晋蕩公の護は字を薩保といい、太祖(宇文泰)の兄である邵惠公顥の末子である。幼少より方正にして志量あり、特に徳皇帝(宇文肱)に愛され、諸兄とは異なる扱いを受けた。十一歳の時、惠公が薨去し、諸父に従って葛栄の軍中にあった。葛栄が敗れると、晋陽に移った。太祖が関中に入った時、護は年少のため従わなかった。普泰の初め(531年)、晋陽から平涼に至り、時に十七歳であった。太祖の諸子は皆幼く、そこで護に家務を委ねたところ、内外厳しくせずして整然とした。太祖はかつて嘆じて言った、「この児の志量は我に似ている」と。
太祖が西巡して牽屯山に至り、病に罹り、駅伝を飛ばして護を召した。護が涇州で太祖に拝謁した時、太祖の病はすでに重篤であった。護に言うには、「我が容貌この如し、必ずや助からぬ。諸子は幼く、寇賊は未だ平定せず、天下の事は汝に託す。努めて我が志を成せ」と。護は涙を流して命を受けた。雲陽に行き着く途中で太祖は崩御した。護はこれを秘し、長安に至って初めて喪を発した。時に嗣子(宇文覚)は幼弱で、強敵が近くにあり、人心は不安であった。護は内外を統制し、文武の官を慰撫したので、ここに衆人の心は定まったのである。以前より、太祖は常に「我は胡の力を得たり」と言っていた。当時はその意味を知る者はいなかったが、この時、人々は護の字(薩保)がこれに当たると考えた。まもなく柱国に拝された。太祖の山陵が完了すると、護は天命の帰する所ありとし、人を遣わして魏帝にほのめかし、ついに禅譲による王朝交代の事を行った。
孝閔帝が即位すると、大司馬に拝され、晋国公に封ぜられ、邑一万戸を賜う。趙貴・独孤信らが護を襲撃しようと謀ったが、護は趙貴が入朝した機会に乗じてこれを捕らえ、その党与は皆誅殺された。大冢宰に拝された。
時に司会の李植・軍司馬の孫恆らは、太祖の朝廷において長く権勢の要職に居た。護が政権を執るのを見て、容れられぬことを恐れた。そこで密かに宮伯の乙弗鳳・張光洛・賀拔提・元進らを腹心として誘い、帝(孝閔帝)に説いて言うには、「護が趙貴を誅殺して以来、威権は日増しに盛んとなり、謀臣や宿将は争って彼に付き従い、大小の政事は皆護によって決せられております。臣の見るところ、彼は臣下の節度を守らず、その勢力が蔓延することを恐れます。願わくは早くこれを図られんことを」と。帝はその言葉を是とした。鳳らはまた言うには、「先王(宇文泰)の聖明をもってさえ、なお李植・孫恆に朝政を委ねられました。今もし陛下が左右より彼らを引き立てられれば、何を成し遂げられないことがありましょうか。かつ晋公(宇文護)は常に『我は今、陛下を輔弼し、周公がなされたことを行おうとしている』と言っております。臣が聞くところによれば、周公は摂政七年の後、初めて天子に政権を返上されました。陛下は今日、果たして七年もこのような状態でいられましょうか。深く疑わないことを願います」と。帝はますます彼らを信じるようになった。たびたび武士を率いて後園で講習し、捕縛する態勢を整えた。
護はかすかにこれを知り、そこで李植を梁州刺史に、孫恆を潼州刺史に出して、その陰謀を抑えようとした。後に帝が李植らを思い、たびたび召還しようとした。護は諫めて言うには、「天下で最も親しいのは、兄弟に過ぎません。もし兄弟自らが不和を生じさせれば、他の者をどうして容易に親しむことができましょうか。太祖は陛下が若年であるため、後事を臣に託されました。臣は家と国の情けを兼ねており、まことにその股肱(手足)として力を尽くさんと願っております。もし陛下が自ら万機を御覧になり、威を四海に加えられるならば、臣が死ぬ日も、生きている年と同じであります。ただ、臣が除かれた後、奸悪の輩がその欲望を遂げることを恐れるのみで、それは陛下に不利であるばかりでなく、社稷の危亡をも招くでしょう。臣が勤めて天威に触れるのは、ただ太祖のご託しに背かず、国家の帝位を安んじたいからに他なりません。思いがけず陛下は愚臣の誠意を照察されず、突然疑いの障壁を生じさせられました。かつ臣は既に天子の兄であり、また国家の宰輔でもあります。さらに何を求めて希望を抱くことがありましょうか。伏して願わくは、陛下には臣を明らかにされる方法をお取りになり、讒言する者の口に惑わされませんように」と。そこで涙を流し、しばらくしてやめた。帝はなお彼を疑った。
鳳らはますます恐れ、密謀をますます深めた。ついに日を定めて諸公卿を招き宴を催し、護を捕らえて誅殺しようとした。光洛がその前後の謀略をことごとく護に告げたので、護は柱国の賀蘭祥・小司馬の尉遅綱らを召し、鳳らの陰謀を告げた。祥らは皆護に帝を廃するよう勧めた。時に綱は禁兵を総領していたので、護は綱を遣わして宮中に入らせ、鳳らを召して議事とし、出てきたところを順次捕らえて護の邸宅に送らせた。そこで宿衛の兵を解散させ、祥を遣わして帝を脅迫し、旧邸に幽閉した。ここにおいて諸公卿を召し集め、護は涙を流して言うには、「先王は布衣より起こり、自ら軍陣に立ち、王業に勤労すること三十余年であった。寇賊は未だ平定せず、突然に万国を棄てられた。寡人(護)は地縁では猶子(甥)であり、親しく顧命を受けた。略陽公(孝閔帝)が既に正嫡としての地位に居られるので、公らとともに立ち奉り、魏を革め周を興し、四海の主と為したのである。即位以来、荒淫にして度を越え、小人らに近づき、骨肉を疎んじ忌み、大臣や重将は皆誅滅しようと欲している。もしこの謀り事が成就すれば、社稷は必ずや傾覆に至るであろう。寡人もし死せば、何の面目あって先王に会えようか。今日は寧ろ略陽公に背くとも、社稷に背くことはしない。寧都公(宇文毓)は年齢も徳も兼ね備え、仁孝聖慈にして、四海は心を寄せ、万方は注目している。今、暗君を廃し明君を立てんと欲するが、公らはどう思うか」と。群臣は皆言うには、「これは公の家事であり、敢えて命に従わないことがありましょうか」と。そこで門外で鳳らを斬り、李植・孫恆らをも誅殺した。まもなく帝も弑した。岐州より世宗(宇文毓)を迎えて立てた。
護は性、至孝であり、書を得て、悲しみ自ら勝えず、左右の者も仰ぎ見ることができなかった。報書して曰く、
斉朝は即時に発遣せず、更に護に書を与え、護に重ねて返報することを求め、往復再三に及んだが、母は遂に至らなかった。朝議はその失信を以て、有司に命じて斉に移書して曰く、
移書を未だ送らざるうちに母が至った。挙朝慶悦し、大赦天下した。護は母と多年睽隔し、一旦聚集するや、凡そ資奉する所は、窮極華盛であった。毎四時伏臘には、高祖は諸親戚を率い、家人の礼を行い、觴を称えて寿を上けた。栄貴の極み、振古未聞であった。
この年、突厥また衆を率いて期に赴かんとした。護は斉氏が初めて国親を送ったばかりであり、未だ即時に征討することを欲せず、また蕃夷に失信するを慮り、更に辺患を生ずるを恐れた。已むを得ず、遂に東征を請うた。九月、詔して曰く、「神たる軒皇も、尚お三戦を云い、聖なる姬武も、且つ一戎を曰う。弧矢の威、干戈の用、帝王の大器、誰か兵を去らんや。太祖は丕に天明を受け、我が周室を造り、日月の照らす所、率従せざるは無し。高氏は釁に乗じて跋扈し、窃かに并・冀を有ち、世その悪を済い、腥穢彰聞す。皇天震怒し、手を突厥に仮し、汾晉を駆略し、掃地して遺す無し。季孟勢窮し、伯珪日蹙し、坐して滅亡を待つ、之を鑒むるは愚智なり。故に突厥班師し、仍って彼の境に屯し、更に諸部を集め、国を傾けて斉しく至り、星流電撃し、数道俱に進み、期は仲冬に在り、同会して并・鄴を攻めん。大冢宰晉公は、朕が懿昆、任は伊・呂に隆く、宇宙を平一するは、惟だ公是れ属す。朕当に親ら斧鉞を執り、廟庭に祗受せん。有司宜しく衆軍を勒し、程を量りて赴集すべし。進止遅速は、公に委ねて処分せしむ」。ここに二十四軍及び左右廂の散隷、及び秦隴巴蜀の兵、諸蕃国の衆二十万人を徴発した。十月、帝は廟庭において護に斧鉞を授けた。出軍して潼関に至り、乃ち柱国尉遅迥に精兵十万を率いさせて前鋒と為し、大将軍権景宣に山南の兵を率いさせて豫州より出で、少師楊𢷋に軹関より出でさせた。護は連営して漸進し、軍を弘農に屯した。迥は洛陽を攻囲した。柱国斉公憲、鄭国公達奚武等は邙山に営した。
護は性、戎略無く、且つこの行も、又その本心に非ざりし故、師出ること久しきも、克く獲る所無し。護は本、河陽の路を壍断し、その救兵を遏え、然る後に洛陽を同攻し、その内外を隔絶せしめんと命じた。諸将は斉兵必ず敢えて出でずと以為い、唯だ斥候のみと為した。連日の陰霧に値い、斉騎は直前に進み、洛を囲むの軍は、一時に潰散した。唯だ尉遅迥が数十騎を率いて敵を払い、斉公憲また邙山の諸将を督して之を拒ぎたるにより、乃ち全軍して返るを得た。権景宣は豫州を攻克したが、尋いで洛陽の囲み解けたるを以て、亦軍を引いて退いた。楊𢷋は軹関において戦没した。護はここに班師した。功無きを以て、諸将と稽首して罪を請うたが、帝は之を責めなかった。
護は性、甚だ寛和であったが、然れども大體に暗かった。建立の功を恃み、久しく権軸に当たる。凡そ委任する所は、皆その人に非ず。兼ねて諸子貪残、僚属縱逸、護の威勢を恃み、政を蠹し民を害さざるは無し。上下相蒙り、曾て疑慮無し。高祖はその暴慢を以て、密かに衞王直と之を図った。
七年三月十八日、護は同州より還る。帝は文安殿に御し、護を見訖え、護を引いて含仁殿に入り皇太后に朝せしむ。先に帝は禁中にて護を見るに、常に家人の礼を行った。護が太后に謁すれば、太后必ず之に座を賜い、帝は立ちて侍した。ここに至り護将に入らんとするに、帝之に謂いて曰く、「太后春秋既に尊く、頗る酒を飲むを好む。朝謁に親しまず、或いは引進を廃す。喜怒の間、時に乖爽有り。比り顔を犯して屡諫すれども、未だ垂納を受けず。兄今既に朝拜す、願わくば更に啓請せよ」。因りて懐中の酒誥を出だして護に授け曰く、「此を以て太后に諫めよ」。護既に入り、帝の戒むる所の如く、読みて太后に示す。未だ訖らざるに、帝は玉珽を以て後より之を撃ち、護は地に踣る。又、宦者何泉に命じて御刀を以て之を斫らしむ。泉は惶懼し、斫ること能わずして傷つけず。時に衞王直は先に戸内に匿れ、乃ち出でて之を斬った。
初め、帝は護を図らんと欲し、王軌・宇文神舉・宇文孝伯は頗るその謀に預かった。この日、軌等は並びに外に在り、更に知る者無し。護を殺し訖え、乃ち宮伯長孫覧等を召して之に告げ、即ち護の子柱国譚国公會・大将軍莒国公至・崇業公静・正平公乾嘉、及び乾基・乾光・乾蔚・乾祖・乾威等、並びに柱国侯伏侯龍恩・龍恩の弟大将軍萬壽・大将軍劉勇・中外府司録尹公正・袁傑・膳部下大夫李安等を収め、殿中にて之を殺した。斉王憲は帝に白して曰く、「李安は皂隸より出で、典むる所は唯だ庖厨のみ。既に時政に預からず、未だ戮を加うるに足らず」。高祖曰く、「公知らざる耳、世宗の崩ずるは、安の為す所なり」。十九日、詔して曰く、
叱羅協は本名は高祖の諱と同じであったが、後に改めた。若い頃は寒微で、かつて州の小吏となり、恭謹さをもって知られた。恒州刺史楊鈞はこれを抜擢して従事とした。魏末に至り、六鎮が騒擾すると、冀州に客寓した。冀州が葛栄に包囲されると、刺史は協を統軍とし、守禦を委ねた。まもなく城は陥落し、協は栄に没した。栄が敗れると、汾州刺史爾朱兆に仕え、甚だ親遇され、録事参軍を補任された。兆が天柱大将軍となると、司馬に転じた。兆が斉の神武と初戦して利あらず、上党に還ると、協を建州に留めて軍糧を督させた。後に協を洛陽に使いさせ、その諸叔と事を計り、斉の神武を討つことを謀った。兆らが軍敗れて并州に還ると、協に肆州刺史を治めさせた。兆が死ぬと、ついに竇泰に仕え、泰はこれを甚だ礼遇した。泰が御史中尉となると、協を治書侍御史とした。泰が潼関に向かうと、協は監軍となった。泰が死ぬと、協もまた捕らえられた。太祖はその関中在住の年久しきを以て、大丞相府東閤祭酒・撫軍将軍・銀青光禄大夫を授け、録事参軍に転じ、主簿に遷し、通直散騎常侍を加え、大行台郎中を摂し、累遷して相府属従事中郎となった。
協は二京に歴任し、故事に詳練であった。また深く自ら克勵し、太祖は甚だこれを委任した。しかしなおその家眷が東に在るを以て、本を恋うるの望み有りと疑った。河橋の戦いに利あらず、協が軍に随って還ると、太祖は協に二心なきを知り、冠軍県男に封じ、邑二百戸を賜うた。まもなく車騎将軍・左光禄大夫を加えられた。九年、直閤将軍・恒州大中正に除かれ、都督を加えられ、爵を伯に進め、邑八百戸を増やされた。まもなく大都督・儀同三司に遷った。
時に五城郡の氐酋趙雄傑らが新・潼・始の三州の民を扇動して反叛し、二万余人を聚結し、州の南三里、涪水を隔てて槐林山に拠り、柵を置いて拒守した。梓潼郡の民鄧朏・王令公らが郷邑一万余人を招誘し、また州の東十里、涪水の北に柵を置いてこれに応じた。ともに州城を逼った。城中は糧少なく、軍人は食に乏しかった。協は内外を撫安し、皆異心無かった。儀同伊婁訓・大都督司馬裔らを遣わし歩騎千余人を将い、夜に涪水を渡って雄傑を撃ち、一戦にしてこれを破った。令公は雄傑の敗れたるを以て、また柵を棄てて本郡に走り還った。また鄧朏らと更に万余人を率い、郡の東南に水を隔てて柵を置き、駅路を断絶した。協は儀同楊長楽を遣わし、司馬裔らと師を率いてこれを討たせた。また大都督裴孟嘗を遣わし百姓を領かせて継いで進ませ、その声勢と為した。孟嘗が梓潼に至ると、水漲して即時に渡れなかった。而して王令公・鄧朏は孟嘗の騎兵少なきを見て、すなわち三千余人を将いてこれを数重に囲んだ。孟嘗は衆寡敵せずとし、各々馬を棄てて短兵相接して戦った。辰より午に至り、陣において令公及び朏らを斬った。賊徒は渠帥を失うや、すなわち散走した。その徒党はなお旧柵を拠った。而して孟嘗はようやく水を渡って長楽と合した。すなわち兵を勒して柵を攻め、三日を経て、賊はすなわち降を請うた。この後数度反叛有り、協はすなわち兵を遣わして討ち平げた。
馮遷は字を羽化という。父の漳は州の従事であった。遷が官達するに及び、儀同三司・陝州刺史を追贈された。遷は若くして修謹、幹能有り、州が従事に辟した。魏の神龜年中、刺史楊鈞が引きて中兵参軍事とし、定襄令に転じ、まもなく并州水曹参軍となった。歴任した職は、皆勤恪を以て著称された。
孝閔帝が践祚すると、召されて晉公宇文護の府掾となり、車騎大將軍・儀同三司を加えられ、爵位を進めて臨高縣公となった。まもなく護府の司錄に遷り、驃騎大將軍・開府儀同三司を進授された。李遷の性質は質直で、小心に畏れ慎み、枢要の地位にあっても、勢位をもって人に臨むことがなかった。また時事に明るく練達し、断決を善くした。文簿を校閲するごとに孜孜として倦まず、辰の刻から夕方に至るまで、休んだことがなかった。このため、宇文護に大いに信任された。後に、彼が朝廷の旧臣であることを以て、衣錦の栄をこれに与えようとし、陝州刺史を授け、爵位を進めて隆山郡公とし、封邑を増やして前と合わせて二千戸とした。李遷は元来寒微の出身で、当時の人々に重んじられなかったが、一朝にして本州の刺史となると、ただ謙恭をもって郷邑の人々を接待し、怨む者はいなかった。再び召されて司錄となり、工部中大夫に転じ、軍司馬を歴任し、小司空に遷った。天和年間以後、李遷は年老いたため、委任が次第に衰えた。宇文護が誅殺されると、彼もまた除名された。建徳末年、家で卒去した。時に七十八歳。子の李恕は、位は儀同三司・伏夷鎮将・平寇縣伯に至った。
宇文護が信任した者には、また朔方の辺平がおり、位は大將軍・軍司馬・護府司馬に至った。宇文護が敗れると、彼もまた除名された。
史臣が曰く、仲尼に言あり、「道に適うべく、未だ権と与にすべからず」と。そもそも道とは、礼に率うことを謂い、権とは、経に反することを謂う。礼に率うは正理によるゆえ、容易に世を佐ける功を成し、経に反するは非常に関わるゆえ、難くして時を匡うる業を定めがたい。故にその人を得れば則ち治まり、伊尹が太甲を放ち、周旦が孺子を相たるがこれなり。その人を得ざれば則ち乱れ、新都(王莽)が漢鼎を遷し、晋氏が魏族を傾けたるがこれなり。ここを以て先王は上下の序を明らかにし、聖人は君臣の分を重んずる。質を委ぬること股肱に同じくし、爵を受くることその休戚を均しくす。その親しく顧託を受け、宰衡の位に居るや、たとえ利剣を承け、沸鼎に臨むとも、以てその慮を讋かしむるに足らず、帝図に拠り、海内を君とすとも、以てその心を回らすに足らず。かくの如き人は、固より功は山嶽とその高さを争い、名は穹壤とその久しさを斉しくす。
周が天命を受けた初め、宇文護はまさに艱難に参与した。太祖が崩じ、諸子は幼沖であり、群公は等夷の志を懐き、天下には去就の心があった。ついに魏を周に変え、危きをして安んじ治まらしめたのは、宇文護の力である。もしこれに礼譲を加え、忠貞を継がしめ、桐宮に悔過の期あり、未央に天年の数を終わらしめていたならば、前史に載せられたる所、どうして以てこれを称え得ただろうか。然るに宇文護は学術に乏しく、群小に昵近し、威福は己に在り、征伐は自ら出だした。人臣として君無き心あり、人主として堪え難き事を行った。忠孝の大節に違えりとて疑わず、廃弑の至逆を行いとて悔いなかった。ついに身首を横分され、妻子を戮せられるに至った。また宜ならずや。