魏の徳は衰えたとはいえ、天命は未だ改まらず。王の恩義は、未だ民に洽わず、破亡の期は、必ずや踵を返す間もないであろう。蘇湛は終に積世の忠貞の基を以て、一朝にして王のために族滅されることはできない」と。寶夤はまた儉に命じて湛に謂わしめて曰く、「これは救命の計であり、已むを得ざるなり」と。湛はまた曰く、「凡そ大事を挙げるには、天下の奇士を得るべきである。今ただ長安ちょうあんの博徒小児の輩とこの計らいを為すに、どうして成し遂げることができようか。湛は荊棘が王の戸庭に生ずるのを見るに忍びない。骸骨を賜って旧里に還り、地下に全きを帰して、先人に愧じないことを願う」と。寶夤は平素より彼を重んじ、必ずや己のために用いられないことを知り、遂に武功に還ることを聴した。寶夤は後に果たして敗れた。

孝荘帝が即位すると、尚書郎に徴されて拝された。帝は嘗て彼に謂って曰く、「卿が蕭寶夤に答えたことを聞くに、甚だ美しい言辞があったという。私のためにそれを説いてみよ」と。湛は頓首して謝して曰く、「臣は自ら思うに、言辞は伍被に遠く及ばないが、始終易えざる点においては、窃かにこれを過ぎたと謂います。ただ臣は寶夤と周旋契闊し、言を尽くして心を用いることができたが、その節を守らしめることはできなかった。これが臣の罪です」と。孝荘帝は大いに悦び、散騎侍郎を加授した。まもなく中書侍郎に遷った。

孝武帝の初め、病により郷里に還り、家において終わった。散騎常侍・鎮西将軍・雍州刺史を追贈された。

湛の弟の譲は、字を景恕という。幼くして聡敏で、学を好み、頗る人倫の鑑識があった。初め本州の主簿となり、稍く遷って別駕・武都郡守・鎮遠将軍・金紫光禄大夫となった。太祖が丞相となると、府の属に引き立てられ、甚だ親しく遇された。衛将軍・南汾州刺史として出向した。治績に善政があった。まもなく官において卒した。車騎大将軍・儀同三司・涇州刺史を追贈された。

柳虯

柳虯は字を仲蟠といい、司会の慶の兄である。十三歳にして、専ら精を好学に注いだ。時に貴遊の子弟で学に就く者は、皆車服が華盛であったが、ただ虯のみは容飾に事とらなかった。五経を遍く授けられ、大義を略通し、兼ねて子史に博く渉り、雅に属文を好んだ。孝昌年中、揚州刺史李憲が虯を秀才に挙げ、兗州刺史馮儁が虯を府の主簿に引き立てた。既にして樊子鵠が吏部尚書となり、その兄の義が揚州となった。治中となり、鎮遠将軍を加えられたが、彼の好むところではなく、遂に官を棄てて洛陽に還った。天下喪乱に属し、乃ち陽城に退耕し、終焉の志があった。

大統三年、馮翊王元季海・領軍の獨孤信が洛陽を鎮めた。時に旧京は荒廃し、人物は極めて稀で、ただ虯が陽城に、裴諏が潁川に在るのみであった。信らは乃ちともにこれを徴し、虯を行臺郎中とし、諏を都督ととく府の属とし、ともに文翰を掌らせた。時人はこれについて語って曰く、「北府に裴諏あり、南省に柳虯あり」と。時に軍旅の務め殷く、虯は精を励まして事に従い、或いは夜を通して寝なかった。季海は嘗て云う、「柳郎中が事を判ずるなら、私は再び見直すことはない」と。四年、朝に入り、太祖は官にしようとしたが、虯は母老を理由に辞し、医薬に侍ることを乞うた。太祖はこれを許した。久しくして獨孤信の開府従事中郎となった。信が隴右に出鎮し、因って秦州刺史となると、虯を二府の司馬とした。元僚の地位にありながら、府の事を総べず、ただ信の左右で談論するのみであった。因って使わされて太祖に謁見し、留められて丞相府記室となった。帰朝の功を追論し、美陽県男に封ぜられ、邑二百戸を賜った。

虯は、史官が密かに善悪を記すことは、未だ懲勧に足りないと考えた。乃ち上疏して曰く、

事は遂に行われた。

十四年、秘書丞に任ぜられる。秘書省は著作を管轄するが、史事には参与せず、虯が丞となって初めて監掌させた。十六年、中書侍郎に遷り、起居注を修め、引き続き丞の職務を兼ねる。当時文体を論ずる者に古今の異同があった。虯はまた時に今古あるも、文に今古あるにあらずとし、文質論を著す。文は多く掲載されない。魏の廃帝の初め、秘書監に遷り、車騎大将軍・儀同三司を加えられる。

虯は人間関係を粗略にし、細かい節義にこだわらず、粗末な衣服と粗食を改めなかった。ある人がこれをあざ笑うと、虯は言う、「衣服は体に適うに過ぎず、食物は飢えを満たすに過ぎぬ。せっせと営み求めるは、ただ思慮を徒労するのみである」と。魏の恭帝元年の冬、卒す。時に五十四歳。兗州刺史を追贈される。諡して孝という。文章数十篇あり、世に行われる。子の鴻漸が嗣ぐ。

呂思禮

呂思礼は、東平郡寿張県の人である。性質は温和で、交遊を濫りにせず。十四歳の時、徐遵明に学びを受ける。論難に長じていた。諸生が彼のために語った、「書を講じ易を論ずれば、その鋒敵うべからず」と。十九歳で秀才に挙げられ、対策で高第となる。相州功曹参そうしん軍に任ぜられる。葛栄が鄴を包囲した時、思礼は守禦の勲功があり、平陸県伯の爵を賜り、欒城県令に任ぜられる。普泰年間、僕射司馬子如が推薦して尚書二千石郎中とする。まもなく地寒(家柄が低いこと)により出され、国子博士を兼ねる。そこで関西大行臺の賀抜岳を求め、重んぜられる。機密を専掌し、当時の称誉を得た。

岳が侯莫陳悦に害せられた時、趙貴らが赫連達を遣わして太祖を迎えることを議し、思礼はその謀に参与した。太祖が関西大都督となると、思礼を府長史とし、まもなく行臺右丞に任ず。魏の孝武帝を迎えた功により、汝陽県子に封ぜられ、邑四百戸を賜り、冠軍将軍を加えられ、黄門侍郎に拝される。魏の文帝が即位すると、著作郎を領し、安東将軍・都官尚書に任ぜられ、七兵・殿中の二曹事を兼ねる。竇泰を擒えるに従い、侯に進爵し、邑八百戸となる。大統四年、朝政を誹謗した罪により、死を賜る。

思礼は学を好み、文才があった。軍国事務を兼務しながらも、手から書巻を放たず。昼は政事を処理し、夜は読書した。下僕に燭を執らせ、燭の灰が夜に数升にもなった。沙苑の戦勝の時、露布の作成を命ぜられ、食事が終わるほどの短時間で完成させた。太祖はその巧みで且つ速やかなことを歎賞した。作った碑・誄・表・頌は、ともに世に伝わる。七年、車騎大将軍・定州刺史を追贈される。子の亶が嗣ぐ。大象の末、位は駕部下大夫に至る。

時に博陵の崔騰・新蔡の董紹はともに早くから名誉があり、清顕な官職を歴任した。騰は丞相府長史、紹は御史中丞であった。ともに投書して誹謗議論した罪により、死を賜る。

薛憕

薛憕は字を景猷といい、河東郡汾陰県の人である。曾祖父の弘敞は、赫連氏の乱に遭い、一族を率いて襄陽に避難した。

憕は早く父を失い、家は貧しく、自ら耕して祖母を養い、暇あれば文籍を読んだ。当時の人は彼を奇異とは思わなかった。江南では人を取るに多く世族による。憕は既に旅寓の身であり、抜擢任用されなかった。しかし才を負い気を任せ、世禄の門に趨ったことはなかった。左中郎将の京兆の韋潜度が憕に言う、「君の門地は低くなく、身の丈も劣らない。どうして裾を整えしばしば吏部に参上しないのか」と。憕は言う、「『世冑は高位を躡み、英俊は下僚に沈む』とは、古人が嘆息したところである。私にはどうしてもできぬことです」と。潜度は人に告げて言う、「この若者は極めて慷慨であるが、ただ時に遭わぬだけだ」と。

孝昌年間、杖を執って洛陽に戻る。先に、憕の従祖父の真度が族祖父の安都とともに徐州・兗州を擁して魏に帰順し、その子の懐儁が憕に会い、大いに親善した。爾朱栄の廃立に属し、ついに河東に戻り、懐儁の家に留まる。人物と交わらず、終日読書し、自ら抄録し、およそ二百巻に及ぶ。ただ郡守の元襲のみが、時折招き屈して、対等の礼で交わった。懐儁はしばしば言う、「汝は郷里に戻り、産業を営まず、妻を娶ろうともせぬ。また南に渡ろうとするのか」と。憕もまた恬然として自ら処し、その旧を改めなかった。普泰年間、給事中に拝され、伏波将軍を加えられる。

斉の神武帝(高歓)が兵を起こすと、憕は東に遊んで陳・梁の間に行き、族人の孝通に言う、「高歓は兵を阻み上を陵ぎ、喪乱がまさに始まらんとしている。関中は形勝の地、必ず覇王たる者が居するであろう」と。そこで孝通とともに長安に遊んだ。侯莫陳悦がこれを聞き、行臺郎中に召し、鎮遠将軍・歩兵校尉こういに任ず。悦が賀抜岳を害した時、軍人はみな互いに慶賀慰め合った。憕だけが親しい者に言う、「悦の才略は元より乏しく、みだりに良将を害する。敗亡の事、その則り遠からず。我々は今すぐ人の虜となるであろう。何の慶賀慰めがあろうか」と。聞く者は憕の言を以て然りとし、憂色を帯びた。まもなく太祖が悦を平定し、憕を引いて記室参軍とする。魏の孝武帝が西遷すると、征虜将軍・中散大夫を授けられ、夏陽県男に封ぜられ、邑二百戸を賜る。魏の文帝が即位すると、中書侍郎に拝され、安東将軍を加えられ、邑百戸を増やされ、伯に進爵する。

大統四年、宣光殿・清徽殿が初めて完成し、憕はその頌を作る。魏の文帝はまた二つの欹器を作らせた。一つは二仙人が一つの鉢を共に持ち、同じ盤の中にあり、鉢の蓋に山があり、山に香気があり、一仙人がまた金瓶を持って器の上に臨み、水を山に注ぐと、瓶から出て器に注がれ、煙気が山中に発する。これを仙人欹器という。一つは二つの荷が同じ盤の中にあり、互いに一尺離れ、中に蓮があり器の上に垂れ、水を荷に注ぐと、蓮から出て器に満ち、鳧・雁・蟾蜍でこれを飾る。これを水芝欹器という。二つの盤はそれぞれ一つの牀の上にあり、鉢は円く牀は方形、中に人あり、三才の象を言う。ともに清徽殿の前に置かれた。器の形は觥に似て方形、満ちれば平らになり、溢れれば傾く。憕はそれぞれのために頌を作った。

大統初め、儀制は多く欠けていた。太祖は憕に盧辯・檀翥らと参酌してこれを定めさせた。自ら流離して世の変故を経たため、音楽を聴かなかった。暗い室に独り居ても、常に悲しみの表情があった。後に事に坐して死す。子の舒が嗣ぎ、礼部下大夫・儀同大将軍・陳への聘使副使に至る。

薛寘

薛寘は、河東郡汾陰県の人である。祖父の遵彦は、北魏の平遠将軍・河東郡太守・安邑侯であった。父の乂は、尚書吏部郎・清河・広平二郡の太守を務めた。

薛寘は幼い頃から書物を読み、文章を綴ることを好んだ。弱冠に満たぬ年齢で、州の主簿・郡の功曹となった。奉朝請として出仕し、やがて左将軍・太中大夫に昇進した。魏の孝武帝に従って西遷し、郃陽県子に封ぜられ、封邑四百戸を与えられ、中軍将軍の号を加えられた。魏の廃帝元年(552年)、著作佐郎を兼任し国史を編修した。まもなく中書侍郎に任ぜられ起居注を修めた。中書令・車騎大将軍・儀同三司に昇った。燕公于謹が江陵を征討した際、薛寘を司録に任じた。軍中の謀略には、薛寘もすべて参画した。江陵平定後、爵位を伯に進められ、封邑五百戸を加増された。朝廷がまさに制度を改め創設し、周礼を行おうとしたとき、薛寘に小宗伯盧辯とともに古今を斟酌させ、共に詳細に定めさせた。六官が建てられると、内史下大夫に任ぜられた。

孝閔帝が即位すると、爵位を侯に進められ、封邑五百戸を加増され、御正中大夫に転じた。当時、前中書監の盧柔は学業が優れて深く、文藻が華麗で豊かであったが、薛寘は彼と肩を並べたので、世間では盧・薛と称された。長い時を経て、位は驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、淅州刺史として出向した。任地で没した。官吏と民衆は哀惜した。虞州刺史を追贈され、諡は理といった。著した文筆二十余巻が世に行われた。また『西京記』三巻を撰し、引証が詳しく該博で、世間はその博聞を称えた。

薛寘の性質は至孝であり、たとえ年齢がすでに衰え、職務が繁雑で広範であっても、父母を温かくし涼しくする礼については、朝夕違うことがなかった。当時、人々はこれをもって彼を称えた。子の明が後を嗣いだ。大象(579-580年)の末、儀同大将軍・清水郡太守となった。

李昶

李昶は、頓丘郡臨黄県の人である。幼名は那といった。祖父の彪は、北魏の朝廷で名声が高く、御史中尉を務めた。父の遊もまた才能と行いがあり、当世に称えられた。遊の兄の志は南荊州刺史となり、遊はこれに従って州に赴いた。爾朱氏の乱に遭い、志とともに江左に奔った。

李昶の性質は厳しくせっかちで、交遊を広くしなかった。幼い頃からすでに文章を綴ることを理解し、洛陽で名声があった。当時、洛陽に明堂が創建されると、李昶は十数歳で『明堂賦』を作った。十分に優れているとは言えないが、才能と構成は見るべきものがあった。見た者は皆、「家風がある」と言った。初めて太祖(宇文泰)に謁見すると、太祖は大いに彼を奇異とし、手厚く資金を与え、太学に入ることを許した。太祖は学生に会うたびに、必ず李昶にその才能と行いを尋ねた。李昶は神情が清らかで悟りが早く、応対が明瞭で弁別に富み、太祖は常に彼を称賛した。綏徳公の陸通が盛大に僚属を選ぶ際、李昶を司馬とすることを請うたので、太祖はこれを許した。李昶は年少であったが、陸通は特に丁重に待遇し、公私の事柄をすべて彼の決断に委ねた。また二千石郎中を兼任し、儀礼の規定を司った。累進して都官郎中・相州大中正・丞相府東閤祭酒・中軍将軍・銀青光禄大夫となった。李昶は郎官の地位にあったが、太祖は常に書記の任を彼に委ねようとした。そこで李昶を丞相府記室参軍・著作郎とし、国史を編修させた。大行臺郎中・中書侍郎に転じた。まもなく黄門侍郎に転じ、臨黄県伯に封ぜられ、封邑五百戸を与えられた。

太祖はかつて李昶に言った。「卿の祖父は昔、中朝(北魏)にあって御史中尉であった。卿は操り尚ぶところが貞固であるから、理の上では家風を墜とさぬはずである。ただ、孤は中尉が弾劾を行う官であり、愛憎の対象となるゆえ、すぐには卿に授けなかったのだ。しかしこの職は久しく空位であり、卿に代える者はいない」。そこで李昶を御史中尉に奏上した。一年余り後、使持節・車騎大将軍・儀同三司を加えられ、宇文氏の姓を賜った。六官が建てられると、内史下大夫に任ぜられ、爵位を侯に進められ、封邑五百戸を加増され、内史中大夫に昇った。世宗(明帝)の初め、御伯中大夫を代行した。武成元年(559年)、中外府司録に任ぜられた。保定(561-565年)の初め、驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。二年(562年)、御正中大夫に転じた。当時、近侍の清要な職には、国の英才を盛大に選んでいたので、李昶および安昌公元則・中都公陸逞・臨淄公唐瑾らをともに納言とした。まもなく爵位を公に進められ、封邑は以前と合わせて一千三百戸となった。五年(565年)、昌州刺史として出向した。州において病に罹り、入朝を求める上表をしたので、詔により許された。帰還の途上、京に至る前に路上で没した。時に五十歳。相州・瀛州の二州刺史を追贈された。

李昶は太祖の世ですでに枢要な地位にあり、兵馬の処分は専ら彼に委ねられ、詔・冊・文・筆はすべて李昶の作るところであった。晋公宇文護が政権を執ってからも、委任は以前のとおりであった。李昶は常に言った。「文章の事柄は、後世に流れるに足らず、国を経営し治世を致すことこそ、古人に及ぶことができる」。ゆえに作った文筆は、まったく草稿を残さなかった。ただ政事に心を留めるのみであった。また、父が江南にあり、自身は関右に寓居していたため、幼少から終わりまで、酒を飲み音楽を聴くことはなかった。当時の論評はこれをもって彼を称えた。子の丹が後を嗣いだ。

当時、高平郡の檀翥という者がいた。字は鳳翔。読書を好み、文章を綴ることに長け、瑟を鼓することができた。早くから琅邪王の王誦に知られた。十九歳で、魏の孝明帝の挽郎となった。その後、司州牧・城陽王の元徽が檀翥を従事としたが、彼の好むところではなかった。まもなく病を理由に辞し、三輔の地を客遊した。当時、毛遐が行臺として北雍州に鎮守しており、檀翥を行臺郎中に上表した。ちょうど爾朱天光が東進して斉の神武帝(高歓)を迎え撃つことになり、檀翥はこれに従って洛陽に赴いた。西兗州録事参軍に任ぜられ、司空しくう田曹参軍を歴任し、鎮遠将軍を加えられ、殿中侍御史を兼任した。行臺中の表奏はすべて檀翥がこれを作った。まもなく毛鴻賓の副将として潼関を鎮守し、前将軍・太中大夫を加えられた。魏の孝武帝が西遷すると、高唐県子の爵位を賜り、中書舎人を兼任し国史を編修し、鎮軍将軍を加えられた。後に、言論が軽率で躁急であることを咎められ、黄門侍郎の徐招に駁論され、廷尉の獄で死んだ。

元偉

元偉は字を猷道といい、河南郡洛陽県の人である。北魏の昭成帝の後裔である。曾祖父の忠は、尚書左僕射・城陽王であった。祖父の盛は、通直散騎常侍・城陽公であった。父の順は、左衛将軍として魏の孝武帝に従って西遷し、中書監・雍州刺史・開府儀同三司に任ぜられ、濮陽王に封ぜられた。

元偉は若くして学問を好み、文雅があった。弱冠で員外散騎侍郎に任ぜられた。侍従の功労により、高陽県伯の爵位を賜った。大統(535-551年)の初め、伏波将軍・度支郎中に任ぜられ、太子舎人を兼任した。十一年(545年)、太子庶子に昇進し、兵部郎中を兼任した。まもなく東南道行臺右丞に任ぜられた。十六年(550年)、位は車騎大将軍・儀同三司に進んだ。北魏の宗室であることを以て、爵位を南安郡王に進められ、封邑五百戸を与えられた。十七年(551年)、幽州都督府長史に任ぜられた。尉遅迥がしょくを征伐した際、元偉を司録とした。書・檄・文・記はすべて元偉の作るところであった。蜀平定後、功により封邑五百戸を加増された。六官が建てられると、師氏下大夫に任ぜられ、爵位は規定により降格し、淮南県公に改封された。

孝閔帝が即位すると、晋公宇文護の府司錄に任じられた。世宗(明帝)の初年、師氏中大夫に拝された。詔を受けて麟趾殿において経籍を刊正した。まもなく隴右総管府長史に任じられ、驃騎大將軍・開府儀同三司を加えられた。保定二年、成州刺史に転じた。元偉の政治は清静を尊び、百姓は喜んで従い、流民で生業に復した者は三千余りであった。天和元年、入朝して匠師中大夫となり、司宗中大夫に転じた。六年、出向して随州刺史となった。元偉は母が年老いていることを理由に辞退し、拝命しなかった。還って司宗となった。まもなく母の喪により職を去った。建德二年、再び司宗となり、司会中大夫に転じ、民部中大夫を兼ね、小司寇に昇った。四年、元偉を使いの主とし、斉に報聘させた。この秋、高祖こうそ(武帝)がみずから軍を率いて東征したため、元偉は斉人に捕らえられた。六年、斉が平定され、元偉はようやく釈放された。高祖は彼が長く幽閉されていたことを考慮し、上開府を加授した。大象二年、襄州刺史に任じられ、位は大將軍に進んだ。

元偉の性格は温和で、虚静を好んだ。家にあっては生業を営まなかった。学問に篤く文を愛し、政事の暇にも書物を捨てることはなかった。謹慎小心で、人と争うことがなかった。当時の人はこの点を称えた。初めて鄴から帰還したとき、庾信がその詩を贈って言うには、「虢亡びて垂棘反り、斉平らぎて宝鼎帰る」と。このように文人に重んじられたのである。後に病気で卒した。

太祖(宇文泰)は天与の寛仁で、猜疑忌避の性は稀であった。元氏の親族は、ことごとくこれを保全し、内外の任使として、列職に布かせた。孝閔帝が即位しても、前の業績を廃することはなかった。明帝・武帝が業を継いでも、また先志に遵った。天が魏の徳を厭い、鼎の命は既に移ったとはいえ、その枝葉は栄茂し、前代を凌ぐに足りた。しかし簡牘が散亡し、事績の多くは湮没した。今、その名位の知りうる者を録し、ここに附す。

柱國大將軍・太傅・大司徒しと・広陵王 元欣、

柱國大將軍・特進・尚書令しょうしょれい・少師・義陽王 元子孝、

尚書僕射・馮翊王 元季海、

七兵尚書・陳郡王 元玄、

大將軍・淮安王 元育、

大將軍・梁王 元儉、

大將軍・尚書令・少保・小司徒・広平郡公 元賛、

大將軍・納言・小司空・荊州総管・安昌郡公 元則、

侍中・驃騎大將軍・開府儀同三司・少師・韓國公 元羅、

侍中・驃騎大將軍・開府儀同三司・吏部尚書・魯郡公 元正、

侍中・驃騎大將軍・開府儀同三司・中書監・洵州刺史・宜都郡公 元顔子、

侍中・驃騎大將軍・開府儀同三司・鄯州刺史・安楽県公 元壽、

侍中・驃騎大將軍・開府儀同三司・武えい將軍・遂州刺史・房陵縣公元審。

史評

史臣が曰く、太祖は暴を除き亂を寧め、業を創め基を開き、昃(日が傾く)まで食を忘れて賢を求め、共に庶政をやすんぜんとした。既に林を焚いて阮(籍)を訪ね、亦た道にかかげて孫(楚)を求むるが如く、野に遺才無く、朝に君子多しと謂う可し。蘇亮らは皆、學は該博と稱せられ、文は雕龍をほしいままにし、或いは鳳池に翰を揮い、或いは麟閣に書を著し、みな祿位に居り、各琳琅をほしいままにす。彼の陳(琳)・徐(幹)になぞらうれば、後生の畏る可きをず。其の任遇を論ずれば、實に當時の良選なり。魏文帝に言有り、「古今の文人、おおよそ細行をまもらず」と。其れ呂思禮・薛憕を謂うか。