周書

巻002

卷二 帝紀第二 文帝下

西魏の大統元年(535年)春正月己酉の日、太祖(宇文泰)を中外諸軍事を督し、尚書事を録し、大行臺に進め、安定郡王に改封した。太祖は固く王号及び尚書事録を辞退したので、魏帝(文帝)はこれを許し、安定郡公に改封した。東魏がその将司馬子如を遣わして潼関を侵すと、太祖は軍を覇上に駐め、子如は軍を返して蒲津より華州を侵したが、刺史の王羆がこれを撃退した。

原文 魏大統元年春正月己酉,進太祖督中外諸軍事、錄尚書事、大行臺,改封安定郡王。太祖固讓王及錄尚書事,魏帝許之,乃改封安定郡公。東魏遣其將司馬子如寇潼關,太祖軍霸上,子如乃回軍自蒲津寇華州,刺史王羆擊走之。

三月、太祖は兵役が頻繁に起こり、民と官吏が疲弊しているのを以て、司に命じて古今を斟酌し、変通を参考にし、国を益し民を利し時に便し治に適するものを、二十四条の新制と為し、魏帝に奏上して施行させた。

原文 三月,太祖以戎役屢興,民吏勞弊,乃命所司斟酌今古,參考變通,可以益國利民便時適治者,為二十四條新制,奏魏帝行之。

二年(536年)春三月、東魏が夏州を襲撃して陥落させ、その将張瓊・許和を留めてこれを守らせた。

原文 二年春三月,東魏襲陷夏州,留其將張瓊、許和守之。

夏五月、秦州刺史・建中王の万俟普撥が率いる所部を率いて叛き、東魏に入った。太祖は軽騎を率いてこれを追い、河北(黄河の北)千余里に至ったが、及ばずして還った。

原文 夏五月,秦州刺史、建中王万俟普撥率所部叛入東魏。太祖勒輕騎追之,至河北千餘里,不及而還。

三年(537年)春正月、東魏が竜門を侵し、軍を蒲坂に屯し、三道の浮橋を造って黄河を渡った。またその将竇泰を遣わして潼関に向かわせ、高敖曹に洛州を包囲させた。太祖は広陽に出軍し、諸将を召して言った。「賊は今、我が三面を掣し、また河に橋を造り、必ず渡ることを示している。これは我が軍を繋ぎ止め、竇泰をして西に入らせようとするのである。長く相持すれば、その計は成る。良策ではない。かつ高歓が起兵して以来、泰は常に先鋒を為し、その下には鋭卒多く、屡勝して驕っている。今、その不意を衝いて襲えば、必ず克つ。泰を克てば、歓は戦わずして自ら走るであろう。」諸将は皆言った。「賊は近くにあり、これを捨てて遠くを襲う。事もし蹉跌すれば、悔ゆるも及ばない。」太祖は言った。「歓は前に再び潼関を襲ったが、我が軍は覇上を過ぎなかった。今は大いに来たりしも、兵は郊外に出でず。賊は我がただ自ら守るのみと謂い、遠く闘う意なしと思い込んでいる。また得志に慣れ、我を軽んずる心あり。これに乗じて撃てば、何処へ往って克たざらん。賊は橋を造れども、直ちに渡ることはできぬ。この五日の中に、我は竇泰を必ず取る。公等は疑うなかれ。」庚戌の日、太祖は騎兵六千を率いて長安ちょうあんに還り、隴右を保たんと欲すると声言した。辛亥の日、帝に謁して潜かに軍を出した。癸丑の日朝、小関に至った。竇泰の軍卒、軍の至るを聞き、惶懼し、山に依って陣を為さんとしたが、未だ列を成さず、太祖は兵を縦してこれを撃破し、その衆万余を尽く俘虜にした。泰を斬り、その首を長安に伝送した。高敖曹は丁度洛州を陥落させ、刺史の泉企を捕らえていたが、泰の死を聞き、輜重を焼き城を棄てて走った。斉の神武帝(高歓)もまた橋を撤して退いた。企の子元礼は間もなく洛州を回復し、東魏の刺史杜密を斬った。太祖は軍を長安に還した。

原文 三年春正月,東魏寇龍門,屯軍蒲坂,造三道浮橋度河。又遣其將竇泰趣潼關,高敖曹圍洛州。太祖出軍廣陽,召諸將曰:「賊今掎吾三面,又造橋於河,示欲必渡,是欲綴吾軍,使竇泰得西入耳。久與相持,其計得行,非良策也。且歡起兵以來,泰每為先驅,其下多銳卒,屢勝而驕。今出其不意,襲之必克。克泰則歡不戰而自走矣。」諸將咸曰:「賊在近,捨而遠襲,事若蹉跌,悔無及也。」太祖曰:「歡前再襲潼關,吾軍不過霸上。今者大來,兵未出郊。賊顧謂吾但自守耳,無遠鬭意。又狃於得志,有輕我之心。乘此擊之,何往不克。賊雖造橋,不能徑渡。此五日中,吾取竇泰必矣。公等勿疑。」庚戌,太祖率騎六千還長安,聲言欲保隴右。辛亥,謁帝而潛出軍。癸丑旦,至小關。竇泰卒聞軍至,惶懼,依山為陣,未及成列,太祖縱兵擊破之,盡俘其眾萬餘人。斬泰,傳首長安。高敖曹適陷洛州,執刺史泉企,聞泰之歿,焚輜重棄城走。齊神武亦撤橋而退。企子元禮尋復洛州,斬東魏刺史杜密。太祖還軍長安。

六月、儀同の于謹を遣わして楊氏壁を取らせた。太祖は行臺の罷免を請うたが、帝は再び前の命を申し述べ、太祖は尚書事録を受けたが、その他は固く辞退したので、止めた。

原文 六月,遣儀同于謹取楊氏壁。太祖請罷行臺,帝復申前命,太祖受錄尚書事,餘固讓,乃止。

秋七月、兵を徴発して咸陽に会した。

原文 秋七月,徵兵會咸陽。

八月丁丑の日、太祖は李弼・独孤信・梁禦・趙貴・于謹・若干惠・怡峯・劉亮・王悳・侯莫陳崇・李遠・達奚武ら十二将を率いて東伐した。潼関に至り、太祖は師に誓って言った。「爾ら衆有る者とともに、天威を奉じ、暴乱を誅す。惟れ爾ら士は、爾らの甲兵を整え、爾らの戎事を戒め、財を貪りて敵を軽んじ、民を暴にして威を作すことなかれ。命を用いれば賞有り、命を用いざれば戮有り。爾ら衆士、それ勉めよ。」于謹を軍の前に居らせ、地を狥って槃豆に至った。東魏の将高叔礼が柵を守って下らなかったが、謹が急攻したので、降った。その戍卒一千を獲、叔礼を長安に送った。戊子の日、弘農に至った。東魏の将高干・陝州刺史の李徽伯が拒んで守った。時に雨が連続したので、太祖は諸軍に命じて雨を冒して攻撃させた。庚寅の日、城は潰え、徽伯を斬り、その戦士八千を虜にした。高干は走って河を渡ったので、賀抜勝に命じて追撃させてこれを擒にし、共に長安に送った。ここにおいて宜陽・邵郡は皆来たりて帰附した。先に河南の豪傑多く兵を聚めて東魏に応じていたが、この時に至り各々率いる所部を率いて来降した。

原文 八月丁丑,太祖率李弼、獨孤信、梁禦、趙貴、于謹、若干惠、怡峯、劉亮、王悳、侯莫陳崇、李遠、達奚武等十二將東伐。至潼關,太祖乃誓於師曰:「與爾有眾,奉天威,誅暴亂。惟爾士,整爾甲兵,戒爾戎事,無貪財以輕敵,無暴民以作威。用命則有賞,不用命則有戮。爾眾士其勉之。」遣于謹居軍前,狥地至槃豆。東魏將高叔禮守柵不下,謹急攻之,乃降。獲其戍卒一千,送叔禮於長安。戊子,至弘農。東魏將高干、陝州刺史李徽伯拒守。於時連雨,太祖乃命諸軍冒雨攻之。庚寅,城潰,斬徽伯,虜其戰士八千。高干走度河,令賀拔勝追擒之,並送長安。於是宜陽、邵郡皆來歸附。先是河南豪傑多聚兵應東魏,至是各率所部來降。

斉の神武帝は懼れ、衆十万を率いて壺口より出で、蒲坂に向かい、将に後土より渡らんとした。またその将高敖曹を遣わして三万人を率いて河南より出させた。この年、関中は飢饉であった。太祖は弘農を平定した後、館穀すること五十余日であった。時に戦士は万人に満たず、斉の神武帝が渡河せんとするを聞き、乃ち軍を率いて関に入った。斉の神武帝は遂に河を渡り、華州を逼った。刺史の王羆が厳しく守った。攻め難きを知り、乃ち洛水を渡り、許原の西に軍した。太祖は渭水の南に拠り、諸州の兵を徴発したが皆未だ会せず。乃ち諸将を召してこれに謂って言った。「高歓は山を越え河を渡り、遠く来たりて此に至る。天の亡ぼす時なり。我これに撃たんと欲するは如何。」諸将は皆衆寡敵せずとし、歓の更に西するを待ち、その勢いを観んことを請うた。太祖は言った。「歓もし咸陽に至るを得ば、人情転た騒擾せん。今その新たに至るに及びて、便ちこれを撃つべし。」即ち渭水に浮橋を造り、軍人に三日の糧を齎させ、軽騎で渭水を渡り、輜重は渭水の南より渭水に夾まれて西進させた。

原文 齊神武懼,率眾十萬出壺口,趨蒲坂,將自后土濟。又遣其將高敖曹以三萬人出河南。是歲,關中饑。太祖既平弘農,因館穀五十餘日。時戰士不滿萬人,聞齊神武將度,乃引軍入關。齊神武遂度河,逼華州。刺史王羆嚴守。知不可攻,乃涉洛,軍於許原西。太祖據渭南,徵諸州兵皆〔未〕會。乃召諸將謂之曰:「高歡越山度河,遠來至此,天亡之時也。吾欲擊之何如?」諸將咸以眾寡不敵,請待歡更西,以觀其勢。太祖曰:「歡若得至咸陽,人情轉騷擾。今及其新至,便可擊之。」即造浮橋於渭,令軍人齎三日糧,輕騎度渭,輜重自渭南夾渭而西。

冬十月壬辰の日、沙苑に至り、斉の神武帝の軍より六十余里に距った。斉の神武帝は太祖の至るを聞き、軍を引いて来会した。癸巳の日朝、斥候騎が斉の神武帝の軍将に至らんと告げた。太祖は諸将を召してこれを謀った。李弼が言った。「彼は衆、我は寡。平地に陣を置くべからず。この東十里に渭曲有り。先ずこれを拠りて以てこれを待つべし。」遂に軍を進めて渭曲に至り、水を背にし東西に陣を為した。李弼を右拒と為し、趙貴を左拒と為した。将士に命じて皆戈を葭蘆の中に偃せしめ、鼓の声を聞いて起たしめた。申の時、斉の神武帝が至り、太祖の軍少なるを望み、競い馳せて進み、行列を為さず、総て左軍に萃まった。兵将まさに交わらんとする時、太祖は鼓を鳴らし、士は皆奮い起った。于謹ら六軍がこれと合戦し、李弼らが鉄騎を率いて横撃し、その軍を絶って二隊と為し、大いにこれを破り、六千余級を斬り、陣に臨み降る者二万余人。斉の神武帝は夜遁し、河上まで追撃し、再び大いに克ち獲ること多かった。前後その卒七万を虜にした。その甲士二万を留め、余は悉く帰し放った。その輜重兵甲を収め、俘虜を長安に献じた。軍を渭南に還し、ここにおいて徴発した諸州の兵が初めて至った。乃ち戦った所に於いて、当時の兵士に准え、人ごとに樹一株を植え、武功を旌した。太祖を柱国大将軍に進め、邑を増して前と併せて五千戸とした。李弼ら十二将もまた爵を進め邑を増やした。並びにその下の将士、賞各々差有り。

原文 冬十月壬辰,至沙苑,距齊神武軍六十餘里。齊神武聞太祖至,引軍來會。癸巳旦,候騎告齊神武軍且至。太祖召諸將謀之。李弼曰:「彼眾我寡,不可平地置陣。此東十里有渭曲,可先據以待之。」遂進軍至渭曲,背水東西為陣。李弼為右拒,趙貴為左拒。命將士皆偃戈於葭蘆中,聞鼓聲而起。申時,齊神武至,望太祖軍少,競馳而進,不為行列,總萃於左軍。兵將交,太祖鳴鼓,士皆奮起。于謹等六軍與之合戰,李弼等率鐵騎橫擊之,絕其軍為二隊,大破之,斬六千餘級,臨陣降者二萬餘人。齊神武夜遁,追至河上,復大克獲。前後虜其卒七萬。留其甲士二萬,餘悉縱歸。收其輜重兵甲,獻俘長安。還軍渭南,於是所徵諸州兵始至。乃於戰所,准當時兵士,人種樹一株,以旌武功。進太祖柱國大將軍,增邑并前五千戶。李弼等十二將亦進爵增邑。并其下將士,賞各有差。

左僕射・馮翊王の元季海を行臺と為し、開府の独孤信とともに歩騎二万を率いて洛陽らくように向かわせた。洛州刺史の李顯を荊州に向かわせた。賀抜勝・李弼に河を渡らせて蒲坂を包囲させた。牙門将の高子信が門を開いて勝の軍を納れたので、東魏の将薛崇禮は城を棄てて走り、勝らが追撃してこれを獲た。太祖は軍を進めて蒲坂に至り、汾・絳を略定した。ここにおいて許和が張瓊を殺して夏州を以て降った。初め、太祖が弘農より関に入った後、東魏の将高敖曹が弘農を包囲したが、その軍敗れたるを聞き、退いて洛陽を守った。独孤信が新安に至ると、敖曹は再び走って河を渡り、信は遂に洛陽に入った。東魏の潁川長史の賀若統と密県の人張儉が刺史の田迅を執り城を挙げて降った。滎陽けいようの鄭栄業・鄭偉らが梁州を攻め、その刺史鹿永吉を擒にした。清河の人崔彦穆・檀琛が滎陽を攻め、その郡守蘇定を擒にした。皆来たりて附した。梁・陳より以西、将吏降る者相属した。

原文 遣左僕射、馮翊王元季海為行臺,與開府獨孤信率步騎二萬向洛陽;洛州刺史李顯趨荊州;賀拔勝、李弼渡河圍蒲坂。牙門將高子信開門納勝軍,東魏將薛崇禮棄城走,勝等追獲之。太祖進軍蒲坂,略定汾、絳。於是許和殺張瓊以夏州降。初,太祖自弘農入關後,東魏將高敖曹圍弘農,聞其軍敗,退守洛陽。獨孤信至新安,敖曹復走度河,信遂入洛陽。東魏潁川長史賀若統與密縣人張儉執刺史田迅舉城降。滎陽鄭榮業、鄭偉等攻梁州,擒其刺史鹿永吉;清河人崔彥穆、檀琛攻滎陽,擒其郡守蘇定:皆來附。自梁、陳已西,將吏降者相屬。

ここにおいて東魏の将堯雄・趙育・是云寶が潁川より出で、降伏した地を回復せんとす。太祖は儀同宇文貴・梁遷らを遣わして迎撃し、これを大破す。趙育は来降す。東魏はまた将任祥を遣わし河南の兵を率いて雄と合わさしむ。儀同怡峯は貴・遷らとともに再びこれを撃破す。また都督ととく韋孝寛を遣わして豫よ州を取らしむ。是云寶はその東揚州刺史那椿を殺し、州を挙げて来附す。

原文 於是東魏將堯雄、趙育、是云寶出潁川,欲復降地。太祖遣儀同宇文貴、梁遷等逆擊,大破之。趙育來降。東魏復遣將任祥率河南兵與雄合,儀同怡峯與貴、遷等復擊破之。又遣都督韋孝寬取豫州。是云寶殺其東揚州刺史那〈(樁)〉〔椿〕,以州來附。

四年春三月、太祖は諸将を率いて朝に入る。礼畢りて、華州に還る。

原文 四年春三月,太祖率諸將入朝。禮畢,還華州。

七月、東魏はその将侯景・厙狄干・高敖曹・韓軌・可朱渾元・莫多婁貸文らを遣わし、独孤信を洛陽に囲む。斉の神武はその後を継ぐ。これに先立ち、魏帝は洛陽に行幸し園陵を拝せんとし、ちょうど信が囲まれたので、詔して太祖に軍を率いて信を救わしめ、魏帝もまた東す。

原文 七月,東魏遣其將侯景、厙狄干、高敖曹、〈(元)〉〔韓〕軌、可朱渾元、莫多婁貸文等圍獨孤信於洛陽。齊神武繼其後。先是,魏帝將幸洛陽拜園陵,會信被圍,詔太祖率軍救信,魏帝亦東。

八月庚寅、太祖は穀城に至る。莫多婁貸文・可朱渾元が来て迎え撃つ。陣に臨み貸文を斬り、元は単騎で遁れて免れ、その衆を悉く虜にして弘農に送る。すなわち軍を進めて瀍東に至る。この夕べ、魏帝は太祖の営に幸す。ここにおいて景らは夜に囲みを解き去る。旦に及び、太祖は軽騎を率いてこれを追い、河上に至る。景らは北に河橋を拠り、南は邙山に属して陣を為し、諸軍と合戦す。太祖の馬が流れ矢に中り、驚き逸れて、遂に行く所を失い、ここにおいて軍中擾乱す。都督李穆は下馬して太祖に授け、軍は以て復た振るう。ここにおいて大捷し、高敖曹及びその儀同李猛・西兗州刺史宋顕らを斬り、その甲士一万五千を虜にし、河に赴いて死する者万数を以て数う。

原文 八月庚寅,太祖至穀城,莫多婁貸文、可朱渾元來逆,臨陣斬貸文,元單騎遁免,悉虜其眾送弘農。遂進軍𤄊東。是夕,魏帝幸太祖營,於是景等夜解圍去。及旦,太祖率輕騎追之,至於河上。景等北據河橋,南屬邙山為陣,與諸軍合戰。太祖馬中流矢,驚逸,遂失所之,因此軍中擾亂。都督李穆下馬授太祖,軍以復振。於是大捷,斬高敖曹及其儀同李猛、西兗州刺史宋顯等,虜其甲士一萬五千,赴河死者以萬數。

この日、陣を置くこと既に大きく、首尾懸け遠く、旦より未に至るまで、数十合戦い、氛霧四塞し、互いに知ること能わず。独孤信・李遠は右に居り、趙貴・怡峯は左に居り、戦い並びに利あらず、また魏帝及び太祖の所在を知らず、皆その卒を棄てて先に帰る。開府李虎・念賢らは後軍たり、信らの退くに遇い、即ちこれと俱に還る。ここにおいて乃ち師を班し、洛陽もまた守りを失う。大軍弘農に至る。守将は皆既に城を棄て西走す。虜にしたる降卒にして弘農に在る者は、相与に門を閉ざして拒み守る。進攻してこれを抜き、その魁首数百人を誅す。

原文 是日,置陣既大,首尾懸遠,從旦至未,戰數十合,氛霧四塞,莫能相知。獨孤信、李遠居右,趙貴、怡峯居左,戰並不利,又未知魏帝及太祖所在,皆棄其卒先歸。開府李虎、念賢等為後軍,遇信等退,即與俱還。由是乃班師,洛陽亦失守。大軍至弘農,守將皆已棄城西走。所虜降卒在弘農者,因相與閉門拒守。進攻拔之,誅其魁首數百人。

大軍の東伐するや、関中の留守兵少なく、而して前後に虜にしたる東魏の士卒は、皆民間に散在し、乃ち乱を謀る。李虎らの長安に至るや、計る所無く、乃ち公卿とともに魏の太子を輔け出でて渭北に次す。関中大いに震恐し、百姓相剽劫す。ここにおいて沙苑に俘えし軍人趙青雀・雍州の民于伏德ら遂に反す。青雀は長安の子城に拠り、伏德は咸陽を保ち、太守慕容思慶と各々降卒を収め、以て還師を拒ぐ。長安の大城の民は皆相率いて青雀を拒ぎ、毎日接戦す。魏帝は閿郷に留まり止まり、太祖を遣わしてこれを討たしむ。長安の父老、太祖の至るを見て、悲しみ且つ喜びて曰く、「意わざらん今日復た公を見ることを得んとは」と。士女咸く相賀す。華州刺史の導は軍を率いて咸陽を襲い、思慶を斬り、伏德を擒にし、南に渭を度り太祖と会して青雀を攻め、これを破る。太傅梁景睿は先に疾を以て長安に留まり、遂に青雀と通謀し、ここに至りてまた伏誅す。関中ここにおいて乃ち定まる。魏帝は長安に還り、太祖は復た華州に屯す。

原文 大軍之東伐也,關中留守兵少,而前後所虜東魏士卒,皆散在民間,乃謀為亂。及李虎等至長安,計無所出,乃與公卿輔魏太子出次渭北。關中大震恐,百姓相剽劫。於是沙苑所俘軍人趙青雀、雍州民于伏德等遂反。青雀據長安子城,伏德保咸陽,與太守慕容思慶各收降卒,以拒還師。長安大城民皆相率拒青雀,每日接戰。魏帝留止閿鄉,遣太祖討之。長安父老見太祖至,悲且喜曰:「不意今日復得見公!」士女咸相賀。華州刺史導率軍襲咸陽,斬思慶,擒伏德,南度渭與太祖會攻青雀,破之。太傅梁景睿先以疾留長安,遂與青雀通謀,至是亦伏誅。關中於是乃定。魏帝還長安,太祖復屯華州。

冬十一月、東魏の将侯景、広州を攻め陥す。

原文 冬十一月,東魏將侯景攻陷廣州。

十二月、是云寶、洛陽を襲い、東魏の将王元軌は城を棄てて走る。都督趙剛、広州を襲い、これを抜く。襄・広以西の城鎮より復た内属す。

原文 十二月,是云寶襲洛陽,東魏將王元軌棄城走。都督趙剛襲廣州,拔之。自襄、廣以西城鎮復內屬。

五年冬、華陰に大いに閲す。

原文 五年冬,大閱於華陰。

六年春、東魏の将侯景、三鵶より出で、将に荊州を侵さんとす。太祖は開府李弼・独孤信を遣わし各々騎五千を率いて武関より出でしむ。景は乃ち退き還る。

原文 六年春,東魏將侯景出三鵶,將侵荊州,太祖遣開府李弼、獨孤信各率騎五千出武關,景乃退還。

夏、茹茹、河を度り夏州に至る。太祖は諸軍を召して沙苑に屯せしめ以てこれを備う。

原文 夏,茹茹度河至夏州,太祖召諸軍屯沙苑以備之。

七年春三月、稽胡の帥・夏州刺史劉平伏、上郡に拠りて叛く。開府于謹を遣わしてこれを討ち平らぐ。

原文 七年春三月,稽胡帥、夏州刺史劉平伏據上郡叛,遣開府于謹討平之。

冬十一月、太祖、十二條の制を行わんことを奏す。百官の職事に勉めざるを恐れ、また令を下してこれを申明す。

原文 冬十一月,太祖奏行十二條制,恐百官不勉於職事,又下令申明之。

八年夏四月、馬牧に諸軍を大会す。

原文 八年夏四月,大會諸軍於馬牧。

冬十月、斉の神武、汾・絳を侵し、玉壁を囲む。太祖は軍を出だし蒲坂に至り、将にこれを撃たんとす。軍、皂莢に至り、斉の神武退く。太祖は汾を度りてこれを追い、遂に遁れ去る。

原文 冬十月,齊神武侵汾、絳,圍玉壁。太祖出軍蒲坂,將擊之。軍至皂莢,齊神武退。太祖度汾追之,遂遁去。

十二月、魏帝は華陰に狩猟し、将兵を大いに饗応した。太祖は諸将を率いて行在所に朝謁した。

原文 十二月,魏帝狩於華陰,大饗將士。太祖率諸將朝於行在所。

九年春、東魏の北豫州刺史高仲密が州を挙げて来附した。太祖は軍を率いてこれを迎え、開府李遠を前軍とした。洛陽に至り、開府于謹を遣わして栢谷塢を攻撃させ、これを陥落させた。

原文 九年春,東魏北豫州刺史高仲密舉州來附,太祖帥師迎之,令開府李遠為前軍。至洛陽,遣開府于謹攻栢谷塢,拔之。

三月、斉の神武帝が河北に至った。太祖は軍を𤄊上に還してこれを誘引した。斉の神武帝は果たして河を渡り、邙山を占拠して陣を布き、数日間進まなかった。太祖は輜重を𤄊曲に留め、兵士は皆枚を銜み、夜に邙山に登った。未明にこれを撃ち、斉の神武帝は単騎で賀抜勝に追われ、辛うじて免れた。太祖は右軍の若干惠らを率いて斉の神武帝の軍を大破し、その歩卒を悉く捕虜とした。趙貴ら五将軍は左翼に在ったが、戦い利あらず。斉の神武帝の軍が再び合し、太祖もまた利あらず、夜になって引き還った。関に入ると、渭上に屯した。斉の神武帝は進んで陝に至ったが、開府達奚武らが軍を率いてこれを防ぎ、退いた。太祖は邙山の戦いにおいて諸将が軍律を失ったことを以て、上表して自ら貶黜を請うた。魏帝は答えて曰く、「公は期運を膺けて宰輔となり、義は匡合に高く、鉞を仗して征伐を専らにし、挙措に遺算無し。朕が垂拱すること九載、実に元輔の力を資り、九服を寧謐ならしむるは、誠に翊賛の功に頼る。今、大寇未だ殄せずして、諸将の失律を以て、便ち自ら貶せんと欲するは、深く国体を顧みるの誠を虧く。宜しくこの謙光を抑え、予一人を恤れ」と。ここにおいて関隴の豪右を広く募り、以て軍旅を増強した。

原文 三月,齊神武至河北。太祖還軍𤄊上以引之。齊神武果度河,據邙山為陣,不進者數日。太祖留輜重於𤄊曲,士皆銜枚,夜登邙山。未明,擊之,齊神武單騎為賀拔勝所逐,僅而獲免。太祖率右軍若干惠等大破齊神武軍,悉虜其步卒。趙貴等五將軍居左,戰不利。齊神武軍復合,太祖又不利,夜乃引還。既入關,屯渭上。齊神武進至陝,開府達奚武等率軍禦之,乃退。太祖以邙山之戰,諸將失律,上表請自貶。魏帝報曰:「公膺期作宰,義高匡合,仗鉞專征,舉無遺算。朕所以垂拱九載,實資元輔之力,俾九服寧謐,誠賴翊贊之功。今大寇未殄,而以諸將失律,便欲自貶,深虧體國之誠。宜抑此謙光,恤予一人。」於是廣募關隴豪右,以增軍旅。

冬十月、櫟陽において大閲兵を行い、華州に還って屯した。

原文 冬十月,大閱於櫟陽,還屯華州。

十年夏五月、太祖は朝廷に入朝した。

原文 十年夏五月,太祖入朝。

秋七月、魏帝は太祖が前後して上奏した二十四条及び十二条の新制が、中興の永式たるべきとし、乃ち尚書蘇綽に命じてこれを更に損益させ、総て五巻とし、天下に頒布した。ここにおいて賢才を捜簡し、牧守・令長と為し、皆新制に依って派遣した。数年之間、百姓はこれを便利とした。

原文 秋七月,魏帝以太祖前後所上二十四條及十二條新制,方為中興永式,乃命尚書蘇綽更損益之,總為五卷,班於天下。於是搜簡賢才,以為牧守令長,皆依新制而遣焉。數年之間,百姓便之。

冬十月、白水において大閲兵を行った。

原文 冬十月,大閱於白水。

十一年春三月、令を発した。

原文 十一年春三月,令曰:

冬十月、白水において大閲兵を行い、遂に西に狩りて岐陽に至った。

原文 冬十月,大閱於白水,遂西狩岐陽。

十二年春、涼州刺史宇文仲和が州を拠って反した。瓜州の民張保が刺史成慶を害し、州を以て仲和に応じた。太祖は開府獨孤信を遣わしてこれを討たせた。東魏はその将侯景を遣わして襄州を侵させた。太祖は開府若干惠を遣わして軽騎を率いてこれを撃たせた。穰に至ると、景は遁走した。

原文 十二年春,涼州刺史宇文仲和據州反。瓜州民張保害刺史成慶,以州應仲和。太祖遣開府獨孤信討之。東魏遣其將侯景侵襄州,太祖遣開府若干惠率輕騎擊之。至穰,景遁去。

夏五月、獨孤信が涼州を平定し、仲和を擒らえ、その民六千余家を長安に遷した。瓜州都督令狐延が義を起こして張保を誅し、瓜州は平定された。

原文 夏五月,獨孤信平涼州,擒仲和,遷其民六千餘家於長安。瓜州都督令狐延起義誅張保,瓜州平。

七月、太祖は諸軍を咸陽に大いに会した。

原文 七月,太祖大會諸軍於咸陽。

九月、斉の神武帝が玉壁を包囲した。大都督韋孝寬が力戦して守りを拒み、斉の神武帝は攻囲すること六十日にして下すことができず、その士卒の死者は十の二三に及んだ。時に斉の神武帝に疾あり、営を焼いて退いた。

原文 九月,齊神武圍玉壁,大都督韋孝寬力戰拒守,齊神武攻圍六旬不能下,其士卒死者什二三。會齊神武有疾,燒營而退。

十三年春正月、茹茹が高平を寇し、方城に至った。この月、斉の神武帝が薨じた。その子の澄が嗣ぎ、これが文襄帝である。その河南大行臺侯景と隙あり、景は自ら安からず、使者を遣わして河南六州を挙げて来附することを請うた。斉の文襄帝はその将韓軌・厙狄干らを遣わして景を潁川に包囲させた。

原文 十三年春正月,茹茹寇高平,至于方城。是月,齊神武薨。其子澄嗣,是為文襄帝。與其河南大行臺侯景有隙,景不自安,遣使請舉河南六州來附。齊文襄遣其將韓軌、厙狄干等圍景於潁川。

三月、太祖は開府李弼を遣わして軍を率いてこれを救援させた。軌らは遁走した。景は留まって河南を収輯することを請い、遂に鎮を豫州に移した。ここにおいて開府王思政を遣わして潁川を占拠させ、弼は軍を引き還した。

原文 三月,太祖遣開府李弼率軍援之,軌等遁去。景請留收輯河南,遂徙鎮豫州。於是遣開府王思政據潁川,弼引軍還。

秋七月、侯景は密かに梁に附かんと図る。太祖その謀を知り、前後して景に配した将士を悉く追い還す。景懼れて、遂に叛く。

原文 秋七月,侯景密圖附梁。太祖知其謀,悉追還前後所配景將士。景懼,遂叛。

冬、太祖は魏帝を奉じて西に岐陽に狩す。

原文 冬,太祖奉魏帝西狩於岐陽。

十四年春、魏帝詔して太祖の長子毓を寧都郡公に封じ、食邑三千戸とす。初め、太祖は元顥を平げ、孝莊帝を納るるの功により、寧都県子に封ぜられ、ここに至りて県を郡と改め、以て毓に封じ、もって勤王の始めを彰わす。

原文 十四年春,魏帝詔封太祖長子毓為寧都郡公,食邑三千戶。初,太祖以平元顥、納孝莊帝之功,封寧都縣子,至是改縣為郡,而以封毓,用彰勤王之始也。

夏五月、太祖に太師を進授す。太祖は魏太子を奉じて西境を巡撫し、新平より出でて安定に至り、隴に登り、石を刻み事を紀す。安陽を下し、原州に至り、北長城を歴て、大いに狩す。将に東に趣きて五原に至らんとし、蒲川に至り、魏帝の豫ばざるを聞き、遂に還る。既に至れば、帝の疾已に愈ゆ。ここにおいて華州に還る。

原文 夏五月,進授太祖太師。太祖奉魏太子巡撫西境,自新平出安定,登隴,刻石紀事。下安陽,至原州,歷北長城,大狩。將東趣五原,至蒲川,聞魏帝不豫,遂還。既至,帝疾已愈,於是還華州。

是の歳、東魏その将高岳・慕容紹宗・劉豊生等を遣わし、衆十余万を率いて王思政を潁川に囲む。

原文 是歲,東魏遣其將高岳、慕容紹宗、劉豐生等,率眾十餘萬圍王思政於潁川。

十五年春、太祖は大将軍趙貴を遣わして軍を帥い穣に至らしめ、兼ねて東南諸州の兵を督して以て思政を援けしむ。高岳堰を起こし、洧水を引きて以て城を灌ぐ。潁川以北より皆陂沢と為り、救兵至るを得ず。

原文 十五年春,太祖遣大將軍趙貴帥軍至穰,兼督東南諸州兵以援思政。高岳起堰,引洧水以灌城,自潁川以北皆為陂澤,救兵不得至。

夏六月、潁川陥つ。初め、侯景は豫州より梁に附き、後遂に江を度り、建業を囲む。梁の司州刺史柳仲禮は本朝に難有るを以て、兵を帥いてこれを援く。梁の竟陵郡守孫暠は郡を挙げて来附す。太祖は大都督符貴をして往きてこれを鎮ましむ。及んで景建業を克つに及び、仲禮は司州に還り、衆を率いて来寇す。暠は郡を以て叛く。太祖大いに怒る。

原文 夏六月,潁川陷。初,侯景自豫州附梁,後遂度江,圍建業。梁司州刺史柳仲禮以本朝有難,帥兵援之。梁竟陵郡守孫暠舉郡來附,太祖使大都督符貴往鎮之。及景克建業,仲禮還司州,率眾來寇,暠以郡叛。太祖大怒。

冬十一月、開府楊忠に兵を率いしめ、行臺僕射長孫儉とともにこれを討たしむ。随郡を攻め克つ。忠は進みて仲礼の長史馬岫を安陸に囲む。

原文 冬十一月,遣開府楊忠率兵與行臺僕射長孫儉討之,攻克隨郡。忠進圍仲禮長史馬岫於安陸。

是の歳、盗み斉の文襄を鄴に殺す。その弟洋は賊を討ち、これを擒にし、仍ってその事を嗣ぐ。是を文宣帝と為す。

原文 是歲,盜殺齊文襄於鄴,其弟洋討賊,擒之,仍嗣其事,是為文宣帝。

十六年春正月、柳仲礼は衆を率いて安陸を援け来る。楊忠は漴頭にてこれを逆撃し、大いにこれを破り、仲礼を擒にし、その衆を悉く虜う。馬岫は城を以て降る。

原文 十六年春正月,柳仲禮率眾來援安陸,楊忠逆擊於漴頭,大破之,擒仲禮,悉虜其眾。馬岫以城降。

三月、魏帝は太祖の第二子震を武邑公に封じ、邑二千戸とす。是に先立ち、梁の雍州刺史・岳陽王詧はその叔父荊州刺史・湘東王繹と睦まず、乃ち蕃を称して来附し、その世子嶚を質と為して遣わす。及んで楊忠仲礼を擒にするに及び、繹懼れて、復たその子方平を遣わして来朝せしむ。

原文 三月,魏帝封太祖第二子震為武邑公,邑二千戶。先是,梁雍州刺史、岳陽王詧與其叔父荊州刺史、湘東王繹不睦,乃稱蕃來附,遣其世子嶚為質。及楊忠擒仲禮,繹懼,復遣其子方平來朝。

夏五月、斉の文宣その主元善見を廃して自立す。

原文 夏五月,齊文宣廢其主元善見而自立。

秋七月、太祖は諸軍を率いて東伐し、章武公導を大将軍に拝し、留守諸軍事を総督せしめ、涇北に屯して以て関中を鎮ましむ。

原文 秋七月,太祖率諸軍東伐,拜章武公導為大將軍,總督留守諸軍事,屯涇北以鎮關中。

九月丁巳、軍は長安を出づ。時に雨連なり、秋より冬に及び、諸軍の馬驢多く死す。遂に弘農の北に橋を造り河を済い、蒲坂より還る。ここにおいて河南は洛陽より、河北は平陽より以東、遂に斉に入る。

原文 九月丁巳,軍出長安。時連雨,自秋及冬,諸軍馬驢多死。遂於弘農北造橋濟河,自蒲坂還。於是河南自洛陽,河北自平陽以東,遂入於齊矣。

十七年春三月、魏の文帝崩ず。皇太子位を嗣ぐ。太祖は冢宰として百揆を総ぶ。梁の邵陵王蕭綸は安陸を侵す。大将軍楊忠これを討ちて擒にす。

原文 十七年春三月,魏文帝崩,皇太子嗣位,太祖以冢宰總百揆。梁邵陵王蕭綸侵安陸,大將軍楊忠討擒之。

冬十月、太祖は大将軍王雄を派遣して子午道より出で、上津・魏興を討伐せしめ、大将軍達奚武を派遣して散関より出で、南鄭を討伐せしむ。

原文 冬十月,太祖遣大將軍王雄出子午,伐上津、魏興;大將軍達奚武出散關,伐南鄭。

魏の廃帝元年春、王雄は上津・魏興を平定し、その地に東梁州を置く。

原文 魏廢帝元年春,王雄平上津、魏興,以其地置東梁州。

夏四月、達奚武は南鄭を包囲し、一月余りにして、梁州刺史・宜豊侯蕭循は州を挙げて降伏す。武は循を捕らえて長安に還す。

原文 夏四月,達奚武圍南鄭,月餘,梁州刺史、宜豐侯蕭循以州降。武執循還長安。

秋八月、東梁州の民が叛き、衆を率いて州城を包囲す。太祖は再び王雄を派遣してこれを討たしむ。

原文 秋八月,東梁州民叛,率眾圍州城,太祖復遣王雄討之。

侯景が建業を陥落させた後、梁の武帝を奉じて主と為す。数旬を経て、梁武帝は憤恚のうちに崩御す。景はまたその子の綱を立てるが、まもなく綱を廃して自ら立つ。一年余り後、綱の弟の繹が景を討ち、これを擒らえ、その舎人魏彦を派遣して来告せしめ、引き続き江陵において位を嗣ぐ。これが元帝である。

原文 侯景之克建業也,還奉梁武帝為主。居數旬,梁武以憤恚薨。景又立其子綱,尋而廢綱自立。歲餘,綱弟繹討景,擒之,遣其舍人魏彥來告,仍嗣位於江陵,是為元帝。

二年春、魏帝は詔を下し、太祖に丞相大行臺の官を去らせ、都督中外諸軍事と為す。

原文 二年春,魏帝詔太祖去丞相大行臺,為都督中外諸軍事。

二月、東梁州が平定され、その豪帥を雍州に移す。

原文 二月,東梁州平,遷其豪帥於雍州。

三月、太祖は大将軍・魏安公尉遅迥を派遣して衆を率い、蜀しょくにおいて梁の武陵王蕭紀を討伐せしむ。

原文 三月,太祖遣大將軍、魏安公尉遲迥率眾伐梁武陵王蕭紀於蜀。

夏四月、太祖は精鋭の騎兵三万を率いて西に隴を踰え、金城河を渡り、姑臧に至る。吐谷渾は震懼し、使者を遣わしてその方物を献ず。

原文 夏四月,太祖勒銳騎三萬西踰隴,度金城河,至姑臧。吐谷渾震懼,遣使獻其方物。

五月、蕭紀の潼州刺史楊乾運は州を挙げて降伏し、迥の軍を導いて成都に向かわしむ。

原文 五月,蕭紀潼州刺史楊乾運以州降,引迥軍向成都。

秋七月、太祖は姑臧より長安に至る。

原文 秋七月,太祖自姑臧至於長安。

八月、成都を攻克し、剣南が平定される。

原文 八月,克成都,劍南平。

冬十一月、尚書元烈が乱を謀るも、事発し、誅せらる。

原文 冬十一月,尚書元烈謀作亂,事發,伏誅。

三年春正月、初めて九命の典を作り、以て内外の官爵を序す。第一品を九命と為し、第九品を一命と為す。流外品を改めて九秩と為し、亦た九を上と為す。又た州郡及び県を改め置く。東雍を華州と改め、北雍を宜州と改め、南雍を蔡州と改め、華州を同州と改め、北華を鄜州と改め、東秦を隴州と改め、南秦を成州と改め、北秦を交州と改め、東荊を淮州と改め、南荊を昌州と改め、東夏を延州と改め、南夏を長州と改め、東梁を金州と改め、南梁を隆州と改め、北梁を静州と改め、陽都を汾州と改め、南汾を勲州と改め、汾州を丹州と改め、南豳を寧州と改め、南岐を鳳州と改め、南洛を上州と改め、南広を淯州と改め、南襄を湖州と改め、西涼を甘州と改め、西郢を鴻州と改め、西益を利州と改め、東巴を集州と改め、北応を輔州と改め、恆州を均州と改め、沙州を深州と改め、寧州を麓州と改め、義州を巌州と改め、新州を温州と改め、江州を沔州と改め、西安を塩州と改め、安州を始州と改め、幷州を随州と改め、肆州を塘州と改め、冀州を順州と改め、淮州を純州と改め、揚州を潁州と改め、司州を憲州と改め、南平を昇州と改め、南郢を帰州と改め、青州を眉州と改む。凡そ州四十六を改め、州一を置き、郡一百六を改め、県二百三十を改む。

原文 三年春正月,始作九命之典,以敘內外官爵。以第一品為九命,第九品為一命。改流外品為九秩,亦以九為上。又改置州郡及縣:改東雍為華州,北雍為宜州,南雍為蔡州,華州為同州,北華為鄜州,東秦為隴州,南秦為成州,北秦為交州,東荊為淮州,南荊為昌州,東夏為延州,南夏為長州,東梁為金州,南梁為隆州,北梁為靜州,陽都為汾州,南汾為勳州,汾州為丹州,南豳為寧州,南岐為鳳州,南洛為上州,南廣為淯州,南襄為湖州,西涼為甘州,西郢為鴻州,西益為利州,東巴為集州,北應為輔州,恆州為均州,沙州為深州,寧州為麓州,義州為巖州,新州為溫州,江州為沔州,西安為鹽州,安州為始州,幷州為隨州,肆州為塘州,冀州為順州,淮州為純州,揚州為潁州,司州為憲州,南平為昇州,南郢為歸州,青州為眉州。凡改州四十六,置州一,改郡一百六,改縣二百三十。

元烈が誅せられて以来、魏帝は怨言あり。魏の淮安王育・広平王贊等は涙を垂れてこれを諫むるも、帝は聴かず。ここにおいて太祖は公卿と議を定め、帝を廃し、斉王廓を立てて尊ぶ。これが恭帝である。

原文 自元烈誅,魏帝有怨言。魏淮安王育、廣平王贊等垂泣諫之,帝不聽。於是太祖與公卿定議,廢帝,尊立齊王廓,是為恭帝。

魏の恭帝元年夏四月、帝は群臣を大饗した。魏の史官柳虬が朝廷において簡書を執りて曰く、「廃帝は文皇帝の嗣子なり。年七歳の時、文皇帝は安定公に託して曰く、『この子の才は公による、才なきもまた公による、宜しくこれを勉めよ』と。公は既にこの重寄を受け、元輔の任に居り、また女を納れて皇后と為す。遂に訓誨して成す有ること能わず、廃黜せしむるに致り、文皇帝の付属の意に負く。この咎は安定公に非ずして誰ぞや」と。太祖は乃ち太常盧辯に命じて誥を作り公卿を諭さしめて曰く、「嗚呼、我が群后及び衆士よ、文皇帝は襁褓の嗣を予に託し、これを訓えこれを誨え、庶幾くばこれ成る有らんことを。然るに予は能くその心を革変すること罔く、ついに廃せらるるに及び、我が文皇帝の志を墜つ。嗚呼、この咎を予その何にか避けん。予は実にこれを知る、況んや爾ら衆人の心においてをや。惟うに予の顔、豈に今のみ厚からんや、将に来世において予を口実と為すことを恐るるなり」と。乙亥、詔して太祖の子邕を輔城公に、憲を安城公に封じ、邑各二千戸を賜う。茹茹の乙旃達官、広武を寇す。五月、柱国趙貴を遣わしてこれを追撃せしめ、数千級を斬首し、その輜重を収めて還る。

原文 魏恭帝元年夏四月,帝大饗羣臣。魏史柳虬執簡書於朝曰:「廢帝,文皇帝之嗣子。年七歲,文皇帝託於安定公曰:『是子才,由于公,不才,亦由于公,宜勉之。』公既受茲重寄,居元輔之任,又納女為皇后,遂不能訓誨有成,致令廢黜,負文皇帝付屬之意,此咎非安定公而誰?」太祖乃令太常盧辯作誥諭公卿曰:「嗚呼!我羣后暨眾士,維文皇帝以襁褓之嗣託於予,訓之誨之,庶厥有成。而予罔能革變厥心,庸暨乎廢,墜我文皇帝之志。嗚呼!茲咎予其焉避。予實知之,矧爾眾人之心哉。惟予之顏,豈惟今厚,將恐來世以予為口實。」乙亥,詔封太祖子邕為輔城公,憲為安城公,邑各二千戶。茹茹乙旃達官寇廣武。五月,遣柱國趙貴追擊之,斬首數千級,收其輜重而還。

秋七月、太祖西狩して原州に至る。

原文 秋七月,太祖西狩至於原州。

梁の元帝、使を遣わして旧図に拠りて疆界を定めんことを請い、また斉と連結し、言辞悖慢なり。太祖曰く、「古人に言有り『天の棄つる所は、誰か能くこれを興さん』と、それ蕭繹の謂いか」と。

原文 梁元帝遣使請據舊圖以定疆界,又連結於齊,言辭悖慢。太祖曰:「古人有言『天之所棄,誰能興之』,其蕭繹之謂乎。」

冬十月壬戌、柱国于謹・中山公護・大将軍楊忠・韋孝寬等に歩騎五万を率いさせてこれを討たしむ。

原文 冬十月壬戌,遣柱國于謹、中山公護、大將軍楊忠、韋孝寬等步騎五萬討之。

十一月癸未、師は漢に済る。中山公護と楊忠は鋭騎を率いて先ずその城下に屯し、江津を拠りてその逸するを備う。丙申、謹は江陵に至り、営を列ねて囲み守る。辛亥、進みて城を攻め、その日これを克つ。梁の元帝を擒え、これを殺し、併せてその百官及び士民を虜として帰る。奴婢と為るに没する者十余万、その免るる者二百余家。蕭詧を立てて梁主と為し、江陵に居らしめ、魏の附庸と為す。梁の将王僧辯・陳霸は先は丹陽において梁元帝第九子方智を立てて主と為す。

原文 十一月癸未,師濟於漢。中山公護與楊忠率銳騎先屯其城下,據江津以備其逸。丙申,謹至江陵,列營圍守。辛亥,進攻城,其日克之。擒梁元帝,殺之,并虜其百官及士民以歸。沒為奴婢者十餘萬,其免者二百餘家。立蕭詧為梁主,居江陵,為魏附庸。梁將王僧辯、陳霸先於丹陽立梁元帝第九子方智為主。

魏氏の初め、国三十六を統べ、大姓九十九有り。後多く絶滅す。是に至り、諸将の功高き者を以て三十六国の後と為し、次功の者を九十九姓の後と為す。統ぶる所の軍人も亦その姓に従いて改む。

原文 魏氏之初,統國三十六,大姓九十九,後多絕滅。至是,以諸將功高者為三十六國後,次功者為九十九姓後,所統軍人,亦改從其姓。

二年、梁の広州刺史王琳、辺を寇す。冬十一月、大将軍豆盧寧を遣わして師を帥いこれを討たしむ。

原文 二年,梁廣州刺史王琳寇邊。冬十一月,遣大將軍豆盧寧帥師討之。

三年春正月丁丑、初めて周礼を行い、六官を建つ。太祖を太師・大冢宰と為し、柱国李弼を太傅と為し、大司徒しと趙貴を太保と為し、大宗伯獨孤信を大司馬と為し、于謹を大司寇と為し、侯莫陳崇を大司空しくうと為す。初め、太祖は漢魏の官繁きを以て、前の弊を革めんと思う。大統中、乃ち蘇綽・盧辯に命じて周制に依りてその事を改創せしむ。尋いで亦六卿の官を置く。然れども撰次未だ成らず、衆務猶お臺閣に帰す。是に至りて始めて畢り、乃ちこれを行わしむ。

原文 三年春正月丁丑,初行周禮,建六官。以太祖為太師、大冢宰,柱國李弼為太傅,大司徒趙貴為太保,大宗伯獨孤信為大司馬,于謹為大司寇,侯莫陳崇為大司空。初,太祖以漢魏官繁,思革前弊。大統中,乃命蘇綽、盧辯依周制改創其事,尋亦置六卿官,然為撰次未成,眾務猶歸臺閣。至是始畢,乃命行之。

夏四月、太祖北巡狩す。

原文 夏四月,太祖北巡狩。

秋七月、北河を度る。王琳、使を遣わして来たり附く。琳を大将軍・長沙郡公と為す。魏帝、太祖の子直を秦郡公に、招を正平公に封じ、邑各一千戸を賜う。

原文 秋七月,度北河。王琳遣使來附,以琳為大將軍、長沙郡公。魏帝封太祖子直為秦郡公,招為正平公,邑各一千戶。

九月、太祖疾有り、雲陽に還り至り、中山公護に命じて遺命を受け嗣子を輔けしむ。

原文 九月,太祖有疾,還至雲陽,命中山公護受遺輔嗣子。

冬十月乙亥、雲陽宮に崩ず。長安に還りて発喪す。時に年五十二。甲申、成陵に葬る。諡して文公と曰う。孝閔帝、禅を受け、追尊して文王と為し、廟して太祖と曰う。武成元年、追尊して文皇帝と為す。

原文 冬十月乙亥,崩於雲陽宮,還長安發喪。時年五十二。甲申,葬於成陵,諡曰文公。孝閔帝受禪,追尊為文王,廟曰太祖。武成元年,追尊為文皇帝。

太祖は人を知り善く任使し、諫に従うこと流るるが如く、儒術を崇尚し、政事に明達し、恩信物に被り、英豪を駕馭し能く、一見の者、皆命を用いんと思う。沙苑において獲たる囚俘は釈放してこれを用い、河橋の役には率いて撃戦せしめ、皆その死力を得たり。諸将出征するに方略を授くれば、勝たざること無し。性朴素を好み、虚飾を尚ばず、恒に風俗を反し、古始を復するを心と為す。

原文 太祖知人善任使,從諫如流,崇尚儒術,明達政事,恩信被物,能駕馭英豪,一見之者,咸思用命。沙苑所獲囚俘,釋而用之,河橋之役,率以擊戰,皆得其死力。諸將出征,授以方略,無不制勝。性好朴素,不尚虛飾,恆以反風俗,復古始為心。

史臣曰く、水曆将に終らんとし、群凶命を放つ。或いは威権主を震わし、或いは釁逆天に滔ぐ。皆大宝は力征を以てすべく、神物は求得すべしと謂い、鼎を闚𨵦し、両宮を睥睨せざる莫し。然るに誅夷継ぎ及び、亡ぶこと踵を旋らさず。是に巨君の篡盗も終に建武の資を成し、仲潁の凶残も実に当塗の業を啓くを知る。天命底有り、庸ぞ滔くべけんや。

原文 史臣曰:水曆將終,羣凶放命,或威權震主,或釁逆滔天。咸謂大寶可以力征,神物可以求得,莫不闚𨵦九鼎,睥睨兩宮,而誅夷繼及,亡不旋踵。是知巨君篡盜,終成建武之資;仲潁凶殘,實啟當塗之業。天命有底,庸可滔乎。

太祖は田一なる無く、衆一旅無し。戎馬の際に馳駆し、行伍の間に躡足す。能に与する時に属し、聖を啓く運に応じ、義勇を鳩集し、同盟を糺合し、一挙にして仇讐を殄ぼし、再駕にして帝室を匡う。ここにおいて内には帷幄に詢い、外には材雄に仗り、至誠を推して人を持ち、大順を弘めて物を訓う。高氏は甲兵の衆を籍とし、戎馬の彊を恃み、屡々近畿に入り、志図吞噬ぜいす。英謀電発し、神斾風馳するに及び、弘農には城濮の勳を建て、沙苑には昆陽の捷有り。威を取り霸を定め、弱を以て彊と為す。元宗の衰緒を紹ぎ、隆周の景命を創む。南は江漢を清め、西は巴蜀はしょくを挙げ、北は沙漠を控え、東は伊𤄊に据う。乃ち魏晉を擯落し、古昔を憲章し、六官の廃典を修め、一代の鴻規を成す。徳刑並び用い、勲賢兼ね叙し、遠は安んじ邇は悦び、俗は阜く民は和す。億兆の望帰する有り、揖譲の期允に集る。功業此の若きは、人臣として終わる。盛んなり哉。夫れ雄略時に冠たり、英姿世に不なる、天与神授、緯武経文の者に非ずして、誰か能くこれに与らん。昔、漢献蒙塵し、曹公は夾輔の業を成し、晋安播蕩し、宋武は匡合の勲を建つ。徳を校え功を論ずれば、綽乎として余裕有り。

原文 太祖田無一成,眾無一旅,驅馳戎馬之際,躡足行伍之間。屬與能之時,應啟聖之運,鳩集義勇,糺合同盟,一舉而殄仇讐,再駕而匡帝室。於是內詢帷幄,外仗材雄,推至誠以待人,弘大順以訓物。高氏籍甲兵之眾,恃戎馬之彊,屢入近畿,志圖吞噬。及英謀電發,神斾風馳,弘農建城濮之勳,沙苑有昆陽之捷。取威定霸,以弱為彊。紹元宗之衰緒,創隆周之景命。南清江漢,西舉巴蜀,北控沙漠,東據伊𤄊。乃擯落魏晉,憲章古昔,修六官之廢典,成一代之鴻規。德刑並用,勳賢兼敘,遠安邇悅,俗阜民和。億兆之望有歸,揖讓之期允集。功業若此,人臣以終。盛矣哉!非夫雄略冠時,英姿不世,天與神授,緯武經文者,孰能與於此乎。昔者,漢獻蒙塵,曹公成夾輔之業;晉安播蕩,宋武建匡合之勳。校德論功,綽有餘裕。

渚宮にて制勝するに至り、闔城を孥戮し、茹茹帰命するも、種を尽くして誅夷す。事は権道より出づるも、用ひるに徳教に乖く。周の祚の永からざるは、或は此れに由るか。

原文 至於渚宮制勝,闔城孥戮;茹茹歸命,盡種誅夷:雖事出於權道,而用乖於德教。周祚之不永,或此之由乎。