周書 卷二十九 列傳第二十一 王傑 王勇 宇文虯 宇文盛 弟丘 耿豪 高琳 李和 伊婁穆 楊紹 王雅 達奚寔 劉雄 侯植

周書

卷二十九 列傳第二十一 王傑 王勇 宇文虯 宇文盛 弟丘 耿豪 高琳 李和 伊婁穆 楊紹 王雅 達奚寔 劉雄 侯植

王傑

王傑は金城郡直城県の人であり、本名は文達といった。高祖父の萬國は、北魏の伏波将軍・燕州刺史であった。父の巢は、龍驤将軍・榆中鎮将であった。

傑は若くして雄大な志を持ち、常に功名を自ら期した。騎射に長け、膂力があった。西魏の孝武帝の初め、子 都督 ととく として出仕した。後に帝の西遷に従い、都昌県子の爵位を賜った。太祖 (宇文泰) はその才能を奇異とし、揚烈将軍・羽林監に抜擢して任じ、まもなく 都督 ととく を加えた。太祖はかつて諸将に言った、「王文達は万人に匹敵する者であるが、ただ勇猛果敢すぎることを恐れるのみだ」と。潼関を奪回し、沙苑で破り、河橋を争い、邙山で戦うなど、いずれも勇敢さをもって知られた。寵遇は日増しに厚くなり、賞賜は同輩を上回った。ここにおいて宇文氏の姓を賜った。岐州刺史に任じ、撫軍将軍・銀青光禄大夫を加え、爵位を公に進め、封邑八百戸を与えられた。累進して大 都督 ととく ・車騎大将軍・儀同三司・侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司となった。

西魏恭帝元年 (554年) 、于謹に従って江陵を包囲した。当時、柵内に長矟を巧みに用いる者がおり、登攀しようとする戦士は多くが殺された。謹が傑に命じてこれを射させると、弦に応じて倒れた。登攀する者たちはようやく中に入ることができ、残りの兵も続いて進み、ついにこれを陥落させた。謹は喜んで言った、「我が大事を成し遂げさせたのは、貴公のこの一矢にある」。

孝閔帝が即位すると、爵位を張掖郡公に進め、封邑を一千戸増やし、河州刺史として出向した。朝廷は傑の勲功と声望がともに重いとして、故郷の州を授けたのである。保定三年 (563年) 、位は大将軍に進んだ。三年 (保定三年か) 、詔により傑は随公楊忠と共に漢 (漠) から北進して北斉を討ち、幷州まで至って帰還した。天和三年 (568年) 、宜州刺史に任じられ、封邑を増やして以前と合わせて三千六百戸となった。六年 (571年) 、斉公宇文憲に従って東進し、北斉の将軍斛律明月を防ぎ、位は柱国に進んだ。建德初年 (572年) 、涇州総管に任じられた。

傑は若くして軍旅に従い、吏事には習熟しなかったが、歴任した州府では、いずれも忠恕を心がけ、このため百姓から慕われることが多かった。宣帝が即位すると、上柱国に任じられた。大象元年 (579年) 、薨去した。時に六十五歳であった。河州・鄯州・鄧州・延州・洮州・宕州・翼州の七州諸軍事・河州刺史を追贈され、鄂国公に追封された。諡は威といった。子の孝僊は、大象の末年、開府儀同大将軍の位に至った。

王勇

王勇は代郡武川県の人であり、本名は胡仁といった。若い頃から雄健で、胆力と決断力があり、弓馬に熟達し、膂力は人並み外れていた。北魏永安年間 (528-530年) 、万俟醜奴らが関隴を寇乱した際、勇は募集に応じて軍に従いこれを討ち、功により寧朔将軍・奉車都尉を授けられた。またたびたび侯莫陳悦・賀抜岳に従って征討し、功績は常に多くを占め、別将に任じられた。

太祖 (宇文泰) が丞相となると、帳内直盪 都督 ととく に引き抜き、後将軍・太中大夫を加え、包信県子に封じられ、封邑三百戸を与えられた。大統初年 (535年) 、封邑を四百戸増やし、爵位を侯に進めた。竇泰を生け捕り、弘農を奪回し、沙苑で戦うなどに従軍し、その気勢は諸軍を圧倒し、向かうところ必ず撃破した。太祖はその勇敢さを賞賛し、賞賜は特に厚かった。爵位を公に進め、封邑一千五百戸を与えられ、鎮南将軍に任じられ、帥 都督 ととく を授けられた。趙青雀討伐に従い、これを平定し、論功行賞で最も上位となり、 えい 大将軍・殷州刺史に任じられ、通直 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、太子武 えい 率を兼ねた。

邙山の戦いでは、勇は敢死の士三百人を率い、皆で短兵を執り、大声で叫びながらまっすぐに進撃し、出入りして衝撃を加え、殺傷は甚だ多く、敵に敢えて立ちはだかる者はいなかった。この戦役では、大軍は不利であったが、ただ勇と王文達・耿令貴の三人だけが力戦し、いずれも殊勲を立てた。太祖はここにおいて絹二千匹を賞賜し、自ら分け与えるよう命じた。軍が帰還すると、皆上州刺史に任じられた。雍州・岐州・北雍州を勇らに授けることとしたが、州には優劣があったため、また籤を引かせて取らせた。勇はついに雍州を得、文達は岐州を得、令貴は北雍州を得た。ここにおいて勇に勇の名を、令貴に豪の名を、文達に傑の名を賜い、その功績を顕彰した。

十三年 (547年) 、大 都督 ととく を授かり、使持節・車騎大将軍・儀同三司に遷った。十五年 (549年) 、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。西魏恭帝元年 (554年) 、柱国趙貴に従って茹茹 (柔然) を征討し、これを撃破した。勇は追撃し、雑畜数千頭を鹵獲した。爵位を新陽郡公に進め、封邑を増やして以前と合わせて二千戸とし、ここにおいて庫汗氏の姓を賜った。六官が建てられると、稍伯中大夫に任じられた。また茹茹討伐の功績を論じ、別に永固県伯に封じられ、封邑五百戸を与えられた。当時、別封を受ける者は、慣例として次男に授けることを許されていたが、勇はひとり兄の子の元興に封じることを請い、当時の人々はこれを義とした。まもなく位は大将軍に進んだ。世宗 (明帝) の初め、岷山の羌族の豪帥鞏廉俱和が反乱したので、勇は軍を率いて討伐平定した。

勇の性質は雄猛で、当時の ぎょう 将であった。しかし功を誇り善を伐ち、人の悪を揚げることを好み、当時の論評もまたこの点で彼を軽蔑した。柱国侯莫陳崇は、勲功高く声望重く、諸将と共に しん 公宇文護を謁見した際、勇がたびたび人の短所を論じるのを聞き、衆人の面前で彼を辱しめ折伏した。勇はついに慙愧と憤りを覚え、背中に癰ができて卒去した。子の昌が嗣ぎ、官は大将軍に至った。

宇文虬

宇文虬は字を楽仁といい、代郡武川県の人である。性質は ぎょう 勇で悍ましく、胆略があった。若くして軍に従い征討し、累ねて戦功を立てた。北魏永安年間 (528-530年) 、征虜将軍・中散大夫に任じられ、 都督 ととく を加えられた。西魏孝武帝の初め、獨孤信に従って荊州におり、下溠で梁軍を破り、ついに歐陽・酇城を平定した。虬は捕虜や鹵獲品が非常に多かった。また南陽・広平の二城を攻め、郡守一人を生け捕りにした。功により安西将軍・銀青光禄大夫・員外・直閤将軍・閤内 都督 ととく を加えられ、南安県侯に封じられ、封邑九百戸を与えられた。孝武帝が西遷すると、獨孤信を行臺とし、信は虬を引き立てて帳内 都督 ととく とした。田八能を破り、東魏の荊州刺史辛纂を生け捕りにするのに、虬の功績が多かった。まもなく信に従って梁に奔った。

大統三年 (537年) 、朝廷に帰還した。朝廷は前後の功績を論じ、封邑を四百戸増やし、爵位を公に進めた。竇泰を生け捕り、弘農を奪回し、および沙苑・河橋の戦いにおいて、いずれも功績があった。封邑を八百戸増やし、車騎将軍・左光禄大夫に進んだ。七年 (541年) 、漢陽郡守に任じられ、また獨孤信に従って梁の仚定を討ち、これを破った。十一年 (545年) 、南秦州刺史として出向し、車騎大将軍・儀同三司を加えられ、驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。辛纂を斬った功績を追論し、封邑を一千戸増やした。十七年 (551年) 、大将軍王雄と共に上津・魏興などを征討し、いずれも平定した。また白馬において武陵王蕭紀の将軍楊乾運と戦い、これを破った。虬は陣営を経巡るごとに、必ず自ら兵卒の先頭に立ち、故に上下心を一つにし、戦えば克たないことはなかった。まもなく魏興が再び反乱したので、虬はまた王雄と共に討伐平定した。ほどなく金州刺史に任じられ、位は大将軍に進んだ。後に病気で卒去した。

宇文盛

宇文盛、字は保興、代の人である。曾祖父の伊與敦、祖父の長壽、父の文孤は、いずれも沃野鎮の軍主であった。

盛は志気と膂力に優れ勇猛であった。初め太祖の帳内となり、侯莫陳悦を破るのに従い、威烈将軍を授けられ、漁陽県子に封ぜられ、邑三百戸を賜う。大統三年、 都督 ととく を兼ねる。竇泰を擒えるのに従い、弘農を回復し、沙苑を破り、 都督 ととく ・平遠将軍・歩兵 校尉 こうい を授けられ、爵位を公に進め、邑八百戸を加増される。 馮翊郡 ひょうよくぐん 守を拝命し、帥 都督 ととく ・西安州大中正・通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・撫軍将軍を加えられ、邑三百戸を加増される。累遷して大 都督 ととく ・車騎大将軍・儀同三司・驃騎大将軍・開府儀同三司・塩州刺史となる。楚公趙貴が乱を謀った際、盛は密かに京に赴きこれを告げた。趙貴が誅されると、大将軍を授けられ、忠城郡公に爵位を進められ、涇州 都督 ととく を拝命し、甲一領・奴婢二百口・馬五百匹、および牛羊や荘田・什物などをこれに相応に賜う。引き続き賀蘭祥に従って洮陽・洪和の二城を平定し、別に一子を甘棠県公に封ぜられる。延州総管に転じ、位を柱国に進める。

天和五年、入朝して大宗伯となる。六年、柱国王傑とともに斉公宇文憲に従い東征する。当時汾州は長らく包囲されており、憲は盛に糧秣を輸送させてこれを補給させた。引き続き姚襄城に赴き、憲の節度を受ける。斉の将軍段孝先が大軍を率いて到来すると、盛は力戦してこれを防ぐ。孝先が退くと、大寧城を築いて還る。建徳二年、少師を授かる。五年、高祖の東伐に従い、歩騎一万を率いて汾水関を守る。宣帝が即位すると、上柱国に拝され、邑を加増され通前四千六百戸となる。大象年間に薨去。子の述が嗣ぐ。大象末年、上柱国・濮陽公。

盛の弟 丘

盛の弟、丘。丘は字を胡奴といい、初め襄威将軍・奉朝請・ 都督 ととく に任じられ、臨邑県子の爵位を賜う。次第に輔国将軍・大 都督 ととく に昇進する。趙貴の謀反を予め告げた功により、車騎大将軍・儀同三司を拝され、安義県侯に爵位を進められ、邑一千戸。驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、爵位を公に進められ、咸陽郡守を拝命する。汾州刺史に転じる。入朝して左宮伯となり、位を大将軍に進める。出向して延綏丹三州三防諸軍事・延州刺史となる。涼甘瓜三州諸軍事・涼州刺史に転じ、柱国大将軍を加えられる。建徳元年に薨去、時に六十歳。柱国・宜鄜等州刺史を追贈される。子の隴が嗣ぐ。

耿豪

耿豪は、鉅鹿の人である。本名は令貴。その先祖は劉氏・石氏の乱を避け、遼東に居住し、燕に仕えた。曾祖父の超は、衆を率いて魏に帰順し、神武川に家を定めた。

豪は若い頃より粗暴で武芸に優れ、気勢をもって人を凌ぐことを好んだ。賀抜岳が西征する際、帳内に引き立てられた。岳が害されると、太祖に帰順し、武勇をもって知られる。豪もまた自ら仕える主君を得たと自負した。侯莫陳悦討伐および魏の孝武帝を迎えるのに従い、前後の功績を記録され、平原県子に封ぜられ、邑三百戸、寧朔将軍・奉車都尉を拝命する。征虜将軍に遷り、通直 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、爵位を侯に進め、邑七百戸を加増される。竇泰を擒えるのに従い、弘農を回復する際、豪は先鋒として敵陣に突入し、前将軍・中散大夫を加えられる。沙苑の戦いでは、豪は甚だ多くを殺傷し、血が鎧の衣裳を染めてことごとく赤くなった。太祖はこれを見て嘆じて言うには、「令貴は武勇猛々しく、向かうところ前進を阻むものなく、その鎧の衣裳を見れば、十分にその証拠となり、さらに等級を論ずる必要はない」と。ここにおいて爵位を公に進め、邑を通前一千五百戸に加増する。鎮北将軍・金紫光禄大夫・南 郢州 えいしゅう 刺史を拝命する。

九年、太祖に従って邙山で戦い、豪は配下の者に言うには、「大丈夫たるもの賊を見れば、右手で刀を抜き、左手で矟を握り、直ちに刺し直ちに斬れ、決して眉をひそめて死を恐れるな」と。そこで大声をあげて単身突入し、敵人の鋒刃が乱れ打ち下ろされる中、当時は皆豪が死んだと思った。やがて奮って刀を振るいながら戻ってきた。数度戦い合い、豪の前に立ちはだかる者は、死傷者が相次いだ。また左右の者に言うには、「我はどうして人を殺すことを好もうか、ただ壮士として賊を除くには、このようにせざるを得ないのだ。もし賊を殺すことができず、また人に傷つけられもしないならば、座っている人を追いかけるのと何の違いがあろうか」と。太祖はこれを賞し、北雍州刺史に任じる。十三年、前後の戦功を論じ、車騎大将軍・儀同三司を進授され、邑を通前一千八百戸に加増する。十五年、和稽氏の姓を賜い、位を侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に進める。

豪の性質は凶悍で、言葉多く無礼であった。太祖はその ぎょう 勇を惜しみ、常に寛大に容認した。豪もまた自ら意気は群を抜くものと自負し、終に屈することはなかった。李穆・蔡祐は初め豪と同時に開府となったが、後にいずれも豪の上位に立った。豪は心中穏やかでなく、太祖に言うには、「外間の世論では、豪が李穆・蔡祐に勝ると言っています」と。太祖が「どうしてそう言うのか」と問うと、豪は言うには、「世間では李穆・蔡祐は丞相の臂膊 (腕) 、耿豪・王勇は丞相の咽項 (喉首) と言います。咽項は上にあるので、勝っているのです」と。豪の粗暴猛々しさは、皆このようなものであった。十六年、卒去、時に四十五歳。太祖は痛惜し、本官をもって追贈し、朔州刺史を加える。子の雄が嗣ぎ、位は大将軍に至る。

高琳

高琳、字は季珉、その先祖は高句麗の人である。六世の祖欽は、慕容廆のもとで人質となり、燕に仕えた。五世の祖宗は、衆を率いて魏に帰順し、第一領民酋長に任じられ、羽真氏の姓を賜う。祖父の明、父の遷は魏に仕え、いずれも顕達した。琳の母がかつて泗水のほとりで祓禊を行った際、一つの石に出会い、光彩が明るく潤いがあったので、持ち帰った。その夜、一人の人物が夢に見え、衣冠は仙人のようであり、その母に言うには、「夫人が先ほど持って来られた石は、浮磬の精です。もし大切に持っていれば、必ず優れた子を生むでしょう」と。その母は驚いて目覚め、たちまち全身に汗をかき、やがて懐妊した。生まれたとき、これにより琳と名付け、字を季珉とした。

魏の正光初年、初め衛府 都督 ととく に任じられる。元天穆に従って邢杲を討ち、梁の将軍陳慶之を破り、功により統軍に転ずる。また爾朱天光に従って万俟醜奴を破り、功績を論じられて最上とされ、寧朔将軍・奉車都尉を拝命する。後に天光に従って韓陵山で敗れたため、琳は洛陽に留まることとなった。

魏の孝武帝が西遷した際、これに従って関中に入った。溱水に至ると、斉の神武帝 (高歓) に追撃され、防戦して功績を立て、鉅野県子に封ぜられ、邑三百戸を賜った。大統初年、爵位を侯に進め、邑四百戸を加増され、龍驤将軍に転じた。まもなく、直閣将軍を授かり、平西将軍に遷り、通直 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。三年、太祖 (宇文泰) に従って斉の神武帝を沙苑で破り、安西将軍に転じ、爵位を公に進め、邑八百戸を加増された。累進して えい 将軍、銀青光禄大夫、右光禄大夫となった。四年、莫多婁貸文を生け捕りにするのに従軍した。引き続き河橋で戦い、王琳は先鋒として奮撃し、その勇気は諸軍の冠であった。太祖はこれを賞賛し、彼に言った。「公はまさに我が韓信・白起である。」太子左庶子に任ぜられた。まもなく本官のまま玉壁を鎮守した。再び太祖に従って邙山で戦い、正平郡守に任ぜられ、大 都督 ととく を加えられ、邑三百戸を加増された。斉の将軍東方老が来寇すると、王琳は兵を率いてこれを防いだ。東方老はその勇健を恃み、まっすぐに王琳に向かって進んだ。短兵相接し、王琳がこれを撃つと、東方老は数か所の傷を負って退き、左右の者に言った。「私は多くの戦陣を経験したが、このような健児を見たことはない。」後に密かに人を遣わして王琳に東帰を勧めたが、王琳はその使者を斬って報告した。使持節、車騎大將軍、儀同三司、 散騎常侍 さんきじょうじ に進んだ。鄜州刺史に任ぜられ、驃騎大將軍、開府儀同三司、侍中を加えられた。

孝閔帝が践祚すると、爵位を犍為郡公に進め、邑一千戸を賜った。武成初年、賀蘭祥に従って吐谷渾を征討し、その功績により別に一子を許昌県公に封じ、邑一千戸を賜い、延州刺史に任ぜられた。また柱国豆盧寧に従って稽胡の郝阿保、劉桑德らを討ち、これを破った。二年、文州の氐族の酋長が反乱したため、詔により王琳は兵を率いてこれを討ち平らげた。軍が帰還すると、帝は群公卿士を宴し、詩を賦して志を言うよう命じた。王琳の詩の末章に云う。「竇車騎に言を寄せ、霍将軍に謝せしめよ、何をもって天子に報いん? 沙漠静かに妖気を収む。」帝は大いに喜んで言った。「獯鬻 (匈奴) が跳梁し、未だ時に及ばず塞ぎを ひら かず。卿の言に験あり、国の福である。」

保定初年、梁州総管、十州諸軍事を授かった。天和二年、丹州刺史に転じた。三年、江陵副総管に遷った。時に陳の将軍呉明徹が来寇し、総管田弘と梁主蕭巋は紀南城に出て保ったが、王琳のみが梁の僕射王操とともに江陵の三城を固守してこれに抗した。昼夜を分かたず防戦し、およそ百日を経て、呉明徹は退去した。蕭巋がその状況を上表して言上すると、帝は優詔を下して王琳を朝廷に追い入朝させ、親しく労い尋ねた。大將軍に進めて授け、引き続き えい 公宇文直の副として襄州を鎮守させた。六年、位を柱国に進めた。建德元年、薨去した。時に七十六歳。本官を追贈され、冀定齊滄州五州諸軍事、冀州刺史を加えられ、諡して襄といった。

子の王儒は、幼少時に父の功績により爵位を許昌県公に賜り、左侍上士に任ぜられた。後に爵位を犍為郡公を襲い、位は儀同大將軍に至った。

李和

李和は本名を慶和といい、その先祖は隴西狄道の人である。後に朔方に移り住んだ。父の僧養は、累世にわたって雄豪であり、統御に長け、夏州の酋長となった。

李和は若くして勇敢で胆力があり、識見と度量があり、体貌は魁偉で、州里に推された。賀抜岳が関中に鎮すると、李和を帳内 都督 ととく に引き立てた。諸賊を破った功績により、次第に征北将軍、金紫光禄大夫に遷り、爵位を思陽公に賜った。まもなく漢陽郡守に任ぜられた。治政は寛大簡素を旨とし、百姓はこれを称えた。

大統初年に至り、車騎将軍、左光禄大夫、 都督 ととく を加えられ、累進して使持節、車騎大將軍、儀同三司、 散騎常侍 さんきじょうじ 、侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司、夏州刺史となり、宇文の姓を賜った。太祖はかつて諸将に言った。「宇文慶和は、智略が明らかで豊かであり、身を立てるに恭しく謹み、累次にわたり任を委ねられ、常に我が意に適う。」そこで名を意と賜った。永豊県公に改封され、邑一千戸を賜った。保定二年、司憲中大夫に任ぜられ、爵位を義城郡公に進めた。まもなくまた徳広郡公に改封され、出向して洛州刺史となった。李和は以前夏州に在った時、多くの遺愛を残しており、この任を受けると、商洛の父老は、その徳音を慕わない者はなかった。李和が州に至ると、仁恕をもって民を導き、訴訟は簡素で静かになった。天和三年、位を大將軍に進め、延綏丹三州武安伏夷安民三防諸軍事、延州刺史に任ぜられた。六年、柱国大將軍に進んだ。建德元年、延綏銀三州文安伏夷安民周昌梁和五防諸軍事に改めて任ぜられた。罪により免官されたが、まもなく柱国に復した。

隋の開皇元年、上柱国に遷った。李和は身を立てるに剛直簡素で、老いてますます励み、諸子が事に従う様は、厳かな君に奉ずるが如かった。意は太祖の賜った名であり、市朝 (朝廷) が既に革まったこと、慶和は父の命じた名であり、義として違えることはできないと考えた。この時至り、遂に和を名とした。二年、薨去した。本官を追贈され、 司徒 しと 公、徐兗邳沂海泗六州刺史を加えられた。諡して肅といった。子の李徹が嗣いだ。

伊婁穆

伊婁穆は字を奴干といい、代の人である。父の伊婁霊は、騎射に優れ、太祖に知られた。太祖はかつて彼に言った。「昔、伊尹 (伊摯) は殷の保衡 (阿衡) となり、主を堯舜に致した。卿は既に伊の姓を有する。卿が前の業績を廃れさせぬことを願う。」そこで名を尹と賜った。金紫光禄大夫、 えい 将軍、隆州刺史を歴任し、爵位を盧奴県公に賜った。

伊婁穆は弱冠にして太祖の内親信となり、機知と弁舌によって知られ、奉朝請を授かり、常に左右に侍った。邙山の役では、力戦して功績を立て、子 都督 ととく 、丞相府参軍事に任ぜられ、外兵参軍に転じた。累進して帥 都督 ととく 、平東将軍、中散大夫となり、中書舍人、尚書駕部郎中、撫軍将軍、大 都督 ととく 、通直 散騎常侍 さんきじょうじ を歴任した。かつて事を奏上して入った時、太祖は遠くから見てこれを喜び、彼を字で呼んで言った。「奴干が儀同の面 (顔) で我に会う時が来た。」そこで車騎大將軍、儀同三司に任ぜられ、安陽県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。大丞相府掾に転じ、從事中郎に遷り、給事黄門侍郎に任ぜられた。

魏の廃帝二年、伊婁穆は蜀に使した。時に伍城郡の人趙雄傑と梓潼郡の人王令公、鄧朏らが逆を構え、衆三万余人が涪水を阻んで柵を立て、潼州に進逼した。伊婁穆は刺史の叱羅協とともに兵を率いてこれを破った。邑五百戸を加増された。

孝閔帝が践祚すると、兵部中大夫に任ぜられ、御正を治め、爵位を侯に進め、邑五百戸を加増された。まもなく位を驃騎大將軍、開府儀同三司に進めた。保定初年、軍司馬を授かり、爵位を公に進めた。四年、金州総管、八州諸軍事、金州刺史に任ぜられた。天和二年、邑二千一百戸を加増された。また民部中大夫となった。

えい 公宇文直が出向して襄州を鎮守する際、伊婁穆を長史とした。郢州の城民王道𦙃が反乱し、襲って州城を占拠した。宇文直は伊婁穆に百余騎を率いて馳せ往きこれを救援させた。伊婁穆が城下に至ると、頻りに王道𦙃の衆を破った。時に大將軍高琳が衆軍を率いて続いて進軍し、王道𦙃らは降伏した。唐州の山蛮が険阻を恃んで命に逆らったため、伊婁穆は軍を率いてこれを討った。蛮酋らは十四か所の石窟に保ち拠ったが、伊婁穆は軍を分けて進討し、十四日で全てを破り、六千五百人を虜獲した。六年、位を大將軍に進めた。建德初年、荊州に任ぜられ、再び伊婁穆を総管府長史とした。伊婁穆は頻りに皇族の藩王の副官を務め、甚だ補佐する誉れを得た。

朝廷に入り小司馬となる。柱国李穆に従い軹関などの城を平定し、布帛三百疋・粟三百石・田三十頃を賞賜される。五年、皇太子に従い吐谷渾を討つ。帰還の途、李穆が殿軍を務め、吐谷渾の者らに包囲される。劉雄の救兵が到着したため、ようやく解かれる。後に病により卒す。

楊紹

楊紹は字を子安といい、弘農郡華陰県の人である。祖父の興は、魏の新平郡守。父の国は、中散大夫。

紹は若くして慷慨として志略あり、しばしば征伐に従い、力戦して功績を挙げる。魏の永安年間、広武将軍・屯騎 校尉 こうい ・直盪別将を授かる。普泰初年、平郷男に封ぜられ、邑百戸を賜り、征西将軍・金紫光禄大夫を加えられる。

魏の孝武帝の初め、衛将軍・右光禄大夫に遷り、冠軍県伯に爵位を進め、邑百戸を賜る。大統元年、公に爵位を進め、邑六百戸を増やす。累進して車騎将軍・通直 散騎常侍 さんきじょうじ ぎょう 衛将軍・左光禄大夫となる。四年、外任して鄜城郡守となる。紹の性質は寛容で率直、威厳と恩恵を兼ね備え、百姓は安んずる。稽胡は衆と険阻を恃み、しばしば略奪を働く。紹は郡兵を率いて侯莫陳崇に従いこれを討ち、単騎で先頭に立ち、默泉の上でこれを破る。帥 都督 ととく ・驃騎将軍・常侍・朔州大中正を加えられる。十三年、前後の功績を記録し、邑を増やして通算二千二百戸とし、燕州刺史を授かる。累進して大 都督 ととく ・車騎大将軍・儀同三司となる。

また大将軍達奚武に従い漢中を征す。時に梁の宜豊侯蕭循が梁州を固守す。紹は、孤軍を敵境に懸け、堅城を囲み守り、日を費やし持久すれば、糧秣が続かず、城中の者が我らに死力を尽くせば、帰還できぬことを恐れ、計略をもってこれを誘うべきと請う。すなわち頻りに城下に至り挑戦し、伏兵を設けて待つ。蕭循は初め出撃を肯わず。紹はまた人を遣わして罵り辱めると、蕭循は怒り、果たして出兵す。紹は衆を率いて偽って退く。城は降伏す。功により輔国将軍・中散大夫を授かり、一子に回授することを聴される。

また柱国・燕国公于謹に従い江陵を囲む。紹は枇杷門で戦い、流れ矢が股に当たるも力戦して衰えず。事が平定されると、奴婢百口を賞賜され、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、衡州刺史を授かり、叱利氏の姓を賜わる。孝閔帝が即位すると、位を進めて大将軍となる。保定二年、卒す。成文など八州刺史を追贈される。諡は信。子の雄が嗣ぎ、大象の末、上柱国・邽国公となる。

王雅

王雅は字を度容といい、闡熙郡新固県の人である。若くして沈毅、木訥で寡言、胆勇あり、騎射を善くす。太祖その名を聞き、召し入れて軍に加え、累ねて戦功あり。 都督 ととく を授かり、居庸県子の爵位を賜る。

東魏の将竇泰が侵入す。雅は太祖に従いこれを潼関で擒える。沙苑の戦い、雅は配下に謂いて曰く、「彼の軍はおよそ百万あり、今我らは万人に満たず、常理をもって論ずれば、実に敵し難し。但だ相公 (宇文泰) は神武にして世に命ぜられ、王室の股肱たり。順を以て逆を討つに、衆寡を計らんや。丈夫たる者、若しこの時に賊を破らざれば、何を以て生きる用あらんや」と。すなわち甲を擐ぎて歩戦し、向かうところ披靡す。太祖これを壮とす。また邙山の戦いに従う。時に大軍利あらず、敵に乗ぜられ、諸将は皆引き退く。雅ひとり返り騎してこれを拒ぐ。敵人はその後継なきを見て、歩騎競い進む。雅は左右奮撃し、頻りに九級を斬り、敵衆稍く却く。雅すなわち軍を還す。太祖歎じて曰く、「王雅の挙身悉く是れ胆なり」と。前後の功績を記録し、爵位を伯に進め、帥 都督 ととく ・鄜城郡守を授かる。政は簡易を尚び、吏人はこれを安んずる。大 都督 ととく ・延州刺史に遷り、夏州刺史に転じ、車騎大将軍・儀同三司を加えられ、驃騎大将軍・開府儀同三司に進む。

世宗の初め、汾州刺史を授かる。励精して治めを為し、人庶悦んでこれに附き、遠方より至る者七百余家あり。保定初年、再び夏州刺史となり、州において卒す。

子の世積が嗣ぐ。若くして倜儻として文武の幹略あり。大象の末、上大将軍・宜陽郡公。

達奚寔

達奚寔は字を什伏代といい、河南郡洛陽県の人である。高祖の涼州は、魏の征西将軍・山陽公。父の顕相は、武衛将軍。

寔は若くして修立し、幹局あり。給事中より起家し、冠軍将軍を加えられる。魏の孝武帝の初め、 都督 ととく を授かり、弘農を鎮守す。後に西遷に従い、臨汾県伯に封ぜられ、邑六百戸を賜る。大行臺郎中に遷り、引き続き行臺郎の神と潼関を鎮守す。潼関が失守すると、すなわち大 都督 ととく 陽山武と関において戦い、東魏の人々これを甚だ憚る。太祖に従い竇泰を擒え、弘農を回復し、沙苑を破るに、皆力戦して功績あり、邑三百戸を増やし、車騎将軍・左光禄大夫を加えられる。十三年、また大行臺郎中・相府掾を授かり、従事中郎に転ず。寔の性質は厳重にして、太祖深くこれを器す。累進して大 都督 ととく ・持節・通直 散騎常侍 さんきじょうじ となる。魏の廃帝二年、中外府司馬を授かる。

大軍が蜀を討伐するに当たり、寔は南岐州の事務を代行し、都軍糧を兼ねた。先に、山の氐族は獰猛で、賦役を供出せず、歴代羈縻してきたが、制御できる者はなかった。寔が政をもって導くと、氐人は感悦し、皆賦税に従った。ここにおいて大軍の糧食は、すべてここから供給された。まもなく召還され、引き続き司馬となった。六官が建てられると、蕃部中大夫に任じられ、驃騎大將軍・開府儀同三司を加えられ、爵位は平陽県公に進んだ。武成二年、御正中大夫に任じられ、民部を治め、晋公宇文護の司馬を兼ねた。

保定元年、文州刺史として出向し、任地で卒去した。時に四十九歳。文州・康州の二州刺史を追贈された。諡は恭。子の豊が後を嗣いだ。

劉雄

劉雄は字を猛雀といい、臨洮郡子城県の人である。若くして機知に富み弁舌が立ち、慷慨として大志を抱いた。大統年間、太祖 (宇文泰) の親信として起家した。まもなく統軍・宣威將軍・給事中に任じられ、子城県令に除され、 都督 ととく ・輔國將軍・中散大夫を加えられ、中書舎人を兼ね、宇文氏の姓を賜った。孝閔帝が践祚すると、大 都督 ととく を加えられ、司市下大夫、斉右下大夫を歴任し、小駕部を治め、車騎大將軍・儀同三司に進んだ。保定四年、中外府の属を治め、洛陽征伐に従軍した。

天和二年、駕部中大夫に遷り、四年、斉公宇文憲の府掾を兼ね、宇文憲に従って宜陽に出て、安義などの城を築いた。五年、斉の宰相斛律明月が衆を率いて通関城を築き、宜陽を援護した。先に、国家 (北周) と斉は通好し、互いに境を保ち民を休ませ、侵擾しないと約言していた。ここに至り、宇文憲は斉人が信を失ったとして、劉雄を使者として明月のもとに遣わし、約束に背いたことを責めさせた。劉雄の言辞と道理は弁明して率直であり、斉人はこれを畏れた。使いから戻ると、中外府掾を兼ねた。まもなく驃騎大將軍・開府儀同三司を加えられ、周昌県伯に封ぜられ、邑六百戸を賜った。斉人はまた姚襄に伏龍など五城を築き、戍卒を置いた。劉雄は斉公宇文憲に従ってこれを攻め、五城をことごとく陥落させた。宇文憲は再び劉雄と柱国宇文盛を遣わし、斉の長城より西において、連営して防禦させた。斉の将段孝先らが衆を率いて宇文盛を包囲した。営外に先に長い塹壕があり、大将軍韓歓が孝先と交戦して不利となり、劉雄は身に楯を負い、配下の二十余人を率いて塹壕を拠り力戦し、孝先らはようやく止んだ。軍が帰還すると、軍司馬に遷り、爵位は侯に進み、邑一千四百戸を賜った。

建徳初年、納言に任じられ、軍正に転じ、再び納言となった。二年、内史中大夫に転じ、候正に除された。高祖 (武帝) はかつて閑かに劉雄に言われた、「古人云う、『富貴にして故郷に帰らざれば、錦を衣て夜に遊ぶが如し』と。今、卿を本州 (河州) の刺史とするのはどうか。」劉雄は稽首して拝謝した。ここにおいて詔して劉雄を河州刺史とした。劉雄は先にすでに本県の県令となっており、この任を受けたので、郷里はこれを栄誉とした。四年、柱国李穆に従って軹関から出撃し、邵州などの城を攻め、これを陥落させた。功により賞賜を受けた。

五年、皇太子が西征して吐谷渾を討つと、劉雄は涼州から滕王宇文逌に従って軍を率いて先に渾の境内に入り、伏俟城から二百余里のところで、宇文逌は劉雄を遣わして先に城の東で烽火を挙げさせ、大軍と相応させた。渾の洮王が七百余騎を率いて迎え撃った。劉雄の時に配下の数百人は先に斥候に分遣されており、左右にいた者は二十人ほどであった。劉雄はただちに彼らを率いて交戦し、七十余級を斬首したが、劉雄もまた三騎を失った。これより宇文逌に従って連戦し、劉雄の功績が多かったため、賞賜の品は甚だ厚かった。軍が帰還する際、伊婁穆が殿軍を務め、賊に包囲された。皇太子は劉雄に命じてこれを救わせた。劉雄は騎兵一千を率いて伊婁穆の包囲を解いた。邑三百戸を増やされ、上開府儀同三司を加えられた。

その年、大軍が東討すると、劉雄は斉王宇文憲に従って洪洞を陥落させ、永安を下した。軍が帰還するや、引き続き宇文憲とともに晋州を救援するため引き返した。到着する前に、斉の後主がすでに大兵を率いて自ら攻囲し、晋州は陥落寸前であった。宇文憲は劉雄を遣わして先にその軍勢を視察させた。劉雄は歩騎千人を率い、鼓角を鳴らして、遠く城中に報じた。まもなく高祖の兵が到着し、斉主は遁走した。幷州平定に従い、上大將軍に任じられ、爵位は趙郡公に進み、邑二千戸を賜い、旧封は一子に回授された。翌年、 鄴城 ぎょうじょう 平定に従い、柱国に進んだ。その年、斉王宇文憲に従って総じて北の稽胡を討った。軍が帰還すると、幽州に出鎮した。

宣政元年四月、突厥が幽州を寇し、居民を掠奪した。劉雄が出戦し、突厥に包囲され、陣に臨んで戦死した。亳州総管・七州諸軍事・亳州刺史を追贈された。子の昇が後を嗣いだ。劉雄が王事に死したため、大象末年、儀同大將軍に任じられた。

侯植

侯植は字を仁幹といい、上谷郡の人である。燕の 散騎常侍 さんきじょうじ 侯龕の八世の孫。高祖の侯恕は、魏の北地郡太守であった。子孫は北地郡の三水県に家を構え、ついに州郡の冠族となった。父の侯欣は、泰州刺史・奉義県公であった。

植は若くして倜儻として大節を有し、容貌は奇偉、武芸は絶倫であった。正光年間、奉朝請として起家した。まもなく天下は喪乱し、群盗が蜂起すると、植は家財を散じて、勇敢な者を募り率いて賊を討った。功により統軍に任じられ、清河郡守に遷った。後に賀抜岳に従って万俟醜奴らを討ち、戦功を重ね、義州刺史に除された。州において甚だ政績があり、夷夏ともに懐かれた。

斉の神武帝 (高歓) が洛陽を逼迫すると、植は魏の孝武帝に従って西遷した。大統元年、驃騎將軍・ 都督 ととく に任じられ、侯伏侯氏の姓を賜った。太祖 (宇文泰) に従って沙苑を破り、河橋で戦い、大 都督 ととく に進み、左光禄大夫を加えられた。涼州刺史宇文仲和が州を拠って叛逆すると、植は開府独孤信に従ってこれを討ち擒らえ、車騎大將軍・儀同三司に任じられ、肥城県公に封ぜられ、邑一千戸を賜った。また賀屯の姓を賜った。魏恭帝元年、于謹に従って江陵を平定し、驃騎大將軍・開府儀同三司に進み、奴婢一百口を賜り、別に一子を汧源県伯に封じた。六官が建てられると、司倉下大夫に任じられた。孝閔帝が践祚すると、郡公に爵位が進み、邑を増やされ、前の分を通算して二千戸となった。

時に帝は幼少であり、晋公宇文護が政を執り、植の従兄の龍恩は宇文護に親任されていた。宇文護が趙貴を誅殺すると、諸宿将らの多くは自ら安んじなかった。植は龍恩に言った、「今、主上は年齢もすでに盛んであるが、安危は数公 (宇文護ら) にかかっている。唇歯を共にして、なお救済を憂うるのに、まして些細な間隙によって、自ら相滅ぼすことなど!植は天下の人が、これによって解体することを恐れる。兄はすでに人に任使されている身、どうして知りながら言わないでいられようか。」龍恩はついに用いることができなかった。植はまた隙を見て宇文護に言った、「君臣の分は、情は父子に均しく、理においてはその休戚を同じくし、終始を期すべきです。明公は骨肉の親として、社稷の寄託に当たり、存するも亡ぶも、この日にあります。願わくは公が王室に誠を推し、伊尹・周公の跡を擬し、国に泰山の安きあらしめ、家に世祿の盛りを伝えさせれば、率土の濱、幸甚ならざるはありません。」宇文護は言った、「私は太祖の厚恩を蒙り、かつ猶子に当たる身、誓って身をもって国に報いようとしている。賢兄 (龍恩) もこの心を見るべきである。卿が今このようなことを言うのは、まさか私に他志があると思っているのか。」また彼が先に龍恩に言ったことを聞き、ひそかにこれを忌んだ。植は禍を免れないことを恐れ、ついに憂いのうちに卒去した。大将軍・平揚光三州諸軍事・平州刺史を追贈され、諡は節。子の定が後を嗣いだ。

宇文護が誅殺されると、龍恩とその弟の大将軍・武平公万寿はともにこの禍に預かった。高祖が宇文護の事件を処理するに当たり、植が朝廷に忠誠であったことを知り、特にその子孫を赦免した。定は後に車騎大將軍・儀同三司の位に至った。

史臣が曰く、

史臣が曰く、王傑・王勇・宇文虬の徒は、皆な果敢にして剛毅なる資質をもって、擾攘の際に節を効し、終に堅きを屠り鋭きを覆し、侮を禦ぐ功を立て、膏腴の地を裂き、勢位に拠る。固より其れ宜なり。仲尼は「一人に備を求むること無かれ」と称す、信なるかな。夫れ文士は温恭の操を懐く、其の弊や愞弱なり。武夫は剛烈の質を稟く、其の失や敢悍なり。故に酒をして遜らずの禍あり、剣を抜きて功を爭ふ尤あり。大なるは則ち其の生を全うする莫く、小なるは則ち僅かにして免るることを獲たり。耿豪・王勇、其れ然らざるか。

原本を確認する(ウィキソース):周書 巻029