周書

巻028

卷二十八 列傳第二十 史寧 陸騰 賀若敦 權景宣

史寧

原文 史寧

史寧は字を永和といい、建康郡表氏県の人である。曾祖父の史豫よは沮渠氏に仕えて臨松県令となった。北魏が涼州を平定すると、祖父の史灌は定例に従って撫寧鎮に移住し、そこで家を定めた。父の史遵は初め征虜府の鎧曹参そうしん軍となった。杜洛周が乱を起こすと、六鎮は互いに争って陥落し、史遵は郷里の二千家を率いて恒州に奔った。その後、恒州が賊に敗れると、史遵は再び洛陽らくように帰った。楼煩郡守に任ぜられた。史寧が功績を立てると、追贈されて散騎常侍さんきじょうじ・征西大将軍・涼州刺史となり、諡を貞といった。

原文 史寧字永和,建康〈(袁)〉〔表〕氏人也。曾祖豫,仕沮渠氏為臨松令。魏平涼州,祖灌隨例遷於撫寧鎮,因家焉。父遵,初為征虜府鎧曹參軍。屬杜洛周構逆,六鎮自相屠陷,遵遂率鄉里二千家奔恆州。其後恆州為賊所敗,遵復歸洛陽。拜樓煩郡守。及寧著勳,追贈散騎常侍、征西大將軍、涼州刺史,諡曰貞。

史寧は若くして軍功により別将に任ぜられた。直閤将軍・都督ととくに転じ、禁中を宿衛した。まもなく持節・征東将軍・金紫光禄大夫を加えられた。賀抜勝が荊州刺史となると、史寧は本官のまま賀抜勝の軍司となり、歩騎一千を率いて賀抜勝に従って任地に赴いた。折しも荊州の蛮が騒動し、三鵶路が遮断されたが、史寧が先鋒となってこれを平定した。そこで蛮左を撫慰すると、彼らは一斉に降伏し、馬一千五百匹を徴収して軍に供給した。まもなく南郢州刺史に任ぜられた。賀抜勝が大行臺となると、史寧を大都督に推挙した。歩騎一万を率いて梁の下溠戍を攻撃し、これを破り、武平県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。また梁の斉興鎮など九城を攻め落とし、二万戸を獲得して帰還した。論功行賞の前に、魏の孝武帝が西遷し、東魏が侯景に命じて軍を率いて荊州を侵すと、史寧は賀抜勝に従って梁に奔った。梁の武帝は史寧を香磴の前に引き出し、彼に言った。「卿の風采を見ると、ついには富貴に至るであろう。私は卿に錦衣で故郷に帰らせてやろう。」史寧は答えて言った。「臣は代々魏の恩を受け、列将の位にありましたが、天下が乱れ、本朝が傾覆したため、北面して逆賊に仕えることができず、幸いにも有道の地で肩を休めることができました。もし明詔の通りになれば、喜び幸せは実に多いでしょう。」そして涙を流したので、梁の武帝も感動した。梁にいること二年、賀抜勝は史寧と密かに帰国の計画を立てた。史寧は言った。「朱异は梁の主君に信任されていますので、私が彼に会いに行きましょう。」賀抜勝はその言葉を認めた。史寧は朱异に会い、心を打ち明ける言葉を述べ、微かに帰国の意向を託した。その言葉と態度は上品で誠実であった。朱异も感心し、史寧に言った。「故郷を思う気持ちは、どうして忘れられようか。奏上して聞かせ、必ずや願いを遂げさせよう。」間もなく、梁の主君は賀抜勝らの帰国を許した。

原文 寧少以軍功,拜別將。遷直閣將軍、都督,宿衞禁中。尋加持節、征東將軍、金紫光祿大夫。賀拔勝為荊州刺史,寧以本官為勝軍司,率步騎一千,隨勝之部。值荊蠻騷動,三鵶路絕,寧先驅平之。因撫慰蠻左,翕然降附,遂稅得馬一千五百匹供軍。尋除南郢州刺史。及勝為大行臺,表寧為大都督。率步騎一萬攻梁下溠戍,破之,封武平縣伯,邑五百戶。又攻拔梁齊興鎮等九城,獲戶二萬而還。未及論功,屬魏孝武西遷,東魏遣侯景率眾寇荊州,寧隨勝奔梁。梁武帝引寧至香磴前,謂之曰:「觀卿風表,終至富貴,我當使卿衣錦還鄉。」寧答曰:「臣世荷魏恩,位為列將,天長喪亂,本朝傾覆,不能北面逆賊,幸得息肩有道。儻如明詔,欣幸實多。」因涕泣橫流,梁武為之動容。在梁二年,勝乃與寧密圖歸計。寧曰:「朱异既為梁主所信任,請往見之。」勝然其言。寧乃見异,申以投分之言,微託思歸之意,辭氣雅至。异亦嗟挹,謂寧曰:「桑梓之思,其可忘懷?當為奏聞,必望遂所請耳。」未幾,梁主果許勝等歸。

大統二年、史寧は梁から帰朝し、侯に爵位を進められ、邑三百戸を加増された。しばらくして、車騎将軍・行涇州事に転じた。時に賊帥の莫折後熾が住民を寇掠していたので、史寧は州兵を率いて行原州事の李賢とともにこれを討ち破った。通直散騎常侍・東義州刺史に転じた。東魏もまた旧来の胡の梨苟を東義州刺史とした。史寧がかろうじて州に入ると、梨苟も到着したので、史寧は迎え撃ってこれを破り、その洛安郡守の馮善道を斬った。州は国境に隣接しており、百姓は流亡していたが、史寧は心を留めて撫慰したので、皆が帰って来て生業に戻った。

原文 大統二年,寧自梁歸闕,進爵為侯,增邑三百戶。久之,遷車騎將軍、行涇州事。時賊帥莫折後熾寇掠居民,寧率州兵與行原州事李賢討破之。轉通直散騎常侍、東義州刺史。東魏亦以故胡梨苟為東義州刺史。寧僅得入州,梨苟亦至,寧迎擊,破之,斬其洛安郡守馮善道。州既鄰接疆埸,百姓流移,寧留心撫慰,咸來復業。

十二年、涼州刺史に転じた。史寧が到着する前に、前刺史の宇文仲和が州を占拠して乱を起こした。詔により独孤信が兵を率いて史寧とともにこれを討つこととなり、史寧が先に涼州に到着し、禍福を説くと、城中の吏民は相次いで降伏した。宇文仲和は依然として城を守って降らなかったが、まもなくこれを平定した。車騎大将軍・儀同三司・大都督・涼西涼二州諸軍事・散騎常侍・涼州刺史を加えられた。十五年、驃騎大将軍・開府儀同三司に転じ、侍中を加えられ、公に爵位を進められた。

原文 十二年,轉涼州刺史。寧未至而前刺史宇文仲和據州作亂。詔遣獨孤信率兵與寧討之,寧先至涼州,為陳禍福,城中吏民皆相率降附。仲和仍據城不下,尋亦克之。加車騎大將軍、儀同三司、大都督、涼西涼二州諸軍事、散騎常侍、涼州刺史。十五年,遷驃騎大將軍、開府儀同三司,加侍中,進爵為公。

十六年、宕昌の叛羌である獠甘が乱を起こし、その王の弥定を追放して自立し、さらに傍乞鉄怱や鄭五醜らと結託した。詔により史寧は軍を率いて宇文貴・豆盧寧らとともにこれを討った。史寧は別働隊で獠甘を攻撃したが、山路は険阻で、やっと単騎が通れる程度であり、獠甘はすでにその党を分けて柵を築き、険要を守っていた。史寧は進軍してこれを攻撃し、その柵を破った。獠甘は三万人を率いて迎え撃ったが、史寧は再びこれを大破し、宕昌まで追撃した。獠甘は百余騎を率いて生羌の鞏廉玉のもとに逃げ込んだ。弥定はこうして復位することができた。史寧は獠甘を捕らえていないため、密かにこれを謀ろうとし、声を揚げて帰還しようとした。獠甘はこれを聞き、再び叛羌を招き寄せ、山に依って柵を築き、弥定を攻撃しようとした。史寧は諸将に言った。「この羌は我が術中に陥った。進軍してこれを捕らえるべきである。」諸将は帰還を望み、皆言った。「生羌は聚散常なく、山谷に依拠しています。今追討すれば、恐らく日を引き延ばして成果が上がらないでしょう。しかも弥定は既に蕃を守るに戻れました。将軍の功績は既に立てられています。獠甘の勢力は弱く、弥定が十分に制圧できます。これをもって軍を返すのが、上策です。」史寧は言った。「一日敵を逃がせば、数世の患いとなる。どうして滅ぼそうとする敵を捨てて、再び挙兵の煩わしさを増やせようか。人臣の礼として、知ることは全て行うべきである。この点で諸君は計事に与るに足りない。もしさらに衆の志を沮ませるならば、史寧が諸君を斬ることができないということがあろうか!」そこで進軍した。獠甘の軍勢も到着し、戦ってこれを大破し、獠甘を生け捕りにし、示衆して斬った。また鞏廉玉を捕らえて朝廷に送った。得た戦利品は全て将士に分け与え、史寧は私することはなかった。軍が帰還すると、詔により史寧は配下を率いて河陽に駐屯した。史寧は以前涼州にいた時、戎夷がその威徳に服しており、駐屯地を移した後も、辺境の民は皆彼を慕い思った。

原文 十六年,宕昌叛羌獠甘作亂,逐其王彌定而自立,并連結傍乞鐵怱及鄭五醜等,詔寧率軍與宇文貴、豆盧寧等討之。寧別擊獠甘,而山路險阻,纔通單騎,獠甘已分其黨立柵守險。寧進兵攻之,遂破其柵。獠甘率三萬人逆戰,寧復大破之,追奔至宕昌。獠甘將百騎走投生羌鞏廉玉。彌定遂得復位。寧以未獲獠甘,密欲圖之,乃揚聲欲還。獠甘聞之,復招引叛羌,依山起柵,欲攻彌定。寧謂諸將曰:「此羌入吾術中,當進兵擒之耳。」諸將思歸,咸曰:「生羌聚散無常,依據山谷,今若追討,恐引日無成。且彌定還得守蕃,將軍功已立矣。獠甘勢弱,彌定足能制之。以此還師,策之上者。」寧曰:「一日縱敵,數世之患,豈可捨將滅之寇,更煩再舉。人臣之禮,知無不為。以此諸君不足與計事也。如更沮眾,寧豈不能斬諸君邪!」遂進軍,獠甘眾亦至,與戰,大破之,生獲獠甘,狥而斬之。并執鞏廉玉送闕。所得軍實,悉分賞將士,寧無私焉。師還,詔寧率所部鎮河陽。寧先在涼州,戎夷服其威惠,遷鎮之後,邊民並思慕之。

魏の廃帝元年、再び涼甘瓜三州諸軍事・涼州刺史に任ぜられた。初め茹茹は魏と和親していたが、後に離叛した。まもなく突厥に破られ、その主の阿那瓌が殺された。部落の逃亡者は依然として瓌の子孫を奉じ、河右を抄掠した。史寧は兵を率いて邀撃し、瓌の子孫二人とその種落の酋長を捕らえた。これ以来、戦うごとにこれを破り、前後して数万人を捕獲した。安政郡公に爵位を進められた。三年、吐谷渾が斉に使者を通じたので、史寧はこれを撃ち捕らえ、そのまま大将軍に任ぜられた。史寧は後に使者を太祖のもとに遣わして事を請うた。太祖は直ちに自ら身に着けていた冠・履・衣被および弓箭・甲矟などを史寧に賜った。その使者に言った。「私に代わって涼州(史寧)に謝せよ。孤は衣を解いて公に着せ、心を推して公に委ねた。公はその善く始めを令終させ、功名を損なうことなきように。」

原文 魏廢帝元年,復除涼甘瓜三州諸軍事、涼州刺史。初茹茹與魏和親,後更離叛。尋為突厥所破,殺其主阿那瓌。部落逃逸者,仍奉瓌之子孫,抄掠河右。寧率兵邀擊,獲瓌子孫二人,并其種落酋長。自是每戰破之,前後獲數萬人。進爵安政郡公。三年,吐谷渾通使於齊,寧擊獲之,就拜大將軍。寧後遣使詣太祖請事,太祖即以所服冠履衣被及弓箭甲矟等賜寧。謂其使人曰:「為我謝涼州,孤解衣以衣公,推心以委公,公其善始令終,無損功名也。」

時に突厥の木汗可汗が涼州を通って吐渾を襲撃しようとし、太祖は史寧に騎兵を率いてこれに従うよう命じた。軍が番禾に至ると、吐渾は既に察知して南山に奔った。木汗は兵を分けて追撃しようとし、青海で合流するよう命じた。史寧は木汗に言った。「樹敦・賀真の二城は、吐渾の巣窟である。今その本根を抜けば、残りの種族は自然に離散する。これが上策である。」木汗はこれに従い、直ちに両軍に分かれた。木汗は北道から賀真に向かい、史寧は樹敦に向かった。渾の娑周国王が衆を率いて迎え撃ったが、史寧はこれを撃ち斬った。山を越え険を踏み、ついに樹敦に至った。樹敦は渾の旧都で、多くの珍宝が蓄えられていた。しかし渾の主は既に賀真に奔っており、征南王と数千人を留めて固守させていた。史寧は進軍してこれを攻撃し、退くと、渾人は果たして城門を開いて追撃してきた。そこで兵を返して奮撃し、門が閉じる前に史寧の兵は城内に入った。その征南王を生け捕りにし、男女・財宝を捕虜とし、全て突厥に帰属させた。渾の賀羅抜王は険に依って柵を築き、周囲五十余里に及び、史寧の進路を塞ごうとした。史寧はその柵を攻撃して破り、捕虜と斬首は万を数え、雑畜数万頭を獲得した。木汗もまた賀真を破り、渾の主の妻子を虜とし、多くの珍宝を獲得した。史寧は軍を青海に返し、木汗と会合した。木汗は史寧の手を握り、その勇決を嘆賞し、併せて自ら乗る良馬を贈り、史寧に帳前でこれに乗るよう命じ、木汗自ら歩いて送った。突厥は史寧の謀ることが必ず破ると考え、皆これを畏れ憚り、言った。「これは中国の神智の人である。」帰還しようとする時、木汗はまた史寧に奴婢一百口・馬五百匹・羊一万口を贈った。史寧はそこで州に帰還した。まもなく召されて朝廷に入ったが、折しも太祖が崩御した。史寧は悲慟して止まず、陵所に赴いて哀悼の意を尽くすこと、併せて出征の勝利を報告することを請うた。

原文 時突厥木汗可汗假道涼州,將襲吐渾,太祖令寧率騎隨之。軍至番禾,吐渾已覺,奔於南山。木汗將分兵追之,令俱會於青海。寧謂木汗曰:「樹敦、賀真二城,是吐渾巢穴。今若拔其本根,餘種自然離散,此上策也。」木汗從之,即分為兩軍。木汗從北道向賀真,寧趣樹敦。渾娑周國王率眾逆戰,寧擊斬之。踰山履險,遂至樹敦。敦是渾之舊都,多諸珍藏。而渾主先已奔賀真,留其征南王及數千人固守。寧進兵攻之,退,渾人果開門逐之,因回兵奮擊,門未及闔,寧兵遂得入。生獲其征南王,俘虜男女、財寶,盡歸諸突厥。渾賀羅拔王依險為柵,周回五十餘里,欲塞寧路。寧攻其柵,破之,俘斬萬計,獲雜畜數萬頭。木汗亦破賀真,虜渾主妻子,大獲珍物。寧還軍於青海,與木汗會。木汗握寧手,歎其勇決,并遺所乘良馬,令寧於帳前乘之,木汗親自步送。突厥以寧所圖必破,皆畏憚之,咸曰:「此中國神智人也。」及將班師,木汗又遺寧奴婢一百口、馬五百匹、羊一萬口。寧乃還州。尋被徵入朝,屬太祖崩,寧悲慟不已,乃請赴陵所盡哀,并告行師克捷。

孝閔帝が即位すると、小司徒しとに任ぜられ、出向して荊襄淅郢等五十二州及び江陵鎮防諸軍事・荊州刺史となった。寧は識見と計画があり、兵権に通暁し、敵に臨んで指揮すると、皆その策の如くであり、当時の称賛を大いに得た。しかし荊州に在った時は、甚だ自ら奢侈にふけり貪濁し、法度を修めなかった。かつて外出した時、ある人が州の佐官が法を曲げたことを訴えたが、寧は帰ってから訴えられた者にこれを処置させた。これより以後、事ある者は再び敢えて言わなくなり、名声は西州において大いに損なわれた。保定三年、州において卒去した。諡して烈という。子の雄が嗣いだ。

原文 孝閔帝踐阼,拜小司徒,出為荊襄淅郢等五十二州及江陵鎮防諸軍事、荊州刺史。寧有識畫,諳兵權,臨敵指撝,皆如其策,甚得當時之譽。及在荊州,頗自奢縱貪濁,不修法度。嘗出,有人訴州佐曲法,寧還付被訟者治之。自是有事者不復敢言,聲名大損於西州。保定三年,卒於州。諡曰烈。子雄嗣。

雄は字を世武という。若い頃より勇敢で、膂力は人に優れ、弓馬に熟達し、計算と謀略があった。十四歳の時、寧に従って牽屯山において太祖を奉迎した。引き続き狩猟に従い、弓は虚しく発すること無かった。太祖はこれを歎異した。まもなく太祖の娘である永富公主を娶った。使持節・驃騎大將軍・開府儀同三司に任ぜられ、累遷して駕部中大夫・大馭中大夫となった。柱国・枹罕公辛威に従って金城を鎮守し、遂に軍中において卒去した。時に二十四歳であった。雄の弟の祥は、父の勲功により爵位を武遂県公と賜った。祥の弟の雲もまた父の勲功により爵位を武平県公と賜い、位は司織下大夫、儀同大將軍に至った。雲の弟の威もまた父の勲功により爵位を武当県公と賜った。

原文 雄字世武。少勇敢,膂力過人,便弓馬,有算略。年十四,從寧於牽屯山奉迎太祖。仍從校獵,弓無虛發。太祖歎異之。尋尚太祖女永富公主。除使持節、驃騎大將軍、開府儀同三司,累遷駕部中大夫、大馭中大夫。從柱國、枹罕公辛威鎮金城,遂卒於軍,時年二十四。雄弟祥,以父勳賜爵武遂縣公。祥弟雲,亦以父勳賜爵武平縣公,歷位司織下大夫,儀同大將軍。雲弟威,亦以父勳賜爵武當縣公。

陸騰

原文 陸騰

陸騰は字を顕聖といい、代の人である。高祖こうその俟は、魏の征西大將軍・東平王であった。祖の彌は夏州刺史であった。父の旭は、性質が高雅で淡泊であり、老易緯候の学を好み、五星要訣及び両儀真図を撰し、その指要を頗る得た。太和年間、召されて中書博士に任ぜられ、やがて散騎常侍に遷った。天下が乱れんとするを知り、遂に太行山に隠棲した。孝荘帝が即位すると、屡々徴召されたが起たなかった。後に并へい汾恆肆四州刺史を追贈された。

原文 陸騰字顯聖,代人也。高祖俟,魏征西大將軍、東平王。祖彌,夏州刺史。父旭,性雅澹,好老易緯候之學,撰五星要訣及兩儀真圖,頗得其指要,太和中,徵拜中書博士,稍遷散騎常侍。知天下將亂,遂隱於太行山。孝莊即位,屢徵不起。後贈并汾恆肆四州刺史。

騰は若い頃より慷慨として大節があり、解巾して員外散騎侍郎・司徒府中兵参軍となった。爾朱栄が洛陽に入ると、騰を通直散騎侍郎・帳内都督とした。葛栄平定に従い、功により爵位を清河県伯と賜った。普泰初年、朱衣直閤に遷った。安平主(即ち東萊王貴平の娘)を娶った。魏の孝武帝が貴平の邸に幸すると、騰を見て、語らいこれを悦び、貴平に言うには、「阿翁は真に良き婿を得た」と。即ち通直散騎常侍に抜擢した。孝武帝が西遷すると、騰は時に青州に使いしており、遂に鄴に留め置かれた。東魏の興和初年、征西將軍に徴されて拜し、陽城郡守を領した。

原文 騰少慷慨有大節,解巾員外散騎侍郎、司徒府中兵參軍。爾朱榮入洛,以騰為通直散騎侍郎、帳內都督。從平葛榮,以功賜爵清河縣伯。普泰初,遷朱衣直閤。尚安平主,即東萊王貴平女也。魏孝武幸貴平第,見騰,與語悅之,謂貴平曰:「阿翁真得好壻。」即擢為通直散騎常侍。及孝武西遷,騰時使青州,遂沒於鄴。東魏興和初,徵拜征西將軍,領陽城郡守。

大統九年、大軍が東討するに当たり、騰の拠る所が衝要であるため、遂に先ずこれを攻撃した。時に兵威は甚だ盛んであり、長史の麻休は騰に降伏を勧めたが、許さず、拒んで守ること一月余り、城は陥落し捕らえられた。太祖はこれを釈放して礼遇し、東の間の消息を問うと、騰は東州の人物を盛んに陳べ、また時事を叙述し、言辞道理に抑揚があった。太祖は笑って言うには、「卿は真に本に背かぬ者である」と。即ち帳内大都督に任じた。間もなく太子庶子に任ぜられ、武衞えい將軍に遷った。既に太祖に知られた後、功効を立てんことを願い、内職を求めなかったので、太祖はこれを嘉した。十三年、車騎大將軍・儀同三司に任ぜられた。

原文 大統九年,大軍東討,以騰所據衝要,遂先攻之。時兵威甚盛,長史麻休勸騰降,不許,拒守經月餘,城陷被執。太祖釋而禮之,問其東間消息,騰盛陳東州人物,又敘述時事,辭理抑揚。太祖笑曰:「卿真不背本也。」即拜帳內大都督。未幾,除太子庶子,遷武衞將軍。既為太祖所知,願立功效,不求內職,太祖嘉之。十三年,拜車騎大將軍、儀同三司。

魏の廃帝元年、安康の賊徒黄衆宝等が乱を起こし、漢中と連絡し、衆数万、東梁州を攻囲した。城中の糧食が尽き、詔して騰に軍を率いて子午谷よりこれを救援させた。騰は星を戴いて道に就き、至るや即ち戦い、これを大破した。軍が還ると、龍州刺史に任ぜられ、太祖は騰に言うには、「今、江油路を通じ、直ちに南秦に出んと欲する。卿は宜しく善く経略を思うべし」と。騰は言うには、「必ずや臨機に制変することを望み、敢えて予め陳べることは出来ません」と。太祖は言うには、「これは卿が柱国を取る日である。卿は其れを勉めよ」と。即ち身に着けていた金帯を解いてこれを賜った。州民の李広嗣・李武等は巌険に憑り、堡壁と為し、不逞の徒を招集し、郡県を攻撃し掠奪し、歴代の政も治めることが出来なかった。騰は密かに多く飛梯を造らせ、身みずから麾下を率い、夜に往きて掩襲し、未だ明けぬうちに、四面より俱に上り、遂にこれを破り、広嗣等を鼓下にて捕らえた。その党に任公忻という者がおり、更に徒衆を聚め、州城を囲逼した。乃ち騰に告げて言うには、「只だ広嗣及び武を免するならば、即ち兵を散じて罪を請う」と。騰は将士に謂って言うには、「我若し広嗣等を殺さざれば、軍実を隳し寇讐を長ずるものと謂うべく、事の不可なる者である。公忻の豎子、乃ち敢えて人を要するか!」と。即ち広嗣及び武を斬り、その首を以て示した。賊徒は気を沮喪し、ここにおいて出兵して奮撃し、これを尽く捕獲した。

原文 魏廢帝元年,安康賊黃眾寶等作亂,連結漢中,眾數萬,攻圍東梁州。城中糧盡,詔騰率軍自子午谷以援之。騰乃星言就道,至便與戰,大破之。軍還,拜龍州刺史,太祖謂騰曰:「今欲通江〈(由)〉〔油〕路,直出南〈(奏)〉〔秦〕,卿宜善思經略。」騰曰:「必望臨機制變,未敢預陳。」太祖曰:「此是卿取柱國之日,卿其勉之。」即解所服金帶賜之。州民李廣嗣、李武等憑據巖險,以為堡壁,招集不逞之徒,攻刼郡縣,歷政不能治。騰密令多造飛梯,身率麾下,夜往掩襲,未明,四面俱上,遂破之,執廣嗣等於鼓下。其黨有任公忻者,更聚徒眾,圍逼州城。乃語騰曰:「但免廣嗣及武,即散兵請罪。」騰謂將士曰:「吾若不殺廣嗣等,可謂隳軍實而長寇讐,事之不可者也。公忻豎子,乃敢要人!」即斬廣嗣及武,以首示之。賊徒沮氣,於是出兵奮擊,盡獲之。

魏の恭帝三年、驃騎大將軍・開府儀同三司に任ぜられ、江州刺史に転じ、爵は上庸県公、邑二千戸となった。陵州の木籠獠は険阻を恃み粗獷で、毎度抄略を行ったので、詔して騰にこれを討たせた。獠は既に山に因って城と為しており、攻撃しても抜くことが出来なかった。騰は遂に城下に多くの声楽及び諸雑伎を設け、戦う心無きことを示した。諸賊は果たしてその兵仗を棄て、或いは妻子を携えて城に臨み楽を観た。騰はその無備を知り、密かに諸軍に俱に上ることを命じた。諸賊は惶懼し、為す所を知らなかった。遂に兵を放って討撃し、これを尽く破り、一万級を斬首し、五千人を俘獲した。

原文 魏恭帝三年,拜驃騎大將軍、開府儀同三司,轉江州刺史,爵上庸縣公,邑二千戶。陵州木籠獠恃險麤獷,每行抄刼,詔騰討之。獠既因山為城,攻之未可拔。騰遂於城下多設聲樂及諸雜伎,示無戰心。諸賊果棄其兵仗,或攜妻子臨城觀樂。騰知其無備,密令眾軍俱上,諸賊惶懼,不知所為。遂縱兵討擊,盡破之,斬首一萬級,俘獲五千人。

世宗の初め、陵・眉・戎・江・資・卭・新・遂の八州の夷夏及び合州の民張瑜兄弟が共に反し、衆数万人、郡県を攻め破った。騰は兵を率いてこれを討った。潼州刺史に転じた。武成元年、詔して騰を入朝させ、世宗は面と向かって勅して言うには、「益州は険遠にして、親しからざれば居らしめず、故に斉公に鎮守させている。卿の武略は、既に遐邇に著しい。兵馬鎮防は、皆卿に委ねて統摂させるべきである」と。ここにおいて隆州刺史に徙り、憲に随って蜀しょくに入った。趙公招が憲に代わると、復たこれを留めることを請うた。

原文 世宗初,陵、眉、戎、江、資、卭、新、遂八州夷夏及合州民張瑜兄弟并反,眾數萬人,攻破郡縣。騰率兵討之。轉潼州刺史。武成元年,詔徵騰入朝,世宗面勑之曰:「益州險遠,非親勿居,故令齊公作鎮。卿之武略,已著遐邇,兵馬鎮防,皆當委卿統攝。」於是徙隆州刺史,隨憲入蜀。及趙公招代憲,復請留之。

保定元年、隆州総管に遷り、刺史を領した。二年、資州槃石の民が反し、郡守を殺し、険阻に拠って自ら守り、州軍は制することが出来なかった。騰は軍を率いて討撃し、これを尽く破り斬った。しかし蛮・獠の兵及び所在の者が蜂起し、山路は険阻で、掩襲し難かった。騰は遂に山川の形勢を量り、便宜に道を開いた。蛮獠は威を畏れ、風に承って服することを請うた。開いた道には、多く古い銘文を得たが、並びに諸葛亮・桓温の旧道であった。この年、鉄山獠が内江路を抄断し、駅伝を通じさせなかった。騰は乃ち進軍してこれを討った。鉄山に至らんと欲するや、乃ち偽って師を還す。賊はこれを虞いとせず、遂に守備しなかった。騰は其の不意に出てこれを撃ち、時に応じて奔潰した。一日にその三城を下し、その魁帥を斬り、三千人を俘獲し、降附する者三万户を招納した。

原文 保定元年,遷隆州總管,領刺史。二年,資州槃石民反,殺郡守,據險自守,州軍不能制。騰率軍討擊,盡破斬之。而蠻、獠兵及所在蜂起,山路險阻,難得掩襲。騰遂量山川形勢,隨便開道。蠻獠畏威,承風請服。所開之路,多得古銘,並是諸葛亮、桓溫舊道。是年,鐵山獠抄斷內江路,使驛不通。騰乃進軍討之。欲至鐵山,乃偽還師。賊不以為虞,遂不守備。騰出其不意擊之,應時奔潰。一日下其三城,斬其魁帥,俘獲三千人,招納降附者三萬戶。

帝は騰の母が斉に在るを以て、東討を命じなかった。折しもその親属が東より朝廷に還る者がおり、晋公護は奏して偽って騰に告げさせた。「斉は無道にして、既に公の家を誅し、母兄共に塗炭に従う」と。蓋しその怒りを発せんと欲したのである。騰は乃ち哀しみを発して泣血し、志は復讐に在った。四年、斉公憲と晋公護が東征するに当たり、騰を副とすことを請うた。趙公招は時に蜀に在り、復たこれを留めた。晋公護は招に書を送り言うには、「今、朝廷は斉公に河・洛を掃蕩せしめんとし、この人と同行せんと欲する。汝の彼方には事無く、且く宜しく吾に借すべし」と。ここにおいて騰に馳伝して入朝させ、憲の東討の副とさせた。五年、司憲中大夫に任ぜられた。

原文 帝以騰母在齊,未令東討。適有其親屬自東還朝者,晉公護〈(奉)〉〔奏〕令偽告騰云:「齊為無道,已誅公家,母兄並從塗炭。」蓋欲發其怒也。騰乃發哀泣血,志在復讐。四年,齊公憲與晉公護東征,請騰為副。趙公招時在蜀,復留之。晉公護與招書曰:「今朝廷令齊公掃蕩河、洛,欲與此人同行。汝彼無事,且宜借吾也。」於是命騰馳傳入朝,副憲東討。五年,拜司憲中大夫。

天和の初め、信州の蛮・蜑が江峡に拠って反叛し、二千余里に連なり、自ら王侯を称し、刺史・守令らを殺した。また詔して騰に軍を率いてこれを討たしむ。騰は先ず益州に向かい、驍ぎょう勇の士を進め、併せて楼船を具え、外江に沿って下る。軍は湯口に至り、分道して奮撃し、向かう所摧破す。乃ち京観を築きて武功を旌ぐ。語は蛮伝に在り。涪陵郡守の藺休祖はまた楚・向・臨・容・開・信等の州に拠り、地方二千余里、兵を阻んで乱を為す。復た詔して騰にこれを討たしむ。初め大戦し、二千余級を斬首し、千余人を俘獲す。当時その鋒を摧くも、而して賊衆既に多く、夏より秋に及び、日として戦わざるはなく、師老いて糧尽き、遂に軍を集市に停め、更に方略を思う。賊、騰の出でざるを見て、四面競って前進す。騰は乃ちその衆を激勵し、士皆奮いを爭い、復たその魚令城を攻め抜き、大いに糧儲を獲て、以て軍実を充す。又た銅盤等七柵を破り、前後四千人を斬獲し、併せて舩艦等を獲る。又た臨州・集市の二城を築き、以てこれを鎮遏す。騰、龍州に在りしより、是に至るまで前後諸賊を破平し、凡そ奴婢八百口を賞得し、馬牛これに称す。ここにおいて巴蜀はしょく悉く定まり、詔して碑を樹てて績を紀せしむ。

原文 天和初,信州蠻、蜑據江峽反叛,連結二千餘里,自稱王侯,殺刺史守令等。又詔騰率軍討之。騰乃先趣益州,進驍勇之士,兼具樓船,㳂外江而下。軍至湯口,分道奮擊,所向摧破。乃築京觀以旌武功。語在蠻傳。涪陵郡守藺休祖又據楚、向、臨、容、開、信等州,地方二千餘里,阻兵為亂。復詔騰討之。初與大戰,斬首二千餘級,俘獲千餘人。當時雖摧其鋒,而賊眾既多,自夏及秋,無日不戰,師老糧盡,遂停軍集市,更思方略。賊見騰不出,四面競前。騰乃激勵其眾,士皆爭奮,復攻拔其魚令城,大獲糧儲,以充軍實。又破銅盤等七柵,前後斬獲四千人,并舩艦等。又築臨州、集市二城,以鎮遏之。騰自在龍州,至是前後破平諸賊,凡賞得奴婢八百口,馬牛稱是。於是巴蜀悉定,詔令樹碑紀績焉。

四年、江陵総管に遷る。陳、その将章昭達に五万の衆・二千の舩艦を率いさせて江陵を囲ます。衞王直、陳寇有ると聞き、大将軍趙誾・李遷哲らに歩騎を率いてこれに赴かしめ、併せて騰の節度を受く。時に遷哲らは外城を守り、陳将程文季・雷道勤夜来して掩襲す。遷哲ら驚亂し、抗禦すること能わず。騰、夜に門を開き、甲士を出して奮撃し、これを大破す。陳人奔潰し、道勤は流矢に中りて斃れ、二百余人を虜獲す。陳人は又た龍川の寧邦堤を決し、水を引いて江陵城を灌ぐ。騰、親しく将士を率いて西堤に戦い、これを破り、数千級を斬首す。陳人は乃ち遁走す。六年、柱国に進み、上庸郡公に進爵し、邑を通前三千五百戸に増す。

原文 四年,遷江陵總管。陳遣其將章昭達率眾五萬、舩艦二千圍江陵。衞王直聞有陳寇,遣大將軍趙誾、李遷哲等率步騎赴之,並受騰節度。時遷哲等守外城,陳將程文季、雷道勤夜來掩襲,遷哲等驚亂,不能抗禦。騰夜遣開門,出甲士奮擊,大破之。陳人奔潰,道勤中流矢而斃,虜獲二百餘人。陳人又決龍川寧邦堤,引水灌江陵城。騰親率將士戰於西堤,破之,斬首數千級,陳人乃遁。六年,進位柱國,進爵上庸郡公,增邑通前三千五百戶。

建徳二年、大司空しくうに徴拝され、尋いで涇州総管として出づ。宣政元年冬、京師にて薨ず。本官を贈り、并・汾等五州刺史を加え、重ねて大後丞を贈る。諡して定と曰う。子の玄、嗣ぐ。

原文 建德二年,徵拜大司空,尋出為涇州總管。宣政元年冬,薨於京師。贈本官加并汾等五州刺史,重贈大後丞。諡曰定。子玄嗣。

玄は字を士鑒とす。騰が関に入る時、年始めて七歳。斉に仕えて奉朝請となり、成平県令を歴任す。斉平らぎ、高祖玄を見て、特らに労勉を加え、即ち地官府都上士に拝す。大象の末、隋文相府内兵参軍となる。玄の弟の融は字を士傾とし、最も知名れ、少より顕職を歴任す。大象の中、位は大将軍・定陵県公に至る。

原文 玄字士鑒,騰入關時,年始七歲。仕齊為奉朝請,歷成平縣令。齊平,高祖見玄,特加勞勉,即拜地官府都上士。大象末,為隋文相府內兵參軍。玄弟融,字士傾,最知名,少歷顯職。大象中,位至大將軍、定陵縣公。

賀若敦

原文 賀若敦

賀若敦は代の人なり。父の統は東魏の潁州長史たり。大統三年、刺史田迅を執えて州を以て降る。長安ちょうあんに至り、魏の文帝、統に謂いて曰く、「卿は潁川より我に従う、何の日か能く忘れんや」と。即ち右衞将軍・散騎常侍・兗州刺史に拝し、当亭県公の爵を賜う。尋いで北雍州刺史を除く。卒し、侍中・燕朔恆三州刺史・司空公を贈り、諡して哀と曰う。

原文 賀若敦,代人也。父統,為東魏潁州長史。大統〈(二)〉〔三〕年,執刺史田迅以州降。至長安,魏文帝謂統曰:「卿自潁川從我,何日能忘。」即拜右衞將軍、散騎常侍、兗州刺史,賜爵當亭縣公。尋除北雍州刺史。卒,贈侍中、燕朔恆三州刺史、司空公,諡曰哀。

敦は少より気幹有り、騎射を善くす。統が迅を執らんと謀るや、事の果たさざるを慮り、又以て累弱既に多く、自ら抜くこと難しとし、沉吟すること久し。敦、時に年十七、乃ち策を進めて曰く、「大人は往事葛榮に事え、既に将帥と為り、後に入りて爾朱に、礼遇猶お重し。韓陵の役、節を屈して高歡に従う、既に故人に非ず、又た功效無し。今日の委任、前者に異なる無きは、正に天下未だ定まらず、方に英雄の力を藉るによる。一旦清平なれば、豈に相容るるの理有らんや。敦が愚計を以てすれば、恐らく将来に危亡の憂い有らん。願わくは全身遠害を思い、顧念する所有るを得ざらんことを」と。統は乃ち涕を流してこれに従い、遂に謀を定めて太祖に帰す。時に羣盗蜂起し、各山谷に拠る。大亀山の賊張世顯潜かに来たりて統を襲う。敦、身を挺して戦いに赴き、手ずから七八人を斬り、賊は乃ち退走す。統大いに悦び、左右の僚属に謂いて曰く、「我少より軍旅に従い、戦陣一に非ず、此の児の年時の胆略の如き者は、未だ其の人を見ず。唯だ我が門戸を成すのみならず、亦た国の名将と為るべし」と。

原文 敦少有氣幹,善騎射。統之謀執迅也,慮事不果,又以累弱既多,難以自拔,沉吟者久之。敦時年十七,乃進策曰:「大人往事葛榮,已為將帥;後入爾朱,禮遇猶重。韓陵之役,屈節高歡,既非故人,又無功效,今日委任,無異於前者,正以天下未定,方藉英雄之力。一旦清平,豈有相容之理。以敦愚計,恐將來有危亡之憂。願思全身遠害,不得有所顧念也。」統乃流涕從之,遂定謀歸太祖。時羣盜蜂起,各據山谷。大龜山賊張世顯潛來襲統,敦挺身赴戰,手斬七八人,賊乃退走。統大悅,謂左右僚屬曰:「我少從軍旅,戰陣非一,如此兒年時膽略者,未見其人。非唯成我門戶,亦當為國名將。」

明年、河内公獨孤信に従いて洛陽に在り、囲まれる。敦、弓三石を彎げ、箭虚しく発せず。信大いにこれを奇とし、乃ち太祖に言う。太祖これを異とし、麾下に引置き、都督を授け、安陵県伯に封じ、邑四百戸。嘗て太祖に従い甘泉宮に校猟す。時に囲人斉わず、獣多く逃逸す。太祖大いに怒り、人皆股戦す。囲内唯だ一鹿有り、俄かに亦た囲を突いて走る。敦、馬を躍らせてこれを馳せ、鹿は東山に上る。敦、馬を棄てて歩逐し山半に至り、便ちこれを掣して下る。太祖大いに悦び、諸将因って責を免る。累遷して太子庶子・撫軍将軍・通直散騎常侍・大都督・車騎大将軍・散騎常侍・儀同三司、広郷県侯に進爵す。敦、既に武藝有り、太祖恒に将帥を以てこれに任ぜんと欲す。魏の廃帝二年、右衞将軍に拝し、俄かに驃騎大将軍・開府儀同三司を加え、公に進爵す。

原文 明年,從河內〔公〕獨孤信於洛陽,被圍。敦彎弓三石,箭不虛發。信大奇之,乃言於太祖。太祖異之,引置麾下,授都督,封安陵縣伯,邑四百戶。嘗從太祖校獵於甘泉宮,時圍人不齊,獸多逃逸,太祖大怒,人皆股戰。圍內唯有一鹿,俄亦突圍而走。敦躍馬馳之,鹿上東山,敦棄馬步逐至山半,便掣之而下。太祖大悅,諸將因得免責。累遷太子庶子、撫軍將軍、通直散騎常侍、大都督、車騎大將軍、散騎常侍、儀同三司,進爵廣鄉縣侯。敦既有武藝,太祖恆欲以將帥任之。魏廢帝二年,拜右衞將軍,俄加驃騎大將軍、開府儀同三司,進爵為公。

時に岷蜀初めて開け、民情尚お梗し。巴西の人譙淹、南梁州に拠り、梁の西江州刺史王開業と共に表裏を為し、羣蛮を扇動す。太祖、敦に令して軍を率いてこれを討たしむ。山路艱険にして、人迹罕に至る。敦、身先ず将士、木に攀じ崖に縁り、倍道兼行し、その不意に乗ず。又た儀同の扶猛を遣わしてその別帥の向鎮侯を白帝に破る。淹は乃ち開業と其の党の泉玉成・侯造らと衆七千、口累三万を率い、墊江より下り、梁の王琳に就く。敦、邀撃してこれを破る。淹は復た山に依りて柵を立て、南に蛮帥の向白彪を引いて援と為す。敦、反間を設け、その党與を離し、その懈怠に因り、復たこれを破る。淹を斬り、その衆を尽く俘う。武都公に進爵し、邑を通前一千七百戸に増し、典祀中大夫に拝す。

原文 時岷蜀初開,民情尚梗。巴西人譙淹據南梁州,與梁西江州刺史王開業共為表裏,扇動羣蠻。太祖令敦率軍討之。山路艱險,人迹罕至。敦身先將士,攀木緣崖,倍道兼行,乘其不意。又遣儀同扶猛破其別帥向鎮侯於白帝。淹乃與開業并其黨泉玉成、侯造等率眾七千,口累三萬,自墊江而下,就梁王琳。敦邀擊,破之。淹復依山立柵,南引蠻帥向白彪為援。敦設反間,離其黨與,因其懈怠,復破之。斬淹,盡俘其眾。進爵武都公,增邑通前一千七百戶,拜典祀中大夫。

尋いで金州都督・七州諸軍事・金州刺史として出づ。向白彪は又た蛮帥の向五子らと衆を聚めて寇と為り、信州を囲逼す。詔して敦と開府の田弘に赴救せしむ。未だ至らざるに城已に陥つ。進みて白彪らと戦い、これを破り、二千人を俘斬す。仍って進軍して追討し、遂に信州を平ぐ。是歳、荊州の蛮帥文子栄、自ら仁州刺史と号し、土人を擁逼し、沮漳に拠って逆を為す。復た敦と開府の潘招に令してこれを討たしめ、子栄を擒にし、併せてその衆を虜う。

原文 尋出為金州都督、七州諸軍事、金州刺史。向白彪又與蠻帥向五子等聚眾為寇,圍逼信州。詔敦與開府田弘赴救,未至而城已陷。進與白彪等戰,破之,俘斬二千人。仍進軍追討,遂平信州。是歲,荊州蠻帥文子榮自號仁州刺史,擁逼土人,據沮漳為逆。復令敦與開府潘招討之,擒子榮,并虜其眾。

武成元年(559年)、入朝して軍司馬となった。江陵平定後、巴・湘の地はともに内属し、しばしば梁の人を派遣してこれを守らせていた。この時、陳の将軍侯瑱・侯安都らが湘州を包囲し、糧食と援軍の道を断った。そこで賀若敦に歩兵・騎兵六千を率いさせ、長江を渡って救援に向かわせた。侯瑱らは賀若敦が孤軍で深入りしたのを見て、これを討ち取ろうと企んだ。賀若敦はたびたび奇策と伏兵を設け、連戦して侯瑱を破り、勝ちに乗じて直進し、ついに湘州に駐屯した。このため敵を軽んじ、警戒しなかった。やがて長雨が止まず、秋水が氾濫し、陳軍が増援を渡河させたため、長江の水路は断たれた。糧食と援軍が絶たれ、兵士は危惧を抱いた。賀若敦はそこで兵を分けて略奪させ、軍費を補った。侯瑱らに兵糧が少ないことを知られるのを恐れ、陣営内に多くの土の山を作り、その上に米を覆い、諸営の軍士を集め、それぞれが袋を持たせ、役人が分配するふりをして、まるで糧食を与えるかのように見せかけた。近隣の村民を呼び寄せ、あたかも何かを尋ねるふりをさせ、陣営の外から遠目に見えるようにして、すぐに帰らせた。侯瑱らはこれを聞き、本当だと信じた。そこで要所を守り、時日を費やして賀若敦の軍を疲弊させようとした。賀若敦はさらに陣営と堡塁を増築し、兵舎を建てて、持久戦の構えを見せた。湘州と羅州の間では、農業が廃れた。侯瑱らはどうすることもできなかった。

原文 武成元年,入為軍司馬。自江陵平後,巴、湘之地並內屬,每遣梁人守之。至是陳將侯瑱、侯安都等圍逼湘州,遏絕糧援。乃令敦率步騎六千,度江赴救。瑱等以敦孤軍深入,規欲取之。敦每設奇伏,連戰破瑱,乘勝徑進,遂次湘州。因此輕敵,不以為虞。俄而霖雨不已,秋水汎溢,陳人濟師,江路遂斷。糧援既絕,人懷危懼。敦於是分兵抄掠,以充資費。恐瑱等知其糧少,乃於營內多為土聚,覆之以米,集諸營軍士,人各持囊,遣官司部分,若欲給糧者。因召側近村民,陽有所訪問,令於營外遙見,隨即遣之。瑱等聞之,良以為實。乃據守要險,欲曠日以老敦師。敦又增修營壘,造廬舍,示以持久。湘、羅之間,遂廢農業。瑱等無如之何。

当初、地元の民がたびたび軽舟に乗り、米粟や籠に入れた鶏や鴨を載せて侯瑱軍に食糧を届けていた。賀若敦はこれを憂い、地元民に偽装し、船に甲冑を着た兵士を潜ませた。侯瑱の兵士がこれを見て、食糧輸送船が来たと思い、争って取りに来た。賀若敦の甲士が飛び出してこれを捕らえた。賀若敦の軍からはしばしば反乱者が馬に乗って侯瑱のもとに投降したが、侯瑱はいつも受け入れた。賀若敦は別の馬を一頭用意し、船に向かって引かせ、船中の者が逆に鞭で馬を打つように命じた。これを何度か繰り返すと、馬は船を恐れて乗らなくなった。後に長江の岸辺に伏兵を配置し、人を遣わして侯瑱軍を招き、投降すると偽って言わせた。侯瑱は兵を派遣して迎えさせ、争って馬を引かせた。馬は船を恐れて乗らないので、賀若敦が伏兵を起こして襲撃し、ことごとく殲滅した。この後、実際に食糧を届ける者や逃亡して侯瑱のもとに奔る者がいても、侯瑱軍は賀若敦の策略だと思い、逆に迎撃し、受け入れようとしなかった。

原文 初,土人亟乘輕船,載米粟及籠鷄鴨以餉瑱軍。敦患之,乃偽為土人,裝船伏甲士於中。瑱兵人望見,謂餉船之至,逆來爭取。敦甲士出而擒之。敦軍數有叛人乘馬投瑱者,輒納之。敦又別取一馬,牽以趣船,令船中逆以鞭鞭之。如是者再三,馬便畏船不上。後伏兵於江岸,遣人以招瑱軍,詐稱投附。瑱便遣兵迎接,競來牽馬。馬既畏船不上,敦發伏掩之,盡殪。此後實有饋餉及亡命奔瑱者,猶謂敦之設詐,逆遣扞擊,並不敢受。

一年余り対峙したが、侯瑱らは賀若敦を制することができず、船を貸して賀若敦を長江の向こうへ送り届けようと申し出た。賀若敦は偽りかもしれないと疑い、拒絶して許さなかった。侯瑱は再び使者を遣わして賀若敦に言った。「驃騎将軍(賀若敦)はここに長く留まっているが、今、船を提供してお送りしようというのに、なぜ去らないのか。」賀若敦は答えて言った。「湘州は我が国の地であるのに、そなたらが侵し逼迫している。賀若敦が来たのは、そなたらを平定殲滅するためである。まだ決着がついていないので、去らないのだ。」侯瑱は後日また使者を遣わして来た。賀若敦は使者に言った。「私が必ず帰るというなら、百里の間を空けてくれれば、そなたらのために去ろう。」侯瑱らは船を長江に留め、兵を率いて渡河地点から百里離れた。賀若敦は偽りでないと探知し、ゆっくりと船と櫂を整え、兵を率いて帰還した。軍中で病死した者は十のうち五六に及んだ。晋公宇文護は、賀若敦が土地を失い功績がなかったとして、官籍から除名して庶民とした。

原文 相持歲餘,瑱等不能制,求借船送敦度江。敦慮其或詐,拒而弗許。瑱復遣使謂敦曰:「驃騎在此既久,今欲給船相送,何為不去?」敦報云:「湘州是我國家之地,為爾侵逼。敦來之日,欲相平殄。既未得一決,所以不去。」瑱後日復遣使來,敦謂使者云:「必須我還,可舍我百里,當為汝去。」瑱等留船於江,將兵去津路百里。敦覘知非詐,徐理舟檝,勒眾而還。在軍病死者十五六。晉公護以敦失地無功,除名為民。

保定二年(562年)、工部中大夫に任じられた。まもなく出向して金州総管・七州諸軍事・金州刺史となった。三年(563年)、柱国楊忠に従って突厥を引き連れ斉の長城を破り、幷州まで進んで帰還し、賀若敦が殿軍を務めた。別に一子を順義県公に封じ、邑一千戸を与えられた。五年(565年)、中州刺史に任じられ、函谷関を鎮守した。

原文 保定二年,拜工部中大夫。尋出為金州總管、七州諸軍事、金州刺史。三年,從柱國楊忠引突厥破齊長城,至幷州而還,以敦為殿。別封一子順義縣公,邑一千戶。五年,除中州刺史,鎮函谷。

賀若敦は功績を恃み、高ぶった態度で、同輩たちがみな大将軍になっているのに、自分だけが得られず、また湘州の戦役では全軍を率いて帰還したのに、表彰や恩賞を受けられず、かえって官籍を除名されたことを怨み怒っていた。たまたま朝廷の使者が来たので、怨言を口にした。晋公宇文護は怒り、賀若敦を召還し、自殺を強要した。時に四十九歳であった。建德初年(572年)、大将軍を追贈された。諡は烈という。

原文 敦恃功負氣,顧其流輩皆為大將軍,敦獨未得,兼以湘州之役,全軍而反,不蒙旌賞,翻被除名,每懷怨怒。屬有臺使至,乃出怨言。晉公護怒,遂徵敦還,逼令自殺。時年四十九。建德初,追贈大將軍。諡曰烈。

子の賀若弼は文武の才略があった。大象末年(580年)、位は開府儀同大将軍・揚州刺史・襄邑県公に至った。

原文 子弼,有文武材略。大象末,位至開府儀同大將軍、揚州刺史、襄邑縣公。

賀若敦の弟の賀若誼も名を知られた。官は柱国・海陵県公に至った。

原文 敦弟誼,亦知名。官至柱國、海陵縣公。

権景宣

原文 權景宣

権景宣、字は暉遠、天水郡顯親県の人である。父の権曇騰は、魏の隴西郡太守であった。秦州刺史を追贈された。

原文 權景宣字暉遠,天水顯親人也。父曇騰,魏隴西郡守。贈秦州刺史。

景宣は若くして聡明で悟りが早く、気概と侠気があり、宗族や同郷の人々はみな感嘆し、彼を異才と見なした。十七歳の時、魏の行臺蕭寶夤が彼を見て奇異の才と認め、軽車将軍に上表して任じた。蕭寶夤が敗れると、景宣は郷里に帰った。太祖(宇文泰)が隴右を平定すると、行臺郎中に抜擢された。魏の孝武帝が西遷すると、鎮遠将軍・歩兵校尉こういを授けられ、平西将軍・秦州大中正を加えられた。大統初年(535年)、祠部郎中に転じた。

原文 景宣少聰悟,有氣俠,宗黨皆歎異之。年十七,魏行臺蕭寶夤見而奇之,表為輕車將軍。及寶夤敗,景宣歸鄉里。太祖平隴右,擢為行臺郎中。魏孝武西遷,授鎮遠將軍、步兵校尉,加平西將軍、秦州大中正。大統初,轉祠部郎中。

景宣は兵権に通暁し、智略があった。太祖に従って弘農を陥落させ、沙苑の戦いで破り、いずれも先頭に立って敵陣に突入した。外兵郎中に転じた。開府于謹に従って洛陽を救援し、景宣は糧食の備蓄を監督し、軍は十分に補給された。当時、洛陽を回復したばかりで、宮殿を修繕しようとしていたが、景宣は三千人の人夫を率いて先に出て、材木の運搬を行った。ちょうど東魏の兵が到着し、司州牧の元季海らは兵が少ないため撤退し、付近の城はすべて反旗を翻し、道路は塞がれた。景宣は二十騎を率いて、戦いながら退却した。従騎はほとんどいなくなり、景宣は軽装の馬で包囲を突破し、自ら数人を斬り、駆けて逃れ、民家に身を隠した。景宣は長く隠れているのは良策でないと考え、太祖(宇文泰)の文書を偽造し、五百余人を募り、宜陽を守り拠点として、大軍が続いて来ると言いふらした。東魏の将軍段琛らが軍を率いて九曲に至ったが、景宣を恐れて進軍しなかった。景宣は段琛が虚実を見破るのを恐れ、腹心だけを連れ、軍を迎えるふりをして、西へ逃れることができた。儀同李延孫と合流し、孔城を攻撃した。洛陽以南の地域も、まもなく帰順してきた。太祖は景宣を張白塢に留めて守らせ、東南の義軍を統率させた。東魏の将軍王元軌が洛陽に入ると、景宣は李延孫らとともにこれを撃退し、功により大行臺右丞を授けられた。宜陽に進軍して駐屯し、襄城を攻撃して陥落させ、郡守の王洪顯を捕らえ、五百余人を捕虜・斬首した。太祖はこれを賞賛し、朝廷に召し出した。前後の功績を記録し、顯親県男に封じられ、邑三百戸を与えられた。南陽郡太守に任じられた。郡は敵境に隣接し、旧来の制度では、民を徴発して三十五箇所を守備させていたため、農桑が廃れ、悪事がなおも行われていた。景宣が着任すると、これをすべて廃止し、城楼を修築し、多くの兵器を備えるだけで、賊寇は影を潜め、民は生業に専念できるようになった。百姓は彼を称え、碑を立てて徳を称えた。太祖は特に粟と絹を賞与し、その才能を表彰した。広州刺史に遷った。

原文 景宣曉兵權,有智略。從太祖拔弘農,破沙苑,皆先登陷陣。轉外兵郎中。從開府于謹援洛陽,景宣督課糧儲,軍以周濟。時初復洛陽,將修繕宮室,景宣率徒三千,先出採運。會東魏兵至,司州牧元季海等以眾少拔還,屬城悉叛,道路擁塞。景宣將二十騎,且戰且走。從騎略盡,景宣輕馬突圍,手斬數級,馳而獲免,因投民家自匿。景宣以久藏非計,乃偽作太祖書,招募得五百餘人,保據宜陽,聲言大軍續至。東魏將段琛等率眾至九曲,憚景宣,不敢進。景宣恐琛審其虛實,乃將腹心自隨,詐云迎軍,因得西遁。與儀同李延孫相會,攻孔城。洛陽以南,尋亦來附。太祖即留景宣守張白塢,節度東南義軍。東魏將王元〈(凱)〉〔軌〕入洛,景宣與延孫等擊走之,以功授大行臺右丞。進屯宜陽,攻襄城,拔之,獲郡守王洪顯,俘斬五百餘人。太祖嘉之,徵入朝。錄前後功,封顯親縣男,邑三百戶。除南陽郡守。郡鄰敵境,舊制,發民守防三十五處,多廢農桑,而姦宄猶作。景宣至,並除之,唯修起城樓,多備器械,寇盜歛迹,民得肄業。百姓稱之,立碑頌德。太祖特賞粟帛,以旌其能。遷廣州刺史。

侯景が河南を挙げて帰順すると、景宣は僕射王思政に従って経略し、これに応接した。やがて侯景が南へ叛くと、東魏が再びその地を占めるのを恐れ、景宣を大都督・豫州刺史として、楽口に鎮守させた。東魏も張伯德を刺史として派遣した。張伯德はその将軍劉貴平に命じて、その守備兵と山の蛮族を率いさせ、たびたび攻め寄せた。景宣の兵は千人に満たなかったが、機に応じて奮戦し、前後して三千余級を捕虜・斬首したので、劉貴平は退却した。使持節・車騎大将軍・儀同三司に進めて授けられた。潁川が陥落した後、太祖は楽口などの諸城が道路を遮断されているため、すべて撤退するよう命じた。襄州刺史の杞秀は狼狽して罪を得た。景宣は号令が厳明で、軍旅が整然としており、配下部隊を全員無事に帰還させたので、ただ一人優れた恩賞を受けた。引き続き荊州に留まって鎮守し、鵶南(荊州南部)の事務を委任された。

原文 侯景舉河南來附,景宣從僕射王思政經略應接。既而侯景南叛,恐東魏復有其地,以景宣為大都督、豫州刺史,鎮樂口。東魏亦遣張伯德為刺史。伯德令其將劉貴平率其戍卒及山蠻,屢來攻逼。景宣兵不滿千人,隨機奮擊,前後擒斬三千餘級,貴平乃退走。進授使持節、車騎大將軍、儀同三司。潁川陷後,太祖以樂口等諸城道路阻絕,悉令拔還。襄州刺史杞秀以狼狽得罪。景宣號令嚴明,戎旅整肅,所部全濟,獨被優賞。仍留鎮荊州,委以鵶南之事。

初めに、梁の岳陽王蕭詧が襄陽を以て朝廷に帰順せんとし、兵を率いて江陵の梁元帝を攻撃した。蕭詧の叛将杜岸が虚に乗じてこれを襲撃した。権景宣は騎兵三千を率い、蕭詧を助けて杜岸を破った。蕭詧はこれにより、その妻王氏と子の蕭嶚を人質として送った。景宣はまた開府楊忠と共に梁の将柳仲礼を攻め取り、安陸・随郡を陥落させた。久しくして、随州の城民呉士英らが刺史黄道玉を殺害し、徒党を集めて寇賊となった。景宣は英らは小賊であり、計略をもって取りうるが、その罪を声高に言えば、同悪の者が多くなることを恐れた。そこで英に書を送り、偽って道玉が凶暴であったと称し、功を英らに帰した。英は果たしてこれを信じ、相率いてやって来た。景宣は彼らを捕らえて誅殺し、その徒党を解散させた。応城を攻撃し、これを陥落させ、夏侯珍洽を捕らえた。ここにおいて応・礼・安・随の地は併せて平定された。朝廷の議論は景宣の威が南方に及ぶとして、并安肆郢新応六州諸軍事・并州刺史を授けた。まもなく驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、侍中を加えられ、江北司二州諸軍事を兼ねて督し、爵を伯に進められ、邑五百戸を賜った。唐州の蛮族田魯嘉が自ら豫州伯と号し、斉の兵を引き入れ、大いに民の患いとなった。景宣はまたこれを破り、魯嘉を捕らえ、その地を郡とした。安州刺史に転じた。梁の定州刺史李洪遠は初め帰順したが後に叛き、景宣はその二心を憎み、密かに襲撃してこれを破り、その家族と部衆を虜にした。洪遠は身一つで逃れて免れた。これより酋帥は畏服し、敢えて叛く者はいなくなった。

原文 初,梁岳陽王蕭詧將以襄陽歸朝,仍勒兵攻梁元帝於江陵。詧叛將杜岸乘虛襲之。景宣乃率騎三千,助詧破岸。詧因是乃送其妻王氏及子嶚入質。景宣又與開府楊忠取梁將柳仲禮,拔安陸、隨郡。久之,隨州城民吳士英等殺刺史黃道玉,因聚為寇。景宣以英等小賊,可以計取之,若聲其罪,恐同惡者眾。廼與英書,偽稱道玉凶暴,歸功英等。英果信之,遂相率而至。景宣執而戮之,散其黨與。進攻應城,拔之,獲夏侯珍洽。於是應、禮、安、隨並平。朝議以景宣威行南服,廼授并安肆郢新應六州諸軍事、幷州刺史。尋進驃騎大將軍、開府儀同三司,加侍中,兼督江北司二州諸軍事,進爵為伯,邑五百戶。唐州蠻田魯嘉自號豫州伯,引致齊兵,大為民患。景宣又破之,獲魯嘉,以其地為郡。轉安州刺史。梁定州刺史李洪遠初款後叛,景宣惡其懷貳,密襲破之,虜其家口及部眾。洪遠脫身走免。自是酋帥懾服,無敢叛者。

燕公于謹が江陵を征討した時、景宣は別に溳水において梁の司空陸法和と司馬羊亮を破った。また別の将帥を派遣して魯山を攻め落とした。多くの舟艦を造り、旗幟をさらに張り巡らし、江に臨んで渡河せんとし、梁の人々を恐れさせた。梁の将王琳が湘州にいたので、景宣は彼に書を送り、禍福を諭した。琳は遂に長史席壑を景宣のもとに遣わし、州を挙げて帰順することを請わせた。孝閔帝が即位すると、司憲中大夫に召され、まもなく基鄀硤平四州五防諸軍事・江陵防主に任じられ、大将軍を加えられた。

原文 燕公于謹征江陵,景宣別破梁司空陸法和司馬羊亮於溳水。又遣別帥攻拔魯山。多造舟艦,益張旗幟,臨江欲度,以懼梁人。梁將王琳在湘州,景宣遺之書,諭以禍福。琳遂遣長史席壑因景宣請舉州款附。孝閔帝踐阼,徵為司憲中大夫,尋除基鄀硤平四州五防諸軍事、江陵防主,加大將軍。

保定四年、晋公宇文護が東方を討伐した時、景宣は別に河南を討った。斉の豫州刺史王士良・永州刺史蕭世怡はともに城を挙げて降伏した。景宣は開府謝徹に永州を守らせ、開府郭彦に豫州を守らせ、士良・世怡および降卒一千人を京師に帰した。まもなく洛陽が守られなくなると、二州を放棄し、その将士を引き抜いて還った。昌州に至ると羅陽の蛮が反乱し、景宣は軍を返してこれを破り、首級一千を斬り、生口二千・雑畜千頭を捕らえ、朝廷に送った。還って灞上に駐屯すると、晋公宇文護が自ら出迎えて労った。

原文 保定四年,晉公護東討,景宣別討河南。齊豫州刺史王士良、永州刺史蕭世怡並以城降。景宣以開府謝徹守永州,開府郭彥守豫州,以士良、世怡及降卒一千人歸諸京師。尋而洛陽不守,乃棄二州,拔其將士而還。至昌州而羅陽蠻反,景宣回軍破之,斬首千級,獲生口二千、雜畜千頭,送闕。還次灞上,晉公護親迎勞之。

天和の初め、荊州総管・十七州諸軍事・荊州刺史を授けられ、爵を千金郡公に進めた。陳の湘州刺史華皎が州を挙げて帰順し、表を奉って援兵を請うた。詔勅により景宣は水軍を統率して華皎とともに下った。景宣が夏口に到着すると、陳の軍は既に来ていた。ところが景宣は任用と待遇が隆重であったため、驕傲で恣りに振る舞い、多く自ら功を誇り、兼ねて賄賂を受け取り、指揮と節度は朝に出して夕に改めた。将士は憤怒し、誰も命を用いようとしなかった。水軍が交戦を始めると、たちまち敗走し、船艦と器仗は少しも残らなかった。時に衞公宇文直が諸軍を総督しており、景宣が敗北の責を負うとして、軍法をもって裁こうとした。朝廷は罪を加えるに忍びず、使者を軍中に遣わしてこれを赦した。まもなく病を得て卒した。河渭鄯三州刺史を追贈され、諡して恭といった。

原文 天和初,授荊州總管、十七州諸軍事、荊州刺史,進爵千金郡公。陳湘州刺史華皎舉州款附,表請援兵。勑景宣統水軍與皎俱下。景宣到夏口,陳人已至。而景宣以任遇隆重,遂驕傲恣縱,多自矜伐,兼納賄貨,指麾節度,朝出夕改。將士憤怒,莫肯用命。及水軍始交,一時奔北,船艦器仗,略無孑遺。時衞公直總督諸軍,以景宣負敗,欲繩以軍法。朝廷不忍加罪,遣使就軍赦之。尋遇疾卒。贈河渭鄯三州刺史,諡曰恭。

子の権如璋が嗣いだ。位は開府・膠州刺史に至った。如璋の弟の如玖は、儀同大将軍・広川県侯であった。

原文 子如璋嗣。位至開府、膠州刺史。如璋弟如玖,儀同大將軍、廣川縣侯。

権景宣が楽口を去った後、南荊州刺史郭賢が魯陽に拠って東魏に抵抗した。

原文 景宣之去樂口,南荊州刺史郭賢據魯陽以拒東魏。

郭賢は字を道因といい、趙興陽州の人である。父の郭雲は、涼州司馬であった。賢は性質強記で、学問は経史に渉った。魏の正光の末、賊帥の宿勤明達が豳州を包囲攻撃した時、刺史の畢暉は賢を統軍に補し、これと共に防戦した。後に州主簿となり、北地郡の事務を行った。征討の功により都督を授けられた。

原文 賢字道因,趙興陽州人也。父雲,涼州司馬。賢性彊記,學涉經史。魏正光末,賊帥宿勤明達圍逼豳州,刺史畢暉補賢統軍,與之拒守。後為州主簿,行北地郡事。以征討有功,授都督。

大統二年、斉の神武帝(高歓)が夏州を襲撃陥落させた。太祖(宇文泰)はその南下を憂慮し、朝臣とこれを議した。賢が進言して言うには、「高歓の兵士は雖も多いが、智勇は既に尽きており、その挙措を策するに、必ずや遠く来ることを敢えてしないでしょう。昔、賀抜公(賀抜岳)が初めて薨じた時、関中は震駭したが、歓は利に因り便に乗じて雍州を進取することができなかった。これが無智です。また鑾駕(皇帝)が西遷した時、六軍は寡弱で、毛鴻賓が喪敗し、関門は守られなかったが、またこの危機に乗じて一戦を要することもできなかった。これが無勇です。今や上下同心し、士民戮力しており、歓の志は沮喪しており、どうして死を送ることを敢えてしましょう。かつ豳・夏の地は荒れて阻害し、千里に煙なく、仮に南侵を欲するも、資糧は継ぐことができません。これをもって言えば、来ないことは必定です」。斉の神武帝は後になって果たして退き、賢の策した通りであった。

原文 大統二年,齊神武襲陷夏州。太祖慮其南下,與朝臣議之。賢進曰:「高歡兵士雖眾,智勇已竭,策其舉措,必不敢遠來。昔賀拔公初薨,關中振駭,而歡不能因利乘便,進取雍州,是其無智。及鑾駕西遷,六軍寡弱,毛鴻賓喪敗,關門不守,又不能乘此危機,以要一戰,是其無勇。今上下同心,士民戮力,歡志沮喪,寧敢送死。且豳夏荒阻,千里無烟,縱欲南侵,資糧莫繼。以此而言,不來必矣。」齊神武後果退,如賢所策。

まもなく伏波将軍を加えられ、王思政に従って弘農を鎮守した。使持節・行義州事・当州都督を授けられた。行弘農郡事に転じた。賢は質直で算略があり、思政は甚だこれを重んじ、辺境防禦の謀は多く賢と参決した。十二年、輔国将軍・南荊州刺史に任じられた。

原文 尋加伏波將軍,從王思政鎮弘農。授使持節、行義州事、當州都督。轉行弘農郡事。賢質直有算略,思政甚重之,禦邊之謀,多與賢參決。十二年,除輔國將軍、南〔荊〕州刺史。

侯景が帰順して来た時、思政は賢を先に出して三鵶に至らせ、魯陽に鎮守させた。大都督を加えられ、安武県子に封ぜられ、邑四百戸を賜った。まもなく車騎大将軍・儀同三司に進み、散騎常侍を加えられた。潁川が包囲された時、東魏は蛮酋の魯和を遣わして群蛮を扇動し、鵶路を断たんと図った。和はその従弟(魯和の従弟)を漢広郡守とし、その部曲を率いて州境を侵擾させた。賢は密かに士馬を選び、軽装で掩襲し、これを大破して、遂に魯和を生け捕りにした。やがて潁川が陥落すると、権景宣らはともに軍を抜いて西還し、魯陽以東はすべて東魏に附した。東魏の将彭楽がこれに乗じて、攻め逼って来た。賢は将士を撫循し、皆がその力を尽くすようにしたので、楽はこれを陥とすことができず、軍を引き退いた。そして東魏はまた土民の韋默児を義州刺史とし、父城に鎮守させて賢を逼った。賢はまた軍を率いて默児を攻め、これを捕らえた。広州刺史に転じた。

原文 及侯景來附,思政遣賢先出三鵶,鎮於魯陽。加大都督,封安武縣子,邑四百戶。尋進車騎大將軍、儀同三司,加散騎常侍。及潁川被圍,東魏遣蠻酋魯和扇動羣蠻,規斷鵶路。和乃遣其從弟與和為漢廣郡守,率其部曲,侵擾州境。賢密簡士馬,輕往掩襲,大破之,遂擒魯和。既而潁川陷,權景宣等並拔軍西還,自魯陽以東,皆附東魏。〔東魏〕將彭樂因之,遂來攻逼。賢撫循將士,咸為盡其力用,樂不能克,乃引軍退。而東魏又以土民韋默兒為義州刺史,鎮父城以逼賢。賢又率軍攻默兒,擒之。轉廣州刺史。

後に尉遅迥に従って蜀を伐ち、行安州事となった。魏の恭帝元年、行寧蜀郡事、兼益州長史となった。蜀平定の勲功により爵を伯に進められ、邑五百戸を増やされた。行始州事に転じた。孝閔帝が即位すると、位は驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、爵を侯に進められ、邑を増やして通前一千四百戸となった。世宗(明帝)の初め、匠師中大夫に任じられた。まもなく出て勲州刺史となり、玉壁を鎮守した。武成二年、安応等十二州諸軍事・安州刺史に遷り、爵を楽昌県公に進めた。賢は在官中、明察の誉れはなかったが、廉平をもって物に接し、去った後も頗る思慕された。保定三年、陝州刺史に転じた。天和元年、任中に卒した。少保・寧蔚朔三州刺史を追贈され、諡して節といった。

原文 後從尉遲迥伐蜀,行安州事。魏恭帝元年,行寧蜀郡事,兼益州長史。以平蜀勳,進爵為伯,增邑五百戶。轉行始州事。孝閔帝踐阼,進位驃騎大將軍、開府儀同三司,進爵為侯,增邑通前一千四百戶。世宗初,除〈(迎)〉〔匠〕師中大夫。尋出為勳州刺史,鎮玉壁。武成二年,遷安應等十二州諸軍事、安州刺史,進爵樂昌縣公。賢在官雖無明察之譽,以廉平待物,去後頗亦見思。保定三年,轉陝州刺史。天和元年,卒於位。贈少保、寧蔚朔三州刺史,諡曰節。

郭賢は衣服飲食は儉約をもって自ら処したが、家に居る時は豊かで麗しく、室には余財があった。当時の論はその詐りを譏ったという。子の郭正が嗣いだ。

原文 賢衣服飲食雖以儉約自處,而居家豐麗,室有餘貲。時論譏其詐云。子正嗣。

史評

原文 史評

史臣曰く、昔、耿恭は勁虜を疏勒に抗し、馬敦は羣兵を汧城に拒ぐ。生を以て死に易うるも、終に王師の助けを頼み、その嘉声峻節も亦た良史に称せらる。賀若敦は志節慷慨にして、深く敵境に入り、勍敵その糧道を絶ち、長江その帰途を阻む。勢い危うくして策出づる方無く、事迫りて雄心弥厲し。故に能く士卒をしてその義に感ぜしめ、敵人はその威を畏れ、利なくして死地を渉り、全師して返る。夫れ生を忘れて国に徇うる者に非ざれば、その孰か能く此の若くならんや。俯して元定の伝を窺うに、曾て糞土の若くも不若し。誠に宜しく地を裂きて之を賞し、職を分かちて之を授くべし。而るに茂勲紀する莫く、厳刑已に及ぶ。嗟乎、政の紕繆、一に此に至る。天下是を以て宇文護の其の位を終うる能わざるを知る。

原文 史臣曰:昔耿恭抗勁虜於疏勒,馬敦拒羣兵於汧城,雖以生易死,終賴王師之助,其嘉聲峻節,亦見稱於良史焉。賀若敦志節慷慨,深入敵境,勍敵絕其糧道,長江阻其歸塗,勢危而策出無方,事迫而雄心彌厲。故能使士卒感其義,敵人畏其威,利涉死地,全師而返。非夫忘生以徇國者,其孰能若此者乎。俯窺元定之傳,曾糞土之不若也。誠宜裂地以賞之,分職以授之;而茂勳莫紀,嚴刑已及。嗟乎!政之紕繆,一至於此!天下是以知宇文護不能終其位焉。

史寧・權景宣は並びに将帥の才を以て、内外の寵を受く。戎を総べて薄伐し、敵を剋つ功を著わし、政を布きて民に蒞み、職に称うる誉を垂る。若し此の如き者は、豈に国の良翰に非ずや。然れども史は末年において、貨財その雅志を虧き、權も亦た晩節矜驕にして、その威声を喪う。伝に曰く「終わること実に難し」と、其れ斯れを謂うか。

原文 史寧、權景宣並以將帥之才,受內外之寵。總戎薄伐,著剋敵之功;布政蒞民,垂稱職之譽。若此者,豈非有國之良翰歟。然而史在末年,貨財虧其雅志。權亦晚節矜驕,喪其威聲。傳曰「終之實難」,其斯之謂矣。

陸騰は志気懍然として、雅に名節を仗る。戎律を授けられ、藩麾を建つるに及び、巴梁を席卷すれば則ち功銘典に著わり、江漢に雲撤すれば則ち声帝籍に流る。身名俱に劭し、其れ最優なるか。

原文 陸騰志氣懍然,雅仗名節。及授戎律,建藩麾,席卷巴梁,則功著銘典;雲撤江漢,則聲流帝籍。身名俱劭,其最優乎。