淮南厲王長は、高祖の少子なり。その母は故に趙王張敖の美人なり。高祖八年、東垣より趙を過ぎしに、趙王美人を献ず。厲王の母幸を得たり、身有り。趙王敖敢えて宮内に納れず、外宮を築きて之を捨つ。及び貫高等柏人の事に謀反し発覚し、并せて王を逮治し、王の母兄弟美人を尽く収捕し、河内に繫ぐ。厲王の母も亦繫がれ、吏に告げて曰く、「上に幸を得、身有り」と。吏以て上に聞かす。上方に趙王を怒り、未だ厲王の母を理めず。厲王の母弟趙兼、辟陽侯に因りて呂后に言ふ。呂后妒み、肯て白さず。辟陽侯強ひて争はず。及び厲王の母已に厲王を生み、恚りて即ち自殺す。吏厲王を奉じて上に詣る。上悔ひ、呂后をして之を母ならしめ、而して厲王の母を真定に葬る。真定は、厲王の母の家の在る所なり、父世の縣なり。
高祖十一年七月、淮南王黥布反す。子長を立てて淮南王と為し、黥布の故地を王たしむ、凡そ四郡。上自ら将兵して布を撃ち滅ぼす。厲王遂に即位す。厲王早く母を失ひ、常に呂后に附き、孝惠・呂后の時に以て故に幸を得て患害無し。而して常に心に辟陽侯を怨み、敢えて発せず。及び孝文帝初めに即位し、淮南王自ら最も親しと為し、驕蹇にして、数へて法を奉ぜず。上親しきを以ての故に、常に之を寬赦す。三年、朝に入る。甚だ横なり。上に従ひ苑囿に入り獵し、上と車を同じくし、常に上を「大兄」と謂ふ。厲王材力有り、力能く鼎を扛ぐ。乃ち往きて辟陽侯を請ふ。辟陽侯出でて之を見る。即ち自ら袖の鐵椎を以て辟陽侯を椎き、従者魏敬をして之を剄かしむ。厲王乃ち馳せ走り闕下に至り、肉袒して謝して曰く、「臣が母趙の事に坐すべからず。其の時辟陽侯力能く之を呂后に得るも、争はざるは、罪一なり。趙王如意の子母罪無きに、呂后之を殺すも、辟陽侯争はざるは、罪二なり。呂后諸呂を王たしめ、以て劉氏を危うくせんと欲するも、辟陽侯争はざるは、罪三なり。臣謹みて天下の為に賊臣辟陽侯を誅し、母の仇を報じ、謹みて闕下に伏して罪を請ふ」と。孝文其の志を傷み、親しきを以ての故に、治めず、厲王を赦す。是の時に当たり、薄太后及び太子諸大臣皆厲王を憚る。厲王此を以て国に帰り益々驕恣にし、漢法を用ひず、出入り警蹕を称し、制を称し、自ら法令を為し、天子に擬す。
六年、男子但等七十人をして棘蒲侯柴武の太子奇と謀らしめ、輂車四十乗を以て谷口に反し、人をして閩越・匈奴に使はしむ。事覚え、之を治む。使をして淮南王を召さしむ。淮南王長安に至る。
丞相たる臣張倉、典客たる臣馮敬、行御史大夫事宗正たる臣逸、廷尉たる臣賀、備盜賊中尉たる臣福、昧死して言う。淮南王長は先帝の法を廃し、天子の詔を聴かず、居処に度なく、黄屋蓋乗輿を為し、出入り天子に擬し、法令を擅に為し、漢法を用いず。及び置く所の吏は、其の郎中春を以て丞相と為し、漢諸侯の人及び罪有りて亡ぶ者を聚めて収め、匿して居らしめ、家室を治め為し、其の財物爵祿田宅を賜い、爵或いは関内侯に至り、二千石を以て奉じ、得べからざる所のもの、以て為す有らんと欲す。大夫但、士五開章等七十人と棘蒲侯太子奇と謀反を謀り、以て宗廟社稷を危うくせんと欲す。開章をして陰に長に告げしめ、閩越及び匈奴と謀り其の兵を発せしめしむ。開章の淮南に長を見るや、長数たび坐語飲食を為し、家室を為して婦を娶り、二千石の俸を以て之を奉ず。開章人をして但に告げしめて曰く、已に王に之を言えりと。春使いをして但等に報ぜしむ。吏覚知し、長安尉奇等をして往きて開章を捕えしむ。長匿して与えず、故中尉蕑忌と謀り、殺して以て口を閉ざす。棺槨衣衾を為し、之を肥陵邑に葬り、吏を謾して曰く『安くに在るかを知らず』と。又土を詳かに聚め、其の上に表を樹てて曰く『開章死し、此の下に埋む』と。及び長身自ら賊殺する所の罪無き者一人。吏をして論殺せしむる所の罪無き者六人。亡命棄市の罪を為す者、命を詐りて捕えしむるを以て罪を除く。人を擅に罪し、罪人告劾無く、城旦舂以上に系治する者十四人。罪人を赦免し、死罪十八人、城旦舂以下五十八人。人に爵を賜うこと関内侯以下九十四人。前日長病み、陛下之を憂苦し、使者をして書・棗脯を賜わしむ。長賜を受くるを欲せず、肯て使者に拝見せず。南海の民廬江界中に処る者反し、淮南の吏卒之を撃つ。陛下淮南の民貧苦なるを以て、使者を遣わして長に帛五千匹を賜い、以て吏卒の労苦なる者に賜わしむ。長賜を受くるを欲せず、謾言して曰く『労苦なる者無し』と。南海の民王織上書して璧を皇帝に献ず。忌擅に其の書を燔き、以て聞こえしめず。吏請うて忌を召し治めんとす。長遣わさず、謾言して曰く『忌病む』と。春又長に請うて、願わくは入見せんとす。長怒りて曰く『女我を離れて自ら漢に附せんと欲するか』と。長棄市に当たる。臣請うて法の如く論ぜん。
制して曰く、朕王に法を致すに忍びず。其れ列侯二千石と議せよ。
臣倉、臣敬、臣逸、臣福、臣賀昧死して言う。臣謹みて列侯吏二千石臣嬰等四十三人と議し、皆曰く『長法度を奉ぜず、天子の詔を聴かず、乃ち陰に徒党及び謀反者を聚め、亡命を厚く養い、以て為す有らんと欲す』と。臣等議論す法の如し。
制して曰く、朕王に法を致すに忍びず。其れ長の死罪を赦し、廃して王と為す勿れ。
臣倉等昧死して言う。長大なる死罪有り。陛下法を致すに忍びず、幸いに赦し、廃して王と為す勿れ。臣請うて蜀郡厳道邛郵に処し、其の子母を遣わして従いて居らしめ、県為に家室を筑蓋し、皆廩食して薪菜塩豉炊食器席蓐を給せん。臣等昧死して請う。請うて天下に布告せん。
詔して曰く、「食料を計りて長く肉を給すること日五斤、酒二斗とせよ。故美人才人にして幸を得たる者十人をして従居せしめよ。その他は可なり」と。
謀を共にしたる者をことごとく誅す。ここにおいてすなわち淮南王を遣わし、輜車に載せて、県をして次第に伝送せしむ。この時袁盎上を諫めて曰く、「上はもとより淮南王を驕らせ、厳なる傅相を置かざるにより、故にここに至る。かつ淮南王は人となり剛にして、今暴にこれを摧折す。臣は卒に霧露に逢い病み死するを恐る。陛下は弟を殺すの名有らんこと、いかんせん」と。上曰く、「吾れただこれを苦しむるのみ、今またこれを復す」と。県、淮南王を伝送する者は皆敢えて車の封を発せず。淮南王すなわち侍者に謂いて曰く、「誰か乃公の勇者なるを謂うや。吾れ安んぞ能く勇たらんや。吾れ驕りの故をもって吾が過ちを聞かずしてここに至る。人生一世の間、安んぞ邑邑としてかくの如くならんや」と。すなわち食を絶ちて死す。雍に至り、雍の令封を発し、死を以て聞こゆ。上哭きて甚だ悲しみ、袁盎に謂いて曰く、「吾れ公の言を聴かず、ついに淮南王を亡ぼす」と。盎曰く、「なすべからざるなり、願わくは陛下自ら寛ぜよ」と。上曰く、「これを為すにいかんせん」と。盎曰く、「ただ丞相・御史を斬りて以て天下に謝するのみ可なり」と。上すなわち丞相・御史をして諸県の淮南王を伝送して封を発せず饋侍せし者を逮考せしめ、皆棄市せしむ。すなわち列侯を以て淮南王を雍に葬り、冢を守る者三十戸を置く。
孝文八年、上、淮南王を憐れみ、淮南王に子四人有り、皆七八歳なり。すなわち子安を封じて阜陵侯とし、子勃を安陽侯とし、子賜を陽周侯とし、子良を東成侯とす。
孝文十二年、民に歌を作りて淮南厲王を歌う者有り。曰く、「一尺の布も、尚お縫うべく、一斗の粟も、尚お舂くべし。兄弟二人相容れず」と。上これを聞き、すなわち嘆いて曰く、「堯舜は骨肉を放逐し、周公は管蔡を殺す。天下聖と称す。何者ぞ。私を以て公を害せざるなり。天下豈に我を以て淮南王の地を貪るとなさんや」と。すなわち城陽王を徙して淮南の故地に王たらしめ、而して追尊して淮南王を謚して厲王とし、園を置いて復た諸侯の儀の如くす。
孝文十六年、淮南王喜を徙して復た故の城陽とす。上、淮南厲王の法を廃し軌に従わず、自らして国を失い蚤く死せしむるを憐れみ、すなわちその三子を立てる。阜陵侯安を淮南王とし、安陽侯勃を衡山王とし、陽周侯賜を廬江王とす。皆復た厲王の時の地を得て、参分す。東城侯良は前に薨じ、後無し。
孝景帝三年、呉楚七国が反乱を起こし、呉の使者が淮南に至ると、淮南王は兵を起こしてこれに応じようとした。その相が言うには、「大王が必ず兵を起こして呉に応じようとなさるなら、臣が将となりたい」と。王はそこで相に兵を委ねた。淮南の相はすでに兵を率いると、城を守り固め、王に従わず漢のために尽くした。漢もまた曲城侯に兵を率いさせて淮南を救援させた。淮南はこの故に完存を得た。呉の使者が廬江に至ると、廬江王は応じず、使者を越に往来させた。呉の使者が衡山に至ると、衡山王は堅く守って二心がなかった。孝景帝四年、呉楚がすでに破られると、衡山王は朝見し、上は彼が貞信であると考え、労苦をねぎらって言うには、「南方は低く湿っている」と。衡山王を済北に移して王とし、これをもって彼を褒めた。そして薨ずると、遂に諡を賜って貞王とした。廬江王は越と境を接し、しばしば使者を派遣して交わりあったので、衡山王に移され、江北を王とした。淮南王はもとのままである。
淮南王劉安は人となり、読書と琴を好み、弋猟や狗馬を馳せ回すことを喜ばず、また陰徳を行って百姓を撫循し、天下に名誉を流布させようとした。時に厲王(父の劉長)の死を怨み望み、時に畔逆を企てたが、機会がなかった。建元二年に至り、淮南王は入朝した。平素から武安侯(田蚡)と親しく、武安侯は当時太尉であったので、王を覇上で迎え、王に語って言うには、「今上に太子がなく、大王は親しく高皇帝の孫であり、仁義を行い、天下に聞こえざるはない。もし宮車が一日晏駕すれば、大王でなくて誰が立つべきであろうか」と。淮南王は大いに喜び、武安侯に金銭財物を厚く贈った。密かに賓客を結び、百姓を撫循し、畔逆の事を図った。建元六年、彗星が現れると、淮南王は心怪しんだ。ある者が王に説いて言うには、「かつて呉軍が起こった時、彗星が出て数尺の長さであったが、それでもなお流血千里であった。今彗星は天を貫くほど長く、天下の兵が大いに起こるであろう」と。王は心の中で、上に太子がなく、天下に変事があれば、諸侯が争いを起こすと考え、ますます器械や攻戦の具を整え、金銭を蓄積して郡国諸侯の遊士や奇材に賂を贈った。諸弁士で方策を立てる者は、妄りに妖言を作り、王に諂諛し、王は喜び、多く金銭を賜い、謀反はますます甚だしくなった。
淮南王に娘の陵がおり、聡明で口弁に優れていた。王は陵を愛し、常に多く金銭を与え、長安の偵察をさせ、上の左右の者と約束を結ばせた。元朔三年、上は淮南王に几杖を賜い、朝見を免除した。淮南王の王后の荼は、王が寵愛した。王后は太子の遷を生んだ。遷は王皇太后の外孫である修成君の娘を妃に娶った。王が反乱の具を謀ると、太子妃が知って内情を漏らすことを恐れ、太子と謀り、偽って愛さないようにさせ、三ヶ月間同じ席に就かせなかった。王はそこで太子に怒っているふりをし、太子を閉じ込めて妃と同じ内室に三ヶ月間させたが、太子は終に妃に近づかなかった。妃は去ることを求め、王は上書して謝罪し、帰して去らせた。王后の荼、太子の遷、および娘の陵は王の愛幸を得て、国権を擅にし、民の田宅を侵奪し、妄りに人を拘禁した。
元朔五年、太子は剣術を学び、自ら人に及ぶ者なしと思い、郎中雷被の巧みであることを聞き、乃ち召して試合をさせた。被は再三辞退したが、誤って太子に当たった。太子は怒り、被は恐れた。この時、軍に従おうとする者は即ち京師に赴くことあり、被は即ち匈奴を奮撃することを願った。太子遷はしばしば被のことを王に悪く言い、王は郎中令に命じて斥免させ、以て後を禁じようとした。被は遂に亡命して長安に至り、上書して自らを弁明した。詔してその事を廷尉・河南に下す。河南が取り調べ、淮南太子を逮捕しようとした。王と王后は太子を遣わさないことを計り、遂に兵を発して反乱を起こそうとしたが、計らいは躊躇し、十数日決まらなかった。ちょうど詔があり、即ち太子を訊問することとなった。この時、淮南相は寿春丞が太子の逮捕を留めて遣わさないことに怒り、不敬を弾劾した。王は相に請うたが、相は聴かなかった。王は人を遣わして上書し相を告発した。事は廷尉に下って取り調べられた。跡は王に連なり、王は人を遣わして漢の公卿を窺わせた。公卿は王を逮捕して取り調べることを請うた。王は事の発覚を恐れ、太子遷は謀って言った、「漢の使者がもし王を逮捕しようとするならば、王は人に衛士の衣を着せ、戟を持たせて庭中に居らせ、王の傍に不審なことがあれば、即ち刺し殺させよ。臣もまた人を遣わして淮南中尉を刺し殺し、その後に兵を挙げても遅くはない。」この時、上は公卿の請いを許さず、漢中尉宏を遣わして即ち王を訊問し検証させた。王は漢の使者が来ると聞き、即ち太子の謀計の通りにした。漢中尉が至ると、王はその顔色が和やかなのを見、王を雷被の斥免の事について訊問しただけで、王は自ら度るに何もないと思い、発動しなかった。中尉は帰り、以て上聞した。取り調べた公卿は言った、「淮南王安は奮撃匈奴の者雷被等を阻み、明詔を廃格した。棄市に当たる。」詔して許さず。公卿は廃して王とせぬことを請うたが、詔して許さず。公卿は五県を削ることを請うたが、詔して二県を削った。中尉宏を遣わして淮南王の罪を赦し、削地を以て罰した。中尉は淮南の界に入り、王を赦すことを宣言した。王は初め漢の公卿が誅することを請うたと聞き、削地を得ることを知らず、漢の使者が来ると聞き、その逮捕を恐れ、乃ち太子と謀り前の計らいの通りに刺殺しようとした。中尉が至ると、即ち王を賀したので、王はこの故に発動しなかった。その後、自ら傷んで言った、「吾は仁義を行って削地されるを見た。甚だ恥ずかしい。」然るに淮南王は削地された後、その反逆の謀りは益々甚だしくなった。長安から来る諸々の使者の道中で、妄りに妖言を為し、上に男子なし、漢は治まらずと言えば、即ち喜び、即ち漢廷が治まり、男子ありと言えば、王は怒り、妄言であると思い、そうではないとした。
王は日夜、伍被・左吳等と輿地図を案じ、兵の従って入る所を部署した。王は言った、「上に太子がなく、宮車が即ち晏駕すれば、廷臣は必ず膠東王を徴し、あるいは常山王を立てるであろう。諸侯併せて争う時、吾は備えなくてよいであろうか。且つ吾は高祖の孫、親しく仁義を行い、陛下は我を厚く遇するが、吾はこれを忍ぶことができる。万世の後、吾は寧ろ北面して臣事し、豎子に事えようか。」
王は東宮に坐し、伍被を召して謀りて曰く、「将軍上れ」と。被は悵然として曰く、「上は寛赦して大王を赦し給う、王復た安んぞ此の亡国の語を得んや。臣聞く、子胥呉王を諫む、呉王用いず、乃ち曰く『臣今見る麋鹿姑蘇の台に遊ぶを』と。今臣も亦た宮中に荊棘生じ、露衣を霑すを見るなり」と。王怒り、伍被の父母を繫ぎ、之を囚すること三月。復た召して曰く、「将軍寡人に許すか」と。被曰く、「否、直ちに来たりて大王の為に画すのみ。臣聞く、聡なる者は声無きに聴き、明なる者は形未だならざるに見る、故に聖人は万挙して万全なり。昔文王一動して功千世に顕れ、三代に列す、此れ所謂天心に因りて動作する者なり、故に海内期せずして随う。此れ千歳に見るべき者なり。夫れ百年の秦、近世の呉楚も、亦た以て国家の存亡を諭するに足る。臣敢えて子胥の誅を避けず、願わくは大王呉王の聴く所と為ること無かれ。昔秦聖人の道を絶ち、術士を殺し、詩書を燔し、礼義を棄て、詐力を尚び、刑罰を任じ、負海の粟を転じて之を西河に致す。是の時に当たり、男子疾耕して糟糠に足らず、女子紡績して形を蓋うに足らず。蒙恬を遣わして長城を筑かしむること、東西数千里、暴兵露師常に数十万、死者勝えず数うべからず、僵尸千里、流血頃畝、百姓力竭き、乱を為さんと欲する者十家にして五。又た徐福をして海に入り神異物を求めしむ、還りて偽辞を為して曰く、『臣海中の大神を見る、言うに曰く、「汝西皇の使なるか」と。臣答えて曰く、「然り」と。「汝何を求むるか」と。曰く、「願わくは延年益寿の薬を請わん」と。神曰く、「汝秦王の礼薄し、観るを得て取るを得ず」と。即ち臣に従いて東南に至り蓬莱山に至り、芝成る宮闕を見る、使者有り銅色にして龍形、光上りて天を照す。是に於いて臣再拝して問いて曰く、「宜しく何を以て資とし献げん」と。海神曰く、「令名の男子若しくは振女と百工の事を以てせよ、即ち之を得ん」と』と。秦皇帝大いに説び、振男女三千人を遣わし、之に五穀種種百工を資して行かしむ。徐福平原広沢を得て、止まり王して来らず。是に於いて百姓悲痛相思し、乱を為さんと欲する者十家にして六。又た尉佗をして五嶺を踰え百越を攻めしむ。尉佗中国の労極まるを知り、止まり王して来らず、人をして上書せしめ、夫家無き女三万人を求め、以て士卒の衣補と為さんことを請う。秦皇帝其の万五千人を可とす。是に於いて百姓心離れ瓦解し、乱を為さんと欲する者十家にして七。客高皇帝に謂いて曰く、『時至れり』と。高皇帝曰く、『之を待て、聖人当に東南の間に起らん』と。一年ならずして、陳勝呉広発つ。高皇始めて豊沛に於いて、一たび倡えば天下期せずして響応する者勝えず数うべからずなり。此れ所謂瑕を蹈み間を候い、秦の亡ぶるに因りて動く者なり。百姓之を願うこと、旱の雨を望むが若し、故に行陳の中に起りて天子と立つ、功三王に高く、徳無窮に伝わる。今大王高皇帝の天下を得るの易きを見るも、独り近世の呉楚を観ざるか。夫れ呉王賜号して劉氏の祭酒と為し、復た朝せず、四郡の衆を王し、地方数千里、内に消銅を鑄して以て銭と為し、東に海水を煑いて以て塩と為し、上り江陵の木を取って以て船と為す、一船の載する所中国の数十両車に当たり、国富み民衆し。珠玉金帛を行きて諸侯宗室大臣に賂り、独り竇氏与せず。計定まり謀成り、兵を挙げて西す。大梁に破れ、狐父に敗れ、奔走して東し、丹徒に至り、越人之を禽え、身死し祀絶え、天下の笑いと為る。夫れ呉越の衆を以てして成功せざるは何ぞや。誠に天道に逆らいて時を知らざるなり。方今大王の兵衆呉楚の十分の一に能わず、天下安寧秦の時の万倍有り、願わくは大王臣の計に従え。大王臣の計に従わずんば、今大王の事必ず成らずして語先ず泄るるを見ん。臣聞く、微子故国を過ぎて悲しみ、是に於いて麦秀の歌を作る、是れ紂の王子比干を用いざるを痛むなり。故に孟子曰く『紂貴きこと天子と為るも、死して曾て匹夫に若かず』と。是れ紂先ず自ら天下に絶つこと久し、死するの日に非ずして天下之を去る。今臣も亦た窃かに大王千乗の君を棄て、必ず且つ絶命の書を賜わり、群臣に先んじ、東宮に死せんことを悲しむ」と。是に於いて王気怨み結びて揚がらず、涕匡に満ちて横に流れ、即ち起ち、階を歴りて去る。
王には庶子の不害がおり、最も年長であったが、王はこれを愛さず、王と王后と太子は皆これを子や兄の数に入れなかった。不害には子の建があり、才能高く気概があり、常に太子がその父を省みないことを怨み望んだ。また、当時諸侯は皆子弟を分けて侯とすることができたのに、淮南だけは二人の子のうち、一人は太子であり、建の父だけは侯となることができなかったことを怨んだ。建はひそかに交わりを結び、太子を告発して敗れさせ、その父を代わらせようとした。太子はこれを知り、しばしば建を捕らえて獄につなぎ、鞭打った。建は太子が漢の中尉を殺そうと謀っていることを詳しく知り、すぐに親しい寿春の荘芷を使わして元朔六年に天子に上書させて言った。「毒薬は口に苦くして病に利あり、忠言は耳に逆らいて行いに利あり。今、淮南王の孫の建は才能が高く、淮南王の王后の荼と荼の子の太子の遷は常に建を憎み害そうとする。建の父の不害は罪なく、勝手にしばしば捕らえて獄につなぎ、これを殺そうとする。今、建がいるので、召し出して問うことができ、淮南の陰事を詳しく知ることができる。」上書が聞こえ、上はその事を廷尉に下し、廷尉は河南に下して治めさせた。この時、故辟陽侯の孫の審卿は丞相の公孫弘と親しく、淮南厲王がその祖父を殺したことを怨み、弘に深く淮南の事を買い求めたので、弘は淮南に畔逆の計謀があるのではないかと疑い、深くその獄を窮めて治めた。河南が建を治めると、その供述は淮南の太子とその党与に及んだ。淮南王はこれを憂え、挙兵しようと思い、伍被に問うて言った。「漢廷は治まっているか乱れているか。」伍被は言った。「天下は治まっています。」王は気に入らず、伍被に言った。「公はどうして天下が治まっていると言うのか。」被は言った。「私はひそかに朝廷の政、君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序を観ますに、皆その理を得ており、上の挙措は古の道に遵い、風俗紀綱に欠けるところがありません。重装の富賈は天下を周流し、道として通ぜざるなく、故に交易の道行われます。南越は賓服し、羌僰は入献し、東甌は入降し、長榆を広め、朔方を開き、匈奴は翅を折り翼を傷つけ、援を失って振るわず。古の太平の時に及ばないまでも、それでもなお治まっていると言えます。」王は怒り、被は死罪を謝した。王はまた被に言った。「山東に即ち兵があれば、漢は必ず大将軍をして将とさせて山東を制するであろうが、公は大将軍をどのような人だと思うか。」被は言った。「私の親しい者に黄義という者がおり、大将軍に従って匈奴を撃ち、帰還して私に告げて言いました。『大将軍は士大夫に遇するに礼あり、士卒に対しては恩あり、衆は皆喜んでこれを用いられます。騎は山を上下するに飛ぶが如く、材幹は人に絶しています。』私は才能がこのようであると思い、しばしば将兵して習熟しており、容易に当たりがたいと思いました。また謁者の曹梁が長安から使いして来て、大将軍は号令明らかで、敵に当たって勇敢であり、常に士卒に先んじると言いました。休んで宿るとき、井戸を穿ってまだ通じないうちは、士卒が皆水を得るのを待って、初めて敢えて飲みます。軍が罷むと、卒が皆既に河を渡ってから、初めて渡ります。皇太后の賜うところの金帛は、尽く以て軍吏に賜います。古の名将もこれを過ぎることはありません。」王は黙然とした。
淮南王は建が既に召喚されて取り調べを受けているのを見て、国の隠れた事柄がやがて露見することを恐れ、挙兵しようとしたが、被はまたこれを難しいと考えたので、王はさらに被に問うて言った、「貴公は呉が兵を起こしたことを是とするか、否とするか」と。被は言った、「否と存じます。呉王は富貴の極みにありましたが、挙事が当を得ず、身は丹徒で死に、頭と足は別々の場所にあり、子孫は残る類がありません。臣は聞くに、呉王はこれを非常に悔いたと。願わくは王が熟慮され、呉王の悔いたところとならぬようになさいますように」と。王は言った、「男子の死ぬるは一言によるのみ。しかも呉は何をもって反逆を知ったというのか、漢の将軍は一日に成皋を過ぎる者四十余人に及ぶ。今、我が楼緩に先んじて成皋の口を扼せしめ、周被に潁川の兵を率いて轘轅・伊闕の道を塞がせ、陳定に南陽の兵を発して武関を守らせよう。河南太守はただ雒陽を有するのみで、何ぞ憂うるに足らん。しかし、この北にはなお臨晋関・河東・上党及び河内・趙国がある。人の言うところに『成皋の口を絶てば、天下通ぜず』と。三川の険に拠り、山東の兵を招き、挙事することこの如くならば、貴公はどう思うか」と。被は言った、「臣はその禍を見るも、未だその福を見ず」と。王は言った、「左呉・趙賢・朱驕如は皆、福ありとし、十の事九つ成るとするのに、貴公のみ禍ありて福なしとされるのは、何故か」と。被は言った、「大王の群臣近幸で、平素より衆を使うことのできる者は、皆以前に詔獄に繋がれ、余りは用いるに足る者なし」と。王は言った、「陳勝・呉広は立錐の地もなく、千人の集まりで、大沢に起こり、臂を奮って大呼すれば天下これに応じ、西は戯に至って兵百二十万となった。今、我が国は小なりといえども、勝兵を得ること十余万に及び、ただ適戍の衆や、釠鑿棘矜の類ではない。貴公は何をもって禍ありて福なしと言うのか」と。被は言った、「往昔、秦は無道にして、天下を残賊した。万乗の駕を興し、阿房の宮を作り、太半の賦を収め、閭左の戍を発し、父は子を安んぜず、兄は弟を便ぜず、政は苛にして刑峻く、天下熬然として焦がるが如く、民は皆首を伸べて望み、耳を傾けて聴き、悲号して天を仰ぎ、心を叩いて上を怨んだ。故に陳勝が大呼すれば、天下これに応じたのである。当今、陛下は天下に臨み制し、海内を一斉にし、蒸庶を汎く愛し、徳を布き恵を施しておられる。口には未だ言わずとも、声は雷霆の如く疾く、令は未だ出でずとも、化は神の如く馳せ、心に懐くところあれば、威は万里を動かし、下の上に応ずるは、影の形に響くが如きものである。しかるに大将軍の材能は、章邯・楊熊に特段優れているわけではない。大王が陳勝・呉広をもってこれを諭されるのは、被は過ちであると考えます」と。王は言った、「もし貴公の言う通りならば、僥倖を図ることはできないのか」と。被は言った、「被に愚計があります」と。王は言った、「どうするのか」と。被は言った、「当今、諸侯に異心なく、百姓に怨気なし。朔方の郡は田地広く、水草美しく、民を徙らせてもその地を実にするに足りない。臣の愚計は、丞相・御史の請書を偽造し、郡国の豪桀任侠及び耐罪以上の者を徙らせ、赦令をもってその罪を除き、産五十万以上の者は、皆その家属を朔方の郡に徙らせ、甲卒を益々発し、その会日の期日を急がせることです。また、左右都司空・上林中都官の詔獄逮書を偽造し、諸侯の太子・幸臣を逮うる。このようにすれば、民は怨み、諸侯は懼れ、すぐに弁武の士を遣わしてこれに説き従わせ、あるいは僥倖に十の一を得ることができるかもしれません」と。王は言った、「これはよかろう。しかしながら、我はここまでには至らないと思う」と。ここにおいて王は官奴を宮中に入らせ、皇帝の璽、丞相・御史・大将軍・軍吏・中二千石・都官令・丞の印、及び傍近の郡の太守・都尉の印、漢の使節・法冠を作らせ、伍被の計の如くにしようとした。人を使わして偽って罪を得て西に行かせ、大将軍・丞相に事えさせ、一日兵を発すれば、人を使わしてすぐに大将軍青を刺殺し、丞相を説いてこれを下らせようとした。それは蒙を発くが如きものだと。
王は国中の兵を発動しようとしたが、その相や二千石が従わないことを恐れた。王はそこで伍被と謀り、まず相と二千石を殺すこととした。偽って宮中で火事を起こし、相と二千石が救火に来たところを殺そうというのである。計略がまだ決まらないうちに、また人に求盗の衣を着せ、羽檄を持たせて東方から来させ、「南越の兵が国境に入った」と叫ばせ、これに乗じて兵を発動しようとも考えた。そこで廬江や会稽に人を遣わして求盗を装わせたが、まだ実行には移さなかった。王が伍被に問うて言うには、「我が兵を挙げて西に向かえば、諸侯の中には必ず我に応じる者があろう。仮に応じる者がいなければ、どうすればよいか」。被は言う、「南方に衡山を収めて廬江を撃ち、尋陽の船を手に入れ、下雉の城を守り、九江の浦に拠点を結び、豫章の口を遮断し、強弩を臨江に配置して守りを固め、南郡の進出を禁じ、東方に江都・会稽を収め、南方に勁越と通じ、江淮の間に屈強に立てば、なおしばらくの歳月を延ばすことができましょう」。王は言う、「善い、これに代わる策はない。危急の際には越に逃れるのみである」。
ここにおいて廷尉は、王孫建の供述が淮南王の太子遷に連なることを聞き届けた。上は廷尉監を遣わし、淮南中尉に任命して太子を逮捕させた。淮南に至ると、淮南王はこれを聞き、太子と謀って相と二千石を召し、殺して兵を起こそうとした。相を召すと、相は来た。内史は外出を理由に来なかった。中尉は言う、「臣は詔を受けて使いに来たのであり、王にお目にかかることはできません」。王は考えた、ただ相を殺すだけで内史や中尉が来なければ無益であると。そこでただちに相を罷免した。王は躊躇し、計略は決まらなかった。太子は考えた、自分が罪に問われるのは漢の中尉を謀殺したことであり、共謀者はすでに死んでおり、口が絶えたと思い、そこで王に言うには、「群臣で用いるべき者は皆以前に捕らえられており、今は挙事に足る者はいません。王が時ならぬ時に発動されれば、功のないことを恐れます。臣は逮捕に応じたい」。王もまた密かに事を止めたいと思い、ただちに太子を許した。太子はただちに自ら剄して死のうとしたが、死にきれなかった。伍被は自ら役人のもとに赴き、そこで淮南王と謀反を図ったことを告発し、謀反の跡はことごとくこのようであったと述べた。
役人はそこで太子と王后を捕らえ、王宮を包囲し、国中にいる王と謀反を図った賓客をことごとく捕らえ求め、謀反の証拠品を探し出して上聞に達した。上は公卿に下して処断させ、淮南王の謀反に連座して引き出された列侯・二千石・豪傑数千人は、皆その罪の軽重によって誅殺された。衡山王賜は、淮南王の弟であり、連座して収監されるべきところであったが、有司が逮捕を請うた。天子は言う、「諸侯はそれぞれその国を本とすべきであり、相坐すべきではない。諸侯王・列侯に丞相・諸侯と会議させて議せよ」。趙王彭祖・列侯臣譲ら四十三人が議し、皆言うには、「淮南王安は甚だ大逆無道であり、謀反は明白である。誅に伏すべきである」。膠西王臣端が議して言うには、「淮南王安は法を廃し邪を行い、詐偽の心を抱き、もって天下を乱し、百姓を惑わし、宗廟に背き、妄りに妖言を作す。春秋に『臣に将無し、将すれば誅す』とある。安の罪は将よりも重く、謀反の形は既に定まっている。臣端の見る所、その書簡・印・図その他の逆無道の事実は明白であり、甚だ大逆無道である。その法に伏すべきである。そして国吏の二百石以上及びこれに準ずる者、宗室や近幸の臣で法に掛からない者について、互いに教戒できなかった者は、皆免官し爵を削って士伍とし、再び吏として官に就くことを許さない。それらが吏でない者については、他の者は死罪を贖うに金二斤八両を以てせよ。これをもって臣安の罪を明らかにし、天下に臣子の道を明らかに知らしめ、再び邪僻背畔の意を抱かせないようにすべきである」。丞相弘・廷尉湯らがこれを上聞すると、天子は宗正に符節を持たせて王を処断させた。未だ到らぬうちに、淮南王安は自ら剄して死んだ。王后荼・太子遷、および諸々の謀反に与った者は皆族誅された。天子は伍被がその言葉に漢の美を多く引き合いに出していたため、誅することを欲しなかった。廷尉湯は言う、「被はまず王のために謀反の策を画き、被の罪は赦すべきではない」。そこで遂に被を誅した。国は除かれて九江郡となった。
衡山王劉賜は、王后の乗舒が三人の子を生み、長男の爽は太子となり、次男は孝、次女は無采であった。また、側室の徐来が男女四人の子を生み、美人の厥姫が二人の子を生んだ。衡山王と淮南王は兄弟で礼節を責め合い、仲が悪かった。衡山王は淮南王が反逆の準備をしていると聞き、自らも心に秘めて賓客を結集してこれに応じようとしたが、併呑されることを恐れた。
元光六年、衡山王が入朝したとき、その謁者である衛慶は方術を持ち、天子に上書して仕えようとしたが、王は怒り、故意に慶を死罪に問い、拷問で自白させた。衡山国内史はこれを不当と考え、その獄を退けた。王は人を遣わして内史を上告したが、内史が取り調べ、王が道理に合わないと述べた。王はまたしばしば民の田を侵奪し、人の墳墓を壊して田とした。有司が衡山王を逮捕して処罰するよう請うたが、天子は許さず、二百石以上の官吏を置いた。衡山王はこれに憤り、奚慈・張広昌と謀り、兵法や星気を占うことができる者を求め、日夜、王に従容として密かに反逆のことを勧めた。
王后の乗舒が死ぬと、徐来を立てて王后とした。厥姫もともに寵愛された。二人は互いに嫉妬し、厥姫は太子に王后の徐来を讒言して言うには、「徐来が婢に蠱道を使わせて太子の母を殺させた」と。太子は心に徐来を怨んだ。徐来の兄が衡山に来たとき、太子は彼と酒を飲み、刃物で王后の兄を刺し傷つけた。王后は怨み怒り、しばしば太子を王の前で悪く言った。太子の妹の無采は、嫁いで離縁されて帰り、奴隷と姦通し、また賓客とも姦通した。太子はしばしば無采を責めたので、無采は怒り、太子と通じなくなった。王后はこれを聞くと、すぐに無采を厚く遇した。無采と次兄の孝は幼くして母を失い、王后に付き従い、王后は計略をもって彼らを愛し、ともに太子を誹謗したので、王はこのためしばしば太子を鞭打った。元朔四年中、王后の養母を賊が傷つける者があった。王は太子が人を遣わして傷つけたのではないかと疑い、太子を鞭打った。後に王が病気になると、太子は時に病気と称して侍らなかった。孝と王后、無采は太子を悪く言い、「太子は実際には病気ではなく、病気と言いながら、喜んでいる顔色がある」と。王は大いに怒り、太子を廃してその弟の孝を立てようとした。王后は王が太子を廃することを決めたと知ると、さらに孝もともに廃そうと考えた。王后には侍者がいて、舞が上手く、王はこれを寵愛した。王后は侍者に孝と乱行させて彼を汚し、兄弟をともに廃して自分の子の広を立てて太子に代えようとした。太子の爽はこれを知り、后がしばしば己を悪く言うのを止める時がないことを思い、乱行してその口を止めようとした。王后が酒を飲んでいるとき、太子は前に進んで寿を祝し、王后の腿に寄りかかり、王后と寝ることを求めた。王后は怒り、王に告げた。王は太子を召し出し、縛って鞭打とうとした。太子は王が常に己を廃して弟の孝を立てようとしていることを知り、王に言うには、「孝は王の御者と姦通し、無采は奴隷と姦通しています。王はどうかご自愛ください。上書いたします」と。すぐに王に背いて去った。王は人を遣わして止めさせたが、禁じることができず、自ら車を駕して太子を追捕した。太子は妄りに悪言を吐いたので、王は太子を械にかけて宮中に拘禁した。孝は日に日に親しく寵愛されるようになった。王は孝の才能を珍しいと思い、王の印を佩かせ、将軍と号し、外宅に住まわせ、多額の金銭を与え、賓客を招致させた。来た賓客は、淮南・衡山に逆心の計画があることを微かに知り、日夜、従容としてこれを勧めた。王は孝の賓客である江都人の救赫・陳喜に輣車や鏃矢を作らせ、天子の璽を刻み、将相や軍吏の印を刻ませた。王は日夜、周丘のような壮士を求め、しばしば呉楚の反乱時の計画を引き合いに出して、規律を定めた。衡山王は淮南王のように天子の位を求めることを敢えてせず、淮南が起こって自国を併呑することを恐れ、淮南がすでに西に向かえば、兵を発して江淮の間を平定してこれを有し、このようになることを望んだのである。
元朔五年の秋、衡山王は朝見すべき時であったが、六年に淮南を過ぎたとき、淮南王は兄弟として語り合い、以前のわだかまりを除き、反逆の準備について約束した。衡山王はすぐに上書して病気を理由に謝罪し、上は書を賜って朝見しなくてもよいとした。
元朔六年のうちに、衡山王は人を遣わして上書し、太子爽を廃し、孝を太子に立てることを請うた。爽はこれを聞き、すぐに親しくしている白嬴を長安に遣わして上書させ、孝が輣車と鏃矢を作り、王の御者と姦通し、孝を陥れようとしていると述べた。白嬴が長安に至ったが、まだ上書するに及ばず、吏が嬴を捕らえ、淮南の事件に連座して拘束した。王は爽が白嬴を使者として上書させたと聞き、国の陰事を言われることを恐れ、すぐに上書して反対に太子爽の不道で棄市に値する罪状を告げた。事件は沛郡に下って審理された。元狩元年の冬、有司公卿が沛郡に下り、淮南王と謀反を謀った者を求めて捕らえたが未だ得ず、衡山王の子孝の家で陳喜を得た。吏は孝が首謀して喜を匿ったと弾劾した。孝は陳喜が平素からしばしば王と謀反を計っていたので、その発覚を恐れ、法律では先に自首すればその罪を免れると聞き、また太子が白嬴を使者として上書して事件を発覚させたのではないかと疑い、すぐに先に自首し、謀反を共に謀った救赫・陳喜らを告発した。廷尉が審理して証拠を確かめ、公卿は衡山王を逮捕して審理するよう請うた。天子は言った、「捕らえるな」。中尉の安と大行の息を遣わしてただちに王に問いたださせると、王は詳しく実情を答えた。吏は皆王宮を取り囲んで守った。中尉と大行が戻り、そのことを報告すると、公卿は宗正と大行を遣わし、沛郡と共に王を審理するよう請うた。王はこれを聞き、すぐに自ら剄して死んだ。孝は先に謀反を自首したので、その罪を免れたが、王の御婢と姦通した罪に坐し、棄市に処せられた。王后徐来もまた前王后乗舒を蠱毒で殺した罪に坐し、また太子爽は王が不孝を告げた罪に坐し、皆棄市に処せられた。衡山王と謀反を謀った者は皆族誅された。国は除かれて衡山郡となった。
太史公曰く、『詩経』にいう「戎狄はこれ膺ち、荊舒はこれ懲らす」とは、まことにこの言葉のとおりである。淮南王・衡山王は親しく骨肉であり、疆土は千里、諸侯に列せられながら、蕃臣の職を遵奉して天子を輔弼することに務めず、ひたすら邪僻の計を挟み、畔逆を謀り、ついに父子二代にわたって国を亡ぼし、それぞれその身を終わらせず、天下の笑いものとなった。これはただ王の過ちだけではなく、またその俗が薄く、臣下が次第に靡かせてそうさせたのである。そもそも荊楚の民は強勇で軽悍、乱を好むことは、すでに古くから記されている。
【索隱述贊】淮南は横暴多く、挙事正しからず。天子は寛仁なりしも、その過ち改めず。轞車禍を致し、斗粟詠となる。王安は学を好み、女陵は詗る。兄弟和せず、国を傾け命を殞とす。