周書

巻014

卷十四 列傳第六 賀拔勝 弟岳 兄允 侯莫陳悅 念賢

賀拔勝は字を破胡といい、神武の尖山の人である。その祖先は魏氏とともに陰山より出づ。回という者あり、魏の初めに大莫弗となった。祖父の爾頭は驍ぎょう勇にして人に絶倫、良家の子として武川に鎮し、ここに家を定めた。献文の時、茹茹がたびたび寇す。北辺はこれを患う。爾頭は遊騎を率いて深く入り、覘候し、前後八十回に及び、悉く虜の倚伏を知る。後に寇至るも、害をなすこと能わず。功によりて爵を龍城侯に賜う。父の度拔は性果毅にして、武川の軍主となった。

原文 賀拔勝字破胡,神武尖山人也。其先與魏氏同出陰山。有如回者,魏初為大莫弗。祖爾頭,驍勇絕倫,以良家子鎮武川,因家焉。獻文時,茹茹數為寇,北邊患之。爾頭將遊騎深入覘候,前後以八十數,悉知虜之倚伏。後雖有寇至,不能為害。以功賜爵龍城侯。父度拔,性果毅,為武川軍主。

魏の正光の末、沃野鎮の人破六汗拔陵が反し、南に侵して城邑を攻む。懷朔鎮の将楊鈞は度拔の名を聞き、召して統軍に補し、一旅を配す。その賊の偽署する王衛可孤の徒党は特に盛んにして、既に武川を囲み、また懷朔を攻む。勝は少より志操あり、騎射に巧み、北辺はその胆略を推さざるはなかった。時にまた軍主となり、度拔に従って鎮守す。既に一年を経て、外援至らず、勝は慷慨して楊鈞に白して曰く、「城囲み迫り、事は倒懸に等し。大軍に告急し、師を乞いて援けとなさんことを請う」と。鈞はこれを許す。乃ち勇敢の少年十餘騎を募り、夜に隙を伺って潰囲して出づ。賊はこれを追い及ぶ。勝曰く、「我は賀拔破胡なり」と。賊は敢えて逼らず。朔州に至り、臨淮王元彧に白して曰く、「懷朔は囲まれ、旦夕に淪陥せんとす。士女は首を延べて官軍を企望す。大王は帝室の藩維にして、国と休戚を共にし、征討の任を受け、理は敵を求むるのみ。今に頓兵して進まず、猶豫よして決せず。懷朔もし陥ちば、則ち武川もまた危うからん。逆賊はこれによりて鋭気百倍す。韓・白の勇あり、良・平の謀りあれども、また大王のために用いる能わざるべし」と。彧は勝の辞義の懇至なるを以て、出師を許し、還って命に報ぜしむ。勝はまた突囲して入り、賊はこれを追う。数人を射殺す。城下に至り、大呼して曰く、「賀拔破胡、官軍とともに至れり」と。城中は乃ち門を開いてこれを納る。鈞はまた勝を遣わして武川を覘わしむ。而して武川は既に陥ち、勝は乃ち馳せて還る。懷朔もまた潰え、勝父子は遂に賊の虜となる。後に度拔に従い、徳皇帝と合謀し、州里の豪傑輿珍・念賢・乙弗庫根・尉遅真檀等を率い、義勇を招集し、可孤を襲殺す。朝廷これを嘉し、未だ封賞に及ばず、会に度拔が鉄勒と戦いて没す。孝昌の中、安遠将軍・肆州刺史を追贈す。

原文 魏正光末,沃野鎮人破六汗拔陵反,南侵城邑。懷朔鎮將楊鈞聞度拔名,召補統軍,配以一旅。其賊偽署王衞可孤徒黨尤盛,既圍武川,又攻懷朔。勝少有志操,善騎射,北邊莫不推其膽略。時亦為軍主,從度拔鎮守。既圍經年,而外援不至,勝乃慷慨白楊鈞曰:「城圍蹙迫,事等倒懸,請告急於大軍,乞師為援。」鈞許之。乃募勇敢少年十餘騎,夜伺隙潰圍而出。賊追及之。勝曰:「我賀拔破胡也。」賊不敢逼。至朔州,白臨淮王元彧曰:「懷朔被圍,旦夕淪陷,士女延首,企望官軍。大王帝室藩維,與國休戚,受任征討,理宜唯敵是求,今乃頓兵不進,猶豫不決。懷朔若陷,則武川隨亦危矣。逆賊因茲,銳氣百倍,雖有韓、白之勇,良、平之謀,亦不能為大王用也。」彧以勝辭義懇至,許以出師,還令報命。勝復突圍而入,賊追之,射殺數人。至城下,大呼曰:「賀拔破胡與官軍至矣。」城中乃開門納之。鈞復遣勝出覘武川,而武川已陷,勝乃馳還。懷朔亦潰,勝父子遂為賊所虜。後隨度拔與德皇帝合謀,率州里豪傑輿珍、念賢、乙弗庫根、尉遲真檀等,招集義勇,襲殺可孤。朝廷嘉之,未及封賞,會度拔與鐵勒戰沒。孝昌中,追贈安遠將軍、肆州刺史。

初め、度拔が可孤を殺した後、勝をして朔州に馳告せしむ。未だ反せざるに度拔は既に卒す。刺史の費穆は勝の才略を奇とし、厚礼をもってこれを留め、遂にその事を委ね、常に遊騎となす。時に広陽王元深は五原に在り、破六汗の賊に囲まれ、昼夜攻戦す。勝を召して軍主となす。勝は乃ち募った二百人を率い、東城門を開いて出戦し、百余級を斬首す。賊は遂に軍を数十里退く。広陽は賊が稍く卻くを以て、因って軍を朔州に向けて抜け、勝は常に殿となす。功によりて統軍に拝し、伏波将軍を加う。また僕射元纂に隷し、恆州を鎮む。時に鮮于阿胡あり、朔州の流民を擁し、南下して寇となす。恆州城中の人は乃ち潜かにこれと謀り、城をもってこれに応ず。勝は兄の允・弟の岳と相失い、南に肆州に投ず。允・岳は爾朱栄に投ず。栄は肆州刺史尉慶賓と隙を搆え、兵を引いて肆州を攻む。肆州陥ち、栄は勝を得て大いに悦びて曰く、「吾、卿が兄弟を得たり。天下平らぐるに足らず」と。

原文 初,度拔殺可孤之後,令勝馳告朔州,未反而度拔已卒。刺史費穆奇勝才略,厚禮留之,遂委其事,常為遊騎。于時廣陽王元深在五原,為破六汗賊所圍,晝夜攻戰。召勝為軍主。勝乃率募二百人,開東城門出戰,斬首百餘級。賊遂退軍數十里。廣陽以賊稍卻,因拔軍向朔州,勝常為殿。以功拜統軍,加伏波將軍。又隸僕射元纂鎮恆州。時有鮮于阿胡擁朔州流民,南下為寇。恆州城中人乃潛與謀,以城應之。勝與兄允弟岳相失,南投肆州。允、岳投爾朱榮。榮與肆州刺史尉慶賓搆隙,引兵攻肆州。肆州陷,榮得勝,大悅曰:「吾得卿兄弟,天下不足平也。」

勝は質を委ねて栄に事う。時に杜洛周は兵を幽・定に阻み、葛栄は冀・瀛を拠有す。栄、勝に謂いて曰く、「井陘は険要にして、我が東門なり。君を屈してこれを鎮めしめんと意す。君の意如何」と。勝曰く、「少より兵乱に逢い、険阻を備嘗す。毎に効力を思いて、知己に報ぜんとす。今、駆使に蒙り、実に願う所なり」と。栄は乃ち勝を表して鎮遠将軍・別将とし、歩騎五千を領して井陘を鎮めしむ。孝昌の末、栄に従い洛に入り、孝荘帝を立てる策を定めた功により、易陽県伯に封ぜられ、邑四百戸を賜う。累遷して直閤将軍・通直散騎常侍さんきじょうじ・平南将軍・光禄大夫・撫軍将軍となる。太宰元穆に従い北征して葛栄を討ち、前鋒大都督ととくとなる。滏口に戦い、これを大破し、数千人を虜獲す。時に洛周の余燼韓婁は薊城に結聚し、遠近の害となる。また勝を以て大都督とし、中山を鎮めしむ。婁は素より勝の威名を聞き、竟に敢えて南寇せず。元顥が洛陽らくように入り、孝荘帝は河内に出居す。栄は勝を徴して前軍大都督とし、千騎を領して爾朱兆とともに硤石より度り、顥軍を大破し、その子の領軍将軍冠受及び梁の将陳思保等を擒え、遂に前駆して洛に入る。武衛将軍・金紫光禄大夫に拝し、邑六百戸を増し、爵を真定県公に進め、武衛将軍に遷り、散騎常侍を加う。

原文 勝委質事榮。時杜洛周阻兵幽、定,葛榮據有冀、瀛。榮謂勝曰:「井陘險要,我之東門。意欲屈君鎮之,未知君意如何?」勝曰:「少逢兵亂,險阻備嘗,每思効力,以報〈(已)〉〔己〕知。今蒙驅使,實所願也。」榮乃表勝為鎮遠將軍、別將,領步騎五千鎮井陘。孝昌末,從榮入洛,以定策立孝莊帝功,封易陽縣伯,邑四百戶。累遷直閤將軍、通直散騎常侍、平南將軍、光祿大夫、撫軍將軍。從太宰元穆北征葛榮,為前鋒大都督。戰於滏口,大破之,虜獲數千人。時洛周餘燼韓婁在薊城結聚,為遠近之害。復以勝為大都督,鎮中山。婁素聞勝威名,竟不敢南寇。元顥入洛陽,孝莊帝出居河內。榮徵勝為前軍大都督,領千騎與爾朱兆自硤石度,大破顥軍,擒其子領軍將軍冠受,及梁將陳思保等,遂前驅入洛。拜武衞將軍、金紫光祿大夫,增邑六百戶,進爵真定縣公,遷武衞將軍,加散騎常侍。

栄が誅せらるるに及び、事は倉卒に起こり、勝はまた世隆に従って河橋に至る。勝は臣に君を讐するの義なしと以為い、遂に所部を勒して都に還り帝に謁す。帝大いに悦び、本官を以て仮に驃騎大将軍・東征都督とし、騎一千を率い、鄭先護と会して爾朱仲遠を討たしむ。先護に疑われ、これを営外に置き、人馬休息を得ず。俄にして仲遠の兵至り、これと戦いて利あらず、乃ちこれに降る。また爾朱氏と同謀し、節閔帝を立てる。功によりて右衛将軍に拝し、車騎大将軍・儀同三司・左光禄大夫に進む。

原文 及榮被誅,事起倉卒,勝復隨世隆至于河橋。勝以為臣無讐君之義,遂勒所部還都謁帝。大悅,以本官假驃騎大將軍、東征都督,率騎一千,會鄭先護討爾朱仲遠。為先護所疑,置之營外,人馬未得休息。俄而仲遠兵至,與戰不利,乃降之。復與爾朱氏同謀,立節閔帝。以功拜右衞將軍,進車騎大將軍、儀同三司、左光祿大夫。

斉の神武は貳を懐き、爾朱氏はこれ討たんとす。度律は洛陽より兵を引き、兆は幷州より起こり、仲遠は滑臺より従い、三帥は鄴の東に会す。時に勝は度律に従う。度律と兆は平らかならず。勝は敵に臨みて嫌を搆うるは、敗を取るの道なりと以為い、乃ち斛斯椿とともに兆の営に詣でてこれを和解せんとす。反って兆に執えらる。度律大いに懼れ、遂に軍を引いて還る。兆、勝を斬らんとし、これを数えて曰く、「爾が可孤を殺すは、罪一なり。天柱薨じたる後、また世隆等とともに来らずして、東征して仲遠を討つは、罪二なり。我、爾を殺さんと欲すること久し。今また何を言わん」と。勝曰く、「可孤は逆を作し、国の巨患となれり。勝父子これを誅す。その功小さからず。反って罪と為すは、天下未だ聞かず。天柱戮せらるるは、君の臣を誅するなり。勝、寧ろ朝廷に負かんや。今日の事、生死は王に在り。但し賊に去ること密邇にして、骨肉隙を搆う。古より今に至るまで、破亡せざる者あらざるなり。勝は死を憚らず、王の策を失わんことを恐るるのみ」と。兆は乃ちこれを捨つ。勝既に免るるを得、百余里を行き、方に度律の軍に追い及ぶ。斉の神武、既に相州を克ち、兵威漸く盛んとなる。ここにおいて爾朱兆及び天光・仲遠・度律等、衆十余万、韓陵に陣す。兆は鉄騎を率いて陣を陥し、斉の神武の後に出で、その背に乗じてこれを撃たんとす。度律は兆の驕悍を悪み、その己を陵ぐるを懼れ、兵を勒して進まず。勝はその携貳するを以て、遂に麾下を率いて斉の神武に降る。度律の軍はこれによりて先に退き、遂に大敗す。

原文 齊神武懷貳,爾朱氏將討之。度律自洛陽引兵,兆起幷州,仲遠從滑臺,三帥會於鄴東。時勝從度律。度律與兆不平。勝以臨敵搆嫌,取敗之道,乃與斛斯椿詣兆營和解之,反為兆所執。度律大懼,遂引軍還。兆將斬勝,數之曰:「爾殺可孤,罪一也;天柱薨後,復不與世隆等俱來,而東征仲遠,罪二也。我欲殺爾久矣,今復何言?」勝曰:「可孤作逆,為國巨患,勝父子誅之,其功不小,反以為罪,天下未聞。天柱被戮,以君誅臣,勝寧負朝廷?今日之事,生死在王。但去賊密邇,骨肉搆隙,自古迄今,未有不破亡者。勝不憚死,恐王失策。」兆乃捨之。勝既得免,行百餘里,方追及度律軍。齊神武既克相州,兵威漸盛。於是爾朱兆及天光、仲遠、度律等眾十餘萬,陣於韓陵。兆率鐵騎陷陣,出齊神武之後,將乘其背而擊之。度律惡兆之驕悍,懼其陵己,勒兵不肯進。勝以其攜貳,遂率麾下降于齊神武。度律軍以此先退,遂大敗。

太昌の初め、勝を領軍将軍とし、まもなく侍中に任じた。孝武帝が斉の神武帝を図らんとし、勝の弟の岳が関西に衆を擁するを以て、その勢援を広めんと欲し、乃ち勝を都督三荊・二郢・南襄・南雍七州諸軍事とし、位を驃騎大将軍・開府儀同三司・荊州刺史に進め、南道大行臺尚書左僕射を加授した。勝は梁の下溠戍を攻め、その戍主の尹道珍らを擒えた。また人を遣わして蛮族の首長の文道期を誘動し、その種落を率いて帰順させた。梁の雍州刺史の蕭続が道期を撃つも利あらず、漢南は大いに駭いた。勝は大都督の獨孤信・軍司の史寧を遣わし、歐陽酇城を攻めさせた。南雍州刺史の長孫亮・南荊州刺史の李魔憐・大都督の王元軌に久山・白洎を取らせ、都督の抜略昶・史仵龍に義城・均口を取らせ、梁の将の莊思延を擒え、甲卒数千人を獲た。馮翊・安定・沔陽を攻め、併せてこれを平定した。勝は軍を樊・鄧の間に駐めた。梁の武帝は蕭続に勅して曰く、「賀抜勝は北間の驍将なり、爾宜しくこれを慎むべし」と。蕭続は遂に城を守って敢えて出でず。まもなく位を中書令に進め、邑二千戸を増し、爵を琅邪郡公に進めた。蕭続は柳仲禮を遣わして穀城を守らせたが、勝はこれを攻めて未だ抜かず。時に斉の神武帝と帝に隙有り、詔して勝に兵を率いて洛に赴かしむ。広州に至り、猶豫して進まず、而して帝は既に西遷していた。勝は軍を還して南陽に至り、右丞の陽休之を遣わして表を奉じて関中に入らせ、また府の長史の元潁に行州事をさせた。勝は自ら率いる所の部を率い、将に西して関中に赴かんとし、淅陽に進んだところ、詔して勝を太保・録尚書事に封ず。時に斉の神武帝は既に潼関を陥とし、軍を華陰に屯せり。勝は乃ち荊州に還った。州民の鄧誕が元潁を執り、北して侯景を引き入れた。勝が至ると、侯景は逆撃し、勝の軍は利あらず、麾下数百騎を率いて南に奔り梁に走った。

原文 太昌初,以勝為領軍將軍,尋除侍中。孝武帝將圖齊神武,以勝弟岳擁眾關西,欲廣其勢援,乃拜勝為都督三荊、二郢、南襄、南雍七州諸軍事,進位驃騎大將軍、開府儀同三司、荊州刺史,加授南道大行臺尚書左僕射。勝攻梁下溠戍,擒其戍主尹道珍等。又使人誘動蠻王文道期,率其種落歸款。梁雍州刺史蕭續擊道期不利,漢南大駭。勝遣大都督獨孤信、軍司史寧。歐陽酇城。南雍州刺史長孫亮、南荊州刺史李魔憐、大都督王元軌取久山、白洎,都督拔略昶、史仵龍取義城、均口,擒梁將莊思延,獲甲卒數千人。攻馮翊、安定、〈(馮)〉〔沔〕陽,竝平之。勝軍於樊、鄧之間。梁武勅續曰:「賀拔勝北間驍將,爾宜慎之。」續遂城守不敢出。尋進位中書令,增邑二千戶,進爵琅邪郡公。續遣柳仲禮守穀城,勝攻之未拔。屬齊神武與帝有隙,詔勝引兵赴洛,至廣州,猶豫未進,而帝已西遷。勝還軍南陽,遣右丞〈(楊)〉〔陽〕休之奉表入關,又令府長史元潁行州事。勝自率所部,將西赴關中,進至淅陽,詔封勝太保、錄尚書事。時齊神武已陷潼關,屯軍華陰。勝乃還荊州。州民鄧誕執元潁,北引侯景。勝至,景逆擊之,勝軍不利,率麾下數百騎,南奔梁。

江南に在ること三年、梁の武帝は彼を遇すること甚だ厚かった。勝は常に師を乞いて北して斉の神武帝を討たんことを請うたが、既に果たさず、乃ち還ることを求めた。梁の武帝はこれを許し、親しく南苑で餞別した。勝は是より後、行く毎に弓矢を執り、鳥獣で南に向かうものを見れば皆これを射ず、以て懐徳の志を申し明かした。長安ちょうあんに至り、闕に詣でて罪を謝した。朝廷はその還るを嘉し、乃ち太師を授けた。

原文 在江表三年,梁武帝遇之甚厚。勝常乞師北討齊神武,既不果,乃求還。梁武帝許之,親餞於南苑。勝自是之後,每行執弓矢,見鳥獸南向者皆不射之,以申懷德之志也。既至長安,詣闕謝罪。朝廷嘉其還,乃授太師。

後に太祖に従って竇泰を小関に擒え、中軍大都督を加授された。また太祖に従って弘農を攻む。勝は陝津より先に河を渡り、東魏の将の高干は遁走したが、勝は追いかけてこれを獲、囚えた。河北を下り、郡守の孫晏・崔乂を擒えた。沙苑にて東魏軍を破るに従い、奔るを追って河上に至った。仍って李弼と別れて河東を攻め、汾・絳を略定した。邑を増し前併せて五千戸とした。河橋の役に、勝は大いに東魏軍を破った。太祖は勝に命じてその降卒を収めて還らしめた。及び斉の神武帝が衆を悉くして玉壁を攻むると、勝は前軍大都督として太祖に従い、これを汾北に追った。また邙山の戦いに従う。時に太祖は斉の神武帝の旗鼓を見て、これを識り、乃ち敢勇三千人を募り、勝に配してその軍を犯さしめた。勝は丁度斉の神武帝と相遇い、因ってこれに告げて曰く、「賀六渾よ、賀抜破胡必ずや汝を殺さん」と。時に募士は皆短兵を用いて接戦し、勝は矟を執って斉の神武帝を数里追い、刃垂んとしてこれに及ばんとした。会うこと勝の馬が流れ矢に中りて死す、副騎の至るに比するに、斉の神武帝は既に逸去していた。勝は歎じて曰く、「今日の事、吾が弓矢を執らざるは、天なり」と。

原文 後從太祖擒竇泰於小關,加授中軍大都督。又從太祖攻弘農。勝自陝津先渡河,東魏將高干遁,勝追獲,囚之。下河北,擒郡守孫晏。崔乂。從破東魏軍於沙苑,追奔至河上。仍與李弼別攻河東,略定汾、絳。增邑并前五千戶。河橋之役,勝大破東魏軍。太祖命勝收其降卒而還。及齊神武悉眾攻玉壁,勝以前軍大都督從太祖追之於汾北。又從戰邙山。時太祖見齊神武旗鼓,識之,乃募敢勇三千人,配勝以犯其軍。勝適與齊神武相遇,因告之曰:「賀六渾,賀拔破胡必殺汝也。」時募士皆用短兵接戰,勝持矟追齊神武數里,刃垂及之。會勝馬為流矢所中,死,比副騎至,齊神武已逸去。勝歎曰:「今日之事,吾不執弓矢者,天也!」

是の歳、勝の諸子の東に在る者は、皆斉の神武帝に害せられた。勝は憤恨し、因って気疾を動かした。大統十年、位に薨じた。臨終に、手書をして太祖に与えて曰く、「勝は万里を杖策し、身を闕庭に帰し、公とともに逋寇を掃除せんことを冀望す。不幸にして殞斃し、微志申さず。願わくは公、内に先ず協和し、時に順いて動かんことを。若し死して知有らば、猶お望む魂飛んで賊庭に至り、以て恩遇に報ぜんことを」と。太祖は書を覧て、久しく流涕した。

原文 是歲,勝諸子在東者,皆為齊神武所害。勝憤恨,因動氣疾。大統十年,薨于位。臨終,手書與太祖曰:「勝萬里杖策,歸身闕庭,冀望與公掃除逋寇。不幸殞斃,微志不申。願公內先協和,順時而動。若死而有知,猶望魂飛賊庭,以報恩遇耳。」太祖覽書,流涕久之。

勝は喪乱の中に長じ、特に武芸に工み、走馬して飛鳥を射れば、十中其の五六なり。太祖は毎に云う、「諸将の敵に対すること、神色皆動く、唯だ賀抜公は臨陣すること平常の如し、真に大勇なり」と。重位に居るより、始めて墳籍を愛し、乃ち文儒を招引し、義理を討論す。性また通率にして、義を重んじ財を軽んじ、身死の日、唯だ随身の兵仗及び書千余巻あるのみ。

原文 勝長於喪亂之中,尤工武藝,走馬射飛鳥,十中其五六。太祖每云:「諸將對敵,神色皆動,唯賀拔公臨陣如平常,真大勇也。」自居重位,始愛墳籍。乃招引文儒,討論義理。性又通率,重義輕財,身死之日,唯有隨身兵仗及書千餘卷而已。

初め、勝が関中に至り、自ら年位素より重しと以て、太祖を見て拝せず、尋いで自ら悔い、太祖も亦望み有り。後に太祖に従って昆明池に宴す。時に双鳬池上に游ぐ有り、太祖は乃ち弓矢を勝に授けて曰く、「公の射るを見ず久し、請う以て歓びと為さん」と。勝これを射れば、一発俱に中つ。因って太祖に拝して曰く、「勝をして神武を奉ぜしめ、以て不庭を討たしめば、皆此の如くならん」と。太祖大いに悦ぶ。是より恩礼日増しに重く、勝も亦誠を尽くして推奉す。定冀等十州諸軍事・定州刺史・太宰・録尚書事を贈り、諡して貞献と曰う。明帝二年、勝を以て太祖廟庭に配享す。

原文 初,勝至關中,自以年位素重,見太祖不拜,尋而自悔,太祖亦有望焉。後從太祖宴于昆明池,時有雙鳬游於池上,太祖乃授弓矢於勝曰:「不見公射久矣,請以為歡。」勝射之,一發俱中。因拜太祖曰:「使勝得奉神武,以討不庭,皆如此也。」太祖大悅。自是恩禮日重,勝亦盡誠推奉焉。贈定冀等十州諸軍事、定州刺史、太宰、錄尚書事,諡曰貞獻。明帝二年,以勝配享太祖廟庭。

勝に子無く、弟の岳の子の仲華を以て嗣がしむ。大統三年、爵を樊城公と賜う。魏の廃帝の時、通直郎・散騎常侍となり、黄門郎に遷り、車騎大将軍・儀同三司を加え、驃騎大将軍・開府儀同三司となる。六官建つや、守廟下大夫に拝す。孝閔帝践祚し、爵を琅邪公に襲ぎ、利州刺史を除く。大象の末、位は江陵総管に至る。

原文 勝無子,以弟岳子仲華嗣。大統三年,賜爵樊城公。魏廢帝時,為通直郎、散騎常侍,遷黃門郎,加車騎大將軍、儀同三司,驃騎大將軍、開府儀同三司。六官建,拜守廟下大夫。孝閔帝踐阼,襲爵琅邪公,除利州刺史。大象末,位至江陵總管。

勝兄弟三人、併せて豪侠を以て知名なり。兄の允は字は阿泥、魏の孝武帝の時、位は太尉に至り、燕郡王に封ぜられ、神武帝に害せらる。

原文 勝兄弟三人,竝以豪俠知名。兄允字阿泥,魏孝武時,位至太尉,封燕郡王,為神武所害。

弟 岳

原文 弟 岳

岳は字は阿斗泥。少より大志有り、施しを愛し士を好む。初め太学生と為り、及び長ずるに、能く左右に馳射し、驍果人に絶る。兵書を読まずして暗に之と合い、識者は皆之を異とす。

原文 岳字阿斗泥。少有大志,愛施好士。初為太學生,及長,能左右馳射,驍果絕人。不讀兵書而暗與之合,識者咸異之。

父兄とともに衞えい可孤を誅した後、広陽王の元深は岳を以て帳内軍主と為す。又表して彊弩将軍と為す。後に兄の勝と俱に恆州を鎮む。州陥ち、爾朱栄に投ず。栄は之を待すること甚だ厚く、別将と為し、尋いで都督と為す。毎に帳下に居り、事を計るに、多く栄の意に合い、益々之を重んず。栄の士馬既に衆く、遂に元天穆と謀りて朝廷を匡れんとす。岳に謂いて曰く、「今女主朝に臨み、政は近習に帰す。盗賊蜂起し、海内沸騰し、王師屡出するも、覆亡相継ぐ。吾が累世恩を受け、義は休戚を同じくす。今親しく士馬を率い、電赴して京師に至り、内に君側を除き、外に逆乱を清めんと欲す。勝を取るの道、計将に安く出ださん」と。岳対えて曰く、「夫れ非常の事を立つるは、必ず非常の人を俟つ。将軍の士馬精彊、位任隆重なり。若し首めて義旗を挙げ、叛を伐ち主を匡せば、何れの往くところにか不尅ならん、何れの向かうところにか不摧ならん。古人云う『朝の謀りは夕に及ばず、言の発するは駕を俟たず』と、此れ之を謂うなり」と。栄と天穆相顧みて良久くして曰く、「卿の此言、真に丈夫の志なり」と。

原文 與父兄誅衞可孤之後,廣陽王元深以岳為帳內軍主。又表為彊弩將軍。後與兄勝俱鎮恆州。州陷,投爾朱榮。榮待之甚厚,以為別將,尋為都督。每居帳下,與計事,多與榮意合,益重之。榮士馬既眾,遂與元天穆謀入匡朝廷。謂岳曰:「今女主臨朝,政歸近習。盜賊蜂起,海內沸騰,王師屢出,覆亡相繼。吾累世受恩,義同休戚。今欲親率士馬,電赴京師,內除君側,外清逆亂。取勝之道,計將安出?」岳對曰:「夫立非常之事,必俟非常之人。將軍士馬精彊,位任隆重。若首舉義旗,伐叛匡主,何往而不尅,何向而不摧。古人云『朝謀不及夕,言發不俟駕』,此之謂矣。」榮與天穆相顧良久,曰:「卿此言,真丈夫之志也。」

間もなく魏の孝明帝が急に崩御すると、爾朱榮は何か事情があるのではないかと疑い、兵を挙げて洛陽へ向かった。賀抜岳に甲卒二千を配して先鋒とし、河陰に至らせた。爾朱榮が朝士を殺害した後、当時斉の神武帝(高歓)が爾朱榮の軍の都督であったが、爾朱栄に帝位に即くよう勧め、左右の者も多くこれに同調しようとしたが、爾朱栄は疑って決断できなかった。賀抜岳は従容として進み出て言うには、「将軍はまず義兵を挙げ、共に奸逆を除こうとされた。功労はまだ立てず、逆にこのような謀りごとをなさるのは、禍を速めるとは言え、その福を見ることはできません。」爾朱栄はやがて自ら悟り、孝荘帝を立てて尊んだ。賀抜岳はまた爾朱栄に斉の神武帝を誅殺して天下に謝罪するよう勧めた。左右の者は皆言うには、「高歓はたとえ凡庸で疎遠な者であっても、言葉は難を思わぬものですが、今四方はまだ塞がれており、事は武臣に頼るところがあります。どうか彼を赦し、後の効験を収められよ。」爾朱栄はやめて、策定の功により、賀抜岳を前将軍・太中大夫に任じ、樊城郷男の爵を賜った。再び爾朱栄の前軍都督となり、滏口で葛栄を破った。平東将軍・金紫光禄大夫に遷った。事に坐して免官されたが、詔により間もなく復職した。元顥を平定することに従い、左光禄大夫・武衛将軍に転じた。

原文 未幾而魏孝明帝暴崩,榮疑有故,乃舉兵赴洛。配岳甲卒二千為先驅,至河陰。榮既殺害朝士,時齊神武為榮軍都督,勸榮稱帝,左右多欲同之,榮疑未決。岳乃從容進而言曰:「將軍首舉義兵,共除姦逆,功勤未立,逆有此謀,可謂速禍,未見其福。」榮尋亦自悟,乃尊立孝莊。岳又勸榮誅齊神武以謝天下。左右咸言:「高歡雖復庸疏,言不思難,今四方尚梗,事藉武臣,請捨之,收其後効。」榮乃止。以定策功,授前將軍、太中大夫,賜爵樊城〈(郡)〉〔鄉〕男。復為榮前軍都督,破葛榮於滏口。遷平東將軍、金紫光祿大夫。坐事免。詔尋復之。從平元顥,轉左光祿大夫、武衞將軍。

当時、万俟醜奴が大号を僭称し、関中は騒動し、朝廷は深く憂慮していた。爾朱栄は賀抜岳を派遣してこれを討たせようとした。賀抜岳は密かにその兄の賀抜勝に言うには、「醜奴は秦・隴の兵を擁し、強敵たりえます。もし私が行って功績がなければ、罪責は直ちに至りましょう。仮に平定したとしても、讒言や訴えが生じることを恐れます。」賀抜勝は言う、「汝はどういう計らいで自らを安んじようとするのか。」賀抜岳は言う、「爾朱氏の一人を元帥とし、私がその副とさせていただければ、それでよいのです。」賀抜勝はこれをよしとし、爾朱栄に請うた。爾朱栄は大いに喜び、爾朱天光を使持節・二雍二岐諸軍事都督・驃騎大将軍・雍州刺史とし、賀抜岳を持節・仮衛将軍・左大都督とし、また征西将軍代郡侯の莫陳悦を右大都督とし、共に爾朱天光の副としてこれを討たせた。当時、赤水の蜀しょく賊が兵を阻み道を断っていた。爾朱天光の軍勢は二千に満たなかった。軍が潼関に駐屯すると、爾朱天光は難色を示した。賀抜岳は言う、「蜀賊は草寇に過ぎません。公がなおためらわれるなら、もし大敵に遇えば、どうして戦おうというのですか。」爾朱天光は言う、「今日のことは、一切そなたに委ねる。そなたは我がためにこれを制するがよい。」そこで進軍し、賊は渭水の北で防戦したが、これを破り、馬二千匹を獲、軍威は大いに振るった。

原文 時万俟醜奴僭稱大號,關中騷動,朝廷深以為憂。榮將遣岳討之。岳私謂其兄勝曰:「醜奴擁秦、隴之兵,足為勍敵。若岳往而無功,罪責立至;假令尅定,恐讒愬生焉。」勝曰:「汝欲何計自安?」岳曰:「請爾朱氏一人為元帥,岳副貳之,則可矣。」勝然之,乃請於榮。榮大悅,乃以天光為使持節、督二雍二岐諸軍事、驃騎大將軍、雍州刺史,以岳為持節、假衞將軍、左大都督,又以征西將軍代郡侯莫陳悅為右〔大〕都督,竝為天光之副以討之。時赤水蜀賊,阻兵斷路。天光之眾,不滿二千。及軍次潼關,天光有難色。岳曰:「蜀賊草竊而已,公尚遲疑,若遇大敵,將何以戰。」天光曰:「今日之事,一以相委,公宜為吾制之。」於是進軍,賊拒戰於渭北,破之,獲馬二千疋,軍威大振。

爾朱天光と賀抜岳は雍州まで進んだが、爾朱栄はさらに兵を続けて派遣した。当時、万俟醜奴は自ら大軍を率いて岐州を包囲し、その大行臺尉遅菩薩と僕射万俟仵を武功に向かわせ、南へ渭水を渡って柵を攻囲させた。爾朱天光は賀抜岳に千騎を率いて救援に向かわせた。尉遅菩薩は柵を攻めて既に陥落させ、岐州に引き返した。賀抜岳は軽騎八百を率いて北へ渭水を渡り、その県令二人を擒え、甲首四百を獲、その民を殺掠して挑発した。尉遅菩薩は歩騎二万を率いて渭水の北に至った。賀抜岳は軽騎数十を以て尉遅菩薩と水を隔てて言葉を交わした。賀抜岳は国威を称揚し、尉遅菩薩は自らの強盛を言い、往復数回に及んだ。尉遅菩薩はやがて自ら驕って踞り、省事に命じて賀抜岳に伝言させた。賀抜岳は怒って言う、「我は菩薩と話している。卿は何者で、我と対等に語るのか。」省事は水を隔てているのを恃み、応答が不遜であった。賀抜岳は弓を挙げてこれを射ると、弦に応じて倒れた。時は既に暮れに迫っていたので、そこでそれぞれ引き返した。賀抜岳は密かに渭水の南の水辺に沿い、精騎数十を一か所とし、地形の便に従って配置した。翌日、自ら百余騎を率い、水を隔てて賊と相見えた。賀抜岳は次第に前進し、先に配置した騎兵が賀抜岳に従って進み、騎兵が次第に増えるにつれ、賊はその多少を測ることができなくなった。二十里余り行き、水が浅く渡れる所に至ると、賀抜岳は馬を馳せて東に出て、逃走する様を示した。賊は賀抜岳が逃げたと思い、歩兵を捨てて南へ渭水を渡り、軽騎で賀抜岳を追った。賀抜岳は東へ十余里行き、横たわる岡に依って伏兵を設けてこれを待った。賊は路が険しいため一斉に進めず、前後に続いて到着し、半ばが岡の東に渡った時、賀抜岳は引き返して賊と戦い、身を士卒に先んじ、急撃したので、賊は退き走った。賀抜岳は配下に号令し、賊で馬から下りる者は皆、殺すことを許さなかった。賊はこれを見ると、悉く馬を投げ出した。間もなく三千人を虜獲し、馬も残らず、ついに尉遅菩薩を擒えた。引き続き渭水の北を渡り、歩卒万余を降し、併せてその輜重を収めた。

原文 天光與岳進至雍州,榮又續遣兵至。時醜奴自率大眾圍岐州,遣其大行臺尉遲菩薩、僕射万俟仵同向武功,南渡渭水〔攻圍趨柵。天光使岳率千騎赴〕援。菩薩攻柵已尅,還岐州。岳以輕騎八百北渡渭,擒其縣令二人,獲甲首四百,殺掠其民以挑。菩薩率步騎二萬至渭北。岳以輕騎數十與菩薩隔水交言。岳稱揚國威,菩薩自言彊盛,往復數反。菩薩乃自驕踞,令省事傳語岳。岳怒曰:「我與菩薩言,卿是何人,與我對語?」省事恃隔水,應答不遜。岳舉弓射之,應弦而倒。時已逼暮,於是各還。岳密於渭南傍水,分精騎數十為一處,隨地形便置之。明日,自將百餘騎,隔水與賊相見。岳漸前進,先所置騎隨岳而進,騎既漸增,賊不復測其多少。行二十里許,至水淺可濟之處,岳便馳馬東出,以示奔遁。賊謂岳走,乃棄步兵,南渡渭水,輕騎追岳。岳東行十餘里,依橫岡設伏兵以待之。賊以路險不得齊進,前後繼至,半度岡東,岳乃回與賊戰,身先士卒,急擊之,賊便退走。岳號令所部,賊下馬者,皆不聽殺。賊顧見之,便悉投馬。俄而虜獲三千人,馬亦無遺,遂擒菩薩。仍渡渭北,降步卒萬餘,竝收其輜重。

万俟醜奴は間もなく岐州を放棄し、北へ安定に走り、平亭に柵を置いた。爾朱天光はちょうど雍州から岐州に至り、賀抜岳と合流した。軍が汧水と渭水の間に至ると、遠近に宣言して言うには、「今は気候が次第に暑くなり、征討の時ではない。秋の涼しさを待って、さらに進取を図ろう。」万俟醜奴はこれを聞き、真実と思い、諸軍を分遣して岐州の北百里の細川に散らばって営を置き農耕させ、その太尉侯元進に兵五千を率いさせ、険阻な地を占拠して柵を立てさせた。千人以下の柵が数か所あり、戦いながら守った。賀抜岳はその勢力が分散したことを知り、密かに爾朱天光と厳重に備えた。申の刻(午後四時頃)、密かに軽騎を先に行かせ道を開かせ、その後諸軍を尽く出発させた。夜明け前に、侯元進の柵を攻囲し、これを抜き、直ちに侯元進を擒えた。捕虜とした者は皆釈放し、残りの諸柵は悉く降伏した。賀抜岳は夜を徹して直ちに涇州に向かい、その刺史俟幾長貴は城を以て降った。万俟醜奴は平亭を棄てて逃走し、高平に向かおうとした。賀抜岳は軽騎で急追し、翌日、平涼の長坑で万俟醜奴に追いつき、一戦にしてこれを擒えた。高平城中でもまた蕭宝寅を捕らえて降伏した。

原文 醜奴尋棄岐州,北走安定,置柵於平亭。天光方自雍至岐,與〈(兵)〉〔岳〕合勢。軍至汧、渭之間,宣言遠近曰:「今氣候漸熱,非征討之時,待秋涼更圖進取。」醜奴聞之,遂以為實,分遣諸軍散營農於岐州之北百里細川,使其太尉侯元進領兵五千,據險立柵。其千人以下為柵者有數處,且戰且守。岳知其勢分,乃密與天光嚴備。晡時,潛遣輕騎先行路,於後諸軍盡發。昧旦,攻圍元進柵,拔之,即擒元進。諸所俘執皆放之,自餘諸柵悉降。岳星言徑趣涇州,其刺史俟幾長貴以城降。醜奴乃棄平亭而走,欲向高平。岳輕騎急追,明日,及醜奴於平涼之長坑,一戰擒之。高平城中又執蕭寶寅以〈(歸)〉〔降〕。

賊の行臺万俟道洛は衆六千を率い、退いて牽屯山を守った。賀抜岳はこれを攻めた。万俟道洛は敗れ、千騎を率いて逃走したが、追っても及ばず、ついに隴に入り、略陽の賊帥王慶雲に投じた。王慶雲は万俟道洛の驍勇果断が並ぶものがないと見て、これを得て甚だ喜び、大将軍とした。爾朱天光はまた賀抜岳と共に隴を越えて王慶雲の居る水洛城に至った。王慶雲と万俟道洛は頻りに城を出て防戦したが、共に擒えられた。残りの衆は皆降伏し、悉く坑に埋め、死者は一万七千人に及んだ。三秦・河・渭・瓜・涼・鄯州の諸州は皆来て帰順した。賊帥夏州人の宿勤明達は平涼で降伏したが、後に再び叛き、賀抜岳はまた討伐してこれを擒えた。爾朱天光は元帥であったが、賀抜岳の功績が多かった。車騎将軍を加えられ、爵を伯に進められ、邑二千戸を賜った。間もなく都督涇北豳二夏四州諸軍事・涇州刺史に任じられ、爵を公に進められた。

原文 賊行臺万俟道洛率眾六千,退保牽屯山。岳攻之。道洛敗,率千騎而走,追之不及,遂得入隴,投略陽賊帥王慶雲。慶雲以道洛驍果絕倫,得之甚喜,以為大將軍。天光又與岳度隴至慶雲所居水洛城。慶雲、道洛頻出城拒戰,竝擒之。餘眾皆降,悉坑之,死者萬七千人。三秦、河、渭、瓜、涼、鄯州咸來歸款。賊帥夏州人宿勤明達降於平涼,後復叛,岳又討擒之。天光雖為元帥,而岳功効居多。加車騎將軍,進爵為伯,邑二千戶。尋授都督涇北豳二夏四州諸軍事、涇州刺史,進爵為公。

爾朱天光が洛陽に入ると、賀抜岳を行雍州刺史とした。建明年中、驃騎大将軍に拝され、邑五百戸を増やされた。普泰初年、都督二岐東秦三州諸軍事・儀同三司・岐州刺史に除され、清水郡公に進封され、邑を増やして通算三千戸となった。間もなく侍中を加えられ、後部鼓吹を給され、位を開府儀同三司に進め、尚書左僕射・隴右行臺を兼ね、引き続き高平に駐屯した。二年、都督三雍三秦二岐二華諸軍事・雍州刺史を加えられた。爾朱天光が衆を率いて斉の神武帝(高歓)に抵抗しようとし、賀抜岳に使いを遣わして計略を問うた。賀抜岳は答えて言うには、「王家(爾朱氏)は三方に跨って拠り、士馬は殷盛です。高歓の烏合の衆が、どうして敵となりえましょう。しかし師は和を以て克つものです。ただ同心戮力することを願うのみです。もし骨肉が離隔し、自ら猜疑しあえば、存続を図る暇もなく、どうして人を制することができましょう。下官の見るところでは、しばらく関中を鎮めて根本を固め、鋭師を分遣して衆軍と合勢させるに如くはありません。進んでは敵に克ち、退いでは全きを得ることができます。」爾朱天光は従わず、果たして敗れた。賀抜岳は軍を率いて隴を下り雍州に赴き、爾朱天光の弟の爾朱顕寿を擒えて斉の神武帝に応じた。

原文 天光入洛,使岳行雍州刺史。建明中,拜驃騎大將軍,增邑五百戶。普泰初,除都督二岐東秦三州諸軍事、儀同三司、岐州刺史,進封清水郡公,增邑通前三千戶。尋加侍中,給後部鼓吹,進位開府儀同三司,兼尚書左僕射、隴右行臺,仍停高平。二年,加都督三雍三秦二岐二華諸軍事、雍州刺史。天光將率眾拒齊神武,遣問計於岳。岳報曰:「王家跨據三方,士馬殷盛,高歡烏合之眾,豈能為敵。然師克在和,但願同心戮力耳。若骨肉離隔,自相猜貳,則圖存不暇,安能制人。如下官所見,莫若且鎮關中,以固根本;分遣銳師,與眾軍合勢。進可以克敵,退可以克全。」天光不從,果敗。岳率軍下隴赴雍,擒天光弟顯壽以應齊神武。

魏の孝武帝が即位すると、関中大行臺を加えられ、封邑千戸を増やされた。永熙二年、孝武帝は密かに賀抜岳に命じて斉の神武帝を討たせようとし、遂に心血を刺して、これを持たせて岳に託し、詔して岳に二雍・二華・二岐・豳・四梁・三益・巴・二夏・蔚・寧・涇の二十州諸軍事・大都督を都督させた。斉の神武帝は既に岳兄弟の功名を忌み、岳は恐れ、乃ち太祖と協力して契った。その話は太祖本紀にある。岳は自ら北境に赴き、辺防を安置した。衆を率いて平涼の西界に趣き、数千里にわたって営を布き、原州で牧馬することを託け、自ら安んずる計略とした。先に、費也頭の万俟受洛干・鉄勒の斛律沙門・斛抜弥俄突・紇豆陵伊利らは、皆衆を擁して自ら守っていたが、この時に至って皆帰順した。秦・南秦・河・渭の四州刺史もまた平涼に会し、岳の節度を受けた。ただ霊州刺史の曹泥のみ召しに応ぜず、乃ち斉の神武帝に使者を通じた。三年、岳は侯莫陳悦を高平に召し、これを討たんとし、悦に前駆を命じた。而して悦は斉の神武帝の密旨を受けて岳を討たんとし、岳はこれを知らなかった。而して先にまた悦を軽んじていた。悦は乃ち岳を誘って営に入らせ、共に兵事を論じ、その婿の元洪景に命じて幕中で岳を斬らせた。朝野痛惜せざるはなかった。侍中・太傅・録尚書・都督関中三十州諸軍事・大將軍・雍州刺史を追贈され、諡して武壮と曰い、王礼をもって葬られた。

原文 魏孝武即位,加關中大行臺,增邑千戶。永熙二年,孝武密令岳圖齊神武,遂刺心血,持以寄岳,詔岳都督二雍二華二岐豳四梁三益巴二夏蔚寧涇二十州諸軍事、大都督。齊神武既忌岳兄弟功名,岳懼,乃與太祖協契。語在太祖本紀。岳自詣北境,安置邊防。率眾趣平涼西界,布營數十里,託以牧馬於原州,為自安之計。先是,費也頭万俟受洛干、鐵勒斛律沙門、斛拔彌俄突、紇豆陵伊利等,竝擁眾自守,至是皆款附。秦、南秦、河、渭四州刺史又會平涼,受岳節度。唯靈州刺史曹泥不應召,乃通使於齊神武。三年,岳召侯莫陳悅於高平,將討之,令悅為前驅。而悅受齊神武密旨圖岳,〔岳〕弗之知也,而先又輕悅。悅乃誘岳入營,共論兵事,令其壻元洪景斬岳於幕中。朝野莫不痛惜之。贈侍中、太傅、錄尚書、都督關中三十州諸軍事、大將軍、雍州刺史,諡曰武壯,葬以王禮。

子の緯が嗣ぎ、開府儀同三司に拝された。保定年間、岳の旧徳を録し、緯の爵を進めて霍国公とし、太祖の女を娶った。

原文 子緯嗣,拜開府儀同三司。保定中,錄岳舊德,進緯爵霍國公,尚太祖女。

侯莫陳悦は、少くして父に従い駞牛都尉となった。西に長じ、田猟を好み、騎射に巧みであった。牧子の乱に会い、遂に爾朱栄に帰した。栄はこれを引きいて府長流参軍とし、稍く大都督に遷った。魏の孝荘帝の初め、征西将軍・金紫光禄大夫を除され、柏人県侯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。爾朱天光が西討するに当たり、栄は悦を以て天光の右都督とし、本官は元の如しとした。西伐して功を克ち獲ること、賀抜岳に次いだ。本将軍を以て鄯州刺史を除された。建明年間、車騎大將軍・渭州刺史に拝され、爵を進めて白水郡公とし、邑五百戸を増やされた。普泰年間、驃騎大將軍・儀同三司・秦州刺史を除された。天光が洛に赴くに及び、悦は岳と俱に隴を下り雍州に趣き、天光の弟の顕寿を擒えた。魏の孝武帝の初め、開府儀同三司・都督隴右諸軍事を加えられ、仍く秦州刺史を加えられた。悦が岳を殺すに及び、岳の衆は服従せざるはなかった。悦は躊躇し、即時に撫納せず、乃ち隴右に遷った。太祖は衆を勒してこれを討ち、悦は遂に亡び敗れた。その話は太祖本紀にある。悦の子弟及び岳を殺すに同謀した者八九人は、皆誅せられた。ただ中兵参軍の豆盧光のみ霊州に走り至り、後に晋陽に奔った。悦は岳を自殺せしめて後、神情恍忽として、常の如くならず。常に言う「我纔に睡れば即ち夢に岳云ふ『兄は何れの処にか去らんとする』と、我に随ひ逐ひて相置かず」と。此の因りに愈々自ら安んぜず、而して破滅を致した。

原文 侯莫陳悅,少隨父為駞牛都尉。長於西,好田獵,便騎射。會牧子作亂,遂歸爾朱榮。榮引為府長流參軍,稍遷大都督。魏孝莊帝初,除征西將軍、金紫光祿大夫、封柏人縣侯,邑五百戶。爾朱天光西討,榮以悅為天光右都督,本官如故。西伐克獲,功亞於賀拔岳。以本將軍除鄯州刺史。建明中,拜車騎大將軍、渭州刺史,進爵白水郡公,增邑五百戶。普泰中,除驃騎大將軍、儀同三司、秦州刺史。及天光赴洛,悅與岳俱下隴趣雍州,擒天光弟顯壽。魏孝武初,加開府儀同三司、都督隴右諸軍事,仍加秦州刺史。及悅殺岳,岳眾莫不服從。悅猶豫,不即撫納,乃遷隴右。太祖勒眾討之,悅遂亡敗。語在太祖本紀。悅子弟及同謀殺岳者八九人,竝伏誅。唯中兵參軍豆盧光走至靈州,後奔晉陽。悅自殺岳後,神情恍忽,不復如常。恆言「我纔睡即夢見岳云:『兄欲何處去!』隨逐我不相置」。因此彌不自安,而致破滅。

念賢は字を蓋盧という。容姿美しく、頗る書史に渉った。児童の時、学中に在りて書を読むに、善く相する者学を過ぐる有り、諸生競ひて之に詣るも、賢独り往かず。笑ひて諸生に謂ひて曰く「男児の死生富貴は天に在り、何ぞ遽に相せん」と。少くして父の憂ひに遭ひ、喪に居りて孝有りと称せられた。後に衛可孤を破る功を以て、別将を除された。尋で雲州の高車・鮮卑等を招慰し、皆降して之を下した。仮節・平東将軍を除され、屯留県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。建義の初め、大都督となり、井陘に鎮し、撫軍将軍・黎陽郡守を加えられた。爾朱栄が洛に入り、車騎将軍・右光禄大夫・太僕卿に拝され、尚書右僕射・東道行臺を兼ね、爵を進めて平恩県公とし、邑五百戸を増やされた。普泰の初め、使持節・瀛州諸軍事・驃騎将軍・瀛州刺史を除された。永熙年間、第一領民酋長に拝され、散騎常侍を加えられ、行南兗州事とした。尋で驃騎大將軍の号を進め、入りて殿中尚書となり、儀同三司を加えられた。魏の孝武帝は斉の神武帝を討たんとし、賢を以て中軍北面大都督とし、爵を進めて安定郡公とし、邑一千戸を増やし、侍中・開府儀同三司を加えた。大統の初め、太尉に拝され、出でて秦州刺史となり、太傅を加えられ、後部鼓吹を給された。三年、太師・都督河涼瓜鄯渭洮沙七州諸軍事・大將軍・河州刺史に転じた。久しくして朝に還り、録尚書事を兼ねた。河橋の役に、賢は力戦せず、乃ち先に還り、是より名誉頗る減じた。五年、都督秦渭原涇四州諸軍事・秦州刺史を除された。州にて薨じた。諡して昭定と曰う。

原文 念賢字蓋盧。美容質,頗涉書史。為兒童時,在學中讀書,有善相者過學,諸生競詣之,賢獨不往。笑謂諸生曰:「男兒死生富貴在天也,何遽相乎。」少遭父憂,居喪有孝稱。後以破衞可孤功,除別將。尋招慰雲州高車、鮮卑等,皆降下之。除假節、平東將軍,封屯留縣伯,邑五百戶。建義初,為大都督,鎮井陘,加撫軍將軍、黎陽郡守。爾朱榮入洛,拜車騎將軍、右光祿大夫、太僕卿,兼尚書右僕射、東〔道〕行臺,進爵平恩縣公,增邑五百戶。普泰初,除使持節、瀛州諸軍事、驃騎將軍、瀛州刺史。永熙中,拜第一領民酋長,加散騎常侍,行南兗州事。尋進號驃騎大將軍,入為殿中尚書,加儀同三司。魏孝武欲討齊神武,以賢為中軍北面大都督,進爵安定郡公,增邑一千戶,加侍中、開府儀同三司。大統初,拜太尉,出為秦州刺史,加太傅,給後部鼓吹。三年,轉太師、都督河涼瓜鄯渭洮沙七州諸軍事、大將軍、河州刺史。久之還朝,兼錄尚書事。河橋之役,賢不力戰,乃先還,自是名譽頗減。五年,除都督秦渭原涇四州諸軍事、秦州刺史。薨於州。諡曰昭定。

賢は諸公に対し皆父の党であり、太祖以下、咸く之を拝敬した。子の華は、性温和にして厚く、長者の風有り。官は開府儀同三司・合州刺史に至った。

原文 賢於諸公皆為父黨,自太祖以下,咸拜敬之。子華,性和厚,有長者風。官至開府儀同三司、合州刺史。

史臣曰く、勝・岳の昆季は、勇略の姿を以て、馳競の際に当たり、竝びに時に投隙し、効を展べて功を立てた。始めは爾朱に質を委ね、中には高氏に款を結び、太昌の後は、即ち帝を図り高を察す。其の由る所を察すれば、固より節を守るの士に非ず。勝が江左に垂翅し、魏室の危亡を憂ひ、関西に奮翼し、梁朝の顧遇を感ずるに及びては、長者の風有りと謂うべし。終に能く其の栄寵を保つは、良く以て有るなり。岳は二千の羸兵を以て、三秦の勍敵に抗し、其の智勇を奮ひ、凶渠を克翦し、雑種威を畏れ、遐方義を慕う、斯れ亦一時の盛なり。卒に勳高くして禍に速かれ、備無くして戮に嬰る。惜しい哉。陳渉首事して終わらず、漢之に因りて創業す。賀抜元功夙に殞ち、太祖之に藉りて開基す。「廃する所有らざれば、君何を以てか興らん」、信乎なる哉其の然るを。

原文 史臣曰:勝、岳昆季,以勇略之姿,當馳競之際,竝邀時投隙,展効立功。始則委質爾朱,中乃結款高氏,太昌之後,即帝圖高,察其所由,固非守節之士。及勝垂翅江左,憂魏室之危亡,奮翼關西,感梁朝之顧遇,有長者之風矣。終能保其榮寵,良有以焉。岳以二千之羸兵,抗三秦之勍敵,奮其智勇,克翦凶渠,雜種畏威,遐方慕義,斯亦一時之盛也。卒以勳高速禍,無備嬰戮。惜哉!陳涉首事不終,有漢因而創業;賀拔元功夙殞,太祖藉以開基。「不有所廢,君何以興」,信乎其然矣。

校

原文 校

全文は中華書局、一九七一年十一月版『周書』を以て本校と為す。

原文 全文以中華書局、一九七一年十一月版《周書》為本校。