周書
卷二 帝紀第二 文帝下
西魏の大統元年 (535年) 春正月己酉の日、太祖 (宇文泰) を中外諸軍事を督し、尚書事を録し、大行臺に進め、安定郡王に改封した。太祖は固く王号及び尚書事録を辞退したので、魏帝 (文帝) はこれを許し、安定郡公に改封した。東魏がその将司馬子如を遣わして潼関を侵すと、太祖は軍を覇上に駐め、子如は軍を返して蒲津より華州を侵したが、刺史の王羆がこれを撃退した。
三月、太祖は兵役が頻繁に起こり、民と官吏が疲弊しているのを以て、司に命じて古今を斟酌し、変通を参考にし、国を益し民を利し時に便し治に適するものを、二十四条の新制と為し、魏帝に奏上して施行させた。
二年 (536年) 春三月、東魏が夏州を襲撃して陥落させ、その将張瓊・許和を留めてこれを守らせた。
夏五月、秦州刺史・建中王の万俟普撥が率いる所部を率いて叛き、東魏に入った。太祖は軽騎を率いてこれを追い、河北 (黄河の北) 千余里に至ったが、及ばずして還った。
三年 (537年) 春正月、東魏が竜門を侵し、軍を蒲坂に屯し、三道の浮橋を造って黄河を渡った。またその将竇泰を遣わして潼関に向かわせ、高敖曹に洛州を包囲させた。太祖は広陽に出軍し、諸将を召して言った。「賊は今、我が三面を掣し、また河に橋を造り、必ず渡ることを示している。これは我が軍を繋ぎ止め、竇泰をして西に入らせようとするのである。長く相持すれば、その計は成る。良策ではない。かつ高歓が起兵して以来、泰は常に先鋒を為し、その下には鋭卒多く、屡勝して驕っている。今、その不意を衝いて襲えば、必ず克つ。泰を克てば、歓は戦わずして自ら走るであろう。」諸将は皆言った。「賊は近くにあり、これを捨てて遠くを襲う。事もし蹉跌すれば、悔ゆるも及ばない。」太祖は言った。「歓は前に再び潼関を襲ったが、我が軍は覇上を過ぎなかった。今は大いに来たりしも、兵は郊外に出でず。賊は我がただ自ら守るのみと謂い、遠く闘う意なしと思い込んでいる。また得志に慣れ、我を軽んずる心あり。これに乗じて撃てば、何処へ往って克たざらん。賊は橋を造れども、直ちに渡ることはできぬ。この五日の中に、我は竇泰を必ず取る。公等は疑うなかれ。」庚戌の日、太祖は騎兵六千を率いて長安に還り、隴右を保たんと欲すると声言した。辛亥の日、帝に謁して潜かに軍を出した。癸丑の日朝、小関に至った。竇泰の軍卒、軍の至るを聞き、惶懼し、山に依って陣を為さんとしたが、未だ列を成さず、太祖は兵を縦してこれを撃破し、その衆万余を尽く俘虜にした。泰を斬り、その首を長安に伝送した。高敖曹は丁度洛州を陥落させ、刺史の泉企を捕らえていたが、泰の死を聞き、輜重を焼き城を棄てて走った。斉の神武帝 (高歓) もまた橋を撤して退いた。企の子元礼は間もなく洛州を回復し、東魏の刺史杜密を斬った。太祖は軍を長安に還した。
六月、儀同の于謹を遣わして楊氏壁を取らせた。太祖は行臺の罷免を請うたが、帝は再び前の命を申し述べ、太祖は尚書事録を受けたが、その他は固く辞退したので、止めた。
秋七月、兵を徴発して咸陽に会した。
八月丁丑の日、太祖は李弼・独孤信・梁禦・趙貴・于謹・若干惠・怡峯・劉亮・王悳・侯莫陳崇・李遠・達奚武ら十二将を率いて東伐した。潼関に至り、太祖は師に誓って言った。「爾ら衆有る者とともに、天威を奉じ、暴乱を誅す。惟れ爾ら士は、爾らの甲兵を整え、爾らの戎事を戒め、財を貪りて敵を軽んじ、民を暴にして威を作すことなかれ。命を用いれば賞有り、命を用いざれば戮有り。爾ら衆士、それ勉めよ。」于謹を軍の前に居らせ、地を狥って槃豆に至った。東魏の将高叔礼が柵を守って下らなかったが、謹が急攻したので、降った。その戍卒一千を獲、叔礼を長安に送った。戊子の日、弘農に至った。東魏の将高干・陝州刺史の李徽伯が拒んで守った。時に雨が連続したので、太祖は諸軍に命じて雨を冒して攻撃させた。庚寅の日、城は潰え、徽伯を斬り、その戦士八千を虜にした。高干は走って河を渡ったので、賀抜勝に命じて追撃させてこれを擒にし、共に長安に送った。ここにおいて宜陽・邵郡は皆来たりて帰附した。先に河南の豪傑多く兵を聚めて東魏に応じていたが、この時に至り各々率いる所部を率いて来降した。
斉の神武帝は懼れ、衆十万を率いて壺口より出で、蒲坂に向かい、将に後土より渡らんとした。またその将高敖曹を遣わして三万人を率いて河南より出させた。この年、関中は飢饉であった。太祖は弘農を平定した後、館穀すること五十余日であった。時に戦士は万人に満たず、斉の神武帝が渡河せんとするを聞き、乃ち軍を率いて関に入った。斉の神武帝は遂に河を渡り、華州を逼った。刺史の王羆が厳しく守った。攻め難きを知り、乃ち洛水を渡り、許原の西に軍した。太祖は渭水の南に拠り、諸州の兵を徴発したが皆未だ会せず。乃ち諸将を召してこれに謂って言った。「高歓は山を越え河を渡り、遠く来たりて此に至る。天の亡ぼす時なり。我これに撃たんと欲するは如何。」諸将は皆衆寡敵せずとし、歓の更に西するを待ち、その勢いを観んことを請うた。太祖は言った。「歓もし咸陽に至るを得ば、人情転た騒擾せん。今その新たに至るに及びて、便ちこれを撃つべし。」即ち渭水に浮橋を造り、軍人に三日の糧を齎させ、軽騎で渭水を渡り、輜重は渭水の南より渭水に夾まれて西進させた。
冬十月壬辰の日、沙苑に至り、斉の神武帝の軍より六十余里に距った。斉の神武帝は太祖の至るを聞き、軍を引いて来会した。癸巳の日朝、斥候騎が斉の神武帝の軍将に至らんと告げた。太祖は諸将を召してこれを謀った。李弼が言った。「彼は衆、我は寡。平地に陣を置くべからず。この東十里に渭曲有り。先ずこれを拠りて以てこれを待つべし。」遂に軍を進めて渭曲に至り、水を背にし東西に陣を為した。李弼を右拒と為し、趙貴を左拒と為した。将士に命じて皆戈を葭蘆の中に偃せしめ、鼓の声を聞いて起たしめた。申の時、斉の神武帝が至り、太祖の軍少なるを望み、競い馳せて進み、行列を為さず、総て左軍に萃まった。兵将まさに交わらんとする時、太祖は鼓を鳴らし、士は皆奮い起った。于謹ら六軍がこれと合戦し、李弼らが鉄騎を率いて横撃し、その軍を絶って二隊と為し、大いにこれを破り、六千余級を斬り、陣に臨み降る者二万余人。斉の神武帝は夜遁し、河上まで追撃し、再び大いに克ち獲ること多かった。前後その卒七万を虜にした。その甲士二万を留め、余は悉く帰し放った。その輜重兵甲を収め、俘虜を長安に献じた。軍を渭南に還し、ここにおいて徴発した諸州の兵が初めて至った。乃ち戦った所に於いて、当時の兵士に准え、人ごとに樹一株を植え、武功を旌した。太祖を柱国大将軍に進め、邑を増して前と併せて五千戸とした。李弼ら十二将もまた爵を進め邑を増やした。並びにその下の将士、賞各々差有り。
左僕射・馮翊王の元季海を行臺と為し、開府の独孤信とともに歩騎二万を率いて洛陽に向かわせた。洛州刺史の李顯を荊州に向かわせた。賀抜勝・李弼に河を渡らせて蒲坂を包囲させた。牙門将の高子信が門を開いて勝の軍を納れたので、東魏の将薛崇禮は城を棄てて走り、勝らが追撃してこれを獲た。太祖は軍を進めて蒲坂に至り、汾・絳を略定した。ここにおいて許和が張瓊を殺して夏州を以て降った。初め、太祖が弘農より関に入った後、東魏の将高敖曹が弘農を包囲したが、その軍敗れたるを聞き、退いて洛陽を守った。独孤信が新安に至ると、敖曹は再び走って河を渡り、信は遂に洛陽に入った。東魏の潁川長史の賀若統と密県の人張儉が刺史の田迅を執り城を挙げて降った。 滎陽 の鄭栄業・鄭偉らが梁州を攻め、その刺史鹿永吉を擒にした。清河の人崔彦穆・檀琛が 滎陽 を攻め、その郡守蘇定を擒にした。皆来たりて附した。梁・陳より以西、将吏降る者相属した。
ここにおいて東魏の将堯雄・趙育・是云寶が潁川より出で、降伏した地を回復せんとす。太祖は儀同宇文貴・梁遷らを遣わして迎撃し、これを大破す。趙育は来降す。東魏はまた将任祥を遣わし河南の兵を率いて雄と合わさしむ。儀同怡峯は貴・遷らとともに再びこれを撃破す。また 都督 韋孝寛を遣わして 豫 州を取らしむ。是云寶はその東揚州刺史那椿を殺し、州を挙げて来附す。
四年春三月、太祖は諸将を率いて朝に入る。礼畢りて、華州に還る。
七月、東魏はその将侯景・厙狄干・高敖曹・韓軌・可朱渾元・莫多婁貸文らを遣わし、独孤信を洛陽に囲む。斉の神武はその後を継ぐ。これに先立ち、魏帝は洛陽に行幸し園陵を拝せんとし、ちょうど信が囲まれたので、詔して太祖に軍を率いて信を救わしめ、魏帝もまた東す。
八月庚寅、太祖は穀城に至る。莫多婁貸文・可朱渾元が来て迎え撃つ。陣に臨み貸文を斬り、元は単騎で遁れて免れ、その衆を悉く虜にして弘農に送る。すなわち軍を進めて瀍東に至る。この夕べ、魏帝は太祖の営に幸す。ここにおいて景らは夜に囲みを解き去る。旦に及び、太祖は軽騎を率いてこれを追い、河上に至る。景らは北に河橋を拠り、南は邙山に属して陣を為し、諸軍と合戦す。太祖の馬が流れ矢に中り、驚き逸れて、遂に行く所を失い、ここにおいて軍中擾乱す。 都督 李穆は下馬して太祖に授け、軍は以て復た振るう。ここにおいて大捷し、高敖曹及びその儀同李猛・西兗州刺史宋顕らを斬り、その甲士一万五千を虜にし、河に赴いて死する者万数を以て数う。
この日、陣を置くこと既に大きく、首尾懸け遠く、旦より未に至るまで、数十合戦い、氛霧四塞し、互いに知ること能わず。独孤信・李遠は右に居り、趙貴・怡峯は左に居り、戦い並びに利あらず、また魏帝及び太祖の所在を知らず、皆その卒を棄てて先に帰る。開府李虎・念賢らは後軍たり、信らの退くに遇い、即ちこれと俱に還る。ここにおいて乃ち師を班し、洛陽もまた守りを失う。大軍弘農に至る。守将は皆既に城を棄て西走す。虜にしたる降卒にして弘農に在る者は、相与に門を閉ざして拒み守る。進攻してこれを抜き、その魁首数百人を誅す。
大軍の東伐するや、関中の留守兵少なく、而して前後に虜にしたる東魏の士卒は、皆民間に散在し、乃ち乱を謀る。李虎らの長安に至るや、計る所無く、乃ち公卿とともに魏の太子を輔け出でて渭北に次す。関中大いに震恐し、百姓相剽劫す。ここにおいて沙苑に俘えし軍人趙青雀・雍州の民于伏德ら遂に反す。青雀は長安の子城に拠り、伏德は咸陽を保ち、太守慕容思慶と各々降卒を収め、以て還師を拒ぐ。長安の大城の民は皆相率いて青雀を拒ぎ、毎日接戦す。魏帝は閿郷に留まり止まり、太祖を遣わしてこれを討たしむ。長安の父老、太祖の至るを見て、悲しみ且つ喜びて曰く、「意わざらん今日復た公を見ることを得んとは」と。士女咸く相賀す。華州刺史の導は軍を率いて咸陽を襲い、思慶を斬り、伏德を擒にし、南に渭を度り太祖と会して青雀を攻め、これを破る。太傅梁景睿は先に疾を以て長安に留まり、遂に青雀と通謀し、ここに至りてまた伏誅す。関中ここにおいて乃ち定まる。魏帝は長安に還り、太祖は復た華州に屯す。
冬十一月、東魏の将侯景、広州を攻め陥す。
十二月、是云寶、洛陽を襲い、東魏の将王元軌は城を棄てて走る。 都督 趙剛、広州を襲い、これを抜く。襄・広以西の城鎮より復た内属す。
五年冬、華陰に大いに閲す。
六年春、東魏の将侯景、三鵶より出で、将に荊州を侵さんとす。太祖は開府李弼・独孤信を遣わし各々騎五千を率いて武関より出でしむ。景は乃ち退き還る。
夏、茹茹、河を度り夏州に至る。太祖は諸軍を召して沙苑に屯せしめ以てこれを備う。
七年春三月、稽胡の帥・夏州刺史劉平伏、上郡に拠りて叛く。開府于謹を遣わしてこれを討ち平らぐ。
冬十一月、太祖、十二條の制を行わんことを奏す。百官の職事に勉めざるを恐れ、また令を下してこれを申明す。
八年夏四月、馬牧に諸軍を大会す。
冬十月、斉の神武、汾・絳を侵し、玉壁を囲む。太祖は軍を出だし蒲坂に至り、将にこれを撃たんとす。軍、皂莢に至り、斉の神武退く。太祖は汾を度りてこれを追い、遂に遁れ去る。
十二月、魏帝は華陰に狩猟し、将兵を大いに饗応した。太祖は諸将を率いて行在所に朝謁した。
九年春、東魏の北 豫 州刺史高仲密が州を挙げて来附した。太祖は軍を率いてこれを迎え、開府李遠を前軍とした。洛陽に至り、開府于謹を遣わして栢谷塢を攻撃させ、これを陥落させた。
三月、斉の神武帝が河北に至った。太祖は軍を𤄊上に還してこれを誘引した。斉の神武帝は果たして河を渡り、邙山を占拠して陣を布き、数日間進まなかった。太祖は輜重を𤄊曲に留め、兵士は皆枚を銜み、夜に邙山に登った。未明にこれを撃ち、斉の神武帝は単騎で賀抜勝に追われ、辛うじて免れた。太祖は右軍の若干惠らを率いて斉の神武帝の軍を大破し、その歩卒を悉く捕虜とした。趙貴ら五将軍は左翼に在ったが、戦い利あらず。斉の神武帝の軍が再び合し、太祖もまた利あらず、夜になって引き還った。関に入ると、渭上に屯した。斉の神武帝は進んで陝に至ったが、開府達奚武らが軍を率いてこれを防ぎ、退いた。太祖は邙山の戦いにおいて諸将が軍律を失ったことを以て、上表して自ら貶黜を請うた。魏帝は答えて曰く、「公は期運を膺けて宰輔となり、義は匡合に高く、鉞を仗して征伐を専らにし、挙措に遺算無し。朕が垂拱すること九載、実に元輔の力を資り、九服を寧謐ならしむるは、誠に翊賛の功に頼る。今、大寇未だ殄せずして、諸将の失律を以て、便ち自ら貶せんと欲するは、深く国体を顧みるの誠を虧く。宜しくこの謙光を抑え、予一人を恤れ」と。ここにおいて関隴の豪右を広く募り、以て軍旅を増強した。
冬十月、櫟陽において大閲兵を行い、華州に還って屯した。
十年夏五月、太祖は朝廷に入朝した。
秋七月、魏帝は太祖が前後して上奏した二十四条及び十二条の新制が、中興の永式たるべきとし、乃ち尚書蘇綽に命じてこれを更に損益させ、総て五巻とし、天下に頒布した。ここにおいて賢才を捜簡し、牧守・令長と為し、皆新制に依って派遣した。数年之間、百姓はこれを便利とした。
冬十月、白水において大閲兵を行った。
十一年春三月、令を発した。
冬十月、白水において大閲兵を行い、遂に西に狩りて岐陽に至った。
十二年春、涼州刺史宇文仲和が州を拠って反した。瓜州の民張保が刺史成慶を害し、州を以て仲和に応じた。太祖は開府獨孤信を遣わしてこれを討たせた。東魏はその将侯景を遣わして襄州を侵させた。太祖は開府若干惠を遣わして軽騎を率いてこれを撃たせた。穰に至ると、景は遁走した。
夏五月、獨孤信が涼州を平定し、仲和を擒らえ、その民六千余家を長安に遷した。瓜州 都督 令狐延が義を起こして張保を誅し、瓜州は平定された。
七月、太祖は諸軍を咸陽に大いに会した。
九月、斉の神武帝が玉壁を包囲した。大 都督 韋孝寬が力戦して守りを拒み、斉の神武帝は攻囲すること六十日にして下すことができず、その士卒の死者は十の二三に及んだ。時に斉の神武帝に疾あり、営を焼いて退いた。
十三年春正月、茹茹が高平を寇し、方城に至った。この月、斉の神武帝が薨じた。その子の澄が嗣ぎ、これが文襄帝である。その河南大行臺侯景と隙あり、景は自ら安からず、使者を遣わして河南六州を挙げて来附することを請うた。斉の文襄帝はその将韓軌・厙狄干らを遣わして景を潁川に包囲させた。
三月、太祖は開府李弼を遣わして軍を率いてこれを救援させた。軌らは遁走した。景は留まって河南を収輯することを請い、遂に鎮を 豫 州に移した。ここにおいて開府王思政を遣わして潁川を占拠させ、弼は軍を引き還した。
秋七月、侯景は密かに梁に附かんと図る。太祖その謀を知り、前後して景に配した将士を悉く追い還す。景懼れて、遂に叛く。
冬、太祖は魏帝を奉じて西に岐陽に狩す。
十四年春、魏帝詔して太祖の長子毓を寧都郡公に封じ、食邑三千戸とす。初め、太祖は元顥を平げ、孝莊帝を納るるの功により、寧都県子に封ぜられ、ここに至りて県を郡と改め、以て毓に封じ、もって勤王の始めを彰わす。
夏五月、太祖に太師を進授す。太祖は魏太子を奉じて西境を巡撫し、新平より出でて安定に至り、隴に登り、石を刻み事を紀す。安陽を下し、原州に至り、北長城を歴て、大いに狩す。将に東に趣きて五原に至らんとし、蒲川に至り、魏帝の 豫 ばざるを聞き、遂に還る。既に至れば、帝の疾已に愈ゆ。ここにおいて華州に還る。
是の歳、東魏その将高岳・慕容紹宗・劉豊生等を遣わし、衆十余万を率いて王思政を潁川に囲む。
十五年春、太祖は大将軍趙貴を遣わして軍を帥い穣に至らしめ、兼ねて東南諸州の兵を督して以て思政を援けしむ。高岳堰を起こし、洧水を引きて以て城を灌ぐ。潁川以北より皆陂沢と為り、救兵至るを得ず。
夏六月、潁川陥つ。初め、侯景は 豫 州より梁に附き、後遂に江を度り、建業を囲む。梁の司州刺史柳仲禮は本朝に難有るを以て、兵を帥いてこれを援く。梁の竟陵郡守孫暠は郡を挙げて来附す。太祖は大 都督 符貴をして往きてこれを鎮ましむ。及んで景建業を克つに及び、仲禮は司州に還り、衆を率いて来寇す。暠は郡を以て叛く。太祖大いに怒る。
冬十一月、開府楊忠に兵を率いしめ、行臺僕射長孫儉とともにこれを討たしむ。随郡を攻め克つ。忠は進みて仲礼の長史馬岫を安陸に囲む。
是の歳、盗み斉の文襄を鄴に殺す。その弟洋は賊を討ち、これを擒にし、仍ってその事を嗣ぐ。是を文宣帝と為す。
十六年春正月、柳仲礼は衆を率いて安陸を援け来る。楊忠は漴頭にてこれを逆撃し、大いにこれを破り、仲礼を擒にし、その衆を悉く虜う。馬岫は城を以て降る。
三月、魏帝は太祖の第二子震を武邑公に封じ、邑二千戸とす。是に先立ち、梁の雍州刺史・岳陽王詧はその叔父荊州刺史・湘東王繹と睦まず、乃ち蕃を称して来附し、その世子嶚を質と為して遣わす。及んで楊忠仲礼を擒にするに及び、繹懼れて、復たその子方平を遣わして来朝せしむ。
夏五月、斉の文宣その主元善見を廃して自立す。
秋七月、太祖は諸軍を率いて東伐し、章武公導を大将軍に拝し、留守諸軍事を総督せしめ、涇北に屯して以て関中を鎮ましむ。
九月丁巳、軍は長安を出づ。時に雨連なり、秋より冬に及び、諸軍の馬驢多く死す。遂に弘農の北に橋を造り河を済い、蒲坂より還る。ここにおいて河南は洛陽より、河北は平陽より以東、遂に斉に入る。
十七年春三月、魏の文帝崩ず。皇太子位を嗣ぐ。太祖は冢宰として百揆を総ぶ。梁の邵陵王蕭綸は安陸を侵す。大将軍楊忠これを討ちて擒にす。
冬十月、太祖は大将軍王雄を派遣して子午道より出で、上津・魏興を討伐せしめ、大将軍達奚武を派遣して散関より出で、南鄭を討伐せしむ。
魏の廃帝元年春、王雄は上津・魏興を平定し、その地に東梁州を置く。
夏四月、達奚武は南鄭を包囲し、一月余りにして、梁州刺史・宜豊侯蕭循は州を挙げて降伏す。武は循を捕らえて長安に還す。
秋八月、東梁州の民が叛き、衆を率いて州城を包囲す。太祖は再び王雄を派遣してこれを討たしむ。
侯景が建業を陥落させた後、梁の武帝を奉じて主と為す。数旬を経て、梁武帝は憤恚のうちに崩御す。景はまたその子の綱を立てるが、まもなく綱を廃して自ら立つ。一年余り後、綱の弟の繹が景を討ち、これを擒らえ、その舎人魏彦を派遣して来告せしめ、引き続き江陵において位を嗣ぐ。これが元帝である。
二年春、魏帝は詔を下し、太祖に丞相大行臺の官を去らせ、 都督 中外諸軍事と為す。
二月、東梁州が平定され、その豪帥を雍州に移す。
三月、太祖は大将軍・魏安公尉遅迥を派遣して衆を率い、蜀において梁の武陵王蕭紀を討伐せしむ。
夏四月、太祖は精鋭の騎兵三万を率いて西に隴を踰え、金城河を渡り、姑臧に至る。吐谷渾は震懼し、使者を遣わしてその方物を献ず。
五月、蕭紀の潼州刺史楊乾運は州を挙げて降伏し、迥の軍を導いて成都に向かわしむ。
秋七月、太祖は姑臧より長安に至る。
八月、成都を攻克し、剣南が平定される。
冬十一月、尚書元烈が乱を謀るも、事発し、誅せらる。
三年春正月、初めて九命の典を作り、以て内外の官爵を序す。第一品を九命と為し、第九品を一命と為す。流外品を改めて九秩と為し、亦た九を上と為す。又た州郡及び県を改め置く。東雍を華州と改め、北雍を宜州と改め、南雍を蔡州と改め、華州を同州と改め、北華を鄜州と改め、東秦を隴州と改め、南秦を成州と改め、北秦を交州と改め、東荊を淮州と改め、南荊を昌州と改め、東夏を延州と改め、南夏を長州と改め、東梁を金州と改め、南梁を隆州と改め、北梁を静州と改め、陽都を汾州と改め、南汾を勲州と改め、汾州を丹州と改め、南豳を寧州と改め、南岐を鳳州と改め、南洛を上州と改め、南広を淯州と改め、南襄を湖州と改め、西涼を甘州と改め、西郢を鴻州と改め、西益を利州と改め、東巴を集州と改め、北応を輔州と改め、恆州を均州と改め、沙州を深州と改め、寧州を麓州と改め、義州を巌州と改め、新州を温州と改め、江州を沔州と改め、西安を塩州と改め、安州を始州と改め、幷州を随州と改め、肆州を塘州と改め、冀州を順州と改め、淮州を純州と改め、揚州を潁州と改め、司州を憲州と改め、南平を昇州と改め、南郢を帰州と改め、青州を眉州と改む。凡そ州四十六を改め、州一を置き、郡一百六を改め、県二百三十を改む。
元烈が誅せられて以来、魏帝は怨言あり。魏の淮安王育・広平王贊等は涙を垂れてこれを諫むるも、帝は聴かず。ここにおいて太祖は公卿と議を定め、帝を廃し、斉王廓を立てて尊ぶ。これが恭帝である。
魏の恭帝元年夏四月、帝は群臣を大饗した。魏の史官柳虬が朝廷において簡書を執りて曰く、「廃帝は文皇帝の嗣子なり。年七歳の時、文皇帝は安定公に託して曰く、『この子の才は公による、才なきもまた公による、宜しくこれを勉めよ』と。公は既にこの重寄を受け、元輔の任に居り、また女を納れて皇后と為す。遂に訓誨して成す有ること能わず、廃黜せしむるに致り、文皇帝の付属の意に負く。この咎は安定公に非ずして誰ぞや」と。太祖は乃ち太常盧辯に命じて誥を作り公卿を諭さしめて曰く、「嗚呼、我が群后及び衆士よ、文皇帝は襁褓の嗣を予に託し、これを訓えこれを誨え、庶幾くばこれ成る有らんことを。然るに予は能くその心を革変すること罔く、ついに廃せらるるに及び、我が文皇帝の志を墜つ。嗚呼、この咎を予その何にか避けん。予は実にこれを知る、況んや爾ら衆人の心においてをや。惟うに予の顔、豈に今のみ厚からんや、将に来世において予を口実と為すことを恐るるなり」と。乙亥、詔して太祖の子邕を輔城公に、憲を安城公に封じ、邑各二千戸を賜う。茹茹の乙旃達官、広武を寇す。五月、柱国趙貴を遣わしてこれを追撃せしめ、数千級を斬首し、その輜重を収めて還る。
秋七月、太祖西狩して原州に至る。
梁の元帝、使を遣わして旧図に拠りて疆界を定めんことを請い、また斉と連結し、言辞悖慢なり。太祖曰く、「古人に言有り『天の棄つる所は、誰か能くこれを興さん』と、それ蕭繹の謂いか」と。
冬十月壬戌、柱国于謹・中山公護・大将軍楊忠・韋孝寬等に歩騎五万を率いさせてこれを討たしむ。
十一月癸未、師は漢に済る。中山公護と楊忠は鋭騎を率いて先ずその城下に屯し、江津を拠りてその逸するを備う。丙申、謹は江陵に至り、営を列ねて囲み守る。辛亥、進みて城を攻め、その日これを克つ。梁の元帝を擒え、これを殺し、併せてその百官及び士民を虜として帰る。奴婢と為るに没する者十余万、その免るる者二百余家。蕭詧を立てて梁主と為し、江陵に居らしめ、魏の附庸と為す。梁の将王僧辯・陳霸先は丹陽において梁元帝第九子方智を立てて主と為す。
魏氏の初め、国三十六を統べ、大姓九十九有り。後多く絶滅す。是に至り、諸将の功高き者を以て三十六国の後と為し、次功の者を九十九姓の後と為す。統ぶる所の軍人も亦その姓に従いて改む。
二年、梁の広州刺史王琳、辺を寇す。冬十一月、大将軍豆盧寧を遣わして師を帥いこれを討たしむ。
三年春正月丁丑、初めて周礼を行い、六官を建つ。太祖を太師・大冢宰と為し、柱国李弼を太傅と為し、大 司徒 趙貴を太保と為し、大宗伯獨孤信を大司馬と為し、于謹を大司寇と為し、侯莫陳崇を大 司空 と為す。初め、太祖は漢魏の官繁きを以て、前の弊を革めんと思う。大統中、乃ち蘇綽・盧辯に命じて周制に依りてその事を改創せしむ。尋いで亦六卿の官を置く。然れども撰次未だ成らず、衆務猶お臺閣に帰す。是に至りて始めて畢り、乃ちこれを行わしむ。
夏四月、太祖北巡狩す。
秋七月、北河を度る。王琳、使を遣わして来たり附く。琳を大将軍・長沙郡公と為す。魏帝、太祖の子直を秦郡公に、招を正平公に封じ、邑各一千戸を賜う。
九月、太祖疾有り、雲陽に還り至り、中山公護に命じて遺命を受け嗣子を輔けしむ。
冬十月乙亥、雲陽宮に崩ず。長安に還りて発喪す。時に年五十二。甲申、成陵に葬る。諡して文公と曰う。孝閔帝、禅を受け、追尊して文王と為し、廟して太祖と曰う。武成元年、追尊して文皇帝と為す。
太祖は人を知り善く任使し、諫に従うこと流るるが如く、儒術を崇尚し、政事に明達し、恩信物に被り、英豪を駕馭し能く、一見の者、皆命を用いんと思う。沙苑において獲たる囚俘は釈放してこれを用い、河橋の役には率いて撃戦せしめ、皆その死力を得たり。諸将出征するに方略を授くれば、勝たざること無し。性朴素を好み、虚飾を尚ばず、恒に風俗を反し、古始を復するを心と為す。
史臣曰く、水曆将に終らんとし、群凶命を放つ。或いは威権主を震わし、或いは釁逆天に滔ぐ。皆大宝は力征を以てすべく、神物は求得すべしと謂い、鼎を闚𨵦し、両宮を睥睨せざる莫し。然るに誅夷継ぎ及び、亡ぶこと踵を旋らさず。是に巨君の篡盗も終に建武の資を成し、仲潁の凶残も実に当塗の業を啓くを知る。天命底有り、庸ぞ滔くべけんや。
太祖は田一なる無く、衆一旅無し。戎馬の際に馳駆し、行伍の間に躡足す。能に与する時に属し、聖を啓く運に応じ、義勇を鳩集し、同盟を糺合し、一挙にして仇讐を殄ぼし、再駕にして帝室を匡う。ここにおいて内には帷幄に詢い、外には材雄に仗り、至誠を推して人を持ち、大順を弘めて物を訓う。高氏は甲兵の衆を籍とし、戎馬の彊を恃み、屡々近畿に入り、志図吞 噬 す。英謀電発し、神斾風馳するに及び、弘農には城濮の勳を建て、沙苑には昆陽の捷有り。威を取り霸を定め、弱を以て彊と為す。元宗の衰緒を紹ぎ、隆周の景命を創む。南は江漢を清め、西は 巴蜀 を挙げ、北は沙漠を控え、東は伊𤄊に据う。乃ち魏 晉 を擯落し、古昔を憲章し、六官の廃典を修め、一代の鴻規を成す。徳刑並び用い、勲賢兼ね叙し、遠は安んじ邇は悦び、俗は阜く民は和す。億兆の望帰する有り、揖譲の期允に集る。功業此の若きは、人臣として終わる。盛んなり哉。夫れ雄略時に冠たり、英姿世に不なる、天与神授、緯武経文の者に非ずして、誰か能くこれに与らん。昔、漢献蒙塵し、曹公は夾輔の業を成し、晋安播蕩し、宋武は匡合の勲を建つ。徳を校え功を論ずれば、綽乎として余裕有り。
渚宮にて制勝するに至り、闔城を孥戮し、茹茹帰命するも、種を尽くして誅夷す。事は権道より出づるも、用ひるに徳教に乖く。周の祚の永からざるは、或は此れに由るか。