周書

巻027

卷二十七 列傳第十九 赫連達 韓果 蔡祐 常善 辛威 厙狄昌 田弘 梁椿 梁臺 宇文測 弟深

赫連達は字を朔周といい、盛楽の人であり、赫連勃勃の後裔である。曾祖父の庫多汗は、難を避けるために杜氏に改姓した。

原文 赫連達字朔周,〈(成)〉〔盛〕樂人,勃勃之後也。曾祖庫多汗,因避難改姓杜氏。

達は性質剛直で、胆力があった。若くして賀抜岳に従い征討して功績を挙げ、都將に任じられ、長広郷男の爵位を賜り、都督ととくに昇進した。賀抜岳が侯莫陳悦に害されたとき、軍中は大いに動揺した。趙貴が太祖(宇文泰)を迎えることを提言したが、諸将は躊躇して決めかねた。達は言った。「宇文夏州(宇文泰)はかつて左丞を務め、優れた謀略は人に勝り、一世の傑物である。今日の事態は、この公なくしては成し遂げられない。趙将軍の議は正しい。達は軽騎で訃報を告げ、併せて彼を迎えに行くことを請う。」諸将の中には南の賀抜勝を追おうとする者もいれば、東の朝廷に報告しようとする者もいた。達はまた言った。「これらは皆、遠い水では近い火を救えぬようなもので、取り立てて言うに足らぬ。」趙貴はこれにより謀を定め、達に急行させた。太祖は達を見て慟哭し、理由を問うと、達は実情を答えた。太祖は遂に数百騎を率いて南の平涼へ赴き、軍を高平に向かわせ、達に騎兵を率いて弾箏峡を占拠させた。当時、民衆は恐れ慌て、逃げ散る者が多かった。数村の民が、老人や弱者を支え、家畜を追い、山に入って難を避けようとしていたところ、兵士たちが争って略奪しようとした。達は言った。「遠近の民衆は、多く賊の支配下にある。今もし好機と見て略奪・拘束するならば、何をもって罪を討ち民を憐れむと言えようか。むしろこれに乗じて慰撫し、義兵の徳を示すべきである。」そこで恩信をもって慰撫すると、民は皆喜んで従い、互いに伝え合って、ことごとく旧業に戻った。太祖はこれを聞いて賞賛した。侯莫陳悦が平定されると、平東将軍を加えられた。太祖は諸将に言った。「清水公(賀抜岳)が禍に遭ったとき、君たちの命は賊の手に懸かっており、たとえ来て告げようとしても、その道はなかった。杜朔周(赫連達)は万死の難を冒し、遠くから来て我々に会い、遂に共に忠節を尽くし、同じく仇恥を雪ぐことができた。多くの人の力によるとはいえ、実に杜子の功績によるものである。労苦に報いなければ、どうして善を勧められようか。」そこで馬二百匹を賜った。達は固辞したが、太祖は許さなかった。魏の孝武帝が関中に入ると、勲功と忠義を褒賞し、達が元帥を最初に迎え、秦・隴を匡復した功績により、爵位を魏昌県伯に進め、封邑五百戸を与えた。

原文 達性剛鯁,有膽力。少從賀拔岳征討有功,拜都將,賜爵長廣鄉男,遷都督。及岳為侯莫陳悅所害,軍中大擾。趙貴建議迎太祖,諸將猶豫未決。達曰:「宇文夏州昔為左丞,明畧過人,一時之傑。今日之事,非此公不濟。趙將軍議是也。達請輕騎告哀,仍迎之。」諸將或欲南追賀拔勝,或云東告朝廷。達又曰:「此皆遠水不救近火,何足道哉。」貴於是謀遂定,令達馳往。太祖見達慟哭,問故,達以實對。太祖遂以數百騎南赴平涼,引軍向高平,令達率騎據彈箏峽。時百姓惶懼,奔散者多。有數村民,方扶老弱、驅畜牧,欲入山避難,軍士爭欲掠之。達曰:「遠近民黎,多受制於賊,今若值便掠縛,何謂伐罪弔民!不如因而撫之,以示義師之德。」乃撫以恩信,民皆悅附,於是迭相曉語,咸復舊業。太祖聞而嘉之。悅平,加平東將軍。太祖謂諸將曰:「當清水公遇禍之時,君等性命懸於賊手,雖欲來告,其路無從。杜朔周冒萬死之難,遠來見及,遂得共盡忠節,同雪讐恥。雖藉眾人之力,實賴杜子之功。勞而不酬,何以勸善。」乃賜馬二百匹。達固讓,太祖弗許。魏孝武入關,襃𤼩勳義,以達首逆元帥,匡復秦、隴,進爵魏昌縣伯,邑五百戶。

儀同の李虎に従い曹泥を破り、鎮南将軍・金紫光禄大夫に任じられ、通直散騎常侍さんきじょうじを加えられ、封邑を増やして前と合わせて一千戸となった。弘農奪還に従い、沙苑の戦いに参加し、いずれも功績があった。また封邑八百戸を増やされ、白水郡守に任じられ、帥都督に転じ、持節を加えられ、済州刺史に任じられた。詔により赫連氏に復姓した。達の勲功と声望が共に高いため、雲州刺史に任じられた。これは本州(出身地)である。爵位を公に進め、大都督に任じられ、まもなく儀同三司を授けられた。

原文 從儀同李虎破曹泥,除鎮南將軍、金紫光祿大夫,加通直散騎常侍,增邑並前一千戶。從復弘農,戰沙苑,皆有功。又增邑八百戶,除〈(泉)〉〔白水〕郡守,轉帥都督,加持節,除濟州刺史。詔復姓赫連氏。以達勳望兼隆,乃除雲州刺史,即本州也。進爵為公,拜大都督,尋授儀同三司。

大将軍の達奚武に従い漢中を攻めた。梁の宜豊侯蕭循が長らく防戦し、後に降伏の意思を示した。達奚武が諸将に進退の方策を問うた。開府の賀蘭願徳らは敵の食糧が尽きたとして、急いで攻め落とすことを望んだ。達は言った。「戦わずして城を得るのは、上策である。その子女を利とし、その財帛を貪るべきではない。兵力を尽くして武力を極めることは、仁者は行わない。しかもその士馬はなお強く、城池はなお堅固である。攻撃して仮に陥落させても、必ずや双方が損害を受けるであろう。もし窮鼠猫を噛むような抵抗があれば、成敗は未だ知れない。況や行軍の道は、全軍を保つことを上とする。」達奚武は言った。「公の言う通りである。」そこで将帥たちにそれぞれ意見を述べさせた。すると開府の楊寛らは皆達の意見に同調し、達奚武は遂に蕭循の降伏を受け入れた。軍が帰還すると、驃騎大将軍・開府儀同三司に昇進し、侍中を加えられ、爵位を藍田県公に進めた。

原文 從大將軍達奚武攻漢中。梁宜豐侯蕭循拒守積時,後乃送款。武問諸將進止之宜。開府賀蘭願德等以其食盡,欲急攻取之。達曰:「不戰而獲城,策之上者。無容利其子女,貪其財帛。窮兵極武,仁者不為。且觀其士馬猶彊,城池尚固,攻之縱克,必將彼此俱損。如其困獸猶鬭,則成敗未可知。況行師之道,以全軍為上。」武曰:「公言是也。」乃命將帥各申所見。於是開府楊寬等並同達議,武遂受循降。師還,遷驃騎大將軍、開府儀同三司,加侍中,進爵藍田縣公。

六官制が初めて建てられると、左遂伯を授けられた。外任として隴州刺史となった。保定の初年、大将軍・夏州総管・三州五防諸軍事に転じた。達は文官ではないが、性質は質朴直情で、法度を遵奉し、鞭撻刑を軽んじ、死刑については重く慎重であった。性質はまた廉潔倹約で、辺境の胡人の民が羊を達に贈ることがあったが、達は異民族を招き入れようと、絹織物で報いた。主司が官物を用いることを請うたが、達は言った。「羊は私の厨房に入り、物は官庫から出るのは、上を欺くことである。」私物の絹を取って与えるよう命じた。識者はその仁恕を称賛した。まもなく爵位を楽川郡公に進めた。建徳二年、位を柱国に進め、薨去した。子の遷が後を嗣いだ。大象年間に位は大将軍・蒲州刺史に至った。

原文 六官初建,授左遂伯。出為隴州刺史。保定初,遷大將軍、夏州總管、三州五防諸軍事。達雖非文吏,然性質直,遵奉法度,輕於鞭撻,而重慎死罪。性又廉儉,邊境胡民或饋達以羊者,達欲招納異類,報以繒帛。主司請用官物,達曰:「羊入我廚,物出官庫,是欺上也。」命取私帛與之。識者嘉其仁恕焉。尋進爵樂川郡公。建德二年,進位柱國,薨。子遷嗣。大象中位至大將軍、蒲州刺史。

韓果は字を阿六抜といい、代の武川の人である。若い頃から驍ぎょう勇雄健で、騎射に優れていた。賀抜岳が西征する際、帳内に引き立てられた。万俟醜奴とその支党を撃ち、転戦数十合、ことごとくこれを破った。膂力は並ぶ者なく、鎧を着て戈を担ぎ、峰嶺を登ることも平らな路を歩くが如く、たとえ数十日百日でも、労とはしなかった。功績により宣威将軍・子都督を授けられた。太祖に従い侯莫陳悦を討って平定し、都督に昇進し、邯鄲県男の爵位を賜った。魏の孝武帝が関中に入ると、爵位を石城県伯に進め、封邑五百戸を与えられた。大統の初年、爵位を公に進め、封邑を増やして前と合わせて一千戸とし、通直散騎常侍を加えられた。

原文 韓果字阿六拔,代武川人也。少驍雄,善騎射。賀拔岳西征,引為帳內。擊万俟醜奴及其枝黨,轉戰數十合,並破之。膂力絕倫,被甲荷戈,升陟峯嶺,猶涉平路,雖數十百日,不以為勞。以功授宣〈(武)〉〔威〕將軍、子都督。從太祖討平侯莫陳悅,遷都督,賜爵邯鄲縣男。魏孝武入關,進爵石〔城〕縣伯,邑五百戶。大統初,進爵為公,增邑通前一千戶,加通直散騎常侍。

果は記憶力が強く、権謀と策略を兼ね備えていた。行くところの山川の形勢を、ことごとく記憶することができた。また敵の虚実を窺い、情状を推し量ることに長け、潜んで溪谷に隠れ間諜になろうとする者がいれば、果は高みに登ってこれを望み、疑わしい場所へ行けば必ず捕獲した。太祖はこれにより果を虞候都督とした。征戦に従うたび、常に斥候騎兵を率い、昼夜巡察し、ほとんど眠らなかった。

原文 果性彊記,兼有權畧。所行之處,山川形勢,備能記憶。兼善伺敵虛實,揣知情狀,有濳匿溪谷欲為間偵者,果登高望之,所疑處,往必有獲。太祖由是以果為虞候都督。每從征行,常領候騎,晝夜巡察,畧不眠寢。

潼関で竇泰を襲撃するのに従い、太祖はその計画に従い、軍は勝利して帰還した。真珠金帯一腰と帛二百匹を賞与され、征虜将軍を授けられた。また弘農奪還に従い、河南城を攻め落とし、郡守一人を捕らえ、功績は最上と評された。沙苑の戦い、河橋の戦いで功績があり、撫軍将軍・銀青光禄大夫を授けられ、封邑九百戸を増やされた。朔州刺史に転じ、安州刺史に転じ、帥都督を加えられた。九年、邙山の戦いに従い、軍が帰還すると、河東郡守に任じられた。また大軍に従い北山で稽胡を破った。胡の地は険阻で、人跡まれであったが、果は進軍して徹底的に討伐し、その種族部落を散らした。稽胡は果の剛健さを恐れ、「翼のある人」と号した。太祖はこれを聞き、笑って言った。「翼のあるという名は、飛将軍に劣るまい。」累進して大都督・車騎大将軍・儀同三司・驃騎大将軍・開府儀同三司となり、外任として宜州刺史となった。前後の功績を記録し、爵位を襃中郡公に進めた。魏の恭帝元年、大将軍を授けられた。賀蘭祥に従い吐谷渾を討ち、功績により別に一子を県公に封じた。武成二年、また軍を率いて稽胡を破り、多くの捕虜を得た。奴婢一百口を賜り、寧州刺史に任じられた。保定三年、少師に任じられ、位を柱国に進めた。四年、尉遅迥に従い洛陽らくようを包囲した。軍が退却する際、果の率いる部隊だけが全軍を保った。天和の初年、華州刺史を授けられ、政治は寛大簡素で、官吏民衆に称えられた。建徳の初年、薨去した。

原文 從襲竇泰於潼關,太祖依其規畫,軍以勝返。賞真珠金帶一腰、帛二百匹,授征虜將軍。又從復弘農,攻拔河南城,獲郡守一人,論功為最。破沙苑,戰河橋,並有功,授撫軍將軍、銀青光祿大夫,增邑九百戶。遷朔州刺史,轉安州刺史,加帥都督。九年,從戰邙山,軍還,除河東郡守。又從大軍破稽胡於北山。胡地險阻,人迹罕至,果進兵窮討,散其種落。稽胡憚果勁健,號為著翅人。太祖聞之,笑曰:「著翅之名,寧減飛將。」累遷大都督、車騎大將軍、儀同三司、驃騎大將軍、開府儀同三司,出為宜州刺史。錄前後功,進爵襃中郡公。魏恭帝元年,授大將軍。從賀蘭祥討吐谷渾,以功別封一子縣公。武成二年,又率軍破稽胡,大獲生口。賜奴婢一百口,除寧州刺史。保定三年,拜少師,進位柱國。四年,從尉遲迥圍洛陽。軍退,果所部獨全。天和初,授華州刺史,為政寬簡,吏民稱之。建德初,薨。

子の明が後を嗣いだ。大象の末年、位は上大将軍・黎州刺史に至った。尉遅迥と共謀し、誅殺された。

原文 子明嗣。大象末,位至上大將軍、黎州刺史。與尉遲迥同謀,被誅。

蔡祐は字を承先といい、その先祖は陳留郡圉県の人である。曾祖父の蔡紹は夏州鎮将となり、高平に移住し、そこで家を定めた。祖父の蔡護は、魏の景明の初年、陳留郡守となった。父の蔡襲は、西州で名声があった。正光年間、万俟醜奴が関中で寇乱を起こすと、襲は賊に背き、妻子を棄てて洛陽に帰った。斉安郡守に任じられた。魏の孝武帝が西遷したとき、なお関東に留まっていた。後にようやく難を抜けて西帰し、平舒県伯の爵位を賜り、岐・夏二州刺史に任じられ、卒去した。原州刺史を追贈された。

原文 蔡祐字承先,其先陳留圉人也。曾祖紹為夏州鎮將,徙居高平,因家焉。祖護,魏景明初,為陳留郡守。父襲,名著西州。正光中,万俟醜奴寇亂關中,襲乃背賊,棄妻子,歸洛陽。拜齊安郡守。及魏孝武西遷,仍在關東。後始拔難西歸,賜爵平舒縣伯,除岐、夏二州刺史,卒。贈原州刺史。

祐は性質聡明で、行いに慎みがあった。襲が賊に背いて東帰したとき、祐は十四歳で、母に仕えて孝行で知られた。成長すると、膂力があり、騎射に巧みであった。太祖が原州におられたとき、召し出されて帳下の親信となった。太祖が夏州に移ると、祐を都督とした。

原文 祐性聰敏,有行檢。襲之背賊東歸也,祐年十四,事母以孝聞。及長,有膂力,便騎射。太祖在原州,召為帳下親信。太祖遷夏州,以祐為都督。

侯莫陳悦が賀拔岳を害した時、諸将は使者を遣わして太祖を迎えた。太祖が赴かんとした時、夏州の首望たる彌姐元進らは密かに異心を抱いていた。太祖は密かにこれを知り、先に蔡祐と謀って元進を捕らえることを議した。祐は言った、「狼子野心、やがては必ず反噬ぜいするであろう。今もし捕縛するならば、殺すに如かず。」太祖は言った、「汝の決断は大なるものなり。」そこで元進らを召し入れて計事を議した。太祖は言った、「隴の賊が逆乱を起こしたので、諸君と力を合わせてこれを討とうと思う。諸君の様子を見ると、どうやら異なる者もいるようだ。」太祖は密かにこの言葉で彼らを動かそうとし、目配せして祐を見た。祐は直ちに外に出て、鎧を着て刀を持ち直ちに入り、目を怒らせて諸人を叱って言った、「朝に謀って夕に異なるとは、これ人たるものか。蔡祐、今日必ず奸人の頭を斬る。」そして剣を手に取り彼らに臨んだ。座中の者は皆叩頭して言った、「どうか選別をお願いします。」祐はそこで元進を叱り斬り、その党類も皆誅殺した。一座は皆戦慄し、敢えて仰ぎ見る者もなかった。そこで諸将と盟を結び、心を一つにして悦を誅することとした。太祖はこれによって彼を重んじるようになった。そして祐に言った、「我は今、汝を子としよう。汝は父として我に仕えよ。」後に悦を討つことに従い、これを破った。

原文 及侯莫陳悅害賀拔岳,諸將遣使迎太祖。將赴,夏州首望彌姐元進等陰有異計。太祖微知之,先與祐議執元進。祐曰:「狼子野心,會當反噬,今若執縛,不如殺之。」太祖曰:「汝大決也。」於是召元進等入計事。太祖曰:「隴賊逆亂,與諸人戮力討之。觀諸人輩似有不同者。」太祖微以此言動之,因目祐。祐即出外,衣甲持刀直入,瞋目叱諸人曰:「與人朝謀夕異,豈是人也!蔡祐今日必斬姦人之頭。」因按劍臨之。舉座皆叩頭曰:「願有簡擇。」祐乃叱元進而斬之,并其黨並伏誅。一坐皆戰慄,不敢仰視。於是與諸將結盟,同心誅悅。太祖以此知重之。乃謂祐曰:「吾今以爾為子,爾其父事我。」後從討悅,破之。

また潼関において魏の孝武帝を迎えることに従った。前後の功績により、萇郷県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。大統初年、寧朔将軍・羽林監を加えられ、まもなく持節・員外散騎常侍となり、爵位を侯に進め、邑一千一百戸を増加された。太祖に従って竇泰を擒え、弘農を回復し、沙苑で戦い、いずれも功績があり、平東将軍・太中大夫を授けられた。

原文 又從迎魏孝武於潼關。以前後功,封萇鄉縣伯,邑五百戶。大統初,加寧朔將軍、羽林監,尋持節、員外散騎常侍,進爵為侯,增邑一千一百戶。從太祖擒竇泰,復弘農,戰沙苑,皆有功,授平東將軍、太中大夫。

また太祖に従って河橋で戦い、祐は下馬して歩戦し、手ずから数人を殺した。左右の者が急変に備えて馬に乗るよう勧めた。祐は怒って言った、「丞相は我を子の如く養ってくださった。今日どうして命を惜しむことがあろうか。」そこで左右十余人を率いて声を揃えて大呼し、多くを殺傷した。敵は彼に後詰がないと見て、遂に十重余りに包囲し、祐に言った、「君は勇士のようである。ただ甲を解いて降参すれば、富貴に事欠くことはないだろう。」祐はこれを罵って言った、「死せる卒め!我が今その首を取れば、自ずから公に封ぜられるのだ。どうして賊の官号を借りる必要があろうか。」そして弓を引き絞って満たし、四方に防いだ。東魏の兵は敢えて近づかず、厚い甲冑に長刀を持つ者を募り、直ちに進んで祐を取らんとした。祐からおよそ三十歩のところで、左右の者が射るよう勧めたが、祐は言った、「我々の命はこの一矢にかかっている。どうして空しく射ることができようか。」敵が次第に近づき、およそ十歩となった時、祐はこれを射て、まさにその顔面に命中させ、弦の響きに応じて倒れたので、直ちに矟で刺し殺した。このため、数度戦い合ったが、ただ一人を失ったのみであった。敵はやや退いた。祐はゆるやかに引き退いた。この戦いにおいて、我が軍は不利であった。太祖は既に還っていた。祐が弘農に至ると、夜中に太祖と相会した。太祖は祐が来たのを見て、その字を呼んで言った、「承先、汝が来たので、我は憂い無し。」太祖は心が驚き、眠ることができず、祐の股を枕にして、ようやく安らかになった。功績により爵位を公に進め、邑三百戸を増加され、京兆郡守を授けられた。

原文 又從太祖戰於河橋,祐乃下馬步鬭,手殺數人。左右勸乘馬以備急卒。祐怒曰:「丞相養我如子,今日豈以性命為念!」遂率左右十餘人,齊聲大呼,殺傷甚多。敵以其無繼,遂圍之十餘重,謂祐曰:「觀君似是勇士,但弛甲來降,豈慮無富貴耶。」祐罵之曰:「死卒!吾今取頭,自當封公,何假賊之官號也。」乃彎弓持滿,四面拒之。東魏人弗敢逼,乃募厚甲長刀者,直進取祐。去祐可三十步,左右勸射之,祐曰:「吾曹性命,在一矢耳,豈虛發哉。」敵人漸進,可十步,祐乃射之,正中其面,應弦而倒,便以矟刺殺之。因此,戰數合,唯失一人。敵乃稍卻。祐徐引退。是戰也,我軍不利。太祖已還。祐至弘農,夜中與太祖相會。太祖見祐至,字之曰:「承先,爾來,吾無憂矣。」太祖心驚,不得寢,枕祐股上,乃安。以功進爵為公,增邑三百戶,授京兆郡守。

九年、東魏の北豫よ州刺史高仲密が州を挙げて来附した。太祖は軍を率いてこれを援け、斉の神武帝と遭遇し、邙山で戦った。祐は当時明光の鉄鎧を着ており、向かうところ敵無しであった。敵は皆「これは鉄の猛獣なり」と言い、皆急いで避けた。まもなく青州刺史を授けられ、原州刺史に転じ、帥都督を加えられ、尋いで大都督に任ぜられた。十三年、父の喪に遭い、喪に服し終えることを請うたが、許されなかった。車騎大将軍・儀同三司に遷り、驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中を加えられ、姓を大利稽氏と賜り、爵位を懐寧郡公に進めた。

原文 九年,東魏〔北〕豫州刺史高仲密舉州來附。太祖率軍援之,與齊神武遇,戰於邙山。祐時著明光鐵鎧,所向無前。敵人咸曰「此是鐵猛獸也」,皆遽避之。俄授青州刺史,轉原州刺史,加帥都督,尋除大都督。十三年,遭父憂,請終喪紀。弗許。遷車騎大將軍、儀同三司,加驃騎大將軍、開府儀同三司、侍中,賜姓大利稽氏,進爵懷寧郡公。

魏の恭帝二年、中領軍となった。六官が建てられると、兵部中大夫を授けられた。江陵が初めて帰附した時、諸蛮が騒動したので、詔により祐は大将軍豆盧寧と共にこれを討平した。三年、大将軍に拝され、後部鼓吹を給された。前後の功績により、邑を増やして以前と合わせて四千戸とし、別に一子を県伯に封じた。太祖が不豫となると、祐は晋公宇文護・賀蘭祥らと共に病に侍った。太祖が崩ずると、祐は悲しみ慕って已まず、遂に気疾を得た。

原文 魏恭帝二年,中領軍。六官建,授兵部中大夫。江陵初附,諸蠻騷動,詔祐與大將軍豆盧寧討平之。三年,拜大將軍,給後部鼓吹。以前後功,增邑并前四千戶,別封一子縣伯。太祖不豫,祐與晉公護、賀蘭祥等侍疾。及太祖崩,祐悲慕不已,遂得氣疾。

孝閔帝が践祚すると、少保に拝された。祐は尉遅綱と共に禁兵を掌り、交替で殿省に直した。当時、帝は司会李植らを信任し、晋公護を謀害しようとしたが、祐は毎度泣いて諫めたが、帝は聞き入れなかった。まもなく帝は廃された。

原文 孝閔帝踐阼,拜少保。祐與尉遲綱俱掌禁兵,遞直殿省。時帝信任司會李植等,謀害晉公護,祐每泣諫,帝不聽。尋而帝廢。

世宗が即位すると、小司馬に拝され、少保は元の如くであった。帝が公子であった時、祐と特に親しく昵懇にしており、この時には礼遇がますます厚くなった。御膳に珍味がある度に、必ずこれを止めて祐に賜い、群臣の朝宴では、毎度別に留め置かれ、あるいは日暮れ夜中にまで及び、松明を列ね笳を鳴らして、祐を宅まで送り届けた。祐は過分に礼遇されることを蒙り、常に病気を理由に辞して避けた。婚姻に至っては、特に勢家と交わることを望まなかった。まもなく本官のまま原州を権鎮した。間もなく宜州刺史を授けられたが、赴任しないうちに、先の気疾が発動し、原州で卒した。時に五十四歳。

原文 世宗即位,拜小司馬,少保如故。帝之為公子也,與祐特相友昵,至是禮遇彌隆。御膳每有異味,輒輟以賜祐;羣臣朝宴,每被別留,或至昏夜,列炬鳴笳,送祐還宅。祐以過蒙禮遇,常辭疾避之。至於婚姻,尤不願交於勢要。尋以本官權鎮原州。頃之,授〈(宣)〉〔宜〕州刺史,未之部,因先氣疾動,卒於原州。時年五十四。

祐は若くして大志を持ち、同郷の李穆と布衣の身分で名声を並べた。かつて互いに言い合った、「大丈夫たるもの、功名を立てて富貴を取るべきであり、どうして久しく貧賤に処することができようか。」言い終わると、各々大笑した。穆とは即ち後の申公である。後になって皆その言う通りとなった。征伐に従う時は、常に包囲を破り敵陣に突入し、士卒の先頭に立った。軍が還る日には、諸将が功を争ったが、祐は終に競うことがなかった。太祖は毎度これを歎じ、かつて諸将に言った、「承先は口に勲功を言わない。孤が代わってその功績を論じ叙べよう。」このように見知られていた。性質は節倹で、得た俸禄は全て宗族に分け与え、身が死んだ日には、家に余財が無かった。使持節・柱国大将軍・大都督・五州諸軍事・原州刺史を追贈された。諡して莊といった。子の正が嗣いだ。官は使持節・車騎大将軍・儀同三司に至った。

原文 祐少有大志,與鄉人李穆,布衣齊名。嘗相謂曰:「大丈夫當建立功名,以取富貴,安能久處貧賤邪!」言訖,各大笑。穆即申公也。後皆如其言。及從征伐,常潰圍陷陣,為士卒先。軍還之日,諸將爭功,祐終無所競。太祖〈(乃)〉〔每〕歎之,嘗謂諸將曰:「承先口不言勳,孤當代其論敘。」其見知如此。性節儉,所得祿皆散與宗族,身死之日,家無餘財。贈使持節、柱國大將軍、大都督、五州諸軍事、原州刺史。諡曰莊。子正嗣。官至使持節、車騎大將軍、儀同三司。

祐の弟の澤は、頗る学問を好み、幹能があった。魏の広平王参軍・丞相府兼記室から起家し、宣威将軍・給事中を加えられた。尉遅迥に従って蜀しょくを平らげ、帥都督を授けられ、安彌県男の爵を賜った。次第に司輅下大夫・車騎大将軍・儀同三司・澧州刺史に遷った。州において賄賂を受け、総管の代王達がその功臣の子弟であることを以て、密かに上奏してこれを赦した。後に䢵州刺史となったが、司馬消難に従わず、害された。

原文 祐弟澤,頗好學,有幹能。起家魏廣平王參軍、丞相府兼記室,加宣〈(武)〉〔威〕將軍、給事中。從尉遲迥平蜀,授帥都督,賜爵安彌縣男。稍遷司輅下大夫、車騎大將軍、儀同三司、澧州刺史。在州受賂,總管代王達以其功臣子弟,密奏貰之。後為〈(邙)〉〔䢵〕州刺史,不從司馬消難,被害。

常善は、高陽の人である。代々豪族であった。父の安成は、魏の正光の末、茹茹が辺境を寇した時、統軍として鎮将慕容勝に従って戦い、これを大破した。当時、破六汗抜陵が乱を起こし、安成を脅迫しようとしたが、従わず、そこで配下を率いて陵を討った。功績により伏波将軍を授けられ、鼓節を給された。後に抜陵と連戦し、陣中に卒した。

原文 常善,高陽人也。世為豪族。父安成,魏正光末,茹茹寇邊,以統軍從鎮將慕容勝與戰,大破之。時破六汗拔陵作亂,欲逼安成。不從,乃率所部討陵。以功授伏波將軍,給鼓節。後與拔陵連戰,卒於陣。

善は、魏の孝昌年中、爾朱栄に従って洛陽に入り、威烈将軍・都督を授けられ、龍驤将軍・中散大夫・直寝を加えられ、房城県男に封ぜられ、邑三百戸を賜った。後に太祖に従って侯莫陳悦を平らげ、天水郡守に任ぜられた。魏の孝武帝が西遷すると、武衛将軍を授けられ、爵位を武始県伯に進め、邑二百戸を増加された。大統初年、平東将軍を加えられ、爵位を侯に進めた。竇泰を擒え、弘農を回復し、沙苑を破り、累ねて戦功があった。使持節・衛将軍に任ぜられ、仮の驃騎大将軍・秦州刺史となった。四年、河橋の戦いに従い、大都督を加えられ、爵位を公に進め、涇州刺史に任ぜられた。茹茹が入寇し、北辺を抄略した時、善は配下を率いてこれを破り、掠めたものを全て奪回した。車騎大将軍・儀同三司に拝され、驃騎大将軍・開府儀同三司・西安州刺史に遷った。蔚州刺史に転じた。頻りに三つの辺境の州に臨み、頗る政績があった。魏の恭帝二年、爵位を永陽郡公に進め、邑二千戸を増加された。

原文 善,魏孝昌中,從爾朱榮入洛,授威烈將軍、都督,加龍驤將軍、中散大夫、直寢,封房城縣男,邑三百戶。後從太祖平侯莫陳悅,除天水郡守。魏孝武西遷,授武衞將軍,進爵武始縣伯,增邑二百戶。大統初,加平東將軍,進爵為侯。擒竇泰,復弘農,破沙苑,累有戰功。除使持節、衞將軍,假驃騎大將軍、秦州刺史。四年,從戰河橋,加大都督,進爵為公,除涇州刺史。屬茹茹入寇,抄掠北邊,善率所部破之,盡獲所掠。拜車騎大將軍、儀同三司,遷驃騎大將軍、開府儀同三司,西安州刺史。轉蔚州刺史。頻莅三蕃,頗有政績。魏恭帝二年,進爵永陽郡公,增邑二千戶。

孝閔帝が践祚すると、大將軍・寧州總管に任ぜられた。保定二年、召されて小司徒しととなった。四年、突厥が兵を出して隋公楊忠とともに東征し、善に応接するよう命じた。五年夏、卒去した。時に六十四歳。使持節・柱國大將軍・大都督・延夏鹽恆燕五州諸軍事・延州刺史を追贈された。子の昇和が後を嗣いだ。先に善の勲功により、儀同三司に任ぜられていた。

原文 孝閔帝踐阼,拜大將軍、寧州總管。保定二年,入為小司徒。四年,突厥出師與隋公楊忠東伐,令善應接之。五年夏,卒,時年六十四。贈使持節、柱國大將軍、大都督、延夏鹽恆燕五州諸軍事、延州刺史。子昇和嗣。先以善勳,拜儀同三司。

辛威は隴西の人である。祖父の大汗は、魏の渭州刺史であった。父の生は、河州四面大都督であった。威が勲功を立てると、大將軍・涼甘等五州刺史を追贈された。

原文 辛威,隴西人也。祖大汗,魏渭州刺史。父生,河州四面大都督。及威著勳,追贈大將軍、涼甘等五州刺史。

威は若くして慷慨たる志を持ち、志略があった。初め賀拔岳に従って征討し功があり、輔國將軍・都督を仮授された。太祖が岳の兵衆を統率すると、威を見て奇異とし、帳内に引き立てた。まもなく羽林監を授けられ、白土縣伯に封ぜられ、邑五百戸を与えられた。魏の孝武帝を迎えるのに従い、回洛城を攻撃して、功績が最も多かった。大統元年、寧遠將軍に任ぜられ、邑を二百戸増加された。累進して通直散騎常侍となり、爵位を侯に進め、邑を三百戸増加された。竇泰を擒えるのに従い、弘農を回復し、沙苑で戦い、いずれも先鋒として敵陣に突入し、勇気は一時に冠たるものがあった。前後の功績により、撫軍將軍・銀青光祿大夫を授けられた。于謹に従って襄城を破った。また獨孤信に従って洛陽に入り、河橋の陣を経て、持節を加えられ、爵位を公に進め、邑を八百戸増加された。五年、揚州刺史を授けられ、大都督を加えられた。十三年、車騎大將軍・儀同三司、驃騎大將軍・開府儀同三司に遷り、姓を普屯氏と賜り、鄜州刺史として出向した。威の時望はすでに重く、朝廷は郷里として栄誉を与え、河州刺史、本州大中正に遷った。頻繁に二鎮を領し、民の和を得ることが多かった。

原文 威少慷慨,有志畧。初從賀拔岳征討有功,假輔國將軍、都督。及太祖統岳之眾,見威奇之,引為帳內。尋授羽林監,封白土縣伯,邑五百戶。從迎魏孝武,因攻回洛城,功居最。大統元年,拜寧遠將軍,增邑二百戶。累遷通直散騎常侍,進爵為侯,增邑三百戶。從擒竇泰,復弘農,戰沙苑,並先鋒陷敵,勇冠一時。以前後功,授撫軍將軍、銀青光祿大夫。從于謹破襄城。又從獨孤信入洛陽,經河橋陣,加持節,進爵為公,增邑八百戶。五年,授揚州刺史,加大都督。十三年,遷車騎大將軍、儀同三司,驃騎大將軍、開府儀同三司,賜姓普〈(毛)〉〔屯〕氏,出為鄜州刺史。威時望既重,朝廷以桑梓榮之,遷河州刺史,本州大中正。頻領二鎮,頗得民和。

閔帝が践祚すると、大將軍に任ぜられ、爵位を枹罕郡公に進め、邑を五千戸増加された。司馬消難が来附すると、威は達奚武とともに兵衆を率いて援け応接した。保定初年、再び兵を率いて丹州の叛胡を討ち、これを破った。三年、達奚武とともに陽関を攻め、これを陥落させた。翌年、尉遲迥に従って洛陽を包囲した。帰還後、小司馬に任ぜられた。天和初年、位を柱國に進めた。また行軍總管となり、綏州・銀州等の諸州の叛胡を討ち、ことごとく平定した。六年、齊王憲に従って東征し、伏龍等五城を陥落させた。建德初年、大司寇に任ぜられた。三年、少傅に遷り、寧州總管として出向した。宣政元年、上柱國に位を進めた。大象二年、宿國公に封ぜられ、邑を前と合わせて五千戸に増加され、再び少傅となった。その年冬、薨去した。時に六十九歳。

原文 閔帝踐阼,拜大將軍,進爵枹罕郡公,增邑五千戶。及司馬消難來附,威與達奚武率眾援接。保定初,復率兵討丹州叛胡,破之。三年,與達奚武攻陽關,拔之。明年,從尉遲迥圍洛陽。還,拜小司馬。天和初,進位柱國。復為行軍總管,討綏、銀等諸州叛胡,並平之。六年,從齊王憲東伐,拔伏龍等五城。建德初,拜大司寇。三年,遷少傅,出為寧州總管。宣政元年,進位上柱國。大象二年,進封宿國公,增邑并前五千戶,復為少傅。其年冬,薨,時年六十九。

威の性質は持重で、威厳があった。官職を歴任すること数十年、未だかつて過失がなく、故に身も名も全うすることができた。またその家門は友誼に厚く、五世同居し、世間はこれをもって称えた。子の永達が後を嗣いだ。大象末年、威の勲功により、儀同大將軍に任ぜられた。

原文 威性持重,有威嚴。歷官數十年,未嘗有過,故得以身名終。兼其家門友義,五世同居,世以此稱之。子永達嗣。大象末,以威勳,拜儀同大將軍。

厙狄昌は字を恃德といい、神武の人である。若くして騎射に熟達し、膂力があった。成長すると、進退に閑雅さがあり、胆気は壮烈で、常に将帥たらんことを自任した。十八歳の時、爾朱天光に引き立てられて幢主となり、討夷將軍を加えられた。天光に従って関中を平定し、功により寧遠將軍・奉車都尉・統軍に任ぜられた。天光が敗れると、また賀拔岳に従った。征西將軍・金紫光祿大夫を授けられた。岳が害されると、昌は諸将と議して太祖を輔戴した。侯莫陳悅を平定するのに従い、陰盤縣子の爵を賜り、衞えい將軍・右光祿大夫を加えられた。

原文 厙狄昌字恃德,神武人也。少便騎射,有膂力。及長,進止閑雅,膽氣壯烈,每以將帥自許。年十八,爾朱天光引為幢主,加討夷將軍。從天光定關中,以功拜寧遠將軍、奉車都尉、統軍。天光敗,又從賀拔岳。授征西將軍、金紫光祿大夫。及岳被害,昌與諸將議翊戴太祖。從平侯莫陳悅,賜爵陰盤縣子,加衞將軍、右光祿大夫。

後に太祖に従って魏の孝武帝を迎え、潼関を回復し、長子縣子に改封され、邑八百戸を与えられた。大統初年、爵位を公に進め、邑を一千戸増加された。竇泰を破るのに従い、車騎將軍・左光祿大夫を授けられた。また弘農を回復し、沙苑で戦うのに従い、昌はいずれも先登して敵陣に突入した。太祖はこれを嘉し、帥都督を授けた。四年、河橋の戦いに従い、冀州刺史に任ぜられた。後に于謹とともに上郡で胡賊の劉平伏を破り、馮翊郡ひょうよくぐん守を授けられた。久しくして、河北郡守に転じた。十三年、前後の功績を録し、大都督・通直散騎常侍を授けられた。また隨公楊忠に従って蛮賊の田社清を破り、昌の功績が最も多く、邑を三百戸増加され、儀同三司に任ぜられた。まもなく開府儀同三司に遷った。十六年、東夏州刺史として出向した。魏の廃帝元年、爵位を方城郡公に進め、邑を前と合わせて四千一百戸に増加された。六官が建てられると、稍伯中大夫を授けられた。孝閔帝が践祚すると、大將軍に任ぜられた。後に病により卒去した。

原文 後從太祖迎魏孝武,復潼關,改封長子縣子,邑八百戶。大統初,進爵為公,增邑一千戶。從破竇泰,授車騎將軍、左光祿大夫。又從復弘農,戰沙苑,昌皆先登陷陣。太祖嘉之,授帥都督。四年,從戰河橋,除冀州刺史。後與于謹破胡賊劉平伏於上郡,授馮翊郡守。久之,轉河北郡守。十三年,錄前後功,授大都督、通直散騎常侍。又從隨公楊忠破蠻賊田社清,昌功為最,增邑三百戶,拜儀同三司。尋遷開府儀同三司。十六年,出為東夏州刺史。魏廢帝元年,進爵方城郡公,增邑并前四千一百戶。六官建,授稍伯中大夫。孝閔帝踐阼,拜大將軍。後以疾卒。

田弘は字を廣畧といい、高平の人である。若くして慷慨たる志を持ち、功名を立てることを志し、膂力は人に優れ、敢勇にして謀略があった。魏の永安年間、万俟醜奴に陥った。爾朱天光が関中に入ると、弘は原州より帰順し、都督を授けられた。

原文 田弘字廣畧,高平人也。少慷慨,志立功名,膂力過人,敢勇有謀畧。魏永安中,陷於万俟醜奴。爾朱天光入關,弘自原州歸順,授都督。

太祖が初めて兵衆を統率すると、弘は謁見を求め、世事を論じ、深く引き入れられ、即座に爪牙の任に処せられた。また魏の孝武帝を迎える功により、鶉陰縣子に封ぜられ、邑五百戸を与えられた。太祖は常に自らの着用していた鉄甲を弘に賜って言った、「天下が定まったならば、この甲を孤に見せよ」と。大統三年、帥都督に転じ、爵位を公に進めた。太祖に従って弘農を回復し、沙苑で戦い、洛陽の包囲を解き、河橋の陣を破り、弘の功績が多く、累次殊賞を蒙り、姓を紇干氏と賜った。まもなく原州刺史を授けられた。弘の勲功と声望が共に至ったため、衣錦の栄誉をもって遇したのである。太祖が同州におられた時、文武の官が並び集まり、そこで言われた、「人々が皆、弘のように心を尽くすならば、天下は早く定まらなかったであろうか」と。即座に車騎大將軍・儀同三司を授けられた。魏の廃帝元年、驃騎大將軍・開府儀同三司を加えられた。

原文 及太祖初統眾,弘求謁見,乃論世事,深被引納,即處以爪牙之任。又以迎魏孝武功,封鶉陰縣子,邑五百戶。太祖常以所著鐵甲賜弘云:「天下若定,還將此甲示孤也。」大統三年,轉帥都督,進爵為公。從太祖復弘農,戰沙苑,解洛陽圍,破河橋陣,弘功居多,累蒙殊賞,賜姓紇干氏。尋授原州刺史。以弘勳望兼至,故以衣錦榮之。太祖在同州,文武並集,乃謂之曰:「人人如弘盡心,天下豈不早定。」即授車騎大將軍、儀同三司。魏廢帝元年,加驃騎大將軍、開府儀同三司。

蜀を平定した後、梁の信州刺史蕭韶等がそれぞれその部を拠り、朝化に従わなかったので、詔により弘がこれを討ち平定した。また西平の叛羌及び鳳州の叛氐等を討ち、ことごとくこれを破った。弘は毎度戦陣に臨むと、鋒を摧いて直ちに前進し、身に百余りの矢を受け、骨を破るものが九箇所、馬に十の矟を受け、朝廷はこれを壮とした。信州の羣蛮が反逆すると、また詔により弘は賀若敦等とともにこれを平定した。孝閔帝が践祚すると、爵位を鴈門郡公に進め、邑は前と合わせて二千七百戸となった。

原文 平蜀之後,梁信州刺史蕭韶等各據所部,未從朝化,詔弘討平之。又討西平叛羌及鳳州叛氐等,並破之。弘每臨陣,摧鋒直前,身被一百餘箭,破骨者九,馬被十矟,朝廷壯之。信州羣蠻反,又詔弘與賀若敦等平之。孝閔帝踐阼,進爵鴈門郡公,邑通前二千七百戶。

保定元年、岷州刺史として出向した。弘は武將ではあったが、行動は法式に遵い、百姓は大いに安んじた。三年、隨公楊忠に従って齊を伐ち、大將軍に任ぜられた。翌年、また忠に従って東征した。軍が帰還すると、鎮守地に戻った。吐谷渾が西辺を寇し、宕昌羌が密かに応接したので、詔により弘がこれを討ち、その二十五王を獲、その七十六柵を抜き、遂にこれを破り平定した。

原文 保定元年,出為岷州刺史。弘雖武將,而動遵法式,百姓頗安之。三年,從隨公楊忠伐齊,拜大將軍。明年,又從忠東伐。師還,乃旋所鎮。吐谷渾寇西邊,宕昌羌濳相應接,詔弘討之,獲其二十五王,拔其七十〈(二)〉〔六〕柵,遂破平之。

天和二年、陳の湘州刺史華皎が来附すると、弘は衞公直に従って赴援した。陳軍と戦い、利あらず、そこで弘を江陵總管とした。陳の将軍吳明徹が来寇すると、弘は梁主蕭巋とともに紀南に退いて守り、副總管の高琳に拒守させ、明徹が退くと、江陵に戻った。まもなく弘を仁壽城主とし、宜陽を威圧させた。齊の将軍段孝先・斛律明月が軍を出して定隴に至り、宜陽の援けとしようとしたので、弘は陳公純とともにこれを破り、遂に宜陽等九城を陥落させた。功により邑を五百戸増加され、位を柱國大將軍に進めた。

原文 天和二年,陳湘州刺史華皎來附,弘從衞公直赴援。與陳人戰,不利,仍以弘為江陵總管。及陳將吳明徹來寇,弘與梁主蕭巋退保〈(總)〉〔紀〕南,令副總管高琳拒守,明徹退,乃還江陵。尋以弘為仁壽城主,以逼宜陽。齊將段孝先、斛律明月出軍定隴以為宜陽援,弘與陳公純破之,遂拔宜陽等九城。以功增邑五百戶,進位柱國大將軍。

建德二年、大司空しくうに任ぜられ、少保に遷った。三年、總管襄郢昌豐唐蔡六州諸軍事・襄州刺史として出向した。州において薨去した。

原文 建德二年,拜大司空,遷少保。三年,出為總管襄郢昌豐唐蔡六州諸軍事、襄州刺史。薨于州。

子の恭が後を嗣いだ。若くして名声があり、早くから顕位を歴任した。大象末年、位は柱國・小司馬に至った。朝廷はまた弘の勲功を追録し、恭の爵位を観國公に進めた。

原文 子恭嗣。少有名譽,早歷顯位。大象末,位至柱國、小司馬。朝廷又追錄弘勳,進恭爵觀國公。

梁椿は字を千年といい、代の人である。祖父の屈朱は、魏の昌平鎮将であった。父の提は、内三郎であった。

原文 梁椿字千年,代人也。祖屈朱,魏昌平鎮將。父提,內〈(正)〉〔三〕郎。

椿は初め統軍として爾朱榮に従い洛陽に入り、また爾朱榮に従って滏口において葛栄を破り、軍功により都將に進めて授けられた。後に賀抜岳に従って万俟醜奴・蕭寶夤らを討ち平らげ、中堅將軍・屯騎校尉こうい・子都督に遷った。普泰の初め、征西將軍・金紫光祿大夫を拝した。二年、高平郡守を除され、盧奴縣男に封ぜられ、邑百戸を賜った。太昌元年、都督に進めて授けられた。太祖に従って侯莫陳悅を平らげ、衞將軍・右光祿大夫を拝した。大統の初め、欒城縣伯に爵を進め、邑五百戸を増やした。出て隴東郡守となった。まもなく公に爵を進め、邑五百戸を増やし、梁州刺史に遷った。弘農回復に従い、沙苑に戦い、獨孤信とともに洛陽に入り、宇文貴に従って東魏の将堯雄らを破り、累ねて戦功があった。車騎大將軍・儀同三司・大都督を授けられた。河橋の戦いに従い、東平郡公に爵を進め、邑一千戸を増やした。俄かに侍中・驃騎大將軍・開府儀同三司に遷った。七年、于謹に従って稽胡の劉平伏を討ち、椿はその別帥劉持塞を擒らえた。また獨孤信に従って岷州の羌梁仚定を討ち、これを破った。清州刺史を除された。州にあっては他に政績はなかったが、夷夏これを安んじた。十三年、李弼に従って潁川に赴き侯景を援けた。別に閻韓鎮を攻め、その鎮城徐衞を斬った。城主卜貴洛が軍士千人を率いて降った。功により邑四百戸を増やした。孝閔帝が践祚すると、華州刺史を除され、清陵郡公に改封され、邑を通前三千七百戸に増やした。二年、入って少保となり、少傅に転じた。保定元年、大將軍を拝した。位において卒した。恆鄜延丹寧五州諸軍事を贈られ、行恆州刺史とし、諡して烈といった。

原文 椿初以統軍從爾朱榮入洛,復從榮破葛榮於滏口,以軍功進授都將。後從賀拔岳討平万俟醜奴、蕭寶夤等,遷中堅將軍、屯騎校尉、子都督。普泰初,拜征西將軍、金紫光祿大夫。二年,除高平郡守,封盧奴縣男,邑一百戶。太昌元年,進授都督。從太祖平侯莫陳悅,拜衞將軍、右光祿大夫。大統初,進爵欒城縣伯,增邑五百戶。出為隴東郡守。尋進爵為公,增邑五百戶,遷梁州刺史。從復弘農,戰沙苑,與獨孤信入洛陽,從宇文貴破東魏將堯雄等,累有戰功。授車騎大將軍、儀同三司、大都督。從戰河橋,進爵東平郡公,增邑一千戶。俄遷侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司。七年,從于謹討稽胡劉平伏,椿擒其別帥劉持塞。又從獨孤信討岷州羌梁仚定,破之。除清州刺史。在州雖無他政績,而夷夏安之。十三年,從李弼赴潁川援侯景。別攻閻韓鎮,斬其鎮城徐衞。城主卜貴洛率軍士千人降。以功增邑四百戶。孝閔帝踐阼,除華州刺史,改封清陵郡公,增邑通前三千七百戶。二年,入為少保,轉少傅。保定元年,拜大將軍。卒於位。贈恆鄜延丹寧五州諸軍事,行恆州刺史,諡曰烈。

椿の性質は果断にして剛毅、撫で納めることを善くし、得た賞賜の品物を麾下に分け与えたので、敵陣に臨むごとに、皆その死力を得たのである。雅に倹素を好み、資産を営まず、当時の論はこれをもって称えた。

原文 椿性果毅,善於撫納,所獲賞物,分賜麾下,故每踐敵場,咸得其死力。雅好儉素,不營貲產,時論以此稱焉。

子の明は、魏の恭帝二年、椿の功により爵を襲い豊陽縣公となった。まもなく大都督を授けられ、車騎大將軍・儀同三司・散騎常侍に遷り、小吏部を治め、小御伯・御正下大夫を歴任した。保定五年、詔により椿の爵を襲い、旧封は弟の朗に回授された。天和の中、楽陵郡公に改封され、上州刺史を除され、邑を通前四千三百戸に増やした。

原文 子明,魏恭帝二年,以椿功襲爵豐陽縣公。尋授大都督,遷車騎大將軍、儀同三司、散騎常侍,治小吏部,歷小御伯、御正下大夫。保定五年,詔襲椿爵,舊封回授弟朗。天和中,改封樂陵郡公,除上州刺史,增邑并前四千三百戶。

梁臺は字を洛都といい、長池の人である。父の去斤は、魏の献文帝の時に隴西郡守であった。

原文 梁臺字洛都,長池人也。父去斤,魏獻文時為隴西郡守。

臺は少より果敢で、志操があった。孝昌の中、爾朱天光に従って関・隴を討ち平らげ、一年のうちに大小二十余戦し、功により子都督を授けられ、隴城郷男の爵を賜った。普泰の初め、都督に進めて授けられた。後に侯莫陳悅に隷属して南秦州の群盗を討ち、これを平らげた。悅は臺を仮節・衞將軍・左光祿大夫と上表し、隴城縣男に封を進め、邑二百戸を賜った。まもなく天水郡の事を行い、趙平郡の事を行いに転じた。頻りに郡を治め、頗る声績があった。間もなく、天光は臺を追い還し、帳内に引き入れた。天光が寒陵で敗れると、賀抜岳また心膂として引き入れた。

原文 臺少果敢,有志操。孝昌中,從爾朱天光討平關、隴,一歲之中,大小二十餘戰,以功授子都督,賜爵隴城鄉男。普泰初,進授都督。後隸侯莫陳悅討南秦州羣盜,平之。悅表臺為假節、衞將軍、左光祿大夫,進封隴城縣男,邑二百戶。尋行天水郡事,轉行趙平郡事。頻治郡,頗有聲績。未幾,天光追臺還,引入帳內。及天光敗於寒陵,賀拔岳又引為心膂。

岳が侯莫陳悅に害されると、臺は諸将と議して太祖を翊戴した。悅を討つに従い、これを破った。また天水郡守を拝した。大統の初め、また趙平郡守を除された。また太僕の石猛とともに両山の屠各を破り、詔により邑一百戸を増やし、平涼郡守に転じた。時に莫折後熾が軽剽の徒を結集し、居民を寇掠した。州刺史の史寧がこれを討ったが、時を経ても勝てなかった。臺は賊の形勢を陳べ、兼ねて攻取の策を論じ、寧は善しとしてこれに従い、遂に賊徒を破った。また于謹とともに劉平伏を破った。前後の勲功を録し、潁州刺史を授けられ、賀蘭氏の姓を賜った。玉壁救援に従い、邙山に戦い、帥都督を授けられた。大統十五年、南夏州刺史を拝し、通直散騎常侍・本州大中正を加えられ、邑二百戸を増やした。魏の廃帝二年、使持節・車騎大將軍・儀同三司に遷り、驃騎大將軍・開府儀同三司に進み、侍中を加えられた。

原文 岳為侯莫陳悅所害,臺與諸將議翊戴太祖。從討悅,破之。又拜天水郡守。大統初,復除趙平郡守。又與太僕石猛破兩山屠各,詔增邑一百戶,轉平涼郡守。時莫折後熾結聚輕剽,寇掠居民。州刺史史寧討之,歷時不克。臺陳賊形勢,兼論攻取之策,寧善而從之,遂破賊徒。復與于謹破劉平伏。錄前後勳,授潁州刺史,賜姓賀蘭氏。從援玉壁,戰邙山,授帥都督。大統十五年,拜南夏州刺史,加通直散騎常侍、本州大中正,增邑二百戶。魏廢帝二年,遷使持節、車騎大將軍、儀同三司,進驃騎大將軍、開府儀同三司,加侍中。

孝閔帝が践祚すると、中部縣公に爵を進め、邑を通前一千戸に増やした。武成の中、賀蘭祥に従って洮陽を征し、先登の功があり、別に綏安縣侯に封ぜられ、邑一千戸を賜った。詔によりその子の元慶に転授することを聴された。

原文 孝閔帝踐阼,進爵中部縣公,增邑通前一千戶。武成中,從賀蘭祥征洮陽,先登有功,別封綏安縣侯,邑一千戶。詔聽轉授其子元慶。

保定四年、大將軍を拝した。時に大軍は洛陽を囲んだが、久しくして抜けなかった。齊の騎兵が奄に至り、齊公の憲が兵を率いてこれを防いだ。数人の者が敵に捕らえられ、既に陣を去ること二百余歩、臺はこれを見て憤怒し、単騎で突入し、二人を射殺すと、敵は皆披靡し、捕らわれた者は遂に還ることができた。齊公の憲は毎に歎じて言うには、「梁臺は果毅にして胆決、及ぶべからざるものなり」と。五年、鄜州刺史を拝した。

原文 保定四年,拜大將軍。時大軍圍洛陽,久而不拔。齊騎奄至,齊公憲率兵禦之。乃有數人為敵所執,已去陣二百餘步,臺望見之,憤怒,單馬突入,射殺兩人,敵皆披靡,執者遂得還。齊公憲每歎曰:「梁臺果毅膽決,不可及也。」五年,拜鄜州刺史。

臺の性質は疏通で、己を恕して物に接した。民に臨み政を処するに至っては、特に仁愛を心とした。千余字を識るに過ぎなかったが、口占して書啓を作れば、辞意観るべきものがあった。年六十を過ぎても、なお甲を被り馬に跨り、足は鐙を躡まず。馳射弋獵すれば、矢虚しく発することなし。後に疾により卒した。

原文 臺性疏通,恕己待物。至於蒞民處政,尤以仁愛為心。不過識千餘字,口占書啟,辭意可觀。年過六十,猶能被甲跨馬,足不躡鐙。馳射弋獵,矢不虛發。後以疾卒。

宇文測は字を澄鏡といい、太祖の族子である。高祖こうそは中山、曾祖は豆頽、祖は騏驎、父は永、魏に仕え、位は皆顕達であった。

原文 宇文測字澄鏡,太祖之族子也。高祖中山、曾祖豆頹、祖騏驎、父永,仕魏,位並顯達。

測の性質は沈密で、少より篤く学び、毎旬月戸牖を窺わなかった。奉朝請・殿中侍御史より起家し、累遷して司徒右長史・安東將軍となった。宣武帝の女の陽平公主を尚し、駙馬都尉を拝した。魏の孝武帝が齊の神武帝に異図あるを疑うと、詔して測を太祖のもとに詣らせ、密かに備えをなすべしと言わしめた。太祖はこれを見て甚だ歓んだ。還るに使わしめ、広川県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。まもなく孝武帝に従って西遷し、公に爵を進められた。

原文 測性沉密,少篤學,每旬月不窺戶牖。起家奉朝請、殿中侍御史,累遷司徒右長史、安東將軍。尚宣武女陽平公主,拜駙馬都尉。及魏孝武疑齊神武有異圖,詔測詣太祖言,令密為之備。太祖見之甚歡。使還,封廣川縣伯,邑五百戶。尋從孝武西遷,進爵為公。

太祖が丞相となると、測を右長史とし、軍国の政事は多くこれを委任した。また測に命じて宗室の昭穆の遠近を詳定し、属籍に附せしめた。通直散騎常侍・黄門侍郎を除された。

原文 太祖為丞相,以測為右長史,軍國政事,多委任之。又令測詳定宗室昭穆遠近,附於屬籍。除通直散騎常侍、黃門侍郎。

大統四年、侍中・長史を拝した。六年、事に坐して免ぜられた。まもなく使持節・驃騎大將軍・開府儀同三司・大都督・行汾州事を除された。測の政は簡恵を存し、頗る民和を得た。地は東魏に接し、数相鈔窃し、あるいはその寇となる者を獲れば、多く縛してこれを送った。測は皆命じて縛を解き、賓館に置き、然る後に引きいて相見え、客礼のごとくせしめた。なお酒肴を設けて宴労し、その国に放還し、併せて糧餼を与え、衛送して出境せしめた。ここより東魏人は大いに慙じ、乃ち寇と為さず。汾・晋の間、各その業を安んじた。両界の民は、遂に慶弔を通じ、復た仇讐と為さず。時の論はこれを称え、羊叔子に方せしめた。ある者が測が外境と交通し、貳心を懐く者ありと告げた。太祖は怒って言うには、「測は我がために辺を安んず、吾その貳志なきを知る、何ぞ我が骨肉を間し、この貝錦を生ぜしむるや」と。乃ち命じてこれを斬らしめた。なお測に便宜従事を許した。

原文 大統四年,拜侍中、長史。六年,坐事免。尋除使持節、驃騎大將軍、開府儀同三司、大都督、行汾州事。測政存簡惠,頗得民和。地接東魏,數相鈔竊,或有獲其為寇者,多縛送之。測皆命解縛,置之賓館,然後引與相見,如客禮焉。仍設酒餚宴勞,放還其國,并給糧餼,衞送出境。自是東魏人大慙,乃不為寇。汾、晉之間,各安其業。兩界之民,遂通慶弔,不復為仇讐矣。時論稱之,方於羊叔子。或有告測與外境交通,懷貳心者。太祖怒曰:「測為我安邊,吾知其無貳志,何為間我骨肉,生此貝錦!」乃命斬之。仍許測以便宜從事。

八年、金紫光祿大夫を加えられ、行綏州事に転じた。毎歳河の冰合した後、突厥は即ち来たり寇掠し、先には常に預め居民を遣わして城堡に入り以てこれを避けしめた。測の至ると、皆安堵して旧のごとくならしめた。乃ち要路数百箇所に並びに多く柴を積み、なお遠く斥候を置き、その動静を知った。この年の十二月、突厥は連谷より入寇し、界を去ること数十里。測は柴を積むところに命じ、一時に火を放たしめた。突厥は大軍の至るありと謂い、懼れて遁走し、自ら相蹂踐し、雑畜及び輜重を委棄すること数え勝たず。測は徐ろに率いる所の部を以てこれを収め、百姓に分け与えた。ここより突厥は敢えて復た至らず。測は因りて戍兵を置き以てこれを備えることを請うた。

原文 八年,加金紫光祿大夫,轉行綏州事。每歲河冰合後,突厥即來寇掠,先是常預遣居民入城堡以避之。測至,皆令安堵如舊。乃於要路數百處並多積柴,仍遠斥候,知其動靜。是年十二月,突厥從連谷入寇,去界數十里。測命積柴之處,一時縱火。突厥謂有大軍至,懼而遁走,自相蹂踐,委棄雜畜及輜重不可勝數。測徐率所部收之,分給百姓。自是突厥不敢復至。測因請置戍兵以備之。

十年、召されて太子少保に任ぜられる。十二年十月、任中に卒す。時に年五十八。太祖は傷悼し、親しく臨み慟哭す。乃ち水池公宇文護に命じて喪事を監護せしむ。本官を追贈し、諡して靖と曰う。

原文 十年,徵拜太子少保。十二年十月,卒於位,時年五十八。太祖傷悼,親臨慟焉。仍令水池公護監護喪事。贈本官,諡曰靖。

宇文測は性質仁恕にして、施し与えることを好み、衣食の外、家に蓄積無し。洛陽に在りし日、嘗て窃盗に遭い、失いし物は即ち其の妻陽平公主の衣服なり。州県盗賊を擒え、併せて物も俱に獲たり。測は此の盗賊が死を以て坐せられるを恐れ、乃ち認めざりき。遂に赦に遇い免るるを得たり。盗賊既に恩を感ずるや、因りて請うて測の左右たらんとす。及び測が魏の孝武帝に従い西遷するに及び、事極めて狼狽すれども、此人も亦測に従い関に入り、竟に異志無かりき。子の該嗣ぐ。内外の官を歴任し、位は上開府儀同三司・臨淄県公に至る。測の弟に深あり。

原文 測性仁恕,好施與,衣食之外,家無蓄積。在洛陽之日,曾被竊盜,所失物,即其妻陽平公主之衣服也。州縣擒盜,并物俱獲。測恐此盜坐之以死,乃不認焉。遂遇赦得免。盜既感恩,因請為測左右。及測從魏孝武西遷,事極狼狽,此人亦從測入關,竟無異志。子該嗣。歷官內外,位至上開府儀同三司、臨淄縣公。測弟深。

弟 深

原文 弟 深

深は字を奴干とす。性質鯁正にして、器局有り。年数歳にして、便ち石を累ねて営伍と為し、併せて草を折りて旌旗と作り、行列を布置するに、皆軍陣の勢有り。父の永之に遇い、乃ち大いに喜びて曰く、「汝自然に此れを知る、後に必ず名将と為らん」と。

原文 深字奴干。性鯁正,有器局。年數歲,便累石為營伍,并折草作旌旗,布置行列,皆有軍陣之勢。父永遇見之,乃大喜曰:「汝自然知此,於後必為名將。」

永安の初めに至り、起家して秘書郎と為る。時に群盗蜂起す。深は屡々時事を言い、爾朱栄は雅く之を知りて重んず。厲武将軍を拝す。尋いで車騎府主簿を除く。三年、子都督を授けられ、宿衛の兵卒を領す。及び斉の神武帝兵を挙げて洛に入り、孝武帝西遷す。事既に倉卒に起こり、人多く逃散すれども、深は撫循して其の部をし、並びに関に入るを得しむ。功を以て爵を長楽県伯と賜う。

原文 至永安初,起家祕書郎。時羣盜蜂起,深屢言時事,爾朱榮雅知重之。拜厲武將軍。尋除車騎府主簿。三年,授子都督,領宿衞兵卒。及齊神武舉兵入洛,孝武西遷。既事起倉卒,人多逃散,深撫循所部,並得入關。以功賜爵長樂縣伯。

太祖は深に謀略有るを以て、左右に引致し、政事を図議せんと欲す。大統元年、乃ち啓して丞相府主簿と為し、朱衣直閤を加う。尋いで転じて尚書直事郎中と為る。

原文 太祖以深有謀略,欲引致左右,圖議政事。大統元年,乃啟為丞相府主簿,加朱衣直閤。尋轉尚書直事郎中。

及び斉の神武帝蒲坂に屯し、其の将竇泰を分遣して潼関に趣かしめ、高敖曹に洛州を囲ましむ。太祖将に泰を襲わんとし、諸将皆之を難しむ。太祖乃ち其の事を隠し、陽に謀無き者の如くして、独り深に策を問う。対えて曰く、「竇氏は、高歓の驍将なり。頑凶にして勇み、戦い亟に勝ちて軽敵す。歓は毎之を仗り、以て侮を禦ぐと為す。今者大軍若し蒲坂に就かば、則ち高歓拒守し、竇泰必ず之を援け、内外敵を受け、敗を取るの道なり。軽鋭の卒を選び、潜かに小関を出づるに如かず。竇は性躁急なれば、必ず来りて決戦せん。高歓は持重なれば、未だ即ち之を救わず、則ち竇は擒う可し。既に竇氏を虜うれば、歓の勢自ずから沮む。師を回して之を禦えば、以て勝を制す可し」と。太祖喜びて曰く、「是れ吾が心なり」と。軍遂に行く。果たして泰を獲、而して斉の神武帝も亦退く。深又太祖に説きて弘農を進取せしめ、復た之を克つ。太祖大いに悦び、深に謂いて曰く、「君は即ち吾が家の陳平なり」と。

原文 及齊神武屯蒲坂,分遣其將竇泰趣潼關,高敖曹圍洛〈(陽)〉〔州〕。太祖將襲泰,諸將咸難之。太祖乃隱其事,陽若未有謀者,而獨問策於深。對曰:「竇氏,歡之驍將也,頑凶而勇,戰亟勝而輕敵,歡每仗之,以為禦侮。今者大軍若就蒲坂,則高歡拒守,竇泰必援之,內外受敵,取敗之道也。不如選輕銳之卒,濳出小關。竇性躁急,必來決戰,高歡持重,未即救之,則竇可擒也。既虜竇氏,歡勢自沮。回師禦之,可以制勝。」太祖喜曰:「是吾心也。」軍遂行,果獲泰而齊神武亦退。深又說太祖進取弘農,復克之。太祖大悅,謂深曰:「君即吾家之陳平也。」

是の冬、斉の神武帝又大衆を率い河を度り洛に渉り、沙苑に至る。諸将皆懼色有り、唯だ深独り賀す。太祖之を詰む。曰く、「賊来りて充斥す、何の賀する有らんや」と。対えて曰く、「高歓の河北を撫するや、甚だ衆心を得たり。智謀乏しと雖も、人皆命を用う。此を以て自ら守れば、未だ図り易き可からず。今懸軍して河を度るは、衆の欲する所に非ず。唯だ歓は竇氏を失いしを恥じ、諫を愎いて来る。所謂忿兵、一戦して以て擒う可し。此事昭然として見る可し。賀せざるを何と為さん。請う深に一節を仮し、王羆の兵を発して、其の走路を邀え、類を遺さしむること無からしめん」と。太祖之を然りとす。尋いで大いに斉の神武帝の軍を破る。深の策く所の如し。

原文 是冬,齊神武又率大眾度河涉洛,至於沙苑。諸將皆有懼色,唯深獨賀。太祖詰之,曰:「賊來充斥,何賀之有?」對曰:「高歡之撫河北,甚得眾心,雖乏智謀,人皆用命,以此自守,未易可圖。今懸師度河,非眾所欲,唯歡恥失竇氏,愎諫而來。所謂忿兵,一戰可以擒也。此事昭然可見,不賀何為。請假深一節,發王羆之兵,邀其走路,使無遺類矣。」太祖然之。尋而大破齊神武軍,如深所策。

四年、河橋の戦いに従う。六年、別に李弼の軍を監し、白額稽胡を討ち、並びに戦功有り。俄に爵を進めて侯と為し、通直散騎常侍・東雍州別駕・使持節・大都督・東雍州刺史を歴任す。深は政を為すに厳明にして、民に信を以て示し、豪右を抑挫し、吏民之を懐く。十七年、入りて雍州別駕と為る。魏の恭帝二年、車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍に進む。六官建つや、小吏部下大夫を拝す。

原文 四年,從戰河橋。六年,別監李弼軍討白額稽胡,並有戰功。俄進爵為侯,歷通直散騎常侍、東雍州別駕、使持節、大都督、東雍州刺史。深為政嚴明,示民以信,抑挫豪右,吏民懷之。十七年,入為雍州別駕。魏恭帝二年,進車騎大將軍、儀同三司、散騎常侍。六官建,拜小吏部下大夫。

孝閔帝禅を受く。位を進めて驃騎大将軍・開府儀同三司と為し、吏部中大夫に遷る。武成元年、豳州刺史を除かれ、安化県公に改封さる。二年、召されて宗師大夫に拝され、転じて軍司馬と為る。保定の初め、京兆尹を除かる。入りて司会中大夫と為る。

原文 孝閔帝受襌,進位驃騎大將軍、開府儀同三司,遷吏部中大夫。武成元年,除〈(幽)〉〔豳〕州刺史,改封安化縣公。二年,徵拜宗師大夫,轉軍司馬。保定初,除京兆尹。入為司會中大夫。

深は少くして父に喪い、兄に事うること甚だ謹みたり。性質奇譎多く、兵書を読むを好む。既に近侍に在りては、毎に籌策を進む。及び選曹に在りては、頗る時の誉を得たり。性質仁愛にして、情宗党に隆し。従弟の神挙・神慶は幼くして孤なり。深之を撫訓し、義均しく同気の如し。世も亦此を以て之を称す。天和三年、任中に卒す。使持節・少師・恆雲蔚三州刺史を追贈し、諡して成康と曰う。子の孝伯は、自ら伝有り。

原文 深少喪父,事兄甚謹。性多奇譎,好讀兵書。既在近侍,每進籌策。及在選曹,頗獲時譽。性仁愛,情隆宗黨。從弟神〈(譽)〉〔舉〕、神慶幼孤,深撫訓之,義均同氣,世亦以此稱焉。天和三年,卒於位。贈使持節、少師、恆雲蔚三州刺史,諡曰成康。子孝伯,自有傳。

史臣曰わく、太祖は禍乱の辰に属し、征伐を以て海内を定む。大なるは則ち兵を連ねて百万、存亡に係り、小なるは則ち転戦して辺亭に及び、旬月を闕かず。是を以て人に少長無く、士に賢愚無く、筆を投げて功を要し、戈を横たえて奮いを請わざる莫し。若し夫れ数将の者は、並びに翼を攀じて雲漢に昇り、績を屯夷に底す。運移り年世を経と雖も、而して名は終始に成る。美しいかな。赫連達の先識を以てし、而して之に仁恕を加う。蔡祐の敢勇を以てし、而して之を終わるに不伐を以てす。斯れ豈に企及の致す所ならんや、抑も亦天性なり。宇文測の昆季は、政績謀猷、咸く述ぶる可き有り。其れ当時の良臣か。

原文 史臣曰:太祖屬禍亂之辰,以征伐定海內,大則連兵百萬,繫以存亡,小則轉戰邊亭,不闋旬月。是以人無少長,士無賢愚,莫不投筆要功,橫戈請奮。若夫數將者,並攀翼雲漢,底績屯夷,雖運移年世,而名成終始,美矣哉!以赫連達之先識,而加之以仁恕;蔡祐之敢勇,而終之以不伐。斯豈企及所致乎,抑亦天性也。宇文測昆季,政績謀猷,咸有可述,其當時之良臣歟。