周書
卷三十五 列傳第二十七 鄭孝穆 崔謙 弟說 子弘度 崔猷 裴俠 薛端 薛善 弟慎
鄭孝穆
鄭孝穆は字を道和といい、 滎陽 郡開封県の人である。魏の将作大匠鄭渾の十一世の孫。祖父の敬叔は、魏の潁川郡・濮陽郡の郡守となり、本邑の中正を務めた。父の瓊は范陽郡守となり、没後に安東将軍・青州刺史を追贈された。
孝穆は幼い頃から謹厳で篤実であり、清廉で質素な生活を自ら守った。弱冠に至らずして経書や史書に広く通じた。父と叔父四人はいずれも早くに亡くなり、兄弟の中では孝穆が最年長であった。諸弟を養育し訓導すること、同母兄弟のようであり、家庭内は和やかであった。魏の孝昌初年、初めて官に就き太尉行参軍となり、転じて 司徒 主簿となった。時に盗賊が蜂起したため、仮節・龍驤将軍・別将に任ぜられ、しばしば戦功を立てた。永安年間、冠軍将軍・持節・ 都督 に昇進した。元天穆に従って邢杲を討伐平定し、驃騎将軍・左光禄大夫・太師咸陽王長史に進んだ。魏の孝武帝が西遷するに及び、これに従って関中に入り、 司徒 左長史に任ぜられ、臨洮王友を兼任し、永寧県侯の爵位を賜った。
大統五年、武功郡の事務を代行し、使持節・本官の将軍のまま、岐州刺史・当州 都督 を代行した。在任間もなく、有能な名声を得た。そのまま通直 散騎常侍 を加えられた。王羆が当時雍州刺史であったが、その善政を欽慕し、使者を遣わして書簡を贈り、大いに称賛した。先に、管轄下の百姓は長く離乱に遭い、飢饉が相次ぎ、逃散してほとんどいなくなっていた。孝穆が着任した日には、戸数はわずか三千であった。心を留めて慰撫すると、遠近から皆集まり、数年以内に四万戸となった。毎年の考課成績は、天下で最も優れていた。太祖 (宇文泰) はこれを嘉し、詔書を賜って言った、「卿が近畿に職を臨み、治術に心を留めたことを知る。凋弊した風俗に礼教が興り行われ、乱を厭う民が幼児を背負って来る。昔、郭伋は 并 州で政績を成し、賈琮は冀州で名声が重かったが、古を以て今に比べれば、彼らも徳に恥じるであろう」。ここにおいて召し出されて京兆尹に任ぜられた。
十五年、梁の雍州刺史・岳陽王蕭詧が藩国として称し、帰順して来た。時に使者を派遣する議論があり、使者の人選を厳重に行った。太祖は内外の者を歴覧し、孝穆に及ぶ者はいなかった。十六年、ついに孝穆を仮の 散騎常侍 とし、節を持たせて蕭詧を梁王に冊封した。使いから戻り、その旨に適ったため、車騎大将軍・儀同三司に進み、 散騎常侍 を加えられた。この年、太祖が軍を総率して東征すると、大丞相府右長史に任ぜられ、金郷県男に封ぜられ、邑二百戸を賜った。軍が潼関に駐屯した時、孝穆に左長史長孫儉・司馬楊寛・尚書蘇亮・諮議劉孟良らと共に諸務を分掌させた。また孝穆に関東から帰順する人士を引見接遇させ、併せてその才能と品行を品評して任用させた。孝穆は慰撫して受け入れ、選考して序列づけること、いずれも適切であった。大将軍達奚武が軍を率いて漢中を経略するに当たり、孝穆を梁州刺史としたが、病気のためその任地に赴かなかった。中書令に任ぜられ、宇文の姓を賜った。まもなく病気により免官となった。
孝閔帝が即位すると、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、爵位は子に進み、邑を増やして通算一千戸となった。晋公宇文護が雍州牧となった時、別駕に招聘したが、また病気を理由に固辞した。武成二年、召し出されて御伯中大夫に任ぜられ、転じて御正となった。保定三年、外任として宜州刺史となり、転じて華州刺史となった。五年、虞州刺史に任ぜられ、転じて陝州刺史となった。頻繁に数州を歴任し、いずれも政績があった。再び病が重くなり、たびたび致仕を乞うた。中央に入り少 司空 となった。在官のまま死去、時に六十歳。本官のまま追贈され、鄭・梁・北 豫 の三州刺史を加贈された。諡は貞。
子の詡が後を嗣いだ。納言の官を歴任し、陳への聘問使となった。後に開府儀同三司・大将軍・邵州刺史に至った。詡の弟の訳は、隋の文帝に輔佐擁立の功があり、開皇初年、また孝穆を追贈して大将軍・徐兗など六州刺史とし、諡を文と改めた。
鄭訳は幼い頃から聡明で敏速、群書に広く通じ、特に音楽を善くし、当時に名声があった。世宗 (宇文毓) の詔により輔城公 (宇文邕) に仕えることとなった。高祖 (宇文邕) が即位すると、 都督 に任ぜられ、次第に昇進して御正下大夫となり、大いに顧み遇された。皇太子が立てられると、訳を宮尹下大夫とし、特に太子の親愛を受けた。建徳二年、斉への聘問使の副使となった。太子が西征した時、多くの失徳行為があり、王軌・宇文孝伯らがこれを上奏したため、高祖は大いに怒り、東宮の臣下で親しく寵愛されていた者は皆譴責を受け、訳は連座して除名された。後に定例により官に復し、吏部下大夫に任ぜられた。宣帝が位を嗣ぐと、開府儀同大将軍・内史中大夫を授けられ、帰昌県公に封ぜられ、邑千戸を賜った。既に旧恩があり、任用と待遇は甚だ重く、朝政の機密にも皆参与し審議した。まもなく内史上大夫に昇進し、爵位は沛国公に進んだ。上大夫の官は、訳から始まったのである。宣帝が危篤に陥ると、御正下大夫劉昉は訳と謀り、随公 (楊堅) が遺命を受けて幼主を輔佐することとした。隋の文帝が政権を執ると、柱国・大丞相府長史に任ぜられ、内史は元の通りとした。まもなく上柱国に進んだ。
崔謙
崔謙は字を士遜といい、博陵郡安平県の人である。祖父の辯は、魏の平遠将軍・武邑郡守。父の楷は、 散騎常侍 ・光禄大夫・殷州刺史となり、没後に侍中・ 都督 冀定相三州諸軍事・驃騎大将軍・儀同三司・冀州刺史を追贈された。
謙は幼い頃から聡明で敏速、神采が聡明であった。成長すると、深沈として識見と度量があった。経書史書を広く観覧し、章句に拘泥せず、博聞を志しただけである。国を治め民を 緯 める事柄を覧るごとに、心に常にこれを好み、巻を撫でて嘆息しないことはなかった。孝昌年間、初めて官に就き著作佐郎となった。太宰元天穆に従って邢杲を討伐し、これを破り、功により輔国将軍・太中大夫を授けられ、平東将軍・尚書殿中郎に昇進した。
賀抜勝が荊州に出鎮すると、謙を行台左丞とした。勝は方面の重任にあったが、夷夏を安んじ 輯 め、諸務の綱紀を整えることは、全て謙に委ねた。謙もまたその知能を尽くして、これを補佐した。勝が南州に名声があったのは、謙の力によるものであった。魏の孝武帝が斉の神武帝 (高歓) の逼迫に備えようとすると、勝に詔して兵を率いて洛陽に赴かせた。軍が広州に至った時、帝は既に西遷していた。勝はためらい、鎮守地に戻ろうとした。謙は勝に言った、「昔、周室が不幸な時、諸侯はその位を離れた。漢の道が中衰した時、列藩は節を尽くした。今、皇家に多くの変故があり、主上は蒙塵 (都を追われる) している。これはまさに忠臣が戈に枕し、義士が功を立てる時である。公は方面の重責を受け、宛・葉の衆を総べている。もし義に 杖 って動き、率先して王事に勤めるならば、天下がその風聞を聞いて、誰が感激しないことがあろうか。誠に義勇の志に順い、遠近の人心に副い、道を倍して兼行し、関右の帝に謁すべきである。その後、宇文行台と心を同じくし力を協わせて、電撃のごとく朝廷に背く者を討てば、桓公・文公の勲功が、今この日に復興するであろう。これを捨てて行わず、中途で退くならば、恐らく人は皆解体し、士はおのおの異心を抱くであろう。一旦事機を失えば、後悔しても及ばない」。勝はこれを用いず、果たして人情は大いに動揺した。帰還して州に至らないうちに、州民の鄧誕が侯景の軍を引きいて急に到来し、勝はこれと戦って敗北し、ついに麾下の数百騎を率いて南の梁に奔った。謙もまた勝と共に行った。梁に至ると、たびたび援軍を請うた。梁の武帝は軍を出さなかったが、勝らの志節を嘉し、共にその帰国を許した。そこで謙を先に帰還させ、かつ隣国との友好を通じさせた。魏の文帝は謙を見て甚だ喜び、これに言った、「卿は万死の中から出で、江外に身を投じたが、今生きて本朝に還り得た。これ忠貞の報いではないか」。太祖 (宇文泰) は平素より謙の名声を聞き、甚だ礼遇した。そこで征西将軍・金紫光禄大夫を授け、千乗県男の爵位を賜った。勝が到着すると、太師に任ぜられ、謙に補佐の功があったため、また太師長史を授けた。
大統三年、太祖に従い竇泰を擒え、沙苑に戦い、共に功績があった。爵を進めて子と為し、車騎大將軍・右光祿大夫に遷り、尚書右丞を拝された。崔謙は時事に明るく練達し、枢轄の任に就くと、当時の論評は適材を得たと認めた。四年、太祖に従い洛陽の包囲を解き、引き続き河橋の戦いに加わり、定州大中正・瀛州刺史を加えられた。十五年、車騎大將軍・儀同三司を授かり、また隨郡において柳仲禮を破り、魏興において李遷哲を討ち平らげ、共に功績があった。驃騎大將軍・開府儀同三司・直州刺史に進み、宇文の姓を賜った。
魏恭帝の初め、利州刺史に転じた。崔謙の性質は明敏で悟りが早く、政術に深く通暁し、また政務を処理するのに勤勉で、民の訴訟が繁雑であっても、懈怠や倦怠の色を見せたことがなかった。官吏と民衆はこのゆえに敬愛した。時に蜀人の賈晃遷が兵を挙げて乱を起こし、その徒党を率いて州城を包囲し攻め立てた。崔謙は慌ただしく部署を分け、わずか千人余りを得るや、直ちに率いて防戦した。梁州の援兵が到着したのに合わせ、遂に賈晃遷を擒え、残りの者は散り散りになった。崔謙はその渠帥を誅し、残りは全て赦した。十日ほどの間に、遂に安寧を取り戻した。世宗の初め、爵を進めて作唐県公とした。保定二年、安州総管・隨応等十一州甑山上明魯山三鎮諸軍事・安州刺史に遷った。四年、大将軍を加えられ、爵を進めて武康郡公とした。
天和元年、江陵総管を授かった。三年、荊州総管・荊淅等十四州南陽平陽等八防諸軍事・荊州刺史に遷った。州は統轄する地域が遠く広く、風俗は夷夏が混じり、また南は陳の国境に接し、東は斉の敵寇に隣接していた。崔謙は外には強敵を防ぎ、内には軍民を撫で、風教と化育が大いに行われ、良牧と称えられた。毎年の考課成績は、常に天下で最も優れており、しばしば詔により褒め称えられた。崔謙は賀拔勝が荊州にいた時に従っていたが、親しく遇されながらも名声と地位は顕著ではなかった。その地位に就くと、朝廷と民間は栄誉と見なした。四年、州において卒去した。全州の境域が痛惜し、共に祠堂を建立し、四季に祭礼を行った。子の崔曠が後を嗣いだ。
崔謙の性質は至孝であり、幼くして父を喪い、ほとんど身を滅ぼさんばかりであった。弟の崔説と特に友愛し合い、たとえ年齢も共に高く、名声と地位もそれぞれ重くなっても、所有する資産については、私することはなかった。その家を治めることは厳粛で、行動は礼の規範に従った。崔曠と崔説の子の崔弘度らは、共にその遺訓を奉じたという。
崔曠は若い頃温雅で、仁愛に満ち広く人を愛した。官途に就いて中外府記室となった。大象の末、位は開府儀同大将軍・淅州刺史に至った。
弟の崔説。
崔説は本名を士約といい、若い頃から鯁直で、節義と気概があり、膂力は人に優れ、特に騎射に巧みであった。官途に就いて領軍府録事を領し、諮議参軍に転じた。賀拔勝が荊州の牧として出ると、崔説を仮節・冠軍將軍・防城 都督 とした。また賀拔勝に従って梁に奔り、再び梁より帰国した。 衞 將軍・ 都督 を授けられ、安昌県子に封ぜられ、邑三百戸を賜った。太祖に従って弘農を回復し、沙苑に戦い、いずれも功績があった。爵を進めて侯とし、邑八百戸を増やし、京兆郡守を除かれた。累遷して帥 都督 ・撫軍將軍・通直 散騎常侍 ・大 都督 ・車騎大将軍・儀同三司・都官尚書・定州大中正となり、安固県侯に改封され、邑三百戸を増やし、宇文の姓を賜り、併せて名を説と賜った。驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、侍中を加えられ、爵を進めて萬年県公とし、邑を増やして以前と合わせて二千四百戸とした。隴州刺史を除かれ、総管涼甘瓜三州諸軍事・涼州刺史に遷った。崔説は政に臨んで強毅であり、百姓はこれを畏れた。斉王宇文憲が東征するに当たり、崔説を行軍長史とした。軍が還ると、使持節・崇德安義等十三防熊和中等三州諸軍事・崇德防主を除かれ、大将軍を加授され、安平県公に改封された。建徳四年に卒去し、時に六十四歳であった。鄜延丹綏長五州刺史を追贈され、諡して壮といった。子の崔弘度は猛毅にして父の風があった。大象の末、上柱国・武郷郡公であった。
崔猷。
崔猷は字を宣猷といい、博陵安平の人で、漢の尚書崔寔の十二世の孫である。祖父の崔挺は、魏の光州刺史・泰昌県子で、輔国將軍・幽州刺史を追贈され、諡して景といった。父の崔孝芬は、左光禄大夫・儀同三司、吏部尚書を兼ね、斉の神武帝に害された。
崔猷は若くして学問を好み、風度は閑雅で、性質は鯁直であり、軍国を籌策する謀略があった。官途に就いて員外散騎侍郎となり、大行臺郎中を領した。まもなく吏部尚書李神儁に推薦され、通直散騎侍郎を拝され、尚書駕部郎中を摂した。普泰の初め、征虜將軍・ 司徒 從事中郎を除かれた。家難に遭った後、遂に間道を通って関中に入った。魏の孝武帝に謁見すると、その哀痛は左右を動かし、帝はそのために顔色を改めた。退出した後、帝はその背を見送って言った、「忠孝の道が、この一門に集まっている」。直ちに本官のまま門下の事を奏上させた。
大統の初め、給事黄門侍郎を兼ね、平原県伯に封ぜられ、邑八百戸を賜った。二年、正しく黄門侍郎を除かれ、中軍將軍を加えられた。竇泰を擒え、弘農を回復し、沙苑を破る戦いで、崔猷は常に本官のまま軍に従って文書を司った。五年、 司徒 左長史を除かれ、驃騎將軍を加えられた。時に太廟が初めて完成し、四季の祭祀において、なお俳優や角抵の戯れを設け、その郊廟の祭官には、多く仮官や兼任があった。崔猷はたびたび上疏して諫め、上奏文は全て容れられた。京兆尹に遷った。時に婚姻の礼が廃れ、嫁娶の日に、多く音楽を挙行した。また市街の富家では、衣服が奢侈で淫らで、織成の文繡を用いる者さえあった。崔猷はまた禁断を請い、その事も施行された。盧辯らと共に六官の制度を創修した。十二年、大 都督 ・驃騎將軍・淅州刺史を除かれ、車騎大将軍・儀同三司を加えられた。
十四年、侯景が河南を占拠して帰順を申し出ると、行臺王思政を派遣してこれに赴かせた。太祖は王思政に書を送って言った、「崔宣猷は智略が明らかで豊かであり、応変の才がある。もし疑うところがあれば、宜しく彼と量り可否を計るがよい」。王思政は初め襄城に兵を駐屯させたが、後に潁川を行臺の治所としようとし、使者の魏仲を遣わして啓上してその旨を陳べさせた。併せて崔猷に書を送り、移転しようとする意を論じた。崔猷は返書して言った、「そもそも兵とは、先に声勢を張り後に実力を示すことを務めとし、故に百戦百勝し、弱きを以て強きと為すのである。ただ襄城は京洛を控え扼し、実に当今の要地であり、もし動静があれば、容易に応接し合える。潁川は既に敵境に隣接し、また山川の険固もない。賊が充満すれば、直ちに城下に至るであろう。愚かな考えをもって、その利害を権衡するに、兵を襄城に駐屯させ、行臺の治所とし、潁川に州を置き、郭賢を派遣して鎮守させるに如くはない。そうすれば表裏が膠の如く固く結ばれ、人心も安んじ易く、仮に不測の事があっても、どうして患いと為せようか」。魏仲は太祖に謁見し、詳細に啓上して報告した。太祖は直ちに魏仲を還し、崔猷の策に従うよう命じた。王思政は重ねて啓上し、朝廷と約束を結ぶことを求めた。賊が水攻めするならば、一周 (一年) を期限とし、陸攻めするならば、三歳を期限とする。期限の内に事があれば、援軍に赴く煩わしさはない。これを過ぎた後は、朝廷の裁量に任せる、と。太祖は王思政が既にその事に親しく関わり、兼ねて固く請うたので、遂にこれを許した。潁川が陥落した後、太祖は深く追悔した。十六年、病により職を去った。大軍の東征に際し、太祖は馬車を賜い、軍に随行するよう命じ、彼と籌策を議した。十七年、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・本州大中正に進み、宇文の姓を賜った。
魏の恭帝元年、太祖 (宇文泰) は梁漢の旧路を開こうと欲し、乃ち崔猷に命じて儀同劉道通・陸騰等の五人を督せしめ、衆を率いて車路を開通させ、山を鑿ち谷を埋めて五百余里に及び、梁州に至った。即ち崔猷を以て 都督 梁利等十二州白馬儻城二防諸軍事・梁州刺史と為す。太祖の崩ずるに及び、始州・利州・沙州・興州等の諸州は、兵を阻んで逆を為し、信州・合州・開州・楚州の四州も亦叛き、唯だ梁州の境内のみは、民に二心無し。利州刺史崔謙が援けを請うと、崔猷は兵六千を遣わして之に赴かしむ。信州は糧尽き、崔猷は又米四千斛を送る。二鎮は全きを得たるは、崔猷の力なり。爵を進めて固安県公と為し、邑二千戸。崔猷は深く晋公宇文護に重んぜられ、護は乃ち崔猷の第三女を養いて己が女と為し、富平公主に封ず。
世宗 (明帝) 即位し、徴して御正中大夫に拝す。時に周礼に依りて天王と称し、又年号を建てず。崔猷は以て、世に澆淳有り、運に治乱有り、故に帝王之に因りて沿革し、聖哲時に因りて制を宜しくすと為す。今天子王と称するは、以て天下を威するに足らず、秦漢に遵い皇帝と称し、年号を建つるを請う。朝議之に従う。武成二年、司会中大夫を除し、御正は旧の如し。
世宗崩じ、遺詔して高祖 (武帝) を立てしむ。晋公宇文護、崔猷に謂いて曰く、「魯国公 (宇文邕) は稟性寛仁、太祖諸子の中にて、年又長ずるに居る。今遺旨を奉じて遵い、翊戴して主と為さんとす。君以て如何と為すや」と。崔猷対えて曰く、「殷の道は尊尊、周の道は親親、今朝廷既に周礼を遵う。容れ易く此の義に違うべからず」と。護曰く、「天下の事大なり。但だ畢公 (宇文邕) の冲幼なるを恐るるのみ」と。猷曰く、「昔周公成王を輔けて以て諸侯に朝せしむ。況んや明公は親賢にして二無く、若し周公の事を行わば、方に顧託を負かざるに為らん」と。事は行はれざりしと雖、当時に其の正を守るを称す。保定元年、重ねて総管梁利開等十四州白馬儻城二防諸軍事・梁州刺史を授く。尋いで復た司会と為る。
天和二年、陳の将華皎来たりて附く。晋公宇文護議して南伐せんと欲す。公卿敢えて正言する者無し。崔猷独り進みて曰く、「前歳東征し、死傷過半す。比に撫循を加うと雖、瘡痍未だ復せず。近くは長星災を為し、乃ち上玄の以て鑒誡を垂るる所以なり。誠に徳を修めて以て天変を禳うべし。豈に兵を窮め武を極めて、其の譴負を重くすべけんや。今陳氏は境を保ち民を息め、共に隣好を敦くす。盟約の重きに違い、其の叛臣を納れ、名無きの師を興し、其の土地を利するを容るべからず。前載を詳らかに観るに、聞かざる所なり」と。護従わず。其の後水軍果たして敗れ、裨将元定等遂に江南に没す。
建徳四年、出でて同州司会と為る。六年、徴して小 司徒 に拝し、上開府儀同大将軍を加う。隋の文帝践極し、崔猷を以て前代の旧歯と為し、大将軍を授け、爵を進めて汲郡公と為し、邑を通前三千戸に増す。開皇四年卒す。諡して明と曰う。
子仲方、字は不齊、早くより知名、機神穎悟、文学優敏なり。大象末、儀同大将軍・司玉下大夫。
裴俠
裴俠、字は嵩和、河東解の人なり。祖思齊、秀才に挙げられ、議郎に拝す。父欣、経史に博く渉り、魏の昌楽王府司馬・西河郡守、贈られて晋州刺史と為る。
裴俠幼くして聡慧、常童に異なり。年十三、父の憂いに遭い、哀毀すること成人の若し。州辟して主簿と為し、秀才に挙げらる。魏の正光中、巾を解き奉朝請と為る。稍く員外散騎侍郎・義陽郡守に遷る。元顥洛に入る。裴俠其の使人を執り、其の赦書を焚く。魏の孝庄之を嘉し、軽車将軍・東郡太守を授け、防城別将を帯ぶ。魏の孝武斉の神武と隙有るに及び、河南の兵を徴して以て之に備う。裴俠率いる所の部を以て洛陽に赴く。建威将軍、左中郎将を授く。俄かに孝武西遷す。裴俠将に行かんとし而して妻子猶お東郡に在り。 滎陽 の鄭偉、裴俠に謂いて曰く、「天下方に乱れ、烏の集まる所を知らず。何ぞ妻子に東就し、徐ろに木を択ばんや」と。裴俠曰く、「忠義の道、庸んぞ忽にすべけんや。吾既に人の禄を食む。寧ろ妻子を以て図を易えんや」と。遂に関に入り従う。爵を賜いて清河県伯と為し、丞相府士曹参軍を除す。
大統三年、郷兵を領いて沙苑に従い戦い、先鋒として陣に陷る。裴俠本名は協、是に至り、太祖其の勇決を嘉し、乃ち「仁者は必ず勇有り」と曰い、因りて命じて改めしむ。功を以て爵を進めて侯と為し、邑八百戸、行臺郎中に拝す。王思政玉壁に鎮まる。裴俠を以て長史と為す。未だ幾ばくもせずして斉の神武に攻めらる。神武書を以て思政を招く。思政裴俠に命じて報いを草せしむ。辞甚だ壮烈なり。太祖之を善しとし、曰く、「魯連と雖も以て加うる無からん」と。
河北郡守を除す。裴俠躬びて儉素を履み、民を愛すること子の如し。食する所は唯だ菽麦塩菜のみ。吏民懐かざる者無し。此の郡旧制、漁獵夫三十人有りて以て郡守に供す。裴俠曰く、「口腹を以て人を役すは、吾の為さざる所なり」と。乃ち悉く之を罷む。又丁三十人有り、郡守の役使に供す。裴俠亦以て私に入れず、竝びに庸直を収め、官の為に馬を市う。歳月既に積もり、馬遂に群を成す。職を去るの日、一も取る所無し。民之を歌いて曰く、「肥鮮食わず、丁庸取らず、裴公貞恵、世の規矩と為る」と。裴俠嘗て諸の牧守と俱に太祖に謁す。太祖裴俠に命じて別に立たしめ、諸の牧守に謂いて曰く、「裴俠清慎にして公に奉じ、天下の最と為る。今衆中に侠の如き者有らば、之と俱に立つべし」と。衆皆黙然、敢えて応ずる者無し。太祖乃ち厚く裴俠に賜う。朝野歎服し、号して独立君と為す。
裴俠又九世の伯祖貞侯裴潛の伝を撰し、以て裴氏の清公は此より始まると為し、後生をして奉じて之を行わしめんと欲し、宗室中知名なる者、咸に一通を付す。従弟伯鳳・世彦、時に竝びに丞相府の佐と為り、笑いて曰く、「人生仕進するには、須らく身名竝びに裕かなるべし。清苦此の若きは、竟に何を為さんと欲するや」と。裴俠曰く、「夫れ清きは職に莅むの本、儉は身を持つ基。況んや我が大宗、世其の美を済す。故に能く:存するは、朝廷に称せられ見え、没するは、典策に芳しきを流す。今吾幸いに凡庸を以て、濫りに殊遇に蒙る。固より其の窮困、名を慕うに非ず。志は自修に在り、先を辱しむるを懼るるなり。飜って嗤笑せらるるは、復た何をか言わん」と。伯鳳等慙じて退く。
九年、入りて大行臺郎中と為る。数載を居り、出でて 郢州 刺史と為り、儀同三司を加え、尋いで拓州刺史に転じ、徴されて雍州別駕に拝す。孝閔帝践阼し、司邑下大夫を除し、驃騎大将軍・開府儀同三司を加え、爵を進めて公と為し、邑を通前一千六百戸に増す。民部中大夫に遷る。時に姦吏有り、主として倉儲を守り、積年隠没すること千万に至る。裴俠の官に在るに及び、励精して発摘し、数旬の内に、姦盗略ね尽くす。工部中大夫に転ず。大 司空 掌銭物典の李貴乃ち府中に於いて悲泣す。或ひと其の故を問う。対えて曰く、「掌る所の官物、多く費用有り。裴公清厳にして名有り。罪責に遭うを懼るるが故に、以て泣く所なり」と。裴俠之を聞き、其の自首を許す。貴隠費の銭五百万を言う。裴俠の姦伏を肅遏するは、皆此の類なり。
初め、裴俠はかつて病に罹り重篤に陥った時、大 司空 許國公宇文貴と小 司空 北海公申徽が共に見舞いに来た。裴俠の住む邸宅は風霜を免れず、宇文貴らは帰還後、帝にそのことを言上した。帝はその貧苦を憐れみ、そこで邸宅を建てさせ、併せて良田十頃、奴隷、耕牛、糧穀を賜い、備わらぬものはなかった。搢紳は皆これを栄誉とした。武成元年、在官のまま卒去した。太子少師、蒲州刺史を追贈され、諡して貞といった。河北郡の前功曹張回及び吏民らは、裴俠の遺愛に感じ、頌を作りその清徳を記した。
子の薛祥は、性質忠実謹厳で、煩劇な政務を処理する才能があった。若くして成都県令となり、清廉さは裴俠に及ばないが、裁断決断はこれを上回った。後に長安県令に任じられ、権貴に憚られた。司倉下大夫に転じた。裴俠が亡くなると、ついに悲嘆のあまり卒去した。薛祥の弟の薛肅は、貞亮で才芸があった。天和年間、秀才に挙げられ、給事中士に拝された。次第に御正大夫に昇進し、胡原県子の爵位を賜った。
薛端
薛端は字を仁直といい、河東郡汾陰県の人である。本名は沙陁といった。魏の雍州刺史、汾陰侯薛辨の六世孫である。代々河東の著姓であった。高祖の薛謹は、泰州刺史、内都坐大官、涪陵公となった。曾祖の薛洪隆は、河東太守となった。洪隆の兄の洪阼が魏の文成帝の娘である西河公主を娶り、馮翊に賜田があったため、洪隆の子の麟駒がそこに移り住み、ついに馮翊の夏陽に家を定めた。麟駒は秀才に挙げられ、中書博士に拝され、主客郎中を兼ね、河東太守を追贈された。父の薛英集は、通直 散騎常侍 となった。
薛端は若くして志操があった。父の喪に遭い、喪に服する礼に適った。弟の薛裕と共に、精神を奮い起こし学問に専念し、人付き合いをしなかった。十七歳の時、 司空 高乾に召し出されて参軍となり、汾陰県男の爵位を賜った。薛端は天下が乱れているのを見て、ついに官を棄てて郷里に帰った。
魏の孝武帝が西遷すると、太祖 (宇文泰) は大 都督 薛崇礼に命じて龍門を守らせ、薛端を同行させた。薛崇礼は間もなく守りを失い、ついに東魏に降った。東魏は行臺薛循義、 都督 乙干貴に命じ、数千の兵を率いて西に渡り、楊氏壁を占拠させた。薛端は宗族や家僮らと先に壁の中におり、薛循義はその兵に命じて薛端らを脅し東に渡らせようとした。ちょうど黄河を渡ろうとした時、日が暮れ、薛端は密かに宗室や家僮らと共にこれに背いた。薛循義が騎兵を派遣して追わせると、薛端は戦いながら駆け、ついに石城柵に入り、難を免れた。柵の中には先に百家がおり、薛端は彼らと力を合わせて固守した。乙干貴らはたびたび来て慰め諭したが、薛端に降伏する意思がないのを知り、ついに兵を引き上げて河東に帰った。東魏はまたその将の賀蘭懿、南汾州刺史薛琰達を派遣して楊氏壁を守らせた。薛端はその配下を率い、併せて村民らを招き諭し、多くの奇策を設けてこれに臨んだ。賀蘭懿らは大軍があるのではないかと疑い、すぐに東へ逃げ、船を争って溺死した者は数千人に及んだ。薛端はその兵器を収め、再び楊氏壁に戻った。太祖は南汾州刺史蘇景恕を派遣してこれを鎮守させた。降伏を勧める書を下して労い、薛端を朝廷に召し出し、大丞相府戸曹参軍に任じた。
竇泰を擒えるのに従い、弘農を回復し、沙苑で戦い、いずれも功績があった。冠軍将軍、中散大夫を加えられ、爵位を伯に進めた。丞相東閤祭酒に転じ、本州大中正を加えられ、兵部郎中に遷り、文城県伯に改封され、使持節、平東将軍、吏部郎中を加えられた。薛端の性質は強直で、奏請するたびに、権貴を避けなかった。太祖はこれを賞賛し、故に端という名を賜り、名と実質が相応するようにさせようとした。選曹の職に就いて以来、まず賢能を尽くし、貴遊の子弟であっても、才能が劣り行いが薄い者は、一度も昇進させなかった。たびたび太祖に啓上して言うには、「官を設け職を分けるのは、本来時務を安んずるためであり、もしその人を得なければ、むしろ職を空しくしておく方がよい。」太祖は深くこれを然りとした。大統十六年、大軍が東征した。柱国李弼が別道の元帥となり、すぐれた首席幕僚を選んだが、数日たっても決まらなかった。太祖は李弼に言った、「貴公のために一長史を得ることを考えたが、薛端に勝る者はいない。」李弼は答えて言った、「まさにその才です。」そこで彼を派遣した。車騎大将軍、儀同三司を加授された。尚書左丞に転じ、引き続き選挙の事務を掌った。吏部尚書に進授され、宇文の姓を賜った。薛端は長く選曹に在り、優れた人物鑑識眼を持ち、その抜擢任用した者は、皆その才能を得ていた。六官が建てられると、軍司馬に拝され、侍中、驃騎大将軍、開府儀同三司を加えられ、爵位を侯に進めた。
孝閔帝が即位すると、工部中大夫に任じられ、民部中大夫に転じ、爵位を公に進め、封邑を増やして以前と合わせて一千八百戸となった。晋公宇文護が帝を廃そうとし、群官を召してこれを議したが、薛端はかなり異論があった。宇文護は喜ばず、蔡州刺史として出された。政治は寛大で恵み深く、民吏に愛された。間もなく基州刺史に転じた。基州の地は梁、陳と接し、鎮撫に頼るべき事態であり、総管史寧は司馬梁栄を派遣して赴任を促させた。蔡州の父老が梁栄に訴え、薛端を留めてほしいと請うた者は千余人に及んだ。基州に至り、間もなく卒去した。時に四十三歳であった。遺言で薄葬を戒め、府州からの贈り物は受け取らないようにした。生前の官位を追贈され、大将軍を加えられ、文城郡公に追封された。諡して質といった。
子の薛冑は、字を紹玄という。幼くして聡明で、群書に広く目を通し、政事に通暁していた。帥 都督 として初めて官に就いた。累進して上儀同となり、司金中大夫、徐州総管府長史、合州刺史を歴任した。大象年間、開府儀同大将軍の位に至った。
薛端の弟の薛裕は、字を仁友という。若くして孝悌をもって州里に知られた。初め太学生となったが、当時学舎の中には貴遊の子弟が多く、好学の者は少なく、ただ薛裕だけが倦まず学問に耽った。弱冠にして、丞相参軍事に召し出された。この時、京兆の韋敻は放逸を志し安んじ、世務に関わらなかった。薛裕はその恬静さを慕い、たびたび酒肴を携えて訪ね、終日談笑した。韋敻はついに従孫女を彼に娶わせた。薛裕はかつて親友に言った、「大丈夫たるもの、聖明の世に当たりながら、顕著な文武の用いられるところがなく、世に知られないならば、たとえ忙しく奔走しても、ただ労苦するだけである。韋居士のごときは、退いても丘壑に隠れず、進んでも市朝に出ず、怡然として道を守り、栄辱が及ばない。なんと楽しいことか。」間もなく病に罹り卒去した。時に四十一歳であった。文章の士で誄をしたためた者が数人いた。太祖はこれを傷み惜しみ、洛州刺史を追贈した。
薛善
薛善は字を仲良といい、河東郡汾陰県の人である。祖父の薛瑚は、魏の河東郡守となった。父の薛和は、南青州刺史となった。
薛善は若くして 司空 府参軍事となり、儻城郡守に遷り、塩池都将に転じた。魏の孝武帝が西遷すると、東魏は河東を泰州と改め、薛善を別駕とした。薛善の家は元来富裕で、僮僕数百人を有した。兄の薛元信は気概に任せて豪奢を極め、食事は常に方丈に並び、座客は常に満ち、絃歌が絶えなかった。しかし薛善だけは己の生活を質素にし、閑静を愛し楽しんだ。
大統三年、齊の神武帝が沙苑にて敗れ、善の族兄崇禮を留めて河東を守らせた。太祖は李弼を遣わしてこれを包囲したが、崇禮は堅く守って降らなかった。善は密かに崇禮に言うには、「高氏は兵車を動かして順を犯し、主上をして流浪せしめた。兄と私は衣冠の末裔として、国の栄寵を蒙っている。今、大軍が既に臨んでいるのに、兄はなお高氏のために力を尽くそうとしている。もし城が陥落する日、首を長安に送られ、逆賊某甲の首と称せられれば、死して霊あらば、豈に余りの恥辱なからんや。早く誠意を帰順するに如くはない。奇節を表すには足りないとしても、せめて首領を全うすることができよう」と。しかし崇禮はなお疑いを抱いて決断しなかった。時に善の従弟馥の妹婿高子信が防城 都督 として城南面を守っていた。馥を遣わして善のもとに来て言うには、「西軍に応接しようと思うが、ただ力が及ばないことを恐れる」と。善は即ち弟の濟に命じて門生数十人を率いさせ、信・馥らと共に関を斬って弼の軍を引き入れた。時に謀に預かった者は皆五等爵を賞されたが、善は逆に背き順に帰するは臣子の常情であり、どうして一家の大小ことごとく封邑を忝うすることができようか、とし、弟の慎と共に固く辞して受けなかった。太祖はこれを嘉し、善を汾陰令とした。善は幹用強明にして、一郡で最も称えられた。太守の王羆はこれを美として、善に六県の事を兼ねて督めさせた。
まもなく行臺郎中に召された。時に屯田を広く設置して軍費を供給しようとし、司農少卿を除し、同州夏陽県の二十屯監を領させた。また夏陽の諸山に鉄冶を置き、再び善を冶監とし、毎月八千人を役して軍器を造営させた。善は自ら督課し、併せて慰撫を加えたので、甲兵は精利であり、しかも皆その労苦を忘れた。通直 散騎常侍 を加えられ、大丞相府從事中郎に遷った。屯田の功を追論し、龍門県子の爵を賜り、黄門侍郎に遷り、車騎大將軍・儀同三司を加えられた。河東郡守を除し、驃騎大將軍・開府儀同三司に進み、宇文氏の姓を賜った。六官が建てられると、工部中大夫に拝され、博平県公に爵を進めた。まもなく御正中大夫を除し、民部中大夫に転じた。
時に 晉 公宇文護が政を執り、儀同の齊軌が善に言うには、「兵馬万機は天子に帰すべきであり、何故にまだ権門にあるのか」と。善はこれを護に告げた。護は軌を殺し、善が己に忠であるとして、中外府司馬に引き立てた。司會中大夫に遷り、六府の事を副総した。京兆尹を加授され、なお司會を治めた。出て隆州刺史となり、益州総管府長史を兼ねて治めた。少傅に召されて拝された。位の上で卒した。時に六十七歳。蒲・虞・勳の三州刺史を贈られた。高祖は善が齊軌の事を告げたことを以て、諡して繆公とした。子の裒が嗣いだ。官は高陽守に至った。善の弟に慎がいる。
弟の慎
慎は字を佛護といい、学を好み、文を属することを能くし、草書に長じた。若くして同郡の裴叔逸・裴諏之・柳虬・范陽の盧柔・隴西の李璨と共に相善し友誼を結んだ。丞相府墨曹参軍として起家した。太祖は行臺省に学を置き、丞郎及び府佐のうち德行明敏なる者を取って生員とさせた。皆に昼は公務を処理させ、夜は講習に就かせ、先ず六経、後に子史を学ばせた。また諸生の中から德行淳懿なる者を選び、太祖の読書に侍らせた。慎と李璨及び隴西の李伯良・辛韶、武功の蘇衡、譙郡の夏侯裕、安定の梁曠・梁禮、河南の長孫璋、河東の裴挙・薛同、 滎陽 の鄭朝ら十二人が、共にその選に応じた。また慎を学師として、諸生の課業を知らせた。太祖は雅に談論を好み、併せて名僧で深く玄宗を識る者一百人を選び、邸内で講説させた。また慎ら十二人に命じて仏義を兼ねて学ばせ、内外に通ぜしめた。これにより四方は競って大乗の学を為した。
数年後、再び慎を宜都公の侍読とした。丞相府記室に転じた。魏の東宮が建てられると、太子舎人を除した。庶子に遷り、なお舎人を領した。通直 散騎常侍 を加えられ、中書舎人を兼ね、礼部郎中に転じた。六官が建てられると、膳部下大夫に拝された。慎の兄の善はまた工部に任じられた。共に清要な地位に居り、当時の人はこれを栄とした。孝閔帝が践祚すると、御正下大夫を除し、車騎大將軍・儀同三司に進み、淮南県子に封ぜられ、邑八百戸を賜った。師氏・御伯中大夫を歴任した。
保定の初め、出て湖州刺史となった。州界は蛮左が雑居し、常に劫掠を務めとしていた。慎は諸豪帥を集め、朝廷の旨を詳しく宣べ、なお首領に毎月一回参上させ、或いは事を言う必要ある者は、時節を限らせなかった。慎は引見する毎に、必ず殷勤に勧誡し、及び酒食を賜った。一年の間に、翕然として教化に従った。諸蛮は相謂って言うには、「今日始めて刺史が真の民の父母であることを知った」と。欣悦しない者はなかった。ここよりより、襁負して来る者、千有余戸に及んだ。蛮の習俗では、婚娶の後、父母がいるにもかかわらず、即ち別居する。慎は守令に謂って言うには、「牧守令長は民を化する者である。どうしてその子が妻を娶れば、便ち父母と離析するようなことがあろうか。これはただ氓俗の過失であるばかりでなく、また牧守の罪でもある」と。慎は乃ち自ら誘導し、孝慈を示し、併せて守令を遣わして各々その管轄部に諭させた。数戸の蛮で、別居数年、遂に還って侍養し、及び行って果物や膳を得れば、帰って父母に奉った。慎はその善に従う速さに感じ、詳細に状況を上聞した。詔があり、その賦役を免じた。ここにおいて風化大いに行き、華夏の習俗と同じくなった。
まもなく入朝して蕃部中大夫となった。病を以て職を去り、家で卒した。文集があり、頗る世に伝えられた。
薛善が河東を以て李弼に応じた時、敬珍・敬祥もまた属県を率いて帰附した。
敬珍
敬珍は字を國寶といい、河東蒲坂の人である。漢の楊州刺史韶の十世の孫である。父は伯樂、州主簿、安邑令であった。珍は容儀偉く、気俠有り、学業騎射、共に当時に称えられた。祥は即ち珍の従祖兄であり、また慷慨して大志有り、ただ英豪と交結することを務めとした。珍は之と深く相友愛し、毎に同遊同処した。
齊の神武帝が沙苑に趨いた時、珍は祥に謂って言うには、「高歡は乗輿を迫逐し、関右に播遷させた。識有る士で、孰くぞその腹中に刃を推したくない者があろうか。ただ力が制することができなかっただけである。今また兵を称して内侮し、凶逆を逞ううとしている。これは誠に志士が命を効する日であり、兄と共にこれを図るべきである」と。祥はその言を聞いて甚だ悦び、言うには、「計は将に安く出づるや」と。珍曰く、「宇文丞相は寛仁大度にして、霸王の略有り、天子を挟んで諸侯に令し、既に数年になる。その政刑備挙し、将士命を用いるのを観るに、歡は衆有りと雖も、固よりその儔ではない。況んや逆順の理殊なるをや、将に戦わずして自ら潰けん。我若し義勇を招集し、その帰路を断ち、凶徒を殲馘し、隻輪をして反らせずんば、直ちに朝廷の恥を雪ぐのみならず、また壮士の封侯の業でもある」と。祥は深く然りとし、遂に同郡の豪右張小白・樊昭賢・王玄略らと兵を挙げ、数日の内に、衆は万余に至った。歡の後軍を襲わんとしたが、兵未だ進まずして齊の神武帝は既に敗れた。珍と祥は之を邀え撃ち、多くを剋獲した。李弼の軍が河東に至ると、珍は小白らと共に猗氏・南解・北解・安邑・溫泉・虞郷等の六県の戸十余万を率いて帰附した。太祖はこれを嘉し、即ち珍を平陽太守に拝し、永寧防主を領させ、祥を龍驤將軍・行臺郎中に拝し、相里防主を領させた。共に鼓吹を賜って寵異した。太祖はなお珍の手を執って言うには、「国家が河東の地を有するは、卿兄弟の力である。還ってこの地を卿に付す。我に東顧の憂い無し」と。
久しくして、絳州刺史に遷った。病を以て免ぜられ、家で卒した。子の元約は、性貞正にして、識学有り。位は布憲中大夫に至った。
小白らは既に珍と共に朝廷に帰還し、太祖は彼らの功績を嘉して、皆これを任用した。後に皆郡守・刺史に至った。
史評
史臣が曰く、鄭孝穆は離散した民を撫でて安んじ、豳岐には襁負の人が多くいた。崔謙は辺境を鎮め防ぎ、江漢には載清の詠が流れた。崔説は家を治めるに厳粛をもって称せられ、職に臨み官に当たるには猛毅をもって政を行った。崔猷は朝廷に立ちて事務を補佐するには嘉謀をしばしば陳べ、出でて撫し条を宣べるには威と恩とを具えて挙げた。裴俠は忠勤をもって上に奉じ、廉約をもって身を治め、吏は欺くこと能わず、民はその恵みを懐いた。薛端は歴任して顕要の地位にあり、彊直をもって知られた。薛善は繁劇な任に当たり、弘益をもって誉れを流した。皆当時の良将である。しかし薛善は斉に陥り、護に諂って権寵を求め、易名して繆と為す、これは謬ならざるか。
校勘記