周書 卷十六 列傳第八 趙貴 獨孤信 侯莫陳崇 十二大將軍

周書

卷十六 列傳第八 趙貴 獨孤信 侯莫陳崇 十二大將軍

趙貴

趙貴、字は元貴、天水郡南安県の人である。曾祖父の趙達は、北魏の庫部尚書・臨 しん 子であった。祖父の趙仁は、良家の子として武川に駐屯し、その地に家を定めた。

趙貴は若くして聡明で悟りが早く、節義と気概を備えていた。北魏の孝昌年間 (525–527) 、天下に兵乱が起こると、趙貴は郷里の人々を率いて難を避け南遷した。葛栄が中山を陥落させた際に遭遇し、拘束・脅迫されることとなった。葛栄が敗れると、爾朱栄は趙貴を別将とし、元顥討伐に従軍させて功績を挙げ、燕楽県子の爵位を賜り、伏波将軍・武賁中郎将に任じられた。賀抜岳に従って関中を平定し、魏平県伯の爵位を賜り、封邑五百戸を与えられた。累進して鎮北将軍・光禄大夫・ 都督 ととく となった。

賀抜岳が侯莫陳悦に害されると、将軍や官吏は逃げ散り、守る者は誰もいなかった。趙貴はその仲間に言った。「仁義に常道などないと聞く。それを行う者が君子であり、それに背く者が小人である。朱伯厚や王叔治でさえ、気概とわずかな恩義に感じ入り、なお名節を守ることができた。ましてや我々は賀抜公から国士として遇された身である。どうして自らを衆人と同列に扱えようか」と涙を流し、すすり泣いた。これに従った者は五十人であった。そこで悦のもとへ赴き偽って降伏を申し出ると、悦はこれを信じた。趙貴は賀抜岳の遺体を収容して葬ることを請願し、言葉は慷慨としており、悦はその雄々しさを認めて許した。趙貴は岳の遺体を収めて戻り、寇洛らと共にその兵を糾合し、平涼に奔り、共に悦に対抗する計画を立てた。趙貴が最初に太祖 (宇文泰) を迎えることを提議したことは、太祖紀に記されている。太祖が到着すると、趙貴を大 都督 ととく とし、府司馬を兼任させた。悦が平定されると、元の将軍のまま節を持ち、秦州の事務を代行し、当州大 都督 ととく となった。政治は清静で、民や官吏は彼を慕った。

斉の神武帝 (高歓) が兵を挙げて洛陽に向かい、その 都督 ととく 韓軌を派遣して蒲坂を占拠させた。太祖は趙貴を行台とし、梁禦らと共にこれを討伐させた。黄河を渡る前に、魏の孝武帝がすでに関中に入った。車騎大将軍・儀同三司を拝命し、右衛将軍を兼任した。当時、曹泥が霊州を拠点に抵抗していたため、趙貴を大 都督 ととく とし、李弼らと共に兵を率いてこれを討伐させた。爵位は侯に進み、封邑を五百戸増やされた。また、魏の文帝 (元宝炬) 擁立の功績に与り、爵位は公に進み、封邑は以前と合わせて一千五百戸となった。まもなく岐州刺史に任じられた。当時は軍国多事であったため、趙貴の力を頼り、ついに任地には赴かなかった。引き続き大丞相府左長史を兼任し、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。梁仚定が河西で乱を称すると、趙貴を隴西行台とし、兵を率いてこれを討ち破った。太祖に従って弘農を奪還し、沙苑で戦い、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司を拝命し、爵位は中山郡公に進み、雍州刺史に任じられた。河橋の戦いに従軍し、趙貴は怡峯と共に左軍を率いたが、戦いは不利で、先に撤退した。また玉壁の救援に従い、斉の神武帝は退却した。高仲密が北 州を挙げて降伏すると、太祖は軍を率いてこれを迎え、東魏軍と邙山で戦った。趙貴は左軍を率いたが、軍律を失い、諸軍はこれにより共に潰走した。この罪で官を免ぜられたが、驃騎大将軍・大 都督 ととく として元の軍を率いることとなった。まもなく官爵を回復し、御史中尉を拝命し、大将軍を加えられた。東魏の将軍高岳・慕容紹宗らが潁川で王思政を包囲すると、趙貴は軍を率いてこれを救援し、東南諸州の兵も趙貴の指揮下に入った。東魏軍が洧水をせき止めて城に水を引き入れたため、軍は城に到達できず、思政はついに陥落した。趙貴は軍を返した。まもなく柱国大将軍を拝命し、乙弗氏の姓を賜った。茹茹が広武を侵寇したため、趙貴はこれを撃破し、数千の首級を斬り、その輜重を奪い、軍を整えて帰還した。六官が建てられると、趙貴を太保・大宗伯とし、南陽郡公に改封した。孝閔帝が即位すると、太傅・大冢宰に転じ、楚国公に進封され、封邑一万戸を与えられた。

初め、趙貴は獨孤信らと共に皆、太祖と対等の関係にあった。孝閔帝が即位し、 しん 公宇文護が政権を摂ると、趙貴は自らを元勳で創業を補佐した者として、常に不満を抱き、不平の色を示した。そこで獨孤信と共に宇文護を殺害することを謀った。期日が来て、趙貴は挙兵しようとしたが、獨孤信がこれを止めた。まもなく開府の宇文盛に告発され、誅殺された。

獨孤信

獨孤信は、雲中の人で、本名は如愿といった。北魏の初め、三十六部があり、その祖先の伏留屯は、部落の大人 (首長) となり、北魏と共に興った。祖父の俟尼は、和平年間 (460–465) に、良家の子として雲中から武川に駐屯し、その地に家を定めた。父の庫者は、領民酋長となり、若くして雄豪で節義があり、北州の人々は皆、敬服した。

獨孤信は容貌が美しく、騎射に優れていた。正光末年 (524–525) 、賀抜度らと共に衛可孤を斬り、これによって名を知られた。北辺が乱れ荒廃したため、中山に避難したが、葛栄に捕らえられた。獨孤信はまだ若年で、自らを飾ることを好み、衣服や装飾が衆と異なっていたため、軍中では「獨孤郎」と呼ばれた。

爾朱氏が葛栄を破ると、獨孤信を別将とした。韓婁征伐に従軍し、獨孤信は単騎で挑戦し、賊の漁陽王袁肆周を生け捕りにし、その功により員外散騎侍郎に任じられた。まもなく ぎょう 騎将軍に転じ、滏口に駐屯した。元顥が洛陽に入ると、爾朱栄は獨孤信を前鋒とし、元顥の軍と河北で戦い、これを破った。安南将軍に任じられ、爰徳県侯の爵位を賜った。

建明初年 (530) 、出向して荊州新野鎮将となり、新野郡守を兼任した。まもなく荊州防城大 都督 ととく に転じ、南郷守を兼任した。二つの郡を頻繁に治め、いずれも名声と実績があった。賀抜勝が出向して荊州を鎮守すると、獨孤信を大 都督 ととく に推挙した。賀抜勝に従って梁の下溠戍を攻撃し、これを破り、武衛将軍に転じた。賀抜勝の弟の岳が侯莫陳悦に害されると、賀抜勝は獨孤信に関中に入らせ、岳の残兵を慰撫させた。太祖 (宇文泰) がすでに岳の兵を統率していた時期にあたり、獨孤信は太祖と同郷で、若い頃から親しくしていたため、再会を大いに喜んだ。太祖は獨孤信を洛陽に派遣して情勢を探らせたが、雍州に至った時、大使の元毗がまた獨孤信を荊州に戻させた。まもなく獨孤信は朝廷に召され、魏の孝武帝から厚く信任された。

孝武帝が西遷する際、事は突然起こり、獨孤信は単騎で瀍澗において追いついた。孝武帝は嘆じて言った。「武衛将軍はよくも父母に別れ、妻子を捨て、遠くから我に従って来た。世が乱れて貞良の士を知るとは、虚言ではないな」即座に獨孤信に御馬一頭を賜い、爵位を浮陽郡公に進め、封邑一千戸を与えた。

当時、荊州は東魏に占領されていたが、民心はなお本朝 (西魏) を慕っていた。そこで獨孤信を衛大将軍・ 都督 ととく 三荊州諸軍事とし、尚書右僕射・東南道行台・大 都督 ととく ・荊州刺史を兼任させて、民心を招き寄せようとした。獨孤信が武陶に至ると、東魏はその弘農郡守田八能を派遣し、蛮族の兵を率いて淅陽で獨孤信を防がせた。また、その 都督 ととく 張斉民を派遣し、歩騎三千をもって獨孤信の背後に出させた。獨孤信は配下の兵に言った。「今、我が士卒は千人に満たず、前後に敵を受ける。もし退いて斉民を撃てば、敵は我々が退却したと思い、必ず遮断しようとする。先に八能を破るに如かず」そこで奮撃し、八能を敗走させ、斉民もまた潰走した。獨孤信は勝ちに乗じて荊州を襲撃した。東魏の刺史辛纂は兵を整えて出戦した。士民はすでに獨孤信の以前の恩恵を懐いており、獨孤信が陣頭で説得すると、皆、戦意を失った。そこで兵を放ってこれを撃ち、辛纂は大敗し、城門へと駆け込んだが、閉じる前に、獨孤信の 都督 ととく 楊忠らが先鋒として辛纂を斬った。詳細は楊忠伝にある。こうして三荊は平定された。その場で車騎大将軍・儀同三司を拝命した。

東魏はまたその将軍高敖曹・侯景らを派遣し、軍を率いて急襲してきた。獨孤信は衆寡敵せずと見て、麾下を率いて梁に奔った。三年間滞在した後、梁の武帝はようやく獨孤信の北帰を許した。獨孤信の父母は山東 (東魏) にいたため、梁の武帝は獨孤信がどこへ行くのかを尋ねた。獨孤信は「君主に仕えるに二心なし」と答えた。梁の武帝はその忠義を深く感じ、礼を厚くして送り出した。

大統三年の秋、長安に至る。自ら国威を損なったとして、上書して罪を謝す。魏の文帝は尚書に付して議せしめると、七兵尚書・陳郡王王玄らが議して、「辺将は軍を統べ、天罰を恭しく行うものであり、師を喪い戦に敗れれば、国の刑罰は免れない。しかし荊州刺史の独孤如願は、任は推轂に当たり、遠く襄・宛を襲い、賊帥の辛纂を斬り、その首を京師に伝え、功を論じ効を語れば、まさに嘉賞に合う。ただ凡庸な功績は終わらず、たちまちにして淪没に至り、責成の義は、朝廷の寄託に違う。しかし孤軍数千、後援は未だ接せず、賊衆我寡、自らを固く保つは難し。既に恩降を経ている以上、理として刑書を絶つ。昔、秦は孟明を宥し、漢は広利を捨て、ついに過ちを改め功を立て、竹帛に芳を垂れた。今を以て古に方うれば、成規あると言えよう。臣ら参議して、罪を赦し、その旧職に復することを請う」と。魏の文帝は詔して曰く、「如願の荊・襄の役は、まさに功効を展べた。既に強寇に属し、力屈して道窮まり、賊に帰するは不可、朝廷に還るは路絶え、事に適して宜を求めしは、未だ過ちと称すに足らず。難を違えて呉の如く、誠は夷険を貫き、義は終始を全うし、良く嘉歎すべきである。また情は謙退を存し、款心して責を謝す。どうして恩降に議及び、ただ咎を免ずるのみと云わんや、これは事は権宜を失い、理は通変に乖く。驃騎大將軍に転じ、侍中・開府を加え、その使持節・儀同三司・浮陽郡公は悉く旧の如くとするべし」。

まもなく領軍を拝命。引き続き太祖に従い弘農を回復し、沙苑を破る。河内郡公に改封され、邑二千戸を増加される。時に俘虜の中に信の親族があり、初めて父の凶報を得て、喪を発し服を行った。まもなく大 都督 ととく として起用され、衆を率いて馮翊王元季海とともに洛陽に入る。潁・ ・襄・広・陳留の地は、相次いで帰順した。四年、東魏の将侯景らが衆を率いて洛陽を包囲する。信は金墉城に拠り、方に随って拒守し、十余日に及ぶ。太祖が瀍東に至ると、景らは退走した。信は李遠とともに右軍となり、戦い利あらず、東魏は遂に洛陽を有す。六年、侯景が荊州を寇すと、太祖は信に李弼とともに武関より出撃せしむ。景が退くと、信を大使とし、三荊を慰撫せしむ。

まもなく隴右十州大 都督 ととく ・秦州刺史を除かれる。先に、守宰は闇弱で、政令は乖方であり、民に冤訟あれば、歴年を経ても断決できなかった。信が州に在ると、事は滞ることなく、礼教を示し、耕桑を勧め、数年の中に、公私ともに富実した。流民で帰附を願うもの数万家。太祖はその信義が遐邇に著しいとして、故に名を信と賜う。七年、岷州刺史・赤水蕃王の梁仚定が挙兵して反す。詔して信に討たしむ。仚定はまもなくその部下に殺される。しかし仚定の子弟は、なおその余衆を収める。信は兵を率いて萬年に向かい、三交口に頓す。賊は力を併せて拒守する。信は詭道により稠松嶺に趨る。賊は信の兵の至るを慮らず、風を見て奔潰す。勝に乗じて北を逐い、径ちに城下に至り、賊は皆出て降る。太子太保を加授される。邙山の戦いでは、大軍利あらず。信は于謹とともに散卒を収め後よりこれを撃ち、齊の神武の追騎は驚擾し、諸軍はこれにより全うする。十二年、涼州刺史の宇文仲和が州を拠り交代を受けず、太祖は信に開府の怡峯を率いて討たしむ。仲和は城に拠り固守する。信は夜に諸将に衝梯を以てその東北を攻めしめ、信自ら壮士を帥いてその西南を襲い、夜明けにこれを剋す。仲和を擒え、その民六千戸を虜い、長安に送る。大司馬を拝す。十三年、大軍東討す。時に茹茹が寇すため、信に河陽に移鎮せしむ。十四年、位を進めて柱国大將軍となる。下溠を剋し、洛陽を守り、岷州を破り、涼州を平げた等の功を録し、封を増し、諸子に回授することを聴す。ここに第二子の善は魏寧県公に、第三子の穆は文侯県侯に、第四子の蔵は義寧県侯に封ぜられ、邑各一千戸。第五子の順は項城県伯に、第六子の陁は建忠県伯に封ぜられ、邑各五百戸。信は隴右に歳久しく、還朝を啓求するも、太祖は許さず。あるいは東魏より来たる者あり、またその母の凶報を告ぐ。信は喪を発し服を行ふ。時に魏の太子が太祖と北辺を巡り、因って河陽に至り信を弔う。信は哀苦を陳べ、礼制を終えることを請うも、また許されず。ここに信の父の庫者を 司空 しくう 公に、信の母の費連氏を常山郡君に追封す。十六年、大軍東討す。信は隴右の数万人を率いて軍に従い、崤坂に至って還る。 尚書令 しょうしょれい に遷る。六官建つと、大司馬を拝す。孝閔帝が践祚すると、太保・大宗伯に遷り、 えい 国公に進封され、邑一万戸。

趙貴が誅された後、信は同謀として罪に坐し免官される。居ること幾ばくもなく、 しん 公の護またこれを殺さんと欲す。その名望素より重きを以て、その罪を顕わすを欲せず、逼って自尽を家にてせしむ。時に年五十五。

信は風度弘雅にして、奇謀大略あり。太祖が初めて覇業を啓く時、唯に関中の地を有するのみ。隴右の形勝を以て、故に信に委ねてこれを鎮ましむ。既に百姓に懐かれ、声は鄰国に振るう。東魏の将侯景が南奔して梁に赴く時、魏收が檄梁文を作り、偽りに信が隴右に拠り宇文氏に従わず、なお関西の憂いなしと称し、以て梁人を威そうとした。また信が秦州に在る時、嘗て狩猟にて日暮れとなり、馬を馳せて城に入るに、その帽微かに側る。詰旦、吏民に帽を戴く者、皆信を慕いて帽を側る。その鄰境及び士庶に重んぜられること、かくの如し。

信の子 羅

子の羅は、先に東魏に在り、乃ち次子の善を嗣とす。齊が平らぐと、羅が至る。善が卒すと、また羅を嗣とす。羅は字を羅仁という。大象元年、楚安郡守を除かれ、儀同大將軍を授かる。

信の子 善

善は字を伏陁といい、幼くして聰慧、騎射に長じ、父の勲功により、魏寧県公に封ぜられる。魏の廃帝元年、また父の勲功により、驃騎大將軍・開府儀同三司を授かり、侍中を加えられ、長安郡公に進爵する。孝閔帝が践祚すると、河州刺史を除かれる。父が罪を負い、久しく家に廢せられる。保定三年、乃ち龍州刺史を授かる。天和六年、河内郡公の爵を襲い、邑二千戸。髙祖に従い東討し、功により上開府を授かる。まもなく兗州刺史を除かれ、政は簡惠を存し、百姓これを安んず。位に卒す。年三十八。使持節・柱国・定趙恆滄瀛五州諸軍事・定州刺史を贈られる。

信の諸女

信の長女は、周の明敬后。第四女は、元貞皇后。第七女は、隋の文獻后。周・隋及び皇家、三代皆外戚たり。古より以来、未だこれ有らざるなり。

隋の文帝が即位すると、詔を下して言うには、「徳を褒め行いを重んずることは、過去の時代の通則であり、遠きを追い終わりを慎むことは、前代の王者の盛んな儀典である。故に使持節・柱国・河内郡開国公の信は、風采と器宇が高く広大で、生まれながらにして抜きん出ており、聡明で哲人として宗をなし、清らかな謀略が世に映えた。宏大な謀略と長遠な策は、補佐と調和において道を顕わし、義を緯とし仁を経として、事は救済に深く関わった。まさに廟堂に風を宣べ、台階に采を亮かすべき時にあって、世は艱難と危険に属し、功績は高くして賞せられなかった。その立派な模範を顧みれば、事は心に切実である。今、景運が初めて開け、椒闈が厳かに建てられた。塗山の義を思い、褒紀の典を忘れない。太師・上柱国・冀定相滄瀛趙恆洺貝十州諸軍事・冀州刺史を追贈し、趙国公に封じ、邑一万戸を与える。諡して景という。」信の父の庫者に使持節・太尉・上柱国・定恆滄瀛平燕六州諸軍事・定州刺史を追贈し、趙国公に封じ、邑一万戸を与えた。諡して恭という。信の母の費連氏に、太尉恭公夫人を追贈した。

侯莫陳崇

侯莫陳崇、字は尚楽、代郡武川の人である。その祖先は、魏の別部であり、庫斛真水に居住した。五世の祖は太骨都侯という。その後、代々渠帥となった。祖父の允は、良家の子として武川を鎮め、そこで家を定めた。父の興は、殿中将軍・羽林監であった。

崇は若い頃から ぎょう 勇で、馳射を得意とし、謹直で誠実、言葉少なかった。十五歳の時、賀拔岳に従って爾朱栄とともに葛栄を征討した。また元天穆に従って邢杲を討ち、これを平定した。功績により建威将軍に任じられた。別に岳に従って元顥を洛陽で破った。直寝に遷った。

後に岳に従って関中に入り、赤水蜀を破った。時に万俟醜奴が岐州を包囲し、その将の李 (名欠) と尉遅菩薩に兵を率いて武功に向かわせた。崇は岳に従って力戦してこれを破り、勝ちに乗って敗走する敵を追撃し、岐州の包囲を解いた。また百里細川に赴き、賊の帥である侯伏侯元進の柵を破った。醜奴はその残りの衆を率いて高平に奔った。崇は軽騎を率いて敗走する敵を追撃し、涇州の長坑で追いついた。賊はまだ陣を整えていなかった。崇は単騎で賊の中に入り、馬上で醜奴を生け捕りにした。そこで大声で叫ぶと、衆は皆なびき、敢えて当たる者はいなかった。後続の騎兵が次々と集まり、賊徒はことごとく逃げ散った。そこで大いにこれを打ち破った。岳は醜奴の乗っていた馬と宝剣・金帯を崇に褒美として与えた。安北将軍・太中大夫・ 都督 ととく に任じられ、臨涇県侯に封じられ、邑八百戸を与えられた。

岳が侯莫陳悦に害されると、崇は諸将とともに謀って太祖 (宇文泰) を迎えた。太祖が軍に到着した時、原州刺史の史帰はなお悦のために守っていた。太祖は崇に帰を襲撃させた。崇は密かに軍を率いて夜に進み、軽く七騎を率いて直ちに城下に至り、残りの衆は皆近くの路に伏せた。帰は騎兵が少ないのを見て、守備を設けなかった。崇は即座に入って城門を占拠した。時に李遠兄弟が城内におり、あらかじめ崇の来ることを知っていた。そこで内外で鬨の声をあげ、伏兵が悉く立ち上がり、遂に帰を生け捕りにし、斬った。崇を行原州事とした。引き続き悦の平定に従い、征西将軍に転じた。また崇を遣わして秦州を慰撫させ、別に広武県伯に封じ、邑七百戸を与えた。

大統元年、涇州刺史に任じられ、 散騎常侍 さんきじょうじ ・大 都督 ととく を加えられ、爵位を公に進められた。累進して車騎大将軍・儀同三司・驃騎大将軍・開府儀同三司となり、封を改めて彭城郡公とされ、邑三千戸を与えられた。三年、竇泰の生け捕りに従い、弘農を回復し、沙苑を破り、邑二千戸を増やされた。四年、河橋の戦いに従い、崇の功績が多かった。七年、稽胡が反乱し、崇は衆を率いて討ち平定した。まもなく雍州刺史に任じられ、太子詹事を兼ねた。十五年、位を柱国大将軍に進め、少傅に転じた。魏恭帝元年、寧州刺史として出向し、 尚書令 しょうしょれい に遷った。六官が建てられると、大 司空 しくう に拝された。孝閔帝が即位すると、梁国公に進封され、邑一万戸を与えられ、太保を加えられた。大宗伯・大 司徒 しと を歴任した。

保定三年、崇は高祖 (宇文邕) に従って原州に行幸した。高祖が夜に京師に還ったので、ひそかにその理由を怪しんだ。崇は親しい人である常昇に言った、「私は以前、卜筮者の言うことを聞いたが、晋公 (宇文護) は今年が不利だという。車駕が今突然夜に還られたのは、晋公の死以外の何ものでもない。」そこで衆は皆これを言い伝えた。ある者がこの事を発覚させた。高祖は諸公卿を大徳殿に召し、崇を責めた。崇は恐れおののいて謝罪した。その夜、護は使者を遣わして兵を率いて崇の宅に行かせ、自殺を強要させた。礼に則って葬儀を行った。諡して躁といった。護が誅殺された後、諡を改めて莊閔とした。

崇の子、芮が嗣いだ。

子の芮が嗣いだ。大将軍に拝され、位を柱国に進めた。高祖に従って東征し、衆を率いて太行道を守った。幷州が平定されると、上柱国を授けられた。引き続き鄴の平定に従い、大司馬に拝された。

崇の弟、瓊。

崇の弟の瓊、字は世楽。八歳で父を亡くし、母を養うこと至孝で、諸兄に善く仕え、内外で敬わない者はなかった。軍功により霊丘県男に封じられ、邑三百戸を与えられた。魏の孝武帝に従って関中に入り、太祖の直盪 都督 ととく となった。大統二年、尚薬典御に遷った。三年、太子右衛率に拝され、爵位を侯に進めた。独孤信に従って梁仚定を征討した。累進して北秦州刺史となった。十四年、車騎大将軍・儀同三司に拝された。孝閔帝が即位すると、爵位を武安県公に進め、邑を加えて以前と合わせて二千戸とした。 郢州 えいしゅう 刺史として出向した。武成二年、金州総管・六州諸軍事・金州刺史に遷った。保定元年、大将軍に拝された。天和四年、荊州総管・十四州八防諸軍事・荊州刺史に転じた。まもなく位を柱国に進め、爵位を同昌郡公に進めた。建徳二年、大宗伯に拝され、秦州総管として出向した。四年、高祖に従って東征し、後二軍総管となった。まもなく封を改めて武威郡公とした。大象二年、上柱国を加えられた。

瓊の弟、凱。

瓊の弟の凱、字は敬楽。性質は剛直で、経史を好んだ。兄の崇に従い、軍功により下蔡県男の爵位を賜った。大統元年、東宮侍書となった。太祖に従って竇泰を生け捕りにし、沙苑の陣を破り、功績により寧遠将軍に拝された。累進して羽林監・東宮洗馬・太子庶子となり、 都督 ととく を授けられた。十四年、兄の崇が平原州の功績により、霊武県侯の爵位を賜り、詔によって凱に転授することが許された。累進して東宮武衛率・尚書右丞となり、左丞に転じ、位を車騎大将軍・儀同三司に進めた。六官が建てられると、司門下大夫を授けられた。孝閔帝が即位すると、工部中大夫に拝され、位を開府儀同三司に進め、司憲中大夫に転じ、爵位を公に進め、再び工部中大夫に任じられた。世宗の初め、宜州刺史として出向した。武成二年、入朝して礼部中大夫となった。保定年間、再び陵州刺史となり、丹州刺史に転じた。任地において頗る政績があった。天和年間、入朝して司会中大夫となった。建徳二年、斉への聘問使の主となった。

史臣が言う。

史臣曰く、蕭何は文吏として自らを愛し、秦の法の誅戮を懼れて、乃ち漢の高祖を推戴し奉り、李通は家伝の讖術を以て、劉氏の興るを知り、遂に光武帝を翊戴す。終に白水にて禹を復し、中陽にて堯を纂ぐ。方策は以て美談と為し、功臣は其の徽烈を仰ぐ。趙貴は志に忠義を懐き、首めて大謀を倡へ、爰に聖明を啓き、克く讐恥を復す。関中は百二の険を全うし、周室は三分の業を定む。彼此一時、足れり以て連類と為す。獨孤信は威を南服に申べ、化を西州に洽す。信は遐方に著はしく、光は隣国を照らす。侯莫陳崇は勇悍の気を以て、戦争の利に当たり、軽騎にて高平の扉を啓き、匹馬にて長坑の捷を得たり。並びに宏材遠略を以て、鳳に附き龍に攀じ、績は元勲に著はしく、位は上衮に居る。而して識は明悊に慙じ、咸く凶を以て終る。惜しいかな。信は其の身を免れざるも、慶は後に延ぶ。三代の外戚、何ぞ其れ盛んなるや。

初め、魏の孝莊帝は爾朱栄に翊戴の功有るを以て、栄を柱国大将軍に拝し、位を丞相の上に置く。栄敗れたる後、此の官遂に廃す。大統三年、魏の文帝復た太祖の中興の業を建つるに、始めて命じて之を為さしむ。其の後、功は佐命に参じ、望実倶に重き者も、亦此の職に居る。大統十六年以前より、任ずる者凡そ八人有り。太祖は位は百揆を総べ、中外の軍を督す。魏の広陵王欣は、元氏の懿戚にして、禁闈に従容するのみ。此の外六人、各二大将軍を督し、禁旅を分ち掌り、爪牙禦侮の寄に当たる。当時栄盛、比ぶるもの莫し。故に今の門閥を称する者は、咸く八柱国家を推すと云ふ。今十二大将軍と併せて之を左に録す。

使持節・太尉・柱国大将軍・大 都督 ととく ・尚書左僕射・隴右行臺・少師・隴西郡開国公 李虎、

使持節・太傅・柱国大将軍・大宗伯・大 司徒 しと ・広陵王 元欣、

使持節・太保・柱国大将軍・大 都督 ととく ・大宗伯・趙郡開国公 李弼、

使持節・柱国大将軍・大 都督 ととく ・大司馬・河内郡開国公 獨孤信、

使持節・柱国大将軍・大 都督 ととく ・大司寇・南陽郡開国公 趙貴、

使持節・柱国大将軍・大 都督 ととく ・大 司空 しくう ・常山郡開国公 于謹、

使持節・柱国大将軍・大 都督 ととく ・少傅・彭城郡開国公 侯莫陳崇。

使持節・大将軍・大 都督 ととく ・少保・広平王 元贊、

使持節・大将軍・大 都督 ととく ・淮安王 元育、

使持節・大将軍・大 都督 ととく ・斉王 元廓、

使持節・大将軍・大 都督 ととく ・秦七州諸軍事・秦州刺史・章武郡開国公 宇文導、

使持節・大将軍・大 都督 ととく ・平原郡開国公 侯莫陳順、

使持節・大将軍・大 都督 ととく ・雍七州諸軍事・雍州刺史・高陽郡開国公 達奚武、

使持節・大将軍・大 都督 ととく ・陽平公の李遠、

使持節・大将軍・大 都督 ととく ・范陽郡開国公の豆盧寧、

使持節・大将軍・大 都督 ととく ・化政郡開国公の宇文貴、

使持節・大将軍・大 都督 ととく ・荊州諸軍事・荊州刺史・博陵郡開国公の賀蘭祥、

使持節・大将軍・大 都督 ととく ・陳留郡開国公の楊忠、

使持節・大将軍・大 都督 ととく ・岐州諸軍事・岐州刺史・武威郡開国公の王雄。

原本を確認する(ウィキソース):周書 巻016