周書

巻035

卷三十五 列傳第二十七 鄭孝穆 崔謙 弟說 子弘度 崔猷 裴俠 薛端 薛善 弟慎

鄭孝穆

原文 鄭孝穆

鄭孝穆は字を道和といい、滎陽けいよう郡開封県の人である。魏の将作大匠鄭渾の十一世の孫。祖父の敬叔は、魏の潁川郡・濮陽郡の郡守となり、本邑の中正を務めた。父の瓊は范陽郡守となり、没後に安東将軍・青州刺史を追贈された。

原文 鄭孝穆字道和,滎陽開封人,魏將作大匠渾之十一世孫。祖敬叔,魏潁川、濮陽郡守,本邑中正。父瓊,范陽郡守,贈安東將軍、青州刺史。

孝穆は幼い頃から謹厳で篤実であり、清廉で質素な生活を自ら守った。弱冠に至らずして経書や史書に広く通じた。父と叔父四人はいずれも早くに亡くなり、兄弟の中では孝穆が最年長であった。諸弟を養育し訓導すること、同母兄弟のようであり、家庭内は和やかであった。魏の孝昌初年、初めて官に就き太尉行参軍となり、転じて司徒しと主簿となった。時に盗賊が蜂起したため、仮節・龍驤将軍・別将に任ぜられ、しばしば戦功を立てた。永安年間、冠軍将軍・持節・都督ととくに昇進した。元天穆に従って邢杲を討伐平定し、驃騎将軍・左光禄大夫・太師咸陽王長史に進んだ。魏の孝武帝が西遷するに及び、これに従って関中に入り、司徒左長史に任ぜられ、臨洮王友を兼任し、永寧県侯の爵位を賜った。

原文 孝穆幼而謹厚,以清約自居。年未弱冠,涉獵經史。父叔四人並早歿,昆季之中,孝穆居長。撫訓諸弟,有如同生,閨庭之中,怡怡如也。魏孝昌初,解褐太尉行參軍,轉司徒主簿。屬盜賊蜂起,除假節、龍驤將軍、別將,屢有戰功。永安中,遷冠軍將軍、持節、都督。從元天穆討平邢杲,進驃騎將軍、左光祿大夫、太師咸陽王長史。及魏孝武西遷,從入關,除司徒左長史,領臨洮王友,賜爵永寧縣侯。

大統五年、武功郡の事務を代行し、使持節・本官の将軍のまま、岐州刺史・当州都督を代行した。在任間もなく、有能な名声を得た。そのまま通直散騎常侍さんきじょうじを加えられた。王羆が当時雍州刺史であったが、その善政を欽慕し、使者を遣わして書簡を贈り、大いに称賛した。先に、管轄下の百姓は長く離乱に遭い、飢饉が相次ぎ、逃散してほとんどいなくなっていた。孝穆が着任した日には、戸数はわずか三千であった。心を留めて慰撫すると、遠近から皆集まり、数年以内に四万戸となった。毎年の考課成績は、天下で最も優れていた。太祖(宇文泰)はこれを嘉し、詔書を賜って言った、「卿が近畿に職を臨み、治術に心を留めたことを知る。凋弊した風俗に礼教が興り行われ、乱を厭う民が幼児を背負って来る。昔、郭伋は并へい州で政績を成し、賈琮は冀州で名声が重かったが、古を以て今に比べれば、彼らも徳に恥じるであろう」。ここにおいて召し出されて京兆尹に任ぜられた。

原文 大統五年,行武功郡事,遷使持節、本將軍,行岐州刺史、當州都督。在任未幾,有能名。就加通直散騎常侍。王羆時為雍州刺史,欽其善政,遣使貽書,盛相稱述。先是,所部百姓,久遭離亂,饑饉相仍,逃散殆盡。孝穆下車之日,戶止三千。留情綏撫,遠近咸至,數年之內,有四萬家。每歲考績,為天下最。太祖嘉之,賜書曰:「知卿莅職近畿,留心治術。凋弊之俗,禮教興行;厭亂之民,襁負而至。昔郭伋政成并部,賈琮譽重冀方,以古方今,彼有慙德。」於是徵拜京兆尹。

十五年、梁の雍州刺史・岳陽王蕭詧が藩国として称し、帰順して来た。時に使者を派遣する議論があり、使者の人選を厳重に行った。太祖は内外の者を歴覧し、孝穆に及ぶ者はいなかった。十六年、ついに孝穆を仮の散騎常侍とし、節を持たせて蕭詧を梁王に冊封した。使いから戻り、その旨に適ったため、車騎大将軍・儀同三司に進み、散騎常侍を加えられた。この年、太祖が軍を総率して東征すると、大丞相府右長史に任ぜられ、金郷県男に封ぜられ、邑二百戸を賜った。軍が潼関に駐屯した時、孝穆に左長史長孫儉・司馬楊寛・尚書蘇亮・諮議劉孟良らと共に諸務を分掌させた。また孝穆に関東から帰順する人士を引見接遇させ、併せてその才能と品行を品評して任用させた。孝穆は慰撫して受け入れ、選考して序列づけること、いずれも適切であった。大将軍達奚武が軍を率いて漢中を経略するに当たり、孝穆を梁州刺史としたが、病気のためその任地に赴かなかった。中書令に任ぜられ、宇文の姓を賜った。まもなく病気により免官となった。

原文 十五年,梁雍州刺史、岳陽王蕭詧稱藩來附,時議欲遣使,盛選行人。太祖歷觀內外,無逾孝穆者。十六年,乃假孝穆散騎常侍,持節策拜詧為梁王。使還稱旨,進車騎大將軍、儀同三司,加散騎常侍。是年,太祖總戎東討,除大丞相府右長史,封金鄉縣男,邑二百戶。軍次潼關,命孝穆與左長史長孫儉、司馬楊寬、尚書蘇亮、諮議劉孟良等分掌眾務。仍令孝穆引接關東歸附人士,并品藻才行而任用之。孝穆撫納銓敘,咸得其宜。大將軍達奚武率眾經略漢中,以孝穆為梁州刺史,以疾不之部。拜中書令,賜姓宇文氏。尋以疾免。

孝閔帝が即位すると、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、爵位は子に進み、邑を増やして通算一千戸となった。晋公宇文護が雍州牧となった時、別駕に招聘したが、また病気を理由に固辞した。武成二年、召し出されて御伯中大夫に任ぜられ、転じて御正となった。保定三年、外任として宜州刺史となり、転じて華州刺史となった。五年、虞州刺史に任ぜられ、転じて陝州刺史となった。頻繁に数州を歴任し、いずれも政績があった。再び病が重くなり、たびたび致仕を乞うた。中央に入り少司空しくうとなった。在官のまま死去、時に六十歳。本官のまま追贈され、鄭・梁・北豫よの三州刺史を加贈された。諡は貞。

原文 孝閔帝踐阼,加驃騎大將軍、開府儀同三司,進爵為子,增邑通一千戶。晉公護為雍州牧,辟為別駕,又以疾固辭。武成二年,徵拜御伯中大夫,徙授御正。保定三年,出為宜州刺史,轉華州刺史。五年,除虞州刺史,轉陝州刺史。頻歷數州,皆有政績。復以疾篤,屢乞骸骨。入為少司空。卒於位,時年六十。贈本官,加鄭梁北豫三州刺史。諡曰貞。

子の詡が後を嗣いだ。納言の官を歴任し、陳への聘問使となった。後に開府儀同三司・大将軍・邵州刺史に至った。詡の弟の訳は、隋の文帝に輔佐擁立の功があり、開皇初年、また孝穆を追贈して大将軍・徐兗など六州刺史とし、諡を文と改めた。

原文 子詡嗣。歷位納言,為聘陳使。後至開府儀同三司、大將軍、邵州刺史。詡弟譯,於隋文帝有翊贊功,開皇初,又追贈孝穆大將軍、徐兗等六州刺史,改諡曰文。

鄭訳は幼い頃から聡明で敏速、群書に広く通じ、特に音楽を善くし、当時に名声があった。世宗(宇文毓)の詔により輔城公(宇文邕)に仕えることとなった。高祖こうそ(宇文邕)が即位すると、都督に任ぜられ、次第に昇進して御正下大夫となり、大いに顧み遇された。皇太子が立てられると、訳を宮尹下大夫とし、特に太子の親愛を受けた。建徳二年、斉への聘問使の副使となった。太子が西征した時、多くの失徳行為があり、王軌・宇文孝伯らがこれを上奏したため、高祖は大いに怒り、東宮の臣下で親しく寵愛されていた者は皆譴責を受け、訳は連座して除名された。後に定例により官に復し、吏部下大夫に任ぜられた。宣帝が位を嗣ぐと、開府儀同大将軍・内史中大夫を授けられ、帰昌県公に封ぜられ、邑千戸を賜った。既に旧恩があり、任用と待遇は甚だ重く、朝政の機密にも皆参与し審議した。まもなく内史上大夫に昇進し、爵位は沛はい国公に進んだ。上大夫の官は、訳から始まったのである。宣帝が危篤に陥ると、御正下大夫劉昉は訳と謀り、随公(楊堅)が遺命を受けて幼主を輔佐することとした。隋の文帝が政権を執ると、柱国・大丞相府長史に任ぜられ、内史は元の通りとした。まもなく上柱国に進んだ。

原文 譯幼聰敏,涉獵羣書,尤善音樂,有名於時。世宗詔令事輔城公。及高祖即位。除都督,稍遷御正下大夫,頗被顧待。東宮建,以譯為宮尹下大夫,特被太子親愛。建德二年,為聘齊使副。及太子西征,多有失德,王軌、宇文孝伯等以聞,高祖大怒,宮臣親幸者,咸被譴責,譯坐除名。後例復官,仍拜吏部下大夫。宣帝嗣位,授開府儀同大將軍、內史中大夫,封歸昌縣公,邑千戶。既以恩舊,任遇甚重,朝政機密,竝得參詳。尋遷內史上大夫,進爵沛國公。上大夫之官,自譯始也。及宣帝大漸,御正下大夫劉昉乃與譯謀,以隨公受遺輔少主。隋文帝執政,拜柱國、大丞相府長史,內史如故。尋進位上柱國。

崔謙

原文 崔謙

崔謙は字を士遜といい、博陵郡安平県の人である。祖父の辯は、魏の平遠将軍・武邑郡守。父の楷は、散騎常侍・光禄大夫・殷州刺史となり、没後に侍中・都督冀定相三州諸軍事・驃騎大将軍・儀同三司・冀州刺史を追贈された。

原文 崔謙字士遜,博陵安平人也。祖辯,魏平遠將軍、武邑郡守。父楷,散騎常侍、光祿大夫、殷州刺史,贈侍中、都督冀定相三州諸軍事、驃騎大將軍、儀同三司、冀州刺史。

謙は幼い頃から聡明で敏速、神采が聡明であった。成長すると、深沈として識見と度量があった。経書史書を広く観覧し、章句に拘泥せず、博聞を志しただけである。国を治め民を緯おさめる事柄を覧るごとに、心に常にこれを好み、巻を撫でて嘆息しないことはなかった。孝昌年間、初めて官に就き著作佐郎となった。太宰元天穆に従って邢杲を討伐し、これを破り、功により輔国将軍・太中大夫を授けられ、平東将軍・尚書殿中郎に昇進した。

原文 謙幼聰敏,神彩嶷然。及長,深沉有識量。歷觀經史,不持章句,志在博聞而已。每覽經國緯民之事,心常好之,未嘗不撫卷歎息。孝昌中,解褐著作佐郎。從太宰元天穆討邢杲,破之,以功授輔國將軍、太中大夫,遷平東將軍、尚書殿中郎。

賀抜勝が荊州に出鎮すると、謙を行台左丞とした。勝は方面の重任にあったが、夷夏を安んじ輯おさめ、諸務の綱紀を整えることは、全て謙に委ねた。謙もまたその知能を尽くして、これを補佐した。勝が南州に名声があったのは、謙の力によるものであった。魏の孝武帝が斉の神武帝(高歓)の逼迫に備えようとすると、勝に詔して兵を率いて洛陽らくように赴かせた。軍が広州に至った時、帝は既に西遷していた。勝はためらい、鎮守地に戻ろうとした。謙は勝に言った、「昔、周室が不幸な時、諸侯はその位を離れた。漢の道が中衰した時、列藩は節を尽くした。今、皇家に多くの変故があり、主上は蒙塵(都を追われる)している。これはまさに忠臣が戈に枕し、義士が功を立てる時である。公は方面の重責を受け、宛・葉の衆を総べている。もし義に杖たよって動き、率先して王事に勤めるならば、天下がその風聞を聞いて、誰が感激しないことがあろうか。誠に義勇の志に順い、遠近の人心に副い、道を倍して兼行し、関右の帝に謁すべきである。その後、宇文行台と心を同じくし力を協わせて、電撃のごとく朝廷に背く者を討てば、桓公・文公の勲功が、今この日に復興するであろう。これを捨てて行わず、中途で退くならば、恐らく人は皆解体し、士はおのおの異心を抱くであろう。一旦事機を失えば、後悔しても及ばない」。勝はこれを用いず、果たして人情は大いに動揺した。帰還して州に至らないうちに、州民の鄧誕が侯景の軍を引きいて急に到来し、勝はこれと戦って敗北し、ついに麾下の数百騎を率いて南の梁に奔った。謙もまた勝と共に行った。梁に至ると、たびたび援軍を請うた。梁の武帝は軍を出さなかったが、勝らの志節を嘉し、共にその帰国を許した。そこで謙を先に帰還させ、かつ隣国との友好を通じさせた。魏の文帝は謙を見て甚だ喜び、これに言った、「卿は万死の中から出で、江外に身を投じたが、今生きて本朝に還り得た。これ忠貞の報いではないか」。太祖(宇文泰)は平素より謙の名声を聞き、甚だ礼遇した。そこで征西将軍・金紫光禄大夫を授け、千乗県男の爵位を賜った。勝が到着すると、太師に任ぜられ、謙に補佐の功があったため、また太師長史を授けた。

原文 賀拔勝出鎮荊州,以謙為行臺左丞。勝雖居方岳之任,至於安輯夷夏,綱紀眾務,皆委謙焉。謙亦盡其智能,以相匡弼。勝有聲南州,謙之力也。及魏孝武將備齊神武之逼,乃詔勝引兵赴洛。軍至廣州,帝已西遷。勝乃遲疑,將旋所鎮。謙謂勝曰:「昔周室不造,諸侯釋位;漢道中微,列藩盡節。今皇家多故,主上蒙塵,寔忠臣枕戈之時,義士立功之日也。公受方面之重,總宛、葉之眾,若杖義而動,首唱勤王,天下聞風,孰不感激。誠宜順義勇之志,副遐邇之心,倍道兼行,謁帝關右。然後與宇文行臺,同心協力,電討不庭。則桓、文之勳,復興於茲日矣。捨此不為,中道而退,便恐人皆解體,士各有心。一失事機,後悔何及。」勝不能用,而人情果大騷動。還未至州,州民鄧誕引侯景軍奄至,勝與戰,敗績,遂將麾下數百騎南奔於梁。謙亦與勝俱行。及至梁,每乞師赴援。梁武帝雖不為出軍,而嘉勝等志節,竝許其還國。乃分謙先還,且通隣好。魏文帝見謙甚悅,謂之曰:「卿出萬死之中,投身江外,今得生還本朝,豈非忠貞之報也。」太祖素聞謙名,甚禮之。乃授征西將軍、金紫光祿大夫,賜爵千乘縣男。及勝至,拜太師,以謙有毗輔之功,又授太師長史。

大統三年、太祖に従い竇泰を擒え、沙苑に戦い、共に功績があった。爵を進めて子と為し、車騎大將軍・右光祿大夫に遷り、尚書右丞を拝された。崔謙は時事に明るく練達し、枢轄の任に就くと、当時の論評は適材を得たと認めた。四年、太祖に従い洛陽の包囲を解き、引き続き河橋の戦いに加わり、定州大中正・瀛州刺史を加えられた。十五年、車騎大將軍・儀同三司を授かり、また隨郡において柳仲禮を破り、魏興において李遷哲を討ち平らげ、共に功績があった。驃騎大將軍・開府儀同三司・直州刺史に進み、宇文の姓を賜った。

原文 大統三年,從太祖擒竇泰,戰沙苑,竝有功。進爵為子,遷車騎大將軍、右光祿大夫,拜尚書右丞。謙明練時事,及居樞轄,時論以為得人。四年,從太祖解洛陽圍,仍經河橋戰,加定州大中正、瀛州刺史。十五年,授車騎大將軍、儀同三司,又破柳仲禮於隨郡,討平李遷哲於魏興,竝有功。進驃騎大將軍、開府儀同三司、直州刺史,賜姓宇文氏。

魏恭帝の初め、利州刺史に転じた。崔謙の性質は明敏で悟りが早く、政術に深く通暁し、また政務を処理するのに勤勉で、民の訴訟が繁雑であっても、懈怠や倦怠の色を見せたことがなかった。官吏と民衆はこのゆえに敬愛した。時に蜀しょく人の賈晃遷が兵を挙げて乱を起こし、その徒党を率いて州城を包囲し攻め立てた。崔謙は慌ただしく部署を分け、わずか千人余りを得るや、直ちに率いて防戦した。梁州の援兵が到着したのに合わせ、遂に賈晃遷を擒え、残りの者は散り散りになった。崔謙はその渠帥を誅し、残りは全て赦した。十日ほどの間に、遂に安寧を取り戻した。世宗の初め、爵を進めて作唐県公とした。保定二年、安州総管・隨応等十一州甑山上明魯山三鎮諸軍事・安州刺史に遷った。四年、大将軍を加えられ、爵を進めて武康郡公とした。

原文 魏恭帝初,轉利州刺史。謙性明悟,深曉政術,又勤於理務,民訟雖繁,未嘗有懈倦之色。吏民以是敬而愛之。時有蜀人賈晃遷舉兵作亂,率其黨圍逼州城。謙倉卒分部,纔得千許人,便率拒戰。會梁州援兵至,遂擒晃遷,餘人乃散。謙誅其渠帥,餘竝原之。旬日之間,遂得安輯。世宗初,進爵作唐縣公。保定二年,遷安州總管、隨應等十一州甑山上明魯山三鎮諸軍事、安州刺史。四年,加大將軍,進爵武康郡公。

天和元年、江陵総管を授かった。三年、荊州総管・荊淅等十四州南陽平陽等八防諸軍事・荊州刺史に遷った。州は統轄する地域が遠く広く、風俗は夷夏が混じり、また南は陳の国境に接し、東は斉の敵寇に隣接していた。崔謙は外には強敵を防ぎ、内には軍民を撫で、風教と化育が大いに行われ、良牧と称えられた。毎年の考課成績は、常に天下で最も優れており、しばしば詔により褒め称えられた。崔謙は賀拔勝が荊州にいた時に従っていたが、親しく遇されながらも名声と地位は顕著ではなかった。その地位に就くと、朝廷と民間は栄誉と見なした。四年、州において卒去した。全州の境域が痛惜し、共に祠堂を建立し、四季に祭礼を行った。子の崔曠が後を嗣いだ。

原文 天和元年,授江陵總管。三年,遷荊州總管、荊淅等十四州南陽平陽等八防諸軍事、荊州刺史。州既統攝遐長,俗兼夷夏,又南接陳境,東隣齊寇。謙外禦彊敵,內撫軍民,風化大行,號稱良牧。每年考績,常為天下最,屢有詔襃美焉。謙隨賀拔勝之在荊州也,雖被親遇,而名位未顯。及踐其位,朝野以為榮。四年,卒於州。闔境痛惜之,乃共立祠堂,四時祭饗。子曠嗣。

崔謙の性質は至孝であり、幼くして父を喪い、ほとんど身を滅ぼさんばかりであった。弟の崔説と特に友愛し合い、たとえ年齢も共に高く、名声と地位もそれぞれ重くなっても、所有する資産については、私することはなかった。その家を治めることは厳粛で、行動は礼の規範に従った。崔曠と崔説の子の崔弘度らは、共にその遺訓を奉じたという。

原文 謙性至孝,少喪父,殆將滅性。與弟〈(訦)〉〔說〕特相友愛,雖復年事竝高,名位各重,所有資產,皆無私焉。其居家嚴肅,動遵禮度。曠與說子弘度等,竝奉其遺訓云。

崔曠は若い頃温雅で、仁愛に満ち広く人を愛した。官途に就いて中外府記室となった。大象の末、位は開府儀同大将軍・淅州刺史に至った。

原文 曠少溫雅,仁而汎愛。釋褐中外府記室。大象末,位至開府儀同大將軍,淅州刺史。

弟の崔説。

原文 弟說

崔説は本名を士約といい、若い頃から鯁直で、節義と気概があり、膂力は人に優れ、特に騎射に巧みであった。官途に就いて領軍府録事を領し、諮議参軍に転じた。賀拔勝が荊州の牧として出ると、崔説を仮節・冠軍將軍・防城都督とした。また賀拔勝に従って梁に奔り、再び梁より帰国した。衞えい將軍・都督を授けられ、安昌県子に封ぜられ、邑三百戸を賜った。太祖に従って弘農を回復し、沙苑に戦い、いずれも功績があった。爵を進めて侯とし、邑八百戸を増やし、京兆郡守を除かれた。累遷して帥都督・撫軍將軍・通直散騎常侍・大都督・車騎大将軍・儀同三司・都官尚書・定州大中正となり、安固県侯に改封され、邑三百戸を増やし、宇文の姓を賜り、併せて名を説と賜った。驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、侍中を加えられ、爵を進めて萬年県公とし、邑を増やして以前と合わせて二千四百戸とした。隴州刺史を除かれ、総管涼甘瓜三州諸軍事・涼州刺史に遷った。崔説は政に臨んで強毅であり、百姓はこれを畏れた。斉王宇文憲が東征するに当たり、崔説を行軍長史とした。軍が還ると、使持節・崇德安義等十三防熊和中等三州諸軍事・崇德防主を除かれ、大将軍を加授され、安平県公に改封された。建徳四年に卒去し、時に六十四歳であった。鄜延丹綏長五州刺史を追贈され、諡して壮といった。子の崔弘度は猛毅にして父の風があった。大象の末、上柱国・武郷郡公であった。

原文 說本名士約,少鯁直,有節槩,膂力過人,尤工騎射。釋褐領軍府錄事,轉諮議參軍。及賀拔勝出牧荊州,以說為假節、冠軍將軍、防城都督。又隨勝奔梁,復自梁歸國。授衞將軍﹑都督,封安昌縣子,邑三百戶。從太祖復弘農,戰沙苑,皆有功。進爵為侯,增邑八百戶,除京兆郡守。累遷帥都督、撫軍將軍、通直散騎常侍、大都督、車騎大將軍、儀同三司、都官尚書、定州大中正,改封安固縣侯,增邑三百戶,賜姓宇文氏,并賜名說焉。進爵驃騎大將軍、開府儀同三司,加侍中,進爵萬年縣公,增邑通前二千四百戶。除隴州刺史,遷總管涼甘瓜三州諸軍事、涼州刺史。說莅政彊毅,百姓畏之。齊王憲東征,以說為行軍長史。軍還,除使持節、崇德安義等十三防熊和〈(忠)〉〔中〕等三州諸軍事,崇德防主,加授大將軍,改封安平縣公。建德四年卒,時年六十四。贈鄜延丹綏長五州刺史,諡曰壯。子弘度,猛毅有父風。大象末,上柱國、武鄉郡公。

崔猷。

原文 崔猷

崔猷は字を宣猷といい、博陵安平の人で、漢の尚書崔寔の十二世の孫である。祖父の崔挺は、魏の光州刺史・泰昌県子で、輔国將軍・幽州刺史を追贈され、諡して景といった。父の崔孝芬は、左光禄大夫・儀同三司、吏部尚書を兼ね、斉の神武帝に害された。

原文 崔猷字宣猷,博陵安平人,漢尚書寔之十二世孫也。祖挺,魏光州刺史、泰昌縣子,贈輔國將軍、幽州刺史,諡曰景。父孝芬,左光祿大夫、儀同三司,兼吏部尚書,為齊神武所害。

崔猷は若くして学問を好み、風度は閑雅で、性質は鯁直であり、軍国を籌策する謀略があった。官途に就いて員外散騎侍郎となり、大行臺郎中を領した。まもなく吏部尚書李神儁に推薦され、通直散騎侍郎を拝され、尚書駕部郎中を摂した。普泰の初め、征虜將軍・司徒從事中郎を除かれた。家難に遭った後、遂に間道を通って関中に入った。魏の孝武帝に謁見すると、その哀痛は左右を動かし、帝はそのために顔色を改めた。退出した後、帝はその背を見送って言った、「忠孝の道が、この一門に集まっている」。直ちに本官のまま門下の事を奏上させた。

原文 猷少好學,風度閑雅,性鯁正,有軍國籌略。釋褐員外散騎侍郎,領大行臺郎中。尋為吏部尚書李神儁所薦,拜通直散騎侍郎,攝尚書駕部郎中。普泰初,除征虜將軍、司徒從事中郎。既遭家難,遂間行入關。及謁魏孝武,哀動左右,帝為之改容。既退,帝目送之曰:「忠孝之道,萃此一門。」即以本官奏門下事。

大統の初め、給事黄門侍郎を兼ね、平原県伯に封ぜられ、邑八百戸を賜った。二年、正しく黄門侍郎を除かれ、中軍將軍を加えられた。竇泰を擒え、弘農を回復し、沙苑を破る戦いで、崔猷は常に本官のまま軍に従って文書を司った。五年、司徒左長史を除かれ、驃騎將軍を加えられた。時に太廟が初めて完成し、四季の祭祀において、なお俳優や角抵の戯れを設け、その郊廟の祭官には、多く仮官や兼任があった。崔猷はたびたび上疏して諫め、上奏文は全て容れられた。京兆尹に遷った。時に婚姻の礼が廃れ、嫁娶の日に、多く音楽を挙行した。また市街の富家では、衣服が奢侈で淫らで、織成の文繡を用いる者さえあった。崔猷はまた禁断を請い、その事も施行された。盧辯らと共に六官の制度を創修した。十二年、大都督・驃騎將軍・淅州刺史を除かれ、車騎大将軍・儀同三司を加えられた。

原文 大統初,兼給事黃門侍郎,封平原縣伯,邑八百戶。二年,正除黃門,加中軍將軍。擒竇泰,復弘農,破沙苑,猷常以本官從軍典文翰。五年,除司徒左長史,加驃騎將軍。時太廟初成,四時祭祀,猶設俳優角抵之戲,其郊廟祭官,多有假兼。猷屢上疏諫,書奏,竝納焉。遷京兆尹。時婚姻禮廢,嫁娶之辰,多舉音樂。又廛里富室,衣服奢淫,乃有織成文繡者。猷又請禁斷,事亦施行。與盧辯等剏修六官。十二年,除大都督、驃騎將軍、淅州刺史,加車騎大將軍、儀同三司。

十四年、侯景が河南を占拠して帰順を申し出ると、行臺王思政を派遣してこれに赴かせた。太祖は王思政に書を送って言った、「崔宣猷は智略が明らかで豊かであり、応変の才がある。もし疑うところがあれば、宜しく彼と量り可否を計るがよい」。王思政は初め襄城に兵を駐屯させたが、後に潁川を行臺の治所としようとし、使者の魏仲を遣わして啓上してその旨を陳べさせた。併せて崔猷に書を送り、移転しようとする意を論じた。崔猷は返書して言った、「そもそも兵とは、先に声勢を張り後に実力を示すことを務めとし、故に百戦百勝し、弱きを以て強きと為すのである。ただ襄城は京洛を控え扼し、実に当今の要地であり、もし動静があれば、容易に応接し合える。潁川は既に敵境に隣接し、また山川の険固もない。賊が充満すれば、直ちに城下に至るであろう。愚かな考えをもって、その利害を権衡するに、兵を襄城に駐屯させ、行臺の治所とし、潁川に州を置き、郭賢を派遣して鎮守させるに如くはない。そうすれば表裏が膠の如く固く結ばれ、人心も安んじ易く、仮に不測の事があっても、どうして患いと為せようか」。魏仲は太祖に謁見し、詳細に啓上して報告した。太祖は直ちに魏仲を還し、崔猷の策に従うよう命じた。王思政は重ねて啓上し、朝廷と約束を結ぶことを求めた。賊が水攻めするならば、一周(一年)を期限とし、陸攻めするならば、三歳を期限とする。期限の内に事があれば、援軍に赴く煩わしさはない。これを過ぎた後は、朝廷の裁量に任せる、と。太祖は王思政が既にその事に親しく関わり、兼ねて固く請うたので、遂にこれを許した。潁川が陥落した後、太祖は深く追悔した。十六年、病により職を去った。大軍の東征に際し、太祖は馬車を賜い、軍に随行するよう命じ、彼と籌策を議した。十七年、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・本州大中正に進み、宇文の姓を賜った。

原文 十四年,侯景據河南歸款,遣行臺王思政赴之。太祖與思政書曰:「崔宣猷智略明贍,有應變之才,若有所疑,宜與量其可不。」思政初〈(領)〉〔頓〕兵襄城,後欲於潁川為行臺治所,遣使人魏仲奉啟陳之。并致書於猷論將移之意。猷復書曰:「夫兵者,務在先聲後實,故能百戰百勝,以弱為彊也。但襄城控帶京洛,寔當今之要地,如有動靜,易相應接。潁川既隣寇境,又無山川之固,賊若充斥,徑至城下。輒以愚情,權其利害,莫若頓兵襄城,為行臺治所,潁川置州,遣郭賢鎮守。則表裏膠固,人心易安,縱有不虞,豈能為患。」仲見太祖,具以啟聞。太祖即遣仲還,令依猷之策。思政重啟,求與朝廷立約:賊若水攻,乞一周為斷;陸攻,請三歲為期。限內有事,不煩赴援。過此以往,惟朝廷所裁。太祖以思政既親其事,兼復固請,遂許之。及潁川沒後,太祖深追悔焉。十六年,以疾去職。屬大軍東征,太祖賜以馬輿,命隨軍,與之籌議。十七年,進侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司、本州大中正,賜姓宇文氏。

魏の恭帝元年、太祖(宇文泰)は梁漢の旧路を開こうと欲し、乃ち崔猷に命じて儀同劉道通・陸騰等の五人を督せしめ、衆を率いて車路を開通させ、山を鑿ち谷を埋めて五百余里に及び、梁州に至った。即ち崔猷を以て都督梁利等十二州白馬儻城二防諸軍事・梁州刺史と為す。太祖の崩ずるに及び、始州・利州・沙州・興州等の諸州は、兵を阻んで逆を為し、信州・合州・開州・楚州の四州も亦叛き、唯だ梁州の境内のみは、民に二心無し。利州刺史崔謙が援けを請うと、崔猷は兵六千を遣わして之に赴かしむ。信州は糧尽き、崔猷は又米四千斛を送る。二鎮は全きを得たるは、崔猷の力なり。爵を進めて固安県公と為し、邑二千戸。崔猷は深く晋公宇文護に重んぜられ、護は乃ち崔猷の第三女を養いて己が女と為し、富平公主に封ず。

原文 魏恭帝元年,太祖欲開梁漢舊路,乃命猷督儀同劉道通、陸騰等五人,率眾開通車路,鑿山堙谷五百餘里,至于梁州。即以猷為都督梁利等十二州白馬儻城二防諸軍事、梁州刺史。及太祖崩,始利沙興等諸州,阻兵為逆,信合開楚四州亦叛,唯梁州境內,民無貳心。利州刺史崔謙請援,猷遣兵六千赴之。信州糧盡,猷又送米四千斛。二鎮獲全,猷之力也。進爵固安縣公,邑二千戶。猷深為晉公護所重,護乃養猷第三女為己女,封富平公主。

世宗(明帝)即位し、徴して御正中大夫に拝す。時に周礼に依りて天王と称し、又年号を建てず。崔猷は以て、世に澆淳有り、運に治乱有り、故に帝王之に因りて沿革し、聖哲時に因りて制を宜しくすと為す。今天子王と称するは、以て天下を威するに足らず、秦漢に遵い皇帝と称し、年号を建つるを請う。朝議之に従う。武成二年、司会中大夫を除し、御正は旧の如し。

原文 世宗即位,徵拜御正中大夫。時依周禮稱天王,又不建年號,猷以為世有澆淳,運有治亂,故帝王以之沿革,聖哲因時制宜。今天子稱王,不足以威天下,請遵秦漢稱皇帝,建年號。朝議從之。武成二年,除司會中大夫,御正如故。

世宗崩じ、遺詔して高祖(武帝)を立てしむ。晋公宇文護、崔猷に謂いて曰く、「魯国公(宇文邕)は稟性寛仁、太祖諸子の中にて、年又長ずるに居る。今遺旨を奉じて遵い、翊戴して主と為さんとす。君以て如何と為すや」と。崔猷対えて曰く、「殷の道は尊尊、周の道は親親、今朝廷既に周礼を遵う。容れ易く此の義に違うべからず」と。護曰く、「天下の事大なり。但だ畢公(宇文邕)の冲幼なるを恐るるのみ」と。猷曰く、「昔周公成王を輔けて以て諸侯に朝せしむ。況んや明公は親賢にして二無く、若し周公の事を行わば、方に顧託を負かざるに為らん」と。事は行はれざりしと雖、当時に其の正を守るを称す。保定元年、重ねて総管梁利開等十四州白馬儻城二防諸軍事・梁州刺史を授く。尋いで復た司会と為る。

原文 世宗崩,遺詔立高祖。晉公護謂猷曰:「魯國公稟性寬仁,太祖諸子之中,年又居長。今奉遵遺旨,翊戴為主,君以為何如?」猷對曰:「殷道尊尊,周道親親,今朝廷既遵周禮,無容輒違此義。」護曰:「天下事大,但恐畢公冲幼耳。」猷曰:「昔周公輔成王以朝諸侯,況明公親賢莫二,若行周公之事,方為不負顧託。」事雖不行,當時稱其守正。保定元年,重授總管梁利開等十四州白馬儻〈(成)〉〔城〕二防諸軍事、梁州刺史。尋復為司會。

天和二年、陳の将華皎来たりて附く。晋公宇文護議して南伐せんと欲す。公卿敢えて正言する者無し。崔猷独り進みて曰く、「前歳東征し、死傷過半す。比に撫循を加うと雖、瘡痍未だ復せず。近くは長星災を為し、乃ち上玄の以て鑒誡を垂るる所以なり。誠に徳を修めて以て天変を禳うべし。豈に兵を窮め武を極めて、其の譴負を重くすべけんや。今陳氏は境を保ち民を息め、共に隣好を敦くす。盟約の重きに違い、其の叛臣を納れ、名無きの師を興し、其の土地を利するを容るべからず。前載を詳らかに観るに、聞かざる所なり」と。護従わず。其の後水軍果たして敗れ、裨将元定等遂に江南に没す。

原文 天和二年,陳將華皎來附,晉公護議欲南伐,公卿莫敢正言。猷獨進曰:「前歲東征,死傷過半,比雖加撫循,而瘡痍未復。近者長星為災,乃上玄所以垂鑒誡也。誠宜修德以禳天變,豈可窮兵極武而重其譴負哉?今陳氏保境息民,共敦隣好。無容違盟約之重,納其叛臣,興無名之師,利其土地。詳觀前載,非所聞也。」護不從。其後水軍果敗,而裨將元定等遂沒江南。

建徳四年、出でて同州司会と為る。六年、徴して小司徒に拝し、上開府儀同大将軍を加う。隋の文帝践極し、崔猷を以て前代の旧歯と為し、大将軍を授け、爵を進めて汲郡公と為し、邑を通前三千戸に増す。開皇四年卒す。諡して明と曰う。

原文 建德四年,出為同州司會。六年,徵拜小司徒,加上開府儀同大將軍。隋文帝踐極,以猷前代舊齒,授大將軍,進爵汲郡公,增邑通前三千戶。開皇四年卒,諡曰明。

子仲方、字は不齊、早くより知名、機神穎悟、文学優敏なり。大象末、儀同大将軍・司玉下大夫。

原文 子仲方,字不齊,早知名,機神穎悟,文學優敏。大象末,儀同大將軍、司玉下大夫。

裴俠

原文 裴俠

裴俠、字は嵩和、河東解の人なり。祖思齊、秀才に挙げられ、議郎に拝す。父欣、経史に博く渉り、魏の昌楽王府司馬・西河郡守、贈られて晋州刺史と為る。

原文 裴俠字嵩和,河東解人也。祖思齊,舉秀才,拜議郎。父欣,博涉經史,魏昌樂王府司馬、西河郡守,贈晉州刺史。

裴俠幼くして聡慧、常童に異なり。年十三、父の憂いに遭い、哀毀すること成人の若し。州辟して主簿と為し、秀才に挙げらる。魏の正光中、巾を解き奉朝請と為る。稍く員外散騎侍郎・義陽郡守に遷る。元顥洛に入る。裴俠其の使人を執り、其の赦書を焚く。魏の孝庄之を嘉し、軽車将軍・東郡太守を授け、防城別将を帯ぶ。魏の孝武斉の神武と隙有るに及び、河南の兵を徴して以て之に備う。裴俠率いる所の部を以て洛陽に赴く。建威将軍、左中郎将を授く。俄かに孝武西遷す。裴俠将に行かんとし而して妻子猶お東郡に在り。滎陽の鄭偉、裴俠に謂いて曰く、「天下方に乱れ、烏の集まる所を知らず。何ぞ妻子に東就し、徐ろに木を択ばんや」と。裴俠曰く、「忠義の道、庸んぞ忽にすべけんや。吾既に人の禄を食む。寧ろ妻子を以て図を易えんや」と。遂に関に入り従う。爵を賜いて清河県伯と為し、丞相府士曹参そうしん軍を除す。

原文 俠幼而聰慧,有異常童。年十三,遭父憂,哀毀有若成人。州辟主簿,舉秀才。魏正光中,解巾奉朝請。稍遷員外散騎侍郎、義陽郡守。元顥入洛,俠執其使人,焚其赦書。魏孝莊嘉之,授輕車將軍、東郡太守,帶防城別將。及魏孝武與齊神武有隙,徵河南兵以備之,俠率所部赴洛陽。授建威將軍,左中郎將。俄而孝武西遷,俠將行而妻子猶在東郡。滎陽鄭偉謂俠曰:「天下方亂,未知烏之所集。何如東就妻子,徐擇木焉。」俠曰:「忠義之道,庸可忽乎!吾既食人之祿,寧以妻子易圖也。」遂從入關。賜爵清河縣伯,除丞相府士曹參軍。

大統三年、郷兵を領いて沙苑に従い戦い、先鋒として陣に陷る。裴俠本名は協、是に至り、太祖其の勇決を嘉し、乃ち「仁者は必ず勇有り」と曰い、因りて命じて改めしむ。功を以て爵を進めて侯と為し、邑八百戸、行臺郎中に拝す。王思政玉壁に鎮まる。裴俠を以て長史と為す。未だ幾ばくもせずして斉の神武に攻めらる。神武書を以て思政を招く。思政裴俠に命じて報いを草せしむ。辞甚だ壮烈なり。太祖之を善しとし、曰く、「魯連と雖も以て加うる無からん」と。

原文 大統三年,領鄉兵從戰沙苑,先鋒陷陣。俠本名協,至是,太祖嘉其勇決,乃曰「仁者必有勇」,因命改焉。以功進爵為侯,邑八百戶,拜行臺郎中。王思政鎮玉壁,以俠為長史。未幾為齊神武所攻。神武以書招思政,思政令俠草報,辭甚壯烈。太祖善之,曰:「雖魯連無以加也。」

河北郡守を除す。裴俠躬びて儉素を履み、民を愛すること子の如し。食する所は唯だ菽麦塩菜のみ。吏民懐かざる者無し。此の郡旧制、漁獵夫三十人有りて以て郡守に供す。裴俠曰く、「口腹を以て人を役すは、吾の為さざる所なり」と。乃ち悉く之を罷む。又丁三十人有り、郡守の役使に供す。裴俠亦以て私に入れず、竝びに庸直を収め、官の為に馬を市う。歳月既に積もり、馬遂に群を成す。職を去るの日、一も取る所無し。民之を歌いて曰く、「肥鮮食わず、丁庸取らず、裴公貞恵、世の規矩と為る」と。裴俠嘗て諸の牧守と俱に太祖に謁す。太祖裴俠に命じて別に立たしめ、諸の牧守に謂いて曰く、「裴俠清慎にして公に奉じ、天下の最と為る。今衆中に侠の如き者有らば、之と俱に立つべし」と。衆皆黙然、敢えて応ずる者無し。太祖乃ち厚く裴俠に賜う。朝野歎服し、号して独立君と為す。

原文 除河北郡守。俠躬履儉素,愛民如子,所食唯菽麥鹽菜而已。吏民莫不懷之。此郡舊制,有漁獵夫三十人以供郡守。俠曰:「以口腹役人,吾所不為也。」乃悉罷之。又有丁三十人,供郡守役使。俠亦不以入私,竝收庸直,為官市馬。歲月既積,馬遂成羣。去職之日,一無所取。民歌之曰:「肥鮮不食,丁庸不取,裴公貞惠,為世規矩。」俠嘗與諸牧守俱謁太祖。太祖命俠別立,謂諸牧守曰:「裴俠清慎奉公,為天下之最,今眾中有如俠者,可與之俱立。」眾皆默然,無敢應者。太祖乃厚賜俠。朝野歎服,號為獨立君。

裴俠又九世の伯祖貞侯裴潛の伝を撰し、以て裴氏の清公は此より始まると為し、後生をして奉じて之を行わしめんと欲し、宗室中知名なる者、咸に一通を付す。従弟伯鳳・世彦、時に竝びに丞相府の佐と為り、笑いて曰く、「人生仕進するには、須らく身名竝びに裕かなるべし。清苦此の若きは、竟に何を為さんと欲するや」と。裴俠曰く、「夫れ清きは職に莅むの本、儉は身を持つ基。況んや我が大宗、世其の美を済す。故に能く:存するは、朝廷に称せられ見え、没するは、典策に芳しきを流す。今吾幸いに凡庸を以て、濫りに殊遇に蒙る。固より其の窮困、名を慕うに非ず。志は自修に在り、先を辱しむるを懼るるなり。飜って嗤笑せらるるは、復た何をか言わん」と。伯鳳等慙じて退く。

原文 俠又撰九世伯祖貞侯潛傳,以為裴氏清公,自此始也,欲使後生奉而行之,宗室中知名者,咸付一通。從弟伯鳳、世彥,時竝為丞相府佐,笑曰:「人生仕進,須身名竝裕。清苦若此,竟欲何為?」俠曰:「夫清者莅職之本,儉者持身之基。況我大宗,世濟其美,故能:存,見稱於朝廷;沒,流芳於典策。今吾幸以凡庸,濫蒙殊遇,固其窮困,非慕名也。志在自修,懼辱先也。飜被嗤笑,知復何言。」伯鳳等慙而退。

九年、入りて大行臺郎中と為る。数載を居り、出でて郢州刺史と為り、儀同三司を加え、尋いで拓州刺史に転じ、徴されて雍州別駕に拝す。孝閔帝践阼し、司邑下大夫を除し、驃騎大将軍・開府儀同三司を加え、爵を進めて公と為し、邑を通前一千六百戸に増す。民部中大夫に遷る。時に姦吏有り、主として倉儲を守り、積年隠没すること千万に至る。裴俠の官に在るに及び、励精して発摘し、数旬の内に、姦盗略ね尽くす。工部中大夫に転ず。大司空掌銭物典の李貴乃ち府中に於いて悲泣す。或ひと其の故を問う。対えて曰く、「掌る所の官物、多く費用有り。裴公清厳にして名有り。罪責に遭うを懼るるが故に、以て泣く所なり」と。裴俠之を聞き、其の自首を許す。貴隠費の銭五百万を言う。裴俠の姦伏を肅遏するは、皆此の類なり。

原文 九年,入為大行臺郎中。居數載,出為郢州刺史,加儀同三司,尋轉〈(祏)〉〔拓〕州刺史,徵拜雍州別駕。孝閔帝踐阼,除司邑下大夫,加驃騎大將軍、開府儀同三司,進爵為公,增邑通前一千六百戶。遷民部中大夫。時有姦吏,主守倉儲,積年隱沒至千萬者,及俠在官,勵精發摘,數旬之內,姦盜略盡。轉工部中大夫。有大司空掌錢物典李貴乃於府中悲泣。或問其故。對曰:「所掌官物,多有費用,裴公清嚴有名,懼遭罪責,所以泣耳。」俠聞之,許其自首。貴言隱費錢五百萬。俠之肅遏姦伏,皆此類也。

初め、裴俠はかつて病に罹り重篤に陥った時、大司空許國公宇文貴と小司空北海公申徽が共に見舞いに来た。裴俠の住む邸宅は風霜を免れず、宇文貴らは帰還後、帝にそのことを言上した。帝はその貧苦を憐れみ、そこで邸宅を建てさせ、併せて良田十頃、奴隷、耕牛、糧穀を賜い、備わらぬものはなかった。搢紳は皆これを栄誉とした。武成元年、在官のまま卒去した。太子少師、蒲州刺史を追贈され、諡して貞といった。河北郡の前功曹張回及び吏民らは、裴俠の遺愛に感じ、頌を作りその清徳を記した。

原文 初,俠嘗遇疾沉頓,大司空許國公宇文貴、小司空北海公申徽竝來伺候俠。俠所居第屋,不免風霜,貴等還,言之於帝。帝矜其貧苦,乃為起宅,并賜良田十頃,奴隸、耕牛、糧粟,莫不備足。搢紳咸以為榮。武成元年,卒於位。贈太子少師、蒲州刺史,諡曰貞。河北郡前功曹張回及吏民等,感俠遺愛,乃作頌紀其清德焉。

子の薛祥は、性質忠実謹厳で、煩劇な政務を処理する才能があった。若くして成都県令となり、清廉さは裴俠に及ばないが、裁断決断はこれを上回った。後に長安ちょうあん県令に任じられ、権貴に憚られた。司倉下大夫に転じた。裴俠が亡くなると、ついに悲嘆のあまり卒去した。薛祥の弟の薛肅は、貞亮で才芸があった。天和年間、秀才に挙げられ、給事中士に拝された。次第に御正大夫に昇進し、胡原県子の爵位を賜った。

原文 子祥,性忠謹,有治劇才。少為成都令,清不及俠,斷決過之。後除長安令,為權貴所憚。遷司倉下大夫。俠之終也,遂以毀卒。祥弟肅,貞亮有才藝。天和中,舉秀才,拜給事中士。稍遷御正大夫,賜爵胡原縣子。

薛端

原文 薛端

薛端は字を仁直といい、河東郡汾陰県の人である。本名は沙陁といった。魏の雍州刺史、汾陰侯薛辨の六世孫である。代々河東の著姓であった。高祖の薛謹は、泰州刺史、内都坐大官、涪陵公となった。曾祖の薛洪隆は、河東太守となった。洪隆の兄の洪阼が魏の文成帝の娘である西河公主を娶り、馮翊に賜田があったため、洪隆の子の麟駒がそこに移り住み、ついに馮翊の夏陽に家を定めた。麟駒は秀才に挙げられ、中書博士に拝され、主客郎中を兼ね、河東太守を追贈された。父の薛英集は、通直散騎常侍となった。

原文 薛端字仁直,河東汾陰人也,本名沙陁。魏雍州刺史、汾陰侯辨之六世孫。代為河東著姓。高祖謹,泰州刺史、內都坐大官、涪陵公。曾祖洪隆,河東太守。以隆兄洪阼尚魏文〔成〕帝女西河公主,有賜田在馮翊,洪隆子麟駒徙居之,遂家於馮翊之夏陽焉。麟駒舉秀才,拜中書博士,兼主客郎中,贈河東太守。父英集,通直散騎常侍。

薛端は若くして志操があった。父の喪に遭い、喪に服する礼に適った。弟の薛裕と共に、精神を奮い起こし学問に専念し、人付き合いをしなかった。十七歳の時、司空高乾に召し出されて参軍となり、汾陰県男の爵位を賜った。薛端は天下が乱れているのを見て、ついに官を棄てて郷里に帰った。

原文 端少有志操。遭父憂,居喪合禮。與弟裕,勵精篤學,不交人事。年十七,司空高乾辟為參軍,賜爵汾陰縣男。端以天下擾亂,遂弃官歸鄉里。

魏の孝武帝が西遷すると、太祖(宇文泰)は大都督薛崇礼に命じて龍門を守らせ、薛端を同行させた。薛崇礼は間もなく守りを失い、ついに東魏に降った。東魏は行臺薛循義、都督乙干貴に命じ、数千の兵を率いて西に渡り、楊氏壁を占拠させた。薛端は宗族や家僮らと先に壁の中におり、薛循義はその兵に命じて薛端らを脅し東に渡らせようとした。ちょうど黄河を渡ろうとした時、日が暮れ、薛端は密かに宗室や家僮らと共にこれに背いた。薛循義が騎兵を派遣して追わせると、薛端は戦いながら駆け、ついに石城柵に入り、難を免れた。柵の中には先に百家がおり、薛端は彼らと力を合わせて固守した。乙干貴らはたびたび来て慰め諭したが、薛端に降伏する意思がないのを知り、ついに兵を引き上げて河東に帰った。東魏はまたその将の賀蘭懿、南汾州刺史薛琰達を派遣して楊氏壁を守らせた。薛端はその配下を率い、併せて村民らを招き諭し、多くの奇策を設けてこれに臨んだ。賀蘭懿らは大軍があるのではないかと疑い、すぐに東へ逃げ、船を争って溺死した者は数千人に及んだ。薛端はその兵器を収め、再び楊氏壁に戻った。太祖は南汾州刺史蘇景恕を派遣してこれを鎮守させた。降伏を勧める書を下して労い、薛端を朝廷に召し出し、大丞相府戸曹参軍に任じた。

原文 魏孝武西遷,太祖令大都督薛崇禮據龍門,引端同行。崇禮尋失守,遂降東魏。東魏遣行臺薛循義、都督乙干貴率眾數千西度,據楊氏壁。端與宗親及家僮等先在壁中,循義乃令其兵逼端等東度。方欲濟河,會日暮,端密與宗室及家僮等叛之。循義遣騎追,端且戰且馳,遂入石城柵,得免。柵中先有百家,端與并力固守。貴等數來慰喻,知端無降意,遂拔還河東。東魏又遣其將賀蘭懿、南汾州刺史薛琰達守楊氏壁。端率其屬,并招喻村民等,多設奇以臨之。懿等疑有大軍,便即東遁,爭船溺死者數千人。端收其器械,復還楊氏壁。太祖遣南汾州刺史蘇景恕鎮之。降書勞問,徵端赴闕,以為大丞相府戶曹參軍。

竇泰を擒えるのに従い、弘農を回復し、沙苑で戦い、いずれも功績があった。冠軍将軍、中散大夫を加えられ、爵位を伯に進めた。丞相東閤祭酒に転じ、本州大中正を加えられ、兵部郎中に遷り、文城県伯に改封され、使持節、平東将軍、吏部郎中を加えられた。薛端の性質は強直で、奏請するたびに、権貴を避けなかった。太祖はこれを賞賛し、故に端という名を賜り、名と実質が相応するようにさせようとした。選曹の職に就いて以来、まず賢能を尽くし、貴遊の子弟であっても、才能が劣り行いが薄い者は、一度も昇進させなかった。たびたび太祖に啓上して言うには、「官を設け職を分けるのは、本来時務を安んずるためであり、もしその人を得なければ、むしろ職を空しくしておく方がよい。」太祖は深くこれを然りとした。大統十六年、大軍が東征した。柱国李弼が別道の元帥となり、すぐれた首席幕僚を選んだが、数日たっても決まらなかった。太祖は李弼に言った、「貴公のために一長史を得ることを考えたが、薛端に勝る者はいない。」李弼は答えて言った、「まさにその才です。」そこで彼を派遣した。車騎大将軍、儀同三司を加授された。尚書左丞に転じ、引き続き選挙の事務を掌った。吏部尚書に進授され、宇文の姓を賜った。薛端は長く選曹に在り、優れた人物鑑識眼を持ち、その抜擢任用した者は、皆その才能を得ていた。六官が建てられると、軍司馬に拝され、侍中、驃騎大将軍、開府儀同三司を加えられ、爵位を侯に進めた。

原文 從擒竇泰,復弘農,戰沙苑,竝有功。加冠軍將軍、中散大夫,進爵為伯。轉丞相東閤祭酒,加本州大中正,遷兵部郎中,改封文城縣伯,加使持節、平東將軍、吏部郎中。端性彊直,每有奏請,不避權貴。太祖嘉之,故賜名端,欲令名質相副。自居選曹,先盡賢能,雖貴遊子弟,才劣行薄者,未嘗升擢之。每啟太祖云:「設官分職,本康時務,苟非其人,不如曠職。」太祖深然之。大統十六年,大軍東討。柱國李弼為別道元帥,妙簡首僚,數日不定。太祖謂弼曰:「為公思得一長史,無過薛端。」弼對曰:「真其才也。」乃遣之。加授車騎大將軍、儀同三司。轉尚書左丞,仍掌選事。進授吏部尚書,賜姓宇文氏。端久處選曹,雅有人倫之鑒,其所擢用,咸得其才。六官建,拜軍司馬,加侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司,進爵為侯。

孝閔帝が即位すると、工部中大夫に任じられ、民部中大夫に転じ、爵位を公に進め、封邑を増やして以前と合わせて一千八百戸となった。晋公宇文護が帝を廃そうとし、群官を召してこれを議したが、薛端はかなり異論があった。宇文護は喜ばず、蔡州刺史として出された。政治は寛大で恵み深く、民吏に愛された。間もなく基州刺史に転じた。基州の地は梁、陳と接し、鎮撫に頼るべき事態であり、総管史寧は司馬梁栄を派遣して赴任を促させた。蔡州の父老が梁栄に訴え、薛端を留めてほしいと請うた者は千余人に及んだ。基州に至り、間もなく卒去した。時に四十三歳であった。遺言で薄葬を戒め、府州からの贈り物は受け取らないようにした。生前の官位を追贈され、大将軍を加えられ、文城郡公に追封された。諡して質といった。

原文 孝閔帝踐阼,除工部中大夫,轉民部中大夫,進爵為公,增邑通前一千八百戶。晉公護將廢帝,召羣官議之,端頗有同異。護不悅,出為蔡州刺史。為政寬惠,民吏愛之。尋轉基州刺史。基州地接梁、陳,事藉鎮撫,總管史寧遣司馬梁榮催令赴任。蔡州父老訴榮,請留端者千餘人。至基州,未幾卒,時年四十三。遺誡薄葬,府州贈遺,勿有所受。贈本官,加大將軍,追封文城郡公。諡曰質。

子の薛冑は、字を紹玄という。幼くして聡明で、群書に広く目を通し、政事に通暁していた。帥都督として初めて官に就いた。累進して上儀同となり、司金中大夫、徐州総管府長史、合州刺史を歴任した。大象年間、開府儀同大将軍の位に至った。

原文 子冑,字紹玄。幼聰敏,涉獵羣書,雅達政事。起家帥都督。累遷上儀同,歷司金中大夫、徐州總管府長史、合州刺史。大象中,位至開府儀同大將軍。

薛端の弟の薛裕は、字を仁友という。若くして孝悌をもって州里に知られた。初め太学生となったが、当時学舎の中には貴遊の子弟が多く、好学の者は少なく、ただ薛裕だけが倦まず学問に耽った。弱冠にして、丞相参軍事に召し出された。この時、京兆の韋敻は放逸を志し安んじ、世務に関わらなかった。薛裕はその恬静さを慕い、たびたび酒肴を携えて訪ね、終日談笑した。韋敻はついに従孫女を彼に娶わせた。薛裕はかつて親友に言った、「大丈夫たるもの、聖明の世に当たりながら、顕著な文武の用いられるところがなく、世に知られないならば、たとえ忙しく奔走しても、ただ労苦するだけである。韋居士のごときは、退いても丘壑に隠れず、進んでも市朝に出ず、怡然として道を守り、栄辱が及ばない。なんと楽しいことか。」間もなく病に罹り卒去した。時に四十一歳であった。文章の士で誄をしたためた者が数人いた。太祖はこれを傷み惜しみ、洛州刺史を追贈した。

原文 端弟裕,字仁友。少以孝悌聞於州里。初為太學生,時黌中多是貴遊,好學者少,唯裕躭翫不倦。弱冠,辟丞相參軍事。是時京兆韋敻志安放逸,不干世務。裕慕其恬靜,數載酒餚候之,談宴終日。敻遂以從孫女妻之。裕嘗謂親友曰:「大丈夫當聖明之運,而無灼然文武之用,為世所知,雖復栖栖遑遑,徒為勞苦耳。至如韋居士,退不丘壑,進不市朝,怡然守道,榮辱不及,何其樂也。」尋遇疾而卒,時年四十一。文章之士誄之者數人。太祖傷惜之,贈洛州刺史。

薛善

原文 薛善

薛善は字を仲良といい、河東郡汾陰県の人である。祖父の薛瑚は、魏の河東郡守となった。父の薛和は、南青州刺史となった。

原文 薛善字仲良,河東汾陰人也。祖瑚,魏河東郡守。父和,南青州刺史。

薛善は若くして司空府参軍事となり、儻城郡守に遷り、塩池都将に転じた。魏の孝武帝が西遷すると、東魏は河東を泰州と改め、薛善を別駕とした。薛善の家は元来富裕で、僮僕数百人を有した。兄の薛元信は気概に任せて豪奢を極め、食事は常に方丈に並び、座客は常に満ち、絃歌が絶えなかった。しかし薛善だけは己の生活を質素にし、閑静を愛し楽しんだ。

原文 善少為司空府參軍事,遷儻城郡守,轉鹽池都將。魏孝武西遷,東魏〈(攻)〉〔改〕河東〈(圍秦)〉〔為泰〕州,以善為別駕。善家素富,僮僕數百人。兄元信,仗氣豪侈,每食方丈,坐客恆滿,絃歌不絕。而善獨供己率素,愛樂閑靜。

大統三年、齊の神武帝が沙苑にて敗れ、善の族兄崇禮を留めて河東を守らせた。太祖は李弼を遣わしてこれを包囲したが、崇禮は堅く守って降らなかった。善は密かに崇禮に言うには、「高氏は兵車を動かして順を犯し、主上をして流浪せしめた。兄と私は衣冠の末裔として、国の栄寵を蒙っている。今、大軍が既に臨んでいるのに、兄はなお高氏のために力を尽くそうとしている。もし城が陥落する日、首を長安に送られ、逆賊某甲の首と称せられれば、死して霊あらば、豈に余りの恥辱なからんや。早く誠意を帰順するに如くはない。奇節を表すには足りないとしても、せめて首領を全うすることができよう」と。しかし崇禮はなお疑いを抱いて決断しなかった。時に善の従弟馥の妹婿高子信が防城都督として城南面を守っていた。馥を遣わして善のもとに来て言うには、「西軍に応接しようと思うが、ただ力が及ばないことを恐れる」と。善は即ち弟の濟に命じて門生数十人を率いさせ、信・馥らと共に関を斬って弼の軍を引き入れた。時に謀に預かった者は皆五等爵を賞されたが、善は逆に背き順に帰するは臣子の常情であり、どうして一家の大小ことごとく封邑を忝うすることができようか、とし、弟の慎と共に固く辞して受けなかった。太祖はこれを嘉し、善を汾陰令とした。善は幹用強明にして、一郡で最も称えられた。太守の王羆はこれを美として、善に六県の事を兼ねて督めさせた。

原文 大統三年,齊神武敗於沙苑,留善族兄崇禮守河東。太祖遣李弼圍之,崇禮固守不下。善密謂崇禮曰:「高氏戎車犯順,致令主上播越。與兄忝是衣冠緒餘,荷國榮寵。今大軍已臨,而兄尚欲為高氏盡力。若城陷之日,送首長安,云逆賊某甲之首,死而有靈,豈不歿有餘愧!不如早歸誠款,雖未足以表奇節,庶獲全首領。」而崇禮猶持疑不決。會善從弟馥妹夫高子信為防城都督,守城南面。遣馥來詣善云:「意欲應接西軍,但恐力所不制。」善即令弟濟將門生數十人,與信、馥等斬關引弼軍入。時預謀者竝賞五等爵,善以背逆歸順,臣子常情,豈容闔門大小,俱叨封邑,遂與弟慎竝固辭不受。太祖嘉之,以善為汾陰令。善幹用彊明,一郡稱最。太守王羆美之,令善兼督六縣事。

まもなく行臺郎中に召された。時に屯田を広く設置して軍費を供給しようとし、司農少卿を除し、同州夏陽県の二十屯監を領させた。また夏陽の諸山に鉄冶を置き、再び善を冶監とし、毎月八千人を役して軍器を造営させた。善は自ら督課し、併せて慰撫を加えたので、甲兵は精利であり、しかも皆その労苦を忘れた。通直散騎常侍を加えられ、大丞相府從事中郎に遷った。屯田の功を追論し、龍門県子の爵を賜り、黄門侍郎に遷り、車騎大將軍・儀同三司を加えられた。河東郡守を除し、驃騎大將軍・開府儀同三司に進み、宇文氏の姓を賜った。六官が建てられると、工部中大夫に拝され、博平県公に爵を進めた。まもなく御正中大夫を除し、民部中大夫に転じた。

原文 尋徵為行臺郎中。時欲廣置屯田以供軍費,乃除司農少卿,領同州夏陽縣二十屯監。又於夏陽諸山置鐵冶,復令善為冶監,每月役八千人,營造軍器。善親自督課,兼加慰撫,甲兵精利,而皆忘其勞苦焉。加通直散騎常侍,遷大丞相府從事中郎。追論屯田功,賜爵龍門縣子,遷黃門侍郎,加車騎大將軍、儀同三司。除河東郡守,進驃騎大將軍、開府儀同三司,賜姓宇文氏。六官建,拜工部中大夫,進爵博平縣公。尋除御正中大夫,轉民部中大夫。

時に晉公宇文護が政を執り、儀同の齊軌が善に言うには、「兵馬万機は天子に帰すべきであり、何故にまだ権門にあるのか」と。善はこれを護に告げた。護は軌を殺し、善が己に忠であるとして、中外府司馬に引き立てた。司會中大夫に遷り、六府の事を副総した。京兆尹を加授され、なお司會を治めた。出て隆州刺史となり、益州総管府長史を兼ねて治めた。少傅に召されて拝された。位の上で卒した。時に六十七歳。蒲・虞・勳の三州刺史を贈られた。高祖は善が齊軌の事を告げたことを以て、諡して繆公とした。子の裒が嗣いだ。官は高陽守に至った。善の弟に慎がいる。

原文 時晉公護執政,儀同齊軌語善云:「兵馬萬機,須歸天子,何因猶在權門。」善白之。護乃殺軌,以善忠於己,引為中外府司馬。遷司會中大夫,副總六府事。加授京兆尹,仍治司會。出為隆州刺史,兼治益州總管府長史。徵拜少傅。卒於位,時年六十七。贈蒲虞勳三州刺史。高祖以善告齊軌事,諡曰繆公。子裒嗣。官至高陽守。善弟慎。

弟の慎

原文 弟慎

慎は字を佛護といい、学を好み、文を属することを能くし、草書に長じた。若くして同郡の裴叔逸・裴諏之・柳虬・范陽の盧柔・隴西の李璨と共に相善し友誼を結んだ。丞相府墨曹参軍として起家した。太祖は行臺省に学を置き、丞郎及び府佐のうち德行明敏なる者を取って生員とさせた。皆に昼は公務を処理させ、夜は講習に就かせ、先ず六経、後に子史を学ばせた。また諸生の中から德行淳懿なる者を選び、太祖の読書に侍らせた。慎と李璨及び隴西の李伯良・辛韶、武功の蘇衡、譙郡の夏侯裕、安定の梁曠・梁禮、河南の長孫璋、河東の裴挙・薛同、滎陽の鄭朝ら十二人が、共にその選に応じた。また慎を学師として、諸生の課業を知らせた。太祖は雅に談論を好み、併せて名僧で深く玄宗を識る者一百人を選び、邸内で講説させた。また慎ら十二人に命じて仏義を兼ねて学ばせ、内外に通ぜしめた。これにより四方は競って大乗の学を為した。

原文 慎字佛護,好學,能屬文,善草書。少與同郡裴叔逸、裴諏之、柳虬、范陽盧柔、隴西李璨竝相友善。起家丞相府墨曹參軍。太祖於行臺省置學,取丞郎及府佐德行明敏者充生。悉令旦理公務,晚就講習,先六經,後子史。又於諸生中簡德行淳懿者,侍太祖讀書。慎與李璨及隴西李伯良、辛韶,武功蘇衡,譙郡夏侯裕,安定梁曠、梁禮,河南長孫璋,河東裴舉、薛同,滎陽鄭朝等十二人,竝應其選。又以慎為學師,以知諸生課業。太祖雅好談論,并簡名僧深識玄宗者一百人,於第內講說。又命慎等十二人兼學佛義,使內外俱通。由是四方競為大乘之學。

数年後、再び慎を宜都公の侍読とした。丞相府記室に転じた。魏の東宮が建てられると、太子舎人を除した。庶子に遷り、なお舎人を領した。通直散騎常侍を加えられ、中書舎人を兼ね、礼部郎中に転じた。六官が建てられると、膳部下大夫に拝された。慎の兄の善はまた工部に任じられた。共に清要な地位に居り、当時の人はこれを栄とした。孝閔帝が践祚すると、御正下大夫を除し、車騎大將軍・儀同三司に進み、淮南県子に封ぜられ、邑八百戸を賜った。師氏・御伯中大夫を歴任した。

原文 數年,復以慎為宜都公侍讀。轉丞相府記室。魏東宮建,除太子舍人。遷庶子,仍領舍人。加通直散騎常侍,兼中書舍人,轉禮部郎中。六官建,拜膳部下大夫。慎兄善又任工部。竝居清顯,時人榮之。孝閔帝踐阼,除御正下大夫,進車騎大將軍、儀同三司,封淮南縣子,邑八百戶。歷師氏、御伯中大夫。

保定の初め、出て湖州刺史となった。州界は蛮左が雑居し、常に劫掠を務めとしていた。慎は諸豪帥を集め、朝廷の旨を詳しく宣べ、なお首領に毎月一回参上させ、或いは事を言う必要ある者は、時節を限らせなかった。慎は引見する毎に、必ず殷勤に勧誡し、及び酒食を賜った。一年の間に、翕然として教化に従った。諸蛮は相謂って言うには、「今日始めて刺史が真の民の父母であることを知った」と。欣悦しない者はなかった。ここよりより、襁負して来る者、千有余戸に及んだ。蛮の習俗では、婚娶の後、父母がいるにもかかわらず、即ち別居する。慎は守令に謂って言うには、「牧守令長は民を化する者である。どうしてその子が妻を娶れば、便ち父母と離析するようなことがあろうか。これはただ氓俗の過失であるばかりでなく、また牧守の罪でもある」と。慎は乃ち自ら誘導し、孝慈を示し、併せて守令を遣わして各々その管轄部に諭させた。数戸の蛮で、別居数年、遂に還って侍養し、及び行って果物や膳を得れば、帰って父母に奉った。慎はその善に従う速さに感じ、詳細に状況を上聞した。詔があり、その賦役を免じた。ここにおいて風化大いに行き、華夏の習俗と同じくなった。

原文 保定初,出為湖州刺史。州界既雜蠻左,恆以刼掠為務。慎乃集諸豪帥,具宣朝旨,仍令首領每月一參,或須言事者,不限時節。慎每引見,必殷勤勸誡,及賜酒食。一年之間,翕然從化。諸蠻乃相謂曰:「今日始知刺史真民父母也。」莫不欣悅。自是襁負而至者,千有餘戶。蠻俗,婚娶之後,父母雖在,即與別居。慎謂守令曰:「牧守令長是化民者也,豈有其子娶妻,便與父母離析。非唯氓俗之失,亦是牧守之罪。」慎乃親自誘導,示以孝慈,并遣守令各喻所部。有數戶蠻,別居數年,遂還侍養,及行得果膳,歸奉父母。慎感其從善之速,具以狀聞。有詔蠲其賦役。於是風化大行,有同華俗。

まもなく入朝して蕃部中大夫となった。病を以て職を去り、家で卒した。文集があり、頗る世に伝えられた。

原文 尋入為蕃部中大夫。以疾去職,卒於家。有文集,頗為世所傳。

薛善が河東を以て李弼に応じた時、敬珍・敬祥もまた属県を率いて帰附した。

原文 薛善之以河東應李弼也,敬珍、敬祥亦率屬縣歸附。

敬珍

原文 敬珍

敬珍は字を國寶といい、河東蒲坂の人である。漢の楊州刺史韶の十世の孫である。父は伯樂、州主簿、安邑令であった。珍は容儀偉く、気俠有り、学業騎射、共に当時に称えられた。祥は即ち珍の従祖兄であり、また慷慨して大志有り、ただ英豪と交結することを務めとした。珍は之と深く相友愛し、毎に同遊同処した。

原文 敬珍字國寶,河東蒲坂人也,漢楊州刺史韶之十世孫。父伯樂,州主簿,安邑令。珍偉容儀,有氣俠,學業騎射,俱為當時所稱。祥即珍從祖兄也,亦慷慨有大志,唯以交結英豪為務。珍與之深相友愛,每同遊處。

齊の神武帝が沙苑に趨いた時、珍は祥に謂って言うには、「高歡は乗輿を迫逐し、関右に播遷させた。識有る士で、孰くぞその腹中に刃を推したくない者があろうか。ただ力が制することができなかっただけである。今また兵を称して内侮し、凶逆を逞ううとしている。これは誠に志士が命を効する日であり、兄と共にこれを図るべきである」と。祥はその言を聞いて甚だ悦び、言うには、「計は将に安く出づるや」と。珍曰く、「宇文丞相は寛仁大度にして、霸は王の略有り、天子を挟んで諸侯に令し、既に数年になる。その政刑備挙し、将士命を用いるのを観るに、歡は衆有りと雖も、固よりその儔ではない。況んや逆順の理殊なるをや、将に戦わずして自ら潰けん。我若し義勇を招集し、その帰路を断ち、凶徒を殲馘し、隻輪をして反らせずんば、直ちに朝廷の恥を雪ぐのみならず、また壮士の封侯の業でもある」と。祥は深く然りとし、遂に同郡の豪右張小白・樊昭賢・王玄略らと兵を挙げ、数日の内に、衆は万余に至った。歡の後軍を襲わんとしたが、兵未だ進まずして齊の神武帝は既に敗れた。珍と祥は之を邀え撃ち、多くを剋獲した。李弼の軍が河東に至ると、珍は小白らと共に猗氏・南解・北解・安邑・溫泉・虞郷等の六県の戸十余万を率いて帰附した。太祖はこれを嘉し、即ち珍を平陽太守に拝し、永寧防主を領させ、祥を龍驤將軍・行臺郎中に拝し、相里防主を領させた。共に鼓吹を賜って寵異した。太祖はなお珍の手を執って言うには、「国家が河東の地を有するは、卿兄弟の力である。還ってこの地を卿に付す。我に東顧の憂い無し」と。

原文 及齊神武趨沙苑,珍謂祥曰:「高歡迫逐乘輿,播遷關右,有識之士,孰不欲推刃於其腹中?但力未能制耳。今復稱兵內侮,將逞凶逆,此誠志士効命之日,當與兄圖之。」祥聞其言甚悅,曰:「計將安出?」珍曰:「宇文丞相寬仁大度,有霸王之略,挾天子而令諸侯,已數年矣。觀其政刑備舉,將士用命,歡雖有眾,固非其儔。況逆順理殊,將不戰而自潰矣。我若招集義勇,斷其歸路,殲馘凶徒,使隻輪不反,非直雪朝廷之恥,亦壯士封侯之業。」祥深然之,遂與同郡豪右張小白、樊昭賢、王玄略等舉兵,數日之中,眾至萬餘。將襲歡後軍,兵未進而齊神武已敗。珍與祥邀之,多所剋獲。及李弼軍至河東,珍與小白等率猗氏、南解、北解、安邑、溫泉、虞鄉等六縣戶十餘萬歸附。太祖嘉之,即拜珍平陽太守,領永寧防主;祥龍驤將軍、行臺郎中,領相里防主。竝賜鼓吹以寵異之。太祖仍執珍手曰:「國家有河東之地者,卿兄弟之力。還以此地付卿,我無東顧之憂矣。」

久しくして、絳州刺史に遷った。病を以て免ぜられ、家で卒した。子の元約は、性貞正にして、識学有り。位は布憲中大夫に至った。

原文 久之,遷絳州刺史。以疾免,卒於家。子元約,性貞正,有識學。位至布憲中大夫。

小白らは既に珍と共に朝廷に帰還し、太祖は彼らの功績を嘉して、皆これを任用した。後に皆郡守・刺史に至った。

原文 小白等既與珍歸闕,太祖嘉其立効,竝任用之。後咸至郡守、刺史。

史評

原文 史評

史臣が曰く、鄭孝穆は離散した民を撫でて安んじ、豳岐には襁負の人が多くいた。崔謙は辺境を鎮め防ぎ、江漢には載清の詠が流れた。崔説は家を治めるに厳粛をもって称せられ、職に臨み官に当たるには猛毅をもって政を行った。崔猷は朝廷に立ちて事務を補佐するには嘉謀をしばしば陳べ、出でて撫し条を宣べるには威と恩とを具えて挙げた。裴俠は忠勤をもって上に奉じ、廉約をもって身を治め、吏は欺くこと能わず、民はその恵みを懐いた。薛端は歴任して顕要の地位にあり、彊直をもって知られた。薛善は繁劇な任に当たり、弘益をもって誉れを流した。皆当時の良将である。しかし薛善は斉に陥り、護に諂って権寵を求め、易名して繆と為す、これは謬ならざるか。

原文 史臣曰:鄭孝穆撫寧離散,豳岐多襁負之人;崔謙鎮禦邊垂,江漢流載清之詠。崔說居家理治,以嚴肅見稱,莅職當官,以猛毅為政;崔猷立朝贊務,則嘉謀屢陳,出撫宣條,則威恩具舉。裴俠忠勤奉上,廉約治身,吏不能欺,民懷其惠。薛端歷居顯要,以彊直知名。薛善任惟繁劇,以弘益流譽。竝當時之良將也。而善陷齊諂護以要權寵,易名為繆,斯不謬乎。