周書

巻030

卷三十 列傳第二十二 竇熾 兄子毅 于翼 李穆

竇熾

原文 竇熾

竇熾は字を光成といい、扶風郡平陵県の人である。漢の大鴻臚(礼官)竇章の十一世の孫にあたる。竇章の子の竇統は、霊帝の時に雁門太守となったが、竇武の難を避けて匈奴に亡命し、やがて部落の大人となった。後魏が南方に遷都すると、子孫は代に住み着き、紇豆陵氏の姓を賜った。代々魏に仕え、皆高官に至った。父の竇略は平遠将軍であった。竇熾の顕著な功績により、少保・柱国大将軍・建昌公を追贈された。

原文 竇熾字光成,扶風平陵人也。漢大鴻臚章十一世孫。章子統,靈帝時,為鴈門太守,避竇武之難,亡奔匈奴,遂為部落大人。後魏南徙,子孫因家於代,賜姓紇豆陵氏。累世仕魏,皆至大官。父畧,平遠將軍。以熾著勳,贈少保、柱國大將軍、建昌公。

竇熾は性格が厳明で、謀略があり、美しい鬚髯をたくわえ、身長は八尺二寸あった。若くして范陽の祁忻に師事して毛詩・左氏春秋を学び、おおよその大意を通じた。騎射を得意とし、膂力は人に優れていた。魏の正光の末、北鎮が乱れると、竇熾は父の竇略に従って定州に避難し、葛栄の軍に捕らえられた。葛栄は竇略に官職を与えようとしたが、竇略は受けなかった。葛栄は彼に異心があると疑い、竇略を冀州に留め置き、竇熾とその兄の竇善を軍中に従わせた。

原文 熾性嚴明,有謀畧,美鬚髯,身長八尺二寸。少從范陽祁忻受毛詩、左氏春秋,畧通大義。善騎射,膂力過人。魏正光末,北鎮擾亂,熾乃隨畧避地定州,因沒於葛榮。榮欲官畧,畧不受。榮疑其有異志,遂留畧於冀州,將熾及熾兄善隨軍。

魏の永安元年、爾朱栄が葛栄を破ると、竇熾は家族を率いて爾朱栄に従い幷州へ赴いた。当時、葛栄の別帥の韓婁・郝長が数万の兵を率いて薊城を占拠して降らなかったため、竇熾を都督ととくとして、驃騎将軍侯深に従ってこれを討った。竇熾は自ら韓婁を斬り、その功により揚烈将軍に任じられた。三年、員外散騎侍郎に任じられ、給事中に転じた。建明元年、武厲将軍を加えられた。

原文 魏永安元年,爾朱榮破葛榮,熾乃將家隨榮於幷州。時葛榮別帥韓婁、郝長眾數萬人據薊城不下,以熾為都督,從驃騎將軍侯深討之。熾手斬婁,以功拜揚烈將軍。三年,除員外散騎侍郎,遷給事中。建明元年,加武厲將軍。

魏の孝武帝が即位すると、茹茹(柔然)など諸蕃がこぞって使者を遣わして朝貢し、帝は殿前に臨んで彼らを宴した。その時、鳶が殿前を飛び鳴いた。帝はかねてより竇熾が弓術に優れていることを知っていたので、遠方の者に見せようと、竇熾に御箭二本を与えて射るよう命じた。鳶は弦の音に応じて落ち、諸蕃の者は皆驚き嘆いた。帝は大いに喜び、帛五十匹を賜った。まもなく兵を率いて東南道行臺の樊子鵠に従い爾朱仲遠を追撃し、仲遠は梁に奔った。当時、梁の主(武帝)もまた元樹を遣わして侵入させ、譙城を攻め落として占拠していた。樊子鵠は竇熾に騎兵を率いてこれを撃破させ、行唐県子に封じ、邑五百戸を与えた。まもなく直閤将軍・銀青光禄大夫に任じられ、華騮令を兼ね、上洛県伯に進爵し、邑一千戸を与えられた。

原文 魏孝武即位,茹茹等諸番竝遣使朝貢,帝臨軒宴之。有鴟飛鳴於殿前,帝素知熾善射,因欲示遠人,乃給熾御箭兩隻,命射之。鴟乃應弦而落,諸番人咸歎異焉。帝大悅,賜帛五十疋。尋率兵隨東南道行臺樊子鵠追爾朱仲遠,仲遠奔梁。時梁主又遣元樹入寇,攻陷譙城,遂據之。子鵠令熾率騎兵擊破之,封行唐縣子,邑五百戶。尋拜直閤將軍、銀青光祿大夫,領華騮令,進爵上洛縣伯,邑一千戶。

当時、帝(孝武帝)は斉の神武帝(高歓)と対立しており、竇熾に威厳と重みがあるのを見て、爪牙の任に堪えるとして、閤内大都督に任じた。撫軍将軍に転じ、朱衣直閤となり、帝に従って西遷した。そして兄の竇善と共に再び城下に至り、武衛将軍の高金龍と千秋門で戦ってこれを破った。そこで宮城に入り、御馬四十匹と鞍・轡を取って行在所に進献した。帝は大いに喜び、竇熾と竇善にそれぞれ駿馬二匹、駑馬十匹を賜った。

原文 時帝與齊神武搆隙,以熾有威重,堪處爪牙之任,拜閤內大都督。遷撫軍將軍,朱衣直閤,遂從帝西遷。仍與其兄善重至城下,與武衞將軍高金龍戰於千秋門,敗之。因入宮城,取御馬四十疋并鞍勒,進之行所。帝大悅,賜熾及善駿馬各二疋、駑馬十疋。

大統元年、従駕の功により、別に真定県公に封じられ、東豫よ州刺史に任じられ、衛将軍を加えられた。竇泰を生け捕りにし、弘農を奪回し、沙苑で破る戦いに従い、いずれも功があり、邑八百戸を増やされた。河橋の戦いでは、諸将は退却した。竇熾はその時、ただ二騎の従者と共に敵に追われ、邙山に至ると、馬から下りて山を背にして抗戦した。やがて敵兵は次第に増え、三面から攻め囲み、矢は雨のように降った。竇熾の従者の持つ弓は、皆敵の射た矢で破壊されたので、竇熾はそれらの矢を総べて集めて射返し、当たった敵の人馬は皆弦の音に応じて倒れた。敵は殺傷が既に多いのを見て、互いに言った。「この者を捕らえても功とはならぬ。」そこで少しずつ退却した。竇熾はその油断に乗じて、ついに包囲を突破して脱出した。また太保の李弼に従って白額稽胡を討ち、これを破り、車騎将軍に任じられた。

原文 大統元年,以從駕功,別封真定縣公,除東豫州刺史,加衞將軍。從擒竇泰,復弘農,破沙苑,皆有功,增邑八百戶。河橋之戰,諸將退走。熾時獨從兩騎為敵人所追,至邙山,熾乃下馬背山抗之。俄而敵眾漸多,三面攻圍,矢下如雨。熾騎士所執弓,竝為敵人所射破,熾乃總收其箭以射之,所中人馬皆應弦而倒。敵以殺傷既多,乃相謂曰:「得此人未足為功。」乃稍引退。熾因其怠,遂突圍得出。又從太保李弼討白額稽胡,破之,除車騎將軍。

高仲密が北豫州を率いて帰順すると、竇熾は兵を率いて太祖(宇文泰)に従いこれを救援した。洛陽らくように至った時、東魏の軍が邙山を占拠して陣を布いていた。太祖は輜重を𤄊曲に留め置き、軽騎を率いて奮撃するよう命じ、中軍と右軍がこれを大破し、その歩兵をことごとく捕虜とした。竇熾はただ一人で石済まで追撃して帰還した。車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍さんきじょうじに転じ、邑一千戸を増やされた。十三年、使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、侍中を加えられ、邑を増やして前の分と合わせて三千九百戸となった。外任として涇州刺史となり、数年在職し、政治は清浄と称された。武安県公に改封され、大将軍に進められた。

原文 高仲密以北豫州來附,熾率兵從太祖援之。至洛陽,會東魏人據邙山為陣,太祖命留輜重於𤄊曲,率輕騎奮擊,中軍與右軍大破之,悉虜其步卒。熾獨追至石濟而還。遷車騎大將軍、儀同三司、散騎常侍,增邑一千戶。十三年,進使持節、驃騎大將軍、開府儀同三司,加侍中,增邑通前三千九百戶。出為涇州刺史,莅職數年,政號清淨。改封〈(武)〉安〔武〕縣公,進授大將軍。

魏の廃帝元年、大都督・原州刺史に任じられた。竇熾は豪族を抑え挫き、埋もれた冤罪を申し立てて処理し、たびたび自ら田畑を巡視して民に耕桑を勧めた。州に十年在任し、甚だ政績があった。州城の北に泉があった。竇熾はたびたびそこを遊歩し、かつて僚吏と泉のほとりで宴を開き、水を酌んで自ら飲みながら言った。「私がこの州にいる間は、ただこの水を飲むだけである。」そして去職した後、人々と官吏はその遺した恩恵に感じ入り、この泉に至る者があるごとに、彼を懐かしんだ。

原文 魏廢帝元年,除大都督、原州刺史。熾抑挫豪右,申理幽滯,每親巡壟畝,勸民耕桑。在州十載,甚有政績。州城之北,有泉水焉,熾屢經遊踐,嘗與僚吏宴於泉側,因酌水自飲曰:「吾在此州,唯當飲水而已。」及去職之後,人吏感其遺惠,每至此泉者,莫不懷之。

魏の恭帝元年、広武郡公に進爵した。折しも茹茹が広武を侵犯したので、竇熾は兵を率いて柱国の趙貴と分かれてこれを討った。茹茹は軍が来たと聞いて退却した。竇熾は黄河を渡り麴伏川まで追いつき、戦ってこれを大破し、その酋帥の郁久閭是発を斬り、捕虜数千人と雑畜数万頭を獲た。孝閔帝が即位すると、邑二千戸を増やされた。武成二年、柱国大将軍に任じられた。世宗(明帝)は竇熾が前朝からの忠勲であり、声望と実績ともに重んじられていたので、特に彼だけのために邸宅を造営しようとした。竇熾は天下が未だ定まらず、戦乱が止んでいない今、徒役を発するのは適さないと辞退したが、世宗は許さなかった。まもなく帝が崩御したため、この件はようやく取りやめとなった。

原文 魏恭帝元年,進爵廣武郡公。屬茹茹寇廣武,熾率兵與柱國趙貴分路討之。茹茹聞軍至,引退。熾度河至麴伏川追及,與戰,大破之,斬其酋帥郁久閭是發,獲生口數千,及雜畜數萬頭。孝閔帝踐阼,增邑二千戶。武成二年,拜柱國大將軍。世宗以熾前朝忠勳,望實兼重,欲獨為造第。熾辭以天下未定,干戈未偃,不宜輒發徒役,世宗不許。尋而帝崩,事方得寢。

保定元年、鄧国公に進封され、邑一万戸、別に資陽県一千戸を食邑とし、その租税を収めた。四年、大宗伯に任じられ、晋公の宇文護に従って東征した。天和五年、外任として宜州刺史となった。以前、太祖が渭北で狩猟し、竇熾と晋公の宇文護に走る兎を分けて射させたことがあった。竇熾は一日に十七頭を獲、宇文護は十一頭を獲た。宇文護は及ばなかったことを恥じ、これによってわだかまりを抱いた。この時、竇熾はまた高祖こうそ(武帝)が年長であることを理由に、宇文護が政権を返上すべきだという議論を勧めたため、宇文護はこれを憎み、故に左遷したのである。宇文護が誅殺された後、太傅に召し出された。

原文 保定元年,進封鄧國公,邑一萬戶,別食資陽縣一千戶,收其租賦。四年,授大宗伯,隨晉公護東征。天和五年,出為宜州刺史。先是,太祖田於渭北,令熾與晉公護分射走兔,熾一日獲十七頭,護獲十一頭。護恥其不及,因以為嫌。至是,熾又以高祖年長,有勸護歸政之議,護惡之,故左遷焉。及護誅,徵太傅。

竇熾は既に朝廷の元老であり、名声と地位は平素より高く、軍国大事の謀議には常に参与した。かつて病気になった時、高祖(武帝)がその邸宅に赴いて見舞い、金石の薬を賜った。このように礼遇されたのである。帝が大徳殿で斉を討つことを謀った時、竇熾は既に年老いていたが、腕を扼して言った。「臣は老いぼれてはおりますが、どうか盾を執り、軍の先鋒を務めさせてください。一度、鯨鯢(大敵)を誅伐し、天下を廓清し、四方を巡り風俗を観察し、泰山に登って成功を告げてから、泉下に魂を帰らせていただければ、これ以上の恨みはございません。」高祖はその志節を壮とし、ついに竇熾の第二子の武当公竇恭を左二軍総管とした。斉が平定された後、帝は竇熾を召して相州の宮殿を歴覧させた。竇熾は拝賀して言った。「陛下は真に先帝に背かれることはありませんでした。」帝は大いに喜び、奴婢三十人と雑繒帛千匹を賜り、上柱国に進めた。

原文 熾既朝之元老,名位素隆,至於軍國大謀,常與參議。嘗有疾,高祖至其第而問之,因賜金石之藥。其見禮如此。帝於大德殿將謀伐齊,熾時年已衰老,乃扼腕曰:「臣雖朽邁,請執干櫓,首啟戎行。得一覩誅翦鯨鯢,廓清寰宇,省方觀俗,登岳告成,然後歸魂泉壤,無復餘恨。」高祖壯其志節,遂以熾第二子武當公恭為左二軍總管。齊平之後,帝乃召熾歷觀相州宮殿。熾拜賀曰:「陛下真不負先帝矣。」帝大悅,賜奴婢三十人,及雜繒帛千疋,進位上柱國。

宣政元年、雍州牧を兼ねた。宣帝が東京(洛陽)を営建するに当たり、竇熾を京洛営作大監とした。宮苑の制度は、全て彼が決定した。大象の初め、食邑を楽陵県に改め、邑戸は以前の通りとした。隋の文帝が政務を補佐すると、洛陽宮の造作を停止し、竇熾は入朝を請うた。折しも尉遅迥が挙兵したため、竇熾は金墉城に移り、関中の軍士を選抜して数百人を得、洛州刺史の平涼公元亨と心を合わせて固守し、引き続き洛州鎮の事務を代行した。相州が平定されてから、竇熾はようやく入朝した。折しも隋の文帝が初めて相国となった時、百官は皆即位を勧めた。竇熾は累代の恩を受けたことを自ら考え、ついに上奏文に署名しなかった。当時の人々はその節義を高く評価した。

原文 宣政元年,兼雍州牧。及宣帝營建東京,以熾為京洛營作大監。宮苑制度,皆取決焉。大象初,改食樂陵縣,邑戶如舊。隋文帝輔政,停洛陽宮作,熾請入朝。屬尉遲迥舉兵,熾乃移入金墉城,簡練關中軍士得數百人,與洛州刺史、平涼公元亨同心固守,仍權行洛州鎮事。相州平,熾方入朝。屬隋文帝初為相國,百官皆勸進。熾自以累代受恩,遂不肯署牋。時人高其節。

隋の文帝が即位すると、太傅に任じられ、特別な礼遇を加えられ、拝礼の際に名を呼ばれなかった。開皇四年八月、薨去した。時に七十八歳であった。本官のまま、冀・滄・瀛・趙・衛・貝・魏・洛の八州諸軍事・冀州刺史を追贈された。諡は恭といった。

原文 隋文帝踐極,拜太傅,加殊禮,贊拜不名。開皇四年八月,薨,時年七十八。贈本官、冀滄瀛趙衞貝魏洛八州諸軍事、冀州刺史。諡曰恭。

竇熾は親に仕えることに孝行で、諸兄に奉じることに悌順として知られた。その地位と声望が重くなるにつれ、子孫も皆列位に処し、当時の盛んな氏族となった。

原文 熾事親孝,奉諸兄以悌順聞。及其位望隆重,而子孫皆處列位,遂為當時盛族。

子の茂が嗣いだ。茂には弟が十三人おり、恭と威が最も名を知られた。恭は位は大將軍に至り、高祖に従って齊を平定し、贊國公に封ぜられ、西兗州總管に任ぜられたが、罪により死を賜うた。

原文 子茂嗣。茂有弟十三人,恭、威最知名。恭位至大將軍。從高祖平齊,封贊國公,除西兗州總管,以罪賜死。

熾の兄の善は、中軍大都督・南城公として魏の孝武帝に従って西遷した。後に仕えて太僕・衞えい尉卿・汾北華瀛三州刺史・驃騎大將軍・開府儀同三司・永富縣公に至り、諡は忠といった。子の榮定が嗣いだ。初め魏の文帝の千牛備身に起家し、やがて平東將軍・大都督に遷り、驃騎大將軍・儀同三司に進んだ。佽飛中大夫・右司衞上大夫を歴任し、大象年間に位は大將軍に至った。熾の兄の子は毅である。

原文 熾兄善,以中軍大都督、南城公從魏孝武西遷。後仕至太僕、衞尉卿、汾北華瀛三州刺史、驃騎大將軍、開府儀同三司、永富縣公。諡曰忠。子榮定嗣。起家魏文帝千牛備身。稍遷平東將軍、大都督,進驃騎大將軍、儀同三司。歷佽飛中大夫、右司衞上大夫。大象中,位至大將軍。熾兄子毅。

兄の子 毅

原文 兄子 毅

毅は字を天武という。父の岳は早くに卒した。毅が勲功を著すに及んで、大將軍・冀州刺史を追贈された。毅は深沈にして器度があり、親に事えること孝をもって聞こえた。魏の孝武帝の初め、員外散騎侍郎として起家した。時に齊の神武帝が朝廷を擅にし、毅は慨然として主君に殉ずる志があった。

原文 毅字天武。父岳,早卒。及毅著勳,追贈大將軍、冀州刺史。毅深沉有器度,事親以孝聞。魏孝武初,起家為員外散騎侍郎。時齊神武擅朝,毅慨然有殉主之志。

孝武帝の西遷に及んで、遂に関中に入り従い、奉高縣子に封ぜられ、邑六百戸を賜り、符璽郎に任ぜられた。竇泰を擒えるに従い、弘農を回復し、沙苑で戦い、いずれも功があった。右將軍・太中大夫に拝され、侯に爵を進められ、邑一千戸を増加された。累遷して持節・撫軍將軍・通直散騎常侍となった。魏の廢帝二年、車騎大將軍・儀同三司・大都督を授けられ、安武縣公に爵を進め、邑一千四百戸を増加された。魏の恭帝元年、驃騎大將軍・開府儀同三司・大都督に進めて授けられ、永安縣公に改封され、出て幽州刺史となった。孝閔帝が践祚すると、神武郡公に爵を進め、邑を通前五千戸に増加された。保定三年、朝廷に徴し還され、左宮伯を治め、小宗伯に転じ、まもなく大將軍に拝された。

原文 及孝武西遷,遂從入關,封奉高縣子,邑六百戶,除符璽郎。從擒竇泰,復弘農,戰沙苑,皆有功。拜右將軍、太中大夫,進爵為侯,增邑一千戶。累遷持節、撫軍將軍、通直散騎常侍。魏廢帝二年,授車騎大將軍、儀同三司、大都督,進爵安武縣公,增邑一千四百戶。魏恭帝元年,進授驃騎大將軍、開府儀同三司、大都督,改封永安縣公,出為幽州刺史。孝閔帝踐阼,進爵神武郡公,增邑通前五千戶。保定三年,徵還朝,治左宮伯,轉小宗伯,尋拜大將軍。

時に齊人と覇を爭い、兵車は毎年動き、また突厥と交結して、外援と為した。太祖の時、突厥は既に我がために女を納れることを許諾し、齊人もまた甘言と重幣を以て、使いを遣わして婚を求めた。狄は元来貪婪にして、便ち悔い改めんと欲した。朝廷は乃ち楊荐らをして累次使いしてこれを結ばせ、往復十余度にして、ようやく以前の好を回復した。この時に至り、期日を以て迎えに行くも、なお改圖するを懼れた。毅が勲戚を兼ね、平素より威重あるを以て、乃ち使いと為すを命じた。毅の至るに及んで、齊の使いもまたそこに在った。突厥の君臣は、なお二心有り。毅は抗言正色して、大義を以てこれを責め、累旬にして乃ち定まり、ついに皇后を以て歸した。朝議はこれを嘉し、別に成都縣公に封じ、邑一千戸を賜り、位を柱國に進めた。出て同州刺史となり、蒲州總管に遷り、金州總管に徙り、上柱國を加授され、入って大司馬となった。隋の開皇初め、定州總管に拝された。累ねて藩鎮に居り、ことごとく民和を得た。二年、州において薨じ、年六十四。襄郢等六州刺史を贈られ、諡は肅といった。毅の性質は温和にして、常に謹慎を以て自ら守り、また太祖の第五女襄陽公主を尚び、特に朝廷の委信を受けた。任は出入を兼ねるも、未だ矜惰の容有ることなく、時人はこれを以て称した。子の賢が嗣いだ。

原文 時與齊人爭衡,戎車歲動,竝交結突厥,以為外援。在太祖之時,突厥已許納女於我,齊人亦甘言重幣,遣使求婚。狄固貪婪,便欲有悔。朝廷乃令楊荐等累使結之,往反十餘,方復前好。至是,雖期往逆,猶懼改圖。以毅地兼勛戚,素有威重,乃命為使。及毅之至,齊使亦在焉。突厥君臣,猶有貳志。毅抗言正色,以大義責之,累旬乃定,卒以皇后歸。朝議嘉之,別封成都縣公,邑一千戶,進位柱國。出為同州刺史,遷蒲州總管,徙金州總管,加授上柱國,入為大司馬。隋開皇初,拜定州總管。累居藩鎮,咸得民和。二年,薨於州,年六十四。贈襄郢等六州刺史,諡曰肅。毅性溫和,每以謹慎自守,又尚太祖第五女襄陽公主,特為朝廷所委信。雖任兼出入,未嘗有矜惰之容,時人以此稱焉。子賢嗣。

賢は字を託賢といい、志業は通敏にして、少にして名を知られた。天和二年、策をもって神武國の世子に拝された。宣政元年、使持節儀同大將軍を授けられた。隋の開皇年中、爵を神武公に襲い、遷州刺史に任ぜられた。

原文 賢字託賢,志業通敏,少知名。天和二年,策拜神武國世子。宣政元年,授使持節儀同大將軍。隋開皇中,襲爵神武公,除遷州刺史。

(毅の)第二女は即ち唐の太穆皇后である。武德元年、詔して司空しくう・穆總管荊郢硤夔復沔岳沅澧鄂十州諸軍事・荊州刺史を追贈し、杞國公に封じた。并へいせて賢を追贈し、金遷房直均五州諸軍事・金州刺史とし、杞國公を襲わしめた。また賢の子の紹宣に秦州刺史を追贈し、并せて賢の爵を襲わしめた。紹宣には子が無く、仍って紹宣の兄の孝宣の子の德藏を嗣と為した。

原文 〔毅〕〈(有)〉〔第〕二女即唐太穆皇后。武德元年,詔贈司空、穆總管荊郢硤夔復沔岳沅〈(灃)〉〔澧〕鄂十州諸軍事、荊州刺史,封杞國公。并追贈賢,金遷房直均五州諸軍事、金州刺史,襲杞國公。又追贈賢子紹宣秦州刺史,并襲賢爵。紹宣無子,仍以紹宣兄孝宣子德藏為嗣。

于翼

原文 于翼

于翼は字を文若といい、太師・燕公の謹の子である。風儀は美しく、識度有り。年十一にして、太祖の女の平原公主を尚ぎ、員外散騎常侍に拝され、安平縣公に封ぜられ、邑一千戸を賜った。大統十六年、郡公に爵を進め、大都督を加えられ、太祖の帳下左右を領し、禁中の宿衞に当たった。鎮南將軍・金紫光祿大夫・散騎常侍・武衞將軍に遷った。謹が江陵を平定した時、得たる軍實を諸子に分け与えた。翼は一も取るところ無く、ただ賞口の中の名望有る子弟で士風ある者を簡抜し、別に待遇した。太祖はこれを聞き、特に奴婢二百口を賜うたが、翼は固く辞して受けなかった。まもなく車騎大將軍・儀同三司を授けられ、侍中・驃騎大將軍・開府儀同三司を加えられた。六官が建てられると、左宮伯に任ぜられた。

原文 于翼字文若,太師、燕公謹之子。美風儀,有識度。年十一,尚太祖女平原公主,拜員外散騎常侍,封安平縣公,邑一千戶。大統十六年,進爵郡公,加大都督,領太祖帳下左右,禁中宿衞。遷鎮南將軍、金紫光祿大夫、散騎常侍、武衞將軍。謹平江陵,所贈得軍實,分給諸子。翼一無所取,唯簡賞口內名望子弟有士風者,別待遇之。太祖聞之,特賜奴婢二百口,翼固辭不受。尋授車騎大將軍、儀同三司,加侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司。六官建,除左宮伯。

孝閔帝が践祚すると、出て渭州刺史となった。翼の兄の寔が先にこの州に莅み、頗る惠政有り。翼もまた誠を推し信を布き、事は寛簡を存し、夷夏ともに感悦し、大小の馮君に比せられた。時に吐谷渾が河右に寇し、涼鄯河の三州ことごとく攻囲され、使い来たりて急を告げた。秦州都督は翼を遣わして赴援せしめんとしたが、従わなかった。寮屬は皆これを言上した。翼曰く、「攻取の術は、夷俗の長ずる所に非ず。此の寇の来るは、辺牧を抄掠するに過ぎず。安んぞ兵を城下に頓え、久しく攻囲に事えんや!掠うて獲ること無ければ、勢い自ずから走らん。師を労して往くも、亦及ぶ所無からん。翼はこれを揣るに既に了んず、幸いに復言うこと勿れ」。数日を居て問い至るも、果たして翼の策の如し。賀蘭祥が吐谷渾を討つに、翼は州兵を率いて先鋒となり深く入った。功により邑一千二百戸を増加された。まもなく徴されて右宮伯に拝された。

原文 孝閔帝踐阼,出為渭州刺史。翼兄寔先莅此州,頗有惠政。翼又推誠布信,事存寬簡,夷夏感悅,比之大小馮君焉。時吐谷渾入寇河右,涼鄯河三州咸被攻圍,使來告急。秦州都督遣翼赴援,不從。寮屬咸以為言。翼曰:「攻取之術,非夷俗所長。此寇之來,不過抄掠邊牧耳。安能頓兵城下,久事攻圍!掠而無獲,勢將自走。勞師以往,亦無所及。翼揣之已了,幸勿復言。」居數日問至,果如翼所策。賀蘭祥討吐谷渾,翼率州兵先鋒深入。以功增邑一千二百戶。尋徵拜右宮伯。

世宗は文史を雅く愛し、麟趾學を立て、朝に在って藝業有る者は、貴賤を限らず、皆預かってこれを聴かしめた。乃ち蕭撝・王褒等より卑鄙の徒に至るまで同しく學士と為った。翼、帝に言うに曰く、「蕭撝は梁の宗子、王褒は梁の公卿なり。今趨走の輩と同儕と為すは、恐らくは尚賢貴爵の義に非ず」。帝はこれを納れ、詔して翼にその班次を定めしめ、ここに於いて等差有ることとなった。

原文 世宗雅愛文〈(士)〉〔史〕,立麟趾學,在朝有藝業者,不限貴賤,皆預聽焉。乃至蕭撝、王褒等與卑鄙之徒同為學士。翼言於帝曰:「蕭撝,梁之宗子;王褒,梁之公卿。今與趨走同儕,恐非尚賢貴爵之義。」帝納之,詔翼定其班次,於是有等差矣。

世宗崩御し、翼は晉公の護と共に遺詔を受け、高祖を立てた。保定元年、軍司馬に徙った。三年、常山郡公に改封され、邑二千九百戸を賜った。天和初め、司會中大夫に遷り、邑を通前三千七百戸に増加された。三年、皇后の阿史那氏が突厥より至り、高祖は親迎の禮を行い、翼に命じて儀制を総司せしめた。狄人は蹲踞して節無きも、然れども皆翼の禮法を憚り、敢えて違犯する者無し。父の憂いに遭い職を去り、喪に居ること禮を過ぎ、時輩に称された。まもなく詔有り、起きて視事せしむ。高祖はまた翼に人倫の鑒有るを以て、皇太子及び諸王等の相傅以下、并せて翼に選置を委ねた。その擢用する所は、皆民譽有る者にして、時論は僉に人を得たりと謂う。大將軍に遷り、中外の宿衞兵事を総べた。

原文 世宗崩,翼與晉公護同受遺詔,立高祖。保定元年,徙軍司馬。三年,改封常山〈(縣)〉〔郡〕公,邑二千九百戶。天和初,遷司會中大夫,增邑通前三千七百戶。三年,皇后阿史那氏至自突厥,高祖行親迎之禮,命翼總司儀制。狄人雖蹲踞無節,然咸憚翼之禮法,莫敢違犯。遭父憂去職,居喪過禮,為時輩所稱。尋有詔,起令視事。高祖又以翼有人倫之鑒,皇太子及諸王等相傅以下,竝委翼選置。其所擢用,皆民譽也,時論僉謂得人。遷大將軍,總中外宿衞兵事。

晉公の護は帝が翼を腹心に委ねるを以て、内に猜忌を懐いた。小司徒しとに転じ、柱國を加拝された。外には崇重を示すも、実はこれを疏斥した。護が誅せられるに及んで、帝は翼を召し、河東に遣わして護の子の中山公の訓を取らせ、仍って蒲州を鎮守せしめ代わらんとした。翼曰く、「冢宰は君に無くして上を陵ぎ、自ら誅夷を取る。元悪既に除かれ、余孽宜しく殄ぶべし。然れども皆陛下の骨肉、猶お疏は親を間せずと謂う。陛下は諸王を使わしめずして臣の異姓を使わしむるは、直ちに物に横議有るのみならず、愚臣も亦未だ安からず」。帝は然りとし、乃ち越王の盛を遣わして翼に代わらしめた。

原文 晉公護以帝委翼腹心,內懷猜忌。轉為小司徒,加拜柱國。雖外示崇重,實疏斥之。及誅護,帝召翼,遣往河東取護子中山公訓,仍代鎮蒲州。翼曰:「冢宰無君陵上,自取誅夷。元惡既除,餘孽宜殄。然皆陛下骨肉,猶謂疏不間親。陛下不使諸王而使臣異姓,非直物有橫議,愚臣亦所未安。」帝然之,乃遣越王盛代翼。

先に、北斉・陳の二国境とそれぞれ辺防を修め、聘問を通じて好を通じるも、毎年交兵していた。しかし一進一退して、互いに攻め取ることはできなかった。高祖(武帝)が万機を親裁するようになり、東討を図ろうとすると、詔を下して辺境の城鎮に、ともに蓄えを増やし、戍卒を加えた。二国はこれを聞き、また守備を増強した。韋翼は諫めて言う、「宇文護が専制していた頃、兵を起こして洛陽に至ったが、戦わずして敗れ、失ったものは実に多かった。数十年の蓄積が、一朝にして散じたのである。これは護に勝算の策がなかったためでもあるが、また敵に備えがあったからでもある。かつ国境を侵し合い、互いに勝敗があり、ただ兵糧を損なうのみで、上策とは言えない。辺境の厳戒を解き、防備を減らし、友好を継ぎ民を休ませ、来る者を敬って待つがよい。彼らは必ず和を通じることを喜び、備えを緩めて少なくするであろう。その後に不意を突けば、一挙にして山東を図ることができる。もしなお前の轍を踏むならば、恐らく平定の計とは言えまい。」帝はこれを容れた。

原文 先是,與齊陳二境,各修邊防,雖通聘好,而每歲交兵。然一彼一此,不能有所克獲。高祖既親萬機,將圖東討,詔邊城鎮,竝益儲偫,加戍卒。二國聞之,亦增修守禦。翼諫曰:「宇文護專制之日,興兵至洛,不戰而敗,所喪實多。數十年委積,一朝麋散。雖為護無制勝之策,亦由敵人之有備故也。且疆埸相侵,互有勝敗,徒損兵儲,非策之上者。不若解邊嚴,減戎防,繼好息民,敬待來者。彼必〈(善)〉〔喜〕於通和,懈而少備,然後出其不意,一舉而山東可圖。若猶習前蹤,恐非蕩定之計。」帝納之。

建徳二年(573年)、出向して安随等六州五防諸軍事・安州総管となった。時に大旱が続き、溳水の流れが絶えた。旧来の習俗では、旱魃のたびに白兆山に祈雨した。高祖は先に群祀を禁じており、山の廟はすでに除かれていた。韋翼は主簿を遣わしてこれを祭らせると、その日に慈雨が降り潤い、その年は豊作となった。民衆はこれを感じ、集まって歌舞し、韋翼の徳を称えた。

原文 建德二年,出為安隨等六州五防諸軍事、安州總管。時屬大旱,溳水絕流。舊俗,每逢亢陽,禱白兆山祈雨。高祖先禁羣祀,山廟已除。翼遣主簿祭之,即日澍雨霑洽,歲遂有年。民庶感之,聚會歌舞,頌翼之德。

四年(575年)、高祖が東征しようとした時、朝臣で知る者はなく、納言盧韞らを前後して駅馬で走らせ、三度韋翼のもとに赴いて策を問うた。韋翼はこれを賛成した。軍が出ると、詔により韋翼は荊・楚の兵二万を率い、宛・葉から襄城に向かい、大将軍張光洛・鄭恪らをともに隷属させた。十日で北斉の十九城を陥落させた。配下の都督が民村に入ると、即座に斬って示し、これにより百姓は喜び、赴く者が帰郷するが如かった。高祖が病を得たため、軍を返し、韋翼もまた鎮に戻った。

原文 四年,高祖將東伐,朝臣未有知者,遣納言盧韞等前後乘驛,三詣翼問策焉。翼贊成之。及軍出,詔翼率荊、楚兵二萬,自宛、葉趣襄城,大將軍張光洛、鄭恪等竝隸焉。旬日下齊一十九城。所部都督,輒入民村,即斬以狥。由是百姓欣悅,赴者如歸。屬高祖有疾,班師,翼亦旋鎮。

五年(576年)、転じて陝熊等七州十六防諸軍事・宜陽総管となった。韋翼は宜陽の地が要害でないとして、鎮を陝に移すよう請うた。詔はこれに従い、なお陝州刺史を除し、総管は旧の如くとした。その年、大軍が再び東征し、韋翼は陝から九曲に入り、造澗等の諸城を攻め落とし、直ちに洛陽に到った。北斉の洛州刺史獨孤永業は門を開いて出降し、河南の九州三十鎮が一時にことごとく陥った。襄城の民衆らは韋翼を再び見ることを喜び、ともに壺漿を捧げて道を塞いだ。まもなく洛懐等九州諸軍事・河陽総管を除された。

原文 五年,轉陝熊等七州十六防諸軍事、宜陽總管。翼以宜陽地非襟帶,請移鎮於陝。詔從之,仍除陝州刺史,總管如舊。其年,大軍復東討,翼自陝入九曲,攻拔造澗等諸城,徑到洛陽。齊洛州刺史獨孤永業開門出降,河南九州三十鎮,一時俱下。襄城民庶等喜復見翼,竝壺漿塞道。尋即除洛懷等九州諸軍事、河陽總管。

まもなく豫州総管に転じ、兵五千人・馬千匹を与えられて鎮に赴き、開府及び儀同等二十人を配属された。なお河陽・襄州・安州・荊州の四州総管内に武幹ある者を、韋翼が徴牒することを任せ、多少を限らなかった。儀同以下の官爵は、制を承って先に授け後で奏聞した。陳の将魯天念が長く光州を包囲していたが、韋翼が汝南に到ったと聞き、風に望んで退散した。霍州の蛮首田元顯は険阻を頼み従わなかったが、この時、人質を送り帰順を請うた。陳の将任蠻奴が全軍で元顯を攻めると、元顯は柵を立てて防戦し、異心を持つことはなかった。韋翼が朝廷に戻ると、元顯はすぐに叛いた。彼が異俗の人心を得るのは、皆この類いであった。

原文 尋徙豫州總管,給兵五千人、馬千疋以之鎮,并配開府及儀同等二十人。仍勑河陽、襄州、安州、荊州〈(泗)〉〔四〕州總管內有武幹者,任翼徵牒,不限多少。儀同以下官爵,承制先授後聞。陳將魯天念久圍光州,聞翼到汝南,望風退散。霍州蠻首田元顯,負險不賓,於是,送質請附。陳將任蠻奴悉眾攻顯,顯立柵拒戰,莫有異心。及翼還朝,元顯便叛。其得殊俗物情,皆此類也。

大象初年(579年)、召されて大司徒に拝された。詔により韋翼は長城を巡視し、亭障を立てた。西は雁門から東は碣石に至り、新たに創り旧きを改め、ことごとくその要害を得たという。なお幽定七州六鎮諸軍事・幽州総管を除された。先に、突厥がたびたび寇掠し、住民は生業を失っていた。韋翼は平素より威武があり、斥候にも明るかったため、これより敢えて塞を犯さず、百姓は安堵した。

原文 大象初,徵拜大司徒。詔翼巡長城,立亭鄣。西自鴈門,東至碣石,創新改舊,咸得其要害云。仍除幽定七州六鎮諸軍事、幽州總管。先是,突厥屢為寇掠,居民失業。翼素有威武,兼明斥候,自是不敢犯塞,百姓安之。

尉遲迥が相州に拠って挙兵した時、書を送って韋翼を招いた。韋翼はその使者を捕らえ、書状とともに送った。時に隋文帝が政を執り、韋翼に雑繒一千五百段・粟麦一千五百石、ならびに珍宝服玩等を賜り、上柱国に進め、任国公に封じ、邑を増やして通前五千戸とし、別に任城県一千戸を食邑とし、その租賦を収めた。韋翼はまた子の韋譲を遣わして上表して勧進し、ならびに入朝を請うた。隋文帝はこれを許した。

原文 及尉遲迥據相州舉兵,以書招翼。翼執其使,并書送之。于時隋文帝執政,賜翼雜繒一千五百段、粟麥一千五百石,并珍寶服玩等,進位上柱國,封任國公,增邑通前五千戶,別食任城縣一千戶,收其租賦。翼又遣子讓通表勸進,并請入朝。隋文帝許之。

開皇初年(581年)、太尉に拝された。ある者が韋翼を告発し、かつて幽州で尉遲迥と同調しようとしたと云う。隋文は清室に召致し、理官に按検させた。まもなく事実無きにより赦され、なお元の位に復した。三年(583年)五月、薨去した。本官を贈られ、蒲晋懐絳邵汾六州諸軍事・蒲州刺史を加えられ、諡して穆といった。

原文 開皇初,拜太尉。或有告翼,云往在幽州欲同尉遲迥者,隋文召致〈(凊)〉〔清〕室,遣理官按驗。尋以無實見原,仍復本位。三年五月,薨。贈本官、加蒲晉懷絳邵汾六州諸軍事、蒲州刺史,諡曰穆。

韋翼の性質は恭儉で、物と競わず、常に満ち盈ちることを戒めとしたため、功名を全うすることができた。

原文 翼性恭儉,與物無競,常以滿盈自戒,故能以功名終。

子の韋璽は、上大将軍・軍司馬・黎陽郡公に至った。韋璽の弟韋詮は、上儀同三司・吏部下大夫・常山公となった。韋詮の弟韋譲は、儀同三司となった。

原文 子璽,官至上大將軍、軍司馬、黎陽郡公。璽弟詮,上儀同三司、吏部下大夫、常山公。詮弟讓,儀同三司。

尉遲迥が挙兵した時、河西公李賢の弟李穆が幷州総管であったが、やはり迥の子を捕らえて送った。

原文 尉遲迥之舉兵也,河西公李賢弟穆為幷州總管,亦執迥子送之。

李穆は字を顯慶といい、若くして明敏で度量があった。太祖(宇文泰)が関中に入ると、すぐに左右に給事し、深く親遇された。李穆もまた小心謹肅で、懈怠することはなかった。太祖はこれを嘉し、遂に腹心の任に処し、臥内に出入りし、当時比べる者もなかった。侯莫陳悦が賀拔岳を害すると、太祖は夏州から難に赴いたが、悦の党の史帰が原州を占拠し、なお悦のために守っていた。太祖は侯莫陳崇に軽騎で襲撃させた。李穆は先に城中におり、兄の李賢・李遠らと城門を占拠して崇に応じ、遂に史帰を生け捕りにした。功により都督を授かった。魏の孝武帝を迎えることに従い、永平県子に封じられ、邑三百戸を賜った。竇泰を生け捕りにし、弘農を回復し、ともに戦功があった。沙苑の戦勝の時、李穆はまた太祖に言う、「高歓は今日すでに胆を喪いました。速やかにこれを追撃すれば、歓を生け捕りにできます。」太祖は聞き入れなかった。前後の功績により、爵を公に進めた。

原文 李穆字顯慶,少明敏,有度量。太祖入關,便給事左右,深被親遇。穆亦小心謹肅,未嘗懈怠。太祖嘉之,遂處以腹心之任,出入臥內,當時莫與為比。及侯莫陳悅害賀拔岳,太祖自夏州赴難,而悅黨史歸據原州,猶為悅守。太祖令侯莫陳崇輕騎襲之。穆先在城中,與兄賢、遠等據城門應崇,遂擒歸。以功授都督。從迎魏孝武,封永平縣子,邑三百戶。擒竇泰,復弘農,竝有戰功。沙苑之捷,穆又言於太祖曰:「高歡今日已喪膽矣,請速逐之,則歡可擒也。」太祖不聽。論前後功,進爵為公。

河橋の戦いで、太祖の乗った馬が流れ矢に中って驚き逸れ、太祖は地に墜ち、軍中大いに騒然とした。敵が追い付き、左右の者は皆奔り散った。李穆は鞭で太祖を打ち、因って大いに罵って言う、「お前らの主君はどこにいる? お前一人ここに留まっているのか!」敵はこれが貴人であると疑わず、遂に捨てて通り過ぎた。李穆は馬を太祖に与え、遂にともに免れることができた。この日李穆がいなければ、太祖は助からなかったであろう。これより恩顧は一層厚くなった。武衛将軍に抜擢され、大都督・車騎大将軍・儀同三司を加えられ、爵を安武郡公に進め、邑一千七百戸を増やされた。前後の賞賜は数え切れなかった。久しくして、太祖はその志節を称え、嘆いて言う、「人の貴ぶものは、ただ身命のみである。李穆は遂に身命の重さを軽んじ、孤を難に救った。たとえ爵位を加え、玉帛で賞しても、報いるに足りない。」乃ち特に鉄券を賜い、十死を恕した。驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中に進んだ。初め、李穆は驄馬を太祖に与えたが、その後中廄にこの色の馬があると、全てを李穆に賜った。また李穆の世子李惇を安楽郡公とし、姉一人を郡君とし、余りの姉妹は皆県君とし、兄弟子姪及び緦麻以上の親族ならびに舅氏に、皆厚賜を浴びせた。その褒め崇められること、このようであった。

原文 河橋之戰,太祖所乘馬中流矢驚逸,太祖墜於地,軍中大擾。敵人追及之,左右皆奔散,穆乃以策抶太祖,因大罵曰:「爾曹主何在?爾獨住此!」敵人不疑是貴人也,遂捨之而過。穆以馬授太祖,遂得俱免。是日微穆,太祖已不濟矣。自是恩盼更隆。擢授武衞將軍,加大都督、車騎大將軍、儀同三司,進爵〈(武)〉安〔武〕郡公,增邑一千七百戶。前後賞賜,不可勝計。久之,太祖美其志節,乃歎曰:「人之所貴,唯身命耳,李穆遂能輕身命之重,濟孤於難。雖復加之以爵位,賞之以玉帛,未足為報也。」乃特賜鐵券,恕以十死。進驃騎大將軍、開府儀同三司、侍中。初,穆授太祖以驄馬,其後中廄有此色馬者,悉以賜之。又賜穆世子惇安樂郡公,姊一人為郡君,餘姊妹竝為縣君,兄弟子姪及緦麻以上親并舅氏,皆霑厚賜。其見褒崇如此。

玉壁の包囲を解くことに従い、安定国中尉に拝された。まもなく同州刺史を授かり、入朝して太僕卿となった。江陵征討の功により、一子を長城県侯に封じ、邑千戸を賜った。まもなく大将軍に進位し、拓跋氏の姓を賜った。俄かに原州刺史を除され、また李賢の子を平高郡守とし、李遠の子を平高県令とし、ともに鼓吹を加えられた。李穆は叔姪一家三人が皆郷里の牧宰となるのは、恩遇が過ぎて厚いとして、固辞して拝命しなかった。太祖は許さなかった。後に雍州刺史に転じ、入朝して小冢宰となった。孝閔帝が践祚すると、邑を増やして通前三千七百戸とし、また別に一子を県伯に封じた。李穆は封を李賢の子李孝軌に回すよう請い、許された。

原文 從解玉壁圍,拜安定國中尉。尋授同州刺史,入為太僕卿。征江陵功,封一子長城縣侯,邑千戶。尋進位大將軍,賜姓拓拔氏。俄除原州刺史,又以賢子為平高郡守,遠子為平高縣令,竝加鼓吹。穆自以叔姪一家三人,皆牧宰鄉里,恩遇過隆,固辭不拜。太祖不許。後轉雍州刺史,入為小冢宰。孝閔帝踐阼,增邑通前三千七百戶,又別封一子為縣伯。穆請迴封賢子孝軌,許之。

また、遠の子の植が晋公護を謀害しようとし、植は誅殺され、穆も連座して除名された。時に植の弟の基は淅州刺史を務めており、例によって連座すべきであった。穆はたびたび護のもとに赴き、子の惇や怡らを代わりに死なせて基を助けてほしいと願い出た。その言葉と道理は悲痛切実で、聞く者は誰もが心を動かされない者はなかった。護はこれを哀れに思い、ついに特に基の死罪を免じた。

原文 及遠子植謀害晉公護,植誅死,穆亦坐除名。時植弟基任淅州刺史,例合從坐。穆頻詣護,請以子惇、怡等代基死,辭理酸切,聞者莫不動容。護矜之,遂特免基死。

世宗が即位すると、驃騎大将軍・開府儀同三司・大都督・安武郡公・直州刺史に任じられた。武成二年、少保に任じられた。保定二年、大将軍に進んだ。三年、随公楊忠に従って東征した。帰還後、小司徒に任じられ、柱国大将軍に転じ、別に一子を郡公に封じ、邑二千戸を与えられた。五年、大司空に転じた。天和二年、申国公に進封され、邑五千戸を与えられ、旧爵は一子に回授された。建徳元年、太保に転じた。まもなく出向して原州総管となった。四年、高祖が東征した際、穆に兵三万を率いさせ、別に軹関及び河北の諸県を攻撃させ、ことごとくこれを破った。後に帝の病気により軍を返したため、放棄して守らなかった。六年、上柱国に進み、幷州総管に任じられた。時に東夏は再び平定されたが、人心はなお騒がしかった。穆は静謐をもってこれを鎮め、百姓はこれを慕った。大象元年、大左輔に転じ、総管はもとのままとした。二年、太傅を加えられ、やはり総管を務めた。

原文 世宗即位,拜驃騎大將軍、開府儀同三司、大都督、安武郡公、直州刺史。武成二年,拜少保。保定二年,進位大將軍。三年,從隨公楊忠東伐。還,拜小司徒,遷柱國大將軍,別封一子郡公,邑二千戶。五年,遷大司空。天和二年,進封申國公,邑五千戶,舊爵迴授一子。建德元年,遷太保。尋出為原州總管。四年,高祖東征,令穆率兵三萬,別攻軹關及河北諸縣,竝破之。後以帝疾班師,棄而不守。六年,進位上柱國,除幷州總管。時東夏再平,人情尚擾,穆鎮之以靜,百姓懷之。大象元年,遷大左輔,總管如舊。二年,加太傅,仍總管。

尉遅迥が挙兵すると、穆の子の栄はこれに応じようとした。穆は聞き入れず、「周の徳はすでに衰え、愚者も智者も皆これを知っている。天の時がこのようであるのに、我々がどうして天に背けようか」と言い、使者を遣わして隋の文帝に謁見させ、十三環の金帯を献上した。これは天子の服であるから、ひそかにその意を表明したのである。時に迥の子の誼は朔州刺史であったが、これも捕らえて京師に送った。迥はその任命した行台の韓長業に潞州を攻め落とさせ、刺史の趙威を捕らえ、城民の郭子勝を刺史に任命した。穆は兵を派遣してこれを討ち、子勝を捕らえた。隋の文帝はこれを賞賛し、穆の功労を鄴城ぎょうじょう攻略の第一の勲功と同じとし、三転を加え、その二子の栄・才および兄の賢の子の孝軌に分授することを許した。栄と才はともに儀同大将軍となり、孝軌は開府儀同大将軍に進んだ。また別に子の雄を密国公に封じ、邑三千戸を与えた。

原文 及尉遲迥舉兵,穆子榮欲應之。穆弗聽曰:「周德既衰,愚智共悉。天時若此,吾豈能違天。」乃遣使謁隋文帝,并上十三環金帶,蓋天子之服也,以微申其意。時迥子誼為朔州刺史,亦執送京師。迥令其所署行臺韓長業攻陷潞州,執刺史趙威,署城民郭子勝為刺史。穆遣兵討之,獲子勝。隋文帝嘉之,以穆勞効同破鄴城第一勳,加三轉,聽分授其二子榮、才及兄賢子孝軌。榮及才竝儀同大將軍,孝軌進開府儀同大將軍。又別封子雄為密國公,邑三千戶。

穆の長子の惇は、字を士宇という。大統四年、穆の功績により安平県侯の爵位を賜り、まもなく車騎大将軍・儀同三司・大都督に任じられ、公に進爵した。太祖は功臣の世子たちをみな略陽公と交遊させたが、惇は同輩の中でも特に引き立てられ接遇された。遠方の服玩や異域の珍奇な物があるたびに、必ず分け与えられた。ほどなく小武伯に任じられ、安楽郡公に進爵した。天和三年、驃騎大将軍・開府儀同三司・鳳州刺史に転じた。任中で卒した。大将軍・原霊豳三州刺史を追贈された。

原文 穆長子惇,字士宇。大統四年,以穆功賜爵安平縣侯,尋授車騎大將軍、儀同三司、大都督,進爵為公。太祖令功臣世子竝與畧陽公遊處,惇於時輩之中,特被引接。每有遐方服玩,異域珍奇,無不班錫。俄〈(受)〉〔授〕小武伯,進爵安樂郡公。天和三年,遷驃騎大將軍、開府儀同三司、鳳州刺史。卒於位。贈大將軍、原靈豳三州刺史。

【史評】

原文 【史評】

史臣が言う。竇熾は体躯が魁偉で、器量と見識が雄大遠大であった。朝廷の政務に参与すれば、良策を陳べ、地方の長官として出れば、恵み深い政治を行き渡らせた。竇毅は忠実謹厳に主上に仕え、温かく恭しく臣下に接し、立派な事績は本朝に顕れ、義の名声は異域にまで響き渡った。ともに国の精華であり民の望みであり、道理を論じて官職に当たり、栄光は一時を照らし、慶事は後世に流れた。また、熾が即位を勧めるのをためらったのは、旧主を送る心があったからであり、たとえ王公が恨み嘆いても、これ以上に何があろうか。

原文 史臣曰:竇熾儀表魁梧,器識雄遠。入參朝政,則嘉謀以陳;出總蕃條,則惠政斯洽。竇毅忠肅奉上,溫恭接下,茂實彰於本朝,義聲揚於殊俗。竝以國華民望,論道當官,榮映一時,慶流來葉。及熾遲疑勸進,有送故之心,雖王公恨恨,何以加此。

論語に言う。「君、臣を使うに礼を以てし、臣、君に事うるに忠を以てす」。しかしながら、忠を尽くす事跡は異なることがあっても、臣下としての道理は一つである。要旨を論じれば、それは命を捧げることにあるのだろうか。それゆえ、典午(司馬氏)が朝廷を専断した時、葛公休はこれに袖を振るって立ち上がり、新都(王莽)が盗み取った時、翟仲文はこれによって兵を挙げた。また、東郡が誅滅されたことは、ついに漢朝の禍を速め、淮南が敗北覆滅したことは、魏室の滅亡を救うことができなかった。しかし、烈士や貞臣は、次々と危難に赴いてやまない。これは忠義に感じて、死を帰するがごとくに見なすからではなかろうか。于・李(于謹・李穆)の往事を送り現事に居る(旧主を送り新主に仕える)態度は、この点において曲がっている。翼(李弼の子)はすでに功臣の子であり、地位は姻戚である。穆は早くから勲功を顕著にし、深く心腹として寄せられていた。ともに文武の任を兼ね、累世の恩を受けており、道理として存亡を共にし、喜び憂いを同じくすべきであった。これに城を守る託えを受け、軍馬の権を総べることを加えれば、勢力は王事を助けるに足り、知能は危難を防衛するに足りた。しかるに安楽に寵禄に甘んじ、かつて位を退く心はなく、使者に報い誠を献ずるにも、ただ時流に従う義を務めたのみである。名節を広めて富貴を高くすることは、二公に望むところではなかった。もしあの天時を捨てて、人事を徴するならば、顕慶(尉遅迥)が晋陽の兵を起こし、文若(?)が幽薊の兵を発し、岷峨で契りを合わせ、漳滏で合従を約し、北は沙漠を制し、西は崤函を指せば、成敗の数は、量りがたいものであったろうに。

原文 語曰:「君使臣以禮,臣事君以忠。」然則効忠之迹或殊,處臣之理斯一,榷言指要,其維致命乎。是以典午擅朝,葛公休為之投袂;新都篡盜,翟仲文所以稱兵。及東郡誅夷,竟速漢朝之禍;淮南覆敗,無救魏室之亡。而烈士貞臣,赴蹈不已,豈忠義所感,視死如歸者歟。于、李之送往事居,有曲於此。翼既功臣之子,地即姻親;穆乃早著勳庸,深寄肺腑。竝兼文武之任,荷累世之恩,理宜與存與亡,同休同戚。加以受扞城之託,總戎馬之權,勢力足以勤王,智能足以衞難。乃宴安寵祿,曾無釋位之心;報使獻誠,但務隨時之義。弘名節以高貴,豈所望於二公。若捨彼天時,徵諸人事,顯慶起晉陽之甲,文若發幽薊之兵,叶契岷峨,約從漳滏,北控沙漠,西指崤函,則成敗之數,未可量也。