周書
卷二十五 列傳第十七 李賢 弟遠
李賢は字を賢和といい、その先祖は隴西成紀の人である。曾祖父の富は、北魏の太武帝の時に子 都督 として両山の屠各を討ち、陣中に没し、寧西将軍・隴西郡守を追贈された。祖父の斌は父の兵を襲領して高平に鎮し、ここに家を定めた。父の文保は早くに卒した。西魏の大統末年に、賢兄弟の顕著な勲功により、涇原東秦三州刺史・ 司空 を追贈された。
賢は幼い頃より志操があり、妄りに行動しなかった。かつて出遊した時、一人の老人に遇い、その老人は鬚眉が真っ白で、賢に言うには、「私は八十歳になるが、多くの士を見てきたが、卿のようにはいない。必ずや台牧 (高官) となるであろう、卿は努めるがよい」と言った。九歳の時、師に従って学業を受け、大旨を観るだけで、章句を探求しなかった。ある人が賢に言うには、「学問を精勤しないなら、学ばない方がましだ」と言うと、賢は言った、「人はそれぞれ志があり、賢がどうして強いて学問を修めて質問に答え、徒を率いて授業を行うことができようか。ただ教義を大まかに聞き、己の不足を補うのみである。忠孝の道に至っては、実に心に銘記している」と。問うた者は慚愧して服した。十四歳の時、父の喪に遭い、諸弟を撫育訓導し、友愛は甚だ篤かった。
北魏の永安年間、万俟醜奴が岐州・涇州などの諸州を占拠して反逆し、北魏の孝荘帝は爾朱天光に兵を率いてこれを撃破させた。その党の万俟道洛・費連少渾はなお原州を占拠し、醜奴が既に敗れたことを知らなかった。天光は使者を賢のもとに遣わし、密かに道洛を謀るよう命じた。天光は兵を率いて続いて進んだ。時に賊党の万俟阿宝が戦いに敗れて逃げ帰り、ひそかに賢に告げて言うには、「醜奴は既に敗れ、王師 (朝廷軍) がここまで来ています。阿宝は命を投げ出して身を寄せます、どうか救い済まして下さい」と。賢はそこで阿宝に醜奴の使者を偽らせ、道洛らを欺いて言うには、「今や既に臺軍 (朝廷軍) を破ったので、公と事を計る必要がある。阿宝に暫く原州を守らせ、公は速やかに来られるがよい」と。道洛らはこれを信じ、その日に出発した。既に出た後で天光が到着し、遂に原州を陥落させた。道洛はそこで麾下六千人を率いて牽屯山に奔った。天光は賢に会って言うには、「道洛が出たのは、子の力である」と。賢はまた郷人を率いて馬千匹を出して軍を助け、天光は大いに喜んだ。時に原州は大旱魃であり、天光は水草が乏しいため、城東五十里に退いて宿営し、馬を放牧し兵を休めた。 都督 の長孫邪利を行原州事とし、賢を主簿とした。道洛はまた虚に乗じて忽ち至り、時に賊党千余人が城中におり、密かに内応し、道洛を引き入れて城に入らせ、遂に邪利を殺した。賢はまた郷人を率いて決死で防戦し、道洛は退いて逃げた。
また賊帥の達符顕が州城を包囲攻撃し、昼夜攻撃を続け、しばしば撃退された。賢は間道を通って雍州に赴き、天光のもとに詣でて援軍を請うた。天光はこれを許し、賢は帰還した。しかし賊の営塁が四方を囲み、城に入る機会がなかった。日が暮れかかるのを待ち、薪を背負うふりをし、賊の樵採者と共に城下に至ることができた。城中から布を垂らして引き上げ、賊衆がようやく気づき、弓弩を乱発した。射当たらず、遂に城に入り、大軍が将に至らんとしていることを告げた。賊はこれを聞き、すぐに散り散りに逃げた。累遷して威烈将軍・殿中将軍・高平令となった。
賀抜岳が侯莫陳悦に害されると、太祖 (宇文泰) は西征した。賢はその弟の遠・穆らと密かに侯莫陳崇に応じた。功により 都督 を授けられ、引き続き原州を守った。大軍が将に秦州に至らんとする時、悦は城を棄てて逃走し、太祖は兄の子の導に兵を率いてこれを追撃させ、賢を前駆とした。転戦四百余里し、牽屯山で追いつき、悦は陣中で自刎した。賢も重傷を負い、馬は流れ矢に当たった。太祖はこれを賞し、奴婢・布帛及び雑畜などを賜い、持節・撫軍大将軍・ 都督 を授けた。
西魏の孝武帝が西遷すると、太祖は賢に騎兵を率いて迎え護衛させた。時に山東の兵士の多くは逃げ帰ろうとした。帝はそこで賢に精騎三百を率いて殿軍となるよう命じ、衆は皆これを恐れ、敢えて逃亡反逆する者はなかった。下邽県公に封ぜられ、邑一千戸を賜った。まもなく左 都督 ・安東将軍を授けられ、原州に戻って鎮守した。
大統二年、州民の豆盧狼が 都督 の大野樹児らを害し、州城を占拠して反逆した。賢はそこで豪傑を招集してこれと謀り言うには、「賊は突然起こり、すぐに二将を誅殺した。その勢いは盛んではあるが、その志は既に驕っている。しかしその政令は施すことができず、ただ残虐な略奪を業とするのみである。寄留の賊が烏合の衆を統御するのは、勢い自ら離散するものである。今もし中からこれを撃てば、賊は必ず胆を喪うであろう。私の計に従うならば、指日にしてこれを取るであろう」と。衆は皆これに従った。賢はそこで敢死の士三百人を率い、二つの隊に分かれ、夜に乗じて鬨の声を上げて出撃した。賊の群れは大いに驚き、一戦にして敗れ、狼は関を斬って遁走した。賢は軽騎三騎と共に追撃してこれを斬った。原州長史に遷り、まもなく行原州事となった。
四年、莫折後熾が賊党と結び、所在で寇掠した。賢は郷兵を率いて行涇州事の史寧と共にこれを討った。後熾は陣を列ねて待ち受けた。賢は寧に言うには、「賊は長年集結し、徒衆は甚だ多く、数州の民は皆そのために用いられている。我らがもし一つの陣を総べて併せて力を合わせてこれを撃てば、彼らは同悪相済む者であり、理の上では必ず我らに総べて集まるであろう。その勢いは分かれず、衆寡敵せず。我らがもし尾を救えば、これを制する術がない。今もし諸軍を数隊に分け、多く旗鼓を設け、掎角の勢いで前進し、諸柵を脅かすならば、公は別に精兵を統率し、直ちに後熾を指し、甲を按じて待ち、交鋒しないがよい。後熾が前進しようとすれば、公の鋭鋒を憚るであろう。諸柵が出ようとすれば、我らの疑兵を懼れるであろう。彼らをして進んでも戦えず、退いても走れず、その懈怠を待ち、これを撃てば必ず破れるであろう。後熾が一度敗れれば、諸柵は攻めずして自ら抜けるであろう」と。寧は従わず、しばしば戦って頻りに敗北した。賢はそこで数百騎を率いて直ちに後熾の営を襲い、その妻子・僮隷五百余人及び輜重などを収めた。時に後熾は寧と戦って勝ち、まさに敗走兵を追おうとした時、忽ち賢が至ったと聞き、寧を棄てて賢と戦いを交えた。賢は手ずから十余級を斬り、六人を生け捕りにし、賊は遂に大敗した。後熾は単騎で遁走した。軍が帰還すると、功により奴婢四十口、雑畜数百頭を賞賜された。
八年、原州刺史を授けられた。賢は若くして軍旅に従ったが、政事に頗る通暁し、郷里を撫育導き、民の和を大いに得た。十二年、獨孤信に従って涼州を征し、これを平定した。また張掖など五郡を撫慰して帰還した。まもなく茹茹が州城を包囲攻撃し、居民を掠奪し、畜牧を駆り集めた。賢は出戦しようとしたが、大 都督 の王德は躊躇して決断しなかった。賢が固く請うたので、徳はこれに従った。賢が兵を率いて出撃しようとした時、賊は密かにこれを知り、軍を引いて退いた。賢はそこで騎士を率いて追撃し、二百余級を斬り、百余人を捕虜とし、駱駝・馬・牛・羊二万頭を獲、財物は数え切れなかった。掠奪された人々は、安堵して戻ることができた。使持節・車騎大将軍・儀同三司を加授された。
十六年、驃騎大将軍・開府儀同三司に遷った。太祖が西魏の太子を奉じて西巡した時、原州に至り、遂に賢の邸宅に行幸し、年齢を譲って座し、郷飲酒の礼を行った。その後、太祖はまた原州に至り、賢に輅車に乗り、儀服を備えさせ、諸侯会遇の礼をもって相見えさせ、その後賢の邸宅に行幸し、終日歓宴した。凡そ親族に対しては、頒賜に差等があった。
西魏の恭帝元年、河西郡公に爵を進められ、邑を増やして通算二千戸となった。後に弟子の植が誅殺されたことに連座し、賢は除名の処分を受けた。まもなく使持節・車騎大将軍・儀同三司を授けられた。時に荊州の群蛮が反逆し、開府の潘招がこれを討った。賢と賀若敦に騎士七千を率いさせ、別の道から邀撃遮断し、蛮帥の文子栄を撃ち、大破した。遂に平州の北に汶陽城を築いてこれを鎮めた。まもなく 郢州 刺史を治めた。時に巴・湘が初めて帰附したため、詔により賢は諸軍を総監し、平定すると、江夏の民二千余戸を移して安州を充実させ、併せて甑山城を築いて帰還した。保定二年、詔により賢の官爵を回復し、引き続き瓜州刺史を授けた。
高祖 (武帝) 及び斉王憲が幼少の頃、禁忌を避けるため、宮中に住むのは不利であった。太祖 (文帝) は賢の家に住まわせるよう命じ、六年後に宮中に戻った。そこで賢の妻呉氏に宇文の姓を賜り、姪女として養い、甚だ厚く賜与した。高祖が西巡した際、賢の邸宅に行幸し、詔して曰く、「朕が昔幼少の頃、この州に寓居した。使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・大 都督 ・瓜州諸軍事・瓜州刺史の賢は、この地の良家の出で、勲功と徳行を兼ねて顕著であり、朕に委ねられて居住し、多年にわたり輔導した。その規諫と補弼を思い、功労は甚だ大きい。桑の実を食らう者でさえ、なお良い音を懐かしむというのに、ましてこの恩恵を、どうして忘れることができようか。今、巡撫してここに居るが、代邑 (平城) と異なることはなく、目を上げれば依然としており、ますます旧来の思いを増す。属籍 (皇族の系譜) にはないが、朕は彼らを親族のように遇する。その兄弟から子・甥に至るまで、皆、宴席に預かり賜与を与えるべし」。そこで中侍上士の尉遅愷を瓜州に派遣し、璽書を下して賢を労い、衣一襲及び被褥、並びに御用の十三環金帯一本、中廐の馬一匹、金装の鞍と勒、雑綵五百段、銀銭一万を賜った。賢の弟の申国公穆にも同様に賜った。子・甥・男女・中外の諸孫三十四人には、それぞれ衣一襲を賜った。また、賢の甥の厙狄楽を儀同に任じた。賢の門生でかつて侍奉した者二人には大 都督 を、四人には帥 都督 を、六人には別将を授けた。奴隷で既に賤民の身分を免じられた者五人には軍主を授け、未だ免じられていない者十二人には代償を与えて放免した。
四年、王師が東征した際、朝廷の議論では西道が空虚であることを憂い、羌や渾の侵擾を慮り、賢を使持節・河州総管・三州七防諸軍事・河州刺史に任じた。河州は従来総管を置かなかったが、ここに至って創設したのである。賢は大いに屯田を営み、運漕を省き、斥候を多く設けて、寇戎に備えた。これにより羌・渾は跡を潜め、敢えて東に向かわなかった。五年、宕昌が辺境を侵し、百姓は生業を失ったため、洮州に総管府を設置してこれを鎮圧した。そこで河州総管を廃し、賢を改めて洮州総管・七防諸軍事・洮州刺史に任じた。時に羌が石門戍を寇し、橋道を破壊して撤去し、援軍を絶とうとした。賢は千騎を率いてこれを防ぎ、前後して数百人を斬り捕らえ、賊は遂に退走した。羌はまた吐谷渾の数千騎を引き連れ、西疆に入らんとした。賢は密かにこれを知り、また兵を遣わしてその隘路に伏せさせ、再びこれを大破した。虜は遂に震え恐れ、敢えて塞を犯さなかった。間もなく洮州総管を廃し、再び河州に総管府を置き、また賢をこれに任じた。
高祖は賢の旧恩を思い、召し出して大将軍に任じた。天和四年三月、京師で卒去した。時に六十八歳。高祖は自ら臨み、哀しみは左右を動かした。使持節・柱国大将軍・大 都督 ・涇原秦等十州諸軍事・原州刺史を追贈した。諡して桓という。子の端が嗣いだ。
端は字を永貴といい、開府儀同三司・司会中大夫・中州刺史の位を歴任した。高祖に従って北斉を平定し、 鄴城 の戦いで戦死した。上大将軍を追贈され、襄陽公に追封され、諡して果という。端の弟の吉は、儀同三司であった。吉の弟の崇は、太府中大夫・上柱国・広宗郡公の位に至った。崇の弟の孝軌は、開府儀同大将軍・升遷県伯であった。孝軌の弟の詢は、若くして顕位を歴任した。大象の末、上柱国・隴西郡公であった。
賢の弟の遠は、字を万歳という。幼少より器量と見識があり、志と度量は広大であった。かつて群児と戦闘の遊びをした時、指揮して部署を分けると、既に軍陣の法があった。郡守はこれを見て異とし、召して再び遊ばせた。群児は恐れて散り走ったが、遠は杖を持って叱り、再び以前の陣勢をとらせた。その意気は雄壮で、以前よりも甚だしかった。郡守は曰く、「この小児は必ずや将軍となるであろう。常人ではない」と。成長すると、書物や伝記に広く目を通したが、大略その趣旨を知るのみであった。
魏の正光の末、天下が沸き立ち、勅勒の賊徒胡琮が原州に侵攻逼迫し、その徒党は甚だ盛んであった。遠の兄弟は郷人を率いて励まし、防衛を図ろうとしたが、衆情は猜疑と恐れを抱き、意見に異同が多かった。遠は剣を押さえて言った、「近年以来、皇家は多難である。凶徒が機に乗じ、その毒牙を恣にしている。王の謀略は未だ振るわず、梟雄の夷滅が遅れている。まさに忠臣が節義を立て、義士が功を立てる時である。丈夫たるもの、どうして難に臨んで苟くも免れようとすべきか。死中に生を求めるべきである。諸君は皆、代々忠貞を積み、教義を浴びてきた。今もし同じきを棄てて異なるに就き、順を去って逆に効うならば、五尺の童子でさえ、なおこれを非とするであろう。再び何の顔あって天下の士に会えようか。異議を唱える者は、剣をもってこれを斬ることを請う」。そこで衆は皆、股が慄き、命に従わない者はなかった。そこで互いに盟約して誓いを立て、深く塁壁を固めて自ら守った。しかし外に救援なく、城は遂に陥落した。その徒党の多くは殺害されたが、ただ遠の兄弟だけは人に匿われて免れた。遠は賢に言った、「今、逆賊の勢いは盛んで、忠良を屠戮している。遠は密かに朝廷に入り、援軍を請いたい。兄上は跡を晦まして和光同塵し、禍を免れることができる。内で隙を伺い、変事に因って功を立てよ。もし王師が西を指せば、表裏相応じることができ、国家の急を殉じるとともに、私室の危難も全うできる。どうして凶威に窘迫され、坐して夷滅されるのを見るようなことがあろうか」。賢は曰く、「これこそ我が心である」。そこで東行の策を定めた。遠は寇賊の境を崎嶇として進み、京師に到達した。魏朝はこれを嘉し、武騎常侍を授けた。間もなく別将に転じ、帛千匹、及び弓・刀・衣・馬などを賜った。
爾朱天光が西征するに及んで、遠に精兵を配属し、郷導とさせた。天光は遠の才能と声望を欽慕し、特に引き立てて接し、伏波将軍・長城郡守・原州大中正に任じた。
後に侯莫陳崇の功に応じた功績により、高平郡守に遷った。太祖は遠に会い、語り合ってこれを喜び、麾下に置くよう命じ、甚だ親しく遇された。魏の孝武帝が西遷した際、仮節・銀青光禄大夫・主衣都統を授けられ、安定県伯に封じられ、邑五百戸を賜った。魏の文帝が帝位を嗣いだ初め、長寿を享受しようと思い、遠の字 (万歳) が嘉すべきであるとして、帝を扶けて殿に昇らせた。使持節・征東大将軍に遷り、爵位を公に進め、邑千戸を増やし、引き続き左右を領した。竇泰征討に従い、弘農を回復し、共に殊勲があった。 都督 ・原州刺史を授けられた。太祖は遠に言った、「孤が卿を持つことは、身体が手臂を用いるようなもので、どうして暫しも身から離すことができようか。本州の栄誉は、私事に過ぎない。卿が職務を述べるならば、孤は寄せる思い所がなくなる」。そこで遂に遠の兄の賢に代わって州事を行わせた。沙苑の戦いでは、遠の功績が最も大きく、車騎大将軍・儀同三司に任じられ、爵位を陽平郡公に進め、邑三千戸を賜った。間もなく独孤信に従って東方を攻略し、遂に洛陽に入った。東魏の将軍侯景らに包囲されたが、太祖が到着して解かれた。河橋の戦いでは、遠は独孤信と共に右軍となり、不利に陥って退却した。大丞相府司馬に任じられた。軍国の機密事務に、遠は皆参与したが、権勢を畏れて避け、あたかも自分に関係ないかのようであった。時に河東は回復したばかりで、民情は未だ安定せず、太祖は遠に言った、「河東は国の要鎮である。卿でなければこれを撫でることはできない」。そこで河東郡守を授けた。遠は風俗を厚く奨励し、農桑を勧めて課し、姦非を厳しく取り締まり、兼ねて守禦の備えを修めた。未だ一月にも満たないうちに、百姓はこれを慕った。太祖はこれを嘉し、書を下して労い問うた。侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に召された。魏が東宮を建てると、太子少傅を授けられ、間もなく少師に転じた。
東魏の北 豫 州刺史高仲密が州を挙げて帰順を請うた。時に斉の神武帝 (高歓) は河陽に兵を駐屯させていた。太祖 (宇文泰) は仲密の拠る所が遠く隔たり、応援し難いと考え、諸将は皆この出兵を恐れた。李遠が言うには、「北 豫 は賊の境内に遠く在り、高歓もまた河陽に兵を屯ませております。常理から論ずれば、実に救援は難しい。しかし兵務は神速を旨とし、事は機に合うことを貴びます。古人に言う、『獣の穴に入らざれば、安んぞ獣の子を得ん』と。もし奇兵を以て不意に出でれば、事あるいは成るでしょう。たとえ利鈍あろうとも、もとより兵家の常です。もし躊躇して行わねば、もはや平定の日はありません」。太祖は喜んで言った、「李万歳 (李遠) の言うことは、ほぼ人意に適う」。そこで行臺尚書を授け、先鋒として東に出させた。太祖は大軍を率いて続いて進んだ。李遠はひそかに軍を進め、仲密を救い出して帰還した。引き続き太祖に従って邙山で戦った。時に大軍は不利であったが、李遠のみは配下を整えて殿軍を務めた。まもなく 都督 義州弘農等二十一防諸軍事に任ぜられた。
李遠は綏撫 (慰め治めること) に巧みで、才幹と謀略があり、守戦の備えはことごとく精鋭であった。常に境外の人々を厚く慰撫し、間諜と為らせ、敵中の動静を必ず先んじて知った。事が漏れて誅殺される者があっても、悔いることはなかった。その人心を得ることこのようであった。かつて莎柵で狩猟をしていた時、草むらの中の石を伏せた兎と思い、これを射て命中させ、鏃は一寸余りも入った。近寄って見ると、石であった。太祖はこれを聞いて奇異に思い、書を賜って言った、「昔、李将軍広にこのような事があった。公今また同じく、世々その徳を載せるというべきである。たとえ熊渠の名声といえども、独りその美を専らにすることはできまい」。
東魏の将段孝先が歩騎二万を率いて宜陽に向かい、糧食を送ることを名目としたが、実は窺伺の意図があった。李遠は密かにその計略を知り、兵を遣わして襲撃してこれを破り、その輜重と器械を鹵獲した。孝先は逃げ去った。太祖はそこで自ら乗っていた馬と金帯・牀帳・衣被などを賜い、さらに雑綵二千匹を加え、大将軍に任じた。
まもなく、尚書左僕射に任ぜられた。李遠は太祖に申し上げて言った、「李遠は秦隴の匹夫に過ぎず、才芸もまたこの程度です。平生の望みは、一郡の太守に過ぎませんでした。機会に遭い、聖明 (太祖) に仕えることができました。主が貴ければ臣も昇り、ここに至ったのです。今、上列の位にあり、爵は通侯に及び、方面を委ねられ、生殺の権を手にしています。ただ栄寵を一時に受けるのみならず、また身代を輝かせるに足ります。しかし尚書僕射は、朝廷の要職に任ずるものであり、今これを賜って授けられるのは、かえってその罪責を重くするものです。明公 (太祖) がもし私を全うしようとされるなら、この任を止めてくださるようお願いします」。太祖は言った、「公は勲功と徳行を兼ね備え、朝廷が欽慕し属望する所である。衆の中から選んで挙げたまでで、どうして辞退する必要があろうか。かつ孤と公とは、義において骨肉に等しい。どうして官位の間で、すぐに退譲などさせようか。それは深く我が望みに背く」。李遠はやむを得ず、ようやく職を拝受した。太祖はまた第十一子の達 (宇文達、後の代王) を李遠の子とさせた。その親しく遇せられることこのようであった。
時に太祖の嫡嗣が定まっておらず、明帝 (宇文毓) が年長で、既に徳を成していた。孝閔帝 (宇文覚) は嫡子であったが、年はまだ幼かった。そこで太祖は群公を召して言った、「孤は嫡子を立てたいと思うが、大司馬が疑うのではないかと恐れる」。大司馬とは独孤信のことで、明帝の敬后の父である。皆黙っており、発言する者はいなかった。李遠が言った、「子を立てるには嫡を以てし長を以てせず、というのは礼経の明らかな義であります。畧陽公 (宇文覚) を世子とされるのに、公は何を疑われるのですか。もし独孤信を懸念されるなら、ただちに信を斬ることを請います」。そう言って刀を抜いて立ち上がった。太祖も立ち上がって言った、「何事がここまで至るのか」。独孤信もまた自ら陳述したので、李遠はやっと止めた。そこで群公は皆李遠の議に従った。 (李遠は) 退出して独孤信に拝謝して言った、「大事に臨んで、已むを得ずそうしたまでです」。独孤信もまた李遠に謝して言った、「今日は公のおかげで、この大事な議を決することができた」。六官が建てられると、小司寇に任ぜられた。孝閔帝が即位すると、位を進めて柱国大将軍とし、邑千戸を賜った。再び弘農を鎮守した。
李遠の子の李植は、太祖の時既に相府司録参軍となり、朝政を執り行っていた。晋公宇文護が権力を執ると、任用されないことを恐れ、密かに宇文護を誅殺しようとした。その話は孝閔帝紀にある。謀略がやや漏洩し、宇文護はこれを知ると、李植を出して梁州刺史とした。まもなく帝を廃すると、李遠と李植を召し還して朝廷に帰らせた。李遠は変事があることを恐れ、しばらく沈吟した後、言った、「大丈夫たるもの、寧ろ忠鬼となろうとも、どうして叛臣となりえようか」。そこで徴に応じた。京師に至ると、宇文護は李遠の功名が元来重いことを考慮し、なおも彼を全うしようと思った。そこで引き合わせて会見し、彼に言った、「公の息子が異謀を企てたのは、ただ我が身を屠戮するのみならず、宗廟社稷を傾け危うくするものであった。叛臣賊子は、理において共に憎むべきものであり、公は早く処分すべきである」。そこで李植を李遠に引き渡した。李遠は平素より李植を殊に愛しており、李植もまた弁舌に長けていたので、 (李植は) 初めからこの謀はなかったと言った。李遠はこれを真実であると思った。翌朝、李植を連れて宇文護に謁見しようとした。宇文護は李植が既に死んだと思い、言った、「陽平公 (李遠) はどういうつもりで自ら来られたのか」。左右が言うには、「李植も門外におります」。宇文護は大いに怒って言った、「陽平公は私を信じないのか」。そこで (李遠らを) 召し入れ、やはり李遠に同席を命じ、帝 (廃帝) と李植に李遠の前で対質させた。李植は言い詰まり、帝に言った、「もとよりこの謀を為したのは、社稷を安んじ、至尊 (帝) を利せんがためであった。今日ここに至って、何をかくくどくどと言うことがあろう」。李遠はこれを聞くと、自ら牀に身を投げて言った、「もしそうであるならば、誠に万死に値する」。そこで宇文護は李植を害し、さらに李遠を脅して自殺させた。時に五十一歳であった。李植の弟の叔諧、叔謙、叔譲もまた死んだ。残りは皆幼年であったため免れた。
建徳元年、晋公宇文護が誅殺されると、詔が下って言った、「故使持節・柱国大将軍・大 都督 ・陽平郡開国公李遠は、早くより任用を受け、夙に勲績を顕わし、内では帷幄に参じ、外では藩維に属した。王室に誠を竭くして、横禍に遭った。その貞良を思いやれば、追い悼みを増す。宜しく栄寵を加え、以て忠節を顕彰すべきである」。本官を追贈し、加えて陝熊等十五州諸軍事・陝州刺史とした。諡して忠といった。隋の開皇初年、上柱国・黎国公を追贈し、邑三千戸を賜い、諡を改めて懷といった。李植及び諸弟にも、皆加えて贈官と諡を賜った。
李植の弟の李基、字は仲和。幼い頃から声譽があり、容姿は美しく、談論を善くし、群書に渉猟し、特に騎射に巧みであった。太祖は召し見てこれを奇異とし、義帰公主を娶らせた。大統十年、員外 散騎常侍 として初めて官に就いた。後に父の勲功により、建安県公に封ぜられ、邑一千戸を賜った。累遷して撫軍将軍・銀青光禄大夫・通直 散騎常侍 となり、大丞相親信を領した。まもなく大 都督 に転じ、爵を進めて清河郡公とした。
太祖は危局を支え傾きを定め、威権は主君 (魏帝) を震わせ、魏の廃帝が即位した後は、猜疑の隙間は一層深まった。時に太祖の諸子は皆幼く、章武公宇文導と中山公宇文護はまた東西に出鎮しており、ただ諸婿に意を託して、心膂と為していた。李基と義城公李暉、常山公于翼らは皆武衛将軍となり、禁旅を分掌した。帝はこれを深く畏れたので、密謀は遂に漏洩した。
魏の恭帝が即位すると、使持節・車騎大将軍・儀同三司に遷り、 散騎常侍 を加えられ、爵を進めて燉煌郡公とし、まもなく侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、陽平国の世子に立てられた。六官が建てられると、御正中大夫に任ぜられた。孝閔帝が即位すると、出て海州刺史となった。
やがて兄の李植が捕らえられたため、連座して死罪に当たることとなったが、既に主君 (宇文護) の寵愛を受けており、また叔父の李穆が請願したため、罪を免れた。武成二年 (560年) 、江州刺史に任じられた。しかし左遷された後は、常に憂い恐れて志を得られずにいた。保定元年 (561年) 、任地で死去した。享年三十一。申公李穆は特に彼を寵愛しており、泣くたびに悲しみ慟哭し、親しい者に言うには、「良き児が我を去った。家門はこれで興ろうというのか」と。宣政元年 (578年) 、使持節・上開府儀同三司・大将軍・曹徐譙三州刺史・燉煌郡公を追贈され、諡を孝といった。子の李威が後を嗣いだ。
李威は字を安民といい、右侍上士から起家し、累進して開府儀同三司に至り、さらに遠 (李遠) の爵位である陽平郡公を改めて襲封した。高祖 (武帝) に従って北斉を平定し、功により上開府を授かり、軍司馬に任じられた。宣帝が即位すると、大将軍に進み、熊州刺史として出向した。大象 (579-580年) の末年に至り、位は柱国に至った。
史臣が言う。李賢とその兄弟は、乱離の世に生まれ、兵馬の間に身を置きながら、志略は縦横にめぐらされ、忠勇を奮い起こし、しばしば強敵を打ち破り、幾度も艱難危険をくぐり抜けた。しかしその功績は王府に記録されることもなく、官位も州郡を超えることはなかった。時に主君に遇い、名を策上し身を委ねてからは、ある者は幕府の煩わしい務めに使われ、ある者は軍旅の辛苦を共にし、生かされる恩恵を受け、国士としての待遇を蒙り、皆良い爵位に繋がり、それぞれ勲功を顕著にした。遂には文武の任を兼ね、名声は内外に響き渡り、位は高く望みは重く、国を輝かせ家を栄えさせ、萼が連なり光り、椒聊 (子孫) が繁茂して、冠冕の盛んなこと、当時比べるものはなかった。周から隋に至るまで、西京 (長安) の盛族として鬱然とし、漢の金日磾・張安世の家と比べても、尚及ばないほどである。
しかし太祖 (宇文泰) が崩御した当初、嗣君 (孝閔帝) は幼少であった。内には功臣が命に背き、外には強敵が国境に迫る。晋公 (宇文護) は猶子 (甥) の親として、図 (遺詔) を背負う託を受け、遂に家国を撫寧し、異端を開翦し、魏を革めて周を興し、遠きを安んじ近きを悦ばせた。功労勤勉は既に顕著であったが、過失悪行は未だ顕われていなかった。李植は先朝 (孝閔帝の代) に遇を受け、早くから機務に参与していたが、威権が既に失われることを恐れ、将来容れられぬことを懼れ、この禍の階梯を生み、この貝錦 (讒言) を成した。すなわち小をもって大を謀り、疎をもって親を間こうとしたのである。主君には昭帝 (漢の昭帝) の明がなく、臣下には上官桀 (漢の臣) の訴えがあった。嫌隙が既に兆し、禍いの原因はこれによる。冢宰 (宇文護) に君無き心を起こさせ、閔皇 (孝閔帝) を廃し 弑 す禍いを成したのは、李植によるものである。李遠は既に義方 (正しい道) の訓えに欠け、また先見の明もなく、これによって誅夷されたのは、不幸とは言えない。