世宗(明帝宇文毓)が即位すると、大將軍を授けられた。武成(明帝の年号)の初め、益州總管・益寧巴瀘等二十四州諸軍事・益州刺史に任ぜられ、齊國公に進封され、邑一万戸を賜った。初め、蜀を平定した後、太祖はその地が形勝の地であるため、宿将をそこに住まわせることを望まなかった。諸子の中から推挙して選ぼうとした。高祖以下の者に広く問い、誰がこの任に就けるかと。まだ誰も答える前に、憲が先に請願した。太祖は「刺史は衆を撫で民を治めるべきもので、お前の及ぶところではない。年齢で授けるならば、お前の兄に帰すべきだ」と言った。憲は「才能と用い方はそれぞれ異なり、大小に関わるものではありません。試みて効果がなければ、甘んじて面欺を受けます」と答えた。太祖は大いに喜んだが、憲の年齢がまだ幼いため、派遣しなかった。世宗が先の旨を追って遵ったため、この任があったのである。憲は当時十六歳で、撫綏(慰撫)に長け、政術に心を留め、訴訟が輻湊しても、聴き受けるのに疲れを知らなかった。蜀人は彼を慕い、共に碑を立てて徳を頌した。まもなく柱國に進位した。
保定(武帝の年号)年間、京師に召還され、雍州牧に任ぜられた。晉公宇文護が東伐する際、尉遲迥を先鋒として洛陽を包囲した。憲は達奚武・王雄らと軍を邙山に駐屯させた。その他の諸軍は、それぞれ険要な地を分かって守った。齊兵数万が突然に軍の背後に現れ、諸軍は恐れ慌てて、それぞれ退散した。ただ憲と王雄・達奚武のみが衆を率いてこれを防いだ。しかし王雄が齊人に殺されると、三軍は震え恐れた。憲は自ら督励し、衆心はようやく安まった。当時晉公護が政を執り、大いに親しく任せ、賞罰の際にも、ことごとく参与することができた。
六年、ついに憲に衆二万を率いさせて龍門から出撃させた。齊の将軍新蔡王王康德は憲の軍が来ると、軍を潜めて夜遁した。憲は西に帰った。なお汾水を掘り移し、水南の堡壁は、再び齊の手に帰した。齊人は攻略が遠くまで及ばないと思い、遂に辺備を弛めた。憲は河を渡り、その伏龍など四城を攻め、二日でことごとく陥落させた。また張壁を攻撃し、これを攻略し、その軍実を獲て、その城塁を平らげた。斛律明月は当時華谷にいたが、救うことができず、憲は北へ姚襄城を攻め、これを陥落させた。当時汾州はまた長らく包囲されており、糧食と援軍の路が絶えていた。憲は柱國宇文盛に粟を運搬させてこれを補給した。憲は自ら両乳谷に入り、齊の柏社城を襲撃して攻略し、姚襄に進軍した。齊人は城に拠って固守した。憲は柱國・譚公宇文會に石殿城を築かせ、汾州の援けとした。齊の平原王段孝先・蘭陵王高長恭が大軍を引いて大いに至った。憲は将士に命じて陣を敷いてこれを待った。大將軍韓歡が齊人に乗ぜられ、遂に敗走した。憲は身を以て戦いを督し、齊の衆は次第に退いた。日が暮れたので、それぞれ軍を収めた。
晉公護が誅殺されると、高祖は憲を召し入れた。憲は冠を免じて拝謝した。帝は彼に言った「天下は太祖の天下であり、朕が鴻基を嗣いで守り、常に失墜を恐れている。冢宰(宇文護)は君を無しとして上を凌ぎ、不軌を図ろうとした。朕がこれを誅したのは、社稷を安んずるためである。汝は親としては同気(兄弟)であり、休戚を共にする者で、事は汝に関わらない。何ぞ煩わしく謝する必要があろうか」と。そして詔して憲を護の邸宅に遣わし、兵符および諸簿書などを収めさせた。
まもなく憲を大冢宰とした。当時高祖は既に宰臣(宇文護)を誅し、自ら朝政を覧て、政をもって導き、刑をもって斉えようとし、親族に及んでも、また刻薄であった。憲は護に委任されていたため、天和以後、威勢が次第に盛んになった。護が何か奏上したいことがあると、多く憲に聞かせて奏上させた。その中には認められないものもあったが、憲は主君と宰相の間に嫌隙が生じることを慮り、常に曲げて暢た。高祖もまたその心を知っていたため、禍患がなかった。しかしなお威名が重すぎるため、終に平らぐことができず、遥かに冢宰を授けたが、実はその権力を奪ったのである。
開府裴文舉は、憲の侍読であった。高祖は常に内殿に御し、彼を引見して言った「晉公の不臣の跡は、朝野の知るところである。朕が泣いて誅したのは、国家を安んじ、百姓を利するためである。昔、魏末に綱紀がなく、太祖が元氏(北魏)を匡輔し、周が天命を受けると、晉公がまた威権を執った。積習が常となり、法はかくあるべきだと考えるようになった。どうして三十歳の天子が人の制せられるところとなろうか。かつ近代以来、また一つの弊害があり、暫く隷属しただけで、すぐに礼を君臣のようになす。これは乱世の権宜であって、国を経営する治術ではない。詩に云う『夙夜匪解、以事一人』と。一人とは、ただ天子を指すのである。たとえ齊公に陪侍しても、すぐに臣主と同じにはならない。かつ太祖に十人の子があるが、どうしてことごとく天子となれようか。卿は正道をもって規諫し、義方をもって勧め、我が君臣を輯睦させ、我が骨肉を協和させるがよい。兄弟に、自ら嫌疑を致させてはならない」と。文挙は拝謝して出て、帰って憲に告げた。憲は胸を指し机を撫でて言った「我が夙心は、公がよく知らないはずがない。ただ忠を尽くし節を竭くすのみである。また何を言うことがあろうか」と。
その秋、高祖(武帝)は雲陽宮に行幸し、やがて病に臥せられた。衛王宇文直が京師で兵を挙げて反乱を起こした。高祖は憲を召して言われた、「衛王が逆を構えていることを、汝は知っているか」。憲は答えて言った、「臣は初め知りませんでしたが、今詔を奉じて初めて知りました。直がもし天に逆らい順を犯すならば、これは自ら滅亡を招くものです」。高祖は言われた、「汝はただちに前軍となれ、我も続いて出発する」。直はまもなく敗走した。高祖が京師に到着すると、憲は趙王宇文招とともに参内して拝謝した。高祖は言われた、「管叔・蔡叔は誅戮され、周公は輔佐となった。人の心は同じからず、その顔の如しである。ただ兄弟が親しく干戈を交えることを、我としては不足と感じるのみである」。初め、直は内心ひそかに憲を忌み、憲はこれを隠して容認した。かつ帝の同母弟であることを以て、常に友愛と敬意を加えた。晉公宇文護が誅殺された時、直は固く憲をも処罰するよう請うた。高祖は言われた、「斉公(憲)の心の内は、我自ら詳しく知っている。さらに疑うべきではない」。文宣皇后が崩御されると、直はまた密かに上奏して言った、「憲は酒を飲み肉を食い、平素と異なることがありません」。高祖は言われた、「我と斉王は別の母から生まれ、ともに正嫡ではないが、特に我の意に叶い、今は喪服を着けることが同じである。汝はむしろこれを恥じるべきで、得失を論ずるべきではない。汝は太后の実子として、偏に慈愛を荷っている。今はただ自ら努めるべきで、他人をとやかく言う必要はない」。直はやっと止めた。
四年(574年)、高祖は東征を企図され、独り内史王誼と謀り、他の者は誰も知らなかった。後に諸弟の才略が、憲の右に出る者がないことを以て、遂に彼に告げられた。憲はただちにこの事を賛成した。大軍が出動しようとする時、憲は上表して私財を献上し軍費を助けようとして言った、「臣は聞く、機に撫で運に適うは、理として時の来るを藉り、弱きを兼ね昧きを攻むるは、事として権道に資ると。伏して惟うに、陛下は明を継ぎ聖を作し、業を闡き風を弘め、天心に順わんと思し、武略を恢めんと用いられんとす。まさに長蛇を外に翦り、宇宙を大同にし、軍民内に向かい、車書混一せんとす。窃かに思うに、龍旗雷動し、天網雲布するに、芻粟糧餼は、あるいは周給を須いましょう。昔、辺隅未だ静かならず、卜式は家財を上ぐるを願い、江海澄まず、衛茲は私粟を献ずるを請う。臣は不敏ながらも、敢えて景行を忘れんや。謹んで金宝等一十六件を上り、少し軍資を助けんとす」。詔して受け取らず、かえって憲の上表を公卿に示して言われた、「人臣はかくあるべきである。朕はその心を貴ぶのみで、どうして物を須いようか」。そこで詔して憲に二万の兵を率いて前軍となり、黎陽に向かわせた。高祖は親しく河陰を包囲したが、陥落しなかった。憲は武済を攻め落とし、進軍して洛口を包囲し、その東西二城を占領した。高祖が病気のため、軍を返した。この年、初めて上柱国の官を置き、憲をこれに任じた。
五年(575年)、大いに挙兵して東征し、憲は精騎二万を率い、再び前鋒となり、雀鼠谷を守った。高祖は親しく晋州を包囲された。憲は進軍して洪同・永安の二城を陥落させ、さらに進取を図った。斉人は橋を焼き険を守り、軍は進むことができず、遂に永安に駐屯した。斉主(後主高緯)は晋州が包囲されていると聞き、十万の兵を率いて自ら来援した。時に柱国・陳王宇文純は千里径に軍を頓え、大将軍・永昌公宇文椿は鶏棲原に屯し、大将軍宇文盛は汾水関を守り、ともに憲の節度を受けた。憲は密かに椿に言った、「兵は詭道なり、去留定まらず、機を見て作し、常に遵うべからず。汝は今営を為すに、幕を張るを須いず、柏を伐って菴と為し、形勢有るを示せ。兵去った後も、賊はなお疑いを致さん」。時に斉主は軍一万を分けて千里径に向かわせ、またその衆を出して汾水関に向かわせ、自ら大兵を率いて椿と対陣した。宇文盛が騎を馳せて急を告げると、憲は自ら千騎を以てこれを救った。斉人は谷中に塵の上がるのを見て、相率いて急ぎ退いた。盛は柱国侯莫陳芮とともに汾を渡ってこれを追い、多く斬獲があった。やがて椿が斉の衆が次第に迫ると告げると、憲はまた軍を回してこれに赴いた。ちょうど椿が勅を奉じて追還され、兵を率いて夜に返ることにあった。斉人は果たして柏の菴を帳幕と思い、軍の退くを疑わず、翌日になって初めて悟った。
時に高祖はすでに晋州を去り、憲を後詰めとして残された。斉主は自ら衆を率いて追撃し、高梁橋に至った。憲は精騎二千を以て、水を阻んで陣を布いた。斉の領軍段暢が真っ直ぐに進んで橋に至った。憲は水を隔てて暢を招き語り、語り終わって、憲は暢に問うて言った、「汝は何という名か」。暢は言った、「領軍段暢です。貴公はまたどなたですか」。憲は言った、「我は虞候大都督に過ぎぬ」。暢は言った、「貴公の言語を観るに、凡人ではありません。今日相見えるに、何ぞその名位を隠す必要がありましょう」。陳王宇文純・梁公侯莫陳芮・内史王誼らがみな憲の側にいた。暢は固く問うてやまなかった。憲はそこで言った、「我は天子の太弟、斉王である」。陳王以下を指さし、みな名位を以て告げた。暢は鞭打って馬を去り、憲はただちに軍を返すことを命じた。すると斉人が急ぎこれを追い、戈甲甚だ鋭かった。憲は開府宇文忻と各々精卒百騎を統率して殿軍となり、これを拒ぎ、その驍将賀蘭豹子・山褥瓌ら百余人を斬り、斉の衆はようやく退いた。憲は汾を渡り、高祖に玉壁で追いついた。
高祖はまた憲に兵六万を率い、還って晋州を救援するよう命じられた。憲はそこで進軍し、涑水に営した。斉主は晋州を攻囲し、昼夜息むことがなかった。間諜の還る者の中には、すでに陥落したと言う者もいた。憲はそこで柱国越王宇文盛・大将軍尉遅迥・開府宇文神挙らに軽騎一万を率い、夜に晋州に至らせた。憲は進軍して蒙坑を占拠し、その後詰めとなったが、城が未だ陥ちないことを知り、そこで涑川に帰った。まもなく高祖が東轅し、高顕に次いだ。憲は率いる所部を以て、先に晋州に向かった。翌日、諸軍が総集し、次第に城下に迫った。斉人もまた大いに出兵し、営の南に陣を布いた。高祖は憲を召し、馳せ往きてこれを観察させた。憲は返命して言った、「これは容易く対処できるものです。これを破ってから食事を請います」。帝は喜んで言われた、「汝の言う如くならば、我に憂いなし」。憲が退くと、内史柳虯がひそかに憲に言った、「賊も少なくありません。王はどうしてこれを軽んじられるのですか」。憲は言った、「憲は前鋒を委ねられ、情は家国を兼ねる。この逋寇を掃うことは、事、枯れ木を摧くに等しい。商周の事は、公の知るところである。賊兵は衆多といえども、我をどうすることもできまい」。やがて諸軍ともに進み、時に応じて大いに潰えた。その夜、斉主は遁走し、憲は軽騎を以てこれを追った。すでに永安に追いつくと、高祖が続いて到着した。斉人はその余衆を収め、再び高壁及び洛女砦を占拠した。高祖は憲に命じて洛女を攻めさせ、これを破った。翌日、大軍と介休で会合した。
斉の任城王高湝・広寧王高孝珩らが信都を拠り、数万の衆を有していた。高祖はまた詔して憲にこれを討たせた。そこで斉主(捕虜の高緯)に手書を書かせて湝に与えさせた、「朝廷は緯を遇すること甚だ厚く、諸王も恙なし。叔(湝)もし甲を解くならば、優待せざることはない」。湝は受け入れず、かえって大いに賞募を開き、多く金帛を出し、沙門で戦士となろうとする者も数千人に及んだ。憲の軍が趙州を過ぎると、湝は間諜二人を遣わして形勢を窺わせた。斥候の騎兵がこれを捕らえて憲に白上した。憲はそこで斉の旧将を集め、彼らに遍く示した。また彼らに言った、「我の争うところは大であり、汝らにあるのではない。今汝らを放ち還す、ただちに我が使となりうるであろう」。そこで湝に書を送って言った、
宇文憲は信都に至り、高湝は城南に陣を布いた。憲は張耳の塚に登ってこれを望見した。やがて高湝の任命した領軍尉相願が偽って陣を出て略奪するふりをし、ついに兵を率いて降伏した。相願は高湝の腹心であるから、兵たちは大いに驚き恐れた。高湝は大いに怒り、その妻子を殺した。翌日また戦い、ついにこれを破り、三万人を捕虜とし斬首し、高湝および高孝珩らを生け捕りにした。憲は高湝に言った、「任城王、何の苦しみがあってここまでなされたのか」。高湝は言った、「下官は神武帝(高歓)の子であり、兄弟十五人のうち、幸いにただ一人生き残った。宗廟社稷の覆るに逢い、今日死ぬことができれば、墳陵に愧じることはない」。憲はその言葉を壮とし、その妻子を帰らせ、手厚く資財を与えた。また孝珩に問うた。孝珩は国の難を述べ陳べ、言葉と涙ともに下り、俯仰に節度があり、憲もまたそのために顔色を改めた。
憲はもとより謀略に長け、計算と策略が多く、特に撫御(慰撫統御)に長け、任使(人を使うこと)に通達しており、鋒を摧き陣を陷すに当たっては士卒に先んじ、群下は感悦し、皆そのために用いられた。斉の人々はかねてよりその威声を聞き、その勇略を憚らない者はなかった。幷州の勝利の後、敵境に長駆し、芻牧(飼料と放牧)を擾さず、軍に私利を図ることはなかった。
これより先、稽胡の劉沒鐸が自ら皇帝を称し、また詔があって憲に趙王宇文招らを督させて討伐平定させた。その話は稽胡伝にある。
憲は自ら威名が日増しに重くなることを以て、ひそかに退くことを考えた。高祖(宇文邕)が北蕃(突厥)に親征しようとしたとき、病気を理由に辞退した。高祖は顔色を変えて言った、「汝もし行くことを憚るなら、誰が朕の使者となるのか」。憲は恐れて言った、「臣が鑾輿(天子の車)に陪従することは、誠に本願であるが、ただ身に疹疾を患い、兵を率いるに堪えません」。帝はこれを許した。
まもなく高祖が崩御し、宣帝(宇文贇)が位を嗣いだ。宣帝は憲が尊属であり声望が重いことを以て、深く忌み憚った。当時高祖は未だ葬られておらず、諸王は宮中で喪服を着て務めていた。司衞長孫覧が兵を総べ政を輔けていたが、諸王に異心があるとして、開府于智にその動静を察させるよう奏上した。高祖の山陵(葬儀)から戻ると、諸王は邸宅に帰った。帝はまた于智に命じて憲の邸宅に行き様子をうかがわせ、これによって憲に謀反があると告げさせた。帝は小冢宰宇文孝伯を遣わして憲に言わせた、「三公の位は、親族の賢者に属すべきである。今、叔父(憲)を太師とし、九叔父(宇文純か)を太傅とし、十一叔父(宇文達か)を太保としたいと思うが、叔父はどう思われるか」。憲は言った、「臣は才能軽く位重く、満ち溢れることを懼れている。三師の任は、敢えて当たるべきではない。かつ太祖(宇文泰)の勲臣が、この挙に応ずべきである。もし専ら臣の兄弟を用いるならば、恐らく世間の議論に背くでしょう」。孝伯が返命すると、まもなくまた来て言った、「詔により王は遅くとも諸王とともに殿門に至られよ」。憲だけが引き入れられ、帝はあらかじめ別室に壮士を伏せておき、到着するや即座にこれを捕らえた。憲は言葉と顔色を撓めず、固く自ら陳説した。帝は于智に憲に対面させた。憲の目光は炬火の如く、于智と対質した。ある者が憲に言った、「王の今日の事勢をもってすれば、何のために多くを言う必要があろう」。憲は言った、「我は位重く属尊く、一朝ここに至り、死生は天命にあり、どうして再び生き延びることを図ろうか。ただ老母が堂に在り、この恨みを残すことを恐れるのみである」。そこで笏を地に擲った。そして絞殺した。時に年三十五。于智を柱国とし、齊国公に封じた。また上大将軍安邑公王興、上開府獨孤熊、開府豆盧紹らを殺した。皆、憲に親しかったためである。帝は憲を誅した後、口実がなかったので、故に王興らが憲と謀を結んだと仮託し、ついにその誅戮を加えたのである。当時の人はその冤酷を知り、皆、憲に伴って死んだと言った。
質は字を乾祐といい、初め安城公に封ぜられた。後に憲の勲功により、河間郡王に進封された。賨は字を乾礼といい、大将軍・中垻公となった。貢は莒荘公(宇文洛生)の後を嗣いだ。乾禧は安城公、乾洽は龍涸公となった。皆、憲とともに誅殺された。
史臣が言う。両漢より魏・晋に至るまで、帝弟帝子は多いが、ただ楚元王(劉交)、河間献王(劉徳)、東平憲王(劉蒼)、陳思王(曹植)の徒が文儒をもって美名を広め、任城威王(曹彰)、琅邪王(司馬伷)が武功をもって名声を馳せた。なぜか。体は尊極にあり、宮闈に長じ、佚楽がその心を奢らせ、驕貴がその志を蕩かす。故に奇才高行は、ついに天下の士の中では少なかったのである。斉王(宇文憲)は奇姿傑出し、ただ一人で前代の人物を網羅した。介弟(皇帝の弟)の地にあり、上将の重きを居ながら、智勇は世に冠たり、攻戦は神の如し。敵国はその存亡をこれに繋ぎ、鼎命(帝位)はその軽重をこれに由った。これを異姓に比すれば、方叔・召虎・韓信・白起といえども、どうしてこれに加えられようか。震主の威を挟み、道の消えんとする日に属して、この人にしてこの戮に嬰る。君子はここをもって周の祚の永からざるを知るのである。昔、張耳・陳餘の賓客厮役でさえ、その居たところ皆卿相を取った。そして斉王の文武の僚吏も、その後多く台牧(高官)に至った。異なる世ながら同じ符節を得る。賢いと言うべきである。