竇嬰
魏其侯竇嬰は、孝文后の従兄の子である。父の代より観津の人。賓客を喜ぶ。孝文の時、嬰は呉の相となり、病により免ぜられた。孝景が初めて即位した時、詹事となった。
梁孝王は、孝景の弟であり、その母の竇太后はこれを愛した。梁孝王が朝し、兄弟として宴飲した。この時、上は未だ太子を立てず、酒酣の時、従容として言うには、「千秋の後は梁王に伝えよう」と。太后は喜んだ。竇嬰は卮酒を引きて上に進み、言うには、「天下は高祖の天下であり、父子相伝うるは、これ漢の約なり。上は何をもってか擅に梁王に伝えんとするや」と。太后はここより竇嬰を憎む。竇嬰もまたその官を薄しとし、病により免ぜられた。太后は竇嬰の門籍を除き、朝請に入ることを得させなかった。
孝景帝三年、呉楚が反乱を起こすと、上は宗室及び諸竇(竇氏一族)を観察したが、竇嬰ほど賢い者はなかった。そこで嬰を召し出した。嬰が入って謁見すると、固く辞退し病を理由に任に堪えぬと謝した。太后も恥じ入った。そこで上は言った、「天下が今まさに危急であるのに、王孫(竇嬰の字)はどうして辞退などできようか」。そこで嬰を大將軍に任命し、金千斤を賜った。嬰は袁盎・欒布ら諸名将や賢士で在野の者を推挙した。賜った金は、廊下や廡の下に並べ、軍吏が通りかかると、いつでも必要な分だけ取って用いるようにさせ、金が家に入ることはなかった。竇嬰は滎陽を守り、斉・趙の兵を監督した。七国の兵がことごとく撃破されると、嬰を魏其侯に封じた。諸游士や賓客は争って魏其侯に帰した。孝景帝の時、朝廷で大事を議する毎に、條侯(周亜夫)・魏其侯がおり、諸列侯は敢えて対等の禮をとる者はなかった。
孝景帝四年、栗太子(劉栄)を立て、魏其侯を太子傅とした。孝景帝七年、栗太子が廃されると、魏其侯は幾度も諫争したが、叶わなかった。魏其侯は病を理由に引退し、藍田県の南山の下に隠居して数ヶ月を過ごした。諸賓客や弁士が説得したが、来させることはできなかった。梁の人高遂が魏其侯を説いて言った、「将軍を富貴にすることができるのは、上(皇帝)である。将軍に親しくすることができるのは、太后である。今将軍は太子傅であったのに、太子が廃されても争わず、争っても得られず、また死ぬこともできなかった。自ら引退して病を理由にし、趙の女を抱え、隠れて閑居し、朝参しない。比べて論ずれば、これは自ら主上の過ちを明らかにし広めることである。もし両宮(皇帝と太后)が将軍を刺す(怒る)ようなことがあれば、妻子は類(生き残る者)がなくなるであろう」。魏其侯はこれを然りとし、そこで遂に起き上がり、以前のように朝請した。
桃侯(劉舍)が丞相を免ぜられると、竇太后は幾度も魏其侯を推挙した。孝景帝は言った、「太后は臣(朕)に惜しむ心があって魏其を丞相にしないと思っているのか。魏其という者は、沾沾自喜(得意になって軽薄な様)であり、物事を軽んじ易くする。丞相とするには難しく、重責を担わせられぬ」。遂に用いず、建陵侯衛綰を丞相に用いた。
田蚡
武安侯田蚡は、孝景帝の皇后(王皇后)の同母弟であり、長陵で生まれ育った。魏其侯が既に大將軍となった後、勢いが盛んな時、蚡は諸郎の官にあり、まだ貴くはなかった。往来して魏其侯に侍酒し、跪き起き上がることは子孫のようであった。孝景帝の晩年に至り、蚡はますます貴寵を得て、太中大夫となった。蚡は弁舌に優れ口が達者で、槃盂などの書を学び、王太后は彼を賢しとした。孝景帝が崩ずると、即日太子(武帝)が立ち、太后が称制した。鎮撫する所の多くは田蚡の賓客の計策によるものであった。蚡の弟田勝は、皆太后の弟として、孝景帝の後三年に蚡を武安侯に、勝を周陽侯に封じた。
武安侯は新たに権力を用いて丞相たらんと欲し、賓客を卑下し、家に居る名士を進めてこれを貴ばせ、以て魏其侯及び諸将相を傾けんとした。建元元年、丞相の衛綰が病みて免ぜられ、上は丞相・太尉を置くことを議した。籍福が武安侯に説いて曰く、「魏其侯は貴きこと久しく、天下の士は素よりこれに帰す。今将軍は初めて興り、魏其侯の如くならず、即ち上、将軍を以て丞相と為さば、必ず魏其侯に譲らん。魏其侯が丞相と為れば、将軍は必ず太尉と為らん。太尉・丞相は尊さ等しく、また賢を譲るの名有り」と。武安侯は乃ち微かに太后に言って上に風し、ここに於いて乃ち魏其侯を以て丞相と為し、武安侯を太尉と為した。籍福は魏其侯を賀し、因りて弔いて曰く、「君侯は資性善を喜び悪を疾む。方今善人君侯を誉むる故に、丞相に至る。然れども君侯は且つ悪を疾めば、悪人衆く、亦た且つ君侯を毀らん。君侯能く兼容すれば、則ち幸いに久しからん。能わざれば、今に毀るるを以て去らん」と。魏其侯は聴かず。
魏其侯・武安侯は倶に儒術を好み、趙綰を推轂して御史大夫と為し、王臧を郎中令と為した。魯の申公を迎え、明堂を設けんと欲し、列侯に国に就かしめ、関を除き、礼を以て服制と為し、以て太平を興さんとした。諸竇の宗室に節行なき者を挙適し、その属籍を除いた。時に諸外家は列侯と為り、列侯多く公主を尚り、皆国に就くを欲せず、以て故に毀ること日ごとに竇太后に至る。太后は黄老の言を好み、而して魏其侯・武安侯・趙綰・王臧等は務めて儒術を隆推し、道家の言を貶す。是を以て竇太后はますます魏其侯等を説ばず。建元二年に及び、御史大夫趙綰、東宮に事を奏する無からんことを請う。竇太后大いに怒り、乃ち趙綰・王臧等を罷め逐い、而して丞相・太尉を免じ、柏至侯許昌を以て丞相と為し、武彊侯莊青翟を御史大夫と為した。魏其侯・武安侯はここより侯として家に居る。
武安侯は職に任ぜられずと雖も、王太后の故を以て、親しく幸せられ、数え事を言うこと多く効あり。天下の吏士趨勢利なる者は、皆魏其侯を去りて武安侯に帰し、武安侯は日ごとに益々横なる。建元六年、竇太后崩ず。丞相許昌・御史大夫莊青翟は喪事を弁ぜざるに坐し、免ぜられる。武安侯田蚡を以て丞相と為し、大司農韓安国を以て御史大夫と為す。天下の士郡諸侯は愈々益々武安侯に附く。
武安侯は、貌侵なりしも、生まれながらの貴さ甚だし。又諸侯王多く年長なるを以て、上初めて即位し、春秋に富めるに、蚡は肺腑として京師の相と為り、痛く折節して礼を以て之を詘せざれば、天下粛然とせざらんとす。当の是の時、丞相入りて事を奏するに、坐して語ること日を移し、言う所は皆聴かれる。人を薦むるに或いは起家して二千石に至り、権は主上に移る。上乃ち曰く、「君、吏を除くこと已に尽きたるか未だか。吾も亦た吏を除かんと欲す」と。嘗て考工地を請いて宅を益さんとす。上怒りて曰く、「君何ぞ遂に武庫を取らざる」と。是の後乃ち退く。嘗て客を召して飲むに、その兄蓋侯をして南郷に坐せしめ、自らは東郷に坐し、漢の相の尊きを以て、兄の故を以て私に橈むべからずと為す。武安侯はここよりますます驕り、宅を治むること諸第に甲たり。田園極めて膏腴にして、而して市買する郡県の器物は道に相属す。前堂には鐘鼓を羅し、曲旃を立て;後房の婦女は百数を以てす。諸侯の奉る金玉狗馬玩好は、数うるに勝えず。
魏其侯は竇太后を失い、益々疎んぜられ用いられず、勢無く、諸客は稍稍自ら引きて怠慢傲岸なり。唯だ灌将軍のみ独り故を失わず。魏其侯は日ごとに默默として志を得ず、而して独り灌将軍を厚く遇す。
灌夫
灌将軍夫は、潁陰の人である。夫の父張孟は、嘗て潁陰侯嬰の舎人となり、寵愛を得て、これにより進んで二千石に至ったので、灌氏の姓を蒙り灌孟と為した。呉楚の乱の時、潁陰侯灌何が将軍となり、太尉に属し、灌孟を校尉に請うた。夫は千人を率いて父と共に従軍した。灌孟は年老いており、潁陰侯が強いてこれを請うたので、鬱々として意を得ず、故に戦いでは常に堅陣を陥れようとし、遂に呉軍の中で戦死した。軍法では、父子共に軍に従い、死事ある者は、喪に従って帰ることができる。灌夫は喪に従って帰ることを肯ぜず、奮って曰く、「願わくは呉王か将軍の首を取って、父の仇を報いん」と。ここにおいて灌夫は甲を被り戟を持ち、軍中の壮士で親しく従うことを願う者数十人を募った。壁門を出るに及んで、敢えて前進する者無し。ただ二人及び従奴十数騎のみが呉軍に馳せ入り、呉将の麾下に至り、殺傷すること数十人。前進することができず、再び馳せ戻り、漢の壁に走り入ったが、皆その奴を失い、ただ一騎と共に帰った。夫の身は大創を十余箇所受け、丁度万金の良薬があったので、故に死なずに済んだ。夫の創が少し癒えると、また将軍に請うて曰く、「私は益々呉の壁中の曲折を知りました。再び往くことを請います」と。将軍はその壮挙と義を称え、夫を失うことを恐れ、乃ち太尉に言上し、太尉は固くこれを止めた。呉が既に破られると、灌夫はこれにより天下に名を知られた。
潁陰侯が上(皇帝)にこれを言上すると、上は夫を中郎将とした。数ヶ月後、法に坐して免官となる。後に長安に家居し、長安中の諸公はこれを称えざる者無し。孝景帝の時、代の相に至る。孝景帝が崩御し、今上(武帝)が初めて即位すると、淮陽は天下の交わる所で、勁兵の地であると考え、故に夫を淮陽太守に転任させた。建元元年、入朝して太僕となる。二年、夫は長楽衛尉竇甫と飲み、軽重を得ず、夫は酔って甫を殴打した。甫は、竇太后の弟である。上は太后が夫を誅することを恐れ、燕の相に転任させた。数年後、法に坐して官を免ぜられ、長安に家居した。
灌夫は人となり剛直で酒に任せ、面と向かって諂うことを好まなかった。貴戚で勢いが己より右(上)にある者は、礼を加えようとせず、必ずこれを陵いだ。諸士で己より左(下)にある者は、愈々貧賤であればある程、特に益々敬い、対等に接した。稠人広衆の中で、下輩を推薦し寵遇した。士もまたこれにより彼を称えた。
夫は文学を喜ばず、任侠を好み、然諾を重んじた。諸々の交際する者は、豪傑や大猾で無い者は無かった。家財は数千万を累ね、食客は日に数十百人。陂池田園は、宗族賓客が権利を為し、潁川に横暴を極めた。潁川の童は乃ちこれを歌って曰く、「潁水清ければ、灌氏寧し。潁水濁れば、灌氏族す」と。
灌夫は家に居り、富みてはいるが、然れども勢いを失い、卿相・侍中・賓客はますます衰えた。また魏其侯が勢いを失うと、彼もまた灌夫に倚り、縄を引き根を批い、平生慕いし後に棄てし者を引き出さんとした。灌夫もまた魏其に倚り、列侯・宗室と通じて名を高くせんとした。二人は互いに引き重んじ、その交わりは父子の如くであった。相得て歓び甚だしく、厭うことなく、相知るの遅かりしを恨んだ。
灌夫に服喪あり、丞相を過る。丞相は従容として曰く、「吾れ仲孺と魏其侯を過らんと欲す、会たまたま仲孺に服あり」と。灌夫曰く、「将軍乃ち肯んじて幸いに魏其侯に臨況まんとす、夫安んぞ服を以て解りと為さんや。請う魏其侯に帳具を語らしめ、将軍旦日早く臨まんことを」と。武安、許諾す。灌夫、具に魏其侯に語る、武安侯に謂いし如く。魏其、其の夫人と共に益牛酒を市い、夜に灑埽し、早く帳具を旦に至るまで備う。平明、門下に候伺せしむ。日中に至るも、丞相来たらず。魏其、灌夫に謂いて曰く、「丞相豈に之を忘れたるか」と。灌夫、懌ばずして曰く、「夫服を以て請う、宜しく往くべし」と。乃ち駕し、自ら往きて丞相を迎う。丞相は特前に灌夫に戯れて許したるのみにて、殊に往くの意無し。夫の門に至るに及び、丞相尚臥す。ここにおいて夫入りて見え、曰く、「将軍昨日幸いに許して魏其を過らんとす、魏其夫妻具を治め、旦より今に至るまで、未だ嘗て食を敢えてせず」と。武安、鄂然として謝して曰く、「吾れ昨日酔い、忽ち仲孺と言うを忘れたり」と。乃ち駕して往くも、又徐行す、灌夫ますます怒る。酒を飲みて酣に及び、夫起ちて舞い、丞相に属す、丞相起たず、夫坐より語を以て之を侵す。魏其乃ち灌夫を扶けて去り、丞相に謝す。丞相遂に夜に至るまで飲み、極めて歓びて去る。
丞相嘗て籍福をして魏其の城南の田を請わしむ。魏其大いに望みて曰く、「老僕棄てられたりと雖も、将軍貴しと雖も、寧ぞ以て勢いを以て奪うべけんや」と。許さず。灌夫聞き、怒り、籍福を罵る。籍福、二人に郤たり有るを悪み、乃ち謾りて自ら好しとし、丞相に謝して曰く、「魏其老いて且に死せんとす、忍び易し、且く之を待たん」と。已て武安、魏其・灌夫の実に怒りて田を与えざるを聞き、亦怒りて曰く、「魏其の子嘗て人を殺す、蚡之を活かせり。蚡魏其に事うるに不可なること無し、何ぞ数頃の田を愛まんや。且つ灌夫何ぞ与らんや。吾れ敢えて復た田を求めず」と。武安、此れより大いに灌夫・魏其を怨む。
元光四年の春、丞相言う、灌夫の家は潁川に在り、横なること甚だしく、民之を苦しむ、と。請うて案ぜんとす。上曰く、「此れ丞相の事なり、何ぞ請わん」と。灌夫も亦丞相の陰事を保持し、奸利を為し、淮南王の金と言語を受けたることを持す。賓客居間して、遂に止み、俱に解く。
夏、丞相(武安侯田蚡)は燕王の娘を娶って夫人とし、太后の詔があり、列侯と宗室を召して皆賀いに赴かせた。魏其侯(竇嬰)が灌夫の所を通り過ぎ、共に行かんとした。灌夫は辞して曰く、「私はしばしば酒の過ちで丞相に咎められ、丞相は近頃また私と隙がある」と。魏其侯曰く、「事は既に解けた」と。強いて共に行った。酒を飲んで酣になると、武安侯(田蚡)が起きて寿を祝し、座る者は皆席を避けて伏した。やがて魏其侯が寿を祝すと、旧知の者だけが席を避けたのみで、残りの半ばは膝を立てたままの席であった。灌夫は快からず、立ち上がって酒を勧め、武安侯に至ると、武安侯は膝を立てたままの席で曰く、「杯を満たすことはできぬ」と。灌夫は怒り、因って戯れ笑って曰く、「将軍は貴人である、どうぞお飲み下さい」と。時に武安侯は肯わなかった。酒を勧める順番が臨汝侯(灌賢)に至ると、臨汝侯は丁度程不識と耳語しており、また席を避けなかった。灌夫は怒りを発する所なく、乃ち臨汝侯を罵って曰く、「平生は程不識を毀って一銭の値打ちもないと言い、今日長者が寿を祝しているのに、乃ち娘の如く囁き耳語する真似をするのか」と。武安侯が灌夫に謂って曰く、「程(不識)と李(広)は共に東西宮の衛尉である。今衆人の前で程将軍を辱めるとは、仲孺(灌夫)は独り李将軍の立場を考えぬのか」と。灌夫曰く、「今日斬頭陷胸(首を斬られ胸を貫かれよう)とも、何ぞ程・李のことを知らんや」と。座る者は乃ち起きて更衣し、次第に去った。魏其侯は去り、手招きして灌夫を出させた。武安侯は遂に怒って曰く、「これこそ私が灌夫を驕らせた罪である」と。乃ち騎兵に命じて灌夫を留めさせた。灌夫は出ようとしたが出られず、籍福が起きて謝罪し、灌夫の項を押さえて謝罪させようとした。灌夫は愈々怒り、肯って謝罪しなかった。武安侯は乃ち騎兵に手招きして灌夫を縛らせ伝舎に置き、長史を召して曰く、「今日宗室を召したのは、詔があったからである」と。灌夫を座中で罵り不敬であると弾劾し、居室に拘禁した。遂にその前の事柄を調べ、役人を分かち班を組ませて諸々の灌氏の支族を追捕させ、皆棄市の罪を得させた。魏其侯は大いに恥じ、資金を出して賓客に請願させたが、解くことができなかった。武安侯の役人は皆耳目となり、諸々の灌氏は皆逃亡・潜伏し、灌夫は拘禁されたので、遂に武安侯の陰事を告げ言うことができなかった。
魏其侯は身を挺して灌夫を救おうとした。夫人(魏其侯の妻)が魏其侯を諫めて曰く、「灌将軍は丞相に罪を得、太后の家(田蚡)と対立している。どうして救えようか」と。魏其侯曰く、「侯爵は我が得た所、我が棄てる所、恨む所はない。且つ終に灌仲孺(灌夫)を独り死なせ、私は独り生きることはさせぬ」と。乃ち家を匿い、密かに出て上書した。直ちに召し入れられ、灌夫の酔って飽食した事柄を詳しく言い、誅するに足らぬと述べた。上(武帝)は之を然りとし、魏其侯に食を賜い、曰く、「東朝廷(太后の居る長楽宮)でこれを弁明せよ」と。
魏其侯が東朝にて、灌夫の善行を大いに推挙し、その酔飽の過ちは、丞相が他事を以て誣いて罪したものであると述べた。武安侯もまた灌夫の行いが横暴で恣意に満ち、罪は逆不道であると大いに誹毀した。魏其侯はどうしようもないと覚悟し、そこで丞相の短所を言い立てた。武安侯は言う、「天下幸いに安楽無事であり、蚡は肺腑の親として、好むところは音楽・狗馬・田宅である。蚡が愛する倡優・巧匠の類は、魏其・灌夫が日夜天下の豪傑壮士を招き集めて議論し、腹に誹り心に謗り、天を仰ぎ見ずして地に俯して画き、両宮の間を睥睨し、幸いに天下に変事あらんことを願い、大功を成さんと欲するようなものではない。臣は魏其らの所為を知らないのである」と。ここにおいて上は朝臣に問うた、「両人のどちらが是か」。御史大夫韓安國は言う、「魏其が言うには、灌夫の父は国事に死し、身に戟を荷って馳せ入り、測り難き呉軍に、身に数十の創を受け、名は三軍に冠たる、これ天下の壮士であり、大悪あるにあらず、杯酒を争うこと、他過を引きいて誅するに足らぬ、と。魏其の言うことは是である。丞相もまた灌夫が奸猾と通じ、細民を侵し、家に巨万を累ね、潁川に横暴にふるまい、宗室を凌轢し、骨肉を侵犯する、これいわゆる『枝が本より大なり、脛が股より大なり、折れざれば必ず披く』というものである、と述べる。丞相の言うこともまた是である。ただ明主がこれを裁かれるのみ」と。主爵都尉汲黯は魏其に与した。内史鄭當時も魏其に与したが、後には敢えて堅く対えなかった。その余は皆敢えて対える者なし。上は内史に怒って言う、「公は平生しばしば魏其・武安の長短を言うのに、今日の廷論では、局促として轅下の駒のごとく、我は汝らを並べて斬らん」と。即ち罷めて起ち入り、上食を太后に奉る。太后もまた既に人をして候伺せしめ、ことごとく太后に告げた。太后は怒り、食さず、言う、「今我が存するに、人皆我が弟を踏みつける。我が百歳の後には、皆これを魚肉とするであろう。かつ帝はどうして石人たりえようか。これはただ帝が存するがゆえに、碌碌としているのであり、もし百歳の後には、この連中にどうして信ずべき者があろうか」と。上は謝して言う、「ともに宗室の外家であるゆえ、廷にて弁明させたのである。そうでなければ、これは一獄吏の決する所であろう」と。この時、郎中令石建が上に別に両人のことを言った。
武安侯は既に朝を罷め、出でて止車門に至り、韓御史大夫を召し載せ、怒って言う、「長孺とともに一老禿翁を相手にし、何ぞ首鼠両端たるのか」と。韓御史は良久くして丞相に謂う、「君は何ぞ自ら喜ばざるのか。そもそも魏其が君を毀るに、君は冠を免ぎ印綬を解いて帰り、『臣は肺腑の幸いをもって待罪するを得、固よりその任にあらず、魏其の言うこと皆是なり』と言うべきであった。このようにすれば、上は必ず君に譲りあることを多とし、君を廃さないであろう。魏其は必ず内に愧じ、門を杜ち舌を齰いて自殺するであろう。今人が君を毀れば、君もまた人を毀つ、譬えば賈豎女子が言を争うがごとく、何ぞその大體なきこと甚だしいや」と。武安侯は謝罪して言う、「争う時急にして、このように出すを知らなかった」と。
ここにおいて上は御史をして簿を以て魏其の灌夫について言ったことを責めさせたところ、頗る合わず、欺謾であった。劾して都司空に繫ぐ。孝景帝の時、魏其侯は常に遺詔を受けていた。曰く「事に不便あれば、便宜を以て上に論ぜよ」と。繫がれるに及び、灌夫の罪は族に至り、事日々急を告げ、諸公は敢えて再び上に明言する者なし。魏其侯は乃ち昆弟子をして上書してこれを言わしめ、幸いに再び召見を得んことを願った。書が奏上されたが、尚書を案ずるに大行の遺詔はなかった。詔書は独り魏其の家に蔵され、家丞が封じていた。乃ち魏其が先帝の詔を矯ったことを劾し、罪は棄市に当たるとした。五年十月、悉く灌夫及びその家屬を論ずる。魏其侯は良久くして乃ち聞き、聞けば即ち恚り、病痱して、食を欲せず死なんとした。或る聞くところによれば、上に魏其を殺す意なしと、魏其侯は再び食し、病を治し、議定して死なずと決した。ここにおいて蜚語ありて悪言と為り上に聞こえ、故に十二月晦に渭城にて棄市を論じた。
その春、武安侯は病み、専ら服して謝罪することを呼んだ。鬼を視る巫をしてこれを視させたところ、魏其・灌夫が共に守り、これを殺さんとするのを見た。遂に死す。子の恬が嗣ぐ。元朔三年、武安侯は衣襜褕を着て宮に入るに坐し、不敬となった。
淮南王劉安の謀反が発覚し、取り調べが行われた。王が以前入朝したとき、武安侯(田蚡)は太尉であり、その時王を霸上まで迎えに行き、王に言った。「上(皇帝)にはまだ太子がおられず、大王は最も賢明で、高祖の御孫である。もし宮車(皇帝の乗り物)が晏駕(崩御)なされば、大王が立てられずして誰が立てられようか。」淮南王は大いに喜び、多額の金銭や物品を贈った。上(武帝)は魏其侯(竇嬰)の件の時から既に武安侯を正しいと認めておらず、ただ太后のためであっただけである。そして淮南王の金銭の件を聞くと、上は言われた。「もし武安侯が生きていたならば、族誅に処したであろう。」
評論
太史公が曰く。魏其侯(竇嬰)と武安侯(田蚡)は皆、外戚として重用され、灌夫は一時の決断策謀によって名声が顕わになった。魏其侯の挙用は呉楚七国の乱によるものであり、武安侯の貴顕は(景帝崩御と武帝即位という)日月が交代する時期にあった。しかし魏其侯は誠に時勢の変化を知らず、灌夫は術策がなくて傲慢であり、二人が互いに助け合ったことで、かえって禍乱を成してしまった。武安侯は貴顕を恃んで権力を好み、杯酒の席での恨みにより、あの二人の賢者を陥れた。ああ哀れなことよ。怒りを他人に遷らせたため、自らの命も長くは続かなかった。民衆から支持されず、ついに悪名を被った。ああ哀れなことよ。禍はここから来たのである。
【索隱述贊】竇嬰と田蚡は、勢いと利で互いに争った。皆、外戚に依り、あるいは軍功を恃んだ。灌夫は自ら得意となり、その中で重きを引いた。意気は杯酒にあり、両宮(太后と皇帝)を睥睨した。事は結局正しからず、冤れなるかな二公よ。