周書
卷十 列傳第二 邵惠公顥 杞簡公連 莒莊公洛生 虞國公仲
邵惠公宇文顥は、太祖 (宇文泰) の長兄である。徳皇帝 (宇文肱) は楽浪王氏を娶り、これが徳皇后となった。顥を生み、次に𣏌簡公宇文連、次に莒荘公宇文洛生、次に太祖が生まれた。顥は性、至孝にして、徳皇后が崩ずると、哀毀して礼を過ぎ、郷党みな敬異した。徳皇帝が衛可孤と武川の南河で戦い、陣に臨んで馬より墜ちたとき、顥は数騎を率いて駆けつけ救い、数十人を撃ち殺し、賊の衆は披靡したので、徳皇帝はようやく馬に乗って退去することができた。やがて賊の追騎が大いに至り、顥はついに戦死した。保定の初め、太師・柱国大将軍・大冢宰・大 都督 ・恒朔等十州諸軍事・恒州刺史を追贈された。邵国公に封ぜられ、邑一万戸。諡して恵といった。顥に三子あり、什肥・導・護。護は別に伝がある。
顥の子 什肥
什肥は十五歳のとき恵公が歿し、早く孤となったことを自ら傷み、母に仕えて孝行で知られた。永安年間、太祖が関中に入ると、什肥は母を離れることができず、晋陽に留まった。太祖が秦・隴を平定したとき、什肥は斉の神武帝 (高歓) に害せられた。保定の初め、大将軍・小冢宰・大 都督 ・冀定等州諸軍事・冀州刺史を追贈された。邵国公の爵を襲封。諡して景といった。子の冑が嗣いだ。
冑は幼くして孤貧であったが、頗る幹略があった。景公が害せられたとき、幼少のため蠶室に下された。保定の初め、詔して晋公宇文護の子の会に景公の封を継がせた。天和年間、斉と通好し、冑は初めて関中に帰った。大将軍・開府儀同三司を授けられ、邵公の爵を襲封。まもなく宗師中大夫に任ぜられ、位を進めて大将軍とし、出て原州刺史となり、転じて滎州刺史となった。大象の末、隋の文帝が政を輔けると、冑は州兵を挙げて尉遅迥に応じ、清河公楊素と戦い、敗れて走り、石済で追捕され、斬られた。国は除かれた。
冑の子 乾仁
会 (字は乾仁) は、幼くして学を好み、聡明であった。魏の恭帝二年、宇文護の江陵平定の功により、爵を江陵県公に賜う。保定の初め、景公の後を継ぎ、驃騎大将軍・開府儀同三司に拝された。二年、蒲州潼関六防諸軍事・蒲州刺史に任ぜられる。冑が斉より至り、譚国公に改封された。まもなく位を進めて柱国となった。建徳の初め、宇文護とともに誅殺された。三年五月、追贈があり、旧爵に復封された。
顥の子 導
導は字を菩薩という。若いときより雄豪で仁恵あり、太祖に愛された。初め諸父とともに葛栄の軍中にあり、栄が敗れると晋陽に遷った。太祖が賀抜岳に従って関中に入ると、導はこれに従って西行し、常に征伐に従った。太祖が侯莫陳悦を討つとき、導を 都督 とし、原州を鎮守させた。悦が敗れ、北走して故塞に出ると、導は騎兵を率いてこれを追い、牽屯山で悦に及び、これを斬り、首を京師に伝送した。功により饒陽県侯に封ぜられ、邑五百戸、冠軍将軍に拝され、通直 散騎常侍 を加えられた。魏の文帝が即位すると、定策の功により爵を公に進め、邑五百戸を増やされ、使持節・ 散騎常侍 ・車騎大将軍・左光禄大夫に拝された。三年、太祖が東征すると、導は宿衛に入り、領軍将軍・大 都督 に拝された。斉の神武帝が黄河を渡り馮翊を侵すと、太祖は弘農より軍を率いて関中に入り、導は左右の禁旅を督して沙苑で合流し、斉の神武帝と戦い、大いにこれを破った。位を儀同三司に進めた。明年、魏の文帝が東征し、導を留めて華州刺史とした。趙青雀・于伏徳・慕容思慶らが乱を起こすと、導は華州より配下の兵を率いてこれを撃ち、伏徳を擒にし、思慶を斬った。進んで渭橋に屯し、太祖の軍と合流した。事が平定されると、爵を章武郡公に進め、邑を増やして前合わせて二千戸とした。まもなく侍中・開府・驃騎大将軍・太子少保を加えられた。高仲密が北 豫 州を以て降ると、太祖は諸将を率いて魏の皇太子を輔け東征し、再び導を大 都督 ・華東雍二州諸軍事とし、行華州刺史とした。導は兵を治め卒を訓練し、守備の要を得た。大軍が利あらず、東魏軍が稠桑まで追撃してきたが、関中に備えあるを知り、退却した。侯景が河南を挙げて帰附し、使者を遣わして援軍を請うと、朝議はこれに応じようとし、導を徴して隴右大 都督 ・秦南等十五州諸軍事・秦州刺史とした。斉氏が帝を称すると、太祖は関中の兵を発してこれを討ち、魏の文帝は斉王宇文廓を遣わして隴右を鎮守させ、導を召還して朝廷に帰した。大将軍・大 都督 ・三雍二華等二十三州諸軍事に拝され、咸陽に屯した。大軍が還ると、旧鎮に戻った。
導は性質寛大明察で、撫御に長け、引き接する者は皆誠を尽くした。事に臨んで敬慎し、常に及ばざるが如くであった。太祖が出征討伐するたび、導は常に居守し、吏民に深く附せられ、朝廷もまたこれを重んじた。魏の恭帝元年十二月、上邽で薨じ、年四十四。魏帝は侍中・漁陽王元繩を遣わし喪事を監護させた。本官を贈り、 尚書令 ・秦州刺史を加え、諡して孝といった。朝議は導が西戎を撫和し、威恩顕著なるを以て、世々に隴右を鎮守せしめ、その徳を顕彰せんとし、上邽城西の無疆原に葬った。華戎会葬する者一万余人、路上に奠祭し、悲号野に満ち、皆「我が君我を見捨てたるか」と言った。大小相率いて土を負い墳丘を築き、高さ五十余尺、周囲八十余歩に及んだ。官司に制止され、然る後に泣いて辞して去った。その遺愛がこのように思慕されたのである。天和五年、重ねて太師・柱国・豳国公を追贈された。導に五子あり、広・亮・翼・椿・衆。亮と椿はともに𣏌公 (宇文連) の後を継いだ。
導の子 広
広は字を乾帰という。若いときより方正厳格で、文学を好んだ。初め永昌郡公に封ぜられた。孝閔帝が践祚すると、天水郡公に改封された。世宗が即位すると、驃騎大将軍・開府儀同三司を授けられ、出て秦州刺史となった。武成の初め、位を進めて大将軍とし、梁州総管に遷り、蔡国公に進封され、邑一万戸を増やされた。保定の初め、入朝して小司寇となった。まもなく本官のまま蒲州を鎮守し、兼ねて潼関等六防諸軍事を知った。二年、秦州総管・十三州諸軍事・秦州刺史に任ぜられた。広は性質明察で、綏撫に長け、民衆は畏れてこれを悦んだ。当時、晋公宇文護の諸子および広の弟の𣏌国公亮らは、服玩侈靡で制度を踰越していたが、広は独り礼則に従い、また士を遇するに折節し、朝野これをもって称えた。かつて高祖 (武帝宇文邕) に侍食し、食した瓜の美味なるを以て、これを奉進したところ、高祖はこれを悦んだ。四年、位を進めて柱国となった。広は晋公護が久しく威権を擅にするを以て、これを挹損するよう勧めたが、護は受け入れなかった。天和三年、陝州総管に任ぜられたが、病により免ぜられた。孝公 (宇文導) が豳国公に追封されると、詔して広に爵を襲封させた。
初め、広の母李氏は広が長年病に患うを憂い、病となり、これにより没した。広は喪に服して後、一層病状が重篤となり、ついに毀瘠して薨じた。世に、母は広のために病み、広は母のために亡くなり、慈孝の道が一門において極まったと称された。高祖は素服して親臨し、百官ことごとく集った。その故吏の儀同李充信らが上表して言うには:
詔して曰く、「充信等の表を省みて、ただ哀悼を増す。豳国公広は藩屏の令望、宗室の表儀にして、言は身文に著しく、行は士則を成す。方に懿戚に憑り、以て朝政を匡んぜんとし、奄に荼蓼に丁り、便ち毀滅を致す。手を啓きて全きに帰し、雅操を忘れず。言を既往に念い、厥の心に震う。昔、河間の才藻は、中尉に追叙せられ、東海の謙約は、身後に見称せらる。前典を斟酌し、旧章に率由すべし。易簀の言をして、遺志を申さしめ、黜殯の請をして、令終を虧かさしむるなかれ」と。ここに於いて本官を贈り、太保を加う。隴西に葬る。所司は一に詔旨に遵い、併せて儉約を存す。子の洽嗣ぐ。大定中、隋文政を輔くるに及び、宗室の害せらるるを以て、国除く。
導の子 亮
亮、字は乾德。武成初、永昌郡公に封ぜらる。後に烈公の爵を襲ぎ、開府儀同三司・梁州総管を除く。天和末、宗師中大夫に拝し、位を進めて大将軍と為る。豳国公薨ずるに及び、亮を以て秦州総管と為し、広の管轄せし所部は、悉く以て之に配す。亮、州に在りて甚だ政績無し。尋いで位を進めて柱国と為る。晋公護誅せられたる後、亮、心自ら安からず、唯だ酒を縦にするのみ。高祖手勅を下して之を譲る。建德中、高祖東伐するに、亮を以て右第二軍総管と為す。 并 州平らぎ、位を進めて上柱国と為る。仍いて鄴を平らぐに従い、大 司徒 に遷る。宣帝即位し、出でて安州総管と為る。大象初、詔して亮を行軍総管と為し、元帥・鄖国公韋孝寬等と共に陳を伐たしむ。亮、安陸より道を取りて黄城を攻め抜き、輒く江側の民村を破り、其の生口を掠め、以て士卒に賜う。軍、還りて 豫 州に至る。亮、密かに長史杜士峻に謂ひて曰く、「主上淫縱滋しう甚だしく、社稷将に危からんとす。吾既に宗枝に忝くす、坐して傾覆を見るに忍びず。今若し鄖国公を襲ひ取りて其の衆を併せ、諸父を推して主と為し、鼓行して前進せば、誰か従はざらん」と。遂に夜数百騎を将ひて孝寬の営を襲ふ。会に亮の国官茹寛其の謀を知り、先づ馳せて告ぐ。孝寬乃ち設備す。亮克たず、遯走す。孝寬追ひて之を斬る。子の明、亮の誅に坐す。詔して亮の弟椿を以て烈公の後と為す。
導の子 翼
翼、字は乾宜。武成初、西陽郡公に封ぜらる。早く薨ず。諡して昭と曰ふ。子無し。杞国公亮の子温を以て嗣がしむ。後に亮の反に坐して誅せられ、国除く。
導の子 椿
椿、字は乾壽。初め永昌郡公に封ぜらる。保定中、開府儀同三司・宗師中大夫を授かる。建德初、大将軍を加ふ。尋いで岐州刺史を除く。四年、関中の民饑ふ。椿表を上りて其の状を陳ぶ。璽書を以て労慰す。因りて所在に令して倉を開き賑卹せしむ。四年、高祖東伐するに、椿は斉王憲と共に武済等五城を攻め抜く。五年、高祖晋州に出づ。椿衆を率ひて棲雞原に屯す。宣帝即位し、大司寇に拝す。亮誅せられたる後、詔して烈公の封を紹がしむ。尋いで位を進めて上柱国と為り、大 司徒 に転ず。大定初、隋文帝に害せられ、其の五子西陽公道宗・本・仁隣・武子・禮獻と共に誅さる。
導の子 衆
衆、字は乾道。保定初、天水郡公に封ぜらる。少にして慧ならず、語黙常ならず、人測る能はざる所なり。隋文帝極に践り、初め介公に封ぜんと欲す。後復た之を誅し、二子仲和・孰倫と共に誅す。
杞簡公連は、幼にして謹厚、敵に臨みて果毅なり。徳皇帝に随ひて定州に逼り、軍を唐河に於いてし、遂に俱に歿す。保定初、使持節・太傅・柱国大将軍・大 司徒 ・大 都督 ・定冀等十州諸軍事・定州刺史を追贈し、杞国公に封じ、邑五千戸、諡して簡と曰ふ。子の元宝は斉の神武に害せらる。保定初、大将軍・小 司徒 ・大 都督 ・幽燕等六州諸軍事・幽州刺史を追贈す。杞国公の爵を襲ぎ、諡して烈と曰ふ。章武公導の子亮を以て嗣がしむ。
莒荘公洛生は、少にして任侠を好み、武芸を尚び、壮に及びて大度有り、施しを好み士を愛す。北州の賢俊は皆之と遊び、而して才能多く其の下に出づ。葛栄鮮于修礼を破るに及び、乃ち洛生を漁陽王と為し、仍ひて徳皇帝の余衆を領す。時人皆洛生王と呼ぶ。洛生将士を善くし、帳下に多く 驍 勇有り。攻戦に至りては、其の鋒に当る者莫く、是を以て克獲常に諸軍に冠たり。爾朱栄山東を定め、諸の豪傑を収め、晋陽に遷す。洛生時に虜中に在り。栄雅に其の名を聞き、心之を憚る。尋いで栄に害せらる。保定初、使持節・太保・柱国大将軍・大冢宰・大宗伯・大 都督 ・ 并 肆等十州諸軍事・ 并 州刺史を追贈し、莒国公に封じ、邑五千戸、諡して荘と曰ふ。
洛生の子 菩提
子の菩提は、斉の神武に害せらる。保定初、大将軍・小宗伯・大 都督 ・肆恆等六州諸軍事・肆州刺史を追贈し、莒国公の爵を襲ぎ、諡して穆と曰ふ。晋公護の子至を以て嗣がしむ。
洛生の子 至
至、字は乾附。初め崇業公に封ぜられ、後に穆公の爵を襲ぐ。建德初、父護の誅に坐し、詔して 衞 王直の子賓を以て穆公の後と為す。三年、至の爵を追復す。
賓は字を乾瑞という。まもなく坐直の罪に連座して誅殺された。建徳六年、さらに斉王憲の子広都公貢に爵を襲封させた。
貢は字を乾禎という。宣帝の初め、誅殺され、封国は除かれた。
虞国公仲は、徳皇帝の従父兄である。代において卒した。保定の初め、使持節・太傅・柱国大将軍・大 司徒 ・大 都督 ・燕平等十州諸軍事・燕州刺史を追贈され、虞国公に封ぜられ、邑三千戸を賜う。子の興が嗣いだ。
仲の子 興
興は生まれて間もなく、兵乱に遭い、仲とはぐれ、また年が幼かったため、その戚属の遠近を知る者もなかった。太祖とは兄弟であったが、初めは互いに面識がなかった。斉の神武帝が沙苑に侵寇した時、興は行間に預かり、軍は敗れて虜となり、例に従って諸軍に散配された。興の性格は弘厚で、志度があり、世故に流離しながらも、風範は見るべきものがあった。魏の恭帝二年、賢良に挙げられ、本郡の丞に除され、長𨻽県令に転じた。保定二年、詔して仲の子興を初めて属籍に附す。高祖は興が宗戚の近属であることを以て、これを尊礼すること甚だ厚く、使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・ 都督 に拝し、大寧郡公に封ぜられた。まもなく宗師中大夫に除せられる。四年、出でて涇州刺史となる。五年、また召されて宗師に拝し、大将軍を加えられ、虞国公の爵を襲封した。天和二年に薨じ、高祖は親しく臨み、慟哭した。詔して大 司空 ・申国公李穆に喪事を監護させた。使持節・柱国大将軍・大 都督 ・恆幽等六州諸軍事・恆州刺史を贈られ、諡して靖といった。子の洛が嗣いだ。
興の子 洛
洛は字を永洛という。九歳の時、虞国公の世子に命ぜられる。天和四年、詔して興の爵を襲封する。建徳の初め、使持節・車騎大将軍・儀同三司に拝す。静帝の崩ずるに及び、隋の文帝は洛を介国公とし、隋室の賓客とした。
史臣曰く、古より受命の君及び守文の主は、独り異姓の輔けのみならず、亦た骨肉の助け有り。其の茂親には魯・ 衞 ・梁・楚有り、其の疏属には凡・蔣・荊・燕有り、皆よく声を飛ばし実を騰せ、百代の後に泯びざるなり。若し豳孝公の勳烈に至りては、之に善政を以て加え、蔡文公の純孝に至りては、之に儉約を以て飾る:峩峩たり、以て前載を轥轢するに足る。隋氏の起るに当たり、天威に乗じて海内を服せしむるに、将相王侯、肝胆を隳して款を効へ、符命を援けて徳を頌せざる莫し。冑は葭莩の親を以て、一州に拠りて義挙に叶う、忠にして能く勇と謂うべし。功業遂げず、悲しいかな!亮は実に庸才、巨逆に非常を図る。古人の徳を度らず、力を量らずと称する者は、其れ斯れを謂うか。