周書
卷一 帝紀第一 文帝上
太祖文皇帝は宇文氏に姓し、諱は泰、字は黒獺、代の武川の人である。その祖先は炎帝神農氏より出で、黄帝に滅ぼされ、子孫は朔野に遁居した。葛烏菟という者あり、雄武にして算略多く、鮮卑はこれを慕い、主として奉じ、遂に十二部落を総べ、代々大人となった。その後、普回という者あり、狩猟の際に玉璽三紐を得、文に「皇帝璽」とあり、普回は心に異とし、天授と為す。その俗、天を宇と謂い、君を文と謂う。因って宇文国と号し、併せて氏と為す。
普回の子莫那、陰山より南に徙り、始めて遼西に居す。是を献侯と曰い、魏の舅生の国と為る。九世にして侯豆帰に至り、慕容晃に滅ぼされる。その子陵は燕に仕え、駙馬都尉に拝され、玄菟公に封ぜられる。魏の道武帝、中山を攻めんとす。陵は慕容宝に従いこれを防ぐ。宝敗れ、陵は甲騎五百を率いて魏に帰し、都牧主に拝され、安定侯の爵を賜う。天興初年、豪傑を代都に徙す。陵は例に随い武川に遷る。陵は系を生み、系は韜を生む。並びに武略を以て称せらる。韜は肱を生む。
肱は任侠あり気幹あり。正光末年、沃野鎮の人破六汗抜陵乱を起こし、遠近多くこれに応ず。その偽署の王衛可孤は徒党最も盛ん。肱は乃ち郷里を糾合して可孤を斬り、その衆は乃ち散ず。後に中山に地を避け、遂に鮮于修礼に陥る。修礼は肱に令してその部衆を還統せしむ。後に定州軍に破られ、陣に歿す。武成初年、追尊して徳皇帝と曰う。
太祖は徳皇帝の少子なり。母は王氏と曰う。孕むこと五月、夜に子を抱いて天に昇る夢を見る。纔に至らずして止む。覚めて徳皇帝に告ぐ。徳皇帝喜びて曰く、「天に至らずとも、貴きこと亦極まれり」と。生まれて黒気あり蓋の如く、下ってその身を覆う。長ずるに及び、身長八尺、方顙広額、美鬚髯、髪長く地に委ね、手を垂れて膝を過ぎ、背に黒子あり、宛転として龍盤の形の若く、面に紫光あり、人望んで畏敬す。少より大度あり、家人の生業に事えず、財を軽んじ施しを好み、賢士大夫と交結す。
少くして徳皇帝に従い鮮于修礼の軍に在り。葛栄、修礼を殺すに及び、太祖時に年十八、栄は遂に将帥を以て任ず。太祖その成る無きを知り、諸兄と謀りて逃避せんと欲す。計未だ行わざるに、会に爾朱栄、葛栄を擒にし、河北を定む。太祖は例に随い晋陽に遷る。栄は太祖兄弟の雄傑なるを以て、或いは己に異なるを懼れ、遂に他罪を託して太祖の第三兄洛生を誅し、復た太祖を害せんと欲す。太祖自ら家の冤を理し、辞旨慷慨、栄感じてこれを免し、益々敬待を加う。
孝昌二年、燕州乱る。太祖始めて統軍として栄に従いこれを征す。是に先立ち、北海王顥、梁に奔る。梁人これを立てて魏主と為し、兵を率いて洛に入ることを令す。魏の孝荘帝、河内に出居してこれを避く。栄は賀抜岳を遣わして顥を討たしめ、仍って孝荘帝を迎えしむ。太祖は岳と旧あり、乃ち別将として岳に従う。孝荘帝の反正するに及び、功を以て寧都子に封ぜられ、邑三百戸、鎮遠将軍・歩兵 校尉 に遷る。
万俟醜奴、関右に乱を起こす。孝荘帝は爾朱天光及び岳等を遣わしてこれを討たしむ。太祖は遂に岳に従い関に入り、先鋒として偽行臺尉遅菩薩等を破る。醜奴を平げ、隴右を定むるに及び、太祖の功多くを占め、征西将軍・金紫光禄大夫に遷り、邑三百戸を増し、直閣将軍を加え、原州事を行なう。時に関隴寇乱し、百姓凋残す。太祖は恩信を以て撫で、民皆悦服す。咸く喜びて曰く、「早く宇文使君に値わば、吾等豈に逆乱に従わんや」と。太祖嘗て数騎を従え野に在り、忽ち簫鼓の音を聞く。以て従人に問う。皆云う、「これを聞くもの莫し」と。
普泰二年、爾朱天光東に斉の神武を拒ぎ、弟顕寿を留めて長安を鎮守せしむ。秦州刺史侯莫陳悦は天光に召され、軍衆を将いて東下せんとす。岳は天光必ず敗るるを知り、悦を留めて共に顕寿を図らんと欲すれど、計出す所無し。太祖、岳に謂いて曰く、「今天光尚ほ近し。悦は未だ二心無し。若しこの事を以てこれに告げば、恐らくはその驚懼せん。然れども悦は主将と雖も、物を制すること能わず。若し先ずその衆を説かば、必ず人に留心有らん。進んで爾朱の期を失い、退いて人情の変動を恐る。この乗に悦を説かば、事遂げざる無からん」と。岳大いに喜び、即ち太祖をして悦の軍に入りてこれを説かしむ。悦は遂に行かず。乃ち相率いて長安を襲い、太祖に軽騎を以て前鋒たらしむ。太祖は顕寿の怯懦なるを策し、諸軍将に至らんとするを聞けば、必ず東走すべく、その遠遁を恐れ、乃ち道を倍して兼行す。顕寿果たして已に東走し、これを華山に追い至り、擒にす。
太昌元年、岳は関西大行臺と為り、太祖を左丞と為し、岳府の司馬を領せしめ、 散騎常侍 を加う。事の巨細を問わず、皆委ねて決せしむ。
斉の神武、爾朱を破りてより、遂に朝政を専らにす。太祖、往きてこれを観んことを請う。既に幷州に至り、斉の神武、岳の軍事を問う。太祖、口に対して雄弁、斉の神武はこれを非常の人と以為い、留めんと欲す。太祖、忠款を詭陳し、乃ち反命を得、遂に星言して道に就く。斉の神武果たして追う者を遣わすも、関に至りて及ばず。太祖還りて岳に謂いて曰く、「高歓は人臣に非ず。逆謀の未だ発せざる所以は、公兄弟を憚るのみ。然れども凡そ大功を立て、社稷を匡さんと欲するは、地勢に因り、英雄を総べずして能く克成するは未だこれ有らざるなり。侯莫陳悦は本実庸材、際会に遭逢し、遂に任委を叨る。既に国を憂うるの心無く、亦高歓に忌まれる所と為らず。但だこれを備え、これを図るは難からず。今、費也頭の控弦の騎一万に下らず、夏州刺史斛抜弥俄突の勝兵の士三千余人、及び霊州刺史曹泥、並びにその僻遠を恃み、常に異望を懐く。河西の流民紇豆陵伊利等、戸口富実にして、未だ朝風を奉ぜず。今若し軍を移して隴に近づき、その要害を扼し、これに威を示し、徳を以て服せば、即ちその士馬を収め、以て吾が軍を実にすべし。西には氐羌を輯め、北には沙塞を撫で、軍を還して長安に至り、魏室を匡輔せん。これ桓文の挙なり」と。岳大いに悦び、復た太祖を遣わして闕に詣で事を請わしめ、密かにその状を陳べしむ。魏帝深くこれを納る。太祖に武衛将軍を加え、還りて岳に報ぜしむ。
岳は遂に軍を引き西に平涼に次す。その衆に謀りて曰く、「夏州は寇賊に隣接し、須らく綏撫を加うべし。如何にして良刺史を得てこれを鎮めしめんや」と。衆皆曰く、「宇文左丞即ちその人なり」と。岳曰く、「左丞は吾が左右の手なり。如何ぞ廃せん」と。沈吟累日、乃ち衆議に従う。ここに於いて太祖を使持節・武衛将軍・夏州刺史と為すことを表す。太祖、州に至る。伊利は風望して款附す。而して曹泥は猶お斉の神武に使を通ず。
魏の永熙三年 (534年) 春正月、賀抜岳は曹泥を討伐しようとし、 都督 の趙貴を夏州に派遣して太祖 (宇文泰) と作戦を協議させた。太祖は言った、「曹泥は孤立した城に籠り遠隔の地にあり、憂慮するに足りない。侯莫陳悦は大軍を恃み近隣にあり、貪欲で信義なく、必ずや禍いとなろう。早くこれを除くことを願う」と。岳は聞き入れず、遂に悦とともに泥を討つこととなった。二月、河曲に至ったとき、岳は果たして悦に害された。その兵士たちは散り散りになって平涼に帰還したが、ただ大 都督 の趙貴のみが配下を率いて岳の遺体を収め本営に戻った。このとき三軍は帰属する所がなく、諸将は 都督 の寇洛が年齢最長であるとして、互いに推し合って洛に軍務の総括を任せた。洛は元より雄大な謀略がなく、威令は行き届かず、そこで諸将に言った、「洛は智謀・能力ともともと欠けており、統率するに適さない。近ごろは衆議に迫られ、推されて暫定的に職務を代行したが、今ここに退き、さらに賢才を選ばれたい」と。そこで趙貴が衆に向かって言った、「元帥 (賀抜岳) は忠誠を尽くし公に節義を立て、朝廷と民間にその誠実さが知られていた。勲功と事業は未だ成就せず、突然に凶暴な害に遭われた。これはただ国が良き宰相を失ったのみならず、まさに衆人が頼る所を失ったのである。必ずや同盟を糾合し、仇を報い恥を雪がねばならぬ。そのためには賢者を選び、諸軍を総統させねばならない。もし適任でない者を推挙すれば、大事は成し難く、たとえ忠義を立てようと志しても、どうして成し遂げられようか。ひそかに宇文夏州 (宇文泰) を観るに、英姿は世に並ぶものなく、雄大な謀略は当代に冠たり、遠近の人心を帰服させ、士卒は命を奉じている。これに法令が整い厳正で、賞罰が厳明であることを加えれば、真に頼りとすべき人物である。今もし喪を告げれば、必ずや難に赴いて来られるであろう。それに乗じて彼を奉戴すれば、大事は成就するであろう」と。諸将は皆これを善しとした。そこで赫連達を命じて夏州に馳せさせ、太祖に告げさせた、「侯莫陳悦は盟誓を顧みず、恩を棄て徳に背き、忠良を賊害しました。群情は憤り嘆き、訴える所がありません。公はかつて管轄の任にあられ、恩信が著しく聞こえております。今は小なる者も大なる者も、皆推戴を願っております。衆人の公を思う気持ちは、一日が一年のように長く、どうか留まらず、衆人の望みを慰めてください」と。太祖がこれに赴こうとしたとき、夏州の官吏と民衆は皆泣いて請うた、「悦は今水洛におり、平涼から遠くないと聞きます。もしすでに賀抜公の軍勢を得ているならば、これを図るのは実に難しいでしょう。どうかしばらく留まり、その変を見守ってください」と。太祖は言った、「悦は元帥を害しながら、自ら勢いに乗じて直ちに平涼を占拠すべきところ、かえって躊躇し、水洛に兵を駐屯させている。私は彼が無能であることを知っている。また、得難く失い易いものは時機であり、一日を待たずに行動すべきものは兆しである。今早く赴かなければ、衆心が自ら離反することを恐れる」と。 都督 の弥姐元進は悦に応じようと企て、密かに太祖を除こうと図った。事が発覚し、斬られた。
太祖はそこで麾下の軽騎を率い、平涼に馳せ赴いた。その時、斉の神武帝 (高歓) が長史の侯景を遣わして岳の軍勢を招き寄せようとしていた。太祖が安定に至ったとき、彼に出会い、景に言った、「賀抜公は死んだが、宇文泰はまだ生きている。卿は何をしているのか」と。景は顔色を失い、答えて言った、「私は矢のようなもので、人の射るに随うのみで、どうして自ら裁断できましょうか」と。景はこの場で即座に帰還した。太祖が平涼に至ると、岳を悼んで甚だ慟哭した。将士は悲しみ且つ喜んで言った、「宇文公が来られたからには、何も憂うことはない」と。
この時、魏の孝武帝は斉の神武帝を除こうと図っており、岳が害されたと聞き、武衛将軍の元毗を遣わして旨を宣べ慰労させ、岳の軍を洛陽に帰還させるよう命じた。毗が平涼に到着したとき、ちょうど諸将がすでに太祖を推戴していた。侯莫陳悦もまた勅命により帰還を命じられたが、悦はすでに斉の神武帝に附いていたため、召しに応じようとしなかった。太祖は諸将に言った、「侯莫陳悦は無実の罪で忠良を害し、さらに詔命にも応じない。これは国の大賊である。どうして容認できようか」と。そこで諸軍に戒厳を命じ、悦を討伐しようとした。
元毗が帰還すると、太祖は魏帝に上表して言った、「臣は以前、故関西大 都督 の臣・岳が誠を尽くして国に奉じながら、横に非命に遭い、三軍は意気を喪い、朝野は痛惜しております。 都督 の寇洛らは、冤みを飲み悲しみを抱き、仇を報い恥を雪ごうと志しております。臣がかつて同じ幕府に在ったことから、苦しい中で要請して結びつけられました。臣はすでに今月十四日、軽装で軍に赴きました。出発の時、すでに別表を奉っております。衆情に迫られ、暫定的に兵事を執り行っております。詔により岳の軍を召して京に入らせるのは、これ国にとって良策であります。しかし高歓の軍勢はすでに河東に至り、侯莫陳悦はなお水洛におります。況んやこの軍士は多くが関西の者であり、皆郷里を恋い慕い、東下を望みません。今、上命をもって迫り、悉く関中へ赴かせようとすれば、悦はその後を追い、歓はその前を遮り、首尾敵を受けて、その勢いは危ういでしょう。臣が王事のために身を滅ぼすのは、誠に甘んじて受けるところですが、国を敗り人を滅ぼすことを恐れ、損うところはより大きいでしょう。どうか少し猶予を賜り、さらに後の図りを考え、徐々に事を誘導し、漸次東進に就かせてください」と。太祖は悦を討つことを志していたが、朝廷の意向を測りかね、かつ兵衆が未だ集まっていなかったため、これを口実とした。そこで元毗及び諸将と共に犠牲を捧げて盟誓し、共に王室を輔けることを誓った。
初め、賀抜岳が河曲に駐屯していたとき、一人の軍吏が独り歩きをしていた。突然、髭眉が真っ白な老翁を見て、彼に言った、「賀抜岳はたとえこの軍勢を擁していても、結局は何も成し遂げられない。一人の宇文家の者が東北から来るであろう。後に必ず大いに栄える」と。言い終わると見えなくなった。この軍吏は常に親しい者にこの話をしていたが、この時になって初めて実証された。
魏帝は太祖に詔して言った、「賀抜岳が既に没し、士衆は帰属する所がない。卿は大 都督 となり、直ちに統率せよ。漸次東下に就きたいとの考えは、まことに言うべくもない。今また侯莫陳悦の兵馬を徴発して京に入らせる。もし来なければ、朕自ら罰を加えるであろう。この意を体して、長く留まることなきように」と。太祖はまた上表して言った、「侯莫陳悦は天に逆らい理に背き、酷く良臣を害しました。自ら専断して殺戮した罪が重いため、恭しく詔命に応じず、水洛に兵を阻み、秦隴において強梁を振るっております。臣は大赦が既に布告されたので、私的な恨みを忍んで抑え、頻りに悦及び 都督 の可朱渾元らが朝廷に帰る時期を問い合わせましたが、悦は使者を拘束し、返答をさせません。その意向を見るに、勢い異なる図りを持つに違いありません。臣は正にこのため、自ら抜け出すことができずにいます。兼ねて衆情に順い、少しの猶予を乞う次第です」と。太祖はそこで悦に書を送って責めたてた。
悦は太祖が自分を謀ろうとしていることを恐れ、偽りの詔書を作って秦州刺史の万俟普撥に与え、悦と党与して援護するよう命じた。普撥はこれを疑い、詔書を封じて太祖に呈上した。太祖はこれを上表して言った、「臣は詔を奉じて平涼の軍を総べるようになってから、責任は重く憂いは深く、安座する暇もありません。兵を訓練し馬に秣をやり、ただ力を尽くすことのみを考えております。以前、人々が本土を恋い慕い、侯莫陳悦が進退を窺っているため、はかりごとを考えて暫くここに留まるのが適当であるとしました。今もし悦を召して内官を授けるならば、臣は旌旗を東に向け、朝に夕にという速さで進軍いたします。朝廷がもし悦を辺境の守りに堪えるとお考えならば、瓜州か涼州の一藩に処することをお願いします。そうでなければ、結局は猜疑と憂いを招き、事に益するところがありません」と。
初め、原州刺史の史帰は岳に親任されていたが、河曲の変事の際、逆に悦に味方して原州を守った。悦はその与党の王伯和と成次安に兵二千を率いさせ、帰を助けて原州を鎮守させた。太祖は 都督 の侯莫陳崇に軽騎一千を率いさせて帰を急襲させ、これを生け捕りにし、次安と伯和らをも捕らえ、平涼に送らせた。太祖は崇を行原州事 (原州事務代行) に上表した。万俟普撥はまたその将の叱干保洛に二千騎を率いさせて軍に従わせた。
三月、太祖は軍を進めて原州に至った。諸軍が悉く集結し、悦を討つ意図を諭すと、士卒は憤りを抱かぬ者はなかった。太祖はそこで上表して言った、「臣は聞く、誓って死をもって恩に酬い、宗族を傾けて主君に報いることは、人倫の急務であり、赴き踏むこと帰るが如しだと。大 都督 の臣・岳が没して以来、臣は頻りに詔を奉じて朝廷に帰還し、馬に秣をやり途に備え、旦を待たずに出発することを志しておりました。ただ、督将以下が皆、『賀抜公は我らを子の如く見てくれた。今、仇と恥が未だ報いられないのに、どうして面目あって世間に処せられようか。もし一度でも冤みと残酷な仕打ちを雪ぐことができれば、万死も恨みに思わない』と称するためです。かつ悦は外には強臣 (高歓) に附き、内には朝廷の旨に背いております。臣は今、上には悪を逐う志を思い、下には節義の士の心を遂げ、天威を恃み、国のために害を除きたいと願っております。大義に順うことに少し背くのは、まさにこの時であります。平定した後は、伏して斧鉞の刑をお待ちいたします」と。
夏四月、兵を率いて隴に上り、兄の子の導を 都督 として留め、原州を鎮守せしむ。太祖の軍令は厳粛にして、秋毫も犯さず、百姓大いに悦ぶ。識者はその成るべきを知る。軍、木峽関を出で、大雨雪、平地二尺。太祖、悦の怯にして猜疑多きを知り、乃ち倍道兼行し、その不意に出づ。悦、果たしてその左右に異志ある者を疑い、左右も亦安からず、衆遂に離貳す。大軍将に至らんとするを聞き、退きて略陽を保ち、一万余りを留めて水洛を据え守らしむ。太祖、水洛に至り、命じてこれを囲ましむると、城降る。太祖、即ち軽騎数百を率いて略陽に趣き、以て悦の軍に臨む。悦大いに懼れ、乃ちその部将を召してこれを議す。皆曰く「この鋒は当たるべからず」と、悦を勧めて上邽に退き保ち、以てこれを避けしむ。時に南秦州刺史李弼も亦悦の軍中にあり、乃ち間道より使者を遣わし、内応たらんことを請う。その夜、悦、軍を出すに、軍中自ら驚き潰え、将卒或いは相率いて来降す。太祖、兵を縦して奮撃し、大いにこれを破る。虜獲すること万余人、馬八千匹。悦とその子弟及び麾下数十騎は遁走す。太祖曰く「悦は本来曹泥と応接す、霊州に向かって走るに過ぎざるべし」と。乃ち原州 都督 の導に命じてその前を邀えしめ、 都督 の賀拔潁等にその後を追わしむ。導、牽屯山に至りて悦に追い及び、これを斬る。太祖、上邽に入り、悦の府庫を収む。財物山積す、皆以て士卒に賞し、毫釐も取る所なし。左右、窃かに一つの銀鏤甕を以て帰る。太祖、知りてこれを罪し、即ち剖いて将士に賜う。衆大いに悦ぶ。
時に涼州刺史李叔仁、その民に執えられ、挙州騒擾す。宕昌羌の梁仚定、吐谷渾を引きいて金城を寇す。渭州及び南秦州の氐・羌連結し、所在蜂起す。南岐より瓜・鄯に至るまで、州を跨ぎ郡を据うる者、数うるに勝えず。太祖、乃ち李弼に命じて原州を鎮守せしめ、夏州刺史の抜也悪蚝に南秦州を鎮守せしめ、渭州刺史の可朱渾元に還って渭州を鎮守せしめ、 衞 将軍の趙貴に行って秦州の事を行わしむ。豳・涇・東秦・岐の四州の粟を徴発して以て軍に給す。
斉の神武、秦隴の克捷を聞き、乃ち使者を太祖に遣わし、甘言厚礼、深く相倚り結ばんとす。太祖、拒みて納れず。時に斉の神武既に異志あり、故に魏帝深く太祖を仗る。乃ち二千騎を徴発して東雍州を鎮守せしめ、助けて声援と為し、仍ち太祖に命じて稍々軍を引きて東せしむ。太祖、乃ち大 都督 の梁禦に歩騎五千を率いさせて河・渭の合口を鎮守せしめ、河東を図るの計と為す。太祖の悦を討つや、悦、使者を遣わして斉の神武に援を請う。神武、その 都督 の韓軌に兵一万を将いさせて蒲坂を据えしむ。而して雍州刺史の賈顯、船を軌に送り、軌の兵の関に入ることを請う。太祖、梁禦の東するに因り、乃ち逼って顯を召して軍に赴かしむ。禦、遂に雍州に入る。
魏帝、著作郎の姚幼瑜を遣わし、節を持たせて軍を労わり、太祖を侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・関西大 都督 ・略陽県公に進め、制を承けて封拜し、使持節は旧に如し。ここにおいて寇洛を以て涇州刺史と為し、李弼を秦州刺史と為し、前略陽郡守の張献を南岐州刺史と為す。盧待伯、代わるを拒み、軽騎を遣わして襲いこれを擒にす。待伯自殺す。
時に魏帝、方に斉の神武を図り、又た兵を徴発す。太祖、乃ち前秦州刺史の駱超を大 都督 と為し、軽騎一千を率いて洛に赴かしむ。太祖を兼ねて尚書僕射・関西大行臺に進授し、余の官封は旧に如し。太祖、乃ち方鎮に檄を伝えて曰く。
太祖、諸将に謂いて曰く「高歓は智足らずと雖も詐余りあり。今声言して西せんと欲すと雖も、その意は洛に入るに在り。吾、寇洛に馬歩一万余りを率いさせ、涇州より東引きせしめんと欲す。王羆に甲士一万を率いさせ、先ず華州を据えしめん。歓若し西来せば、王羆足れて抗拒すべし。其れ洛に入らば、寇洛即ち汾晋を襲わん。吾便ち速やかに駕し、直ちに京邑に赴かん。其の進むに内顧の憂い有らしめ、退くに被躡の勢い有らしめん。一挙して大定せん、此れ上策と為す」と。衆皆称善す。
秋七月、太祖、衆を帥いて高平より発ち、前軍は弘農に至る。而して斉の神武、稍々京邑に逼る。魏帝、親しく六軍を総べ、河橋に屯し、左 衞 の元斌之・領軍の斛斯椿に命じて武牢を鎮守せしめ、使者を遣わして太祖に告ぐ。太祖、左右に謂いて曰く「高歓、数日にして八九百里を行くは、兵を暁する者の忌む所、正に便に乗じてこれを撃つを須う。而るに主上は万乗の重を以て、決戦する能わず、方に津に縁りて据え守る。且つ長河万里、扞禦難し。若し一処度るを得ば、大事去らん」と。即ち大 都督 の趙貴を別道行臺と為し、蒲坂より済り、 并 州に趣かしむ。大 都督 の李賢に精騎一千を将いさせて洛陽に赴かしむ。会うに斌之と斛斯椿と権を争い協わず、斌之遂に椿を棄てて還り、帝に紿いて云く「高歓の兵至る」と。
七月丁未、帝遂に洛陽より軽騎を率いて関中に入る。太祖、儀 衞 を備えて奉迎し、東陽驛に謁見す。太祖、冠を免じて涕泣し謝して曰く「臣、寇虐を式遏する能わず、遂に乗輿の遷幸せしむ。請う、司敗に拘せられ、以て刑書を正さん」と。帝曰く「公の忠節は、朝野に曝く。朕は不徳を以て、負乗して寇を致す。今日相見え、深く厚顔を用う。責は朕躬に在り、謝する労い無し」と。乃ち帝を奉じて長安に都す。草萊を披き、朝廷を立て、軍国の政は、皆太祖の決する所に取る。仍ち加えて大将軍・雍州刺史を授け、兼ねて 尚書令 と為し、略陽郡公に進封す。別に二尚書を置き、機に随い処分せしむ。尚書僕射を解き、余は旧に如し。太祖固く譲る。詔して敦諭す。乃ち受く。初め、魏帝洛陽に在りし時、馮翊長公主を以て太祖に配せんことを許す。未だ結納せざるに、帝西遷す。ここに至り、詔して太祖に尚せしむ。駙馬都尉を拝す。
八月、斉の神武、潼関を襲い陥し、華陰を侵す。太祖、諸軍を率いて霸上に屯し、以てこれを待つ。斉の神武、その将の薛瑾を留めて関を守らしめて退く。太祖、乃ち軍を進めて瑾を討ち、その卒七千を虜い、長安に還る。位を進めて丞相と為す。
冬十月、斉の神武、魏の清河王亶の子善見を推して主と為し、都を鄴に徙す。是れ東魏と為す。
十一月、儀同の李虎を遣わし、李弼・趙貴等とともに霊州において曹泥を討たしむ。虎、河を引いてこれを灌ぐ。明年、泥降る。その豪帥を咸陽に遷す。
閏十二月、魏の孝武帝崩ず。太祖と群公、策を定め、魏の南陽王宝炬を尊立して嗣と為す。是れ文皇帝と為す。