周書

巻025

卷二十五 列傳第十七 李賢 弟遠

李賢は字を賢和といい、その先祖は隴西成紀の人である。曾祖父の富は、北魏の太武帝の時に子都督ととくとして両山の屠各を討ち、陣中に没し、寧西将軍・隴西郡守を追贈された。祖父の斌は父の兵を襲領して高平に鎮し、ここに家を定めた。父の文保は早くに卒した。西魏の大統末年に、賢兄弟の顕著な勲功により、涇原東秦三州刺史・司空しくうを追贈された。

原文 李賢字賢和,其先隴西成紀人也。曾祖富,魏太武時以子都督討兩山屠各歿於陣,贈寧西將軍、隴西郡守。祖斌,襲領父兵,鎮於高平,因家焉。父文保,早卒。魏大統末,以賢兄弟著勳,追贈涇原東秦三州刺史、司空。

賢は幼い頃より志操があり、妄りに行動しなかった。かつて出遊した時、一人の老人に遇い、その老人は鬚眉が真っ白で、賢に言うには、「私は八十歳になるが、多くの士を見てきたが、卿のようにはいない。必ずや台牧(高官)となるであろう、卿は努めるがよい」と言った。九歳の時、師に従って学業を受け、大旨を観るだけで、章句を探求しなかった。ある人が賢に言うには、「学問を精勤しないなら、学ばない方がましだ」と言うと、賢は言った、「人はそれぞれ志があり、賢がどうして強いて学問を修めて質問に答え、徒を率いて授業を行うことができようか。ただ教義を大まかに聞き、己の不足を補うのみである。忠孝の道に至っては、実に心に銘記している」と。問うた者は慚愧して服した。十四歳の時、父の喪に遭い、諸弟を撫育訓導し、友愛は甚だ篤かった。

原文 賢幼有志節,不妄舉動。嘗出遊,遇一老人,鬚眉皓白,謂之曰:「我年八十,觀士多矣,未有如卿者。必為台牧,卿其勉之。」九歲,從師受業,畧觀大旨而已,不尋章句。或謂之曰:「學不精勤,不如不學。」賢曰:「夫人各有志,賢豈能彊學待問,領徒授業耶,唯當粗聞教義,補己不足。至如忠孝之道,實銘之於心。」問者慙服。年十四,遭父喪,撫訓諸弟,友愛甚篤。

北魏の永安年間、万俟醜奴が岐州・涇州などの諸州を占拠して反逆し、北魏の孝荘帝は爾朱天光に兵を率いてこれを撃破させた。その党の万俟道洛・費連少渾はなお原州を占拠し、醜奴が既に敗れたことを知らなかった。天光は使者を賢のもとに遣わし、密かに道洛を謀るよう命じた。天光は兵を率いて続いて進んだ。時に賊党の万俟阿宝が戦いに敗れて逃げ帰り、ひそかに賢に告げて言うには、「醜奴は既に敗れ、王師(朝廷軍)がここまで来ています。阿宝は命を投げ出して身を寄せます、どうか救い済まして下さい」と。賢はそこで阿宝に醜奴の使者を偽らせ、道洛らを欺いて言うには、「今や既に臺軍(朝廷軍)を破ったので、公と事を計る必要がある。阿宝に暫く原州を守らせ、公は速やかに来られるがよい」と。道洛らはこれを信じ、その日に出発した。既に出た後で天光が到着し、遂に原州を陥落させた。道洛はそこで麾下六千人を率いて牽屯山に奔った。天光は賢に会って言うには、「道洛が出たのは、子の力である」と。賢はまた郷人を率いて馬千匹を出して軍を助け、天光は大いに喜んだ。時に原州は大旱魃であり、天光は水草が乏しいため、城東五十里に退いて宿営し、馬を放牧し兵を休めた。都督の長孫邪利を行原州事とし、賢を主簿とした。道洛はまた虚に乗じて忽ち至り、時に賊党千余人が城中におり、密かに内応し、道洛を引き入れて城に入らせ、遂に邪利を殺した。賢はまた郷人を率いて決死で防戦し、道洛は退いて逃げた。

原文 魏永安中,万俟醜奴據岐、涇等諸州反叛,魏孝莊遣爾朱天光率兵擊破之。其黨万俟道洛、費連少渾猶據原州,未知醜奴已敗。天光遣使造賢,令密圖道洛。天光率兵續進。會賊黨万俟阿寶戰敗逃還,私告賢曰:「醜奴已敗,王師行至此。阿寶以性命相投,願能存濟。」賢因令阿寶偽為醜奴使,紿道洛等曰:「今已破臺軍,須與公計事,令阿寶權守原州,公宜速往。」道洛等信之,是日便發。既出而天光至,遂克原州。道洛乃將麾下六千人奔于牽屯山。天光見賢曰:「道洛之出,子之力也。」賢又率鄉人出馬千匹以助軍,天光大悅。時原州亢旱,天光以乏水草,乃退舍城東五十里,牧馬息兵。令都督長孫邪利行原州事,以賢為主簿。道洛復乘虛忽至,時賊黨千餘人在城中,密為內應,引道洛入城,遂殺邪利。賢復率鄉人殊死拒戰,道洛乃退走。

また賊帥の達符顕が州城を包囲攻撃し、昼夜攻撃を続け、しばしば撃退された。賢は間道を通って雍州に赴き、天光のもとに詣でて援軍を請うた。天光はこれを許し、賢は帰還した。しかし賊の営塁が四方を囲み、城に入る機会がなかった。日が暮れかかるのを待ち、薪を背負うふりをし、賊の樵採者と共に城下に至ることができた。城中から布を垂らして引き上げ、賊衆がようやく気づき、弓弩を乱発した。射当たらず、遂に城に入り、大軍が将に至らんとしていることを告げた。賊はこれを聞き、すぐに散り散りに逃げた。累遷して威烈将軍・殿中将軍・高平令となった。

原文 又有賊帥達符顯圍逼州城,晝夜攻戰,屢被摧衂。賢間道赴雍州,詣天光請援。天光許之,賢乃返。而賊營壘四合,無因入城。候日向夕,乃偽負薪,與賊樵采者俱得至城下。城中垂布引之,賊眾方覺,乃弓弩亂發。射之不中,遂得入城,告以大軍將至。賊聞之,便即散走。累遷威烈將軍、殿中將軍、高平令。

賀抜岳が侯莫陳悦に害されると、太祖(宇文泰)は西征した。賢はその弟の遠・穆らと密かに侯莫陳崇に応じた。功により都督を授けられ、引き続き原州を守った。大軍が将に秦州に至らんとする時、悦は城を棄てて逃走し、太祖は兄の子の導に兵を率いてこれを追撃させ、賢を前駆とした。転戦四百余里し、牽屯山で追いつき、悦は陣中で自刎した。賢も重傷を負い、馬は流れ矢に当たった。太祖はこれを賞し、奴婢・布帛及び雑畜などを賜い、持節・撫軍大将軍・都督を授けた。

原文 賀拔岳為侯莫陳悅所害,太祖西征。賢與其弟遠、穆等密應侯莫陳崇。以功授都督,仍守原州。及大軍將至秦州,悅棄城走,太祖令兄子導勒兵追之,以賢為前驅。轉戰四百餘里,至牽屯山及之,悅自剄於陣。賢亦被重瘡,馬中流矢。太祖嘉之,賞奴婢、布帛及雜畜等,授持節、撫軍大將軍、都督。

西魏の孝武帝が西遷すると、太祖は賢に騎兵を率いて迎え護衛させた。時に山東の兵士の多くは逃げ帰ろうとした。帝はそこで賢に精騎三百を率いて殿軍となるよう命じ、衆は皆これを恐れ、敢えて逃亡反逆する者はなかった。下邽県公に封ぜられ、邑一千戸を賜った。まもなく左都督・安東将軍を授けられ、原州に戻って鎮守した。

原文 魏孝武西遷,太祖令賢率騎兵迎衞。時山東之眾,多欲逃歸。帝乃令賢以精騎三百為殿,眾皆憚之,莫敢亡叛。封下邽縣公,邑一千戶。俄授左都督、安東將軍,還鎮原州。

大統二年、州民の豆盧狼が都督の大野樹児らを害し、州城を占拠して反逆した。賢はそこで豪傑を招集してこれと謀り言うには、「賊は突然起こり、すぐに二将を誅殺した。その勢いは盛んではあるが、その志は既に驕っている。しかしその政令は施すことができず、ただ残虐な略奪を業とするのみである。寄留の賊が烏合の衆を統御するのは、勢い自ら離散するものである。今もし中からこれを撃てば、賊は必ず胆を喪うであろう。私の計に従うならば、指日にしてこれを取るであろう」と。衆は皆これに従った。賢はそこで敢死の士三百人を率い、二つの隊に分かれ、夜に乗じて鬨の声を上げて出撃した。賊の群れは大いに驚き、一戦にして敗れ、狼は関を斬って遁走した。賢は軽騎三騎と共に追撃してこれを斬った。原州長史に遷り、まもなく行原州事となった。

原文 大統二年,州民豆盧狼害都督大野樹兒等,據州城反。賢乃招集豪傑與之謀曰:「賊起倉卒,便誅二將,其勢雖盛,其志已驕。然其政令莫施,唯以殘剝為業。夫以羇旅之賊,而馭烏合之眾,勢自離解。今若從中擊之,賊必喪膽。如吾計者,指日取之。」眾皆從焉。賢乃率敢死士三百人,分為兩道,乘夜鼓噪而出。羣賊大驚,一戰而敗,狼乃斬關遁走。賢輕與三騎追斬之。遷原州長史,尋行原州事。

四年、莫折後熾が賊党と結び、所在で寇掠した。賢は郷兵を率いて行涇州事の史寧と共にこれを討った。後熾は陣を列ねて待ち受けた。賢は寧に言うには、「賊は長年集結し、徒衆は甚だ多く、数州の民は皆そのために用いられている。我らがもし一つの陣を総べて併せて力を合わせてこれを撃てば、彼らは同悪相済む者であり、理の上では必ず我らに総べて集まるであろう。その勢いは分かれず、衆寡敵せず。我らがもし尾を救えば、これを制する術がない。今もし諸軍を数隊に分け、多く旗鼓を設け、掎角の勢いで前進し、諸柵を脅かすならば、公は別に精兵を統率し、直ちに後熾を指し、甲を按じて待ち、交鋒しないがよい。後熾が前進しようとすれば、公の鋭鋒を憚るであろう。諸柵が出ようとすれば、我らの疑兵を懼れるであろう。彼らをして進んでも戦えず、退いても走れず、その懈怠を待ち、これを撃てば必ず破れるであろう。後熾が一度敗れれば、諸柵は攻めずして自ら抜けるであろう」と。寧は従わず、しばしば戦って頻りに敗北した。賢はそこで数百騎を率いて直ちに後熾の営を襲い、その妻子・僮隷五百余人及び輜重などを収めた。時に後熾は寧と戦って勝ち、まさに敗走兵を追おうとした時、忽ち賢が至ったと聞き、寧を棄てて賢と戦いを交えた。賢は手ずから十余級を斬り、六人を生け捕りにし、賊は遂に大敗した。後熾は単騎で遁走した。軍が帰還すると、功により奴婢四十口、雑畜数百頭を賞賜された。

原文 四年,莫折後熾連結賊黨,所在寇掠。賢率鄉兵與行涇州事史寧討之。後熾列陣以待。賢謂寧曰:「賊聚結歲久,徒眾甚多,數州之人,皆為其用。我若總一陣併力擊之,彼既同惡相濟,理必總萃於我。其勢不分,眾寡莫敵。我便救尾,無以制之。今若令諸軍分為數隊,多設旗鼓,掎角而前,以脅諸柵。公別統精兵,直指後熾,按甲而待,莫與交鋒。後熾欲前,則憚公之銳。諸柵欲出,則懼我疑兵。令其進不得戰,退不得走,以候其懈,擊之必破。後熾一敗,則眾柵不攻自拔矣。」寧不從,屢戰頻北。賢乃率數百騎徑掩後熾營,收其妻子、僮隸五百餘人,并輜重等。屬後熾與寧戰勝,方欲追奔,忽聞賢至,乃棄寧與賢接戰。賢手斬十餘級,生獲六人,賊遂大敗。後熾單騎遁走。師還,以功賞奴婢四十口,雜畜數百頭。

八年、原州刺史を授けられた。賢は若くして軍旅に従ったが、政事に頗る通暁し、郷里を撫育導き、民の和を大いに得た。十二年、獨孤信に従って涼州を征し、これを平定した。また張掖など五郡を撫慰して帰還した。まもなく茹茹が州城を包囲攻撃し、居民を掠奪し、畜牧を駆り集めた。賢は出戦しようとしたが、大都督の王德は躊躇して決断しなかった。賢が固く請うたので、徳はこれに従った。賢が兵を率いて出撃しようとした時、賊は密かにこれを知り、軍を引いて退いた。賢はそこで騎士を率いて追撃し、二百余級を斬り、百余人を捕虜とし、駱駝・馬・牛・羊二万頭を獲、財物は数え切れなかった。掠奪された人々は、安堵して戻ることができた。使持節・車騎大将軍・儀同三司を加授された。

原文 八年,授原州刺史。賢雖少從戎旅,而頗閑政事,撫導鄉里,甚得民和。十二年,隨獨孤信征涼州,平之。又撫慰張掖等五郡而還。俄而茹茹圍逼州城,剽掠居民,驅擁畜牧。賢欲出戰,大都督王德猶豫未決。賢固請,德乃從之。賢勒兵將出,賊密知之,乃引軍退。賢因率騎士追擊,斬二百餘級,捕虜百餘人,獲駞馬牛羊二萬頭,財物不可勝計。所掠之人,還得安堵。加授使持節、車騎大將軍、儀同三司。

十六年、驃騎大将軍・開府儀同三司に遷った。太祖が西魏の太子を奉じて西巡した時、原州に至り、遂に賢の邸宅に行幸し、年齢を譲って座し、郷飲酒の礼を行った。その後、太祖はまた原州に至り、賢に輅車に乗り、儀服を備えさせ、諸侯会遇の礼をもって相見えさせ、その後賢の邸宅に行幸し、終日歓宴した。凡そ親族に対しては、頒賜に差等があった。

原文 十六年,遷驃騎大將軍、開府儀同三司。太祖之奉魏太子西巡也,至原州,遂幸賢第,讓齒而坐,行鄉飲酒禮焉。其後,太祖又至原州,令賢乘輅,備儀服,以諸侯會遇禮相見,然後幸賢第,歡宴終日。凡是親族,頒賜有差。

西魏の恭帝元年、河西郡公に爵を進められ、邑を増やして通算二千戸となった。後に弟子の植が誅殺されたことに連座し、賢は除名の処分を受けた。まもなく使持節・車騎大将軍・儀同三司を授けられた。時に荊州の群蛮が反逆し、開府の潘招がこれを討った。賢と賀若敦に騎士七千を率いさせ、別の道から邀撃遮断し、蛮帥の文子栄を撃ち、大破した。遂に平州の北に汶陽城を築いてこれを鎮めた。まもなく郢州刺史を治めた。時に巴・湘が初めて帰附したため、詔により賢は諸軍を総監し、平定すると、江夏の民二千余戸を移して安州を充実させ、併せて甑山城を築いて帰還した。保定二年、詔により賢の官爵を回復し、引き続き瓜州刺史を授けた。

原文 魏恭帝元年,進爵河西郡公,增邑通前二千戶。後以弟子植被誅,賢坐除名。俄授使持節、車騎大將軍、儀同三司。時荊州羣蠻反,開府潘招討之。令賢與賀若敦率騎士七千,別道邀截,擊蠻帥文子榮,大破之。遂於平州北築汶陽城以鎮之。尋治郢州刺史。時以巴、湘初附,詔賢總監諸軍,畧定,乃遷江夏民二千餘戶以實安州,并築甑山城而還。保定二年,詔復賢官爵,仍授瓜州刺史。

高祖こうそ(武帝)及び斉王憲が幼少の頃、禁忌を避けるため、宮中に住むのは不利であった。太祖(文帝)は賢の家に住まわせるよう命じ、六年後に宮中に戻った。そこで賢の妻呉氏に宇文の姓を賜り、姪女として養い、甚だ厚く賜与した。高祖が西巡した際、賢の邸宅に行幸し、詔して曰く、「朕が昔幼少の頃、この州に寓居した。使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・大都督・瓜州諸軍事・瓜州刺史の賢は、この地の良家の出で、勲功と徳行を兼ねて顕著であり、朕に委ねられて居住し、多年にわたり輔導した。その規諫と補弼を思い、功労は甚だ大きい。桑の実を食らう者でさえ、なお良い音を懐かしむというのに、ましてこの恩恵を、どうして忘れることができようか。今、巡撫してここに居るが、代邑(平城)と異なることはなく、目を上げれば依然としており、ますます旧来の思いを増す。属籍(皇族の系譜)にはないが、朕は彼らを親族のように遇する。その兄弟から子・甥に至るまで、皆、宴席に預かり賜与を与えるべし」。そこで中侍上士の尉遅愷を瓜州に派遣し、璽書を下して賢を労い、衣一襲及び被褥、並びに御用の十三環金帯一本、中廐の馬一匹、金装の鞍と勒、雑綵五百段、銀銭一万を賜った。賢の弟の申国公穆にも同様に賜った。子・甥・男女・中外の諸孫三十四人には、それぞれ衣一襲を賜った。また、賢の甥の厙狄楽を儀同に任じた。賢の門生でかつて侍奉した者二人には大都督を、四人には帥都督を、六人には別将を授けた。奴隷で既に賤民の身分を免じられた者五人には軍主を授け、未だ免じられていない者十二人には代償を与えて放免した。

原文 高祖及齊王憲之在襁褓也,以避忌,不利居宮中。太祖令於賢家處之,六載乃還宮。因賜賢妻吳姓宇文氏,養為姪女,賜與甚厚。及高祖西巡,幸賢第,詔曰:「朕昔冲幼,爰寓此州。使持節、驃騎大將軍、開府儀同三司、大都督、瓜州諸軍事、瓜州刺史賢,斯土良家,勳德兼著,受委居朕,輔導積年。念其規弼,功勞甚茂。食彼桑椹,尚懷好音,矧茲惠矣,其庸可忘?今巡撫居此,不殊代邑,舉目依然,益增舊想。雖無屬籍,朕處之若親。凡厥昆季乃至子姪等,可並豫宴賜。」於是令中侍上士尉遲愷往瓜州,降璽書勞賢,賜衣一襲及被褥,并御所服十三環金帶一要、中廐馬一匹、金裝鞍勒、雜綵五百段、銀錢一萬。賜賢弟申國公穆亦如之。子姪男女中外諸孫三十四人,各賜衣一襲。又拜賢甥厙狄樂為儀同。賢門生昔經侍奉者,二人授大都督,四人授帥都督,六人別將。奴已免賤者,五人授軍主,未免賤者十二人酬替放之。

四年、王師が東征した際、朝廷の議論では西道が空虚であることを憂い、羌や渾の侵擾を慮り、賢を使持節・河州総管・三州七防諸軍事・河州刺史に任じた。河州は従来総管を置かなかったが、ここに至って創設したのである。賢は大いに屯田を営み、運漕を省き、斥候を多く設けて、寇戎に備えた。これにより羌・渾は跡を潜め、敢えて東に向かわなかった。五年、宕昌が辺境を侵し、百姓は生業を失ったため、洮州に総管府を設置してこれを鎮圧した。そこで河州総管を廃し、賢を改めて洮州総管・七防諸軍事・洮州刺史に任じた。時に羌が石門戍を寇し、橋道を破壊して撤去し、援軍を絶とうとした。賢は千騎を率いてこれを防ぎ、前後して数百人を斬り捕らえ、賊は遂に退走した。羌はまた吐谷渾の数千騎を引き連れ、西疆に入らんとした。賢は密かにこれを知り、また兵を遣わしてその隘路に伏せさせ、再びこれを大破した。虜は遂に震え恐れ、敢えて塞を犯さなかった。間もなく洮州総管を廃し、再び河州に総管府を置き、また賢をこれに任じた。

原文 四年,王師東討,朝議以西道空虛,慮羌、渾侵擾,乃授賢使持節、河州總管、三州七防諸軍事、河州刺史。河州舊非總管,至是創置焉。賢乃大營屯田,以省運漕;多設斥候,以備寇戎。於是羌、渾歛迹,不敢向東。五年,宕昌寇邊,百姓失業,乃於洮州置總管府以鎮遏之。遂廢河州總管,改授賢洮州總管、七防諸軍事,洮州刺史。屬羌寇石門戍,撤破橋道,以絕援軍,賢率千騎禦之,前後斬獲數百人,賊乃退走。羌復引吐谷渾數千騎,將入西疆。賢密知之,又遣兵伏其隘路,復大敗之。虜遂震懾,不敢犯塞。俄廢洮州總管,還於河州置總管府,復以賢為之。

高祖は賢の旧恩を思い、召し出して大将軍に任じた。天和四年三月、京師で卒去した。時に六十八歳。高祖は自ら臨み、哀しみは左右を動かした。使持節・柱国大将軍・大都督・涇原秦等十州諸軍事・原州刺史を追贈した。諡して桓という。子の端が嗣いだ。

原文 高祖思賢舊恩,徵拜大將軍。天和四年三月,卒於京師,時年六十八。高祖親臨,哀動左右。贈使持節、柱國大將軍、大都督、涇原秦等十州諸軍事、原州刺史。諡曰桓。子端嗣。

端は字を永貴といい、開府儀同三司・司会中大夫・中州刺史の位を歴任した。高祖に従って北斉を平定し、鄴城ぎょうじょうの戦いで戦死した。上大将軍を追贈され、襄陽公に追封され、諡して果という。端の弟の吉は、儀同三司であった。吉の弟の崇は、太府中大夫・上柱国・広宗郡公の位に至った。崇の弟の孝軌は、開府儀同大将軍・升遷県伯であった。孝軌の弟の詢は、若くして顕位を歴任した。大象の末、上柱国・隴西郡公であった。

原文 端字永貴,歷位開府儀同三司、司會中大夫、中州刺史。從高祖平齊,於鄴城戰歿,贈上大將軍,追封襄陽公,諡曰果。端弟吉,儀同三司。吉弟崇,位至太府中大夫、上柱國、廣宗郡公。崇弟孝軌,開府儀同大將軍、升遷縣伯。孝軌弟詢,少歷顯位。大象末,上柱國、隴西郡公。

賢の弟の遠は、字を万歳という。幼少より器量と見識があり、志と度量は広大であった。かつて群児と戦闘の遊びをした時、指揮して部署を分けると、既に軍陣の法があった。郡守はこれを見て異とし、召して再び遊ばせた。群児は恐れて散り走ったが、遠は杖を持って叱り、再び以前の陣勢をとらせた。その意気は雄壮で、以前よりも甚だしかった。郡守は曰く、「この小児は必ずや将軍となるであろう。常人ではない」と。成長すると、書物や伝記に広く目を通したが、大略その趣旨を知るのみであった。

原文 賢弟遠,字萬歲。幼有器局,志度恢然。嘗與羣兒為戰鬭之戲,指麾部分,便有軍陣之法。郡守見而異之,召使更戲。羣兒懼而散走,遠持杖叱之,復為向勢,意氣雄壯,殆甚於前。郡守曰:「此小兒必為將軍,非常人也。」及長,涉獵書傳,畧知指趣而已。

魏の正光の末、天下が沸き立ち、勅勒の賊徒胡琮が原州に侵攻逼迫し、その徒党は甚だ盛んであった。遠の兄弟は郷人を率いて励まし、防衛を図ろうとしたが、衆情は猜疑と恐れを抱き、意見に異同が多かった。遠は剣を押さえて言った、「近年以来、皇家は多難である。凶徒が機に乗じ、その毒牙を恣にしている。王の謀略は未だ振るわず、梟雄の夷滅が遅れている。まさに忠臣が節義を立て、義士が功を立てる時である。丈夫たるもの、どうして難に臨んで苟くも免れようとすべきか。死中に生を求めるべきである。諸君は皆、代々忠貞を積み、教義を浴びてきた。今もし同じきを棄てて異なるに就き、順を去って逆に効うならば、五尺の童子でさえ、なおこれを非とするであろう。再び何の顔あって天下の士に会えようか。異議を唱える者は、剣をもってこれを斬ることを請う」。そこで衆は皆、股が慄き、命に従わない者はなかった。そこで互いに盟約して誓いを立て、深く塁壁を固めて自ら守った。しかし外に救援なく、城は遂に陥落した。その徒党の多くは殺害されたが、ただ遠の兄弟だけは人に匿われて免れた。遠は賢に言った、「今、逆賊の勢いは盛んで、忠良を屠戮している。遠は密かに朝廷に入り、援軍を請いたい。兄上は跡を晦まして和光同塵し、禍を免れることができる。内で隙を伺い、変事に因って功を立てよ。もし王師が西を指せば、表裏相応じることができ、国家の急を殉じるとともに、私室の危難も全うできる。どうして凶威に窘迫され、坐して夷滅されるのを見るようなことがあろうか」。賢は曰く、「これこそ我が心である」。そこで東行の策を定めた。遠は寇賊の境を崎嶇として進み、京師に到達した。魏朝はこれを嘉し、武騎常侍を授けた。間もなく別将に転じ、帛千匹、及び弓・刀・衣・馬などを賜った。

原文 魏正光末,天下鼎沸,勅勒賊胡琮侵逼原州,其徒甚盛。遠昆季率勵鄉人,欲圖拒守,而眾情猜懼,頗有異同。遠乃按劍而言曰:「頃年以來,皇家多難。匈黨乘機,肆其毒螫。王畧未振,緩其梟夷。正是忠臣立節之秋,義士建功之日。丈夫豈可臨難苟免,當在死中求生耳。諸人並世載忠貞,沐浴教義,今若棄同即異,去順効逆,雖五尺童子,猶或非之,將復何顏以見天下之士。有異議者,請以劍斬之!」於是眾皆股慄,莫不聽命。乃相與盟歃,遂深壁自守。而外無救援,城遂陷。其徒多被殺害,唯遠兄弟並為人所匿,得免。遠乃言於賢曰:「今逆賊孔熾,屠戮忠良。遠欲間行入朝,請兵救援。兄晦迹和光,可以免禍。內伺釁隙,因變立功。若王師西指,得復表裏相應,既殉國家之急,且全私室之危。豈若窘迫凶威,坐見夷滅!」賢曰:「是吾心也。」遂定東行之策。遠乃崎嶇寇境,得達京師。魏朝嘉之,授武騎常侍。俄轉別將,賜帛千匹,并弓刀衣馬等。

爾朱天光が西征するに及んで、遠に精兵を配属し、郷導とさせた。天光は遠の才能と声望を欽慕し、特に引き立てて接し、伏波将軍・長城郡守・原州大中正に任じた。

原文 及爾朱天光西伐,乃配遠精兵,使為鄉導。天光欽遠才望,特相引接,除伏波將軍、長城郡守、原州大中正。

後に侯莫陳崇の功に応じた功績により、高平郡守に遷った。太祖は遠に会い、語り合ってこれを喜び、麾下に置くよう命じ、甚だ親しく遇された。魏の孝武帝が西遷した際、仮節・銀青光禄大夫・主衣都統を授けられ、安定県伯に封じられ、邑五百戸を賜った。魏の文帝が帝位を嗣いだ初め、長寿を享受しようと思い、遠の字(万歳)が嘉すべきであるとして、帝を扶けて殿に昇らせた。使持節・征東大将軍に遷り、爵位を公に進め、邑千戸を増やし、引き続き左右を領した。竇泰征討に従い、弘農を回復し、共に殊勲があった。都督・原州刺史を授けられた。太祖は遠に言った、「孤が卿を持つことは、身体が手臂を用いるようなもので、どうして暫しも身から離すことができようか。本州の栄誉は、私事に過ぎない。卿が職務を述べるならば、孤は寄せる思い所がなくなる」。そこで遂に遠の兄の賢に代わって州事を行わせた。沙苑の戦いでは、遠の功績が最も大きく、車騎大将軍・儀同三司に任じられ、爵位を陽平郡公に進め、邑三千戸を賜った。間もなく独孤信に従って東方を攻略し、遂に洛陽らくように入った。東魏の将軍侯景らに包囲されたが、太祖が到着して解かれた。河橋の戦いでは、遠は独孤信と共に右軍となり、不利に陥って退却した。大丞相府司馬に任じられた。軍国の機密事務に、遠は皆参与したが、権勢を畏れて避け、あたかも自分に関係ないかのようであった。時に河東は回復したばかりで、民情は未だ安定せず、太祖は遠に言った、「河東は国の要鎮である。卿でなければこれを撫でることはできない」。そこで河東郡守を授けた。遠は風俗を厚く奨励し、農桑を勧めて課し、姦非を厳しく取り締まり、兼ねて守禦の備えを修めた。未だ一月にも満たないうちに、百姓はこれを慕った。太祖はこれを嘉し、書を下して労い問うた。侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に召された。魏が東宮を建てると、太子少傅を授けられ、間もなく少師に転じた。

原文 後以應侯莫陳崇功,遷高平郡守。太祖見遠,與語悅之,令居麾下,甚見親遇。及魏孝武西遷,授假節、銀青光祿大夫、主衣都統,封安定縣伯,邑五百戶。魏文帝嗣位之始,思享遐年,以遠字可嘉,令扶帝升殿。遷使持節、征東大將軍,進爵為公,增邑千戶,仍領左右。從征竇泰,復弘農,並有殊勳。授都督、原州刺史。太祖謂遠曰:「孤之有卿,若身體之有手臂之用,豈可暫輟於身。本州之榮,乃私事耳。卿若述職,則孤無所寄懷。」於是遂令遠兄賢代行州事。沙苑之役,遠功居最,除車騎大將軍、儀同三司,進爵陽平郡公,邑三千戶。尋從獨孤信東畧,遂入洛陽。為東魏將侯景等所圍。太祖至,乃解。及河橋之戰,遠與獨孤信為右軍,不利而退。除大丞相府司馬。軍國機務,遠皆參之,畏避權勢,若不在己。時河東初復,民情未安,太祖謂遠曰:「河東國之要鎮,非卿無以撫之。」乃授河東郡守。遠敦奬風俗,勸課農桑,肅遏姦非,兼修守禦之備。曾未朞月,百姓懷之。太祖嘉焉,降書勞問。徵為侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司。魏建東宮,授太子少傅,尋轉少師。

東魏の北豫よ州刺史高仲密が州を挙げて帰順を請うた。時に斉の神武帝(高歓)は河陽に兵を駐屯させていた。太祖(宇文泰)は仲密の拠る所が遠く隔たり、応援し難いと考え、諸将は皆この出兵を恐れた。李遠が言うには、「北豫は賊の境内に遠く在り、高歓もまた河陽に兵を屯ませております。常理から論ずれば、実に救援は難しい。しかし兵務は神速を旨とし、事は機に合うことを貴びます。古人に言う、『獣の穴に入らざれば、安んぞ獣の子を得ん』と。もし奇兵を以て不意に出でれば、事あるいは成るでしょう。たとえ利鈍あろうとも、もとより兵家の常です。もし躊躇して行わねば、もはや平定の日はありません」。太祖は喜んで言った、「李万歳(李遠)の言うことは、ほぼ人意に適う」。そこで行臺尚書を授け、先鋒として東に出させた。太祖は大軍を率いて続いて進んだ。李遠はひそかに軍を進め、仲密を救い出して帰還した。引き続き太祖に従って邙山で戦った。時に大軍は不利であったが、李遠のみは配下を整えて殿軍を務めた。まもなく都督義州弘農等二十一防諸軍事に任ぜられた。

原文 東魏北豫州刺史高仲密請舉州來附。時齊神武屯兵河陽。太祖以仲密所據遼遠,難為應接,諸將皆憚此行。遠曰:「北豫遠在賊境,高歡又屯兵河陽,常理而論,實難救援。但兵務神速,事貴合機。古人有言:『不入獸穴,安得獸子。』若以奇兵出其不意,事或可濟。脫有利鈍,故是兵家之常。如其顧望不行,便無克定之日。」太祖喜曰:「李萬歲所言,差強人意。」乃授行臺尚書,前驅東出。太祖率大軍繼進。遠乃潛師而往,拔仲密以歸。仍從太祖戰於邙山。時大軍不利,遠獨整所部為殿。尋授都督義州弘農等二十一防諸軍事。

李遠は綏撫(慰め治めること)に巧みで、才幹と謀略があり、守戦の備えはことごとく精鋭であった。常に境外の人々を厚く慰撫し、間諜と為らせ、敵中の動静を必ず先んじて知った。事が漏れて誅殺される者があっても、悔いることはなかった。その人心を得ることこのようであった。かつて莎柵で狩猟をしていた時、草むらの中の石を伏せた兎と思い、これを射て命中させ、鏃は一寸余りも入った。近寄って見ると、石であった。太祖はこれを聞いて奇異に思い、書を賜って言った、「昔、李将軍広にこのような事があった。公今また同じく、世々その徳を載せるというべきである。たとえ熊渠の名声といえども、独りその美を専らにすることはできまい」。

原文 遠善綏撫,有幹畧,守戰之備,無不精銳。每厚撫〔境〕外〔之〕人,使為間謀,敵中動靜,必先知之。至有事泄被誅戮者,亦不以為悔。其得人心如此。嘗校獵於莎柵,見石於叢蒲中,以為伏兔,射之而中,鏃入寸餘。就而視之,乃石也。太祖聞而異之,賜書曰:「昔李將軍廣親有此事,公今復爾,可謂世載其德。雖熊渠之名,不能獨擅其美。」

東魏の将段孝先が歩騎二万を率いて宜陽に向かい、糧食を送ることを名目としたが、実は窺伺の意図があった。李遠は密かにその計略を知り、兵を遣わして襲撃してこれを破り、その輜重と器械を鹵獲した。孝先は逃げ去った。太祖はそこで自ら乗っていた馬と金帯・牀帳・衣被などを賜い、さらに雑綵二千匹を加え、大将軍に任じた。

原文 東魏將段孝先率步騎二萬趨宜陽,以送糧為名,然實有窺窬之意。遠密知其計,遣兵襲破之,獲其輜重器械。孝先遁走。太祖乃賜所乘馬及金帶牀帳衣被等,并雜綵二千匹,拜大將軍。

まもなく、尚書左僕射に任ぜられた。李遠は太祖に申し上げて言った、「李遠は秦隴の匹夫に過ぎず、才芸もまたこの程度です。平生の望みは、一郡の太守に過ぎませんでした。機会に遭い、聖明(太祖)に仕えることができました。主が貴ければ臣も昇り、ここに至ったのです。今、上列の位にあり、爵は通侯に及び、方面を委ねられ、生殺の権を手にしています。ただ栄寵を一時に受けるのみならず、また身代を輝かせるに足ります。しかし尚書僕射は、朝廷の要職に任ずるものであり、今これを賜って授けられるのは、かえってその罪責を重くするものです。明公(太祖)がもし私を全うしようとされるなら、この任を止めてくださるようお願いします」。太祖は言った、「公は勲功と徳行を兼ね備え、朝廷が欽慕し属望する所である。衆の中から選んで挙げたまでで、どうして辞退する必要があろうか。かつ孤と公とは、義において骨肉に等しい。どうして官位の間で、すぐに退譲などさせようか。それは深く我が望みに背く」。李遠はやむを得ず、ようやく職を拝受した。太祖はまた第十一子の達(宇文達、後の代王)を李遠の子とさせた。その親しく遇せられることこのようであった。

原文 頃之,除尚書左僕射。遠白太祖曰:「遠,秦隴匹夫,才藝俱爾。平生念望,不過一郡守耳。遭逢際會,得奉聖明。主貴臣遷,以至於此。今位居上列,爵邁通侯,受委方面,生殺在手。非直榮寵一時,亦足光華身世。但尚書僕射,任居端揆,今以賜授,適所以重其罪責。明公若欲全之,乞寢此授。」太祖曰:「公勳德兼美,朝廷欽屬,選眾而舉,何足為辭。且孤之於公,義等骨肉,豈容於官位之間,便致退讓,深乖所望也。」遠不得已,方拜職。太祖又以第十一子達令遠子之,即代王也。其見親待如此。

時に太祖の嫡嗣が定まっておらず、明帝(宇文毓)が年長で、既に徳を成していた。孝閔帝(宇文覚)は嫡子であったが、年はまだ幼かった。そこで太祖は群公を召して言った、「孤は嫡子を立てたいと思うが、大司馬が疑うのではないかと恐れる」。大司馬とは独孤信のことで、明帝の敬后の父である。皆黙っており、発言する者はいなかった。李遠が言った、「子を立てるには嫡を以てし長を以てせず、というのは礼経の明らかな義であります。畧陽公(宇文覚)を世子とされるのに、公は何を疑われるのですか。もし独孤信を懸念されるなら、ただちに信を斬ることを請います」。そう言って刀を抜いて立ち上がった。太祖も立ち上がって言った、「何事がここまで至るのか」。独孤信もまた自ら陳述したので、李遠はやっと止めた。そこで群公は皆李遠の議に従った。(李遠は)退出して独孤信に拝謝して言った、「大事に臨んで、已むを得ずそうしたまでです」。独孤信もまた李遠に謝して言った、「今日は公のおかげで、この大事な議を決することができた」。六官が建てられると、小司寇に任ぜられた。孝閔帝が即位すると、位を進めて柱国大将軍とし、邑千戸を賜った。再び弘農を鎮守した。

原文 時太祖嫡嗣未建,明帝居長,已有成德;孝閔處嫡,年尚幼冲。乃召羣公謂之曰:「孤欲立子以嫡,恐大司馬有疑。」大司馬即獨孤信,明帝敬后父也。眾皆默,未有言者,遠曰:「夫立子以嫡不以長,禮經明義。畧陽公為世子,公何所疑。若以信為嫌,請即斬信。」便拔刀而起。太祖亦起曰:「何事至此!」信又自陳說,遠乃止。於是羣公並從遠議。出外拜謝信曰:「臨大事,不得不爾。」信亦謝遠曰:「今日賴公,決此大議。」六官建,授小司寇。孝閔帝踐阼,進位柱國大將軍,邑千戶。復鎮弘農。

李遠の子の李植は、太祖の時既に相府司録参軍となり、朝政を執り行っていた。晋公宇文護が権力を執ると、任用されないことを恐れ、密かに宇文護を誅殺しようとした。その話は孝閔帝紀にある。謀略がやや漏洩し、宇文護はこれを知ると、李植を出して梁州刺史とした。まもなく帝を廃すると、李遠と李植を召し還して朝廷に帰らせた。李遠は変事があることを恐れ、しばらく沈吟した後、言った、「大丈夫たるもの、寧ろ忠鬼となろうとも、どうして叛臣となりえようか」。そこで徴に応じた。京師に至ると、宇文護は李遠の功名が元来重いことを考慮し、なおも彼を全うしようと思った。そこで引き合わせて会見し、彼に言った、「公の息子が異謀を企てたのは、ただ我が身を屠戮するのみならず、宗廟社稷を傾け危うくするものであった。叛臣賊子は、理において共に憎むべきものであり、公は早く処分すべきである」。そこで李植を李遠に引き渡した。李遠は平素より李植を殊に愛しており、李植もまた弁舌に長けていたので、(李植は)初めからこの謀はなかったと言った。李遠はこれを真実であると思った。翌朝、李植を連れて宇文護に謁見しようとした。宇文護は李植が既に死んだと思い、言った、「陽平公(李遠)はどういうつもりで自ら来られたのか」。左右が言うには、「李植も門外におります」。宇文護は大いに怒って言った、「陽平公は私を信じないのか」。そこで(李遠らを)召し入れ、やはり李遠に同席を命じ、帝(廃帝)と李植に李遠の前で対質させた。李植は言い詰まり、帝に言った、「もとよりこの謀を為したのは、社稷を安んじ、至尊(帝)を利せんがためであった。今日ここに至って、何をかくくどくどと言うことがあろう」。李遠はこれを聞くと、自ら牀に身を投げて言った、「もしそうであるならば、誠に万死に値する」。そこで宇文護は李植を害し、さらに李遠を脅して自殺させた。時に五十一歳であった。李植の弟の叔諧、叔謙、叔譲もまた死んだ。残りは皆幼年であったため免れた。

原文 遠子植,在太祖時已為相府司錄參軍,掌朝政。及晉公護執權,恐不被任用,乃密欲誅護。語在孝閔帝紀。謀頗漏泄,護知之,乃出植為梁州刺史。尋而廢帝,召遠及植還朝。遠恐有變,沉吟久之,乃曰:「大丈夫寧為忠鬼,安能作叛臣乎!」遂就徵。既至京師,護以遠功名素重,猶欲全宥之。乃引與相見,謂之曰:「公兒遂有異謀,非止屠戮護身,乃是傾危宗社。叛臣賊子,理宜同疾,公可早為之所。」乃以植付遠。遠素鍾愛於植,植又口辯,乃云初無此謀。遠謂為信然。詰朝,將植謁護,護謂植已死,乃曰:「陽平公何意乃自來也?」左右云:「植亦在門外。」護大怒曰:「陽平公不信我矣!」乃召入,仍命遠同坐,令帝與植相質於遠前。植辭窮,謂帝曰:「本為此謀,欲安社稷,利至尊耳。今日至此,何事云云。」遠聞之,自投於牀曰:「若爾,誠合萬死。」於是護乃害植,并逼遠令自殺。時年五十一。植弟叔諧、叔謙、叔讓亦死。餘並以年幼得免。

建徳元年、晋公宇文護が誅殺されると、詔が下って言った、「故使持節・柱国大将軍・大都督・陽平郡開国公李遠は、早くより任用を受け、夙に勲績を顕わし、内では帷幄に参じ、外では藩維に属した。王室に誠を竭くして、横禍に遭った。その貞良を思いやれば、追い悼みを増す。宜しく栄寵を加え、以て忠節を顕彰すべきである」。本官を追贈し、加えて陝熊等十五州諸軍事・陝州刺史とした。諡して忠といった。隋の開皇初年、上柱国・黎国公を追贈し、邑三千戸を賜い、諡を改めて懷といった。李植及び諸弟にも、皆加えて贈官と諡を賜った。

原文 建德元年,晉公護誅,乃詔曰:「故使持節、柱國大將軍、大都督、陽平郡開國公遠,早蒙驅任,夙著勳績,內參帷幄,外屬藩維。竭誠王室,乃罹橫禍。言念貞良,追增傷悼。宜加榮寵,用彰忠節。」贈本官,加陝熊等十五州諸軍事、陝州刺史。諡曰忠。隋開皇初,追贈上柱國、黎國公,邑三千戶,改諡曰懷。植及諸弟,並加贈諡。

李植の弟の李基、字は仲和。幼い頃から声譽があり、容姿は美しく、談論を善くし、群書に渉猟し、特に騎射に巧みであった。太祖は召し見てこれを奇異とし、義帰公主を娶らせた。大統十年、員外散騎常侍さんきじょうじとして初めて官に就いた。後に父の勲功により、建安県公に封ぜられ、邑一千戸を賜った。累遷して撫軍将軍・銀青光禄大夫・通直散騎常侍となり、大丞相親信を領した。まもなく大都督に転じ、爵を進めて清河郡公とした。

原文 植弟基,字仲和。幼有聲譽,美容儀,善談論,涉獵羣書,尤工騎射。太祖召見奇之,乃令尚義歸公主。大統十年,釋褐員外散騎常侍。後以父勳,封建安縣公,邑一千戶。累遷撫軍將軍、銀青光祿大夫、通直散騎常侍,領大丞相親信。俄轉大都督、進爵清河郡公。

太祖は危局を支え傾きを定め、威権は主君(魏帝)を震わせ、魏の廃帝が即位した後は、猜疑の隙間は一層深まった。時に太祖の諸子は皆幼く、章武公宇文導と中山公宇文護はまた東西に出鎮しており、ただ諸婿に意を託して、心膂と為していた。李基と義城公李暉、常山公于翼らは皆武衛将軍となり、禁旅を分掌した。帝はこれを深く畏れたので、密謀は遂に漏洩した。

原文 太祖扶危定傾,威權震主,及魏廢帝即位之後,猜隙彌深。時太祖諸子,年皆幼冲,章武公導、中山公護復東西作鎮,唯託意諸壻,以為心膂。基與義城公李暉、常山公于翼等俱為武衞將軍,分掌禁旅。帝深憚之,故密謀遂泄。

魏の恭帝が即位すると、使持節・車騎大将軍・儀同三司に遷り、散騎常侍を加えられ、爵を進めて燉煌郡公とし、まもなく侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、陽平国の世子に立てられた。六官が建てられると、御正中大夫に任ぜられた。孝閔帝が即位すると、出て海州刺史となった。

原文 魏恭帝即位,遷使持節、車騎大將軍、儀同三司,加散騎常侍,進爵燉煌郡公,尋加侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司,拜陽平國世子。六官建,授御正中大夫。孝閔帝踐阼,出為海州刺史。

やがて兄の李植が捕らえられたため、連座して死罪に当たることとなったが、既に主君(宇文護)の寵愛を受けており、また叔父の李穆が請願したため、罪を免れた。武成二年(560年)、江州刺史に任じられた。しかし左遷された後は、常に憂い恐れて志を得られずにいた。保定元年(561年)、任地で死去した。享年三十一。申公李穆は特に彼を寵愛しており、泣くたびに悲しみ慟哭し、親しい者に言うには、「良き児が我を去った。家門はこれで興ろうというのか」と。宣政元年(578年)、使持節・上開府儀同三司・大将軍・曹徐譙三州刺史・燉煌郡公を追贈され、諡を孝といった。子の李威が後を嗣いだ。

原文 尋以兄植被收,例合坐死。既以主貴,又為季父穆所請,得免。武成二年,除江州刺史。既被譴謫,常憂懼不得志。保定元年,卒於位,年三十一。申公穆尤所鍾愛,每哭輒悲慟,謂其所親曰:「好兒捨我去,門戶豈是欲興。」宣政元年,追贈使持節、上開府儀同三司、大將軍、曹徐譙三州刺史、燉煌郡公,諡曰孝。子威嗣。

李威は字を安民といい、右侍上士から起家し、累進して開府儀同三司に至り、さらに遠(李遠)の爵位である陽平郡公を改めて襲封した。高祖(武帝)に従って北斉を平定し、功により上開府を授かり、軍司馬に任じられた。宣帝が即位すると、大将軍に進み、熊州刺史として出向した。大象(579-580年)の末年に至り、位は柱国に至った。

原文 威字安民,起家右侍上士,累遷至開府儀同三司,又改襲遠爵陽平郡公。從高祖平齊,以功授上開府、拜軍司馬。宣帝即位,進授大將軍,出為熊州刺史。大象末,位至柱國。

史臣が言う。李賢とその兄弟は、乱離の世に生まれ、兵馬の間に身を置きながら、志略は縦横にめぐらされ、忠勇を奮い起こし、しばしば強敵を打ち破り、幾度も艱難危険をくぐり抜けた。しかしその功績は王府に記録されることもなく、官位も州郡を超えることはなかった。時に主君に遇い、名を策上し身を委ねてからは、ある者は幕府の煩わしい務めに使われ、ある者は軍旅の辛苦を共にし、生かされる恩恵を受け、国士としての待遇を蒙り、皆良い爵位に繋がり、それぞれ勲功を顕著にした。遂には文武の任を兼ね、名声は内外に響き渡り、位は高く望みは重く、国を輝かせ家を栄えさせ、萼が連なり光り、椒聊(子孫)が繁茂して、冠冕の盛んなこと、当時比べるものはなかった。周から隋に至るまで、西京(長安ちょうあん)の盛族として鬱然とし、漢の金日磾・張安世の家と比べても、尚及ばないほどである。

原文 史臣曰:李賢和兄弟,屬亂離之際,居戎馬之間,志畧縱橫,忠勇奮發,亟摧勍敵,屢涉艱危,而功未書於王府,仕不過於州郡。及逢時值主,策名委質,或使煩莫府,或契闊戎行,荷生成之恩,蒙國士之遇,俱縻好爵,各著勳庸。遂得任兼文武,聲彰內外,位高望重,光國榮家,跗蕚連暉,椒聊繁衍,冠冕之盛,當時莫比焉。自周迄隋,鬱為西京盛族,雖金、張在漢,不之尚也。

しかし太祖(宇文泰)が崩御した当初、嗣君(孝閔帝)は幼少であった。内には功臣が命に背き、外には強敵が国境に迫る。晋公(宇文護)は猶子(甥)の親として、図(遺詔)を背負う託を受け、遂に家国を撫寧し、異端を開翦し、魏を革めて周を興し、遠きを安んじ近きを悦ばせた。功労勤勉は既に顕著であったが、過失悪行は未だ顕われていなかった。李植は先朝(孝閔帝の代)に遇を受け、早くから機務に参与していたが、威権が既に失われることを恐れ、将来容れられぬことを懼れ、この禍の階梯を生み、この貝錦(讒言)を成した。すなわち小をもって大を謀り、疎をもって親を間こうとしたのである。主君には昭帝(漢の昭帝)の明がなく、臣下には上官桀(漢の臣)の訴えがあった。嫌隙が既に兆し、禍いの原因はこれによる。冢宰(宇文護)に君無き心を起こさせ、閔皇(孝閔帝)を廃し弑しいす禍いを成したのは、李植によるものである。李遠は既に義方(正しい道)の訓えに欠け、また先見の明もなく、これによって誅夷されたのは、不幸とは言えない。

原文 然而太祖初崩,嗣君冲幼。內則功臣放命,外則強寇臨邊。晉公以猶子之親,膺負圖之託,遂能撫寧家國,開翦異端,革魏興周,遠安邇悅。功勤已著,過惡未彰。李植受遇先朝,宿參機務,恐威權之已去,懼將來之不容,生此厲階,成茲貝錦,乃以小謀大,由疏間親。主無昭帝之明,臣有上官之訴。嫌隙既兆,釁故因之。啟冢宰無君之心,成閔皇廢弒之禍,植之由也。李遠既闕義方之訓,又無先見之明,以是誅夷,非為不幸。