周書

巻037

卷三十七 列傳第二十九 寇儁 韓褒 趙肅 張軌 李彥 郭彥 裴文舉 高賓

寇儁は字を祖儁といい、上谷郡昌平県の人である。祖父の寇讚は、北魏の南雍州刺史であった。父の寇臻は、安遠将軍・郢州刺史であった。

原文 寇儁字祖儁,上谷昌平人也。祖讚,魏南雍州刺史。父臻,安遠將軍、郢州刺史。

儁は性質が寛大で風雅であり、幼い頃から識見と度量があり、学問を好み記憶力が強かった。兄の祖訓・祖禮および儁は、いずれも志操と行いを備えていた。家門は和やかで睦まじく、白髪になるまで同居した。父が亡くなって久しいが、なお生前に過ごした部屋に、帷帳や几杖を整えて備え、時節に応じて整列して拝礼し、涙を流して供物を捧げ、まるで宗廟のようにした。吉凶の事があれば、必ず先に告げ、遠出して往復する際も同様であった。性質はまた廉潔で思いやりがあり、財利を心にかけなかった。家人がかつて人に物を売り、余分に絹五匹を得たことがあった。儁は後になってこれを知り、言うには、「悪木の陰には、しばらくも休むべからず。盗泉の水は、誤って飲むことを許されぬ。財を得て行いを失うは、わが取らざるところなり」と。そこで持ち主を尋ねて返した。その高雅な志はこのようなものであった。

原文 儁性寬雅,幼有識量,好學強記。兄祖訓、祖禮及儁,竝有志行。閨門雍睦,白首同居。父亡雖久,而猶於平生所處堂宇,備設帷帳几杖,以時節列拜,垂涕陳薦,若宗廟焉。吉凶之事,必先啟告,遠行往返,亦如之。性又廉恕,不以財利為心。家人曾賣物與人,而剩得絹五匹。儁於後知之,乃曰:「惡木之陰,不可暫息;盜泉之水,無容悞飲。得財失行,吾所不取。」遂訪主還之。其雅志如此。

選ばれて北魏の孝文帝の挽郎となり、奉朝請に任じられた。大乗の賊が起こり、燕・斉の地が擾乱すると、儁は護軍事に参じて東征し、功により員外散騎侍郎を授けられ、尚書左民郎中に転じた。母の喪に服するため拝命しなかった。正光三年、軽車将軍に任じられ、揚烈将軍・司空しくう府功曹参そうしん軍に遷り、主簿に転じた。時に霊太后が朝政を臨み、食禄官の十分の一を減じて永寧仏寺を造営し、儁にこれを主管させた。費用は巨万に上ったが、主管官吏は欺瞞隠蔽できなかった。寺が完成すると、また極めて壮麗であった。霊太后はこれを賞賛し、左軍将軍に任じた。孝昌年間、朝議において国用の不足を理由に、塩池都将を設置し、その秩は上郡に比した。前後この職にあった者は、多く侵奪隠匿を行った。そこで儁をこれに任じた。龍驤将軍を加えられ、引き続き主簿を務めた。

原文 以選為魏孝文帝挽郎,除奉朝請。大乘賊起,燕齊擾亂,儁參護軍事東討,以功授員外散騎侍郎,遷尚書左民郎中。以母憂不拜。正光三年,拜輕〈(騎)〉〔車〕將軍,遷揚烈將軍、司空府功曹參軍,轉主簿。時靈太后臨朝,減食祿官十分之一,造永寧佛寺,令儁典之。資費巨萬,主吏不能欺隱。寺成,又極壯麗。靈太后嘉之,除左軍將軍。孝昌中,朝議以國用不足,乃置鹽池都將,秩比上郡。前後居職者,多有侵隱。乃以儁為之。加龍驤將軍,仍主簿。

永安初年、華州の民である史底が司徒しとの楊椿と田地を争訟した。長史以下は、楊椿の勢威が貴いため、皆楊椿が正しいと言い、田地を楊椿に与えようとした。儁は言う、「史底は窮民であり、楊公が横暴にその地を奪おうとしている。もし不足を損ねて有余に与えようとするならば、ただ雷同することを見るのみで、命を聞くことは敢えてできぬ」と。遂に土地を史底に返還した。孝荘帝は後にこれを知り、儁が正義を守って屈しないことを賞賛し、直ちに司馬に任じ、帛百匹を賜った。楊椿に与した者は、皆譴責を受けた。

原文 永安初,華州民史底與司徒楊椿訟田。長史以下,以椿勢貴,皆言椿直,欲以田給椿。儁曰:「史底窮民,楊公橫奪其地。若欲損不足以給有餘,見使雷同,未敢聞命。」遂以地還史底。孝莊帝後知之,嘉儁守正不撓,即拜司馬,賜帛百匹。其附椿者,咸譴責焉。

二年、左将軍・梁州刺史として出向した。民俗は荒々しく粗暴で、多くが盗賊となっていた。儁はそこで郡県に学校を設立させ、耕桑を勧め、礼譲をもって厚く導き、数年の中に、風俗はたちまち改まった。梁がその将の曹琰之を派遣して魏興に駐屯させ、連日城壁を築かせた。琰之はしばしば辺境を侵擾し、辺境の民はこれを憂いた。儁は長史の杜休道に兵を率いさせてその城を攻め落とし、琰之をも生け捕りにした。琰之はすなわち梁の大将軍である曹景宗の末弟であった。ここにおいて梁人はこれを畏れた。時に魏室は多難であり、州もまた僻遠であったため、梁人は外援のないことを知り、遂に大軍を派遣して魏興に駐屯させ、攻め取ることを志した。儁は将士を慰撫激励し、人々は命を捧げようと思った。梁人は彼が衆心を得ていることを知り、敢えて逼迫しなかった。儁は州にあって清貧に甘んじ、産業を営まなかった。任期が満ちると、その子らは皆徒歩で帰還した。官吏や民衆が儁を見送り、道中に留まり引き止めたので、久しくしてようやく境界を出ることができた。

原文 二年,出為左將軍、〈(涼)〉〔梁〕州刺史。民俗荒獷,多為盜賊。儁乃令郡縣立庠序,勸其耕桑,敦以禮讓,數年之中,風俗頓革。梁遣其將曹琰之鎮魏興,繼日版築。琰之屢擾疆埸,邊人患之。儁遣長史杜休道率兵攻克其城,并擒琰之。琰之即梁大將軍景宗之季弟也。於是梁人憚焉。屬魏室多故,州又僻遠,梁人知無外援,遂遣大兵頓魏興,志圖攻取。儁撫勵將士,人思効命。梁人知其得眾心也,弗之敢逼。儁在州清苦,不治產業。秩滿,其子等竝徒步而還。吏人送儁,留連於道,久之乃得出界。

大統二年、東魏が儁に洛州刺史を授けたが、儁はこれによって帰朝を謀った。五年、家族および親族四百余口を率いて関中に入り、秘書監に任じられた。当時は軍国創始の時期で、典籍が散逸していたため、儁は初めて令史を選任し、経籍を書き集め、四部の群書が次第にほぼ完備するようになった。鎮東将軍を加えられ、西安県男に封ぜられ、邑二百戸を賜った。十七年、車騎大将軍・儀同三司に任じられ、散騎常侍さんきじょうじを加えられた。儁は年老いたことを理由に致仕を願い出たが、太祖(宇文泰)は許さなかった。そこで病が重いと称し、再び朝覲しなかった。魏恭帝三年、若口引氏の姓を賜った。

原文 大統二年,東魏授儁洛州刺史,儁因此乃謀歸闕。五年,將家及親屬四百餘口入關,拜祕書監。時軍國草創,墳典散逸,儁始選置令史,抄集經籍,四部羣書,稍得周備。加鎮東將軍,封西安縣男,邑二百戶。十七年,除車騎大將軍、儀同三司,加散騎常侍。儁以年老乞骸骨,太祖弗許。遂稱疾篤,不復朝覲。魏恭帝三年,賜姓若口引氏。

孝閔帝が即位すると、爵位を子に進められ、邑五百戸を増加された。武成元年、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、邑を増やして以前と合わせて二千戸となった。儁は年齢は老いていたが、志と識見は衰えず、子孫を教授するには必ず礼典を先にした。世宗(明帝)は儒学を尊び道を重んじ、特に彼を欽賞し、たびたび恩賜を加え、会いたいと思った。儁はやむなく、朝廷に入った。世宗は同じ席に座らせ、因みに洛陽らくようの旧事を尋ねた。儁は身長八尺、鬚や鬢は真っ白で、容姿挙措は端正で詳らか、声は清らかで朗らかであった。帝は彼と談論し、知らず知らずのうちにたびたび膝を進めた。儁が辞去して帰ろうとする時、帝は自らその手を執って言う、「公は年齢も徳も共に尊く、朕が欽慕するところである。乞言(教えを請う)の事は、公に望むところである。たびたび会い、空虚な思いを慰めたい」と。御輿を以て帝の前で乗り出させるよう命じた。左右を顧みて言う、「このようなことは、積善を重ねた者だけがこれを得ることができる。ただ今において重んぜられるのみならず、また万古に伝えられるであろう」と。当時の人は皆これを栄誉とした。保定三年に卒去した。時に八十歳であった。高祖こうそ(武帝)は嘆惜し、本官を追贈し、冀定瀛三州諸軍事・冀州刺史を加え、諡して元といった。

原文 孝閔帝踐阼,進爵為子,增邑五百戶。武成元年,進驃騎大將軍、開府儀同三司,增邑并前二千戶。儁年齒雖邁,而志識未衰,教授子孫,必先禮典。世宗尚儒重道,特欽賞之,數加恩錫,思與相見。儁不得已,乃入朝。世宗與同席而坐,因顧訪洛陽故事。儁身長八尺,鬚鬢皓然,容止端詳,音韻清朗。帝與之談論,不覺屢為前膝。及儁辭還,帝親執其手曰:「公年德俱尊,朕所欽尚,乞言之事,所望於公。宜數相見,以慰虛想。」以御輿令於帝前乘出。顧謂左右曰:「如此之事,唯積善者可以致之。何止見重於今,亦將傳之萬古。」時人咸以為榮。保定三年卒,時年八十。高祖歎惜之,贈本官,加冀定瀛三州諸軍事、冀州刺史,諡曰元。

儁は仁義に篤く、期功の親(喪服の関係にある親族)で孤児となった者がいれば、衣食の豊かさや質素さを共にした。若くして司徒の崔光に認められ、光はその子の崔勵に儁と友誼を結ばせた。儁が光を訪ねるたびに、常に清談して日を移した。小宗伯の盧辯は儁の学業と行いが共に高いとして、師友の礼をもって遇した。暇があるたびに、儁を訪れて終日宴談した。常に人に言う、「西安君に会わなければ、煩い憂いは晴れない」と。そのように通人に敬重された。

原文 儁篤於仁義,期功之有孤者,衣食豐約,俱與之同。少為司徒崔光所知,光命其子勵與儁結友。儁每造光,常清言移日。小宗伯盧辯以儁業行俱崇,待以師友之禮。每有閑暇,輒詣儁讌語彌日。恆謂人曰:「不見西安君,煩憂不遣。」其為通人所敬重如此。

子の寇奉は、位は儀同三司・大将軍・順陽郡守・洵州刺史・昌国県公に至った。奉の弟の寇顒は、若くして学問を好み、最も有名であった。喪に服する際は哀痛のあまり身を毀した。官を歴任して儀同大将軍、掌朝・布憲・典祀下大夫、小納言となり、濩沢郡公に封ぜられた。

原文 子奉,位至儀同三司、大將軍、順陽郡守、洵州刺史、昌國縣公。奉弟顒,少好學,最知名。居喪哀毀。歷官儀同大將軍,掌朝、布憲、典祀下大夫,小納言,濩澤郡公。

韓襃は字を弘業といい、その先祖は潁川郡潁陽県の人である。昌黎に移り住んだ。祖父の韓瓌は、北魏の鎮西将軍・平涼郡守、安定郡公であった。父の韓演は、征虜将軍・中散大夫・恒州刺史であった。

原文 韓襃字弘業,其先潁川潁陽人也。徙居昌黎。祖瓌,魏鎮西將軍、平涼郡守,安定郡公。父演,征虜將軍、中散大夫、恆州刺史。

襃は若い頃から志操があり、学問を好んだが章句に拘らなかった。その師が怪しんで問うと、答えて言う、「文字の間の訓詁は、常に教えを受けています。しかし異同を比較検討することについては、私の好むところに従わせてください」と。師はこれによって大いに彼を奇異の才と認めた。成長すると、経史に広く涉猟し、深沈として遠大な謀略があった。北魏の建明年間、奉朝請として官途に就いた。彊弩将軍を加えられ、太中大夫に遷った。

原文 襃少有志尚,好學而不守章句。其師怪而問之。對曰:「文字之間,常奉訓誘。至於商較異同,請從所好。」師因此大奇之。及長,涉獵經史,深沉有遠略。魏建明中,起家奉朝請。加彊弩將軍,遷太中大夫。

時に魏室が喪乱に属したため、襃は夏州に避難した。当時、太祖(宇文泰)が刺史であり、平素からその名を聞いており、客礼をもって遇した。賀抜岳が侯莫陳悦に害された時、諸将は使者を遣わして太祖を迎えようとした。太祖は去就の計について襃に問うた。襃は言う、「今、王室は衰え、海内は沸き立っています。使君(宇文泰)は天資英武で、恩は士心を結んでいます。賀抜公が突然難に遭い、人心は危惧しています。寇洛は自ら庸懦と知り、身を委ねて使君に託しています。もし兵権を総べ、関中の地を拠るならば、これは天の授けるところであり、何を疑うことがありましょうか。かつ侯莫陳悦は常を乱して速やかに禍を招き、勝ちに乗じて平涼を進取せず、かえって自ら遁走し、洛水に屯営しています。これは井の中の蛙に過ぎず、使君が往けば必ずこれを擒にします。世に並ぶなき勲功は、この一举にあります。時というものは、得難くして失い易い。誠に使君がこれを図られることを願います」と。太祖はこれを採用した。

原文 屬魏室喪亂,襃避地於夏州。時太祖為刺史,素聞其名,待以客禮。及賀拔岳為侯莫陳悅所害,諸將遣使迎太祖。太祖問以去留之計。襃曰:「方今王室凌遲,海內鼎沸。使君天資英武,恩結士心。賀拔公奄及於難,物情危駭。寇洛自知庸懦,委身而託使君。若總兵權,據有關中之地,此天授也,何疑乎!且侯莫陳悅亂常速禍,乃不乘勝進取平涼,反自遁逃,屯營洛水。斯乃井中蛙耳,使君往必擒之。不世之勳,在斯一舉。時者,難得而易失,誠願使君圖之。」太祖納焉。

太祖が丞相となると、襃を召し出して録事参軍とし、侯呂陵氏の姓を賜った。大統初年、行台左丞に遷り、三水県伯の爵を賜った。まもなく丞相府属に転じ、中軍将軍・銀青光禄大夫を加えられた。二年、梁人が北進して商洛を寇し、東魏がまた樊鄧を侵したため、ここにおいて襃を鎮南将軍・丞相府從事中郎とし、淅酈に出鎮させた。二年在任した後、召し出されて丞相府司馬に任じられ、爵位を侯に進めた。

原文 太祖為丞相,引襃為錄事參軍,賜姓侯呂陵氏。大統初,遷行臺左丞,賜爵三水縣伯。尋轉丞相府屬,加中軍將軍、銀青光祿大夫。二年,梁人北寇商洛,東魏復侵樊鄧,於是以襃為鎮南將軍、丞相府從事中郎,出鎮淅酈。居二年,徵拜丞相府司馬,進爵為侯。

北雍州刺史として出向し、衛大将軍を加えられる。州は北山に接し、盗賊が多い。韓襃は密かにこれを探らせると、皆豪族の仕業であったが、表向きは知らないふりをし、厚く礼遇した。彼らに言うには、「刺史は書生から出たもので、どうして盗賊の取り締まりが分かろうか、卿らに頼って共にその憂いを分かち合うのみである」と。そこで、もとより郷里の患いとなっていた凶悪な若者をことごとく召し出し、主帥に任じて地界を分けさせた。盗賊が発生して捕らえられない場合は、故意に放置した罪に問うた。これにより任じられた者たちは、皆恐れおののいた。皆自ら進んで言うには、「以前の盗賊の発生は、全て某らが行ったことです」と。その仲間の者をすべて列挙して姓名を挙げた。逃亡して隠れている者も、その所在をことごとく言上した。韓襃は盗賊の名簿を取ってこれを隠した。そこで州の門に大きな掲示を出して言うには、「自ら盗みを行ったと知る者は、急いで自首せよ、直ちにその罪を除く。今月中に自首しない者は、その身を公然と処刑し、妻子を没官して、先に自首した者への褒賞とする」と。十日ほどの間に、諸盗賊はことごとく自首し尽くした。韓襃は名簿を取り出して照合すると、少しも違いがなかった。皆その罪を許し、自新を許した。これにより群盗は息を潜めた。給事黄門侍郎として朝廷に入る。九年、侍中に遷る。

原文 出為北雍州刺史,加衞大將軍。州帶北山,多有盜賊。襃密訪之,竝豪右所為也,而陽不之知,厚加禮遇。謂之曰:「刺史起自書生,安知督盜,所賴卿等共分其憂耳。」乃悉詔桀黠少年素為鄉里患者,署為主帥,分其地界。有盜發而不獲者,以故縱論。於是諸被署者,莫不惶懼。皆首伏曰:「前盜發者,竝某等為之。」所有徒侶,皆列其姓名。或亡命隱匿者,亦悉言其所在。襃乃取盜名簿藏之。因大牓州門曰:「自知行盜者,可急來首,即除其罪。盡今月不首者,顯戮其身,籍沒妻子,以賞前首者。」旬日之間,諸盜咸悉首盡。襃取名簿勘之,一無差異。竝原其罪,許以自新。由是羣盜屏息。入為給事黃門侍郎。九年,遷侍中。

十二年、都督ととく・西涼州刺史に任ぜられる。羌胡の風俗は、貧弱を軽んじ、豪富を尊ぶ。豪富の家は、小民を侵漁し、僕隷と同様である。故に貧しい者は日々に削られ、豪富な者はますます富む。韓襃はそこで貧しい人々をことごとく募集し、兵士に充て、その家を優遇して復除し、徭役と租税を免除した。また富人の財物を調達してこれを救済した。西域の商貨が到着するたびに、またまず貧しい者に買い取らせた。これにより貧富は次第に均等となり、戸口は殷実となった。十六年、大都督・涼州諸軍事を加えられる。西魏の廃帝元年、会州刺史に転ずる。二年、車騎大将軍・儀同三司に進む。まもなく驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、公に進爵する。北周の武成三年、御伯中大夫として召されて任ぜられる。

原文 十二年,除都督、西涼州刺史。羌胡之俗,輕貧弱,尚豪富。豪富之家,侵漁小民,同於僕隸。故貧者日削,豪者益富。襃乃悉募貧人,以充兵士,優復其家,蠲免徭賦。又調富人財物以振給之。每西域商貨至,又先盡貧者市之。於是貧富漸均,戶口殷實。十六年,加大都督、涼州諸軍事。魏廢帝元年,轉會州刺史。二年,進位車騎大將軍、儀同三司。尋加驃騎大將軍、開府儀同三司,進爵為公。武成三年,徵拜御伯中大夫。

北周の保定二年、司会に転ずる。三年、汾州刺史として出向する。州の境界は北に太原に接し、千里の径路に当たる。これ以前、北斉の寇がたびたび侵入し、民は耕桑を廃し、前後の刺史は防ぎ守ることができなかった。韓襃が着任した時、ちょうど寇が来襲したが、韓襃は下の県に下知しなかった。人々は設備する暇もなく、このため多く略奪を受けた。北斉の兵は喜び合って言うには、「汾州は我々が来たことに気づかず、先に兵を集めていない。今帰還するに当たって、必ずや我々を追撃することはできまい」と。これによりますます油断し、営塁を築かなかった。韓襃はすでに先に精鋭を率いて北山中に伏せさせ、険阻な地を分かち占拠し、その帰路を遮った。その衆が油断しているのに乗じ、伏兵を繰り出してこれを撃ち、その衆をことごとく捕獲した。故事によれば、生口を捕獲した者は、皆囚人として京師に送る。韓襃はこれにより上奏して言うには、「捕獲した賊の衆は、多くはない。捕虜として辱めれば、ただその憤りを増すのみである。一切を放還し、徳をもって怨みに報いることを請う」と。詔がありこれを許した。これより寇の略奪はほぼ止んだ。四年、河洮封三州諸軍事・河州総管に遷る。天和三年、鳳州刺史に転ずる。まもなく年老いたことを理由に致仕を請い、詔がありこれを許した。五年、少保に任ぜられる。

原文 保定二年,轉司會。三年,出為汾州刺史。州界北接太原,當千里徑。先是齊寇數入,民廢耕桑,前後刺史,莫能防扞。襃至,適會寇來,襃乃不下屬縣。人既不及設備,以故多被抄掠。齊人喜相謂曰:「汾州不覺吾至,先未集兵。今者之還,必莫能追躡我矣。」由是益懈,不為營壘。襃已先勒精銳,伏北山中,分據險阻,邀其歸路。乘其眾怠,縱伏擊之,盡獲其眾。故事,獲生口者,竝囚送京師。襃因是奏曰:「所獲賊眾,不足為多。俘而辱之,但益其忿耳。請一切放還,以德報怨。」有詔許焉。自此抄兵頗息。四年,遷河洮封三州諸軍事、河州總管。天和三年,轉鳳州刺史。尋以年老請致仕,詔許之。五年,拜少保。

韓襃は三帝に仕え、忠厚をもって知られた。高祖(宇文邕)は深く敬重し、常に師の礼をもって遇した。朝廷に入って謁見するたびに、必ず詔令があって座らせ、その後で政事を論じ始めた。七年、卒す。涇岐燕三州刺史を追贈される。諡して貞という。子の継伯が嗣ぐ。

原文 襃歷事三帝,以忠厚見知。高祖深相敬重,常以師道處之。每入朝見,必有詔令坐,然後始與論政事。七年,卒。贈涇岐燕三州刺史。諡曰貞。子繼伯嗣。

趙肅は字を慶雍といい、河南郡洛陽県の人である。代々河西に居住した。沮渠氏が滅びると、曾祖父の趙武が初めて魏に帰順し、金城侯の爵位を賜った。祖父の趙興は、中書博士であった。父の趙申侯は、秀才に挙げられ、後軍府主簿となった。

原文 趙肅字慶雍,河南洛陽人也。世居河西。及沮渠氏滅,曾祖武始歸於魏,賜爵金城侯。祖興,中書博士。父申侯,舉秀才,後軍府主簿。

趙肅は早くから操行があり、当時に知られた。北魏の正光五年、酈元が河南尹となった時、趙肅を主簿に辟召した。孝昌年間、殿中侍御史として起家し、威烈将軍・奉朝請・員外散騎侍郎を加えられる。まもなく直後に任ぜられ、直寝に転ずる。永安初年、廷尉平を授かり、二年、監に転ずる。後に母の喪により職を去り、廷尉正として起用される。病気により免官される。久しくして征虜将軍・中散大夫を授かり、左将軍・太中大夫に遷る。東魏の天平初年、新安郡守に任ぜられる。任期が満ちて、洛陽に戻る。

原文 肅早有操行,知名於時。魏正光五年,酈元為河南尹,辟肅為主簿。孝昌中,起家殿中侍御史,加威烈將軍、奉朝請、員外散騎侍郎。尋除直後,轉直寢。永安初,授廷尉〈(天)〉平,二年,轉監。後以母憂去職,起為廷尉正。以疾免。久之,授征虜將軍、中散大夫,遷左將軍、太中大夫。東魏天平初,除新安郡守。秩滿,還洛。

西魏の大統三年、独孤信が東征する時、趙肅は宗族を率いて郷導となった。司州治中に任ぜられ、別駕に転ずる。糧食の備蓄を監督し、軍用は欠乏しなかった。太祖(宇文泰)はこれを聞き、人に言うには、「趙肅はまさに洛陽の主人と言えよう」と。七年、鎮南将軍・金紫光禄大夫・都督を加えられ、引き続き別駕となる。配下の義徒を率い、大塢を占拠して守った。また行台左丞を兼ね、東道を慰労した。九年、華山郡の事務を行なう。

原文 大統三年,獨孤信東討,肅率宗人為鄉導。授司州治中,轉別駕。監督糧儲,軍用不匱。太祖聞之,謂人曰:「趙肅可謂洛陽主人也。」七年,加鎮南將軍、金紫光祿大夫、都督,仍別駕。領所部義徒,據守大塢。又兼行臺左丞,東道慰勞。九年,行華山郡事。

十三年、廷尉少卿に任ぜられる。翌年の元日、朝礼を行なうこととなり、封爵のない者はこれに参与できない。趙肅は当時まだ封土がなかった。左僕射の長孫儉が太祖に請うた。太祖は趙肅を召して言うには、「年初の礼を行なうのに、どうして卿を参与させずにおられようか、しかしなぜ早く言わなかったのか」と。そこで趙肅に封名を自ら選ばせた。趙肅は言う、「河清は太平の兆しであり、ひそかに願うところです」と。そこで清河県子に封ぜられ、邑三百戸を賜う。十六年、廷尉卿に任ぜられ、征東将軍を加えられる。趙肅は長く司法官に在り、心を公平に執り、凡そ処断するところは、皆その実情を得た。廉潔・謹慎をもって自ら処し、産業を営まなかった。当時の人はこれをもって称えた。十七年、車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍に進み、乙弗氏の姓を賜う。

原文 十三年,除廷尉少卿。明年元日,當行朝禮,非有封爵者,不得預焉。肅時未有茅土。左僕射長孫儉白太祖請之。太祖乃召肅謂曰:「歲初行禮,豈得使卿不預,然何為不早言也?」於是令肅自選封名。肅曰:「河清乃太平之應,竊所願也。」於是封清河縣子,邑三百戶。十六年,除廷尉卿,加征東將軍。肅久在理官,執心平允。凡所處斷,咸得其情。廉慎自居,不營產業。時人以此稱之。十七年,進位車騎大將軍、儀同三司、散騎常侍,賜姓乙弗氏。

これ以前、太祖は趙肅に法律を撰定するよう命じた。趙肅は多年にわたり思索を重ね、遂に心疾を患う。職を去り、家で卒す。子の正礼は、斉王宇文憲の府属・大都督・新安郡守となった。

原文 先是,太祖命肅撰定法律。肅積思累年,遂感心疾。去職,卒於家。子正禮,齊王憲府屬、大都督、新安郡守。

時に高平の徐招という者がおり、若くから法律を好んだ。発言し筆を執るに当たり、常に秋毫をも弁別せんとした。内外の職を歴任し、官に当たる誉れがあった。魏の孝武帝に従って関中に入り、給事黄門侍郎・尚書右丞となった。当時朝廷は転遷し、典章に欠けていたが、台閣の儀軌については、多く徐招が参画して定めた。論者はこれを称えた。まもなく侍中・度支尚書に遷る。大統初年、卒す。

原文 時有高平徐招少好法律。發言措筆,常欲辨析秋毫。歷職內外,有當官之譽。從魏孝武入關,為給事黃門侍郎、尚書右丞。時朝廷播遷,典章有闕,至於臺閣軌儀,多招所參定。論者稱之。尋遷侍中、度支尚書。大統初,卒。

張軌は字を元軌といい、済北郡臨邑県の人である。父の張崇は、高平県令であった。

原文 張軌字元軌,濟北臨邑人也。父崇,高平令。

張軌は若くから学問を好み、志識は開け明るかった。初め洛陽にいた時、家は貧しく、楽安の孫樹仁と莫逆の友となり、たびたび衣服を取り替えて外出した。これをもって称えられた。永安年間、爾朱栄に従って元顥を撃ち、討寇将軍・奉朝請に任ぜられる。張軌は常に親しい者に言うには、「秦雍の間に、必ず王者が現れよう」と。爾朱氏が敗れた後、遂に策を杖って関中に入った。賀抜岳は張軌を記室参軍とし、機密事務を掌らせた。まもなく倉曹に転じ、鎮遠将軍を加えられる。当時穀物の価格が高騰し、官倉からの貸し付けを請う者もいた。張軌は言う、「私をもって公を害するは、我が宿志にあらず。人の難を救うは、どうしてこれに背けようか」と。そこで身に着けていた衣服を売り、粟を買い入れてその困窮を賑った。

原文 軌少好學,志識開朗。初在洛陽,家貧,與樂安孫樹仁為莫逆之友,每易衣而出。以此見稱。永安中,隨爾朱榮擊元顥,除討寇將軍、奉朝請。軌常謂所親曰:「秦雍之間,必有王者。」爾朱氏敗後,遂杖策入關。賀拔岳以軌為記室參軍,典機務。尋轉倉曹,加鎮遠將軍。時穀糴湧貴,或有請貸官倉者。軌曰:「以私害公,非吾宿志。濟人之難,詎得相違。」乃賣所服衣物,糴粟以賑其乏。

賀拔岳が害されると、太祖(宇文泰)は軌を都督とし、侯莫陳悦を征討するに従った。悦が平定されると、洛陽に使いした。領軍斛斯椿に会い、椿は言う、「高歓の逆謀は、すでに道行く人に伝わっている。人の心は西を望み、一日を一年のごとく思う。宇文(泰)が賀拔(岳)に比べてどうか知らないか?」軌は言う、「宇文公は文をもって国を治め、武をもって乱を定めることができる。高識遠度に至っては、愚かな私の測り知るところではない。」椿は言う、「まことに卿の言うとおりであれば、真に頼りとすべきである。」太祖が行臺となると、軌を郎中に任じた。魏の孝武帝が西遷すると、中書舎人に除され、寿張県子に封ぜられ、邑三百戸を賜り、左将軍・済州大中正を加えられ、著作佐郎を兼ね、起居注を修めた。給事黄門侍郎に遷り、吏部郎中を兼ねた。六年、出て河北郡守となった。郡に在ること三年、名声と実績は甚だ著しかった。民に臨み治術を行うこと、循吏の美があった。大統年間、宰人たる者は多くこれを推し尚んだ。入って丞相府従事中郎となり、武功郡事を行った。章武公導が出て秦州を鎮守するに当たり、軌を長史とした。撫軍将軍・大都督・通直散騎常侍を加えられた。魏の廃帝元年、車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍に進んだ。二年、宇文氏の姓を賜り、南秦州事を行った。魏の恭帝二年、徴されて度支尚書に拝され、また隴右府長史に除された。位において卒した。時に五十五歳。諡して質といった。軌は性質清廉で、臨終の日、家に余財なく、ただ素書数百巻あるのみであった。

原文 及岳被害,太祖以軌為都督,從征侯莫陳悅。悅平,使於洛陽。見領軍斛斯椿,椿曰:「高歡逆謀,已傳行路。人情西望,以日為年。未知宇文何如賀拔也?」軌曰:「宇文公文足經國,武可定亂。至於高識遠度,非愚管所測。」椿曰:「誠如卿言,真可恃也。」太祖為行臺,授軌郎中。魏孝武西遷,除中書舍人,封壽張縣子,邑三百戶,加左將軍、濟州大中正,兼著作佐郎,修起居注。遷給事黃門侍郎,兼吏部郎中。六年,出為河北郡守。在郡三年,聲績甚著。臨人治術,有循吏之美。大統間,宰人者多推尚之。入為丞相府從事中郎,行武功郡事。章武公導出鎮〈(泰)〉〔秦〕州,以軌為長史。加撫軍將軍、大都督、通直散騎常侍。魏廢帝元年,進車騎大將軍、儀同三司、散騎常侍。二年,賜姓宇文氏,行南秦州事。魏恭帝二年,徵拜度支尚書,復除隴右府長史。卒於位,時年五十五。諡曰質。軌性清素,臨終之日,家無餘財,唯有素書數百卷。

子の肅は、世宗(明帝)の初め、宣納上士となり、転じて中外府記室参軍・中山公訓の侍読となった。早くから才名があり、性質は頗る軽薄で狡猾であり、時人はこれを魏諷に比した。ついに罪によって考竟(獄死)して終わった。

原文 子肅,世宗初,為宣納上士,轉中外府記室參軍、中山公訓侍讀。早有才名,性頗輕猾,時人比之魏諷。卒以罪考竟終。

李彥、字は彥士、梁郡下邑の人である。祖先之は、魏の淮南郡守。父の靜は、南青州刺史。

原文 李彥字彥士,梁郡下邑人也。祖先之,魏淮南郡守。父靜,南青州刺史。

彥は若くして節操あり、学を好み古を慕い、郷里の人々に敬憚された。孝昌年中、奉朝請に解褐し、軽車将軍を加えられた。魏の孝武帝に従って関中に入り、著作佐郎を兼ね、起居注を修めた。寧朔将軍を加えられ、冠軍将軍・中散大夫に進号し、平東将軍・太中大夫に遷った。大統初年、通直散騎侍郎に除された。三年、安東将軍・銀青光禄大夫・太保転太傅長史・儀曹郎中・左民郎中に拝された。十二年、三十六曹を省いて十二部とし、民部郎中に改めて授けられ、平陽県子に封ぜられ、邑三百戸を賜った。十五年、中軍将軍に進号し、尚書左丞を兼ね、選部を領した。大軍が東討するに当たり、持節・大都督・通直散騎常侍を加持され、留臺の事を掌った。魏の廃帝初年、尚書右丞に拝され、左丞に転じた。

原文 彥少有節操,好學慕古,為鄉閭之所敬憚。孝昌中,解褐奉朝請,加輕車將軍。從魏孝武入關,兼著作佐郎,修起居注。加寧朔將軍,進號冠軍將軍、中散大夫,遷平東將軍、太中大夫。大統初,除通直散騎侍郎。三年,拜安東將軍、銀青光祿大夫、太保轉太傅長史、儀曹郎中、左民郎中。十二年,省三十六曹為十二部,改授民部郎中,封平陽縣子,邑三百戶。十五年,進號中軍將軍,兼尚書左丞,領選部。大軍東討,加持節、大都督、通直散騎常侍,掌留臺事。魏廢帝初,拜尚書右丞,轉左丞。

彥は尚書に在ること十五年、軍国草創の時節に属し、庶務殷繁であったが、省閲に心を留め、未だ懈怠したことがなかった。断決は流るるが如く、少しも疑滞がなかった。臺閣はその公勤を歎じ、その明察に服さない者はなかった。給事黄門侍郎に遷り、なお左丞を兼ねた。まもなく車騎大将軍・儀同三司に進み、宇文氏の姓を賜った。出て鄜州刺史となった。彥は東夏未だ平らかでないことを理由に、州の任を固辞し、詔によって許された。兵部尚書に拝され、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、なお著作を兼ねた。六官が建てられると、軍司馬に改めて授けられ、爵を伯に進めた。

原文 彥在尚書十有五載,屬軍國草創,庶務殷繁,留心省閱,未嘗懈怠。斷決如流,略無疑滯。臺閣莫不歎其公勤,服其明察。遷給事黃門侍郎,仍左丞。尋進車騎大將軍、儀同三司,賜姓宇文氏。出為鄜州刺史。彥以東夏未平,固辭州任,詔許之。拜兵部尚書,加驃騎大將軍、開府儀同三司,仍兼著作。六官建,改授軍司馬,進爵為伯。

彥は性質謙恭で、礼節があった。顕要な地位にありながら、親族・朋党の間では、謹み深くしていた。財を軽んじ義を重んじ、施しを好み士を愛した。当時の論評はこれをもって彼を称えた。しかし平素より病多く、職務に勤勉で、沈頓して枕席にあっても、なお事務を理めてやまず、ついに卒するに至った。時に四十六歳。諡して敬といった。

原文 彥性謙恭,有禮節。雖居顯要,於親黨之間,恂恂如也。輕財重義,好施愛士。時論以此稱之。然素多疾而勤於莅職,雖沉頓枕席,猶理務不輟,遂至於卒。時年四十六。諡曰敬。

彥は臨終にその子らに遺誡して言った、「昔の人は窾木を以て櫝とし、葛虆を以て緘とし、下は泉を乱さず、上は臭を泄らさなかった。これこそ実に我が平生の志である。しかし事既に矯枉(行き過ぎた矯正)であり、世の士に譏られることを恐れる。今は時服をもって斂おさめ、墝塉の地に葬り、忽ちに明器・芻塗及び儀衞えいなどを用いるな。爾らこれを念え。」朝廷はこれを嘉し、その志を奪わなかった。

原文 彥臨終遺誡其子等曰:「昔人以窾木為櫝,葛虆為緘,下不亂泉,上不泄臭。此實吾平生之志也。但事既矯枉,恐為世士所譏。今可斂以時服,葬於墝塉之地,忽用明器、芻塗及儀衞等。爾其念之。」朝廷嘉焉,不奪其志。

子の昇明が嗣いだ。若くして顕職を歴任した。大象の末、太府中大夫・儀同大将軍。

原文 子昇明嗣。少歷顯職。大象末,太府中大夫、儀同大將軍。

郭彥は、太原陽曲の人である。その先祖は関右に宦遊し、ついに馮翊に居住した。父の胤は、郡功曹・霊武令。

原文 郭彥,太原陽曲人也。其先從宦關右,遂居馮翊。父胤,郡功曹、靈武令。

彥は若くして名を知られ、太祖(宇文泰)が雍州に臨むと、西曹書佐に辟された。まもなく開府儀同主簿に除され、転じて司空記室・太尉府属となり、虞部郎中に遷った。大統十二年、初めて当州の首望を選び、郷兵を統領させ、帥都督・持節・平東将軍に除された。郎官として著名であったことにより、竜門県子に封ぜられ、邑三百戸を賜り、大都督に進み、車騎大将軍・儀同三司・司農卿に遷った。この時、岷州の羌酋傍乞鉄怱と鄭五醜らが西服を寇擾した。彥は大将軍宇文貴に従ってこれを討平した。魏の恭帝元年、兵部尚書に除された。なお本兵を以て柱国于謹に従い江陵を南伐した。驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、邑五百戸を増やされ、爵を伯に進めた。六官が建てられると、民部中大夫に拝された。

原文 彥少知名,太祖臨雍州,辟為西曹書佐。尋除開府儀同主簿,轉司空記室、太尉府屬,遷虞部郎中。大統十二年,初選當州首望,統領鄉兵,除帥都督、持節、平東將軍。以居郎官著稱,封龍門縣子,邑三百戶,進大都督,遷車騎大將軍、儀同三司、司農卿。是時,岷州羌酋傍乞鐵怱與鄭五醜等寇擾西服。彥從大將軍宇文貴討平之。魏恭帝元年,除兵部尚書。仍以本兵從柱國于謹南伐江陵。進驃騎大將軍、開府儀同三司,增邑五百戶,進爵為伯。六官建,拜民部中大夫。

孝閔帝が践祚すると、出て澧州刺史となった。蛮左は生梗で、未だ朝憲に遵わなかった。賦税に至っては、命に違う者多かった。聚散常なく、農業を営まなかった。彥は耕稼を勧め、遊猟を共に禁じ、民は皆本業に務め、家に余糧があった。亡命の徒も、皆賦役に従った。先に澧州は糧儲乏少であったため、毎度荊州に送らせていた。彥が職に蒞ってからは、倉庫充実し、もはや転輸の労はなくなった。

原文 孝閔帝踐祚,出為澧州刺史。蠻左生梗,未遵朝憲。至於賦稅,違命者多。聚散無恆,不營農業。彥勸以耕稼,禁共遊獵,民皆務本,家有餘糧。亡命之徒,咸從賦役。先是以澧州糧儲乏少,每令荊州遞送。自彥蒞職,倉庾充實,無復轉輸之勞。

斉の南安城主馮顯が密かに使を遣わして帰降したが、その配下の者はまだ知らなかった。柱国宇文貴は彥に兵を率いて応接するよう命じた。斉人は先に馮顯にその配下を率いて糧を南下させて送らせた。彥はその配下が命に従わないことを恐れ、道中でこれを邀撃した。馮顯はこれによって自ら抜け出すことができた。その配下は果たして拒戦したので、彥は兵を縦して奮撃し、併せてこれを虜獲した。南安に備えなしと見るや、即ち軍を引いて掩襲した。馮顯の外兵参軍鄒紹は既に彥に捕獲されていたので、郷導となることを請うた。彥は遂に夜に城下に至り、鄒紹に馮顯が帰ったと詐称させた。門番が門を開いてこれを待つと、彥は兵を引いて入り、遂にその城を有した。三千余人を俘獲した。晋公護はこれを嘉し、爵を懐徳県公に進め、邑一千戸を賜った。南安は懸遠であるため、まもなく班師を命じた。任期が満ちて朝廷に還るとき、民吏は泣きながら彥を二百余里も送った。まもなく東道大使となり、風俗を観省した。蒲州総管府長史に除され、入って工部中大夫となった。

原文 齊南安城主馮顯密遣使歸降,其眾未之知也。柱國宇文貴令彥率兵應接。齊人先令顯率所部送糧南下,彥懼其眾不從命,乃於路邀之。顯因得自拔。其眾果拒戰,彥縱兵奮擊,竝虜獲之。以南安無備,即引軍掩襲。顯外兵參軍鄒紹既為彥所獲,因請為鄉導。彥遂夜至城下,令紹詐稱顯歸。門者開門待之,彥引兵而入,遂有其城。俘獲三千餘人。晉公護嘉之,進爵懷德縣公,邑一千戶。以南安懸遠,尋令班師。及秩滿還朝,民吏號泣送彥二百餘里。尋為東道大使,觀省風俗。除蒲州總管府長史,入為工部中大夫。

保定四年、護が東討した。彥は尉遅迥に従って洛陽を攻めた。迥はまた彥と権景宣に命じて南に出て汝潁を攻めさせた。軍が豫よ州に次やどると、彥はこれを攻めることを請うた。景宣は城守既に厳重で、卒難攻取であるとして、南轅(南進)しようとし、更に経略を図ろうとした。彥は命を受けて出師した以上、須らく大軍と相接すべきであり、もし江畔に向かって功を立てるならば、更に朝廷の本意ではないと固執して従わず、兼ねて攻取の計略を画策した。時にその刺史王士良の妻弟董遠秀が密かに款(降伏の意)を送ってきたので、景宣はこれに従った。ここにおいて軍を引いてこれを囲み、士良は遂に出降した。なお彥をして豫州を鎮守させ、邑六百戸を増やした。まもなく洛陽の班師に伴い、これも棄てて守らなかった。純州刺史樊舍が卒したことに属し、その地は東は陳の境に接し、俗は蛮左を兼ね、初めて州将を喪い、境内騒然とした。朝議は彥の威信が東南に著しいとして、便ち鎮撫を命じた。彥が至ると、吏人は畏れながらもこれを愛した。

原文 保定四年,護東討。彥從尉遲迥攻洛陽。迥復令彥與權景宣南出汝潁。及軍次豫州,彥請攻之。景宣以城守既嚴,卒難攻取,將欲南轅,更圖經略。彥以奉命出師,須與大軍相接。若向江畔立功,更非朝廷本意。固執不從,兼畫攻取之計。會其刺史王士良妻弟董遠秀密遣送款,景宣乃從。於是引軍圍之,士良遂出降。仍以彥鎮豫州,增邑六百戶。尋以洛陽班師,亦棄而不守。屬純州刺史樊舍卒,其地既東接陳境,俗兼蠻左,初喪州將,境內騷然。朝議以彥威信著於東南,便令鎮撫。彥至,吏人畏而愛之。

天和元年、益州総管府長史に除され、転じて隴右総管府長史となった。四年、位において卒した。小司空・宜鄜丹三州刺史を贈られた。

原文 天和元年,除益州總管府長史,轉隴右總管府長史。四年,卒於位。贈小司空、宜鄜丹三州刺史。

裴文舉は字を道裕といい、河東郡聞喜県の人である。祖父の秀業は、魏の中散大夫・天水郡守となり、平州刺史を追贈された。

原文 裴文舉字道裕,河東聞喜人也。祖秀業,魏中散大夫、天水郡守,贈平州刺史。

父の邃は、性格が方正厳格で、郷里の人々に推戴された。初官は散騎常侍・奉車都尉であり、累進して諫議大夫・司空從事中郎となった。大統三年、東魏が侵攻してくると、邃は郷人を糾合し、険要の地を分かち据えて自らを固めた。当時、東魏は正平を東雍州とし、その将司馬恭を派遣してこれを鎮守させた。しばしば間者を派遣しては、百姓を扇動した。邃は密かに都督韓僧明を城中に入れ、その将士を諭したところ、すぐに五百余人が内応を約束した。約束の日が未だ至らぬうちに、恭はこれを知り、城を棄てて夜逃げした。これにより東雍州は内属することとなった。李弼が東境の地を攻略した際には、邃がその案内役となり、多くを降伏させた。太祖はこれを嘉し、特に衣服を賞賜し、澄城県子に封じ、邑三百戸を与え、安東将軍・銀青光禄大夫に進め、散騎常侍・太尉府司馬を加えられ、正平郡守に任じられた。まもなく官のまま死去した。儀同三司・定州刺史を追贈された。

原文 父邃,性方嚴,為州里所推挹。解褐散騎常侍、奉車都尉,累遷諫議大夫、司空從事中郎。大統三年,東魏來寇,邃乃糾合鄉人,分據險要以自固。時東魏以正平為東雍州,遣其將司馬恭鎮之。每遣間人,扇動百姓。邃密遣都督韓僧明入城,喻其將士,即有五百餘人,許為內應。期日未至,恭知之,乃棄城夜走。因是東雍遂內屬。及李弼略地東境,邃為之鄉導,多所降下。太祖嘉之,特賞衣物,封澄城縣子,邑三百戶,進安東將軍、銀青光祿大夫,加散騎常侍、太尉府司馬,除正平郡守。尋卒官。贈儀同三司、定州刺史。

文舉は若い頃より忠実で謹直であり、経史に広く通じていた。大統十年、奉朝請として初めて官に就き、丞相府墨曹参軍に遷った。当時、太祖の諸子は幼く、盛んに賓友を選んでいた。文舉は選ばれて諸公子と交遊し、互いに敬意を以て接し、戯れ侮ることはなかった。威烈将軍・著作郎・中外府参軍事に遷った。魏恭帝二年、賀蘭氏の姓を賜った。孝閔帝が即位すると、澄城県子の爵を襲封した。

原文 文舉少忠謹,涉獵經史。大統十年,起家奉朝請,遷丞相府墨曹參軍。時太祖諸子年幼,盛簡賓友。文舉以選與諸公子遊,雅相欽敬,未嘗戲狎。遷威烈將軍、著作郎、中外府參軍事。魏恭帝二年,賜姓賀蘭氏。孝閔帝踐阼,襲爵澄城縣子。

斉公宇文憲が初めて幕府を開くと、文挙を司録とした。世宗の初め、累進して帥都督・寧遠将軍・大都督となった。憲が剣南に出鎮すると、再び文挙を益州総管府中郎とした。武成二年、そのまま使持節・車騎大将軍・儀同三司を加えられた。蜀しょくの地は肥沃で、商売の利は百倍にもなった。ある者が文挙に利益を勧めることがあったが、文挙はこれに答えて言った。「利益として貴ぶべきは、身を安んずるに如くはない。身が安らかであれば道は盛んとなるのであり、財貨のことを言うのではない。それゆえにしないのであって、財を嫌うのではない。」憲はその貧しさを哀れみ、しばしば資財を与えようとした。文挙は常に自ら謙遜し、辞退することが多く受け取ることは少なかった。

原文 齊公憲初開幕府,以文舉為司錄。世宗初,累遷帥都督、寧遠將軍、大都督。及憲出鎮劍南,復以文舉為益州總管府中郎。武成二年,就加使持節、車騎大將軍、儀同三司。蜀土沃饒,商販百倍。或有勸文舉以利者,文舉答之曰:「利之為貴,莫若安身。身安則道隆,非貨之謂。是以不為,非惡財也。」憲矜其貧窶,每欲資給之。文舉恆自謙遜,辭多受少。

保定三年、絳州刺史に遷った。邃がかつて正平に赴いた時は、廉潔・倹約をもって自らを律し、春の巡行で風俗を視察する際も、単車(質素な車)一台のみであった。文挙が州を治めるに及んで、その法を一貫して遵守した。百姓はこれを称賛し、感化された。総管韋孝寬は特に彼を欽重し、話し合うたびに、知らず膝を前に進めて席に近づいた。天和の初め、驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。まもなく孝寬の柱国府司馬となった。六年、入朝して司憲中大夫となり、爵位は公に進み、邑を増やして以前と合わせて一千戸となった。ほどなく軍司馬に転じた。建徳二年、さらに邑七百戸を増やされた。

原文 保定三年,遷絳州刺史。邃之往正平也,以廉約自守,每行春省俗,單車而已。及文舉臨州,一遵其法。百姓美而化之。總管韋孝寬特相欽重,每與談論,不覺膝前於席。天和初,進驃騎大將軍、開府儀同三司。尋為孝寬柱國府司馬。六年,入為司憲中大夫,進爵為公,增邑通前一千戶。俄轉軍司馬。建德二年,又增邑七百戶。

文挙は幼くして父を亡くし、兄はまた山東(太行山以東、斉の地)におり、ただ弟の璣と共に幼くして互いに教え養い、友愛は非常に篤かった。璣はまた早世したが、文挙はその遺児を養い視ること、自分の子以上であった。当時の人はこれを称えた。初め、文挙の叔父季和は曲沃県令となり、聞喜川で死去し、叔母の韋氏は正平県で死去した。東西が分断された状況下で、韋氏の墳墓は斉の境内にあった。文挙が本州(絳州)にいた時、たびたび賞金をかけて募った。斉人はその孝義に感じ、密かに連絡を取り合い、韋氏の棺を西に帰らせ、ついに合葬することができた。

原文 文舉少喪父,其兄又在山東,唯與弟璣幼相訓養,友愛甚篤。璣又早亡,文舉撫視遺孤,逾於己子。時人以此稱之。初,文舉叔父季和為曲沃令,卒於聞喜川,而叔母韋氏卒於正平縣。屬東西分隔,韋氏墳壠在齊境。及文舉在本州,每加賞募。齊人感其孝義,潛相要結,以韋氏柩西歸,竟得合葬。

六年、南青州刺史に任じられた。宣政元年、官のまま死去した。子の冑が後を嗣いだ。官は大都督に至ったが、早世した。

原文 六年,除南青州刺史。宣政元年,卒於位。子冑嗣。官至大都督,早卒。

父の邃は、性格が方正厳格で、郷里の人々に推戴された。初官は散騎常侍・奉車都尉であり、累進して諫議大夫・司空從事中郎となった。大統三年、東魏が侵攻してくると、邃は郷人を糾合し、険要の地を分かち据えて自らを固めた。当時、東魏は正平を東雍州とし、その将司馬恭を派遣してこれを鎮守させた。しばしば間者を派遣しては、百姓を扇動した。邃は密かに都督韓僧明を城中に入れ、その将士を諭したところ、すぐに五百余人が内応を約束した。約束の日が未だ至らぬうちに、恭はこれを知り、城を棄てて夜逃げした。これにより東雍州は内属することとなった。李弼が東境の地を攻略した際には、邃がその案内役となり、多くを降伏させた。太祖はこれを嘉し、特に衣服を賞賜し、澄城県子に封じ、邑三百戸を与え、安東将軍・銀青光禄大夫に進め、散騎常侍・太尉府司馬を加えられ、正平郡守に任じられた。まもなく官のまま死去した。儀同三司・定州刺史を追贈された。

原文 父邃,性方嚴,為州里所推挹。解褐散騎常侍、奉車都尉,累遷諫議大夫、司空從事中郎。大統三年,東魏來寇,邃乃糾合鄉人,分據險要以自固。時東魏以正平為東雍州,遣其將司馬恭鎮之。每遣間人,扇動百姓。邃密遣都督韓僧明入城,喻其將士,即有五百餘人,許為內應。期日未至,恭知之,乃棄城夜走。因是東雍遂內屬。及李弼略地東境,邃為之鄉導,多所降下。太祖嘉之,特賞衣物,封澄城縣子,邑三百戶,進安東將軍、銀青光祿大夫,加散騎常侍、太尉府司馬,除正平郡守。尋卒官。贈儀同三司、定州刺史。

文舉は若い頃より忠実で謹直であり、経史に広く通じていた。大統十年、奉朝請として初めて官に就き、丞相府墨曹参軍に遷った。当時、太祖の諸子は幼く、盛んに賓友を選んでいた。文舉は選ばれて諸公子と交遊し、互いに敬意を以て接し、戯れ侮ることはなかった。威烈将軍・著作郎・中外府参軍事に遷った。魏恭帝二年、賀蘭氏の姓を賜った。孝閔帝が即位すると、澄城県子の爵を襲封した。

原文 文舉少忠謹,涉獵經史。大統十年,起家奉朝請,遷丞相府墨曹參軍。時太祖諸子年幼,盛簡賓友。文舉以選與諸公子遊,雅相欽敬,未嘗戲狎。遷威烈將軍、著作郎、中外府參軍事。魏恭帝二年,賜姓賀蘭氏。孝閔帝踐阼,襲爵澄城縣子。

斉公宇文憲が初めて幕府を開くと、文挙を司録とした。世宗の初め、累進して帥都督・寧遠将軍・大都督となった。憲が剣南に出鎮すると、再び文挙を益州総管府中郎とした。武成二年、そのまま使持節・車騎大将軍・儀同三司を加えられた。蜀の地は肥沃で、商売の利は百倍にもなった。ある者が文挙に利益を勧めることがあったが、文挙はこれに答えて言った。「利益として貴ぶべきは、身を安んずるに如くはない。身が安らかであれば道は盛んとなるのであり、財貨のことを言うのではない。それゆえにしないのであって、財を嫌うのではない。」憲はその貧しさを哀れみ、しばしば資財を与えようとした。文挙は常に自ら謙遜し、辞退することが多く受け取ることは少なかった。

原文 齊公憲初開幕府,以文舉為司錄。世宗初,累遷帥都督、寧遠將軍、大都督。及憲出鎮劍南,復以文舉為益州總管府中郎。武成二年,就加使持節、車騎大將軍、儀同三司。蜀土沃饒,商販百倍。或有勸文舉以利者,文舉答之曰:「利之為貴,莫若安身。身安則道隆,非貨之謂。是以不為,非惡財也。」憲矜其貧窶,每欲資給之。文舉恆自謙遜,辭多受少。

保定三年、絳州刺史に遷った。邃がかつて正平に赴いた時は、廉潔・倹約をもって自らを律し、春の巡行で風俗を視察する際も、単車(質素な車)一台のみであった。文挙が州を治めるに及んで、その法を一貫して遵守した。百姓はこれを称賛し、感化された。総管韋孝寬は特に彼を欽重し、話し合うたびに、知らず膝を前に進めて席に近づいた。天和の初め、驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。まもなく孝寬の柱国府司馬となった。六年、入朝して司憲中大夫となり、爵位は公に進み、邑を増やして以前と合わせて一千戸となった。ほどなく軍司馬に転じた。建徳二年、さらに邑七百戸を増やされた。

原文 保定三年,遷絳州刺史。邃之往正平也,以廉約自守,每行春省俗,單車而已。及文舉臨州,一遵其法。百姓美而化之。總管韋孝寬特相欽重,每與談論,不覺膝前於席。天和初,進驃騎大將軍、開府儀同三司。尋為孝寬柱國府司馬。六年,入為司憲中大夫,進爵為公,增邑通前一千戶。俄轉軍司馬。建德二年,又增邑七百戶。

文挙は幼くして父を亡くし、兄はまた山東(太行山以東、斉の地)におり、ただ弟の璣と共に幼くして互いに教え養い、友愛は非常に篤かった。璣はまた早世したが、文挙はその遺児を養い視ること、自分の子以上であった。当時の人はこれを称えた。初め、文挙の叔父季和は曲沃県令となり、聞喜川で死去し、叔母の韋氏は正平県で死去した。東西が分断された状況下で、韋氏の墳墓は斉の境内にあった。文挙が本州(絳州)にいた時、たびたび賞金をかけて募った。斉人はその孝義に感じ、密かに連絡を取り合い、韋氏の棺を西に帰らせ、ついに合葬することができた。

原文 文舉少喪父,其兄又在山東,唯與弟璣幼相訓養,友愛甚篤。璣又早亡,文舉撫視遺孤,逾於己子。時人以此稱之。初,文舉叔父季和為曲沃令,卒於聞喜川,而叔母韋氏卒於正平縣。屬東西分隔,韋氏墳壠在齊境。及文舉在本州,每加賞募。齊人感其孝義,潛相要結,以韋氏柩西歸,竟得合葬。

六年、南青州刺史に任じられた。宣政元年、官のまま死去した。子の冑が後を嗣いだ。官は大都督に至ったが、早世した。

原文 六年,除南青州刺史。宣政元年,卒於位。子冑嗣。官至大都督,早卒。

当時、高賓という者がおり、内外の官を歴任し、またその有能さをもって称えられた。

原文 時有高賓者,歷官內外,亦以幹用見稱。

賓は、渤海郡修県の人である。その祖先は官のため北辺に赴き、ついに遼左(遼東地方)に没した。祖父の暠は、魏の太和の初めに、遼東より魏に帰順した。官は安定郡守・衛尉卿に至った。父の季安は、撫軍将軍・兗州刺史となった。

原文 賓,渤海修人也。其先因官北邊,遂沒於遼左。祖暠,以魏太和初,自遼東歸魏。官至安定郡守、衞尉卿。父季安,撫軍將軍、兗州刺史。

賓は幼少より聡明で、文武の才幹があった。東魏に仕え、官歴は龍驤将軍・諫議大夫・立義都督に至った。同僚にその才能を妬む者がおり、斉の神武帝(高歓)に讒言した。賓は禍が及ぶことを恐れ、大統六年(540年)、家族を棄てて、密かに帰国した。太祖(宇文泰)はこれを嘉し、安東将軍・銀青光禄大夫を授けた。やがて通直散騎常侍・撫軍将軍・大都督に昇進した。世宗(明帝宇文毓)の初年、咸陽郡守に任じられた。政務は簡素で慈恵を旨とし、民の和をよく得た。世宗はその才能を聞き、郡内に田園を賜った。賓は既に他国から帰順した身であり、親族は斉にいるため、常に疑われることを憂え、信頼を得る術がなかった。そこで賜った田内に、多く竹木を植え、盛大に堂宇を構え、また池沼を掘ってこれを囲み、ここに終焉を迎える志を示した。朝廷はこれによって二心なきことを知った。使持節・車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍を加えられ、姓を獨孤氏と賜った。

原文 賓少聰穎,有文武幹用。仕東魏,歷官至龍驤將軍、諫議大夫、立義都督。同列有忌其能者,譖之於齊神武。賓懼及於難,大統六年,乃棄家屬,間行歸闕。太祖嘉之,授安東將軍、銀青光祿大夫。稍遷通直散騎常侍、撫軍將軍、大都督。世宗初,除咸陽郡守。政存簡惠,甚得民和。世宗聞其能,賜田園於郡境。賓既羈旅歸國,親屬在齊,常慮見疑,無以取信。乃於所賜田內,多蒔竹木,盛構堂宇,并鑿池沼以環之,有終焉之志。朝廷以此知無貳焉。加使持節、車騎大將軍、儀同三司、散騎常侍,賜姓獨孤氏。

武成元年(559年)、御正下大夫に任じられ、小載師を兼ね、出向して益州総管府長史となった。保定初年(561年)、召されて計部中大夫に任じられ、中外府従事中郎を治め、武陽県伯の爵を賜った。賓は政務に敏速で、果敢に決断し、文書は繁雑であっても、余裕をもって処理した。太府中大夫・斉公(宇文)憲府長史に転じた。天和二年(567年)、鄀州諸軍事・鄀州刺史に任じられ、位は驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、襄州総管府司録を治めた。六年(571年)、州において卒した。時に六十八歳。子の熲は、隋の文帝(楊堅)の創業を輔佐した。開皇年間(581–600年)、賓は礼部尚書・武陽公を追贈された。諡は簡といった。

原文 武成元年,除御正下大夫,兼小載師,出為益州總管府長史。保定初,徵拜計部中大夫,治中外府從事中郎,賜爵武陽縣伯。賓敏於從政,果敢決斷,案牘雖繁,綽有餘裕。轉太府中大夫、齊公憲府長史。天和二年,除鄀州諸軍事、鄀州刺史,進位驃騎大將軍、開府儀同三司,治襄州總管府司錄。六年,卒於州。時年六十八。子熲,為隋文帝佐命。開皇中,贈賓禮部尚書、武陽公。諡曰簡。

また安定の尞允がいた。本姓は牛氏で、器量と才幹があり、当時に知られた。官歴は侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・工部尚書・臨涇県公に至り、姓を宇文氏と賜った。その事績は失われているため、伝を立てない。允の子の弘は、博学で見聞が広い。宣政年間(578年)、内史下大夫・儀同大将軍となった。大象末年(580年)、再び牛氏に復姓した。

原文 又有安定尞允,本姓牛氏,亦有器幹,知名於時。歷官侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司、工部尚書、臨涇縣公,賜姓宇文氏。失其事,故不為傳。允子弘,博學洽聞。宣政中,內史下大夫、儀同大將軍。大象末,復姓牛氏。

史臣が曰く、寇儁は両朝に身を委ね、儒者の素養をもって重んじられた。韓襃は三帝に奉事し、忠厚をもって知られた。趙肅は公平で官職に当たった。張軌は善良な統治で美名を広めた。李彥の名声は省閤(中央官庁)に流れた。郭彥の信義は蠻陬(辺境の地)に顕著であった。内外の官職を歴任し、皆当時の選りすぐりであった。文挙(裴文挙)が絳州に在ったことは、代々清徳を載せた。辞すること多く受け取ること少なく、廉潔譲りの風があった。

原文 史臣曰:寇儁委質兩朝,以儒素見重。韓襃奉事三帝,以忠厚知名。趙肅平允當官。張軌循良播美。李彥譽流省閤。郭彥信著蠻陬。歷官外內,竝當時之選也。文舉之在絳州,世載清德。辭多受少,有廉讓之風焉。