史記

巻一百一十二 平津侯主父列傳 第五十二

公孫弘

原文公孫弘

丞相公孫弘は、斉の菑川国薛県の人なり、字は季。若き時は薛の獄吏となり、罪有りて免ぜらる。家貧しく、海上に豕を牧す。年四十餘にして、乃ち春秋雜説を學ぶ。後母を養ひ孝謹なり。

原文丞相公孫弘者,齊菑川國薛縣人也,字季。少時為薛獄吏,有罪,免。家貧,牧豕海上。年四十餘,乃學春秋雜說。養後母孝謹。

建元元年、天子初めて即位し、賢良文學の士を招く。是の時弘年六十、賢良に徵せられて博士と為る。匈奴に使いし、還りて報ずるに、上意に合はず、上怒り、以て能はざるものと為す。弘乃ち病を稱して免じ歸る。

原文建元元年,天子初即位,招賢良文學之士。是時弘年六十,徵以賢良為博士。使匈奴,還報,不合上意,上怒,以為不能,弘乃病免歸。

元光五年、詔を下して文学を徴し、菑川国はまた公孫弘を推挙して上った。弘は国人に譲り謝して言う、「臣はすでに嘗て西に応じて命を受け、以て能わずして罷め帰った。願わくは更に推選せられん」と。国人は固く弘を推し、弘は太常に至った。太常は徴した儒士に各々策に対せしめ、百余人、弘の第は下に居た。策が奏上されると、天子は弘の対を抜擢して第一とした。召し入れて見るに、状貌甚だ麗しく、博士に拝された。この時、西南夷の道を通じ、郡を置き、巴蜀の民はこれを苦しんだ。詔して弘を使わしてこれを視察せしめた。還って事を奏し、盛んに西南夷を毀りて用いるところなしとし、上は聴かなかった。

原文元光五年,有詔徵文學,菑川國復推上公孫弘。弘讓謝國人曰:「臣已嘗西應命,以不能罷歸,願更推選。」國人固推弘,弘至太常。太常令所徵儒士各對策,百餘人,弘第居下。策奏,天子擢弘對為第一。召入見,狀貌甚麗,拜為博士。是時通西南夷道,置郡,巴蜀民苦之,詔使弘視之。還奏事,盛毀西南夷無所用,上不聽。

弘の人となりは恢奇で多聞、常に称して以て人主の病は広大ならざるにあり、人臣の病は倹節ならざるにありと為す。弘は布被を用い、食は肉を重ねず。後母死し、喪に服すること三年。毎に朝会の議、その端を開陳し、人主に自ら択ましめ、面折庭争を肯んぜず。ここにおいて天子、その行い敦厚なるを察し、弁論余裕あり、文法吏事に習熟し、しかも儒術を以て縁飾するを、上大いにこれを悦んだ。二歳の中、左内史に至る。弘の事を奏するに、不可あるも、庭にこれを弁ぜず。嘗て主爵都尉汲黯と共に間を請い、汲黯先ずこれを発し、弘その後を推す。天子常に悦び、言うところ皆聴き、これにより日を逐うて親貴を加う。嘗て公卿と議を約し、上前に至れば、皆その約を倍いて以て上の旨に順う。汲黯、庭に弘を詰めて曰く、「斉人は多く詐りて情実無し。始め臣等とこの議を建つるも、今皆これを倍く。忠ならず」と。上、弘に問う。弘謝して曰く、「臣を知る者は臣を以て忠と為し、臣を知らざる者は臣を以て忠ならずと為す」と。上、弘の言を然りとす。左右の幸臣、毎に弘を毀るも、上益ます厚くこれを遇す。

原文弘為人恢奇多聞,常稱以為人主病不廣大,人臣病不儉節。弘為布被,食不重肉。后母死,服喪三年。每朝會議,開陳其端,令人主自擇,不肯面折庭爭。於是天子察其行敦厚,辯論有餘,習文法吏事,而又緣飾以儒術,上大說之。二歲中,至左內史。弘奏事,有不可,不庭辯之。嘗與主爵都尉汲黯請閒,汲黯先發之,弘推其後,天子常說,所言皆聽,以此日益親貴。嘗與公卿約議,至上前,皆倍其約以順上旨。汲黯庭詰弘曰:「齊人多詐而無情實,始與臣等建此議,今皆倍之,不忠。」上問弘。弘謝曰:「夫知臣者以臣為忠,不知臣者以臣為不忠。」上然弘言。左右幸臣每毀弘,上益厚遇之。

元朔三年、張欧免ぜられ、弘を以て御史大夫と為す。この時、西南夷を通じ、東に滄海を置き、北に朔方の郡を築く。弘数え諫め、以て中国を罷敝して以て用なき地に奉ずるは、願わくはこれを罷めんと為す。ここにおいて天子乃ち朱買臣等をして弘に朔方を置くの便を難ぜしむ。十の策を発し、弘一も得ず。弘乃ち謝して曰く、「山東の鄙人、その便かくのごとくなるを知らず。願わくは西南夷・滄海を罷めて専ら朔方に奉ぜん」と。上乃ちこれを許す。

原文元朔三年,張歐免,以弘為御史大夫。是時通西南夷,東置滄海,北筑朔方之郡。弘數諫,以為罷敝中國以奉無用之地,願罷之。於是天子乃使朱買臣等難弘置朔方之便。發十策,弘不得一。弘乃謝曰:「山東鄙人,不知其便若是,願罷西南夷、滄海而專奉朔方。」上乃許之。

汲黯曰く、「弘の位は三公に在り、奉禄甚だ多し。然るに布被を用う。これ詐りなり」と。上、弘に問う。弘謝して曰く、「これ有り。九卿にして臣と善き者は黯に過ぎたる無し。然るに今日庭に弘を詰むるは、誠に弘の病に中る。三公を以て布被を用うるは、誠に飾詐して以て名を釣らんと欲するなり。且つ臣聞く、管仲斉に相たり、三帰有り、侈りて君に擬す。桓公以て覇たらしむ。亦上君に僭す。晏嬰景公に相たり、食は肉を重ねず、妾は絲を衣せず。斉国亦治まる。これ下民に比す。今臣弘、位は御史大夫に在りて、布被を用うるは、九卿以下より小吏に至るまで、差別無し。誠に汲黯の言うが如し。且つ汲黯の忠無くんば、陛下安くんぞこの言を聞かん」と。天子、謙譲と為し、愈ますこれを厚くす。遂に弘を以て丞相と為し、平津侯に封ず。

原文汲黯曰:「弘位在三公,奉祿甚多。然為布被,此詐也。」上問弘。弘謝曰:「有之。夫九卿與臣善者無過黯,然今日庭詰弘,誠中弘之病。夫以三公為布被,誠飾詐欲以釣名。且臣聞管仲相齊,有三歸,侈擬於君,桓公以霸,亦上僭於君。晏嬰相景公,食不重肉,妾不衣絲,齊國亦治,此下比於民。今臣弘位為御史大夫,而為布被,自九卿以下至於小吏,無差,誠如汲黯言。且無汲黯忠,陛下安得聞此言。」天子以為謙讓,愈益厚之。卒以弘為丞相,封平津侯。

弘の人となりは意忌み、外は寛にして内は深し。諸嘗て弘と隙有りし者、詳らかに善くすと雖も、陰にその禍を報ず。主父偃を殺し、董仲舒を膠西に徙すは、皆弘の力なり。一肉脱粟の飯を食う。故人の善くする賓客、衣食を仰ぎ、弘の奉禄皆以てこれを給し、家に余すところ無し。士も亦これによりてこれを賢とす。

原文弘為人意忌,外寬內深。諸嘗與弘有卻者,雖詳與善,陰報其禍。殺主父偃,徙董仲舒於膠西,皆弘之力也。食一肉脫粟之飯。故人所善賓客,仰衣食,弘奉祿皆以給之,家無所餘。士亦以此賢之。

淮南王・衡山王が謀反を企て、その党与を糾明する事態が急を要していた。公孫弘は病が重く、自ら功績なくして封ぜられ、位は丞相に至ったことを思い、まさに明主を補佐して国家を鎮撫し、人をして臣子の道に従わせるべきである。今、諸侯に叛逆の計略があるのは、これ皆、宰相が職務を奉じて相応しくないためであり、ひそかに病死することを恐れ、責めを塞ぐ術がない。そこで上書して言うには、「臣が聞くに、天下の通ずる道は五つあり、それを行う所以は三つである。君臣・父子・兄弟・夫婦・長幼の序、この五つは天下の通ずる道である。智・仁・勇、この三つは天下の通ずる徳であり、それを行う所以である。故に『力を尽くすは仁に近く、よく問うは智に近く、恥を知るは勇に近し』と言う。この三つを知れば、則ち自らを治める所以を知り、自らを治める所以を知って、然る後に人を治める所以を知る。天下に自らを治めることができずして人を治めることができる者は未だなく、これは百世易わらざる道である。今、陛下はみずから大孝を行い、三王を鑑とし、周の道を建て、文武を兼ね、賢を励まして禄を与え、能を量って官を授けられる。今、臣弘は疲れた駑馬の質であり、汗馬の労もなく、陛下は過分の意をもって臣弘を卒伍の中から抜擢し、列侯に封じ、三公の位に至らしめられた。臣弘の行いと才能は相応しくなく、平素より負薪の病を抱え、恐らくは犬馬に先んじて溝壑に埋もれ、終に徳に報い責めを塞ぐ術がない。願わくは侯の印を返上し、骸骨を乞い、賢者の道を避けたい」。天子は答えて言うには、「古は功ある者を賞し、徳を褒め、守成には文を尚び、遭遇には武を右とする。これに易える者は未だない。朕はかつて尊位を承けんことを願い、安んずることができぬことを恐れ、共に治めんとする者は、君が知るべきである。蓋し君子は善を善とし悪を悪とする(君が知るべきである)。君が謹んで行い、常に朕の身にあるならば、君が不幸にも霜露の病に罹り、何の恙みか已まぬことがあろうか。乃ち上書して侯を返し、骸骨を乞うとは、これは朕の不徳を顕わすものである。今、事少し閑あり、君はその思慮を省み、精神を一にし、医薬を以て補え」。よって告を賜い、牛・酒・雑帛を与えた。数ヶ月を経て、病は癒え、政務に就いた。

原文淮南、衡山謀反,治黨與方急。弘病甚,自以為無功而封,位至丞相,宜佐明主填撫國家,使人由臣子之道。今諸侯有畔逆之計,此皆宰相奉職不稱,恐竊病死,無以塞責。乃上書曰:「臣聞天下之通道五,所以行之者三。曰君臣,父子,兄弟,夫婦,長幼之序,此五者天下之通道也。智,仁,勇,此三者天下之通德,所以行之者也。故曰『力行近乎仁,好問近乎智,知恥近乎勇』。知此三者,則知所以自治;知所以自治,然後知所以治人。天下未有不能自治而能治人者也,此百世不易之道也。今陛下躬行大孝,鑒三王,建周道,兼文武,厲賢予祿,量能授官。今臣弘罷駑之質,無汗馬之勞,陛下過意擢臣弘卒伍之中,封為列侯,致位三公。臣弘行能不足以稱,素有負薪之病,恐先狗馬填溝壑,終無以報德塞責。願歸侯印,乞骸骨,避賢者路。」天子報曰:「古者賞有功,襃德,守成尚文,遭遇右武,未有易此者也。朕宿昔庶幾獲承尊位,懼不能寧,惟所與共為治者,君宜知之。蓋君子善善惡惡,(君宜知之)君若謹行,常在朕躬。君不幸罹霜露之病,何恙不已,乃上書歸侯,乞骸骨,是章朕之不德也。今事少閒,君其省思慮,一精神,輔以醫藥。」因賜告牛酒雜帛。居數月,病有瘳,視事。

元狩二年、公孫弘は病に罹り、遂に丞相のまま終わった。子の度が嗣いで平津侯となった。度は山陽太守として十余年、法に坐して侯を失った。

原文元狩二年,弘病,竟以丞相終。子度嗣為平津侯。度為山陽太守十餘歲,坐法失侯。

主父偃

原文主父偃

主父偃は、斉の臨菑の人である。長短縦横の術を学び、晩年に至って易・春秋・百家の言を学んだ。斉の諸生の間を遊びしが、厚遇する者なく、斉の諸儒生は互いに排斥し、斉に容れられなかった。家は貧しく、借りるに得る所なく、乃ち北に遊んで燕・趙・中山に至るも、皆厚遇できず、客として甚だ困窮した。孝武帝の元光元年中、諸侯は遊ぶに足る者なしと思い、乃ち西に関に入り、衛将軍(衛青)に謁見した。衛将軍はしばしば上(武帝)に言上したが、上は召さなかった。資用が乏しく、留まること久しく、諸公の賓客は多く彼を厭い、乃ち闕下に上書した。朝に奏上し、暮に召されて入見した。言うところ九事、その八事は律令に関する事、一事は匈奴征伐を諫める事であった。その文辞は次の通りである。

原文主父偃者,齊臨菑人也。學長短縱橫之術,晚乃學易、春秋、百家言。游齊諸生閒,莫能厚遇也。齊諸儒生相與排擯,不容於齊。家貧,假貸無所得,乃北游燕、趙、中山,皆莫能厚遇,為客甚困。孝武元光元年中,以為諸侯莫足游者,乃西入關見衛將軍。衛將軍數言上,上不召。資用乏,留久,諸公賓客多厭之,乃上書闕下。朝奏,暮召入見。所言九事,其八事為律令,一事諫伐匈奴。其辭曰:

この時、趙の人徐楽・斉の人厳安が共に上書して世務を言い、各々一事を述べた。徐楽は言う。

原文是時趙人徐樂、齊人嚴安俱上書言世務,各一事。徐樂曰:

嚴安が上書して曰く。

原文嚴安上書曰:

上書が天子に奏上されると、天子は三人を召し出して、謂いて曰く、「公等は皆何処にいたのか。何と相見えるのが遅かったことか」と。ここにおいて上は主父偃・徐樂・嚴安を郎中に拝した。偃はしばしば謁見し、上疏して事を言い、詔して偃を謁者に拝し、中大夫に遷した。一年のうちに四度偃を遷した。

原文書奏天子,天子召見三人,謂曰:「公等皆安在?何相見之晚也!」於是上乃拜主父偃、徐樂、嚴安為郎中。偃數見,上疏言事,詔拜偃為謁者,遷為中大夫。一歲中四遷偃。

偃は上に説いて曰く、「古の諸侯は百里を過ぎず、強弱の形は制し易かった。今の諸侯は或いは城を連ねて数十、地は千里に方り、緩やかならば驕奢にして淫乱を為し易く、急ならばその強を阻んで合従し、以て京師に逆らう。今法を以てこれを割削すれば、則ち逆節萌り起こり、前日の晁錯がこれである。今諸侯の子弟は或いは十数人、而して適嗣代わり立ち、余は骨肉と雖も、尺寸の地も封ぜられず、則ち仁孝の道宣べられず。願わくは陛下、諸侯に推恩して子弟を分かち、地を以てこれを侯せしめ給え。彼ら人人喜んで得んとする所の願いを得、上は徳を以て施し、実にその国を分かち、削らずして稍々弱まるであろう」と。ここにおいて上はその計に従った。また上に説いて曰く、「茂陵が初めて立てられ、天下の豪桀兼併の家、衆を乱すの民は、皆茂陵に徙すべく、内には京師を実にし、外には姦猾を銷す。これ所謂誅さずして害除くものである」と。上はまたその計に従った。

原文偃說上曰:「古者諸侯不過百里,彊弱之形易制。今諸侯或連城數十,地方千里,緩則驕奢易為淫亂,急則阻其彊而合從以逆京師。今以法割削之,則逆節萌起,前日晁錯是也。今諸侯子弟或十數,而適嗣代立,餘雖骨肉,無尺寸地封,則仁孝之道不宣。願陛下令諸侯得推恩分子弟,以地侯之。彼人人喜得所願,上以德施,實分其國,不削而稍弱矣。」於是上從其計。又說上曰:「茂陵初立,天下豪桀并兼之家,亂眾之民,皆可徙茂陵,內實京師,外銷姦猾,此所謂不誅而害除。」上又從其計。

衛皇后を尊立し、及び燕王定国の陰事を発するに、蓋し偃の功有り。大臣は皆その口を畏れ、賂遺累千金に及んだ。人或いは偃に説いて曰く、「甚だ横暴である」と。主父曰く、「臣は結髪して游学すること四十余年、身は遂げるを得ず、親は子と為さず、昆弟は収めず、賓客は我を棄つ。我は阨すること日久しい。且つ丈夫生まれて五鼎の食せずんば、死すれば即ち五鼎の烹に遭うのみ。吾れ日暮れて途遠し。故に倒行して暴に之を施すのである」と。

原文尊立衛皇后,及發燕王定國陰事,蓋偃有功焉。大臣皆畏其口,賂遺累千金。人或說偃曰:「太橫矣。」主父曰:「臣結發游學四十餘年,身不得遂,親不以為子,昆弟不收,賓客棄我,我阸日久矣。且丈夫生不五鼎食,死即五鼎烹耳。吾日暮途遠,故倒行暴施之。」

偃は盛んに朔方の地肥饒なるを言い、外は河に阻まれ、蒙恬これを城して匈奴を逐い、内には転輸戍漕を省き、中国を広め、胡を滅ぼすの本なりと。上その説を覧み、公卿に下して議せしむるに、皆便ならずと言う。公孫弘曰く、「秦の時常に三十万の衆を発して北河を築くも、終に就く可からず、已にしてこれを棄つ」と。主父偃は盛んにその便を言い、上竟に主父の計を用い、朔方郡を立てた。

原文偃盛言朔方地肥饒,外阻河,蒙恬城之以逐匈奴,內省轉輸戍漕,廣中國,滅胡之本也。上覽其說,下公卿議,皆言不便。公孫弘曰:「秦時常發三十萬眾筑北河,終不可就,已而棄之。」主父偃盛言其便,上竟用主父計,立朔方郡。

元朔二年、主父は斉王が内に淫佚し行いが僻んでいることを言上し、上は主父を斉の相に拝した。斉に至ると、遍く昆弟賓客を召し、五百金を散じてこれを与え、これを数えて曰く、「初め我貧しき時、昆弟は我に衣食せず、賓客は我を内門に入れず。今我斉の相たり、諸君我を迎うるに或いは千里を致す。我諸君と絶つ、復た偃の門に入る毋れ」と。乃ち人をして王と姉の姦事を以て王を動かしめしに、王は終に罪を脱するを得ずと為し、燕王の論死を効うるを恐れ、乃ち自殺す。有司以て聞かしむ。

原文元朔二年,主父言齊王內淫佚行僻,上拜主父為齊相。至齊,遍召昆弟賓客,散五百金予之,數之曰:「始吾貧時,昆弟不我衣食,賓客不我內門;今吾相齊,諸君迎我或千里。吾與諸君絕矣,毋復入偃之門!」乃使人以王與姊姦事動王,王以為終不得脫罪,恐效燕王論死,乃自殺。有司以聞。

主父始めて布衣たりし時、嘗て燕・趙に游び、其の貴きに及び、燕の事を発す。趙王其の国患を為すを恐れ、上書して其の陰事を言わんと欲すも、偃の居中するが為に、敢えて発せず。斉の相と為るに及び、関を出づるや、即ち人をして上書せしめ、主父偃が諸侯の金を受くるを告言し、以て故に諸侯の子弟多く封を得る者ありし由を言う。斉王の自殺するに及び、上聞きて大いに怒り、主父其の王を劫して自殺せしむと以為い、乃ち徴して吏に下して治めしむ。主父諸侯の金を受けたるを服し、実は王を劫して自殺せしめず。上誅せずと欲す。是の時公孫弘御史大夫たり、乃ち言いて曰く、「斉王自殺して後無く、国除かれて郡と為り、漢に入る。主父偃本より首悪なり。陛下主父偃を誅せずんば、以て天下に謝す無し」と。乃ち遂に主父偃を族す。

原文主父始為布衣時,嘗游燕、趙,及其貴,發燕事。趙王恐其為國患,欲上書言其陰事,為偃居中,不敢發。及為齊相,出關,即使人上書,告言主父偃受諸侯金,以故諸侯子弟多以得封者。及齊王自殺,上聞大怒,以為主父劫其王令自殺,乃徵下吏治。主父服受諸侯金,實不劫王令自殺。上欲勿誅,是時公孫弘為御史大夫,乃言曰:「齊王自殺無後,國除為郡,入漢,主父偃本首惡,陛下不誅主父偃,無以謝天下。」乃遂族主父偃。

主父方に貴幸たりし時、賓客千を以て数う。其の族死するに及び、一人として収むる者無し。独り洨の孔車のみ之を収葬す。天子後に之を聞き、孔車を長者と為す。

原文主父方貴幸時,賓客以千數,及其族死,無一人收者,唯獨洨孔車收葬之。天子后聞之,以為孔車長者也。

太史公曰く、公孫弘行義修まるといえども、然れども亦時に遇う。漢興りて八十余年、上方に文学に郷い、俊乂を招き、以て儒墨を広む。弘挙首と為る。主父偃路に当たり、諸公皆之を誉む。名敗れ身誅せらるるに及び、士争いて其の悪を言う。悲しいかな。

原文太史公曰:公孫弘行義雖修,然亦遇時。漢興八十餘年矣,上方鄉文學,招俊乂,以廣儒墨,弘為舉首。主父偃當路,諸公皆譽之,及名敗身誅,士爭言其惡。悲夫!

原文

班固が称して曰く、公孫弘・卜式・兒寬は皆、鴻漸の翼を以て燕雀に困しめられ、羊豕の間に遠跡す。其の時に遇はざれば、焉んぞ能く此の位に致らんや。是の時、漢興して六十餘載、海内乂安し、府庫充實す。而して四夷未だ賓せず、制度多く闕く。上方文武を用ひんと欲し、之を求むること弗及の如し。始め蒲輪を以て枚生を迎へ、主父を見て嘆息す。群臣慕向し、異人并び出づ。卜式は芻牧に試みられ、弘羊は賈豎より擢げられ、衛青は奴仆より奮ひ、日磾は降虜より出づ。斯れ亦曩時の版筑・飯牛の朋なり。漢の人を得る、茲に於て盛んなり。儒雅は則ち公孫弘・董仲舒・兒寬、篤行は則ち石建・石慶、質直は則ち汲黯・卜式、推賢は則ち韓安國・鄭當時、定令は則ち趙禹・張湯、文章は則ち司馬遷・相如、滑稽は則ち東方朔・枚皋、應對は則ち嚴助・朱買臣、歷數は則ち唐都・落下閎、協律は則ち李延年、運籌は則ち桑弘羊、奉使は則ち張騫・蘇武、將帥は則ち衛青・霍去病、受遺は則ち霍光・金日磾。其の餘は紀すべからず。是を以て功業を興造し、制度遺文は、後世及ぶ莫し。孝宣統を承け、洪業を纂修し、亦六藝を講論し、茂異を招選す。而して蕭望之・梁丘賀・夏侯勝・韋玄成・嚴彭祖・尹更始は儒術を以て進み、劉向・王褒は文章を以て顯る。將相は則ち張安世・趙充國・魏相・邴吉・于定國・杜延年、治民は則ち黃霸・王成・龔遂・鄭弘・邵信臣・韓延壽・尹翁歸・趙廣漢の屬、皆功跡有りて後に述べらる。其の名臣を累ねるも、亦其の次なり。

原文班固稱曰:公孫弘、卜式、兒寬皆以鴻漸之翼困於燕雀,遠跡羊豕之閒,非遇其時,焉能致此位乎?是時漢興六十餘載,海內乂安,府庫充實,而四夷未賓,制度多闕,上方欲用文武,求之如弗及。始以蒲輪迎枚生,見主父而嘆息。群臣慕向,異人并出。卜式試於芻牧,弘羊擢於賈豎,衛青奮於奴仆,日磾出於降虜,斯亦曩時版筑飯牛之朋矣。漢之得人,於茲為盛。儒雅則公孫弘、董仲舒、兒寬,篤行則石建、石慶,質直則汲黯、卜式,推賢則韓安國、鄭當時,定令則趙禹、張湯,文章則司馬遷、相如,滑稽則東方朔、枚皋,應對則嚴助、朱買臣,歷數則唐都、落下閎,協律則李延年,運籌則桑弘羊,奉使則張騫、蘇武,將帥則衛青、霍去病,受遺則霍光、金日磾。其餘不可勝紀。是以興造功業,制度遺文,後世莫及。孝宣承統,纂修洪業,亦講論六藝,招選茂異,而蕭望之、梁丘賀、夏侯勝、韋玄成、嚴彭祖、尹更始以儒術進,劉向、王褒以文章顯。將相則張安世、趙充國、魏相、邴吉、于定國、杜延年,治民則黃霸、王成、龔遂、鄭弘、邵信臣、韓延壽、尹翁歸、趙廣漢之屬,皆有功跡見述於後。累其名臣,亦其次也。

【索隱述贊】平津の巨儒、晚年始めて遇ふ。外は寬儉を示し、内に嫉妒を懷く。寵備は榮爵、身は肺腑を受く。主父は恩を推し、時に觀て度を設く。生には五鼎を食し、死には時に蠹せず。

原文【索隱述贊】平津巨儒,晚年始遇。外示寬儉,內懷嫉妒。寵備榮爵,身受肺腑。主父推恩,觀時設度。生食五鼎,死非時蠹。