周書

巻012

卷十二 列傳第四 齊煬王憲

齊煬王憲は字を毗賀突といい、太祖(宇文泰)の第五子である。性質は明敏で、度量があり、幼少の頃より神彩が高く聳えていた。初め涪城縣公に封ぜられた。幼くして高祖こうそ(武帝宇文邕)とともに詩・伝を受講し、いずれも機要を総合してその指帰を得た。太祖がかつて諸子に良馬を賜った際、各自に選ばせた。憲はただ駁馬を選んだ。太祖が問うと、答えて言うには「この馬は毛色が普通と異なり、あるいは駿逸なところが多いでしょう。もし軍に従って征伐するなら、牧圉(馬の管理)でも見分けやすいです」と。太祖は喜んで「この児は智識が凡ならず、重器となるであろう」と言った。後に隴上で狩りに従い、官馬の牧場を通った時、太祖は駁馬を見るたびに「これは我が児の馬である」と言い、左右に命じて取らせて憲に賜った。魏恭帝元年、安城郡公に進封された。孝閔帝が践祚すると、驃騎大將軍・開府儀同三司に任ぜられた。

原文 齊煬王憲字毗賀突,太祖第五子也。性通敏,有度量,雖在童齔,而神彩嶷然。初封涪城縣公。少與高祖俱受詩、傳,咸綜機要,得其指歸。太祖嘗賜諸子良馬,惟其所擇。憲獨取駁馬。太祖問之,對曰:「此馬色類既殊,或多駿逸。若從軍征伐,牧圉易分。」太祖喜曰:「此兒智識不凡,當成重器。」後從獵隴上,經官馬牧,太祖每見駁馬,輒曰:「此我兒馬也。」命左右取以賜之。魏恭帝元年,進封安城郡公。孝閔帝踐阼,拜驃騎大將軍、開府儀同三司。

世宗(明帝宇文毓)が即位すると、大將軍を授けられた。武成(明帝の年号)の初め、益州總管・益寧巴瀘等二十四州諸軍事・益州刺史に任ぜられ、齊國公に進封され、邑一万戸を賜った。初め、蜀しょくを平定した後、太祖はその地が形勝の地であるため、宿将をそこに住まわせることを望まなかった。諸子の中から推挙して選ぼうとした。高祖以下の者に広く問い、誰がこの任に就けるかと。まだ誰も答える前に、憲が先に請願した。太祖は「刺史は衆を撫で民を治めるべきもので、お前の及ぶところではない。年齢で授けるならば、お前の兄に帰すべきだ」と言った。憲は「才能と用い方はそれぞれ異なり、大小に関わるものではありません。試みて効果がなければ、甘んじて面欺を受けます」と答えた。太祖は大いに喜んだが、憲の年齢がまだ幼いため、派遣しなかった。世宗が先の旨を追って遵ったため、この任があったのである。憲は当時十六歳で、撫綏(慰撫)に長け、政術に心を留め、訴訟が輻湊しても、聴き受けるのに疲れを知らなかった。蜀人は彼を慕い、共に碑を立てて徳を頌した。まもなく柱國に進位した。

原文 世宗即位,授大將軍。武成初,除益州總管、益寧巴瀘等二十四州諸軍事、益州刺史,進封齊國公,邑萬戶。初,平蜀之後,太祖以其形勝之地,不欲使宿將居之。諸子之中,欲有推擇。徧問高祖已下,誰能此行。並未及對,而憲先請。太祖曰:「刺史當撫眾治民,非爾所及。以年授者,當歸爾兄。」憲曰:「才用有殊,不關大小。試而無効,甘受面欺。」太祖大悅,以憲年尚幼,未之遣也。世宗追遵先旨,故有此授。憲時年十六,善於撫綏,留心政術,辭訟輻湊,聽受不疲。蜀人懷之,共立碑頌德。尋進位柱國。

保定(武帝の年号)年間、京師に召還され、雍州牧に任ぜられた。晉公宇文護が東伐する際、尉遲迥を先鋒として洛陽らくようを包囲した。憲は達奚武・王雄らと軍を邙山に駐屯させた。その他の諸軍は、それぞれ険要な地を分かって守った。齊兵数万が突然に軍の背後に現れ、諸軍は恐れ慌てて、それぞれ退散した。ただ憲と王雄・達奚武のみが衆を率いてこれを防いだ。しかし王雄が齊人に殺されると、三軍は震え恐れた。憲は自ら督励し、衆心はようやく安まった。当時晉公護が政を執り、大いに親しく任せ、賞罰の際にも、ことごとく参与することができた。

原文 保定中,徵還京,拜雍州牧。及晉公護東伐,以尉遲迥為先鋒,圍洛陽。憲與達奚武、王雄等軍於邙山。自餘諸軍,各分守險要。齊兵數萬,奄出軍後,諸軍恇駭,竝各退散。唯憲與王雄、達奚武率眾拒之。而雄為齊人所斃,三軍震懼。憲親自督勵,眾心乃安。時晉公護執政,雅相親委,賞罰之際,皆得預焉。

天和三年、憲を大司馬とし、小冢宰を治めさせ、雍州牧はもとのままとした。四年、齊の将軍獨孤永業が来寇し、孔城の防主能奔達を盗み殺し、城を挙げてこれに応じた。詔により憲は柱國李穆とともに兵を率いて宜陽から出撃し、崇德など五城を築き、その糧道を絶った。齊の将軍斛律明月が衆四万を率いて洛水の南に堡塁を築いた。五年、憲は洛水を渡ってこれを邀え撃ち、明月は逃げ去った。憲はこれを追い、安業に至り、しばしば戦って帰還した。この年、明月はまた大軍を率いて汾水の北に城を築き、西は龍門に至った。晉公護は憲に言った「寇賊が充満し、戎馬が交馳して、遂に疆埸の間に生民が疲弊している。どうして坐視して屠滅されるのを観て、救おうと思わないでいられようか。汝は計略をどう出すと思うか」と。憲は言った「憲の見るところでは、兄上(護)は暫く同州に出て、威勢を示されるのがよいでしょう。憲は精兵を率いて前陣に居り、機に随って攻め取ります。ただ辺境を清寧にするだけでなく、また別に克獲があるでしょう」と。護はこれをよしとした。

原文 天和三年,以憲為大司馬,治小冢宰,雍州牧如故。四年,齊將獨孤永業來寇,盜殺孔城防主能奔達,以城應之。詔憲與柱國李穆將兵出宜陽,築崇德等五城,絕其糧道。齊將斛律明月率眾四萬,築壘洛南。五年,憲涉洛邀之,明月遁走。憲追之,及于安業,屢戰而還。是歲,明月又率大眾於汾北築城,西至龍門。晉公護謂憲曰:「寇賊充斥,戎馬交馳,遂使疆埸之間,生民委弊。豈得坐觀屠滅,而不思救之。汝謂計將安出?」曰:「如憲所見,兄宜暫出同州,以為威勢,憲請以精兵居前,隨機攻取。非惟邊境清寧,亦當別有克獲。」護然之。

六年、ついに憲に衆二万を率いさせて龍門から出撃させた。齊の将軍新蔡王王康德は憲の軍が来ると、軍を潜めて夜遁した。憲は西に帰った。なお汾水を掘り移し、水南の堡壁は、再び齊の手に帰した。齊人は攻略が遠くまで及ばないと思い、遂に辺備を弛めた。憲は河を渡り、その伏龍など四城を攻め、二日でことごとく陥落させた。また張壁を攻撃し、これを攻略し、その軍実を獲て、その城塁を平らげた。斛律明月は当時華谷にいたが、救うことができず、憲は北へ姚襄城を攻め、これを陥落させた。当時汾州はまた長らく包囲されており、糧食と援軍の路が絶えていた。憲は柱國宇文盛に粟を運搬させてこれを補給した。憲は自ら両乳谷に入り、齊の柏社城を襲撃して攻略し、姚襄に進軍した。齊人は城に拠って固守した。憲は柱國・譚公宇文會に石殿城を築かせ、汾州の援けとした。齊の平原王段孝先・蘭陵王高長恭が大軍を引いて大いに至った。憲は将士に命じて陣を敷いてこれを待った。大將軍韓歡が齊人に乗ぜられ、遂に敗走した。憲は身を以て戦いを督し、齊の衆は次第に退いた。日が暮れたので、それぞれ軍を収めた。

原文 六年,乃遣憲率眾二萬,出自龍門。齊將新蔡王王康德以憲兵至,潛軍宵遯。憲乃西歸。仍掘移汾水,水南堡壁,復入於齊。齊人謂略不及遠,遂弛邊備。憲乃渡河,攻其伏龍等四城,二日盡拔。又進攻張壁,克之,獲其軍實,夷其城壘。斛律明月時在華谷,弗能救也,北攻姚襄城,陷之。時汾州又見圍日久,糧援路絕。憲遣柱國宇文盛運粟以饋之。憲自入兩乳谷,襲克齊柏社城,進軍姚襄。齊人嬰城固守。憲使柱國、譚公會築石殿城,以為汾州之援。齊平原王段孝先、蘭陵王高長恭引兵大至,憲命將士陣而待之。大將軍韓歡為齊人所乘,遂以奔退,憲身自督戰,齊眾稍卻。會日暮,乃各收軍。

晉公護が誅殺されると、高祖は憲を召し入れた。憲は冠を免じて拝謝した。帝は彼に言った「天下は太祖の天下であり、朕が鴻基を嗣いで守り、常に失墜を恐れている。冢宰(宇文護)は君を無しとして上を凌ぎ、不軌を図ろうとした。朕がこれを誅したのは、社稷を安んずるためである。汝は親としては同気(兄弟)であり、休戚を共にする者で、事は汝に関わらない。何ぞ煩わしく謝する必要があろうか」と。そして詔して憲を護の邸宅に遣わし、兵符および諸簿書などを収めさせた。

原文 及晉公護誅,高祖召憲入,憲免冠拜謝。帝謂之曰:「天下者,太祖之天下,吾嗣守鴻基,常恐失墜。冢宰無君凌上,將圖不軌,吾所以誅之,以安社稷。汝親則同氣,休戚共之,事不相涉,何煩致謝。」乃詔憲往護第,收兵符及諸簿書等。

まもなく憲を大冢宰とした。当時高祖は既に宰臣(宇文護)を誅し、自ら朝政を覧て、政をもって導き、刑をもって斉ととのえようとし、親族に及んでも、また刻薄であった。憲は護に委任されていたため、天和以後、威勢が次第に盛んになった。護が何か奏上したいことがあると、多く憲に聞かせて奏上させた。その中には認められないものもあったが、憲は主君と宰相の間に嫌隙が生じることを慮り、常に曲げて暢のべた。高祖もまたその心を知っていたため、禍患がなかった。しかしなお威名が重すぎるため、終に平らぐことができず、遥かに冢宰を授けたが、実はその権力を奪ったのである。

原文 尋以憲為大冢宰。時高祖既誅宰臣,親覽朝政,方欲導之以政,齊之以刑,爰及親親,亦為刻薄。憲既為護所委任,自天和之後,威勢漸隆。護欲有所陳,多令憲聞奏。其間或有可不,憲慮主相嫌隙,每曲而暢之。高祖亦悉其心,故得無患。然猶以威名過重,終不能平,雖遙授冢宰,寔奪其權也。

開府裴文舉は、憲の侍読であった。高祖は常に内殿に御し、彼を引見して言った「晉公の不臣の跡は、朝野の知るところである。朕が泣いて誅したのは、国家を安んじ、百姓を利するためである。昔、魏末に綱紀がなく、太祖が元氏(北魏)を匡輔し、周が天命を受けると、晉公がまた威権を執った。積習が常となり、法はかくあるべきだと考えるようになった。どうして三十歳の天子が人の制せられるところとなろうか。かつ近代以来、また一つの弊害があり、暫く隷属しただけで、すぐに礼を君臣のようになす。これは乱世の権宜であって、国を経営する治術ではない。詩に云う『夙夜匪解、以事一人』と。一人とは、ただ天子を指すのである。たとえ齊公に陪侍しても、すぐに臣主と同じにはならない。かつ太祖に十人の子があるが、どうしてことごとく天子となれようか。卿は正道をもって規諫し、義方をもって勧め、我が君臣を輯睦させ、我が骨肉を協和させるがよい。兄弟に、自ら嫌疑を致させてはならない」と。文挙は拝謝して出て、帰って憲に告げた。憲は胸を指し机を撫でて言った「我が夙心は、公がよく知らないはずがない。ただ忠を尽くし節を竭くすのみである。また何を言うことがあろうか」と。

原文 開府裴文舉,憲之侍讀,高祖常御內殿,引見之。謂曰:「晉公不臣之迹,朝野所知,朕所以泣而誅者,安國家,利百姓耳。昔魏末不綱,太祖匡輔元氏;有周受命,晉公復執威權。積習生常,便謂法應須爾。豈有三十歲天子而可為人所制乎。且近代以來,又有一弊,暫經隸屬,便即禮若君臣。此乃亂代之權宜,非經國之治術。詩云:『夙夜匪解,以事一人。』一人者,止據天子耳。雖陪侍齊公,不得即同臣主。且太祖十兒,寧可悉為天子。卿宜規以正道,勸以義方,輯睦我君臣,協和我骨肉。無令兄弟,自致嫌疑。」文舉拜謝而出,歸以白憲。憲指心撫几曰:「吾之夙心,公寧不悉,但當盡忠竭節耳,知復何言。」

建德三年、爵を進めて王となった。憲の友劉休徵が王箴一首を献じ、憲はこれを賞美した。休徵は後またこの箴を高祖に上った。高祖はちょうど諸弟の勢力を削ろうとしており、その文を大いに喜んだ。憲は常に兵書が繁広で、指要を求め難いと考え、自ら刊定して要略五篇とし、この時に至って表してこれを陳べた。高祖はこれを見て称善した。

原文 建德〈(二)〉〔三〕年,進爵為王。憲友劉休徵獻王箴一首,憲美之。休徵後又以此箴上高祖。高祖方剪削諸弟,甚悅其文。憲常以兵書繁廣,難求指要,乃自刊定為要略五篇,至是表陳之。高祖覽而稱善。

その秋、高祖(武帝)は雲陽宮に行幸し、やがて病に臥せられた。衛王宇文直が京師で兵を挙げて反乱を起こした。高祖は憲を召して言われた、「衛王が逆を構えていることを、汝は知っているか」。憲は答えて言った、「臣は初め知りませんでしたが、今詔を奉じて初めて知りました。直がもし天に逆らい順を犯すならば、これは自ら滅亡を招くものです」。高祖は言われた、「汝はただちに前軍となれ、我も続いて出発する」。直はまもなく敗走した。高祖が京師に到着すると、憲は趙王宇文招とともに参内して拝謝した。高祖は言われた、「管叔・蔡叔は誅戮され、周公は輔佐となった。人の心は同じからず、その顔の如しである。ただ兄弟が親しく干戈を交えることを、我としては不足と感じるのみである」。初め、直は内心ひそかに憲を忌み、憲はこれを隠して容認した。かつ帝の同母弟であることを以て、常に友愛と敬意を加えた。晉公宇文護が誅殺された時、直は固く憲をも処罰するよう請うた。高祖は言われた、「斉公(憲)の心の内は、我自ら詳しく知っている。さらに疑うべきではない」。文宣皇后が崩御されると、直はまた密かに上奏して言った、「憲は酒を飲み肉を食い、平素と異なることがありません」。高祖は言われた、「我と斉王は別の母から生まれ、ともに正嫡ではないが、特に我の意に叶い、今は喪服を着けることが同じである。汝はむしろこれを恥じるべきで、得失を論ずるべきではない。汝は太后の実子として、偏に慈愛を荷っている。今はただ自ら努めるべきで、他人をとやかく言う必要はない」。直はやっと止めた。

原文 其秋,高祖幸雲陽宮,遂寢疾。衞王直於京師舉兵反。高祖召憲謂曰:「衞王搆逆,汝知之乎?」憲曰:「臣初不知,今始奉詔。直若逆天犯順,此則自取滅亡。」高祖曰:「汝即為前軍,吾亦續發。」直尋敗走。高祖至京師,憲與趙王招俱入拜謝。高祖曰:「管蔡為戮,周公作輔,人心不同,有如其面。但愧兄弟親尋干戈,於我為不足耳。」初,直內深忌憲,憲隱而容之。且以帝之母弟,每加友敬。晉公護之誅也,直固請及憲。高祖曰:「齊公心迹,吾自悉之,不得更有所疑也。」及文宣皇后崩,直又密啟云:「憲飲酒食肉,與平日不異。」高祖曰:「吾與齊王異生,俱非正嫡,特為吾意,今袒括是同。汝當愧之,何論得失。汝親太后之子,偏荷慈愛。今但須自勗,無假說人。」直乃止。

四年(574年)、高祖は東征を企図され、独り内史王誼と謀り、他の者は誰も知らなかった。後に諸弟の才略が、憲の右に出る者がないことを以て、遂に彼に告げられた。憲はただちにこの事を賛成した。大軍が出動しようとする時、憲は上表して私財を献上し軍費を助けようとして言った、「臣は聞く、機に撫で運に適うは、理として時の来るを藉り、弱きを兼ね昧きを攻むるは、事として権道に資ると。伏して惟うに、陛下は明を継ぎ聖を作し、業を闡き風を弘め、天心に順わんと思し、武略を恢めんと用いられんとす。まさに長蛇を外に翦り、宇宙を大同にし、軍民内に向かい、車書混一せんとす。窃かに思うに、龍旗雷動し、天網雲布するに、芻粟糧餼は、あるいは周給を須いましょう。昔、辺隅未だ静かならず、卜式は家財を上ぐるを願い、江海澄まず、衛茲は私粟を献ずるを請う。臣は不敏ながらも、敢えて景行を忘れんや。謹んで金宝等一十六件を上り、少し軍資を助けんとす」。詔して受け取らず、かえって憲の上表を公卿に示して言われた、「人臣はかくあるべきである。朕はその心を貴ぶのみで、どうして物を須いようか」。そこで詔して憲に二万の兵を率いて前軍となり、黎陽に向かわせた。高祖は親しく河陰を包囲したが、陥落しなかった。憲は武済を攻め落とし、進軍して洛口を包囲し、その東西二城を占領した。高祖が病気のため、軍を返した。この年、初めて上柱国の官を置き、憲をこれに任じた。

原文 四年,高祖將欲東討,獨與內史王誼謀之,餘人莫得知也。後以諸弟才略,無出於憲右,遂告之。憲即贊成其事。及大軍將出,憲表上私財以助軍費曰:「臣聞撫機適運,理藉時來,兼弱攻昧,事資權道。伏惟陛下繼明作聖,闡業弘風,思順天心,用恢武略。方使長虵外翦,宇宙大同,軍民內向,車書混一。竊以龍旗雷動,天網雲布,芻粟糧餼,或須周給。昔邊隅未靜,卜式願上家財;江海不澄,衞茲請獻私粟。臣雖不敏,敢忘景行。謹上金寶等一十六件,少助軍資。」詔不納,而以憲表示公卿曰:「人臣當如此,朕貴其心耳,寧須物乎。」乃詔憲率眾二萬為前軍,趣黎陽。高祖親圍河陰,未克。憲攻拔武濟,進圍洛口,收其東西二城。以高祖疾,班師。是歲,初置上柱國官,以憲為之。

五年(575年)、大いに挙兵して東征し、憲は精騎二万を率い、再び前鋒となり、雀鼠谷を守った。高祖は親しく晋州を包囲された。憲は進軍して洪同・永安の二城を陥落させ、さらに進取を図った。斉人は橋を焼き険を守り、軍は進むことができず、遂に永安に駐屯した。斉主(後主高緯)は晋州が包囲されていると聞き、十万の兵を率いて自ら来援した。時に柱国・陳王宇文純は千里径に軍を頓え、大将軍・永昌公宇文椿は鶏棲原に屯し、大将軍宇文盛は汾水関を守り、ともに憲の節度を受けた。憲は密かに椿に言った、「兵は詭道なり、去留定まらず、機を見て作し、常に遵うべからず。汝は今営を為すに、幕を張るを須いず、柏を伐って菴と為し、形勢有るを示せ。兵去った後も、賊はなお疑いを致さん」。時に斉主は軍一万を分けて千里径に向かわせ、またその衆を出して汾水関に向かわせ、自ら大兵を率いて椿と対陣した。宇文盛が騎を馳せて急を告げると、憲は自ら千騎を以てこれを救った。斉人は谷中に塵の上がるのを見て、相率いて急ぎ退いた。盛は柱国侯莫陳芮とともに汾を渡ってこれを追い、多く斬獲があった。やがて椿が斉の衆が次第に迫ると告げると、憲はまた軍を回してこれに赴いた。ちょうど椿が勅を奉じて追還され、兵を率いて夜に返ることにあった。斉人は果たして柏の菴を帳幕と思い、軍の退くを疑わず、翌日になって初めて悟った。

原文 五年,大舉東討,憲率精騎二萬,復為前鋒,守雀鼠谷。高祖親圍晉州。憲進兵克洪同、永安二城,更圖進取。齊人焚橋守險,軍不得進,遂屯於永安。齊主聞晉州見圍,乃將兵十萬,自來援之。時柱國、陳王純頓軍千里徑,大將軍、永昌公椿屯雞棲原,大將軍宇文盛守汾水關,並受憲節度。憲密謂椿曰:「兵者詭道,去留不定,見機而作,不得遵常。汝今為營,不須張幕,可伐栢為菴,示有形勢。令兵去之後,賊猶致疑也。」時齊主分軍萬人向千里徑,又令其眾出汾水關,自率大兵與椿對陣。宇文盛馳騎告急,憲自以千騎救之。齊人望谷中塵起,相率遽退。盛與柱國侯莫陳芮涉汾逐之,多有斬獲。俄而椿告齊眾稍逼,憲又回軍赴之。會椿被勑追還,率兵夜返。齊人果謂栢菴為帳幕也,不疑軍退,翌日始悟。

時に高祖はすでに晋州を去り、憲を後詰めとして残された。斉主は自ら衆を率いて追撃し、高梁橋に至った。憲は精騎二千を以て、水を阻んで陣を布いた。斉の領軍段暢が真っ直ぐに進んで橋に至った。憲は水を隔てて暢を招き語り、語り終わって、憲は暢に問うて言った、「汝は何という名か」。暢は言った、「領軍段暢です。貴公はまたどなたですか」。憲は言った、「我は虞候大都督ととくに過ぎぬ」。暢は言った、「貴公の言語を観るに、凡人ではありません。今日相見えるに、何ぞその名位を隠す必要がありましょう」。陳王宇文純・梁公侯莫陳芮・内史王誼らがみな憲の側にいた。暢は固く問うてやまなかった。憲はそこで言った、「我は天子の太弟、斉王である」。陳王以下を指さし、みな名位を以て告げた。暢は鞭打って馬を去り、憲はただちに軍を返すことを命じた。すると斉人が急ぎこれを追い、戈甲甚だ鋭かった。憲は開府宇文忻と各々精卒百騎を統率して殿軍となり、これを拒ぎ、その驍ぎょう将賀蘭豹子・山褥瓌ら百余人を斬り、斉の衆はようやく退いた。憲は汾を渡り、高祖に玉壁で追いついた。

原文 時高祖已去晉州,留憲為後拒。齊主自率眾來追,至於高梁橋。憲以精騎二千,阻水為陣。齊領軍段暢直進至橋。憲隔水招暢與語,語畢,憲問暢曰:「若何姓名?」暢曰:「領軍段暢也。公復為誰?」憲曰:「我虞〈(侯)〉〔候〕大都督耳。」暢曰:「觀公言語,不是凡人,今日相見,何用隱其名位?」陳王純、梁公侯莫陳芮、內史王誼等並在憲側。暢固問不已。憲乃曰:「我天子太弟齊王也。」指陳王以下,並以名位告之。暢鞭馬而去,憲即命旋軍,而齊人遽追之,戈甲甚銳。憲與開府宇文忻各統精卒百騎為殿以拒之,斬其驍將賀蘭豹子、山褥瓌等百餘人,齊眾乃退。憲渡汾而及高祖於玉壁。

高祖はまた憲に兵六万を率い、還って晋州を救援するよう命じられた。憲はそこで進軍し、涑水に営した。斉主は晋州を攻囲し、昼夜息むことがなかった。間諜の還る者の中には、すでに陥落したと言う者もいた。憲はそこで柱国越王宇文盛・大将軍尉遅迥・開府宇文神挙らに軽騎一万を率い、夜に晋州に至らせた。憲は進軍して蒙坑を占拠し、その後詰めとなったが、城が未だ陥ちないことを知り、そこで涑川に帰った。まもなく高祖が東轅し、高顕に次いだ。憲は率いる所部を以て、先に晋州に向かった。翌日、諸軍が総集し、次第に城下に迫った。斉人もまた大いに出兵し、営の南に陣を布いた。高祖は憲を召し、馳せ往きてこれを観察させた。憲は返命して言った、「これは容易く対処できるものです。これを破ってから食事を請います」。帝は喜んで言われた、「汝の言う如くならば、我に憂いなし」。憲が退くと、内史柳虯がひそかに憲に言った、「賊も少なくありません。王はどうしてこれを軽んじられるのですか」。憲は言った、「憲は前鋒を委ねられ、情は家国を兼ねる。この逋寇を掃うことは、事、枯れ木を摧くに等しい。商周の事は、公の知るところである。賊兵は衆多といえども、我をどうすることもできまい」。やがて諸軍ともに進み、時に応じて大いに潰えた。その夜、斉主は遁走し、憲は軽騎を以てこれを追った。すでに永安に追いつくと、高祖が続いて到着した。斉人はその余衆を収め、再び高壁及び洛女砦を占拠した。高祖は憲に命じて洛女を攻めさせ、これを破った。翌日、大軍と介休で会合した。

原文 高祖又令憲率兵六萬,還援晉州。憲遂進軍,營于涑水。齊主攻圍晉州,晝夜不息。間諜還者,或云已陷。憲乃遣柱國越王盛、大將軍尉遲迥、開府宇文神舉等輕騎一萬夜至晉州。憲進軍據蒙坑,為其後援,知城未陷,乃歸涑川。尋而高祖東轅,次于高顯,憲率所部,先向晉州。明日,諸軍總集,稍逼城下。齊人亦大出兵,陣於營南。高祖召憲馳往觀之。憲返命曰:「是易與耳,請破之而後食。」帝悅曰:「如汝所言,吾無憂矣。」憲退,內史柳虯私謂憲曰:「賊亦不少,王安得輕之?」憲曰:「憲受委前鋒,情兼家國,掃此逋寇,事等摧枯。商周之事,公所知也,賊兵雖眾,其如我何。」既而諸軍俱進,應時大潰。其夜,齊主遁走,憲輕騎追之。既及永安,高祖續至。齊人收其餘眾,復據高壁及洛女砦。高祖命憲攻洛女,破之。明日,與大軍會於介休。

時に斉主はすでに鄴に走り、その従兄の安德王高延宗を留めて幷州を拠らせた。延宗はそこで僭偽の号を称え、出兵して拒戦した。高祖は進んでその城を包囲し、憲はその西面を攻め、これを陥落させた。延宗は遁走し、追撃してこれを捕らえた。功により第二子の安城公宇文質を河間王に進封し、第三子の宇文賨を大将軍に任じた。そこで詔して憲に先駆けして鄴に向かわせた。翌年、進んで鄴城ぎょうじょうを陥落させた。

原文 時齊主已走鄴,留其從兄安德王延宗據幷州。延宗因僭偽號,出兵拒戰。高祖進圍其城,憲攻其西面,克之。延宗遁走,追而獲之。以功進封第二子安城公質為河間王,拜第三子賨為大將軍。仍詔憲先驅趣鄴。明年,進克鄴城。

斉の任城王高湝・広寧王高孝珩らが信都を拠り、数万の衆を有していた。高祖はまた詔して憲にこれを討たせた。そこで斉主(捕虜の高緯)に手書を書かせて湝に与えさせた、「朝廷は緯を遇すること甚だ厚く、諸王も恙なし。叔(湝)もし甲を解くならば、優待せざることはない」。湝は受け入れず、かえって大いに賞募を開き、多く金帛を出し、沙門で戦士となろうとする者も数千人に及んだ。憲の軍が趙州を過ぎると、湝は間諜二人を遣わして形勢を窺わせた。斥候の騎兵がこれを捕らえて憲に白上した。憲はそこで斉の旧将を集め、彼らに遍く示した。また彼らに言った、「我の争うところは大であり、汝らにあるのではない。今汝らを放ち還す、ただちに我が使となりうるであろう」。そこで湝に書を送って言った、

原文 齊任城王湝、廣寧王孝珩等據守信都,有眾數萬。高祖復詔憲討之。仍令齊主手書與湝曰:「朝廷遇緯甚厚,諸王無恙。叔若釋甲,則無不優待。」湝不納,乃大開賞募,多出金帛,沙門求為戰士者,亦數千人。憲軍過趙州,湝令間諜二人覘窺形勢,候騎執以白憲。憲乃集齊之舊將,遍示之。又謂之曰:「吾所爭者大,不在汝等。今放汝還,可即充我使。」乃與湝書曰:

宇文憲は信都に至り、高湝は城南に陣を布いた。憲は張耳の塚に登ってこれを望見した。やがて高湝の任命した領軍尉相願が偽って陣を出て略奪するふりをし、ついに兵を率いて降伏した。相願は高湝の腹心であるから、兵たちは大いに驚き恐れた。高湝は大いに怒り、その妻子を殺した。翌日また戦い、ついにこれを破り、三万人を捕虜とし斬首し、高湝および高孝珩らを生け捕りにした。憲は高湝に言った、「任城王、何の苦しみがあってここまでなされたのか」。高湝は言った、「下官は神武帝(高歓)の子であり、兄弟十五人のうち、幸いにただ一人生き残った。宗廟社稷の覆るに逢い、今日死ぬことができれば、墳陵に愧じることはない」。憲はその言葉を壮とし、その妻子を帰らせ、手厚く資財を与えた。また孝珩に問うた。孝珩は国の難を述べ陳べ、言葉と涙ともに下り、俯仰に節度があり、憲もまたそのために顔色を改めた。

原文 憲至信都,湝陣於城南,憲登張耳冢以望之。俄而湝所署領軍尉相願偽出略陣,遂以眾降。相願,湝心腹也,眾甚駭懼。湝大怒,殺其妻子。明日復戰,遂破之,俘斬三萬人,擒湝及孝珩等。憲謂湝曰:「任城王何苦至此?」湝曰:「下官神武帝子,兄弟十五人,幸而獨存。逢宗社顛覆,今日得死,無愧墳陵。」憲壯之,命歸其妻子,厚加資給。又問孝珩。孝珩布陳國難,辭淚俱下,俯仰有節,憲亦為之改容。

憲はもとより謀略に長け、計算と策略が多く、特に撫御(慰撫統御)に長け、任使(人を使うこと)に通達しており、鋒を摧き陣を陷すに当たっては士卒に先んじ、群下は感悦し、皆そのために用いられた。斉の人々はかねてよりその威声を聞き、その勇略を憚らない者はなかった。幷州の勝利の後、敵境に長駆し、芻牧(飼料と放牧)を擾さず、軍に私利を図ることはなかった。

原文 憲素善謀,多算略,尤長於撫御,達於任使,摧鋒陷陣,為士卒先,羣下感悅,咸為之用。齊人夙聞威聲,無不憚其勇略。及幷州之捷,長驅敵境,蒭牧不擾,軍無私焉。

これより先、稽胡の劉沒鐸が自ら皇帝を称し、また詔があって憲に趙王宇文招らを督させて討伐平定させた。その話は稽胡伝にある。

原文 先是,稽胡劉沒鐸自稱皇帝,又詔憲督趙王招等討平之。語在稽胡傳。

憲は自ら威名が日増しに重くなることを以て、ひそかに退くことを考えた。高祖(宇文邕)が北蕃(突厥)に親征しようとしたとき、病気を理由に辞退した。高祖は顔色を変えて言った、「汝もし行くことを憚るなら、誰が朕の使者となるのか」。憲は恐れて言った、「臣が鑾輿(天子の車)に陪従することは、誠に本願であるが、ただ身に疹疾を患い、兵を率いるに堪えません」。帝はこれを許した。

原文 憲自以威名日重,潛思屏退。及高祖欲親征北蕃,乃辭以疾。高祖變色曰:「汝若憚行,誰為吾使?」憲懼曰:「臣陪奉鑾輿,誠為本願,但身嬰疹疾,不堪領兵。」帝許之。

まもなく高祖が崩御し、宣帝(宇文贇)が位を嗣いだ。宣帝は憲が尊属であり声望が重いことを以て、深く忌み憚った。当時高祖は未だ葬られておらず、諸王は宮中で喪服を着て務めていた。司衞えい長孫覧が兵を総べ政を輔けていたが、諸王に異心があるとして、開府于智にその動静を察させるよう奏上した。高祖の山陵(葬儀)から戻ると、諸王は邸宅に帰った。帝はまた于智に命じて憲の邸宅に行き様子をうかがわせ、これによって憲に謀反があると告げさせた。帝は小冢宰宇文孝伯を遣わして憲に言わせた、「三公の位は、親族の賢者に属すべきである。今、叔父(憲)を太師とし、九叔父(宇文純か)を太傅とし、十一叔父(宇文達か)を太保としたいと思うが、叔父はどう思われるか」。憲は言った、「臣は才能軽く位重く、満ち溢れることを懼れている。三師の任は、敢えて当たるべきではない。かつ太祖(宇文泰)の勲臣が、この挙に応ずべきである。もし専ら臣の兄弟を用いるならば、恐らく世間の議論に背くでしょう」。孝伯が返命すると、まもなくまた来て言った、「詔により王は遅くとも諸王とともに殿門に至られよ」。憲だけが引き入れられ、帝はあらかじめ別室に壮士を伏せておき、到着するや即座にこれを捕らえた。憲は言葉と顔色を撓めず、固く自ら陳説した。帝は于智に憲に対面させた。憲の目光は炬火の如く、于智と対質した。ある者が憲に言った、「王の今日の事勢をもってすれば、何のために多くを言う必要があろう」。憲は言った、「我は位重く属尊く、一朝ここに至り、死生は天命にあり、どうして再び生き延びることを図ろうか。ただ老母が堂に在り、この恨みを残すことを恐れるのみである」。そこで笏を地に擲った。そして絞殺した。時に年三十五。于智を柱国とし、齊国公に封じた。また上大将軍安邑公王興、上開府獨孤熊、開府豆盧紹らを殺した。皆、憲に親しかったためである。帝は憲を誅した後、口実がなかったので、故に王興らが憲と謀を結んだと仮託し、ついにその誅戮を加えたのである。当時の人はその冤酷を知り、皆、憲に伴って死んだと言った。

原文 尋而高祖崩,宣帝嗣位,以憲屬尊望重,深忌憚之。時高祖未葬,諸王在內治服。司衞長孫覽總兵輔政,而諸王有異志,奏令開府于智察其動靜。及高祖山陵還,諸王歸第。帝又命智就宅候憲,因是告憲有謀。帝乃遣小冢宰宇文孝伯謂憲曰:「三公之位,宜屬親賢,今欲以叔為太師,九叔為太傅,十一叔為太保,叔以為何如?」憲曰:「臣才輕位重,滿盈是懼。三師之任,非所敢當。且太祖勳臣,宜膺此舉。若專用臣兄弟,恐乖物議。」孝伯反命,尋而復來曰:「詔王晚共諸王俱至殿門。」憲獨被引進,帝先伏壯士於別室,至即執之。憲辭色不撓,固自陳說。帝使于智對憲。憲目光如炬,與智相質。或謂憲曰:「以王今日事勢,何用多言?」憲曰:「我位重屬尊,一旦至此,死生有命,寧復圖存。但以老母在堂,恐留茲恨耳。」因擲笏於地。乃縊之。時年三十五。以于智為柱國,封齊國公。又殺上大將軍安邑公王興、上開府獨孤熊、開府豆盧紹等,皆以昵於憲也。帝既誅憲,無以為辭,故託興等與憲結謀,遂加其戮。時人知其冤酷,咸云伴憲死也。

憲の生母の達歩干氏は、茹茹(柔然)の人である。建徳三年、斉国太妃に冊立された。憲は至性(天性の誠実)があり、母に仕えること孝行をもって知られた。太妃はかねて風熱の病を患い、たびたび発作があった。憲は衣を解かず帯を緩めず、左右に付き添って侍った。憲が東西に出役することがあると、いつも心が驚き、その母には必ず病気があり、急ぎ使者を走らせて様子を尋ねさせると、果たして慮った通りであった。憲に六人の子があった。貴、質、賨、貢、乾禧、乾洽である。

原文 憲所生母達步干氏,茹茹人也。建德三年,冊為齊國太妃。憲有至性,事母以孝聞。太妃舊患風熱,屢經發動,憲衣不解帶,扶侍左右。憲或東西從役,每心驚,其母必有疾,乃馳使參問,果如所慮。憲六子,貴、質、賨、貢、乾禧、乾洽。

貴は字を乾福といい、幼少より聡明で、経史に渉猟し、特に騎射に巧みであった。初めて孝経を読んだとき、人に言った、「この一経を読めば、立身の根本として十分である」。天和四年、わずか十歳で安定郡公に封ぜられ、邑一千五百戸を賜った。太祖(宇文泰)が初めて丞相となったとき、この郡を封じ始め、未だ他人に与えたことがなかったが、この時に至って貴に封じたのである。十一歳の時、憲に従って塩州で狩猟し、一囲いの中で、手ずから野馬および鹿十五頭を射た。建徳二年、斉国世子に冊立された。四年、車騎大将軍・儀同三司を授けられた。まもなく出て豳州刺史となった。貴は深宮の出ながら、庶政(民政)に心を留めた。性質聡敏で、目に過ぎたものは即座に記憶した。かつて道で二人に出会い、その左右に言った、「この人は県の党(同郷の者)であるが、どうして勝手に行くのか」。左右は識らなかったが、貴はその姓名を言い当て、誰もが嘆服した。白獣烽がかつて商人に焼かれたことがあり、烽帥(烽火台の長)が賄賂を受け取り、その罪を言わなかった。ある日、この烽帥が例に従って参上したとき、貴は問うて言った、「商人が烽を焼いたのに、どうして私的に放免したのか」。烽帥は愕然とし、すぐに自白した。その明察はこのようなものであった。五年四月に卒去した。年十七。高祖は大いに痛惜した。

原文 貴字乾福,少聰敏,涉獵經史,尤便騎射。始讀孝經,便謂人曰:「讀此一經,足為立身之本。」天和四年,始十歲,封安定郡公,邑一千五百戶。太祖之初為丞相也,始封此郡,未嘗假人,至是封貴焉。年十一,從憲獵於鹽州,一圍之中,手射野馬及鹿十有五頭。建德二年,冊拜齊國世子。四年,授車騎大將軍、儀同三司。尋出為豳州刺史。貴雖出自深宮,而留心庶政。性聰敏,過目輒記。嘗道逢二人,謂其左右曰:「此人是縣黨,何因輒行?」左右不識,貴便說其姓名,莫不嗟伏。白獸烽經為商人所燒,烽帥納貨,不言其罪。他日,此帥隨例來參,貴乃問云:「商人燒烽,何因私放?」烽帥愕然,遂即首服。其明察如此。五年四月卒,年十七。高祖甚痛惜之。

質は字を乾祐といい、初め安城公に封ぜられた。後に憲の勲功により、河間郡王に進封された。賨は字を乾礼といい、大将軍・中垻公となった。貢は莒荘公(宇文洛生)の後を嗣いだ。乾禧は安城公、乾洽は龍涸公となった。皆、憲とともに誅殺された。

原文 質字乾祐,初封安城公。後以憲勳,進封河間郡王。賨字乾禮,大將軍、中垻公。貢出後莒莊公。乾禧,安城公。乾洽,龍涸公。並與憲俱被誅。

史臣が言う。両漢より魏・晋に至るまで、帝弟帝子は多いが、ただ楚元王(劉交)、河間献王(劉徳)、東平憲王(劉蒼)、陳思王(曹植)の徒が文儒をもって美名を広め、任城威王(曹彰)、琅邪王(司馬伷)が武功をもって名声を馳せた。なぜか。体は尊極にあり、宮闈に長じ、佚楽がその心を奢らせ、驕貴がその志を蕩かす。故に奇才高行は、ついに天下の士の中では少なかったのである。斉王(宇文憲)は奇姿傑出し、ただ一人で前代の人物を網羅した。介弟(皇帝の弟)の地にあり、上将の重きを居ながら、智勇は世に冠たり、攻戦は神の如し。敵国はその存亡をこれに繋ぎ、鼎命(帝位)はその軽重をこれに由った。これを異姓に比すれば、方叔・召虎・韓信かんしん・白起といえども、どうしてこれに加えられようか。震主の威を挟み、道の消えんとする日に属して、この人にしてこの戮に嬰る。君子はここをもって周の祚の永からざるを知るのである。昔、張耳・陳餘の賓客厮役でさえ、その居たところ皆卿相を取った。そして斉王の文武の僚吏も、その後多く台牧(高官)に至った。異なる世ながら同じ符節を得る。賢いと言うべきである。

原文 史臣曰:自兩漢逮乎魏、晉,其帝弟帝子眾矣,唯楚元、河間、東平、陳思之徒以文儒播美,任城、琅邪以武功馳譽。何則?體自尊極,長於宮闈,佚樂侈其心,驕貴蕩其志,故使奇才高行,終鮮於天下之士焉。齊王奇姿傑出,獨牢籠於前載。以介弟之地,居上將之重,智勇冠世,攻戰如神,敵國繫以存亡,鼎命由其輕重。比之異姓,則方、召、韓、白,何以加茲。挾震主之威,屬道消之日,斯人而嬰斯戮,君子是以知周祚之不永也。昔張耳、陳餘賓客厮役,所居皆取卿相。而齊之文武僚吏,其後亦多至台牧。異世同符,可謂賢矣。