史記

巻一百七 魏其武いずく侯列傳 第四十七

竇嬰

原文竇嬰

魏其侯竇嬰は、孝文后の従兄の子である。父の代より観津の人。賓客を喜ぶ。孝文の時、嬰は呉の相となり、病により免ぜられた。孝景が初めて即位した時、詹事となった。

原文魏其侯竇嬰者,孝文后從兄子也。父世觀津人。喜賓客。孝文時,嬰為吳相,病免。孝景初即位,為詹事。

梁孝王は、孝景の弟であり、その母の竇太后はこれをおしした。梁孝王が朝し、兄弟として宴飲した。この時、上は未だ太子を立てず、酒たけなわの時、従容として言うには、「千秋の後は梁王に伝えよう」と。太后は喜んだ。竇嬰は卮酒を引きて上に進み、言うには、「天下は高祖の天下であり、父子相伝うるは、これ漢の約なり。上は何をもってか擅に梁王に伝えんとするや」と。太后はここより竇嬰を憎む。竇嬰もまたその官を薄しとし、病により免ぜられた。太后は竇嬰の門籍を除き、朝請に入ることを得させなかった。

原文梁孝王者,孝景弟也,其母竇太后愛之。梁孝王朝,因昆弟燕飲。是時上未立太子,酒酣,從容言曰:「千秋之後傳梁王。」太后驩。竇嬰引卮酒進上,曰:「天下者,高祖天下,父子相傳,此漢之約也,上何以得擅傳梁王!」太后由此憎竇嬰。竇嬰亦薄其官,因病免。太后除竇嬰門籍,不得入朝請。

孝景帝三年、呉楚が反乱を起こすと、上は宗室及び諸竇(竇氏一族)を観察したが、竇嬰ほど賢い者はなかった。そこで嬰を召し出した。嬰が入って謁見すると、固く辞退し病を理由に任に堪えぬと謝した。太后も恥じ入った。そこで上は言った、「天下が今まさに危急であるのに、王孫(竇嬰の字)はどうして辞退などできようか」。そこで嬰を大將軍に任命し、金千斤を賜った。嬰は袁盎・欒布ら諸名将や賢士で在野の者を推挙した。賜った金は、廊下やひさしの下に並べ、軍吏が通りかかると、いつでも必要な分だけ取って用いるようにさせ、金が家に入ることはなかった。竇嬰は滎陽を守り、斉・趙の兵を監督した。七国の兵がことごとく撃破されると、嬰を魏其侯に封じた。諸游士や賓客は争って魏其侯に帰した。孝景帝の時、朝廷で大事を議する毎に、條侯(周亜それ・魏其侯がおり、諸列侯は敢えて対等の禮をとる者はなかった。

原文孝景三年,吳楚反,上察宗室諸竇毋如竇嬰賢,乃召嬰。嬰入見,固辭謝病不足任。太后亦慚。於是上曰:「天下方有急,王孫寧可以讓邪?」乃拜嬰為大將軍,賜金千斤。嬰乃言袁盎、欒布諸名將賢士在家者進之。所賜金,陳之廊廡下,軍吏過,輒令財取為用,金無入家者。竇嬰守滎陽,監齊趙兵。七國兵已盡破,封嬰為魏其侯。諸游士賓客爭歸魏其侯。孝景時每朝議大事,條侯、魏其侯,諸列侯莫敢與亢禮。

孝景帝四年、栗太子(劉栄)を立て、魏其侯を太子傅とした。孝景帝七年、栗太子が廃されると、魏其侯は幾度も諫争したが、叶わなかった。魏其侯は病を理由に引退し、藍田県の南山の下に隠居して数ヶ月をとおごした。諸賓客や弁士がよろこ得したが、来させることはできなかった。梁の人高遂が魏其侯を説いて言った、「将軍を富貴にすることができるのは、上(皇帝)である。将軍に親しくすることができるのは、太后である。今将軍は太子傅であったのに、太子が廃されても争わず、争っても得られず、また死ぬこともできなかった。自ら引退して病を理由にし、趙の女を抱え、隠れて閑居し、朝参しない。比べて論ずれば、これは自ら主上の過ちを明らかにし広めることである。もし両宮(皇帝と太后)が将軍を刺す(怒る)ようなことがあれば、妻子は類(生き残る者)がなくなるであろう」。魏其侯はこれを然りとし、そこで遂に起き上がり、以前のように朝請した。

原文孝景四年,立栗太子,使魏其侯為太子傅。孝景七年,栗太子廢,魏其數爭不能得。魏其謝病,屏居藍田南山之下數月,諸賓客辯士說之,莫能來。梁人高遂乃說魏其曰:「能富貴將軍者,上也;能親將軍者,太后也。今將軍傅太子,太子廢而不能爭;爭不能得,又弗能死。自引謝病,擁趙女,屏閒處而不朝。相提而論,是自明揚主上之過。有如兩宮螫將軍,則妻子毋類矣。」魏其侯然之,乃遂起,朝請如故。

桃侯(劉舍)が丞相を免ぜられると、竇太后は幾度も魏其侯を推挙した。孝景帝は言った、「太后は臣(朕)に惜しむ心があって魏其を丞相にしないと思っているのか。魏其という者は、沾沾自喜(得意になって軽薄な様)であり、物事を軽んじ易くする。丞相とするには難しく、重責を担わせられぬ」。遂に用いず、建陵侯衛綰を丞相に用いた。

原文桃侯免相,竇太后數言魏其侯。孝景帝曰:「太后豈以為臣有愛,不相魏其?魏其者,沾沾自喜耳,多易。難以為相,持重。」遂不用,用建陵侯衛綰為丞相。

田蚡

原文田蚡

武安侯田蚡は、孝景帝の皇后(王皇后)の同母弟であり、長陵で生まれ育った。魏其侯が既に大將軍となった後、勢いが盛んな時、蚡は諸郎の官にあり、まだ貴くはなかった。往来して魏其侯に侍酒し、跪き起き上がることは子孫のようであった。孝景帝の晩年に至り、蚡はますます貴寵を得て、太中大夫となった。蚡は弁舌に優れ口が達者で、槃盂はんうなどの書を学び、王太后は彼を賢しとした。孝景帝が崩ずると、即日太子(武帝)が立ち、太后が称制した。鎮撫する所の多くは田蚡の賓客の計策によるものであった。蚡の弟田勝は、皆太后の弟として、孝景帝の後三年に蚡を武安侯に、勝を周陽侯に封じた。

原文武安侯田蚡者,孝景后同母弟也,生長陵。魏其已為大將軍後,方盛,蚡為諸郎,未貴,往來侍酒魏其,跪起如子姓。及孝景晚節,蚡益貴幸,為太中大夫。蚡辯有口,學槃盂諸書,王太后賢之。孝景崩,即日太子立,稱制,所鎮撫多有田蚡賓客計筴,蚡弟田勝,皆以太后弟,孝景後三年封蚡為武安侯,勝為周陽侯。

武安侯は新たに権力を用いて丞相たらんと欲し、賓客を卑下し、家に居る名士を進めてこれを貴ばせ、以て魏其侯及び諸将相を傾けんとした。建元元年、丞相の衛綰が病みて免ぜられ、上は丞相・太尉を置くことを議した。籍福が武安侯に説いて曰く、「魏其侯は貴きこと久しく、天下の士は素よりこれに帰す。今将軍は初めて興り、魏其侯の如くならず、即ち上、将軍を以て丞相と為さば、必ず魏其侯に譲らん。魏其侯が丞相と為れば、将軍は必ず太尉と為らん。太尉・丞相は尊さ等しく、また賢を譲るの名有り」と。武安侯は乃ち微かに太后に言って上にほのめかし、ここに於いて乃ち魏其侯を以て丞相と為し、武安侯を太尉と為した。籍福は魏其侯を賀し、因りて弔いて曰く、「君侯は資性善を喜びにくを疾む。方今善人君侯を誉むる故に、丞相に至る。然れども君侯はまさつ悪を疾めば、悪人衆く、亦た且つ君侯を毀らん。君侯能く兼容すれば、則ち幸いに久しからん。能わざれば、今に毀るるを以て去らん」と。魏其侯は聴かず。

原文武安侯新欲用事為相,卑下賓客,進名士家居者貴之,欲以傾魏其諸將相。建元元年,丞相綰病免,上議置丞相、太尉。籍福說武安侯曰:「魏其貴久矣,天下士素歸之。今將軍初興,未如魏其,即上以將軍為丞相,必讓魏其。魏其為丞相,將軍必為太尉。太尉、丞相尊等耳,又有讓賢名。」武安侯乃微言太后風上,於是乃以魏其侯為丞相,武安侯為太尉。籍福賀魏其侯,因弔曰:「君侯資性喜善疾惡,方今善人譽君侯,故至丞相;然君侯且疾惡,惡人眾,亦且毀君侯。君侯能兼容,則幸久;不能,今以毀去矣。」魏其不聽。

魏其侯・武安侯は倶に儒術をみ、趙綰を推轂して御史大夫と為し、王臧を郎中令と為した。魯の申公を迎え、明堂を設けんと欲し、列侯に国に就かしめ、関を除き、礼を以て服制と為し、以て太平を興さんとした。諸竇の宗室に節行なき者を挙適し、そのしょ籍を除いた。時に諸外家は列侯と為り、列侯多く公主をめとり、皆国に就くを欲せず、以て故に毀ること日ごとに竇太后に至る。太后は黄老の言を好み、而して魏其侯・武安侯・趙綰・王臧等は務めて儒術を隆推し、道家の言を貶す。是を以て竇太后はますます魏其侯等を説ばず。建元二年に及び、御史大夫趙綰、東宮に事を奏する無からんことを請う。竇太后大いに怒り、乃ち趙綰・王臧等を罷め逐い、而して丞相・太尉を免じ、柏至侯許昌を以て丞相と為し、武彊侯莊青翟を御史大夫と為した。魏其侯・武安侯はここより侯として家に居る。

原文魏其、武安俱好儒術,推轂趙綰為御史大夫,王臧為郎中令。迎魯申公,欲設明堂,令列侯就國,除關,以禮為服制,以興太平。舉適諸竇宗室毋節行者,除其屬籍。時諸外家為列侯,列侯多尚公主,皆不欲就國,以故毀日至竇太后。太后好黃老之言,而魏其、武安、趙綰、王臧等務隆推儒術,貶道家言,是以竇太后滋不說魏其等。及建元二年,御史大夫趙綰請無奏事東宮。竇太后大怒,乃罷逐趙綰、王臧等,而免丞相、太尉,以柏至侯許昌為丞相,武彊侯莊青翟為御史大夫。魏其、武安由此以侯家居。

武安侯は職に任ぜられずと雖も、王太后の故を以て、親しく幸せられ、数え事を言うこと多く効あり。天下の吏士趨勢利なる者は、皆魏其侯を去りて武安侯に帰し、武安侯は日ごとにますますおうなる。建元六年、竇太后崩ず。丞相許昌・御史大夫莊青翟は喪事を弁ぜざるに坐し、免ぜられる。武安侯田蚡を以て丞相と為し、大司農韓安国を以て御史大夫と為す。天下の士郡諸侯は愈々益々武安侯に附く。

原文武安侯雖不任職,以王太后故,親幸,數言事多效,天下吏士趨勢利者,皆去魏其歸武安,武安日益橫。建元六年,竇太后崩,丞相昌、御史大夫青翟坐喪事不辦,免。以武安侯蚡為丞相,以大司農韓安國為御史大夫。天下士郡諸侯愈益附武安。

武安侯は、貌侵しんなりしも、生まれながらの貴さ甚だし。又諸侯王多く年長なるを以て、上初めて即位し、春秋に富めるに、蚡は肺腑として京師の相と為り、痛く折節して礼を以て之をくっせざれば、天下粛然とせざらんとす。当の是の時、丞相入りて事を奏するに、坐して語ること日を移し、言う所は皆聴かれる。人を薦むるに或いは起家して二千石に至り、権は主上に移る。上乃ち曰く、「君、吏を除くことやがに尽きたるか未だか。吾も亦た吏を除かんと欲す」と。かつて考工地を請いて宅を益さんとす。上怒りて曰く、「君何ぞ遂に武庫を取らざる」と。是の後乃ち退く。嘗て客を召して飲むに、その兄蓋侯をして南郷なんきょうに坐せしめ、自らは東郷に坐し、漢の相の尊きを以て、兄の故を以て私にたわむべからずと為す。武安侯はここよりますます驕り、宅を治むること諸第に甲たり。田園極めて膏腴にして、而して買する郡県の器物は道に相属す。前堂には鐘鼓を羅し、曲旃を立て;後房の婦女は百数を以てす。諸侯の奉る金玉狗馬玩好は、数うるに勝えず。

原文武安者,貌侵,生貴甚。又以為諸侯王多長,上初即位,富於春秋,蚡以肺腑為京師相,非痛折節以禮詘之,天下不肅。當是時,丞相入奏事,坐語移日,所言皆聽。薦人或起家至二千石,權移主上。上乃曰:「君除吏已盡未?吾亦欲除吏。」嘗請考工地益宅,上怒曰:「君何不遂取武庫!」是後乃退。嘗召客飲,坐其兄蓋侯南鄉,自坐東鄉,以為漢相尊,不可以兄故私橈。武安由此滋驕,治宅甲諸第。田園極膏腴,而市買郡縣器物相屬於道。前堂羅鐘鼓,立曲旃;後房婦女以百數。諸侯奉金玉狗馬玩好,不可勝數。

魏其侯は竇太后を失い、益々疎んぜられ用いられず、勢無く、諸客は稍稍自ら引きて怠慢傲岸なり。唯だ灌将軍のみ独り故を失わず。魏其侯は日ごとに默默として志を得ず、而して独り灌将軍を厚く遇す。

原文魏其失竇太后,益疏不用,無勢,諸客稍稍自引而怠傲,唯灌將軍獨不失故。魏其日默默不得志,而獨厚遇灌將軍。

灌夫

原文灌夫

灌将軍夫は、潁陰の人である。夫の父張孟は、嘗て潁陰侯嬰の舎人となり、寵愛を得て、これにより進んで二千石に至ったので、灌氏の姓を蒙り灌孟と為した。呉楚の乱の時、潁陰侯灌何が将軍となり、太尉に属し、灌孟を校尉に請うた。夫は千人を率いて父と共に従軍した。灌孟は年老いており、潁陰侯が強いてこれを請うたので、鬱々として意を得ず、故に戦いでは常に堅陣を陥れようとし、遂に呉軍の中で戦死した。軍法では、父子共に軍に従い、死事ある者は、喪に従って帰ることができる。灌夫は喪に従って帰ることをがえぜず、奮って曰く、「願わくは呉王か将軍の首を取って、父の仇を報いん」と。ここにおいて灌夫は甲を被り戟を持ち、軍中の壮士で親しく従うことを願う者数十人を募った。壁門を出るに及んで、敢えて前進する者無し。ただ二人及び従奴十数騎のみが呉軍に馳せ入り、呉将の麾下に至り、殺傷すること数十人。前進することができず、再び馳せ戻り、漢の壁に走り入ったが、皆その奴を失い、ただ一騎と共に帰った。夫の身は大創を十余箇所受け、丁度万金の良薬があったので、故に死なずに済んだ。夫の創が少し癒えると、また将軍に請うて曰く、「私は益々呉の壁中の曲折を知りました。再び往くことを請います」と。将軍はその壮挙と義を称え、夫を失うことを恐れ、乃ち太尉に言上し、太尉は固くこれを止めた。呉が既に破られると、灌夫はこれにより天下に名を知られた。

原文灌將軍夫者,潁陰人也。夫父張孟,嘗為潁陰侯嬰舍人,得幸,因進之至二千石,故蒙灌氏姓為灌孟。吳楚反時,潁陰侯灌何為將軍,屬太尉,請灌孟為校尉。夫以千人與父俱。灌孟年老,潁陰侯彊請之,郁郁不得意,故戰常陷堅,遂死吳軍中。軍法,父子俱從軍,有死事,得與喪歸。灌夫不肯隨喪歸,奮曰:「願取吳王若將軍頭,以報父之仇。」於是灌夫被甲持戟,募軍中壯士所善願從者數十人。及出壁門,莫敢前。獨二人及從奴十數騎馳入吳軍,至吳將麾下,所殺傷數十人。不得前,復馳還,走入漢壁,皆亡其奴,獨與一騎歸。夫身中大創十餘,適有萬金良藥,故得無死。夫創少瘳,又復請將軍曰:「吾益知吳壁中曲折,請復往。」將軍壯義之,恐亡夫,乃言太尉,太尉乃固止之。吳已破,灌夫以此名聞天下。

潁陰侯が上(皇帝)にこれを言上すると、上は夫を中郎将とした。数ヶ月後、法に坐して免官となる。後に長安に家居し、長安中の諸公はこれを称えざる者無し。孝景帝の時、代の相に至る。孝景帝が崩御し、今上(武帝)が初めて即位すると、淮陽は天下の交わる所で、勁兵の地であると考え、故に夫を淮陽太守に転任させた。建元元年、入朝して太僕となる。二年、夫は長楽衛尉竇甫と飲み、軽重を得ず、夫は酔って甫を殴打した。甫は、竇太后の弟である。上は太后が夫を誅することを恐れ、燕の相に転任させた。数年後、法に坐して官を免ぜられ、長安に家居した。

原文潁陰侯言之上,上以夫為中郎將。數月,坐法去。後家居長安,長安中諸公莫弗稱之。孝景時,至代相。孝景崩,今上初即位,以為淮陽天下交,勁兵處,故徙夫為淮陽太守。建元元年,入為太仆。二年,夫與長樂衛尉竇甫飲,輕重不得,夫醉,搏甫。甫,竇太后昆弟也。上恐太后誅夫,徙為燕相。數歲,坐法去官,家居長安。

灌夫は人となり剛直で酒に任せ、面と向かって諂うことを好まなかった。貴戚で勢いが己より右(上)にある者は、礼を加えようとせず、必ずこれを陵いだ。諸士で己より左(下)にある者は、愈々貧賤であればある程、ただに益々敬い、対等に接した。稠人広衆の中で、下輩を推薦し寵遇した。士もまたこれにより彼を称えた。

原文灌夫為人剛直使酒,不好面諛。貴戚諸有勢在己之右,不欲加禮,必陵之;諸士在己之左,愈貧賤,尤益敬,與鈞。稠人廣眾,薦寵下輩。士亦以此多之。

夫は文学を喜ばず、任侠を好み、然諾を重んじた。諸々の交際する者は、豪傑や大猾で無い者は無かった。家財は数千万を累ね、食客は日に数十百人。陂池田園は、宗族賓客が権利を為し、潁川に横暴を極めた。潁川の童は乃ちこれを歌って曰く、「潁水清ければ、灌氏なんし。潁水濁れば、灌氏族す」と。

原文夫不喜文學,好任俠,已然諾。諸所與交通,無非豪桀大猾。家累數千萬,食客日數十百人。陂池田園,宗族賓客為權利,橫於潁川。潁川兒乃歌之曰:「潁水清,灌氏寧;潁水濁,灌氏族。」

灌夫は家に居り、富みてはいるが、然れども勢いを失い、卿相・侍中・賓客はますます衰えた。また魏其侯が勢いを失うと、彼もまた灌夫に倚り、縄を引き根をはらい、平生慕いし後に棄てし者を引き出さんとした。灌夫もまた魏其に倚り、列侯・宗室と通じて名を高くせんとした。二人は互いに引き重んじ、その交わりは父子の如くであった。相得て歓び甚だしく、厭うことなく、相知るの遅かりしを恨んだ。

原文灌夫家居雖富,然失勢,卿相侍中賓客益衰。及魏其侯失勢,亦欲倚灌夫引繩批根生平慕之後棄之者。灌夫亦倚魏其而通列侯宗室為名高。兩人相為引重,其游如父子然。相得驩甚,無厭,恨相知晚也。

灌夫に服喪あり、丞相を過る。丞相は従容として曰く、「吾れ仲孺と魏其侯を過らんと欲す、あいたまたま仲孺に服あり」と。灌夫曰く、「将軍乃すなわち肯んじて幸いに魏其侯に臨況のぞまんとす、夫安んぞ服を以てことわりと為さんや。請う魏其侯につぶさちょうぐを語らしめ、将軍あしたたんじつ早く臨まんことを」と。武安、許諾す。灌夫、具に魏其侯に語る、武安侯にいし如く。魏其、其の夫人と共に益牛酒を市い、夜に灑埽さいそうし、早く帳具を旦に至るまで備う。平明へいめい、門下に候伺こうしせしむ。日中に至るも、丞相来たらず。魏其、灌夫に謂いて曰く、「丞相豈に之を忘れたるか」と。灌夫、よろこばずして曰く、「夫服を以て請う、宜しく往くべし」と。乃ちし、自ら往きて丞相を迎う。丞相は特前に灌夫にたわむれて許したるのみにて、ことに往くの意無し。夫の門に至るに及び、丞相尚なお臥す。ここにおいて夫入りて見え、曰く、「将軍昨日幸いに許して魏其を過らんとす、魏其夫妻具を治め、旦より今に至るまで、未だ嘗て食を敢えてせず」と。武安、鄂然がくぜんとして謝して曰く、「吾れ昨日酔い、たちまち仲孺と言うを忘れたり」と。乃ち駕して往くも、又徐行す、灌夫ますます怒る。酒を飲みて酣に及び、夫起ちて舞い、丞相に属す、丞相起たず、夫坐より語を以て之を侵す。魏其乃ち灌夫をたすけて去り、丞相に謝す。丞相遂ついに夜に至るまで飲み、極めて歓びて去る。

原文灌夫有服,過丞相。丞相從容曰:「吾欲與仲孺過魏其侯,會仲孺有服。」灌夫曰:「將軍乃肯幸臨況魏其侯,夫安敢以服為解!請語魏其侯帳具,將軍旦日蚤臨。」武安許諾。灌夫具語魏其侯如所謂武安侯。魏其與其夫人益市牛酒,夜灑埽,早帳具至旦。平明,令門下候伺。至日中,丞相不來。魏其謂灌夫曰:「丞相豈忘之哉?」灌夫不懌,曰:「夫以服請,宜往。」乃駕,自往迎丞相。丞相特前戲許灌夫,殊無意往。及夫至門,丞相尚臥。於是夫入見,曰:「將軍昨日幸許過魏其,魏其夫妻治具,自旦至今,未敢嘗食。」武安鄂謝曰:「吾昨日醉,忽忘與仲孺言。」乃駕往,又徐行,灌夫愈益怒。及飲酒酣,夫起舞屬丞相,丞相不起,夫從坐上語侵之。魏其乃扶灌夫去,謝丞相。丞相卒飲至夜,極驩而去。

丞相嘗かつて籍福をして魏其の城南の田を請わしむ。魏其大いにうらみて曰く、「老僕ろうぼく棄てられたりと雖も、将軍貴しと雖も、寧ぞ以て勢いを以て奪うべけんや」と。許さず。灌夫聞き、怒り、籍福を罵る。籍福、二人にへだたり有るを悪み、乃ちいつわりて自ら好しとし、丞相に謝して曰く、「魏其老いて且に死せんとす、忍び易し、且く之を待たん」と。已て武安、魏其・灌夫の実に怒りて田をあずかえざるを聞き、亦怒りて曰く、「魏其の子嘗て人を殺す、蚡之を活かせり。蚡魏其に事うるに不可なること無し、何ぞ数頃の田を愛まんや。且つ灌夫何ぞ与らんや。吾れ敢えて復た田を求めず」と。武安、此れより大いに灌夫・魏其を怨む。

原文丞相嘗使籍福請魏其城南田。魏其大望曰:「老僕雖棄,將軍雖貴,寧可以勢奪乎!」不許。灌夫聞,怒,罵籍福。籍福惡兩人有郤,乃謾自好謝丞相曰:「魏其老且死,易忍,且待之。」已而武安聞魏其、灌夫實怒不予田,亦怒曰:「魏其子嘗殺人,蚡活之。蚡事魏其無所不可,何愛數頃田?且灌夫何與也?吾不敢複求田。」武安由此大怨灌夫、魏其。

元光四年の春、丞相言う、灌夫の家は潁川に在り、横なること甚だしく、民之を苦しむ、と。請うてあんぜんとす。上曰く、「此れ丞相の事なり、何ぞ請わん」と。灌夫も亦丞相の陰事いんじを保持し、奸利を為し、淮南王の金と言語を受けたることを持す。賓客居間きょかんして、遂に止み、ともに解く。

原文元光四年春,丞相言灌夫家在潁川,橫甚,民苦之。請案。上曰:「此丞相事,何請。」灌夫亦持丞相陰事,為奸利,受淮南王金與語言。賓客居間,遂止,俱解。

夏、丞相(武安侯田蚡)は燕王の娘を娶って夫人とし、太后の詔があり、列侯と宗室を召して皆賀いに赴かせた。魏其侯(竇嬰)が灌夫の所を通り過ぎ、共に行かんとした。灌夫は辞して曰く、「私はしばしば酒の過ちで丞相に咎められ、丞相は近頃また私と隙がある」と。魏其侯曰く、「事は既に解けた」と。強いて共に行った。酒を飲んで酣になると、武安侯(田蚡)が起きて寿を祝し、座る者は皆席を避けて伏した。やがて魏其侯が寿を祝すと、旧知の者だけが席を避けたのみで、残りの半ばは膝を立てたままの席であった。灌夫は快からず、立ち上がって酒を勧め、武安侯に至ると、武安侯は膝を立てたままの席で曰く、「杯を満たすことはできぬ」と。灌夫は怒り、因って戯れ笑って曰く、「将軍は貴人である、どうぞお飲み下さい」と。時に武安侯は肯わなかった。酒を勧める順番が臨汝侯(灌賢)に至ると、臨汝侯は丁度程不識と耳語しており、また席を避けなかった。灌夫は怒りを発する所なく、乃ち臨汝侯を罵って曰く、「平生は程不識を毀って一銭の値打ちもないと言い、今日長者が寿を祝しているのに、乃ち娘の如く囁き耳語する真似をするのか」と。武安侯が灌夫に謂って曰く、「程(不識)と李(広)は共に東西宮の衛尉である。今衆人の前で程将軍を辱めるとは、仲孺(灌夫)は独り李将軍の立場を考えぬのか」と。灌夫曰く、「今日斬頭陷胸(首を斬られ胸を貫かれよう)とも、何ぞ程・李のことを知らんや」と。座る者は乃ち起きて更衣し、次第に去った。魏其侯は去り、手招きして灌夫を出させた。武安侯は遂に怒って曰く、「これこそ私が灌夫を驕らせた罪である」と。乃ち騎兵に命じて灌夫を留めさせた。灌夫は出ようとしたが出られず、籍福が起きて謝罪し、灌夫のうなじを押さえて謝罪させようとした。灌夫は愈々怒り、肯って謝罪しなかった。武安侯は乃ち騎兵に手招きして灌夫を縛らせ伝舎に置き、長史を召して曰く、「今日宗室を召したのは、詔があったからである」と。灌夫を座中で罵り不敬であると弾劾し、居室に拘禁した。遂にその前の事柄を調べ、役人を分かち班を組ませて諸々の灌氏の支族を追捕させ、皆棄市の罪を得させた。魏其侯は大いに恥じ、資金を出して賓客に請願させたが、解くことができなかった。武安侯の役人は皆耳目となり、諸々の灌氏は皆逃亡・潜伏し、灌夫は拘禁されたので、遂に武安侯の陰事を告げ言うことができなかった。

原文夏,丞相取燕王女為夫人,有太后詔,召列侯宗室皆往賀。魏其侯過灌夫,欲與俱。夫謝曰:「夫數以酒失得過丞相,丞相今者又與夫有郤。」魏其曰:「事已解。」彊與俱。飲酒酣,武安起為壽,坐皆避席伏。已魏其侯為壽,獨故人避席耳,餘半膝席。灌夫不悅。起行酒,至武安,武安膝席曰:「不能滿觴。」夫怒,因嘻笑曰:「將軍貴人也,屬之!」時武安不肯。行酒次至臨汝侯,臨汝侯方與程不識耳語,又不避席。夫無所發怒,乃罵臨汝侯曰:「生平毀程不識不直一錢,今日長者為壽,乃效女兒呫囁耳語!」武安謂灌夫曰:「程李俱東西宮衛尉,今眾辱程將軍,仲孺獨不為李將軍地乎?」灌夫曰:「今日斬頭陷匈,何知程李乎!」坐乃起更衣,稍稍去。魏其侯去,麾灌夫出。武安遂怒曰:「此吾驕灌夫罪。」乃令騎留灌夫。灌夫欲出不得。籍福起為謝,案灌夫項令謝。夫愈怒,不肯謝。武安乃麾騎縛夫置傳舍,召長史曰:「今日召宗室,有詔。」劾灌夫罵坐不敬,系居室。遂按其前事,遣吏分曹逐捕諸灌氏支屬,皆得棄市罪。魏其侯大媿,為資使賓客請,莫能解。武安吏皆為耳目,諸灌氏皆亡匿,夫系,遂不得告言武安陰事。

魏其侯は身を挺して灌夫を救おうとした。夫人(魏其侯の妻)が魏其侯を諫めて曰く、「灌将軍は丞相に罪を得、太后の家(田蚡)と対立している。どうして救えようか」と。魏其侯曰く、「侯爵は我が得た所、我が棄てる所、恨む所はない。且つ終に灌仲孺(灌夫)を独り死なせ、私は独り生きることはさせぬ」と。乃ち家を匿い、密かに出て上書した。直ちに召し入れられ、灌夫の酔って飽食した事柄を詳しく言い、誅するに足らぬと述べた。上(武帝)は之を然りとし、魏其侯に食を賜い、曰く、「東朝廷(太后の居る長楽宮)でこれを弁明せよ」と。

原文魏其銳身為救灌夫。夫人諫魏其曰:「灌將軍得罪丞相,與太后家忤,寧可救邪?」魏其侯曰:「侯自我得之,自我捐之,無所恨。且終不令灌仲孺獨死,嬰獨生。」乃匿其家,竊出上書。立召入,具言灌夫醉飽事,不足誅。上然之,賜魏其食,曰:「東朝廷辯之。」

魏其侯が東朝にて、灌夫の善行を大いに推挙し、その酔飽の過ちは、丞相が他事を以て誣いて罪したものであると述べた。武安侯もまた灌夫の行いが横暴で恣意に満ち、罪は逆不道であると大いに誹毀した。魏其侯はどうしようもないと覚悟し、そこで丞相の短所を言い立てた。武安侯は言う、「天下幸いに安楽無事であり、蚡は肺腑の親として、好むところは音楽・狗馬・田宅である。蚡が愛する倡優・巧匠の類は、魏其・灌夫が日夜天下の豪傑壮士を招き集めて議論し、腹に誹り心に謗り、天を仰ぎ見ずして地に俯して画き、両宮の間を睥睨し、幸いに天下に変事あらんことを願い、大功を成さんと欲するようなものではない。臣は魏其らの所為を知らないのである」と。ここにおいて上は朝臣に問うた、「両人のどちらが是か」。御史大夫韓安國は言う、「魏其が言うには、灌夫の父は国事に死し、身に戟を荷って馳せ入り、測り難き呉軍に、身に数十の創を受け、名は三軍に冠たる、これ天下の壮士であり、大悪あるにあらず、杯酒を争うこと、他過を引きいて誅するに足らぬ、と。魏其の言うことは是である。丞相もまた灌夫が奸猾と通じ、細民を侵し、家に巨万を累ね、潁川に横暴にふるまい、宗室を凌轢し、骨肉を侵犯する、これいわゆる『枝が本より大なり、脛が股より大なり、折れざれば必ず披く』というものである、と述べる。丞相の言うこともまた是である。ただ明主がこれを裁かれるのみ」と。主爵都尉汲黯は魏其に与した。内史鄭當時も魏其に与したが、後には敢えて堅く対えなかった。その余は皆敢えて対える者なし。上は内史に怒って言う、「公は平生しばしば魏其・武安の長短を言うのに、今日の廷論では、局促として轅下の駒のごとく、我は汝らを並べて斬らん」と。即ち罷めて起ち入り、上食を太后に奉る。太后もまた既に人をして候伺せしめ、ことごとく太后に告げた。太后は怒り、食さず、言う、「今我が存するに、人皆我が弟を踏みつける。我が百歳の後には、皆これを魚肉とするであろう。かつ帝はどうして石人たりえようか。これはただ帝が存するがゆえに、碌碌としているのであり、もし百歳の後には、この連中にどうして信ずべき者があろうか」と。上は謝して言う、「ともに宗室の外家であるゆえ、廷にて弁明させたのである。そうでなければ、これは一獄吏の決する所であろう」と。この時、郎中令石建が上に別に両人のことを言った。

原文魏其之東朝,盛推灌夫之善,言其醉飽得過,乃丞相以他事誣罪之。武安又盛毀灌夫所為橫恣,罪逆不道。魏其度不可奈何,因言丞相短。武安曰:「天下幸而安樂無事,蚡得為肺腑,所好音樂狗馬田宅。蚡所愛倡優巧匠之屬,不如魏其、灌夫日夜招聚天下豪桀壯士與論議,腹誹而心謗,不仰視天而俯畫地,辟倪兩宮間,幸天下有變,而欲有大功。臣乃不知魏其等所為。」於是上問朝臣:「兩人孰是?」御史大夫韓安國曰:「魏其言灌夫父死事,身荷戟馳入不測之吳軍,身被數十創,名冠三軍,此天下壯士,非有大惡,爭杯酒,不足引他過以誅也。魏其言是也。丞相亦言灌夫通奸猾,侵細民,家累巨萬,橫恣潁川,淩轢宗室,侵犯骨肉,此所謂『枝大於本,脛大於股,不折必披』,丞相言亦是。唯明主裁之。」主爵都尉汲黯是魏其。內史鄭當時是魏其,後不敢堅對。餘皆莫敢對。上怒內史曰:「公平生數言魏其、武安長短,今日廷論,局趣效轅下駒,吾並斬若屬矣。」即罷起入,上食太后。太后亦已使人候伺,具以告太后。太后怒,不食,曰:「今我在也,而人皆藉吾弟,令我百歲後,皆魚肉之矣。且帝甯能為石人邪!此特帝在,即錄錄,設百歲後,是屬寧有可信者乎?」上謝曰:「俱宗室外家,故廷辯之。不然,此一獄吏所決耳。」是時郎中令石建為上別言兩人事。

武安侯は既に朝を罷め、出でて止車門に至り、韓御史大夫を召し載せ、怒って言う、「長孺とともに一老禿翁を相手にし、何ぞ首鼠両端たるのか」と。韓御史は良久くして丞相に謂う、「君は何ぞ自ら喜ばざるのか。そもそも魏其が君を毀るに、君は冠を免ぎ印綬を解いて帰り、『臣は肺腑の幸いをもって待罪するを得、固よりその任にあらず、魏其の言うこと皆是なり』と言うべきであった。このようにすれば、上は必ず君に譲りあることを多とし、君を廃さないであろう。魏其は必ず内に愧じ、門を杜ち舌を齰いて自殺するであろう。今人が君を毀れば、君もまた人を毀つ、譬えば賈豎女子が言を争うがごとく、何ぞその大體なきこと甚だしいや」と。武安侯は謝罪して言う、「争う時急にして、このように出すを知らなかった」と。

原文武安已罷朝,出止車門,召韓御史大夫載,怒曰:「與長孺共一老禿翁,何為首鼠兩端?」韓御史良久謂丞相曰:「君何不自喜?夫魏其毀君,君當免冠解印綬歸,曰『臣以肺腑幸得待罪,固非其任,魏其言皆是』。如此,上必多君有讓,不廢君。魏其必內愧,杜門齰舌自殺。今人毀君,君亦毀人,譬如賈豎女子爭言,何其無大體也!」武安謝罪曰:「爭時急,不知出此。」

ここにおいて上は御史をして簿を以て魏其の灌夫について言ったことを責めさせたところ、頗る合わず、欺謾であった。劾して都司空に繫ぐ。孝景帝の時、魏其侯は常に遺詔を受けていた。曰く「事に不便あれば、便宜を以て上に論ぜよ」と。繫がれるに及び、灌夫の罪は族に至り、事日々急を告げ、諸公は敢えて再び上に明言する者なし。魏其侯は乃ち昆弟子をして上書してこれを言わしめ、幸いに再び召見を得んことを願った。書が奏上されたが、尚書を案ずるに大行の遺詔はなかった。詔書は独り魏其の家に蔵され、家丞が封じていた。乃ち魏其が先帝の詔を矯ったことを劾し、罪は棄市に当たるとした。五年十月、悉く灌夫及びその家屬を論ずる。魏其侯は良久くして乃ち聞き、聞けば即ち恚り、病痱して、食を欲せず死なんとした。或る聞くところによれば、上に魏其を殺す意なしと、魏其侯は再び食し、病を治し、議定して死なずと決した。ここにおいて蜚語ありて悪言と為り上に聞こえ、故に十二月晦に渭城にて棄市を論じた。

原文於是上使御史簿責魏其所言灌夫,頗不讎,欺謾。劾系都司空。孝景時,魏其常受遺詔,曰「事有不便,以便宜論上」。及系,灌夫罪至族,事日急,諸公莫敢複明言於上。魏其乃使昆弟子上書言之,幸得複召見。書奏上,而案尚書大行無遺詔。詔書獨藏魏其家,家丞封。乃劾魏其矯先帝詔,罪當棄市。五年十月,悉論灌夫及家屬。魏其良久乃聞,聞即恚,病痱,不食欲死。或聞上無意殺魏其,魏其複食,治病,議定不死矣。乃有蜚語為惡言聞上,故以十二月晦論棄市渭城。

その春、武安侯は病み、専ら服して謝罪することを呼んだ。鬼を視る巫をしてこれを視させたところ、魏其・灌夫が共に守り、これを殺さんとするのを見た。遂に死す。子の恬が嗣ぐ。元朔三年、武安侯は衣襜褕を着て宮に入るに坐し、不敬となった。

原文其春,武安侯病,專呼服謝罪。使巫視鬼者視之,見魏其、灌夫共守,欲殺之。竟死。子恬嗣。元朔三年,武安侯坐衣襜褕入宮,不敬。

淮南王劉安の謀反が発覚し、取り調べが行われた。王が以前入朝したとき、武安侯(田蚡)は太尉であり、その時王を霸上まで迎えに行き、王に言った。「上(皇帝)にはまだ太子がおられず、大王は最も賢明で、高祖の御孫である。もし宮車(皇帝の乗り物)が晏駕(崩御)なされば、大王が立てられずして誰が立てられようか。」淮南王は大いに喜び、多額の金銭や物品を贈った。上(武帝)は魏其侯(竇嬰)の件の時から既に武安侯を正しいと認めておらず、ただ太后のためであっただけである。そして淮南王の金銭の件を聞くと、上は言われた。「もし武安侯が生きていたならば、族誅に処したであろう。」

原文淮南王安謀反覺,治。王前朝,武安侯為太尉,時迎王至霸上,謂王曰:「上未有太子,大王最賢,高祖孫,即宮車晏駕,非大王立當誰哉!」淮南王大喜,厚遺金財物。上自魏其時不直武安,特為太后故耳。及聞淮南王金事,上曰:「使武安侯在者,族矣。」

評論

原文評論

太史公が曰く。魏其侯(竇嬰)と武安侯(田蚡)は皆、外戚として重用され、灌夫は一時の決断策謀によって名声が顕わになった。魏其侯の挙用は呉楚七国の乱によるものであり、武安侯の貴顕は(景帝崩御と武帝即位という)日月が交代する時期にあった。しかし魏其侯は誠に時勢の変化を知らず、灌夫は術策がなくて傲慢であり、二人が互いに助け合ったことで、かえって禍乱を成してしまった。武安侯は貴顕を恃んで権力を好み、杯酒の席での恨みにより、あの二人の賢者を陥れた。ああ哀れなことよ。怒りを他人に遷らせたため、自らの命も長くは続かなかった。民衆から支持されず、ついに悪名を被った。ああ哀れなことよ。禍はここから来たのである。

原文太史公曰:魏其、武安皆以外戚重,灌夫用一時決筴而名顯。魏其之舉以吳楚,武安之貴在日月之際。然魏其誠不知時變,灌夫無術而不遜,兩人相翼,乃成禍亂。武安負貴而好權,杯酒責望,陷彼兩賢。嗚呼哀哉!遷怒及人,命亦不延。眾庶不載,竟被惡言。嗚呼哀哉!禍所從來矣!

【索隱述贊】竇嬰と田蚡は、勢いと利で互いに争った。皆、外戚に依り、あるいは軍功を恃んだ。灌夫は自ら得意となり、その中で重きを引いた。意気は杯酒にあり、両宮(太后と皇帝)を睥睨した。事は結局正しからず、冤れなるかな二公よ。

原文【索隱述贊】竇嬰、田蚡,勢利相雄。咸倚外戚,或恃軍功。灌夫自喜,引重其中。意氣杯酒,䁹睨兩宮。事竟不直,冤哉二公!