巻117

史記

巻一百一十七 司馬相如列傳 第五十七

司馬相如

司馬相如は、蜀郡成都の人であり、字は長卿という。若い頃は読書を好み、剣術を学んだので、その親は彼を犬子と名付けた。相如は学問を修めた後、藺相如の人物を慕い、名を相如と改めた。財産をもって郎官となり、孝景帝に仕えて武騎常侍となったが、これは彼の好むところではなかった。折しも景帝は辞賦を好まず、この時梁孝王が来朝し、遊説の士である斉の鄒陽、淮陰の枚乗、呉の莊忌夫子らの徒を従えていた。相如は彼らを見て喜び、病と称して免官し、客として梁に遊んだ。梁孝王は諸生と同舎に住まわせ、相如は諸生や遊士と共に数年を過ごし、そこで『子虚の賦』を著した。

折しも梁孝王が卒去すると、相如は帰郷したが、家は貧しく、自ら生業を立てる術がなかった。平素より臨邛の令 (県令) 王吉と親しくしていたところ、王吉が言うには、「長卿は久しく官遊して志を得ず、わざわざ私を訪ねて来られた」と。そこで相如は赴き、都亭に宿を取った。臨邛令はわざと恭しく振る舞い、日ごとに相如を訪ねて礼を述べた。相如は初めはまだ彼に会ったが、後には病と称し、従者に王吉に断らせた。王吉はますます謹んで恭しくした。臨邛には多くの富人がおり、卓王孫の家には家僮八百人、程鄭も数百人いた。二人は互いに言った、「令に貴客がおられる。宴席を設けて招待しよう」と。そして令も共に招いた。令が到着すると、卓氏の客は百人を数えた。正午になって、司馬長卿に謁見を求めたが、長卿は病と称して行けなかった。臨邛令は自ら食事を取ろうとせず、みずから出向いて相如を迎えに行った。相やむなく、しぶしぶ赴き、一座の者をことごとく傾倒させた。酒が酣になった時、臨邛令は前に進み出て琴を捧げて言った、「ひそかに長卿がこれを好まれると聞いています。どうかご自身で楽しんでください」と。相如は辞退したが、一、二曲を弾いた。この時、卓王孫には娘の文君がおり、新たに寡婦となり、音楽を好んでいた。そこで相如はわざと令と親しくして重んじられ、琴の音でその心を挑んだのである。相如が臨邛に来た時は、車騎を従え、ゆったりとして優雅で非常に美しかった。そして卓氏で酒を飲み、琴を弄ぶのを、文君はひそかに戸から覗いて見て、心に悦びこれを好み、自分にはふさわしくないのではないかと恐れた。宴が終わると、相如は人を遣わして文君の侍女に厚く賜物を与え、思いを伝えさせた。文君は夜に逃げ出して相如のもとに走り、相如は彼女と共に駆け帰って成都に至った。家にはただ四方の壁が立っているだけであった。卓王孫は大いに怒って言った、「娘はまったく役立たずだ。私は殺すに忍びないが、一銭も分け与えない」と。ある人が王孫に諫めたが、王孫はついに聞き入れなかった。文君は長くして楽しめず、言った、「長卿、どうか私と一緒に臨邛に行きましょう。兄弟から借りるだけでも生活は足ります。どうしてここまで自分を苦しめる必要がありましょうか」と。相如は彼女と共に臨邛に行き、車騎をすべて売り払い、一軒の酒屋を買って酒を売り、文君に炉の前で酒を酌ませた。相如はみずから犢鼻褌 (短い労働用の袴) を身に着け、下働きの者たちと雑然と働き、市中で器を洗った。卓王孫はこれを聞いて恥じ、門を閉ざして出なかった。兄弟や長老たちが王孫に言った、「あなたには一男二女がおり、足りないものは財産ではありません。今、文君はすでに司馬長卿に身を任せました。長卿はもとより遊び疲れた人ではありますが、貧しいとはいえ、その人材は頼りに足ります。しかも彼は今や令の客でもあります。どうしてひとり彼をここまで辱めるのですか」と。卓王孫はやむなく、文君に家僮百人、銭百万、および彼女が嫁ぐ時の衣類や財物を分け与えた。文君はそこで相如と共に成都に帰り、田畑や屋敷を買い、富人となった。

しばらくして、蜀の人楊得意が狗監 (天子の猟犬を管理する官) となり、天子 (武帝) に仕えていた。天子が『子虚の賦』を読んでこれを賞賛し、「朕はただこの人と同時代に生きることができなかったのが残念だ」と言った。得意が言うには、「臣の同郷の司馬相如が、自分がこの賦を作ったと言っています」と。天子は驚き、そこで相如を召し出して問うた。相如は言った、「確かにあります。しかしこれは諸侯の事柄に過ぎず、まだご覧に入れるに足りません。どうか天子の遊猟の賦をお作りいたします。賦ができましたら奏上いたします」と。天子は許し、尚書に筆と木簡を与えさせた。相如は「子虚」は虚構の言葉で、楚を称えるもの、「烏有先生」は「そんなことはない」ということで、斉の難問に答えるもの、「無是公」は「そんな人はいない」ということで、天子の大義を明らかにするものとした。そこで空しくこの三人を借りて言葉とし、天子と諸侯の苑囿を推し量った。その結末の章は節倹に帰し、それによって諫めとした。これを天子に奏上すると、天子は大いに喜んだ。その文辞は次のようである。

楚が子虚を斉に使いとして遣わした。斉王は国中の士をことごとく発し、車騎の大軍を整え、使者と共に出猟した。猟が終わり、子虚が烏有先生のところを訪ねて自慢した時、無是公もそこにいた。席に着くと、烏有先生が問うた、「今日の猟は楽しかったか」と。子虚は言った、「楽しかった」。「獲物は多かったか」。「少なかった」。「それではどうして楽しかったのか」。「私は斉王が車騎の大軍をもって私に誇ろうとされたのを楽しみ、私はそれに対して雲夢の事柄で答えたからです」。「聞かせてもらえるか」と。

賦を奏上すると、天子は郎に任じた。無是公が天子の上林苑の広大さ、山谷水泉の万物を言い、子虚が楚の雲夢沢の所有する甚だ多いことを言うのは、奢侈で実態を過ぎ、かつ義理の道理の尊ぶところでないので、故にその要を刪取し、正道に帰してこれを論じた。

相如が郎となって数年、時に唐蒙が夜郎西の僰中を略通する使者となり、 巴蜀 はしょく の吏卒千人を発し、郡もまた多く転漕の者一万余人を発し、興法を用いてその渠帥を誅したので、 巴蜀 はしょく の民は大いに驚恐した。上これを聞き、乃ち相如をして唐蒙を責めさせ、因って 巴蜀 はしょく の民に上意にあらざることを告げ知らせた。檄文に曰く、

巴蜀 はしょく 太守に告ぐ。蛮夷が自ら擅にすること討たざる日既に久しく、時に辺境を侵犯し、士大夫を労する。陛下即位し、天下を存撫し、中国を輯安す。然る後に師を興し兵を出し、北は匈奴を征し、単于は怖駭し、交臂して事を受け、詘膝して和を請う。康居西域は、重訳して朝を請い、稽首して来享す。師を移して東を指せば、閩越相誅す。右は番禺を吊い、太子入朝す。南夷の君、西僰の長は、常に貢職を効し、敢えて怠墮せず、頸を延べ踵を挙げ、喁喁然として皆争って義に帰し、臣妾たらんと欲す。道裏遼遠、山川阻深にして、自ら致す能わざるなり。夫れ順ならざる者は既に誅せられ、善を為す者は未だ賞せられず、故に中郎将を遣わして往きてこれを賓し、 巴蜀 はしょく の士民各五百人を発し、以て幣帛を奉じ、使者を衛して然らざるにせんとす。兵革の事靡く、戦闘の患無し。今聞く、其れ乃ち軍興の制を発し、子弟を驚懼せしめ、長老を憂患せしめ、郡もまた擅に粟を転運輸送するは、皆陛下の意に非ざるなり。当に行く者は或いは亡逃し自ら賊殺す、亦た人臣の節に非ざるなり。夫れ辺郡の士は、烽挙ぎ燧燔くを聞けば、皆弓を摂めて馳せ、兵を荷いて走り、流汗相属ぎ、唯だ居後に後るるを恐れ、白刃に触れ、流矢を冒し、義として顧みず、計として踵を旋らさず、人怒心を懐き、私讎を報ずるが如し。彼れ豈に死を楽み生を悪むや、編列の民に非ずして、 巴蜀 はしょく と主を異にするや。計深く慮遠く、国家の難を急ぎ、而して人臣の道を尽くすを楽むなり。故に剖符の封有り、珪を析いて爵し、位を通侯と為し、列東第に居り、終には則ち顕号を後世に遺し、土地を子孫に伝う。行い事甚だ忠敬に、居位甚だ安佚にして、名声は無窮に施し、功烈は著しくして滅びず。是を以て賢人君子は、肝脳中原に塗れ、膏液野草を潤すも辞せざるなり。今幣役を奉じて南夷に至りて、即ち自ら賊殺し、或いは亡逃して誅に抵り、身死して名無く、諡して至愚と為し、恥父母に及び、天下の笑いと為る。人の度量相い越ゆる、豈に遠からざらんや。然れども此れ独り行く者の罪に非ざるなり、父兄の教え先んぜず、子弟の率い謹まず、廉寡く恥鮮なくして、俗長厚ならざるなり。其れ刑戮に被る、亦た宜ならずや。陛下は使者有司の彼の若きを患い、不肖愚民の此の如きを悼み、故に信使を遣わして百姓に卒を発するの事を曉喻し、因って之を数えて不忠死亡の罪とし、三老孝弟を譲して教誨せざるの過ちと為す。方今田時の、重ねて百姓を煩わすを以て、已に近県に親見す、遠き所谿谷山沢の民遍く聞かざるを恐る。檄到るや、亟に県道に下し、咸に陛下の意を知らしめよ。唯だ忽にする毋かれ。

相如還りて報ず。唐蒙は既に夜郎を略通し、因って西南夷道を通じ、巴・蜀・広漢の卒を発し、作者数万人。道を治むること二歳、道成らず、士卒多く物故し、費やすところ巨万を以て計る。蜀民及び漢の用事者多く其の不便を言う。是の時邛筰の君長、南夷が漢と通じ、賞賜多く得るを聞き、多く内臣妾たらんことを欲し、吏を請い、南夷に比せんとす。天子相如に問う、相如曰く、「邛・筰・厓・駹は蜀に近く、道も亦た易く通ず。秦の時嘗て通じて郡県と為り、漢興に至りて罷む。今誠に復た通じ、郡県を置かば、南夷に愈れり。」天子然りと以為い、乃ち相如を中郎将に拝し、節を建てて往きて使わしむ。副使王然於・壺充国・呂越人、四乗の伝に馳せ、 巴蜀 はしょく の吏幣物に因りて以て西夷を賂う。蜀に至れば、蜀太守以下郊迎し、県令弩矢を負いて先駆し、蜀人寵と以為う。ここにおいて卓王孫・臨邛の諸公皆門下に因りて牛酒を献じ以て驩を交わす。卓王孫喟然として歎じ、自ら使女をして司馬長卿に尚ばしむるを得たること晩しとし、而して厚く其の女に財を分かち与え、男等と同し。司馬長卿便ち略く西夷を定め、邛・筰・厓・駹・斯榆の君皆内臣たらんことを請う。辺関を除き、関益々斥け、西は沬・若水に至り、南は牂柯を以て徼と為し、零関道を通じ、孫水に橋して以て邛都を通ず。還りて天子に報ず、天子大いに説ぶ。

相如の使わしむる時、蜀の長老多く西南夷を通ずるは用を為さずと言い、唯だ大臣も亦た然りと以為う。相如諫めんと欲すれども、業已に之を建つ、敢えず、乃ち書を著し、籍を以て蜀の父老を辞と為し、而して己れ之を詰難し、以て天子に風し、且つ其の使指を宣ぶるに因り、百姓をして天子の意を知らしむ。其の辞に曰く、

漢興りて七十有八載、徳茂くして六世に存し、威武紛紜、湛恩汪濊、群生澍濡し、洋溢乎方外。ここにおいて乃ち使を命じて西征せしめ、流に随いて攘い、風の被る所、罔く披靡せざる無し。因って厓を朝し駹に従い、筰を定め邛を存し、斯榆を略し、苞満を挙げ、軼を結び轅を還し、東郷して将に報ぜんとし、蜀都に至る。

耆老・大夫・薦紳・先生の徒二十七人が、厳然として参上した。言葉を終えると、進み出て言うには、「聞くところによれば、天子の夷狄に対する態度は、その義は羈縻して絶やさないだけであると。今、三郡の兵士を疲弊させ、夜郎への道を開き、ここに三年になるが、功は未だ成らず、士卒は労倦し、万民は贍わず、今また西夷を接続しようとすれば、百姓の力は尽き、恐らくは事業を完遂できず、これもまた使者の累となるでしょう。ひそかに左右のため憂える。そもそも邛・筰・西僰は中国と並び立つもので、経過した年数は多く、もはや記しきれない。仁者は徳をもって来らせず、強者は力をもって併せず、思うに、それは恐らくできないことなのでしょう。今、斉民を割いて夷狄に附け、頼みとするものを疲弊させて無用のものに仕えさせるとは、鄙人は固陋にして、いわゆる所を識らない。」

使者は言う、「何を言うのか。必ずやおっしゃる通りならば、それは蜀が服を変えず、巴が俗を化さないということだ。私はなお、そのような説を聞くのを厭う。しかし、この事柄は大きいゆえ、もとより傍観者の見るところではない。私の行いは急であり、その詳細は聞くことができない。大夫のために、粗くその概略を述べよう。

そもそも世には必ず非常の人あり、そして後に非常の事あり。非常の事あり、そして後に非常の功あり。非常なるものは、もとより常なるものと異なる。故に言う、非常の始まりは、黎民これを懼れる。それが成就に至れば、天下は晏如たり。

昔、洪水が湧き出て、氾濫し溢れ、民人は登り降りし移り住み、不安で落ち着かなかった。夏后氏はこれを憂い、洪水を埋め、江を決し河を疏き、沈んだものを漉いで災いを贍い、東にこれを海に帰し、天下は永く寧かになった。その時の勤労は、ただ民だけではなかった。心は慮いに煩い、身は自らその労苦に当たり、手足には胼胝ができ、膚には毛が生えなかった。故に、その盛大な功業は無限に顕れ、名声は今にまで及んでいる。

そもそも賢君が位に就くのは、ただ瑣末なことにこだわり、文書に拘り俗に牽かれ、伝承を循り習い、当世の歓心を買うためだけではない。必ずや崇高な論議を立て、業を創り統を垂れ、万世の規範とする。故に、相容れ包み込むことに奔走し、天地に参じることを勤め思う。また詩に云わないか、『普天の下、王土ならざるはなく、率土の濱、王臣ならざるはなし』と。それゆえ、六合の内、八方の外、浸潤し溢れ、生命あるものでその恩沢に浸潤しないものがあれば、賢君はこれを恥じる。

今、封疆の内、冠帯の倫は、皆良い福を得て、欠け落ちるものはない。しかし夷狄の殊俗の国、遠く隔絶した異なる党の地は、舟や車も通じず、人の跡も稀で、政教は加わらず、流風もなお微かである。内に向かっては義を犯し礼を侵すことが辺境であり、外に向かっては邪な行いが横行し、上を放ち しい する。君臣は位を易え、尊卑は序を失い、父兄は罪なくして、幼い孤児は奴隷となり、縛られて号泣し、内に向かって怨み、『聞くところによれば中国には至仁があり、徳は洋々として恩は普く、物はその所を得ないものはないという。今、どうしてただ自分だけが遺されるのか』と言う。踵を挙げて思い慕うことは、枯れた旱天が雨を望むようである。凶暴な者でさえこれに涙を垂れ、まして上聖において、どうして止められようか。

故に北には師を出して強胡を討ち、南には使を馳せて勁越を誚した。四方に徳を風靡し、二方の君は鱗のごとく集まり流れを仰ぎ、号を受けることを願う者は億を以て数える。故に、沬・若に関を設け、牂柯に徼を置き、零山を鏤り、孫原に梁を架けた。道德の途を創り、仁義の統を垂れる。博く恩を施し、遠くを撫で長く駕することにより、疎遠な者も閉ざされず、阻深で暗昧な者も光明に輝かせ、ここに甲兵を偃げ、あそこに誅伐を息ませる。遠近一体、中外ともに福を安んじ、これもまた康らかではないか。

民を沈溺から救い、至尊の休徳を奉じ、衰世の陵遅を反し、周氏の絶えた業を継ぐ、これこそ天子の急務である。百姓はたとえ労するとも、どうして止めることができようか。

そもそも王事は、もとより憂い勤めることから始まらずして、佚楽に終わるものはない。されば、天命を受ける符瑞は、ここに合致するのである。まさに泰山の封を増し、梁父の事を加え、和鸞を鳴らし、楽頌を揚げ、上は五帝に並び、下は三王に登らんとする。見る者は未だ指し示すところを見ず、聞く者は未だ音を聞かず、ちょうど鷦明がすでに寥廓に翔けているのに、網を張る者はなお藪沢を見ているようなものだ。悲しいかな。」

世に大人あり、中州に在り。宅は萬里に彌れども、曾て少しく留まるに足らず。世俗の迫隘なるを悲しみ、朅然として輕く舉りて遠く遊ぶ。絳幡の素蜺を垂れ、雲氣を載せて上り浮ぶ。格澤の長竿を建て、光耀の采旄を總ぶ。旬始を垂れて幓と爲し、彗星を抴りて髾と爲す。指橋を掉りて偃蹇とし、又旖旎として招搖す。欃槍を攬りて旌と爲し、屈虹を靡かせて綢と爲す。紅は杳渺として眩湣し、猋風湧きて雲浮ぶ。應龍象輿の蠖略逶麗を駕し、赤螭青虯の鞮蟉蜿蜒を驂とす。低卬夭蟜據りて驕驁とし、詘折隆窮蠼として連卷す。沛艾赳螑仡として佁儗し、放散畔岸驤として孱顏す。跮踱輵轄容して委麗とし、綢繆偃蹇怵鞨して梁倚す。糾蓼叫奡蹋して艐路し、蔑蒙踴躍騰して狂趡す。蒞颯卉翕熛至電過し、煥然として霧除き、霍然として雲消ゆ。

邪に少陽を絕ちて太陰に登り、真人と相求む。互に折れ窈窕として右轉し、飛泉を橫厲して正東す。悉く靈圉を徵して之を選び、眾神を部乘して瑤光に於けり。五帝をして先導せしめ、太一を反し陵陽に從ふ。左は玄冥、右は含靁、前は陸離、後は潏湟。厮に征北僑を役はし羡門を役はし、岐伯を屬して尚方を掌らしむ。祝融驚きて蹕御し、氛氣を清めて後に行く。余が車を屯めて其れ萬乘、雲蓋を綷め華旗を樹つ。勾芒をして其れ將に行かしめ、吾は往きて南に嬉ばんと欲す。唐堯を崇山に歴め、虞舜を九疑に過ぐ。紛として湛湛其れ差錯し、雜遝膠葛として方に馳す。騷擾𧘂蓯其れ相紛挐し、滂濞泱軋灑して林離す。鑽羅列聚叢して蘢茸とし、衍曼流爛壇して陸離す。徑に靁室の砰磷鬱律に入り、洞に鬼谷の崫礨嵬䃶を出づ。遍く八紘を覽め四荒を觀、朅として九江を渡り五河を越ゆ。炎火を經營し弱水に浮かび、浮渚を杭絕し流沙を渉る。奄息總極し氾濫水に嬉び、靈媧をして瑟を鼓かしめ馮夷を舞はしむ。時薆薆として將に混濁せんとす、屏翳を召し風伯を誅し雨師を刑す。西に崑崙の軋沕洸忽を望み、直徑に馳けて三危に至る。閶闔を排して帝宮に入り、玉女を載せて之と歸る。閬風を舒べて搖集し、亢烏騰して一たび止まる。低囘陰山翔りて紆曲し、吾乃ち今西王母の皬然たる白首を目睹す。勝を載せて穴處す、亦幸ひに三足烏有りて之が使と爲る。必ず長生此の若くして死せずんば、萬世を濟ふと雖も以て喜ぶに足らず。

車を囘し朅來りて、不周の道を絕ち、幽都に會食す。沆瀣を呼吸し朝霞を飱ひ、芝英を噍咀し瓊華を嘰ふ。嬐侵潯として高く縱し、紛鴻湧として上り厲す。列缺の倒景を貫き、豐隆の滂沛に涉る。遊道を馳せて脩降し、遺霧を騖けて遠く逝く。區中の隘陝に迫り、節を舒べて北垠を出づ。屯騎を玄闕に遺し、先驅を寒門に軼す。崢嶸を下れば地無く、寥廓に上れば天無し。眩眠を視れば見る無く、惝恍を聽けば聞く無し。虛無に乘りて上假し、無友を超えて獨り存す。

相如既に大人の頌を奏す、天子大いに說び、飄飄として凌雲の氣有り、天地の間に遊ぶが如き意有り。

相如既に病みて免ぜられ、家に茂陵に居る。天子曰く、「司馬相如病甚だし、往きて從ひ悉く其の書を取るべし。若し然らずんば、後に之を失はん。」所忠をして往かしむ。而して相如既に死し、家に書無し。其の妻に問ふ。對へて曰く、「長卿固より未だ嘗て書有ること有らず。時時書を著すも、人又取り去る。即ち空しく居る。長卿未だ死せざりし時、一卷の書を爲す。曰く、『使者來りて書を求むる有らば、之を奏せよ。』と。他に書無し。」と。其の遺れる劄書、封禪の事を言ふ。所忠に奏す。忠其の書を奏す。天子之を異とす。其の書に曰く、

上古の初肇に伊り、昊穹より民を生じ、曆撰列辟、以て秦に迄る。邇き者に率ひては踵武し、逖き者を聽けば風聲す。紛綸葳蕤、堙滅して稱へられざる者は、勝へて數ふべからず。昭夏を續ぎ、號諡を崇む。略く道ふ可き者は七十有二君。淑にして昌へざるは罔く、逆失して能く存するは疇ぞ。

軒轅以前のことは、遥か遠く、その詳細は聞くことができない。五帝三王の経典や伝承の書物に載っているものだけが、見ることができるのである。書経に「元首明らかならば、股肱良し」とある。これによって言えば、君主は唐堯ほど盛んな者はなく、臣下は后稷ほど賢い者はない。后稷は唐の時代に創業し、公劉は西戎において発跡し、文王は制度を改め、ここに周は極めて隆盛となり、大道は完成したが、その後は衰微し、千年の間名声はなく、まことに善く始め善く終わったと言えよう。しかし異端はなく、前においてはその由来を慎み、後においては遺教を謹んだのである。故に軌跡は平易で、従いやすく、深い恩恵は豊かで、満たしやすく、法度は明らかで、則りやすく、統緒を垂れて道理に順い、継承しやすい。それゆえに業は繦褓のうちに隆盛となり、二後の時代よりも尊崇された。その根源を測り、終わりを究めても、今日に考うべき特別な優れた事跡はない。それでもなお梁父を踏み、泰山に登り、顕号を建て、尊名を施した。大漢の徳は、湧き出る泉源のごとく、広く満ち溢れ、四方に充ち、雲のように広がり霧のように散り、上は九垓に暢び、下は八埏に及ぶ。生きとし生けるものは潤いを受け、和気は横流し、武威は飄逝し、近き狭き所はその源に遊び、遠き広き所はその沫を泳ぎ、首悪は湮没し、暗昧は昭晰となり、昆虫も喜び恩沢に浴し、首を回して内に向かう。その後、囿には騶虞の珍しい群れを飼い、麋鹿の怪獣を求め、庖厨には一茎六穂の嘉穀を供え、犠牲には双角共抵の獣を用い、岐山では周の余珍である収亀を獲り、沼では翠黄の乗龍を招く。鬼神は霊圉に接し、間館に賓する。奇物は譎詭で、俶儻として窮まりなく変化する。ああ、符瑞がここに至ったのに、なお薄いと思い、封禅を語ることを敢えてしない。周は魚が跳ねて船に落ちるのを祥瑞とし、燎祭でこれを祝ったが、このような微々たるものを符瑞として、介丘に登ったのは、恥ずかしくないか。進退の道は、どうしてこれほど違うのか。そこで大司馬が進み出て言うには、「陛下は仁をもって群生を育み、義をもって不憓を征し、諸夏は喜んで貢ぎ、百蛮は贄を執り、徳は往昔に等しく、功は二つとなく、美しい業績は広く行き渡り、符瑞は様々に変化し、期応は相次いで至り、ただ創見だけではない。思うに泰山・梁父に壇場を設けて幸を望み、号を建てて栄を況え、上帝が恩を垂れ祉を儲け、成を薦めようとしているのに、陛下は謙譲して発しないのである。三神の歓を引き、王道の儀を欠き、群臣は恥じている。あるいは天は質朴で暗く、珍しい符瑞は固より辞すべきではないと言う。もしこれを辞するならば、泰山には記すべきものがなく、梁父には望むべきものがないことになる。また各々その時に栄え、皆世を済えて屈したのであり、説く者が後世に何を称え、七十二君と言うことができようか。徳を修めて符瑞を賜り、符瑞を奉じて事を行い、進んで越えることはしない。故に聖王は替えず、地祇に礼を修め、天神に款を謁し、中嶽に功を勒し、以て至尊を彰し、盛徳を舒べ、号栄を発し、厚福を受け、以て黎民を浸すのである。皇皇たるかなこの事は、天下の壮観、王者の丕業であり、貶めることはできない。願わくは陛下がこれを全うされたい。その後、雑えて薦紳先生の略術により、日月の末光絶炎を耀かせ、以て采を展べ事を錯え、なお兼ねてその義を正しく列し、その文を校飭し、春秋一芸を作り、旧い六経を襲って七と為し、これを攄いて窮まりなくし、万世に清流を激し、微波を揚げ、英声を飛ばし、茂実を騰せしめたい。前聖が永く鴻名を保ち常に称首と為る所以はこれを用いることによる。宜しく掌故に命じてその義を悉く奏上させ、ご覧になるべきである。」そこで天子は沛然として容色を改め、「よろしい、朕は試みよう」と言われた。そこで思いを遷し慮いを回らし、公卿の議を総べ、封禅の事を詢ね、大沢の博きを詩にし、符瑞の富みを広めた。そこで頌を作って言う。我が天覆より、雲の油油たり。甘露時雨、その壌は遊ぶべし。滋液滲漉、何れの生か育たざらん。嘉穀六穂、我が穡は何ぞ蓄えん。ただ雨ふるのみにあらず、また潤沢す。ただ濡すのみにあらず、広く覆う。万物熙熙、懐いて慕思す。名山顕位、君の来るを望む。君よ君よ、何ぞ邁らざる。般般の獣、我が君の囿を楽しむ。白質黒章、その儀は嘉し。旼旼睦睦、君子の能なり。その声を聞くといえども、今その来るを見る。その途は蹤なく、天瑞の徴なり。これもまた舜に於いて、虞氏以て興る。濯濯の麟、彼の霊畤に遊ぶ。孟冬十月、君は俎に郊祀す。我が君の輿を馳せ、帝は以て祉を享く。三代の前、蓋し未だ嘗て有らず。宛宛たる黄龍、徳を興して昇る。采色炫燿、熿炳煇煌たり。正陽顕見、伝にこれを載す、雲は受命の乗ずる所なり。それ章有るも、必ずしも諄諄たらず。類に依りて寓に託し、封巒を以て諭す。

芸文を披き観るに、天人の際は既に交わり、上下相発して允に答う。聖王の徳は、兢兢翼翼たり。故に「興れば必ず衰えを慮い、安んずれば必ず危うきを思う」と言う。それゆえ湯武は至尊厳であっても、肅祗を失わず、舜は仮典にあっても、その遺れを顧み省みる。これを言うのである。

司馬相如が卒して五年後、天子は初めて后土を祭った。八年にして遂に先ず中嶽に礼し、太山に封じ、梁父に至り肅然に禅した。

相如の他の著作、たとえば平陵侯に遺した書、五公子と相難えたもの、草木書篇などは採録せず、公卿に特に著しいものを採った。

太史公曰く。

太史公曰く、春秋は隠れたる所まで推し見え、易は隠れたるを以て顕わすことを本とし、大雅は王公大人を言いながらその徳が黎庶に及ぶことを述べ、小雅は小己の得失を譏り、その流れが上に及ぶ。それゆえ言葉は外見は異なるが、その徳に合うことは一つである。相如は虚辞濫説が多いが、その要は節儉に引きつけることに帰する。これは詩の風諫と何ら異ならない。楊雄は靡麗の賦は、百を勧めて一を風するもの、鄭衛の声を馳騁するがごとく、曲の終わりに雅を奏するようなもので、既に損なわれているのではないかと言う。私はその語の論ずべきものを採って篇に著す。

索隠述賛。

【索隠述賛】相如は縦誕にして、卓氏の財を窃む。その学は方なく、その才は倚るに足る。子虚は過吒し、上林は侈りにあらず。四馬は邛に還り、百金は伎を献ず。惜しいかな封禅、遺文卓爾たり。

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