周書
卷二十六 列傳第十八 長孫儉 長孫紹遠 弟澄 兄子兕 斛斯徵
長孫儉は、河南洛陽の人である。本名は慶明といった。その祖先は、魏の支族で、姓は托拔氏であった。孝文帝が洛陽に遷都した際、長孫と改めた。五世の祖の嵩は、魏の太尉・北平王であった。
儉は若い頃より方正で、操行があり、姿形は魁偉、神彩は厳粛であり、私室に在る時も、終日儼然としていた。性来、軽々しく交際せず、志を同じくする者でなければ、たとえ貴遊の者が門を訪れても、相見えようとはしなかった。孝昌年間 (525–527) 、員外散騎侍郎として出仕し、爾朱天光に従って隴右を平定した。太祖 (宇文泰) が夏州に臨んだ時、儉を録事に任じ、深く器重し敬った。賀拔岳が害されると、太祖は平涼に赴き、凡そ経綸謀策あるごとに、儉は皆参与した。侯莫陳悦を平定するに従い、儉を留めて秦州長史とした。当時、西夏州は未だ内属せず、東魏が許和を刺史として派遣していたが、儉が信義をもってこれを招くと、和は遂に州を挙げて帰附した。即座に儉を西夏州刺史とし、三夏州を統轄させた。
当時、荊州・襄州は帰附したばかりであり、太祖は儉の功績が特に優れているとして上表し、東南の任に委ねるべしとし、荊州刺史・東南道行臺僕射を授けた。管轄下の鄭県令の泉璨が民に訴えられ、推問して事実を得た。儉は直ちに大いに僚属を集めて言った。「これは刺史たる私の教誨が明らかでなく、信が物に及ばぬ故である。私の過ちであって、泉璨の罪ではない。」そして、庁事の前で、肌脱ぎになって自ら罰し、璨を赦して問わなかった。これにより、属城は粛然として励み、法を犯す者はいなくなった。魏の文帝は璽書を下して労った。太祖もまた儉に書を送り、「近く行路の者が伝えるには、公が管内の県令に罪があるとして、自ら杖三十を加え、群下を粛正したという。私は昔、『王臣謇謇、匪躬之故』と聞いたが、それは公事を憂え私を忘れ、知ることは為さざるなし、というに過ぎない。公のように己の身を刻み罰して群僚を訓えるようなことは未だ聞いたことがない。聞いて嘉し嘆賞する。」荊蛮の旧俗は、年少者が年長者を敬わぬものであった。儉は殷勤に勧導し、風俗は大いに改まった。耕作と養蚕を広め、兼ねて武事を習わせたので、辺境に憂いなく、民はその業に安んじた。吏民が上表して儉のために清徳楼を建て、碑を立てて頌を刻むことを請うた。朝議はこれを許した。州にあって遂に七年を経た。
召し出されて大行臺尚書を授けられ、兼ねて相府司馬となった。かつて諸公と共に太祖に侍坐したことがあり、退出した後、太祖は左右に言った。「この公は閑雅である。孤が語る毎に、常に肅然として畏敬し、何か失うことがあってはならぬと恐れる。」ある日、太祖は儉に言った。「名と実は理に須らく相称すべきである。尚書は既に貧素に安んずる志がある。名を儉と改め、雅操を顕わすがよい。」
また行臺僕射・荊州刺史に任じられた。当時、梁の岳陽王蕭詧が内附し、初めて使者を朝に遣わし、荊州に至った。儉は庁事に軍儀を列ね、戎服を具え、使者と賓主の礼をもって相見えた。儉の容貌は魁偉、音声は鐘の如く、大いに鮮卑語を話し、人を遣わして通訳させて客に問うた。客は惶恐として仰ぎ見ることを敢えなかった。日が暮れて、儉は帬襦と紗帽を着け、客を別齋に導いて宴を開いた。梁国の喪乱と、朝廷が招き携える意を述べるに、発言は見るべきものがあった。使者は大いに喜んだ。退出して言うには、「私の測り知れぬところである。」
梁の元帝が江陵で即位すると、外には隣国との和睦を厚くし、内には異なる計略を抱いていた。儉は密かに太祖に啓上し、攻め取る謀略を陳べた。そこで儉を召し入朝させ、その経略を問うた。儉は答えて言った。「今、江陵は既に江北にあり、我が国から遠くない。湘東王 (元帝) が即位して、既に三年を経ている。その形勢を観るに、東下する意思はない。骨肉相い争い、民はその毒に厭いている。荊州の軍資器械は、儲積すること久しい。もし大軍をもって西討すれば、必ずや匱乏の憂いはあるまい。かつ、弱きを兼ね昧きを攻むるは、武の善き経なり。国家は既に蜀土を有している。もし更に江漢を平定し、撫でて安んじ、その貢賦を収めて軍国に供すれば、天下を定めるに足りる。」太祖は深く然りとし、儉に言った。「公の言う如くならば、我が取るの遅きに過ぎる。」儉に州に還り、密かに備えを為すことを命じた。間もなく柱国・燕公于謹に命じて軍衆を総べさせ江陵を伐たせた。平定後、儉が元来の献策者であったので、奴婢三百口を賞賜した。太祖は儉に書を送り、「元来江陵を図ったのは、公の画策によるものであり、今果たして言う如くとなった。智者は未だ萌さざるを見る、なんと妙なることか。但し、呉の民は離散しており、事は招き懐けるに藉る。南服の重鎮は、公でなければならぬ。」遂に儉に江陵を鎮守させた。爵を昌寧公に進め、大將軍に遷り、鎮所を荊州に移し、五十二州を総管した。
儉はかつて朝廷に詣でて事を奏上したことがあり、時に大雪に遭い、遂に雪中立って返報を待ち、朝から暮れに至るまで、終に怠惰な容色はなかった。その公事に奉ずる勤勉さは、皆この類いであった。三年 (557?) 、病により京に還る。夏州総管となり、薨じた。遺啓を世宗に残し、太祖の陵の側に葬ることを請い、併せて官より賜わった邸宅を官に還すことを求めた。詔は皆これに従った。鄶公を追封された。荊州の民で儀同の趙超ら七百人は、儉の遺愛に感じ、朝廷に詣でて儉のために廟を立て碑を建てることを請うた。詔はこれを許した。詔して曰く、「昔、叔敖は沃壤の地を辞し、蕭何は窮僻の郷に就く。古を以て今に方うれば、曩哲に慙じる所なし。言を尋ねて嘉尚し、懐いを忘れず。然るに有司は大體に達せず、遽かにその邸宅を直ちに外に給する。今、その妻子に還す。」子に隆がある。
長孫紹遠は字を師といい、河南洛陽の人である。幼名は仁といった。父の稚は、魏の太師・録尚書・上黨王であった。
紹遠の性格は寛容で、大度があり、望むに儼然として、朋友も敢えて褻狎しなかった。雅に墳籍を好み、聡慧にして人に過ぎた。時に稚が寿春の牧となった時、紹遠は幼く、年わずか十三歳であった。稚の管記の王碩は紹遠の強記ぶりを聞き、心の中でそうではないと思った。そこで稚に申し上げて言った。「伏して承るに、世子の聰慧の姿は天性より発し、目に一見したものは、口に誦するという。これは歴世にも稀なことです。窃かにこれを験したいと願います。」そこで稚は紹遠に試させた。月令を数紙読み、たった一遍で、流れるように誦した。これより碩は歎服した。
魏の孝武帝の初め、累遷して 司徒 右長史となった。斉の神武帝 (高歓) が兵を挙げて帝が西遷すると、紹遠は稚に従って奔赴した。また累遷して殿中尚書・録尚書事となった。太祖は常に諸公に言った。「長孫公を任用する所では、人に反顧の憂い無からしむ。漢の蕭何・寇恂など、何ぞ多く言わんや。然しその容止堂堂たるは、まさに当今の模楷と為すに足る。」六官が建てられると、大司楽に拝された。孝閔帝が践祚すると、上黨公に封ぜられた。
初め、紹遠は太常となり、広く工人を召し、楽器を造り、土木絲竹、各々その宜しきを得た。黄鐘が調わず、紹遠は常にこれを気にかけていた。かつて退朝の際、韓使君の仏寺の前を通り過ぎると、浮図の三層の上に、鳴る鐸があった。忽ちその音を聞き、雅やかに宮調に合うので、取って合わせて奏すると、ようやく調和した。紹遠は世宗に上奏してこれを行わせた。紹遠の奏する楽は、八を数とした。故に梁の黄門侍郎裴正が上書し、昔、大舜は七始を聞かんと欲し、下って周の武王に至り、七音を創始したという。林鐘を持って黄鐘とし、正調の首と為すべきであるとした。詔して紹遠と詳しく議論を往復させ、ここに遂に八を数と定めた。小 司空 を授かった。高祖が史書を読み、武王が殷を克ちて七始を作ったことを見、また八を廃して七を懸け、併せて黄鐘の正宮を除き、林鐘を調首と用いんと欲した。紹遠は奏上して云う、「天子が八を懸けるのは、先民より始まり、百王が共に軌を同じくし、万世不易である。下って周の武王に至り、初めて七始の音を修めた。諸々の経義を詳らかにするに、また八を廃する典は無い。且つ黄鐘は君に当たり、天子の正位である。今これを廃せんと欲するは、その可なるを見ざるなり」。後に高祖は竟に七音を行った。時に紹遠は疾に遭い、面陳するを得ず、役人が急いで楽器を損なうことを慮り、乃ち書を楽部の斉樹之に与えた。 (欠) 後に疾甚だしく、乃ち遺表を上りてまたこれを陳べて卒した。帝は表を省みて涕を零し、深く痛惜した。
澄は字を士亮という。十歳の時、 司徒 李琰之これを見て奇とし、遂に女を妻とせしめた。十四歳で征討に従い、策謀有り、勇は諸将に冠たる。長ずるに及び、容貌魁岸、風儀温雅たり。魏の孝武帝の初め、征東将軍・渭州刺史を除された。
魏の文帝は嘗て太祖及び群公と宴し、従容として言う、「孝経一卷は、人の行う本なり。諸公は宜しく各々要言を引きべし」。澄は声に応じて曰く、「夙夜匪懈、以て一人に事う」。座中に人次いで曰く、「其の悪を匡救す」。既に出閤して、太祖は深く澄の機に合うを歎じ、而して次いで答うる者を譴した。
後に太祖に従って玉壁を援け、また邙山に戦い、位を進めて驃騎大将軍・開府となった。孝閔帝が践祚し、大将軍を拝し、義門公に封ぜられ、玉壁総管となった。卒すと、喪の初めより葬りに至るまで、世宗は三たび臨んだ。典祀中大夫宇文容が諫めて曰く、「君の臣の喪に臨むには、自ら節制有り。今乗輿屢く降るは、礼典に乖くを恐る」。世宗は従わなかった。
澄は操履清約にして、家に余財無し。太祖は嘗て謂う、「我公の間においては、志に惜しむ所無し。公に須うる所有らば、宜しく即ち具に道うべし」。澄曰く、「澄は頂より足に至るまで、皆是れ明公の恩造なり。即ち今の者として、実に須うる所無し」。賓客に雅に対し、接引して疲れを忘る。酒を飲まずと雖も、人の酣興を観るを好む。常に座客の帰らんことを請うを恐れ、毎に中厨に勅して別に異饌を進め、之を留めて止めしむ。
兕は字を若汗といい、性機弁にして、強記博聞、賓遊を雅重し、尤も談論を善くす。魏の孝武帝に従って西遷した。天和の初め、累遷して驃騎大将軍・開府となり、絳州刺史に遷った。
斛斯徴は字を士亮といい、河南洛陽の人である。父は椿、太傅・ 尚書令 。徴は幼くして聡明、五歳で孝経・周易を誦し、識者はこれを異とした。長ずるに及び、群書に博く渉り、特に三礼に精しく、音律をも兼ねて解した。至性有り、父の喪に居り、朝夕共に一溢の米を食した。父の勲により累遷して太常卿となった。
魏の孝武帝の西遷より以来、雅楽は廃缺していたが、徴は遺逸を博く採り、諸々の典故を稽え、新たに創り旧きを改め、ようやく備わった。また楽に錞于というもの有り、近代は絶えて此の器無く、或いは蜀より之を得る者あれども、皆之を識る者無し。徴之を見て曰く、「此れ錞于なり」。衆之を信ぜず。徴遂に干宝の周礼注に依りて芒筒を以て之を捋れば、其の声極めて振るい、衆乃ち歎服した。徴乃ち取って以て楽に合わせた。六官建つと、司楽中大夫を拝し、位を進めて驃騎大将軍・開府となった。
後に高祖は徴が経を治めるに師法有るを以て、詔して皇太子を教授せしめた。宣帝の時に魯公たり、諸皇子等と咸に青衿を服し、束脩の礼を行い、徴に業を受く。仍って並びに徴を夫子と呼んだ。儒者は之を栄とした。
宣帝が嗣位し、上大将軍・大宗伯に遷った。時に高祖崩御の初め、梓宮殯に在り、帝は速やかに葬らんと欲し、朝臣に議せしめた。徴と内史宇文孝伯等は固より礼に依りて七月と請うたが、帝は遂に許さなかった。帝が太子たりし時、宮尹鄭訳は正道を以て調護する能わざるに坐し、讁せられて除名されていた。然るに帝は訳を雅に親愛し、ここに至り訳を内史中大夫に拝し、甚だ委任した。訳乃ち新楽を献じ、十二月各々一笙、毎一笙に十六管を用いた。帝は徴と之を議せしめた。徴は駁して奏上し、帝は頗る之を納れた。高祖の山陵より還り、帝は楽を作らんと欲し、復た其の可なるかを議せしめた。徴曰く、「孝経に云う『楽を聞いて楽しまず』と。聞く尚お楽しまず、其れ況んや作るをや」。鄭訳曰く、「既に楽を聞くと云うは、明らかに即ち無きに非ず。止だ楽しまずと可きのみ、何ぞ奏せざるを容れん」。帝遂に訳の議に依った。訳此れによりて之を銜んだ。
帝後に行いを肆にして度に非ず、昬虐日甚だし。徴は高祖の重恩を荷い、嘗て師傅の位を備え、若し生ながらにして諫めずんば、死して何を以て高祖に見えん。乃ち上疏して極諫し、帝の失を指陳したが、帝は納れず。訳因って之を譖し、遂に徴を獄に下した。獄卒の張元之を哀しみ、乃ち佩刀を以て獄の牆を穿ち、遂に之を出だした。元は卒に拷せられて終に言う所無し。徴は赦に遇って免れるを得た。
隋の文帝が践極し、例に復して官し、太子太傅を除かれ、詔して楽書を修撰せしめた。開皇の初め、薨じた。子は諺。徴の撰する所の楽典十卷。