周書

巻032

卷三十二 列傳第二十四 申徽 陸通 弟逞 柳敏 盧柔 唐瑾

申徽

原文 申徽

申徽は字を世儀といい、魏郡の人である。六世の祖の鐘は、後趙の司徒しととなった。冉閔の末年に、中原は喪乱し、鐘の子の邃は江左に避地した。曾祖の爽は宋に仕え、雍州刺史の位にあった。祖の隆道は、宋の北兗州刺史である。父の明仁は、郡の功曹であったが、早くに亡くなった。

原文 申徽字世儀,魏郡人也。六世祖鐘,為後趙司徒。冉閔末,中原喪亂,鐘子邃避地江左。曾祖爽仕宋,位雍州刺史。祖隆道,宋北兗州刺史。父明仁,郡功曹,早卒。

徽は幼くして母と共に暮らし、孝養を尽くした。成長すると、経史を好んだ。性質は審慎で、妄りに交遊しなかった。母の憂いに遭い、喪が終わってから、魏に帰った。元顥が洛陽らくように入ると、元邃を東徐州刺史とし、邃は徽を主簿に引き立てた。顥が敗れると、邃は檻車に載せられて洛陽に送られ、旧来の吏や賓客は皆去ったが、徽のみがこれを送った。邃が赦免されると、広く賓友を集め、徽が古人の風があると嘆賞した。まもなく太尉府行参軍に任じられた。

原文 徽少與母居,盡心孝養。及長,好經史。性審慎,不妄交遊。遭母憂,喪畢,乃歸於魏。元顥入洛,以元邃為東徐州刺史,邃引徽為主簿。顥敗,邃被檻車送洛陽,故吏賓客並委去,唯徽送之。及邃得免,乃廣集賓友,歎徽有古人風。尋除太尉府行參軍。

孝武帝の初め、徽は洛陽の兵難が未だ止まないことを理由に、間道を行って関中に入り、文帝に謁見した。文帝は彼と語り、これを奇異とし、賀拔岳に推薦した。岳もまた大いに敬待し、賓客として引き立てた。文帝が夏州に臨むと、徽を記室参軍とし、兼ねて府の主簿とした。文帝は徽が沈密で度量があることを察し、何事も信頼して委ねた。やがて大行臺郎中となった。当時は軍国の草創期で、幕府の事務は殷盛であり、四方への書檄は、全て徽の文辞であった。孝武帝を迎えた功績により、博平県子に封ぜられ、本州の大中正となった。大統初年、侯に進爵した。四年、中書舎人に任じられ、起居注を修めた。河橋の役では、大軍が不利となり、近侍の官で分散する者が多かったが、徽のみは左右を離れなかった。魏帝はこれを称嘆した。十年、給事黄門侍郎に遷った。

原文 孝武初,徽以洛陽兵難未已,遂間行入關見文帝。文帝與語,奇之,薦之於賀拔岳。岳亦雅相敬待,引為賓客。文帝臨夏州,以徽為記室參軍,兼府主簿。文帝察徽沉密有度量,每事信委之。乃為大行臺郎中。時軍國草創,幕府務殷,四方書檄,皆徽之辭也。以迎孝武功,封博平縣子,本州大中正。大統初,進爵為侯。四年,拜中書舍人,修起居注。河橋之役,大軍不利,近侍之官,分散者眾,徽獨不離左右。魏帝稱歎之。十年,遷給事黃門侍郎。

先に、東陽王元栄が瓜州刺史であった時、その女婿の劉彦が随従していた。栄が死ぬと、瓜州の首望は栄の子の康を刺史に推挙したが、彦は遂に康を殺してその位を奪った。四方多難に属し、朝廷は問罪の暇がなく、やむなく彦に刺史を授けた。頻繁に徴召しても詔に従わず、また南で吐谷渾と通じ、叛逆を図ろうとした。文帝は衆を動かすことを難しとし、権略をもってこれを招致しようとした。そこで徽を河西大使とし、密かに彦を図るよう命じた。徽は軽く五十騎を率いて行き、到着すると、賓館に止まった。彦は徽が単使であるのを見て、疑わない。徽は一人を遣わして密かに彦に帰朝を勧め、その意を探った。彦は従わない。徽はまたその留まる計略に賛成するよう仕向け、彦はこれに従い、遂に館に来た。徽は先に瓜州の豪右と密謀して彦を捕らえ、遂に叱してこれを縛った。彦は無罪を主張した。徽はこれを数えて言う、「君は尺寸の功もなく、方嶽の重きに濫り居る。遠きを恃みて背誕し、貢職を恭しくせず、使人を戮辱し、詔命を軽忽す。君の咎を計れば、実に誅するに容れざるべし。但し詔を授くる日、本来相送って帰闕せしむるを令す。恨むらくは罰を申明して辺遠に謝するを得ざるのみ。」かくて詔を宣べて吏人及び彦の所部を慰労し、また大軍が続いて至ると告げたので、城内に敢えて動く者無し。使いから還り、都官尚書に遷った。

原文 先是,東陽王元榮為瓜州刺史,其女壻劉彥隨焉。及榮死,瓜州首望表榮子康為刺史,彥遂殺康而取其位。屬四方多難,朝廷不遑問罪,因授彥刺史。頻徵不奉詔,又南通吐谷渾,將圖叛逆。文帝難於動眾,欲以權略致之。乃以徽為河西大使,密令圖彥。徽輕以五十騎行,既至,止於賓館。彥見徽單使,不以為疑。徽乃遣一人微勸彥歸朝,以揣其意。彥不從。徽又使贊成其住計,彥便從之,遂來至館。徽先與瓜州豪右密謀執彥,遂叱而縛之。彥辭無罪。徽數之曰:「君無尺寸之功,濫居方嶽之重。恃遠背誕,不恭貢職,戮辱使人,輕忽詔命。計君之咎,實不容誅。但授詔之日,本令相送歸闕,所恨不得申明罰以謝邊遠耳。」於是宣詔慰勞吏人及彥所部,復云大軍續至,城內無敢動者。使還,遷都官尚書。

十二年、瓜州刺史成慶が城人張保に殺され、都督ととく令狐延らが義兵を起こして保を追い払い、刺史を請うた。徽が西方の地に信望が厚いため、仮節・瓜州刺史に任じられた。徽は州に五年在任し、倹約をもって下を率い、辺境の民は楽しんで安んじた。十六年、尚書右僕射を兼ね、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられた。廃帝二年、公に進爵し、右僕射を正し、宇文氏の姓を賜った。

原文 十二年,瓜州刺史成慶為城人張保所殺,都督令狐延等起義逐保,啟請刺史。以徽信洽西土,拜假節、瓜州刺史。徽在州五稔,儉約率下,邊人樂而安之。十六年,徵兼尚書右僕射,加侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司。廢帝二年,進爵為公,正右僕射,賜姓宇文氏。

徽の性質は勤敏で、居官する所では、案牘の大小を問わず、全て自ら省覧した。このため事が滞ることなく、吏が姦を行うことができなかった。後に公卿を歴任しても、この志は懈らなかった。出て襄州刺史となった。当時南方は初めて帰附したばかりで、旧来の習俗として、官人は皆贈り物を通じさせていた。徽は廉慎な性質で、楊震の像を寝室に描いて自戒した。代わって還る時、人吏が送る者数十里に絶えなかった。徽は自ら人に徳が無いことを思い、慨然として愧いを懐き、清水亭に詩を賦して題した。長幼これ聞き、競って読みに来た。互いに言う、「これは申使君の手迹なり。」と。共に書き写し誦した。

原文 徽性勤敏,凡所居官,案牘無大小,皆親自省覽。以是事無稽滯,吏不得為姦。後雖歷公卿,此志不懈。出為襄州刺史。時南方初附,舊俗,官人皆通餉遺。徽性廉慎,乃畫楊震像於寢室以自戒。及代還,人吏送者數十里不絕。徽自以無德於人,慨然懷愧,因賦詩題於清水亭。長幼聞之,競來就讀。遞相謂曰:「此是申使君手迹。」並寫誦之。

明帝は御正が詔勅を総掌する職であるとして、その秩をさらに崇めて上大夫とし、員数を四人とし、大御正と号し、また徽をこれに任じた。小司空しくう・少保を歴任し、出て荊州刺史となり、入って小司徒・小宗伯となった。天和六年、上疏して骸骨を乞うた。詔してこれを許した。薨じ、泗州刺史を追贈され、諡して章といった。

原文 明帝以御正任總絲綸,更崇其秩為上大夫,員四人,號大御正,又以徽為之。歷小司空、少保,出為荊州刺史,入為小司徒、小宗伯。天和六年,上疏乞骸骨,詔許之。薨,贈泗州刺史,諡曰章。

子の康が嗣いだ。瀘州刺史、司織下大夫、上開府の位に至った。康の弟の敦は、汝南郡守となった。敦の弟の静は、斉安郡守となった。静の弟の処は、上開府・同昌県侯となった。卒した。

原文 子康嗣。位瀘州刺史,司織下大夫、上開府。康弟敦,汝南郡守。敦弟靜,齊安郡守。靜弟處,上開府、同昌縣侯。卒。

陸通

原文 陸通

陸通は字を仲明といい、吳郡の人である。曾祖の載は、宋の武帝に従って関中を平定し、軍が還ると、載はその子の義真に随従して長安ちょうあんを鎮守するよう留められ、遂に赫連氏に没した。魏の太武帝が赫連氏を平定すると、載は魏に仕えて中山郡守となった。父の政は、性質至孝であった。その母は吳の人で、魚を好んで食したが、北土には魚が少なく、政はこれを求めるのに常に苦労した。後に宅の側に突然泉が湧き出て魚がいたので、これをもって膳を供することができた。当時の人は孝の感応によるものと考え、その泉を孝魚泉と称した。初め爾朱天光に従って討伐し、天光が敗れると、文帝に帰った。文帝が行臺となると、政を行臺左丞・原州長史とし、中都県伯の爵を賜った。大統年間に卒した。

原文 陸通字仲明,吳郡人也。曾祖載,從宋武帝平關中,軍還,留載隨其子義真鎮長安,遂沒赫連氏。魏太武平赫連氏,載仕魏任中山郡守。父政,性至孝。其母吳人,好食魚,北土魚少,政求之常苦難。後宅側忽有泉出而有魚,遂得以供膳。時人以為孝感所致,因謂其泉為孝魚泉。初從爾朱天光討伐,及天光敗,歸文帝。文帝為行臺,以政為行臺左丞、原州長史,賜爵中都縣伯。大統中,卒。

通は幼少より敦敏で学問を好み、志節があった。幼くして河西に従っていた時、寇難に逢い、政とはぐれた。通は自ら抜け出して東に帰り、爾朱栄に従った。栄が死ぬと、また爾朱兆に従った。爾朱氏が滅ぶと、関中に入った。文帝が当時夏州におり、帳内督に引き立てた。まもなく、賀拔岳が侯莫陳悦に害されると、当時岳の軍府が既に亡散したという風説があり、文帝はこれを憂いたが、通はそうではないと考えた。数日後、問い合わせが届き、果たしてその策の通りであった。これよりますます親礼を受け、遂に昼夜陪侍し、家人もその顔を稀にしか見なかった。通は機密に処しながらも、ますます恭謹であり、文帝はこれをもって彼を重んじた。後に孝武帝を迎えた功績により、都昌県伯に封ぜられた。大統元年、侯に進爵した。竇泰を捕らえるのに従い、弘農を回復した。沙苑の役では、力戦して功績があった。

原文 通少敦敏好學,有志節。幼從在河西,遂逢寇難,與政相失。通乃自拔東歸,從爾朱榮。榮死,又從爾朱兆。及爾朱氏滅,乃入關。文帝時在夏州,引為帳內督。頃之,賀拔岳為侯莫陳悅所害,時有傳〈(兵)〉〔岳〕軍府已亡散者,文帝憂之,通以為不然。居數日,問至,果如所策。自是愈見親禮,遂晝夜陪侍,家人罕見其面。通雖處機密,愈自恭謹,文帝以此重之。後以迎孝武功,封都昌縣伯。大統元年,進爵為侯。從禽竇泰,復弘農。沙苑之役,力戰有功。

また洛陽の包囲を解くのに従った。軍が還る時、趙青雀が長安で反したが、文帝がこれを討とうとした時、人馬が疲弊しており、速やかに行くことができなかった。また青雀らは一時の跳梁に過ぎず、慮るに足らないとも言った。そこで言う、「我が長安に到れば、軽騎を以て臨むだけで、必ずや面縛するであろう。」と。通が進み出て言う、「青雀らは既に大軍が不利であるとして、朝廷が傾危であると思い、同悪相求めて、遂に反乱を成した。しかしその逆謀は久しく定まっており、必ずや善に遷る心は無い。且つ彼らは大軍が敗績し、東寇が将に至らんと詐言しており、もし軽騎を以て往けば、百姓はこれを信然と謂い、さらに兆庶の望みを沮喪させましょう。大兵は疲弊しているとはいえ、精鋭はなお多い。明公の威を以て、帰らんと欲する衆を率い、順を以て逆を討てば、何ぞ平らかならざるを慮らん。」と。文帝は深くこれを納れ、これに従って青雀を平定した。前後の功績を録し、公に進爵し、徐州刺史となった。寇難が未だ平らかでないため、留まって部に赴かなかった。于謹と共に劉平伏を討ち、大都督を加えられた。文帝に従って玉壁を救援し、儀同三司に進んだ。

原文 又從解洛陽圍。軍還,屬趙青雀反於長安,文帝將討之,以人馬疲弊,不可速行。又謂青雀等一時陸梁,不足為慮。乃云:「我到長安,但輕騎臨之,必當面縛。」通進曰:「青雀等既以大軍不利,謂朝廷傾危,同惡相求,遂成反亂。然其逆謀久定,必無遷善之心。且其詐言大軍敗績,東寇將至,若以輕騎往,百姓謂為信然,更沮兆庶之望。大兵雖疲弊,精銳猶多。以明公之威,率思歸之眾,以順討逆,何慮不平。」文帝深納之,因從平青雀。錄前後功,進爵為公,徐州刺史。以寇難未平,留不之部。與于謹討劉平伏,加大都督。從文帝援玉壁,進儀同三司。

九年、高仲密が地を以て来附すると、通は若干惠に従って邙山で戦い、諸軍は皆退いたが、惠と通のみが率いる所部は力戦した。夜中になってようやく密かに引き返したが、敵も敢えて逼迫しなかった。驃騎大将軍・開府儀同三司・太僕卿に進めて授けられ、歩六孤氏の姓を賜り、綏徳郡公に進爵した。周の孝閔帝が践祚すると、小司空に任じられた。保定五年、累遷して大司寇となった。

原文 九年,高仲密以地來附,通從若干惠戰於邙山,眾軍皆退,唯惠與通率所部力戰。至夜中乃陰引還,敵亦不敢逼。進授驃騎大將軍、開府儀同三司、太僕卿,賜姓步六孤氏,進爵綏德郡公。周孝閔踐阼,拜小司空。保定五年,累遷大司寇。

通は性質柔和で謹直であり、久しく列位に処するも、常に清廉に慎み自らを守った。得た俸禄と賜物は、全て親族や旧知と共にし、家に余財無し。常に曰く、「凡そ人は貧しきを患えて貴からず、貴きを患えて貧しからざるを患えず」と。建徳元年、大司馬に転ず。其の年薨ず。通の弟逞。

原文 通性柔謹,雖久處列位,常清慎自守。所得祿賜,盡與親故共之,家無餘財。常曰:「凡人患貧而不貴,不患貴而貧也。」建德元年,轉大司馬。其年薨。通弟逞。

弟逞

原文 弟逞

逞は字を季明とす。初め名を彦、字を世雄と称す。魏の文帝常に従容として之に謂ひて曰く、「爾既に温裕なり、何ぞ乃ち字を世雄と為すや。且つ世の雄たるは、宜しき所に非ず。爾が兄弟に於いて、又復類せず」と。遂に改む。逞は少より謹密にして、早く名誉有り。兄通先づ軍功を以て別に茅土を受く。乃ち父の爵中都県伯を譲り、逞をして之を襲はしむ。羽林監・文帝内親信より起家す。時輩皆驍ぎょう勇を以て自ら達す。唯逞独り文雅を兼ぬ。文帝此に由りて礼遇を加ふ。大統十四年、大丞相府軍事に参じ、尋いで記室を兼ぬ。保定初、累遷して吏部中大夫と為り、蕃部・御伯中大夫を歴任し、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、徙授して司宗中大夫と為り、軍司馬に転ず。逞は幹識詳明にして、三府を歴任し、所在績を著す。朝廷之を嘉し、爵を進めて公と為す。

原文 逞字季明。初名彥,字世雄。魏文帝常從容謂之曰:「爾既溫裕,何因乃字世雄?且為世之雄,非所宜也。於爾兄弟,又復不類。」遂改焉。逞少謹密,早有名譽。兄通先以軍功別受茅土,乃讓父爵中都縣伯,令逞襲之。起家羽林監、文帝內親信。時輩皆以驍勇自達,唯逞獨兼文雅。文帝由此加禮遇焉。大統十四年,參大丞相府軍事,尋兼記室。保定初,累遷吏部中大夫,歷〈(藩)〉〔蕃〕部、御伯中大夫,進驃騎大將軍、開府儀同三司,徙授司宗中大夫,轉軍司馬。逞幹識詳明,歷任三府,所在著績。朝廷嘉之,進爵為公。

天和三年、齊は侍中斛斯文略・中書侍郎劉逖を遣わして来聘す。初めて隣好を修め、行人を盛んに選ぶ。詔して逞を使主と為し、尹公正を副と為して以て之に報ぜしむ。逞は容止美しく、辞令に善く、敏にして礼有り、齊人之を称す。還りて近畿に届く。詔して路車儀服を令し、郊迎して入らしむ。時人之を栄とす。四年、京兆尹を除く。都界に豕有りて数子を生み、旬日を経て死す。其の家又豶有り、遂に乳養して之を活かす。諸豚之に頼りて以て活く。時論逞の仁政の致す所と為す。俄に司会中大夫に遷り、出でて河州刺史と為る。

原文 天和三年,齊遣侍中斛斯文略、中書侍郎劉逖來聘。初修隣好,盛選行人。詔逞為使主,尹公正為副以報之。逞美容止,善辭令,敏而有禮,齊人稱焉。還屆近畿,詔令路車〈(飾)〉〔儀〕服,郊迎而入。時人榮之。四年,除京兆尹。都界有豕生數子,經旬而死。其家又有豶,遂乳養之,諸豚賴之以活。時論以逞仁政所致。俄遷司會中大夫,出為河州刺史。

晉公護雅に其の才を重んじ、表して中外府司馬と為し、委任に頼る。尋いで復た司会と為り、納言を兼ね、小司馬に遷る。護の誅せらるるに及び、坐して官を免ぜらる。頃之、起きて納言と為る。又疾を以て劇任に堪へず、乃ち宜州刺史を除く。故事に、刺史辞を奉ずるに、例へて鹵簿を備ふ。逞は時農要に属するを以て、奏請して之を停む。武帝深く之を嘉し、詔して其の請を遂げしめ、以て雅操を彰はす。逞は州に在りて恵政有り、吏人之を称す。東宮初めて建つ、太子太保を授く。卒し、大将軍を贈らる。子操嗣ぐ。

原文 晉公護雅重其才,表為中外府司馬,賴委任之。尋復為司會,兼納言,遷小司馬。及護誅,坐免官。頃之,起為納言。又以疾不堪劇任,乃除宜州刺史。故事,刺史奉辭,例備鹵簿。逞以時屬農要,奏請停之。武帝深嘉焉,詔遂其所請,以彰雅操。逞在州有惠政,吏人稱之。東宮初建,授太子太保。卒,贈大將軍。子操嗣。

柳敏

原文 柳敏

柳敏は字を白澤とす。河東解県の人、晉の太常純の七世の孫なり。父懿は、魏の車騎大将軍・儀同三司・汾州刺史。

原文 柳敏字白澤,河東解縣人,晉太常純之七世孫也。父懿,魏車騎大將軍、儀同三司、汾州刺史。

敏は九歳にして孤と為り、母に事ふるに孝を以て聞こゆ。性学を好み、経史に渉獵し、陰陽卜筮の術、習はざる無し。年未だ弱冠ならず、員外散騎侍郎より起家す。累遷して河東郡丞と為る。朝議敏の本邑なるを以て、故に此の授有り。敏は郷里を統御すと雖も、物に処するに平允にして、甚だ時誉を得たり。

原文 敏九歲而孤,事母以孝聞。性好學,涉獵經史,陰陽卜筮之術,靡不習焉。年未弱冠,起家員外散騎侍郎。累遷河東郡丞。朝議以敏之本邑,故有此授。敏雖統御鄉里,而處物平允,甚得時譽。

文帝河東を剋復するに及び、見て器異し、乃ち之に謂ひて曰く、「今日は河東を得たるを喜ばず、卿を得たるを喜ぶなり」と。即ち丞相府参軍事を拝す。俄に戸曹参そうしん軍に転じ、記室を兼ぬ。毎に四方の賓客有れば、恒に之を接せしめ、爰に吉凶の礼儀に及びても、亦た監綜せしむ。又蘇綽等と新制を修撰し、朝廷の政典と為す。礼部郎中に遷り、武城県子に封ぜられ、帥都督を加へられ、本郷の兵を領す。俄に大都督に進む。母憂に遭ひ、喪に居ること旬日の間、鬢髮半ば白し。尋いで起きて吏部郎中と為る。毀瘠礼を過ぎ、杖して後ち起つ。文帝見て歎異し、特に廩賜を加ふ。尉遲迥の蜀しょくを伐つに及び、敏を行軍司馬と為す。軍中の籌略、並びに之に委ぬ。益州平らぎ、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、侍中を加へられ、尚書に遷り、姓を宇文氏と賜ふ。六官建つ、礼部中大夫を拝す。

原文 及文帝剋復河東,見而器異之,乃謂之曰:「今日不喜得河東,喜得卿也。」即拜丞相府參軍事。俄轉戶曹參軍,〈(掌)〉〔兼〕記室。每有四方賓客,恆令接之,爰及吉凶禮儀,亦令監綜。又與蘇綽等修撰新制,為朝廷政典。遷禮部郎中,封武城縣子,加帥都督,領本鄉兵。俄進大都督。遭母憂,居喪旬日之間,鬢髮半白。尋起為吏部郎中。毀瘠過禮,杖而後起。文帝見而歎異之,特加廩賜。及尉遲迥伐蜀,以敏為行軍司馬。軍中籌略,並以委之。益州平,進驃騎大將軍、開府儀同三司,加侍中,遷尚書,賜姓宇文氏。六官建,拜禮部中大夫。

孝閔帝践阼し、爵を進めて公と為し、又河東郡守を除き、尋いで復た徴へられ礼部を拝す。出でて郢州刺史と為り、甚だ物情を得たり。将に朝に還らんとするに及び、夷夏の士人其の恵政に感じ、並びに酒餚及び土産を齎し路に於いて之を候ふ。敏は乃ち他道より還る。復た礼部を拝す。後ち礼部を改めて司宗と為し、仍以て敏を之と為す。

原文 孝閔帝踐阼,進爵為公,又除河東郡守,尋復徵拜禮部。出為郢州刺史,甚得物情。及將還朝,夷夏士人感其惠政,並齎酒餚及土產候之於路。敏乃從他道而還。復拜禮部。後改禮部為司宗,仍以敏為之。

敏は操履方正にして、性又恭勤、毎日将に朝せんとすれば、必ず夙興して旦を待つ。又久しく臺閣に処し、故事に明練、近儀或は先典に乖く者は、皆旧章に按拠し、刊正して中を取る。小宗伯に遷り、国史を監修す。小司馬に転じ、又律令を監修す。位を進めて大将軍と為り、出でて鄜州刺史と為るも、疾を以て其の部に之かず。武帝齊を平らぐ、爵を進めて武徳郡公と為す。敏は建徳以後より、疾に臥し積年、武帝及び宣帝並びに親しく其の第に幸して疾を問ふ。

原文 敏操履方正,性又恭勤,每日將朝,必夙興待旦。又久處臺閣,明練故事,近〈(議)〉〔儀〕或乖先典者,皆按據舊章,刊正取中。遷小宗伯,監修國史。轉小司馬,又監修律令。進位大將軍,出為鄜州刺史,以疾不之部。武帝平齊,進爵武德郡公。敏自建德以後,寢疾積年,武帝及宣帝並親幸其第問疾焉。

開皇元年、位上大将軍・太子太保に進む。其の年卒す。五州諸軍事・晉州刺史を贈らる。臨終其の子等に誡め、喪事の須ふ所は、務めて簡約に従へと。其の子等並びに涕泣して奉行す。少子昂。

原文 開皇元年,進位上大將軍、太子太保。其年卒。贈五州諸軍事、晉州刺史。臨終誡其子等,喪事所須,務從簡約。其子等並涕泣奉行。少子昂。

昂は字を千里とす。幼くして聰穎にして器識有り、幹局人に過ぐ。武帝の時、内史中大夫・開府儀同三司と為り、文城郡公の爵を賜ふ。当途用事し、百寮皆其の下に出づ。昂は誠を竭くして献替し、知るて為さざる無く、謙虚に自ら処し、未だ嘗て物に驕らざりき。時論此を以て之を重んず。武帝崩じ、遺命を受けて政を輔く。稍く宣帝に疏まれ、然れども本職を離れず。隋の文帝丞相と為る、深く自ら結納す。文帝之を大宗伯と為す。拝する日、偏風を得て、能く事を視ること能はず。文帝禅を受け、疾愈ゆ。上開府を加へられ、潞州刺史を拝す。昂は天下事無きを見て、表を上り学を勧め礼を行はんことを請ふ。上覧めて之を善しとし、優詔を以て昂に答ふ。是より天下の州県皆博士を置き礼を習はしむ。昂は州に在りて甚だ恵政有り。官に卒す。子調嗣ぐ。

原文 昂字千里,幼聰穎有器識,幹局過人。武帝時,為內史中大夫、開府儀同三司,賜爵文城郡公。當途用事,百寮皆出其下。昂竭誠獻替,知無不為,謙虛自處,未嘗驕物。時論以此重之。武帝崩,受遺輔政。稍被宣帝疏,然不離本職。隋文帝為丞相,深自結納。文帝以為大宗伯。拜日,遂得偏風,不能視事。文帝受禪,疾愈,加上開府,拜潞州刺史。昂見天下無事,上表請勸學行禮。上覽而善之,優詔答昂。自是天下州縣皆置博士習禮焉。昂在州甚有惠政。卒官。子調嗣。

盧柔

原文 盧柔

盧柔は字を子剛とす。少くして孤と為り、叔母に養はれ、撫視すること其の子に甚だ越ゆ。柔は心を尽くして温凊し、亦己が親の如し。宗族歎重す。性聰敏にして、学を好み、未だ弱冠ならず、文を属することを解す。但し口吃にして論を持すること能はず。頗る酒をして節を誕ぶるを為し、世に譏らる。司徒・臨淮王彧見て之を器とし、女を以て妻と為す。

原文 盧柔字子剛。少孤,為叔母所養,撫視甚於其子。柔盡心溫凊,亦同己親。宗族歎重之。性聰敏,好學,未弱冠,解屬文,但口吃不能持論。頗使酒誕節,為世所譏。司徒、臨淮王彧見而器之,以女妻焉。

魏の孝武帝が斉の神武帝(高歓)と不和となると、詔して賀抜勝を出して荊州を牧せしめ、盧柔はこれによって功績を立てることができると考え、勝に従って荊州に赴いた。勝は柔を行臺郎中とし、書記を掌らせた。軍中の機密事務に、柔は多く参画した。勝が太保となると、柔を掾とし、冠軍将軍を加えた。孝武帝は後に勝を召して兵を率いて洛陽に赴かせようとしたが、勝は柔に意見を求めた。柔は言う、「高歓は晋陽の兵を託するも、その意は実に知り難し。公は一挙に都に赴き、勝負を決すべし。生死をこれに委ねるは、これ忠の上策なり。もし北は魯陽に拠り、南は旧楚の地を併せ、東は兗・豫よと連なり、西は関中と接し、甲を帯びる者十万、隙をうかがって動くは、中策なり。三荊の地を挙げて梁国に款を通じ、身を免るるはできようとも、功名は去らん。これ下策なり」と。勝は柔が年少を軽んじ、笑って応じなかった。

原文 及魏孝武與齊神武有隙,詔賀拔勝出牧荊州,柔謂因此可著功績,遂從勝之荊州。以柔為大行臺郎中,掌書記。軍中機務,柔多預之。及勝為太保,以柔為掾,加冠軍將軍。孝武後召勝引兵赴洛,勝以問柔。曰:「高歡託晉陽之甲,意實難知。公宜席卷赴都,與決勝負,存沒以之,此忠之上策也。若北阻魯陽,南并舊楚,東連兗、豫,西接關中,帶甲十萬,觀釁而動,亦中策也。舉三荊之地,通款梁國,可以身免,功名去矣。策之下者。」勝輕柔年少,笑而不應。

孝武帝が西遷すると、東魏は侯景を遣わして穣を襲わせ、勝は敗れて遂に南へ梁に奔った。柔もこれに従った。勝はたびたび梁に表して帰国を請うた。武帝は表を覧て、その文辞の采を賞した。柔の作と知ると、舎人を遣わして労問し、併せて縑錦を賜うた。後に勝と共に還り、襄陽に至った時、斉の神武帝は勝が西入することを恐れ、侯景に軽騎を以て邀えさせた。勝と柔は恐れ、船を棄てて山を行き、糧を携えて険を冒し、数百里を経た。時に秋の長雨に属し、徒侶は凍え飢え、死者は大半に及んだ。豊陽の界に至り、柔は道に迷い、独り枯木の下に宿り、寒雨に衣は濡れ、死に至らんとした。

原文 及孝武西遷,東魏遣侯景襲穰,勝敗,遂南奔梁。柔亦從之。勝頻表梁求歸,武帝覽表,嘉其辭彩。既知柔所製,因遣舍人勞問,并遺縑錦。後與勝俱還,行至襄陽,齊神武懼勝西入,遣侯景以輕騎邀之。勝及柔懼,乃棄船山行,贏糧冒險,經數百里。時屬秋霖,徒侶凍餒,死者太半。至豐陽界,柔迷失道,獨宿僵木之下,寒雨衣濕,殆至於死。

大統二年、長安に至る。容城県男に封ぜられ、邑二百戸を賜う。太祖(宇文泰)はその才を重んじ、行臺郎中に引き、平東将軍を加え、従事中郎に除し、蘇綽と対して機密を掌らせた。時に沙苑の戦いの後、大軍はたびたび勝利し、汝・潁の間では多く義を挙げて来附した。書翰の往復は日に百余通に及んだ。柔は機に応じて返答し、皆事に適っていた。爵を子に進め、邑三百戸を増やし、中書舎人に除された。司農少卿に遷り、郎に転じ、著作を兼ね、起居注を撰した。後に黄門侍郎に拝された。文帝(宇文泰)はその貧しきを知り、衣を解いて賜うた。魏の廃帝元年、軍騎大将軍・儀同三司・散騎常侍さんきじょうじ・中書監ちゅうしょかんを加えられた。

原文 大統二年,至長安。封容城縣男,邑二百戶。太祖重其才,引為行臺郎中,加平東將軍,除從事中郎,與蘇綽對掌機密。時沙苑之後,大軍屢捷,汝、潁之間,多舉義來附。書翰往反,日百餘牒。柔隨機報答,皆合事宜。進爵為子,增邑三百戶,除中書舍人。遷司農少卿,轉郎,兼著作,撰起居注。後拜黃門侍郎。文帝知其貧,解衣賜之。魏廢帝元年,加軍騎大將軍、儀同三司、散騎常侍、中書監。

孝閔帝が践祚すると、小内史に拝され、内史大夫に遷り、位を開府に進めた。位にて卒した。所作の詩頌碑銘檄表啓で世に行わるるもの数十篇。子の愷が嗣いだ。

原文 孝閔帝踐阼,拜小內史,遷內史大夫,進位開府。卒於位。所作詩頌碑銘檄表啟行於世者數十篇。子愷嗣。

愷は字を長仁という。経史に渉猟し、当世の幹能あり。起家して斉王記室となる。吏部・内史上士を歴任し、礼部下大夫となる。まもなく聘陳副使となる。大象の初め、東京吏部下大夫に拝された。

原文 愷字長仁。涉獵經史,有當世幹能。起家齊王記室。歷吏部、內史上士,禮部下大夫。尋為聘陳副使。大象初,拜東京吏部下大夫。

唐瑾

原文 唐瑾

唐瑾は字を附璘という。父は永。性質は温恭で器量あり、広く経史に渉猟し、殊に属文を好んだ。身長八尺二寸、容貌は甚だ偉岸なり。年十七、周の文帝(宇文泰)がその名を聞き、永に書を送って言う、「公に二子ありと聞く。曰く陵、縦横に武略多し。瑾、雍容として文雅に富む。併せて朝に入らしめよ。孤、文武の任を委ねんと欲す」と。よって召して尚書員外郎・相府記室参軍事に拝した。軍書や羽檄は、瑾が多くこれを掌った。沙苑を破り、河橋に戦うに従い、併せて功あり、姑臧県子に封ぜられた。累遷して尚書右丞・吏部郎中となる。時に魏室は播遷し、諸務は草創、朝章国典に、瑾は併せて参画した。戸部尚書に遷り、位を驃騎大将軍・開府儀同三司に進め、宇文の姓を賜うた。

原文 唐瑾字附璘。父永。性溫恭,有器量,博涉經史,雅好屬文。身長八尺二寸,容貌甚偉。年十七,周文聞其名,乃貽永書曰:「聞公有二子:曰陵,從橫多武略;瑾,雍容富文雅。可並遣入朝,孤欲委以文武之任。」因召拜尚書員外郎、相府記室參軍事。軍書羽檄,瑾多掌之。從破沙苑,戰河橋,並有功,封姑臧縣子。累遷尚書右丞、吏部郎中。于時魏室播遷,庶務草剏,朝章國典,瑾並參之。遷戶部尚書,進位驃騎大將軍、開府儀同三司,賜姓宇文氏。

時に燕公于謹は勲高く望重く、朝野の属目するところであった。文帝に言上し、瑾は学行兼ね備わり、これと同姓となり兄弟を結び、子孫にその余論を承けしめ、義方に益あらんことを願うと。文帝は久しく歎異し、更に瑾に万紐于の氏を賜うた。瑾は深く結納し、長幼の序を厚くし、謹もまた庭に子孫を羅列し、弟姪の敬を行った。朝望の宗とされることこのようであった。爵を臨淄県伯に進め、吏部尚書に転ず。銓衡を綜べ流品を量るに、雅に人倫を鑑みる眼あり。父の憂いにより職を去り、まもなく起きて視事を命ぜられた。時に六尚書は皆一時の秀で、周の文帝は人を得たりと自負し、六俊と号した。然るに瑾は特に器重された。

原文 時燕公于謹勳高望重,朝野所屬。白文帝,言瑾學行兼修,願與之同姓,結為兄弟,庶子孫承其餘論,有益義方。文帝歎異者久之,更賜瑾姓〈(萬)〉〔万〕紐于氏。瑾乃深相結納,敦長幼之序;謹亦庭羅子孫,行弟姪之敬。其為朝望所宗如此。進爵臨淄縣伯,轉吏部尚書。銓綜衡流,雅有人倫之鑒。以父憂去職,尋起令視事。時六尚書皆一時之秀,周文自謂得人,號為六俊。然瑾尤見器重。

于謹が江陵を南伐するに当たり、瑾を元帥府長史とした。軍中の謀略は多く瑾より出た。江陵が平定されると、衣冠の士や兵卒は併せて僕隷に没せられた。瑾はその才行を察し、少しでも善きところあれば、すなわち免ずることを議し、瑾によって救済された者は甚だ多かった。時の論はこれを称えた。軍が還るとき、諸将は多く虜掠により、大いに財物を獲た。瑾は一も取らず、ただ書物を二車得て、これを載せて帰った。ある者が文帝に言う、「唐瑾は大いに輜重あり、悉くは梁朝の珍玩なり」と。文帝は初め信じなかったが、その虚実を明らかにせんと欲し、密かに使者を遣わして検閲させたところ、ただ書籍のみであった。乃ち歎じて言う、「孤、この人を知ること二十余年、利を以て義を干さざることを明らかにす。向に検視せしめざれば、恐らく常人には投杼の疑いありしならん。故に益々これを明らかにせしめたるなり。凡そ人の委任を受くるは、かくの如くあるべし」と。江陵平定の功を論じ、爵を公に進めた。

原文 于謹南伐江陵,以瑾為元帥府長史。軍中謀略,多出瑾焉。江陵既平,衣冠仕伍,並沒為僕隸。瑾察其才行,有片善者,輒議免之,賴瑾獲濟者甚眾。時論多焉。及軍還,諸將多因虜掠,大獲財物。瑾一無所取,唯得書兩車,載之以歸。或白文帝曰:「唐瑾大有輜重,悉是梁朝珍玩。」文帝初不信之,然欲明其虛實,密遣使檢閱之,唯見墳籍而已。乃歎曰:「孤知此人來二十許年,明其不以利干義。向若不令檢視,恐常人有投杼之疑,所以益明之耳。凡受人委任,當如此也。」論平江陵功,進爵為公。

六官が建てられると、礼部中大夫を授かり、出て蔡州刺史となる。拓州・硤州を歴任し、所在ことごとくに徳化あり、人吏これを称えた。荊州総管府長史に転ず。入って吏部中大夫となり、御正・納言中大夫を歴任した。まだ十旬にも満たずに四職を遷り、搢紳は栄えと為した。久しくして司宗中大夫に除され、内史を兼ねる。まもなく位にて卒す。小宗伯を贈られ、諡して方という。

原文 六官建,授禮部中大夫,出為蔡州刺史。歷〈(柘)〉〔拓〕州、硤州,所在皆有德化,人吏稱之。轉荊州總管府長史。入為吏部中大夫,歷御正、納言中大夫。曾未十旬,遂遷四職,搢紳以為榮。久之,除司宗中大夫,兼內史。尋卒于位。贈小宗伯,諡曰方。

瑾の性質は方正重厚、風格あり。退朝し休暇のときも、常に衣冠を着けて妻子に対した。迅雷や烈風に遇えば、たとえ閑夜の宴寝のときでも、必ず起き、冠帯し端笏して危坐した。また施与を好み、家に余財なく、得たる禄賜は常に宗族に散じた。特に貧しき者には、また膏腴の田宅を割いてこれを賑った。子孫に留め遺したものは、併せて磽确の地であった。朝野はこれをもってこれを称えた。新儀十篇を撰す。著した賦頌碑誄二十余万言。孫の大智が嗣いだ。

原文 瑾性方重,有風格。退朝休〈(暇)〉〔假〕,恆著衣冠以對妻子。遇迅雷風烈,雖閑夜宴寢,必起,冠帶端笏危坐。又好施與,家無餘財,所得祿賜,常散之宗族。其尤貧者,又割膏腴田宇以賑之。所留遺子孫者,並墝埆之地。朝野以此稱之。撰新儀十篇。所著賦頌碑誄二十餘萬言。孫大智嗣。

瑾の次子令則は、性質篇章を好み、音律をも解し、文は多く軽艶で、時の人に伝えられた。天和年中、斉馭下大夫として陳に使した。大象年中、官は楽部下大夫に至る。隋に仕え、太子左庶子の位に至る。皇太子勇が廃されると、誅せられた。

原文 瑾次子令則,性好篇章,兼解音律,文多輕豔,為時人所傳。天和中,以齊馭下大夫使於陳。大象中,官至樂部下大夫。仕隋,位太子左庶子。皇太子勇廢,被誅。