竇熾
竇熾は字を光成といい、扶風郡平陵県の人である。漢の大鴻臚(礼官)竇章の十一世の孫にあたる。竇章の子の竇統は、霊帝の時に雁門太守となったが、竇武の難を避けて匈奴に亡命し、やがて部落の大人となった。後魏が南方に遷都すると、子孫は代に住み着き、紇豆陵氏の姓を賜った。代々魏に仕え、皆高官に至った。父の竇略は平遠将軍であった。竇熾の顕著な功績により、少保・柱国大将軍・建昌公を追贈された。
竇熾は性格が厳明で、謀略があり、美しい鬚髯をたくわえ、身長は八尺二寸あった。若くして范陽の祁忻に師事して毛詩・左氏春秋を学び、おおよその大意を通じた。騎射を得意とし、膂力は人に優れていた。魏の正光の末、北鎮が乱れると、竇熾は父の竇略に従って定州に避難し、葛栄の軍に捕らえられた。葛栄は竇略に官職を与えようとしたが、竇略は受けなかった。葛栄は彼に異心があると疑い、竇略を冀州に留め置き、竇熾とその兄の竇善を軍中に従わせた。
魏の孝武帝が即位すると、茹茹(柔然)など諸蕃がこぞって使者を遣わして朝貢し、帝は殿前に臨んで彼らを宴した。その時、鳶が殿前を飛び鳴いた。帝はかねてより竇熾が弓術に優れていることを知っていたので、遠方の者に見せようと、竇熾に御箭二本を与えて射るよう命じた。鳶は弦の音に応じて落ち、諸蕃の者は皆驚き嘆いた。帝は大いに喜び、帛五十匹を賜った。まもなく兵を率いて東南道行臺の樊子鵠に従い爾朱仲遠を追撃し、仲遠は梁に奔った。当時、梁の主(武帝)もまた元樹を遣わして侵入させ、譙城を攻め落として占拠していた。樊子鵠は竇熾に騎兵を率いてこれを撃破させ、行唐県子に封じ、邑五百戸を与えた。まもなく直閤将軍・銀青光禄大夫に任じられ、華騮令を兼ね、上洛県伯に進爵し、邑一千戸を与えられた。
当時、帝(孝武帝)は斉の神武帝(高歓)と対立しており、竇熾に威厳と重みがあるのを見て、爪牙の任に堪えるとして、閤内大都督に任じた。撫軍将軍に転じ、朱衣直閤となり、帝に従って西遷した。そして兄の竇善と共に再び城下に至り、武衛将軍の高金龍と千秋門で戦ってこれを破った。そこで宮城に入り、御馬四十匹と鞍・轡を取って行在所に進献した。帝は大いに喜び、竇熾と竇善にそれぞれ駿馬二匹、駑馬十匹を賜った。
隋の文帝が即位すると、太傅に任じられ、特別な礼遇を加えられ、拝礼の際に名を呼ばれなかった。開皇四年八月、薨去した。時に七十八歳であった。本官のまま、冀・滄・瀛・趙・衛・貝・魏・洛の八州諸軍事・冀州刺史を追贈された。諡は恭といった。
竇熾は親に仕えることに孝行で、諸兄に奉じることに悌順として知られた。その地位と声望が重くなるにつれ、子孫も皆列位に処し、当時の盛んな氏族となった。
子の茂が嗣いだ。茂には弟が十三人おり、恭と威が最も名を知られた。恭は位は大將軍に至り、高祖に従って齊を平定し、贊國公に封ぜられ、西兗州總管に任ぜられたが、罪により死を賜うた。
熾の兄の善は、中軍大都督・南城公として魏の孝武帝に従って西遷した。後に仕えて太僕・衞尉卿・汾北華瀛三州刺史・驃騎大將軍・開府儀同三司・永富縣公に至り、諡は忠といった。子の榮定が嗣いだ。初め魏の文帝の千牛備身に起家し、やがて平東將軍・大都督に遷り、驃騎大將軍・儀同三司に進んだ。佽飛中大夫・右司衞上大夫を歴任し、大象年間に位は大將軍に至った。熾の兄の子は毅である。
兄の子 毅
毅は字を天武という。父の岳は早くに卒した。毅が勲功を著すに及んで、大將軍・冀州刺史を追贈された。毅は深沈にして器度があり、親に事えること孝をもって聞こえた。魏の孝武帝の初め、員外散騎侍郎として起家した。時に齊の神武帝が朝廷を擅にし、毅は慨然として主君に殉ずる志があった。
于翼
于翼は字を文若といい、太師・燕公の謹の子である。風儀は美しく、識度有り。年十一にして、太祖の女の平原公主を尚ぎ、員外散騎常侍に拝され、安平縣公に封ぜられ、邑一千戸を賜った。大統十六年、郡公に爵を進め、大都督を加えられ、太祖の帳下左右を領し、禁中の宿衞に当たった。鎮南將軍・金紫光祿大夫・散騎常侍・武衞將軍に遷った。謹が江陵を平定した時、得たる軍實を諸子に分け与えた。翼は一も取るところ無く、ただ賞口の中の名望有る子弟で士風ある者を簡抜し、別に待遇した。太祖はこれを聞き、特に奴婢二百口を賜うたが、翼は固く辞して受けなかった。まもなく車騎大將軍・儀同三司を授けられ、侍中・驃騎大將軍・開府儀同三司を加えられた。六官が建てられると、左宮伯に任ぜられた。
孝閔帝が践祚すると、出て渭州刺史となった。翼の兄の寔が先にこの州に莅み、頗る惠政有り。翼もまた誠を推し信を布き、事は寛簡を存し、夷夏ともに感悦し、大小の馮君に比せられた。時に吐谷渾が河右に寇し、涼鄯河の三州ことごとく攻囲され、使い来たりて急を告げた。秦州都督は翼を遣わして赴援せしめんとしたが、従わなかった。寮屬は皆これを言上した。翼曰く、「攻取の術は、夷俗の長ずる所に非ず。此の寇の来るは、辺牧を抄掠するに過ぎず。安んぞ兵を城下に頓え、久しく攻囲に事えんや!掠うて獲ること無ければ、勢い自ずから走らん。師を労して往くも、亦及ぶ所無からん。翼はこれを揣るに既に了んず、幸いに復言うこと勿れ」。数日を居て問い至るも、果たして翼の策の如し。賀蘭祥が吐谷渾を討つに、翼は州兵を率いて先鋒となり深く入った。功により邑一千二百戸を増加された。まもなく徴されて右宮伯に拝された。
世宗は文史を雅く愛し、麟趾學を立て、朝に在って藝業有る者は、貴賤を限らず、皆預かってこれを聴かしめた。乃ち蕭撝・王褒等より卑鄙の徒に至るまで同しく學士と為った。翼、帝に言うに曰く、「蕭撝は梁の宗子、王褒は梁の公卿なり。今趨走の輩と同儕と為すは、恐らくは尚賢貴爵の義に非ず」。帝はこれを納れ、詔して翼にその班次を定めしめ、ここに於いて等差有ることとなった。
晉公の護は帝が翼を腹心に委ねるを以て、内に猜忌を懐いた。小司徒に転じ、柱國を加拝された。外には崇重を示すも、実はこれを疏斥した。護が誅せられるに及んで、帝は翼を召し、河東に遣わして護の子の中山公の訓を取らせ、仍って蒲州を鎮守せしめ代わらんとした。翼曰く、「冢宰は君に無くして上を陵ぎ、自ら誅夷を取る。元悪既に除かれ、余孽宜しく殄ぶべし。然れども皆陛下の骨肉、猶お疏は親を間せずと謂う。陛下は諸王を使わしめずして臣の異姓を使わしむるは、直ちに物に横議有るのみならず、愚臣も亦未だ安からず」。帝は然りとし、乃ち越王の盛を遣わして翼に代わらしめた。
先に、北斉・陳の二国境とそれぞれ辺防を修め、聘問を通じて好を通じるも、毎年交兵していた。しかし一進一退して、互いに攻め取ることはできなかった。高祖(武帝)が万機を親裁するようになり、東討を図ろうとすると、詔を下して辺境の城鎮に、ともに蓄えを増やし、戍卒を加えた。二国はこれを聞き、また守備を増強した。韋翼は諫めて言う、「宇文護が専制していた頃、兵を起こして洛陽に至ったが、戦わずして敗れ、失ったものは実に多かった。数十年の蓄積が、一朝にして散じたのである。これは護に勝算の策がなかったためでもあるが、また敵に備えがあったからでもある。かつ国境を侵し合い、互いに勝敗があり、ただ兵糧を損なうのみで、上策とは言えない。辺境の厳戒を解き、防備を減らし、友好を継ぎ民を休ませ、来る者を敬って待つがよい。彼らは必ず和を通じることを喜び、備えを緩めて少なくするであろう。その後に不意を突けば、一挙にして山東を図ることができる。もしなお前の轍を踏むならば、恐らく平定の計とは言えまい。」帝はこれを容れた。
四年(575年)、高祖が東征しようとした時、朝臣で知る者はなく、納言盧韞らを前後して駅馬で走らせ、三度韋翼のもとに赴いて策を問うた。韋翼はこれを賛成した。軍が出ると、詔により韋翼は荊・楚の兵二万を率い、宛・葉から襄城に向かい、大将軍張光洛・鄭恪らをともに隷属させた。十日で北斉の十九城を陥落させた。配下の都督が民村に入ると、即座に斬って示し、これにより百姓は喜び、赴く者が帰郷するが如かった。高祖が病を得たため、軍を返し、韋翼もまた鎮に戻った。
五年(576年)、転じて陝熊等七州十六防諸軍事・宜陽総管となった。韋翼は宜陽の地が要害でないとして、鎮を陝に移すよう請うた。詔はこれに従い、なお陝州刺史を除し、総管は旧の如くとした。その年、大軍が再び東征し、韋翼は陝から九曲に入り、造澗等の諸城を攻め落とし、直ちに洛陽に到った。北斉の洛州刺史獨孤永業は門を開いて出降し、河南の九州三十鎮が一時にことごとく陥った。襄城の民衆らは韋翼を再び見ることを喜び、ともに壺漿を捧げて道を塞いだ。まもなく洛懐等九州諸軍事・河陽総管を除された。
まもなく豫州総管に転じ、兵五千人・馬千匹を与えられて鎮に赴き、開府及び儀同等二十人を配属された。なお河陽・襄州・安州・荊州の四州総管内に武幹ある者を、韋翼が徴牒することを任せ、多少を限らなかった。儀同以下の官爵は、制を承って先に授け後で奏聞した。陳の将魯天念が長く光州を包囲していたが、韋翼が汝南に到ったと聞き、風に望んで退散した。霍州の蛮首田元顯は険阻を頼み従わなかったが、この時、人質を送り帰順を請うた。陳の将任蠻奴が全軍で元顯を攻めると、元顯は柵を立てて防戦し、異心を持つことはなかった。韋翼が朝廷に戻ると、元顯はすぐに叛いた。彼が異俗の人心を得るのは、皆この類いであった。
大象初年(579年)、召されて大司徒に拝された。詔により韋翼は長城を巡視し、亭障を立てた。西は雁門から東は碣石に至り、新たに創り旧きを改め、ことごとくその要害を得たという。なお幽定七州六鎮諸軍事・幽州総管を除された。先に、突厥がたびたび寇掠し、住民は生業を失っていた。韋翼は平素より威武があり、斥候にも明るかったため、これより敢えて塞を犯さず、百姓は安堵した。
尉遲迥が相州に拠って挙兵した時、書を送って韋翼を招いた。韋翼はその使者を捕らえ、書状とともに送った。時に隋文帝が政を執り、韋翼に雑繒一千五百段・粟麦一千五百石、ならびに珍宝服玩等を賜り、上柱国に進め、任国公に封じ、邑を増やして通前五千戸とし、別に任城県一千戸を食邑とし、その租賦を収めた。韋翼はまた子の韋譲を遣わして上表して勧進し、ならびに入朝を請うた。隋文帝はこれを許した。
韋翼の性質は恭儉で、物と競わず、常に満ち盈ちることを戒めとしたため、功名を全うすることができた。
子の韋璽は、上大将軍・軍司馬・黎陽郡公に至った。韋璽の弟韋詮は、上儀同三司・吏部下大夫・常山公となった。韋詮の弟韋譲は、儀同三司となった。
尉遲迥が挙兵した時、河西公李賢の弟李穆が幷州総管であったが、やはり迥の子を捕らえて送った。
李穆は字を顯慶といい、若くして明敏で度量があった。太祖(宇文泰)が関中に入ると、すぐに左右に給事し、深く親遇された。李穆もまた小心謹肅で、懈怠することはなかった。太祖はこれを嘉し、遂に腹心の任に処し、臥内に出入りし、当時比べる者もなかった。侯莫陳悦が賀拔岳を害すると、太祖は夏州から難に赴いたが、悦の党の史帰が原州を占拠し、なお悦のために守っていた。太祖は侯莫陳崇に軽騎で襲撃させた。李穆は先に城中におり、兄の李賢・李遠らと城門を占拠して崇に応じ、遂に史帰を生け捕りにした。功により都督を授かった。魏の孝武帝を迎えることに従い、永平県子に封じられ、邑三百戸を賜った。竇泰を生け捕りにし、弘農を回復し、ともに戦功があった。沙苑の戦勝の時、李穆はまた太祖に言う、「高歓は今日すでに胆を喪いました。速やかにこれを追撃すれば、歓を生け捕りにできます。」太祖は聞き入れなかった。前後の功績により、爵を公に進めた。
河橋の戦いで、太祖の乗った馬が流れ矢に中って驚き逸れ、太祖は地に墜ち、軍中大いに騒然とした。敵が追い付き、左右の者は皆奔り散った。李穆は鞭で太祖を打ち、因って大いに罵って言う、「お前らの主君はどこにいる? お前一人ここに留まっているのか!」敵はこれが貴人であると疑わず、遂に捨てて通り過ぎた。李穆は馬を太祖に与え、遂にともに免れることができた。この日李穆がいなければ、太祖は助からなかったであろう。これより恩顧は一層厚くなった。武衛将軍に抜擢され、大都督・車騎大将軍・儀同三司を加えられ、爵を安武郡公に進め、邑一千七百戸を増やされた。前後の賞賜は数え切れなかった。久しくして、太祖はその志節を称え、嘆いて言う、「人の貴ぶものは、ただ身命のみである。李穆は遂に身命の重さを軽んじ、孤を難に救った。たとえ爵位を加え、玉帛で賞しても、報いるに足りない。」乃ち特に鉄券を賜い、十死を恕した。驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中に進んだ。初め、李穆は驄馬を太祖に与えたが、その後中廄にこの色の馬があると、全てを李穆に賜った。また李穆の世子李惇を安楽郡公とし、姉一人を郡君とし、余りの姉妹は皆県君とし、兄弟子姪及び緦麻以上の親族ならびに舅氏に、皆厚賜を浴びせた。その褒め崇められること、このようであった。
玉壁の包囲を解くことに従い、安定国中尉に拝された。まもなく同州刺史を授かり、入朝して太僕卿となった。江陵征討の功により、一子を長城県侯に封じ、邑千戸を賜った。まもなく大将軍に進位し、拓跋氏の姓を賜った。俄かに原州刺史を除され、また李賢の子を平高郡守とし、李遠の子を平高県令とし、ともに鼓吹を加えられた。李穆は叔姪一家三人が皆郷里の牧宰となるのは、恩遇が過ぎて厚いとして、固辞して拝命しなかった。太祖は許さなかった。後に雍州刺史に転じ、入朝して小冢宰となった。孝閔帝が践祚すると、邑を増やして通前三千七百戸とし、また別に一子を県伯に封じた。李穆は封を李賢の子李孝軌に回すよう請い、許された。
また、遠の子の植が晋公護を謀害しようとし、植は誅殺され、穆も連座して除名された。時に植の弟の基は淅州刺史を務めており、例によって連座すべきであった。穆はたびたび護のもとに赴き、子の惇や怡らを代わりに死なせて基を助けてほしいと願い出た。その言葉と道理は悲痛切実で、聞く者は誰もが心を動かされない者はなかった。護はこれを哀れに思い、ついに特に基の死罪を免じた。
【史評】
史臣が言う。竇熾は体躯が魁偉で、器量と見識が雄大遠大であった。朝廷の政務に参与すれば、良策を陳べ、地方の長官として出れば、恵み深い政治を行き渡らせた。竇毅は忠実謹厳に主上に仕え、温かく恭しく臣下に接し、立派な事績は本朝に顕れ、義の名声は異域にまで響き渡った。ともに国の精華であり民の望みであり、道理を論じて官職に当たり、栄光は一時を照らし、慶事は後世に流れた。また、熾が即位を勧めるのをためらったのは、旧主を送る心があったからであり、たとえ王公が恨み嘆いても、これ以上に何があろうか。
論語に言う。「君、臣を使うに礼を以てし、臣、君に事うるに忠を以てす」。しかしながら、忠を尽くす事跡は異なることがあっても、臣下としての道理は一つである。要旨を論じれば、それは命を捧げることにあるのだろうか。それゆえ、典午(司馬氏)が朝廷を専断した時、葛公休はこれに袖を振るって立ち上がり、新都(王莽)が盗み取った時、翟仲文はこれによって兵を挙げた。また、東郡が誅滅されたことは、ついに漢朝の禍を速め、淮南が敗北覆滅したことは、魏室の滅亡を救うことができなかった。しかし、烈士や貞臣は、次々と危難に赴いてやまない。これは忠義に感じて、死を帰するがごとくに見なすからではなかろうか。于・李(于謹・李穆)の往事を送り現事に居る(旧主を送り新主に仕える)態度は、この点において曲がっている。翼(李弼の子)はすでに功臣の子であり、地位は姻戚である。穆は早くから勲功を顕著にし、深く心腹として寄せられていた。ともに文武の任を兼ね、累世の恩を受けており、道理として存亡を共にし、喜び憂いを同じくすべきであった。これに城を守る託えを受け、軍馬の権を総べることを加えれば、勢力は王事を助けるに足り、知能は危難を防衛するに足りた。しかるに安楽に寵禄に甘んじ、かつて位を退く心はなく、使者に報い誠を献ずるにも、ただ時流に従う義を務めたのみである。名節を広めて富貴を高くすることは、二公に望むところではなかった。もしあの天時を捨てて、人事を徴するならば、顕慶(尉遅迥)が晋陽の兵を起こし、文若(?)が幽薊の兵を発し、岷峨で契りを合わせ、漳滏で合従を約し、北は沙漠を制し、西は崤函を指せば、成敗の数は、量りがたいものであったろうに。