周書
卷十五 列傳第七 寇洛 李弼 弟標 于謹 子寔
寇洛は上谷郡昌平県の人である。累代にわたり将吏を務めた。父の延壽は、和平年間 (460–465) に良家の子として武川に駐屯し、その地に住み着いた。
洛は性格が明敏で弁が立ち、細かいことに拘らなかった。正光末年 (524–525) 、北辺で賊が蜂起したため、郷里の者を率いて 并 州・肆州に避難し、爾朱栄に従って征討に加わった。賀抜岳が西征するに及んで、洛は岳と同郷であったため、募兵に応じて関中に入った。赤水蜀を破り、功により中堅将軍・屯騎 校尉 ・別将に任じられ、臨邑県男に封ぜられ、邑二百戸を賜った。また岳に従って渭水で賊帥の尉遅菩薩を捕らえ、百里細川で侯伏侯元進を破り、長坑で万俟醜奴を生け捕りにした。洛は常に力戦し、いずれも功績があった。龍驤将軍・ 都督 を加えられ、爵位は安郷県子に進み、累進して征北将軍・衛将軍となった。平涼において、洛を右 都督 とした。
侯莫陳悦が岳を害した後、その軍勢を併呑しようとした。当時、元帥を喪ったばかりで軍中は慌て騒いだが、洛は諸将の中で最も古参であり、平素から衆人の信頼を得ていたため、将兵を集結させ、復讐を志し、共に結束して、ついに全軍を保って帰還した。原州に到着すると、衆人は皆洛を盟主に推戴し、岳の軍勢を統率させようとした。洛はまた自ら才能がないと考え、固辞し、趙貴らと協議して太祖 (宇文泰) を迎えることにした。魏帝は洛が全軍を保全した功績により、武衛将軍に任じた。太祖が平涼に到着すると、洛を右大 都督 とした。侯莫陳悦討伐に従い、これを平定し、涇州刺史に任じられた。魏孝武帝が西遷すると、爵位は臨邑県伯に進み、邑五百戸を賜った。まもなく驃騎大将軍・儀同三司に進み、爵位は公に進み、邑五百戸を加増された。
大統初年 (535) 、魏文帝は詔して言った、「かつて侯莫陳悦は遠く逆賊と通じ、故清水公 (賀抜) 岳を密かに害し、その併呑を志した。当時は突然のことで、人心は驚き恐れた。使持節・驃騎大将軍・儀同三司・前涇州刺史・大 都督 ・臨邑県開国公の寇洛は、忠誠が心より発し、勲功と誠実を早くから立て、ついに義軍を糾合して、大丞相 (宇文泰) を待ち受けた。危難を見て命を捧げ、賢者を推挙して奉じた。これを賞さずして、どうして将来を勧め励ますことができようか。開府を加え、爵位を京兆郡公に進めるべし」。洛の母の宋氏を襄城郡君に封じた。また領軍将軍に転じた。三年 (537) 、出向して華州刺史となり、侍中を加えられた。独孤信とともに洛陽を回復し、弘農に移鎮した。四年 (538) 、太祖に従って東魏と河橋で戦った。軍が帰還すると、洛は配下部隊を率いて東雍州を鎮守した。五年 (539) 、任地で死去した。時に五十三歳。使持節・侍中・ 都督 雍華豳涇原三秦二岐十州諸軍事・太尉・ 尚書令 ・驃騎大将軍・雍州刺史を追贈され、諡を武といった。
子の和が後を嗣いだ。世宗 (宇文毓) の二年 (558) 、勲旧を記録し、洛を太祖 (宇文泰) の廟庭に配享させ、和に若口引氏の姓を賜い、松陽郡公に改封した。後に至り、開府儀同三司・賓部中大夫に至った。
洛の弟の紹は、上柱国・北平郡公の位に至った。
李弼は字を景和といい、遼東郡襄平県の人である。六世の祖の根は、慕容垂の黄門侍郎であった。祖父の貴醜は平州刺史、父の永は太中大夫で、涼州刺史を追贈された。
弼は若い時から大志を持ち、膂力は人に優れていた。魏の朝廷が乱れ衰えた時、親しい者に語って言った、「大丈夫が世に生を受けるには、必ず鋒刃を踏み、寇難を平定し、社稷を安んじて功名を取るべきである。どうして碌碌として階級と資格に依って栄位を求められようか」。魏の永安元年 (528) 、爾朱天光に召し出されて別将とされ、天光に従って西征し、赤水蜀を破った。功により征虜将軍に任じられ、石門県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。また賀抜岳とともに万俟醜奴・万俟道洛・王慶雲を討ち、いずれもこれを破った。弼は常に先鋒として敵陣に突入し、向かうところ敵はなびき、賊は皆これを畏れて、「李将軍の前には立ち向かうな」と言った。
天光が洛陽に向かうと、弼は侯莫陳悦に所属することとなり、大 都督 となり、通直 散騎常侍 を加えられた。太昌初年 (532) 、清水郡守、恒州大中正を授かった。まもなく南秦州刺史に任じられた。悦に従って征討し、しばしば勝利を収めた。悦が賀抜岳を害した時、軍は隴上に留まっていた。太祖が平涼から進軍して悦を討とうとした。弼は悦に諫めて言った、「岳は罪がないのに公がこれを害し、またその軍勢を慰撫して受け入れることもできず、彼らを行く所なくさせてしまった。宇文夏州 (宇文泰) がこれを収容して用いれば、その死力を得て、皆、主将の仇を討つと言うであろう。その意図は決して小さくはない。今は兵を解いて謝罪すべきです。そうでなければ、必ず禍いを受ける恐れがあります」。悦は慌て惑い、どうすべきか分からなかった。弼は悦が必ず敗れると知り、親しい者に言った、「宇文夏州は才略が世に抜きん出ており、徳義は尊ぶに足る。侯莫陳公は智は小さく謀は大きい。どうして自らを保つことができようか。我々もし計略を立てなければ、彼とともに族滅に至る恐れがある」。ちょうど太祖の軍が到着し、悦は秦州を捨てて南に出て、険阻な地を占拠して自らを固めた。翌日、弼は密かに使者を太祖に通わせ、悦を裏切って降伏することを約束した。夜、弼は配下部隊に命じて言った、「侯莫陳公は秦州に戻ろうとしている。お前たちはどうして荷造りしないのか」。弼の妻は悦の姨 (母の姉妹) であり、特に悦から親しく信任されていたため、兵士たちは皆これを信じた。人心は驚き乱れ、再び落ち着かず、皆散り散りに逃げ出し、争って秦州へ向かった。弼は先駆けて城門を占拠し、彼らを慰撫してまとめ、ついに軍勢を擁して太祖に帰順した。悦はこれによって敗北した。太祖は弼に言った、「公が我と心を同じくすれば、天下を平定するのは難しくない」。悦を破り、得た金宝や奴婢を、全て良いものを弼に賜った。引き続き弼に本官のまま原州を鎮守させた。まもなく秦州刺史に任じられた。
太祖 (宇文泰) が兵を率いて東下し、弼 (達奚武) を大 都督 に召し出し、右軍を率いさせて潼関及び迴洛城を攻め、これを陥落させた。大統初年、位を進めて儀同三司・雍州刺史とした。まもなくまた位を進めて驃騎大将軍・開府儀同三司とした。竇泰平定に従い、先鋒として敵陣に突入し、斬獲は最も多かった。太祖は自ら乗っていた騅馬と竇泰の着用していた兜鎧を弼に賜った。また弘農平定に従った。斉の神武帝 (高歓) と沙苑で戦ったとき、弼は軍を率いて右翼に位置したが、左翼軍が敵の攻撃を受けた。弼は配下の六十騎を呼び、自ら士卒の先頭に立ち、横から遮断したので、賊軍は二つに分断され、これによって大いに撃破した。功により特進を拝命し、趙郡公に封ぜられ、封邑を一千戸増加された。また賀抜勝とともに河東を攻め落とし、汾・絳の地を平定した。四年、太祖に従って洛陽を東討し、弼は先鋒となった。東魏の将莫多婁貸文が数千の兵を率いて、穀城に急に到来した。弼は倍の速さで前進し、兵士に鬨の声を上げさせ、柴を引きずって塵を揚げさせた。貸文は大軍が来たと思い、逃走した。弼はこれを追撃し、その兵を捕虜とし、貸文を斬り、その首を本軍に送った。翌日、また太祖に従って斉の神武帝と河橋で戦い、しばしば深く敵陣に突入し、七か所の傷を負い、ついに捕らえられ、幾重にも包囲されて監視された。弼は重傷を負ったふりをして、地面に倒れ絶命したかのように見せた。監視の者が少し油断したとき、弼は傍らに馬がいるのを見て、跳び乗って西へ疾走し、逃れることができた。五年、 司空 に遷った。六年、侯景が荊州を占拠したので、弼は独狐信とともにこれを防ぎ、侯景は退走した。九年、邙山の戦いに従い、太尉に転じた。十三年、侯景が河南の六州を率いて帰順してきたので、東魏はその将韓軌を遣わして潁川で侯景を包囲した。太祖は弼に軍を率いて侯景を救援させ、諸将は皆弼の指揮を受けた。弼が到着すると、韓軌は退いた。王思政がさらに進んで潁川を占拠したので、弼は軍を引き返した。十四年、北稽胡が反乱を起こしたので、弼はこれを討伐平定した。太保に遷り、柱国大将軍を加えられた。魏の廃帝元年、徒河氏の姓を賜った。太祖が西巡したとき、弼に留守を命じ、後の事は皆彼に諮問して決裁させた。六官が建てられると、太傅・大 司徒 を拝命した。茹茹が突厥に逼迫され、国を挙げて降伏を請うたとき、弼は前軍を率いてこれを迎えた。前後部の羽葆鼓吹を与えられ、雑綵六千段を賜った。晋公 (宇文) 護が政権を執ると、朝廷の大事は皆于謹及び弼らと参議した。孝閔帝が即位すると、太師を除かれ、趙国公に進封され、封邑一万戸となった。前後の賞賜は巨万に累なった。
弼は兵を率いて征討するたびに、朝に命令を受け、夕方にはすでに出発し、私事を問わず、また家に宿泊することもなかった。その国を憂い身を忘れる様は、皆このようなものであった。また性格は沈着雄大で深い識見があり、故に功名を全うすることができた。元年十月、在官のまま薨去した。享年六十四。世宗 (宇文毓) はその日に喪に服し、葬儀までに三度その喪に臨んだ。兵卒を発して墓穴を穿たせ、大輅・龍旂を与え、軍勢を墓所まで陳列させた。諡して武といった。まもなく魏国公に追封され、太祖の廟庭に配祀された。
子に耀 (達奚耀) がいた。次子の輝 (達奚輝) は、太祖の娘である義安長公主に尚し、これをもって後嗣とした。
輝は大統年間、員外散騎侍郎として出仕し、義城郡公の爵を賜り、撫軍将軍・大 都督 ・鎮南将軍・ 散騎常侍 を歴任した。輝は常に一年ほど病臥し、太祖はこれを憂い、日に銭一千を賜って薬石の費用に供した。魏の廃帝が異謀を企てたとき、太祖は輝に武衛将軍を授け、宿衛の事を総管させた。まもなく帝は廃され、車騎大将軍・儀同三司を除かれた。魏の恭帝二年、驃騎大将軍・儀同三司を加えられ、岐州刺史として出向した。太祖の西巡に従い、公卿の子弟を率いて別に一軍をなした。孝閔帝が即位すると、荊州刺史を除かれた。まもなく趙国公の爵を襲封し、魏国公に改封された。保定年間、将軍号を加えられた。天和六年、位を進めて柱国となった。建徳元年、総管梁洋等十州諸軍事・梁州刺史として出向した。当時、渠・蓬二州の生獠が長年侵暴していたが、輝が州に至って綏撫すると、皆来て帰附した。璽書をもって労った。
耀は後嗣となれなかったが、朝廷は弼の功績が重いとして、耀を邢国公に封じ、位は開府に至った。子の寛は、大象の末、上大将軍蒲山郡公となった。輝の弟の衍は、大象の末、大将軍・真郷郡公となった。衍の弟の綸は最も著名で、文武の才用があった。功臣の子として、若くして顕職にあり、吏部・内史下大夫を歴任し、皆その官にふさわしい評判を得た。位は司会中大夫・開府儀同三司に至り、河陽郡公に封ぜられた。斉への聘問使の主となった。早世した。子の長雅が後を嗣いだ。綸の弟の晏は、建徳年間、開府儀同三司・大将軍・趙郡公となった。高祖 (武帝宇文邕) に従って斉を平定し、幷州で戦死した。子の璟は晏が王事に死んだことを理由に、すぐにその爵を襲封した。弼の弟に㯹 (達奚㯹) がいた。
㯹は字を霊傑という。背丈は五尺に満たなかったが、性格は果断で胆気があった。若くして爾朱栄に仕えた。魏の永安元年、別将を兼ねて爾朱栄に従い元顥を破り、討逆将軍を拝命した。爾朱栄が害されたとき、㯹は爾朱世隆に従って爾朱栄の妻を奉じて河北に奔った。また爾朱兆に従って洛陽に入った。淝城郡男の爵を賜り、 都督 に遷った。普泰元年、元樹が梁から入って譙城を占拠したので、㯹は行臺樊子鵠に従ってこれを撃破し、右将軍に遷った。
魏の孝武帝が西遷すると、㯹は大 都督 元斌之に従って斉の神武帝と成臯で戦った。敗北し、斌之とともに梁に奔った。梁の主は賓礼をもって待遇したが、後に逃げ帰ることができた。大統元年、撫軍将軍を授けられ、晋陽県子に進封され、封邑四百戸となった。まもなく太祖の帳内 都督 となった。弘農奪回に従い、沙苑を破った。㯹は馬に跨り矛を振るって、衝鋒陷陣し、鞍甲の中に身を隠した。敵人はこれを見て、皆「この小児を避けよ」と言った。㯹の形貌がまさにこのようなものであることを知らなかったのである。太祖も初めは㯹の 驍 悍を聞いていたが、その能力を見たことはなく、この時になって初めて嘆賞した。㯹に言った。「ただ胆決がこのようであれば、どうして必ず八尺の躯が必要であろうか。」功により爵を公に進め、封邑を四百戸増加された。まもなく宇文貴に従って東魏の将任祥・堯雄らと潁川で戦い、皆これを破った。太子中庶子に召された。九年、邙山の戦いに従い、持節・大 都督 に遷った。十三年、車騎大将軍・儀同三司を拝命した。また弼に従って稽胡を討ち、㯹の功績が最も多かったので、幽州刺史を除かれ、封邑を三百戸増加された。十五年、驃騎大将軍・開府儀同三司を拝命した。魏の廃帝初年、趙貴に従って茹茹を征し、論功第一となり、封山県公に改封され、封邑は前と合わせて二千一百戸となった。孝閔帝が即位すると、位を進めて大将軍となった。武成初年、また豆盧寧に従って稽胡を征し、大いに獲るところがあって帰還した。爵を汝南郡公に進めた。総管延綏丹三州諸軍事・延州刺史として出向した。四年、任地で卒した。恆朔等五州刺史を追贈された。
㯹には子がなく、弼の子の椿を後嗣とした。先に㯹の勲功により、魏平県子に封ぜられていた。大象の末、開府儀同三司・大将軍・右宮伯となり、河東郡公に改封された。
于謹は字を思敬といい、河南洛陽の人である。幼名は巨彌といった。曾祖父の婆は、魏の懐荒鎮将であった。祖父の安定は、平涼郡守・高平郡将であった。父の提は、隴西郡守、茌平県伯であった。保定二年、謹の著しい勲功により、使持節・柱国大将軍・太保・建平郡公を追贈された。
謹は性格沈着深遠にして、識見と度量あり、経史を少し窺い、特に孫子の兵書を好んだ。里閭に隠居し、仕官進取の志は未だなかった。或る者がこれを勧めると、謹は言う、「州郡の職は、昔の人が軽蔑したところであり、台鼎の位は、時機の到来を待たねばならない。私が郡邑に優遊しているのは、ただ年月を過ごすためである」と。太宰の元穆がこれを見て、嘆じて言う、「王を補佐する材なり」と。
及んで破六汗拔陵が北境で首謀して乱を起こし、茹茹を引き入れて援けとし、大行臺僕射の元纂が兵を率いてこれを討った。元纂は早くから謹の名を聞き、辟召して鎧曹参軍事とし、軍に従って北伐した。茹茹は大軍の逼迫を聞き、遂に塞外に逃れ出た。元纂は謹に二千騎を率いてこれを追撃するよう命じ、郁対原に至り、前後十七度戦い、その衆をことごとく降伏させた。後に軽騎を率いて塞外に出て賊を偵察したところ、たまたま鉄勒の数千騎が突然到来した。謹は衆寡敵せず、退けば必ず免れ難いと見て、その騎兵を散らし、草むらに隠れさせ、また人を遣わして山に登らせ指揮をとらせ、あたかも軍勢を分派するかのようにした。賊はこれを見て、伏兵ありと疑ったが、その衆を恃んで、慮いとせず、進軍して謹を逼迫した。謹は常に乗る駿馬一頭は紫、一頭は騧 (黄黒色) で、賊が以前から識別していたので、二人にそれぞれ一頭ずつ乗せて、突如陣を突破して出撃させた。賊は謹と思い、皆争ってこれを追った。謹はそこで残りの軍を率いてこれを撃ち、その追撃騎兵は遂に奔走し、これによって塞内に入ることができた。
正光四年、行臺の広陽王元深が兵を整えて北伐し、謹を長流参軍に引き入れ、特に礼遇して接した。すべての謀議は、皆謹と参酌した。そしてその子の仏陀をして謹に拝謁させた。その待遇はこのようなものであった。遂に広陽王とともに賊の首領の斛律野穀祿らを撃破した。当時は魏末の乱世で、群盗が蜂起していた。謹はそこで悠々と広陽王に言った、「正光以後より、海内は沸騰し、郡国は荒廃し、農商は廃業しております。今、殿下は義を奉じて誅罰を行い、遠く関塞に臨んでおられますが、しかし醜類が蟻のように集まり、その徒党は実に多い。もし武力を極め兵を尽くせば、恐らくは上策とは申せません。謹は願わくば大王の威略を拝し、馳せ往ってこれを諭し、必ずや兵甲を労することなく、清蕩を致すことができましょう」と。広陽王はこれを認めた。謹は諸国の言語を兼ねて解したので、単騎で賊中に入り、恩信を示した。そこで西部鉄勒の酋長の乜列河らが、三万余戸を率いてことごとく帰順し、相率いて南遷した。広陽王は謹とともに折敷嶺まで出迎えようとした。謹は言った、「破六汗拔陵の兵衆は少なくなく、乜列河らの帰附を聞けば、必ず来て邀撃するでしょう。彼らが先に険要の地を占拠すれば、争鋒するのは難しくなります。今、乜列河らを餌として用いれば、彼らは競って来て掠奪し、その後で伏兵を設けて待てば、必ずや掌を指すようにしてこれを撃破できます」と。広陽王はその計略を認めた。抜陵は果たして来て邀撃し、嶺上で乜列河を破り、その部衆は皆没した。謹の伏兵が発動し、賊は遂に大敗し、乜列河の衆をことごとく収得した。魏帝はこれを嘉し、積射将軍に任じた。
孝昌元年、また広陽王に従って鮮于脩礼を征討した。軍は白牛邏に駐屯し、たまたま章武王が脩礼に害されたので、遂に軍を中山に留めた。侍中の元晏が霊太后に対して宣言した、「広陽王は宗室の重きを以て、律を授かり専ら征伐を受けましたが、今はぐずぐずして進まず、非望を図って坐しております。また于謹という者がおり、智略人に過ぎ、その謀主となっております。風塵の隙に、恐らくは陛下の純臣ではありますまい」と。霊太后は深くこれを聞き入れた。詔を下して尚書省の門外に榜を立て、謹を捕らえ得る者を募り、重賞を許した。謹はこれを聞き、広陽王に言った、「今、女主が朝政に臨み、讒佞を信じています。もし殿下の素心を明らかにしなければ、禍が日に迫ることを恐れます。謹は自ら身を縛って宮闕に詣で、有司に罪を帰し、腹心を披露して、殃禍を免れたいと願います」と。広陽王はこれを許した。謹は遂に榜の下に至り言った、「私はこの人物を知っている」と。人々が共に詰問した。謹は言った、「私がそれである」と。有司がこれを上奏した。霊太后は引見し、大いに怒った。謹は広陽王の忠誠を詳しく論じ、兼ねて停軍の状況を陳述した。霊太后の気持ちは少し解け、遂にこれを赦した。まもなく別将を加えられた。
二年、梁の将軍曹義宗が穣城を占拠して守り、しばしば辺境の患いとなった。そこで謹に行臺尚書の辛纂とともに兵を率いてこれを討伐するよう命じた。相持すること数年、数十度の戦いを経た。 都督 ・宣威将軍・冗従僕射に進んで任じられた。孝荘帝が即位すると、鎮遠将軍に任じられ、まもなく直寝に転じた。また太宰の元天穆に従って葛栄を討ち、邢杲を平定し、征虜将軍に任じられた。爾朱天光に従って万俟醜奴を破り、石城県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。普泰元年、征北大将軍・金紫光禄大夫・ 散騎常侍 に任じられた。また天光に従って宿勤明達を平定し、別に夏州の賊の賀遂有伐らを討伐し、これを平定して大 都督 を授けられた。天光に従って韓陵山で斉の神武帝と戦い、天光が敗れた後、謹は遂に関中に入った。賀抜岳が謹を留めて鎮守させるよう上表し、衛将軍・咸陽郡守に任じられた。
太祖が夏州に臨むと、謹を防城大 都督 とし、兼ねて夏州長史とした。及んで賀抜岳が害されると、太祖は平涼に赴いた。謹はそこで太祖に言った、「魏の帝位は衰え、権臣が命を擅にし、群盗が蜂起し、民衆は嗷々としています。明公は超世の資を仗り、時を済うす謀略を懐き、四方遠近、皆心を帰せんとしています。願わくば早く良図を建て、衆望に副わんことを」と。太祖は言った、「どうしてそう言うのか」と。謹は答えて言った、「関右は、秦漢の旧都、古くより天府と称され、将士は 驍 勇、その土地は膏腴、西には 巴蜀 の豊饒、北には羊馬の利があります。今もしその要害を占拠し、英雄を招集し、士卒を養い農を勧めれば、時変を観るに足ります。かつ天子は洛陽におられ、群兇に逼迫されています。もし明公の懇誠を陳べ、時事の利害を算え、関右に都するよう請えば、帝は必ず嘉して西遷されるでしょう。その後、天子を奉じて諸侯に令し、王命を奉じて暴乱を討てば、桓公・文公の業は、千載一遇の時機です」と。太祖は大いに喜んだ。たまたま勅が下りて謹を閤内大 都督 に追任することとなり、謹はそこで関中に都する策を進言し、魏帝はこれを聞き入れた。
まもなく斉の神武帝 (高歓) が洛陽を脅かすと、于謹は魏帝に従って西遷した。引き続き太祖 (宇文泰) に従って潼関を征し、迴洛城を破り、使持節・車騎大將軍・儀同三司・北雍州刺史を授けられ、爵位を藍田縣公に進められ、邑一千戸を賜った。大統元年、驃騎大將軍・開府儀同三司に任じられた。その年、夏陽の人王遊浪が楊氏壁に拠って謀反を起こしたので、于謹はこれを討ち捕らえた。この年、大軍が東征した際、于謹は前鋒となった。盤豆に至ると、東魏の将高叔禮が険要を守って降らなかったが、これを攻め破った。その兵卒一千人を捕虜とした。これにより弘農を陥とし、東魏の陝州刺史李徽伯を生け捕りにした。斉の神武帝が沙苑に至ると、于謹は太祖に従って諸将と力を合わせて戦い、これを破り、爵位を常山郡公に進められ、邑一千戸を加増された。また河橋の戦いに従軍した。大丞相府長史に任じられ、大行臺尚書を兼ねた。稽胡の帥で夏州刺史の劉平が叛くと、于謹は兵を率いてこれを討ち平らげた。大 都督 ・恒 并 燕肆雲五州諸軍事・大將軍・恒州刺史に任じられた。都に入って太子太師となった。九年、再び太祖に従って東征し、別に柏谷塢を攻めて陥とした。邙山の戦いでは、大軍が不利となったが、于謹は配下の兵を率いて偽って降伏し、道の左側に立った。斉の神武帝の軍は勝ちに乗じて追撃し、警戒しなかった。追撃の騎兵が通り過ぎた後、于謹は背後からこれを撃ち、敵軍は大いに驚いた。独孤信もまた後方で兵士を集めて奮撃したので、斉の神武帝の軍は遂に乱れ、これによって大軍は全軍を保つことができた。十二年、尚書左僕射に任じられ、司農卿を領した。侯景が帰順を申し出て援軍を請うと、太祖は李弼に命じて兵を率いて応じさせようとした。于謹は諫めて言った、「侯景は若い頃から兵権を握り、その心情は実に測り難い。しばらくは礼遇を厚くして、その変を見るべきです。すぐに兵を派遣しようとするのは、まことに良策とは申せません」。太祖は聞き入れなかった。まもなく再び大行臺尚書・丞相府長史を兼ね、兵を率いて潼関を鎮守し、華州刺史を加授され、秬鬯一卣と圭瓚の副えを賜った。ほどなく 司空 に任じられ、邑四百戸を加増された。十五年、柱國大將軍に進んだ。斉氏が帝を称すると、太祖はこれを征伐し、于謹を後軍大 都督 とした。別に一子を鹽亭縣侯に封じ、邑一千戸を賜った。魏恭帝元年、雍州刺史に任じられた。
初め、梁の元帝が侯景を平定した後、江陵で帝位を継ぎ、密かに斉氏と使者を通じ、侵攻を謀っていた。その兄の子である岳陽王蕭詧は当時雍州刺史であったが、梁の元帝がその兄の蕭譽を殺したため、仇敵の関係となった。蕭詧は襄陽を拠点として帰順を申し出、王師の派遣を請うた。そこで于謹に命じて兵を率いて討伐に向かわせた。太祖は青泥谷で餞別した。長孫儉が于謹に問うて言った、「蕭繹 (梁元帝) の計略は、いかがなるものでありましょうか」。于謹は言った、「漢水・沔水に兵を耀かし、巻き起こるようにして長江を渡り、直ちに丹陽を占拠するのが、その上策である。城郭内の住民を移し、子城に退いて守り、その城壁を高く堅固にして、援軍の到着を待つのが、その中策である。移動が困難であれば、羅城 (外郭) を拠って守るのが、その下策である」。長孫儉が言った、「蕭繹がどの策を採るとお考えか」。于謹は言った、「必ず下策を用いるであろう」。長孫儉が言った、「彼が上策を捨てて下策を用いるのは、なぜか」。答えて言った、「蕭氏は江南を保ち拠って、幾世代にもわたって続いてきた。中原に多事が続き、外征に手が回らなかった。また我々に斉氏の患いがあるため、兵力が分散できないと必ず考えるであろう。かつ蕭繹は臆病で謀がなく、疑い深く決断力に乏しい。愚かな民衆は事の始めを共に謀るのは難しく、皆、郷里の住居に執着し、移住を嫌うので、羅城を守ることになるであろう。それゆえ下策を用いるのである」。于謹は中山公宇文護及び大將軍楊忠らに命じ、精鋭の騎兵を率いて先に江津を占拠させ、退路を断たせた。梁軍は外城に木柵を立て、その広さは六十里に及んだ。まもなく于謹が到着し、全軍でこれを包囲した。梁の主 (元帝) はたびたび兵を城南から出して戦わせたが、常に于謹に破られた。十六日にして、外城は陥落した。梁の主は子城に退いて守った。翌日、太子以下を率いて、手を縛って降伏し、まもなく殺害された。その男女十余万人を捕虜とし、府庫の珍宝を収めた。宋の渾天儀、梁の日晷銅表、魏の相風烏、銅蟠螭趺、大玉 (直径四尺、周囲七尺) 、及び諸々の輿輦や法物を得て献上し、軍は私することはなかった。蕭詧を梁の主として立て、軍を整えて凱旋した。太祖は自らその邸宅に赴き、宴を開いて語らい、大いに歓んだ。于謹に奴婢一千人と梁の宝物、並びに金石絲竹の楽器一式を賞賜し、別に新野郡公に封じ、邑二千戸を賜った。于謹は固辞したが、太祖は許さなかった。また司楽に命じて常山公 (于謹) の梁平定を称える歌十首を作らせ、楽人に歌わせた。
于謹は自ら長く権勢の座にあり、地位と声望が重く、功名も既に立てたので、優雅な閑居を保ちたいと願った。そこで以前乗っていた駿馬と着用していた鎧甲などを献上した。太祖はその意を察し、言った、「今、大悪人 (高氏) は未だ平定されておらず、公がどうしてただちに独り善がりをなされようか」。遂に受け取らなかった。六官が建てられると、大 司徒 に任じられた。
太祖が崩御すると、孝閔帝はまだ幼く、中山公宇文護は顧命を受けていたが、名声と地位は元より低く、諸公卿はそれぞれ政権を執ろうと図り、互いに服従しなかった。宇文護は深く憂慮し、密かに于謹に相談した。于謹は言った、「かねてより丞相 (宇文泰) の特別なご眷顧を受け、骨肉にも勝る深い情誼をいただいております。今日の事態は、必ず命をかけて争わねばなりません。もし衆人の前で方策を定めるならば、公 (宇文護) は辞退することができなくなるでしょう」。翌日、諸公卿が会議した。于謹は言った、「昔、帝室が危うく傾いた時、人々は鼎を問うことを図りました。丞相は匡救を志し、袖を翻して戈を担いだので、国祚が中興し、民衆は本性に従うことができました。今、上天が禍を降し、百官を急に失いました。嗣子は幼いが、中山公は親族としては甥 (猶子) にあたり、かつ顧命を受けて託されております。軍国大事は、道理として彼に帰すべきです」。その言葉と表情は厳しく激しく、一同は皆恐れ動いた。宇文護は言った、「これは家事である。私は平素より愚昧ではあるが、どうして辞退できようか」。于謹は太祖 (宇文泰) と同等の立場であったため、宇文護は常に礼を尽くして敬っていた。この時、于謹は進み出て言った、「公がもし軍国を統理されるならば、我々于謹らはよりどころを得ます」。こうして再拝した。諸公卿は于謹に迫られ、やはり再拝した。これによって衆議がようやく定まった。
孝閔帝が即位すると、燕國公に進封され、邑一万戸を賜った。太傅・大宗伯に転じ、李弼・侯莫陳崇らと共に朝政を参議した。賀蘭祥が吐谷渾を討伐した際には、于謹が遠くからその軍を統率し、方略を授けた。
保定二年、于謹は年老いたことを理由に、上表して致仕を願い出た。詔書で答えて言った、「昔、師尚父 (呂尚) は年齢九十を超え、召公奭はほぼ百歳に及んだが、皆、王室のために勤め、自ら努めて怠らなかった。今、元凶は未だ除かれず、天下は統一されていない。公を舟や楫として、艱難を広く渡るのに用いようとしているのに、どうして二公の高雅な節操を忘れて、このような請願をなされようか。朕はこれを恥じる。公がもしさらに謙譲を執られるならば、有司は啓 (上表) を断るべきである」。
三年 (563年) 四月、詔して曰く、「元首を立てて、教化を主とし、民に孝悌を率い、之を仁寿に置く。是を以て古先の明后は、皆斯の典の如くにして、三老五更を立て、躬自ら袒割す。朕以て眇身を以て、茲に南面を処す。何ぞ敢て此の黄髪を遺して、尊敬を加えざらんや。太傅・燕国公の謹は、徳を執ること淳固にして、国の元老たり。饋して以て言を乞い、朝野の属する所なり。三老と為すべし。有司礼を具え、日を択びて以て聞け」と。謹上表して固く辞す。詔答えて許さず。又延年杖を賜う。高祖太学に幸して以て之に食らわす。三老門に入る。皇帝迎へ拝す門屏の間。三老拝に答う。有司三老の席を中楹に設け、南向す。太師・晋国公の護階を升り、几を席に設く。三老席を升り、南面して几に憑りて坐し、師道を以て自ら居す。大司寇・楚国公の寧階を升り、舄を正す。皇帝階を升り、斧扆の前に立ち、西面す。有司饌を進む。皇帝跪きて醬豆を設け、親ら袒割す。三老食訖る。皇帝又親ら跪きて爵を授けて以て酳す。有司撤き訖る。皇帝北面して立ちて道を訪う。三老乃ち起ちて席の後に立つ。皇帝曰く、「猥りに天下の重任に当たり、惟みるに不才にして、政治の要を知らず。公其れ之を誨えよ」と。三老答えて曰く、「木は縄を受くれば則ち正しく、后は諫に従えば則ち聖なり。古より明王聖主は、皆虚心に諫を納れ、以て得失を知り、天下乃ち安んず。唯陛下之を念え」と。又曰く、「国の本と為すは、忠信に在り。是を以て古人云う、食を去り兵を去るとも、信は失うべからず。国家の興廃は、之に由らざるは莫し。願わくは陛下守りて失うこと勿れ」と。又曰く、「国を治むるの道は、須らく法有るべし。法は国の綱紀なり。綱紀は正しからざるべからず。正す所は賞罰に在り。若し功有れば必ず賞し、罪有れば必ず罰せば、則ち善有る者は日に益し、悪を為す者は日に止まん。若し功有りて賞せず、罪有りて罰せざれば、則ち天下善悪分かず、下民手足を措く所無からん」と。又曰く、「言行は身を立つるの基なり。言出でて行従う。誠に相顧みるに宜し。願わくは陛下三思して言い、九慮して行え。若し思わず慮わざれば、必ず過失有らん。天子の過ちは、事の大小を問わず、日月の蝕の如く、知らざる者莫し。願わくは陛下之を慎め」と。三老言畢る。皇帝再拝して之を受け、三老拝に答う。礼成りて出づ。
晋公の護が東伐するに及び、謹は時に老病なり。護は其の宿将旧臣を以て、猶同行を請い、戎略を詢訪す。軍還りて、鐘磬一部を賜う。天和二年 (567年) 、又安車一乗を賜う。尋いで雍州牧を授く。三年、位に薨ず。年七十六。高祖親臨し、詔して譙王の儉に喪事を監護せしめ、繒綵千段、粟麦五千斛を賜い、本官を贈り、使持節・太師・雍恒等二十州諸軍事・雍州刺史を加え、諡して文と曰う。葬るに及び、王公已下、咸く郊外に送り出す。太祖の廟庭に配享す。
謹は智謀有り、事上に善し。名位重きも、愈々謙挹を存す。毎に朝参往来するも、両三騎に過ぎず。朝廷凡そ軍国の務有るは、多く謹と之を決す。謹も亦其の智能を竭くし、帝室を弼諧す。故に功臣の中、特に見委信せられ、始終一の若く、人の間言無し。毎に諸子を教訓し、務めて静退を存す。年歯遐長に加え、礼遇隆重にして、子孫繁衍し、皆顕達に至り、当時之と比ぶる莫し。子の寔嗣ぐ。
寔は字を賓実と云い、少より和厚なり。弱冠に未だ至らざる年、太祖の幕府に入り、潼関及び迴洛城に従征す。大統三年 (537年) 、又弘農を復するに従い、沙苑に戦う。前後の功を以て、万年県子に封ぜられ、邑五百戸を賜い、主衣都統を授く。河橋の役、先鋒として陣に陷る。軍還りて、寔又内殿と為り、通直 散騎常侍 を除かれ、転じて太子右衛率と為り、 都督 を加う。又太祖に従い邙山に戦う。十一年、詔して寔に東宮に侍講せしむ。侯景来附す。寔を遣わして諸軍と之を援けしめ、九曲城を平ぐ。大 都督 に進み、儀同三司に遷り、 散騎常侍 を加う。十四年、尚書を除く。是の歳、太祖魏太子と西巡し、寔時に従う。太祖隴山の上に石を刻み、功臣の位を録し、次を以て鐫勒す。預め寔を以て開府儀同三司と為す。十五年に至り、方に之を授く。尋いで滑州刺史を除き、特ち鼓吹一部を給し、爵を進めて公と為し、邑二百戸を増す。魏恭帝二年 (555年) 、羌の東念姐、部落を率いて反し、吐谷渾と結連し、毎に辺患と為る。大将軍の豆盧寧を遣わして之を討たしむ。時を踰えても剋たず。又寔を令して往かしめ、遂に之を破る。太祖手書を労問し、奴婢一百口、馬一百匹を賜う。孝閔帝践祚し、民部中大夫を授け、爵を進めて延寿郡公と為し、邑二千戸を賜う。又位を進めて大将軍と為し、勲州刺史を除き、入りて小司寇と為る。天和二年 (567年) 、延州蒲川の賊の郝三郎等反し、丹州を攻逼す。寔を遣わして衆を率いて之を討平し、三郎の首を斬り、雑畜万余頭を獲る。乃ち延州刺史を除く。五年、爵を襲ぎて燕国公と為り、位を進めて柱国と為る。罪を以て免ぜらる。尋いで本官に復し、涼州総管を除く。大象二年 (580年) 、上柱国を加えられ、大左輔に拝す。隋の開皇元年 (581年) 、薨ず。 司空 を贈られ、諡して安と曰う。
子の顗は、大象の末、上開府・呉州総管・新野郡公。顗の弟の仲文は、大将軍・延寿郡公。仲文の弟の象賢は、儀同三司、高祖の女を尚ぶ。
寔の弟の翼は、自ら伝有り。翼の弟の義は、上柱国・潼州総管・建平郡公。義の弟の礼は、上大将軍・趙州刺史・安平郡公。礼の弟の智は、初め開府と為り、宣帝の旨を受け、斉王の憲の反を告げ、遂に斉国公に封ぜらる。尋いで柱国・涼州総管・大 司空 に拝す。智の弟の紹は、上開府・綏州刺史・華陽郡公。紹の弟の弼は、上儀同・平恩県公。弼の弟の蘭は、上儀同・襄陽県公。蘭の弟の曠は、上儀同、恒州刺史を贈らる。
史臣曰く、賀抜岳の変は倉卒に起り、侯莫陳悦は兼 并 を意とす。時に将は離心有り、士は固き志無し。洛 (于謹) 散乱を撫緝し、仇讐を抗禦す。師を全うして還り、敵人は覬覦の望を絶つ。徳を度りて処し、霸王は匡合の謀を建つ。此の功故に小さからず。李弼・于謹は時に佐くるの略を懐き、聖を啓くの運に逢い、綢繆顧遇し、艱難を締構す。帷幄に其の謨猷を尽くし、方面に其の庸績を宣ぶ。巨川の舟艥に擬し、大廈の棟梁と為る。惟に攀附して名を成すのみに非ず、抑も材謀自ら取るなり。謹に及びては、耆年碩徳を以て、誉重く望高く、礼は上庠に備わり、功は司楽に歌わる。常に満盈を以て戒めと為し、覆折を憂いとす。君子有らざれば、何を以て能く国たらんや。