周書

巻011

卷十一 列傳第三 晉蕩公護 叱羅協 馮遷

晋蕩公の護は字を薩保といい、太祖(宇文泰)の兄である邵惠公顥の末子である。幼少より方正にして志量あり、特に徳皇帝(宇文肱)に愛され、諸兄とは異なる扱いを受けた。十一歳の時、惠公が薨去し、諸父に従って葛栄の軍中にあった。葛栄が敗れると、晋陽に移った。太祖が関中に入った時、護は年少のため従わなかった。普泰の初め(531年)、晋陽から平涼に至り、時に十七歳であった。太祖の諸子は皆幼く、そこで護に家務を委ねたところ、内外厳しくせずして整然とした。太祖はかつて嘆じて言った、「この児の志量は我に似ている」と。

原文 晉蕩公護字薩保,太祖之兄邵惠公顥之少子也。幼方正有志度,特為德皇帝所愛,異於諸兄。年十一,惠公薨,隨諸父在葛榮軍中。榮敗,遷晉陽。太祖之入關也,護以年小不從。普泰初,自晉陽至平涼,時年十七。太祖諸子並幼,遂委護以家務,內外不嚴而肅。太祖嘗歎曰:「此兒志度類我。」

やがて夏州に出鎮するに臨み、護を留めて賀抜岳に仕えさせた。賀抜岳が害された時、太祖は平涼に至り、護を都督ととくとした。侯莫陳悦を征討し、これを破った。後に魏帝を迎えた功績により、水池県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜う。大統の初め(535年)、通直散騎常侍さんきじょうじ・征虜将軍を加えられる。楽勲(?)を平定した功績により、爵位を公に進め、邑を増やして前後の合計一千戸とした。太祖に従って竇泰を擒え、弘農を回復し、沙苑を破り、河橋で戦い、いずれも功績があった。鎮東将軍・大都督に遷る。八年(542年)、車騎大将軍・儀同三司に進む。邙山の役では、護が衆を率いて先鋒となり、敵に包囲されたが、都督の侯伏侯龍恩が身を挺して防ぎ戦い、ようやく免れた。この時、趙貴らの軍も退いたため、太祖はついに軍を返した。護は連座して官を免ぜられたが、まもなく元の位に復した。十二年(546年)、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、中山公に進封され、邑四百戸を増やされた。十五年(549年)、河東に出鎮し、大将軍に遷る。于謹とともに江陵を征し、護は軽騎を率いて先鋒となり、昼夜兼行し、裨将を遣わして梁の辺境の城鎮を攻め、ことごとくこれを陥落させた。またその斥候騎兵を捕らえ、兵を進めて直ちに江陵城下に至った。城中は兵の来襲を予期せず、慌てふためき対応を失った。護はさらに二千騎を遣わして江の渡し場を遮断し、舟艦を収容して待機させた。大軍が到着し、包囲してこれを陥落させた。功績により子の会を江陵公に封じた。初め、襄陽の蛮の首帥である向天保ら一万余りの落(集落)が、険阻を頼みとして障害となっていた。軍が帰還する際、護が軍を率いて討ち平定した。六官制を初めて施行するに当たり、小司空しくうに拝された。

原文 及出臨夏州,留護事賀拔岳。岳之被害,太祖至平涼,以護為都督。從征侯莫陳悅,破之。後以迎魏帝功,封水池縣伯,邑五百戶。大統初,加通直散騎常侍、征虜將軍。以預定樂勳,進爵為公,增邑通前一千戶。從太祖擒竇泰,復弘農,破沙苑,戰河橋,並有功。遷鎮東將軍、大都督。八年,進車騎大將軍、儀同三司。邙山之役,護率眾先鋒,為敵人所圍,都督侯伏侯龍恩挺身扞禦,方得免。是時,趙貴等軍亦退,太祖遂班師。護坐免官,尋復本位。十二年,加驃騎大將軍、開府儀同三司,進封中山公,增邑四百戶。十五年,出鎮河東,遷大將軍。與于謹征江陵,護率輕騎為先鋒,晝夜兼行,乃遣裨將攻梁臨邊城鎮,並拔之。並擒其候騎,進兵徑至江陵城下。城中不意兵至,惶窘失圖。護又遣騎二千斷江津,收舟艦以待。大軍之至,圍而克之。以功封子會為江陵公。初,襄陽蠻帥向天保等萬有餘落,恃險作梗。及師還,護率軍討平之。初行六官,拜小司空。

太祖が西巡して牽屯山に至り、病に罹り、駅伝を飛ばして護を召した。護が涇州で太祖に拝謁した時、太祖の病はすでに重篤であった。護に言うには、「我が容貌この如し、必ずや助からぬ。諸子は幼く、寇賊は未だ平定せず、天下の事は汝に託す。努めて我が志を成せ」と。護は涙を流して命を受けた。雲陽に行き着く途中で太祖は崩御した。護はこれを秘し、長安ちょうあんに至って初めて喪を発した。時に嗣子(宇文覚)は幼弱で、強敵が近くにあり、人心は不安であった。護は内外を統制し、文武の官を慰撫したので、ここに衆人の心は定まったのである。以前より、太祖は常に「我は胡の力を得たり」と言っていた。当時はその意味を知る者はいなかったが、この時、人々は護の字(薩保)がこれに当たると考えた。まもなく柱国に拝された。太祖の山陵が完了すると、護は天命の帰する所ありとし、人を遣わして魏帝にほのめかし、ついに禅譲による王朝交代の事を行った。

原文 太祖西巡至牽屯山,遇疾,馳驛召護。護至涇州見太祖,而太祖疾已綿篤。謂護曰:「吾形容若此,必是不濟。諸子幼小,寇賊未寧,天下之事,屬之於汝,宜勉力以成吾志。」護涕泣奉命。行至雲陽而太祖崩。護祕之,至長安乃發喪。時嗣子冲弱,彊寇在近,人情不安。護綱紀內外,撫循文武,於是眾心乃定。先是,太祖常云「我得胡力」。當時莫曉其旨,至是,人以護字當之。尋拜柱國。太祖山陵畢,護以天命有歸,遣人諷魏帝,遂行禪代之事。

孝閔帝が即位すると、大司馬に拝され、晋国公に封ぜられ、邑一万戸を賜う。趙貴・独孤信らが護を襲撃しようと謀ったが、護は趙貴が入朝した機会に乗じてこれを捕らえ、その党与は皆誅殺された。大冢宰に拝された。

原文 孝閔帝踐阼,拜大司馬,封晉國公,邑一萬戶。趙貴、獨孤信等謀襲護,護因貴入朝,遂執之,黨與皆伏誅。拜大冢宰。

時に司会の李植・軍司馬の孫恆らは、太祖の朝廷において長く権勢の要職に居た。護が政権を執るのを見て、容れられぬことを恐れた。そこで密かに宮伯の乙弗鳳・張光洛・賀拔提・元進らを腹心として誘い、帝(孝閔帝)に説いて言うには、「護が趙貴を誅殺して以来、威権は日増しに盛んとなり、謀臣や宿将は争って彼に付き従い、大小の政事は皆護によって決せられております。臣の見るところ、彼は臣下の節度を守らず、その勢力が蔓延することを恐れます。願わくは早くこれを図られんことを」と。帝はその言葉を是とした。鳳らはまた言うには、「先王(宇文泰)の聖明をもってさえ、なお李植・孫恆に朝政を委ねられました。今もし陛下が左右より彼らを引き立てられれば、何を成し遂げられないことがありましょうか。かつ晋公(宇文護)は常に『我は今、陛下を輔弼し、周公がなされたことを行おうとしている』と言っております。臣が聞くところによれば、周公は摂政七年の後、初めて天子に政権を返上されました。陛下は今日、果たして七年もこのような状態でいられましょうか。深く疑わないことを願います」と。帝はますます彼らを信じるようになった。たびたび武士を率いて後園で講習し、捕縛する態勢を整えた。

原文 時司會李植、軍司馬孫恆等,在太祖之朝,久居權要。見護執政,恐不見容。乃密要宮伯乙弗鳳、張光洛、賀拔提、元進等為腹心,說帝曰:「護誅〈(朝)〉〔趙〕貴以來,威權日盛,謀臣宿將,爭往附之,大小政事,皆決於護。以臣觀之,將不守臣節,恐其滋蔓,願早圖之。」帝然其言。鳳等又曰:「以先王之聖明,猶委植、恆以朝政,今若左提右挈,何向不成。且晉公常云我今夾輔陛下,欲行周公之事。臣聞周公攝政七年,然後復子明辟,陛下今日,豈能七年若此乎。深願不疑。」帝愈信之。數將武士於後園講習,為執縛之勢。

護はかすかにこれを知り、そこで李植を梁州刺史に、孫恆を潼州刺史に出して、その陰謀を抑えようとした。後に帝が李植らを思い、たびたび召還しようとした。護は諫めて言うには、「天下で最も親しいのは、兄弟に過ぎません。もし兄弟自らが不和を生じさせれば、他の者をどうして容易に親しむことができましょうか。太祖は陛下が若年であるため、後事を臣に託されました。臣は家と国の情けを兼ねており、まことにその股肱(手足)として力を尽くさんと願っております。もし陛下が自ら万機を御覧になり、威を四海に加えられるならば、臣が死ぬ日も、生きている年と同じであります。ただ、臣が除かれた後、奸悪の輩がその欲望を遂げることを恐れるのみで、それは陛下に不利であるばかりでなく、社稷の危亡をも招くでしょう。臣が勤めて天威に触れるのは、ただ太祖のご託しに背かず、国家の帝位を安んじたいからに他なりません。思いがけず陛下は愚臣の誠意を照察されず、突然疑いの障壁を生じさせられました。かつ臣は既に天子の兄であり、また国家の宰輔でもあります。さらに何を求めて希望を抱くことがありましょうか。伏して願わくは、陛下には臣を明らかにされる方法をお取りになり、讒言する者の口に惑わされませんように」と。そこで涙を流し、しばらくしてやめた。帝はなお彼を疑った。

原文 護微知之,乃出植為梁州刺史,恆為潼州刺史,欲遏其謀。後帝思植等,每欲召之。護諫曰:「天下至親,不過兄弟。若兄弟自搆嫌隙,他人何易可親。太祖以陛下富於春秋,顧命託臣以後事。臣既情兼家國,寔願竭其股肱。若使陛下親覽萬機,威加四海,臣死之日,猶生之年。但恐除臣之後,姦回得逞其欲,非唯不利陛下,亦恐社稷危亡。臣所以勤勤懇懇,干觸天威者,但不負太祖之顧託,保安國家之鼎祚耳。不意陛下不照愚臣款誠,忽生疑阻。且臣既為天子兄,復為國家宰輔,知更何求而懷冀望。伏願陛下有以明臣,無惑讒人之口。」因泣涕,久之乃止。帝猶猜之。

鳳らはますます恐れ、密謀をますます深めた。ついに日を定めて諸公卿を招き宴を催し、護を捕らえて誅殺しようとした。光洛がその前後の謀略をことごとく護に告げたので、護は柱国の賀蘭祥・小司馬の尉遅綱らを召し、鳳らの陰謀を告げた。祥らは皆護に帝を廃するよう勧めた。時に綱は禁兵を総領していたので、護は綱を遣わして宮中に入らせ、鳳らを召して議事とし、出てきたところを順次捕らえて護の邸宅に送らせた。そこで宿衛の兵を解散させ、祥を遣わして帝を脅迫し、旧邸に幽閉した。ここにおいて諸公卿を召し集め、護は涙を流して言うには、「先王は布衣より起こり、自ら軍陣に立ち、王業に勤労すること三十余年であった。寇賊は未だ平定せず、突然に万国を棄てられた。寡人(護)は地縁では猶子(甥)であり、親しく顧命を受けた。略陽公(孝閔帝)が既に正嫡としての地位に居られるので、公らとともに立ち奉り、魏を革め周を興し、四海の主と為したのである。即位以来、荒淫にして度を越え、小人らに近づき、骨肉を疎んじ忌み、大臣や重将は皆誅滅しようと欲している。もしこの謀り事が成就すれば、社稷は必ずや傾覆に至るであろう。寡人もし死せば、何の面目あって先王に会えようか。今日は寧ろ略陽公に背くとも、社稷に背くことはしない。寧都公(宇文毓)は年齢も徳も兼ね備え、仁孝聖慈にして、四海は心を寄せ、万方は注目している。今、暗君を廃し明君を立てんと欲するが、公らはどう思うか」と。群臣は皆言うには、「これは公の家事であり、敢えて命に従わないことがありましょうか」と。そこで門外で鳳らを斬り、李植・孫恆らをも誅殺した。まもなく帝も弑しいした。岐州より世宗(宇文毓)を迎えて立てた。

原文 鳳等益懼,密謀滋甚。遂克日將召羣公入醼,執護誅之。光洛具以其前後謀告護,護乃召柱國賀蘭祥、小司馬尉遲綱等,以鳳謀告之。祥等竝勸護廢帝。時綱總領禁兵,護乃遣綱入宮,召鳳等議事,及出,以次執送護第。因罷散宿衞兵,遣祥逼帝,幽於舊邸。於是召諸公卿畢集,護流涕謂曰:「先王起自布衣,躬親行陣,勤勞王業,三十餘年。寇賊未平,奄棄萬國。寡人地則猶子,親受顧命。以略陽公既居正嫡,與公等立而奉之,革魏興周,為四海主。自即位以來,荒淫無度,昵近羣小,疏忌骨肉,大臣重將,咸欲誅夷。若此謀遂行,社稷必致傾覆。寡人若死,將何面目以見先王。今日寧負略陽,不負社稷爾。寧都公年德兼茂,仁孝聖慈,四海歸心,萬方注意。今欲廢昏立明,公等以為如何?」羣臣咸曰:「此公之家事,敢不惟命是聽。」於是斬鳳等於門外,并誅植、恆等。尋亦弒帝。迎世宗於岐州而立之。

二年(558年)、太師に拝され、輅車と冕服を賜う。子の至を崇業郡公に封ず。初めて雍州刺史を牧と改称し、護をこれに任じ、併せて金石の楽を賜う。武成元年(559年)、護は上表して政権を返上した。帝はこれを許したが、軍国の大事はなお護に委ねられた。帝(宇文毓)は性質聡明で識量があり、護は深く畏れた。李安という者がおり、もともと料理の才能で護の寵愛を得て、次第に昇進し、膳部下大夫の位に至っていた。この時、護は密かに李安に命じ、帝に食事を進める際に毒薬を加えさせた。帝はそこで病に臥せり崩御した。護は高祖こうそ(宇文邕)を立て、百官はみな己を総べて護に聴いた。

原文 二年,拜太師,賜輅車冕服。封子至為崇業郡公。初改雍州刺史為牧,以護為之,并賜金石之樂。武成元年,護上表歸政,帝許之。軍國大事尚委於護。帝性聰睿,有識量,護深憚之。有李安者,本以鼎俎得寵於護,稍被升擢,位至膳部下大夫。至是,護乃密令安因進食於帝,加以毒藥。帝遂寢疾而崩。護立高祖,百官總己以聽於護。

太祖が丞相となって以来、左右十二軍を立て、すべて相府に属させた。太祖が崩御した後は、皆、護の処分を受け、およそ徴発するものは、護の文書でなければ行われなかった。護の邸宅には禁衛の兵が屯し、宮闕よりも盛んであった。事の大小を問わず、皆、先に裁断して後で奏上した。保定元年、護を都督中外諸軍事とし、五府を天官に総属させた。ある者が護の意を迎え、周公の徳は重く、魯では文王の廟を立てた、護の功績を周公に比すべきであり、この礼を用いるべきであると言った。そこで詔を下し、同州の晉國邸に徳皇帝の別廟を立て、護に祭祀を行わせた。三年、詔して曰く、「大冢宰晉國公は、智は万物に周く、道は天下を済わし、以て我が帝業を克く成し、我が蒼生を安養する。況や親は則ち懿昆、任は元輔に当たり、しかして群品と同班し、衆臣と斉位すべきや。今より詔誥及び百司の文書に、並びに公の名を称することなく、以て殊礼を彰わすべし」。護は表を抗して固く辞した。

原文 自太祖為丞相,立左右十二軍,總屬相府。太祖崩後,皆受護處分,凡所徵發,非護書不行。護第屯兵禁衞,盛於宮闕。事無巨細,皆先斷後聞。保定元年,以護為都督中外諸軍事,令五府總於天官。或有希護旨,云周公德重,魯立文王之廟,以護功比周公,宜用此禮。於是詔於同州晉國第,立德皇帝別廟,使護祭焉。三年,詔曰:「大冢宰晉國公,智周萬物,道濟天下,所以克成我帝業,安養我蒼生。況親則懿昆,任當元輔,而可同班羣品,齊位眾臣!自今詔誥及百司文書,並不得稱公名,以彰殊禮。」護抗表固讓。

初め、太祖が創業するや、即ち突厥と和親し、掎角の謀を為し、共に高氏を図らんとした。この年、乃ち柱国楊忠を遣わして突厥とともに東伐させた。斉の長城を破り、并へい州に至って還った。後年を期して更に挙兵し、南北相応じんとした。斉主は大いに懼れた。先に、護の母閻姫と皇第四姑及び諸戚属は、並びに斉に没し、皆、幽縶されていた。護が宰相の位に居て以来、毎度間使を遣わして尋ね求めたが、音信を知ることはなかった。ここに至り、並びに還朝を許し、且つ和好を請うた。四年、皇姑が先に至った。斉主は護が既に権勢を握っているのを以て、乃ちその母を留め、以て後の図りと為した。仍って人に命じて閻の為に書を作り護に報ぜしめて曰く、

原文 初,太祖創業,即與突厥和親,謀為掎角,共圖高氏。是年,乃遣柱國楊忠與突厥東伐。破齊長城,至幷州而還。期後年更舉,南北相應。齊主大懼。先是,護母閻姬與皇第四姑及諸戚屬,並沒在齊,皆被幽縶。護居宰相之後,每遣間使尋求,莫知音息。至是,並許還朝,且請和好。四年,皇姑先至。齊主以護既當權重,乃留其母,以為後圖。仍令人為閻作書報護曰:

護は性、至孝であり、書を得て、悲しみ自ら勝えず、左右の者も仰ぎ見ることができなかった。報書して曰く、

原文 護性至孝,得書,悲不自勝,左右莫能仰視。報書曰:

斉朝は即時に発遣せず、更に護に書を与え、護に重ねて返報することを求め、往復再三に及んだが、母は遂に至らなかった。朝議はその失信を以て、有司に命じて斉に移書して曰く、

原文 齊朝不即發遣,更令與護書,要護重報,往返再三,而母竟不至。朝議以其失信,令有司移齊曰:

移書を未だ送らざるうちに母が至った。挙朝慶悦し、大赦天下した。護は母と多年睽隔し、一旦聚集するや、凡そ資奉する所は、窮極華盛であった。毎四時伏臘には、高祖は諸親戚を率い、家人の礼を行い、觴を称えて寿を上けた。栄貴の極み、振古未聞であった。

原文 移書未送而母至。舉朝慶悅,大赦天下。護與母睽隔多年,一旦聚集,凡所資奉,窮極華盛。每四時伏臘,高祖率諸親戚,行家人之禮,稱觴上壽。榮貴之極,振古未聞。

この年、突厥また衆を率いて期に赴かんとした。護は斉氏が初めて国親を送ったばかりであり、未だ即時に征討することを欲せず、また蕃夷に失信するを慮り、更に辺患を生ずるを恐れた。已むを得ず、遂に東征を請うた。九月、詔して曰く、「神たる軒皇も、尚お三戦を云い、聖なる姬武も、且つ一戎を曰う。弧矢の威、干戈の用、帝王の大器、誰か兵を去らんや。太祖は丕に天明を受け、我が周室を造り、日月の照らす所、率従せざるは無し。高氏は釁に乗じて跋扈し、窃かに并・冀を有ち、世その悪を済い、腥穢彰聞す。皇天震怒し、手を突厥に仮し、汾晉を駆略し、掃地して遺す無し。季孟勢窮し、伯珪日蹙し、坐して滅亡を待つ、之を鑒むるは愚智なり。故に突厥班師し、仍って彼の境に屯し、更に諸部を集め、国を傾けて斉しく至り、星流電撃し、数道俱に進み、期は仲冬に在り、同会して并・鄴を攻めん。大冢宰晉公は、朕が懿昆、任は伊・呂に隆く、宇宙を平一するは、惟だ公是れ属す。朕当に親ら斧鉞を執り、廟庭に祗受せん。有司宜しく衆軍を勒し、程を量りて赴集すべし。進止遅速は、公に委ねて処分せしむ」。ここに二十四軍及び左右廂の散隷、及び秦隴巴蜀しょくはしょくの兵、諸蕃国の衆二十万人を徴発した。十月、帝は廟庭において護に斧鉞を授けた。出軍して潼関に至り、乃ち柱国尉遅迥に精兵十万を率いさせて前鋒と為し、大将軍権景宣に山南の兵を率いさせて豫よ州より出で、少師楊𢷋に軹関より出でさせた。護は連営して漸進し、軍を弘農に屯した。迥は洛陽らくようを攻囲した。柱国斉公憲、鄭国公達奚武等は邙山に営した。

原文 是年也,突厥復率眾赴期。護以齊氏初送國親,未欲即事征討,復慮失信蕃夷,更生邊患。不得已,遂請東征。九月,詔曰:「神若軒皇,尚云三戰;聖如姬武,且曰一戎。弧矢之威,干戈之用,帝王大器,誰能去兵。太祖丕受天明,造我周室,日月所照,罔不率從。高氏乘釁跋扈,竊有并、冀,世濟其惡,腥穢彰聞。皇天震怒,假手突厥,驅略汾晉,掃地無遺。季孟勢窮,伯珪日蹙,坐待滅亡,鑒之愚智。故突厥班師,仍屯彼境,更集諸部,傾國齊至,星流電擊,數道俱進,期在仲冬,同會并、鄴。大冢宰晉公,朕之懿昆,任隆伊、呂,平一宇宙,惟公是屬。朕當親執斧鉞,廟庭祗受。有司宜勒眾軍,量程赴集。進止遲速,委公處分。」於是徵二十四軍及左右廂散隸、及秦隴巴蜀之兵、諸蕃國之眾二十萬人。十月,帝於廟庭授護斧鉞。出軍至潼關,乃遣柱國尉遲迥率精兵十萬為前鋒,大將軍權景宣率山南之兵出豫州,少師楊𢷋出軹關。護連營漸進,屯軍弘農。迥攻圍洛陽。柱國齊公憲、鄭國公達奚武等營於邙山。

護は性、戎略無く、且つこの行も、又その本心に非ざりし故、師出ること久しきも、克く獲る所無し。護は本、河陽の路を壍断し、その救兵を遏え、然る後に洛陽を同攻し、その内外を隔絶せしめんと命じた。諸将は斉兵必ず敢えて出でずと以為い、唯だ斥候のみと為した。連日の陰霧に値い、斉騎は直前に進み、洛を囲むの軍は、一時に潰散した。唯だ尉遅迥が数十騎を率いて敵を払い、斉公憲また邙山の諸将を督して之を拒ぎたるにより、乃ち全軍して返るを得た。権景宣は豫州を攻克したが、尋いで洛陽の囲み解けたるを以て、亦軍を引いて退いた。楊𢷋は軹関において戦没した。護はここに班師した。功無きを以て、諸将と稽首して罪を請うたが、帝は之を責めなかった。

原文 護性無戎略,且此行也,又非其本心。故師出雖久,無所克獲。護本令壍斷河陽之路,遏其救兵,然後同攻洛陽,使其內外隔絕。諸將以為齊兵必不敢出,唯斥候而已。值連日陰霧,齊騎直前,圍洛之軍,一時潰散。唯尉遲迥率數十騎扞敵,齊公憲又督邙山諸將拒之,乃得全軍而返。權景宣攻克豫州,尋以洛陽圍解,亦引軍退。楊𢷋於軹關戰沒。護於是班師。以無功,與諸將稽首請罪,帝弗之責也。

天和二年、護の母薨じ、尋いで詔有りて視事を令む。四年、護は北辺の城鎮を巡歴し、霊州に至って還った。五年、また詔して曰く、「光宅曲阜、魯は郊天の楽を用い、地は参墟に処る、晉は大蒐の礼有り。以て時に言い功を計り、徳を昭わし行を紀す。使持節・太師・都督中外諸軍事・柱国大将軍・大冢宰晉国公は、体道して貞に居り、和を含み徳を誕し、地は戚右に居り、才は棟隆を表す。国歩艱難、寄は夷険に深く、皇綱締構、事は休戚に均し。故に以て迹は殆庶に冥く、理は如仁に契う。今文軌尚お隔たり、方隅猶お阻み、典策未だ備わらず、声名多きに闕く、宜しく軒懸の楽、六佾の舞を賜うべし」。

原文 天和二年,護母薨,尋有詔起令視事。四年,護巡歷北邊城鎮,至靈州而還。五年,又詔曰:「光宅曲阜,魯用郊天之樂;地處參墟,晉有大蒐之禮。所以言時計功,昭德紀行。使持節、太師、都督中外諸軍事、柱國大將軍、大冢宰晉國公,體道居貞,含和誕德,地居戚右,才表棟隆。國步艱難,寄深夷險,皇綱締構,事均休戚。故以迹冥殆庶,理契如仁。今文軌尚隔,方隅猶阻,典策未備,聲名多闕,宜賜軒懸之樂,六佾之舞。」

護は性、甚だ寛和であったが、然れども大體に暗かった。建立の功を恃み、久しく権軸に当たる。凡そ委任する所は、皆その人に非ず。兼ねて諸子貪残、僚属縱逸、護の威勢を恃み、政を蠹し民を害さざるは無し。上下相蒙り、曾て疑慮無し。高祖はその暴慢を以て、密かに衞えい王直と之を図った。

原文 護性甚寬和,然暗於大體。自恃建立之功,久當權軸。凡所委任,皆非其人。兼諸子貪殘,僚屬縱逸,恃護威勢,莫不蠹政害民。上下相蒙,曾無疑慮。高祖以其暴慢,密與衞王直圖之。

七年三月十八日、護は同州より還る。帝は文安殿に御し、護を見訖え、護を引いて含仁殿に入り皇太后に朝せしむ。先に帝は禁中にて護を見るに、常に家人の礼を行った。護が太后に謁すれば、太后必ず之に座を賜い、帝は立ちて侍した。ここに至り護将に入らんとするに、帝之に謂いて曰く、「太后春秋既に尊く、頗る酒を飲むを好む。朝謁に親しまず、或いは引進を廃す。喜怒の間、時に乖爽有り。比り顔を犯して屡諫すれども、未だ垂納を受けず。兄今既に朝拜す、願わくば更に啓請せよ」。因りて懐中の酒誥を出だして護に授け曰く、「此を以て太后に諫めよ」。護既に入り、帝の戒むる所の如く、読みて太后に示す。未だ訖らざるに、帝は玉珽を以て後より之を撃ち、護は地に踣る。又、宦者何泉に命じて御刀を以て之を斫らしむ。泉は惶懼し、斫ること能わずして傷つけず。時に衞王直は先に戸内に匿れ、乃ち出でて之を斬った。

原文 七年三月十八日,護自同州還。帝御文安殿,見護訖,引護入含仁殿朝皇太后。先是帝於禁中見護,常行家人之禮。護謁太后,太后必賜之坐,帝立侍焉。至是護將入,帝謂之曰:「太后春秋既尊,頗好飲酒。不親朝謁,或廢引進。喜怒之間,時有乖爽。比雖犯顏屢諫,未蒙垂納。兄今既朝拜,願更啟請。」因出懷中酒誥以授護曰:「以此諫太后。」護既入,如帝所戒,讀示太后。未訖,帝以玉珽自後擊之,護踣於地。又令宦者何泉以御刀斫之。泉惶懼,斫不能傷。時衞王直先匿於戶內,乃出斬之。

初め、帝は護を図らんと欲し、王軌・宇文神舉・宇文孝伯は頗るその謀に預かった。この日、軌等は並びに外に在り、更に知る者無し。護を殺し訖え、乃ち宮伯長孫覧等を召して之に告げ、即ち護の子柱国譚国公會・大将軍莒国公至・崇業公静・正平公乾嘉、及び乾基・乾光・乾蔚・乾祖・乾威等、並びに柱国侯伏侯龍恩・龍恩の弟大将軍萬壽・大将軍劉勇・中外府司録尹公正・袁傑・膳部下大夫李安等を収め、殿中にて之を殺した。斉王憲は帝に白して曰く、「李安は皂隸より出で、典むる所は唯だ庖厨のみ。既に時政に預からず、未だ戮を加うるに足らず」。高祖曰く、「公知らざる耳、世宗の崩ずるは、安の為す所なり」。十九日、詔して曰く、

原文 初,帝欲圖護,王軌、宇文神舉、宇文孝伯頗豫其謀。是日,軌等並在外,更無知者。殺護訖,乃召宮伯長孫覽等告之,即令收護子柱國譚國公會、大將軍莒國公至、崇業公靜、正平公乾嘉,及乾基、乾光、乾蔚、乾祖、乾威等,并柱國侯伏侯龍恩、龍恩弟大將軍萬壽、大將軍劉勇、中外府司錄尹公正、袁傑、膳部下大夫李安等,於殿中殺之。齊王憲白帝曰:「李安出自皂隸,所典唯庖廚而已。既不預時政,未足加戮。」高祖曰:「公不知耳,世宗之崩,安所為也。」十九日,詔曰:

護の世子訓は蒲州刺史であった。その夜、柱国・越国公盛を駅伝に乗せて蒲州に遣わし、訓を召し出して京師に赴かせ、同州に至ったところで死を賜うた。護の長史代郡の叱羅協、司録弘農の馮遷および親任していた者どもは、皆除名された。護の子昌城公深は突厥に使いしていたが、開府宇文徳を遣わし璽書を携えて行かせ、これを誅殺した。三年、詔して護および諸子の先の封を復し、護に諡して蕩と曰い、ともに改葬した。

原文 護世子訓為蒲州刺史。其夜,遣柱國、越國公盛乘傳往蒲州,徵訓赴京師,至同州賜死。護長史代郡叱羅協、司錄弘農馮遷及所親任者,皆除名。護子昌城公深使突厥,遣開府宇文德齎璽書就殺之。三年,詔復護及諸子先封,諡護曰蕩,並改葬之。

〈附〉 叱羅協

原文 〈附〉 叱羅協

叱羅協は本名は高祖の諱と同じであったが、後に改めた。若い頃は寒微で、かつて州の小吏となり、恭謹さをもって知られた。恒州刺史楊鈞はこれを抜擢して従事とした。魏末に至り、六鎮が騒擾すると、冀州に客寓した。冀州が葛栄に包囲されると、刺史は協を統軍とし、守禦を委ねた。まもなく城は陥落し、協は栄に没した。栄が敗れると、汾州刺史爾朱兆に仕え、甚だ親遇され、録事参軍を補任された。兆が天柱大将軍となると、司馬に転じた。兆が斉の神武と初戦して利あらず、上党に還ると、協を建州に留めて軍糧を督させた。後に協を洛陽に使いさせ、その諸叔と事を計り、斉の神武を討つことを謀った。兆らが軍敗れて并州に還ると、協に肆州刺史を治めさせた。兆が死ぬと、ついに竇泰に仕え、泰はこれを甚だ礼遇した。泰が御史中尉となると、協を治書侍御史とした。泰が潼関に向かうと、協は監軍となった。泰が死ぬと、協もまた捕らえられた。太祖はその関中在住の年久しきを以て、大丞相府東閤祭酒・撫軍将軍・銀青光禄大夫を授け、録事参軍に転じ、主簿に遷し、通直散騎常侍を加え、大行台郎中を摂し、累遷して相府属従事中郎となった。

原文 叱羅協本名與高祖諱同,後改焉。少寒微,嘗為州小吏,以恭謹見知。恆州刺史楊鈞擢為從事。及魏末,六鎮搔擾,客於冀州。冀州為葛榮所圍,刺史以協為統軍,委以守禦。俄而城陷,協沒於榮。榮敗,事汾州刺史爾朱兆,頗被親遇,補錄事參軍。兆為天柱大將軍,轉司馬。兆與齊神武初戰不利,還上黨,令協在建州督軍糧。後使協至洛陽,與其諸叔計事,謀討齊神武。兆等軍敗,還幷州,令協治肆州刺史。兆死,遂事竇泰,泰甚禮之。泰為御史中尉,以協為治書侍御史。泰向潼關,協為監軍。泰死,協亦見獲。太祖以其在關歲久,授大丞相府東閤祭酒、撫軍將軍、銀青光祿大夫,轉錄事參軍,遷主簿,加通直散騎常侍,攝大行臺郎中,累遷相府屬從事中郎。

協は二京に歴任し、故事に詳練であった。また深く自ら克勵し、太祖は甚だこれを委任した。しかしなおその家眷が東に在るを以て、本を恋うるの望み有りと疑った。河橋の戦いに利あらず、協が軍に随って還ると、太祖は協に二心なきを知り、冠軍県男に封じ、邑二百戸を賜うた。まもなく車騎将軍・左光禄大夫を加えられた。九年、直閤将軍・恒州大中正に除かれ、都督を加えられ、爵を伯に進め、邑八百戸を増やされた。まもなく大都督・儀同三司に遷った。

原文 協歷仕二京,詳練故事。又深自克勵,太祖頗委任之。然猶以其家屬在東,疑其有戀本之望。及河橋戰不利,協隨軍而還。太祖知協不貳,封冠軍縣男,邑二百戶。尋加車騎將軍、左光祿大夫。九年,除直閤將軍、恆州大中正,加都督,進爵為伯,增邑八百戶。尋遷大都督、儀同三司。

初め、太祖は漢中を経略せんと欲し、協を行南岐州刺史とし、兼ねて東益州の戎馬の事を節度させた。魏の廃帝元年、すなわち南岐州刺史を授けられた。時に東益州刺史楊辟邪が州に拠って反した。二年、協は率いる所部の兵を以てこれを討ち、軍を涪水に駐めた。時に氐賊一千人が道を断ち橋を破った。協は儀同仇買らを行かせて前進してこれを撃たせ、賊が路を開くと、協はすなわち率いる所部を率いて漸次進んだ。また氐賊一千人が協を邀え撃とうとしたので、協はすなわち兵四百人を将いて峡道を守り、賊と短兵相接して戦い、賊はすなわち退避した。辟邪は城を棄てて走り、協はこれを追って斬り、群氐は皆伏した。功により開府を授けられた。なお大将軍尉遅迥の長史として、兵を率いて蜀を伐った。剣閣に入ると、迥は協に行潼州事とさせた。

原文 初,太祖欲經略漢中,令協行南岐州刺史,并節度東益州戎馬事。魏廢帝元年,即授南岐州刺史。時東益州刺史楊辟邪據州反。二年,協率所部兵討之,軍次涪水。會有氐賊一千人斷道破橋。協遣儀同仇買等行前擊之,賊開路,協乃領所部漸進。又有氐賊一千人邀協,協乃將兵四百人守硤道,與賊短兵接戰,賊乃退避。辟邪棄城走,協追斬之,羣氐皆伏。以功授開府。仍為大將軍尉遲迥長史,率兵伐蜀。既入劍閣,迥令協行潼州事。

時に五城郡の氐酋趙雄傑らが新・潼・始の三州の民を扇動して反叛し、二万余人を聚結し、州の南三里、涪水を隔てて槐林山に拠り、柵を置いて拒守した。梓潼郡の民鄧朏・王令公らが郷邑一万余人を招誘し、また州の東十里、涪水の北に柵を置いてこれに応じた。ともに州城を逼った。城中は糧少なく、軍人は食に乏しかった。協は内外を撫安し、皆異心無かった。儀同伊婁訓・大都督司馬裔らを遣わし歩騎千余人を将い、夜に涪水を渡って雄傑を撃ち、一戦にしてこれを破った。令公は雄傑の敗れたるを以て、また柵を棄てて本郡に走り還った。また鄧朏らと更に万余人を率い、郡の東南に水を隔てて柵を置き、駅路を断絶した。協は儀同楊長楽を遣わし、司馬裔らと師を率いてこれを討たせた。また大都督裴孟嘗を遣わし百姓を領かせて継いで進ませ、その声勢と為した。孟嘗が梓潼に至ると、水漲して即時に渡れなかった。而して王令公・鄧朏は孟嘗の騎兵少なきを見て、すなわち三千余人を将いてこれを数重に囲んだ。孟嘗は衆寡敵せずとし、各々馬を棄てて短兵相接して戦った。辰より午に至り、陣において令公及び朏らを斬った。賊徒は渠帥を失うや、すなわち散走した。その徒党はなお旧柵を拠った。而して孟嘗はようやく水を渡って長楽と合した。すなわち兵を勒して柵を攻め、三日を経て、賊はすなわち降を請うた。この後数度反叛有り、協はすなわち兵を遣わして討ち平げた。

原文 時有五城郡氐酋趙雄傑等扇動新、潼、始三州民反叛,聚結二萬餘人,在州南三里,隔涪水,據槐林山,置柵拒守。梓潼郡民鄧朏、王令公等招誘鄉邑萬餘人,復在州東十里,涪水北,置柵以應之。同逼州城。城中糧少,軍人乏食。協撫安內外,咸無異心。遣儀同伊婁訓、大都督司馬裔等將步騎千餘人,夜渡涪水擊雄傑,一戰破之。令公以雄傑敗,亦棄柵走還本郡。復與鄧朏等更率萬餘人,於郡東南隔水置柵,斷絕驛路。協遣儀同楊長樂,與司馬裔等率師討之;復遣大都督裴孟嘗領百姓繼進,為其聲勢。孟嘗既至梓潼,值水漲不得即渡。而王令公、鄧朏見孟嘗騎少,乃將三千餘人圍之數重。孟嘗以眾寡不敵,各棄馬短兵接戰。從辰至午,於陣斬令公及朏等。賊徒既失渠帥,遂即散走。其徒黨仍據舊柵。而孟嘗方得渡水與長樂合。即勒兵攻柵,經三日,賊乃請降。此後數有反叛,協輒遣兵討平之。

魏の恭帝三年、太祖は協を召し入朝させ、蜀中の事を論じ、すなわち姓を宇文氏と賜い、邑を通前一千五百戸に増やした。晋公護が孫恆・李植らを誅殺した後、腹心を司会柳慶・司憲令狐整らに委ねんと欲した。慶・整はともに辞して堪えず、ともに協を推薦した。語は慶・整の伝にある。護はすなわち協を召し入朝させた。至るや、護は引きてともに宿し、深く寄託した。協は欣然として承奉し、躯命を以て自ら効うことを誓った。護は大いに悦び、協を得るの遅きを以てした。すなわち軍司馬を授け、兵事を委ねた。まもなく治御正に転じ、また護府長史を授け、爵を公に進め、邑一千戸を増やされた。常に護の側に在り、時事を陳説し、多く採用された。世宗はその材識庸浅なるを知り、毎にこれを折った。数度これに謂いて曰く、「汝は何を知るか」と。なお護の親任する所なるを以て、即時に屏黜し難く、毎にこれを含容した。世宗が崩ずると、すなわち協に司会中大夫・中外府長史を授けた。協は形貌痩小にして、挙措褊急であった。志を得るや、毎に自ら矜高した。朝士に来りて事を請う者有れば、輒ち云う「汝は解せず、吾今汝に教えん」と。及びその言う所、多く事の衷に乖いた。当時笑わざる者無し。

原文 魏恭帝三年,太祖徵協入朝,論蜀中事,乃賜姓宇文氏,增邑通前一千五百戶。晉公護既殺孫恆、李植等,欲委腹心於司會柳慶、司憲令狐整等。慶、整並辭不堪,俱薦協。語在慶、整傳。護遂徵協入朝。既至,護引與同宿,深寄託之。協欣然承奉,誓以軀命自効。護大悅,以為得協之晚。即授軍司馬,委以兵事。尋轉治御正,又授護府長史,進爵為公,增邑一千戶。常在護側,陳說時事,多被納用。世宗知其材識庸淺,每折之。數謂之曰:「汝何知也!」猶以護所親任,難即屏黜,每含容之。及世宗崩,便授協司會中大夫、中外府長史。協形貌瘦小,舉措褊急。既以得志,每自矜高。朝士有來請事者,輒云「汝不解,吾今教汝」,及其所言,多乖事衷。當時莫不笑之。

保定二年、平蜀の功を追論し、別に一子を県侯に封じた。また蜀中に食邑一千戸を賜い、その租賦の半を納めさせた。晋公護は協が己に忠を竭くすを以て、毎にこれを提奬し、頻りに上中と考し、粟帛を以て賞した。少保に遷り、少傅に転じ、位を大将軍に進め、爵を南陽郡公とし、兼ねて営作副監とした。宮室が成ると、功により爵を洛邑県公と賜い、回授して一子に授けた。協は護の重委を受けるや、帝室と婚連せんことを冀い、すなわち旧姓の叱羅氏に復することを求めた。護が奏請すると、高祖はこれを許した。また位を柱国に進めた。護は協の年老いたるを以て、その致仕を許したが、協は栄を貪り、未だ肯って告退せず。護が誅されると、協は除名された。

原文 保定二年,追論平蜀功,別封一子縣侯。又於蜀中食邑一千戶,入其租賦之半。晉公護以協竭忠於己,每提奬之,頻考上中,賞以粟帛。遷少保,轉少傅,進位大將軍,爵南陽郡公,兼營作副監。宮室既成,以功賜爵洛邑縣公,回授一子。協既受護重委,冀得婚連帝室,乃求復舊姓叱羅氏。護為奏請,高祖許之。又進位柱國。護以協年老,許其致仕,而協貪榮,未肯告退。護誅,協除名。

建徳三年、高祖は協の宿歯なるを以て、儀同三司を授け、爵を南陽郡公と賜い、時に旧事を論説した。この歳卒す。年七十六。子の金が嗣いだ。

原文 建德三年,高祖以協宿齒,授儀同三司,賜爵南陽郡公,時與論說舊事。是歲卒,年七十六。子金嗣。

〈附〉 馮遷

原文 〈附〉 馮遷

馮遷は字を羽化という。父の漳は州の従事であった。遷が官達するに及び、儀同三司・陝州刺史を追贈された。遷は若くして修謹、幹能有り、州が従事に辟した。魏の神龜年中、刺史楊鈞が引きて中兵参軍事とし、定襄令に転じ、まもなく并州水曹参そうしん軍となった。歴任した職は、皆勤恪を以て著称された。

原文 馮遷字羽化。父漳,州從事。及遷官達,追贈儀同三司、陝州刺史。遷少修謹,有幹能,州辟從事。魏神龜中,刺史楊鈞引為中兵參軍事,轉定襄令,尋為幷州水曹參軍。所歷之職,咸以勤恪著稱。

魏の孝武が西遷すると、すなわち官を棄て、直閤将軍馮霊豫とともに関に入った。すなわち魏の孝武に従って潼関を復し、回洛を定め、給事中に除かれた。後に太祖に従って竇泰を擒え、弘農を復し、沙苑に戦い、皆功有り。都督・龍驤将軍・羽林監を授けられ、独顕県伯に封じられ、邑六百戸を賜うた。洛陽の戦いにおいて、遷は先登して陣を陷し、すなわち重瘡を中て、僅かに死せず。功により輔国将軍・軍師都督を加えられ、爵を侯に進めた。久しくして出て広漢郡守となった。時に蜀土は初平し、人情擾動していたが、遷の政は簡恕を存し、夷俗は頗るこれを安んじた。魏の恭帝二年、就いて車騎将軍・大都督・通直散騎常侍を加えられ、樊城を鎮めた。まもなく漢東郡守を拝した。

原文 及魏孝武西遷,乃棄官,與直閤將軍馮靈豫入關。即從魏孝武復潼關,定回洛,除給事中。後從太祖擒竇泰,復弘農,戰沙苑,皆有功。授都督、龍驤將軍、羽林監,封獨顯縣伯,邑六百戶。及洛陽之戰,遷先登陷陣,遂中重瘡,僅得不死。以功加輔國將軍、軍師都督,進爵為侯。久之,出為廣漢郡守。時蜀土初平,人情擾動,遷政存簡恕,夷俗頗安之。魏恭帝二年,就加車騎將軍、大都督、通直散騎常侍,鎮樊城。尋拜漢東郡守。

孝閔帝が践祚すると、召されて晉公宇文護の府掾となり、車騎大將軍・儀同三司を加えられ、爵位を進めて臨高縣公となった。まもなく護府の司錄に遷り、驃騎大將軍・開府儀同三司を進授された。李遷の性質は質直で、小心に畏れ慎み、枢要の地位にあっても、勢位をもって人に臨むことがなかった。また時事に明るく練達し、断決を善くした。文簿を校閲するごとに孜孜として倦まず、辰の刻から夕方に至るまで、休んだことがなかった。このため、宇文護に大いに信任された。後に、彼が朝廷の旧臣であることを以て、衣錦の栄をこれに与えようとし、陝州刺史を授け、爵位を進めて隆山郡公とし、封邑を増やして前と合わせて二千戸とした。李遷は元来寒微の出身で、当時の人々に重んじられなかったが、一朝にして本州の刺史となると、ただ謙恭をもって郷邑の人々を接待し、怨む者はいなかった。再び召されて司錄となり、工部中大夫に転じ、軍司馬を歴任し、小司空に遷った。天和年間以後、李遷は年老いたため、委任が次第に衰えた。宇文護が誅殺されると、彼もまた除名された。建徳末年、家で卒去した。時に七十八歳。子の李恕は、位は儀同三司・伏夷鎮将・平寇縣伯に至った。

原文 孝閔帝踐阼,入為晉公護府掾,加車騎大將軍、儀同三司,進爵臨高縣公。尋遷護府司錄,進授驃騎大將軍、開府儀同三司。遷性質直,小心畏慎,雖居樞要,不以勢位加人。兼明練時事,善於斷決。每校閱文簿,孜孜不倦,從辰逮夕,未嘗休止。以此甚為護所委任。後以其朝之舊齒,欲以衣錦榮之,乃授陝州刺史,進爵隆山郡公,增邑并前二千戶。遷本寒微,不為時輩所重,一旦刺舉本州,唯以謙恭接待鄉邑,人無怨者。復入為司錄,轉工部中大夫,歷軍司馬,遷小司空。自天和已後,遷以年老,委任稍衰。及護誅,猶除名。建德末,卒於家,時年七十八。子恕,位至儀同三司、伏夷鎮將、平寇縣伯。

宇文護が信任した者には、また朔方の辺平がおり、位は大將軍・軍司馬・護府司馬に至った。宇文護が敗れると、彼もまた除名された。

原文 護所委信者,又有朔方邊平,位至大將軍、軍司馬、護府司馬。護敗,亦除名。

史臣が曰く、仲尼に言あり、「道に適うべく、未だ権と与にすべからず」と。そもそも道とは、礼に率うことを謂い、権とは、経に反することを謂う。礼に率うは正理によるゆえ、容易に世を佐ける功を成し、経に反するは非常に関わるゆえ、難くして時を匡うる業を定めがたい。故にその人を得れば則ち治まり、伊尹が太甲を放ち、周旦が孺子を相たるがこれなり。その人を得ざれば則ち乱れ、新都(王莽)が漢鼎を遷し、晋氏が魏族を傾けたるがこれなり。ここを以て先王は上下の序を明らかにし、聖人は君臣の分を重んずる。質を委ぬること股肱に同じくし、爵を受くることその休戚を均しくす。その親しく顧託を受け、宰衡の位に居るや、たとえ利剣を承け、沸鼎に臨むとも、以てその慮を讋かしむるに足らず、帝図に拠り、海内を君とすとも、以てその心を回らすに足らず。かくの如き人は、固より功は山嶽とその高さを争い、名は穹壤とその久しさを斉しくす。

原文 史臣曰:仲尼有言:「可與適道,未可與權。」夫道者,率禮之謂也;權者,反經之謂也。率禮由乎正理,易以成佐世之功;反經繫乎非常,難以定匡時之業。故得其人則治,伊尹放太甲,周旦相孺子是也;不得其人則亂,新都遷漢鼎,晉氏傾魏族是也。是以先王明上下之序,聖人重君臣之分。委質同於股肱,受爵均其休戚。當其親受顧託,位居宰衡,雖復承利劍,臨沸鼎,不足以讋其慮;據帝圖,君海內,不足以回其心。若斯人者,固以功與山嶽爭其高,名與穹壤齊其久矣。

周が天命を受けた初め、宇文護はまさに艱難に参与した。太祖が崩じ、諸子は幼沖であり、群公は等夷の志を懐き、天下には去就の心があった。ついに魏を周に変え、危きをして安んじ治まらしめたのは、宇文護の力である。もしこれに礼譲を加え、忠貞を継がしめ、桐宮に悔過の期あり、未央に天年の数を終わらしめていたならば、前史に載せられたる所、どうして以てこれを称え得ただろうか。然るに宇文護は学術に乏しく、群小に昵近し、威福は己に在り、征伐は自ら出だした。人臣として君無き心あり、人主として堪え難き事を行った。忠孝の大節に違えりとて疑わず、廃弑の至逆を行いとて悔いなかった。ついに身首を横分され、妻子を戮せられるに至った。また宜ならずや。

原文 有周受命之始,宇文護寔預艱難。及太祖崩殂,諸子冲幼,羣公懷等夷之志,天下有去就之心。卒能變魏為周,俾危獲乂者,護之力也。向使加之以禮讓,繼之以忠貞,桐宮有悔過之期,未央終天年之數,則前史所載,焉足以道哉。然護寡於學術,昵近羣小,威福在己,征伐自出。有人臣無君之心,為人主不堪之事。忠孝大節也,違之而不疑;廢弒至逆也,行之而無悔。終於身首橫分,妻孥為戮,不亦宜乎。