周書
卷十一 列傳第三 晉 蕩公護 叱羅協 馮遷
晋蕩公の護は字を薩保といい、太祖 (宇文泰) の兄である邵惠公顥の末子である。幼少より方正にして志量あり、特に徳皇帝 (宇文肱) に愛され、諸兄とは異なる扱いを受けた。十一歳の時、惠公が薨去し、諸父に従って葛栄の軍中にあった。葛栄が敗れると、晋陽に移った。太祖が関中に入った時、護は年少のため従わなかった。普泰の初め (531年) 、晋陽から平涼に至り、時に十七歳であった。太祖の諸子は皆幼く、そこで護に家務を委ねたところ、内外厳しくせずして整然とした。太祖はかつて嘆じて言った、「この児の志量は我に似ている」と。
やがて夏州に出鎮するに臨み、護を留めて賀抜岳に仕えさせた。賀抜岳が害された時、太祖は平涼に至り、護を 都督 とした。侯莫陳悦を征討し、これを破った。後に魏帝を迎えた功績により、水池県伯に封ぜられ、邑五百戸を賜う。大統の初め (535年) 、通直 散騎常侍 ・征虜将軍を加えられる。楽勲 (?) を平定した功績により、爵位を公に進め、邑を増やして前後の合計一千戸とした。太祖に従って竇泰を擒え、弘農を回復し、沙苑を破り、河橋で戦い、いずれも功績があった。鎮東将軍・大 都督 に遷る。八年 (542年) 、車騎大将軍・儀同三司に進む。邙山の役では、護が衆を率いて先鋒となり、敵に包囲されたが、 都督 の侯伏侯龍恩が身を挺して防ぎ戦い、ようやく免れた。この時、趙貴らの軍も退いたため、太祖はついに軍を返した。護は連座して官を免ぜられたが、まもなく元の位に復した。十二年 (546年) 、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、中山公に進封され、邑四百戸を増やされた。十五年 (549年) 、河東に出鎮し、大将軍に遷る。于謹とともに江陵を征し、護は軽騎を率いて先鋒となり、昼夜兼行し、裨将を遣わして梁の辺境の城鎮を攻め、ことごとくこれを陥落させた。またその斥候騎兵を捕らえ、兵を進めて直ちに江陵城下に至った。城中は兵の来襲を予期せず、慌てふためき対応を失った。護はさらに二千騎を遣わして江の渡し場を遮断し、舟艦を収容して待機させた。大軍が到着し、包囲してこれを陥落させた。功績により子の会を江陵公に封じた。初め、襄陽の蛮の首帥である向天保ら一万余りの落 (集落) が、険阻を頼みとして障害となっていた。軍が帰還する際、護が軍を率いて討ち平定した。六官制を初めて施行するに当たり、小 司空 に拝された。
太祖が西巡して牽屯山に至り、病に罹り、駅伝を飛ばして護を召した。護が涇州で太祖に拝謁した時、太祖の病はすでに重篤であった。護に言うには、「我が容貌この如し、必ずや助からぬ。諸子は幼く、寇賊は未だ平定せず、天下の事は汝に託す。努めて我が志を成せ」と。護は涙を流して命を受けた。雲陽に行き着く途中で太祖は崩御した。護はこれを秘し、長安に至って初めて喪を発した。時に嗣子 (宇文覚) は幼弱で、強敵が近くにあり、人心は不安であった。護は内外を統制し、文武の官を慰撫したので、ここに衆人の心は定まったのである。以前より、太祖は常に「我は胡の力を得たり」と言っていた。当時はその意味を知る者はいなかったが、この時、人々は護の字 (薩保) がこれに当たると考えた。まもなく柱国に拝された。太祖の山陵が完了すると、護は天命の帰する所ありとし、人を遣わして魏帝にほのめかし、ついに禅譲による王朝交代の事を行った。
孝閔帝が即位すると、大司馬に拝され、晋国公に封ぜられ、邑一万戸を賜う。趙貴・独孤信らが護を襲撃しようと謀ったが、護は趙貴が入朝した機会に乗じてこれを捕らえ、その党与は皆誅殺された。大冢宰に拝された。
時に司会の李植・軍司馬の孫恆らは、太祖の朝廷において長く権勢の要職に居た。護が政権を執るのを見て、容れられぬことを恐れた。そこで密かに宮伯の乙弗鳳・張光洛・賀拔提・元進らを腹心として誘い、帝 (孝閔帝) に説いて言うには、「護が趙貴を誅殺して以来、威権は日増しに盛んとなり、謀臣や宿将は争って彼に付き従い、大小の政事は皆護によって決せられております。臣の見るところ、彼は臣下の節度を守らず、その勢力が蔓延することを恐れます。願わくは早くこれを図られんことを」と。帝はその言葉を是とした。鳳らはまた言うには、「先王 (宇文泰) の聖明をもってさえ、なお李植・孫恆に朝政を委ねられました。今もし陛下が左右より彼らを引き立てられれば、何を成し遂げられないことがありましょうか。かつ晋公 (宇文護) は常に『我は今、陛下を輔弼し、周公がなされたことを行おうとしている』と言っております。臣が聞くところによれば、周公は摂政七年の後、初めて天子に政権を返上されました。陛下は今日、果たして七年もこのような状態でいられましょうか。深く疑わないことを願います」と。帝はますます彼らを信じるようになった。たびたび武士を率いて後園で講習し、捕縛する態勢を整えた。
護はかすかにこれを知り、そこで李植を梁州刺史に、孫恆を潼州刺史に出して、その陰謀を抑えようとした。後に帝が李植らを思い、たびたび召還しようとした。護は諫めて言うには、「天下で最も親しいのは、兄弟に過ぎません。もし兄弟自らが不和を生じさせれば、他の者をどうして容易に親しむことができましょうか。太祖は陛下が若年であるため、後事を臣に託されました。臣は家と国の情けを兼ねており、まことにその股肱 (手足) として力を尽くさんと願っております。もし陛下が自ら万機を御覧になり、威を四海に加えられるならば、臣が死ぬ日も、生きている年と同じであります。ただ、臣が除かれた後、奸悪の輩がその欲望を遂げることを恐れるのみで、それは陛下に不利であるばかりでなく、社稷の危亡をも招くでしょう。臣が勤めて天威に触れるのは、ただ太祖のご託しに背かず、国家の帝位を安んじたいからに他なりません。思いがけず陛下は愚臣の誠意を照察されず、突然疑いの障壁を生じさせられました。かつ臣は既に天子の兄であり、また国家の宰輔でもあります。さらに何を求めて希望を抱くことがありましょうか。伏して願わくは、陛下には臣を明らかにされる方法をお取りになり、讒言する者の口に惑わされませんように」と。そこで涙を流し、しばらくしてやめた。帝はなお彼を疑った。
鳳らはますます恐れ、密謀をますます深めた。ついに日を定めて諸公卿を招き宴を催し、護を捕らえて誅殺しようとした。光洛がその前後の謀略をことごとく護に告げたので、護は柱国の賀蘭祥・小司馬の尉遅綱らを召し、鳳らの陰謀を告げた。祥らは皆護に帝を廃するよう勧めた。時に綱は禁兵を総領していたので、護は綱を遣わして宮中に入らせ、鳳らを召して議事とし、出てきたところを順次捕らえて護の邸宅に送らせた。そこで宿衛の兵を解散させ、祥を遣わして帝を脅迫し、旧邸に幽閉した。ここにおいて諸公卿を召し集め、護は涙を流して言うには、「先王は布衣より起こり、自ら軍陣に立ち、王業に勤労すること三十余年であった。寇賊は未だ平定せず、突然に万国を棄てられた。寡人 (護) は地縁では猶子 (甥) であり、親しく顧命を受けた。略陽公 (孝閔帝) が既に正嫡としての地位に居られるので、公らとともに立ち奉り、魏を革め周を興し、四海の主と為したのである。即位以来、荒淫にして度を越え、小人らに近づき、骨肉を疎んじ忌み、大臣や重将は皆誅滅しようと欲している。もしこの謀り事が成就すれば、社稷は必ずや傾覆に至るであろう。寡人もし死せば、何の面目あって先王に会えようか。今日は寧ろ略陽公に背くとも、社稷に背くことはしない。寧都公 (宇文毓) は年齢も徳も兼ね備え、仁孝聖慈にして、四海は心を寄せ、万方は注目している。今、暗君を廃し明君を立てんと欲するが、公らはどう思うか」と。群臣は皆言うには、「これは公の家事であり、敢えて命に従わないことがありましょうか」と。そこで門外で鳳らを斬り、李植・孫恆らをも誅殺した。まもなく帝も 弑 した。岐州より世宗 (宇文毓) を迎えて立てた。
二年 (558年) 、太師に拝され、輅車と冕服を賜う。子の至を崇業郡公に封ず。初めて雍州刺史を牧と改称し、護をこれに任じ、併せて金石の楽を賜う。武成元年 (559年) 、護は上表して政権を返上した。帝はこれを許したが、軍国の大事はなお護に委ねられた。帝 (宇文毓) は性質聡明で識量があり、護は深く畏れた。李安という者がおり、もともと料理の才能で護の寵愛を得て、次第に昇進し、膳部下大夫の位に至っていた。この時、護は密かに李安に命じ、帝に食事を進める際に毒薬を加えさせた。帝はそこで病に臥せり崩御した。護は高祖 (宇文邕) を立て、百官はみな己を総べて護に聴いた。
太祖が丞相となって以来、左右十二軍を立て、すべて相府に属させた。太祖が崩御した後は、皆、護の処分を受け、およそ徴発するものは、護の文書でなければ行われなかった。護の邸宅には禁衛の兵が屯し、宮闕よりも盛んであった。事の大小を問わず、皆、先に裁断して後で奏上した。保定元年、護を 都督 中外諸軍事とし、五府を天官に総属させた。ある者が護の意を迎え、周公の徳は重く、魯では文王の廟を立てた、護の功績を周公に比すべきであり、この礼を用いるべきであると言った。そこで詔を下し、同州の 晉 國邸に徳皇帝の別廟を立て、護に祭祀を行わせた。三年、詔して曰く、「大冢宰 晉 國公は、智は万物に周く、道は天下を済わし、以て我が帝業を克く成し、我が蒼生を安養する。況や親は則ち懿昆、任は元輔に当たり、しかして群品と同班し、衆臣と斉位すべきや。今より詔誥及び百司の文書に、並びに公の名を称することなく、以て殊礼を彰わすべし」。護は表を抗して固く辞した。
初め、太祖が創業するや、即ち突厥と和親し、掎角の謀を為し、共に高氏を図らんとした。この年、乃ち柱国楊忠を遣わして突厥とともに東伐させた。斉の長城を破り、 并 州に至って還った。後年を期して更に挙兵し、南北相応じんとした。斉主は大いに懼れた。先に、護の母閻姫と皇第四姑及び諸戚属は、並びに斉に没し、皆、幽縶されていた。護が宰相の位に居て以来、毎度間使を遣わして尋ね求めたが、音信を知ることはなかった。ここに至り、並びに還朝を許し、且つ和好を請うた。四年、皇姑が先に至った。斉主は護が既に権勢を握っているのを以て、乃ちその母を留め、以て後の図りと為した。仍って人に命じて閻の為に書を作り護に報ぜしめて曰く、
護は性、至孝であり、書を得て、悲しみ自ら勝えず、左右の者も仰ぎ見ることができなかった。報書して曰く、
斉朝は即時に発遣せず、更に護に書を与え、護に重ねて返報することを求め、往復再三に及んだが、母は遂に至らなかった。朝議はその失信を以て、有司に命じて斉に移書して曰く、
移書を未だ送らざるうちに母が至った。挙朝慶悦し、大赦天下した。護は母と多年睽隔し、一旦聚集するや、凡そ資奉する所は、窮極華盛であった。毎四時伏臘には、高祖は諸親戚を率い、家人の礼を行い、觴を称えて寿を上けた。栄貴の極み、振古未聞であった。
この年、突厥また衆を率いて期に赴かんとした。護は斉氏が初めて国親を送ったばかりであり、未だ即時に征討することを欲せず、また蕃夷に失信するを慮り、更に辺患を生ずるを恐れた。已むを得ず、遂に東征を請うた。九月、詔して曰く、「神たる軒皇も、尚お三戦を云い、聖なる姬武も、且つ一戎を曰う。弧矢の威、干戈の用、帝王の大器、誰か兵を去らんや。太祖は丕に天明を受け、我が周室を造り、日月の照らす所、率従せざるは無し。高氏は釁に乗じて跋扈し、窃かに 并 ・冀を有ち、世その悪を済い、腥穢彰聞す。皇天震怒し、手を突厥に仮し、汾 晉 を駆略し、掃地して遺す無し。季孟勢窮し、伯珪日蹙し、坐して滅亡を待つ、之を鑒むるは愚智なり。故に突厥班師し、仍って彼の境に屯し、更に諸部を集め、国を傾けて斉しく至り、星流電撃し、数道俱に進み、期は仲冬に在り、同会して 并 ・鄴を攻めん。大冢宰 晉 公は、朕が懿昆、任は伊・呂に隆く、宇宙を平一するは、惟だ公是れ属す。朕当に親ら斧鉞を執り、廟庭に祗受せん。有司宜しく衆軍を勒し、程を量りて赴集すべし。進止遅速は、公に委ねて処分せしむ」。ここに二十四軍及び左右廂の散隷、及び秦隴 巴蜀 の兵、諸蕃国の衆二十万人を徴発した。十月、帝は廟庭において護に斧鉞を授けた。出軍して潼関に至り、乃ち柱国尉遅迥に精兵十万を率いさせて前鋒と為し、大将軍権景宣に山南の兵を率いさせて 豫 州より出で、少師楊𢷋に軹関より出でさせた。護は連営して漸進し、軍を弘農に屯した。迥は洛陽を攻囲した。柱国斉公憲、鄭国公達奚武等は邙山に営した。
護は性、戎略無く、且つこの行も、又その本心に非ざりし故、師出ること久しきも、克く獲る所無し。護は本、河陽の路を壍断し、その救兵を遏え、然る後に洛陽を同攻し、その内外を隔絶せしめんと命じた。諸将は斉兵必ず敢えて出でずと以為い、唯だ斥候のみと為した。連日の陰霧に値い、斉騎は直前に進み、洛を囲むの軍は、一時に潰散した。唯だ尉遅迥が数十騎を率いて敵を払い、斉公憲また邙山の諸将を督して之を拒ぎたるにより、乃ち全軍して返るを得た。権景宣は 豫 州を攻克したが、尋いで洛陽の囲み解けたるを以て、亦軍を引いて退いた。楊𢷋は軹関において戦没した。護はここに班師した。功無きを以て、諸将と稽首して罪を請うたが、帝は之を責めなかった。
天和二年、護の母薨じ、尋いで詔有りて視事を令む。四年、護は北辺の城鎮を巡歴し、霊州に至って還った。五年、また詔して曰く、「光宅曲阜、魯は郊天の楽を用い、地は参墟に処る、 晉 は大蒐の礼有り。以て時に言い功を計り、徳を昭わし行を紀す。使持節・太師・ 都督 中外諸軍事・柱国大将軍・大冢宰 晉 国公は、体道して貞に居り、和を含み徳を誕し、地は戚右に居り、才は棟隆を表す。国歩艱難、寄は夷険に深く、皇綱締構、事は休戚に均し。故に以て迹は殆庶に冥く、理は如仁に契う。今文軌尚お隔たり、方隅猶お阻み、典策未だ備わらず、声名多きに闕く、宜しく軒懸の楽、六佾の舞を賜うべし」。
護は性、甚だ寛和であったが、然れども大體に暗かった。建立の功を恃み、久しく権軸に当たる。凡そ委任する所は、皆その人に非ず。兼ねて諸子貪残、僚属縱逸、護の威勢を恃み、政を蠹し民を害さざるは無し。上下相蒙り、曾て疑慮無し。高祖はその暴慢を以て、密かに 衞 王直と之を図った。
七年三月十八日、護は同州より還る。帝は文安殿に御し、護を見訖え、護を引いて含仁殿に入り皇太后に朝せしむ。先に帝は禁中にて護を見るに、常に家人の礼を行った。護が太后に謁すれば、太后必ず之に座を賜い、帝は立ちて侍した。ここに至り護将に入らんとするに、帝之に謂いて曰く、「太后春秋既に尊く、頗る酒を飲むを好む。朝謁に親しまず、或いは引進を廃す。喜怒の間、時に乖爽有り。比り顔を犯して屡諫すれども、未だ垂納を受けず。兄今既に朝拜す、願わくば更に啓請せよ」。因りて懐中の酒誥を出だして護に授け曰く、「此を以て太后に諫めよ」。護既に入り、帝の戒むる所の如く、読みて太后に示す。未だ訖らざるに、帝は玉珽を以て後より之を撃ち、護は地に踣る。又、宦者何泉に命じて御刀を以て之を斫らしむ。泉は惶懼し、斫ること能わずして傷つけず。時に 衞 王直は先に戸内に匿れ、乃ち出でて之を斬った。
初め、帝は護を図らんと欲し、王軌・宇文神舉・宇文孝伯は頗るその謀に預かった。この日、軌等は並びに外に在り、更に知る者無し。護を殺し訖え、乃ち宮伯長孫覧等を召して之に告げ、即ち護の子柱国譚国公會・大将軍莒国公至・崇業公静・正平公乾嘉、及び乾基・乾光・乾蔚・乾祖・乾威等、並びに柱国侯伏侯龍恩・龍恩の弟大将軍萬壽・大将軍劉勇・中外府司録尹公正・袁傑・膳部下大夫李安等を収め、殿中にて之を殺した。斉王憲は帝に白して曰く、「李安は皂隸より出で、典むる所は唯だ庖厨のみ。既に時政に預からず、未だ戮を加うるに足らず」。高祖曰く、「公知らざる耳、世宗の崩ずるは、安の為す所なり」。十九日、詔して曰く、
護の世子訓は蒲州刺史であった。その夜、柱国・越国公盛を駅伝に乗せて蒲州に遣わし、訓を召し出して京師に赴かせ、同州に至ったところで死を賜うた。護の長史代郡の叱羅協、司録弘農の馮遷および親任していた者どもは、皆除名された。護の子昌城公深は突厥に使いしていたが、開府宇文徳を遣わし璽書を携えて行かせ、これを誅殺した。三年、詔して護および諸子の先の封を復し、護に諡して蕩と曰い、ともに改葬した。
〈附〉 叱羅協
叱羅協は本名は高祖の諱と同じであったが、後に改めた。若い頃は寒微で、かつて州の小吏となり、恭謹さをもって知られた。恒州刺史楊鈞はこれを抜擢して従事とした。魏末に至り、六鎮が騒擾すると、冀州に客寓した。冀州が葛栄に包囲されると、刺史は協を統軍とし、守禦を委ねた。まもなく城は陥落し、協は栄に没した。栄が敗れると、汾州刺史爾朱兆に仕え、甚だ親遇され、録事参軍を補任された。兆が天柱大将軍となると、司馬に転じた。兆が斉の神武と初戦して利あらず、上党に還ると、協を建州に留めて軍糧を督させた。後に協を洛陽に使いさせ、その諸叔と事を計り、斉の神武を討つことを謀った。兆らが軍敗れて 并 州に還ると、協に肆州刺史を治めさせた。兆が死ぬと、ついに竇泰に仕え、泰はこれを甚だ礼遇した。泰が御史中尉となると、協を治書侍御史とした。泰が潼関に向かうと、協は監軍となった。泰が死ぬと、協もまた捕らえられた。太祖はその関中在住の年久しきを以て、大丞相府東閤祭酒・撫軍将軍・銀青光禄大夫を授け、録事参軍に転じ、主簿に遷し、通直 散騎常侍 を加え、大行台郎中を摂し、累遷して相府属従事中郎となった。
協は二京に歴任し、故事に詳練であった。また深く自ら克勵し、太祖は甚だこれを委任した。しかしなおその家眷が東に在るを以て、本を恋うるの望み有りと疑った。河橋の戦いに利あらず、協が軍に随って還ると、太祖は協に二心なきを知り、冠軍県男に封じ、邑二百戸を賜うた。まもなく車騎将軍・左光禄大夫を加えられた。九年、直閤将軍・恒州大中正に除かれ、 都督 を加えられ、爵を伯に進め、邑八百戸を増やされた。まもなく大 都督 ・儀同三司に遷った。
初め、太祖は漢中を経略せんと欲し、協を行南岐州刺史とし、兼ねて東益州の戎馬の事を節度させた。魏の廃帝元年、すなわち南岐州刺史を授けられた。時に東益州刺史楊辟邪が州に拠って反した。二年、協は率いる所部の兵を以てこれを討ち、軍を涪水に駐めた。時に氐賊一千人が道を断ち橋を破った。協は儀同仇買らを行かせて前進してこれを撃たせ、賊が路を開くと、協はすなわち率いる所部を率いて漸次進んだ。また氐賊一千人が協を邀え撃とうとしたので、協はすなわち兵四百人を将いて峡道を守り、賊と短兵相接して戦い、賊はすなわち退避した。辟邪は城を棄てて走り、協はこれを追って斬り、群氐は皆伏した。功により開府を授けられた。なお大将軍尉遅迥の長史として、兵を率いて蜀を伐った。剣閣に入ると、迥は協に行潼州事とさせた。
時に五城郡の氐酋趙雄傑らが新・潼・始の三州の民を扇動して反叛し、二万余人を聚結し、州の南三里、涪水を隔てて槐林山に拠り、柵を置いて拒守した。梓潼郡の民鄧朏・王令公らが郷邑一万余人を招誘し、また州の東十里、涪水の北に柵を置いてこれに応じた。ともに州城を逼った。城中は糧少なく、軍人は食に乏しかった。協は内外を撫安し、皆異心無かった。儀同伊婁訓・大 都督 司馬裔らを遣わし歩騎千余人を将い、夜に涪水を渡って雄傑を撃ち、一戦にしてこれを破った。令公は雄傑の敗れたるを以て、また柵を棄てて本郡に走り還った。また鄧朏らと更に万余人を率い、郡の東南に水を隔てて柵を置き、駅路を断絶した。協は儀同楊長楽を遣わし、司馬裔らと師を率いてこれを討たせた。また大 都督 裴孟嘗を遣わし百姓を領かせて継いで進ませ、その声勢と為した。孟嘗が梓潼に至ると、水漲して即時に渡れなかった。而して王令公・鄧朏は孟嘗の騎兵少なきを見て、すなわち三千余人を将いてこれを数重に囲んだ。孟嘗は衆寡敵せずとし、各々馬を棄てて短兵相接して戦った。辰より午に至り、陣において令公及び朏らを斬った。賊徒は渠帥を失うや、すなわち散走した。その徒党はなお旧柵を拠った。而して孟嘗はようやく水を渡って長楽と合した。すなわち兵を勒して柵を攻め、三日を経て、賊はすなわち降を請うた。この後数度反叛有り、協はすなわち兵を遣わして討ち平げた。
魏の恭帝三年、太祖は協を召し入朝させ、蜀中の事を論じ、すなわち姓を宇文氏と賜い、邑を通前一千五百戸に増やした。晋公護が孫恆・李植らを誅殺した後、腹心を司会柳慶・司憲令狐整らに委ねんと欲した。慶・整はともに辞して堪えず、ともに協を推薦した。語は慶・整の伝にある。護はすなわち協を召し入朝させた。至るや、護は引きてともに宿し、深く寄託した。協は欣然として承奉し、躯命を以て自ら効うことを誓った。護は大いに悦び、協を得るの遅きを以てした。すなわち軍司馬を授け、兵事を委ねた。まもなく治御正に転じ、また護府長史を授け、爵を公に進め、邑一千戸を増やされた。常に護の側に在り、時事を陳説し、多く採用された。世宗はその材識庸浅なるを知り、毎にこれを折った。数度これに謂いて曰く、「汝は何を知るか」と。なお護の親任する所なるを以て、即時に屏黜し難く、毎にこれを含容した。世宗が崩ずると、すなわち協に司会中大夫・中外府長史を授けた。協は形貌痩小にして、挙措褊急であった。志を得るや、毎に自ら矜高した。朝士に来りて事を請う者有れば、輒ち云う「汝は解せず、吾今汝に教えん」と。及びその言う所、多く事の衷に乖いた。当時笑わざる者無し。
保定二年、平蜀の功を追論し、別に一子を県侯に封じた。また蜀中に食邑一千戸を賜い、その租賦の半を納めさせた。晋公護は協が己に忠を竭くすを以て、毎にこれを提奬し、頻りに上中と考し、粟帛を以て賞した。少保に遷り、少傅に転じ、位を大将軍に進め、爵を南陽郡公とし、兼ねて営作副監とした。宮室が成ると、功により爵を洛邑県公と賜い、回授して一子に授けた。協は護の重委を受けるや、帝室と婚連せんことを冀い、すなわち旧姓の叱羅氏に復することを求めた。護が奏請すると、高祖はこれを許した。また位を柱国に進めた。護は協の年老いたるを以て、その致仕を許したが、協は栄を貪り、未だ肯って告退せず。護が誅されると、協は除名された。
建徳三年、高祖は協の宿歯なるを以て、儀同三司を授け、爵を南陽郡公と賜い、時に旧事を論説した。この歳卒す。年七十六。子の金が嗣いだ。
〈附〉 馮遷
馮遷は字を羽化という。父の漳は州の従事であった。遷が官達するに及び、儀同三司・陝州刺史を追贈された。遷は若くして修謹、幹能有り、州が従事に辟した。魏の神龜年中、刺史楊鈞が引きて中兵参軍事とし、定襄令に転じ、まもなく 并 州水曹参軍となった。歴任した職は、皆勤恪を以て著称された。
魏の孝武が西遷すると、すなわち官を棄て、直閤将軍馮霊 豫 とともに関に入った。すなわち魏の孝武に従って潼関を復し、回洛を定め、給事中に除かれた。後に太祖に従って竇泰を擒え、弘農を復し、沙苑に戦い、皆功有り。 都督 ・龍驤将軍・羽林監を授けられ、独顕県伯に封じられ、邑六百戸を賜うた。洛陽の戦いにおいて、遷は先登して陣を陷し、すなわち重瘡を中て、僅かに死せず。功により輔国将軍・軍師 都督 を加えられ、爵を侯に進めた。久しくして出て広漢郡守となった。時に蜀土は初平し、人情擾動していたが、遷の政は簡恕を存し、夷俗は頗るこれを安んじた。魏の恭帝二年、就いて車騎将軍・大 都督 ・通直 散騎常侍 を加えられ、樊城を鎮めた。まもなく漢東郡守を拝した。
孝閔帝が践祚すると、召されて 晉 公宇文護の府掾となり、車騎大將軍・儀同三司を加えられ、爵位を進めて臨高縣公となった。まもなく護府の司錄に遷り、驃騎大將軍・開府儀同三司を進授された。李遷の性質は質直で、小心に畏れ慎み、枢要の地位にあっても、勢位をもって人に臨むことがなかった。また時事に明るく練達し、断決を善くした。文簿を校閲するごとに孜孜として倦まず、辰の刻から夕方に至るまで、休んだことがなかった。このため、宇文護に大いに信任された。後に、彼が朝廷の旧臣であることを以て、衣錦の栄をこれに与えようとし、陝州刺史を授け、爵位を進めて隆山郡公とし、封邑を増やして前と合わせて二千戸とした。李遷は元来寒微の出身で、当時の人々に重んじられなかったが、一朝にして本州の刺史となると、ただ謙恭をもって郷邑の人々を接待し、怨む者はいなかった。再び召されて司錄となり、工部中大夫に転じ、軍司馬を歴任し、小 司空 に遷った。天和年間以後、李遷は年老いたため、委任が次第に衰えた。宇文護が誅殺されると、彼もまた除名された。建徳末年、家で卒去した。時に七十八歳。子の李恕は、位は儀同三司・伏夷鎮将・平寇縣伯に至った。
宇文護が信任した者には、また朔方の辺平がおり、位は大將軍・軍司馬・護府司馬に至った。宇文護が敗れると、彼もまた除名された。
史臣が曰く、仲尼に言あり、「道に適うべく、未だ権と与にすべからず」と。そもそも道とは、礼に率うことを謂い、権とは、経に反することを謂う。礼に率うは正理によるゆえ、容易に世を佐ける功を成し、経に反するは非常に関わるゆえ、難くして時を匡うる業を定めがたい。故にその人を得れば則ち治まり、伊尹が太甲を放ち、周旦が孺子を相たるがこれなり。その人を得ざれば則ち乱れ、新都 (王莽) が漢鼎を遷し、晋氏が魏族を傾けたるがこれなり。ここを以て先王は上下の序を明らかにし、聖人は君臣の分を重んずる。質を委ぬること股肱に同じくし、爵を受くることその休戚を均しくす。その親しく顧託を受け、宰衡の位に居るや、たとえ利剣を承け、沸鼎に臨むとも、以てその慮を讋かしむるに足らず、帝図に拠り、海内を君とすとも、以てその心を回らすに足らず。かくの如き人は、固より功は山嶽とその高さを争い、名は穹壤とその久しさを斉しくす。
周が天命を受けた初め、宇文護はまさに艱難に参与した。太祖が崩じ、諸子は幼沖であり、群公は等夷の志を懐き、天下には去就の心があった。ついに魏を周に変え、危きをして安んじ治まらしめたのは、宇文護の力である。もしこれに礼譲を加え、忠貞を継がしめ、桐宮に悔過の期あり、未央に天年の数を終わらしめていたならば、前史に載せられたる所、どうして以てこれを称え得ただろうか。然るに宇文護は学術に乏しく、群小に昵近し、威福は己に在り、征伐は自ら出だした。人臣として君無き心あり、人主として堪え難き事を行った。忠孝の大節に違えりとて疑わず、廃 弑 の至逆を行いとて悔いなかった。ついに身首を横分され、妻子を戮せられるに至った。また宜ならずや。