壬寅、円丘に祠る。詔して曰く、「予本より神農より出ず、其の二丘に於いては、宜しく厥の主を作すべし。始祖献侯は、土を遼海に啓き、国基を肇む。南北郊に配す。文考は徳五運に符し、天の明命を受け、明堂に祖して以て上帝に配し、廟を太祖と為す」と。癸卯、方丘に祠る。甲辰、太社に祠る。初めて市門税を除く。乙巳、太廟に祠る。丁未、乾安殿にて百官を会し、班賞各差有り。
戊申、詔して曰く、「上天命有り、魏を革めて周に致し、予一人をして茲の大号を受かしむ。予惟うに古の先聖王は、省視風俗に先んぜざる無く、以て民瘼を求め、然る後に克く治む。況んや予眇眇たるに当たり、又草昧に当たる。若し四聡に達し四目を明らかにするの訓に尚ばざれば、其れ聞き知ること有らんや。有司宜しく方別の使を分命し、所在に巡撫せしむべし。五教何れか宣べざるもの、時政何か便ならざるもの有りや。修身潔己し、才世を佐くるに堪える人を得て、而も上に知られざる無きや。冤枉罰を受け、下に幽辱せらるるの徒有りて、而も上に理められざる無きや。孝義貞節、有司に申さるる所と為らざるもの。鰥寡孤窮、有司に恤れらるる所と為らざるもの。暨ぶに黎庶の衣食豊約、賦役繁省、災厲の興る所、水旱の処:並びに宜しく具に聞くべし。若し年八十已上の者あらば、所在に就きて礼餼を加えよ」と。辛亥、南郊に祠る。壬子、王后元氏を立つ。
乙卯、詔して曰く、「惟れ天地草昧、邦を建てて以て寧んず。今諸国を大いに啓き、周の藩屏と為すべし」と。ここに於いて太師李弼を封じて趙国公と為し、太傅趙貴を楚国公と為し、太保獨孤信を衛国公と為し、大司寇于謹を燕国公と為し、大司空侯莫陳崇を梁国公と為し、大司馬・中山公護を晋国公と為し、邑各一万戸。辛酉、太廟に祠る。癸亥、親しく籍田を耕す。丙寅、剣南陵井に陵州を置き、武康郡に資州を置き、遂寧郡に遂州を置く。
二月癸酉、東郊にて日を朝す。乙亥、永昌郡公広を改封して天水郡公と為す。戊寅、太社に祠る。
丁亥、楚国公趙貴謀反し、誅に伏す。詔して曰く、
太保獨孤信罪有りて免ぜらる。
甲午、大司空・梁国公侯莫陳崇を以て太保と為し、大司馬・晋国公護を大冢宰と為し、柱国・博陵公賀蘭祥を大司馬と為し、高陽公達奚武を大司寇と為し、大将軍・化政公宇文貴を柱国と為す。己亥、秦州・涇州各木連理を献ず。歳星少微を守り、六十日を経る。
三月庚子、文武百官を会し、班賜各差有り。己酉、柱国・衛国公獨孤信に死を賜う。壬子、詔して曰く、「淅州は去歳登らず、厥の民饑饉す。朕用いて慜む。其の当州の租輸未だ畢らざる者は、悉く宜しく之を免ずべし。兼ねて使を遣わし巡検せしめ、窮餌する者有らば、並びに賑給を加えよ」と。癸亥、六府の士員を省き、三分の一を減ず。
夏四月己巳、少師・平原公侯莫陳順を以て柱国と為す。壬申、詔して死罪以下、各一等を降す。壬午、成陵に謁す。乙酉、宮に還る。丁亥、太廟に祠る。
五月癸卯、歳星太微上将を犯し、太白軒轅を犯す。己酉、槐里白鷰を献ず。帝漁を観んと欲して昆明池に至る。博士姜須諫む。乃ち止む。
八月戊辰、太社に祠る。辛未、詔して曰く、「朕大位に臨むこと甫にし、政教未だ孚らず。我が民農をして多く刑網に陷らしむ。今秋律已に応じ、将に大戮を行わんとす。言いて群生を念えば、責は朕に在り。宜しく肆眚に従い、其の新たにせんことを与うべし。其の死を犯す者は宜しく流に降従すべく、流以下は各一等を降す。赦限に在らざる者は、此の降に従わず」と。甲午、詔して曰く、「帝王の天下を治むるは、衆才を博く求めて以て厥の民を乂うに非ざる無し。今二十四軍宜しく賢良治民に堪える者を挙ぐべし。軍列九人。挙げらるるの人、後に於いて厥の任に称わざる者は、挙ぐる所の官司、皆其の罪を治むべし」と。
九月庚申の日、詔を下して曰く、「朕聞く、天下に君臨する者は、一人によるものにあらず、時に上下同心の致すところなり。今、文武の官および諸軍人にして爵封に霑わざる者は、宜しく各々二大階を授くべし」と。太守を改めて郡守と為す。
帝の性は剛果にして、晉公護の政を執るを見て、深くこれを忌む。司會李植・軍司馬孫恆は先朝の佐命を以て、左右に侍し、また護の専を疾み、乃ち宮伯乙弗鳳・賀拔提等と潜かに謀り、帝に請いて護を誅せしむ。帝然りとす。また宮伯張光洛を引きて同謀せしむ。光洛密かに護に白す。護乃ち植を出して梁州刺史と為し、恆を潼州刺史と為す。鳳等遂に自ら安からず、更に帝に奏し、将に羣公を召し入れて、此に因りて護を誅せんとす。光洛またこれを白す。時に小司馬尉遲綱は宿衞兵を総統す。護乃ち綱を召して共に廃立を謀る。綱をして殿中に入り、詐りて鳳等を呼び事を論ぜしむ。既に至るや、次を以て執りて護の第に送り、並びにこれを誅す。綱仍りて禁兵を罷散す。帝方に悟り、左右無く、独り内殿に在り、宮人に兵を持たしめて自ら守らしむ。護また大司馬賀蘭祥を遣わして帝を逼り位を遜らしむ。遂に旧邸に幽し、月余日を経て、以て弑し崩ず。時に年十六。植・恆等も亦害に遇う。
武帝護を誅したる後に及び、乃ち詔して曰く、「始めを慎み終わりを敬うは、国あるの彜典なり。亡き事を存するが如くするは、哲王の通制なり。義は追遠を崇び、礼は尊親を貴ぶ。故に略陽公は至徳純粋にして、天姿秀傑なり。魏の祚の終わりを告げ、宝命将に改まらんとするに属し、謳歌允に集まり、歴数帰する所、上は蒼霊の慶に協い、下は后祇の錫を昭らかにす。而るに禍は肘腋に生じ、釁は蕭牆に起こり、白獣驂を噬み、蒼鷹殿に集まり、神器を幽辱し、乗輿を弑酷し、冤は生民に結び、毒は㝢県に流る。今、河海澄み清く、氛沴消え蕩けり。追尊の礼、宜しく徽号を崇むべし」と。太師・蜀国公(迥)を遣わして南郊に於いて諡を上りて孝閔皇帝と曰い、陵を静陵と曰う。
史臣曰く、孝閔は既に安んぜられたる業を承け、楽推の運に応じ、天を柴い物を竺くし、正位して君臨す。邇くは異言無く、遠くは異望無し。黄初の代徳、太始の終を受くるも、これを尚らず。然れども政は寧氏に由り、主は芒刺の疑いを懐き、祭は則ち寡人、臣に復子の請い無し。これを以て禍を速にす、宜なるかな。