赫連達は字を朔周といい、盛楽の人であり、赫連勃勃の後裔である。曾祖父の庫多汗は、難を避けるために杜氏に改姓した。
達は性質剛直で、胆力があった。若くして賀抜岳に従い征討して功績を挙げ、都將に任じられ、長広郷男の爵位を賜り、都督に昇進した。賀抜岳が侯莫陳悦に害されたとき、軍中は大いに動揺した。趙貴が太祖(宇文泰)を迎えることを提言したが、諸将は躊躇して決めかねた。達は言った。「宇文夏州(宇文泰)はかつて左丞を務め、優れた謀略は人に勝り、一世の傑物である。今日の事態は、この公なくしては成し遂げられない。趙将軍の議は正しい。達は軽騎で訃報を告げ、併せて彼を迎えに行くことを請う。」諸将の中には南の賀抜勝を追おうとする者もいれば、東の朝廷に報告しようとする者もいた。達はまた言った。「これらは皆、遠い水では近い火を救えぬようなもので、取り立てて言うに足らぬ。」趙貴はこれにより謀を定め、達に急行させた。太祖は達を見て慟哭し、理由を問うと、達は実情を答えた。太祖は遂に数百騎を率いて南の平涼へ赴き、軍を高平に向かわせ、達に騎兵を率いて弾箏峡を占拠させた。当時、民衆は恐れ慌て、逃げ散る者が多かった。数村の民が、老人や弱者を支え、家畜を追い、山に入って難を避けようとしていたところ、兵士たちが争って略奪しようとした。達は言った。「遠近の民衆は、多く賊の支配下にある。今もし好機と見て略奪・拘束するならば、何をもって罪を討ち民を憐れむと言えようか。むしろこれに乗じて慰撫し、義兵の徳を示すべきである。」そこで恩信をもって慰撫すると、民は皆喜んで従い、互いに伝え合って、ことごとく旧業に戻った。太祖はこれを聞いて賞賛した。侯莫陳悦が平定されると、平東将軍を加えられた。太祖は諸将に言った。「清水公(賀抜岳)が禍に遭ったとき、君たちの命は賊の手に懸かっており、たとえ来て告げようとしても、その道はなかった。杜朔周(赫連達)は万死の難を冒し、遠くから来て我々に会い、遂に共に忠節を尽くし、同じく仇恥を雪ぐことができた。多くの人の力によるとはいえ、実に杜子の功績によるものである。労苦に報いなければ、どうして善を勧められようか。」そこで馬二百匹を賜った。達は固辞したが、太祖は許さなかった。魏の孝武帝が関中に入ると、勲功と忠義を褒賞し、達が元帥を最初に迎え、秦・隴を匡復した功績により、爵位を魏昌県伯に進め、封邑五百戸を与えた。
儀同の李虎に従い曹泥を破り、鎮南将軍・金紫光禄大夫に任じられ、通直散騎常侍を加えられ、封邑を増やして前と合わせて一千戸となった。弘農奪還に従い、沙苑の戦いに参加し、いずれも功績があった。また封邑八百戸を増やされ、白水郡守に任じられ、帥都督に転じ、持節を加えられ、済州刺史に任じられた。詔により赫連氏に復姓した。達の勲功と声望が共に高いため、雲州刺史に任じられた。これは本州(出身地)である。爵位を公に進め、大都督に任じられ、まもなく儀同三司を授けられた。
大将軍の達奚武に従い漢中を攻めた。梁の宜豊侯蕭循が長らく防戦し、後に降伏の意思を示した。達奚武が諸将に進退の方策を問うた。開府の賀蘭願徳らは敵の食糧が尽きたとして、急いで攻め落とすことを望んだ。達は言った。「戦わずして城を得るのは、上策である。その子女を利とし、その財帛を貪るべきではない。兵力を尽くして武力を極めることは、仁者は行わない。しかもその士馬はなお強く、城池はなお堅固である。攻撃して仮に陥落させても、必ずや双方が損害を受けるであろう。もし窮鼠猫を噛むような抵抗があれば、成敗は未だ知れない。況や行軍の道は、全軍を保つことを上とする。」達奚武は言った。「公の言う通りである。」そこで将帥たちにそれぞれ意見を述べさせた。すると開府の楊寛らは皆達の意見に同調し、達奚武は遂に蕭循の降伏を受け入れた。軍が帰還すると、驃騎大将軍・開府儀同三司に昇進し、侍中を加えられ、爵位を藍田県公に進めた。
韓果は字を阿六抜といい、代の武川の人である。若い頃から驍勇雄健で、騎射に優れていた。賀抜岳が西征する際、帳内に引き立てられた。万俟醜奴とその支党を撃ち、転戦数十合、ことごとくこれを破った。膂力は並ぶ者なく、鎧を着て戈を担ぎ、峰嶺を登ることも平らな路を歩くが如く、たとえ数十日百日でも、労とはしなかった。功績により宣威将軍・子都督を授けられた。太祖に従い侯莫陳悦を討って平定し、都督に昇進し、邯鄲県男の爵位を賜った。魏の孝武帝が関中に入ると、爵位を石城県伯に進め、封邑五百戸を与えられた。大統の初年、爵位を公に進め、封邑を増やして前と合わせて一千戸とし、通直散騎常侍を加えられた。
果は記憶力が強く、権謀と策略を兼ね備えていた。行くところの山川の形勢を、ことごとく記憶することができた。また敵の虚実を窺い、情状を推し量ることに長け、潜んで溪谷に隠れ間諜になろうとする者がいれば、果は高みに登ってこれを望み、疑わしい場所へ行けば必ず捕獲した。太祖はこれにより果を虞候都督とした。征戦に従うたび、常に斥候騎兵を率い、昼夜巡察し、ほとんど眠らなかった。
子の明が後を嗣いだ。大象の末年、位は上大将軍・黎州刺史に至った。尉遅迥と共謀し、誅殺された。
蔡祐は字を承先といい、その先祖は陳留郡圉県の人である。曾祖父の蔡紹は夏州鎮将となり、高平に移住し、そこで家を定めた。祖父の蔡護は、魏の景明の初年、陳留郡守となった。父の蔡襲は、西州で名声があった。正光年間、万俟醜奴が関中で寇乱を起こすと、襲は賊に背き、妻子を棄てて洛陽に帰った。斉安郡守に任じられた。魏の孝武帝が西遷したとき、なお関東に留まっていた。後にようやく難を抜けて西帰し、平舒県伯の爵位を賜り、岐・夏二州刺史に任じられ、卒去した。原州刺史を追贈された。
祐は性質聡明で、行いに慎みがあった。襲が賊に背いて東帰したとき、祐は十四歳で、母に仕えて孝行で知られた。成長すると、膂力があり、騎射に巧みであった。太祖が原州におられたとき、召し出されて帳下の親信となった。太祖が夏州に移ると、祐を都督とした。
侯莫陳悦が賀拔岳を害した時、諸将は使者を遣わして太祖を迎えた。太祖が赴かんとした時、夏州の首望たる彌姐元進らは密かに異心を抱いていた。太祖は密かにこれを知り、先に蔡祐と謀って元進を捕らえることを議した。祐は言った、「狼子野心、やがては必ず反噬するであろう。今もし捕縛するならば、殺すに如かず。」太祖は言った、「汝の決断は大なるものなり。」そこで元進らを召し入れて計事を議した。太祖は言った、「隴の賊が逆乱を起こしたので、諸君と力を合わせてこれを討とうと思う。諸君の様子を見ると、どうやら異なる者もいるようだ。」太祖は密かにこの言葉で彼らを動かそうとし、目配せして祐を見た。祐は直ちに外に出て、鎧を着て刀を持ち直ちに入り、目を怒らせて諸人を叱って言った、「朝に謀って夕に異なるとは、これ人たるものか。蔡祐、今日必ず奸人の頭を斬る。」そして剣を手に取り彼らに臨んだ。座中の者は皆叩頭して言った、「どうか選別をお願いします。」祐はそこで元進を叱り斬り、その党類も皆誅殺した。一座は皆戦慄し、敢えて仰ぎ見る者もなかった。そこで諸将と盟を結び、心を一つにして悦を誅することとした。太祖はこれによって彼を重んじるようになった。そして祐に言った、「我は今、汝を子としよう。汝は父として我に仕えよ。」後に悦を討つことに従い、これを破った。
また潼関において魏の孝武帝を迎えることに従った。前後の功績により、萇郷県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。大統初年、寧朔将軍・羽林監を加えられ、まもなく持節・員外散騎常侍となり、爵位を侯に進め、邑一千一百戸を増加された。太祖に従って竇泰を擒え、弘農を回復し、沙苑で戦い、いずれも功績があり、平東将軍・太中大夫を授けられた。
また太祖に従って河橋で戦い、祐は下馬して歩戦し、手ずから数人を殺した。左右の者が急変に備えて馬に乗るよう勧めた。祐は怒って言った、「丞相は我を子の如く養ってくださった。今日どうして命を惜しむことがあろうか。」そこで左右十余人を率いて声を揃えて大呼し、多くを殺傷した。敵は彼に後詰がないと見て、遂に十重余りに包囲し、祐に言った、「君は勇士のようである。ただ甲を解いて降参すれば、富貴に事欠くことはないだろう。」祐はこれを罵って言った、「死せる卒め!我が今その首を取れば、自ずから公に封ぜられるのだ。どうして賊の官号を借りる必要があろうか。」そして弓を引き絞って満たし、四方に防いだ。東魏の兵は敢えて近づかず、厚い甲冑に長刀を持つ者を募り、直ちに進んで祐を取らんとした。祐からおよそ三十歩のところで、左右の者が射るよう勧めたが、祐は言った、「我々の命はこの一矢にかかっている。どうして空しく射ることができようか。」敵が次第に近づき、およそ十歩となった時、祐はこれを射て、まさにその顔面に命中させ、弦の響きに応じて倒れたので、直ちに矟で刺し殺した。このため、数度戦い合ったが、ただ一人を失ったのみであった。敵はやや退いた。祐はゆるやかに引き退いた。この戦いにおいて、我が軍は不利であった。太祖は既に還っていた。祐が弘農に至ると、夜中に太祖と相会した。太祖は祐が来たのを見て、その字を呼んで言った、「承先、汝が来たので、我は憂い無し。」太祖は心が驚き、眠ることができず、祐の股を枕にして、ようやく安らかになった。功績により爵位を公に進め、邑三百戸を増加され、京兆郡守を授けられた。
孝閔帝が践祚すると、少保に拝された。祐は尉遅綱と共に禁兵を掌り、交替で殿省に直した。当時、帝は司会李植らを信任し、晋公護を謀害しようとしたが、祐は毎度泣いて諫めたが、帝は聞き入れなかった。まもなく帝は廃された。
世宗が即位すると、小司馬に拝され、少保は元の如くであった。帝が公子であった時、祐と特に親しく昵懇にしており、この時には礼遇がますます厚くなった。御膳に珍味がある度に、必ずこれを止めて祐に賜い、群臣の朝宴では、毎度別に留め置かれ、あるいは日暮れ夜中にまで及び、松明を列ね笳を鳴らして、祐を宅まで送り届けた。祐は過分に礼遇されることを蒙り、常に病気を理由に辞して避けた。婚姻に至っては、特に勢家と交わることを望まなかった。まもなく本官のまま原州を権鎮した。間もなく宜州刺史を授けられたが、赴任しないうちに、先の気疾が発動し、原州で卒した。時に五十四歳。
祐は若くして大志を持ち、同郷の李穆と布衣の身分で名声を並べた。かつて互いに言い合った、「大丈夫たるもの、功名を立てて富貴を取るべきであり、どうして久しく貧賤に処することができようか。」言い終わると、各々大笑した。穆とは即ち後の申公である。後になって皆その言う通りとなった。征伐に従う時は、常に包囲を破り敵陣に突入し、士卒の先頭に立った。軍が還る日には、諸将が功を争ったが、祐は終に競うことがなかった。太祖は毎度これを歎じ、かつて諸将に言った、「承先は口に勲功を言わない。孤が代わってその功績を論じ叙べよう。」このように見知られていた。性質は節倹で、得た俸禄は全て宗族に分け与え、身が死んだ日には、家に余財が無かった。使持節・柱国大将軍・大都督・五州諸軍事・原州刺史を追贈された。諡して莊といった。子の正が嗣いだ。官は使持節・車騎大将軍・儀同三司に至った。
祐の弟の澤は、頗る学問を好み、幹能があった。魏の広平王参軍・丞相府兼記室から起家し、宣威将軍・給事中を加えられた。尉遅迥に従って蜀を平らげ、帥都督を授けられ、安彌県男の爵を賜った。次第に司輅下大夫・車騎大将軍・儀同三司・澧州刺史に遷った。州において賄賂を受け、総管の代王達がその功臣の子弟であることを以て、密かに上奏してこれを赦した。後に䢵州刺史となったが、司馬消難に従わず、害された。
常善は、高陽の人である。代々豪族であった。父の安成は、魏の正光の末、茹茹が辺境を寇した時、統軍として鎮将慕容勝に従って戦い、これを大破した。当時、破六汗抜陵が乱を起こし、安成を脅迫しようとしたが、従わず、そこで配下を率いて陵を討った。功績により伏波将軍を授けられ、鼓節を給された。後に抜陵と連戦し、陣中に卒した。
辛威は隴西の人である。祖父の大汗は、魏の渭州刺史であった。父の生は、河州四面大都督であった。威が勲功を立てると、大將軍・涼甘等五州刺史を追贈された。
威の性質は持重で、威厳があった。官職を歴任すること数十年、未だかつて過失がなく、故に身も名も全うすることができた。またその家門は友誼に厚く、五世同居し、世間はこれをもって称えた。子の永達が後を嗣いだ。大象末年、威の勲功により、儀同大將軍に任ぜられた。
厙狄昌は字を恃德といい、神武の人である。若くして騎射に熟達し、膂力があった。成長すると、進退に閑雅さがあり、胆気は壮烈で、常に将帥たらんことを自任した。十八歳の時、爾朱天光に引き立てられて幢主となり、討夷將軍を加えられた。天光に従って関中を平定し、功により寧遠將軍・奉車都尉・統軍に任ぜられた。天光が敗れると、また賀拔岳に従った。征西將軍・金紫光祿大夫を授けられた。岳が害されると、昌は諸将と議して太祖を輔戴した。侯莫陳悅を平定するのに従い、陰盤縣子の爵を賜り、衞將軍・右光祿大夫を加えられた。
田弘は字を廣畧といい、高平の人である。若くして慷慨たる志を持ち、功名を立てることを志し、膂力は人に優れ、敢勇にして謀略があった。魏の永安年間、万俟醜奴に陥った。爾朱天光が関中に入ると、弘は原州より帰順し、都督を授けられた。
蜀を平定した後、梁の信州刺史蕭韶等がそれぞれその部を拠り、朝化に従わなかったので、詔により弘がこれを討ち平定した。また西平の叛羌及び鳳州の叛氐等を討ち、ことごとくこれを破った。弘は毎度戦陣に臨むと、鋒を摧いて直ちに前進し、身に百余りの矢を受け、骨を破るものが九箇所、馬に十の矟を受け、朝廷はこれを壮とした。信州の羣蛮が反逆すると、また詔により弘は賀若敦等とともにこれを平定した。孝閔帝が践祚すると、爵位を鴈門郡公に進め、邑は前と合わせて二千七百戸となった。
子の恭が後を嗣いだ。若くして名声があり、早くから顕位を歴任した。大象末年、位は柱國・小司馬に至った。朝廷はまた弘の勲功を追録し、恭の爵位を観國公に進めた。
梁椿は字を千年といい、代の人である。祖父の屈朱は、魏の昌平鎮将であった。父の提は、内三郎であった。
椿の性質は果断にして剛毅、撫で納めることを善くし、得た賞賜の品物を麾下に分け与えたので、敵陣に臨むごとに、皆その死力を得たのである。雅に倹素を好み、資産を営まず、当時の論はこれをもって称えた。
梁臺は字を洛都といい、長池の人である。父の去斤は、魏の献文帝の時に隴西郡守であった。
臺は少より果敢で、志操があった。孝昌の中、爾朱天光に従って関・隴を討ち平らげ、一年のうちに大小二十余戦し、功により子都督を授けられ、隴城郷男の爵を賜った。普泰の初め、都督に進めて授けられた。後に侯莫陳悅に隷属して南秦州の群盗を討ち、これを平らげた。悅は臺を仮節・衞將軍・左光祿大夫と上表し、隴城縣男に封を進め、邑二百戸を賜った。まもなく天水郡の事を行い、趙平郡の事を行いに転じた。頻りに郡を治め、頗る声績があった。間もなく、天光は臺を追い還し、帳内に引き入れた。天光が寒陵で敗れると、賀抜岳また心膂として引き入れた。
孝閔帝が践祚すると、中部縣公に爵を進め、邑を通前一千戸に増やした。武成の中、賀蘭祥に従って洮陽を征し、先登の功があり、別に綏安縣侯に封ぜられ、邑一千戸を賜った。詔によりその子の元慶に転授することを聴された。
保定四年、大將軍を拝した。時に大軍は洛陽を囲んだが、久しくして抜けなかった。齊の騎兵が奄に至り、齊公の憲が兵を率いてこれを防いだ。数人の者が敵に捕らえられ、既に陣を去ること二百余歩、臺はこれを見て憤怒し、単騎で突入し、二人を射殺すと、敵は皆披靡し、捕らわれた者は遂に還ることができた。齊公の憲は毎に歎じて言うには、「梁臺は果毅にして胆決、及ぶべからざるものなり」と。五年、鄜州刺史を拝した。
臺の性質は疏通で、己を恕して物に接した。民に臨み政を処するに至っては、特に仁愛を心とした。千余字を識るに過ぎなかったが、口占して書啓を作れば、辞意観るべきものがあった。年六十を過ぎても、なお甲を被り馬に跨り、足は鐙を躡まず。馳射弋獵すれば、矢虚しく発することなし。後に疾により卒した。
宇文測は字を澄鏡といい、太祖の族子である。高祖は中山、曾祖は豆頽、祖は騏驎、父は永、魏に仕え、位は皆顕達であった。
測の性質は沈密で、少より篤く学び、毎旬月戸牖を窺わなかった。奉朝請・殿中侍御史より起家し、累遷して司徒右長史・安東將軍となった。宣武帝の女の陽平公主を尚し、駙馬都尉を拝した。魏の孝武帝が齊の神武帝に異図あるを疑うと、詔して測を太祖のもとに詣らせ、密かに備えをなすべしと言わしめた。太祖はこれを見て甚だ歓んだ。還るに使わしめ、広川県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。まもなく孝武帝に従って西遷し、公に爵を進められた。
太祖が丞相となると、測を右長史とし、軍国の政事は多くこれを委任した。また測に命じて宗室の昭穆の遠近を詳定し、属籍に附せしめた。通直散騎常侍・黄門侍郎を除された。
大統四年、侍中・長史を拝した。六年、事に坐して免ぜられた。まもなく使持節・驃騎大將軍・開府儀同三司・大都督・行汾州事を除された。測の政は簡恵を存し、頗る民和を得た。地は東魏に接し、数相鈔窃し、あるいはその寇となる者を獲れば、多く縛してこれを送った。測は皆命じて縛を解き、賓館に置き、然る後に引きいて相見え、客礼のごとくせしめた。なお酒肴を設けて宴労し、その国に放還し、併せて糧餼を与え、衛送して出境せしめた。ここより東魏人は大いに慙じ、乃ち寇と為さず。汾・晋の間、各その業を安んじた。両界の民は、遂に慶弔を通じ、復た仇讐と為さず。時の論はこれを称え、羊叔子に方せしめた。ある者が測が外境と交通し、貳心を懐く者ありと告げた。太祖は怒って言うには、「測は我がために辺を安んず、吾その貳志なきを知る、何ぞ我が骨肉を間し、この貝錦を生ぜしむるや」と。乃ち命じてこれを斬らしめた。なお測に便宜従事を許した。
八年、金紫光祿大夫を加えられ、行綏州事に転じた。毎歳河の冰合した後、突厥は即ち来たり寇掠し、先には常に預め居民を遣わして城堡に入り以てこれを避けしめた。測の至ると、皆安堵して旧のごとくならしめた。乃ち要路数百箇所に並びに多く柴を積み、なお遠く斥候を置き、その動静を知った。この年の十二月、突厥は連谷より入寇し、界を去ること数十里。測は柴を積むところに命じ、一時に火を放たしめた。突厥は大軍の至るありと謂い、懼れて遁走し、自ら相蹂踐し、雑畜及び輜重を委棄すること数え勝たず。測は徐ろに率いる所の部を以てこれを収め、百姓に分け与えた。ここより突厥は敢えて復た至らず。測は因りて戍兵を置き以てこれを備えることを請うた。
宇文測は性質仁恕にして、施し与えることを好み、衣食の外、家に蓄積無し。洛陽に在りし日、嘗て窃盗に遭い、失いし物は即ち其の妻陽平公主の衣服なり。州県盗賊を擒え、併せて物も俱に獲たり。測は此の盗賊が死を以て坐せられるを恐れ、乃ち認めざりき。遂に赦に遇い免るるを得たり。盗賊既に恩を感ずるや、因りて請うて測の左右たらんとす。及び測が魏の孝武帝に従い西遷するに及び、事極めて狼狽すれども、此人も亦測に従い関に入り、竟に異志無かりき。子の該嗣ぐ。内外の官を歴任し、位は上開府儀同三司・臨淄県公に至る。測の弟に深あり。
弟 深
深は字を奴干とす。性質鯁正にして、器局有り。年数歳にして、便ち石を累ねて営伍と為し、併せて草を折りて旌旗と作り、行列を布置するに、皆軍陣の勢有り。父の永之に遇い、乃ち大いに喜びて曰く、「汝自然に此れを知る、後に必ず名将と為らん」と。
及び斉の神武帝蒲坂に屯し、其の将竇泰を分遣して潼関に趣かしめ、高敖曹に洛州を囲ましむ。太祖将に泰を襲わんとし、諸将皆之を難しむ。太祖乃ち其の事を隠し、陽に謀無き者の如くして、独り深に策を問う。対えて曰く、「竇氏は、高歓の驍将なり。頑凶にして勇み、戦い亟に勝ちて軽敵す。歓は毎之を仗り、以て侮を禦ぐと為す。今者大軍若し蒲坂に就かば、則ち高歓拒守し、竇泰必ず之を援け、内外敵を受け、敗を取るの道なり。軽鋭の卒を選び、潜かに小関を出づるに如かず。竇は性躁急なれば、必ず来りて決戦せん。高歓は持重なれば、未だ即ち之を救わず、則ち竇は擒う可し。既に竇氏を虜うれば、歓の勢自ずから沮む。師を回して之を禦えば、以て勝を制す可し」と。太祖喜びて曰く、「是れ吾が心なり」と。軍遂に行く。果たして泰を獲、而して斉の神武帝も亦退く。深又太祖に説きて弘農を進取せしめ、復た之を克つ。太祖大いに悦び、深に謂いて曰く、「君は即ち吾が家の陳平なり」と。
是の冬、斉の神武帝又大衆を率い河を度り洛に渉り、沙苑に至る。諸将皆懼色有り、唯だ深独り賀す。太祖之を詰む。曰く、「賊来りて充斥す、何の賀する有らんや」と。対えて曰く、「高歓の河北を撫するや、甚だ衆心を得たり。智謀乏しと雖も、人皆命を用う。此を以て自ら守れば、未だ図り易き可からず。今懸軍して河を度るは、衆の欲する所に非ず。唯だ歓は竇氏を失いしを恥じ、諫を愎いて来る。所謂忿兵、一戦して以て擒う可し。此事昭然として見る可し。賀せざるを何と為さん。請う深に一節を仮し、王羆の兵を発して、其の走路を邀え、類を遺さしむること無からしめん」と。太祖之を然りとす。尋いで大いに斉の神武帝の軍を破る。深の策く所の如し。
史臣曰わく、太祖は禍乱の辰に属し、征伐を以て海内を定む。大なるは則ち兵を連ねて百万、存亡に係り、小なるは則ち転戦して辺亭に及び、旬月を闕かず。是を以て人に少長無く、士に賢愚無く、筆を投げて功を要し、戈を横たえて奮いを請わざる莫し。若し夫れ数将の者は、並びに翼を攀じて雲漢に昇り、績を屯夷に底す。運移り年世を経と雖も、而して名は終始に成る。美しいかな。赫連達の先識を以てし、而して之に仁恕を加う。蔡祐の敢勇を以てし、而して之を終わるに不伐を以てす。斯れ豈に企及の致す所ならんや、抑も亦天性なり。宇文測の昆季は、政績謀猷、咸く述ぶる可き有り。其れ当時の良臣か。