巻110

史記

巻一百一十 匈奴列傳 第五十

匈奴は、その先祖は夏后氏の末裔であり、淳維という。唐虞以前には山戎・獫狁・葷粥があり、北蛮に居住し、牧畜に従って移動した。その家畜で多いのは馬・牛・羊であり、珍しい家畜には駱駝・驢・騾・駃騠・騊駼・騨騱がある。水草を追って移住し、城郭や定住して田を耕す業はなく、しかしそれぞれ分地を持っていた。文書はなく、言語によって約束した。子供は羊に乗ることができ、弓を引いて鳥や鼠を射る。少し成長すると狐や兎を射て、これを食料とする。男子の力で弓を引ける者は、皆が甲冑を着た騎兵となる。その習俗は、平穏な時は家畜に従い、射猟して禽獣を獲て生業とし、緊急時には人々が戦闘攻撃を習い、侵伐する。これがその天性である。その長兵器は弓矢、短兵器は刀や鋌である。有利なら進み、不利なら退き、遁走を恥じない。ただ利益のある所を知るだけで、礼義を知らない。君王以下、皆が畜肉を食し、その皮革を衣とし、毛皮の衣をまとう。壮者は肥美を食し、老者はその残りを食う。壮健を貴び、老弱を賤しむ。父が死ねば後母を妻とし、兄弟が死ねば皆その妻を娶って妻とする。その習俗には名を避諱せず、姓や字はない。

夏の道が衰え、公劉がその稷官を失い、西戎の風に変じ、豳に邑した。その後三百有余年、戎狄が大王亶父を攻め、亶父は岐山の下に逃れ、豳の人々は皆亶父に従ってそこに邑し、周を興した。その後百余年、周の西伯昌が畎夷氏を伐った。その後十余年、武王が紂を伐って雒邑を営み、再び酆鄗に居住し、戎夷を涇・洛の北に放逐し、時に応じて貢ぎ物を入れさせ、「荒服」と命じた。その後二百有余年、周の道が衰え、穆王が犬戎を伐ち、四頭の白狼と四頭の白鹿を得て帰った。これより後、荒服は来なくなった。そこで周は遂に甫刑の法を作った。穆王の後二百有余年、周の幽王が寵姫褒姒のため、申侯と不和となった。申侯は怒って犬戎と共に周の幽王を驪山の下で攻め殺し、遂に周の焦穫を奪い、涇渭の間に居住し、中国を侵暴した。秦の襄公が周を救い、そこで周の平王は酆鄗を去って東に雒邑に遷った。この時、秦の襄公が戎を伐って岐に至り、初めて諸侯に列せられた。この後六十五年、山戎が燕を越えて斉を伐ち、斉の釐公が斉の郊でこれと戦った。その後四十四年、山戎が燕を伐った。燕が斉に急を告げると、斉の桓公が北伐して山戎を破り、山戎は逃げた。その後二十有余年、戎狄が洛邑に至り、周の襄王を伐ち、襄王は鄭の氾邑に奔った。初め、周の襄王は鄭を伐とうとしたため、戎狄の女を娶って后とし、戎狄の兵と共に鄭を伐った。後に狄后を廃すると、狄后は怨み、襄王の後母は惠后といい、子の子帯がおり、これを立てようとした。そこで惠后と狄后・子帯が内応し、戎狄を開き、戎狄はこの故に入ることができ、周の襄王を破り逐い、子帯を立てて天子とした。そこで戎狄は陸渾に居住し、東は衛に至り、中国を侵盗暴虐した。中国はこれを憎んだので、詩人が歌って「戎狄是応」、「薄伐獫狁、至於大原」、「出輿彭彭、城彼朔方」といった。周の襄王が外に居ること四年、乃ち使者をして晋に急を告げさせた。晋の文公が初めて立ち、覇業を修めようとし、乃ち師を興して戎翟を伐ち逐い、子帯を誅し、周の襄王を迎え入れて雒邑に居住させた。

この時、秦と晋が強国であった。晋の文公が戎翟を攘い、河西の圁・洛の間に居住し、赤翟・白翟と号した。秦の穆公は由余を得て、西戎八国が秦に服した。故に隴以西には綿諸・緄戎・翟・獂の戎があり、岐・梁山・涇・漆の北には義渠・大荔・烏氏・朐衍の戎があった。そして晋の北には林胡・楼煩の戎があり、燕の北には東胡・山戎があった。それぞれ分散して谿谷に居住し、各自に君長があり、しばしば集まるもの百余戎あったが、互いに一つにまとまることはできなかった。

これより後百余年、晋の悼公が魏絳を使者として戎翟と和し、戎翟は晋に朝した。その後百余年、趙の襄子が句注を越えて代を破り併せ、胡貉に臨んだ。その後、韓・魏と共に智伯を滅ぼし、晋の地を分けて有すると、趙は代・句注の北を有し、魏は河西・上郡を有し、戎と境を接した。その後、義渠の戎が城郭を築いて自ら守ったが、秦が次第に蚕食し、恵王の時に至り、遂に義渠の二十五城を抜いた。恵王が魏を撃つと、魏は西河及び上郡をことごとく秦に入れた。秦の昭王の時、義渠の戎王が宣太后と淫乱し、二人の子があった。宣太后は偽って義渠の戎王を甘泉で殺し、遂に兵を起こして義渠を伐ち滅ぼした。ここにおいて秦は隴西・北地・上郡を有し、長城を築いて胡を防いだ。そして趙の武霊王もまた習俗を変えて胡服とし、騎射を習い、北で林胡・楼煩を破った。長城を築き、代より陰山に沿って下り、高闕に至って塞とした。そして雲中・雁門・代郡を置いた。その後、燕に賢将秦開があり、胡に人質となったが、胡は彼を非常に信じた。帰国して東胡を襲い破り逐い、東胡は千余里退いた。荊軻と共に秦王を刺した秦舞陽は、開の孫である。燕もまた長城を築き、造陽から襄平に至った。上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東郡を置いて胡を防いだ。この時、冠帯の戦国七つあり、そのうち三国が匈奴と境を接した。その後、趙の将李牧の時、匈奴は趙の辺境に入ることを敢えなかった。後に秦が六国を滅ぼし、始皇帝が蒙恬に十万の衆を将いて北撃して胡を撃ち、河南の地を悉く収めた。河を因って塞とし、四十四の県城を築いて河に臨ませ、適戍の徒を移してこれを充填した。そして直道を通し、九原から雲陽に至り、辺境の山険や塹谿谷で修繕できる所を治め、臨洮から遼東に至る万余里を築いた。また河を渡って陽山の北仮中を占拠した。

この時、東胡が強く月氏が盛んであった。匈奴の単于は頭曼といい、頭曼は秦に勝てず、北に徙った。十余年して蒙恬が死に、諸侯が秦に叛き、中国は擾乱し、諸々の秦が徙した適戍の辺境にいた者は皆また去った。そこで匈奴はゆるみを得て、再び次第に河南に渡り、中国と故塞を境とした。

単于には太子あり、名は冒頓といった。後に愛する閼氏があり、少子を生んだ。単于は冒頓を廃して少子を立てようとし、乃ち冒頓を月氏に人質とした。冒頓が月氏に人質となると、頭曼は急に月氏を撃った。月氏は冒頓を殺そうとしたが、冒頓はその良馬を盗み、騎って逃げ帰った。頭曼はこれを壮とし、万騎を将いることを命じた。冒頓は乃ち鳴鏑を作り、その騎兵に射させて習熟させ、令して言った、「鳴鏑の射る所に悉く射ない者は、これを斬る」と。鳥獣を狩猟する時、鳴鏑の射る所を射ない者がいれば、直ちにこれを斬った。やがて冒頓は鳴鏑をもって自らの良馬を射た。左右で敢えて射ない者がいたが、冒頓は直ちに良馬を射ない者を斬った。しばらくして、また鳴鏑をもって自らの愛妻を射た。左右で甚だ恐れ、敢えて射ない者がいたが、冒頓はまたこれを斬った。しばらくして、冒頓が出猟し、鳴鏑をもって単于の良馬を射ると、左右は皆これを射た。ここにおいて冒頓はその左右が皆用いるに足ると知った。その父の単于頭曼の狩猟に従い、鳴鏑をもって頭曼を射ると、その左右も皆鳴鏑に随って射て単于頭曼を射殺した。遂にその後母と弟及び従わない大臣をことごとく誅した。冒頓は自ら立って単于となった。

冒頓が既に立つと、この時東胡は強盛であり、冒頓が父を殺して自立したと聞き、乃ち使者を遣わして冒頓に謂いて、頭曼の時に有りし千里馬を得んと欲す。冒頓、群臣に問う。群臣皆曰く、「千里馬は匈奴の宝馬なり、与うる勿れ」と。冒頓曰く、「奈何ぞ人と隣国にして一馬を愛せんや」と。遂に之に千里馬を与う。居ること頃之、東胡は冒頓が己を畏るると思い、乃ち使者を遣わして冒頓に謂いて、単于の一閼氏を得んと欲す。冒頓復た左右に問う。左右皆怒りて曰く、「東胡は無道なり、乃ち閼氏を求む!請う、之を撃たん」と。冒頓曰く、「奈何ぞ人と隣国にして一女子を愛せんや」と。遂に愛する所の閼氏を取って東胡に与う。東胡王愈々驕り、西に侵す。匈奴と間に、中に棄地有り、居る者莫く、千余里、各々其の辺に居りて甌脱と為す。東胡、使者を遣わして冒頓に謂いて曰く、「匈奴の我と界する甌脱外の棄地は、匈奴は能く至る所に非ず、吾之を有せんと欲す」と。冒頓、群臣に問う。群臣或いは曰く、「此れ棄地なり、之を与うるも可なり、与えざるも可なり」と。ここに於いて冒頓大いに怒りて曰く、「地は国の本なり、奈何ぞ之を与えんや」と。諸に之を与えよと言う者は、皆斬る。冒頓馬に上り、国中に後るる者有らば斬れと令し、遂に東を襲い撃ちて東胡を撃つ。東胡初め冒頓を軽んじ、備えを為さず。冒頓の兵を以て至るに及び、撃ちて、大いに破り東胡王を滅ぼし、其の民人及び畜産を虜う。既に帰り、西に撃ちて月氏を走らせ、南に楼煩・白羊河南王を併す。悉く秦の蒙恬をして奪わしめたる所の匈奴の地を復た収め、漢の故河南塞に関し、朝那・膚施に至り、遂に燕・代を侵す。この時漢兵は項羽と相距り、中国は兵革に罷み、以て故に冒頓は自ら強くなるを得、控弦の士三十余万。

淳維より頭曼に至るまで千有余歳、時に大いに時に小さく、別れ散り分かれ離る、尚しきこと、其の世伝は得て次ぐべからずと云う。然れども冒頓に至りて匈奴最も強大となり、尽く北夷を服従せしめ、而して南は中国と敵国と為り、其の世伝国官号は乃ち得て記すべしと云う。

左右賢王、左右谷蠡王、左右大将、左右大都尉、左右大当戸、左右骨都侯を置く。匈奴は賢を「屠耆」と謂う、故に常に太子を以て左屠耆王と為す。自ら左右賢王以下当戸に至るまで、大なる者は万騎、小なる者は数千、凡そ二十四長、号を立てて「万騎」と曰う。諸の大臣は皆世官なり。呼衍氏、蘭氏、其の後に須卜氏有り、此の三姓は其の貴種なり。諸の左方の王将は東方に居り、上谷に直ぐに以て往く者、東は穢貉・朝鮮に接す;右方の王将は西方に居り、上郡より西に直ぐに、月氏・氐・羌に接す;而して単于の庭は代・雲中に直ぐす:各々分地有り、水草を逐って移徙す。而して左右賢王・左右谷蠡王最も大なり、左右骨都侯は政を輔く。諸の二十四長も亦各自に千長・百長・什長・裨小王・相・封都尉・当戸・且渠の属を置く。

歳正月、諸長は小会を単于庭にし、祠る。五月、大会を蘢城にし、其の先・天地・鬼神を祭る。秋、馬肥え、大会を蹛林にし、人畜の計を課校す。其の法、刃を抜くこと尺なる者は死し、盗みに坐する者は其の家を没入す;罪小なる者は軋し、大なる者は死す。獄久しき者は十日を過ぎず、一国の囚は数人を過ぎず。而して単于は朝に出営し、日の始めて生ずるを拝し、夕に月を拝す。其の坐するや、長は左にして北に郷う。日は戊己に上る。其の死を送るに、棺槨金銀衣裘有りて、封樹喪服無し;近幸の臣妾従死する者、多きは数千百人に至る。事を挙げて星月を候い、月盛んに壮なれば則ち攻戦し、月虧けば則ち兵を退く。其の攻戦するや、首虜を斬る者に一卮の酒を賜い、而して得る所の鹵獲は因りて以て之を与え、人を得れば以て奴婢と為す。故に其の戦うや、人々自ら利に趣き、善く兵を誘いて以て敵を冒す。故に其の敵を見れば則ち利を逐い、鳥の集まるが如く;其の困敗すれば、則ち瓦解雲散す。戦いて扶輿して死する者有れば、尽く死者の家財を得る。

後、北に渾庾・屈射・丁零・鬲昆・薪犁の国を服す。ここに於いて匈奴の貴人大臣皆服し、冒頓単于を以て賢と為す。

この時漢は初めて中国を定め、韓王信を代に徙し、馬邑に都す。匈奴大いに攻め囲みて馬邑を囲み、韓王信、匈奴に降る。匈奴、信を得、因りて兵を引きて南に句注を踰え、太原を攻め、晋陽の下に至る。高帝自ら兵を将いて往きて之を撃つ。会う冬大いに寒く雨雪し、卒の指を堕つる者十二三、ここに於いて冒頓、 いつわ り敗走し、漢兵を誘う。漢兵、逐い撃ちて冒頓を追う。冒頓、其の精兵を匿し、其の羸弱なるを見せしむ。ここに於いて漢悉く兵を出し、多くは歩兵、三十二万、北に之を逐う。高帝先ず平城に至る。歩兵未だ尽く到らず。冒頓、精兵四十万騎を縦って高帝を白登に囲むこと七日、漢兵中外相救い餉うるを得ず。匈奴の騎、其の西方は尽く白馬、東方は尽く青駹馬、北方は尽く烏驪馬、南方は尽く騂馬。高帝乃ち使者を遣わし間を厚く遺わして閼氏に与う。閼氏乃ち冒頓に謂いて曰く、「両主相困むること無かれ。今漢地を得るとも、而して単于終に能く之に居る所に非ず。且つ漢王も亦神有り、単于之を察せよ」と。冒頓は韓王信の将たる王黄・趙利と期す。而して黄・利の兵又来らず。其の漢と謀り有るを疑い、亦閼氏の言を取る。乃ち囲みの一角を解く。ここに於いて高帝、士に皆満を持して矢を傅え外に郷わしむるを令し、解けたる角より直ちに出で、竟に大軍と合し、而して冒頓遂に兵を引いて去る。漢も亦兵を引いて罷め、劉敬をして和親の約を結ばしむ。

是の後、韓王信は匈奴の将と為り、及び趙利・王黄等数たび約に倍き、代・雲中を侵盗す。居ること幾何も無く、陳豨反し、又韓信と合謀して代を撃つ。漢、樊噲をして往きて之を撃たしむ。復た代・鴈門・雲中の郡県を抜き、塞を出でず。この時匈奴は漢の将多く往きて降るを以て、故に冒頓常に往来して代の地を侵盗す。ここに於いて漢之を患え、高帝乃ち劉敬をして宗室の女公主を奉らしめて単于の閼氏と為し、歳ごとに匈奴に絮繒酒米食物を奉ること各数有り、約して昆弟と為して以て和親し、冒頓乃ち少しく止む。後、燕王盧綰反し、其の党数千人を率いて匈奴に降り、往来して上谷以東を苦しむ。

高祖崩ず。孝惠・呂太后の時、漢初めて定まる。故に匈奴以て驕る。冒頓乃ち書を為りて高后に遺わし、妄りに言う。高后之を撃たんと欲す。諸将曰く、「高帝の賢武を以てすら、然も尚お平城に困まる」と。ここに於いて高后乃ち止み、復た匈奴と和親す。

孝文帝の初めに立ち至り、復た和親の事を修む。其の三年五月、匈奴の右賢王、入りて河南の地に居り、上郡の葆塞蛮夷を侵盗し、人民を殺略す。ここに於いて孝文帝詔して丞相灌嬰に車騎八万五千を発せしめ、高奴に詣り、右賢王を撃たしむ。右賢王、塞を出でて走る。文帝、太原に幸す。この時済北王反す。文帝帰り、丞相の胡を撃つ兵を罷む。

その翌年、単于は漢に書を遺して曰く、「天の立てし匈奴大単于、皇帝に恙無きやを敬って問う。先だって皇帝が和親の事を言い、書の意に称い、歓びを合わせた。漢の辺吏が右賢王を侵侮し、右賢王は請わず、後義盧侯難氏等の計を聴き、漢の吏と相距ち、二主の約を絶ち、兄弟の親を離れた。皇帝の譲書再び至り、使を発して書を以て報い、来らず、漢の使至らず、漢は其の故を以て和せず、隣国附かず。今、小吏の約を敗れる故を以て、右賢王を罰し、之をして西に月氏を求め撃たしむ。天の福を以て、吏卒良く、馬彊力にして、月氏を夷滅し、尽く斬殺降下せしむ。楼蘭・烏孫・呼掲及び其の旁の二十六国を定め、皆以て匈奴と為す。諸の弓を引くの民、併せて一家と為す。北州已に定まり、兵を寝め士卒を休め馬を養い、前事を除き、故約を復し、以て辺民を安んじ、以て始古に応じ、少者をして其の長を得せしめ、老者をして其の処に安んぜしめ、世々平楽ならんことを願う。未だ皇帝の志を得ず、故に郎中系雩浅を使者として書を奉り請い、橐他一匹、騎馬二匹、駕二駟を献ず。皇帝若し匈奴の塞に近づくを欲せざれば、則ち且つ吏民に詔して遠く舎せしめよ。使者至れば、即ち之を遣わすべし」と。六月の中に来たりて薪望の地に至る。書至り、漢は撃つと和親と孰れか便なるかを議す。公卿皆曰く、「単于新たに月氏を破り、勝に乗ず、撃つべからず。且つ匈奴の地を得るも、沢鹵にして、居るべからず。和親甚だ便なり」と。漢之を許す。

孝文皇帝前六年、漢、匈奴に書を遺して曰く、「皇帝、匈奴大単于に恙無きやを敬って問う。郎中系雩浅を使者として朕に書を遺し曰く、『右賢王請わず、後義盧侯難氏等の計を聴き、二主の約を絶ち、兄弟の親を離れ、漢以て故に和せず、隣国附かず。今、小吏の約を敗れるを以て、故に右賢王を罰し西に月氏を撃たしめ、尽く之を定む。兵を寝め士卒を休め馬を養い、前事を除き、故約を復し、以て辺民を安んじ、少者をして其の長を得せしめ、老者をして其の処に安んぜしめ、世々平楽ならんことを願う』と。朕甚だ之を嘉す、此れ古の聖主の意なり。漢と匈奴は兄弟と約し、以て単于に遺す所甚だ厚し。約に倍き兄弟の親を離るる者は、常に匈奴に在り。然れども右賢王の事は已に赦前に在り、単于深く誅す勿れ。単于若し書の意に称い、諸の吏に明らかに告げ、負約無からしめ、信有らしめば、単于の書の如く敬うべし。使者言う、単于自ら将として国を伐ち功有り、兵事甚だ苦しと。服繍袷綺衣・繍袷長襦・錦袷袍各一、比余一、黄金飾具帯一、黄金胥紕一、繍十匹、錦三十匹、赤綈・緑繒各四十匹を、中大夫意・謁者令肩を使者として単于に遺す」と。

後に頃之、冒頓死に、子稽粥立ち、号して老上単于と曰う。

老上稽粥単于初めに立ち、孝文皇帝復た宗室の女公主を遣わして単于の閼氏と為し、宦者燕人中行説をして公主に傅せしむ。説行くを欲せず、漢彊いて之を行かしむ。説曰く、「必ず我を行かば、漢の患と為らん」と。中行説既に至り、因って単于に降り、単于甚だ之を親幸す。

初め、匈奴は漢の繒絮食物を好む。中行説曰く、「匈奴の人衆は漢の一郡に当たる能わず、然れども所以に彊き者は、衣食異なり、漢に仰がざるを以てなり。今単于俗を変えて漢の物を好めば、漢の物什二に過ぎずと雖も、則ち匈奴尽く漢に帰せん。其の漢の繒絮を得れば、以て草棘の中を馳せ、衣袴皆裂け敝れ、以て旃裘の完善に如かざるを示す。漢の食物を得れば皆之を去り、以て湩酪の便美に如かざるを示す」と。是に於いて説、単于の左右に疏記を教え、以て其の人衆畜物を計課す。

漢、単于に書を遺すに、牘を尺一寸を以てし、辞に曰く「皇帝、匈奴大単于に恙無きやを敬って問う」と、遺す所の物及び言語云云。中行説、単于に令して漢に書を遺すに尺二寸の牘を以てし、及び印封皆広大長からしめ、倨傲に其の辞して曰く「天地の生み日月の置く匈奴大単于、漢皇帝に恙無きやを敬って問う」と、以て遺す所の物言語亦云云。

漢使或いは言う曰く、「匈奴の俗は老を賤しむ」と。中行説、漢使を窮めて曰く、「而して漢の俗、屯戍従軍発すべき者、其の老親豈に自ら温厚肥美を脱ぎて以て飲食を齎し送り行戍せざる者有らんや」と。漢使曰く、「然り」と。中行説曰く、「匈奴は明らかに戦攻を以て事と為し、其の老弱は鬬う能わず、故に其の肥美なる飲食を壮健なる者に与え、蓋し以て自ら守衛せしむ。此くの如く父子各々久しく相保つことを得、何を以て匈奴老を軽んずると言わんや」と。漢使曰く、「匈奴父子乃ち同じ穹廬に臥す。父死すれば、其の後母を妻とす。兄弟死すれば、尽く其の妻を取って之を妻とす。冠帯の飾り無く、闕庭の礼を闕く」と。中行説曰く、「匈奴の俗、人は畜の肉を食い、其の汁を飲み、其の皮を衣る。畜は草を食い水を飲み、時に随いて転移す。故に其の急なれば則ち人騎射に習い、寛なれば則ち人事無きを楽しましむ。其の約束軽く、行い易し。君臣簡易にして、一国の政猶お一身の如し。父子兄弟死すれば、其の妻を取って之を妻とすは、種姓の失わるを悪むなり。故に匈奴乱ると雖も、必ず宗種を立てん。今中国は詳かに其の父兄の妻を取らざると雖も、親属益々疏なれば則ち相殺し、乃ち姓を易うるに至るは、皆此の類に従う。且つ礼義の敝れは、上下怨望を交わし、而して室屋の極みは、生力必ず屈す。夫れ力耕桑を以て衣食を求め、城郭を築きて以て自ら備うるは、故に其の民急なれば則ち戦功に習わず、緩なれば則ち作業に罷る。嗟乎土室の人、顧みて多く辞する無かれ、喋喋として佔々たらしむるを令す、冠固より何の当たらん」と。

是より後、漢使弁論せんと欲する者あれば、中行説輒ち曰く、「漢使多く言う無かれ、顧みるに漢の匈奴に輸する繒絮米糱、其の量中なるを令し、必ず善美なるのみとせよ、何を以て言わんとするか。且つ給う所備わって善ければ則ち已む。備わらず、苦悪なれば、則ち秋の孰するを候い、以て騎を馳せて蹂みて稼穡せしむるのみ」と。日夜単于に利害の処を候うことを教う。

漢孝文皇帝十四年、匈奴単于十四万騎を以て朝那・蕭関に入り、北地都尉卬を殺し、人民畜産を虜うこと甚だ多く、遂に彭陽に至る。奇兵をして入り回中宮を焼かしめ、候騎をして雍甘泉に至らしむ。是に於いて文帝、中尉周舍・郎中令張武を以て将軍と為し、車千乗、騎十万を発し、長安の旁に軍して以て胡寇に備う。而して昌侯盧卿を拝して上郡将軍と為し、甯侯魏遬を北地将軍と為し、隆慮侯周竈を隴西将軍と為し、東陽侯張相如を大将軍と為し、成侯董赤を前将軍と為し、大いに車騎を発して往きて胡を撃たしむ。単于塞内に留まること月余にして乃ち去り、漢逐い出して塞に至れば即ち還り、殺す所ある能わず。匈奴日已に驕り、歳毎に辺に入り、人民畜産を殺略すること甚だ多く、雲中・遼東最も甚しく、代郡に至っては万余人に及ぶ。漢之を患え、乃ち使をして匈奴に書を遺さしむ。単于亦た当戸を使者として報謝せしめ、復た和親の事を言う。

孝文帝の後二年、使者を遣わして匈奴に書を贈りて曰く、「皇帝謹みて匈奴の大単于の無恙を問う。使者の当戸且居の雕渠難・郎中韓遼、朕に馬二匹を遺る。既に至り、謹みて受く。先帝の制に曰く、長城以北は、弓を引くの国、単于に命を受け、長城以内は、冠帯の室、朕も亦之を制す。万民をして耕織射獵し衣食せしめ、父子離れず、臣主相安じ、倶に暴逆無からしむ。今、渫悪の民、貪りて其の進取の利に降り、義を倍し約を絶ち、万民の命を忘れ、両主の歓を離るるを聞く。然れども其の事は已に前に在り。書に曰く、『二国已に和親し、両主歓説し、兵を寝め卒を休め馬を養い、世々昌楽し、闟然として更始す』と。朕甚だ之を嘉す。聖人は日に新たに、改作更始し、老者をして息を得しめ、幼者をして長ずるを得しめ、各其の首領を保ちて其の天年を終わらしむ。朕と単于と倶に此の道に由り、天に順い民を恤み、世々相伝え、之を施して窮まり無く、天下咸く便ならざる莫し。漢と匈奴は隣国の敵たり。匈奴は北地に処り、寒く、殺気早く降る。故に吏に詔して単于に秫糱・金帛・絲絮・佗物を遺わしめ、歳に数有り。今天下大いに安んじ、万民熙熙たり。朕と単于と之が父母と為る。朕前事を追念す。薄物細故、謀臣の計失は、皆以て兄弟の歓を離るるに足らず。朕聞く、天は頗る覆さず、地は偏に載せずと。朕と単于とは皆往時の細故を捐て、倶に大道を蹈み、前悪を墮壊し、以て長久を図り、両国の民をして一家の子の若くせしむ。元元の万民、下は魚鱉に及び、上は飛鳥に及び、跂行喙息蠕動の類、安利に就きて危殆を避けざる莫し。故に来る者は止まず、是れ天の道なり。倶に前事を去らん。朕は逃虜の民を釈し、単于は章尼等を言う無かれ。朕聞く、古の帝王は、約分明にして食言無しと。単于志を留めよ。天下大いに安んじ、和親の後は、漢過先ずせず。単于其れ之を察せよ」と。

単于既に和親を約し、是に於いて御史に制詔して曰く、「匈奴の大単于、朕に書を遺り、和親已に定まり、亡人は以て衆を益し地を広むるに足らず、匈奴は塞に入らず、漢は塞に出でず、今の約を犯す者は之を殺し、以て久しく親しむべく、後に咎無く、倶に便なりと。朕已に之を許す。其れ天下に布告して、明らかに之を知らしめよ」と。

後四歳、老上稽粥単于死に、子の軍臣立てて単于と為る。既に立ちて、孝文皇帝復た匈奴と和親す。而して中行説復た之に事う。

軍臣単于立つこと四歳、匈奴復た和親を絶ち、大いに上郡・雲中に入り、各三万騎、殺略すること甚だ衆くして去る。是に於いて漢は三将軍をして軍を北地に屯せしめ、代は句注に屯し、趙は飛狐口に屯し、辺に縁りて亦各堅守して以て胡寇に備う。又た三将軍を置き、長安西の細柳・渭北の棘門・霸上に軍して以て胡に備う。胡騎代の句注の辺に入り、烽火甘泉・長安に通ず。数ヶ月、漢兵辺に至り、匈奴亦た遠く塞を去り、漢兵亦た罷む。後歳余、孝文帝崩じ、孝景帝立ち、而して趙王遂乃ち陰かに人を匈奴に使わす。呉楚反し、趙と合謀して辺に入らんと欲す。漢趙を囲みて破り、匈奴亦た止む。是より以降、孝景帝復た匈奴と和親し、関市を通じ、匈奴に給遺し、公主を遣わし、故約の如し。孝景の時を終わるまで、時に小に入りて辺を盗み、大寇無し。

今帝即位し、和親の約束を明らかにし、厚く遇し、関市を通じ、饒に之を給す。匈奴は単于以下皆漢に親しみ、長城の下に往来す。

漢は馬邑の下人聶翁壹をして奸蘭を出し物を以て匈奴と交わり、詳らかに馬邑城を売りて以て単于を誘わしむ。単于之を信じ、而して馬邑の財物を貪り、乃ち十万騎を以て武州塞に入る。漢は伏兵三十余万を馬邑の傍に伏せ、御史大夫韓安国を護軍と為し、四将軍を護りて以て単于を伏せしむ。単于既に漢の塞に入り、未だ馬邑に至らざること百余里、畜野に布きて人牧する者無きを見て、之を怪しみ、乃ち亭を攻む。是の時、鴈門の尉史行徼し、寇を見て、此の亭を葆し、漢兵の謀を知る。単于得て、之を殺さんと欲す。尉史乃ち単于に漢兵の居る所を告ぐ。単于大いに驚きて曰く、「吾固より之を疑う。」乃ち兵を引いて還る。出でて曰く、「吾尉史を得るは、天なり。天若をして言わしむるなり。」尉史を以て「天王」と為す。漢兵は単于の馬邑に入るを約して而して縱たんとす。単于至らず、以て故に漢兵得る所無し。漢の将軍王恢部を出して代より胡の輜重を撃たしむ。単于の還るを聞き、兵多きを以て、敢えて出でず。漢は恢の本兵謀を造りて進まざるを以て、恢を斬る。是より以降、匈奴和親を絶ち、当路の塞を攻め、往々にして漢の辺に盗み入り、数うべからず。然れども匈奴貪り、尚ほ関市を楽み、漢の財物を嗜む。漢も亦た関市を尚ほ絶たずして以て之を中つ。

馬邑の軍の後五年の秋、漢は四将軍をして各万騎を以て胡の関市の下を撃たしむ。将軍衛青上谷より出で、蘢城に至り、胡の首虜七百人を得る。公孫賀雲中より出で、得る所無し。公孫敖代郡より出で、胡に敗られ七千余人。李広鴈門より出で、胡に敗られ、而して匈奴広を生得す。広後ち亡れて帰るを得。漢は敖・広を囚う。敖・広贖いて庶人と為る。其の冬、匈奴数たび辺に盗み入り、漁陽尤も甚だし。漢は将軍韓安国をして漁陽に屯し胡に備えしむ。其の明年の秋、匈奴二万騎漢に入り、遼西太守を殺し、二千余人を略す。胡又た入りて漁陽太守の軍千余人を敗り、漢の将軍安国を囲む。安国の時千余騎亦た将に尽きんとす。会うに燕の救い至り、匈奴乃ち去る。匈奴又た鴈門に入り、千余人を殺略す。是に於いて漢は将軍衛青をして三万騎を将いて鴈門より出で、李息をして代郡より出でしめ、胡を撃たしむ。首虜数千人を得る。其の明年、衛青復た雲中以西より隴西に至り出で、胡の楼煩・白羊王を河南に於いて撃ち、胡の首虜数千、牛羊百余万を得る。是に於いて漢遂に河南の地を取り、朔方を築き、復た故き秦の時の蒙恬の為す所の塞を繕い、河に因りて以て固と為す。漢も亦た上谷の什辟県造陽の地を棄てて以て胡に予う。是の歳、漢の元朔二年なり。

其の後の冬、匈奴の軍臣単于死す。軍臣単于の弟の左谷蠡王伊稚斜自ら立ちて単于と為り、軍臣単于の太子於単を攻め破る。於単亡れて漢に降る。漢は於単を封じて涉安侯と為す。数ヶ月にして死す。

伊稚斜単于既に立ちて、其の夏、匈奴数万騎入りて代郡太守恭友を殺し、千余人を略す。其の秋、匈奴又た鴈門に入り、千余人を殺略す。其の明年、匈奴又た復た代郡・定襄・上郡に入り、各三万騎、数千人を殺略す。匈奴の右賢王、漢の之が河南の地を奪いて朔方を築くを怨み、数たび寇し、辺を盗み、及び河南に入り、朔方を侵擾し、吏民を殺略すること其の衆し。

其の明年の春、漢は衛青を以て大将軍と為し、六将軍を将い、十余万人、朔方・高闕より出でて胡を撃たしむ。右賢王は漢兵の至らざるを以て、酒を飲みて醉う。漢兵塞を出でること六七百里、夜右賢王を囲む。右賢王大いに驚き、身を脱して逃走す。諸の精騎往々にして随いて後去る。漢は右賢王の衆の男女万五千人、裨小王十余を得る。其の秋、匈奴万騎入りて代郡都尉朱英を殺し、千余人を略す。

その翌年の春、漢はまた大将軍衛青を遣わし、六将軍を率い、兵十余万騎を以て、再び定襄より数百里を出でて匈奴を撃ち、首虜を獲ること前後合わせて凡そ一万九千余級に及び、而して漢もまた両将軍、軍三千余騎を失う。右将軍建は身をもって脱するを得たが、前将軍翕侯趙信は兵利あらず、匈奴に降る。趙信は、もと胡の小王にして、漢に降り、漢は翕侯に封じ、前将軍として右将軍と軍を併せて分かれて行き、独り単于の兵に遇い、故に尽く没す。単于は既に翕侯を得て、自次王と為し、其の姉を以て妻と為し、漢を謀らしむ。信は単于に益々北に進み幕を絶ち、以て漢兵を誘いて疲れさせ、極みに徼して之を取らんことを教え、塞に近づかざるべしとす。単于其の計に従う。其の翌年、胡騎万人上谷に入り、数百人を殺す。

その翌年の春、漢は驃騎将軍去病をして万騎を率い隴西を出で、焉支山を過ぎて千余里、匈奴を撃ち、胡の首虜 (騎) 一万八千余級を得、休屠王の祭天金人を破り得る。其の夏、驃騎将軍復た合騎侯と数万騎を以て隴西・北地より二千里を出で、匈奴を撃つ。居延を過ぎ、祁連山を攻め、胡の首虜三万余人、裨小王以下七十余人を得。是の時匈奴も亦来たりて代郡・鴈門に入り、数百人を殺略す。漢は博望侯及び李将軍広をして右北平を出で、匈奴の左賢王を撃たしむ。左賢王李将軍を囲む、卒四千人ばかり、且つ尽きんとし、殺虜も亦当を過ぐ。会に博望侯の軍救い至り、李将軍脱するを得。漢は失亡すること数千人、合騎侯は後れて驃騎将軍の期に及び、及び博望侯と皆当に死すべきも、贖って庶人と為る。

其の秋、単于渾邪王・休屠王の西方に居りて漢に殺虜せられること数万人なるを怒り、召して誅せんと欲す。渾邪王と休屠王恐れ、謀りて漢に降らんとし、漢は驃騎将軍をして往きて之を迎えしむ。渾邪王休屠王を殺し、併せて其の衆を将いて漢に降る。凡そ四万余人、十万と号す。ここに於いて漢は既に渾邪王を得たれば、則ち隴西・北地・河西益々胡寇少なく、関東の貧民を徙して匈奴の河南・新秦中を奪いし所に処らしめ以て之を実にし、而して北地以西の戍卒を半減す。其の翌年、匈奴右北平・定襄に各数万騎入り、千余人を殺略して去る。

その翌年の春、漢謀りて曰く「翕侯信、単于の為に計り、幕北に居り、以て漢兵の至らざるを為す」と。乃ち粟馬し十万騎を発し、 (負) 私[負]従馬凡そ十四万匹、糧重は与からず。大将軍青・驃騎将軍去病に中分の軍を令し、大将軍は定襄を出で、驃騎将軍は代を出で、咸く約して幕を絶ちて匈奴を撃つ。単于之を聞き、其の輜重を遠ざけ、精兵を以て幕北にて待つ。漢の大将軍と接戦すること一日、会に暮れ、大風起こり、漢兵左右の翼を縦って単于を囲む。単于自ら度るに戦いて漢兵の如くならざるを、単于遂に独り身と壮騎数百を以て漢の囲みを潰して西北に遁走す。漢兵夜に追うも得ず。行きて匈奴の首虜一万九千級を斬捕し、北は闐顔山の趙信城に至りて還る。

単于の遁走するや、其の兵往々漢兵と相乱れて単于に随う。単于久しく其の大衆と相得ず、其の右谷蠡王、単于死せりと以為い、乃ち自立して単于と為る。真の単于復た其の衆を得、而して右谷蠡王乃ち其の単于の号を去り、復た右谷蠡王と為る。

漢の驃騎将軍の代を出でること二千余里、左賢王と接戦し、漢兵胡の首虜を得ること凡そ七万余級、左賢王の将皆遁走す。驃騎は狼居胥山に封じ、姑衍に禅し、翰海に臨みて還る。

是れより後匈奴遠く遁れ、而して幕南に王庭無し。漢は河を度り朔方より以西令居に至り、往々渠を通じ田を置き、官吏卒五六万人、稍々蠶食し、地は匈奴の北に接す。

初め、漢の両将軍大いに出でて単于を囲み、殺虜すること八九万、而して漢の士卒物故する者も亦数万、漢の馬死すること十余万。匈奴は病みたりと雖も、遠く去り、而して漢も亦馬少なく、復た往くに以て無し。匈奴趙信の計を用い、使いを漢に遣わし、好辞を以て和親を請う。天子其の議を下す、或いは和親を言い、或いは遂に之を臣とすべしと言う。丞相長史任敞曰く「匈奴新たに破られ、困す、宜しく外臣と為し、辺に朝請せしむべし」と。漢は任敞を単于に使わす。単于敞の計を聞き、大いに怒り、之を留めて遣わさず。是に先んじて漢も亦降る所の匈奴の使者有り、単于も亦輒ち漢の使を留めて相当えしむ。漢方に復た士馬を収めんとし、会に驃騎将軍去病死す、ここに於いて漢久しく北して胡を撃たず。

数年、伊稚斜単于立つこと十三年にして死し、子烏維立って単于と為る。是の歳、漢の元鼎三年なり。烏維単于立ち、而して漢の天子始めて郡県を巡る。其の後漢方に南して両越を誅し、匈奴を撃たず、匈奴も亦辺に侵入せず。

烏維単于立つこと三年、漢は既に南越を滅ぼし、故太仆賀を遣わし一万五千騎を率い九原を出でること二千余里、浮苴井に至りて還り、匈奴一人を見ず。漢は又た故従驃侯趙破奴を遣わし一万余騎を率い令居を出でること数千里、匈河水に至りて還り、亦た匈奴一人を見ず。

是の時天子辺を巡り、朔方に至り、兵十八万騎を勒めて以て武節を見せしめ、而して郭吉をして風に告げて単于に知らしむ。郭吉既に匈奴に至り、匈奴の主客使いを問う、郭吉礼卑く言好くして曰く「吾れ単于に見えて口に言わん」と。単于吉を見る、吉曰く「南越王の頭は已に漢の北闕に懸けり。今単于 (能) 即[能]ち前に進みて漢と戦わば、天子自ら兵を将いて辺に待たん;単于即ち能わざれば、即ち南面して漢に臣せよ。何ぞ徒らに遠く走り、亡匿して幕北の寒苦にして水草無きの地に在らん、為す毋かれ」と。語卒えて而して単于大いに怒り、立って主客の見者を斬り、而して郭吉を留めて帰さず、之を北海上に遷す。而して単于終に肯て漢の辺に寇と為らず、休養して士馬を息い、射獵を習い、数え使いを漢に使わし、好辞甘言を以て和親を求め請う。

漢は王烏等をして匈奴を窺わしむ。匈奴の法、漢の使い節を去らずして墨を以て其の面に黥せざる者は穹廬に入ることを得ず。王烏は北地の人、胡俗に習い、其の節を去り、面を黥し、穹廬に入ることを得。単于之を愛し、詳らかに甘言を許し、其の太子を遣わして漢に入り質と為し、以て和親を求めんと為す。

漢が使者楊信を匈奴に遣わした。この時、漢は東で穢貉・朝鮮を攻略して郡とし、西では酒泉郡を置いて胡と羌の通ずる道を遮断した。漢はまた西で月氏・大夏と通じ、また公主を以て烏孫王に嫁がせ、匈奴の西方の援国を分断した。また北では田を広げて胘雷に至り塞とし、匈奴は終に敢えてこれに言及しなかった。この年、翕侯信が死に、漢の権力者は匈奴が既に弱ったと見て、臣従させることができると考えた。楊信は人となり剛直で強情であり、元より貴臣ではなく、単于は親しもうとしなかった。単于は召し入れようとしたが、楊信は節を離さず、単于は穹廬の外に座して楊信に会った。楊信が単于に会うと、説いて言うには、「もし和親を望むなら、単于の太子を漢に質とせよ」と。単于は言う、「これは昔の約束ではない。昔の約定では、漢は常に翁主を遣わし、繒絮食物を品目に従って与え、和親を結び、匈奴もまた辺境を侵さなかった。今になって古に反し、我が太子を質とせよとは、望み薄いことだ」と。匈奴の習俗では、漢の使者が中貴人でない場合、儒者や先輩であれば説得しようとしていると思ってその弁論を折り、少年であれば刺そうとしていると思ってその気勢を挫く。漢の使者が匈奴に入るたびに、匈奴は報償する。漢が匈奴の使者を留めれば、匈奴もまた漢の使者を留め、必ず相当のものを得て初めて止めるのである。

楊信が帰った後、漢は王烏を遣わしたが、単于は再び甘言を用いて、多く漢の財物を得ようとし、王烏を欺いて言うには、「私は漢に入って天子に会い、面と向かって兄弟の約を結びたい」と。王烏が帰って漢に報告すると、漢は長安に単于の邸を築いた。匈奴は言う、「漢の貴人たる使者でなければ、私は誠の言葉を交わさない」と。匈奴がその貴人を漢に遣わしたが、病にかかり、漢が薬を与えて治そうとしたが、不幸にも死んだ。そこで漢は使者路充国に二千石の印綬を佩かせて遣わし、その喪を送り、厚く葬って数千金に値する費用をかけ、「これは漢の貴人である」と言った。単于は漢が我が貴い使者を殺したと思い、路充国を留めて帰さなかった。諸々の言ったことは、単于が特に王烏を空しく欺いただけで、漢に入ることも太子を質に遣わすことにも全く意がなかった。ここにおいて匈奴はしばしば奇兵を遣わして辺境を侵犯した。漢は郭昌を抜胡将軍に任じ、及び浞野侯を朔方以東に駐屯させて胡に備えた。路充国は匈奴に三年留まり、単于が死んだ。

烏維単于が立って十年で死に、子の烏師廬が立って単于となった。年少であり、児単于と号した。この年は元封六年である。この後より、単于はますます西北に移り、左方の兵は雲中に当たり、右方は酒泉・燉煌郡に当たった。

児単于が立つと、漢は二人の使者を遣わし、一人は単于を弔問し、一人は右賢王を弔問して、その国を離間させようとした。使者が匈奴に入ると、匈奴は皆を単于のもとに連れて行った。単于は怒って漢の使者をことごとく留めた。漢の使者で匈奴に留められた者は前後十余輩に及び、匈奴の使者が来ると、漢もまた留めて相当とした。

この年、漢は貳師将軍広利を遣わして西伐大宛し、また因杅将軍敖に命じて受降城を築かせた。その冬、匈奴は大雪が降り、家畜は多く飢え寒さで死んだ。児単于は年少で、殺伐を好み、国人は多く不安を抱いた。左大都尉が単于を殺そうとし、人を遣わして密かに漢に告げて言うには、「私は単于を殺して漢に降りたい。漢は遠いので、すぐに兵を来て迎えてくれれば、私はすぐに挙兵する」と。初め、漢はこの言葉を聞き、それゆえ受降城を築いたが、なお遠いと考えた。

その翌年の春、漢は浞野侯破奴に命じて二万余騎を率いさせ、朔方の西北二千余里に出て、浚稽山に至る期日を定めて帰還させた。浞野侯は期日に至って帰還したが、左大都尉が挙兵しようとして発覚し、単于に誅殺され、左方の兵を発して浞野侯を撃った。浞野侯は進軍して捕虜を獲ること数千人を得た。帰還の途上、受降城に至る四百里手前で、匈奴の兵八万騎に包囲された。浞野侯は夜自ら出て水を求め、匈奴の間者に捕らえられ、生け捕りにされ、匈奴は急いでその軍を撃った。軍中で郭縦が護となり、維王が渠となり、互いに謀って言うには、「諸 校尉 こうい が将軍を失ったことを恐れて誅殺されるのを恐れ、互いに帰還を勧める者もいない」と。軍は遂に匈奴に没した。匈奴の児単于は大いに喜び、遂に奇兵を遣わして受降城を攻めた。落とすことができず、辺境に侵入して去った。その翌年、単于は自ら受降城を攻めようとしたが、到着せずに病死した。

児単于が立って三年で死んだ。子は年少であったので、匈奴はその季父である烏維単于の弟、右賢王呴犁湖を立てて単于とした。この年は太初三年である。

呴犁湖単于が立つと、漢は光禄勲徐自為を遣わして五原塞から数百里、遠くは千余里に出て、城障・列亭を築いて廬朐に至らせ、また游撃将軍韓説・長平侯衛伉に命じてその傍らに駐屯させ、彊弩都尉路博德に命じて居延沢の上に築かせた。

その秋、匈奴は大いに定襄・雲中に入り、数千人を殺略し、二千石の官を数人破って去り、進んで光禄勲の築いた城・列亭・障を破壊した。また右賢王を遣わして酒泉・張掖に入り、数千人を略奪した。任文が撃って救うと会し、失ったものを全て取り戻して去った。この年、貳師将軍が大宛を破り、その王を斬って帰還した。匈奴は遮ろうとしたが、至ることができなかった。その冬、受降城を攻めようとしたが、単于が病死した。

呴犁湖単于が立って一年で死んだ。匈奴はその弟の左大都尉且鞮侯を立てて単于とした。

漢が大宛を誅した後、威は外国に震った。天子は意図して遂に胡を困窮させようとし、詔を下して言うには、「高皇帝は朕に平城の憂いを遺された。高后の時、単于の書は甚だ悖逆であった。昔、斉の襄公が九世の讐を復したことを、春秋は大いにこれを称えた」と。この年は太初四年である。

且鞮侯単于が立つと、降らなかった漢の使者をことごとく帰した。路充国らは帰ることができた。単于は初めて立ったので、漢が襲うことを恐れ、自ら言うには、「私は子供であり、どうして漢の天子を望みえようか。漢の天子は、私の丈人 (岳父) の行いである」と。漢は中郎将蘇武を遣わし、厚く幣を以て単于に賂遺した。単于はますます驕り、礼は甚だ倨傲で、漢の望むところではなかった。その翌年、浞野侯破奴が逃亡して漢に帰ることができた。

その翌年、漢は貳師将軍広利に三万騎を率いさせて酒泉から出撃させ、天山で右賢王を撃ち、胡の首虜万余級を得て帰還した。匈奴は大いに貳師将軍を包囲し、ほとんど脱することができなかった。漢兵の戦死者は十の六七に及んだ。漢はまた因杅将軍敖を遣わして西河から出撃させ、彊弩都尉と涿涂山で会わせたが、得るところはなかった。また騎都尉李陵に命じて歩騎五千人を率いさせ、居延の北千余里から出撃させ、単于と会い、合戦した。李陵の殺傷した者は万余人に及び、兵糧が尽きて帰還を解こうとしたが、匈奴が李陵を包囲し、李陵は匈奴に降り、その兵は遂に没し、帰還できた者は四百人であった。単于は李陵を貴び、その娘を妻とさせた。

後二年、再び貳師将軍に六万騎、歩兵十万を率いさせて朔方から出撃させた。彊弩都尉路博徳に万余人を率いさせ、貳師と会わせた。游撃将軍韓説に歩騎三万人を率いさせて五原から出撃させた。因杅将軍公孫敖に万騎・歩兵三万人を率いさせて雁門から出撃させた。匈奴はこれを聞き、その累重 (輜重) を全て余吾水の北に遠ざけ、単于は十万騎を以て水の南で待ち、貳師将軍と接戦した。貳師は包囲を解いて引き帰り、単于と連戦すること十余日であった。貳師はその家が巫蠱の罪で族滅されたと聞き、そこで衆を併せて匈奴に降り、帰還できた者は千人に一、二人ほどであった。游撃将軍韓説は得るところがなかった。因杅将軍公孫敖は左賢王と戦い、利あらず、引き帰った。この年、漢兵で匈奴に出撃した者は功の多少を言うことができず、功は御 (評価) することができなかった。詔があり、太醫令随但を捕らえ、貳師将軍の家室が族滅したことを言わせ、広利をして匈奴に降らせたのである。

太史公曰く、孔氏が春秋を著すや、隠公・桓公の間は明らかにし、定公・哀公の際には微かにする、それは当世の文を切るが故に褒めることなく、忌諱の辞あるがためなり。世俗の匈奴を言う者は、その一時の権を徼るを患え、務めて諂いを納めてその説を便じ、偏指に便せんとし、彼己を参らせず。将率は中国の広大に席し、気奮い、人主これに因りて決策す、是を以て功を建つること深からず。堯は賢なりといえども、事業を興して成らず、禹を得て九州寧し。且つ聖統を興さんと欲せば、ただ将相を択任するに在るのみ。ただ将相を択任するに在るのみ。

原本を確認する(ウィキソース):史記 巻110