周書

巻016

卷十六 列傳第八 趙貴 獨孤信 侯莫陳崇 十二大將軍

趙貴

原文 趙貴

趙貴、字は元貴、天水郡南安県の人である。曾祖父の趙達は、北魏の庫部尚書・臨晉子であった。祖父の趙仁は、良家の子として武川に駐屯し、その地に家を定めた。

原文 趙貴字元貴,天水南安人也。曾祖達,魏庫部尚書、臨晉子。祖仁,以良家子鎭武川,因家焉。

趙貴は若くして聡明で悟りが早く、節義と気概を備えていた。北魏の孝昌年間(525–527)、天下に兵乱が起こると、趙貴は郷里の人々を率いて難を避け南遷した。葛栄が中山を陥落させた際に遭遇し、拘束・脅迫されることとなった。葛栄が敗れると、爾朱栄は趙貴を別将とし、元顥討伐に従軍させて功績を挙げ、燕楽県子の爵位を賜り、伏波将軍・武賁中郎将に任じられた。賀抜岳に従って関中を平定し、魏平県伯の爵位を賜り、封邑五百戸を与えられた。累進して鎮北将軍・光禄大夫・都督となった。

原文 貴少貴悟,有節槩。魏孝昌中,天下兵起,貴率鄕里避難南遷。屬葛榮陷中山,遂被拘逼。榮敗,爾朱榮以貴爲別將,從討元顥有功,賜爵燕樂縣子,授伏波將軍、武賁中郎將。從賀拔岳平關中,賜爵魏平縣伯,邑五百戸。累遷鎭北將軍、光祿大夫、都督。

賀抜岳が侯莫陳悦に害されると、将軍や官吏は逃げ散り、守る者は誰もいなかった。趙貴はその仲間に言った。「仁義に常道などないと聞く。それを行う者が君子であり、それに背く者が小人である。朱伯厚や王叔治でさえ、気概とわずかな恩義に感じ入り、なお名節を守ることができた。ましてや我々は賀抜公から国士として遇された身である。どうして自らを衆人と同列に扱えようか」と涙を流し、すすり泣いた。これに従った者は五十人であった。そこで悦のもとへ赴き偽って降伏を申し出ると、悦はこれを信じた。趙貴は賀抜岳の遺体を収容して葬ることを請願し、言葉は慷慨としており、悦はその雄々しさを認めて許した。趙貴は岳の遺体を収めて戻り、寇洛らと共にその兵を糾合し、平涼に奔り、共に悦に対抗する計画を立てた。趙貴が最初に太祖(宇文泰)を迎えることを提議したことは、太祖紀に記されている。太祖が到着すると、趙貴を大都督とし、府司馬を兼任させた。悦が平定されると、元の将軍のまま節を持ち、秦州の事務を代行し、当州大都督となった。政治は清静で、民や官吏は彼を慕った。

原文 及岳爲侯莫陳悅所害,將吏奔散,莫有守者。貴謂其黨曰:「吾聞仁義豈有常哉,行之則爲君子,違之則爲小人。朱伯厚、王叔治感意氣微恩,尚能蹈履名節;況吾等荷賀拔公國士之遇,寧可自同衆人乎?」涕泣歔欷。於是從之者五十人。乃詣悅詐降,悅信之。因請收葬岳,言辭慷慨,悅壯而許之。貴乃收岳屍還,與寇洛等糾合其衆,奔平涼,共圖拒悅。貴首議迎太祖,語在太祖紀。太祖至,以貴爲大都督,領府司馬。悅平,以本將軍、持節,行秦州事、當州大都督。爲政淸靜,民吏懷之。

斉の神武帝(高歓)が兵を挙げて洛陽に向かい、その都督韓軌を派遣して蒲坂を占拠させた。太祖は趙貴を行台とし、梁禦らと共にこれを討伐させた。黄河を渡る前に、魏の孝武帝がすでに関中に入った。車騎大将軍・儀同三司を拝命し、右衛将軍を兼任した。当時、曹泥が霊州を拠点に抵抗していたため、趙貴を大都督とし、李弼らと共に兵を率いてこれを討伐させた。爵位は侯に進み、封邑を五百戸増やされた。また、魏の文帝(元宝炬)擁立の功績に与り、爵位は公に進み、封邑は以前と合わせて一千五百戸となった。まもなく岐州刺史に任じられた。当時は軍国多事であったため、趙貴の力を頼り、ついに任地には赴かなかった。引き続き大丞相府左長史を兼任し、散騎常侍を加えられた。梁仚定が河西で乱を称すると、趙貴を隴西行台とし、兵を率いてこれを討ち破った。太祖に従って弘農を奪還し、沙苑で戦い、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司を拝命し、爵位は中山郡公に進み、雍州刺史に任じられた。河橋の戦いに従軍し、趙貴は怡峯と共に左軍を率いたが、戦いは不利で、先に撤退した。また玉壁の救援に従い、斉の神武帝は退却した。高仲密が北豫州を挙げて降伏すると、太祖は軍を率いてこれを迎え、東魏軍と邙山で戦った。趙貴は左軍を率いたが、軍律を失い、諸軍はこれにより共に潰走した。この罪で官を免ぜられたが、驃騎大将軍・大都督として元の軍を率いることとなった。まもなく官爵を回復し、御史中尉を拝命し、大将軍を加えられた。東魏の将軍高岳・慕容紹宗らが潁川で王思政を包囲すると、趙貴は軍を率いてこれを救援し、東南諸州の兵も趙貴の指揮下に入った。東魏軍が洧水をせき止めて城に水を引き入れたため、軍は城に到達できず、思政はついに陥落した。趙貴は軍を返した。まもなく柱国大将軍を拝命し、乙弗氏の姓を賜った。茹茹が広武を侵寇したため、趙貴はこれを撃破し、数千の首級を斬り、その輜重を奪い、軍を整えて帰還した。六官が建てられると、趙貴を太保・大宗伯とし、南陽郡公に改封した。孝閔帝が即位すると、太傅・大冢宰に転じ、楚国公に進封され、封邑一万戸を与えられた。

原文 齊神武舉兵向洛,使其都督韓軌,進據蒲坂。太祖以貴爲行臺,與梁禦等討之。未濟河而魏孝武已西入關。拜車騎大將軍、儀同三司、兼右衞將軍。時曹泥據靈州拒守,以貴爲大都督,與李弼等率衆討之。進爵爲侯、增邑五百戸。又以預立魏文帝勳,進爵爲公,增邑通前一千五百戸。尋授岐州刺史。時以軍國多務,藉貴力用,遂不之部。仍領大丞相府左長史,加散騎常侍。梁仚定稱亂河右,以貴爲隴西行臺,率衆討破之。從太祖復弘農,戰沙苑,拜侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司,進爵中山郡公,除雍州刺史。從戰河橋,貴與怡峯爲左軍,戰不利,先還。又從援玉壁,齊神武遁去。髙仲密以北豫州降,太祖率師迎之,與東魏人戰於邙山。貴爲左軍,失律,諸軍因此竝潰。坐免官,以驃騎、大都督領本軍。尋復官爵,拜御史中尉,加大將軍。東魏將髙岳、慕容紹宗等圍王思政於潁川,貴率軍援之,東南諸州兵亦受貴節度。東魏人遏洧水灌城,軍不得至,思政遂沒。貴乃班師。尋拜柱國〔大〕將軍,賜姓乙弗氏。茹茹寇廣武,貴撃破之,斬首數千級,收其輜重,振旅而還。六官建,以貴爲太保、大宗伯,改封南陽郡公。孝閔帝踐阼,遷太傅、大冢宰,進封楚國公,邑萬戸。

初め、趙貴は獨孤信らと共に皆、太祖と対等の関係にあった。孝閔帝が即位し、晉公宇文護が政権を摂ると、趙貴は自らを元勳で創業を補佐した者として、常に不満を抱き、不平の色を示した。そこで獨孤信と共に宇文護を殺害することを謀った。期日が来て、趙貴は挙兵しようとしたが、獨孤信がこれを止めた。まもなく開府の宇文盛に告発され、誅殺された。

原文 初,貴與獨孤信等皆與太祖等夷,及孝閔帝即位,晉公護攝政,貴自以元勳佐命,毎懷怏怏,有不平之色,乃與信謀殺護。及期,貴欲發,信止之。尋爲開府宇文盛所告,被誅。

獨孤信

原文 獨孤信

獨孤信は、雲中の人で、本名は如愿といった。北魏の初め、三十六部があり、その祖先の伏留屯は、部落の大人(首長)となり、北魏と共に興った。祖父の俟尼は、和平年間(460–465)に、良家の子として雲中から武川に駐屯し、その地に家を定めた。父の庫者は、領民酋長となり、若くして雄豪で節義があり、北州の人々は皆、敬服した。

原文 獨孤信,雲中人也,本名如願。魏氏之初,有三十六部,其先伏留屯者,爲部落大人,與魏倶起。祖俟尼,和平中,以良家子自雲中鎭武川,因家焉。父庫者,爲領民酋長,少雄豪有節義,北州咸敬服之。

獨孤信は容貌が美しく、騎射に優れていた。正光末年(524–525)、賀抜度らと共に衛可孤を斬り、これによって名を知られた。北辺が乱れ荒廃したため、中山に避難したが、葛栄に捕らえられた。獨孤信はまだ若年で、自らを飾ることを好み、衣服や装飾が衆と異なっていたため、軍中では「獨孤郎」と呼ばれた。

原文 信美容儀,善騎射。正光末,與賀拔度等同斬衞可孤,由是知名。以北邊喪亂,避地中山,爲葛榮所獲。信既少年,好自修飾,服章有殊於衆,軍中號爲獨孤郎。

爾朱氏が葛栄を破ると、獨孤信を別将とした。韓婁征伐に従軍し、獨孤信は単騎で挑戦し、賊の漁陽王袁肆周を生け捕りにし、その功により員外散騎侍郎に任じられた。まもなく驍騎将軍に転じ、滏口に駐屯した。元顥が洛陽に入ると、爾朱栄は獨孤信を前鋒とし、元顥の軍と河北で戦い、これを破った。安南将軍に任じられ、爰徳県侯の爵位を賜った。

原文 及爾朱氏破葛榮,以信爲別將。從征韓婁,信疋馬挑戰,擒賊漁陽王袁肆周,以功拜員外散騎侍郎。尋轉驍騎將軍,因鎭滏口。元顥入洛,榮以信爲前驅,與顥黨戰於河北,破之。拜安南將軍,賜爵爰德縣侯。

建明初年(530)、出向して荊州新野鎮将となり、新野郡守を兼任した。まもなく荊州防城大都督に転じ、南郷守を兼任した。二つの郡を頻繁に治め、いずれも名声と実績があった。賀抜勝が出向して荊州を鎮守すると、獨孤信を大都督に推挙した。賀抜勝に従って梁の下溠戍を攻撃し、これを破り、武衛将軍に転じた。賀抜勝の弟の岳が侯莫陳悦に害されると、賀抜勝は獨孤信に関中に入らせ、岳の残兵を慰撫させた。太祖(宇文泰)がすでに岳の兵を統率していた時期にあたり、獨孤信は太祖と同郷で、若い頃から親しくしていたため、再会を大いに喜んだ。太祖は獨孤信を洛陽に派遣して情勢を探らせたが、雍州に至った時、大使の元毗がまた獨孤信を荊州に戻させた。まもなく獨孤信は朝廷に召され、魏の孝武帝から厚く信任された。

原文 建明初,出爲荊州新野鎭將,帶新野郡守。尋遷荊州防城大都督,帶南鄕守。頻典二部,皆有聲績。賀拔勝出鎭荊州,乃表信爲大都督。從勝攻梁下溠戍,破之,遷武衞將軍。及勝弟岳爲侯莫陳悅所害,勝乃令信入關,撫岳餘衆。屬太祖已統岳兵,信與太祖鄕里,少相友善,相見甚歡。因令信入洛請事,至雍州,大使元毗又遣信還荊州。尋徴信入朝,魏孝武雅相委任。

孝武帝が西遷する際、事は突然起こり、獨孤信は単騎で瀍澗において追いついた。孝武帝は嘆じて言った。「武衛将軍はよくも父母に別れ、妻子を捨て、遠くから我に従って来た。世が乱れて貞良の士を知るとは、虚言ではないな」即座に獨孤信に御馬一頭を賜い、爵位を浮陽郡公に進め、封邑一千戸を与えた。

原文 及孝武西遷,事起倉卒,信單騎及之於瀍澗。孝武歎曰:「武衞遂能辭父母,捐妻子,遠來從我。世亂識貞良,豈虚言哉。」即賜信御馬一疋,進爵浮陽郡公,邑一千戸。

当時、荊州は東魏に占領されていたが、民心はなお本朝(西魏)を慕っていた。そこで獨孤信を衛大将軍・都督三荊州諸軍事とし、尚書右僕射・東南道行台・大都督・荊州刺史を兼任させて、民心を招き寄せようとした。獨孤信が武陶に至ると、東魏はその弘農郡守田八能を派遣し、蛮族の兵を率いて淅陽で獨孤信を防がせた。また、その都督張斉民を派遣し、歩騎三千をもって獨孤信の背後に出させた。獨孤信は配下の兵に言った。「今、我が士卒は千人に満たず、前後に敵を受ける。もし退いて斉民を撃てば、敵は我々が退却したと思い、必ず遮断しようとする。先に八能を破るに如かず」そこで奮撃し、八能を敗走させ、斉民もまた潰走した。獨孤信は勝ちに乗じて荊州を襲撃した。東魏の刺史辛纂は兵を整えて出戦した。士民はすでに獨孤信の以前の恩恵を懐いており、獨孤信が陣頭で説得すると、皆、戦意を失った。そこで兵を放ってこれを撃ち、辛纂は大敗し、城門へと駆け込んだが、閉じる前に、獨孤信の都督楊忠らが先鋒として辛纂を斬った。詳細は楊忠伝にある。こうして三荊は平定された。その場で車騎大将軍・儀同三司を拝命した。

原文 時荊州雖陷東魏,民心猶戀本朝。乃以信爲衞大將軍、都督三荊州諸軍事,兼尚書右僕射、東南道行臺、大都督、荊州刺史以招懷之。信至武陶,東魏遣其弘農郡守田八能,率蠻左之衆,拒信於淅陽;又遣其都督張齊民,以歩騎三千出信之後。信謂其衆曰:「今我士卒不滿千人,而首尾受敵。若卻撃齊民,則敵人謂爲退走,必來要截。未若先破八能。」遂奮撃,八能敗而齊民亦潰。信乘勝襲荊州。東魏刺史辛纂勒兵出戰。士庶既懷信遺惠,信臨陣喩之,莫不解體。因而縱兵撃之,纂大敗,奔城趨門,未及闔,信都督楊忠等前驅斬纂。語在忠傳。於是三荊遂定。就拜車騎大將軍、儀同三司。

東魏はまたその将軍高敖曹・侯景らを派遣し、軍を率いて急襲してきた。獨孤信は衆寡敵せずと見て、麾下を率いて梁に奔った。三年間滞在した後、梁の武帝はようやく獨孤信の北帰を許した。獨孤信の父母は山東(東魏)にいたため、梁の武帝は獨孤信がどこへ行くのかを尋ねた。獨孤信は「君主に仕えるに二心なし」と答えた。梁の武帝はその忠義を深く感じ、礼を厚くして送り出した。

原文 東魏又遣其將髙敖曹、侯景等率衆奄至。信以衆寡不敵,遂率麾下奔梁。居三載,梁武帝方始許信還北。信父母既在山東,梁武帝問信所往,信答以事君無二。梁武帝深義之,禮送甚厚。

大統三年の秋、長安に至る。自ら国威を損なったとして、上書して罪を謝す。魏の文帝は尚書に付して議せしめると、七兵尚書・陳郡王王玄らが議して、「辺将は軍を統べ、天罰を恭しく行うものであり、師を喪い戦に敗れれば、国の刑罰は免れない。しかし荊州刺史の独孤如願は、任は推轂に当たり、遠く襄・宛を襲い、賊帥の辛纂を斬り、その首を京師に伝え、功を論じ効を語れば、まさに嘉賞に合う。ただ凡庸な功績は終わらず、たちまちにして淪没に至り、責成の義は、朝廷の寄託に違う。しかし孤軍数千、後援は未だ接せず、賊衆我寡、自らを固く保つは難し。既に恩降を経ている以上、理として刑書を絶つ。昔、秦は孟明を宥し、漢は広利を捨て、ついに過ちを改め功を立て、竹帛に芳を垂れた。今を以て古に方うれば、成規あると言えよう。臣ら参議して、罪を赦し、その旧職に復することを請う」と。魏の文帝は詔して曰く、「如願の荊・襄の役は、まさに功効を展べた。既に強寇に属し、力屈して道窮まり、賊に帰するは不可、朝廷に還るは路絶え、事に適して宜を求めしは、未だ過ちと称すに足らず。難を違えて呉の如く、誠は夷険を貫き、義は終始を全うし、良く嘉歎すべきである。また情は謙退を存し、款心して責を謝す。どうして恩降に議及び、ただ咎を免ずるのみと云わんや、これは事は権宜を失い、理は通変に乖く。驃騎大將軍に転じ、侍中・開府を加え、その使持節・儀同三司・浮陽郡公は悉く旧の如くとするべし」。

原文 大統三年秋,至長安。自以虧損國威,上書謝罪。魏文帝付尚書議之,七兵尚書、陳郡王〈(王言)〉〔玄〕等議,以爲「邊將董戎,龔行天罰,喪師敗績,國刑無捨。荊州刺史獨孤如願,任當推轂,遠襲襄、宛,斬賊帥辛纂,傳首京師,論功語効,寔合嘉賞。但庸績不終,旋致淪沒,責成之義,朝寄有違。然孤軍數千,後援未接,賊衆我寡,難以自固。既經恩降,理絶刑書。昔秦宥孟明,漢捨廣利,卒能改過立功,垂芳竹帛。以今方古,抑有成規。臣等參議,請赦罪,復其舊職」。魏文帝詔曰:「如願荊、襄之役,寔展功効。既屬強寇,力屈道窮,歸賊不可,還朝路絶,適事求宜,未足稱過。違難如呉,誠貫夷險,義全終始,良可嘉歎。復情存謙退,款心謝責。寧容議及恩降,止云免咎,斯則事失權宜,理乖通變。可轉驃騎大將軍,加侍中、開府,其使持節、儀同三司、浮陽郡公悉如故。」

まもなく領軍を拝命。引き続き太祖に従い弘農を回復し、沙苑を破る。河内郡公に改封され、邑二千戸を増加される。時に俘虜の中に信の親族があり、初めて父の凶報を得て、喪を発し服を行った。まもなく大都督として起用され、衆を率いて馮翊王元季海とともに洛陽に入る。潁・豫・襄・広・陳留の地は、相次いで帰順した。四年、東魏の将侯景らが衆を率いて洛陽を包囲する。信は金墉城に拠り、方に随って拒守し、十余日に及ぶ。太祖が瀍東に至ると、景らは退走した。信は李遠とともに右軍となり、戦い利あらず、東魏は遂に洛陽を有す。六年、侯景が荊州を寇すと、太祖は信に李弼とともに武関より出撃せしむ。景が退くと、信を大使とし、三荊を慰撫せしむ。

原文 尋拜領軍。仍從太祖復弘農,破沙苑。改封河内郡公,增邑二千戸。時俘虜中有信親屬,始得父凶問,乃發喪行服。尋起爲大都督,率衆與馮翊王元季海入洛陽。潁、豫、襄、廣、陳留之地,竝相繼款附。四年,東魏將侯景等率衆圍洛陽。信據金墉城,隨方拒守,旬有餘日。及太祖至瀍東,景等退走。信與李遠爲右軍,戰不利,東魏遂有洛陽。六年,侯景寇荊州,太祖令信與李弼出武關。景退,以信爲大使,慰撫三荊。

まもなく隴右十州大都督・秦州刺史を除かれる。先に、守宰は闇弱で、政令は乖方であり、民に冤訟あれば、歴年を経ても断決できなかった。信が州に在ると、事は滞ることなく、礼教を示し、耕桑を勧め、数年の中に、公私ともに富実した。流民で帰附を願うもの数万家。太祖はその信義が遐邇に著しいとして、故に名を信と賜う。七年、岷州刺史・赤水蕃王の梁仚定が挙兵して反す。詔して信に討たしむ。仚定はまもなくその部下に殺される。しかし仚定の子弟は、なおその余衆を収める。信は兵を率いて萬年に向かい、三交口に頓す。賊は力を併せて拒守する。信は詭道により稠松嶺に趨る。賊は信の兵の至るを慮らず、風を見て奔潰す。勝に乗じて北を逐い、径ちに城下に至り、賊は皆出て降る。太子太保を加授される。邙山の戦いでは、大軍利あらず。信は于謹とともに散卒を収め後よりこれを撃ち、齊の神武の追騎は驚擾し、諸軍はこれにより全うする。十二年、涼州刺史の宇文仲和が州を拠り交代を受けず、太祖は信に開府の怡峯を率いて討たしむ。仲和は城に拠り固守する。信は夜に諸将に衝梯を以てその東北を攻めしめ、信自ら壮士を帥いてその西南を襲い、夜明けにこれを剋す。仲和を擒え、その民六千戸を虜い、長安に送る。大司馬を拝す。十三年、大軍東討す。時に茹茹が寇すため、信に河陽に移鎮せしむ。十四年、位を進めて柱国大將軍となる。下溠を剋し、洛陽を守り、岷州を破り、涼州を平げた等の功を録し、封を増し、諸子に回授することを聴す。ここに第二子の善は魏寧県公に、第三子の穆は文侯県侯に、第四子の蔵は義寧県侯に封ぜられ、邑各一千戸。第五子の順は項城県伯に、第六子の陁は建忠県伯に封ぜられ、邑各五百戸。信は隴右に歳久しく、還朝を啓求するも、太祖は許さず。あるいは東魏より来たる者あり、またその母の凶報を告ぐ。信は喪を発し服を行ふ。時に魏の太子が太祖と北辺を巡り、因って河陽に至り信を弔う。信は哀苦を陳べ、礼制を終えることを請うも、また許されず。ここに信の父の庫者を司空公に、信の母の費連氏を常山郡君に追封す。十六年、大軍東討す。信は隴右の数万人を率いて軍に従い、崤坂に至って還る。尚書令に遷る。六官建つと、大司馬を拝す。孝閔帝が践祚すると、太保・大宗伯に遷り、衞国公に進封され、邑一万戸。

原文 尋除隴右十州大都督、秦州刺史。先是,守宰闇弱,政令乖方,民有冤訟,歴年不能斷決。及信在州,事無壅滯。示以禮教,勸以耕桑,數年之中,公私富實。流民願附者數萬家。太祖以其信著遐邇,故賜名爲信。七年,岷州刺史、赤水蕃王梁仚定舉兵反,詔信討之。仚定尋爲其部下所殺。而仚定子弟,仍收其餘衆。信乃勒兵向萬年,頓三交口。賊併力拒守,信因詭道趨稠松嶺。賊不虞信兵之至,望風奔潰。乘勝逐北,徑至城下,賊竝出降。加授太子太保。邙山之戰,大軍不利。信與于謹收散卒自後撃之,齊神武追騎驚擾,諸軍因此得全。十二年,涼州刺史宇文仲和據州不受代,太祖令信率開府怡峯討之。仲和嬰城固守,信夜令諸將以衝梯攻其東北,信親帥壯士襲其西南,値明剋之。擒仲和,虜其民六千戸,送于長安。拜大司馬。十三年,大軍東討。時以茹茹爲寇,令信移鎭河陽。十四年,進位柱國大將軍。録剋下溠、守洛陽、破岷州、平涼州等功,增封,聽回授諸子。於是第二子善封魏寧縣公,第三子穆文侯縣侯,第四子藏義寧縣侯,邑各一千戸;第五子順項城縣伯,第六子陁建忠縣伯,邑各五百戸。信在隴右歳久,啓求還朝,太祖不許。或有自東魏來者,又告其母凶問,信發喪行服。屬魏太子與〈(世)〉〔太〕祖巡北邊,因至河陽弔信。信陳哀苦,請終禮制,又不許。於是追贈信父庫者司空公,追封信母費連氏常山郡君。十六年,大軍東討,信率隴右數萬人從軍,至崤坂而還。遷尚書令。六官建,拜大司馬。孝閔帝踐阼,遷太保、大宗伯,進封衞國公,邑萬戸。

趙貴が誅された後、信は同謀として罪に坐し免官される。居ること幾ばくもなく、晉公の護またこれを殺さんと欲す。その名望素より重きを以て、その罪を顕わすを欲せず、逼って自尽を家にてせしむ。時に年五十五。

原文 趙貴誅後,信以同謀坐免。居無幾,晉公護又欲殺之,以其名望素重,不欲顯其罪,逼令自盡於家。時年五十五。

信は風度弘雅にして、奇謀大略あり。太祖が初めて覇業を啓く時、唯に関中の地を有するのみ。隴右の形勝を以て、故に信に委ねてこれを鎮ましむ。既に百姓に懐かれ、声は鄰国に振るう。東魏の将侯景が南奔して梁に赴く時、魏收が檄梁文を作り、偽りに信が隴右に拠り宇文氏に従わず、なお関西の憂いなしと称し、以て梁人を威そうとした。また信が秦州に在る時、嘗て狩猟にて日暮れとなり、馬を馳せて城に入るに、その帽微かに側る。詰旦、吏民に帽を戴く者、皆信を慕いて帽を側る。その鄰境及び士庶に重んぜられること、かくの如し。

原文 信風度弘雅,有奇謀大略。太祖初啓霸業,唯有關中之地,以隴右形勝,故委信鎭之。既爲百姓所懷,聲振鄰國。東魏將侯景之南奔梁也,魏收爲檄梁文,矯稱信據隴右不從宇文氏,仍云無關西之憂,欲以威梁人也。又信在秦州,嘗因獵日暮,馳馬入城,其帽微側。詰旦,而吏民有戴帽者,咸慕信而側帽焉。其爲鄰境及士庶所重如此。

信の子 羅

原文 信子 羅

子の羅は、先に東魏に在り、乃ち次子の善を嗣とす。齊が平らぐと、羅が至る。善が卒すと、また羅を嗣とす。羅は字を羅仁という。大象元年、楚安郡守を除かれ、儀同大將軍を授かる。

原文 子羅,先在東魏,乃以次子善爲嗣。及齊平,羅至。善卒,又以羅爲嗣。羅字羅仁。大象元年,除楚安郡守,授儀同大將軍。

信の子 善

原文 信子 善

善は字を伏陁といい、幼くして聰慧、騎射に長じ、父の勲功により、魏寧県公に封ぜられる。魏の廃帝元年、また父の勲功により、驃騎大將軍・開府儀同三司を授かり、侍中を加えられ、長安郡公に進爵する。孝閔帝が践祚すると、河州刺史を除かれる。父が罪を負い、久しく家に廢せられる。保定三年、乃ち龍州刺史を授かる。天和六年、河内郡公の爵を襲い、邑二千戸。髙祖に従い東討し、功により上開府を授かる。まもなく兗州刺史を除かれ、政は簡惠を存し、百姓これを安んず。位に卒す。年三十八。使持節・柱国・定趙恆滄瀛五州諸軍事・定州刺史を贈られる。

原文 善〈(子)〉〔字〕伏陁,幼聰慧,善騎射,以父勳,封魏寧縣公。魏廢帝元年,又以父勳,授驃騎大將軍、開府儀同三司,加侍中,進爵長安郡公。孝閔帝踐阼,除河州刺史。以父負舋,久廢於家。保定三年,乃授龍州刺史。天和六年,襲爵河内郡公,邑二千戸。從髙祖東討,以功授上開府。尋除兗州刺史,政存簡惠,百姓安之。卒於位,年三十八。贈使持節、柱國、定趙恆滄瀛五州諸軍事、定州刺史。

信の諸女

原文 信諸女

信の長女は、周の明敬后。第四女は、元貞皇后。第七女は、隋の文獻后。周・隋及び皇家、三代皆外戚たり。古より以来、未だこれ有らざるなり。

原文 信長女,周明敬后;第四女,元貞皇后;第七女,隋文獻后。周隋及皇家,三代皆爲外戚,自古以來,未之有也。

隋の文帝が即位すると、詔を下して言うには、「徳を褒め行いを重んずることは、過去の時代の通則であり、遠きを追い終わりを慎むことは、前代の王者の盛んな儀典である。故に使持節・柱国・河内郡開国公の信は、風采と器宇が高く広大で、生まれながらにして抜きん出ており、聡明で哲人として宗をなし、清らかな謀略が世に映えた。宏大な謀略と長遠な策は、補佐と調和において道を顕わし、義を緯とし仁を経として、事は救済に深く関わった。まさに廟堂に風を宣べ、台階に采を亮かすべき時にあって、世は艱難と危険に属し、功績は高くして賞せられなかった。その立派な模範を顧みれば、事は心に切実である。今、景運が初めて開け、椒闈が厳かに建てられた。塗山の義を思い、褒紀の典を忘れない。太師・上柱国・冀定相滄瀛趙恆洺貝十州諸軍事・冀州刺史を追贈し、趙国公に封じ、邑一万戸を与える。諡して景という。」信の父の庫者に使持節・太尉・上柱国・定恆滄瀛平燕六州諸軍事・定州刺史を追贈し、趙国公に封じ、邑一万戸を与えた。諡して恭という。信の母の費連氏に、太尉恭公夫人を追贈した。

原文 隋文帝踐極,乃下詔曰:「褒德累行,往代通規;追遠愼終,前王盛典。故使持節、柱國、河内郡開國公信,風宇髙曠,獨秀生人,睿哲居宗,淸猷映世。宏謨長策,道著於弼諧;緯義經仁,事深於拯濟。方當宣風廊廟,亮采台階,而世屬艱危,功髙弗賞。眷言令範,事切于心。今景運初開,椒闈肅建。載懷塗山之義,無忘褒紀之典。可贈太師、上柱國、冀定相滄瀛趙恆洺貝十州諸軍事、冀州刺史,〔封〕趙國公,邑一萬戸。諡曰景。」追贈信父庫者使持節、太尉、上柱國、定恆滄瀛平燕六州諸軍事、定州刺史,封趙國公,邑一萬戸。諡曰恭。信母費連氏,贈太尉恭公夫人。

侯莫陳崇

原文 侯莫陳崇

侯莫陳崇、字は尚楽、代郡武川の人である。その祖先は、魏の別部であり、庫斛真水に居住した。五世の祖は太骨都侯という。その後、代々渠帥となった。祖父の允は、良家の子として武川を鎮め、そこで家を定めた。父の興は、殿中将軍・羽林監であった。

原文 侯莫陳崇字尚樂,代郡武川人。其先,魏之別部,居庫斛眞水。五世祖曰太骨都侯。其後,世爲渠帥。祖允,以良家子鎭武川,因家焉。父興,殿中將軍、羽林監。

崇は若い頃から驍勇で、馳射を得意とし、謹直で誠実、言葉少なかった。十五歳の時、賀拔岳に従って爾朱栄とともに葛栄を征討した。また元天穆に従って邢杲を討ち、これを平定した。功績により建威将軍に任じられた。別に岳に従って元顥を洛陽で破った。直寝に遷った。

原文 崇少驍勇,善馳射,謹愨少言。年十五,隨賀拔岳與爾朱榮征葛榮。又從元天穆討邢杲,平之。以功除建威將軍。別從岳破元顥於洛陽。遷直寢。

後に岳に従って関中に入り、赤水蜀を破った。時に万俟醜奴が岐州を包囲し、その将の李(名欠)と尉遅菩薩に兵を率いて武功に向かわせた。崇は岳に従って力戦してこれを破り、勝ちに乗って敗走する敵を追撃し、岐州の包囲を解いた。また百里細川に赴き、賊の帥である侯伏侯元進の柵を破った。醜奴はその残りの衆を率いて高平に奔った。崇は軽騎を率いて敗走する敵を追撃し、涇州の長坑で追いついた。賊はまだ陣を整えていなかった。崇は単騎で賊の中に入り、馬上で醜奴を生け捕りにした。そこで大声で叫ぶと、衆は皆なびき、敢えて当たる者はいなかった。後続の騎兵が次々と集まり、賊徒はことごとく逃げ散った。そこで大いにこれを打ち破った。岳は醜奴の乗っていた馬と宝剣・金帯を崇に褒美として与えた。安北将軍・太中大夫・都督に任じられ、臨涇県侯に封じられ、邑八百戸を与えられた。

原文 後從岳入關,破赤水蜀。時万俟醜奴圍岐州,遣其將李。尉遲菩薩將兵向武功。崇從岳力戰破之,乘勝逐北,解岐州圍。又赴百里細川,破賊帥侯伏侯元進柵。醜奴率其餘衆奔髙平,崇與輕騎逐北,至涇州長坑及之。賊未成列,崇單騎入賊中,於馬上生擒醜奴。於是大呼,衆悉披靡,莫敢當之。後騎益集,賊徒因悉逃散,遂大破之。岳以醜奴所乘馬及寶劍金帶賞崇。除安北將軍、太中大夫、都督,封臨涇縣侯,邑八百戸。

岳が侯莫陳悦に害されると、崇は諸将とともに謀って太祖(宇文泰)を迎えた。太祖が軍に到着した時、原州刺史の史帰はなお悦のために守っていた。太祖は崇に帰を襲撃させた。崇は密かに軍を率いて夜に進み、軽く七騎を率いて直ちに城下に至り、残りの衆は皆近くの路に伏せた。帰は騎兵が少ないのを見て、守備を設けなかった。崇は即座に入って城門を占拠した。時に李遠兄弟が城内におり、あらかじめ崇の来ることを知っていた。そこで内外で鬨の声をあげ、伏兵が悉く立ち上がり、遂に帰を生け捕りにし、斬った。崇を行原州事とした。引き続き悦の平定に従い、征西将軍に転じた。また崇を遣わして秦州を慰撫させ、別に広武県伯に封じ、邑七百戸を与えた。

原文 及岳爲侯莫陳悅所害,崇與諸將同謀迎太祖。太祖至軍,原州刺史史歸猶爲悅守。太祖遣崇襲歸。崇潛軍夜往,輕將七騎,直到城下,餘衆皆伏於近路。歸見騎少,遂不設備。崇即入據城門。時李遠兄弟在城内,先知崇來,於是中外鼓噪,伏兵悉起,遂擒歸,斬之以崇行原州事。仍從平悅,轉征西將軍。又遣崇慰撫秦州,別封廣武縣伯,邑七百戸。

大統元年、涇州刺史に任じられ、散騎常侍・大都督を加えられ、爵位を公に進められた。累進して車騎大将軍・儀同三司・驃騎大将軍・開府儀同三司となり、封を改めて彭城郡公とされ、邑三千戸を与えられた。三年、竇泰の生け捕りに従い、弘農を回復し、沙苑を破り、邑二千戸を増やされた。四年、河橋の戦いに従い、崇の功績が多かった。七年、稽胡が反乱し、崇は衆を率いて討ち平定した。まもなく雍州刺史に任じられ、太子詹事を兼ねた。十五年、位を柱国大将軍に進め、少傅に転じた。魏恭帝元年、寧州刺史として出向し、尚書令に遷った。六官が建てられると、大司空に拝された。孝閔帝が即位すると、梁国公に進封され、邑一万戸を与えられ、太保を加えられた。大宗伯・大司徒を歴任した。

原文 大統元年,除涇州刺史,加散騎常侍、大都督,進爵爲公,累遷車騎大將軍、儀同三司、驃騎大將軍、開府儀同三司,改封彭城郡公,邑三千戸。三年,從擒竇泰,復弘農,破沙苑,增邑二千戸。四年,從戰河橋,崇功居多。七年,稽胡反,崇率衆討平之。尋除雍州刺史,兼太子詹事。十五年,進位柱國大將軍,轉少傅。魏恭帝元年,出爲寧州刺史,遷尚書令。六官建,拜大司空。孝閔帝踐阼,進封梁國公,邑萬戸,加太保。歴大宗伯、大司徒。

保定三年、崇は高祖(宇文邕)に従って原州に行幸した。高祖が夜に京師に還ったので、ひそかにその理由を怪しんだ。崇は親しい人である常昇に言った、「私は以前、卜筮者の言うことを聞いたが、晋公(宇文護)は今年が不利だという。車駕が今突然夜に還られたのは、晋公の死以外の何ものでもない。」そこで衆は皆これを言い伝えた。ある者がこの事を発覚させた。高祖は諸公卿を大徳殿に召し、崇を責めた。崇は恐れおののいて謝罪した。その夜、護は使者を遣わして兵を率いて崇の宅に行かせ、自殺を強要させた。礼に則って葬儀を行った。諡して躁といった。護が誅殺された後、諡を改めて莊閔とした。

原文 保定三年,崇從髙祖幸原州,髙祖夜還京師,竊怪其故。崇謂所親人常昇曰:「吾昔聞卜筮者言,晉公今年不利。車駕今忽夜還,不過是晉公死耳。」於是衆皆傳之。或有發其事者。髙祖召諸公卿於大德殿,責崇。崇惶恐謝罪。其夜,護遣使將兵就崇宅,逼令自殺。禮葬如常儀。諡曰躁。護誅後,改諡曰莊閔。

崇の子、芮が嗣いだ。

原文 崇子 芮嗣

子の芮が嗣いだ。大将軍に拝され、位を柱国に進めた。高祖に従って東征し、衆を率いて太行道を守った。幷州が平定されると、上柱国を授けられた。引き続き鄴の平定に従い、大司馬に拝された。

原文 子芮嗣。拜大將軍,進位柱國。從髙祖東伐,率衆守太行道。幷州平,授上柱國。仍從平鄴,拜大司馬。

崇の弟、瓊。

原文 崇弟 瓊

崇の弟の瓊、字は世楽。八歳で父を亡くし、母を養うこと至孝で、諸兄に善く仕え、内外で敬わない者はなかった。軍功により霊丘県男に封じられ、邑三百戸を与えられた。魏の孝武帝に従って関中に入り、太祖の直盪都督となった。大統二年、尚薬典御に遷った。三年、太子右衛率に拝され、爵位を侯に進めた。独孤信に従って梁仚定を征討した。累進して北秦州刺史となった。十四年、車騎大将軍・儀同三司に拝された。孝閔帝が即位すると、爵位を武安県公に進め、邑を加えて以前と合わせて二千戸とした。郢州刺史として出向した。武成二年、金州総管・六州諸軍事・金州刺史に遷った。保定元年、大将軍に拝された。天和四年、荊州総管・十四州八防諸軍事・荊州刺史に転じた。まもなく位を柱国に進め、爵位を同昌郡公に進めた。建徳二年、大宗伯に拝され、秦州総管として出向した。四年、高祖に従って東征し、後二軍総管となった。まもなく封を改めて武威郡公とした。大象二年、上柱国を加えられた。

原文 崇弟瓊,字世樂。年八歳喪父,養母至孝,善事諸兄,内外莫不敬之。以軍功封靈丘縣男,邑三百戸。從魏孝武入關,爲太祖直盪都督。大統二年,遷尚藥典御。三年,拜太子右衞率,進爵爲侯。從獨孤信征梁仚定。累遷北秦州刺史。十四年,拜車騎大將軍、儀同三司。孝閔帝踐阼,進爵武安縣公,增邑并前二千戸。出爲郢州刺史。武成二年,遷金州總管、六州諸軍事、金州刺史。保定元年,拜大將軍。天和四年,轉荊州總管、十四州八防諸軍事、荊州刺史。尋進位柱國,進爵同昌郡公。建德二年,拜大宗伯,出爲秦州總管。四年,從髙祖東伐,爲後二軍總管。尋改封武威郡公。大象二年,加上柱國。

瓊の弟、凱。

原文 瓊弟 凱

瓊の弟の凱、字は敬楽。性質は剛直で、経史を好んだ。兄の崇に従い、軍功により下蔡県男の爵位を賜った。大統元年、東宮侍書となった。太祖に従って竇泰を生け捕りにし、沙苑の陣を破り、功績により寧遠将軍に拝された。累進して羽林監・東宮洗馬・太子庶子となり、都督を授けられた。十四年、兄の崇が平原州の功績により、霊武県侯の爵位を賜り、詔によって凱に転授することが許された。累進して東宮武衛率・尚書右丞となり、左丞に転じ、位を車騎大将軍・儀同三司に進めた。六官が建てられると、司門下大夫を授けられた。孝閔帝が即位すると、工部中大夫に拝され、位を開府儀同三司に進め、司憲中大夫に転じ、爵位を公に進め、再び工部中大夫に任じられた。世宗の初め、宜州刺史として出向した。武成二年、入朝して礼部中大夫となった。保定年間、再び陵州刺史となり、丹州刺史に転じた。任地において頗る政績があった。天和年間、入朝して司会中大夫となった。建徳二年、斉への聘問使の主となった。

原文 瓊弟凱,字敬樂。性剛正,頗好經史。隨兄崇,以軍功賜爵下蔡縣男。大統元年,爲東宮侍書。從太祖擒竇泰,破沙苑陣,以功拜寧遠將軍。累遷羽林監、東宮洗馬、太子庶子,進授都督。十四年,兄崇以平原州功,賜爵靈武縣侯,詔聽轉授凱。累遷東宮武衞率、尚書右丞,轉左丞,進位車騎大將軍、儀同三司。六官建,授司門下大夫。孝閔帝踐阼,拜工部中大夫,進位開府儀同三司,轉司憲中大夫,進爵爲公,復除工部中大夫。世宗初,出爲宜州刺史。武成二年,入爲禮部中大夫。保定中,復爲陵州刺史,轉丹州刺史。所在頗有政績。天和中,入爲司會中大夫。建德二年,爲聘齊使主。

史臣が言う。

原文 史臣曰

史臣曰く、蕭何は文吏として自らを愛し、秦の法の誅戮を懼れて、乃ち漢の高祖を推戴し奉り、李通は家伝の讖術を以て、劉氏の興るを知り、遂に光武帝を翊戴す。終に白水にて禹を復し、中陽にて堯を纂ぐ。方策は以て美談と為し、功臣は其の徽烈を仰ぐ。趙貴は志に忠義を懐き、首めて大謀を倡へ、爰に聖明を啓き、克く讐恥を復す。関中は百二の険を全うし、周室は三分の業を定む。彼此一時、足れり以て連類と為す。獨孤信は威を南服に申べ、化を西州に洽す。信は遐方に著はしく、光は隣国を照らす。侯莫陳崇は勇悍の気を以て、戦争の利に当たり、軽騎にて高平の扉を啓き、匹馬にて長坑の捷を得たり。並びに宏材遠略を以て、鳳に附き龍に攀じ、績は元勲に著はしく、位は上衮に居る。而して識は明悊に慙じ、咸く凶を以て終る。惜しいかな。信は其の身を免れざるも、慶は後に延ぶ。三代の外戚、何ぞ其れ盛んなるや。

原文 史臣曰:蕭何文吏自愛,懼秦法誅戮,乃推奉漢髙;李通家傳讖術,知劉氏當興,遂翊戴光武。終而白水復禹,中陽纂堯。方策以爲美談,功臣仰其徽烈。趙貴志懷忠義,首倡大謀,爰啓聖明,克復讐恥。關中全百二之險,周室定三分之業,彼此一時,足爲連類。獨孤信威申南服,化洽西州。信著遐方,光照隣國。侯莫陳崇以勇悍之氣,當戰爭之利,輕騎啓髙平之扉,疋馬得長坑之捷。竝以宏材遠略,附鳳攀龍,績著元勳,位居上衮。而識慙明悊,咸以凶終,惜哉!信雖不免其身,慶延于後。三代外戚,何其盛歟。

初め、魏の孝莊帝は爾朱栄に翊戴の功有るを以て、栄を柱国大将軍に拝し、位を丞相の上に置く。栄敗れたる後、此の官遂に廃す。大統三年、魏の文帝復た太祖の中興の業を建つるに、始めて命じて之を為さしむ。其の後、功は佐命に参じ、望実倶に重き者も、亦此の職に居る。大統十六年以前より、任ずる者凡そ八人有り。太祖は位は百揆を総べ、中外の軍を督す。魏の広陵王欣は、元氏の懿戚にして、禁闈に従容するのみ。此の外六人、各二大将軍を督し、禁旅を分ち掌り、爪牙禦侮の寄に当たる。当時栄盛、比ぶるもの莫し。故に今の門閥を称する者は、咸く八柱国家を推すと云ふ。今十二大将軍と併せて之を左に録す。

原文 初,魏孝莊帝以爾朱榮有翊戴之功,拜榮柱國大將軍,位在丞相上。榮敗後,此官遂廢。大統三年,魏文帝復以太祖建中興之業,始命爲之。其後功參佐命,望實倶重者,亦居此職。自大統十六年以前,任者凡有八人。太祖位總百揆,督中外軍。魏廣陵王欣,元氏懿戚,從容禁闈而已。此外六人,各督二大將軍,分掌禁旅,當爪牙禦侮之寄。當時榮盛,莫與爲比。故今之稱門閥者,咸推八柱國家云。今并十二大將軍録之於左。

使持節・太尉・柱国大将軍・大都督・尚書左僕射・隴右行臺・少師・隴西郡開国公の李虎、

原文 使持節、太尉、柱國大將軍、大都督、尚書左僕射、隴右行臺、少師、隴西郡開國公李虎,

使持節・太傅・柱国大将軍・大宗伯・大司徒・広陵王の元欣、

原文 使持節、太傅、柱國大將軍、大宗伯、大司徒、廣陵王元欣,

使持節・太保・柱国大将軍・大都督・大宗伯・趙郡開国公の李弼、

原文 使持節、太保、柱國大將軍、大都督、大宗伯、趙郡開國公李弼,

使持節・柱国大将軍・大都督・大司馬・河内郡開国公の独孤信、

原文 使持節、柱國大將軍、大都督、大司馬、河内郡開國公獨孤信,

使持節・柱国大将軍・大都督・大司寇・南陽郡開国公の趙貴、

原文 使持節、柱國大將軍、大都督、大司寇、南陽郡開國公趙貴,

使持節・柱国大将軍・大都督・大司空・常山郡開国公の于謹、

原文 使持節、柱國大將軍、大都督、大司空、常山郡開國公于謹,

使持節・柱国大将軍・大都督・少傅・彭城郡開国公の侯莫陳崇。

原文 使持節、柱國大將軍、大都督、少傅、彭城郡開國公侯莫陳崇。

使持節・大将軍・大都督・少保・広平王の元贊、

原文 使持節、大將軍、大都督、少保、廣平王元贊,

使持節・大将軍・大都督・淮安王の元育、

原文 使持節、大將軍、大都督、淮〔安〕王元育,

使持節・大将軍・大都督・斉王の元廓、

原文 使持節、大將軍、大都督、齊王元廓,

使持節・大将軍・大都督・秦七州諸軍事・秦州刺史・章武郡開国公の宇文導、

原文 使持節、大將軍、大都督、秦七州諸軍事、秦州刺史、章武郡開國公宇文導,

使持節・大将軍・大都督・平原郡開国公の侯莫陳順、

原文 使持節、大將軍、大都督、平原郡開國公侯莫陳順,

使持節・大将軍・大都督・雍七州諸軍事・雍州刺史・高陽郡開国公の達奚武、

原文 使持節、大將軍、大都督、雍七州諸軍事、雍州刺史、髙陽郡開國公達奚武,

使持節・大将軍・大都督・陽平公の李遠、

原文 使持節、大將軍、大都督、陽平公李遠,

使持節・大将軍・大都督・范陽郡開国公の豆盧寧、

原文 使持節、大將軍、大都督、范陽郡開國公豆盧寧,

使持節・大将軍・大都督・化政郡開国公の宇文貴、

原文 使持節、大將軍、大都督、化政郡開國公宇文貴,

使持節・大将軍・大都督・荊州諸軍事・荊州刺史・博陵郡開国公の賀蘭祥、

原文 使持節、大將軍、大都督、荊州諸軍事、荊州刺史、博陵郡開國公賀蘭祥,

使持節・大将軍・大都督・陳留郡開国公の楊忠、

原文 使持節、大將軍、大都督、陳留郡開國公楊忠,

使持節・大将軍・大都督・岐州諸軍事・岐州刺史・武威郡開国公の王雄。

原文 使持節、大將軍、大都督、岐州諸軍事、岐州刺史、武威郡開國公王雄。