周書
卷三十一 列傳第二十三 韋孝寬 韋敻 梁士彥
韋孝寬
韋叔裕、字は孝寬、京兆杜陵の人なり、少にして字をもって行わる。世々三輔の著姓たり。祖父の直善は、魏の馮翊・扶風二郡の太守。父の旭は、武威郡の太守。建義の初め、大行臺右丞となり、輔国将軍・雍州大中正を加えらる。永安二年、右将軍・南豳州刺史を拝す。時に氐賊数たび抄窃を為す、旭は機に随い招撫し、並びに即時に帰附す。尋いで官に卒す。 司空 ・冀州刺史を贈られ、諡して文恵と曰う。
孝寬は沈敏にして和正、経史に渉猟す。弱冠、蕭宝夤の関右に乱を為すに属し、乃ち闕に詣り、軍の前駆たらんことを請う。朝廷之を嘉し、即ち統軍を拝す。馮翊公長孫承業に随い西征し、戦う毎に功有り。国子博士を拝し、華山郡事を行る。侍中楊侃が大 都督 たりしに属し、出でて潼関に鎮し、孝寬を引いて司馬と為す。侃其の才を奇とし、女を以て妻とす。永安中、宣威将軍・給事中を授けられ、尋いで爵を山北県男と賜う。普泰中、 都督 として荊州刺史源子恭に従い襄城に鎮し、功を以て析陽郡守を除く。時に独孤信は新野郡守たり、荊州を同じくし、孝寬と情好款密にして、政術俱に美しく、荊部の吏人、号して聯璧と為す。孝武初、 都督 として城を鎮む。
文帝原州より雍州に赴くに当たり、孝寬に軍に随うを命ず。及び潼関を剋すや、即ち弘農郡守を授く。竇泰を擒うるに従い、左丞を兼ね、宜陽兵馬事を節度す。仍く独狐信と共に洛陽城に入り守る。復た宇文貴・怡峯と応接し潁州の義徒を助け、東魏の将任祥・堯雄を潁川に破る。孝寬又た楽口を進み平げ、 豫 州を下し、刺史馮邕を獲る。又た河橋に戦うに従う。時に大軍利あらず、辺境騒然たり、乃ち孝寬をして大将軍として宜陽郡事を行わしむ。尋いで南兗州刺史に遷る。
是の歳、東魏の将段琛・堯傑復た宜陽を拠り、其の陽州刺史牛道恆を遣わし辺民を扇誘せしむ。孝寬深く之を患ひ、乃ち諜人を遣わし道恆の手迹を訪ひ獲しめ、善く書を学ぶ者をして道恆と孝寬との書を偽作せしめ、帰款の意を論じ、又た落燼を為して迹を焼き、火の下に書する者の如くし、還って諜人をして琛の営に送らしむ。琛書を得て、果たして道恆を疑ひ、其の経略せんと欲する所、皆用いられず。孝寬其の離阻するを知り、日々奇兵を出して掩襲し、道恆及び琛等を擒え、崤・澠遂に清し。
大統五年、侯に爵を進む。八年、転じて晋州刺史となり、尋いで玉壁に移り鎮し、南汾州事を兼ね摂る。先づ是れ山胡険を負ひ、屡たび劫盗を為す、孝寬威信を以て示すに及び、州境肅然たり。大 都督 を進め授けらる。
十二年、斉の神武山東の衆を傾け、志に西入を図り、玉壁の衝要を以て、先づ之を攻むるを命ず。連営数十里、城下に至り、乃ち城南に土山を起し、之に乗じて入らんと欲す。其の山の当たる処、城上先づ両の高楼有り。孝寬更に木を縛ぎて之に接ぎ、極めて高峻ならしめ、多く戦具を積み以て之を禦ぐ。斉の神武城中に謂ひて曰く、「縦ひ爾が楼を天に縛ぎ至るとも、我会に城を穿ちて爾を取らん」と。遂に城南に地道を鑿つ。又た城北に土山を起し、攻具し、昼夜息まず。孝寬復た長塹を掘り、其の地道を要し、仍く戦士を飭して塹に屯せしむ。城外毎に塹に穿ち至れば、戦士即ち之を擒え殺す。又た塹の外に柴を積み火を貯へ、敵人の地道内に伏する者有れば、便ち柴火を下し、皮韛を以て之を吹く。吹気一たび衝けば、咸く即ち灼けて爛る。城外又た攻車を造り、車の及ぶ所、摧毀せられざる莫し。排楯有りと雖も、之に抗する能はざりき。孝寬乃ち布を縫ひて縵と為し、其の向ふ所に随ひて則ち之を張設す。布既に空中に懸かるに及び、其の車竟に壊す能はざりき。城外又た松を竿に縛ぎ、油を灌ぎ火を加へ、規して布を焼かんとし、並びに楼を焚かんと欲す。孝寬復た長く鉄鈎を作り、其の鋒刃を利くし、火竿来れば、鈎を以て遥かに之を割り、松麻俱に落つ。外又た城の四面に地を穿ち、二十一道を作り、四路に分ち、其の中に各梁柱を施し、作り訖り、油を以て柱に灌ぎ、火を放ちて之を焼く、柱折るれば、城並びに崩壊す。孝寬又た崩るる処に随ひ木柵を竪てて之を扞ひ、敵入るを得ず。城外其の攻撃の術を尽くすも、孝寬咸く之を拒ぎ破る。
神武之を如何ともする無く、乃ち倉曹参軍祖孝徴を遣わし謂ひて曰く、「救兵を聞かず、何ぞ降らざる」と。孝寬報へて云く、「我が城池厳固にして、兵食余り有り、攻むる者は自ら労し、守る者は常に逸す。豈に旬朔の間に、已に救援を須つべきや。適に爾が衆の反らざるの危き有るを憂う。孝寬関西の男子、必ず降将軍とは為らじ」と。俄にして孝徴復た城中の人に謂ひて曰く、「韋城主は彼の栄禄を受けたり、或いは復た爾る可し、外の軍士は、何事ぞ相随ひて湯火の中に入らんや」と。乃ち募格を城中に射て云く、「能く城主を斬り降る者は、太尉を拝し、開国郡公に封じ、邑万戸、帛万疋を賞す」と。孝寬手ずから書の背に題し、反って城外に射て云く、「若し高歓を斬る者有らば、一に此の賞に依れ」と。孝寬の弟子の遷は、先づ山東に在り、又た鎖して城下に至らしめ、白刃を以て臨み、若し早く降らざれば、便ち大戮を行はんと云ふ。孝寬慷慨激揚し、略く顧みる意無し。士卒感勵せざる莫く、人に死難の心有り。
神武苦戦六十日、傷め及び病死する者十の四五に及び、智力俱に困し、因りて疾を発す。其の夜遁ぐ。後此に因りて忿恚し、遂に殂す。魏の文帝孝寬の功を嘉し、殿中尚書長孫紹遠・左丞王悦をして玉壁に至り労問せしめ、驃騎大将軍・開府儀同三司を授け、爵を建忠郡公に進む。
廃帝二年、雍州刺史と為る。先づ是れ、路側一里に一つの土候を置くも、雨に経て頽毀し、毎に之を修するを須ふ。孝寬州に臨むより、乃ち部内に勒し候の当たる処に槐樹を植えて之に代へしむ。既に修復を免れ、行旅又た庇廕を得たり。周文後見し、怪しみ問ひて之を知り、曰く、「豈に一州独り爾るを得ん、当に天下をして之を同じくせしむべし」と。是に於て諸州に令し夾道一里に一樹を種へ、十里に三樹を種へ、百里に五樹を種へしむ。
恭帝元年、大将軍として燕国公于謹と江陵を伐ち、之を平げ、功を以て穣県公に封ぜらる。還りて、尚書右僕射を拝し、姓を宇文氏と賜う。三年、周文北巡し、孝寬に命じて還り玉壁を鎮ましむ。周の孝閔帝践祚し、小 司徒 を拝す。明帝初、麟趾殿学士に参じ、図籍を考校す。
保定初、孝寬の玉壁に勲を立てしを以て、遂に玉壁に勲州を置き、仍く勲州刺史を授く。斉人使いを玉壁に遣わし、互市を通ぜんことを求む。晋公護其の相持すること日久しく、使命絶えて無きに、一日忽ち来りて交易を求むるを以て、別に故有るを疑ふ。又た皇姑・皇世母先づ彼に没するを以て、其の請和の際に因り、或いは之を致す可きを思ふ。遂に司門下大夫尹公正をして玉壁に至らしめ、孝寬と共に詳議せしむ。孝寬乃ち郊に供帳を盛んに設け、公正をして使人に対接せしめ、兼ねて皇家の親属東に在るの意を論ぜしむ。使者の辞色甚だ悦びたり。時に又た汾州の胡関東の人を抄得する有り、孝寬復た東に放ち還し、並びに書一牘を致し、具に朝廷の隣好を敦めんと欲するを陳ぶ。遂に礼を以て皇姑及び護の母等を送る。
韋孝寬は撫御に長じ、人心を得ることができた。派遣して斉に入った間諜は、皆力を尽くした。また、斉人が孝寬の金貨を得て、遠くから書疏を通じる者もあった。故に斉の動静は、朝廷が皆先んじて知った。時に主帥の許盆という者がおり、孝寬は心膂として託し、一つの戍を守らせた。盆は城を以て東に入った。孝寬は怒り、間諜を遣わしてこれを取り、間もなく首を斬って還った。そのように物情を得ることができたのである。
汾州の北、離石以南は、全て生胡であり、居人を抄掠し、河路を阻絶した。孝寬はこれを深く患えた。しかしその地は斉に入り、誅剪する方策がなかった。その要所に当たる処に、一大城を置かんと欲した。そこで河西において役徒十万、甲士百人を徴発し、開府の姚岳を遣わしてその築城を監させた。岳は顔色を懼れ、兵少なきを以て難事と為した。孝寬曰く、「この城を成すを計れば、十日にして即ち畢わらん。既に 晉 州を去ること四百餘里、一日で創手し、二日で偽境始めて知る。仮に 晉 州に徴兵を命ずるも、二日にして方に集まらん。謀議の間、自ら三日を稽え、その軍行を計れば、二日では到らぬ。我が城隍は、足るを得て辦せん」と。乃ち築かしめた。斉人は果たして南首に至り、大軍有るを疑い、乃ち停留して進まず。その夜、また汾水以南、介山・稷山の諸村に傍り、所在に火を放たしめた。斉人はこれが軍営と謂い、遂に兵を収めて自ら固めた。版築は克く就き、卒にその言の如し。
四年、柱国に進位した。時に 晉 公宇文護が東討せんとし、孝寬は長史の辛道憲を遣わし、不可を啓陳したが、護は納れなかった。既にして大軍は果たして利あらず。後に孔城は遂に陥ち、宜陽は囲まれた。孝寬は乃ちその将帥に謂いて曰く、「宜陽は一城の地に過ぎず、損益を為す能わず。然るに両国これを争い、師を労すること数載。彼には君子多く、寧ろ謀猷に乏しからんや。若し崤東を棄て、来たりて汾北を図らば、我が疆界は必ず侵擾を見ん。今華谷及び長秋に速やかに城を築き、以て賊の志を杜ぐべし。もし彼が我先んずれば、これを図るは実に難し」と。ここに地形を画き、その状を具に陳べた。 晉 公護は長史の叱羅協に命じて使人に謂わしめて曰く、「韋公の子孫は多しと雖も、数は百に満たず。汾北に城を築きて、誰を遣わして固守せしめんとするか」と。事は遂に行われず。天和五年、鄖国公に進爵し、邑を増して通前一万戸とした。
この歳、斉人は果たして宜陽の囲みを解き、汾北を経略し、遂に城を築いてこれを守った。その丞相の斛律明月は汾東に至り、孝寬と相見えんことを請うた。明月云く、「宜陽は小城なり、久しく戦争を労す。今既に彼に入り、汾北に取り償わんと欲す。怪しまぬことを幸いとす」と。孝寬答えて曰く、「宜陽は彼の要衝、汾北は我が棄つる所。我棄てて彼図る、取り償い何くにか在らん。且つ君は幼主を輔翼し、位重く望隆し、理は陰陽を調え、百姓を撫ずるに宜しく、焉んぞ極武窮兵を用い、怨を搆え禍を連ねんとするか。且つ滄・瀛は大水にて、千里煙無く、復た汾・ 晉 の間に横屍暴骨せしめんと欲するか。苟くも尋常の地を貪り、疲弊の人を塗炭せしめんとせば、窃かに君の取らざる所と為す」と。
孝寬の参軍の曲巖は頗る卜筮を知り、孝寬に謂いて曰く、「来年、東朝必ず大いに相殺戮すべし」と。孝寬は因って巖に命じて謡歌を作らしめて曰く、「百升天に飛び、明月長安を照らす」と。百升は斛なり。又言う、「高山摧けずして自ら崩れ、槲樹扶けずして自ら豎つ」と。間諜を多くしてこの文を齎し、之を鄴に遺わしめた。祖孝徵既に聞き、更にこれを潤色し、明月は竟にこれに因って誅された。
建德の後、武帝は斉を平らげんことを志した。孝寬は乃ち上疏して三策を陳べた。その第一策に曰く。
その第二策に曰く。
その第三策に曰く。
書が奏上され、武帝は小司寇の淮南公元偉・開府の伊婁謙等を遣わし、重幣を以て斉に聘せしめた。爾後遂に大挙し、再駕して山東を定め、卒に孝寬の策の如し。
孝寬は毎に年迫り懸車すべきを以て、屡々致仕を請うた。帝は海内未だ平らかならずとし、優詔を以て許さず。ここに至り復た疾を称して骸骨を乞うた。帝曰く、「往には已に面して本懐を申せり、何ぞ重ねて請う煩わさん」と。
五年、帝東伐し、過ぎて玉壁に幸す。禦敵の所を観て、深く歎羨し、移時して乃ち去った。孝寬は自ら斉人の虚実を習練するを以て、先駆けと為らんことを請うた。帝は玉壁は要衝にして、孝寬に非ざれば以てこれを鎮むること能わずとし、乃ち許さず。趙王宇文招が兵を率いて稽胡に出で、大軍と掎角するに及び、乃ち孝寬を行軍総管と為し、華谷を囲守して以てこれに応接せしめた。孝寬はその四城を克った。武帝が 晉 州を平らげると、復た孝寬に命じて旧鎮に還らしめた。
帝が凱還するに及び、復た玉壁に幸す。従容として孝寬に謂いて曰く、「世は老人は智多く、善く軍謀を為すと称す。然れども朕は唯だ少年と共に、一挙して賊を平らげたり。公は何如と以為すか」と。孝寬対えて曰く、「臣今衰耄し、唯だ誠心有るのみ。然れども昔少壮の時、亦た曾て力を先朝に輸し、以て関右を定めたり」と。帝大いに笑いて曰く、「実に公の言の如し」と。乃ち孝寬に詔して駕に随い還京せしめた。大 司空 に拝し、出でて延州総管と為り、上柱国に進位した。
大象元年、徐兗等十一州十五鎮諸軍事・徐州総管を除かれた。又行軍元帥と為り、淮南に地を狥った。乃ち分かち遣わして杞公宇文亮に黄城を攻めさせ、郕公梁士彦に広陵を攻めさせ、孝寬は衆を率いて寿陽を攻め、竝びにこれを抜いた。初め孝寬が淮南に到るや、所在皆密かに誠款を送った。然れども彼の五門は、尤も険要にして、陳人が若し塘を開きて水を放てば、即ち津済の路絶ゆ。孝寬は遽かに兵を分かちてこれを据え守らしむるを令した。陳の刺史の呉文育は果たして堰を決さんと遣わしたが、已に及ばず。ここにおいて陳人は退走し、江北悉く平らぐ。
軍還り、 豫 州に至る。宇文亮が兵を挙げて反し、潜かに数百騎を以て孝寬の営を襲った。時に亮の圉官の茹寬が密かにその状を白し、孝寬は備え有り。亮は入るを得ず、遁走し、孝寬は追いこれを獲た。詔して淮南を平らげるの功を以て、別に一子を滑国公に封ず。
宣帝崩ずるに及び、隋文帝が政を輔ける。時に尉遅迥は先に相州総管と為り、詔して孝寬を以てこれに代えしめた。又小 司徒 の叱列長义を相州刺史と為し、先ず鄴に赴かしむるを令した。孝寬は続いて進み、朝歌に至る。迥は大 都督 の賀蘭貴を遣わし、書を齎して孝寬を候わしめた。孝寬は貴を留めて語らって以てこれを察し、変有るを疑い、遂に疾を称して徐行した。又人を相州に至らせて医薬を求め、密かに以てこれを伺わしめた。湯陰に到るや、長义の奔還するに逢う。孝寬の兄の子で魏郡守の韋藝が又郡を棄てて南走した。孝寬はその状を審らかに詰め、乃ち馳せて還った。経過する橋道は、皆毀撤せしめ、駅馬は悉く擁して自ら随えた。又駅将に勒して曰く、「蜀公将に至らんとす、多く餚酒及び芻粟を備えて以てこれを待つべし」と。迥は果たして儀同の梁子康を遣わし、数百騎を将いて孝寬を追わしめた。駅司は供設豊厚にして、経過する所は、皆輒ち停留し、ここに由って及ばず。
時に或る者が孝寬に勧めて、洛京は虚弱で、元より守備がなく、河陽の鎮防は、全て関東の鮮卑であるから、尉遅迥が先んじてこれを占拠すれば、禍い小さからずとなす。そこで河陽に入って守備を固めた。河陽城内にはもと鮮卑八百人がおり、家は皆鄴にあり、孝寬が軽装で来たのを見て、謀って尉遅迥に応じようとした。孝寬はこれを知り、密かに東京の官司に命じて、行き先を偽り、人を分けて洛陽に赴かせて賜物を受けさせた。洛陽に到着すると、皆留めて帰さなかった。これによって離間させ、その謀は成らなかった。
六月、詔して関中の兵を発し、孝寬を元帥として東征させた。七月、軍は河陽に駐屯した。尉遅迥が任命した儀同薛公禮らが懐州を包囲攻撃したので、孝寬は兵を遣わしてこれを撃破した。進んで懐県の永橋城の東南に駐屯した。その城は要衝にあり、城壁が堅固で、尉遅迥はすでに兵を遣わしてこれを占拠していた。諸将兵はこの城が通路に当たるとして、先にこれを攻め取るよう請うた。孝寬は言った、「城は小さいが堅固であり、もし攻めて落とせなければ、我が軍の威勢を損なう。今その大軍を破れば、これも何ができようか」と。そこで軍を率いて武陟に駐屯し、尉遅迥の子尉遅惇を大破し、惇は軽騎で鄴に奔った。軍は鄴の西門豹祠の南に駐屯した。尉遅迥自ら出戦したが、またこれを破った。尉遅迥は窮迫して自殺した。小城中にいた兵士は、全て遊 豫 園で生き埋めにした。未だ服さない者があれば、皆機に応じて討伐し、関東は悉く平定された。十月、凱旋して京師に帰った。十一月に薨去、時に七十二歳。太傅・十二州諸軍事・雍州牧を追贈された。諡して襄という。
孝寬は辺境に多年在り、しばしば強敵に抗した。その経略は、布置の初めには、人はこれを理解できず、その事の成るを見て、初めて驚き服した。軍中にあっても、篤く文史を志し、政事の余暇に、常に自ら披閲した。末年眼を患っても、なお学士に読ませて聴いた。また早く父母を喪い、兄嫂に仕えること甚だ謹んだ。得た俸禄は、私房に入れなかった。親族に孤遺ある者は、必ずこれを振贍した。朝野これによって称えた。長子の韋諶は年既に十歳で、魏文帝は娘を娶らせようとした。孝寬は兄の子世康が年長であることを理由に辞した。帝はこれを嘉し、遂に世康に娶らせた。孝寬に六子あり、韋総・韋寿・韋霽・韋津が知られる。
韋敻
韋敻、字は敬遠。志は夷簡を尚び、栄利に淡泊であった。弱冠にして、召されて雍州中従事に拝されたが、その好むところではなく、病と称して職を辞した。前後十回徴辟されたが、皆応命しなかった。太祖が王業を経綸するに当たり、側席して賢を求め、韋敻が高潔を養って仕えぬと聞き、虚心に敬悦し、使者を遣わしてこれを辟召し、礼命を備えた。情誼の諭しは甚だ至ったが、遂に屈することができなかった。ますますこれを重んじ、また奪うこともなかった。住む宅は、林泉に枕帯し、韋敻は琴書に対翫し、蕭然として自ら楽しんだ。当時の人は居士と号した。その閑素を慕う者あり、或いは酒を載せて従い、韋敻もまたそのために歓を尽くし、接対して倦みを忘れた。
明帝が即位すると、礼敬はますます厚くなった。そこで詩を作ってこれを贈り、「六爻は貞しく世を遯れ、三辰は少微を光らす。潁陽の譲りは遠くに逾え、滄州は去って帰らず。香は秋蘭の佩を動かし、風は蓮葉の衣を飄す。石に坐して仙洞を窺い、槎に乗って釣磯を下る。嶺松は千仞直く、巖泉は百丈飛ぶ。聊かに平楽観に登り、遠く首陽の薇を望む。詎んぞ能く四隠と同じくして、来たりて余が万機に参ぜんや」と。韋敻は帝の詩に答え、時に朝謁することを願った。帝は大いに悦び、有司に命じて日ごとに河東の酒一斗を与え、これを逍遙公と号した。
時に晋公宇文護が政を執り、広く第宅を営んだ。かつて韋敻を宅に召し、政事について訪ねた。韋敻はその堂を仰ぎ見て、徐かに嘆いて言った、「酒に酣え音を嗜み、峻宇に牆を雕る、一つこれに在りて、未だ或いは亡びざるはなし」と。宇文護は悦ばなかった。識者はこれを知言と為した。
陳がその尚書周弘正を遣わして来聘し、平素より韋敻の名を聞き、相見えることを請うた。朝廷はこれを許した。弘正は韋敻を訪ね、談謔一日に盈ち、相遇うことの遅きを恨んだ。後に韋敻を賓館に請うたが、韋敻は時に赴かなかった。弘正はなお詩を贈って言った、「徳星なお未だ動かず、真車詎んぞ肯て来らんや」と。その時に欽挹されることこのようであった。
武帝はかつて韋敻と夜宴し、多くの縑帛を賜い、侍臣数人に負わせて送り出させた。韋敻はただ一疋を取り、恩旨を承けたことを示しただけである。帝はこれによってますます彼を重んじた。韋孝寬が延州総管となった時、韋敻は州に至り孝寬と相見えた。帰ろうとする時、孝寬は乗っていた馬と轡勒を韋敻に与えた。韋敻はその華飾を、心に欲せず、笑って孝寬に言った、「昔の人は遺簪墜履を棄てざる者は、これと共に出でて、共に帰らざるを悪んだ。吾は前烈に及ばざれども、然れども旧きを捨てて新しきを録するも、亦吾が志に非ざるなり」と。そこで旧い馬に乗って帰った。
武帝はまた仏・道・儒の三教が同じからぬとして、詔して韋敻にその優劣を弁ぜしめた。韋敻は三教は雖も殊なるも、善に帰するは同じく、その迹は深浅あるに似るも、その理を致すは殆ど等級なし、とし、三教序を著して奏上した。帝はこれを見て善しと称した。時に宣帝が東宮に在り、また韋敻に書を遺わし、併せて帝の乗る馬で迎えさせ、立身の道を問うた。韋敻は答えて言った、「伝に云わざるや、儉は徳の恭、侈は悪の大。欲は縦すべからず、志は満たすべからず。併せて聖人の訓なり、願わくは殿下これを察せられよ」と。
韋敻の子韋瓘が随州刺史として任に在ったが、病により物故し、韋孝寬の子韋総もまた幷州で戦死した。一日のうちに、凶報が共に至った。家人は相対して悲慟したが、韋敻は神色自若として、これに言った、「死生は命なり、去来は常の事、亦何ぞ悲しむに足らん」と。琴を取って弾じ、平素の如くであった。
韋敻はまた雅く名義を好み、虚襟で善く誘った。耕夫牧豎といえども一介称すべき者あれば、皆接引した。特に族人の韋処玄及び安定の梁曠と放逸の友となった。少より文史を愛し、著述に情を留め、手ずから数十万言を抄録した。晚年は虚静にして、ただ道を体し真を会することを務めとした。旧く製述したものは、皆その草稿を削ったので、文筆多くは併せて存しなかった。
建德年中、韋敻は年老いたので、予めその子らに戒めて言った、「昔、士安は蘧蒢をもって体を束ね、王孫は布囊をもって尸を繞らせた。二賢は高達にして、庸才の能く継ぐところではない。吾が死する日には、旧衣を以て斂め、新たに造る勿れ。棺は尸を周うに足り、牛車に柩を載せ、墳は高さ四尺、壙は深さ一丈とせよ。その余の煩雑は、悉く用いる無かれ。朝夕の奠食は、事に弥が上に煩わしい。吾は頓に汝らの情を絶つことはできぬ。朔望に一奠するのみでよい。なお素蔬を薦め、牲牢を設ける勿れ。親友が物を以て弔祭せんと欲する者は、併せて受けざるを得。吾は常に臨終に恍惚たるを恐る。故にこの言を以て予め汝らに戒む。瞑目の日、吾が志に違う勿れ」と。
宣政元年二月、家に卒す。時に七十七歳。武帝は使者を遣わして祭り、賻賵を加えた。その喪制葬礼は、諸子ら併せてその遺戒に遵った。子に韋世康あり。
梁士彥
梁士彥は字を相如といい、安定郡烏氏県の人である。若くして任俠を好み、兵書を読み、経史にも広く通じた。周の武帝が東夏 (北斉) を平定せんとしたとき、その勇猛果敢さを聞き、扶風郡守から九曲鎮将に任じ、上開府に進位し、建威県公に封ぜられた。斉人は彼を大いに恐れた。
その後、熊州刺史として武帝に従い晋州を陥落させ、大将軍に進位し、晋州刺史に任ぜられた。帝が帰還した後、斉の後主がみずから包囲攻撃し、城楼や城壁はことごとく破壊され、白兵戦となった。士彥は慷慨として泰然自若とし、将士に言った。「死は今日にある。我が汝らの先となろう。」そこで勇猛に奮い立ち、喊声は天を震わし、一をもって百に当たる者なしということはなかった。斉兵が少し退くと、妻と軍人の子女に昼夜を分かたず城を修築させ、三日で完成した。武帝の大軍もまた到着し、斉軍の包囲は解けた。士彥は帝に拝謁し、帝の鬚を撫でて泣き、帝もまたこれに涙を流した。時に帝は帰還しようとしたが、士彥は馬の轡をとって諫め、帝はこれに従った。その手をとって言った。「朕に晋州あり。斉を平らげる基盤である。よくこれを守るがよい。」斉が平定されると、郕国公に封ぜられ、上柱国・雍州総管の位に就いた。宣帝が即位すると、徐州総管に任ぜられた。烏丸軌とともに呂梁で陳の将軍呉明徹・裴忌を捕らえ、淮南の地をほぼ平定した。
隋の文帝が宰相となると、亳州総管に転じた。尉遅迥が反乱を起こすと、行軍総管として韋孝寛とともにこれを討った。家僮の梁默らを前鋒とし、士彥がこれに続き、当たる所ことごとく破った。
尉遅迥が平定されると、相州刺史に任ぜられた。深く猜忌を受けたため、代わられて京師に帰還した。閑居して事なく、功績を恃み怨みを抱き、宇文忻・劉昉らと謀反を企てた。僮僕を率い、帝が宗廟を祭祀する機会を待って挙兵しようとした。また蒲州で兵を起こし、河北を攻略し、黎陽関を押さえ、河陽の路を塞ぎ、調布を奪って甲冑とし、盗賊を募って戦士としようとした。その甥の裴通がこれを知り上奏した。帝は事を発せず、晋州刺史に任じ、その志を観ようとした。士彥は欣然として劉昉らに言った。「天の助けである!」また儀同の薛摩児を長史に請うた。帝はこれを許した。後に公卿とともに朝謁したとき、帝は行列の中で士彥・忻・昉らを捕らえさせた。その状況を詰問してもなお服さず、薛摩児を捕らえて来させ、対質させた。摩児が始末をことごとく述べ、第二子の梁剛が涙を流して苦諫し、第三子の梁叔諧が「猛獣となるには群れを成さねばならぬ」と言ったと証言した。士彥は色を失い、顧みて言った。「汝が我を殺すのだ!」そこで誅殺された。七十二歳であった。
子は五人あった。梁操は字を孟德といい、上開府・義郷県公の位にあったが、早世した。梁剛は字を永固といい、大将軍・通政県公・涇州刺史の位にあった。父を諫めたことで罪を免れ、瓜州に流された。梁叔諧は士彥の罪に連座して誅殺された。
梁默は、士彥の蒼頭 (下僕) である。 驍 勇武勇、人に絶するものがあった。士彥が征伐に従うたびに、常に梁默とともに敵陣に突入した。周に仕え、開府の位にあった。開皇の末、行軍総管として楊素に従い突厥を征討し、大将軍に進位した。また楊諒の平定に従い、柱国を授けられた。大業五年、煬帝に従い吐谷渾を征討し、力戦して戦死した。光禄大夫を追贈された。