周書
卷三十四 列傳第二十六 趙善 元定 楊摽 裴寬 楊敷
趙善
趙善は字を僧慶といい、太傅・楚国公の趙貴の従祖兄にあたる。祖父の趙國は、魏の龍驤将軍・洛州刺史であった。父の趙更は、安楽太守であった。
趙善は若くして学問を好み、経史に広く通じ、容貌は美しく、沈着にして度量が大きかった。永安の初め、爾朱天光が肆州刺史となると、主簿に召し出され、深く器重された。天光が邢杲及び万俟醜奴を討つに際し、趙善を長史とした。軍中の謀議には、常に参与した。天光が関右行臺となると、趙善を行臺左丞に上表し、 都督 ・征虜将軍を加えられた。普泰の初め、関・隴平定の功を賞され、驃騎将軍・大行臺・ 散騎常侍 に任ぜられ、山北県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。まもなく持節・東雍州諸軍事・雍州刺史を拝命した。天光が韓陵において斉の神武帝 (高歓) を迎え撃つと、趙善はまた長史として従軍した。天光が敗れて殺害されると、趙善はその屍を収葬することを請い、斉の神武帝はその義を認めて許した。
賀抜岳が関中の兵を総べると、趙善を迎えに遣わし、再び長史とした。賀抜岳が侯莫陳悦に害されると、趙善は諸将と共に太祖 (宇文泰) を擁戴し、引き続き悦を平定した。
魏の孝武帝が西遷すると、都官尚書に任ぜられ、襄城県伯に改封され、邑五百戸を加増された。間もなく、北道行臺となり、儀同の李虎らと共に曹泥を討ち、これを平定した。車騎大将軍・儀同三司・尚書右僕射に遷り、爵位は公に進み、邑は前の分と合わせて一千五百戸となった。
大統三年、左僕射に転じ、侍中を兼ね、著作を監し、太子詹事を領した。趙善の性格は温和で恭しく、器量があり、端右 (高位) の地位にありながら、ますます謙虚であった。職務がよく遂行されれば、それは某官の力であると言い、もし罪責があれば、それは趙善の過ちであると言った。当時の人はその宰相たる器量を称えた。太祖もまた大いに敬重した。
九年、邙山の戦いに従軍し、大軍が不利となった際に、敵に捕らえられ、遂に東魏で卒去した。建徳の初め、朝廷が斉と通好すると、斉人はその柩を返した。その子の趙絢が上表して贈官と諡を請うた。詔して大将軍・大 都督 ・岐宜寧豳四州諸軍事・岐州刺史を追贈した。諡して敬といった。
子の趙度は、字を幼済といい、車騎大将軍・儀同三司となった。趙度の弟の趙絢は、字を会績といい、驃騎大将軍・開府儀同三司・淅資二州刺史となった。
元定
元定は字を願安といい、河南洛陽の人である。祖父の元比頽は、魏の安西将軍・務州刺史であった。父の元道龍は、征虜将軍・鉅鹿郡守であった。
元定は篤実で寡黙であり、内には沈思熟慮し、外には剛毅であった。永安の初め、爾朱天光に従って関隴の群賊を討ち、ことごとくこれを撃破した。襄威将軍に任ぜられた。賀抜岳が害されると、元定は太祖に従って侯莫陳悦を討ち、功により平遠将軍・歩兵 校尉 に任ぜられた。魏の孝武帝が西遷すると、高邑県男に封ぜられ、邑二百戸を賜った。潼関を撃ち、回洛城を抜く戦いに従い、爵位は伯に進み、邑三百戸を加増され、前将軍・太中大夫を加えられた。竇泰を擒える戦い、弘農を回復する戦い、沙苑を破る戦い、河橋の戦いに従い、元定はいずれも先鋒となり、その前に当たる者は、靡かなかった。前後の功により、累進して 都督 ・征東将軍・金紫光禄大夫・帥 都督 となり、邑三百戸を加増された。邙山の役では、敵は壁の如くであったが、元定は矛を奪って突撃し、多くの敵を殺傷し、敢えて当たる者はいなかった。太祖はこれを親しく見て、功績を最上と評し、賞賜の品は甚だ厚かった。十三年、河北郡守に任ぜられ、大 都督 ・通直 散騎常侍 を加えられ、邑は前の分と合わせて一千戸となった。元定は勇略があり、戦うごとに必ず敵陣に突入したが、自らの功を語ることはなかった。太祖は深く重んじ、諸将もまたその長者ぶりを称えた。十五年、使持節・車騎大将軍・開府儀同三司に遷り、爵位は公に進んだ。魏の廃帝二年、宗室として建城郡王に進封された。三年、周礼が施行されると、爵位は規定により改められ、長湖郡公に封ぜられた。世宗の初め、岷州刺史に任ぜられた。威厳と恩恵を併せ用い、羌の豪族の心を大いに得た。以前、険阻な地に拠って従わなかった生羌も、この時には皆、山谷を出て、征賦に従った。元定が交代で帰還する際、羌の豪族らはその恩を慕い名残を惜しんだ。保定年間、左宮伯中大夫に任ぜられた。久しくして、左武伯中大夫に転じ、位は大将軍に進んだ。
天和二年、陳の湘州刺史華皎が州を挙げて梁に帰順し、梁主 (蕭巋) はこの隙に乗じて、さらに攻め取ろうと図り、使者を遣わして援軍を請うた。詔により元定は衛公の宇文直に従って軍を率いて赴いた。梁軍と華皎は共に水軍であり、元定は陸軍を率い、宇文直が総督し、共に夏口に至った。しかし陳の 郢州 は堅守して降らなかった。宇文直は元定に命じて歩騎数千でこれを包囲させた。陳はその将の淳于量・徐度・呉明徹らを水陸より派遣して防がせた。淳于量らは、元定が既に長江を渡り、兵力が分散していると見て、まず水軍と交戦した。華皎の統率する兵は、さらに疑念を抱き、遂に陳軍に敗れた。華皎は身一つで梁に逃げ帰った。元定は孤軍で隔絶され、進退の路を絶たれ、陳軍は勝ちに乗じて水陸より迫った。元定は配下を率いて竹を切り払い道を開き、進みながら戦い、湘州に向かおうとしたが、湘州は既に陥落していた。徐度らは元定が窮地にあることを知り、使者を遣わして偽って元定と通和し、重ねて盟誓を交わし、帰国を許すと約束した。元定はその詭計を疑い、力戦して死のうとした。しかし元定の長史の長孫隆及び諸将の多くが和を勧めたので、元定はこれを許諾した。そこで徐度らと共に犠牲を捧げて血をすすり、武器を解いて船に乗った。そのため徐度らに捕らえられ、配下の軍も囚われの身となり、丹陽に送られた。数ヶ月後、憂憤のあまり発病して卒去した。子の元楽が後を嗣いだ。
楊𢷋
楊𢷋は字を顕進といい、正平郡高涼県の人である。祖父の楊貴、父の楊猛は、共に県令であった。
楊𢷋は若くして豪侠で志気があった。魏の孝昌年間、爾朱栄が朝士を殺害した際、大司馬・城陽王の元徽が難を避けて楊𢷋のもとに逃げ込み、楊𢷋はこれを匿って難を免れさせた。孝荘帝が即位すると、元徽は出仕し、再び司州牧となった。これにより楊𢷋は義烈をもって知られるようになった。伏波将軍・給事中に抜擢された。元顥が洛陽に入ると、孝荘帝は晋陽の爾朱栄のもとに行こうとし、詔して楊𢷋にその一族を率いて船を馬渚で収集させた。楊𢷋が到着する前に、帝は既に太行山を北に越えており、楊𢷋は収集した船を隠し、敵に利用させなかった。爾朱栄が帝を奉じて南討し、馬渚に至ると、楊𢷋は船を整えて王師を渡河させた。元顥が平定されると、肥如県五百戸に封ぜられ、鎮遠将軍・歩兵 校尉 を加えられ、済北郡の事務を代行した。 都督 ・平東将軍・太中大夫に進んだ。
魏の孝武帝に従って関中に入り、爵位を侯に進められ、封邑八百戸を増やされ、撫軍・銀青光禄大夫を加えられた。時に東魏は鄴に遷都し、太祖 (宇文泰) はその動向を知ろうと、𢷋 (楊𢷋) を遣わし、密かに鄴に行かせて観察させた。使いから戻り、上意に適うことを称えられ、通直 散騎常侍 ・車騎将軍を授けられた。稽胡は険阻を恃んで従わず、しばしば略奪を行ったため、𢷋を黄門侍郎を兼ねさせ、慰撫に赴かせた。𢷋は権謀と策略に長け、辺境の情勢を得ることができ、酋長渠帥を誘導教化し、多くが帰順し、ついには𢷋に従って入朝する者もあった。
時に弘農は東魏が守っており、𢷋は太祖に従ってこれを攻め落とした。しかし河以北はなお東魏に附いていた。𢷋の父の猛は先に邵郡の白水県令であったため、𢷋はその地の豪族と知己であり、微行して邵郡に赴き、兵を挙げて朝廷に応じることを請うた。太祖はこれを許した。𢷋は遂に行き、土豪の王覆憐らと陰謀を巡らせて挙兵し、密かに呼応する者三千人を得て、内外ともに発し、遂に邵郡を陥落させた。郡守の程保及び県令四人を捕らえ、皆これを斬った。衆議は𢷋を行郡事に推したが、𢷋は覆憐によって事を成したとして、覆憐を邵郡守に上表した。功により大行臺左丞を授けられ、義兵を率いてさらに経略を行った。ここにおいて間諜を遣わして東魏の城砦を誘説させ、旬月の間に、正平・河北・南汾・二絳・建州・太寧などの城は、皆内応を請う者がおり、大軍はこれに乗じて攻め落とした。𢷋を行正平郡事とし、左丞は元の通りとした。斉の神武帝 (高歓) が沙苑で敗れると、その将の韓軌・潘洛・可朱渾元らが殿軍となり、𢷋は兵を分けて要撃し、殺傷甚だ多かった。東雍州刺史の馬恭は𢷋の威声を恐れ、城を棄てて遁走した。𢷋は遂に東雍州を占拠して拠点とした。
太祖は𢷋に謀略あり、辺境の任に堪えるとみて、行建州事を上表した。時に建州は敵境の三百余里の遠方にあったが、𢷋の威徳は夙に著しく、経過する所では、多くが糧食を携えてこれに附いた。建州に至る頃には、衆はすでに一万となった。東魏の刺史の車折于洛が兵を出して迎撃したが、𢷋はこれを撃破した。またその行臺の斛律俱の歩騎二万を州の西で破り、多くの甲冑兵器及び軍需物資を鹵獲し、義兵に供給した。これにより威名は大いに振るった。東魏は太保の侯景を遣わして正平を陥落させ、また行臺の薛循義に兵を率いさせて斛律俱と合流させた。ここにおいて敵衆は次第に盛んとなった。𢷋は孤軍で援けなく、かつ腹背に敵を受けるとして、撤退を謀った。義兵が背くことを恐れ、偽って太祖の書簡を作り、人が外から送って来たように遣わし、すでに四方面から援軍を派遣したと云わせた。そこで人に漏洩させ、所在の者に知らせた。また土地の義兵の頭目を分け、それぞれの部隊を率いて四方に出て略奪させ、軍費の供給に擬した。𢷋は分遣を終えると、夜中に邵郡へと撤退した。朝廷はその権謀をもって全軍を保ったことを嘉し、ただちに建州刺史を授けた。
時に東魏は正平を東雍州とし、薛栄祖を遣わしてこれを鎮守させた。𢷋はこれを取らんと謀り、まず奇兵を遣わし、急に汾橋を攻撃した。栄祖は果たして城中の戦士を全て出し、汾橋で防いだ。その夜、𢷋は歩騎二千を率い、別の道から渡河し、遂に襲撃してこれを陥落させた。驃騎将軍に進んだ。まもなく邵郡の民が郡の東で反乱し、郡守の郭武安は身を脱して逃れ免れた。𢷋はまた兵を率いて攻め、これを回復した。正平郡守に転じた。また東魏の南絳郡を撃破し、その郡守の屈僧珍を虜にした。前後の功績を記録し、別に郃陽県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。
邙山の戦いにおいて、𢷋は柏谷塢を攻め落とし、そのままこれを鎮守した。大軍が不利となると、𢷋もまた撤退した。東魏の将の侯景が騎兵を率いて𢷋を追撃したが、𢷋は儀同の韋法保と心を合わせて抗戦し、かつ前へ進みながら十余里を経て、景は遂に引き退いた。太祖はこれを嘉し、帛三百匹を賜った。再び建州刺史を授けられ、車箱を鎮守した。𢷋は長く軍役に従い、父を葬るに及ばなかったが、この時に至り上表して還葬を請うた。詔してその父に車騎大将軍・儀同三司・晋州刺史を追贈し、その母に夏陽県君を追贈し、ともに儀衛を給した。州里はこれを栄誉とした。
斉の神武帝が玉壁を包囲した時、別に侯景に命じて斉子嶺に向かわせた。𢷋は邵郡に侵入されることを恐れ、騎兵を率いてこれを防いだ。景は𢷋の到着を聞くと、木を伐って道を断つこと六十余里、なお驚いて安からず、遂に河陽に退還した。そのように畏れられたのである。十二年、大 都督 に進み、晋・建二州諸軍事を加えられた。また蓼塢を攻め破り、東魏の将の李顕を捕らえ、儀同三司に進んだ。まもなく開府に遷り、また建州・邵郡・河内・汲郡・黎陽等諸軍事を除され、邵郡を領した。十六年、大軍が東征するに当たり、大行臺尚書を授けられ、義兵を率いて先駆け敵境に入り、その四つの戍を攻め、陥落させた。時に斉軍が出て来なかったため、𢷋を追って還らせた。肥如・郃陽の二邑を併せ、合わせて一千八百戸とし、華陽県侯に改封した。また邵郡に邵州を置き、𢷋を刺史とし、配下の兵を率いてこれを鎮守させた。
保定四年、少師に遷った。その年、大軍が洛陽を包囲し、詔して𢷋に義兵一万余人を率いて軹関から出撃させた。しかし𢷋は東境を鎮守すること二十余年、しばしば斉人と戦い、常に勝利し捕獲を得ていたため、これによって軽敵の心を持つに至った。時に洛陽は未だ陥ちず、𢷋は深く敵境に入りながら、また防備を設けなかった。斉人が急に至り、𢷋の軍を大破した。𢷋は衆が敗れたため、遂に斉に降った。𢷋が勲功を立てた時には、慷慨壮烈の志があったが、軍が敗れると、虜に就いて苟くも免れんことを求めた。当時の論評はこれをもって彼を卑しんだ。朝廷はなおその功績を記録し、罪とはせず、その子に爵位を襲封させた。
𢷋が敗れた時、新平郡守の韓盛もまた洛陽で戦死した。
盛は字を文熾といい、南陽堵陽の人である。五世の祖の遠は鄭県令となり、これにより京兆の渭南に移り住んだ。曾祖の良は秀才に挙げられ、奉朝請・姑臧令となった。祖の与は魏の儻城郡守となり、直州刺史を追贈された。父の先藻は安夷・鄜城の二郡守となり、鎮遠将軍・義州刺史を追贈された。
盛は幼少より操行があり、経史に渉猟し、兼ねて騎射を善くし、膂力は人に過ぎた。魏の大統初年、開府行参軍として起家した。参軍事に転じた。李遠に従い多年征討し、常に戦功があった。累遷して 都督 ・輔国将軍・中散大夫・帥 都督 ・持節・平東将軍・太中大夫・銀青光禄大夫・大 都督 に至った。明帝二年、臨湍県子に封ぜられ、邑三百戸を賜った。保定四年、使持節・車騎大将軍・儀同三司・虞部下大夫を授けられ、出て新平郡守となった。官に在っては清静であり、厳格ではあるが残虐ではなく、孤貧を憐れみ、豪族を抑挫し、賊盗は止み、郡治は厳粛であった。まもなく本官のまま晋公 (宇文) 護に従って東征し、洛陽において戦死した。淅・洛・義の三州刺史を追贈され、諡して壮といった。子の謙が嗣いだ。官は大 都督 に至った。
盛には二人の兄、徳輿・仲恭がいた。徳輿は姿貌魁傑にして、常人に異なっていた。官を歴て持節・車騎大将軍・儀同三司・通洛慈澗防主・邵州刺史・任城県男となった。仲恭は容儀美しく、栄利に淡泊であった。郡は累次功曹・中正に辟召したが、仲恭は答えて言った、「第五 (の称号) は、驃騎に劣るものか!」後に広原・霊原・新豊の三県令を歴任し、所在において皆名声と実績があった。八人の子があり、ともに志操があった。末子の紉約は、後に最も著名となった。
裴寛
裴寛は字を長寛といい、河東聞喜の人である。祖の徳歓は、魏の中書郎・河内郡守であった。父の静慮は、銀青光禄大夫となり、汾州刺史を追贈された。
裴寬は容姿魁偉にして、広く群書に渉猟し、弱冠にして州里に称せらる。二弟の裴漢・裴尼と共に和して知名たり。親の歿後、弟を撫育して篤く友愛あるを以て聞こえたり。 滎陽 の鄭孝穆は常に従弟の文直に謂いて曰く、「裴長寛兄弟は、天倫篤く睦まじく、人の師表なり。吾れ之を愛し之を重んず。汝は之と遊処すべし」と。年十三にして、選ばれて魏の孝明帝の挽郎となり、員外散騎侍郎に釈褐す。魏の孝武帝の末、広陵王府直兵参軍を除かれ、寧朔将軍・員外 散騎常侍 を加えらる。孝武帝の西遷に及び、寛は其の諸弟に謂いて曰く、「権臣命を擅にし、乗輿播越す。戦争方に始まらんとす、何れの所に依るべきか」と。諸弟皆対ふること能はず。寛曰く、「君臣の逆順は、大義昭然たり。今天子西幸す、理として東面すべからず、以て臣節を虧くべからず」と。乃ち家属を将いて大石巖に避難す。獨孤信洛陽に鎮すに及び、始めて出でて之に見ゆ。
時に汾州刺史韋子粲、東魏に降る。子粲の兄弟関中に在る者は、皆既に従坐せり。其の季弟子爽は先づ洛に在り、窘急にして、乃ち裴寛に投ず。寛は懐を開きて之を納る。大赦有るに遇ひ、或は子爽免るるに合ふと伝ふ。因りて爾く遂に出づ。子爽終に伏法す。獨孤信召して之を責む。寛曰く、「窮して来たり帰す、義として執り送る無し。今日罪を獲るは、是れ甘んずる所なり」と。赦宥を経るを以て、遂に坐せざるを得たり。
大統五年、 都督 ・同軌防長史を授けられ、征虜将軍を加えらる。十三年、防主韋法保に従ひ潁川に向かい、侯景の囲みを解く。景密かに南叛を図る。軍中頗る知る者有り。其の事計未だ成らざるを以て、外に貳無きを示し、諸軍の間を往来し、侍従寡少なり。軍中の名将には、必ず躬自ら造り、法保に至りては、尤も親附せらる。寛法保に謂いて曰く、「侯景狡猾にして、必ず肯て関に入らじ。公に託款すと雖も、恐らくは未だ信ずべからず。若し兵を仗りて之を斬らば、亦一時の計なり。曰く然らずとせば、便ち須らく深く厳警を加へ、其の誑誘を信じて、自ら後悔を貽すべからず」と。法保之を納る。然れども景を図ること能はず、但だ自ら固むるのみ。
十四年、東魏の将彭楽・楽恂と新城に戦ひ、傷つきて擒らへらる。河陰に至り、斉の文襄に見ゆ。寛挙止詳雅にして、善く占対に長じ、文襄甚だ賞異す。寛に謂いて曰く、「卿は三河の冠蓋にして、材識此の如し。我必ず卿をして富貴ならしめん。関中貧狭にして、何ぞ足りて依るべけん。異図を懐くこと勿れ」と。因りて鏁を解きて館に付し、厚く其の礼を加ふ。寛乃ち臥氊を裁ち、夜縋りて出で、因りて遁れ還り、太祖に見ゆ。太祖顧みて諸公に謂いて曰く、「堅を被り鋭を執るは、或は其の人有らん。疾風勁草は、歳寒にして方に験さる。裴長寛、高澄に此の如く厚遇せらるるに、乃ち能く死を冒して我に帰す。古の竹帛に載する所と雖も、何を以て之を加へん」と。乃ち手書して寛の名下に署し、持節・帥 都督 を授け、夏陽県男に封じ、邑三百戸を賜ひ、 并 せて馬一疋・衣一襲を賜ひ、即ち孔城城主を除く。
十六年、河南郡守に遷り、仍って孔城を鎮む。尋いで撫軍・大 都督 ・通直 散騎常侍 を加えらる。魏の廃帝元年、使持節・車騎大将軍・儀同三司・ 散騎常侍 に進む。孝閔帝践祚し、爵を進めて子と為す。寛孔城に在ること十三年、斉の洛州刺史獨孤永業と相対す。永業計謀有り、譎詐多く、或は声言して春に発し、秋に乃ち兵を出だし、消息を掩蔽し、倐忽として至る。寛毎に其の情を揣み知り、兵を用ひて邀撃し、之を克たざること無し。永業常に其の所部を戒めて曰く、「但だ孔城を鎮むるを好め、自ら外は慮るに足らざるべし」と。其の憚らるる此の如し。斉の伊川郡守梁鮓、常に境首に在りて抄掠す。太祖之を患ひ、寛をして経略せしむ。鮓行きて妻の家に過ぎ、牛を椎ぎ宴飲し、既に酔ひての後、復た自ら防がず。寛密かに之を知り、兵を遣はして往き襲はしめ、遂に之を斬る。太祖之を嘉し、奴婢・金帯・粟帛等を賜ふ。武成二年、司土中大夫に徴拝さる。
保定元年、沔州刺史として出づ。尋いで魯山防主に転ず。四年、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えらる。天和二年、復州の事を行ふ。三年、温州刺史を除かる。初め陳氏国と通和し、毎に聘好を脩む。華皎の附くに及びて後、乃ち寇掠を図る。沔州既に敵境に接し、事守備を資す。是に於て復た寛を以て沔州刺史と為す。而して州城埤狭にして、器械又少なし。寛其の守り難きを知り、深く以て憂ふ。又た秋水暴長するを恐れ、陳人其の便に乗ずるを得んことを。即ち襄州総管に白し、戍兵を請ひ、 并 せて城を羊蹄山に移し、権りに以て水を避くべしと請ふ。総管府兵を増して守禦するを許すも、城を遷移するを許さず。寛乃ち年常の水の至る処を量度し、岸に大木を豎て、以て船の行くに備ふ。襄州の遣はす所の兵未だ至らざるに、陳の将程霊洗已に衆を率ひて城下に至る。遂に戦艦を分布し、四面之を攻む。水勢猶ほ小く、霊洗未だ城に近づくを得ず。寛毎に 驍 兵を簡募し、令して夜掩撃せしめ、頻りに其の鋭を挫く。相持つこと旬日、霊洗之を如何ともすべからず。俄かに雨水暴長し、豎つる所の木の上、皆船を通して過ぐ。霊洗乃ち大艦を以て臨逼し、拍干を以て楼を打てば、応即ち摧碎し、弓弩大石、昼夜之を攻む。苦戦三十余日、死傷過半す。女垣崩れ尽き、陳人遂に城に上るを得。短兵相拒すること、猶ほ二日を経る。外に継援無く、力屈す。城陥の後、水便ち退縮す。陳人乃ち寛を執りて揚州に至り、尋いで嶺外に送らる。数載を経て、後建業に還り、遂に江左に卒す。時に年六十七。子の義宣後に御正杜杲に従ひ陳に使し、始めて寛の柩を将ひて還ることを得たり。開皇元年、隋の文帝詔して襄郢二州刺史を贈る。
義宣は譙王儉の府記室を起家し、司金二命士に転じ、合江令となる。寛の弟に漢有り。
裴漢は字を仲霄といい、操行は高雅で、聡明で学問を好んだ。かつて人が百字の詩を作るのを見て、一目で暗誦した。西魏の孝武帝の初め、員外散騎侍郎に任じられた。大統五年、大丞相府士曹行参軍に任ぜられ、墨曹参軍を補った。裴漢は書簡に長じ、特に簿記文書に巧みで、道理に明るく判断は流れるように速かった。相府では彼について「日下に燦爛たるもの裴漢あり」と謡った。十一年、李遠が弘農に出鎮するに当たり、裴漢を司馬に推挙した。李遠は特に彼を重んじた。まもなく安東将軍・銀青光禄大夫・成都上士を加えられた。ほどなく司車路下大夫に転じた。工部の郭彦・太府の高賓らと格令を参議し、時事を論ずるごとに条理があり、郭彦らは皆敬服した。帥 都督 を加えられた。天和年間、司宗の孫恕・典祀の薛慎とともに八使となり、風俗を巡察した。五年、車騎大将軍・儀同三司を加えられた。裴漢は若い頃から持病があり、常に虚弱で、煩雑な職務は好まなかった。当時晋公宇文護が権力を専断し、多くの官僚は諂って付き従い、官途を求めた。ただ裴漢は正道を固守し、八年間職を移さなかった。酒を飲まず、賓客と交遊するのを好んだ。良辰美景のたびに、必ず当時の名士を招き、宴を開き詩作した。当時の人々はこれを重んじた。裴寛の没後は、遊びを断ち、琴瑟を聴かず、年中の祭事には哀哭するのみであった。兄弟の子を養育し、情愛は篤かった。人の珍しい書を借りれば、必ず自ら写本した。病が長引いても、書を手放さなかった。建徳元年に卒去、五十九歳。晋州刺史を追贈された。
子の鏡民は、若くして聡明で、経史に広く通じた。大将軍・譚公会の記室参軍となった。後に宋王宇文寔の侍読を経て、記室に転じ、司録に昇進した。宣政初年、吏部上士。大象末年、春官府都上士。裴漢の弟に裴尼がいる。
裴尼は字を景尼といい、性質は寛大で雅やか、器量があった。奉朝請より起家し、梁王の東閣祭酒に任ぜられ、従事中郎に転じ、通直 散騎常侍 を加えられた。隴西の李際・范陽の盧誕はともに当世に高名があり、裴尼とは忘年の交わりを結んだ。西魏恭帝元年、本官のまま于謹に従って江陵を平定し、多くの軍需品を得た。于謹は諸将校に自由に取らせた。他の者は皆珍玩を争って取ったが、裴尼はただ梁元帝の素琴一張を取ったのみであった。于謹は深く賞賛した。六官が建てられると、御正下大夫に任ぜられた。まもなく病没。輔国将軍・随州刺史を追贈された。
子の之隠は、趙王宇文招の府記室参軍。之隠の弟の師民は、好学で識見があり、当時に称えられた。秦王宇文贐の府記室参軍より起家し、兼ねて侍読を務めた。裴寛の族弟に裴鴻がいる。
裴鴻は若い頃から恭謹で、才幹と謀略があり、内外の官を歴任した。孝閔帝が即位すると、輔城公司馬に任ぜられ、儀同三司を加えられた。晋公宇文護の下で雍州治中となり、累進して御正中大夫となり、開府儀同三司に進み、民部中大夫に転じた。保定末年、中州刺史・九曲城主として出向した。辺境を鎮守し、防衛の能力を大いに発揮した。衛公宇文直が襄州に出鎮するに当たり、裴鴻を襄州司馬とした。天和初年、郢州刺史に任ぜられ、襄州総管府長史に転じ、高邑県侯の爵位を賜った。宇文直に従って南征したが、軍は敗れ、捕らえられた。まもなく陳で卒去した。朝廷はこれを哀悼し、豊資遂三州刺史を追贈した。
楊敷
楊敷は字を文衍といい、華山公楊寛の兄の子である。父の楊暄は字を景和という。性質は明敏で悟りが早く、学識があった。弱冠で奉朝請に任ぜられ、員外散騎侍郎・華州別駕・尚書右中兵郎中・輔国将軍・諫議大夫を歴任した。別将として魏の広陽王元深に従い葛栄を征討したが、葛栄に害された。殿中尚書・華夏二州諸軍事・鎮西将軍・華州刺史を追贈された。
楊敷は若くして志操があり、約束を重んじた。書伝を読むごとに、忠臣烈士の事跡を見ては、常に慨然として景慕した。北魏建義初年、祖父の楊鈞の爵位臨貞県伯を襲封し、邑四百戸を賜った。員外羽林監に任ぜられた。大統元年、奉車都尉に任ぜられた。尚書左士郎中・祠部郎中・大丞相府墨曹参軍・帥 都督 ・平東将軍・太中大夫を歴任し、撫軍将軍・通直 散騎常侍 を加えられた。西魏恭帝二年、廷尉少卿に転じた。判決した訴訟は公平允当と称された。
孝閔帝が即位すると、侯に進爵し、邑を加えて前の分と合わせて八百戸となった。小載師下大夫に任ぜられ、北 豫 州に赴き司馬消難を迎え、帰還後、使持節・蒙州諸軍事・蒙州刺史を授けられた。以前より蛮左らは多く北斉の官職を受け、しばしば乱逆を起こしていた。楊敷は誠意と信義を示し、状況に応じて慰撫したので、蛮左らは感じ入り、相次いで帰順した。楊敷はその首長四十余人を朝廷に送り、北斉が仮に授けた官職のまま正式に任じるよう請うた。諸蛮らはますます喜び、州内は平穏を得た。特に璽書を下して労い、車騎大将軍・儀同三司を加えられた。保定年間、司水中大夫として召還されたが、夷夏の吏民および荊州総管長孫儉がともに留任を請うた。当時、東征の議論があり、楊敷に舟艦による輸送の任を委ねようとしたため、留任は許されなかった。陳公宇文純が陝州を鎮守するに当たり、楊敷を総管長史とした。五年、司木中大夫・軍器副監に転じた。楊敷は吏事に明るく、在任地では勤勉な監察で著名であり、毎年の考課は最上位で、累次優れた賞賜を得た。驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。
天和六年、汾州諸軍事・汾州刺史として出向し、公に進爵、邑千五百戸を加増された。北斉の将軍段孝先が五万の兵を率いて侵攻し、雲梯・衝車・坑道を用いて昼夜攻城した。楊敷は自ら矢石に立ち、状況に応じて防禦し、数十日間持ちこたえた。段孝先の攻撃はますます激しくなった。当時、城中の兵は二千に満たず、戦死者はすでに十の四五に及び、食糧も尽き、公私ともに窮乏した。斉公宇文憲が救援の軍を率いて来たが、段孝先を恐れて進軍しなかった。楊敷は陥落が必至と知り、配下を集めて言った。「我らは皆、辺鎮にあって、心を合わせ力を尽くし、賊を破り城を全うすることを願った。しかし強敵が四面を包囲して日が経ち、食糧は尽き、救援は絶えた。窮城で死を待つのは丈夫のすることではない。今、戦える兵はなお数百人いる。包囲を突破して出撃し、生死を決しよう。もし免れることがあれば、なお生きて帰り、朝廷で罪を受ける方が、賊に殺されるよりましだ。我が決断は固い。諸君の意見はどうか。」配下は皆、涙を流して従った。楊敷は現存の兵を率いて夜に出撃し、北斉軍数十人を撃ち殺した。北斉軍はやや後退した。まもなく段孝先が諸軍を率いて精鋭を尽くして包囲し、楊敷は必死に戦ったが、矢が尽き、段孝先に捕らえられた。北斉人は彼を任用しようとしたが、楊敷は屈せず、憂懼のうちに鄴で卒去した。高祖 (武帝) が北斉を平定した後、使持節・大将軍・淮広復三州諸軍事・三州刺史を追贈し、諡を忠壮といった。華陰の旧墳地に葬られた。
子の楊素は、文武の才略があった。大象末年、上柱国・清河郡公となった。
史評
史臣曰く、三方鼎峙し、群雄競逐し、俊能馳騖し、各非主に吠ゆ。智勇を奮厲し、仁義に赴蹈せんと思う。危に臨みて顧みず、前哲の難くするところなり。趙善らは或いは孝友に彰れ、或いは忠槩に顯れ、咸躬志力し、俱に功名に徇う。兵は凶にして戰は危し、城は孤にして援は絕つ。楊敷・趙善は、龐德の勢窮まるに類し;元定・裴寬は、黃權の路無きに同じ。王旅振わず、其の罪に非ず。敷は少にして慷慨し、終に節を立て、仁にして勇あり、其れ最優なるか。楊𢷋は屢奇功有り、數勝に狃り、敵を輕んじて備え無く、兵破れ身囚われ、遠謀能わず、良に嗟くべし。易に曰く「師は律を以て出ず、臧しからざれば凶なり」と。傳に曰く「備えず虞らざれば、以て師とすべからず」と。其れ楊𢷋を謂うか。