賀拔勝は字を破胡といい、神武の尖山の人である。その祖先は魏氏とともに陰山より出づ。回という者あり、魏の初めに大莫弗となった。祖父の爾頭は驍勇にして人に絶倫、良家の子として武川に鎮し、ここに家を定めた。献文の時、茹茹がたびたび寇す。北辺はこれを患う。爾頭は遊騎を率いて深く入り、覘候し、前後八十回に及び、悉く虜の倚伏を知る。後に寇至るも、害をなすこと能わず。功によりて爵を龍城侯に賜う。父の度拔は性果毅にして、武川の軍主となった。
魏の正光の末、沃野鎮の人破六汗拔陵が反し、南に侵して城邑を攻む。懷朔鎮の将楊鈞は度拔の名を聞き、召して統軍に補し、一旅を配す。その賊の偽署する王衛可孤の徒党は特に盛んにして、既に武川を囲み、また懷朔を攻む。勝は少より志操あり、騎射に巧み、北辺はその胆略を推さざるはなかった。時にまた軍主となり、度拔に従って鎮守す。既に一年を経て、外援至らず、勝は慷慨して楊鈞に白して曰く、「城囲み迫り、事は倒懸に等し。大軍に告急し、師を乞いて援けとなさんことを請う」と。鈞はこれを許す。乃ち勇敢の少年十餘騎を募り、夜に隙を伺って潰囲して出づ。賊はこれを追い及ぶ。勝曰く、「我は賀拔破胡なり」と。賊は敢えて逼らず。朔州に至り、臨淮王元彧に白して曰く、「懷朔は囲まれ、旦夕に淪陥せんとす。士女は首を延べて官軍を企望す。大王は帝室の藩維にして、国と休戚を共にし、征討の任を受け、理は敵を求むるのみ。今に頓兵して進まず、猶豫して決せず。懷朔もし陥ちば、則ち武川もまた危うからん。逆賊はこれによりて鋭気百倍す。韓・白の勇あり、良・平の謀りあれども、また大王のために用いる能わざるべし」と。彧は勝の辞義の懇至なるを以て、出師を許し、還って命に報ぜしむ。勝はまた突囲して入り、賊はこれを追う。数人を射殺す。城下に至り、大呼して曰く、「賀拔破胡、官軍とともに至れり」と。城中は乃ち門を開いてこれを納る。鈞はまた勝を遣わして武川を覘わしむ。而して武川は既に陥ち、勝は乃ち馳せて還る。懷朔もまた潰え、勝父子は遂に賊の虜となる。後に度拔に従い、徳皇帝と合謀し、州里の豪傑輿珍・念賢・乙弗庫根・尉遅真檀等を率い、義勇を招集し、可孤を襲殺す。朝廷これを嘉し、未だ封賞に及ばず、会に度拔が鉄勒と戦いて没す。孝昌の中、安遠将軍・肆州刺史を追贈す。
初め、度拔が可孤を殺した後、勝をして朔州に馳告せしむ。未だ反せざるに度拔は既に卒す。刺史の費穆は勝の才略を奇とし、厚礼をもってこれを留め、遂にその事を委ね、常に遊騎となす。時に広陽王元深は五原に在り、破六汗の賊に囲まれ、昼夜攻戦す。勝を召して軍主となす。勝は乃ち募った二百人を率い、東城門を開いて出戦し、百余級を斬首す。賊は遂に軍を数十里退く。広陽は賊が稍く卻くを以て、因って軍を朔州に向けて抜け、勝は常に殿となす。功によりて統軍に拝し、伏波将軍を加う。また僕射元纂に隷し、恆州を鎮む。時に鮮于阿胡あり、朔州の流民を擁し、南下して寇となす。恆州城中の人は乃ち潜かにこれと謀り、城をもってこれに応ず。勝は兄の允・弟の岳と相失い、南に肆州に投ず。允・岳は爾朱栄に投ず。栄は肆州刺史尉慶賓と隙を搆え、兵を引いて肆州を攻む。肆州陥ち、栄は勝を得て大いに悦びて曰く、「吾、卿が兄弟を得たり。天下平らぐるに足らず」と。
勝は質を委ねて栄に事う。時に杜洛周は兵を幽・定に阻み、葛栄は冀・瀛を拠有す。栄、勝に謂いて曰く、「井陘は険要にして、我が東門なり。君を屈してこれを鎮めしめんと意す。君の意如何」と。勝曰く、「少より兵乱に逢い、険阻を備嘗す。毎に効力を思いて、知己に報ぜんとす。今、駆使に蒙り、実に願う所なり」と。栄は乃ち勝を表して鎮遠将軍・別将とし、歩騎五千を領して井陘を鎮めしむ。孝昌の末、栄に従い洛に入り、孝荘帝を立てる策を定めた功により、易陽県伯に封ぜられ、邑四百戸を賜う。累遷して直閤将軍・通直散騎常侍・平南将軍・光禄大夫・撫軍将軍となる。太宰元穆に従い北征して葛栄を討ち、前鋒大都督となる。滏口に戦い、これを大破し、数千人を虜獲す。時に洛周の余燼韓婁は薊城に結聚し、遠近の害となる。また勝を以て大都督とし、中山を鎮めしむ。婁は素より勝の威名を聞き、竟に敢えて南寇せず。元顥が洛陽に入り、孝荘帝は河内に出居す。栄は勝を徴して前軍大都督とし、千騎を領して爾朱兆とともに硤石より度り、顥軍を大破し、その子の領軍将軍冠受及び梁の将陳思保等を擒え、遂に前駆して洛に入る。武衛将軍・金紫光禄大夫に拝し、邑六百戸を増し、爵を真定県公に進め、武衛将軍に遷り、散騎常侍を加う。
栄が誅せらるるに及び、事は倉卒に起こり、勝はまた世隆に従って河橋に至る。勝は臣に君を讐するの義なしと以為い、遂に所部を勒して都に還り帝に謁す。帝大いに悦び、本官を以て仮に驃騎大将軍・東征都督とし、騎一千を率い、鄭先護と会して爾朱仲遠を討たしむ。先護に疑われ、これを営外に置き、人馬休息を得ず。俄にして仲遠の兵至り、これと戦いて利あらず、乃ちこれに降る。また爾朱氏と同謀し、節閔帝を立てる。功によりて右衛将軍に拝し、車騎大将軍・儀同三司・左光禄大夫に進む。
斉の神武は貳を懐き、爾朱氏はこれ討たんとす。度律は洛陽より兵を引き、兆は幷州より起こり、仲遠は滑臺より従い、三帥は鄴の東に会す。時に勝は度律に従う。度律と兆は平らかならず。勝は敵に臨みて嫌を搆うるは、敗を取るの道なりと以為い、乃ち斛斯椿とともに兆の営に詣でてこれを和解せんとす。反って兆に執えらる。度律大いに懼れ、遂に軍を引いて還る。兆、勝を斬らんとし、これを数えて曰く、「爾が可孤を殺すは、罪一なり。天柱薨じたる後、また世隆等とともに来らずして、東征して仲遠を討つは、罪二なり。我、爾を殺さんと欲すること久し。今また何を言わん」と。勝曰く、「可孤は逆を作し、国の巨患となれり。勝父子これを誅す。その功小さからず。反って罪と為すは、天下未だ聞かず。天柱戮せらるるは、君の臣を誅するなり。勝、寧ろ朝廷に負かんや。今日の事、生死は王に在り。但し賊に去ること密邇にして、骨肉隙を搆う。古より今に至るまで、破亡せざる者あらざるなり。勝は死を憚らず、王の策を失わんことを恐るるのみ」と。兆は乃ちこれを捨つ。勝既に免るるを得、百余里を行き、方に度律の軍に追い及ぶ。斉の神武、既に相州を克ち、兵威漸く盛んとなる。ここにおいて爾朱兆及び天光・仲遠・度律等、衆十余万、韓陵に陣す。兆は鉄騎を率いて陣を陥し、斉の神武の後に出で、その背に乗じてこれを撃たんとす。度律は兆の驕悍を悪み、その己を陵ぐるを懼れ、兵を勒して進まず。勝はその携貳するを以て、遂に麾下を率いて斉の神武に降る。度律の軍はこれによりて先に退き、遂に大敗す。
太昌の初め、勝を領軍将軍とし、まもなく侍中に任じた。孝武帝が斉の神武帝を図らんとし、勝の弟の岳が関西に衆を擁するを以て、その勢援を広めんと欲し、乃ち勝を都督三荊・二郢・南襄・南雍七州諸軍事とし、位を驃騎大将軍・開府儀同三司・荊州刺史に進め、南道大行臺尚書左僕射を加授した。勝は梁の下溠戍を攻め、その戍主の尹道珍らを擒えた。また人を遣わして蛮族の首長の文道期を誘動し、その種落を率いて帰順させた。梁の雍州刺史の蕭続が道期を撃つも利あらず、漢南は大いに駭いた。勝は大都督の獨孤信・軍司の史寧を遣わし、歐陽酇城を攻めさせた。南雍州刺史の長孫亮・南荊州刺史の李魔憐・大都督の王元軌に久山・白洎を取らせ、都督の抜略昶・史仵龍に義城・均口を取らせ、梁の将の莊思延を擒え、甲卒数千人を獲た。馮翊・安定・沔陽を攻め、併せてこれを平定した。勝は軍を樊・鄧の間に駐めた。梁の武帝は蕭続に勅して曰く、「賀抜勝は北間の驍将なり、爾宜しくこれを慎むべし」と。蕭続は遂に城を守って敢えて出でず。まもなく位を中書令に進め、邑二千戸を増し、爵を琅邪郡公に進めた。蕭続は柳仲禮を遣わして穀城を守らせたが、勝はこれを攻めて未だ抜かず。時に斉の神武帝と帝に隙有り、詔して勝に兵を率いて洛に赴かしむ。広州に至り、猶豫して進まず、而して帝は既に西遷していた。勝は軍を還して南陽に至り、右丞の陽休之を遣わして表を奉じて関中に入らせ、また府の長史の元潁に行州事をさせた。勝は自ら率いる所の部を率い、将に西して関中に赴かんとし、淅陽に進んだところ、詔して勝を太保・録尚書事に封ず。時に斉の神武帝は既に潼関を陥とし、軍を華陰に屯せり。勝は乃ち荊州に還った。州民の鄧誕が元潁を執り、北して侯景を引き入れた。勝が至ると、侯景は逆撃し、勝の軍は利あらず、麾下数百騎を率いて南に奔り梁に走った。
後に太祖に従って竇泰を小関に擒え、中軍大都督を加授された。また太祖に従って弘農を攻む。勝は陝津より先に河を渡り、東魏の将の高干は遁走したが、勝は追いかけてこれを獲、囚えた。河北を下り、郡守の孫晏・崔乂を擒えた。沙苑にて東魏軍を破るに従い、奔るを追って河上に至った。仍って李弼と別れて河東を攻め、汾・絳を略定した。邑を増し前併せて五千戸とした。河橋の役に、勝は大いに東魏軍を破った。太祖は勝に命じてその降卒を収めて還らしめた。及び斉の神武帝が衆を悉くして玉壁を攻むると、勝は前軍大都督として太祖に従い、これを汾北に追った。また邙山の戦いに従う。時に太祖は斉の神武帝の旗鼓を見て、これを識り、乃ち敢勇三千人を募り、勝に配してその軍を犯さしめた。勝は丁度斉の神武帝と相遇い、因ってこれに告げて曰く、「賀六渾よ、賀抜破胡必ずや汝を殺さん」と。時に募士は皆短兵を用いて接戦し、勝は矟を執って斉の神武帝を数里追い、刃垂んとしてこれに及ばんとした。会うこと勝の馬が流れ矢に中りて死す、副騎の至るに比するに、斉の神武帝は既に逸去していた。勝は歎じて曰く、「今日の事、吾が弓矢を執らざるは、天なり」と。
是の歳、勝の諸子の東に在る者は、皆斉の神武帝に害せられた。勝は憤恨し、因って気疾を動かした。大統十年、位に薨じた。臨終に、手書をして太祖に与えて曰く、「勝は万里を杖策し、身を闕庭に帰し、公とともに逋寇を掃除せんことを冀望す。不幸にして殞斃し、微志申さず。願わくは公、内に先ず協和し、時に順いて動かんことを。若し死して知有らば、猶お望む魂飛んで賊庭に至り、以て恩遇に報ぜんことを」と。太祖は書を覧て、久しく流涕した。
勝は喪乱の中に長じ、特に武芸に工み、走馬して飛鳥を射れば、十中其の五六なり。太祖は毎に云う、「諸将の敵に対すること、神色皆動く、唯だ賀抜公は臨陣すること平常の如し、真に大勇なり」と。重位に居るより、始めて墳籍を愛し、乃ち文儒を招引し、義理を討論す。性また通率にして、義を重んじ財を軽んじ、身死の日、唯だ随身の兵仗及び書千余巻あるのみ。
勝兄弟三人、併せて豪侠を以て知名なり。兄の允は字は阿泥、魏の孝武帝の時、位は太尉に至り、燕郡王に封ぜられ、神武帝に害せらる。
弟 岳
岳は字は阿斗泥。少より大志有り、施しを愛し士を好む。初め太学生と為り、及び長ずるに、能く左右に馳射し、驍果人に絶る。兵書を読まずして暗に之と合い、識者は皆之を異とす。
父兄とともに衞可孤を誅した後、広陽王の元深は岳を以て帳内軍主と為す。又表して彊弩将軍と為す。後に兄の勝と俱に恆州を鎮む。州陥ち、爾朱栄に投ず。栄は之を待すること甚だ厚く、別将と為し、尋いで都督と為す。毎に帳下に居り、事を計るに、多く栄の意に合い、益々之を重んず。栄の士馬既に衆く、遂に元天穆と謀りて朝廷を匡れんとす。岳に謂いて曰く、「今女主朝に臨み、政は近習に帰す。盗賊蜂起し、海内沸騰し、王師屡出するも、覆亡相継ぐ。吾が累世恩を受け、義は休戚を同じくす。今親しく士馬を率い、電赴して京師に至り、内に君側を除き、外に逆乱を清めんと欲す。勝を取るの道、計将に安く出ださん」と。岳対えて曰く、「夫れ非常の事を立つるは、必ず非常の人を俟つ。将軍の士馬精彊、位任隆重なり。若し首めて義旗を挙げ、叛を伐ち主を匡せば、何れの往くところにか不尅ならん、何れの向かうところにか不摧ならん。古人云う『朝の謀りは夕に及ばず、言の発するは駕を俟たず』と、此れ之を謂うなり」と。栄と天穆相顧みて良久くして曰く、「卿の此言、真に丈夫の志なり」と。
間もなく魏の孝明帝が急に崩御すると、爾朱榮は何か事情があるのではないかと疑い、兵を挙げて洛陽へ向かった。賀抜岳に甲卒二千を配して先鋒とし、河陰に至らせた。爾朱榮が朝士を殺害した後、当時斉の神武帝(高歓)が爾朱榮の軍の都督であったが、爾朱栄に帝位に即くよう勧め、左右の者も多くこれに同調しようとしたが、爾朱栄は疑って決断できなかった。賀抜岳は従容として進み出て言うには、「将軍はまず義兵を挙げ、共に奸逆を除こうとされた。功労はまだ立てず、逆にこのような謀りごとをなさるのは、禍を速めるとは言え、その福を見ることはできません。」爾朱栄はやがて自ら悟り、孝荘帝を立てて尊んだ。賀抜岳はまた爾朱栄に斉の神武帝を誅殺して天下に謝罪するよう勧めた。左右の者は皆言うには、「高歓はたとえ凡庸で疎遠な者であっても、言葉は難を思わぬものですが、今四方はまだ塞がれており、事は武臣に頼るところがあります。どうか彼を赦し、後の効験を収められよ。」爾朱栄はやめて、策定の功により、賀抜岳を前将軍・太中大夫に任じ、樊城郷男の爵を賜った。再び爾朱栄の前軍都督となり、滏口で葛栄を破った。平東将軍・金紫光禄大夫に遷った。事に坐して免官されたが、詔により間もなく復職した。元顥を平定することに従い、左光禄大夫・武衛将軍に転じた。
当時、万俟醜奴が大号を僭称し、関中は騒動し、朝廷は深く憂慮していた。爾朱栄は賀抜岳を派遣してこれを討たせようとした。賀抜岳は密かにその兄の賀抜勝に言うには、「醜奴は秦・隴の兵を擁し、強敵たりえます。もし私が行って功績がなければ、罪責は直ちに至りましょう。仮に平定したとしても、讒言や訴えが生じることを恐れます。」賀抜勝は言う、「汝はどういう計らいで自らを安んじようとするのか。」賀抜岳は言う、「爾朱氏の一人を元帥とし、私がその副とさせていただければ、それでよいのです。」賀抜勝はこれをよしとし、爾朱栄に請うた。爾朱栄は大いに喜び、爾朱天光を使持節・二雍二岐諸軍事都督・驃騎大将軍・雍州刺史とし、賀抜岳を持節・仮衛将軍・左大都督とし、また征西将軍代郡侯の莫陳悦を右大都督とし、共に爾朱天光の副としてこれを討たせた。当時、赤水の蜀賊が兵を阻み道を断っていた。爾朱天光の軍勢は二千に満たなかった。軍が潼関に駐屯すると、爾朱天光は難色を示した。賀抜岳は言う、「蜀賊は草寇に過ぎません。公がなおためらわれるなら、もし大敵に遇えば、どうして戦おうというのですか。」爾朱天光は言う、「今日のことは、一切そなたに委ねる。そなたは我がためにこれを制するがよい。」そこで進軍し、賊は渭水の北で防戦したが、これを破り、馬二千匹を獲、軍威は大いに振るった。
爾朱天光と賀抜岳は雍州まで進んだが、爾朱栄はさらに兵を続けて派遣した。当時、万俟醜奴は自ら大軍を率いて岐州を包囲し、その大行臺尉遅菩薩と僕射万俟仵を武功に向かわせ、南へ渭水を渡って柵を攻囲させた。爾朱天光は賀抜岳に千騎を率いて救援に向かわせた。尉遅菩薩は柵を攻めて既に陥落させ、岐州に引き返した。賀抜岳は軽騎八百を率いて北へ渭水を渡り、その県令二人を擒え、甲首四百を獲、その民を殺掠して挑発した。尉遅菩薩は歩騎二万を率いて渭水の北に至った。賀抜岳は軽騎数十を以て尉遅菩薩と水を隔てて言葉を交わした。賀抜岳は国威を称揚し、尉遅菩薩は自らの強盛を言い、往復数回に及んだ。尉遅菩薩はやがて自ら驕って踞り、省事に命じて賀抜岳に伝言させた。賀抜岳は怒って言う、「我は菩薩と話している。卿は何者で、我と対等に語るのか。」省事は水を隔てているのを恃み、応答が不遜であった。賀抜岳は弓を挙げてこれを射ると、弦に応じて倒れた。時は既に暮れに迫っていたので、そこでそれぞれ引き返した。賀抜岳は密かに渭水の南の水辺に沿い、精騎数十を一か所とし、地形の便に従って配置した。翌日、自ら百余騎を率い、水を隔てて賊と相見えた。賀抜岳は次第に前進し、先に配置した騎兵が賀抜岳に従って進み、騎兵が次第に増えるにつれ、賊はその多少を測ることができなくなった。二十里余り行き、水が浅く渡れる所に至ると、賀抜岳は馬を馳せて東に出て、逃走する様を示した。賊は賀抜岳が逃げたと思い、歩兵を捨てて南へ渭水を渡り、軽騎で賀抜岳を追った。賀抜岳は東へ十余里行き、横たわる岡に依って伏兵を設けてこれを待った。賊は路が険しいため一斉に進めず、前後に続いて到着し、半ばが岡の東に渡った時、賀抜岳は引き返して賊と戦い、身を士卒に先んじ、急撃したので、賊は退き走った。賀抜岳は配下に号令し、賊で馬から下りる者は皆、殺すことを許さなかった。賊はこれを見ると、悉く馬を投げ出した。間もなく三千人を虜獲し、馬も残らず、ついに尉遅菩薩を擒えた。引き続き渭水の北を渡り、歩卒万余を降し、併せてその輜重を収めた。
万俟醜奴は間もなく岐州を放棄し、北へ安定に走り、平亭に柵を置いた。爾朱天光はちょうど雍州から岐州に至り、賀抜岳と合流した。軍が汧水と渭水の間に至ると、遠近に宣言して言うには、「今は気候が次第に暑くなり、征討の時ではない。秋の涼しさを待って、さらに進取を図ろう。」万俟醜奴はこれを聞き、真実と思い、諸軍を分遣して岐州の北百里の細川に散らばって営を置き農耕させ、その太尉侯元進に兵五千を率いさせ、険阻な地を占拠して柵を立てさせた。千人以下の柵が数か所あり、戦いながら守った。賀抜岳はその勢力が分散したことを知り、密かに爾朱天光と厳重に備えた。申の刻(午後四時頃)、密かに軽騎を先に行かせ道を開かせ、その後諸軍を尽く出発させた。夜明け前に、侯元進の柵を攻囲し、これを抜き、直ちに侯元進を擒えた。捕虜とした者は皆釈放し、残りの諸柵は悉く降伏した。賀抜岳は夜を徹して直ちに涇州に向かい、その刺史俟幾長貴は城を以て降った。万俟醜奴は平亭を棄てて逃走し、高平に向かおうとした。賀抜岳は軽騎で急追し、翌日、平涼の長坑で万俟醜奴に追いつき、一戦にしてこれを擒えた。高平城中でもまた蕭宝寅を捕らえて降伏した。
賊の行臺万俟道洛は衆六千を率い、退いて牽屯山を守った。賀抜岳はこれを攻めた。万俟道洛は敗れ、千騎を率いて逃走したが、追っても及ばず、ついに隴に入り、略陽の賊帥王慶雲に投じた。王慶雲は万俟道洛の驍勇果断が並ぶものがないと見て、これを得て甚だ喜び、大将軍とした。爾朱天光はまた賀抜岳と共に隴を越えて王慶雲の居る水洛城に至った。王慶雲と万俟道洛は頻りに城を出て防戦したが、共に擒えられた。残りの衆は皆降伏し、悉く坑に埋め、死者は一万七千人に及んだ。三秦・河・渭・瓜・涼・鄯州の諸州は皆来て帰順した。賊帥夏州人の宿勤明達は平涼で降伏したが、後に再び叛き、賀抜岳はまた討伐してこれを擒えた。爾朱天光は元帥であったが、賀抜岳の功績が多かった。車騎将軍を加えられ、爵を伯に進められ、邑二千戸を賜った。間もなく都督涇北豳二夏四州諸軍事・涇州刺史に任じられ、爵を公に進められた。
子の緯が嗣ぎ、開府儀同三司に拝された。保定年間、岳の旧徳を録し、緯の爵を進めて霍国公とし、太祖の女を娶った。
侯莫陳悦は、少くして父に従い駞牛都尉となった。西に長じ、田猟を好み、騎射に巧みであった。牧子の乱に会い、遂に爾朱栄に帰した。栄はこれを引きいて府長流参軍とし、稍く大都督に遷った。魏の孝荘帝の初め、征西将軍・金紫光禄大夫を除され、柏人県侯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。爾朱天光が西討するに当たり、栄は悦を以て天光の右都督とし、本官は元の如しとした。西伐して功を克ち獲ること、賀抜岳に次いだ。本将軍を以て鄯州刺史を除された。建明年間、車騎大將軍・渭州刺史に拝され、爵を進めて白水郡公とし、邑五百戸を増やされた。普泰年間、驃騎大將軍・儀同三司・秦州刺史を除された。天光が洛に赴くに及び、悦は岳と俱に隴を下り雍州に趣き、天光の弟の顕寿を擒えた。魏の孝武帝の初め、開府儀同三司・都督隴右諸軍事を加えられ、仍く秦州刺史を加えられた。悦が岳を殺すに及び、岳の衆は服従せざるはなかった。悦は躊躇し、即時に撫納せず、乃ち隴右に遷った。太祖は衆を勒してこれを討ち、悦は遂に亡び敗れた。その話は太祖本紀にある。悦の子弟及び岳を殺すに同謀した者八九人は、皆誅せられた。ただ中兵参軍の豆盧光のみ霊州に走り至り、後に晋陽に奔った。悦は岳を自殺せしめて後、神情恍忽として、常の如くならず。常に言う「我纔に睡れば即ち夢に岳云ふ『兄は何れの処にか去らんとする』と、我に随ひ逐ひて相置かず」と。此の因りに愈々自ら安んぜず、而して破滅を致した。
賢は諸公に対し皆父の党であり、太祖以下、咸く之を拝敬した。子の華は、性温和にして厚く、長者の風有り。官は開府儀同三司・合州刺史に至った。
史臣曰く、勝・岳の昆季は、勇略の姿を以て、馳競の際に当たり、竝びに時に投隙し、効を展べて功を立てた。始めは爾朱に質を委ね、中には高氏に款を結び、太昌の後は、即ち帝を図り高を察す。其の由る所を察すれば、固より節を守るの士に非ず。勝が江左に垂翅し、魏室の危亡を憂ひ、関西に奮翼し、梁朝の顧遇を感ずるに及びては、長者の風有りと謂うべし。終に能く其の栄寵を保つは、良く以て有るなり。岳は二千の羸兵を以て、三秦の勍敵に抗し、其の智勇を奮ひ、凶渠を克翦し、雑種威を畏れ、遐方義を慕う、斯れ亦一時の盛なり。卒に勳高くして禍に速かれ、備無くして戮に嬰る。惜しい哉。陳渉首事して終わらず、漢之に因りて創業す。賀抜元功夙に殞ち、太祖之に藉りて開基す。「廃する所有らざれば、君何を以てか興らん」、信乎なる哉其の然るを。
校
全文は中華書局、一九七一年十一月版『周書』を以て本校と為す。