史記
巻一百一十一 衛将軍驃騎列傳 第五十一
衛青
大将軍衛青は、平陽の人である。その父の鄭季は、吏となり、平陽侯の家に給事し、侯の妾の衛媼と通じて、青を生んだ。青の同母兄に衛長子があり、姉の衛子夫は平陽公主の家より天子の寵愛を得たので、敢えて衛氏を姓とした。字は仲卿。長子は更に字を長君と為す。長君の母は衛媼と号す。媼の長女は衛孺、次女は少児、次女は即ち子夫である。後に子夫の男弟の歩・広も皆衛氏を冒した。
青は侯の家人たりし時、少時にしてその父に帰り、その父は彼に羊を牧わしむ。先母の子らは皆奴隷の如くに扱い、兄弟の数に入れず。青嘗て人に従いて甘泉の居室に入りし時、一の鉗徒 (髪を剃り首枷をはめた刑徒) 青を見て相し曰く、「貴人なり、官は封侯に至らん」と。青笑いて曰く、「人奴の生まれ、鞭打たれ罵られぬだけで足れり、どうして封侯の事を得んや」と。
青壮年となり、侯家の騎となり、平陽主に従う。建元二年の春、青の姉の子夫、宮に入りて上 (皇帝) の寵愛を得る。皇后 (陳皇后) は、堂邑大長公主の女なり、子無く、嫉妬深し。大長公主、衛子夫の寵愛と懐妊とを聞き、これを妬み、乃ち人をして青を捕えしむ。青この時建章宮に給事す、未だ名を知られず。大長公主、青を執り囚え、殺さんと欲す。その友の騎郎公孫敖、壮士とともに往きてこれを奪い取りしにより、故に死を免る。上聞き、乃ち青を召して建章監・侍中と為し、及び同母の昆弟を貴しめ、賞賜すること数日の間に千金を累ねる。孺は太僕公孫賀の妻となる。少児は以前より陳掌と通じしにより、上召して掌を貴しむ。公孫敖これにより益々貴くなる。子夫は夫人となる。青は大中大夫となる。
元光五年、青は車騎将軍となり、匈奴を撃ち、上谷より出撃す。太僕公孫賀は軽車将軍となり、雲中より出撃す。大中大夫公孫敖は騎将軍となり、代郡より出撃す。衛尉李広は 驍 騎将軍となり、雁門より出撃す。軍各々一万騎。青は蘢城に至り、首虜数百を斬る。騎将軍敖は七千騎を失う。衛尉李広は虜に捕らえらるるも、脱して帰る。皆斬に当たり、 贖 って庶人となる。賀もまた功無し。
元朔元年の春、衛夫人に男子あり、皇后に立てらる。その秋、青は車騎将軍となり、雁門より出撃し、三万騎を以て匈奴を撃ち、首虜数千人を斬る。明年、匈奴入りて遼西太守を殺し、漁陽より二千余人を虜略し、韓安国将軍の軍を破る。漢、将軍李息に命じてこれを撃たしめ、代より出撃せしむ。車騎将軍青に命じて雲中より西に出でて高闕に至らしむ。遂に河南の地を略し、隴西に至り、首虜数千を捕え、畜数十万を 獲 、白羊・楼煩王を走らす。遂に河南の地を以て朔方郡と為す。三千八百戸を以て青を封じて長平侯と為す。青の 校尉 蘇建功有り、千一百戸を以て建を封じて平陵侯と為す。建をして朔方城を築かしむ。青の 校尉 張次公功有り、封じて岸頭侯と為す。天子曰く、「匈奴は天理に逆らい、人倫を乱し、暴にして長を虐げ老を害し、盗竊を以て務めと為し、諸蛮夷に詐を行い、謀を造り兵を藉り、数えて辺害を為す。故に師を興し将を遣わし、以てその罪を征す。詩に云わざるや、『薄く玁狁を伐ち、太原に至る』、『車を出だす彭彭たり、彼の朔方に城す』と。今、車騎将軍青、西河を渡り高闕に至り、首虜二千三百級を獲、車輜畜産を尽く収めて鹵と為し、已に列侯に封ぜらる。遂に西のかた河南の地を定め、榆谿の旧塞に按じ、梓領を絶ち、北河に梁し、蒲泥を討ち、符離を破り、軽鋭の卒を斬り、伏して聴く者三千七十一級を捕え、訊を執り醜を獲、馬牛羊百余万を駆り、甲兵を全うして還る。青に三千戸を益封す」と。その明年、匈奴入りて代郡太守の友を殺し、雁門に略入して千余人を虜略す。その明年、匈奴大いに代・定襄・上郡に入り、漢人数千人を殺略す。
その明年、元朔の五年の春、漢、車騎将軍青に命じて三万騎を将い、高闕より出撃せしむ。衛尉蘇建は游撃将軍、左内史李沮は彊弩将軍、太僕公孫賀は騎将軍、代相李蔡は軽車将軍と為り、皆車騎将軍に属し、俱に朔方より出撃す。大行李息・岸頭侯張次公は将軍と為り、右北平より出撃す。咸く匈奴を撃つ。匈奴の右賢王、衛青等の兵に当たるも、漢兵此に至る能わざると思い、飲みて酔う。漢兵夜に至り、右賢王を囲む。右賢王驚き、夜逃げ、独りその愛妾一人と壮騎数百とを以て馳せ、囲みを潰して北に去る。漢の軽騎 校尉 郭成等、数百里を逐うも、及ばず、右賢王の裨王十余りを得、男女万五千余人、畜数千万を獲、ここに於いて兵を引いて還る。塞に至り、天子使者をして大将軍の印を持たしめ、即ち軍中に於いて車騎将軍青を大将軍に拝し、諸将は皆兵を以て大将軍に属す。大将軍号を立てて帰る。天子曰く、「大将軍青、 躬 ら戎士を率い、師大いに捷ち、匈奴王十余りを獲たり。青に六千戸を益封す」と。而して青の子の伉を封じて宜春侯と為し、青の子の不疑を封じて陰安侯と為し、青の子の登を封じて発干侯と為す。青固より謝して曰く、「臣幸いに行間に待罪するを得、陛下の神霊に頼り、軍大いに捷ち、皆諸 校尉 の力戦の功なり。陛下幸いに已に臣青を益封せり。臣青の子は繦緥の中に在り、未だ勤労有らず、上幸いに地を列ねて三侯に封ずるは、臣が行間に待罪して以て士を勧め力戦せしむる所以の意に非ず。伉等三人何ぞ敢えて封を受くべけんや」と。天子曰く、「我諸 校尉 の功を忘るるに非ざるなり、今固より且くこれを図らんとす」と。乃ち御史に詔して曰く、「護軍都尉公孫敖三たび大将軍に従いて匈奴を撃ち、常に軍を護り、校を 傅 えて王を獲たり。千五百戸を以て敖を封じて合騎侯と為す。都尉韓説、大将軍に従いて窳渾より出で、匈奴の右賢王の庭に至り、麾下に在りて搏戦して王を獲たり。千三百戸を以て説を封じて龍頟侯と為す。騎将軍公孫賀、大将軍に従いて王を獲たり。千三百戸を以て賀を封じて南窌侯と為す。軽車将軍李蔡、再び大将軍に従いて王を獲たり。千六百戸を以て蔡を封じて楽安侯と為す。 校尉 李朔、 校尉 趙不虞、 校尉 公孫戎奴、各々三たび大将軍に従いて王を獲たり。千三百戸を以て朔を封じて涉軹侯と為し、千三百戸を以て不虞を封じて随成侯と為し、千三百戸を以て戎奴を封じて従平侯と為す。将軍李沮・李息及び 校尉 豆如意功有り、関内侯の爵を賜い、食邑各々三百戸」と。その秋、匈奴代に入り、都尉朱英を殺す。
その翌年の春、大将軍衛青は定襄より出撃し、合騎侯公孫敖を中將軍とし、太僕公孫賀を左將軍とし、翕侯趙信を前將軍とし、衛尉蘇建を右將軍とし、郎中令李廣を後將軍とし、右内史李沮を彊弩將軍とし、皆大将軍に属し、数千級を斬首して還った。月余りして、再び悉く定襄より出て匈奴を撃ち、首虜一万余人を斬った。右將軍蘇建、前將軍趙信は軍を合わせて三千余騎、単独で単于の兵に遭遇し、一日余り戦い、漢兵は将に尽きんとした。前將軍は元胡人で、降って翕侯となったが、危急を見て、匈奴に誘われ、遂にその余りの騎兵約八百を率いて、奔って単于に降った。右將軍蘇建はその軍を全て失い、ただ一身で逃亡し、自ら大将軍のもとに帰った。大将軍はその罪について正の閎、長史の安、議郎の周霸らに問うた、「蘇建をどうすべきか」。周霸は言った、「大将軍が出征して以来、裨将を斬ったことはありません。今、蘇建が軍を棄てたのですから、斬って将軍の威を明らかにすべきです」。閎と安は言った、「そうではありません。兵法に『小敵の堅きは、大敵の 禽 なり』とあります。今、蘇建は数千をもって単于の数万に当たり、力戦一日余り、士卒は尽きても、二心を抱かず、自ら帰ってきました。自ら帰ってきた者を斬るのは、後に反意なきことを示すことになります。斬るべきではありません」。大将軍は言った、「私は幸いにも肺腑 (近親) として罪を待ちながら軍中におり、威のなきを患うことはない。それなのに周霸は私に威を明らかにせよと言うのは、甚だ臣下としての本意を失っている。また、仮に臣下の職分として将を斬るべき場合であっても、私がこのように尊寵されている身で、境外において自ら専断して誅殺することは敢えてせず、全てを天子に帰して、天子ご自身が裁断されるようにする。これによって、人臣として敢えて権を専らにしないことを示すのは、よろしいことではないか」。軍吏は皆「善し」と言った。そこで蘇建を囚えて行在所に送った。塞に入り兵を罷めた。
この年、大将軍の姉の子霍去病は十八歳で、寵愛を受け、天子の侍中となった。騎射に優れ、再び大将軍に従い、詔を受けて壮士とともに剽姚 校尉 となり、軽勇の騎兵八百を率いて直ちに大軍を数百里離れて利に赴き、斬捕した首虜はその損害を上回った。そこで天子は言った、「剽姚 校尉 去病は首虜二千二十八級を斬り、相国、当戸を斬り、単于の大父行 (祖父の代) の籍若侯産を斬り、季父の羅姑比を生け捕りにし、再び功を諸軍の冠とし、千六百戸を以て去病を冠軍侯に封ずる。上谷太守郝賢は四たび大将軍に従い、首虜二千余人を捕斬し、千一百戸を以て賢を衆利侯に封ずる」。この年、両将軍の軍を失い、翕侯を亡くし、軍功多くなく、故に大将軍は加封されなかった。右將軍蘇建が到着すると、天子は誅さず、その罪を赦し、贖って庶人とした。
大将軍が帰還すると、千金を賜った。この時、王夫人が上に寵愛されており、甯乘が大将軍に説いて言った、「将軍の功が甚だ多くないのに、身は万戸を食み、三子皆侯となったのは、ただ皇后の故によるものです。今、王夫人は寵愛を受けていますが、その宗族は未だ富貴ではありません。願わくは将軍、賜わった千金を捧げて王夫人の親の寿とされたし」。大将軍はそこで五百金を以て寿とした。天子はこれを聞き、大将軍に問うと、大将軍は実を以て言った。上はそこで甯乘を東海都尉に拝した。
張騫は大将軍に従い、かつて大夏に使いし、匈奴中に長く留まったことがあり、軍を導き、善き水草の地を知っていたので、軍は飢渇することがなく、以前に絶国に使した功により、騫を博望侯に封じた。
霍去病
冠軍侯去病が侯となって三年、元狩二年の春、冠軍侯去病を驃騎將軍とし、万騎を率いて隴西より出撃し、功があった。天子は言った、「驃騎將軍は戎士を率いて烏盭を踰え、遬濮を討ち、狐奴を渉り、五王国を歴て、輜重人衆で慴服する者は取らず、 冀 って単于の子を獲んとした。転戦六日、焉支山を過ぎること千有余里、短兵を合わせ、折蘭王を殺し、盧胡王を斬り、全甲を誅し、渾邪の王子及び相国、都尉を執し、首虜八千余級、休屠の祭天金人を収め、去病に二千戸を加封する」。
その夏、驃騎將軍と合騎侯敖は共に北地より出撃し、別道を行き、博望侯張騫と郎中令李廣は共に右北平より出撃し、別道を行き、皆匈奴を撃った。郎中令は四千騎を率いて先に至り、博望侯は万騎を率いて後から至った。匈奴の左賢王が数万騎を率いて郎中令を囲んだ。郎中令は二日間戦い、死者は過半に及び、殺した者もまたその損害を上回った。博望侯が至ると、匈奴兵は引き去った。博望侯は行軍遅滞の罪に坐し、斬に当たり、贖って庶人となった。一方、驃騎將軍は北地より出撃し、既に深く入り、合騎侯と道を失い、相得ず、驃騎將軍は居延を踰えて祁連山に至り、捕えた首虜は甚だ多かった。天子は言った、「驃騎將軍は居延を踰え、遂に小月氏を過ぎ、祁連山を攻め、酋涂王を得、衆を率いて降る者二千五百人、首虜三万二百級を斬り、五王、五王の母、単于の閼氏、王子五十九人、相国、將軍、当戸、都尉六十三人を獲、師 (軍) は大率十の三を減じ、去病に五千戸を加封する。 校尉 で小月氏に至るまで従った者に左庶長の爵を賜う。鷹撃司馬の趙破奴は再び驃騎將軍に従って遬濮王を斬り、稽沮王を捕え、千騎将は王、王母を各一人得、王子以下四十一人を捕え、捕虜三千三百三十人、前行は捕虜千四百人を捕え、千五百戸を以て破奴を従驃侯に封ずる。 校尉 の句王高不識は、驃騎將軍に従って呼于屠王の王子以下十一人を捕え、捕虜千七百六十八人を捕え、千一百戸を以て不識を宜冠侯に封ずる。 校尉 の僕多は功あり、煇渠侯に封ぜられる」。合騎侯敖は行軍遅滞して驃騎と 会 わなかった罪に坐し、斬に当たり、贖って庶人となった。諸宿将の率いる士馬兵もまた驃騎に及ばず、驃騎の率いるのは常に選抜された者であったが、また敢えて深く入り、常に壮騎を率いてその大将軍に先立ち、軍にもまた天幸があり、未だ困窮絶えることがなかった。しかし諸宿将は常に遅留して落ちぶれ、敵に遇わなかった。これによって驃騎は日に日に親貴となり、大将軍に比せられた。
その秋、単于は渾邪王が西方に居て数 度 漢に破られ、数万人を失ったことを怒った。それは驃騎将軍の兵によるものであった。単于は怒り、渾邪王を召して誅殺しようとした。渾邪王は休屠王らと謀り漢に降ろうとし、人を遣わして先に辺境で約束させた。この時、大行 (外交官) の李息が河上に城を築こうと軍を率いていたが、渾邪王の使者を得て、すぐに駅伝で馳せて天子に知らせた。天子はこれを聞き、そこで彼らが偽りの降伏で辺境を襲うことを恐れ、驃騎将軍に兵を率いて往き迎えさせた。驃騎将軍は既に河を渡り、渾邪王の衆と相望んだ。渾邪王の裨将が漢軍を見て、多くは降伏したくない者があり、かなり逃げ去った。驃騎将軍はそこで馳せ入って渾邪王と会見し、逃亡しようとした者八千人を斬り、ついに渾邪王を単独で駅伝車に乗せ先に行在所に詣でさせ、その衆を全て率いて河を渡らせた。降伏した者は数万、号して十万と称した。長安に至ると、天子が賞賜したものは数十巨万に及んだ。渾邪王を一万戸に封じて漯陰侯とした。その裨王の呼毒尼を下摩侯に、鷹庇を煇渠侯に、禽を河綦侯に、大当戸の銅離を常楽侯に封じた。ここにおいて天子は驃騎将軍の功を嘉して言うには、「驃騎将軍去病は師を率いて匈奴西域王渾邪を攻め、王及びその衆萌は皆相率いて奔り、軍糧を以て食を接ぎ、併せて控弦する者一万余人を将い、獟駻を誅し、首虜八千余級を獲、異国の王三十二人を降し、戦士は傷つかず、十万の衆は皆懐き集まり服し、 仍 ってこれに労を及ぼし、 爰 に河塞に及び、 庶幾 わくは患い無からんことを。幸いに既に永く 綏 んず。千七百戸を以て驃騎将軍の封を益す」と。隴西・北地・上郡の戍卒の半を減らし、以て天下の徭役を 寛 やかにした。
しばらくして、降伏者を辺境の五郡の故塞外に分けて移住させ、皆河南に在らしめ、その故俗に因りて属国とした。その明年、匈奴は右北平・定襄に入り、漢の千余人を殺略した。
その明年、天子は諸将と議して言うには、「翕侯趙信が単于のために計を画き、常に漢兵は幕 (ばく、沙漠) を度って軽々しく留まることはできないと為していた。今大いに士卒を発すれば、その勢い必ず欲する所を得るであろう」と。この年は元狩四年である。
元狩四年春、上は大將軍青・驃騎将軍去病に各五万騎を将いさせ、歩兵の転送する者は 踵 を接して軍数十万、而して敢えて力戦し深く入るの士は皆驃騎に属させた。驃騎は初め定襄より出で、単于に当たるべしと為した。捕虜の言うに単于は東に在りと、乃ち更に驃騎を代郡より出させ、大將軍を定襄より出させた。郎中令 (李広) を前将軍と為し、太僕 (公孫賀) を左将軍と為し、主爵 (趙食其) を右将軍と為し、平陽侯 (曹襄) を後将軍と為し、皆大將軍に属した。兵は即ち幕を度り、人馬凡そ五万騎、驃騎等と共に皆匈奴の単于を撃った。趙信は単于のために謀りて言うには、「漢兵は既に幕を度り、人馬疲れたり、匈奴は坐して虜を収める可し」と。乃ち悉くその輜重を遠く北に移し、皆精兵を以て幕北に待ち構えた。而して丁度大將軍の軍が塞を出ること千余里、単于の兵が陣を布いて待つを見る。ここにおいて大將軍は武剛車を以て自ら 環 らせて営と為し、而して五千騎を 縦 って匈奴に当たらせた。匈奴も亦およそ一万騎を縦った。会 日将 に没せんとし、大風起こり、砂礫が面を撃ち、両軍互いに見えず、漢は益々左右の翼を縦って単于を 繞 らせた。単于は漢兵多く、而して士馬尚お強きを見て、戦うも匈奴不利なり。 薄暮 、単于は遂に六驘 (ろくら、六頭立ての軽車) に乗り、壮騎およそ数百、直ちに漢の囲みを冒して西北に馳せ去った。時既に 昏 、漢と 匈奴相紛挐 し、殺傷大いに相当した。漢軍の左校が捕虜を得て言うには、単于は未だ昏れざる内に去ったと。漢軍は因って軽騎を発して夜追い、大將軍の軍は其の後に随った。匈奴の兵も亦散り走った。遅明 (ちめい、夜明け近く) 、二百余里を行くも、単于を得ず、頗る首虜万余級を捕斬し、遂に窴顔山の趙信城に至り、匈奴の積んだ粟を得て軍に食わせた。軍は一日留まりて還り、悉くその城の余った粟を焼いて帰った。
大將軍が単于と会戦した時、前将軍 (李) 広・右将軍食其の軍は別に東道より進み、或いは道を失い、後れて単于を撃とうとした。大將軍は引き返して幕南を過ぎ、乃ち前将軍・右将軍を得た。大將軍は使を遣わして帰り報ぜしめようとし、長史に命じて簿を以て前将軍広を責めさせた。広は自殺した。右将軍は至り、吏に下され、贖って庶人と為った。大將軍の軍が塞に入るまでに、凡そ斬捕した首虜は一万九千級であった。
この時、匈奴の衆は十余日単于を失い、右谷蠡王これを聞き、自立して単于と為った。単于は後にその衆を得て、右王は乃ち単于の号を去った。
驃騎将軍も亦五万騎を将い、車重 (輜重) は大將軍の軍と等しく、而して裨将無し。悉く李敢等を大校と為し、裨将に当たらせ、代・右北平より千余里出で、直ちに左方の兵に当たり、斬捕した功は既に大將軍より多かった。軍既に還ると、天子曰く、「驃騎将軍去病は師を率い、躬ら獲たる葷粥 (くんいく、匈奴の別称) の士を将い、軽 齎 を約し、大幕を絶ち、章渠に渉りて獲り、比車耆を誅し、転じて左大将を撃ち、旗鼓を斬獲し、離侯に歴渉す。弓閭を 済 り、屯頭王・韓王等三人、将軍・相国・当戸・都尉八十三人を獲、狼居胥山に封 (ほう、土を積む祭) し、姑衍に禅 (ぜん、地を掃く祭) し、翰海に登臨す。鹵獲したる丑 (しゅう、敵衆) 七万四百四十三級を執り、師率は什三を減じ、敵に食を取る。間行して殊に遠くして糧絶えず。五千八百戸を以て驃騎将軍の封を益す」と。右北平太守路博德は驃騎将軍に属し、城に会し、期を失わず、従って梼余山に至り、首虜二千七百級を斬捕し、千六百戸を以て博德を符離侯に封じた。北地都尉邢山は驃騎将軍に従い王を獲、千二百戸を以て山を義陽侯に封じた。故の帰義の因淳王復陸支・楼専王伊即靬は皆驃騎将軍に従い功有り、千三百戸を以て復陸支を壮侯に、千八百戸を以て伊即靬を衆利侯に封じた。従驃侯 (趙) 破奴・昌武侯 (趙) 安稽は驃騎に従い功有り、各三百戸を益封された。 校尉 (李) 敢は旗鼓を得、関内侯と為り、食邑二百戸。 校尉 (徐) 自為は爵大庶長を得た。軍吏卒は官と為り、賞賜甚だ多し。而して大將軍は益封を得ず、軍吏卒も皆封侯する者無し。
両軍の塞を出る時、塞で閲した官及び私の馬は凡そ十四万匹、而して再び塞に入る者は三万匹に満たず。乃ち大司馬の位を益置し、大將軍・驃騎将軍皆大司馬と為った。令を定め、驃騎将軍の秩禄を大將軍と等しくせしめた。是より後、大將軍青は日々退き、而して驃騎は日々貴くなる。大將軍の故人・門下の多くは挙げて去りて驃騎に事え、 輒 ち官爵を得た。唯だ任安のみ 肯 んぜず。
驃騎将軍の為人は言葉少なく漏らさず、気概有りて敢えて任ず。天子嘗て孫呉の兵法を教えようと欲したが、対えて曰く、「方略の如何を顧みるのみ、古の兵法を学ぶに至らず」と。天子が邸宅を造らせ、驃騎に見せると、対えて曰く、「匈奴未だ滅びず、家を為すに以て無し」と。これにより上益々重く愛した。然れども少より侍中として貴く、士を 省 みず。其の軍に従う時、天子は太官に命じて数十乗の食を齎せしめたが、既に還ると、重車に余った粱肉を棄て、而して士に飢える者有り。其の塞外に在りては、卒糧乏しく、或いは自ら振るわず、而して驃騎は尚お域を穿ち蹋鞠 (とうきく、蹴鞠) す。事多く此の類なり。大將軍の為人は仁善にして退譲し、和柔を以て自ら上に 媚 び、然れども天下未だ称する者無し。
驃騎将軍は四年の出軍の後三年、元狩六年に卒した。天子これを悼み、属国の玄甲軍を発し、長安より茂陵に至るまで陣列し、塚を造り祁連山に象らしめた。謚し、武と広地とを併せて景桓侯と曰う。子の嬗、侯を代わる。嬗は年少、字は子侯、上これを愛し、その壮なるを幸いとして将とせんとした。六歳を居るに、元封元年、嬗卒し、謚して哀侯と曰う。子無く、絶え、国除かれる。
驃騎将軍の死後、大将軍の長子宜春侯伉は法に坐して侯を失う。後五歳、伉の弟二人、陰安侯不疑及び発干侯登は皆酎金に坐して侯を失う。侯を失う後二歳、冠軍侯の国除かれる。その後四年、大将軍青卒し、謚して烈侯と為す。子の伉、長平侯を代わる。
大将軍が単于を囲んだ後、十四年にして卒す。竟に匈奴を撃つこと復た無かりしは、漢の馬少なく、而して方に南は両越を誅し、東は朝鮮を伐ち、羌及び西南夷を撃つを以ての故に、久しく胡を伐たざりしなり。
大将軍は其の平陽長公主を尚うを得たる故を以て、長平侯伉が侯を代わる。六歳、法に坐して侯を失う。
左方に両大将軍及び諸裨将の名を記す。
公孫賀
李息
公孫敖
李沮
李蔡
張次公
蘇建
趙信
張騫
趙食其
曹襄
韓説
郭昌
荀彘
路博徳
趙破奴
評論
太史公曰く、蘇建余に語りて曰く、「吾嘗て大將軍の至って尊重なるを責むるも、而して天下の賢大夫稱ふるもの無し。將軍に願はくは、古の名將の招き選びて賢者を擇ぶ所を觀て、之を勉めよ」と。大將軍謝して曰く、「魏其・武安の賓客を厚くするより以來、天子常に切齒す。彼の士大夫に親附し、賢を招き不肖を絀くるは、人主の柄なり。人臣は法を奉じ職を遵ふのみ。何ぞ士を招くに與からんや」と。驃騎も亦此の意に放つ。其れ將たる所以此の如し。
【索隠述賛】君子豹變す、貴賤何ぞ常ならん。青は本奴虜、忽ち戎行に升る。姉は皇極に配し、身は平陽に尚る。寵榮斯に僭り、亂を取る彝章。嫖姚踵を繼ぎ、再び邊方を靜む。