周書
卷九 列傳第一 皇后
書経は有虞の徳を記し、「二女を降嫁せしむ」と 載 せ、詩経は文王の美を述べて、「寡妻に刑す」と称える。これにより婚姻の道、男女の別は、まことに国を有ち家を有つ者の慎むところなるを知る。三代より魏 晉 に至るまで、興衰の数、得失の跡は、伝記に備わり、故にその詳らかなるを聞くを得たり。もし徳を以て娉納し、礼を以て防閑し、大義宮闈に正しく、王化邦国に行はれば、則ち坤儀固く 式 り、鼎命 惟 れ永し。至りて邪僻既に進み、法度修むる莫く、冶容その主心を迷はし、私謁その朝政を蠹すに及べば、則ち風化凌替し、宗社守られず。それ然る者は、豈に皇王の亀鑑たらずや。
周氏は姫制に率由し、内職序あり。太祖は基を創め、衽席を修めて儉約を以てし、高祖は曆を嗣ぎ、情欲を節して 矯 枉に於ける。宮闈には貫魚の美あり、戚里には私溺の尤無く、人君の体を得たりと謂ふ可し。宣皇は外に其の志を行ひ、内に其の欲を逞しくし、溪壑満たし難く、採択厭ふこと無し。恩の加ふる所、廝皂を限りとせず、栄の及ぶ所、険詖を隔てず。ここに於て蘭殿に升りて正位し、椒庭に践みて齊體する者は、一人に非ず、房帷に階りて青紫を拖き、恩倖を承けて玉帛を擁する者は、一族に非ず。辛・癸の荒淫、趙・李の傾惑と雖も、曾て其の髣髴に 比 するに足らず。民は苛政に厭ひ、弊事實に多し、太祖の祚忽諸するは、特に此れに由る。故に其の事を叙して以て皇后傳と為す。
文帝元皇后
文帝元皇后は、魏の孝武帝の妹なり。初め平原公主に封ぜられ、開府張歡に 適 す。歡は性貪残にして、后に遇するに礼無く、又嘗て后の侍婢を殺す。后怒り、之を帝に訴ふ。帝乃ち歡を執へて之を殺す。后を改めて馮翊公主に封じ、以て太祖に配し、孝閔帝を生む。大統七年に薨ず。魏の恭帝三年十二月、成陵に合葬す。孝閔帝践祚し、追尊して王后と為す。武成の初め、又追尊して皇后と為す。
文宣叱奴皇后
文宣叱奴皇后は、代の人なり。太祖丞相たる時、后を納れて姬と為し、高祖を生む。天和二年六月、皇太后と尊ぶ。建德三年三月癸酉、崩ず。四月丁巳、永固陵に葬る。
孝閔帝元皇后
孝閔帝元皇后は名を胡摩と云ひ、魏の文帝の第五女なり。初め 晉 安公主に封ぜらる。帝の略陽公たる時、尚ばる。践祚に及び、王后に立つ。帝廃せられ、后出でて俗を離れ尼と為る。建德の初め、高祖 晉 國公護を誅し、上りて帝の尊號を孝閔帝とし、后を以て孝閔皇后と為し、崇義宮に居らしむ。隋氏革命し、后出でて里第に居る。大業十二年、 殂 す。
明帝獨孤皇后
明帝獨孤皇后は、太保・衛國公獨孤信の長女なり。帝の藩に在りし時、納れて夫人と為す。二年正月、王后に立つ。四月、崩じ、 昭 陵に葬る。武成の初め、追崇して皇后と為す。世宗崩じ、后と合葬す。
武帝阿史那皇后
武帝阿史那皇后は、突 厥 の木扞可汗俟斤の女なり。突厥茹茹を滅ぼしたる後、塞表の地を尽く有ち、控弦数十万、志中夏を陵せんとす。太祖方に齊人と争衡し、結びて以て援と為さんとす。俟斤初め女を以て帝に配せんと欲し、既にして之を悔ゆ。高祖即位し、前後累次使を遣はして要結し、乃ち后を我に帰するを許す。保定五年二月、詔して陳國公純・許國公宇文貴・神武公竇毅・南安公楊荐等をして、皇后の文物及び行殿を備へ奉り、 并 せて六宮以下百二十人を率ゐ、俟斤の牙帳の所に至り、后を迎へしむ。俟斤又齊人に婚を許し、将に異志有らんとす。純等彼に在りて累載、反命を得ず。信義を以て之を諭すと雖も、俟斤従はず。会ひ大雷風起こり、其の穹廬等を飄壞し、旬日止まず。俟斤大いに懼れ、天 譴 と為し、乃ち礼を備へて后を送る。純等行殿を設け、羽儀を列ね、奉じて以て帰る。天和三年三月、后至り、高祖親迎の礼を行ふ。后姿貌有り、容止を善くし、高祖深く敬ふ。
宣帝即位し、皇太后と尊ぶ。大象元年二月、天元皇太后と改む。二年二月、又天元上皇太后と尊ぶ。冊に曰く、「天元皇帝臣贇、璽綬冊を奉り、謹みて天元皇太后の尊號を上りて天元上皇太后と曰ふ。伏して惟ふに、神を窮め智を尽くし、弘きを含み物を載せ、道萬邦に洽ひ、儀四海に刑す。聖慈訓誘し、恩明德に深し、徽號を冊すと雖も、未だ尊嚴に極まらず。是を用ひて鴻名を増奉し、常礼を光縟す。誠敬の展ぶる有らしめ、歡慰茲に在らしめ、福祉疆無く、億兆斯に頼らんとす」と。宣帝崩じ、靜帝太皇太后と尊ぶ。隋の開皇二年殂じ、年三十二。隋文帝詔して有司に礼冊を備へしめ、孝陵に祔葬す。
武帝李皇后
武帝李皇后は名を娥姿と云ひ、楚の人なり。于謹江陵を平ぐるに及び、后の家籍没せらる。長安に至り、太祖后を以て高祖に賜ひ、後稍く親幸を得。大象元年二月、天元帝太后と改む。七月、又天皇太后と尊ぶ。二年、天元聖皇太后と尊ぶ。冊に曰く、「天元皇帝臣贇、璽綬冊を奉り、謹みて天皇太后の尊號を上りて天元聖皇太后と曰ふ。伏して惟ふに、月精祉を効し、坤靈貺を表し、瑞丹陵に肇まり、慶華渚に流る。令典に率由し、夙く徽號を奉ずと雖も、心に因りて敬を尽くすも、未だ尊名に極まらず。是を用ひて稱首を弘むるを思ひ、上りて聖德を昭し、敢へて誠敬を竭くし、永く福履を綏んとす。慈訓を顯揚し、厥の孫に謀を貽せんとす」と。宣帝崩じ、靜帝太帝太后と尊ぶ。隋の開皇元年三月、出でて俗を離れ尼と為り、名を常悲と改む。八年殂じ、年五十三、尼礼を以て京城の南に葬る。
宣帝楊皇后
宣帝楊皇后は名を 麗 華といい、隋文帝の長女である。帝が東宮にあった時、高祖 (武帝) が帝のために后を娶り皇太子妃とした。宣政元年閏六月、皇后に立てられた。帝は後に自ら天元皇帝と称し、后を天元皇后と号した。まもなくまた天皇后及び左右皇后を立て、后と合わせて四皇后とした。二年、詔して曰く、「帝は二女を降し、后の徳は以て君に 儷 ぶ所以なり。天は四星を列ね、妃の象はここに於いて耀きを垂る。朕は上玄に法を取り、諸れの令典に 稽 え、 爰 に四后を命じ、内に六宮を正し、 庶 わくは柔徳を弘め 賛 け、 粢盛 を広く修めんとす。比殊礼は降すと雖も、称謂は何ぞ宜しからん。其れ天の象に因り、嘉名を増し 錫 わん」と。ここにおいて后と三皇后は並びに大の字を加えられた。帝は使いを遣わし節を持たせて后を冊立し天元大皇后とし、曰く、「 咨 爾 は章を含み徳を載せ、順に体し貞に居り、粛恭にして祀を 享 け、邦国の儀刑たり。是を用いて此の顕号を嘉し、 徽音 を 暢 べしむ。爾其れ敬して厥の 猷 を践み、 寅 んで霊命に 荅 え、休烈を対揚せよ。慎まざるべけんや」と。まもなくまた天中大皇后を立て、后と合わせて五皇后とした。
后は性質柔婉にして、妬忌せず、四皇后及び嬪御ら皆これを愛し仰いだ。帝は後に昏暴ますます甚だしく、喜怒度を 乖 く。嘗て后を譴め、罪を加えんと欲す。后は進止詳閑にして、 辞色撓 がず。帝大いに怒り、遂に后に死を賜い、 訣 を引くことを 逼 る。后の母独狐氏これを聞き、閤に詣で陳謝し、頭を叩きて血を流し、然る後に免るるを得たり。帝崩ずると、静帝は后を尊び皇太后とし、弘聖宮に居らしむ。
初め、宣帝病に罹り、詔して后の父を禁中に入れ侍疾せしむ。 大漸 に及び、劉昉・鄭訳ら因りて詔を矯り、后の父に遺命を受けて政を 輔 けしむ。后は初め謀に預からざりしと雖も、然れども嗣主幼冲にして、権が他族に在れば己に利あらずと恐れ、昉・訳ら既に此の詔を行えりと聞き、心甚だこれを悦びたり。後に其の父に異図あるを知り、意頗る平らかならず、言色に形わる。禅代を行わるるに及び、憤惋愈々甚だし。隋文帝既に責むる能わず、内に甚だこれを 愧 ず。開皇六年、后を封じて楽平公主とす。後又其の志を奪わんと議す。后誓って許さず、乃ち止む。大業五年、煬帝に従い張掖に幸し、河西にて殂す。年四十九。煬帝京に還り、詔して有司に礼を備えさせ、后を定陵に祔葬せしむ。
宣帝朱皇后
宣帝朱皇后は名を満月といい、呉の人である。其の家事に坐し、東宮に没入せらる。帝の太子たる時、后選ばれて帝の衣服を掌る。帝年少にして、召してこれを幸い、遂に静帝を生む。大象元年、天元帝后に立てられ、まもなく天皇后と改む。二年、また天大皇后と改む。冊に曰く、「咨爾は四徳を 弥 宣べ、六宮を訓範し、軒庭に序を列ね、堯門に慶を表す。嘉称既に降り、盛典宜しく 膺 くべし。爾其れ性を飾り道を履み、礼正に 愆 ること無く、永く休祉を固くせよ。慎まざるべけんや」と。后は本より良家の子に非ず、又帝より十余歳年長く、疎賤にして寵無し。静帝の故を以て、特ち尊崇し、班位楊皇后に次ぐ。宣帝崩ずると、静帝尊びて帝太后とす。隋開皇元年、俗を出て尼となり、名を法淨とす。六年殂す。年四十。尼礼を以て京城に葬る。
宣帝陳皇后
宣帝陳皇后は名を月儀といい、自ら云う潁川の人、大将軍山提の第八女なり。大象元年六月、選ばれて宮に入り、徳妃に拝せらる。月余りして、天左皇后に立てらる。二年二月、天左大皇后と改む。冊に曰く、「咨爾は儀範柔閑にして、操履凝潔、淑問遠近に彰れ、令則宮闈に冠たる。是を用いて彼の寵章を申し、此の徽号を加う。爾其れ礼を復し詩を問い、図を披き史を顧み、永く嘉命を隆くせよ。慎まざるべけんや」と。三月、又詔して曰く、「正内の重きは、風化の基、嘉耦の制は、代多く殊典なり。軒・嚳軌を継ぎ、次妃並びに四つ;虞舜命を受け、厥れ娶る猶お三つ。礼は相襲ぐに非ず、時に随いて無からず。朕宝図を 祗 承し、載ち徽号を弘む。我より改作し、先古を超革す。曰く天元極に居るは、五帝の以て仰崇する所以;王者尊きを称するは、列后のここに於いて上儷するなり。且つ坤儀徳に比し、土数惟五、既に 恒典縟 し、宜しく斯の儀を取るべし。四大皇后の外、増して天中大皇后一人を置くべし。天中大皇后は爰に粢盛を主り、 徽音日躋 る。嘉名を肇建し、宜しく顕冊を膺くべし」と。ここにおいて后を以て天中大皇后とす。帝崩ずると、后出家して尼となり、名を華光と改む。
后の父山提は本より高氏の 隷 なり。斉に仕え、官は特進・開府・東兗州刺史・謝陽王に至る。高祖斉を平ぐると、大将軍に拝し、淅陽郡公に封ぜらる。大象元年、后の父として超授せられ上柱国に至り、進んで鄅国公に封ぜられ、大宗伯を除かれる。
宣帝元皇后
宣帝元皇后は名を楽尚といい、河南洛陽の人なり。開府晟の第二女。年十五、選ばれて宮に入り、貴妃に拝せらる。大象元年七月、天右皇后に立てらる。二年二月、天右大皇后と改む。冊に曰く、「咨爾は霊を姜水に 資 り、徳を塗山に載せ、懿淑内に融け、徽音潜かに暢ぶ。是を用いて此の寵数を加え、式践礼を光らしむ。爾其れ 聿 めて儀範を修め、粛として顕冊を膺け、祗んで休命を承けよ。慎まざるべけんや」と。帝崩ずると、后俗を出て尼となり、名を華勝と改む。初め、后は陳后と同時に選ばれて宮に入り、倶に妃に拝せられ、及び后位に升り、又同日に冊を受けたり。帝二后を寵遇し、礼数均しく等しく、年歯また同じく、特ち相親愛す。尼となる後、李后・朱后及び尉遅后ら並びに相継いで殞没す。而して二后は今に至るまで尚存す。后の父晟は、少くより元氏宗室として、開府に拝せらる。大象元年七月、后の父として位を進められ上柱国に至り、翼国公に封ぜらる。
宣帝尉遅皇后
宣帝尉遅皇后は名を熾繁といい、蜀国公迥の孫女なり。美色あり。初め𣏌国公亮の子西陽公温に適つ。宗婦の例にて朝に入る。 帝逼 りてこれを幸いす。及び亮謀逆す。帝温を誅し、后を進めて宮に入れ、長貴妃に拝す。大象二年三月、天左大皇后に立てらる。冊に曰く、「咨爾は門に積善を膺け、躬に霊貺を表し、徽音茂徳、朕実にこれを嘉す。是を用いて此の盛典を弘め、彼の寵章を申す。爾其れ克く厥の猷を慎み、寅んで景命に荅え、永く休烈を承けよ。慎まざるべけんや」と。帝崩ずると、后俗を出て尼となり、名を華首と改む。隋開皇十五年、殂す。年三十。
静帝司馬皇后
静帝司馬皇后は名を令姫といい、柱国・ 滎陽 公消難の女なり。大象元年二月、宣帝位を帝に伝う。七月、帝のために納れて皇后とす。冊に曰く、「坤道形を成し、厚徳ここに於いて物を載す。陰精運を 迭 せ、重光以て天を麗しむ所以なり。昔に在りし皇王、乾に膺たり暦を御す。内政助けと為り、図篆に昭に被る。惟うに爾が門は慶霊を積み、家は休烈を 韜 む。徽音令範、一時に背くこと無し。是を用いて爾に命し、皇極に儷と作す。爾其れ克く婉心を励まし、粛として盛典を膺け、皇・英の逸軌を追い、庶わくは任・姒の芳塵に庶からんことを。褘翟光有り、粢盛怠ること無く、休と雖も休せず、以て嘉祚を隆くせよ」と。二年九月、隋文帝、后の父衆を擁して陳に奔るを以て、后を廃して庶人とす。後、隋の司隷刺史李丹の妻に嫁ぐ。今に至るまで尚存す。
史臣曰く、孔子は「夷狄に君有りとも、諸夏の亡きに如かず」と称す。ここを以て周は狄后を納るるも、富辰はこれを禍の階と謂い、晋は戎女を昇るるも、卜人は以て不吉と為す。斯れ固より謬ならざるなり。
周氏の命を受くるより、高祖に逮るまで、年は三紀を踰え、世は四君を歴たり。業は草昧の辰に非ず、事は権宜の日に殊なり。乃ち同きを棄てて異に即き、夷を以て華を乱す。婚姻の彝序を捐て、豺狼の外利を求む。既にして報ずる者は倦み、施す者は厭うこと無し。向に所謂和親と為せしもの、未だ幾ばくもせずして已に讐敵と成る。奇正の道、斯れに異なる有り。時に高祖は人に制せらるるも、未だ庶政に親しまず、而して謀士は奇を韞み、直臣は口を鉗む。過ぎたるかな。
歴に前載を観るに、外戚を以て宰輔に居る者は多し。申・呂は則ち曠代に聞こえず、呂・霍は則ち時と俱に盛ん。漢室を傾くる者は王族、周祚を喪う者は楊氏。何ぞ滅亡の禍、符契を合するが若きや。斯れ魏文の一㮣の詔を発する所以なり。