周書

巻033

卷三十三 列傳第二十五 厙狄峙 楊荐 趙剛 王慶 趙昶 王悅 趙文表

厙狄峙

原文 厙狄峙

厙狄峙は、その先祖は遼東の人であり、本来の姓は段氏で、段匹磾の後裔である。難を避けるために改姓した。後に代に移り住み、代々豪族として栄えた。祖父の凌は武威郡守、父の貞は上洛郡守であった。

原文 厙狄峙,其先遼東人,本姓段氏,匹磾之後也,因避難改焉。後徙居代,世為豪右。祖淩,武威郡守。父貞,上洛郡守。

峙は若くして寛大で篤実なことで知られ、騎射に優れ、謀略があった。魏に仕え、高陽郡守の地位にあった。政治は仁愛と寛容をもって行い、民衆は大いに喜んだ。孝武帝が西遷すると、峙は官を棄ててこれに従い関中に入った。大統元年、中書舎人に任じられ、機密に参与し、恭謹さをもって称えられた。黄門侍郎に転じた。

原文 峙少以弘厚知名,善騎射,有謀略。仕魏,位高陽郡守。為政仁恕,百姓頗悅之。孝武西遷,峙乃棄官從入關。大統元年,拜中書舍人,參掌機密,以恭謹見稱。遷黃門侍郎。

当時、東魏と覇を競い、戦乱が絶えず、蠕蠕がその隙に乗じて、しばしば辺境の患いとなった。朝廷の議論では和親を結ぼうとし、そこで峙を使者として派遣した。峙は体躯が魁偉で、弁舌に優れていた。蠕蠕の君主は彼を信頼し重んじ、これ以後は再び寇掠しなくなった。太祖(宇文泰)は峙に言った、「昔、魏絳が戎と和したことは、前史に称えられている。卿をこれに比べれば、彼も恥じ入るであろう」。高邑県公に封ぜられ、封邑八百戸を賜った。驃騎将軍・岐州刺史に転じ、散騎常侍さんきじょうじを加えられ、封邑二百戸を増やされ、開府儀同三司となった。恭帝元年、侍中として召された。

原文 時與東魏爭衡,戎馬不息,蠕蠕乘虛,屢為邊患。朝議欲結和親,乃使峙往。峙狀貌魁梧,善於辭令。蠕蠕主雅信重之,自是不復為寇。太祖謂峙曰:「昔魏絳和戎,見稱前史。以君方之,彼有愧色。」封高邑縣公,邑八百戶。遷驃騎將軍、岐州刺史,加散騎常侍,增邑二百戶,開府儀同三司。恭帝元年,徵拜侍中。

蠕蠕が滅亡した後、突厥が強盛となり、文帝(宇文泰)とは通好していたが、外では斉(北斉)と結んでいた。太祖はまた峙に命じてこれを諭させた。突厥は感得して悟り、ただちに斉の使者を捕らえ、京師に送り届けた。前後の功績を合わせて、大将軍・安豊郡公に任じ、封邑は以前と合わせて二千戸となった。まもなく小司空しくうに任ぜられた。

原文 蠕蠕滅後,突厥強盛,雖與文帝通好,而外連齊氏。太祖又令峙銜命喻之。突厥感悟,即執齊使,歸諸京師。錄前後功,拜大將軍、安豐郡公,邑通前二千戶。尋除小司空。

孝閔帝が即位すると、小司寇に転じた。世宗(明帝)の初め、都督ととく益潼等三十一州諸軍事・益州刺史となった。峙の性格は寛大で温和、清静を尊び、夷獠(異民族)たちに大いに安んじられた。保定四年、宜州刺史に任ぜられた。天和三年、少師として朝廷に入った。峙は年老いたことを理由に、致仕を願い出て、手詔によって許された。五年、死去した。同州刺史を追贈され、諡は定といった。

原文 孝閔踐阼,轉小司寇。世宗初,為都督益潼等三十一州諸軍事、益州刺史。峙性寬和,尚清靜,甚為夷獠所安。保定四年,除〈(宣)〉〔宜〕州刺史。天和三年,入為少師。峙以年老,表乞骸骨,手詔許之。五年,卒。贈同州刺史。諡曰定。

子の嶷が後を嗣いだ。若くして名を知られ、吏部上士より起家した。小内史・小納言を歴任し、開府の階位を授かり、職方中大夫に転じ、蔡州刺史となった。官のまま死去した。子の授が後を嗣いだ。

原文 子嶷嗣。少知名,起家吏部上士。歷小內史、小納言,授開府階,遷職方中大夫,為蔡州刺史。卒於官。子授嗣。

楊荐

原文 楊荐

楊荐、字は承略、秦郡寧夷の人である。父の宝は昌平郡守であった。荐は幼くして孤となり、早くから名声があった。性格は廉潔で謹厳、喜怒を顔色に表さなかった。魏の永安年間、爾朱天光に従って関中に入り、群賊を討ち、高邑県男に封ぜられた。文帝(宇文泰)が夏州に臨むと、帳内都督に補された。侯莫陳悦を平定した後、荐を使者として洛陽らくように派遣し、事を請わせた。魏の孝武帝は文帝に関西大行臺を授け、さらに荐を直閤将軍に任じた。当時、馮翊長公主が寡居しており、孝武帝は彼女を文帝に嫁がせようと考え、武衞えいの元毘に命じてその旨を伝えさせた。荐は帰って報告し、文帝はまた荐を洛陽に派遣してこれを請わせた。孝武帝はただちにこれを許した。孝武帝が関中に向かおうとすると、荐はその計画を支持した。孝武帝は言った、「卿は帰って行臺(宇文泰)に朕を迎えよと伝えよ」。文帝はまた荐と長史の宇文測を派遣して関を出て迎えさせた。孝武帝が長安ちょうあんに到着すると、爵位を進めて清水県子とした。

原文 楊荐字承略,秦郡寧夷人也。父寶,昌平郡守。荐幼孤,早有名譽。性廉謹,喜怒不形於色。魏永安中,隨爾朱天光入關討羣賊,封高邑縣男。文帝臨夏州,補帳內都督。及平侯莫陳悅,使荐入洛陽請事。魏孝武帝授文帝關西大行臺,仍除荐直閤將軍。時馮翊長公主嫠居,孝武意欲歸諸文帝,乃令武衞元毘喻旨。荐歸白,文帝又遣荐入洛陽請之。孝武即許焉。孝武欲向關中,荐贊成其計。孝武曰:「卿歸語行臺迎我。」文帝又遣荐與長史宇文測出關候接。孝武至長安,進爵清水縣子。

魏の大統元年、蠕蠕が和親を請うた。文帝は荐と楊寛を使者として派遣し、婚姻を結んで帰還した。爵位を侯に進めた。また荐をして蠕蠕に幣帛を納めさせた。魏の文帝(元宝炬)の郁久閭后が崩じると、文帝は僕射の趙善を使者として蠕蠕に派遣し、改めて婚姻を請わせた。善が夏州に至った時、蠕蠕が東魏に二心を抱き、使者を捕らえようとしていると聞き、善は恐れて帰還した。文帝はそこで荐を派遣し、黄金十斤、雑綵三百匹を賜った。荐が蠕蠕に至ると、その恩に背き約束を破ったことを責め、併せて婚姻の意を論じた。蠕蠕は感得して悟り、使者を遣わして荐に随わせて返答させた。

原文 魏大統元年,蠕蠕請和親。文帝遣荐與楊寬使,并結婚而還。進爵為侯。又使荐納幣於蠕蠕。魏文帝郁久閭后崩,文帝遣僕射趙善使蠕蠕更請婚。善至夏州,聞蠕蠕貳於東魏,欲執使者。善懼,乃還。文帝乃使荐往,賜黃金十斤、雜綵三百疋。荐至蠕蠕,責其背惠食言,并論結婚之意。蠕蠕感悟,乃遣使隨荐報命焉。

侯景が帰順して来た時、文帝は荐に命じてこれを鎮撫させた。荐は景が反覆することを知り、ただちに帰還を求め、事実を詳細に陳述した。文帝は使者を遣わし、密かに景を援助する兵を追い返させた。まもなくして景は叛いた。

原文 及侯景來附,文帝令荐與鎮遏。荐知景飜覆,遂求還,具陳事實。文帝乃遣使密追助景之兵。尋而景叛。

十六年、大軍が東討した。文帝は蠕蠕が虚に乗じて寇掠することを恐れ、荐を派遣して改めて和好を論じさせ、これを慰撫した。使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、侍中を加えられた。

原文 十六年,大軍東討。文帝恐蠕蠕乘虛寇掠,乃遣荐往更論和好,以安慰之。進使持節、驃騎大將軍、開府儀同三司,加侍中。

孝閔帝が即位すると、御伯大夫に任ぜられ、爵位を姚谷県公に進めた。引き続き突厥に使いして婚姻を結ばせた。突厥の可汗の弟である地頭可汗阿史那庫頭が東面に居り、斉(北斉)と通好し、その兄(木汗可汗)を説いて先の約束を破らせようとした。計略は既に定まり、荐らを斉に送り届けようとした。荐はその意を知り、厳しい顔色でこれを責め、言葉と気概は慷慨として、涙が流れた。可汗はしばらく悲しげに考えて言った、「疑うことはない。共に東賊(北斉)を平定し、その後で我が娘を発遣しよう」。そこで荐に先に帰って報告させ、併せて東討を請うた。使者としての任務が上意に適ったため、大将軍に転じた。保定四年、また突厥に幣帛を納めた。帰還後、小司馬を代行し、さらに大司徒しとを代行した。陳公の宇文純らに従って突厥に赴き、公主を迎え、爵位を南安郡公に進めた。天和三年、総管・梁州刺史に転じた。後に病気で死去した。

原文 孝閔帝踐阼,除御伯大夫,進爵姚谷縣公。仍使突厥結婚。突厥可汗弟地頭可汗阿史那庫頭居東面,與齊通和,說其兄欲背先約。計謀已定,將以荐等送齊。荐知其意,乃正色責之,辭氣慷慨,涕泗橫流。可汗慘然良久曰:「幸無所疑,當共平東賊,然後發遣我女。」乃令荐先報命,仍請東討。以奉使稱旨,遷大將軍。保定四年,又納幣於突厥。還,行小司馬,又行大司徒。從陳公純等逆女於突厥,進爵南安郡公。天和三年,遷總管、梁州刺史。後以疾卒。

趙剛

原文 趙剛

趙剛、字は僧慶、河南洛陽の人である。曾祖父の蔚は魏の幷州刺史、祖父の寧は高平太守、父の和は太平年間に陵江将軍となり、南征して淮を渡ったが、父の喪に服すため、ただちに帰還した。担当官は法に照らして処罰しようとしたが、和は言った、「尽きることのない恩は、天を終えても報いることはできない。もし葬儀を許し、礼が終わってから罪に伏して誅されるならば、死んでも恨みはない」。言い終わると号泣し、その悲しみは傍らにいる者を感動させた。主司がこれを上聞し、ついに許した。喪が終わると、寧遠将軍に任ぜられた。大統初年、右将軍・膠州刺史を追贈された。

原文 趙剛字僧慶,河南洛陽人也。曾祖蔚,魏幷州刺史。祖寧,高平太守。父和,太平中,陵江將軍,南討度淮,聞父喪,輒還。所司將致之於法,和曰:「罔極之恩,終天莫報。若許安厝,禮畢而即罪戮,死且無恨。」言訖號慟,悲感傍人。主司以聞,遂宥之。喪畢,除寧遠將軍。大統初,追贈右將軍、膠州刺史。

王剛は若くして機知に富み弁舌に優れ、才幹と能力を備えていた。初めて官に就いて奉朝請となった。累進して鎮東将軍・銀青光禄大夫となり、大行台郎中・征東将軍を歴任し、金紫の階位を加えられ、司徒府從事中郎を領し、閤内都督を加えられた。

原文 剛少機辯,有幹能。起家奉朝請。累遷鎮東將軍、銀青光祿大夫,歷大行臺郎中、征東將軍,加金紫階,領司徒府從事中郎,加閤內都督。及魏孝武與齊神武搆隙,剛密奉旨召東荊州刺史馮景昭率兵赴闕。未及發,而神武已逼洛陽,孝武西遷。景昭集府僚文武,議其去就。司馬馮道和請據州待北方處分。剛曰:「公宜勒兵赴行在所。」久之更無言者。剛抽刀投地曰:「公若為忠臣,可斬道和;如欲從賊,可見殺。」景昭感悟,遂率眾赴關右。屬侯景逼穰城,東荊州人楊祖歡等起兵應景,以其眾邀景昭於路。景昭戰敗,剛遂沒於蠻。後自贖免。乃見東魏東荊州刺史李魔憐,勸令歸關西。魔憐納之,使剛至幷州密觀事勢。神武引剛內宴,因令剛齎書申勅荊州。剛還報魔憐,仍說魔憐斬祖歡等,以州歸西。魔憐乃使剛入朝。

大統初年、王剛は霸は上において太祖(宇文泰)に謁見し、関東の実情を詳細に奏上した。太祖はこれを嘉し、陽邑県子に封じられ、封邑三百戸を与えられ、車騎将軍・左光禄大夫に任じられた。

原文 大統初,剛於霸上見太祖,具陳關東情實。太祖嘉之,封陽邑縣子,邑三百戶,除車騎將軍、左光祿大夫。論復東荊州功,進爵臨汝縣伯,邑五百戶。

初め、賀抜勝と獨孤信は孝武帝が西遷した後、共に江南に流寓していた。この時、王剛は魏の文帝(元宝炬)に上言し、彼らを追いかけて呼び戻すよう請うた。

原文 初,賀拔勝、獨孤信以孝武西遷之後,並流寓江左。至是剛言於魏文帝,請追而復之。乃以剛為兼給事黃門侍郎,使梁魏興,齎移書與其梁州刺史杜懷寶等論隣好,并致請勝等移書。寶即與剛盟歃,受移赴建康,仍遣行人隨剛報命。是年,又詔剛使三荊,聽在所便宜從事。使還,稱旨,進爵武城縣侯,除大丞相府帳內都督。復使魏興,重申前命。尋而梁人禮送賀拔勝、獨孤信等。

ほどなく、御史中尉の董紹が策を進言し、梁の漢中を攻め取るよう請うた。董紹を行台・梁州刺史とし、兵馬を率いて漢中に向かわせた。王剛は不可であると考えたが、朝廷の議論は既に決しており、遂に出軍した。

原文 頃之,御史中尉董紹進策,請圖梁漢。以紹為行臺、梁州刺史,率士馬向漢中。剛以為不可,而朝議已決,遂出軍。詔竟無功而還,免為庶人。除剛潁川郡守,加通直散騎常侍、衞大將軍。

弘農奪還に従軍した。大都督・東道軍司に進み、開府李延孫ら七軍を節度し、陽城を攻め落とし、太守の王智納を生け捕りにした。陳留郡守に転じた。

原文 從復弘農。進拜大都督、東道軍司,節度開府李延孫等七軍,攻復陽城,擒太守王智納。轉陳留郡守。東魏行臺吉寧率眾三萬攻陷郡城,剛突出,還保潁川,重行郡事。復為侯景所破,乃率餘眾赴洛陽。大行臺元海遣剛還郡徵糧。時景眾已入潁川,剛於西界招復陽翟二萬戶,轉輸送洛。明年,洛陽不守。剛遠隔敵中,連戰破東魏廣州刺史李仲偘。時侯景別帥陸太、潁川郡守高沖等眾八千人,寇襄城等五郡。剛簡步騎五百,大破沖等。開府李延孫為長史楊伯簡所害,剛擊斬之。又攻拔廣州,進軍陽翟。侯景自鄴入魯陽,與剛接戰。旬有三日,旋軍宜陽。時河南城邑,一彼一此。剛復出軍伊、洛,侯景亦度河築城。剛前後下景三郡,獲郡守一人,別破其行臺梅遷,斬首千餘級。除尚書金部郎中。高仲密以北豫州來附,兼大行臺左丞,持節赴潁川節度義軍。師還,剛別破侯景前驅於南陸,復獲其郡守二人。

当時、王剛が東に叛くという流言が伝わり、斉の神武帝(高歓)はこれに乗じて反間の計を設け、声をあげて迎えに遣わすと称した。王剛は騎兵を率いてその下塢を襲撃し、これを陥落させ、露布を掲げて状況を報告した。

原文 時有流言傳剛東叛,齊神武因設反間,聲遣迎接。剛乃率騎襲其下塢,拔之,露板言狀。太祖知剛無貳,乃加賞賚焉。除營州刺史,進爵為公,增邑二百戶,加大都督、車騎大將軍、儀同三司、散騎常侍。

渭州の民である鄭五醜が叛乱を起こし、叛羌の傍乞鉄怱と呼応したため、王剛を派遣してこれを鎮撫させた。出発に際し、魏の文帝は内寝に引見し、杯を挙げて王剛に勧めて言った、「昔、侯景が東方にいた時、卿によって窮地に陥られた。狡猾な羌の小輩ごときが、どうして卿の謀慮を煩わせる労があろうか」。

原文 〈(漕)〉〔渭〕州民鄭五醜構逆,與叛羌傍乞鐵怱相應,令剛往鎮之。將發,魏文帝引見內寢,舉觴屬剛曰:「昔侯景在東,為卿所困。黠羌小豎,豈足勞卿謀慮也。」時五醜已剋定夷鎮,所在立柵。剛至,竝攻破之,散其黨與。五醜於是西奔鐵怱。剛又進破鐵怱偽廣寧郡。屬宇文貴等西討,詔以剛行渭州事,資給糧餼。鐵怱平,所獲羌卒千人,配剛軍中,教以戎旅,皆盡其力用。加驃騎大將軍、開府儀同三司,入為光祿卿。六官建,拜膳部中大夫。

孝閔帝が即位すると、浮陽郡公に爵位を進められた。利州総管・利沙方渠四州諸軍事として出向した。沙州の氐が険阻を恃んで命令に背いたため、王剛は再び討伐してこれを服従させた。

原文 孝閔帝踐阼,進爵浮陽郡公。出為利州總管、利沙方渠四州諸軍事。沙州氐恃險逆命,剛再討服之。方州生獠自此始從賦役。剛以偽信州濱江負阻,遠連殊俗,蠻左強獷,歷世不賓,乃表請討之。詔剛率利沙等十四州兵,兼督儀同十人、馬步一萬往經略焉。仍加授渠州刺史。剛初至,渠帥憚其軍威,相次降款。後以剛師出踰年,士卒疲弊,尋復亡叛。後遂以無功而還。又與所部儀同尹才失和,被徵赴闕。遇疾,卒於路。年五十七。贈〈(忠)〉〔中〕淅涿三州刺史。諡曰成。子元卿嗣。

王慶

原文 王慶

王慶は字を興慶といい、太原郡祁県の人である。父の王因は、魏の霊州刺史・懐徳県公であった。

原文 王慶字興慶,太原祁人也。父因,魏靈州刺史、懷德縣公。

王慶は若くして聡明で悟りが早く、才略があった。初め文帝(宇文泰)に従って征伐し、弘農を奪還し、沙苑で破り、共に戦功があり、常に殊勲の賞賜を受けた。

原文 慶少開悟,有才略。初從文帝征伐,復弘農,破沙苑,竝有戰功,每獲殊賞。大統十年,授殿中將軍。孝閔帝踐阼,晉公護引為典籤。慶樞機明辨,漸見親待。授大都督。武成元年,以前後功,賜爵始安縣男。二年,行小賓部。保定二年,使吐谷渾,與共分疆,仍論和好之事,渾主悅服,遣所親隨慶貢獻。

初め、突厥は周と和親し、娘を皇后として迎えることを約束した。しかし斉人がこれを知り、合従の勢いが成立することを恐れ、また使者を遣わして求婚し、財貨の贈り物は甚だ厚かった。

原文 初,突厥與周和親,許納女為后。而齊人知之,懼成合從之勢,亦遣使求婚,財饋甚厚。突厥貪其重賂,便許之。朝議以魏氏昔與蠕蠕結婚,遂為齊人離貳。今者復恐改變,欲遣使結之。遂授慶左武伯,副楊荐為使。是歲,遂興入并之役。慶乃引突厥騎,與隨公楊忠至太原而還。以齊人許送皇姑及世母,朝廷遂與通和。突厥聞之,復致疑阻,於是又遣慶往喻之。可汗感悅,結好如初。五年,復與宇文貴使突厥逆女。自此,以慶信著北蕃,頻歲出使。

その後また突厥に至り、時にその可汗が急死した。突厥は慶に言うには、「前後使節が来て、我が国の喪に遭う者は、皆顔に傷をつけて哀悼を示す。況んや今二国は和親している。どうしてこの事を行わずにいられようか」と。慶は強く抗弁して従わず、突厥はその正義を守るのを見て、ついに敢えて強要しなかった。武帝はこれを聞いて賞賛した。慶の前後の使節としての功績を記録し、開府儀同三司・兵部大夫に昇進し、爵位を公に進めた。

原文 後更至突厥,屬其可汗暴殂,突厥謂慶曰:「前後使來,逢我國喪者,皆𠢐面表哀。況今二國和親,豈得不行此事。」慶抗辭不從,突厥見其守正,卒不敢逼。武帝聞而嘉之。錄慶前後使功,遷開府儀同三司、兵部大夫,進爵為公。

丹州・中州の二州刺史を歴任した。政治は厳粛で、役人たちは欺くことができなかった。大象元年、小司徒を授かり、上大将軍・汾石二州五鎮諸軍事総管・汾州刺史を加えられた。また延州総管に任じられ、位は柱国に進んだ。開皇元年、爵位は平昌郡公に進んだ。任地で死去した。上柱国を追贈され、諡は莊といった。子の淹が後を嗣いだ。

原文 歷丹、中二州刺史。為政嚴肅,吏不敢欺。大象元年,授小司徒,加上大將軍、總管汾石二州五鎮諸軍事、汾州刺史。又除延州總管,進位柱國。開皇元年,進爵平昌郡公。卒于鎮。贈上柱國,諡曰莊。子淹嗣。

趙昶

原文 趙昶

趙昶は字を長舒といい、天水郡南安県の人である。曾祖父の襄は魏に仕えて中山郡守に至り、代に住居を定めた。祖父の泓は広武県令であった。父の琛は上洛郡守であった。

原文 趙昶字長舒,天水南安人也。曾祖襄,仕魏至中山郡守,因家於代。祖泓,廣武令。父琛,上洛郡守。

昶は幼少より聡明で、志操があった。弱冠にして、才力をもって知られた。孝昌年間、初めて官に就き都督に任じられ、小平津を鎮守した。魏の北中郎将高千は彼を大いに敬重した。千が兗州刺史となると、昶を行臨渙・北梁二郡事とした。大統初年、千が陝に帰還して鎮守すると、また昶を長史・中軍都督とした。太祖が弘農を平定すると、抜擢して相府典籤とした。

原文 昶少聰敏,有志節。弱冠,以材力聞。孝昌中,起家拜都督,鎮小平津。魏北中郎將高千甚敬重之。千牧兗州,以昶行臨渙、北梁二郡事。大統初,千還鎮陝,又以昶為長史、中軍都督。太祖平弘農,擢為相府典籤。

大統九年、大軍が邙山で敗北すると、清水の氐族の酋長李鼠仁が軍中から逃げ帰り、険阻な地に拠って乱を起こした。隴右大都督獨孤信は頻りに軍を派遣してこれを攻撃したが、勝利できなかった。太祖がこれを討伐しようとし、まず先に派遣してその情勢を観察させようとした。誰が適任かと側近に問うたが、左右誰も答えなかった。昶が言うには、「これは小者に過ぎません。公の威光をもってすれば、誰が命令に従わないことがありましょうか」と。太祖はその言葉に勇気づけられ、遂に昶を使者として派遣した。昶は鼠仁に会い、禍福を説いて諭した。賊徒らは集まって議論し、従う者もいれば否む者もいた。命令に逆らう者の中には、さらに昶に刃を向けようとする者もいた。しかし昶は神色自若として、志気はますます奮い立った。鼠仁は感じ入って悟り、遂に相率いて降伏した。氐族の梁道顯が反乱し、南由を攻撃した。太祖はまた昶を派遣して慰撫諭告させると、道顯らは皆すぐに帰順した。東秦州刺史魏光がその豪族の首長四十余人と部落を華州に移住させると、太祖は即座に昶を都督としてこれを統率させた。

原文 大統九年,大軍失律於邙山,清水氐酋李鼠仁自軍逃還,憑險作亂。隴右大都督獨孤信頻遣軍擊之,不克。太祖將討之,欲先遣觀其勢。顧問誰可為。左右莫對。昶曰:「此小豎爾,以公威,孰不聽命。」太祖壯之,遂令昶使焉。昶見鼠仁,喻以禍福。羣凶聚議,或從或否。其逆命者,復將加刃於昶。而昶神色自若,志氣彌厲。鼠仁感悟,遂相率降。氐梁道顯叛,攻南由。太祖復遣昶慰諭之,道顯等皆即款附。東秦州刺史魏光因徙其豪帥四十餘人并部落於華州,太祖即以昶為都督領之。

先に、汾州の胡が反乱した際、再び昶を派遣して慰労させ、その虚実を全て知っていた。大軍が討伐に向かうと、昶は先鋒となり、遂にこれを撃破した。功績により章武県伯に封じられ、邑五百戸を賜った。

原文 先是,汾州胡叛,再遣昶慰勞之,皆知其虛實。及大軍往討,昶為先驅,遂破之。以功封章武縣伯,邑五百戶。

十五年、安夷郡守に任じられ、長虵鎮将を兼ねた。氐族は荒々しく獰猛で、世に治め難いと称されていたが、昶は威厳と懐柔をもって礼遇し、誰もが喜んで服従した。一年後、喜んで軍に従おうとする者が千余人に及んだ。帥都督を加授された。時に軍機に属する徴発が厳しく急を要したため、氐族の心情はこれに耐え難く、再び相率いて謀反を企てた。昶はまた密かに人を遣わして誘い説き、その結束を離間し、その分裂に乗じて、軽装で赴いて臨んだ。氐族の群衆はどうすべきか分からず、皆昶のもとに来て会った。そこで首謀者二十余人を捕らえて斬り、残りの者たちは遂に平定した。朝廷はこれを賞賛し、大都督に任じ、行南秦州事とした。時に氐族の首長蓋鬧らが反乱したので、昶はまたこれを討伐して捕らえた。撫軍将軍に進み、通直散騎常侍を加えられ、また史寧と共に宕昌の羌・獠二十余万を撃破した。武州刺史・車騎大将軍・儀同三司・諸州軍事に任じられた。

原文 十五年,拜安夷郡守,帶長虵鎮將。氐族荒獷,世號難治,昶威懷以禮,莫不悅服。期歲之後,樂從軍者千餘人。加授帥都督。時屬軍機,科發切急,氐情難之,復相率謀叛。昶又潛遣誘說,離間其情,因其攜貳,遂輕往臨之。羣氐不知所為,咸來見昶。乃收其首逆者二十餘人斬之,餘眾遂定。朝廷嘉之,除大都督,行南秦州事。時氐帥蓋鬧等反,昶復討擒之。進撫軍將軍,加通直散騎常侍,又與史寧破宕昌羌、獠二十餘萬。拜武州刺史、車騎大將軍、儀同三司、諸州軍事。

魏の恭帝の初年、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられた。潭水の羌が反乱し、武陵・潭水の二郡守を殺害した。昶は儀同駱天义らを率い、騎兵・歩兵五千でこれを討伐平定した。

原文 魏恭帝初,加驃騎大將軍、開府儀同三司。潭水羌叛,殺武陵、潭水二郡守。昶率儀同駱天义等騎步五千討平之。

世宗の初年、鳳州の者仇周貢・魏興らが反乱し、周公と自称し、八千人の兵を擁した。広化郡を陥落させ、諸県を攻め落とし、兵を分けて西進し、広業・修城の二郡を包囲した。広業郡守薛爽・修城郡守杜杲らが昶に援軍を求めた。昶は使者を派遣して杜杲に返答したが、周貢の一味の樊伏興らに捕らえられた。興らは昶が来ると知り、修城の包囲を解き、泥功嶺に拠り、六つの伏兵を設けて昶を待ち受けた。昶が到着すると、その伏兵に遭遇し、合戦してこれを撃破した。広業の包囲も解けた。昶はこれを追撃して泥陽川に至り、引き返した。興州の者段吒及び氐族の首長姜多がまた反乱し、郡県を陥落させたので、昶はこれを討伐して斬った。詳細は氐伝にある。

原文 世宗初,鳳州人仇周貢、魏興等反,自號周公,有眾八千人。破廣化郡,攻沒諸縣,分兵西入,圍廣業、修城二郡。廣業郡守薛爽、修城郡守杜杲等請昶為援。昶遣使報杲,為周貢黨樊伏興等所獲。興等知昶將至,解修城圍,據泥功嶺,設六伏以待昶。昶至,遂遇其伏,合戰,破之。廣業之圍亦解。昶追之至泥陽川而還。興州人段吒及氐酋姜多復反,攻沒郡縣,昶討斬之。語在氐傳。

昶は自らが抜擢されて将帥の任に就いたことを思い、心を尽くして士を敬った。捕虜にした氐・羌を慰撫して使役すると、皆昶のために力を尽くした。太祖は常に言った、「国家の兵馬を煩わせずして氐・羌を威圧して服従させられる者は、趙昶がいる」と。この時、世宗は前後の功績を記録し、爵位を長道郡公に進め、宇文の姓を賜い、賞賜と労いは非常に厚かった。二年、賓部中大夫に任じられ、吏部を代行した。まもなく病気で死去した。

原文 昶自以被拔擢居將帥之任,傾心下士。虜獲氐、羌,撫而使之,皆為昶盡力。太祖常曰:「不煩國家士馬而能威服氐、羌者,趙昶有之矣。」至是,世宗錄前後功,進爵長道郡公,賜姓宇文氏,賞勞甚厚。二年,徵拜賓部中大夫,行吏部。尋以疾卒。

王悦

原文 王悅

王悦は字を衆喜といい、京兆郡藍田県の人である。若い頃から気概と才幹があり、郷里で称賛された。魏の永安年間、爾朱天光が西征する際、悦をその府の騎兵参軍に引き入れ、石安県令に任じた。

原文 王悅字眾喜,京兆藍田人也。少有氣幹,為州里所稱。魏永安中,爾朱天光西討,引悅為其府騎兵參軍,除石安令。

太祖が関中・隴右を平定し始めると、悦は郷里の者を募集して従軍し、幾度も戦功を挙げた。大統元年、平東将軍・相府刑獄参軍に任じられ、藍田県伯に封じられ、邑六百戸を賜った。四年、東魏の将軍侯景が洛陽を包囲攻撃したので、太祖は救援に向かった。悦はまた郷里の者千余人を率い、従軍して洛陽に至った。戦いの前夜、悦は自分の旅費を全て使い、牛を買って戦士たちに振る舞った。戦いが始まると、悦の配下は力を尽くし、斬り取った敵の首や捕虜が最も多かった。六年、通直散騎常侍を加えられ、大行臺右丞に昇進した。十年、左丞に転じた。長く管轄の任にあり、当時の評判を大いに得た。十二年、斉の神武帝(高歓)が自ら諸軍を率いて玉壁を包囲したが、大都督韋孝寬が数十日間防戦し、敵はようやく退却した。朝廷は韋孝寬の功績が大きいとして、尚書長孫紹遠を大使とし、悦を副使として、韋孝寬らを慰労し、併せて功績者の査定を行わせた。

原文 太祖初定關、隴,悅率募鄉里從軍,屢有戰功。大統元年,除平東將軍、相府刑獄參軍,封藍田縣伯,邑六百戶。四年,東魏將侯景攻圍洛陽,太祖赴援。悅又率鄉里千餘人,從軍至洛陽。將戰之夕,悅磬其行資,市牛饗戰士。乃戰,悅所部盡力,斬獲居多。六年,加通直散騎常侍,遷大行臺右丞。十年,轉左丞。久居管轄,頗獲時譽。十二年,齊神武親率諸軍圍玉壁,大都督韋孝寬拒守累旬,敵方引退。朝廷以寬勳重,遣尚書長孫紹遠為大使,悅為副使,勞問寬等,并校定勳人。

十三年、侯景が河南を占拠して帰順し、引き続き援軍を請うた。太祖はまず韋法保・賀蘭願徳らを派遣して兵を率いさせてこれを助けさせた。悦は太祖に言上した、「侯景と高歓との関係は、初めは郷党の情誼に篤く、後に君臣の契りを結び、上将の位にあり、台司の職は重く、その分義を論ずれば、魚と水のようでした。今、歓が死ぬや、景はすぐに離反しました。君臣の道が損なわれ、忠義の礼が足りないことを知らないはずがありません。おそらくその図るところが大きく、小さな嫌疑は顧みないのでしょう。しかしそれでも尚、高氏に背いて徳を忘れることができたのです。どうして朝廷に節を尽くすことがありましょうか。今もし勢いを加え、兵で援ければ、侯景が池中の物(平凡な存在)でなくなるばかりか、朝廷も将来の笑いものとなることを恐れます」と。太祖はこれを容れ、行臺郎中趙士憲を派遣して韋法保らを追い返させたが、侯景はまもなく反乱した。

原文 十三年,侯景據河南來附,仍請兵為援。太祖先遣韋法保、賀蘭願德等帥眾助之。悅言於太祖曰:「侯景之於高歡,始則篤鄉黨之情,末乃定君臣之契,位居上將,職重台司,論其分義,有同魚水。今歡始死,景便離貳。豈不知君臣之道有虧,忠義之禮不足?蓋其所圖既大,不卹小嫌。然尚能背德於高氏,豈肯盡節於朝廷。今若益之以勢,援之以兵,非唯侯景不為池中之物,亦恐朝廷貽笑將來也。」太祖納之,乃遣行臺郎中趙士憲追法保等,而景尋叛。

十四年、雍州大中正・帥都督を授かり、衛将軍・右光禄大夫・都督を加えられる。配下の兵を率いて大将軍楊忠に従い随郡・安陸を征討し、ともにこれを平定す。時に孤軍深入すれども、悦は行程を計算し、その部隊を統制し、食糧を節減す。竟陵に至るや、諸軍多くは欠乏すれども、悦は稟米六百石を出して分け与う。太祖これを聞きて賞賛す。まもなく京兆郡守を拝し、使持節・車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍を加えられ、大行台尚書に遷る。

原文 十四年,授雍州大中正、帥都督,加衞將軍、右光祿大夫、都督。率所部兵從大將軍楊忠征隨郡、安陸,竝平之。時懸兵深入,悅支度路程,勒其部伍,節減糧食。及至竟陵,諸軍多有匱乏,悅出稟米六百石分給之。太祖聞而嘉焉。尋拜京兆郡守,加使持節、車騎大將軍、儀同三司、散騎常侍,遷大行臺尚書。

また配下の兵を率いて達奚武に従い梁漢を征す。軍が出でしとき、武は悦に命じてその城主楊賢を説かしむ。悦すなわちこれに書を贈りて曰く、「夫れ惟だ徳を輔くるは、天道の常なり。機を見て作すは、人事の会なり。梁主は内に刑政を損ない、外に藩籬を欠く。匹夫袂を攘げば、挙国傾覆す。ただに下民の心離るるのみならず、また上玄の棄つる所なり。我が相公は千歳の運を受け、三分の業を創め、道は区中に洽く、威は方外に振るう。声教の被る所は、風行きて草偃がごとく、兵車の指す所は、雲除きて霧廓がごとし。これ固より天下の共に聞く所にして、二談を俟つまでもなし。大将軍高陽公は、韜略の秘を蘊め、熊羆の旅を総べ、廟堂に脤を受け、巴漢を威懐す。先に附く者は必ず賞し、後に服する者は必ず誅す。君が兵糧既に寡なく、救援の路絶ゆ。守らんと欲すれば、則ち城池に縈帯の険無く、戦わんと欲すれば、則ち士卒に土崩の勢あり。これをもって安きを求めんも、未だ其の可なるを見ず。昔、韓信かんしんは項に背き、前典は以て美談と為し、黄権は魏に帰り、良史は其の盛烈を称す。事に変通有り、今其の則りなり」と。賢ここに於いて遂に降る。

原文 又領所部兵從達奚武征梁漢。軍出,武令悅說其城主楊賢。悅乃貽之書曰:「夫惟德是輔,天道之常也;見機而作,人事之會也。梁主內虧刑政,外闕藩籬。匹夫攘袂,舉國傾覆。非直下民離心,抑亦上玄所棄。我相公膺千齡之運,創三分之業,道洽區中,威振方外。聲教所被,風行草偃;兵車所指,雲除霧廓。斯固天下所共聞,無俟二談也。大將軍高陽公,韞韜略之祕,總熊羆之旅,受脤廟堂,威懷巴漢。先附者必賞,後服者必誅。君兵糧既寡,救援路絕。欲守,則城池無縈帶之險;欲戰,則士卒有土崩之勢。以此求安,未見其可。昔韓信背項,前典以為美談;黃權歸魏,良史稱其盛烈。事有變通,今其則也。」賢於是遂降。

悦、武に白して曰く、「白馬は要衝にして、是れ必争の地なり。今城守寡弱にして、図り易し。若し蜀しょく兵更に至らば、これを攻むること実に難し」と。武然りとし、悦に軽騎七百を率い、径ちに白馬に向かわしむ。悦先ず其の禍福を示すと、其の将梁深遂に城を以て降る。梁の武陵王紀果たして其の将任奇に歩騎六千を率いさせ、先ず白馬を占めんと欲す。行きて闕城に次ぎ、既に降れるを聞きて、乃ち還る。梁州平定するに及び、太祖すなわち悦を行刺史事と為す。初附の者を招き携え、民吏これを安んず。

原文 悅白武云:「白馬要衝,是必爭之地。今城守寡弱,易可圖也。若蜀兵更至,攻之實難。」武然之,令悅率輕騎七百,徑趣白馬。悅先示其禍福,其將梁深遂以城降。梁武陵王紀果遣其將任奇率步騎六千,欲先據白馬。行次闕城,聞已降,乃還。及梁州平,太祖即以悅行刺史事。招攜初附,民吏安之。

魏の廃帝二年、本任に徴還さる。行台を中外府に改むるに属し、尚書の員廃せられ、儀同として兵を領いて郷里に還る。悦既に久しく顕職に居り、此れに及びて還るや、私懐怏怏たり。なお郷里を陵駕し、宗党の情を失う。其の長子康、悦の旧望を恃み、遂に自ら驕縦す。配下の軍人に婚礼有らんとすれども、康乃ち非理に凌辱す。軍人これを訴う。悦及び康ともに坐して除名せられ、仍えて遠防に配流さる。于謹の江陵を伐ち平定するに及び、悦は軍に従って効を展べ、因って留まってこれを鎮む。

原文 魏廢帝二年,徵還本任。屬改行臺為中外府,尚書員廢,以儀同領兵還鄉里。悅既久居顯職,及此之還,私懷怏怏。猶陵駕鄉里,失宗黨之情。其長子康,恃〈(悅)〉舊望,遂自驕縱。所部軍人,將有婚禮,康乃非理凌辱。軍人訴之。悅及康竝坐除名,仍配流遠防。及于謹伐江陵,平,悅從軍展効,因留鎮之。

孝閔帝践祚し、例に依り官を復す。郢州を授かる。まもなく使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・大都督・司水中大夫を拝し、藍田県侯に爵を進む。司憲中大夫に遷り、宇文氏の姓を賜い、また河北県公に爵を進む。悦は性倹約にして、生業を営まず、栄顕に出入すれども、家は徒く四壁のみ。世宗手勅を下して労勉し、粟六百石を賜う。保定元年、位にて卒す。康嗣ぐ。官は司邑下大夫に至る。

原文 孝閔踐阼,依例復官。授郢州。尋拜使持節、驃騎大將軍、開府儀同三司、大都督、司水中大夫,進爵藍田縣侯。遷司憲中大夫,賜姓宇文氏,又進爵河北縣公。悅性儉約,不營生業,雖出入榮顯,家徒四壁而已。世宗手勅勞勉之,賜粟六百石。保定元年,卒於位。康嗣。官至司邑下大夫。

趙文表

原文 趙文表

趙文表、其の先は天水西の人なり、後に徙りて南鄭に居す。累世二千石を為す。父江、性方厳にして、度量有り。東巴州刺史・計部中大夫・驃騎大将軍・開府儀同三司・御伯中大夫を歴官し、昌国県伯に封ぜらる。虞・絳二州刺史を贈られ、諡して貞と曰う。

原文 趙文表,其先天水西人也,後徙居南鄭。累世為二千石。父江,性方嚴,有度量。歷官東巴州刺史、計部中大夫、驃騎大將軍、開府儀同三司、御伯中大夫,封昌國縣伯。贈虞絳二州刺史,諡曰貞。

文表は少にして修謹、志は忠節に存す。弓馬に便にして、左右に馳射す。左氏春秋を読むを好み、大義を略挙す。太祖の親信として起家す。魏の恭帝元年、開府田弘に従い山南を征し、功により都督を授かる。また南巴州及び信州を平げるに従い、帥都督に遷る。また許国公宇文貴に従い蜀を鎮め、昌城郡事を行なう。中軍将軍・左金紫光禄大夫を加えらる。保定元年、許国公府司馬を除かれ、大都督に転ず。五年、畿伯下大夫を授かる。また許国公府長史と為る。まもなく車騎大将軍・儀同三司を拝す。

原文 文表少而修謹,志存忠節。便弓馬,能左右馳射。好讀左氏春秋,略舉大義。起家為太祖親信。魏恭帝元年,從開府田弘征山南,以功授都督。復從平南巴州及信州,遷帥都督。又從許國公宇文貴鎮蜀,行昌城郡事。加中軍將軍、左金紫光祿大夫。保定元年,除許國公府司馬,轉大都督。五年,授畿伯下大夫。又為許國公府長史。尋拜車騎大將軍、儀同三司。

なお宇文貴に従い突厥に使いし、皇后を迎え、進止の儀注は、皆文表にこれを典せしむ。文表は斟酌して行ない、皆礼度に合う。皇后将に境に入らんとするに及び、突厥は馬痩せを託して、行きて除かんとす。文表其の変を為さんことを慮り、遂に突厥の使羅莫縁を説きて曰く、「后自ら彼の藩を発ちて、已に時序を淹くし、途は沙漠を経て、人馬疲労す。且つ東寇は毎に間隙を伺い、吐谷渾も亦変を為し能う。今君は可汗の愛女を以て、上国に姻を結ぶに、曾て防慮無し、豈に人臣の体ならんや」と。莫縁然りとし、遂に道を倍して兼行し、数日にして甘州に至る。后を迎えたる功により、別に伯陽県伯に封ぜられ、邑六百戸。

原文 仍從宇文貴使突厥,迎皇后,進止儀注,皆令文表典之。文表斟酌而行,皆合禮度。及皇后將入境,突厥託以馬瘦,行除。文表慮其為變,遂說突厥使羅莫緣曰:「后自發彼藩,已淹時序,途經沙漠,人馬疲勞。且東寇每伺間隙,吐谷渾亦能為變。今君以可汗之愛女,結姻上國,曾無防慮,豈人臣之體乎。」莫緣然之,遂倍道兼行,數日至甘州。以迎后功,別封伯陽縣伯,邑六百戶。

天和三年、梁州総管府長史を除かる。管轄する地名恆陵なるもの、方数百里、ともに生獠の居る所にして、其の険固を恃み、常に不軌を懐く。文表は衆を率いて討ち平げる。蓬州刺史に遷り、政は仁恕を尚び、夷獠これを懐く。驃騎大将軍・開府儀同三司を加えらる。また大将軍に位を進め、公に爵す。

原文 天和三年,除梁州總管府長史。所管地名恆陵者,方數百里,竝生獠所居,恃其險固,常懷不軌。文表率眾討平之。遷蓬州刺史,政尚仁恕,夷獠懷之。加驃騎大將軍、開府儀同三司。又進位大將軍,爵為公。

大象中、呉州総管を拝す。時に開府于顗は呉州刺史と為る。隋の文帝執政するに及び、尉遅迥等兵を挙ぐるや、遠近騒然たり、人異望を懐く。顗は自ら族大なるを以て、且つ国家の肺腑と為るを以て、文表の己を図るを懼れ、謀りて先んぜんと欲す。乃ち疾を称して出でず。文表往きてこれを問うと、顗は遂に手ずから文表を刃す。因って吏人に告げしめて「文表謀反す」と云わしめ、仍えて馳せて其の状を啓す。隋文は諸方未だ定まらざるを以て、顗の変を為さんことを恐れ、遂に顗に呉州総管を授けて以てこれを安んず。後に文表に異志無きを知り、顗を罪せざれども、其の子仁海に爵を襲わしむ。

原文 大象中,拜吳州總管。時開府于顗為吳州刺史。及隋文帝執政,尉遲迥等舉兵,遠近騷然,人懷異望。顗自以族大,且為國家肺腑,懼文表圖己,謀欲先之。乃稱疾不出。文表往問之,顗遂手刃文表。因令吏人告云「文表謀反」,仍馳啟其狀。隋文以諸方未定,恐顗為變,遂授顗吳州總管以安之。後知文表無異志,雖不罪顗,而聽其子仁海襲爵。