匈奴は、その先祖は夏后氏の末裔であり、淳維と曰う。唐虞以前には山戎・獫狁・葷粥があり、北蛮に居住し、畜牧に随って転移した。その畜産で多いものは馬・牛・羊であり、その奇畜は橐駞・驢・驘・駃騠・騊駼・騨騱である。水草を逐って遷徙し、城郭や常処の耕田の業はなく、然しながら亦それぞれ分地を有す。文書はなく、言語を以て約束と為す。児は羊に騎乗でき、弓を引いて鳥鼠を射る。少しく長ずれば則ち狐兔を射て、食と為すに用いる。士の力能く弓を弯き、皆甲騎と為る。その俗、寛なれば則ち畜に随い、射獵して禽獣を因りて生業と為し、急なれば則ち人戦攻を習いて以て侵伐し、これ其の天性なり。その長兵は則ち弓矢、短兵は則ち刀鋋。利あれば則ち進み、利なければ則ち退き、遁走を羞じず。苟も利の在る所、礼義を知らず。君王以下、咸く畜肉を食い、其の皮革を衣とし、旃裘を被る。壮者は肥美を食い、老者は其の余を食う。壮健を貴び、老弱を賤しむ。父死すれば、其の後母を妻とし、兄弟死すれば、皆其の妻を取って之に妻せしむ。その俗、名有りて諱まず、而して姓字無し。
夏の道衰え、而して公劉其の稷官を失い、西戎に変じ、豳に邑す。其の後三百有余歳、戎狄大王亶父を攻む。亶父岐下に亡走し、而して豳人悉く亶父に従いて而して彼処に邑し、周を作る。其の後百余歳、周の西伯昌畎夷氏を伐つ。後十余年、武王紂を伐ちて雒邑を営み、復た酆鄗に居り、戎夷を涇・洛の北に放逐し、時を以て貢を入るるを命じて「荒服」と曰う。其の後二百有余年、周の道衰え、而して穆王犬戎を伐ち、四白狼四白鹿を得て帰る。是より以降、荒服至らず。ここに於て周遂に甫刑の辟を作る。穆王の後二百有余年、周の幽王寵姫褒姒の故を以て、申侯と卻有り。申侯怒りて犬戎と共に周の幽王を驪山の下に攻め殺し、遂に周の焦穫を取り、而して涇渭の間に居り、中国を侵暴す。秦の襄公周を救う。ここに於て周の平王酆鄗を去りて東に雒邑に徙る。是の時に当たり、秦の襄公戎を伐ちて岐に至り、始めて諸侯に列せらる。是より後六十五年、而して山戎燕を越えて斉を伐つ。斉の釐公之と斉の郊に戦う。其の後四十四年、而して山戎燕を伐つ。燕斉に急を告ぐ。斉の桓公山戎を北伐し、山戎走る。其の後二十有余年、而して戎狄洛邑に至り、周の襄王を伐つ。襄王鄭の氾邑に奔る。初め、周の襄王鄭を伐たんと欲し、故に戎狄の女を娶りて后と為し、戎狄の兵と共に鄭を伐つ。已にして狄后を黜す。狄后怨み、而して襄王の後母を惠后と曰い、子帯有りて之を立てんと欲す。ここに於て惠后と狄后・子帯内応と為り、戎狄を開く。戎狄是を以て故に入り得、周の襄王を破逐し、而して子帯を立てて天子と為す。ここに於て戎狄或いは陸渾に居り、東は衛に至り、中国を侵盗暴虐す。中国之を疾み、故に詩人歌いて之を曰く「戎狄是応ず」、「薄く獫狁を伐ち、大原に至る」、「輿を出だす彭彭、城を彼の朔方にす」と。周の襄王既に外に居ること四年、乃ち使をして晋に急を告げしむ。晋の文公初めて立ち、覇業を修めんと欲し、乃ち師を興して戎翟を伐逐し、子帯を誅し、周の襄王を迎え内れて、雒邑に居らしむ。
この時、秦と晉は強国であった。晉の文公は戎翟を退け、河西の圁・洛の間に居住し、赤翟・白翟と号した。秦の穆公は由余を得て、西戎八国は秦に服従した。故に隴より西には綿諸・緄戎・翟・獂の戎があり、岐・梁山・涇・漆の北には義渠・大荔・烏氏・朐衍の戎があった。また晉の北には林胡・樓煩の戎があり、燕の北には東胡・山戎があった。それぞれ分散して谿谷に居住し、それぞれ君長を持ち、しばしば集まって百余りの戎があったが、互いに一つになることはできなかった。
この後百余年を経て、晉の悼公は魏絳に命じて戎翟と和し、戎翟は晉に朝した。さらに百余年後、趙の襄子は句注を越えて代を破り併せ、胡貉に臨んだ。その後、韓・魏と共に智伯を滅ぼし、晉の地を分割して有すると、趙は代・句注の北を有し、魏は河西・上郡を有し、戎と境を接した。その後、義渠の戎は城郭を築いて自ら守ったが、秦は次第に蚕食し、恵王の時に至って遂に義渠の二十五城を抜いた。恵王が魏を撃つと、魏は西河及び上郡をことごとく秦に入れた。秦の昭王の時、義渠の戎王は宣太后と淫乱し、二人の子をもうけた。宣太后は偽って義渠の戎王を甘泉で殺し、遂に兵を起こして義渠を伐ち滅ぼした。ここにおいて秦は隴西・北地・上郡を有し、長城を築いて胡を防いだ。一方、趙の武霊王もまた習俗を変えて胡服とし、騎射を習い、北に林胡・樓煩を破った。長城を築き、代より陰山に沿って下り、高闕に至って塞とし、雲中・鴈門・代郡を置いた。その後、燕には賢将秦開がおり、胡に人質となって、胡は彼を大いに信じた。帰国して東胡を襲い破って退け、東胡は千余里退いた。荊軻と共に秦王を刺した秦舞陽は、開の孫である。燕もまた長城を築き、造陽より襄平に至り、上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東郡を置いて胡を防いだ。この時、冠帯の戦国は七つあり、そのうち三国が匈奴と境を接した。その後、趙の将李牧の時、匈奴は趙の辺境に入ることを敢えなかった。後に秦が六国を滅ぼすと、始皇帝は蒙恬に十万の兵を率いさせて北に胡を撃たせ、河南の地をことごとく収めた。河を因って塞とし、四十四の県城を河に臨んで築き、適戍の徒を移してこれを充填した。そして直道を通し、九原より雲陽に至り、辺境の山険・塹谿・谷で修繕できるところを治め、臨洮より遼東に至る万余里を築いた。また河を渡って陽山の北仮中を占拠した。
この時、東胡は強く、月氏は盛んであった。匈奴の単于は頭曼といい、頭曼は秦に勝てず、北に遷った。十余年して蒙恬が死に、諸侯が秦に叛き、中国は擾乱し、秦が移した適戍の辺境にいた者たちは皆また去った。ここにおいて匈奴は寛ぎを得て、再び次第に河南に渡り、中国と故塞を境とした。
単于には太子で名を冒頓という者がいた。後に寵愛する閼氏がおり、少子を生んだ。単于は冒頓を廃して少子を立てようとし、冒頓を月氏に人質として送った。冒頓が月氏に人質となった後、頭曼は急に月氏を撃った。月氏は冒頓を殺そうとしたが、冒頓はその良馬を盗み、騎って逃げ帰った。頭曼はこれを壮とし、万騎を率いさせた。冒頓はそこで鳴鏑を作り、その騎兵に射を習わせ、命令して言った、「鳴鏑の射るところに悉く射ない者は、これを斬る」と。鳥獣を狩猟する時、鳴鏑の射るところを射ない者がいれば、直ちにこれを斬った。やがて冒頓は鳴鏑で自らの良馬を射た。左右に敢えて射ない者がいたが、冒頓は直ちに良馬を射なかった者を斬った。しばらくして、また鳴鏑で自らの愛妻を射た。左右には甚だ恐れて射ない者もいたが、冒頓はまたこれを斬った。しばらくして、冒頓が出猟し、鳴鏑で単于の良馬を射ると、左右は皆これを射た。ここにおいて冒頓はその左右が皆用いるに足ると知った。父の単于頭曼と狩猟する時、鳴鏑で頭曼を射ると、その左右も皆鳴鏑に従って単于頭曼を射殺した。遂にその後母と弟、及び従わない大臣をことごとく誅した。冒頓は自ら立って単于となった。
冒頓が既に立つと、この時東胡は強盛であり、冒頓が父を殺して自立したと聞き、乃ち使者を遣わして冒頓に謂いて、頭曼の時に有りし千里馬を得んと欲す。冒頓、群臣に問う。群臣皆曰く、「千里馬は匈奴の宝馬なり、与うる勿れ」と。冒頓曰く、「奈何ぞ人と隣国たりて一馬を愛せんや」と。遂に之に千里馬を与う。居ること頃之、東胡は冒頓の己を畏るるを以て為し、乃ち使者を遣わして冒頓に謂いて、単于の一閼氏を得んと欲す。冒頓復た左右に問う。左右皆怒りて曰く、「東胡は道無く、乃ち閼氏を求む。請う、之を撃たん」と。冒頓曰く、「奈何ぞ人と隣国たりて一女子を愛せんや」と。遂に取りて愛する閼氏を東胡に予う。東胡王愈々驕り、西に侵す。匈奴と間に、中に棄地有りて、居る者莫く、千余里、各々其の辺に居りて甌脱と為す。東胡、使者を遣わして冒頓に謂いて曰く、「匈奴の我と界する甌脱外の棄地は、匈奴能く至るに非ざるなり、吾之を有せんと欲す」と。冒頓、群臣に問う。群臣或いは曰く、「此れ棄地なり、之を与うるも亦可なり、与えざるも亦可なり」と。ここに於いて冒頓大いに怒りて曰く、「地は国の本なり、奈何ぞ之を与えんや」と。諸に之を与えよと言う者は、皆之を斬る。冒頓馬に上り、国中に後るる者有らば斬れと令し、遂に東を襲い撃ちて東胡を撃つ。東胡初め冒頓を軽んじ、備えを為さず。冒頓の兵を以て至るに及び、撃ちて、大いに破り東胡王を滅ぼし、其の民人及び畜産を虜う。既に帰り、西に撃ちて月氏を走らせ、南に楼煩・白羊河南王を併す。悉く復た秦の蒙恬を使わして奪いし所の匈奴の地を収め、漢の故の河南塞に関し、朝那・膚施に至り、遂に燕・代を侵す。この時漢兵は項羽と相距たり、中国は兵革に罷み、以て故に冒頓自ら強きを得、控弦の士三十余万。
淳維より頭曼に至るまで千有余歳、時に大なり時に小なり、別れ散じ分かれ離る、尚しきこと、其の世伝は得て次ぐべからずと云う。然れども冒頓に至りて匈奴最も強大となり、尽く北夷を服従せしめ、而して南に中国と敵国を為し、其の世伝国官号は乃ち得て記すべしと云う。
左右賢王、左右谷蠡王、左右大将、左右大都尉、左右大当戸、左右骨都侯を置く。匈奴は賢を「屠耆」と謂う、故に常に太子を以て左屠耆王と為す。自ら左右賢王以下当戸に至るまで、大なる者は万騎、小なる者は数千、凡そ二十四長、号を立てて「万騎」と曰う。諸の大臣は皆世官なり。呼衍氏、蘭氏、其の後に須卜氏有り、此の三姓は其の貴種なり。諸の左方の王将は東方に居り、上谷に直ぐに以往する者、東に穢貉・朝鮮に接す。右方の王将は西方に居り、上郡より西に直ぐに、月氏・氐・羌に接す。而して単于の庭は代・雲中に直ぐにす。各々分地有り、水草を逐って移徙す。而して左右賢王・左右谷蠡王最も大なり、左右骨都侯は政を輔く。諸の二十四長も亦各々千長・百長・什長・裨小王・相・封都尉・当戸・且渠の属を置く。
歳首の正月には、諸部の長が単于の庭に小会し、祭祀を行う。五月には蘢城に大会し、その祖先・天地・鬼神を祭る。秋、馬が肥えると、蹛林に大会し、人畜の数を検査して計算する。その法は、刃を一尺抜いた者は死罪、盗みを犯した者はその家財を没収する。罪の小さい者は軋(体を轢く刑)に処し、大きい者は死罪とする。獄事が長引くこと十日を過ぎず、一国の囚人は数人に過ぎない。また単于は朝に営を出て、日の初めて生ずるを拝し、夕べに月を拝する。その座り方は、長者は左に座り北を向く。日は戊己の日に上る。死者を送るには、棺槨・金銀・衣裘はあるが、封樹や喪服はない。近幸の臣妾で殉死する者は、多いときで数千百人に及ぶ。事を起こすときは星月を候い、月が盛んに壮なれば攻戦し、月が虧ければ兵を退く。その攻戦においては、敵の首を斬れば一卮の酒を賜い、得た鹵獲はそれによって与え、人を得れば奴婢とする。故にその戦いでは、人々自ら利を趣き、よく誘兵を用いて敵を冒す。故に敵を見れば利を逐い、鳥の集まるが如く、困敗すれば瓦解雲散する。戦って死者を扶輿する者は、死者の家財をことごとく得る。
その後、北方の渾庾・屈射・丁零・鬲昆・薪犁の国を服属させた。ここにおいて匈奴の貴人・大臣は皆服し、冒頓単于を賢者と認めた。
この時、漢は中国を初めて平定し、韓王信を代に移し、馬邑に都した。匈奴は大いに馬邑を攻め囲み、韓王信は匈奴に降った。匈奴は信を得て、兵を率いて南に句注を踰え、太原を攻め、晋陽の城下に至った。高帝自ら兵を将いて往き撃った。時に冬で大いに寒く雨雪が降り、士卒の指を堕とす者が十二三に及び、ここにおいて冒頓は偽って敗走し、漢兵を誘った。漢兵は冒頓を逐撃し、冒頓はその精兵を匿し、その羸弱な兵を見せた。ここにおいて漢は悉く兵を出し、多くは歩兵、三十二万で北にこれを逐った。高帝は先に平城に至り、歩兵は未だ尽く到らず、冒頓は精兵四十万騎を縦って高帝を白登に囲み、七日間、漢兵は内外相救い餉するを得なかった。匈奴の騎兵は、その西方は尽く白馬、東方は尽く青駹馬、北方は尽く烏驪馬、南方は尽く騂馬であった。高帝は使者を遣わし、間を厚く遺って閼氏に贈り物をした。閼氏は冒頓に言うには、「両主は互いに困らせるべきではない。今漢の地を得ても、単于は終にそこに居ることはできない。また漢王にも神霊がある。単于はこれを察せよ」と。冒頓は韓王信の将である王黄・趙利と期していたが、黄・利の兵は来ず、彼らが漢と謀りがあると疑い、また閼氏の言葉も取り入れて、囲みの一角を解いた。ここにおいて高帝は士卒に皆、弓を満たして矢をつがえ外に向かわせ、解けた角から直ちに出て、ついに大軍と合流し、冒頓は遂に兵を引いて去った。漢もまた兵を引いて罷め、劉敬に和親の約を結ばせた。
その後、韓王信は匈奴の将となり、趙利・王黄らと共に数度約に背き、代・雲中を侵盗した。幾ばくもなくして、陳豨が反し、また韓信と合謀して代を撃った。漢は樊噲を遣わして往き撃たせ、再び代・鴈門・雲中の郡県を抜き、塞を出なかった。この時、匈奴は漢の将で多く降る者がいたので、冒頓は常に往来して代の地を侵盗した。ここにおいて漢はこれを憂い、高帝は劉敬に宗室の女を公主として単于の閼氏に奉らせ、毎年匈奴に絮・繒・酒・米・食物を奉りそれぞれ定数があり、兄弟と約して和親し、冒頓はようやく少し止んだ。後に燕王盧綰が反し、その党数千人を率いて匈奴に降り、往来して上谷以東を苦しめた。
高祖が崩じ、孝惠帝・呂太后の時、漢は初めて定まったばかりであったので、匈奴は驕慢であった。冒頓は書を為して高后に遺し、妄言した。高后はこれを撃たんとしたが、諸将は言うには、「高帝の賢武をもってしても、尚平城に困られたのである」と。ここにおいて高后は止め、再び匈奴と和親した。
孝文帝が即位した初め、再び和親の事を修めた。その三年五月、匈奴の右賢王が河南の地に入り居り、上郡の葆塞の蠻夷を侵盜し、人民を殺略した。ここにおいて孝文帝は丞相灌嬰に詔して車騎八萬五千を發し、高奴に詣り、右賢王を撃たしめた。右賢王は塞を出て走った。文帝は太原に幸した。この時濟北王が反し、文帝は歸り、丞相の胡を撃つ兵を罷めた。
その明年、單于は漢に書を遺して曰く、「天の立てし匈奴大單于、皇帝の無恙を敬問す。前時に皇帝和親の事を言ひ、書の意に稱ひ、歡を合せたり。漢の邊吏、右賢王を侵侮し、右賢王は請はず、後義盧侯難氏等の計を聽き、漢の吏と相距ち、二主の約を絕ち、兄弟の親を離る。皇帝譲書再び至り、使を發して書を以て報ゆるも、來らず、漢の使至らず、漢其の故を以て和せず、鄰國附かず。今小吏の約を敗れる故を以て、右賢王を罰し、之をして西に月氏を求め撃たしむ。天の福を以て、吏卒良く、馬彊力にして、月氏を夷滅し、盡く斬殺降下せしむ。樓蘭、烏孫、呼揭及び其の旁の二十六國を定め、皆以て匈奴と爲す。諸の弓を引くの民、并せて一家と爲る。北州已に定まれり、願はくは兵を寢め士卒を休め馬を養ひ、前事を除き、故約を復し、以て邊民を安んじ、以て始古に應じ、少者をして其の長を得せしめ、老者をして其の處に安んぜしめ、世世平樂ならしめん。未だ皇帝の志を得ざるなり、故に郎中系雩淺を使はして書を奉り請ひ、橐他一匹を獻じ、騎馬二匹、駕二駟を獻ず。皇帝若し匈奴の塞に近づくを欲せざれば、則ち且つ吏民に詔して遠く舍ましむべし。使者至れば、即ち之を遣はす。」六月中に來りて薪望の地に至る。書至り、漢議して撃つと和親と孰れか便なるかを論ず。公卿皆曰く、「單于新たに月氏を破り、勝に乘ず、撃つべからず。且つ匈奴の地を得るも、澤鹵にして、居るべからず。和親甚だ便なり。」漢之を許す。
孝文皇帝前六年、漢匈奴に書を遺して曰く、「皇帝、匈奴大單于の無恙を敬問す。郎中系雩淺を使はして朕に書を遺し曰く、『右賢王請はず、後義盧侯難氏等の計を聽き、二主の約を絕ち、兄弟の親を離る。漢以て故に和せず、鄰國附かず。今小吏の約を敗れるを以て、故に右賢王を罰し西に月氏を撃たしめ、盡く之を定む。願はくは兵を寢め士卒を休め馬を養ひ、前事を除き、故約を復し、以て邊民を安んじ、少者をして其の長を得せしめ、老者をして其の處に安んぜしめ、世世平樂ならしめん。』朕甚だ之を嘉す、此れ古の聖主の意なり。漢と匈奴約して兄弟と爲り、以て單于に遺す所甚だ厚し。約を倍き兄弟の親を離るる者は、常に匈奴に在り。然れども右賢王の事は已に赦前に在り、單于深く誅する勿れ。單于若し書の意に稱ひ、諸の吏に明らかに告げ、して約を負はざらしめ、信有らば、單于の書の如く敬ふ。使者言ふ、單于自ら將として國を伐つこと功有り、甚だ兵事に苦しむと。繡袷綺衣、繡袷長襦、錦袷袍各一、比余一、黃金飾具帶一、黃金胥紕一、繡十匹、錦三十匹、赤綈、綠繒各四十匹を服し、中大夫意、謁者令肩を使はして單于に遺す。」
後頃之、冒頓死に、子稽粥立ち、號して老上單于と曰ふ。
老上稽粥單于初めに立ち、孝文皇帝復た宗室の女公主を遣はして單于の閼氏と爲し、宦者燕人中行說をして公主を傅せしむ。說行かんと欲せず、漢彊ひて之を行かしむ。說曰く、「必ず我行かば、漢の患と爲らん。」中行說既に至り、因りて單于に降り、單于甚だ之を親幸す。
初め、匈奴は漢の繒絮(絹織物)や食物を好んだが、中行説が言うには、「匈奴の人口は漢の一郡にも及ばないが、それでも強盛であるのは、衣食が異なり、漢に依存しないからである。今、単于が習俗を変えて漢の物を好めば、漢の物が十分の二に過ぎなくとも、匈奴はことごとく漢に帰属してしまうであろう。漢の繒絮を得たら、それを草や棘の中を馳せて、衣袴をことごとく裂け破れさせ、旃裘(毛皮の衣)の完備した善さに及ばないことを示すがよい。漢の食物を得たら、皆これを棄て去り、湩酪(乳製品)の便利で美味なことに及ばないことを示すがよい」と。そこで中行説は単于の左右に記録をつけさせ、その人衆や畜産物を計算して課することを教えた。
漢が単于に送る文書は、木簡の長さを一尺一寸とし、文辞に「皇帝、匈奴の大単于に敬って問う、恙なきや」と書き、贈る物と言葉などと記した。中行説は単于に命じて漢に送る文書を一尺二寸の木簡とし、印章や封泥もすべて大きく長くさせ、その言辞を傲慢に「天地の生み日月の置くところの匈奴大単于、漢皇帝に敬って問う、恙なきや」とし、贈る物と言葉もまた同様に記させた。
漢の使者がある者が言うには、「匈奴の習俗は老人を軽んじる」と。中行説は漢の使者を詰問して言うには、「それでは漢の習俗では、屯戍や従軍で出発すべき者の、年老いた親は、自ら温かく厚い衣服や肥美な食物を脱ぎ払って、飲食を贈り送り、行軍や戍守に赴かせないことがあろうか」と。漢の使者が「その通りである」と言うと、中行説は言うには、「匈奴は明らかに戦闘を事とし、その老弱は戦うことができない。故にその肥美な飲食を壮健な者に与え、おそらくは自らを守衛させるためである。このようにして父子それぞれが長く互いを保つことができるのに、どうして匈奴が老人を軽んじると言えようか」と。漢の使者が言うには、「匈奴では父子が同じ穹廬(天幕)に臥す。父が死ねば、その後母を妻とする。兄弟が死ねば、その妻をことごとく娶って妻とする。冠帯の飾りもなく、朝廷の礼もない」と。中行説は言うには、「匈奴の習俗は、人は畜の肉を食い、その汁を飲み、その皮を衣とし、畜は草を食み水を飲み、時に従って転移する。故にその急な時には人は騎射に習熟し、寛な時には人は事なきことを楽しむ。その規律は軽く、実行しやすい。君臣の関係は簡易で、一国の政は一身のようである。父子兄弟が死ねば、その妻を娶って妻とするのは、種姓が失われるのを嫌うからである。故に匈奴はたとえ乱れても、必ず宗族の種を立てる。今、中国では詳らかに父兄の妻を娶らないが、親属がますます疎遠になれば互いに殺し合い、ついには姓を易えるに至る。皆この類である。かつ礼義の弊害は、上下互いに怨望し、また室屋の極みは、生力を必ず屈する。力を耕桑に尽くして衣食を求め、城郭を築いて自ら備えるから、その民は急な時には戦功に習熟せず、緩やかな時には作業に疲弊する。ああ、土室に住む者よ、多く言うな。喋喋として佔佔(小賢しく)することを命じるが、冠などいったい何の役に立とうか」と。
この後より、漢の使者で弁論しようとする者がいると、中行説は常に言うには、「漢の使者は多く言うな。ただ漢が匈奴に輸送する繒絮・米・糱(麦芽)が、その数量が十分で、必ず善く美しいものであればよいだけである。何を言う必要があろうか。かつて与えるものが備わって善ければそれでよい。備わらず、苦く悪ければ、秋の熟する時を待って、騎兵を馳せて踏みにじり、その稼穡を荒らすだけである」と。日夜、単于に利害の処を窺うことを教えた。
漢の孝文皇帝十四年、匈奴の単于は十四万騎を率いて朝那・蕭関に入り、北地都尉の卬を殺し、人民や畜産を多く虜掠し、遂に彭陽に至った。奇兵を遣わして回中宮を焼き、斥候の騎兵は雍の甘泉にまで至った。そこで文帝は中尉の周舍・郎中令の張武を将軍とし、車千乗、騎十万を発し、長安の傍に駐屯させて胡寇に備えさせた。また昌侯の盧卿を上郡将軍に、甯侯の魏遬を北地将軍に、隆慮侯の周灶を隴西将軍に、東陽侯の張相如を大将軍に、成侯の董赤を前将軍に拝し、大いに車騎を発して胡を撃たせた。単于は塞内に留まること一月余りにして去り、漢軍は塞外に逐い出しただけで還り、殺すところはなかった。匈奴は日に日に驕り、毎年辺境に入り、人民や畜産を多く殺略し、雲中・遼東が最も甚だしく、代郡では万余人に及んだ。漢はこれを憂い、使者を遣わして匈奴に書を贈った。単于もまた当戸を遣わして返礼し、再び和親のことを言上した。
孝文帝の後二年、使者を遣わして匈奴に書を贈りて曰く、「皇帝謹んで匈奴の大単于の無恙を問う。使者の当戸且居の雕渠難・郎中韓遼が朕に馬二匹を遺わす、既に至り、謹んで受く。先帝の制に曰く、長城以北は、弓を引くの国、命を単于に受け、長城以内は、冠帯の室、朕も亦之を制す。万民をして耕織射獵し衣食せしめ、父子離れず、臣主相安じ、俱に暴逆無からしむ。今、渫悪の民の貪りて其の進取の利に降り、義を倍し約を絶ち、万民の命を忘れ、両主の歓を離るるを聞く、然れども其の事は已に前に在り。書に曰く、『二国已に和親し、両主歓説し、兵を寝め卒を休め馬を養い、世々昌楽し、闟然として更始す』と。朕は甚だ之を嘉す。聖人は日に新たに、改作更始し、老者をして息を得しめ、幼者をして長ずるを得しめ、各其の首領を保ちて其の天年を終わらしむ。朕と単于と俱に此の道に由り、天に順い民を恤み、世々相伝え、之を施して窮まり無く、天下咸しく便ならざる莫し。漢と匈奴とは隣国の敵たり、匈奴は北地に処り、寒く、殺気早く降る、故に吏に詔して単于に秫糱金帛絲絮佗物を遺わし歳に数有らしむ。今天下大いに安んじ、万民熙熙たり、朕と単于とは之が父母と為る。朕は前事を追念す、薄物細故、謀臣の計失は、皆兄弟の歓を離るるに足らず。朕は天の覆すに頗らず、地の載するに偏せざるを聞く。朕と単于とは皆往時の細故を捐て、俱に大道を蹈み、前悪を墮壊し、以て長久を図り、両国の民を一家の子の若くせん。元元の万民、下は魚鱉に及び、上は飛鳥に及び、跂行喙息蠕動の類、安利に就きて危殆を避けざる莫し。故に来る者は止まず、天の道なり。俱に前事を去らん、朕は逃虜の民を釈し、単于は章尼等に言無かれ。朕は古の帝王の、約分明にして食言無きを聞く。単于は志を留めよ、天下大いに安んじ、和親の後は、漢過まず先んぜず。単于其れ之を察せよ」と。
単于既に和親を約し、是に於て御史に制詔して曰く、「匈奴の大単于朕に書を遺わし、和親已に定まり、亡人は以て衆を益し地を広むるに足らず、匈奴は塞に入らず、漢は塞を出でず、今の約を犯す者は之を殺し、以て久しく親しむべく、後に咎無く、俱に便なりと。朕已に之を許す。其れ天下に布告して、明らかに之を知らしめよ」と。
後四歳、老上稽粥単于死に、子の軍臣立って単于と為る。既に立ちて、孝文皇帝復た匈奴と和親す。而して中行説復た之に事う。
軍臣単于の立つこと四歳、匈奴復た和親を絶ち、大いに上郡・雲中に入り各々三万騎、殺略する所甚だ衆くして去る。是に於て漢は三将軍をして軍を北地に屯せしめ、代は句注に屯し、趙は飛狐口に屯し、辺に縁りて亦各々堅守して以て胡寇に備う。又た三将軍を置き、軍を長安西の細柳・渭北の棘門・霸上にし以て胡に備う。胡騎代の句注の辺に入り、烽火甘泉・長安に通ず。数ヶ月、漢兵辺に至り、匈奴亦た遠く塞を去り、漢兵亦た罷む。後歳余、孝文帝崩じ、孝景帝立ち、而して趙王遂乃ち陰かに人を匈奴に使わす。呉楚反し、趙と合謀して辺に入らんと欲す。漢囲みて趙を破り、匈奴亦た止む。是より後、孝景帝復た匈奴と和親し、関市を通じ、匈奴に給遺し、公主を遣わし、故約の如し。孝景の時を終わるまで、時に小に入りて辺を盗み、大寇無し。
今帝即位し、和親の約束を明らかにし、厚く遇し、関市を通じ、饒に之を給す。匈奴は単于以下皆漢に親しみ、往来長城の下にす。
漢の使者、馬邑の下人聶翁壹は、禁制品を密かに持ち出して匈奴と交わり、偽って馬邑城を売るふりをして単于を誘い出した。単于はこれを信じ、馬邑の財物を貪って、ついに十万騎を率いて武州塞に入った。漢は三十余万の伏兵を馬邑の傍らに配置し、御史大夫韓安国が護軍となり、四将軍を統率して単于を待ち伏せた。単于は漢の塞に入ったが、馬邑に至るまで百余里のところで、家畜が野に満ちているのに牧者がいないのを見て、怪しみ、亭を攻撃した。この時、鴈門の尉史が巡察中で、敵を見てこの亭に籠り、漢兵の謀略を知っていたが、単于に捕らえられ、殺されようとしたので、尉史は単于に漢兵の居場所を告げた。単于は大いに驚いて言った、「私はもとより疑っていたのだ。」そして兵を引き返した。出て言った、「私は尉史を得たのは天の計らいであり、天がこの者に言わせたのだ。」尉史を「天王」とした。漢兵は単于が馬邑に入ったところを襲う約束であったが、単于は来なかったので、漢兵は何も得られなかった。漢の将軍王恢は代から出て胡の輜重を撃つことになっていたが、単于が戻り、兵が多いと聞いて、出撃しなかった。漢は王恢がもとより出兵の謀略を立てながら進まなかったので、王恢を斬った。この後より、匈奴は和親を絶ち、要路の塞を攻め、しばしば漢の辺境に侵入して盗みを働き、数え切れないほどであった。しかし匈奴は貪欲で、なお関市を喜び、漢の財物を好んだので、漢もまた関市を絶やさずに続けて彼らを満足させた。
馬邑の軍の後の五年の秋、漢は四将軍を遣わし、各々一万騎を率いて胡の関市の下を撃たしむ。
その後、冬に、匈奴の軍臣単于が死す。軍臣単于の弟、左谷蠡王の伊稚斜、自ら立って単于となり、軍臣単于の太子於単を攻め破る。於単は亡走して漢に降る。漢は於単を封じて涉安侯と為す。数ヶ月にして死す。
伊稚斜単于が既に立つと、その夏、匈奴の数万騎が入り代郡太守の恭友を殺し、千余人を略奪す。その秋、匈奴はまた雁門に入り、千余人を殺略す。その明年、匈奴はまたまた代郡・定襄・上郡に入り、各三万騎、数千人を殺略す。匈奴の右賢王は漢が之より河南の地を奪ひて朔方を築くを怨み、数たび寇と爲り、辺を盗み、及び河南に入り、朔方を侵擾し、吏民其の衆を殺略す。
翌年の春、漢は衛青を大将軍とし、六将軍を率い、十余万の兵を以て、朔方・高闕より出でて胡を撃つ。右賢王は漢兵の至らざるを以て、酒を飲みて酔い、漢兵は塞を出でること六七百里、夜に右賢王を囲む。右賢王大いに驚き、身を脱して逃走し、諸の精騎は往々として後に随いて去る。漢は右賢王の衆男女一万五千人を得、裨小王十余人を得たり。その秋、匈奴の万騎入りて代郡都尉朱英を殺し、千余人を略す。
その翌年の春、漢はまた大将軍衛青を遣わし、六将軍を率い、兵十余万騎を以て、再び定襄より数百里を出でて匈奴を撃ち、前後合わせて首虜凡そ一万九千余級を得たが、漢もまた両将軍と軍三千余騎を失った。右将軍建は身をもって脱出したが、前将軍翕侯趙信は兵不利にして、匈奴に降った。趙信は、もと胡の小王で、漢に降り、漢は翕侯に封じ、前将軍として右将軍と軍を併せて分かれて進み、単独で単于の兵に遇い、故に全軍尽く没した。単于は既に翕侯を得て、自次王と為し、その姉を以て妻とし、漢を謀らしめた。信は単于に益々北に進み幕を絶ち、以て漢兵を誘いて疲れさせ、極みに至ってこれを取るよう教え、塞に近づかぬようにした。単于はその計に従った。その翌年、胡騎一万人が上谷に入り、数百人を殺した。
その翌年の春、漢は驃騎将軍去病を遣わし、一万騎を率いて隴西より出で、焉支山を過ぎて千余里、匈奴を撃ち、胡の首虜(騎)一万八千余級を得、休屠王の祭天金人を破り得た。その夏、驃騎将軍はまた合騎侯と数万騎を率いて隴西・北地より二千里を出で、匈奴を撃った。居延を過ぎ、祁連山を攻め、胡の首虜三万余人、裨小王以下七十余人を得た。この時、匈奴もまた代郡・鴈門に入り来たり、数百人を殺略した。漢は博望侯及び李将軍広を遣わし、右北平より出で、匈奴の左賢王を撃った。左賢王は李将軍を囲み、兵卒およそ四千人、将に尽きんとし、殺虜もまた過当であった。博望侯の軍の救い至るに会い、李将軍は脱出を得た。漢は数千人を失い、合騎侯は驃騎将軍の期に後れ、及び博望侯とともに皆死に当たり、贖って庶人と為った。
その秋、単于は渾邪王・休屠王が西方に居て漢に殺虜せられること数万人に及んだことを怒り、召して誅せんと欲した。渾邪王と休屠王は恐れ、謀って漢に降らんとし、漢は驃騎将軍を遣わして往き迎えさせた。渾邪王は休屠王を殺し、その衆を併せて漢に降った。凡そ四万余人、十万と号した。ここにおいて漢は既に渾邪王を得たので、隴西・北地・河西は益々胡寇少なくなり、関東の貧民を徙して匈奴の河南・新秦中を奪い取った所に処らせ、以てこれを実らせ、北地以西の戍卒を半減した。その翌年、匈奴は右北平・定襄に各数万騎入り、千余人を殺略して去った。
その翌年の春、漢は謀って曰く「翕侯信が単于のために計り、幕北に居り、以て漢兵の至らざるを為す」と。乃ち粟馬し、十万騎を発し、(負)私[負]従馬凡そ十四万匹、糧重はこれに与からず。大将軍青・驃騎将軍去病に中分して軍を率いさせ、大将軍は定襄より出で、驃騎将軍は代より出で、咸く約して幕を絶ちて匈奴を撃たしめた。単于これを聞き、その輜重を遠ざけ、精兵を以て幕北に待ち構えた。漢の大将軍と接戦すること一日、暮れに会し、大風起こり、漢兵は左右翼を縦して単于を囲んだ。単于自ら戦い漢兵の如くならざるを度り、単于遂に独り身と壮騎数百を以て漢の囲みを潰し西北に遁走した。漢兵は夜追うも得ず。行くところ匈奴の首虜一万九千級を斬捕し、北は闐顔山の趙信城に至って還った。
単于の遁走するや、その兵は往々漢兵と相乱れて単于に随った。単于は久しくその大衆と相得ず、その右谷蠡王は単于死せりと為し、乃ち自立して単于と為った。真の単于は復たその衆を得、而して右谷蠡王は乃ちその単于の号を去り、復た右谷蠡王と為った。
漢の驃騎将軍は代を出ること二千余里、左賢王と接戦し、漢兵は胡の首虜を得ること凡そ七万余級、左賢王の将は皆遁走した。驃騎は狼居胥山に封じ、姑衍に禅し、翰海に臨みて還った。
その後、匈奴は遠く遁れ、幕南に王庭無し。漢は河を渡り、朔方より西、令居に至るまで、往々渠を通じて田を置き、官吏卒五六万人、稍々蠶食し、地は匈奴の北に接した。
初め、漢の両将軍が大いに出て単于を囲み、殺虜すること八九万、而して漢の士卒の物故も亦数万、漢の馬の死者十余万。匈奴は病み、遠く去るも、漢も亦馬少なく、復往するに由無し。匈奴は趙信の計を用い、使を漢に遣わし、好辞を以て和親を請う。天子は其の議を下し、或いは和親を言い、或いは遂に之を臣とすべしと言う。丞相長史任敞曰く、「匈奴新たに破れ、困す、宜しく外臣と為し、辺に朝請せしむべし。」漢は任敞を単于に使わす。単于、敞の計を聞き、大いに怒り、之を留めて遣わさず。是に先立ち、漢も亦降る所の匈奴の使者有り、単于も亦輒ち漢の使を留めて相当す。漢は方に復た士馬を収めんとし、会に驃騎将軍去病死す、ここに於いて漢久しく北して胡を撃たず。
数年、伊稚斜単于立つこと十三年にして死し、子烏維立って単于と為る。是の歳、漢の元鼎三年なり。烏維単于立ちて、而して漢の天子始めて郡県を巡る。其の後、漢は方に南して両越を誅し、匈奴を撃たず、匈奴も亦辺に侵入せず。
烏維単于立つこと三年、漢は已に南越を滅ぼし、故太仆賀を遣わし、万五千騎を将いて九原を出ること二千余里、浮苴井に至りて還り、匈奴一人を見ず。漢は又た故従驃侯趙破奴を遣わし、万余騎を将いて令居を出ること数千里、匈河水に至りて還り、亦た匈奴一人を見ず。
この時、天子は辺境を巡行し、朔方に至り、十八万騎の兵を整えて武威を示し、郭吉を使わして単于に風説させた。郭吉が匈奴に至ると、匈奴の主客が使者の用件を尋ねた。郭吉は礼を卑しくし言葉を穏やかにして言う、「単于に会って口頭で申し上げたい」。単于が郭吉に会うと、郭吉は言った、「南越王の首はすでに漢の北闕に懸けられております。今、単于がもし前に進んで漢と戦うことがおできになるならば、天子自ら兵を率いて辺境でお待ちしております。単于がもしそれがおできにならなければ、すなわち南面して漢に臣従なさるべきです。どうしてただ遠くへ逃げ、幕北の寒苦で水草のない地に隠れ亡命なさる必要がありましょうか。無駄なことです」。言葉が終わると、単于は大いに怒り、ただちに主客の接見者を斬り、郭吉を帰さずに留め置き、北海の地に遷した。しかし単于は結局、漢の辺境を侵すことを肯んぜず、兵馬を休養させ、射猟を習練し、しばしば使者を漢に遣わし、巧みな言葉と甘言をもって和親を求めた。
漢は王烏らを使者として匈奴を窺わせた。匈奴の法では、漢の使者が節を去らず、また墨で顔に入れ墨をしない者は穹廬に入ることができない。王烏は北地の人で、胡の習俗に通じており、節を去り、顔に入れ墨をして、穹廬に入ることができた。単于は彼を気に入り、甘言を偽って約束し、その太子を漢に入れて人質とし、和親を求めるためと称した。
漢は楊信を匈奴に使わした。この時、漢は東方で穢貉・朝鮮を抜いて郡とし、西方に酒泉郡を置いて胡と羌が通じる道を遮断した。漢はまた西方で月氏・大夏と通じ、さらに公主を烏孫王に嫁がせて、匈奴の西方の援国を分断した。また北方では田畑を広げて胘雷までを塞とし、匈奴は終にこれを口にすることも敢えてしなかった。この年、翕侯信が死に、漢の権力者は匈奴がすでに弱ったと考え、臣従させることができるとした。楊信は人となり剛直で強情であり、もとより貴臣ではなかったので、単于は親しもうとしなかった。単于は召し入れようとしたが、楊信は節を去ろうとせず、単于は穹廬の外に座って楊信に会った。楊信が単于に会うと、説いて言った、「もし和親を望まれるならば、単于の太子を漢に人質として送られるべきです」。単于は言った、「これは昔の約束ではない。昔の約束では、漢は常に翁主を遣わし、繒絮や食物を品目に従って与え、和親とし、匈奴もまた辺境を侵さなかった。今になって古に反し、我が太子を人質にせよとは、ほとんど望み薄いことだ」。匈奴の習俗では、漢の使者が中貴人でない場合、儒者や先輩であれば、説得しようとする者と見てその弁論を折り、年少者であれば、刺そうとする者と見てその気勢を折る。漢の使者が匈奴に入るたびに、匈奴は報償する。漢が匈奴の使者を留めれば、匈奴もまた漢の使者を留め、必ず相当の報いを得て初めて止めるのである。
楊信が帰った後、漢は王烏を使者としたが、単于は再び甘言を弄し、漢の財物を多く得ようとし、王烏を欺いて言った、「私は漢に入って天子に会い、面と向かって兄弟の約を結びたい」。王烏が帰って漢に報告すると、漢は単于のために長安に邸を築いた。匈奴は言った、「漢の貴人たる使者でなければ、私は誠意ある言葉を交わさない」。匈奴はその貴人を漢に遣わしたが、病にかかり、漢が薬を与えて治そうとしたが、不幸にも死んだ。そこで漢は路充国に二千石の印綬を佩かせて使いに遣わし、その喪を送ることにし、厚く葬って数千金に値する費用をかけ、「これは漢の貴人である」と言った。単于は漢が我が貴い使者を殺したと思い、路充国を帰さずに留め置いた。これまで言ってきたことは、単于が特に王烏を空しく欺いただけで、漢に入ることや太子を人質に遣わすことには全く意がなかった。ここにおいて匈奴はしばしば奇兵を遣わして辺境を侵犯した。漢は郭昌を抜胡将軍に任じ、また浞野侯とともに朔方以東に駐屯させ、胡に備えさせた。路充国は匈奴に三年留め置かれ、その間に単于が死んだ。
烏維単于が立って十年で死に、子の烏師廬が立って単于となった。年少であったので、児単于と号した。この年は元封六年である。この後より、単于はますます西北に移り、左方の兵は雲中に当たり、右方は酒泉・燉煌郡に当たるようになった。
児単于が立つと、漢は使者を二人派遣し、一人は単于を弔問し、一人は右賢王を弔問して、その国を離間させようとした。使者が匈奴に入ると、匈奴はことごとく彼らを単于のもとに連れて行った。単于は怒り、漢の使者をことごとく抑留した。漢の使者で匈奴に留められた者は前後十余輩に及び、匈奴の使者が来ると、漢もまたその都度同等の数を抑留した。
この年、漢は貳師将軍李広利をして西に大宛を討伐させ、また因杅将軍公孫敖に命じて受降城を築かせた。その冬、匈奴は大雪が降り、家畜は多くが飢え寒さで死んだ。児単于は年少で、殺伐を好み、国人は多く不安を抱いた。左大都尉は単于を殺そうとし、人を遣わして密かに漢に告げて言うには、「私は単于を殺して漢に降りたい。漢は遠いので、すぐに兵を出して迎えに来てくれれば、私はすぐに挙兵する」と。初め、漢はこの言葉を聞き、それゆえに受降城を築いたが、なお遠いと考えた。
その翌年の春、漢は浞野侯趙破奴に命じて二万余騎を率いさせ、朔方から西北へ二千余里に出撃させ、浚稽山に至るのを期して還らせた。浞野侯は期日に至って還ったが、左大都尉が挙兵しようとして発覚し、単于に誅殺された。単于は左方の兵を発して浞野侯を撃った。浞野侯は進軍して捕虜を捕え数千人を得た。還る途中、受降城に至るまで四百里のところで、匈奴の兵八万騎がこれを包囲した。浞野侯は夜、自ら出て水を求め、匈奴の間者に捕らえられ、生け捕りにされた。匈奴はその軍を急襲した。軍中では郭縦が護軍となり、維王が渠帥となり、互いに謀って言うには、「諸校尉は将軍を失ったことを恐れて誅殺されるのを恐れ、互いに帰還を勧める者はいない」と。軍はついに匈奴に没した。匈奴の児単于は大いに喜び、ついに奇兵を遣わして受降城を攻撃させた。陥落させることができず、辺境に侵入して掠め去った。その翌年、単于は自ら受降城を攻撃しようとしたが、到着する前に病死した。
児単于は立って三歳で死んだ。子は年少であったので、匈奴はその季父である烏維単于の弟、右賢王呴犁湖を立てて単于とした。この年は太初三年である。
呴犁湖単于が立つと、漢は光禄勲徐自為をして五原塞から数百里、遠いところは千余里に出させ、城障と列亭を築いて廬朐に至らせ、また游撃将軍韓説と長平侯衛伉に命じてその傍らに駐屯させ、彊弩都尉路博德に命じて居延沢のほとりに築城させた。
その秋、匈奴は大いに定襄・雲中に入り、数千人を殺略し、二千石の官を敗って去り、行くところ光祿の築いた城列亭鄣を破壊した。また右賢王をして酒泉・張掖に入らせ、数千人を略した。任文が撃って救うに会し、尽く失ったところのものを復して去った。この歳、貳師將軍が大宛を破り、その王を斬って還った。匈奴はこれを遮らんとしたが、至ることができなかった。その冬、受降城を攻めんとしたが、単于が病死するに会した。
呴犁湖単于は立つこと一歳にして死す。匈奴は乃ちその弟の左大都尉且鞮侯を立てて単于と為す。
漢は既に大宛を誅し、威は外国に震う。天子は意に胡を遂に困らせんと欲し、乃ち詔を下して曰く、「高皇帝は朕に平城の憂いを遺し、高后の時、単于の書は絶えて悖逆なり。昔、斉の襄公は九世の讐を復し、春秋はこれを大いとす」と。この歳は太初四年なり。
且鞮侯単于は既に立つと、降らざる漢の使者を尽く帰した。路充国等は帰るを得たり。単于は初めに立ち、漢の襲うを恐れ、乃ち自ら謂う「我は児子なり、安んぞ漢の天子を望まんや!漢の天子は、我が丈人の行なり」と。漢は中郎将蘇武を遣わし、厚く幣を以て単于に賂遺す。単于は益々驕り、礼甚だ倨にして、漢の望むところに非ざりき。その明年、浞野侯破奴は亡れて漢に帰るを得たり。
その明年、漢は貳師將軍広利を使わし、三万騎を以て酒泉より出で、天山において右賢王を撃ち、胡の首虜万余級を得て還る。匈奴は大いに貳師將軍を囲み、幾ばくかならずして脱せず。漢兵の物故すること什六七なり。漢は復た因杅將軍敖を使わし、西河より出で、彊弩都尉と涿涂山に会すも、得る所無し。また騎都尉李陵を使わし、歩騎五千人を将いて、居延の北千余里より出で、単于と会し、合戦す。陵の殺傷する所万余人、兵及び食尽き、解きて帰らんと欲す。匈奴は陵を囲み、陵は匈奴に降る。その兵は遂に没し、還るを得る者は四百人なり。単于は乃ち陵を貴び、その女を以て妻と為す。
その後二年、また貳師将軍に六万騎、歩兵十万を率いさせ、朔方より出撃させた。彊弩都尉路博徳は一万余りを率い、貳師と会合した。游撃将軍韓説は歩騎三万人を率い、五原より出撃した。因杅将軍公孫敖は騎兵一万、歩兵三万人を率い、雁門より出撃した。匈奴はこれを聞き、その輜重をすべて余吾水の北に遠ざけ、一方で単于は十万騎を率いて水の南で待ち受け、貳師将軍と戦闘を交えた。貳師はそこで包囲を解いて引き揚げ、単于と連日十余日にわたって戦った。貳師は自分の家が巫蠱の罪で族滅されたと聞き、そこで軍勢を率いて匈奴に降伏した。帰還できたのは千人に一人か二人であった。游撃将軍韓説は何も得るところがなかった。因杅将軍公孫敖は左賢王と戦い、利あらず、引き揚げた。この年、匈奴に出撃した漢軍は功績の多少を言うことができず、功績は認められなかった。詔があり、太醫令随但を捕らえよと命じた。貳師将軍の家室が族滅したことを言い、広利(李広利)をして匈奴に降伏させた者である。
太史公曰く、孔氏が春秋を著すにあたり、隠公・桓公の間は明らかにし、定公・哀公の際は微かにしたのは、その当世の事柄に直接関わる文章でありながら褒めることがなく、忌諱の言葉だからである。世俗で匈奴について言う者は、一時の権勢を求めることを患い、へつらいの言葉を納めてその説を務め、偏った意見を便宜とし、彼我の実情を参酌しない。将帥は中国の広大さを頼み、気勢を奮い起こし、人主はそれによって決策する。これによって功業を建てても深遠ではない。堯は賢であったが、事業を興しても成就せず、禹を得て九州は安寧となった。そもそも聖統を興そうと欲するならば、ただ将相を選任することにある。ただ将相を選任することにある。