周書
卷二十七 列傳第十九 赫連達 韓果 蔡祐 常善 辛威 厙狄昌 田弘 梁椿 梁臺 宇文測 弟深
赫連達は字を朔周といい、盛楽の人であり、赫連勃勃の後裔である。曾祖父の庫多汗は、難を避けるために杜氏に改姓した。
達は性質剛直で、胆力があった。若くして賀抜岳に従い征討して功績を挙げ、都將に任じられ、長広郷男の爵位を賜り、 都督 に昇進した。賀抜岳が侯莫陳悦に害されたとき、軍中は大いに動揺した。趙貴が太祖 (宇文泰) を迎えることを提言したが、諸将は躊躇して決めかねた。達は言った。「宇文夏州 (宇文泰) はかつて左丞を務め、優れた謀略は人に勝り、一世の傑物である。今日の事態は、この公なくしては成し遂げられない。趙将軍の議は正しい。達は軽騎で訃報を告げ、併せて彼を迎えに行くことを請う。」諸将の中には南の賀抜勝を追おうとする者もいれば、東の朝廷に報告しようとする者もいた。達はまた言った。「これらは皆、遠い水では近い火を救えぬようなもので、取り立てて言うに足らぬ。」趙貴はこれにより謀を定め、達に急行させた。太祖は達を見て慟哭し、理由を問うと、達は実情を答えた。太祖は遂に数百騎を率いて南の平涼へ赴き、軍を高平に向かわせ、達に騎兵を率いて弾箏峡を占拠させた。当時、民衆は恐れ慌て、逃げ散る者が多かった。数村の民が、老人や弱者を支え、家畜を追い、山に入って難を避けようとしていたところ、兵士たちが争って略奪しようとした。達は言った。「遠近の民衆は、多く賊の支配下にある。今もし好機と見て略奪・拘束するならば、何をもって罪を討ち民を憐れむと言えようか。むしろこれに乗じて慰撫し、義兵の徳を示すべきである。」そこで恩信をもって慰撫すると、民は皆喜んで従い、互いに伝え合って、ことごとく旧業に戻った。太祖はこれを聞いて賞賛した。侯莫陳悦が平定されると、平東将軍を加えられた。太祖は諸将に言った。「清水公 (賀抜岳) が禍に遭ったとき、君たちの命は賊の手に懸かっており、たとえ来て告げようとしても、その道はなかった。杜朔周 (赫連達) は万死の難を冒し、遠くから来て我々に会い、遂に共に忠節を尽くし、同じく仇恥を雪ぐことができた。多くの人の力によるとはいえ、実に杜子の功績によるものである。労苦に報いなければ、どうして善を勧められようか。」そこで馬二百匹を賜った。達は固辞したが、太祖は許さなかった。魏の孝武帝が関中に入ると、勲功と忠義を褒賞し、達が元帥を最初に迎え、秦・隴を匡復した功績により、爵位を魏昌県伯に進め、封邑五百戸を与えた。
儀同の李虎に従い曹泥を破り、鎮南将軍・金紫光禄大夫に任じられ、通直 散騎常侍 を加えられ、封邑を増やして前と合わせて一千戸となった。弘農奪還に従い、沙苑の戦いに参加し、いずれも功績があった。また封邑八百戸を増やされ、白水郡守に任じられ、帥 都督 に転じ、持節を加えられ、済州刺史に任じられた。詔により赫連氏に復姓した。達の勲功と声望が共に高いため、雲州刺史に任じられた。これは本州 (出身地) である。爵位を公に進め、大 都督 に任じられ、まもなく儀同三司を授けられた。
大将軍の達奚武に従い漢中を攻めた。梁の宜豊侯蕭循が長らく防戦し、後に降伏の意思を示した。達奚武が諸将に進退の方策を問うた。開府の賀蘭願徳らは敵の食糧が尽きたとして、急いで攻め落とすことを望んだ。達は言った。「戦わずして城を得るのは、上策である。その子女を利とし、その財帛を貪るべきではない。兵力を尽くして武力を極めることは、仁者は行わない。しかもその士馬はなお強く、城池はなお堅固である。攻撃して仮に陥落させても、必ずや双方が損害を受けるであろう。もし窮鼠猫を噛むような抵抗があれば、成敗は未だ知れない。況や行軍の道は、全軍を保つことを上とする。」達奚武は言った。「公の言う通りである。」そこで将帥たちにそれぞれ意見を述べさせた。すると開府の楊寛らは皆達の意見に同調し、達奚武は遂に蕭循の降伏を受け入れた。軍が帰還すると、驃騎大将軍・開府儀同三司に昇進し、侍中を加えられ、爵位を藍田県公に進めた。
六官制が初めて建てられると、左遂伯を授けられた。外任として隴州刺史となった。保定の初年、大将軍・夏州総管・三州五防諸軍事に転じた。達は文官ではないが、性質は質朴直情で、法度を遵奉し、鞭撻刑を軽んじ、死刑については重く慎重であった。性質はまた廉潔倹約で、辺境の胡人の民が羊を達に贈ることがあったが、達は異民族を招き入れようと、絹織物で報いた。主司が官物を用いることを請うたが、達は言った。「羊は私の厨房に入り、物は官庫から出るのは、上を欺くことである。」私物の絹を取って与えるよう命じた。識者はその仁恕を称賛した。まもなく爵位を楽川郡公に進めた。建徳二年、位を柱国に進め、薨去した。子の遷が後を嗣いだ。大象年間に位は大将軍・蒲州刺史に至った。
韓果は字を阿六抜といい、代の武川の人である。若い頃から 驍 勇雄健で、騎射に優れていた。賀抜岳が西征する際、帳内に引き立てられた。万俟醜奴とその支党を撃ち、転戦数十合、ことごとくこれを破った。膂力は並ぶ者なく、鎧を着て戈を担ぎ、峰嶺を登ることも平らな路を歩くが如く、たとえ数十日百日でも、労とはしなかった。功績により宣威将軍・子 都督 を授けられた。太祖に従い侯莫陳悦を討って平定し、 都督 に昇進し、邯鄲県男の爵位を賜った。魏の孝武帝が関中に入ると、爵位を石城県伯に進め、封邑五百戸を与えられた。大統の初年、爵位を公に進め、封邑を増やして前と合わせて一千戸とし、通直 散騎常侍 を加えられた。
果は記憶力が強く、権謀と策略を兼ね備えていた。行くところの山川の形勢を、ことごとく記憶することができた。また敵の虚実を窺い、情状を推し量ることに長け、潜んで溪谷に隠れ間諜になろうとする者がいれば、果は高みに登ってこれを望み、疑わしい場所へ行けば必ず捕獲した。太祖はこれにより果を虞候 都督 とした。征戦に従うたび、常に斥候騎兵を率い、昼夜巡察し、ほとんど眠らなかった。
潼関で竇泰を襲撃するのに従い、太祖はその計画に従い、軍は勝利して帰還した。真珠金帯一腰と帛二百匹を賞与され、征虜将軍を授けられた。また弘農奪還に従い、河南城を攻め落とし、郡守一人を捕らえ、功績は最上と評された。沙苑の戦い、河橋の戦いで功績があり、撫軍将軍・銀青光禄大夫を授けられ、封邑九百戸を増やされた。朔州刺史に転じ、安州刺史に転じ、帥 都督 を加えられた。九年、邙山の戦いに従い、軍が帰還すると、河東郡守に任じられた。また大軍に従い北山で稽胡を破った。胡の地は険阻で、人跡まれであったが、果は進軍して徹底的に討伐し、その種族部落を散らした。稽胡は果の剛健さを恐れ、「翼のある人」と号した。太祖はこれを聞き、笑って言った。「翼のあるという名は、飛将軍に劣るまい。」累進して大 都督 ・車騎大将軍・儀同三司・驃騎大将軍・開府儀同三司となり、外任として宜州刺史となった。前後の功績を記録し、爵位を襃中郡公に進めた。魏の恭帝元年、大将軍を授けられた。賀蘭祥に従い吐谷渾を討ち、功績により別に一子を県公に封じた。武成二年、また軍を率いて稽胡を破り、多くの捕虜を得た。奴婢一百口を賜り、寧州刺史に任じられた。保定三年、少師に任じられ、位を柱国に進めた。四年、尉遅迥に従い洛陽を包囲した。軍が退却する際、果の率いる部隊だけが全軍を保った。天和の初年、華州刺史を授けられ、政治は寛大簡素で、官吏民衆に称えられた。建徳の初年、薨去した。
子の明が後を嗣いだ。大象の末年、位は上大将軍・黎州刺史に至った。尉遅迥と共謀し、誅殺された。
蔡祐は字を承先といい、その先祖は陳留郡圉県の人である。曾祖父の蔡紹は夏州鎮将となり、高平に移住し、そこで家を定めた。祖父の蔡護は、魏の景明の初年、陳留郡守となった。父の蔡襲は、西州で名声があった。正光年間、万俟醜奴が関中で寇乱を起こすと、襲は賊に背き、妻子を棄てて洛陽に帰った。斉安郡守に任じられた。魏の孝武帝が西遷したとき、なお関東に留まっていた。後にようやく難を抜けて西帰し、平舒県伯の爵位を賜り、岐・夏二州刺史に任じられ、卒去した。原州刺史を追贈された。
祐は性質聡明で、行いに慎みがあった。襲が賊に背いて東帰したとき、祐は十四歳で、母に仕えて孝行で知られた。成長すると、膂力があり、騎射に巧みであった。太祖が原州におられたとき、召し出されて帳下の親信となった。太祖が夏州に移ると、祐を 都督 とした。
侯莫陳悦が賀拔岳を害した時、諸将は使者を遣わして太祖を迎えた。太祖が赴かんとした時、夏州の首望たる彌姐元進らは密かに異心を抱いていた。太祖は密かにこれを知り、先に蔡祐と謀って元進を捕らえることを議した。祐は言った、「狼子野心、やがては必ず反 噬 するであろう。今もし捕縛するならば、殺すに如かず。」太祖は言った、「汝の決断は大なるものなり。」そこで元進らを召し入れて計事を議した。太祖は言った、「隴の賊が逆乱を起こしたので、諸君と力を合わせてこれを討とうと思う。諸君の様子を見ると、どうやら異なる者もいるようだ。」太祖は密かにこの言葉で彼らを動かそうとし、目配せして祐を見た。祐は直ちに外に出て、鎧を着て刀を持ち直ちに入り、目を怒らせて諸人を叱って言った、「朝に謀って夕に異なるとは、これ人たるものか。蔡祐、今日必ず奸人の頭を斬る。」そして剣を手に取り彼らに臨んだ。座中の者は皆叩頭して言った、「どうか選別をお願いします。」祐はそこで元進を叱り斬り、その党類も皆誅殺した。一座は皆戦慄し、敢えて仰ぎ見る者もなかった。そこで諸将と盟を結び、心を一つにして悦を誅することとした。太祖はこれによって彼を重んじるようになった。そして祐に言った、「我は今、汝を子としよう。汝は父として我に仕えよ。」後に悦を討つことに従い、これを破った。
また潼関において魏の孝武帝を迎えることに従った。前後の功績により、萇郷県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。大統初年、寧朔将軍・羽林監を加えられ、まもなく持節・員外 散騎常侍 となり、爵位を侯に進め、邑一千一百戸を増加された。太祖に従って竇泰を擒え、弘農を回復し、沙苑で戦い、いずれも功績があり、平東将軍・太中大夫を授けられた。
また太祖に従って河橋で戦い、祐は下馬して歩戦し、手ずから数人を殺した。左右の者が急変に備えて馬に乗るよう勧めた。祐は怒って言った、「丞相は我を子の如く養ってくださった。今日どうして命を惜しむことがあろうか。」そこで左右十余人を率いて声を揃えて大呼し、多くを殺傷した。敵は彼に後詰がないと見て、遂に十重余りに包囲し、祐に言った、「君は勇士のようである。ただ甲を解いて降参すれば、富貴に事欠くことはないだろう。」祐はこれを罵って言った、「死せる卒め!我が今その首を取れば、自ずから公に封ぜられるのだ。どうして賊の官号を借りる必要があろうか。」そして弓を引き絞って満たし、四方に防いだ。東魏の兵は敢えて近づかず、厚い甲冑に長刀を持つ者を募り、直ちに進んで祐を取らんとした。祐からおよそ三十歩のところで、左右の者が射るよう勧めたが、祐は言った、「我々の命はこの一矢にかかっている。どうして空しく射ることができようか。」敵が次第に近づき、およそ十歩となった時、祐はこれを射て、まさにその顔面に命中させ、弦の響きに応じて倒れたので、直ちに矟で刺し殺した。このため、数度戦い合ったが、ただ一人を失ったのみであった。敵はやや退いた。祐はゆるやかに引き退いた。この戦いにおいて、我が軍は不利であった。太祖は既に還っていた。祐が弘農に至ると、夜中に太祖と相会した。太祖は祐が来たのを見て、その字を呼んで言った、「承先、汝が来たので、我は憂い無し。」太祖は心が驚き、眠ることができず、祐の股を枕にして、ようやく安らかになった。功績により爵位を公に進め、邑三百戸を増加され、京兆郡守を授けられた。
九年、東魏の北 豫 州刺史高仲密が州を挙げて来附した。太祖は軍を率いてこれを援け、斉の神武帝と遭遇し、邙山で戦った。祐は当時明光の鉄鎧を着ており、向かうところ敵無しであった。敵は皆「これは鉄の猛獣なり」と言い、皆急いで避けた。まもなく青州刺史を授けられ、原州刺史に転じ、帥 都督 を加えられ、尋いで大 都督 に任ぜられた。十三年、父の喪に遭い、喪に服し終えることを請うたが、許されなかった。車騎大将軍・儀同三司に遷り、驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中を加えられ、姓を大利稽氏と賜り、爵位を懐寧郡公に進めた。
魏の恭帝二年、中領軍となった。六官が建てられると、兵部中大夫を授けられた。江陵が初めて帰附した時、諸蛮が騒動したので、詔により祐は大将軍豆盧寧と共にこれを討平した。三年、大将軍に拝され、後部鼓吹を給された。前後の功績により、邑を増やして以前と合わせて四千戸とし、別に一子を県伯に封じた。太祖が不 豫 となると、祐は晋公宇文護・賀蘭祥らと共に病に侍った。太祖が崩ずると、祐は悲しみ慕って已まず、遂に気疾を得た。
孝閔帝が践祚すると、少保に拝された。祐は尉遅綱と共に禁兵を掌り、交替で殿省に直した。当時、帝は司会李植らを信任し、晋公護を謀害しようとしたが、祐は毎度泣いて諫めたが、帝は聞き入れなかった。まもなく帝は廃された。
世宗が即位すると、小司馬に拝され、少保は元の如くであった。帝が公子であった時、祐と特に親しく昵懇にしており、この時には礼遇がますます厚くなった。御膳に珍味がある度に、必ずこれを止めて祐に賜い、群臣の朝宴では、毎度別に留め置かれ、あるいは日暮れ夜中にまで及び、松明を列ね笳を鳴らして、祐を宅まで送り届けた。祐は過分に礼遇されることを蒙り、常に病気を理由に辞して避けた。婚姻に至っては、特に勢家と交わることを望まなかった。まもなく本官のまま原州を権鎮した。間もなく宜州刺史を授けられたが、赴任しないうちに、先の気疾が発動し、原州で卒した。時に五十四歳。
祐は若くして大志を持ち、同郷の李穆と布衣の身分で名声を並べた。かつて互いに言い合った、「大丈夫たるもの、功名を立てて富貴を取るべきであり、どうして久しく貧賤に処することができようか。」言い終わると、各々大笑した。穆とは即ち後の申公である。後になって皆その言う通りとなった。征伐に従う時は、常に包囲を破り敵陣に突入し、士卒の先頭に立った。軍が還る日には、諸将が功を争ったが、祐は終に競うことがなかった。太祖は毎度これを歎じ、かつて諸将に言った、「承先は口に勲功を言わない。孤が代わってその功績を論じ叙べよう。」このように見知られていた。性質は節倹で、得た俸禄は全て宗族に分け与え、身が死んだ日には、家に余財が無かった。使持節・柱国大将軍・大 都督 ・五州諸軍事・原州刺史を追贈された。諡して莊といった。子の正が嗣いだ。官は使持節・車騎大将軍・儀同三司に至った。
祐の弟の澤は、頗る学問を好み、幹能があった。魏の広平王参軍・丞相府兼記室から起家し、宣威将軍・給事中を加えられた。尉遅迥に従って蜀を平らげ、帥 都督 を授けられ、安彌県男の爵を賜った。次第に司輅下大夫・車騎大将軍・儀同三司・澧州刺史に遷った。州において賄賂を受け、総管の代王達がその功臣の子弟であることを以て、密かに上奏してこれを赦した。後に䢵州刺史となったが、司馬消難に従わず、害された。
常善は、高陽の人である。代々豪族であった。父の安成は、魏の正光の末、茹茹が辺境を寇した時、統軍として鎮将慕容勝に従って戦い、これを大破した。当時、破六汗抜陵が乱を起こし、安成を脅迫しようとしたが、従わず、そこで配下を率いて陵を討った。功績により伏波将軍を授けられ、鼓節を給された。後に抜陵と連戦し、陣中に卒した。
善は、魏の孝昌年中、爾朱栄に従って洛陽に入り、威烈将軍・ 都督 を授けられ、龍驤将軍・中散大夫・直寝を加えられ、房城県男に封ぜられ、邑三百戸を賜った。後に太祖に従って侯莫陳悦を平らげ、天水郡守に任ぜられた。魏の孝武帝が西遷すると、武衛将軍を授けられ、爵位を武始県伯に進め、邑二百戸を増加された。大統初年、平東将軍を加えられ、爵位を侯に進めた。竇泰を擒え、弘農を回復し、沙苑を破り、累ねて戦功があった。使持節・衛将軍に任ぜられ、仮の驃騎大将軍・秦州刺史となった。四年、河橋の戦いに従い、大 都督 を加えられ、爵位を公に進め、涇州刺史に任ぜられた。茹茹が入寇し、北辺を抄略した時、善は配下を率いてこれを破り、掠めたものを全て奪回した。車騎大将軍・儀同三司に拝され、驃騎大将軍・開府儀同三司・西安州刺史に遷った。蔚州刺史に転じた。頻りに三つの辺境の州に臨み、頗る政績があった。魏の恭帝二年、爵位を永陽郡公に進め、邑二千戸を増加された。
孝閔帝が践祚すると、大將軍・寧州總管に任ぜられた。保定二年、召されて小 司徒 となった。四年、突厥が兵を出して隋公楊忠とともに東征し、善に応接するよう命じた。五年夏、卒去した。時に六十四歳。使持節・柱國大將軍・大 都督 ・延夏鹽恆燕五州諸軍事・延州刺史を追贈された。子の昇和が後を嗣いだ。先に善の勲功により、儀同三司に任ぜられていた。
辛威は隴西の人である。祖父の大汗は、魏の渭州刺史であった。父の生は、河州四面大 都督 であった。威が勲功を立てると、大將軍・涼甘等五州刺史を追贈された。
威は若くして慷慨たる志を持ち、志略があった。初め賀拔岳に従って征討し功があり、輔國將軍・ 都督 を仮授された。太祖が岳の兵衆を統率すると、威を見て奇異とし、帳内に引き立てた。まもなく羽林監を授けられ、白土縣伯に封ぜられ、邑五百戸を与えられた。魏の孝武帝を迎えるのに従い、回洛城を攻撃して、功績が最も多かった。大統元年、寧遠將軍に任ぜられ、邑を二百戸増加された。累進して通直 散騎常侍 となり、爵位を侯に進め、邑を三百戸増加された。竇泰を擒えるのに従い、弘農を回復し、沙苑で戦い、いずれも先鋒として敵陣に突入し、勇気は一時に冠たるものがあった。前後の功績により、撫軍將軍・銀青光祿大夫を授けられた。于謹に従って襄城を破った。また獨孤信に従って洛陽に入り、河橋の陣を経て、持節を加えられ、爵位を公に進め、邑を八百戸増加された。五年、揚州刺史を授けられ、大 都督 を加えられた。十三年、車騎大將軍・儀同三司、驃騎大將軍・開府儀同三司に遷り、姓を普屯氏と賜り、鄜州刺史として出向した。威の時望はすでに重く、朝廷は郷里として栄誉を与え、河州刺史、本州大中正に遷った。頻繁に二鎮を領し、民の和を得ることが多かった。
閔帝が践祚すると、大將軍に任ぜられ、爵位を 枹罕 郡公に進め、邑を五千戸増加された。司馬消難が来附すると、威は達奚武とともに兵衆を率いて援け応接した。保定初年、再び兵を率いて丹州の叛胡を討ち、これを破った。三年、達奚武とともに陽関を攻め、これを陥落させた。翌年、尉遲迥に従って洛陽を包囲した。帰還後、小司馬に任ぜられた。天和初年、位を柱國に進めた。また行軍總管となり、綏州・銀州等の諸州の叛胡を討ち、ことごとく平定した。六年、齊王憲に従って東征し、伏龍等五城を陥落させた。建德初年、大司寇に任ぜられた。三年、少傅に遷り、寧州總管として出向した。宣政元年、上柱國に位を進めた。大象二年、宿國公に封ぜられ、邑を前と合わせて五千戸に増加され、再び少傅となった。その年冬、薨去した。時に六十九歳。
威の性質は持重で、威厳があった。官職を歴任すること数十年、未だかつて過失がなく、故に身も名も全うすることができた。またその家門は友誼に厚く、五世同居し、世間はこれをもって称えた。子の永達が後を嗣いだ。大象末年、威の勲功により、儀同大將軍に任ぜられた。
厙狄昌は字を恃德といい、神武の人である。若くして騎射に熟達し、膂力があった。成長すると、進退に閑雅さがあり、胆気は壮烈で、常に将帥たらんことを自任した。十八歳の時、爾朱天光に引き立てられて幢主となり、討夷將軍を加えられた。天光に従って関中を平定し、功により寧遠將軍・奉車都尉・統軍に任ぜられた。天光が敗れると、また賀拔岳に従った。征西將軍・金紫光祿大夫を授けられた。岳が害されると、昌は諸将と議して太祖を輔戴した。侯莫陳悅を平定するのに従い、陰盤縣子の爵を賜り、 衞 將軍・右光祿大夫を加えられた。
後に太祖に従って魏の孝武帝を迎え、潼関を回復し、長子縣子に改封され、邑八百戸を与えられた。大統初年、爵位を公に進め、邑を一千戸増加された。竇泰を破るのに従い、車騎將軍・左光祿大夫を授けられた。また弘農を回復し、沙苑で戦うのに従い、昌はいずれも先登して敵陣に突入した。太祖はこれを嘉し、帥 都督 を授けた。四年、河橋の戦いに従い、冀州刺史に任ぜられた。後に于謹とともに上郡で胡賊の劉平伏を破り、 馮翊郡 守を授けられた。久しくして、河北郡守に転じた。十三年、前後の功績を録し、大 都督 ・通直 散騎常侍 を授けられた。また隨公楊忠に従って蛮賊の田社清を破り、昌の功績が最も多く、邑を三百戸増加され、儀同三司に任ぜられた。まもなく開府儀同三司に遷った。十六年、東夏州刺史として出向した。魏の廃帝元年、爵位を方城郡公に進め、邑を前と合わせて四千一百戸に増加された。六官が建てられると、稍伯中大夫を授けられた。孝閔帝が践祚すると、大將軍に任ぜられた。後に病により卒去した。
田弘は字を廣畧といい、高平の人である。若くして慷慨たる志を持ち、功名を立てることを志し、膂力は人に優れ、敢勇にして謀略があった。魏の永安年間、万俟醜奴に陥った。爾朱天光が関中に入ると、弘は原州より帰順し、 都督 を授けられた。
太祖が初めて兵衆を統率すると、弘は謁見を求め、世事を論じ、深く引き入れられ、即座に爪牙の任に処せられた。また魏の孝武帝を迎える功により、鶉陰縣子に封ぜられ、邑五百戸を与えられた。太祖は常に自らの着用していた鉄甲を弘に賜って言った、「天下が定まったならば、この甲を孤に見せよ」と。大統三年、帥 都督 に転じ、爵位を公に進めた。太祖に従って弘農を回復し、沙苑で戦い、洛陽の包囲を解き、河橋の陣を破り、弘の功績が多く、累次殊賞を蒙り、姓を紇干氏と賜った。まもなく原州刺史を授けられた。弘の勲功と声望が共に至ったため、衣錦の栄誉をもって遇したのである。太祖が同州におられた時、文武の官が並び集まり、そこで言われた、「人々が皆、弘のように心を尽くすならば、天下は早く定まらなかったであろうか」と。即座に車騎大將軍・儀同三司を授けられた。魏の廃帝元年、驃騎大將軍・開府儀同三司を加えられた。
蜀を平定した後、梁の信州刺史蕭韶等がそれぞれその部を拠り、朝化に従わなかったので、詔により弘がこれを討ち平定した。また西平の叛羌及び鳳州の叛氐等を討ち、ことごとくこれを破った。弘は毎度戦陣に臨むと、鋒を摧いて直ちに前進し、身に百余りの矢を受け、骨を破るものが九箇所、馬に十の矟を受け、朝廷はこれを壮とした。信州の羣蛮が反逆すると、また詔により弘は賀若敦等とともにこれを平定した。孝閔帝が践祚すると、爵位を鴈門郡公に進め、邑は前と合わせて二千七百戸となった。
保定元年、岷州刺史として出向した。弘は武將ではあったが、行動は法式に遵い、百姓は大いに安んじた。三年、隨公楊忠に従って齊を伐ち、大將軍に任ぜられた。翌年、また忠に従って東征した。軍が帰還すると、鎮守地に戻った。吐谷渾が西辺を寇し、宕昌羌が密かに応接したので、詔により弘がこれを討ち、その二十五王を獲、その七十六柵を抜き、遂にこれを破り平定した。
天和二年、陳の湘州刺史華皎が来附すると、弘は 衞 公直に従って赴援した。陳軍と戦い、利あらず、そこで弘を江陵總管とした。陳の将軍吳明徹が来寇すると、弘は梁主蕭巋とともに紀南に退いて守り、副總管の高琳に拒守させ、明徹が退くと、江陵に戻った。まもなく弘を仁壽城主とし、宜陽を威圧させた。齊の将軍段孝先・斛律明月が軍を出して定隴に至り、宜陽の援けとしようとしたので、弘は陳公純とともにこれを破り、遂に宜陽等九城を陥落させた。功により邑を五百戸増加され、位を柱國大將軍に進めた。
建德二年、大 司空 に任ぜられ、少保に遷った。三年、總管襄郢昌豐唐蔡六州諸軍事・襄州刺史として出向した。州において薨去した。
子の恭が後を嗣いだ。若くして名声があり、早くから顕位を歴任した。大象末年、位は柱國・小司馬に至った。朝廷はまた弘の勲功を追録し、恭の爵位を観國公に進めた。
梁椿は字を千年といい、代の人である。祖父の屈朱は、魏の昌平鎮将であった。父の提は、内三郎であった。
椿は初め統軍として爾朱榮に従い洛陽に入り、また爾朱榮に従って滏口において葛栄を破り、軍功により都將に進めて授けられた。後に賀抜岳に従って万俟醜奴・蕭寶夤らを討ち平らげ、中堅將軍・屯騎 校尉 ・子 都督 に遷った。普泰の初め、征西將軍・金紫光祿大夫を拝した。二年、高平郡守を除され、盧奴縣男に封ぜられ、邑百戸を賜った。太昌元年、 都督 に進めて授けられた。太祖に従って侯莫陳悅を平らげ、 衞 將軍・右光祿大夫を拝した。大統の初め、欒城縣伯に爵を進め、邑五百戸を増やした。出て隴東郡守となった。まもなく公に爵を進め、邑五百戸を増やし、梁州刺史に遷った。弘農回復に従い、沙苑に戦い、獨孤信とともに洛陽に入り、宇文貴に従って東魏の将堯雄らを破り、累ねて戦功があった。車騎大將軍・儀同三司・大 都督 を授けられた。河橋の戦いに従い、東平郡公に爵を進め、邑一千戸を増やした。俄かに侍中・驃騎大將軍・開府儀同三司に遷った。七年、于謹に従って稽胡の劉平伏を討ち、椿はその別帥劉持塞を擒らえた。また獨孤信に従って岷州の羌梁仚定を討ち、これを破った。清州刺史を除された。州にあっては他に政績はなかったが、夷夏これを安んじた。十三年、李弼に従って潁川に赴き侯景を援けた。別に閻韓鎮を攻め、その鎮城徐 衞 を斬った。城主卜貴洛が軍士千人を率いて降った。功により邑四百戸を増やした。孝閔帝が践祚すると、華州刺史を除され、清陵郡公に改封され、邑を通前三千七百戸に増やした。二年、入って少保となり、少傅に転じた。保定元年、大將軍を拝した。位において卒した。恆鄜延丹寧五州諸軍事を贈られ、行恆州刺史とし、諡して烈といった。
椿の性質は果断にして剛毅、撫で納めることを善くし、得た賞賜の品物を麾下に分け与えたので、敵陣に臨むごとに、皆その死力を得たのである。雅に倹素を好み、資産を営まず、当時の論はこれをもって称えた。
子の明は、魏の恭帝二年、椿の功により爵を襲い豊陽縣公となった。まもなく大 都督 を授けられ、車騎大將軍・儀同三司・ 散騎常侍 に遷り、小吏部を治め、小御伯・御正下大夫を歴任した。保定五年、詔により椿の爵を襲い、旧封は弟の朗に回授された。天和の中、楽陵郡公に改封され、上州刺史を除され、邑を通前四千三百戸に増やした。
梁臺は字を洛都といい、長池の人である。父の去斤は、魏の献文帝の時に隴西郡守であった。
臺は少より果敢で、志操があった。孝昌の中、爾朱天光に従って関・隴を討ち平らげ、一年のうちに大小二十余戦し、功により子 都督 を授けられ、隴城郷男の爵を賜った。普泰の初め、 都督 に進めて授けられた。後に侯莫陳悅に隷属して南秦州の群盗を討ち、これを平らげた。悅は臺を仮節・ 衞 將軍・左光祿大夫と上表し、隴城縣男に封を進め、邑二百戸を賜った。まもなく天水郡の事を行い、趙平郡の事を行いに転じた。頻りに郡を治め、頗る声績があった。間もなく、天光は臺を追い還し、帳内に引き入れた。天光が寒陵で敗れると、賀抜岳また心膂として引き入れた。
岳が侯莫陳悅に害されると、臺は諸将と議して太祖を翊戴した。悅を討つに従い、これを破った。また天水郡守を拝した。大統の初め、また趙平郡守を除された。また太僕の石猛とともに両山の屠各を破り、詔により邑一百戸を増やし、平涼郡守に転じた。時に莫折後熾が軽剽の徒を結集し、居民を寇掠した。州刺史の史寧がこれを討ったが、時を経ても勝てなかった。臺は賊の形勢を陳べ、兼ねて攻取の策を論じ、寧は善しとしてこれに従い、遂に賊徒を破った。また于謹とともに劉平伏を破った。前後の勲功を録し、潁州刺史を授けられ、賀蘭氏の姓を賜った。玉壁救援に従い、邙山に戦い、帥 都督 を授けられた。大統十五年、南夏州刺史を拝し、通直 散騎常侍 ・本州大中正を加えられ、邑二百戸を増やした。魏の廃帝二年、使持節・車騎大將軍・儀同三司に遷り、驃騎大將軍・開府儀同三司に進み、侍中を加えられた。
孝閔帝が践祚すると、中部縣公に爵を進め、邑を通前一千戸に増やした。武成の中、賀蘭祥に従って洮陽を征し、先登の功があり、別に綏安縣侯に封ぜられ、邑一千戸を賜った。詔によりその子の元慶に転授することを聴された。
保定四年、大將軍を拝した。時に大軍は洛陽を囲んだが、久しくして抜けなかった。齊の騎兵が奄に至り、齊公の憲が兵を率いてこれを防いだ。数人の者が敵に捕らえられ、既に陣を去ること二百余歩、臺はこれを見て憤怒し、単騎で突入し、二人を射殺すと、敵は皆披靡し、捕らわれた者は遂に還ることができた。齊公の憲は毎に歎じて言うには、「梁臺は果毅にして胆決、及ぶべからざるものなり」と。五年、鄜州刺史を拝した。
臺の性質は疏通で、己を恕して物に接した。民に臨み政を処するに至っては、特に仁愛を心とした。千余字を識るに過ぎなかったが、口占して書啓を作れば、辞意観るべきものがあった。年六十を過ぎても、なお甲を被り馬に跨り、足は鐙を躡まず。馳射弋獵すれば、矢虚しく発することなし。後に疾により卒した。
宇文測は字を澄鏡といい、太祖の族子である。高祖は中山、曾祖は豆頽、祖は騏驎、父は永、魏に仕え、位は皆顕達であった。
測の性質は沈密で、少より篤く学び、毎旬月戸牖を窺わなかった。奉朝請・殿中侍御史より起家し、累遷して 司徒 右長史・安東將軍となった。宣武帝の女の陽平公主を尚し、駙馬都尉を拝した。魏の孝武帝が齊の神武帝に異図あるを疑うと、詔して測を太祖のもとに詣らせ、密かに備えをなすべしと言わしめた。太祖はこれを見て甚だ歓んだ。還るに使わしめ、広川県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。まもなく孝武帝に従って西遷し、公に爵を進められた。
太祖が丞相となると、測を右長史とし、軍国の政事は多くこれを委任した。また測に命じて宗室の昭穆の遠近を詳定し、属籍に附せしめた。通直 散騎常侍 ・黄門侍郎を除された。
大統四年、侍中・長史を拝した。六年、事に坐して免ぜられた。まもなく使持節・驃騎大將軍・開府儀同三司・大 都督 ・行汾州事を除された。測の政は簡恵を存し、頗る民和を得た。地は東魏に接し、数相鈔窃し、あるいはその寇となる者を獲れば、多く縛してこれを送った。測は皆命じて縛を解き、賓館に置き、然る後に引きいて相見え、客礼のごとくせしめた。なお酒肴を設けて宴労し、その国に放還し、併せて糧餼を与え、衛送して出境せしめた。ここより東魏人は大いに慙じ、乃ち寇と為さず。汾・晋の間、各その業を安んじた。両界の民は、遂に慶弔を通じ、復た仇讐と為さず。時の論はこれを称え、羊叔子に方せしめた。ある者が測が外境と交通し、貳心を懐く者ありと告げた。太祖は怒って言うには、「測は我がために辺を安んず、吾その貳志なきを知る、何ぞ我が骨肉を間し、この貝錦を生ぜしむるや」と。乃ち命じてこれを斬らしめた。なお測に便宜従事を許した。
八年、金紫光祿大夫を加えられ、行綏州事に転じた。毎歳河の冰合した後、突厥は即ち来たり寇掠し、先には常に預め居民を遣わして城堡に入り以てこれを避けしめた。測の至ると、皆安堵して旧のごとくならしめた。乃ち要路数百箇所に並びに多く柴を積み、なお遠く斥候を置き、その動静を知った。この年の十二月、突厥は連谷より入寇し、界を去ること数十里。測は柴を積むところに命じ、一時に火を放たしめた。突厥は大軍の至るありと謂い、懼れて遁走し、自ら相蹂踐し、雑畜及び輜重を委棄すること数え勝たず。測は徐ろに率いる所の部を以てこれを収め、百姓に分け与えた。ここより突厥は敢えて復た至らず。測は因りて戍兵を置き以てこれを備えることを請うた。
十年、召されて太子少保に任ぜられる。十二年十月、任中に卒す。時に年五十八。太祖は傷悼し、親しく臨み慟哭す。乃ち水池公宇文護に命じて喪事を監護せしむ。本官を追贈し、諡して靖と曰う。
宇文測は性質仁恕にして、施し与えることを好み、衣食の外、家に蓄積無し。洛陽に在りし日、嘗て窃盗に遭い、失いし物は即ち其の妻陽平公主の衣服なり。州県盗賊を擒え、併せて物も俱に獲たり。測は此の盗賊が死を以て坐せられるを恐れ、乃ち認めざりき。遂に赦に遇い免るるを得たり。盗賊既に恩を感ずるや、因りて請うて測の左右たらんとす。及び測が魏の孝武帝に従い西遷するに及び、事極めて狼狽すれども、此人も亦測に従い関に入り、竟に異志無かりき。子の該嗣ぐ。内外の官を歴任し、位は上開府儀同三司・臨淄県公に至る。測の弟に深あり。
弟 深
深は字を奴干とす。性質鯁正にして、器局有り。年数歳にして、便ち石を累ねて営伍と為し、併せて草を折りて旌旗と作り、行列を布置するに、皆軍陣の勢有り。父の永之に遇い、乃ち大いに喜びて曰く、「汝自然に此れを知る、後に必ず名将と為らん」と。
永安の初めに至り、起家して秘書郎と為る。時に群盗蜂起す。深は屡々時事を言い、爾朱栄は雅く之を知りて重んず。厲武将軍を拝す。尋いで車騎府主簿を除く。三年、子 都督 を授けられ、宿衛の兵卒を領す。及び斉の神武帝兵を挙げて洛に入り、孝武帝西遷す。事既に倉卒に起こり、人多く逃散すれども、深は撫循して其の部をし、並びに関に入るを得しむ。功を以て爵を長楽県伯と賜う。
太祖は深に謀略有るを以て、左右に引致し、政事を図議せんと欲す。大統元年、乃ち啓して丞相府主簿と為し、朱衣直閤を加う。尋いで転じて尚書直事郎中と為る。
及び斉の神武帝蒲坂に屯し、其の将竇泰を分遣して潼関に趣かしめ、高敖曹に洛州を囲ましむ。太祖将に泰を襲わんとし、諸将皆之を難しむ。太祖乃ち其の事を隠し、陽に謀無き者の如くして、独り深に策を問う。対えて曰く、「竇氏は、高歓の 驍 将なり。頑凶にして勇み、戦い亟に勝ちて軽敵す。歓は毎之を仗り、以て侮を禦ぐと為す。今者大軍若し蒲坂に就かば、則ち高歓拒守し、竇泰必ず之を援け、内外敵を受け、敗を取るの道なり。軽鋭の卒を選び、潜かに小関を出づるに如かず。竇は性躁急なれば、必ず来りて決戦せん。高歓は持重なれば、未だ即ち之を救わず、則ち竇は擒う可し。既に竇氏を虜うれば、歓の勢自ずから沮む。師を回して之を禦えば、以て勝を制す可し」と。太祖喜びて曰く、「是れ吾が心なり」と。軍遂に行く。果たして泰を獲、而して斉の神武帝も亦退く。深又太祖に説きて弘農を進取せしめ、復た之を克つ。太祖大いに悦び、深に謂いて曰く、「君は即ち吾が家の陳平なり」と。
是の冬、斉の神武帝又大衆を率い河を度り洛に渉り、沙苑に至る。諸将皆懼色有り、唯だ深独り賀す。太祖之を詰む。曰く、「賊来りて充斥す、何の賀する有らんや」と。対えて曰く、「高歓の河北を撫するや、甚だ衆心を得たり。智謀乏しと雖も、人皆命を用う。此を以て自ら守れば、未だ図り易き可からず。今懸軍して河を度るは、衆の欲する所に非ず。唯だ歓は竇氏を失いしを恥じ、諫を愎いて来る。所謂忿兵、一戦して以て擒う可し。此事昭然として見る可し。賀せざるを何と為さん。請う深に一節を仮し、王羆の兵を発して、其の走路を邀え、類を遺さしむること無からしめん」と。太祖之を然りとす。尋いで大いに斉の神武帝の軍を破る。深の策く所の如し。
四年、河橋の戦いに従う。六年、別に李弼の軍を監し、白額稽胡を討ち、並びに戦功有り。俄に爵を進めて侯と為し、通直 散騎常侍 ・東雍州別駕・使持節・大 都督 ・東雍州刺史を歴任す。深は政を為すに厳明にして、民に信を以て示し、豪右を抑挫し、吏民之を懐く。十七年、入りて雍州別駕と為る。魏の恭帝二年、車騎大将軍・儀同三司・ 散騎常侍 に進む。六官建つや、小吏部下大夫を拝す。
孝閔帝禅を受く。位を進めて驃騎大将軍・開府儀同三司と為し、吏部中大夫に遷る。武成元年、豳州刺史を除かれ、安化県公に改封さる。二年、召されて宗師大夫に拝され、転じて軍司馬と為る。保定の初め、京兆尹を除かる。入りて司会中大夫と為る。
深は少くして父に喪い、兄に事うること甚だ謹みたり。性質奇譎多く、兵書を読むを好む。既に近侍に在りては、毎に籌策を進む。及び選曹に在りては、頗る時の誉を得たり。性質仁愛にして、情宗党に隆し。従弟の神挙・神慶は幼くして孤なり。深之を撫訓し、義均しく同気の如し。世も亦此を以て之を称す。天和三年、任中に卒す。使持節・少師・恆雲蔚三州刺史を追贈し、諡して成康と曰う。子の孝伯は、自ら伝有り。
史臣曰わく、太祖は禍乱の辰に属し、征伐を以て海内を定む。大なるは則ち兵を連ねて百万、存亡に係り、小なるは則ち転戦して辺亭に及び、旬月を闕かず。是を以て人に少長無く、士に賢愚無く、筆を投げて功を要し、戈を横たえて奮いを請わざる莫し。若し夫れ数将の者は、並びに翼を攀じて雲漢に昇り、績を屯夷に底す。運移り年世を経と雖も、而して名は終始に成る。美しいかな。赫連達の先識を以てし、而して之に仁恕を加う。蔡祐の敢勇を以てし、而して之を終わるに不伐を以てす。斯れ豈に企及の致す所ならんや、抑も亦天性なり。宇文測の昆季は、政績謀猷、咸く述ぶる可き有り。其れ当時の良臣か。